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スペイン植民地下のフィリピン

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である。スペインによるフィリピン征服は、地理的にも時代的にもイベリア半島の国土回復運 動レコンキスタの流れの最終章と考えることもできる。またそれは、軍事力による支配であっ たと同時に、困難な航海に耐えて太平洋西端に位置する島々にたどり着いた修道士を中心とし た聖職者による宣教の歴史でもあった。そして、先住民はイスパニア化される一方で、キリス ト教徒として回心、教育されるべき存在でもあった。このように、スペインのフィリピン植民 地支配は、新大陸のスペイン植民地ヌエバ・エスパーニャの支配と同じく、教会と政治がそれ ぞれの領域の独立性を保ちながらも時に相互依存する、いわば神政政治的様相をも示していた。 フィリピンとヌエバ・エスパーニャの間では、似たような統治が行われていた側面もあるが、 大きく異なっていた部分も存在した。行政上フィリピンは、自治権を持ちながらもヌエバ・エ スパーニャ総督の管轄地域の一部と考えられていたが、メキシコを中心とした法制定や決定に は、フィリピンは強い抵抗を示している。社会や制度のスペイン化に関しては、スペインの影 響を直接的に受けたメキシコに対して、フィリピンへの影響はより柔軟で間接的であったと言 えよう1) フィリピンの植民地統治においてスペインには3 つの目的があった。まずは当時既にポルト ガルが独占体制を確立しつつあった香辛料交易に関与し、いくらかでもその市場シェアを奪う ことであった。第2 に、中国と日本へのキリスト教宣教に向けて、両国への接触のためにフィ リピンをその前進基地として確保する目的があった。換言すれば、キリスト教修道会(特にア ウグスティヌス修道会、フランシスコ会、ドミニコ会の3 つの托鉢修道会)にとっては、最終 的な宣教の目的地は中国や日本であり、フィリピンはそのための橋頭保、あるいはせいぜい出 発点に過ぎなかった2)。これら修道会は、アジアでは中国には大きな威光があり、中国をカト リックに改宗させることで、カトリシズムもこれまで考えられなかったレベルの栄光を受ける こととなると主張した。フィリピンの修道会がマドリードの政府に対して、植民地財政が逼迫 状態にあってもフィリピンを放棄しないように求めた大きな理由の 1 つがここにある3)。しか し、両国への宣教は歴史が示すように困難を極め、日本にいたっては鎖国という究極の判断が 下される。中国も明清時代の海禁によって、領民の海上利用や交易が禁止されていた。中国や 日本での宣教活動が難しい中で、フィリピン諸島の先住民のキリスト教への回心を推し進める ことは、重要な第3 の目的となった。一方、香辛料交易については、その後 17 世紀に入ると、

1) Vincente L. Rafael, Contracting Colonialism: Translation and Christian Conversion in Tagalog Society

under Early Spanish Rule (Ithaca, 1988), p.5.

2) Birgit Emich, ‘Localizing Catholic missions in Asia: Framework conditions, scope for action, and social spaces’ in Nadine Amsler, Andreea Badea et al, eds. Catholic Missionaries in Early Modern Asia

(London & New York, 2020), p. 220.

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を譲渡した後は、南はバタヴィア及び香料諸島、北は台湾から挟み撃ちの脅威に晒されること となる。一方、もう1 つスペインにとって幸運であったのは、16 世紀半ばにはスペインによる ヌエバ・エスパーニャの征服がほぼ完了し、西太平洋への進出を企てるのに本拠となる地が確 保され、さらにヌエバ・エスパーニャでの様々な経験がフィリピン諸島での統治に生かされた ことである4) スペイン王フェリペ2 世は、フィリピンの植民地化に関しては、ヌエバ・エスパーニャで経 験した流血を伴う征服は回避しようと希望していた。そのため、フィリピン先住民の敵愾心を 煽るような侵略的行動は慎むように、初代フィリピン総督となったレガスピや軍の司令官に命 じている。このような平和的植民政策推進の背景には、ドミニコ会士であったバスク出身のフ ランシスコ・デ・ビトリア(Francisco de Vitoria)とバルトロメ・デ・ラス・カサス(Bartolomé de las Casas)の影響がある。前者は、トマス・アクィナスの教説を取り入れ、それをさらに進 化させてサラマンカ学派の中のドミニコ会学派を形成した。マヤ文明の遺跡でも知られるメキ シコ南東部のチアパス司教区の司教を務めた後者も同じような立場に立ち、ヌエバ・エスパー ニャ征服時におけるスペイン征服者の不正やインディオに対する残虐行為を告発して、これま でのスペインの植民地統治に対して一種の修正主義を提唱する。この問題に関してサラマンカ では、植民地の先住民も人として、そして同じく神の創造物として扱われるべきであるとの 結論に達しているが、スペインのフィリピン植民政策の思想的背景としてこの結論は重要で ある5)。さらにラス・カサスは、不正の温床とも言えるエンコミエンダ制にも厳しい目を向け、 その廃止を提唱している。このような考えは、キリスト教との接触において先住民が政治、経 済、社会における権利を失うことのないよう配慮する精神を生み出すこととなった。フィリピ ンは、このような宥和政策の実験地となるが、そのためにはウルダネータの甥アンドレス・デ・ ミランダオーラ(Andrés de Mirandaola)のような力によるフィリピン支配を唱える人物への 対応が必要であった。ミランダオーラは国王フェリペ2 世への 1569 年 6 月 8 日付の手紙の中 で、ポルトガルのフィリピン海域周辺での活動に対する警戒を喚起すると同時に、フィリピン 先住民については、彼らの未開・野蛮性と戦闘における残忍さを指摘し、毅然とした態度で臨 む必要性を訴えている。この書簡の終わりで、ミランダオーラは国王に対して給与を3000 ドゥ カートに引き上げることを要請している。その理由として彼が挙げているのが、フィリピンの

4) John Leddy Phelan, The Hispanization of the Philippines: Spanish Aims and Filipino Responses,

1565-1700 (Madison, Milwaukee and London, 1967), pp. 6-8.

5) John Newsome Crossley, Hernando de los Ríos Coronel and the Spanish Philippines in the Golden

Age (Farnham, Surrey, 2011), pp. 10-11; ラス・カサスについては、松森奈津子「ラス・カサスにみるイン

ディアス戦争批判」『青山国際政経論集』59(2003 年)及び同著者の「ラス・カサス思想の形成」『えみゅー

る』(青山学院大学)2(1997 年)13-30 頁や『野蛮から秩序へ ―インディアス問題とサラマンカ学派』名

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貧しさであり、生活必需品の多くをスペインや他のスペイン領からの供給に依存している現状 である6)。ミランダオーラの言うフィリピンの経済的貧困と植民地支配の意義については後述 する。 ヌエバ・エスパーニャにおける過酷な植民地政策と比べ、フィリピンでは先住民に対して穏 健な対応に終始したスペインであったが、それでも当初は先住民から疑惑の目で見られ、一部 で武器を持っての抵抗に遭遇している。海岸沿いの地域の征服は比較的容易に実現したが、山 岳地帯は手付かずの地域が多かった。オランダが台湾植民地化の過程で、山岳地帯に住む先住 民の征服に手を焼いた事例と類似する。フィリピンでは、今日でも市町の最小の地方行政単位 であるバランガイ(barangay)が存在するが、16 世紀においてこれらの地方組織間の往来や 連携は見られず、それぞれ30 から 100 家族から成るバランガイは、周りのバランガイから独 立した存在であった。即ち、スペイン人入植時のフィリピンには中央集権的な組織は存在せず、 組織的な武力蜂起が起こる可能性は低かった。確かに一部のバランガイの間での協力体制は あったようであり、そのような連携関係の上にダトゥ(Datu)と呼ばれる首領が存在した可能 性はある。後にスペインの年代史家がレジェスエロス(reyezuelos、酋長)と呼んだその地域 の指導者がダトゥに相当するのであるが、このような指導者が支配する範囲は限られたもので あった。ナショナリズムに傾倒した一部のフィリピン人歴史家は、スペイン統治以前のフィリ ピンに広域を治める国王のような指導者が存在したとするが、実際はこのような指導者が治め た地域は狭く、スペイン人の入植に対して有効に抵抗できる規模ではなかった。このようにフィ リピン社会が分断化されていた事実は、スペインの植民地支配にとっては好都合であり、スペ インによる征服は比較的無血で実現したと言えよう。エルナン・コルテスやフランシスコ・ピ サロのように圧倒的な武力を背景に先住民を征服していったヌエバ・エスパーニャの状況とは 比較できないが、レガスピのフィリピン植民地化も、確実に成果を上げていったと言えよう7) フィリピン植民者にとって 1570 年代の最大の試練は、軍事的と言うよりは経済的問題であっ た。この時期フィリピンは米の不作に見舞われ、米の生産に従事しないスペイン人と中国人の 移住者の増加は食料不足を助長した。食料危機のこの時期、聖職者と入植者(エンコメンデー ロ、encomenderos)との間で先住民の労働力搾取をめぐって対立があった。1579 年から 84 年 まで初代マニラ司教の座にあったドミンゴ・デ・サラサール(Domingo de Salazar)は、先述 のラス・カサスやドミニコ会がメキシコで行ったように、フィリピンでも先住民に対するスペ イン人の権利侵害を糾弾し、先住民の奴隷化に強く反対したのである8)。ヌエバ・エスパーニャ

6) Emma Helen Blair & James Alexander Robertson, The Philippine Islands, 1493-1803, vo. 3, p. 33.

7) レガスピのフィリピン到着後数年間の活躍については、Francisco Javier Salas y De Rodriguez,

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でのようにフィリピンにおいても、エンコミエンダ制度に基づき入植者には現地住民が割り振 られていた(厳密には、国王からの下賜によって先住民が委託された)。即ち、入植者は自身が 管轄する地区の先住民(encomendados)に貢租賦役を課する権限を得る一方で、先住民の保護 とキリスト教の布教が義務付けられたのである。エンコメンデーロは信託を受けた土地の所有 権は認められなかったが、彼らの多くがこの信託を乱用し、先住民から違法な強制取り立てを 行っていた。フィリピンにおいても、このような不正に対して声を上げ続けたのがサラサール をはじめとする聖職者であった。 1580 年代になると、米の生産が需要を満たすようになり、さらにガレオン船を使っての中国 の生糸、絹織物、陶磁器とメキシコの銀の交易が軌道に乗り始め、フィリピン経済に若干の余 裕が生まれる。マニラからヌエバ・エスパーニャを経由してのセビリアへの長距離航海にもか かわらず、中国絹はスペインの絹よりも安価で、16 世紀末にはグラナダの絹と競争することが できた9)。マニラとアカプルコ間のガレオン船交易は、フィリピンのスペイン植民地にとって生 命線であった。交易から上がる利益を求めて、殆どの入植者はマニラ周辺に居住し、聖職者や 一部の官僚以外で地方に居を構える者は少なかった。16 世紀及び 17 世紀に中国人交易商を住 まわせるために作られたパリアン(Parian)と呼ばれる中国人街には、絹の交易商の他に様々 な商品を扱う商人達が集まるようになり、マニラの商業活動の中心を占めるようになる。そし て中国人達は、マニラの小売業を独占することとなる。ガレオン船交易には中国人交易商の存 在が必須であり、中国人とスペイン人はお互いを必要としていた。マニラは、アカプルコと中 国の福建を結ぶ中継貿易港との見方もでき、福建とマニラ間の中国帆船貿易は、マニラ・ガレ オン貿易体制を支える重要な役割を担っていた10)。パリアンには多数の店舗や住居が設けられ、 中国人から徴収された賃料収入は、マニラの歳入のかなりの部分を占めた。ガレオン船貿易の みならずマニラの財政にとっても、中国人の存在は大きな位置を占めていた11) それにもかかわらず、マニラの中国人社会とスペインは、ある時は敵対し、17 世紀になると 何度か反中国人暴動が起きて多くの中国人犠牲者を出している。台湾を一時植民地支配したオ ランダと中国人の関係は、互いを必要としていた点はフィリピンの事例と同じであるが、オラ

Filipinas’, Cuaderno Internacional de Estudios Humanísticos y de Literatura (CIEHL), 19 (2013), 43-50; 平山篤子『スペイン帝国と中華帝国の邂逅』法政大学出版局、2012 年、217-220 頁。

9) Juan Gil ‘Europeans and Asians in Contact: An Approach’ in Shinzo Kawamura & Cyril Veliath, eds.,

Beyond Borders: A Global Perspective of Jesuit Mission History (Tokyo, 2009), p. 26.

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ンダ人は一部の中国人海賊や密輸商人以外とは比較的良好な関係を築いていた。オランダに勝 利して台湾を支配した鄭成功の時代に起きたマニラでの中国人虐殺事件は有名であり、鄭成功 がこの事件を理由にマニラに攻め入る可能性もあった12)。度々起こったスペイン植民地支配層 と華人との軋轢は、人口の多い華人がいつか反乱を起こすのではないかとの懸念をスペイン支 配層が持ち続けていたことに起因する。台湾から比較的距離の近い本拠地バタヴィアの軍事力 を頼ることのできたオランダに比べ、太平洋を渡ったヌエバ・エスパーニャからの即座の加勢 に期待を寄せることのできなかったマニラのスペイン人が、華人に対し疑心暗鬼に陥るのも もっともなことであった。一方、中国人交易商達は、自分達の繁栄がヌエバ・エスパーニャか らの銀に依存していること、マニラのスペイン総督府のみがその銀の確保に力を持っているこ とを理解していた。植民地支配の中心を、食料確保が難しいビサヤ諸島からマニラに移した背 景には、より人口の多いルソン島にあって良港を抱えるマニラは、米の収穫量が最も多い中部 ルソンに隣接しているという要因があったが、元々福建から住み着いていた中国人との交易に 適した地の利も重要であった。摩擦を繰り返しながらも、中国との交易がスペインのフィリピ ン植民地支配にとって最も大切な収益源であり、植民地の存立もその成否にかかっていた13) 中国側から見ると、フィリピン(特にマニラ)の重要性は、貿易額から判断すると、17 世紀前 半が大きく、18 世紀に入ると東南アジア諸国や欧米船の貿易の比重が急速に高まっている。ス ペイン植民地政府と華人の間の軋轢が、何らかの形で貿易額の減少に繋がっている可能性は大 きい14) 1580 年代半ばから約 20 年間は、経済的にも比較的安定した時期が訪れる。しかし、フアン・ デ・シルバ(Juan de Silva)がフィリピン総督に就任する 1609 年頃になると、オランダとの 戦争の影響で経済にも陰りが見え始める。1602 年に連合東インド会社を設立したオランダは、 ポルトガルに代わってマカオを除く東アジア地域で影響力を拡大し、香辛料交易をポルトガル から奪取している。オランダとスペインは1609 年に 12 年停戦協定を締結しているが、東アジ アの香辛料交易をめぐる抗争は協定の影響外にあったと言えよう。オランダは台湾からスペイ ンを追い出し、日本との交易においてもスペインの駆逐に成功しているが、良港マニラの攻略 を度々試みるもことごとく失敗に終わっている。1646 年のマニラ海戦、翌年勃発したスペイン 12) これは 1662 年のマニラにおける第 3 次華人暴動時の虐殺事件であるが、鄭成功自身が華人と通じてこ の暴動に関わったとの見方もある。スペイン統治の前半にマニラで起きた5 回の華人暴動のうち、1603 年 の第1 次華人暴動、1639 年から 40 年にかけての第 2 次華人暴動については、平山篤子『スペイン帝国と 中華帝国の邂逅』325-411 頁を参照。

13) このような両者の関係を中国側資料をも用いて分析した論考としては、Berthold Laufer, ‘The relations

of the Chinese to the Philippine Islands’ in Dennis O. Flynn et al., eds., European Entry into the Pacific

(Aldershot, 2001), Chapter 2 を参照されたい。

14) 羽田正『東インド会社とアジアの海』講談社、2007 年、340 頁(岸本美緒『清代中国の物価と経済変動』

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のマニラ・ガレオン船の拠点港であるカビーテ港での海戦等、1648 年に 30 年戦争の講和条約 であるミュンスター条約によってオランダの独立が承認され終戦が合意されるまで、オランダ はマニラ湾に出没して湾岸各地を荒らし回っている。しかし、ポルトガルに対する戦績と比べ ると、スペイン植民地フィリピンに対するオランダの戦いは、決して成功したとは言えない。 確かにオランダの攻撃の主たる目的は、マニラ攻撃そのものではなく、マニラ・アカプルコ間 のガレオン船からの物資の収奪やスペインと中国との交易を妨害することにあったとの説もあ るが、オランダがスペイン勢力の駆逐のためにマニラ湾の攻略を欲していたことは十分に考え られる。17 世紀前半にオランダは、マニラ湾の他に、ルソン島とサマール島の間にありガレオ ン船の太平洋への出入口であるサン・ベルナルディーノ海峡を封鎖し、スペインに圧力をかけ る。それまで、大西洋やカリブ海と比べ海賊行為が少なかった太平洋ではガレオン船の防御態 勢は貧弱であったが、オランダやその後の英国によるスペイン・ガレオン船への度重なる攻撃 に直面し、スペインもガレオン船に積載する兵器を増強している。結局、オランダはスペイン の香料諸島への侵入を排除することはできたが、度重なる干渉にもかかわらずフィリピンのス ペイン植民地支配を阻止することはできなかった15) 一方、オランダとの戦争は、フィリピンの地元民に多大な負担を負わせることになったが、 ミュンスターの和平以後、負担はかなり軽減されたと思われる。ヌエバ・エスパーニャと比べ 鉱山や産業に乏しいフィリピンでは、植民地政府の財政は火の車であった。マニラの一部の商 人階級は交易によって潤ったが、政府財政の不足分は、メキシコの銀によって埋め合わせが行 われ、結果的にその銀塊の殆どは華人の商人の金庫に収まることとなる。メキシコの銀は、ア カプルコで積荷にかけられた関税の徴収から生み出され、それがマニラに「年間の銀の支払い」 (situado real と呼ばれる)として送金された16)。それは、フィリピン植民地政府であるマニ ラ政庁に対する補助金(subsidio)であったとも考えられるが、アカプルコで徴収されたアル モハリファスゴ(almojarifazgo)と称される輸出入関税をマニラ政庁に払い戻しただけである とも理解できる。本来ならば、そのような関税はマニラ政庁によって徴収されてもよかったか

15) Shirley Fish, The Manila-Acapulco Galleons: The Treasure Ships of the Pacific (Central Milton Keynes, 2012), pp. 187-191; Leonard Blussé, ‘No Boats to China. The Dutch East India Company and the Changing Pattern of the China Sea Trade, 1635-1690’, Modern Asian Studies vol. 30, issue 1 (1996), pp. 61-12. 16) 名目上フィリピンにも現地で徴収される situado があったが、ここではメキシコの situado を指す。後 者はメキシコの王室財務当局によって徴収され、フィリピンへの財政補償となった。アカプルコが国王か ら付与された輸出入関税権たるアルモハリファスゴからの財源が充てられたと見ることもできる。オラン ダとの軋轢が始まる以前の1564 年から 1604 年までは、フィリピンは財政自治(autonomía fiscal)の時 期と言え、その後オランダとの抗争が激しくなりメキシコからの財政支援が必要とされた 1782 年までの

時期は、「メキシコの支援」(apoyo mexicano)と称される。詳細は、Luis Alonso Álvarez, El costo del imperio

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らである。しかし、香料諸島に対するスペインの関心とオランダとの戦争によりマニラ政庁の 出費が膨れ上がると、もはや当初のsituado では間に合わず、部分的には補助金の様相を呈す ることとなる17)。このようにスペインにとって経済的には利益の上がらないフィリピン植民地 支配であったが、フィリピンの放棄に至らなかったのは、フィリピン宣教の必要性を執拗に国 王に訴え続けたカトリック教会の功績でもある18) 2.スペイン統治下のカトリック教会 スペインのフィリピン統治は、スペインの聖俗の協力によって実現したことは、1698 年にガ スパール・デ・サン・アグスティンが描いた「フィリピン諸島の征服」(Conquistas de las Islas Philipinas)で表現された構図に象徴される19)。絵の左側に聖アウグスティヌスを先頭にウル ダネータや有名な宣教師マルティン・デ・ラーダ(Martín de Rada)等の聖職者達が並び、右 側にはフェリペ2 世と従者達が陣取って、真ん中にフィリピン諸島が描かれている。フィリピ ンにおけるスペイン植民地主義の本質は、政教が一致した神政政治にあったことを示唆してい る。そうした中で、スペイン人入植時にフィリピン文化とスペイン文化の接点となったのは、 教区付きの司祭(clero secular)ではなく、フィリピンで活動する修道会に属する修道士(clero regular)であった。教皇庁はスペイン国王に東インド諸島(東南アジアの島嶼地域)の統治を 委託し、国王は修道会に現地住民に対する宣教を任せることになった。環境の厳しい宣教地に おいては、教区司祭よりは修道士の方が、適応力、訓練、禁欲等多くの点で優っていたことは 言うまでもない。 フィリピンで宣教活動に従事したスペインの修道会は、アウグスティヌス会、フランシスコ 会、ドミニコ会、イエズス会であった。実は、ヌエバ・エスパーニャやフィリピン関連事項の 国王への諮問機関であるインディアス国王最高諮問会議(Real y Supremo Consejo de las Indias)は、4 つの修道会によるフィリピン宣教地の分割を提言している。地理的には、タガ ログ語が話される地域は4修道会で分けられるはずであったが、1594 年以前にこの地域で宣 教を始めていたアウグスティヌス会とフランシスコ会にその大部分が与えられ、ドミニコ会に はマニラの中華街の宣教が任された。中華街のビノンド教会を創設したのはドミニコ会であり、 この教会で育ち長崎の西坂で殉教したロレンソ・ルイスもドミニコ会士であった。フィリピン

17) William Lytle Schurz, ‘The Philippine Situado’, The Hispanic American Historical Review, vol. 1 (1918), pp. 461-464.

18) Phelan, The Hispanization of the Philippines, pp. 8-14, 16

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宣教の先駆者であり、1565 年から 10 年以上にわたってフィリピン宣教をほぼ独占したアウグ スティヌス会は、マニラ近郊やパンパンガといった肥沃な地方に多くの教会を設置し、またイ ロコス州でも、現在世界遺産に登録されている教会を含め多くの教会を建設している。フラン シスコ会の教会は、マニラ近郊のラグナ湖の南やルソン島の南東部レガスピ周辺のビコール語 を話すカマリネス州に集中していた。ドミニコ会は、マニラの中華街の他にルソン島北東部の カガヤン地方やパンガシナン州のリンガエンやダグパン周辺を宣教活動の拠点としている。一 方、遅れて宣教地に到着したイエズス会は、ルソン島には殆ど痕跡を残さず、ビサヤ諸島のサ マール島やレイテ島に多くの教会を建て、また数は少ないがミンダナオ島の要所に宣教基地と しての教会を建設している。このような宣教地の分割は、言語の多いフィリピンにあっては、 各修道会が責任を持つべき言語数が限定され、実に効率的であったと言える20) ドミニコ会が台湾や中国本土への宣教を考えていたことを考えると、台湾に近いルソン島北 部に宣教の中心を置いていたことは理に適う。そうした中で、ビサヤ諸島やミンダナオ島を本 拠とするイエズス会と台湾に橋頭保を築きたいドミニコ会との間に、スペイン軍の派遣先の優 先度をめぐって論争が起こる。イエズス会士の補佐官の助言を受けて、1637 年から翌年にかけ てミンダナオ島でイスラム教徒のモロを打ち破ったフィリピン総督コルクエラ(Sebastián Hurtado de Corcuera)は、さらなるモロの脅威に対処するため、ドミニコ会が求める台湾の 守備隊への支援を疎かにしてしまう21)。このような台湾軽視の判断の背景には、4 修道会の中 ではフィリピンでの宣教地の獲得で後塵を拝したイエズス会とドミニコ会の間のライバル関係 があった。ドミニコ会は台湾において既に宣教の基盤を築きつつあり、台湾を足場として中国 大陸へ宣教を拡大したいと考えていたが、イエズス会がそのような試みに横槍を入れたことに なる22)。もちろん、イエズス会が中国宣教に全く関心が無かったというわけではない。1581 年 にフィリピンに上陸したイエズス会士の一団に加わっていたアロンソ・サンチェス(Alonso Sánchez)は、「中国(宣教)計画」(Empresa de China)を提唱する23)。後述するフィリピン 総督フランシスコ・デ・サンデ(Francisco de Sande)も、このような強硬派の最先鋒であり

20) Phelan, The Hispanization of the Philippines, pp. 167-76.

21) コルクエラ総督はイエズス会に好意を抱き、ミンダナオ島へより多くのイエズス会士を派遣するように

求めている。インディアス総合文書館Archivo General de Indias (AGI), Filipinas 80, N. 215. 同文書館所

蔵のフィリピン総督府文書については、清水有子「スペイン帝国の文書ネットワーク・システムとフィリ

ピン」『近代ヒスパニック世界と文書ネットワーク』吉江貴文編、悠書館、2019 年、55-75 頁に簡潔な解説

がある。インディアス総合文書館を含めスペインの文書館所蔵文書の電子カタログとしては、PARES (Portal de Archivos Españoles)が便利である。

22) Phelan, The Hispanization of the Philippines, pp. 138-9.

23) 平山は『スペイン帝国と中華帝国の邂逅』の中でこの計画を「チナ事業」と呼び、「明国のカトリック化

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征明論を主張している。武力を使ってでも明朝社会への進出を提唱したこの計画は、帝国主義 とカトリック宣教を融合させたものだとの批判もあるが、フィリピンの植民地化で距離的に見 ても突然現実味を帯びてきた中国宣教にイエズス会も強い関心を持っていた証左である24)。入 国を厳しく制限する明に対して、入国の様々な試みがいくつかの修道会によってなされたが、 その辺の事情やサンチェスの活動については、同じイエズス会士でサンチェスと同じくフィリ ピンの状況をスペイン本国に伝えたペドロ・チリーノ(Pedro Chirino)のフィリピン・イエズ ス会史に詳細がある25) アロンソ・サンチェスは征明論の中心人物であり、その議論の主唱者で推進役であったが故 に、イエズス会上層部からは「戦争」や「征服」といった言葉を使って議論を推進する彼に対 し警戒感が強く示された。1580 年のスペインによるポルトガル併合(同君連合)は、サンチェ スにとっては千載一遇のチャンスが訪れたことを意味した。ポルトガル支配下のマカオはヨー ロッパの国が持つ中国大陸唯一の居留地で、マカオと関係を持つことで中国大陸への進出の契 機となると考えたサンチェスは、早速マカオに出向いている。しかし修道会上層部は、併合が あったとはいえトルデシリャス条約の境界線を超えてマニラから明との関係に踏み込むこと自 体が、東アジア地域でイエズス会とは良好な関係を築いてきたポルトガル商人を刺激するとし て、サンチェス等の行動に否定的であった26)。一方、初代マニラ司教のドミンゴ・デ・サラサー ルも中国宣教についてはサンチェスに近い考えを持っており、マカオのポルトガル人の重要性 を認識していた27)。しかし、征明論が持ち上がった1583 年からの数年と 1590 年以降のサラ サールの見解を比較すると、彼の心境に変化が見られる。即ち、1583 年頃のサラサールはサン チェス等の征明論に与し、中国での宣教のためには軍隊の派遣が必要であるとの立場を維持し、 サラサールの被征服民に対する日頃の同情的発言からは考え難い対明観を持っていた。しかし、 1590 年に彼が国王に送った書簡では、征明論を展開したことの誤りを表明している28) このようなサラサールの変化に関する疑問について、セビリアのパブロ・デ・オラビデ大学 のフィリピン史研究家アントニオ・レアル・ボティハ(Antonio Real Botija)博士は、筆者に

24) Atsuko Hirayama, ‘Fr. Alonso Sánchez and His Problematic Choice Regarding the China Mission’ in Kawamura & Veliath, ed., Beyond Borders, pp. 213-5.

25) Jaume Gorriz I Abella, ed., History of the Philippine Province of the Society of Jesus by Pedro Chirino,

S.J. (Manila, 2009), vol. 1. チリーノは、フィリピン史とフィリピンの生活様式を描写し 1604 年にローマ

で出版されたRelación de las Islas Filipinasで、一躍人々にその名を知られるようになる。チリーノにつ

いては、Manuel Ruiz Jurado, S.J., ‘Fr. Pedro Chirino, S.J. and Philippine Historiography’, Philippine Studies, vol. 29, no. 3 & 4 (1981), pp. 345-59 を参照。

26) 平山篤子「フィリピナス総督府創設期の対外関係(II)―イスパニア・カトリック王国の対明観―」『帝

塚山学術論集』11、67-73 頁。

27) AGI, Filipinas 74, N. 25, fols. 128r-130v.

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次のような見解を示された29)。それによると、サラサールが中国への好戦的態度から融和的態 度に変化したのは、サラサールのエンコメンデーロに対する見解が大きく影響している。即ち、 1585 年くらいまでのサラサールは、明への軍事的介入によって霊的征服である宣教がやり易 くなると考えていたが、フィリピンにおいて先住民に対するエンコメンデーロの過酷な対応が 一向に改善されない状況を見て、1586 年のマニラ司教区会議以降は、明を軍事的に征服しても エンコメンデーロを利するだけではないかと考え始めた可能性である。さらにレアル・ボティ ハ氏は、1590 年頃のサラサールがスペインのフィリピン統治に見られる弱点を意識し始めて いたことを、彼の変節の理由として挙げている。例えば、スペインがマニラ以外の地域を完全 に掌握していないこと、中国人への商業的依存が進んでいること、1587 年にカリフォルニア半 島沖でアカプルコに向かうガレオン船サンタ・アナ号が、トマス・カヴェンディッシュ率いる イングランドの私掠船によって拿捕され略奪された事件等がスペイン統治の脆弱性を示してお り、明への軍事介入の無謀さを浮き彫りにすることになったとしている。加えてもう1 つの変 節の理由としてレアル・ボティハ氏は、サラサールは 1591 年にフィリピンを離れスペインに 帰国しマニラ大司教の称号を得て1594 年に死去するが、フィリピンの征明論支持者から物理 的に距離を置いたことで、新たに穏健な路線に転じることが容易になった可能性に言及してい る。 フィリピンにおいて修道会は、司教とは独立してミサや様々な宣教活動を行う権限を教皇ハ ドリアヌス6 世の勅書によって認められていた。このような権限は、司教の権限強化を希求し た対抗宗教改革の改革方針に反するものであり、ヌエバ・エスパーニャにおいては、修道士で はなく教区司祭に聖職禄獲得についての優先権を与え、また修道士には司教巡察に応じること が求められた。しかし、フィリピンはヌエバ・エスパーニャの管轄下にありながら、このよう な措置の例外地域となっており、1898 年のフィリピン統治の終わりまで、フィリピンでは聖職 禄の大部分を修道士が獲得し、司教巡察も実質行われることはなかった。司教巡察を受け入れ ることは、修道会の規則とヒエラルキーに従うことを誓う修道士に対して、時に究極の選択を 迫ることを意味し、修道会側からの強い反発があったからである。このことは、ヌエバ・エス パーニャと比べ、フィリピンでは相対的に修道士が強い力を持っていたことを示唆する。多く の教区司祭はフィリピンの現地語を話せず、殆どのフィリピン人信徒もスペイン語を話せな かったから、自然と現地語を習得している修道士の存在感は大きくなる。スペイン国王の役人 は、スペインがフィリピンで支配権を維持するためには、修道士の力が必要であることをよく

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理解していた30)。しかし、1767 年にマニラ大司教として赴任したサンタ・フスタ(Sancho de Santa Justa y Rufina)のように、修道会と事を構え従わない修道士に代えて訓練不足のフィ リピン人聖職者を任命する大司教も現れた。(1595 年にマニラ司教区は大司教区に格上げされ ている。)サンタ・フスタは、特にイエズス会と争ったが、1767 年と言えばイエズス会がスペ インから追放された頃である。大司教はその流れに乗ったとも考えられ、彼はフィリピンにお いてイエズス会追放の布告を出している31)。ところで、フィリピンのイエズス会には、ローマ で同会に迎えられたアロンソ・サンチョという1 人の助修士以外に、1768 年の同会の追放ま で生粋のフィリピン人を受け入れた記録はない32) スペインの支配は海岸線で達成されただけで、広大な山間部は異教社会のままであった。修 道会は、宣教師の絶対数の不足やフィリピン人の居住地区が各地に散らばっている現状を考え ると、教区司祭がフィリピン宣教の主導権を握ることはあり得ないと主張していた。しかし、 マニラだけを見ると司教巡察が行われた形跡があり、それはマニラには人口集中があり、組織 化されて教義をしっかりと教え込まれた教区が存在していたことを意味する。マニラでは教区 司祭の活動も活発であったが、地方に行くと頼りとなるのは修道士であった。聖職禄も、お金 になるのはマニラの教区で、教区司祭もこの大都市教区から上がる収益には関心を寄せたが、 実入りの少ない地方は修道士に任せる傾向があった。このような大司教と修道会の間で起きた 管轄権をめぐる論争は、間接的ながら修道会に恩恵をもたらした。それは、本来であればライ バル関係にある各修道会が、司教巡察の脅威の前に互いに協力し合い団結していったことであ る。それでも、大司教側は、修道士がきちっと教区の仕事をこなしているか外部から監察する 必要性を説き、司教巡察の正当性を主張した。実際16 世紀末には、アウグスティヌス修道会で 聖職者の独身制に反する修道士が存在したことや、教区の信徒に対して商活動を行っていたこ とが明るみに出たこともあった。 さらに、アウグスティヌス修道会は、イベリア半島で修道士の誓約を行ったカスティリャ出 身聖職者と、西インド諸島や中南米で誓約を行ったクレオールと呼ばれる聖職者の間に存在し た軋轢によって、より複雑な事情を抱えることとなる。同修道会が抱えるこのような問題は、 同修道会が最も早くフィリピンで活動を始め、しかもその活動域を最も拡大させたという事実 に起因している部分もある。レガスピのフィリピン遠征に加わったのもウルダネータをはじめ とするアウグスティヌス会修道士であった。最初にフィリピンに到着した修道会として、同修 30) 教会文書の翻訳に関しては、当初からスペイン語が用いられている。スペイン人宣教師達は、スラウェ シ島のブギス語から伝わった文字文化がタガログ語にもあることを承知していたが、教理問答を彼らの音 節文字を使って翻訳していくうちに、キリスト教教義の明確な翻訳には現地語は不十分であると悟り、す

ぐにスペイン語での対応に切り替えている。Rafael, Contracting Colonialism, p. 44.

31) Blair & Robertson, The Philippine Islands, vol. 50, pp. 308-16.

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道会はタガログやパンパンガといった人口が多く富裕な教区を獲得することができた。このよ うな急速な活動範囲の拡大を支えるために、訓練不足のクレオール修道士を導入する必要があ り、これが風紀の崩壊を招いたとも言える。能力からしてこの紛争がカスティリャ修道士の勝 利に終わるのは当然であったが、地方への急速な勢力の拡大によって同修道会が中央集権的な 権威を維持することができず、紛争処理が後手に回ったことは否めない。アウグスティヌス会 の混乱を見て、他の修道会もクレオール修道士の受け入れを抑制するようになる。 イエズス会は、修道士を選ぶにあたりアウグスティヌス修道会、フランシスコ会、ドミニコ 会といった托鉢修道会よりも厳しい基準を設けており、訓練もより厳しいものであったが故に、 ビサヤ諸島での一部の例外を除き修道士のモラルに反する行為は少なかった。一部の例外とは、 イエズス会の宣教地ビサヤ諸島における蜜蝋交易をめぐるもので、フィリピン人教区信徒が採 取してくる蜜蝋の交易から上がる収益は、すべて修道会のビサヤ教区の赤字の埋め合わせに使 われ、いつの間にか蜜蝋交易事業の方が宣教活動に優先するような状況が生まれていた。ヌエ バ・エスパーニャの鉱山業のような目立った産業のないフィリピンでは、教会のみならずスペ イン統治機構も財政的に厳しい状況に置かれており、このような交易活動へののめり込みはや むを得ない側面もあった。一般にイエズス会組織はより中央集権的であり、その意味では組織 の末端まで中央の指令が行き届いていた。修道士の教区活動に対しては、外からの何らかの監 督が必要であったが、それが司教による巡察となると話は別で、そのような巡察は組織体とし ての修道会の一体性と士気を瓦解させるものになった可能性もある。修道士の規律の低下はど の修道会でも見られた現象であるが、アウグスティヌス会が最も大きな問題を抱えていた。修 道士は、本来修道院で共同生活をすることで、互いを励まし且つ監視することができたが、宣 教地が拡大し地理的、文化的に孤立し、また修道士同士の励ましや監視が行き届かなくなると、 紀律問題が持ち上がった。修道士の出身地から見ると、イベリア半島よりはヌエバ・エスパー ニャで修道誓願を行った聖職者に問題行為は多かったが、その原因は訓練不足に尽きる33) マニラとアカプルコを結ぶガレオン船は、アカプルコからマニラまで約3 か月の航海を要し、 帰路の東に向かっての航路は、緯度にして往路の約 30 度北に設定された。風を受けるに最も 適した航路で、ちょうどハワイ諸島を挟んで往路と復路で大きな楕円を描くような航海であっ た。理想的には1 月くらいにアカプルコを出航すると、ベンダバールと呼ばれる疾風やバギオ と呼ばれる嵐(台風)のシーズン前にマニラ湾のカビーテに到着することができた。復路は逆 に、南西から吹くモンスーン風であるベンダバールに乗ってカビーテからサン・ベルナルディー ノ海峡を通過して太平洋に出て、そこからグアム、マリアナ諸島、伊豆諸島近辺を通過し、黒

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潮に乗って現在の米国西海岸に至り、そこからバハ・カリフォルニア半島、アカプルコに南下 する航路が取られた34)。ガレオン船が、スペインのフィリピン統治の生命線である銀と聖職者 の輸送に果たした役割は強調してもし過ぎることはない。メキシコの銀は中国の絹と交換され 多くの富を交易商にもたらしたが、銀はマニラの植民地政府の慢性的財政赤字を埋め合わせる ためにも必要であった。そのため、オランダによる略奪や嵐等でガレオン船が一隻失われるこ との経済的、精神的損失は非常に大きかった。また、ガレオン船による聖職者の定期的供給が ないと、フィリピン宣教の実効性は限られることとなった。フィリピンへの物資や人員輸送の 困難さは、スペイン本国からの距離と所要日数の問題でもあった。大西洋と太平洋を渡るだけ で約8 か月を要し、さらに出航地のセビリアやアカプルコでは船を待つ間長く留め置かれるこ とが普通であった。そのためスペイン王室とマニラの通信には2 年がかかったと言われる。ス ペイン帝国では中央集権化が進んだと理解されているが、実はフィリピンの植民地政府はかな りの独立性を維持していた。スペイン王室はポルトガルとの間で1494 年に合意されたトルデ シリャス条約を執拗に遵守し、蘭英仏がアジアに植民地支配を拡大させてからも、またスペイ ンがポルトガルを併合した1580 年からの 60 年間も含め、条約でポルトガルの支配下と認めら れたアフリカやインドを経由する航路を使うことはなかった。スペインとフィリピンに横たわ る距離によって、スペイン本国で決まった事項がフィリピンで実行されない事態はしばしば存 在した。フィリピン赴任後もフィリピンを日本や中国への宣教の踏み台と考え、さらに気候に 馴染めない聖職者をフィリピンに長期間滞在させるためには努力が必要であった。結局、鎖国 や海禁によって日中両国でのキリスト教宣教が頓挫したことが、彼らのフィリピンでの長期赴 任を可能にしたとも言えよう。 先述したように、フィリピンの統治には聖俗の協力、即ち教会と世俗政府がそれぞれの統治 体制を補い合う関係が必要であった。教会側には最上位にマニラ大司教が座り、その下に19 世 紀半ばまでは、マニラ、ヌエバ・セゴビア(ルソン島北部で司教座はビガン)、ヌエバ・カセレ ス(ルソン島南部で司教座はナガ)、セブの4 つの司教区が設置されていた。司教区の下には、 教区(Parroquia、英語の parish)が形成される。これらに相当する世俗の組織は、マニラ政 庁、その下に各州(provincia)があり、さらにその下にプエブロ(pueblo、町)がある。教会 の教区と俗界のプエブロが同じ共同体の中で相補的に存在しその地域を支えている。そのよう

34) William Lytle Schurz, ‘The Voyage of the Manila Galleon from Acapulco to Manila’, The Hispanic

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な共同体の中心には広場があり、市役所や役場があるのはフィリピンの見慣れた情景である35) 本来であれば各教会に聖職者が常駐し宣教や司牧に当たるのが理想であるが、聖職者の数が限 られていることもあり、まず各教区の中心にカベセラ(Cabecera、頭或いは頂上の意)と呼ば れる教会が建てられ聖職者が常駐し、周りの小さな村にはビジタ(visita、巡回の意)と呼ばれ るチャペルがいくつも置かれ、聖職者が各村を巡回していた。このような教区の区分けのカベ セラやビジタが、その後それぞれ世俗の行政単位としてのポブラスィオン(población、町)と バリオ(barrio、区)或いは既述のバランガイになった36)。単に聖職者の不足だけでなく、人口 がフィリピン国内で分散していたことや、言語の多様性も宣教を難しいものとしていた。それ でもフィリピンがカトリック国となったのは、植民地統治におけるいわゆるスペイン化がある 程度成功したからに他ならない。 フィリピン社会のスペイン化及びカトリック化を推し進める上で重要になるのが、キリスト 教共同体意識の形成である。そのためには儀礼的あるいは精神的側面において、カトリシズム のフィリピン化も必要であった。例えば、カベセラに信者を集めるためには聖週間、キリスト 聖体節、地元の守護聖人を祝う祭等、いわゆるフィエスタは有意義な行事であった。コフラディ ア(cofradia)と呼ばれる宗教共同体結社も、スペインのように相互扶助的な側面はあまり見 られないが、結社内での病気見舞いや葬儀への出席を通じて共同体の結束を強める効果があっ た37)。さらに、スペインによる征服前に地元民の間で信じられていた異教の本質は植民地期に は徐々に失われたが、異教の儀式や祭の表層部分はその後も残って、一部はフィリピンのカト リック教会の中に取り入れられた。そのため、教会に混交宗教(syncretism)を彷彿とさせる 部分が残されたとする疑念は常にある。フィリピンのキリスト教の特徴は、西欧と比べ教義の 正統或いは異端を問う場面は少なく、偶像崇拝や迷信を背景とした異教の儀礼的側面を残した 点にある。それと関連して指摘されるのが、カトリック教会の儀礼としての秘跡が十分に行わ れなかったことである。カトリックの教義の理解不足や秘跡を行う回数の少なさの背景には、 信徒が分散して居住していることもあって、スペイン人聖職者が不足していたという現実があ る。フィリピン人聖職者の養成も十分に行われていなかったことも、ミサ等の秘跡を行う聖職 者不足に拍車をかける。フィリピン人聖職者が増えると、自分たちが持つ立場や特権が危うく なるのではとの危惧をスペイン人修道士達は持っていた。橋渡し役のフィリピン人聖職者の決 定的不足は、スペイン人聖職者や植民者が信じるカトリシズムとフィリピン人の民衆カトリシ 35) 池端雪浦「フィリピン=カトリック社会の歴史的形成をめぐって」南太平洋海域調査研究報告、17 巻、 pp. 6-9. (https://core.ac.uk/download/pdf/144566305.pdf) 36) Phelan, The Hispanization of the Philippines, pp. 41-8.

37) キリスト教任意団体であるコフラディアは、イベリア半島ではカトリック教会の慈愛と信仰のために平

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化することもなく、独特のアイデン ティティを維持しながらフィリピン社 会のあらゆる方面で活躍した。 歴史上、最初に世界の注目を浴びた バスク人は、マゼランの遺志を継いで 世界一周の航海を行ったエルカーノで あるが、スペイン史の文脈で考えると、 レガスピとウルダネータの2 人のバス ク人の活躍がスペインのフィリピン統 治の基礎を築いたと言えよう。マニラ・ ホテルやホセ・リサール・モニュメント の近くに、レガスピとウルダネータが 十字架と一緒に立つ像があるが、特に ウルダネータは 16 世紀バスク人航海 士世界の伝統を引き継いでいる。レガ スピはセブ島を最初のスペイン人定住 地とし、その後マニラをスペイン統治 の中心に据えてフィリピンの初代総督 に就任している。彼は死後フィリピンで埋葬されたこともあり、同国では最も有名なバスク人 で、マニラの世界遺産サン・アグスティン教会の礼拝所にある彼の墓の墓碑には、「船長・航海 士であったバスク人ここに眠る。スペイン人として運命は彼を征服者としたが、彼は平和の人 であった。」と記されている。平和の人という碑銘は、レガスピの、さらにはスペインのフィリ ピン統治の実態を表す言葉として注視したい。ヌエバ・エスパーニャにおける強引で流血を伴 う征服と異なり、フィリピンの統治は徐々に、そして比較的平和裏に進められた感がある。レ ガスピに大きな影響を与えた初代メキシコ大司教でバスク人のフアン・デ・スマラガ(Juan de Zumárraga)は、メキシコにおけるスペインの強引な植民地化に対し先住民の保護に寄与した が、レガスピも同じような精神を引き継いだものと思われる40)。フィリピン植民地化の中で流 血が比較的少なかった背景としては、スペイン側のこのような抑制のみならず、フィリピン諸 島での道路等のインフラ未整備による移動や通信の難しさ、マレー・ポリネシア語系の 70 に も及ぶ多言語の存在といった要因によって、対抗勢力としてのフィリピン人の集結が極めて困

40) ‘Juan de Zumárraga’, Catholic Encyclopedia (www.newadvent.org/cathen/15767a.htm). バスク地方サン・セバスチャンに近いゲタリアの

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難であったことが挙げられる41) バスク人のヌエバ・エスパーニャへの移住を推奨したスマラガであったが、レガスピも当初 メキシコの植民地政府で秘書として働いていた。当地で富を形成したレガスピが、60 歳を過ぎ て航海や植民地政治の経験もないままにフィリピンに遠征の指揮官として参加した背景には、 ウルダネータの推薦の影響が大きかったと考えられ、両者の間にはバスク人としての誇りと信 頼関係があった。スペインはマゼランの航海以降、フィリピン統治の足場を築くことと香辛料 交易の支配を求めて、ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサ(García Jofre de Loaísa)、アルバロ・ デ・サーベドラ(Álvaro de Saavedra)、ルイ・ロペス・デ・ビリャロボス(Ruy López de Villalobos) をそれぞれ指揮官とする遠征隊を3 回送っているが、ことごとく失敗に終わっている。それ故、 サン・アグスティン教会礼拝所墓碑の記載内容と一致しないこととなるが、指揮官としても航 海士としても未経験のレガスピに対し当初期待するところは大きくなかった。しかし、過去に ロアイサの遠征に加わって経験を積んだウルダネータの巧みな航海術と、フィリピン到着後の レガスピの外交や行政経験豊かな統治能力によって、フィリピン列島にスペインの影響が徐々 に浸透していったことは事実である。航海出発前、ウルダネータはフィリピンがトルデシリャ ス条約のポルトガル側に属していると考えていたようで、彼にはニューギニアを航海の目的地 と希望していた節がある42)。一方、スペインの国王諮問機関であるインディアス枢機会議 (Consejo de Indias)に従属する大審問院(Real Audiencia)は、ヌエバ・エスパーニャにお いて総督と並ぶ重要な最高機関であったが、この大審問院はレガスピの遠征に当初2 つの目的 を設定している。それは、カトリック信仰の知識を先住民に伝えることと、太平洋でのメキシ コへの帰還ルートを開拓することであった。フィリピンに到達したレガスピは、1565 年にボ ホール島で首領のシカトゥナ(Datu Sikatuna、ダトゥとは首領の意)と「血の盟約」(El Pacto de Sangre)を結び、友好関係の樹立に成功する。「血の盟約」は、互いの手を切り流れた血を 器に入れてワイン等と混ぜ合わせて飲む伝統儀式である。このレガスピとシカトゥナとの「血 の盟約」は、19 世紀のフィリピンの画家フアン・ルナによって描写されている。しかしボホー ル島は食料が十分になく、間もなくレガスピはセブ島に渡り、そこを本拠地とすべくセブ島を 治める首領ラジャ・トゥパス(Rajah Tupas)と戦い、その後セブ条約を結んでスペインの同 島統治が確立される。軍事的には優位に立っていたが、レガスピはトゥパスを武力で徹底的に 抑えることはなく、彼との平和交渉に臨んでいる。このような融和的態度にバスク人も含め反 発する部下もいたし騒乱に発展する場合もあったが、レガスピの指導力は誰もが認めるところ

41) Crossley, Hernando de los Ríos Coronel and the Spanish Philippines in the Golden Age, pp. 12-13. 42) Benito J. Legarda, Jr., After the Galleons: Foreign Trade, Economic Change and Entrepreneurship

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であった。レガスピは先住民との友好関係を維持し、メキシコからの人的、物的補給を待つ選 択肢を取り、当時は依然強力であり香料諸島に展開していたポルトガル艦隊の攻撃にも外交を 駆使して耐え忍んだ。 しばらくするとウルダネータは、太平洋のメキシコ帰還ルート開拓のためにフィリピンを離 れ、数か月後に目的を達してアカプルコに帰港し、マニラ・アカプルコ間航路が確立されるこ ととなる。これによって、その後の物資のみならず、聖職者や人員のフィリピンへの輸送が活 発化する。1569 年になると、食糧確保と良港の必要性の観点から、レガスピはセブ島から他の 地域に拠点を移す決定をする。同年、レガスピが同じくバスク人のマルティン・デ・ゴイティ (Martín de Goiti)指揮の精鋭を送ったのはパナイ島である。パナイ島南部にあるイロイロは、 19 世紀にはバスク人の商業活動及び移民の中心地となる。その後ゴイティはミンドロ島に進 み、1570 年には良港マニラに上陸し、当地を治めていたラジャ・スライマーン(Rajah Sulayman)との間でマニラの戦いが始まる43)。戦いに勝利したスペインは、セブからマニラに 拠点を移し、ここをスペイン植民地支配の中心とする。その後、1574 年には明の海寇林鳳 (Limahong)との間で戦われたマニラの戦い、17 世紀前半のオランダや 1762 年の英国海軍 のマニラ攻撃はあったが、マニラ湾の入り口にあるコレヒドール島を防衛上の要塞及び税関と して整備したことで、マニラはフィリピン諸島をスペインが植民地統治するに相応しい中心都 市として機能する。ところで、レガスピの孫フアン・デ・サルセード(Juan de Salcedo)は、 最後のコンキスタドール(征服者)と称されることもあるが、ゴイティのマニラ征服に加わり、 後にイロコス地方のビガンを与えられるが、林鳳とのマニラの戦いでも活躍している。 バスク人宣教師は、フィリピンのキリスト教宣教の黎明期に重要な役割を果たしている。マ ゼランも聖職者を帯同し、上陸時にはフィリピンで最初のミサをあげたが、キリスト教の本格 的上陸は、レガスピとウルダネータがセブ島に教会を設立した時である。この時ウルダネータ はアウグスティヌス修道会の同僚宣教師を連れてきており、彼らは全員バスク人であった。バ スク人宣教師は宣教のみならず、コンキスタドールに対して先住民を保護する点でも大きく貢 献した。上記のマルティン・デ・ラーダもそのような人物の1 人である。先住民への対応に関 して同じような考えを持っていたレガスピの死後、先住民に対するコンキスタドールの虐待が 増加したことに対し、ラーダ等の聖職者はそれに抗議したのである。ラーダは外交術にも優れ、 レガスピを継いでフィリピン総督となったギド・デ・ラベサレス(Guido de Lavezares)の指 示で、中国やポルトガル艦隊司令官との交渉にも関わっている。ラベサレスはラーダに対し、 中国との自由交易権を獲得すること、自由な宣教活動を中国に認めさせることを指令した。ラ

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ベサレスを継いでフィリピン総督となったフランシスコ・デ・サンデは、フィリピンの富裕層 を潤していたエンコミエンダ制の廃止に動くが、ミンダナオ島のモロの制圧や、中国及び中国 人への対応という対外政策においては、前任のレガスピやラベサレスと違い、現地を理解しな い強硬な姿勢に終始した。これに対して国王フェリペ2 世の反応は、中国との関係については ラベサレスの意見を重用して友好関係の維持を命じている44) 1565 年からフィリピンの宣教地で唯一活動をしていたアウグスティヌス修道会であったが、 同修道会は宣教地を独占したいと考えていたわけではない。確かに一種のライバル関係は各修 道会の間に存在したが、フィリピンのような島嶼地域で1 つの宣教団単独での宣教を行うのは 荷が重く、バスク人のディエゴ・デ・エレーラは他の修道会にフィリピン宣教への参加を呼び かけた。それに呼応したのが、フランシスコ会、イエズス会、ドミニコ会であり、先述のよう に初代マニラ大司教には、アウグスティヌス会士ではなくドミニコ会士でありバスク人であっ たドミンゴ・デ・サラサールが任命されている。先住民に対するスペイン人征服者の過酷な支 配の是正を求め、さらに教会改革を推進するために、サラサールは1582 年に第 1 回マニラ司 教区会議を召集し、そこでフィリピン宣教に関する重要事項が決定される。その1 つは、キリ スト教教義をスペイン語ではなく現地語を使って教えることであった。しかし、この判断によっ て、後日スペイン語を話すフィリピン人聖職者が少なくなり、スペイン人と現地フィリピン人 の間に溝ができてしまったことを指摘する必要がある。もう1 つは、キリスト教の生活及び礼 拝の系統的教育を容易にするために、散らばっていた村々を集めて大きなコミュニティを形成 することを決定したことである。今日のフィリピンの町々は、この司教区会議の決定を基礎と して発展したものが多く、町の中心には広場があり、そこには教会とベルタワーが建てられた。 この司教区会議には神学者のみならず、軍人やエンコメンデーロも出席していたため、教会人 がエンコミエンダ制をやり玉にあげてエンコメンデーロによる先住民の搾取を批判すると会議 は混乱に陥った。先住民の権利確立を主張するサラサールとフィリピン総督ゴンサロ・ロンキー リョ・デ・ペニャロサ(Gonzalo Ronquillo de Peñalosa)との関係も険悪になり、さらに、各 修道会の間でも軋轢が生まれ、特にスペイン宣教の先駆者アウグスティヌス修道会は、修道会 から教区の管轄権や財産を取り上げるサラサールの提案に反発した45) このような状況に陥ったのはサラサールの改革が急すぎた側面もあるし、宣教の先駆者とし 44) 清水有子「フェリペ 2 世の東アジア政策 ―スペイン帝国の海外情報収集と分析の特性―」『洋学』25 (2018 年)では、アウグスティヌス修道会も中国との友好関係締結についてはラベサリスと同意見であっ たことが紹介されている。サンデの対中強硬策をたしなめ、中国との友好関係を命じたインディアス総合 文書館所蔵のフェリペ2 世の書簡は、同論文の脚注 19 参照。

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てのアウグスティヌス会の立場と誇りを奪う措置であったことが混乱の背景にあろう。しかし、 今日のフィリピンでは、この会議でコンキスタドールが犯した間違いを聖職者が是正しようと していた点をとらえ、333 年のスペイン支配はそれほど暗黒の時代ではなかったと評価する声 や記事もある46)。サラサールは、1583 年の大火の後のマニラの町の再建にも積極的に関与して いる47)。バスク人レガスピがマニラの創設者であれば、同じバスク人サラサールは、マニラの 都市建設者であった。さらにサラサールは、フィリピンの宗教裁判(異端審問)機能を支配し ようとして、ロンキーリョ総督が支持するメキシコの異端審問所と争っている。本来フィリピ ンはメキシコの異端審問所の管轄下に入るべきであるが、サラサールはフィリピンに独自の異 端審問所を開設しようとしたのである。この論争は、メキシコの異端審問所の後ろに控えるス ペイン異端審問所及び国王フェリペ2 世の命により、サラサールが宗教裁判管轄権の要求を放 棄することとなって幕を閉じる48) 4.カディス憲法とフィリピン 1812 年 3 月にスペイン南部のカディスで発布されたカディス憲法が、スペインの植民地下 にあったフィリピンでその民主化の萌芽に果たした役割を精査してみたい。カディス議会 (Cortes de Cádiz)は、その議会審議の途中から出版の自由等の自由主義的法令を発布してい たが、そこで制定されたカディス憲法も、保守反動の国王フェルディナンド7 世の王制に対す るスペイン近代自由主義の象徴的表現として評価されてきた。国王の君主主権を否定したフラ ンスの人権宣言と比べると、国王の神聖不可侵性やカトリック国教制を認めたカディス憲法は、 一部に非近代的要素が残されているとされるが、言論・出版の自由、法の下での平等や所有権 等の基本的人権を認めたカディス憲法は、スペインでは画期的な基本法の制定であった49)。王 制(立憲君主制)とカトリック国教制度の枠組みを維持しつつ、同憲法がスペイン社会の近代 化と民主化に果たした役割は評価できる。伝統的な国家の枠組みを残しつつ、その後保守勢力 の巻き返し等紆余曲折を経ながらも、スペインの近代化と改革の方向に舵を切ったカディス憲

46) ‘The Change we need is in the Manila Synod of 1582’, The Philippine Star, May 23, 2016.

47) スペインがマニラに本拠を移した時、町の建物は木で建てられ、屋根はニッパヤシの葉で葺かれたため、

当初から火災による消失の危険が指摘されていた。John Stevens, Bartolomé Leonardo de Argensola, The

Discovery and Conquest of the Molucco and Philippine Islands (London, 1708), pp. 109-110.

48) Henry Charles Lea, The Inquisition in the Spanish Dependencies (London, 1908), p. 299. スペイン

異端審問所については、拙稿「スペイン異端審問制度の史的展開と司法権の時代的・地域的特質」『専修大

学社会科学研究所月報』no. 547 に詳細がある。スペイン国王は異端審問制度に対し絶大な権限を維持して おり、異端審問官は教会よりは国家機関の一員として機能した。Juan Meseguer Fernández, ‘El período fundacional (1478-1517)’, Historia de la Inquisición en España y América, I, 300-6.

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法制定の意義は大きい50) スペインとの距離もあり、マニラでカディス憲法が発布されたのは1 年後の 1813 年 4 月 17 日であった。自由主義的改革を謳った同憲法の発布は、フィリピン人にとっては、まず各種年 貢の支払いや強制労働の終了に道を開く出来事として理解された。フィリピンには、メキシコ のレパルティミエント(repartimiento)を真似たポロ(polo)と呼ばれる強制賦役の制度があ り、ほぼ強制的且つ無償での労働力の提供は、スペインの植民地支配に対するフィリピン人の 不満の最たるものであった。当時のフィリピン総督ホセ・ラモン・デ・ガルドキ・ハラベイティ ア(José Ramón de Gardoqui y Jaraveitia)は即座に布告を出し、カディス憲法には年貢や強 制賦役を無効にするような効力はなく、フィリピンの国としての支出を支えるためには、年貢 の支払いや賦役は必須であると火消しに努めた。スペインではフェルディナンド7 世が保守派 の影響を受け、自身の不在中に同意なしにコルテスによって制定されたカディス憲法の無効を 1814 年 5 月に宣言する。その知らせがフィリピンに届くと、翌年ルソン島北部イロコス地方 のサラトで反乱が勃発する。反乱者は、カディス憲法の無効宣言は、彼らに強制賦役を課し続 ける方便であると理解した。反乱はイロコス地方の各地に拡がっていく。反乱の3 年後にイロ コス州は北イロコスと南イロコスに行政地区が分けられるが、この地方の統治機能の向上が分 割の理由として挙げられている。サラトに始まった反乱が、行政地域の分割に繋がったとも考 えられる51) ところで、カディス議会にはフィリピン代表の議員としてベントゥーラ・デ・ロス・レジェ ス(Ventura de los Reyes)が参加している。彼はイロコスのビガン出身であるが、マニラに移 り住み商人として財を成している。コルテスの会期中、彼はスペインとの距離を考慮するとフィ リピンから2 人の代表議員選出が必要であるとして動議を提出するが、ヌエバ・エスパーニャ を代表する議員達の反対もあって動議が採決に付されることはなかった。フィリピンの代表議 員の増加が、ヌエバ・エスパーニャからの議員数の縮小につながるのではないかとの危惧を後 者が抱いたからである。実際代議員数の増減は、各地域が増員を望む中でお互いを牽制し合う 事項であった。例えば、スペイン本国の代議員はヌエバ・エスパーニャの代議員の数を制限し ようとした。本来このような問題には改革的態度を示す自由主義者や、コルテスで自由主義者 の指導的立場にあったアグスティン・アルグエレスも、ヌエバ・エスパーニャの先住民への代 議員選挙権付与に反対している。そのことによって、本国を上回る数の代議員がヌエバ・エス

50) Ramón Solís, El Cádiz de las Cortes: La Vida en la Ciudad en los Años 1810 a 1813 (Madrid, 1969)に カディス議会の詳細がある。

51) Maria Luisa T. Camagay, ‘Cádiz Constitution and its Repercussions in the Philippines’ in Reframing

参照

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