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『旧唐書』音楽志訳注稿(六)

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『旧唐書』音楽志訳注稿(六)

その他のタイトル Jiutangshu Yinyuezhi『旧唐書』音楽志Translated and Annotated (VI)

著者 隋唐楽府文学研究班

雑誌名 關西大學中國文學會紀要

巻 41

ページ 1‑19

発行年 2020‑03‑15

URL http://doi.org/10.32286/00023363

(2)

『旧唐書』音楽志訳注稿(六)

隋唐楽府文学研究班

(八)

  貞元三年四月、河東節度使馬燧獻定難曲

、御麟德殿

、命閲試之

。十二年十二月、昭義軍節度使王虔休獻繼天誕聖樂

十四年二月、德宗自製中和舞、又奏九部樂及禁中歌舞、伎者十數人、布列在庭、上御麟德殿會百僚觀新樂詩、仍令太

子書示百官

。貞元十六年正月、南詔異牟尋作奉聖樂舞、因韋皋以進

。十八年正月、驃國王來獻本國樂

  大和八年十月、宣太常寺、準雲韶樂

舊用人數、令於本寺閲習

進來者。至開成元年十月、教成。三年、武德司奉宣索

雲韶樂縣圖 (1

二軸進之。

  大和三年八月、太常禮院奏 ((

  謹按凱樂、鼓吹之歌曲也 (1

。周官大司樂 (1

、「王師大獻、則奏凱樂。」注云、「獻功之樂也。」又大司馬之職、「師有功、則凱樂獻于社。」注云、「兵樂曰凱 (1

。」司馬法曰、「得意則凱樂、所以示喜也 (1

。」『左氏傳』載晉文公勝楚、振旅凱入 (1

。魏・

晉已來鼓吹曲章、多述當時戰功 (1

。是則歷代獻捷、必有凱歌 (1

。太宗平東都、破宋金剛 (1

、其後蘇定方執賀魯、李勣平高麗、

(3)

皆備軍容凱歌入京師 11

。謹檢貞觀・顯慶・開元禮書、並無儀注 1(

。今參酌今古、備其陳設 11

及奏歌曲之儀如後。

  凡命將征討、有大功獻俘馘者 11

、其日備神策兵衞於東門外、如獻俘常儀 11

。其凱樂用鐃吹二部、笛・篳篥・簫・笳・鐃・

鼓、每色二人、歌工二十四人 11

。樂工等乘馬執樂器、次第陳列、如鹵簿之式 11

。鼓吹令丞 11

前導、分行於兵馬俘馘之前。將入都門、鼓吹振作、迭奏 11

破陣樂等四曲。破陣樂・應聖期兩曲、太常舊有辭。賀朝歡・君臣同慶樂 11

、今撰補之。

  貞元三年(徳宗、七八七(四月に、河東節度使の馬燧が「定難曲」を献上したので、帝は麟徳殿にお出ましになって、演奏してみるように命じられた。十二年(七九六(十二月に、昭義軍節度使の王虔休が「継天誕聖楽」を献上し

た。十四年(七九八(二月に、徳宗はおんみずから「中和舞」を制作なさり、さらに九部の楽と宮中の歌舞を演じるようにされた。演舞者十数人が宮庭に居並び、帝は麟徳殿で百官を集めて新楽をご覧になり、詩を賦して太子に命じ

て書き記させ文武百官にお示しになった。貞元十六年(八〇〇(正月、南詔の異牟尋が「奉聖楽舞」を制作して、韋

皋を通して進上してきた。十八年(八〇二(正月、驃国王が自国の音楽を献上した。

  大和八年(文宗、八三四(十月、天子は太常寺に命を下して、「雲韶楽」の演奏人数にのっとって、献上された音楽

を太常寺で練習するようにされた。開成元年(文宗、八三六(十月に至って、教習は完了した。三年(八三八(、武徳の役所は、詔勅を奉じて「雲韶楽県図」二軸を探し出し献上した。

  大和三年(八二九(八月、太常寺の礼院が次のように奏上した。

  「謹んで考えますに、凱楽は鼓吹の歌曲であります。

『周礼』大司楽に「王の軍隊が戦勝を廟に報告するとき、凱楽

を演奏する」とあって、注に「戦功を報告する音楽である」といいます。また大司馬の職掌について、「軍隊に戦功が

(4)

三 あれば、凱楽を奏して土地神の祠で報告する」とあり、注に「軍楽を凱という」といっています。『司馬法』に「心にかなえば凱楽を演奏するが、それはよろこびを表すためである」とあります。『左伝』には、晋の文公が楚に勝利し

て、軍隊を整えて凱旋してきたことを記載しています。魏・晋以降の鼓吹曲の楽章は、その時の軍功を述べたものが多くありました。このことからしますと、代々戦勝を報告する際には、常に凱歌がありました。太宗皇帝が東都を平

定して、宋金剛を撃破し、そののち蘇定方が賀魯を捕獲して、李勣が高麗を平定しましたが、いずれも軍装をととの

えて凱歌をともなって都に入ってきました。謹んで貞観・顕慶・開元のそれぞれの礼書を調べましたところ、いずれにも凱楽についての儀注はございません。いま古今の事例を取捨して、楽隊の態勢と歌曲の演奏の次第とを、以下の

ごとく整えました。

  およそ命を受けた将軍が征伐に出かけ、大いなる功業をあげて俘虜と敵兵の耳を献上する場合、当日は東門の外で

神策軍の近衛兵を警備に当たらせて、俘虜献上の通常の儀式のように施行する。凱楽には鐃歌鼓吹の二部、笛・篳篥・

簫・笳・鐃・鼓の各パート二名ずつ、歌い手は二十四名を用いる。楽器の演奏者たちは馬上で楽器を持ち、鹵簿の隊列の順序に配列する。鼓吹署の長官と次官が先導して、二部に分かれて兵馬と俘虜などの前を進む。宮城の門から入

ろうとする時に、鼓吹が盛大に演奏を開始して、「破陣楽」等の四曲を次々に奏でる。「破陣楽」と「応聖期」の二曲は、もとから太常に歌辞があった。「賀朝歓」と「君臣同慶楽」は、いま歌辞を制作してこれに充てる。

注(

  

(貞元三年四月、河東節度使馬燧獻定難曲同内容のことは本紀にも見える。同年三月に馬燧は、吐蕃との同盟に懐疑的

(5)

であった帝を信頼させるために、吐蕃の論頬熱を伴って来朝して、帝の許可を得る。その直後のできごと。『旧唐書』徳宗紀上に「〔貞元三年七八七〕三月庚寅、詔今年朝集使宜停。……辛亥、河東馬燧來朝。時蕃相尚結贊使大將論頰熱卑辭厚意告馬燧、請兩國同盟和好、上疑其不誠、不允、故燧自將論頰熱入朝、盛言蕃相請盟、可以保信。上乃從之、許盟于平涼。夏四月庚申、詔『蕃寇雖退、疆理猶虞、安邊之策、必有良算、宜令常參官各陳邊事、隨所見封進以聞。』 入蕃使崔翰奏於蕃中誘問給役者、求蕃國人馬真數、云凡五萬九千餘人、馬八萬六千匹、可戰者僅三萬人、餘悉老幼。庚午、御麟德殿、試定難樂曲、馬燧所獻。」

  馬燧は、字洵美、汝州郟城の人。七二六

-七九五。数多

くの戦功をあげて帝の信任厚く、凌煙閣に勲臣たちと並んで肖像を描かれるほどであった。『旧唐書』巻一三四に伝あり。(

  

(麟德殿麟徳殿は、徐松『唐両京条坊考』愛宕元訳書(平凡社東洋文庫(

p.

四九、注(

模の宮殿。紫宸殿の西にあり、翰林院と並んでいる。『旧唐書』音楽志(七(注

((

(によると、大明宮内最大規

((

「三殿」を参照。

( 之。聞衡善擊鼓、乃召爲鼓史、因大會賓客、閲試音節、諸史過者、皆令脱其故衣、更著岑牟單絞之服。」 愛〔禰〕衡才、數稱述於曹操。操欲見之、而衡素相輕疾、自稱狂病、不肯往、而數有恣言。操懷忿、而以其才名、不欲殺   

(閲試閲試は、実際に演奏させてみて採用するのにふさわしいかを審査する。『後漢書』文苑伝下・禰衡に「〔孔〕融既   

(昭義軍節度使王虔休獻繼天誕聖樂王虔休は、字君佐、汝州梁の人。七三八

-七九九。皇帝生誕

の際に、言祝ぐ音楽がなかったことに言及して献上した。曲じたいは、潞州へ流離してきた太常楽工の劉玠なる者に命じて作らせたもの。『旧唐書』王虔休伝に「王虔休、字君佐、汝州梁人也。本名延貴。少涉獵書籍、郷里間以信義畏慕之、尤好武藝。……遷潞州長史・昭義軍節度・澤潞磁邢洺觀察使、尋加檢校工部尚書。貞元十五年卒、年六十二、廢朝三日、贈左僕射、賻以布帛米粟。……虔休性恭勤、儉省節用、管内州倉庾皆積糧儲、可支軍人數歳。又嘗撰誕聖樂曲以進、其表曰、『臣聞於師、夫君子爲能知樂、是故審音以知聲、審樂以知政、則理道備矣。……適遇有知音者、與臣論及樂章、探微賾奧、窮理盡性、臣乃遣造繼天誕聖樂一曲。大抵以宮爲調、表五音之奉君也。以土爲德、知五運之居中也。凡二十五遍、法二十四氣而足成一歳也。每遍一十六拍、象八元・八凱登庸於朝也。所冀雲門・咸池、永傳於律呂、空桑・孤竹、合薦於宮懸、不聞惉懘之聲、長作中和之樂。……。』先時、有太常樂工劉玠流落至潞州、虔休因令造此曲以進、今中和樂起此也。」(

  

(德宗自製中和舞、又奏九部樂及禁中歌舞……徳宗の貞元五年に、中和節を一月末日から二月一日に変更して、木神た

(6)

五 る句芒神を祭り豊年を祈願した。それ以降、例年二月一日に祭事を行っていたが、この貞元十四年の二月一日は降雪のため、二月七日に順延して挙行している。舞名を中和と称するのは、中和節にちなんで作られた楽曲ゆえか。『旧唐書』徳宗紀下に「〔貞元十四年〕二月壬子朔。戊午、上御麟德殿、宴文武百僚、初奏破陣樂、徧奏九部樂、及宮中歌舞妓十數人列於庭。先是上制中和樂舞曲、是日奏之、日晏方罷。比詔二月一日中和節宴、以雨雪、改用此日。上又賦中春麟德殿宴羣臣詩八韻、羣臣頒賜有差。乙亥、賜光蔡節度曰彰義軍。」

  九部楽は、『旧唐書』音楽志一に既出。「永徽二年十一月、高宗親祀南郊、黃門侍郎宇文節奏言、『依儀、明日朝羣臣、除樂懸、請奏九部樂。』」  訳注稿(五(注(

(参照。

  中華書局標点本校勘記は、文の脱落があるという。『唐会要』巻三三は「上製中春麟德殿會百僚觀新樂詩」、『冊府元亀』巻五六九は「御麟德殿奏之并製觀新樂詩」に作る。上に引用した『旧唐書』徳宗紀下に、十六句から成る「中春麟德殿宴羣臣詩八韻」を皇帝みずから制作したというのにしたがって、皇帝が詩を賦して太子に書き取らせたと解した。

( したの意。 一臧、不宜復見、如有腐敗、傷孝子之心、使與夫人同墳異臧。帝善其令、以書示百官。」とあるが、それは文書でもって示 「書示」を、書き取らせて示すの意に解した。『後漢書』樊宏伝に「〔建武〕二十七年、卒。遺勑薄葬、一無所用、以爲棺柩 詩』巻四にも収める。これに和した権徳輿の「奉和聖製中春麟德殿會百寮觀新樂」詩は『全唐詩』巻三二〇に録される。   『唐会要』には、「芳歳肇嘉節、物華當仲春」で始まる御製の詩と序を収める。序は『全唐文』巻五四にも、詩は『全唐 夷のうちで最大のもの。韋皋は、字城武、京兆の人。七四五   

(貞元十六年正月、南詔異牟尋作奉聖樂舞、因韋皋以進。「南詔」は現在の雲南省からラオス北部にかけての一帯。西南

大也。」 討之、大爲羅鳳所敗。鎮蜀、蠻帥異牟尋歸國、遂以韋皋爲雲南安撫大使、命使冊拜、謂之南詔。……西南夷之中、南詔蠻最 漢益州郡之雲南縣。古滇王國。……天寶末、楊國忠用事、蜀帥撫慰不謹、蠻王閤羅鳳不恭、國忠命鮮于仲通興師十萬、渡瀘   戰、皆不利而退。南詔獻奉聖樂舞曲、上閲於麟德殿前。」『旧唐書』地理志四に「姚州武德四年置、在姚府舊城北百餘步。 「〔貞元十四年十二月〕己亥、南詔異牟尋遣使賀正旦。……十六年春正月庚子朔。乙巳、恆冀・定州・許・河陽四鎮之師與賊 蜀にいること二十一年、その苛斂な政治は非難を浴びるほどであった。『旧唐書』巻一四〇に伝あり。『旧唐書』徳宗紀下に -八〇五。剣南西川節度使となり、吐蕃と幾度となく戦った。

(7)

六   関連する記事は『旧唐書』南蛮伝にも見え、また『新唐書』礼楽志十二にも詳しい記述がある。(

( 照。   氏經論之詞意。」林謙三「中唐代驃國貢献の楽器とその音律」(『東アジア楽器考』、カワイ楽器製作所、二〇一三年(を参 聞南詔異牟尋歸附、心慕之。十八年、乃遣其弟悉利移因南詔重譯來朝、又獻其國樂凡十曲、與樂工三十五人俱。樂曲皆演釋 里。往來通聘迦羅婆提等二十國、役屬者道林王等九城、食境土者羅君潛等二百九十部落。……古未嘗通中國。貞元中、其王 國境、東西三千里、南北三千五百里。東隣真臘國、西接東天竺國、南盡溟海、北通南詔些樂城界、東北拒陽苴咩城六千八百   氏經論之辭。此三國、南蠻之樂。」『旧唐書』南蛮伝に「南詔蠻……驃國、在永昌故郡南二千餘里、去上都一萬四千里。其 之。德宗朝、又有驃國亦遣使獻樂。……驃國樂、貞元中、其王來獻本國樂、凡一十二曲、以樂工三十五人來朝。樂曲皆演釋 通、始有高昌伎。我太宗平高昌、盡收其樂、又造讌樂、而去禮畢曲。今著令者、惟此十部。雖不著令、聲節存者、樂府猶隸 唐書』巻二九音楽志二に「煬帝平林邑國、獲扶南工人及其匏琴、陋不可用、但以天竺樂轉寫其聲、而不齒樂部。西魏與高昌 「〔貞元〕十八年春正月戊午朔、大雨雪、罷朝賀。乙丑、驃國王遣使悉利移來朝貢、并獻其國樂十二曲與樂工三十五人。」 『旧 もに十二曲の音楽を献上した。南蛮の音楽に属するが、むしろインドの仏教音楽に類するものか。『旧唐書』徳宗紀下に   

(驃國王來獻本國樂。「驃国」は現在のミャンマーからタイにかけての一帯。この時に南詔経由で、三十五人の楽工とと を管轄する。 曰郊社、二曰太廟、三曰諸陵、四曰太樂、五曰鼓吹、六曰太醫、七曰太卜、八曰廩犠。」とあり、その下に太楽署や鼓吹署 巻一四に「太常、卿一人、正三品。少卿二人、正四品上。太常卿之職、掌邦國禮樂・郊廟・社稷之事、以八署分而理焉。一 廟、貞觀中已詔顏師古等定樂章舞號。洎今太常寺又奏有司所定獻祖宣皇帝至睿宗聖貞皇帝九廟酌獻用舞之號。」 『唐六典』 部、太廟の西隣に位置し、宗廟などを掌る役所。九寺の一。『旧唐書』音楽志一に既出。「皇祖弘農府君至高祖大武皇帝六   

(大和八年十月、宣太常寺、準雲韶樂「宣」は、詔勅を宣読すること。命令を下すこと。「太常寺」は、大明宮の南東

韶楽」について「用玉磬四架、樂即有琴・瑟・簫・篪・籥・跋膝・笙・竽・登歌・拍板。樂分堂上堂下、登歌四人在堂下 五年(は、雅楽の形式の中に胡俗楽の内容を盛っている点において、これを二部伎の再現であるという。『楽府雑録』に「雲 曲。堂上の音楽で楽器は玉磬と管弦楽等を用いる。岸辺成雄『唐代音楽の歴史的研究』(下、四二一頁、和泉書院、二〇〇   「雲韶楽」は、文宗が大和三年(八二九(に、太常卿に任じた王涯に命じ、開元年間の雅楽に模して作らせた古楽風の楽

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七 坐、舞童五人衣繡衣、各執金蓮花引舞者、金蓮如仙家行道者也。舞在階下、設錦筵。宮中有雲韶院。」『旧唐書』王涯伝に「大和三年正月、入爲太常卿。文宗以樂府之音、鄭衞太甚、欲聞古樂、命涯詢於舊工、取開元時雅樂、選樂童按之、名曰雲韶樂。樂曲成、涯與太常丞李廓・少府監庾承憲押樂工獻於棃園亭、帝按之於會昌殿。上悦、賜涯等錦綵。」関連する記事は、『旧唐書』馮定伝に「大和九年八月、爲太常少卿。文宗每聽樂、鄙鄭・衞聲、詔奉常習開元中霓裳羽衣舞、以雲韶樂和之。舞曲成、定總樂工閲於庭、定立於其間。」、『旧唐書』李賀伝に「其樂府詞數十篇、至於雲韶樂工、無不諷誦。補太常寺協律郎、卒時年二十四。」とある。李賀の楽府詞は、雲韶院の楽工たちによって節付けし演奏された。(

(   

(閲習練習すること。

( 緯辯宗見一卷。」とある。 一卷、太常寺曲簿十一卷、歌曲名五卷、歷代樂名一卷、鍾磬志二卷、公孫崇撰。樂懸一卷、何晏等撰議。樂懸圖一卷、鍾律 て広く天下に物品を探し求めさせる。「雲韶樂縣圖」は、雲韶楽の楽器配置図をいうか。『隋書』経籍志一に、「太常寺曲名 属する武徳使は当初は武器の管理を掌っていたが、次第に宮城の防衛を掌るようになったという。「奉宣索」は、詔を受け 的因由」(『唐研究』六、二〇〇〇年、のち『従宮廷到戦場』、中華書局(香港(、二〇〇七年、に収む(によれば、武徳司に

(0

   (武德司奉宣索雲韶樂縣圖「武徳司」は、宦官が掌る内廷の機関である内諸司使の一。趙雨楽「宋代改武徳司為皇城司

( 孝明太后等別廟三室、自車駕再幸山南、並經焚毀、神主失墜。今大駕還京、宜先葺宗廟神主、然後還宮。』」と見える。 兩員、並停禮院修撰官一人。」 『旧唐書』僖宗紀に「〔光啓二年、八八六〕丙辰、太常禮院奏、『太廟十一室、并祧廟八室、 る。「礼院」は太常寺に属し、太常博士の所属する所。『唐会要』巻六五に「貞元七正月二十六日、復置禮儀直兩員、禮院直

((

   (大和三年八月、太常禮院奏以下の文は、『唐会要』巻三三「凱楽」、また前半は『冊府元亀』巻五六九掌礼部にも収め 此、雖譯者亦不能通知其辭、蓋年歳久遠、失其真矣。」 傳其業。元忠之祖、受業於侯將軍、名貴昌、并州人也、亦世習北歌。貞觀中、有詔令貴昌以其聲教樂府。元忠之家世相傳如 二に「鼓吹、本軍旅之音、馬上奏之、故自漢以來、北狄樂總歸鼓吹署。……開元初、以問歌工長孫元忠、云自高祖以來、代 盛略、邁後光前。寰區已泰、福祚方延。長歌凱樂、天子萬年。」「鼓吹」楽は、馬上で奏したという軍楽。『旧唐書』音楽志 『隋書』音楽志下に「凱樂歌辭三首『述帝德』於穆我后、睿哲欽明。膺天之命、載育羣生。開元創曆、邁德垂聲。……雄圖

((

   (謹按凱樂、鼓吹之歌曲也「凱樂」は、戦勝後、凱旋する時の音楽であるが、王朝の開始と皇帝の徳をたたえたもの。

(9)

( 〈大獻、獻捷於祖。愷樂、獻功之樂。鄭司農説以春秋晉文公敗楚於城濮、傳曰振旅愷以入於晉。〉」 司楽に「大司樂掌成均之法、以治建國之學政、而合國之子弟焉。凡有道者、有德者、使教焉。……王師大獻、則令奏愷樂。

((

(周官大司樂「王師大獻、則奏凱樂」。注云「獻功之樂也。」  「大献」は、祖廟で戦勝を報告すること。『周礼』春官・大

( 『師有功則愷樂』。『左傳』曰、晉文公勝楚、『振旅、凱而入』。司馬法曰、『得意則愷樂愷哥』。」 楽志一(十八(にも見える。「鼓吹、蓋短簫鐃哥。蔡邕曰、『軍樂也、黃帝岐伯所作、以揚德建武、勸士諷敵也』。周官曰、 也。司馬法曰、得意則愷樂、愷歌示喜也。鄭司農云、故城濮之戰、春秋傳曰、振旅愷以入于晉。〉類似した内容は『宋書』 社。若師不功、則厭而奉主車。〈功、勝也。律、所以聽軍聲。鉞、所以爲將威也。先猶道也。兵樂曰愷。獻于社、獻功于社 「大司馬之職、掌建邦國之九法、以佐王平邦國、制畿封國、以正邦國。……若師有功、則左執律、右秉鉞、以先。愷樂獻于

((

(又大司馬之職、「師有功、則凱樂獻于社」。注云「兵樂曰凱。」  「社」は土地の神を祭祀する祠。『周礼』夏官・大司馬に

( 示休。」

((

(司馬法曰「得意則凱樂、所以示喜也。」  『司馬法』巻上「天子之義」に「得意則愷歌、示喜也。偃伯靈臺、答民之勞、

( 萬里振旅〈師古曰、師入曰振旅。振、整也。旅、衆也。〉宜有使者迎勞道路。』」 旅」は、ここでは凱旋する際に軍隊を整えること。『漢書』陳湯伝に「〔陳〕湯上疏言、『臣與吏士共誅郅支單于、幸得禽滅、 至大賞。〈授、數也。獻楚俘於廟。〉」僖公二八年四月に、晋の文公らが城濮で楚と戦って勝利した後、七月に凱旋する。「振

((

   (左氏傳載晉文公勝楚、振旅凱入『左伝』僖公二十八年に、「秋七月丙申、振旅愷以入于晉。〈愷、樂也〉。獻俘授馘、飲

( 言神武遣侯莫陳悅誅賀拔岳、定關・隴、平河外、漠北款、秦中附也。……」と、いずれも軍功を述べると解されている。 阿、創大業、破尒朱兆也。第三、漢艾如張改名戰韓陵、言神武滅四胡、定京洛、遠近賓服也。第四、漢上之回改名殄關隴、 鼓吹二十曲、皆改古名、以叙功德。第一、漢朱鷺改名水德謝、言魏謝齊興也。第二、漢思悲翁改名出山東、言神武帝戰廣 爲道亡、言東昏喪道、義師起樊鄧也。第五、漢曲擁離改爲忱威、言破加湖元勳也。……」、『隋書』音楽志中(十(に「〔斉〕 為賢首山、言武帝破魏軍於司部、肇王迹也。第三、漢曲艾如張改爲桐柏山、言武帝牧司、王業彌章也。第四、漢曲上之回改 乃去四曲、留其十二、合四時也。更制新歌、以述功德。其第一、漢曲朱鷺改爲木紀謝、言齊謝梁升也。第二、漢曲思悲翁改

((

   (魏・晉已來鼓吹曲章、多述當時戰功『隋書』音楽志上(七(に「〔梁〕鼓吹、宋・齊並用漢曲、又充庭用十六曲。高祖

((

   (是則歷代獻捷、必有凱歌「献捷」は、戦勝後、凱旋して敵の俘虜や戦利品を献上すること。『轂梁伝』僖公二十一年

(10)

九 に、「冬、公伐邾、楚人使宜申來獻捷。捷、軍得也」。『旧唐書』職官志二に、「凡大將出征、皆告廟授鉞、辭齊太公廟訖、不宿於家。臨軍對寇、士卒不用命、並得專行其罰。既捷、及軍未散、皆會衆而書勞與其費用、乃告太廟。元帥凱旋之日、皆使郊勞。有司先獻捷於太廟、又告齊太公廟。」(

( 太廟。丁卯、大赦天下。」 月己未、秦王大破竇建德之衆於武牢、擒建德、河北悉平。丙寅、王世充舉東都降、河南平。秋七月甲子、秦王凱旋、獻俘於 王益州道行臺尚書令。秦王大破宋金剛於介州、金剛與劉武周俱奔突厥、遂平并州。僞總管尉遲敬德・尋相以介州降。……五

((

   (太宗平東都、破宋金剛『旧唐書』高祖紀に、「〔武徳三年〕夏四月壬寅、至自華陰。於益州置行臺尚書省。甲寅、加秦 十一月、蘇定方平賀魯、分其地置濛池・崑陵二都護府。」蘇定方は、『旧唐書』音楽志一(五(注   國、婆閏隨蘇定方逐賀魯至石國西北蘇咄城、城主伊涅達干執賀魯送洛陽。」同・地理志三に、「安西大都護府……顯慶二年 詔程知節・蘇定方・任雅相・蕭嗣業領兵并迴紇大破賀魯於陰山、再破於金牙山、盡收所據之地、西逐至耶羅川。賀魯西奔石

(0

   (其後蘇定方執賀魯、李勣平高麗、皆備軍容凱歌入京師『旧唐書』迴紇伝に、「顯慶元年(高宗・六五六(、賀魯又犯邊、

( 萬七千。」   同・地理志二に、「安東都護府總章元年(高宗・六六八(九月、司空李勣平高麗。高麗本五部、一百七十六城、戸六十九 列其地爲州縣、極於西海。定方以功遷左驍衞大將軍、封邢國公、又封子慶節爲武邑縣公。」 李勣の高麗平定については、 施部。……賀魯及咥運十餘騎逼夜亡走、定方遣副將蕭嗣業追捕之、至於石國、擒之而還。高宗臨軒、定方戎服操賀魯以獻、 任雅相・迴紇婆潤爲副。自金山之北、指處木昆部落、大破之。其俟斤嬾獨祿以衆萬餘帳來降、定方撫之、發其千騎進至突騎 伐に功績があったという。『旧唐書』蘇定方伝に、「蘇定方、冀州武邑人也。……明年、擢定方爲行軍大總管、又征賀魯、以

((

を参照。百済・高句麗征

((

   (謹檢貞觀・顯慶・開元禮書、並無儀注「貞観礼」は、『旧唐書』音楽志一(五((注

人王仲丘撰成一百五十卷、名曰大唐開元禮。二十年九月、頒所司行用焉。」「儀注」は、礼儀制度の詳細を記したもの。『通 之。初令學士右散騎常侍徐堅及左拾遺李鋭・太常博士施敬本等檢撰、歷年不就。説卒後、蕭嵩代爲集賢院學士、始奏起居舍 恐難改易。今之五禮儀注、貞觀・顯慶兩度所修、前後頗有不同、其中或未折衷。望與學士等更討論古今、刪改行用。』制從 記、削去舊文、而以今事編之。詔付集賢院學士詳議。右丞相張説奏曰、『禮記漢朝所編、遂爲歷代不刊之典。今去聖久遠、 ついては、『旧唐書』礼儀志一に「開元十年、詔國子司業韋縚爲禮儀使、專掌五禮。十四年、通事舍人王喦上疏、請改撰禮

((

(に既出。開元礼制定の経緯に

(11)

一〇

典』巻一〇六以下の「開元礼纂類」によると、開元礼は開元二十年に制定され、本来は百五十巻あった。閲覧の便を図って三十五巻の類例を作成。五礼(吉礼・嘉礼・賓礼・軍礼・凶礼(から成り、儀は総計百五十二を数える。軍礼に二十三の儀があり、その三が「告於太廟」である。

( を載せる。   『通典』巻一三二「開元礼纂類」二十七・軍礼の「皇帝親征告於太廟」に「斎戒」「陳設」「鑾駕出宮」以下、詳細な次第

( 後、圓丘方澤、太廟祠享、然後用此舞、餘祭並停。』」

((

   (陳設『旧唐書』音楽志一(五((p.一〇四八(に「上元三年十一月敕、『供祠祭上元舞、前令大祠享皆將陳設、自今已

『陸機自比管樂、擬君闇主、自古命將遣師、未有臣陵其君而可以濟事者也。』」

((

   (凡命將征討、有大功獻俘馘者「命将」は、将軍を派遣すること。『晋書』陸機伝に、「左長史盧志心害機寵、言於穎曰、

(   所截耳。〉」杜預の注によると、楚子に命じられて俘馘を見せた師縉なる者は、楚の楽師であった。 僖公二十二年に、「丙子晨、鄭文夫人芊氏・姜氏勞楚子於柯澤。楚子使師縉示之俘馘〈師縉、楚樂師也。俘、所得囚、馘、   「俘馘」は、敵の捕虜と死者の左耳。『左伝』

( 常の儀式。『旧唐書』穆宗紀に「四年正月辛亥朔、上御殿受朝如常儀。」 ……詔有司改定儀注。六日、玄宗自齋宮步詣太廟、入自東門、就立位。樂奏九成、升自阼階、行祼獻之禮。」 「常儀」は通 殿。玄宗素服避正殿、輟朝三日、親謁神主于太極殿、而後發幸東都。乃敕有司修太廟。明年、廟成、玄宗還京、行親祔之禮。 「東門」は、太廟の東門か。『旧唐書』礼儀志五に「〔開元〕五年正月、玄宗將行幸東都、而太廟屋壞、乃奉七廟神主於太極 策軍迎扈。及永泰元年、吐蕃犯京畿、朝恩以神策兵屯于苑中。自是、神策軍恆以中官爲帥。」 監伯玉軍。及伯玉入爲羽林帥、出爲荊南節度使、朝恩專統神策軍、鎮陝。廣德元年、吐蕃犯京師、代宗避狄幸陝、朝恩以神 職官志三の「左右神策軍」に「上元中、以北衙軍使衞伯玉爲神策軍節度使、鎮陝州、以拒東寇、以中使魚朝恩爲觀軍容使、 (羽林・龍武・神策軍(の一。天宝年間に始まり、代宗以降は宦官が統率した。『文献通考』職官十二に詳しい。『旧唐書』

((

   (備神策兵衞於東門外、如獻俘常儀「神策兵」は、唐代の近衛兵の一つ。大明宮の東側、太和門の外に置かれた左三軍 の楽器は、『隋書』音楽志中(十三(注(

((

   (其凱樂用鐃吹二部、笛・篳篥・簫・笳・鐃・鼓、每色二人、歌工二十四人「鐃吹」は鐃歌を演奏する軍楽隊。六種類

各一人。建鼓四人、柷敔各一人。歌・琴・瑟・簫・筑・箏・搊箏・臥箜篌・小琵琶、四面各十人、在編磬下。笙・竽・長

(等を参照。「高祖既受命、定令、宮懸四面各二虡、通十二鎛鍾、爲二十虡。虡

(12)

一一 笛・橫笛・簫・篳篥・箎・壎、四面各八人、在編鍾下。舞各八佾。」 また同じく「皇太子、鐃及節鼓、朱漆畫、飾以羽葆。」同・上には、「至是蔡景歷奏、悉復設焉。其制、鼓吹一部十六人、則簫十三人、笳二人、鼓一人。東宮一部、降三人、簫減二人、笳減一人。」『唐会要』巻三三では、「笛・篳篥・簫・笳・鐃・鼓、每色二人、歌工二十四人」が注として扱われている。  このあたりの記述は『新唐書』巻二三下・儀衛志下に「歷代獻捷必有凱歌、太宗平東都、破宋金剛、執賀魯、克高麗、皆備軍容、凱歌入京都、然其禮儀不傳。太和初、有司奏、命將征討、有大功、獻俘馘、則神策兵衞於門外、如獻俘儀。凱樂用鐃吹二部、笛・觱篥・簫・笳・鐃鼓、皆工二人、歌工二十四人、乘馬執樂、陳列如鹵簿。鼓吹令・丞前導、分行俘馘之前。將入都門、鼓吹振作、奏破陣樂・應聖期・賀朝歡・君臣同慶樂等四曲。至太社・太廟門外、陳而不作。告獻禮畢、樂作。至御樓前、陳兵仗於旌門外二十步、樂工步行、兵部尚書介冑執鉞、於旌門中路前導、協律郎二人執麾、門外分導、太常卿跪請奏凱樂。樂闋、太常卿跪奏樂畢。兵部尚書・太常卿退、樂工立於旌門外、引俘馘入獻、及稱賀、俘囚出、乃退。」とある。(

( 二人。次黃麾、一人執。」とある。この順に楽人を配列したものか。 笳各二十四。〈自前掆鼓以下、工人皆自副並騎、分左右、橫行。每鼓皆二人夾。每隊皆有主帥五人以上統領。〉次殿中侍御史 簫・篳篥・笳・桃皮篳篥各二十四。次掆鼓十二面、金鉦十二面、次小鼓百二十面、次中鳴百二十具、次羽葆鼓十二面、歌簫 面、金鉦十二面、次大鼓百二十面、次長鳴百二十具、次鐃鼓十二面、歌簫笳各二十四。次大橫吹百二十具、節鼓二面、笛・ 金吾折衝二人。〈各領四十騎、戎服、分左右。〉次金吾大將軍二人、分左右。……次引駕十二重。次鼓吹令二人、次掆鼓十二 令以下、並正道威儀、各乘輅。其鹵簿、各依本品給之。〉次清遊隊、白澤旗二、〈分左右、各一人執、二人引、二人夾也。〉 元禮』から引用する(「大賀鹵簿」に「導駕、先萬年縣令、次京兆牧、次太常卿、次司徒、次御史大夫、次兵部尚書。〈自縣 穆、陳列行事。」 「鹵簿」は、行幸の際の行列。『通典』巻一〇七「開元礼纂類」二・序例中の(→汲古書院刊行の『大唐開 事、其布位次第及東面尊位、請準東晉蔡謨等議爲定。遂以獻祖當東嚮、以懿祖於昭位南嚮、以太祖於穆位北嚮、以次左昭右

((

   (次第陳列、如鹵簿之式『旧唐書』礼儀志六に「至建中二年十月、將祫饗、禮儀使顏真卿狀奏。合出獻・懿二祖神主行 部以統之。法駕則三分減一、小駕則減大駕之半。」とあるのによれば、前後の二部に分かれて行進する。その「丞一人」、『通 人、從八品下。樂正四人、從九品下。鼓吹令掌鼓吹施用調習之節、以備鹵簿之儀、丞爲之貳。凡大駕行幸、鹵簿則分前後二

((

    (鼓吹令丞鼓吹署の長官が鼓吹令、副官が鼓吹丞。『唐六典』巻一四「大常寺」に、「鼓吹署令一人、從七品下。丞一

(13)

一二

典』巻二五では同じく「一人」であるが、『旧唐書』職官志三では「三人」、『新唐書』巻四八百官志三では「二人」とする。(

て用いられていることは、『隋書』音楽志上(七(注

((

   (鼓吹振作、迭奏破陣樂等四曲。「振作」は、さかんに行う。「振作」が「鼓吹」をさかんに行うことを表わす動詞とし

( 之於舞列、宮縣在下、琴瑟在堂、八音迭奏、雅樂並作、登哥下管、各有常詠、周人之舊也。」 代わるがわる演奏する。『宋書』楽志一に、「遭離喪亂、舊典不存、然此諸樂、皆和之以鍾律、文之以五聲、詠之於哥詞、陳 出宮、振作鼓吹。外可詳議。』八座丞郎參議、請輿駕始出、鼓吹從而不作、還宮如常儀。帝從之、遂以定制。」「迭奏」は、

((

参照。「天監七年、將有事太廟。詔曰、『禮云「齋日不樂」、今親奉始

((

   (破陣樂・應聖期兩曲、太常舊有辭。賀朝歡・君臣同慶樂「破陣楽」は、『旧唐書』音楽志一(五(注

「賀朝歡」・「君臣同慶樂」は未詳。 龍飛、十殄馬邑、十一興晉陽、十二濟渭險、十三應聖期、十四御宸極、十五寧兆庶、十六服遐荒、十七龍池、十八破陣樂。」 「大駕鹵簿鼓吹」に、「羽葆部十八曲:一太和、二休和、三七德、四騶虞、五基王化、六纂唐風、七厭炎精、八肇皇運、九躍 製歌辭。百二十人披甲持戟、甲以銀飾之。發揚蹈厲、聲韻慷慨、享宴奏之、天子避位、坐宴者皆興。」『新唐書』儀衛志下の 宗所造也。太宗爲秦王之時、征伐四方、人間歌謠秦王破陣樂之曲。及即位、使呂才協音律、李百藥・虞世南・褚亮・魏徵等 情不忍觀、所司更不宜設。』言畢、慘愴久之。顯慶元年正月、破陣樂舞爲神功破陣樂。」また同・音楽志二に、「破陣樂、太 徽二年十一月、高宗親祀南郊、黃門侍郎宇文節奏言、『依儀、明日朝羣臣、除樂懸、請奏九部樂。』上因曰、『破陣樂舞者、

に詳しい。「永 と同様の扱いであり、楽府の詩人としても著名であった劉禹錫の名を借りた措置であろう。 全五首として採録し、劉禹錫の作とする。しかし、劉禹錫の別集にも収められず、『楽府詩集』『全唐詩』なども『旧唐書』   『御定佩文斎詠物詩選』巻一三五は、八句からなる「應聖期」を四句ずつに二分して、これら四曲の歌詞を「破陣楽詞」

  破陣樂「受律辭元首、相將討叛臣 11

。咸歌破陣樂、共賞太平人。」應聖期「聖德期昌運、雍熙萬宇清。乾坤資化育 1(

、海岳共休明。闢土忻耕稼、銷戈遂偃兵。殊方歌帝澤、執贄賀昇平 11

。」賀朝歡「四海皇風被、千年德水清。戎衣更不著 11

、今

(14)

一三 日告功成。」君臣同慶樂「主聖開昌曆、臣忠奏大猷。君看偃革後 11

、便是太平秋。」

  候行至太社 11

及太廟門、工人下馬、陳列於門外。〈按周禮大司樂注云 11

、「獻于祖。」大司馬云、「先凱樂獻于社。」謹詳禮

儀、則社廟 11

之中、似合奏樂、伏以尊嚴之地、鐃吹譁讙 11

、既無明文、或乖肅敬 11

。今請並於門外陳設、不奏歌曲。〉

  候告獻禮畢、復導引奏曲如儀。至皇帝所御樓前兵仗旌門 11

外二十步、樂工皆下馬徐行前進。兵部尚書介冑執鉞 1(

、於旌

門内中路 11

前導。〈周禮「師有功、則大司馬左執律、右秉鉞、以先凱樂。」注云、「律所以聽軍聲、鉞所以爲將威。」今吹

律聽聲 11

、其術久廢、惟請秉鉞、以存禮文。〉

  次協律郎二人、公服執麾 11

、亦於門下分導。鼓吹令丞引樂工等至位立定。太常卿於樂工之前跪、具官臣某奏事 11

、請奏

凱樂。協律郎舉麾、鼓吹大振作、遍奏破陣樂等四曲。樂闋 11

、協律郎偃麾、太常卿又跪奏凱樂畢。兵部尚書・太常卿退、樂工等並出旌門外訖、然後引俘馘入獻及稱賀如別儀。別有獻俘馘儀注 11

。俟俘囚引出方退。

  請宣付當司、編入新禮、仍令樂工教習。

依奏。  「破陣楽」は次のとおり。

  「厳格

な規律にしたがい軍は天子の元を出て、相いともに逆臣を討伐した。みなで破陣楽をうたい、そろって太平の

世に生きることを愛で楽しむ。」

  「応聖期」は次のとおり。

  「至上

の徳は盛んなる国運と会い、平和なる天下は清々しい。天地の間は育みを受け、大海から高山に至るまですべ

(15)

一四

てりっぱにかがやく。国土を切り拓いて耕作をたのしみ、武器を溶かして、用いることはない。異域の者までが天子の恩沢をうたい、礼物を携え来たりて太平の世をことほぐ。」

  「賀朝歓」は次のとおり。

  「四方の海まで天子の教化が行きわたり、千年の後まで黄河は澄みわたる。軍装を二度と身につけることもなくな

り、今日この日に戦功を報告する。」

  「君臣同慶楽」は次のとおり。

  「天子

は聖明にして盛んなる時世を始め、臣下は忠正にして大いなるはかりごとを献上する。ごらん、いくさをやめ

た後は、まさしく太平の時。」

  行列が太社と太廟の門まで来ると、演奏者は馬より下り、門の外に立ち並ぶ。〈考えるに『周礼』大司楽の注に「戦

功を祖霊に報告する」、大司馬に「先ず凱楽を奏して土地神の廟で報告する」とある。謹んで儀礼を精査すると、太社と太廟の中で、音楽を演奏するのがふさわしいように見えるが、考えてみるに、厳かで尊貴な場所で、軍楽隊が騒が

しくすることは、明確な記載が無いばかりか、静粛さにも反する。門の外で整列するだけで、歌唱と演奏はしないように願ったのである。〉

  告献の礼が終わると、また儀注のとおり先導して歌曲を奏す。陛下のおでましになる高殿の前、兵器のある旌門の外二十歩の所まで来ると、演奏者は下馬しておもむろに進む。兵部尚書はよろいかぶとを身につけて鉞を手にし、旌

門中の道の中央を先導する。〈『周礼』に「軍隊に戦功があれば、大司馬は左手に律を持ち、右手に鉞を手にして、先

(16)

一五 導して凱楽を奏す」とあり、その注に「律は軍の音を聴くためのもの、鉞は将軍の武威を示すためのもの」とある。いまは律管を吹いて敵の音を聴こうにも、そのすべが伝わらなくなって久しいので、鉞を手にするだけにして、このことを礼の条文で伝えるようにされたいと存ずる。〉

  次いで協律郎二名が、官服姿で指図旗を持ち、旌門の下を分かれて先導する。鼓吹署の長官と次官は演奏者等を連

れて所定の位置に着く。太常卿は演奏者の前で跪き、具臣の某が申し上げますと言い、凱楽の演奏を願い出る。協律

郎が指揮旗を掲げると、鼓吹は盛大に演奏を始め、「破陣楽」等の四曲を一通り演奏する。演奏が終わると、協律郎は指揮旗を伏せ、太常卿は再度跪いて、凱楽を演奏し終えたことを申しあげる。兵部尚書と太常卿が退出する時、演奏

者等はそろって旌門の外に出て、その後俘虜を引き連れて入庭し献上して、祝意を述べるが、これはそれぞれの儀注によって行う。他に献俘馘儀注がある。俘虜を連れ出してから、演奏者は退出する。

  当該部署に詔書を回付して、新儀礼に追補し、演奏者にも練習させるように、願い上げる。

  奏上の通り、実施された。

注(

( 堂、則無憂國哀民、懇惻之誠」。 首、君也」。「相將」は、相そろって、の意。『潜夫論』救辺に「深入多殺、己乃陸陸、相將詣闕、諧辭禮謝、退云狀會坐朝 易』師卦に「象曰、師出以律、失律凶也」。「元首」は、君主。『尚書』益稷に「股肱喜哉、元首起哉、百工熙哉」、伝に「元

(0

   (受律辭元首、相將討叛臣統制のとれた軍が出陣して、謀反を起こした家臣を討つことをいう。「律」は、軍律。『周

((

   (聖德期昌運、雍熙萬宇清。乾坤資化育「昌運」は、国運が大いに栄えていること。顔延之「拝陵廟作」(『文選』巻二

(17)

一六

三(に「否來王澤竭、泰往人悔形。勑躬慙積素、復與昌運并」。「雍熙」は、おだやかで太平なこと。張衡「東京賦」(『文選』巻三(に「民忘其勞、樂輸其財。百姓同於饒衍、上下共其雍熙」。「萬宇」は、天下。『宋書』前廃帝紀に「詔曰、……朕位御三極、風澄萬宇、資鈇電斷、正卯斯戮」。「乾坤資化育」は、天地が万物をはぐくむこと。『礼記』中庸に「唯天下至誠、爲能盡其性。……能盡物之性、則可以贊天地之化育。可以贊天地之化育、則可以與天地參矣〈育、生也。助天地之化生、謂聖人受命、在王位、致太平〉」。(

( 会う際に持参する贈り物。「贄」は、にえ。『礼記』檀弓下に「魯人有周豐也者、哀公執摯請見之」。 異国。遠方をいう。班固「西都賦」(『文選』巻一(に「踰崑崙、越巨海。殊方異類、至于三萬里」。「執贄」は、最初に人に 而已」。『後漢書』杜詩伝に「陛下亮成天工、克濟大業、偃兵脩文、羣帥反旅、海内合和、萬世蒙福、天下幸甚」。「殊方」は、 う。戦いをやめることをいう。『宋書』顔竣伝に「方今中興開運、聖化惟新、雖復偃甲銷戈、而倉庫未實、公私所乏、唯錢 者、后稷也、決江疏河者、禹也、聽獄執中者、皋陶也、然而有聖名者、堯也」。「銷戈遂偃兵」は、ほこを溶かし武器をしま

((

   (闢土忻耕稼、銷戈遂偃兵。殊方歌帝澤、執贄賀昇平「闢土」は、土地を開墾する。『韓詩外伝』巻二に「夫闢土殖穀

( たたえる。「戎衣」は、軍服。『尚書』武成に「一戎衣、天下大定〈衣、服也。一著戎服而滅紂、言與衆同心、動有成功〉」。 伝』襄公八年に「子駟曰、周詩有之曰、俟河之清、人壽幾何」。澄むことのない黄河が清らかになることで、皇帝の治世を って、皇帝の徳があふれる流れの意も含む。『史記』秦始皇本紀に「方今水德之始……更名河曰德水、以爲水德之始」。『左 五牲。禮神祇、懷百靈。覲明堂、臨辟雍。揚緝熙、宣皇風。登靈臺、考休徵」。「德水」は、黄河をいう。「皇風」と対にな

((

   (四海皇風被、千年德水清。戎衣更不著「皇風」は、皇帝の教化。班固「東都賦」(『文選』巻一(に「於是薦三犧、效

( 軒也。謂廢兵車而用乘車也〉、倒置干戈、覆以虎皮、以示天下不復用兵」。 廃して客用にする。軍備を廃すること。『史記』留侯世家に「殷事已畢、偃革爲軒〈蘇林云、革者、兵車也。軒者、朱軒皮 ごらん、というほどの意。「君不見」と同義。王勃「臨高台」に「君看舊日高臺處、柏梁銅雀生黄塵」。「偃革」は、戦車を 猷」は、大いなる道。治世の方法。『毛詩』小雅・巧言に「奕奕寢廟、君子作之。秩秩大猷、聖人莫之」。「君看」は、ほら

((

   (主聖開昌曆、臣忠奏大猷。君看偃革後「昌暦」は、盛んな時代。謝朓「元会曲」に「二儀啓昌曆、三陽應慶期」。「大 爲羣姓立社、曰大社。王自爲立社、曰王社。諸侯爲百姓立社、曰國社」。『旧唐書』礼儀志一に「又皇太子入學及太常行山

((

   (太社及太廟門「太社」は、百官以下民衆に至るまでの福を祈願して建てた、土地や穀物を祭る所。『礼記』祭法に「王

(18)

一七 陵・天子大射・合朔・陳五兵於太社・農隙講武・納皇后行六禮・四孟月讀時令・天子上陵・朝廟・養老於辟雍之禮、皆周・隋所闕、凡增多二十九條。餘並準依古禮、旁求異代、擇其善者而從之」。同・二に「辟雍。……殿門去殿七十二步。準今行事陳設、猶恐窄小。其方垣四門去堂步數、請準太廟南門去廟基遠近爲制。仍立四門八觀、依太廟門別各安三門、施玄閫、四角造三重魏闕」。(

( られた附記のようなものであったのだろう。なお、『新唐書』儀衛志下では、これらを削除している。 は、本上奏文の前の部分ですでに引用されていることを考えると、上奏文の本文である可能性は小さく、上奏文に本来附け た人が注として書き加えたものか、『旧唐書』が注とした理由は明らかでない。ただ、注部分に見える『周礼』の経文と注 せている『唐会要』巻三三では、地の文として扱っている。もともと上奏文に附いていた注なのか、あるいはのちに整理し

((

    (按周禮大司樂注云……「按周禮」以下の注部分とのちの注部分(周禮「師有功以下」を、『旧唐書』とほぼ同文を載

( 侃率精騎追車鼻、獲之、送于京師、仍獻于社廟、又獻于昭陵」。

((

   (社廟太社と宗廟。『旧唐書』突厥上に「車鼻聞王師至、召所部兵、皆不赴、遂攜其妻子從數百騎而遁、其衆盡降。〔高〕

( 讙、鴝鵒鳴兮聒余」。 り、廟が尊厳と結びついていることを明確に述べている。「譁讙」は、さわがしいさま。『楚辞』九思・疾世に「鴳雀列兮譁

((

   (尊嚴之地、鐃吹譁讙『旧唐書』礼儀志六に「禮之所立、本於誠敬。廟之所設、實在尊嚴。既曰薦誠、則宜統一」とあ

( 作、而民肅敬」。

((

   (肅敬厳粛であること。『礼記』楽記に、君主の作る音楽によって民衆が感化されることを述べて、「廉直勁正莊誠之音

( 舍、掌王之會同之舍。設梐枑再重。……爲帷宮設旌門。無宮、則共人門」。

(0

   (旌門皇帝が宮廷から出た際に、幕を張って行宮とし、その前に旗を立てて門としたもの。『周礼』天官・掌舎に「掌 廟」。「介冑」は、よろいとかぶと。『史記』絳侯周勃世家に「天子乃按轡徐行。至營、將軍亞夫持兵揖曰、介冑之士不拜、 專行其罰。既捷、及軍未散、皆會衆而書勞與其費用、乃告太廟。元帥凱旋之日、皆使郊勞。有司先獻捷於太廟、又告齊太公 天下武官選授及地圖與甲仗之政令。……凡大將出征、皆告廟授鉞、辭齊太公廟訖、不宿於家。臨軍對寇、士卒不用命、並得 隋曰兵部尚書。龍朔改爲司戎太常伯、咸亨復也〉。侍郎二員〈正四品下。龍朔爲司戎少常伯、咸亨復〉。尚書・侍郎之職、掌

((

   (兵部尚書介冑執鉞「兵部尚書」は、兵部の長官。『旧唐書』職官志二に「兵部尚書一員〈正三品。南朝謂之五兵尚書、

(19)

一八

請以軍禮見」。(

( 涉豐草、騁丘墟、前有利獸之樂、而内無存變之意、其爲害也、不亦難矣」。

((

   (中路道の真ん中。司馬相如「上書諫猟」(『文選』巻三九(に「且夫清道而後行、中路而馳、猶時有銜橛之變。而況乎

( 法所從來尚矣」。 出軍皆聽律聲、故云「聞聲效勝負、望敵知吉凶」也〉、非德不昌、黃帝・湯・武以興、桀・紂・二世以崩、可不慎歟。司馬 史公自序・律書に「非兵不彊〈索隱。案此律書之贊而云「非兵不強」者、則此「律書」即「兵書」也。古者師出以律、則凡 心。宮則軍和、主卒同心。徵則將急數怒、軍士勞。羽則兵弱少威焉〉、而音尚宮。同聲相從、物之自然、何足怪哉」。同・太 吹律聽聲、推孟春以至于季冬、殺氣相并〈正義。兵書云、夫戰、太師吹律、合商則戰勝、軍事張彊。角則軍擾多變、失士

((

   (吹律聽聲律管を吹いて敵軍の声を聴く。それによって戦争をしかける時機をうかがう。『史記』律書に「武王伐紂、

( 若大祭祀饗宴奏于廷、則升堂執麾以爲之節制、舉麾工鼓柷而後樂作、偃麾戛敔而後止」。 照。『旧唐書』職官志三・太常寺に「……協律郎掌和六呂六律、辨四時之氣、八風五音之節。凡太樂、則監試之、爲之課限。 儀注。改天嘉中所用齊樂、盡以「韶」爲名。工就位定、協律校尉舉麾、太樂令跪贊云、「奏懋韶之樂」。同・訳注稿(八(参 子旦問起居、入閤脱公服、止著裙帽、如家人之禮」。「麾」は、合図をするための旗。『隋書』音楽志上に「定南北郊及明堂 服」は、官員の制服。『宋書』武帝紀下に「時徐羨之住西州、嘗幸羨之、便步出西掖門、羽儀絡驛追隨、巳出西明門矣。諸

((

   (次協律郎二人、公服執麾「協律郎」は、『旧唐書』音楽志訳注稿(一((一(に既出。太常寺に属し、正八品上。「公

( い。「某」にはその官職にある臣の名が入る。 上奏文の体例を載せている。また、唐以降は直接に官名を記さずに「具官」と称して、謙遜の意をあらわすことも少なくな

((

   (具官臣某奏事ここは奏上する際の形式を示す。「具官」の部分には、それぞれ当該の官職名が入る。『宋書』礼志二に

( 于東序、終之以仁也」。

((

   (樂闋音楽が終結する。『礼記』文王世子に「有司告以樂闋〈闋、終也〉。王乃命公・侯・伯・子・男及羣吏曰、反養老

((

   (別有獻俘馘儀注『唐会要』巻三三は、この七字を注として扱っている。(釜谷武志(

(20)

一九 【付記】  本訳注稿は、JSPS科研費・基盤研究(B(「隋唐楽府文学の総合的研究」(研究代表者:長谷部剛、24320070(による成果である。

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参照

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