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九世紀における賀茂祭の実態 : 『西宮記』・『日 本三代実録』の検討を通じて

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九世紀における賀茂祭の実態 : 『西宮記』・『日 本三代実録』の検討を通じて

その他のタイトル The Actual Situation of the Kamo Festival in the 9th Century : Focused on the Descriptions in Saikyuki and Nihon Sandai Jitsuroku

著者 笹田 遥子

雑誌名 史泉

巻 126

ページ 1‑19

発行年 2017‑07‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/16357

(2)

一 は じ め に 賀茂 祭は 弘仁 十年

︵八 一九

︶に 国家 祭祀 とな った 祭で

︑毎 年四 月中 酉 日に

︑天 皇の 娘で ある 賀茂 斎院 と勅 使を 中心 とし た総 勢四 百人 を超 す 行 列 が

︑賀 茂 社 へ 参 向 し︑ 幣 帛 と 走 馬 を 奉 り︑ 国 家 の 安 寧 を 祈 っ た

︒単 に﹁ 祭﹂ と言 えば 賀茂 祭を 指す ほど

︑平 安京 の人 々に とっ て重 要 な祭 であ った

︒ 賀茂 祭 の 分 析 は

︑古 記 録 に 恵 ま れ た 摂 関 期 以 降 が 多 数 を 占 め て お り

︑九 世紀 の賀 茂祭 を論 じた もの は多 くは ない

︒そ の理 由は

︑や はり 史 料 の 制 約 に よ る の だ ろ う︒ 九 世 紀︑ 特 に 前 半 に つ い て は﹃ 日 本 後 紀

﹄の 散逸 によ り︑ 検討 が難 しい のも 事実 であ る︒ しか し︑

﹃西 宮記

﹄ を 紐解 いて いく と︑ わず かで はあ るが 九世 紀の 賀茂 祭の 様相 を知 るこ と がで きる

︒ また

﹃日 本三 代実 録﹄

︵以 下︑

﹃ 三代 実録

﹄と 略記 する

︶は 恒例 行事 を 採ら なか った 従来 の国 史と は異 なり

︑多 くの 年中 行事 を詳 細に 記録 し てい る︒ 例え ば賀 茂祭 は︑ 毎年 四月 中申 酉日 に行 われ るこ とが

﹃内

裏 式﹄ と﹁ 弘 仁神 祇 式

﹂に み えて い る︒

﹃ 三代 実 録﹄ は こ の 毎 年 の 賀 茂 祭 につ い て

︑実 施 なら

﹁賀 茂 祭 如

﹂︑ 停 止 な ら ば﹁ 停

賀 茂 祭

﹂ と い う よ う に

︑挙 行 の 実 態 を 逐 一 明 記 し て い る︒ ま た 停 止 の 場 合 は

﹁ 縁

死 穢

﹂な ど

︑ほ と んど の 例 で理 由 を 記し て い る

︒﹃ 三 代 実 録

﹄と

﹃西 宮記

﹄の 該当 記事 をあ わせ るこ とで

︑九 世紀 の賀 茂祭 の姿 を 浮き 彫り にで きる ので はな いか

︒ 本稿 では

︑九 世紀 の賀 茂祭 の様 子│

│具 体的 には

︑祭 の実 施と 賀茂 斎 院の 参加 状況 を明 らか にす るこ とに 努め た︒ 賀茂 祭と 同じ く︑ 賀茂 斎 院の 研究 も十 世紀 以降 を対 象に した もの が多 い︒ 九世 紀に 焦点 を当 て

︑従 来 論 じ ら れ る こ と の 少 な か っ た 当 該 期 の 賀 茂 祭

・斎 院 に つ い て

︑﹃ 西宮 記﹄ や﹃ 三代 実録

﹄な どか らみ える 実態 を探 って みた い︒ 二 賀茂 祭と 警固 儀の 沿革 弘仁 十年

︑賀 茂御 祖并 別雷 二神 之祭

││ すな わち 賀茂 祭は

︑中 祀に

!

准 じる よう 定め られ た︒ 中祀 とは 施行 にあ たっ て三 日の 潔斎 を要 する 祭 祀 で︑ 祈年 祭

・月 次 祭・ 新 嘗祭

・神 嘗 祭 がそ れ に あ た る

︵﹃ 延 喜 神

九 世 紀 に お け る 賀 茂 祭 の 実 態

│ ﹃ 西 宮 記

﹄ ・

﹃ 日 本 三 代 実 録

﹄ の 検 討 を 通 じ て

笹 田 遥 子

― 1 ―

(3)

祇 式﹄ 巻一

﹁四 時祭 式﹂

︶︒ 小 祀が 大忌

・風 神・ 鎮花

・三 枝な どの 大和 古 社の 祭と

︑園 韓神

・松 尾・ 平野

・春 日・ 大原 野な ど︑ 賀茂 祭と 同様 に 平安 時代 に入 って 国家 祭祀 とな った 氏族 の祭 であ った こと を考 える と

︑賀 茂祭 は 他祭 祀 と は 一線 を 画 した 扱 い を受 け て い たと い え よう

︒ さ らに

︑弘 仁九 年︵ 八一 八︶ には 賀茂 社に 斎王

︵賀 茂斎 院︶ が置 かれ

!

た が︑ 伊勢 神宮 以外 に斎 王を 奉る のは

︑斎 王制 度が 開始 して 以来

︑初 め ての こと であ った

︒ 賀茂 祭の 規定 は﹃ 本朝 月令

﹄所 引﹁ 弘仁 神祇 式﹂ を初 見と し︑ 以降 は

﹃内 裏式

﹄︑

﹃ 儀式

﹄な どの 儀式 書に 記載 され る︒

﹃儀 式﹄ によ れば

︑ 賀 茂祭 は斎 院︑ 斎院 司︑ 内蔵 寮︑ 左右 馬寮

︑六 衛府 など 多く の官 司が 供 奉し

︑警 固儀 と賀 茂祭 儀︵ 斎院 御禊

・酉 日祭 儀︶ から 成る

︑数 日に 及 ぶ祭 であ った

︒以 下︑ 主に

﹃儀 式﹄ に基 づい て賀 茂祭 の概 要を みて い くこ とと する

︒ 警固 儀は

﹃内 裏儀 式﹄ を初 見と する 儀式 であ る︒ 賀茂 祭の 前日

︑大 臣 に召 集さ れた 六衛 府の 官人 が︑ 内裏 の宮 門閤 門に 立ち

︑賀 茂祭 の終 了 日ま で警 固す ると いう もの であ った

︒文 武二 年︵ 六九 八︶ 以降 たび た び国 史に あら われ る﹁ 賀茂 祭日

﹂あ るい は﹁ 賀茂 神祭 日﹂ によ って

"

発 生す る乱 闘・ 混乱 に備 えて 行わ れて いた と考 えら れ︑ 弘仁 十年 に国 家 祭祀 とし ての 賀茂 祭が 始ま った あと も続 けら れた

︒そ れは

︑従 来の 祭 が賀 茂祭 に 取っ て 代 わ られ る こ とな く 存 続し 続 け た ため で あ ろう

︒ な お︑ この 従来 行わ れて きた 祭に つい ては

︑平 安時 代以 降の 賀茂 祭と 区 別す るた め︑ 以下

﹁元 賀茂 祭﹂ と表 記す る︒

﹃内 裏 式﹄ に よれ ば

︑賀 茂 祭 の五

︑六 日 前 に少 納 言 か ら

︑山 城 国 司 よ り報 告 のあ っ た 元 賀茂 祭 の 日取 り が 奏上 さ れ た︒ そ して 祭 の 前日

大 臣 が 六 衛 府 の 佐 以 上 を 召 集 し︑

﹁ 欲

賀 茂 祀

︿我

﹀故

︿爾

﹀︑ 如

常 奉

衛 固

﹂ と命 じた

︒そ の後 六衛 府の 官人 らは 武器 を携 え︑ 内裏 の宮 門 閤門 に立 った

︒警 固の 陣が 解か れる のは

︑酉 日の 祭日 を経 た戌 日の 早 旦︑ つ まり 賀 茂 社 で の 儀 式 を 終 え た 一 行 が 内 裏 へ 帰 還 す る 日 で あ る

︒な お 警固 は

︑﹃ 内 裏 式﹄ に﹁ 雖

朝 使

其 儀 亦 同

﹂と あ り

︑﹃ 儀 式

﹄に も﹁ 雖

祭 使

猶 用

此儀

﹂と あ るよ う に︑ 賀 茂 祭 が 停 止 で あ って も毎 年行 うこ とが 定め られ てい た︒ とこ ろ で﹃ 儀 式﹄ 賀 茂祭 日 警 固儀 に は﹁ 未 日大 臣 昇 殿 奏

警 固

之 状

﹂ とあ り

︑未 日 に 大臣 が 昇 殿し て

﹁可

警固

之 状

﹂を 奏 上 す る と い う︒

﹃内 裏 式

﹄冒 頭 に﹁ 賀茂 上 下 社以

其 日

︿中 申 酉 日

﹂ と ある よう に︑ 賀茂 祭は 申・ 酉日 両日 であ った こと

︑そ の直 後に

﹁先 祀 一日

﹂と ある こと から

︑未 日に 大臣 によ る奏 上と 六衛 府に 対す る命 令 が 出さ れ て い たと 考 え られ る

︒警 固 の奏 上

・命 令 は 未日 に 行 われ

︑ 警 固が 開始 され るの は申 日の

︑そ れも 日付 変更 後す ぐで あっ たと 考え ら れる

︒警 固の 命令 後︑ 実際 に警 固す るま で大 きく 時間 が空 くと は考 え にく いか らで ある

︒﹃ 内裏 式﹄ に﹁ 若夜 喚

︑諸 衛各 称

名︑

﹂ とあ る こと も参 考に なる

︒ 斎院 御禊 は賀 茂祭 より 前の 吉日 に︑ 斎院 が鴨 川で 禊を する 儀式 であ る

︒ま ず︑ 陰陽 寮が 禊日 を択 び︑ その 禊日 の二 日前 に斎 院司

・陰 陽寮 等 が鴨 川へ 行き

︑禊 をす る場 所を 占い 定め

︑こ れを 奏上 する

︒禊 日の 前 日︑ 所司 が川 で禊 のた めの 準備 をす る︒ そし て当 日︑ 左右 京職

・六 衛 府・ 斎院 司以 下総 勢二 百五 十名 を超 える 行列 が鴨 川に 到着 し︑ 斎院 が 禊を 行う

︒神 祇官 が中 臣氏 に麻 を捧 げる と︑ 中臣 氏は 院司 にこ れを 授 ける

︒院 司は 宣旨 を付 して 再び 中臣 氏に 返し

︑最 後は 中臣 氏か ら宮

― 2 ―

(4)

主 へ授 けら れ︑ 宮主 が麻 を捧 げ持 ち︑ 祓詞 を読 み上 げた

︒儀 式の 終了 後

︑供 奉し た官 人ら には 禄が 与え られ

︑斎 院は 紫野 院へ 帰還 した

︒ 酉日 祭儀 は﹃ 内裏 式﹄ に初 めて みえ るほ か︑ 儀式 の一 部が

﹃続 日本 後 紀﹄

︑﹃ 西 宮記

﹄に 実例 とし てみ えて いる

︒一 般に

︑内 裏出 立ま での 諸 儀式 を宮 中の 儀︑ 出立 から 社へ 向か う間 を路 頭の 儀︑ そし て社 前で 行 う儀 式を 社頭 の儀 と呼 んで おり

︑酉 日祭 儀は およ そ三 要素 から 成り 立 って いる

︒ 酉日 卯四 刻︑ 奉幣 使等 が内 侍に 就い て社 に参 る旨 を奏 上し

︑禄 を賜 っ た︒ 天皇 が祭 使等 の乗 る飾 馬を 紫宸 殿で 見る 飾馬 御覧 の儀 が終 わる と

︑使 等は 内侍 と共 に内 蔵寮 へ赴 き︑ 庁事 前で 解除 を受 けた

︒そ して 松 尾社 の幣 を禰 宜・ 祝等 に付 して 両段 再拝 した のち

︑饗 を賜 り︑ 内裏 を 出発 した

︒ 松尾 社は 秦氏 の奉 斎す る神 社で

︑長 岡京

・平 安京 遷都 の際 に賀 茂社

!

・ 乙訓 社と 共に 神階 叙位 など の措 置を 受け た︒ また 賀茂 社の 祭祀 起源 な どを 載せ る﹁ 秦氏 本系 帳﹂ の研 究に よっ て︑ 秦氏 とカ モ氏 は姻 戚関

"

係 にあ った とも いわ れて いる

︒カ モ氏 と秦 氏は いず れも 山城 国の 有力 な 豪族 であ り︑ 祭祀 にお いて も繋 がり を持 って いた のだ ろう

︒ 賀茂 祭儀 に話 を戻 すと

︑一 行は 北辺 路︵ 一条 大路

︶で 斎院 御所 から 出 立 し た 斎 院 の 行 列 と 合 流 し︑ ま ず 下 社 へ 向 か っ た︒ 下 社 に 近 づ く と

︑ま ず斎 院は 社頭 に準 備さ れた 幄で 清服 に着 替え

︑腰 輿に 乗り 換え て 敷地 へ入 った

︒そ の後 社の 十丈 ほど 前で 腰輿 から 降り

︑歩 行し て社 前 の左 殿に 座し た︒ その 後内 蔵寮 の幣 帛が 賀茂 社の 祝・ 禰宜 らに もた

#

ら され

︑祝 詞が 奏上 され ると

︑斎 院は 幄へ 戻っ た︒ この 時近 衛少 将・ 馬 寮 頭は 馬 場 へ 向か い

︑走 馬 を行 っ た︒ 以 上が 社 前 で の儀 式 で ある

斎 院 が社 前 の 右 殿 に 座 す 以 外 は︑ 上 社 で も ほ ぼ 同 様 の 儀 式 が 行 わ れ た

︒そ の後

︑下

・上 社で の儀 式を 終え た一 行は

︑斎 院御 所へ 帰還 する 斎 院と 別れ

︑﹁ 祀状

﹂を 内侍 に就 いて 執申 した

︒﹃ 内 裏式

﹄割 注に よれ ば

︑翌 日に 申し 上げ るこ とも あっ たと いう

︒ 以上 のよ うに

︑賀 茂祭 は警 固儀 と斎 院御 禊・ 酉日 祭儀 の賀 茂祭 儀か ら 成る 祭で

︑御 禊の 占定 など も含 めれ ば︑ 延べ 一週 間程 度の 期間 を必 要 とし た︒ 警固 儀は 弘仁 九年 以前 に成 立し たと され る﹃ 内裏 儀式

﹄の 記 述を 初見 とす るこ とや

︑元 賀茂 祭と の関 係か ら︑ 平安 遷都 後に は始 ま って いた 可能 性が ある

︒大 臣が 主と なっ て六 衛府 に内 裏の 警固 が命 じ られ

︑賀 茂祭 が停 止の 年も 行わ れた

︒斎 院御 禊は

﹃儀 式﹄ で初 めて 明 文化 され る儀 式で

︑酉 日祭 儀に 先立 って

︑吉 日に 斎院 が鴨 川で 禊を す る儀 式で ある

︒酉 日祭 儀は

︑祭 使が 社参 の由 を奏 上し 内侍 が宣 命を 賜 わる 儀︑ 飾馬 御覧 儀な どの 宮中 の儀 と︑ 祭使 一行 と斎 院が 上下 社へ 向 かう 路頭 の儀

︑そ して 社前 で行 われ る社 頭の 儀の 三要 素か ら成 り立 っ てい た︒ 次節 では

︑賀 茂祭 の執 行状 況を

︑﹃ 三代 実録

﹄や

﹃西 宮記

﹄ な どか ら探 って いき たい

︒ 三

警固

・賀 茂祭 の実 施例 の分 析 本節 で は︑ 九 世 紀に お け る警 固 お よび 賀 茂 祭 の実 施 に つい て

︑﹃ 三 代 実録

﹄︑

﹃ 西宮 記﹄ を中 心に 当該 期の 史料 を収 集し

︑作 成し た表 を用 い て論 を進 めて いく こと とし たい

︒ 対象 と し た 期間 は

︑賀 茂 祭が 国 家 祭祀 と な っ た弘 仁 十 年︵ 八一 九

︶ か ら︑

﹃ 三代 実 録

﹄が 終 わる 仁 和 三年

︵八 八 七︶ ま で で

︑計 三 十 八 例

― 3 ―

(5)

年号

警固

賀茂 祭

解陣

出 典 日

記 事

記事

実施 停止 理 由

記事 弘仁 十年 四月

辛酉

︵十 四︶

※ 1賀 茂祭 を初 めて 中祀 と為 す云 々︑

│ 西宮 記 天長 八年 四月

乙酉

︵十 八︶ 鴨 祭︒ 左右 馬寮 穢有 り︑ 仍て 親王 公卿 等に 仰 せ て並 びに 四門 の人 馬之 を用 いる 云々

│ 西宮 記 承和 三年 四月

乙酉

︵十 七︶ 天 皇紫 宸殿 に御 す︒ 賀茂 祭使 等の 鞍馬 調飾 并 び に從 者の 容儀 を閲 覧す

︒使 等に 禄を 賜う

│ 続日 本 後紀 六年

四月

癸酉

︵二 十二

︶ 鴨 祭に 依り 廃務

︒勅 使並 びに 女使 等︑ 騎馬 を 紫 宸殿 前に 度し

︑天 覧了 ぬ︒ 東宮 に参 して 御 覧 了り て内 蔵寮 に到 り云 々︑ 将進 発の 間︑ 内 裏 自 り 来 た り て︑ 仰 せ て 云 に

︑血 下 の 穢 有 り

︑仍 て勅 使並 びに 斎王 悉く 停止 す︒ 山城 国 司

︑例 に依 り祭 祀す

× 血 下穢

│ 西宮 記 八年

四月

※﹃ 西 宮 記﹄ の 引 く

﹁九 記﹂ 天 徳 二 年 四 月 十 六日 勘文 に︑ 先例 と し て 引 用 さ れ る︒ 日 時

︑警 固の 有無 は不 明

│ 西宮 記 承和

年 間

﹃北 山抄

﹄酉 日於 南殿 覧被 馬事 承和 の例

︑未 日に 大祓 有り

︑而 して 事急 に依 り

︑申 日に 之を 行う

北山 抄 仁寿 元年 四月

辛酉

︵十 九︶

使 者賀 茂大 神社 に向 かい

︑祭 を奉 らし む︒ 但 し 斎内 親王 未だ 斎限 を盈 たさ ず︒ 故に 祭に 侍 る を得 ず

│ 文徳 天 皇実 録 二年 四月

辛酉

︵二 十五

︶賀 茂祭 を修 むる こと

︑常 儀の ごと し

│ 文徳 天 皇実 録 三年 四月

×

亦 祈使 有り

︒警 固事 行 わ ず︵ 西︶

乙酉

︵二 十五

︶ ① 疱瘡 流行 す︑ 人民 疫死 を以 て︑ 故に 賀茂 祭 を 停む

︒但 し山 城国 司の 斎供 常の ごと し

② 京畿 七道 疱瘡 の穢 に依 り︑ 賀 茂 祭 停 止す

︒ 斎 王亦 参ら ず︒ 但し 国司 をし て供 奉さ せ祭 事 せ しむ

︒亦 祈使 有り

︒警 固事 行わ ず︵ 西︶

× 疱 瘡流 行に よ る死 穢

×

× 文徳 天 皇実 録 西宮 記 斉衡

元年 四月

但 し 警 固 常 の ご と し

︵西

癸酉

︵十 九︶

① 穢事 有る を以 て︑ 賀茂 祭を 停む

︒但 し山 城 国 司の 斎供 常の ごと し

② 賀茂 下社 に死 穢有 り︒ 仍て 勅使 並び に斎 王 参 らず

︵西

× 下 社死 穢

︵西

│ 文徳 天 皇実 録 西宮 記 天安 元年 四月

乙酉

︵十 八︶ 鴨 祭常 のご とし

│ 文徳 天 皇実 録 西宮 記 貞観 元年 四月

戊申

︵二 十三

︶六 府警 固す

︒賀 茂祭 に 縁 るな り

己酉

︵二 十四

︶ ① 賀茂 神祭

︒朝 使を 遣わ すを 停む

︒穢 有る に 縁 るな り

② 祭使 内穢 に依 り停 止す

︑又 斎王 未定

︑仍 て 供 奉無 しと 云々

︑︵ 西︶

× 内 穢︵ 西︶

│ 三代 実 録 西宮 記

― 4 ―

(6)

二年 四月

乙未

︵十 五︶ 六 府警 固す

︒賀 茂祭 に 縁 るな り

丁酉

︵十 七︶ 賀 茂祭 常の ごと し︒ 斎内 親王 未だ 野宮 に入 ら ず

︒故 に社 に向 かわ ず

戊戌

︵ 十八

︶ 諸衛 解 厳 当日

︵ 十 七︶ 警 固 を解 く と 云々

︵西

︶ 三代 実 録 西宮 記 三年 四月

庚申

︵十 六︶ 諸 衛警 固す

︒賀 茂祭 に 縁 るな り

辛酉

︵十 七︶ 賀 茂 祭 を 修 む

︒是 の 先︒ 内 藏 寮 人 死 の 穢 有 り

︒仍 て勅 使縫 殿寮 自り 進發 す

壬戌

︵ 十八

︶ 諸衛 解 厳 三代 実 録 四年 四月

庚申

︵二 十二

︶諸 衛警 固す

︒賀 茂祭 に 縁 るな り

辛酉

︵二 十三

︶賀 茂祭 常の ごと し

壬戌

︵ 二十 四︶ 諸衛 解 厳 三代 実 録 五年 四月

庚申

︵十 六︶ 諸 衛警 固す

︒賀 茂祭 に 縁 るな り

己酉

︵十 七︶ 賀 茂祭 常の ごと し

庚戌

︵ 十八

︶ 諸衛 解 厳 三代 実 録 六年 四月

壬申

︵十 六︶ 諸 衛警 固す

︒明 日賀 茂 祭 に縁 るな り

癸酉

︵十 七︶ 賀 茂祭 常の ごと し

甲戌

︵ 十八

︶ 諸衛 解 厳 三代 実 録 七年 四月

壬申

︵二 十二

︶諸 衛警 固す

︒賀 茂祭 に 縁 るな り

癸酉

︵二 十三

︶賀 茂祭 常儀 のご とし

甲戌

︵ 二十 四︶ 諸衛 解 厳 三代 実 録 八年 四月

丙申

︵二 十二

︶諸 衛警 固す

︒賀 茂祭 に 縁 るな り

丁酉

︵二 十三

︶賀 茂祭 朝使 並び に斎 内親 王社 に向 かわ ず︒ 山 城 国例 に随 ひ祭 を奉 る

× 不 明

戊戌

︵ 二十 四︶ 諸衛 解 厳 三代 実 録 九年 四月

甲申

︵十 五︶ 諸 衛警 固す

︒賀 茂祭 に 縁 るな り

乙酉

︵十 六︶ 賀 茂祭 常の ごと し

丙戌

︵ 十七

︶ 諸衛 解 厳 三代 実 録 十年 四月

甲申

︵二 十︶ 諸 衛警 固す

︒賀 茂祭 に 縁 るな り

乙酉

︵二 十一

︶賀 茂祭

︒斎 内親 王穢 に依 り社 に向 かわ ず

丙戌

︵ 二十 二︶ 諸衛 解 厳 日本 紀 略 十一 年四 月

警 固有 りと 云々

│ 西宮 記 十二 年四 月 丙申

︵十 四︶ 諸 衛警 固す

︒賀 茂祭 に 縁 るな り

丁酉

︵十 五︶ 賀 茂祭 常の ごと し

戊戌

︵ 十六

︶ 諸衛 解 厳 三代 実 録 十三 年四 月 丙申

︵二 十︶ 諸 衛警 固す

︒賀 茂祭 に 縁 るな り

丁酉

︵二 十一

︶賀 茂祭 を停 む︑ 死穢 有る に縁 るな り

× 死 穢

戊戌

︵ 二十 二︶ 諸衛 解 厳 三代 実 録 十五

年四 月

己酉

︵十 五︶

※ 四月 一七 日辛 亥条

﹁公 卿太 政官 曹司 庁に 就 き

︑文 武百 官に 成選 位記 を授 く︒ 去る 十五 日 に 此事 行ふ べし

︒自 ら常 式有 り︒ 而る に彼 の 日 賀茂 祭に 当り

︑故 に之 を避 ける

︒緩 むこ と あ らず なり

│ 三代 実 録 十六

年四 月 戊申

︵二 十︶

① 諸衛 警固 す︒ 賀茂 祭 に 縁る なり

② 警固 有り

︵西

己酉

︵二 十一

︶賀 茂 祭︒ 淳 和 院 の 火穢 に 染 ま る 人 齋 院 に 入 る

︒仍 て祭 事を 停む

× 火 穢

庚戌

︵ 二十 二︶ 諸衛 解 厳 三代 実 録 十七 年四 月 壬申

︵二 十︶ 諸 衛警 陣す

︒明 日賀 茂 祭 に縁 るな り

癸酉

︵二 十一

︶賀 茂祭 常の ごと し

甲戌

︵ 二十 二︶ 諸衛 解 厳 三代 実 録 十八 年四 月 庚申

︵十 三︶ 諸 衛警 固す

辛酉

︵十 四︶ 賀 茂祭 を停 む

× 大 極殿 火災 壬戌

︵ 十五

︶ 諸衛 解 厳 三代 実 録 元慶 元年 四月

甲申

︵十 三︶ 諸 衛 警 固 常 の ご と し︒ 賀 茂祭 に縁 るな り

乙酉

︵十 四︶ 賀 茂祭 常の ごと し

丙戌

︵ 十五

︶ 諸衛 解 厳 三代 実 録

― 5 ―

(7)

二年 四月

甲申

︵十 九︶ 諸 衛警 護す

︒明 日賀 茂 祭 に縁 るな り

乙酉

︵二 十︶

賀 茂祭 常の ごと し︒ 是よ り先

︑左 近衛 官人 の 死 穢に 染ま る者

︑陣 座に 入り て侍 る︒ 是故 に 更 めて 辞見 せず

︒便 ち内 蔵寮 より 社に 赴く

丙戌

︵ 二十 一︶ 諸衛 解 厳 三代 実 録 三年 四月

壬申

︵十 三︶ 諸 衛 警 固 常 の ご と し︒ 明 日賀 茂祭 を以 てな り 癸酉

︵十 四︶ 賀 茂祭 を停 む

× 太 皇太 后崩

│ 三代 実 録 四年 四月

丙申

︵十 三︶ 諸 衛警 陣す

︒明 日賀 茂 祭 を以 てな り

丁酉

︵十 四︶ 賀 茂祭 常の ごと し︒ 鴨 祭諒 闇に 依り 歌舞 を用 いず と云 々︑

︵西

戊戌

︵ 十五

︶ 諸衛 解 厳 三代 実 録 五年 四月

丙申

︵十 九︶ 諸 衛警 固す

︒明 日賀 茂 祭 を以 てな り

丁酉

︵二 十︶ 賀 茂祭

│ 三代 実 録 六年

四月

丙申

︵二 十四

︶ ① 諸衛 警護

︒明 日賀 茂 祭 を以 てな り︒ 祭停 む と 雖も

︑猶 お警 陣有 る の 例な り

② 警固 せず

︵西

辛酉

︵二 十五

︶賀 茂等 の祭 を停 止す

×

人 死穢

※ 同月 八日 の 大膳 職・ 十 日の 大蔵 省 の官 人の 死 に よ り︑ 大 祓を 二十 二 日 に 行 う

︒平 野・ 松 尾祭 も停 止

戊戌

︵ 二十 六︶ 諸衛 解 厳 三代 実 録 西宮 記 七年

四月

庚申

︵二 十四

︶諸 衛警 固す

︒明 日賀 茂 祭 に縁 るな り

辛酉

︵二 十五

︶賀 茂祭 常の ごと し

壬戌

︵ 二十 六︶ 諸衛 解 陣 日本 紀 略 八年

戊申

︵十 八︶

諸 衛警 固︑ 旧儀 のご と し

︒明 日賀 茂祭 を以 て な り

己酉

︵十 七︶ 賀 茂祭 常の ごと し︒ 斎内 親王 神社 に向 かわ ず

庚戌

︵ 二十

︶ 諸衛 解 厳 三代 実 録 仁和 元年

壬申

︵十 八︶ 諸 衛警 固す

︒明 日賀 茂 祭 を以 てな り

癸酉

︵十 九︶ 賀 茂祭 を停 む︒ 人死 の穢 有る に縁 るな り

× 人 死穢

甲戌

︵ 二十

︶ 諸衛 解 厳 三代 実 録 二年

壬申

︵二 十三

︶諸 衛警 固す

︑賀 茂祭 に 縁 るな り

癸酉

︵二 十四

︶賀 茂祭 常の ごと し

甲戌

︵ 二十 五︶ 諸衛 解 厳 三代 実 録 三年

庚申

︵十 七︶ 諸 衛厳 かに 警す

︒明 日 賀 茂祭 に縁 るな り

辛酉

︵十 八︶ 賀 茂祭 常の ごと し

壬戌

︵ 十九

︶ 諸衛 解 陣 三代 実 録

※1

﹃ 西宮 記﹄ に﹁ 弘仁 十年 四月 辛酉

︑賀 茂祭

︑初 為

中祀

云々

︑﹂ とあ る︒

﹁中 祀と 為す

﹂と いう 文言 から

︑﹃ 類聚 国 史﹄ 同 年三 月甲 午条 と同 じく

︑賀 茂 祭を 中 祀と 准じ たこ とを 指 すと も考 えら れる が︑

﹃ 西宮 記﹄ では

﹁四 月辛 酉﹂

︑す なわ ち﹁ 弘仁 式﹂ 所載 の﹁ 中申 酉日

﹂に かな って いる こと

︑後 年の 賀茂 祭実 施日 の日 付と も合 致す るこ とか ら︑ こ こで は 祭の 実施 例と した

― 6 ―

(8)

を 抽出 した

︒天 皇ご との 内訳 は嵯 峨朝 が一 例︑ 淳和 朝が 一例

︑仁 明朝 が 三例

︑文 徳朝 が五 例︑ 清和 朝が 十七 例︑ 陽成 朝が 七例

︑光 孝朝 が四 例 であ る︒ 以下

︑各 例を 実施

・不 実施 に分 け︑ 解説 を加 えて いき たい

︵ 一︶ 実施 の例 再度 賀 茂祭 の 概 要 を述 べ る と︑ 毎年 四 月 の中 申 酉 日 に行 う こ とが

﹃ 儀式

﹄に 定め られ てい る︒ 割注 には

﹁若 有

三 酉

則用

中酉

︑ 有

二 酉

則用

下 酉

︑﹂ と あ り︑ 年 によ っ て は下 酉 を 用い る 場 合 もあ っ た

︒ 酉 日 に 行 わ れ る の は 宮 中・ 路 頭・ 社 頭 の 儀 で︑ 前 日 の 申 日 に は 警 固 が

︑更 にそ の前 には 鴨川 で斎 院御 禊が 行わ れて いた

︒ さて

︑今 回抽 出し た三 十八 例の うち

︑賀 茂祭 が実 施さ れた のは

︑実 施 自体 が不 明の 一例 をの ぞく と︑ 二十 六例 であ った

︒ 1. 弘仁 十年

︵八 一九

﹃ 西 宮 記

﹄に

﹁弘 仁 十 年 四 月 辛 酉︑ 賀 茂 祭︑ 初 為

中 祀

云 々︑

﹂ と あ る

︒﹁ 中 祀 と 為 す

﹂と い う 文 言 か ら

︑﹃ 類 聚 国 史

﹄ 同年 三月 甲午 条と 同じ く︑ 賀茂 祭を 中祀 に准 ぜし めた こと を指 す と も 考 え ら れ る が︑

﹃ 西 宮 記

﹄で は﹁ 四 月 辛 酉

﹂︑ す な わ ち

﹁弘 仁 神 祇式

﹂や

﹃内 裏 式

﹄所 載 の﹁ 中 申 酉 日﹂ に か な っ て い るこ と︑ 後年 の賀 茂祭 実施 日の 日付 とも 合致 する こと から

︑こ こで は祭 の実 施例 とし て扱 った

︒そ う仮 定す ると

︑弘 仁十 年の 賀茂 祭は

︑中 祀と して 初め て実 施さ れた 賀茂 祭だ と考 える こと がで きる

︒後 述す る﹃ 日本 紀略

﹄天 延三 年︵ 九七 五︶ 四月 丙辰

条に は︑ 賀茂 祭施 行の 前例 とし て﹁ 弘仁

・天 長・ 貞観

・天 慶等 例﹂ が挙 げら れて いる ため

︑弘 仁十 年に 賀茂 祭が 行わ れた こと は十 分考 えら れる

︒ なお 弘仁 十年 から 貞観 元年

︵八 五九

︶ま では

︑警 固の 月日 はほ とん ど の場 合不 明で ある

︒警 固お よび 解陣 の月 日が 記さ れる のは 貞観 元年 以 降で

︑こ れは

﹃三 代実 録﹄ の編 纂方 針に よる もの なの だろ う︒ それ 以 前 の記 録 と し ては

︑月 日 は 不明 だ が︑

﹃ 西宮 記

﹄に は 仁 寿 三 年

︵八 五 三︶ が﹁ 不

警 固

﹂︑ 斉 衡 元 年

︵八 五 四

︶が

﹁但 如

常 警 固

﹂︑ 貞 観 十 一年

︵八 六九

︶が

﹁有

警 固

﹂ とい うよ うに

︑実 施の 有無 だけ が明 記 され てい る︒ 2. 天長 八年

︵八 三一

﹃ 西 宮記

﹄四 月 乙 酉︵ 十 八︶ 条 に 鴨︵ 賀 茂︶ 祭 を 行 っ た こ と がみ えて いる が︑ 左右 馬寮 に穢 が発 生し たた め︑

﹁仰

親王 公卿 等

並 四 門 人 馬 用

﹂と あ る

︒す な わ ち

︑親 王 公 卿 ら に 命 じ て︑ 穢れ た 左 右 馬寮 の 人 馬の 代 わ りに

︑﹁ 四 門﹂ の 人 馬 を 用 い たの であ る︒ こ の﹁ 四門

﹂と は︑ 何を 指す のだ ろう か︒ 西本 昌弘 氏は

︑平 安宮 東側 の門 であ る上 東門

︑陽 明門

︑待 賢門 につ いて

︑そ れぞ

!

れ役 割区 分が あっ たこ とを 述べ てい る︒ すな わち

︑上 東門 は女 官や 摂関 が牛 車の まま 乗り 入れ する 門︑ 陽明 門は 公卿

・殿 上人 の通 用口 で︑ 牛車 から 降り て徒 歩で 入る 門︑ 待賢 門は 主に 官人 が出 入り する 通用 口で

︑祭 や儀 式の 際に は公 卿ら も利 用し

︑牛

― 7 ―

(9)

車か ら輦 車に 乗り 換え て入 った 門だ と指 摘し てい る︒ ま た︑

﹁左 右京 職式

﹂︵

﹃ 延喜 式﹄ 巻四 十二

︶に は︑

﹁ 凡諸 門厩 亭︒

︿左 京三 宇︒ 陽明 門︒ 待賢 門︒ 美福 門︒ 並七 間︒ 右京 二宇

︒ 朱雀 門︒ 殷富 門︒ 並七 間︒

﹀令

門衛 火長 等各 守

之︒ 若致

非理 損

︒即 移

民部 省 并 本 府

月粮

﹂と あ り︑ 陽 明 門 か ら 美 福 門︑ 朱雀 門︑ 殷富 門の 各五 門に あっ た厩 亭を

︑火 長と 門衛 が警 備し てい たこ とが わか る︒ なか でも 左京 三宇 の諸 門は

︑公 卿や 官人 が出 入り に用 いた 門な ので

︑そ の門 にあ る厩 亭と は︑ 門外 に停 めら れて いる 牛車 の牛 を管 理す る施 設だ と考 えら れる

﹃ 続 日 本 紀

﹄大 宝 二 年︵ 七

〇 二︶ 七 月 己 巳 条 で は﹁ 有

︒ 断

親王 乗

馬 入

宮門

﹂と あっ て︑ 親王 が乗 馬し て宮 門︵ 宮都 の最 外郭 門︶ に入 るこ とを 禁じ てい るの で︑ 西本 氏の 指摘 もふ まえ ると

︑以 下の こと が推 測さ れる

︒す なわ ち︑ 親王 およ び公 卿は

︑乗 馬お よび 牛車 で平 安宮 に入 るこ とが 禁じ られ てい たた め︑ 陽明 門以 下の 諸門 に牛 車を 停め

︑徒 歩あ るい は輦 車で 参内 した

︒﹃ 西 宮 記﹄ 記載 の

﹁四 門 人 馬﹂ と は︑ 厩 亭 が あ っ た 陽 明 門︑ 待賢 門︑ 美福 門の 三門 を含 む門 外に 停め られ てい た親 王・ 公卿 の牛 車の 牛︑ 牛飼 童ら を指 す可 能性 があ り︑ 彼ら を臨 時の 人馬 に充 てた と考 えら れる

︒ 3. 承和 三年

︵八 三六

﹃ 続 日本 後 紀﹄ 四 月 乙酉

︵十 七

︶条 に︑ 紫 宸 殿 に て 飾 馬 御 覧 儀を 行っ たこ とが みえ る︒ 飾馬 御覧 は宮 中の 儀の 一つ で︑ 天皇 が祭 使 の 飾馬 を 見

︑禄 を 賜う 儀 式 で あ る

︒﹃ 内 裏 式

﹄の

﹁此 時 喚

男 女 使 等

馬︿ 各 有

従 者

﹀︑ 令

殿 庭

︑﹂ を 初 見 と

し︑

﹃儀 式

﹄に は

﹁祭 日 卯 四 刻

︑⁝ 皇 帝 覧

使 等 乗 馬

︑︿ 各 有

従者

︑﹀

﹂ とみ え て い る︒ 本条 は 国 史に お け る飾 馬 御 覧 儀 の 初 見記 事で

︑天 皇が 紫宸 殿に 御し

︑南 庭に 飾馬 を渡 らせ たこ とが 確認 でき る︒ 4. 承和 八年

︵八 四一

﹃ 西 宮記

﹄天 徳 二 年︵ 九 五八

︶四 月 十 六 日 の 勘 文 に

︑先 例 と して 引か れて いる

︒賀 茂祭 を明 日に 控え た十 六日

︑参 議藤 原自 明 が 卒 し た︒ 賀 茂 祭 を 停 止 す る か 否 か 議 論 さ れ た が︑ 諸 卿 は

﹁准

承 和八 年 例

︑ 不

停﹂ と 判 断 を 下 し て い る

︒こ の

﹁承 和八 年 例﹂ は︑

﹃ 続 日本 後 紀﹄ 四 月 丁 巳︵ 十 七︶ に 嵯 峨 天 皇 妃 であ った 高津 内親 王が 薨じ た記 事が あり

︑こ れを 指し てい ると 考え られ る︒ 警固 を実 施し たか どう かは 定か では ない

︒ また

︑﹃ 北山 抄﹄ 酉日 於南 殿覧 被馬 事に は︑

﹁ 承和 の例

﹂と して

︑未 日 に大 祓を した 場合 は︑ 申日 に飾 馬御 覧儀 を行 うこ とが みえ てい る︒ 5. 仁寿 元年

︵八 五一

︶ 四 月辛 酉︵ 十九

︶の 賀茂 祭は

︑斎 院が

﹁斎 限﹂ を満 たし てい なか った ため 参加 せず

︑上 下社 へは 斎院 を除 いた 祭使 が派 遣さ れた

︒﹁ 斎限

﹂と 斎院 の参 加状 況に つい ては 次節 で詳 説す るが

︑ 当時 の斎 院は 文德 皇女 の慧 子で

︑卜 定後 の潔 斎期 間で ある 初斎 院の 最 中 で あっ た

︒﹁ 斎 院司 式

﹂︵

﹃ 延 喜 神 祇 式

﹄巻 六

︶に よ れ ば︑ 初斎 院は 宮城 内の 場所 を選 んで 行わ れ︑ それ が終 わる 三年 目の 四月 に上 下社 へ参 るこ とに なっ てい た︒ 慧子 は当 時初 斎院

― 8 ―

(10)

の期 間中 であ った ため に︑ 祭に 参加 しな かっ たと 考え られ る︒ 6. 仁寿 二年

︵八 五二

﹃ 文徳 実録

﹄四 月辛 酉︵ 二十 五︶ 条に

︑﹁ 修

賀 茂祭

︑如

﹂ とあ るよ うに

︑通 常通 り行 われ た︒ 7. 天安 元年

︵八 五七

﹃ 文 徳 実 録﹄ お よ び﹃ 西 宮 記﹄ 四 月 乙 酉

︵十 八

︶条 に

﹁鴨 祭 如

常﹂ とあ るよ うに

︑通 常通 り行 われ た︒ 8. 貞観 二年

︵八 六〇

︶ 賀 茂 祭は 四 月 丁 酉︵ 十七

︶に 行 わ れた が

︑仁 寿 元 年 と 同 様

︑ 斎院 は不 参加 であ った

︒当 時の 斎院 は文 德皇 女の 儀子 で︑ 卜定 が前 年 の 十月 で あ る こ と︑

﹃三 代 実 録

﹄に

﹁未 入

野 宮

﹂と あ るこ とか ら︑ 初斎 院の 期間 中で あっ たこ とが 確認 でき る︒ ま たこ の年 は︑ 警固 の開 始日 が唯 一﹁ 乙未

﹂で あっ た︒ 解陣 の日 は﹁ 戊戌

﹂で

︑こ ちら は式 の規 定通 りで ある

︒第 二章 で述 べた 通 り︑

﹃ 内裏 式

﹄お よ び﹃ 儀 式﹄ で は︑ 未 日 に 警 固 の 奏 上 と 命 令 が 出 さ れ︑ 申 日 か ら 警 固 を 開 始 す る よ う 定 め ら れ て い た︒ この 年は いか なる 事情 があ った か不 明だ が︑ 例外 的に 未日 に行 われ たよ うで ある

︒ さ ら に︑

﹃ 三 代 実 録﹄ に は 戊 戌︵ 十 八︶ に﹁ 諸 衛 解 厳

﹂と あ るの に 対 し︑

﹃西 宮 記

﹄で は

﹁四 月 十 七 日

︑祭

︑当 日 解

警 固

云々

︑﹂ と あ り︑ 祭の 当 日 に 警固 の 陣 が解 か れ たこ と に な っ て いる

︒ 9. 貞観 三年

︵八 六一

︶ 四 月辛 酉︵ 十七

︶に 賀茂 祭は 行わ れた が︑ 内蔵 寮で 人死 の穢

があ っ た た め︑ 祭使 は 縫 殿寮 よ り 進発 し て 社 に向 か っ た

︒﹃ 儀 式﹄ に﹁ 内蔵 寮 供 饌 行酒

︑訖 使 等 相 引 到

北 辺 路

︑﹂ と あ る よ うに

︑飾 馬御 覧儀 を終 えた 祭使 の一 行は 禄を 給わ った のち

︑内 蔵寮 で饗 宴し

︑社 へ向 かう こと にな って いた ので

︑こ の年 はお そら く饗 宴も 内蔵 寮の 東に ある 縫殿 寮で 行わ れた のだ ろう

︒ 儗〜 儛. 貞観 四〜 七︵ 八六 二〜 五︶

︑九 年︵ 八六 七︶ い ずれ の年 も︑ 警固

・賀 茂祭 とも に︑ 通常 通り 行わ れた

︒ 儜. 貞観 十年

︵八 六八

︶ 四 月乙 酉︵ 二十 一︶ に賀 茂祭 が行 われ たが

︑斎 院︵ 儀子

︶は 穢の ため 参加 しな かっ た︒ こ の 穢 に つ い て 考 え て み る と き

︑﹃ 西 宮 記

﹄の 引 く

﹁御 記

﹂ 延喜 十五 年︵ 九一 四︶ 四月 十八 日条 が参 考に なる

︒当 時︑ 斎院

︵恭 子

︑十 一 代 斎院

︶に 月 事 があ っ た︒ 月 経中 の 参 社 如 何 を 前 例に 求め たが

︑斎 院に は該 当例 が無 かっ たた め︑ 斎宮 の例 にな らっ て参 社を 取り やめ たと いう

︒こ の延 喜十 五年 の例 を念 頭に 置く と︑ 貞観 十年 の穢 は月 事以 外の もの

︑例 えば 病や 触穢 であ った と考 えら れる

︒ 儝. 貞観 十二 年︵ 八七

〇︶

﹃ 三代 実録

﹄四 月丁 酉︵ 十五

︶条 に﹁ 賀茂 祭如

常﹂ とあ るよ うに

︑通 常通 り行 われ た︒ 儞. 貞観 十五 年︵ 八七 三︶

﹃ 三 代 実 録

﹄四 月 辛 亥︵ 十 七

︶条 に﹁ 公 卿 就

太 政 官 曹 司 庁

︒授

文 武百 官 成 選 位記

︒去 十 五 日 可

此 事

︒自 有

常 式

︒而 彼 日 当

賀 茂 祭

︒故 避

︒非

緩 也

﹂と あ り

︑本 来 十

― 9 ―

(11)

五日 に太 政官 より 成選 位記 が下 達さ れる が︑ この 年は 賀茂 祭と 日程 が重 なっ たた め︑ 日を 改め て十 七日 に行 った こと がみ えて いる

︒ 以 上か ら︑ 貞観 十五 年の 賀茂 祭は 四月 十五 日に 行わ れた と考 えら れ る︒ こ のこ と は︑

﹁太 政 官 式

﹂︵

﹃ 延 喜 式

﹄巻 十 一

︶に も

﹁凡 成 選 応

位 者︑ 奏

短 冊

後 預 書

位 記

︑ 式 部 四 月 十 日

︑ 兵部 十 三 日請 印

︑十 五 日 大臣 已 下 就

朝 座

︑⁝ 若 当

賀 茂 祭

︑ 改用

他 日

︑﹂ と 規 定 され て お り︑ 賀茂 祭 の 開催 が 優 先 さ れ て いた こと がわ かる

︒ 償. 貞観 十七 年︵ 八七 五︶

﹃ 三代 実録

﹄四 月癸 酉︵ 二十 一︶ 条に

﹁賀 茂祭 如

﹂と ある よう に︑ 通常 通り 行わ れた

︒ 儠. 元慶 元年

︵八 七七

﹃ 三代 実録

﹄四 月乙 酉︵ 十四

︶条 に﹁ 賀茂 祭如

常﹂ とあ るよ うに

︑通 常通 り行 われ た︒ 儡. 元慶 二年

︵八 七八

︶ 賀 茂祭 は四 月乙 酉︵ 二十

︶に 行わ れた が︑ 死穢 に染 まっ た左 近衛 官人 が陣 座に 入っ たた め︑ 祭使 らは 辞見 せず

︑内 蔵寮 より 社へ 向か った

︒辞 見︑ すな わち 天皇 との 対面 をし なか った とあ るの で︑ 飾馬 御覧 の儀 を行 わな かっ た可 能性 があ る︒ 儢. 元慶 四年

︵八 八〇

﹃ 三代 実録

﹄四 月丁 酉︵ 十四

︶条 に﹁ 賀茂 祭如

常﹂ とあ るよ うに

︑通 常通 り行 われ た︒ 儣. 元慶 五年

︵八 八一

賀 茂祭 は四 月丁 酉︵ 二十

︶に 行わ れた が︑ 斎院

︵敦 子︶ は不 在で あっ た︒

﹃ 三 代実 録

﹄四 月 丁 酉︵ 廿日

︶条 に は︑ 当 年 の 賀 茂 祭 で 詠 ま れた 祝詞 の最 後に あた る部 分が 掲載 され てお り︑ 斎院 不在 の事 情を 知る こと がで きる

︒ 賀 茂祭

︒内 蔵権 頭従 五位 上兼 行讃 岐介 良岑 朝臣 晨直

︑奉

祝 詞

︑ 向

社 宣 旨︒ 其 祝 詞 尾 曰

︒辞 別 申

︒ 前 年

斎 王

︑重 喪

退 出

︒ 今 須

諒 闇

後 占 定

︒其 間

皇 朝 廷

幸 賜

護 賜

申 賜

申︒ 社 頭に 内蔵 権頭 良岑 晨直 が遣 わさ れ︑ 斎院 不在 の旨 が告 げら れた

︒﹁ 前 年

斎 王﹂

︑ つ ま り 元 慶 四 年 当 時 斎 院 で あ っ た 敦 子 は︑ 父 清 和 上 皇 の 崩 御

︵元 慶 四 年 十 二 月︶ に よ り 退 下 し た︒

﹁今 須

諒闇

後占 定

﹂と あり

︑諒 闇が 明 けて か ら次 代の 斎院 を選 ぶと して いる

︒そ のた め︑ 元慶 五年 は新 たに 斎院 が置 かれ なか った

︒次 代斎 院の 穆子 が卜 定さ れる のは

︑翌 年四 月の こと であ った

︒ ま た

︑﹃ 西 宮 記﹄ に﹁ 鴨 祭 依

諒 闇

歌 舞

云 々﹂ と あ り︑ 諒闇 のた め歌 舞を 用い なか った とあ る︒ なお

︑故 実叢 書で は当 該部 分を

﹁天 慶五 年﹂ と翻 刻し てい るが

︑前 田家 大永 本・

!

書陵 部 壬 生 本で は

︑﹁ 元 慶﹂ と書 写 さ れて い る︒ 管 見 の 限 り で は︑ 天慶 期に 諒闇 と賀 茂祭 が重 複し た年 は見 受け られ なか った

― 10 ―

(12)

ため

︑故 実 叢 書の

﹁天 慶 五 年

﹂は

︑﹁ 元 慶 五 年﹂ と す る の が 正 しい であ ろう

︒ 以 上の よう に︑ 上皇 の諒 闇中 でも 賀茂 祭は 行わ れる が︑ 歌舞 は用 いら れな かっ た︒ さら に︑ 斎院 が崩 御し た天 皇・ 上皇 の実 子で あっ た場 合は

︑当 然服 喪に より 退下 する ため

︑斎 院も 不在 であ った

︒ 儤. 元慶 七年

︵八 八三

﹃ 三代 実録

﹄四 月辛 酉︵ 二十 五︶ 条に

﹁賀 茂祭 如

﹂と ある よう に︑ 通常 通り 行わ れた

︒ 儥. 元慶 八年

︵八 八四

︶ 賀 茂 祭は 四 月 己 酉︵ 十七

︶に 行 わ れ た が︑

﹁斎 内 親 王 不

神社

﹂ とあ り︑ 斎院 は何 らか の理 由で 祭使 に加 わら なか った

︒ 儦〜 儧 仁和 二︑ 三年

︵八 八六

〜七

︶ い ずれ の年 も︑ 警固

・賀 茂祭 とも に︑ 通常 通り 行わ れた

︒ 以上

︑警 固・ 賀茂 祭が 実施 され た二 十六 例に つい て︑ 解説 を加 えて き た︒ まず 警固 およ び解 陣か らみ てい くと

︑未 日で あっ た貞 観二 年を 除い た 全 ての 例 で︑

﹃ 内 裏式

﹄お よ び﹃ 儀 式﹄ に則 り

︑申 日 に 警 固 が 行 わ れ てい た︒ 警固 期間 は申

〜戌 日の 三日 間で ある が︑ 申日 に警 固が 始ま り

︑少 なく とも 酉日 中は 警固 した のち に︑ 翌戌 日の 早旦 に陣 が解 かれ た とす ると

︑警 固期 間は 実質 二日 程度 であ った と考 えら れる

︒ 続い て賀 茂祭 につ いて は︑ 実施 を示 す﹁ 賀茂 祭如

﹂や

﹁修

賀茂 祭

﹂ の 文言 は

︑全 て 酉 日の 記 事 にみ ら れ︑ 例 外な く 酉 日 に行 わ れ て

い たこ とが 確認 でき た︒ さら に︑ 年に よっ ては 単な る実 施の 明記 に留 ま らず

︑そ の年 の賀 茂祭 につ いて 付記 され てい る場 合が あっ た︒ 天長 八 年や 承和 三年 は︑ 酉日 の祭 儀で ある 飾馬 御覧 の様 子を

︑仁 寿元 年や 貞 観二 年は

︑斎 院が 参向 しな かっ た旨 を︑ それ ぞれ 記し てい る︒ また

︑天 長八 年・ 貞観 三年

・元 慶二 年は

︑穢 が発 生し たが

︑賀 茂祭 を 実 施し た 例 で ある

︒﹁ 臨 時 祭式

﹂︵

﹃ 延 喜 神 祇 式

﹄巻 三

︶に は

﹁凡 宮 城 内 一 司 有

︑不

廃 祭 事

︑﹂ と あ り︑ 宮 城 内 で 穢 が あ っ て

!

︑可 能な 限り 遂行 する こと が定 めら れて いた

︒今 回の 例で は︑ 天長 八 年︑ 貞観 三年

︑元 慶二 年の 三例 が該 当す る︒ 天長 八年 は穢 れた

﹁左 右 馬寮

﹂の 代わ りに

﹁四 門﹂ の馬 を用 い︑ 貞観 三年 は所 属官 人の 死穢 の あ る﹁ 内蔵 寮

﹂を 避 け︑

﹁ 縫殿 寮

﹂か ら 賀茂 社 へ 出 発 し た

︒元 慶 二 年 は︑ 死穢 に染 まっ た左 近衛 府の 官人 が陣 座に 入っ たた め︑ 辞見 せず に 賀茂 社へ 向か って いる

︒い ずれ も穢 が発 生し た際 に︑ 穢れ てい ない 所 司や 物で 代用 する など の対 応を とり

︑祭 を遂 行し てい る︒

﹃日 本 紀 略﹄ 天 延三 年

︵九 七 五︶ 四 月 丙 辰 条 に は

﹁弘 仁

・天 長

・貞 観

・天 慶等 例﹂ とい う文 言が みえ る︒ 十 四 日︑ 丙辰

︑内 裏 有

微穢

︑賀 茂 祭 可

行 否︑ 令

神 祇 官・ 陰 陽寮 等占

卜 之

︑ 殊申

咎之 由

︑仍 以

穢 所司

可令

仕 祭事

之 由︑ 被

仰 了︑ 祈年

・当 麻・ 杜本

・当 宗・ 平野

・松 尾・ 大 神等 祭︑ 依

恒例

供奉

︑至

于 賀茂 祭

︑ 供奉 諸司 多数

︑非

穢 疑

︑依

弘仁

・天 長・ 貞観

・天 慶等 例

︑所 司被

下了

︑ 天延 三年 四月 十四 日︑ 内裏 で微 かな 穢れ が発 生し た︒ 賀茂 祭を 行う

― 11 ―

(13)

べ きか を神 祇官

・陰 陽寮 に占 わせ たと ころ

︑﹁ 咎無 し﹂ の結 果が 出て

︑ 穢 れて いな い所 司に 祭事 を奉 仕さ せる こと が決 まっ た︒ 賀茂 祭は 供奉 す る 所司 が 多 い ため

︑穢 の 疑 いが 無 い とは 言 え な いが

︑﹁ 弘 仁

・天 長

・ 貞観

・天 慶等 例﹂ によ って

︑命 令を 下し たと いう

︒こ の﹁ 弘仁

・天 長

・貞 観・ 天慶 等例

﹂は

︑ま さに 今回 取り 上げ た事 例を 指し てい ると

考 えら れる

︵ 二︶ 不実 施の 例 続い て︑ 不実 施の 例に つい て解 説を 加え てい きた い︒ 今回 抽出 した 三十 八例 のう ち︑ 賀茂 祭が 停止 とな った のは

︑実 施自 体 が不 明の 貞観 十一 年の 例を 除く と︑ 十一 例で あっ た︒ その 原因 は穢 が 八例

︵承 和六 年︑ 仁寿 三年

︑斉 衡元 年︑ 貞観 元年

︑同 十三 年︑ 同十 六 年︑ 元慶 六年

︑仁 和元 年︶

︑火 災が 一例

︵貞 観十 八年

︶︑ 太 皇太 后崩 御 が一 例︵ 元慶 三年

︶︑ 不明 が一 例︵ 貞観 八年

︶で あっ た︒ まず は︑ 穢に よる 停止 の例 から みて いき たい

︒ 1. 承和 六年

︵八 三九

︶ 当 年 の賀 茂 祭 は︑

﹃ 西宮 記

﹄四 月 癸 酉︵ 二 十 二︶ 日 条 に 詳 し い︒ 依

鴨 祭

廃 務︒ 勅 使 並 女 使 等︑ 騎 馬 度

紫 宸 殿 前

︑ 了

天 覧

︒参

東宮

御覧

︑ 到

内 蔵寮

云 々︑ 将進 発之 間︑ 自

内 裏

来︑ 仰云

︑有

血下 穢

︑仍 悉停

止勅 使並 斎王

︒ 山城 国司

︑ 依

例祭 祀︒

﹁ 依

鴨 祭

廃 務﹂ とあ る よ うに

︑賀 茂 祭 の日 は 政 務 を 行 わ な いこ とが わか る︒ また 承和 三年 に続 き︑ こち らに も飾 馬御 覧の こ と が み え て お り︑ そ れ は 紫 宸 殿 で 行 わ れ た こ と が 確 認 で き る︒ 天 皇︵ 仁明

︶が 被馬 を観 覧し たの ち︑ 東宮

︵惟 貞︶ 御所 でも 同様 の儀 式が あっ た︒ しか しそ の後

︑勅 使ら が内 蔵寮 に到 った とこ ろ︑ 内裏 より 使が 来て

﹁血 下穢

﹂が 告げ られ たた め︑ 勅使 並び に斎 院は こと ごと く派 遣停 止と なっ た︒

﹁山 城国 司︑ 依

例 祭祀

﹂と あ る の で︑ 国司 が 祭 儀を 代 行 した と も 考 えら れ る が

︑ この 記述 につ いて は後 述し たい

︒ 承 和六 年の 賀茂 祭の 評価 は︑ 何を 祭の 中核 とな る儀 式と 位置 づけ るか によ って 変わ って くる が︑ 勅使 派遣 の停 止は

︑路 頭・ 社頭 の儀 が行 われ ない こと

︑つ まり 幣帛 と宣 命を 神前 に奉 る儀 式が 無い こと を意 味す ると 考え られ るた め︑ 賀茂 祭自 体の

﹁中 止﹂ とと らえ たい

︒な お今 回抽 出し た中 で賀 茂祭 が途 中で 中止 にな った のは

︑こ の承 和六 年の 例が 唯一 であ った

︒ 2. 仁寿 三年

︵八 五三

﹃ 文徳 実録

﹄四 月乙 酉︵ 二十 五︶ 条に

﹁以

疱瘡 流行

︑人 民疫 死

︑故 停

賀茂 祭

﹂と あ るよ う に︑ こ の 年 の 賀 茂 祭 は

︑疱 瘡 の流 行 に 伴 う人 民 の 多死 に よ って 停 止 と なっ た

︒﹃ 西 宮 記

﹄に もほ ぼ同 様の 記述 があ る︒ 同 年二 月に は﹁ 是月

︒京 師及 畿外 多患

疱 瘡

︒ 死者 甚衆

︒天 平 九 年 及 弘 仁 五 年 有

此 瘡 患

︒ 今 年 復 不

此 疫

﹂ と あ り

︑ 天平 九年 と弘 仁五 年に も疱 瘡が 流行 した こと を載 せ︑ 本年 もそ

― 12 ―

(14)

れを 免れ るこ とが でき なか った と書 く︒ 朝廷 は侍 従従 五位 上嶋 江王 と神 祇大 祐従 七位 上忌 部高 善の 二名 を賀 茂社 に派 遣し

︑事 の由 を報 告し て謝 罪し てい る︒ ま た﹃ 西宮 記﹄ には

﹁不 警固

﹂と あり

︑警 固も 行わ れな かっ たよ う で ある

︒警 固 は

﹃内 裏 式

﹄に

﹁雖

朝 使

其 儀 亦 同﹂

﹃儀 式﹄ にも

﹁雖

祭使

猶用

此 儀

﹂ とあ るよ うに

︑祭 が無 くと も 原 則と し て 行 われ る も のだ っ た

︒﹃ 北 山 抄

﹄や

﹃江 家 次 第﹄ にも 同 義 の文 言 が 引 き継 が れ

︑﹃ 北 山 抄﹄ に は 更 に

﹁祭 停 止 時 猶 有

警 固

︑依

是 有

国 祭

︑﹂ と あ り︑ 祭 が 停 止 の 時 も︑ 警 固 は 国 祭│

│申 日 に 行 わ れ た 元 賀 茂 祭 の た め に 行 わ れ

る︑ とさ れて いる

︒こ の年 は疱 瘡の 被害 が甚 大だ った ため

︑警 固も 行わ れな かっ たの だろ う︒ なお 今回 抽出 した 警固 の例 のう ち︑

﹁不 警 固﹂ と ある の は 本 条と

︑元 慶 六 年 の み で あ っ た

︒警 固は

︑上 記の よう に多 くの 儀式 書に 賀茂 祭が 停止 であ って も行 うよ う明 記さ れて いる こと から も︑ 本来 は実 施す るこ とが 強く 意識 され てい たも のと 考え られ る︒ 3. 斉衡 元年

︵八 五四

﹃ 文 徳 実 録﹄ 四 月 癸 酉︵ 十 九︶ 条 に は﹁ 以

穢 事

︑停

賀 茂 祭

﹂と 簡 潔 に 記 さ れ て い る が︑

﹃西 宮 記﹄ に は

﹁賀 茂 下 社 有

穢︑ 仍不

勅使 並斎 王

﹂ とあ り︑ 賀茂 下社 に死 穢が あっ たた め︑ 勅使 と斎 院の 派遣 が停 止さ れた とあ る︒ なお 警固 は通 常通 り行 われ た︒ 4. 貞観 元年

︵八 五九

﹃ 西 宮記

﹄四 月 乙 酉︵ 二 十四

︶条 に 内 穢︑ す な わ ち 内 裏 の 穢

によ って 停止 とあ り︑

﹁又 斎王 未定

︑仍 無

供 奉

云々

︑﹂ と ある こと から

︑天 安二 年八 月に 述子 が退 下し てか ら︑ 新た に斎 院が 選ば れて いな かっ たこ とが わか る︒ 述 子は

︑前 代の 慧子 が﹁ 母過 失﹂ によ って 天安 元年 二月 二十

八日 に退 下し たそ の日 に︑ 第五 代の 斎院 とし て就 任し た︒ しか し述 子は 父帝 文徳 の崩 御に より

︑一 年足 らず で斎 院の 座を 退い てい た

︒そ の 後 清和 朝 の 斎院 と な った の は 文 德皇 女 の 儀子 で

︑ 卜定 は貞 観元 年十 月の こと であ った

︒ 5. 貞観 十三 年︵ 八七 一︶ 四 月丁 酉︵ 二十 一︶ の賀 茂祭 は︑ 死穢 によ り停 止と なっ た︒ 6. 貞観 十六 年︵ 八七 四︶

﹃ 三 代実 録

﹄四 月 己 酉︵ 二十 一

︶条 に 淳和 院 の 火 穢 に 染 ま る 人が 斎 院 に 入っ た た め︑ 停止 と な った と あ る

︒﹃ 三 代 実 録

﹄四 月丁 未︵ 十九

︶条 によ れば

︑十 九日 深夜 に淳 和院 で火 災が 発生 し︑ 未 明 に は 収 ま っ た こ と が み え て い る︒

﹁ 火 穢 に 染 ま る 人

﹂ が斎 院に 入っ たと ある ので

︑火 災の 現場 に居 た人 物な いし はそ れに 関わ った 人物 が︑ 斎院 に立 ち入 った のだ ろう

︒ こ こ でい う

﹁斎 院

﹂が 斎 院の 居 所 であ る 紫 野院 を 指 す の か

﹃西 宮記

﹄で 斎院 とも 称さ れる 中和 院を 指す のか

︑判 別し 難い

︒ 仮に 紫野 院に 火穢 に染 まる 人が 入っ たと する と︑ 斎院 およ びそ こに 出仕 する 官人

・女 官が 穢れ るた め︑ 斎院 の参 向が 取り やめ にな った 可能 性は ある

︒だ が︑ 後述 する よう に︑ 斎院 が不 在で あっ ても

︑勅 使が 派遣 され てい れば

︑賀 茂祭 の施 行自 体に 問題 はな かっ たと 考え られ るた め︑ 祭事 の停 止に まで 至る かど うか

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