長 岡 省 吾 に よ る 被 爆 資 料 の 収 集
・ 公 開 ・ 展 示
│
│ 広島 平 和 記念 資 料 館開 館 前 後の 状 況 につ い て
││
越 前 俊 也
は じ め に 本
稿の 目的 は広 島平 和記 念資 料館 の初 代館 長・ 長岡 省吾
︵一 九〇 一│ 一九 七三
︶の 功績 を顕 彰す るこ とに ある
︒長 岡に 関し ては
︑被 爆資 料の 収集 と分 析に よっ て空 中爆 心地 を特 定し たこ とや 平和 記念 資料 館の 前身 に当 たる 原爆 参考 資 料陳 列 室 の 開設 し た こと な ど︑ そ の業 績 に つ いて こ れ ま で も 断 片 的 も し く は 伝 記 風 の 紹 介 は さ れ て き た⑴
︒し か し︑ その 活動 内容 を精 査し た論 文は なく
︑平 和記 念資 料館 にお いて すら
︑彼 に関 する 記録 はほ とん ど残 され てこ なか った
︒そ うし たな か二
〇一 五年 四月 二〇 日︑ 長岡 の遺 族か ら彼 が集 めて いた 被爆 資料 なら びに 平和 記念 資料 館関 係資 料︑ 約一 一︑ 八九
〇点 を平 和記 念資 料館 に寄 託す る申 し出 があ り︑ 歿後 四五 年に 迫る 今日
︑よ うや く彼 の生 涯を 検証 する 条件 が整 いつ つあ る⑵
︒ 本稿 は︑ この 新出 資料 を既 存資 料と 照ら し合 わ せ るこ と に よ って
︑長 岡 研 究の 端 緒 を開 こう とす るも ので ある
︒
― 1 ― 長
岡 省 吾 に よ る 被 爆 資 料 の 収 集
・ 公 開
・ 展 示
第 一章 では
︑長 岡前 半生 の経 歴を 紹介 しつ つ︑ その 不明 な部 分の 解明 を試 みる
︒ま た︑ 彼が 被爆 現場 に対 峙し たと きの 模様 を手 記に もと づき 紹介 しつ つ︑ その 際の 彼の 思考 連鎖 の特 徴を 明ら かに する
︒第 二章 は︑ 長岡 が被 爆資 料を 収集
︑公 開し た当 時の 状況 を︑ 彼が 参加 した 公式 調査 団に よる 報告
︑原 爆参 考資 料陳 列室 開設 時の 新聞 記事
︑な らび に原 爆記 念館 開館 時の 所蔵 品リ スト によ って 示す
︒そ して それ らが 彼の 科学 的関 心の もと に進 めら れた こと を明 示す る︒ 第三 章は
︑長 岡が 次第 に原 爆に よる 物的 被害 から 人的 被害 に関 心を 示す よう にな った こと を︑ 原爆 記念 館発 行に よる 彼の 著作 物︑ 東京 の日 赤本 社で 開催 され た原 爆展
︑並 びに 同展 出品 のス ライ ド上 映の ため に彼 が著 した シナ リオ の分 析を 通し て明 らか にす る︒ 第四 章は
︑広 島平 和記 念資 料館 の開 館時 の条 例と 最初 の展 示状 況を 紹介 する
︒そ して それ らが
︑必 ずし も当 時の 長岡 の意 向に 沿う もの では なか った こと を確 認す る︒ 第五 章は
︑一 九五 五年 から 五七 年に かけ て︑ 広島 を含 む国 内一
〇箇 所を 巡回 した 原子 力平 和利 用博 覧会 が平 和記 念資 料館 に及 ぼし た影 響を 分析 する
︒第 六章 では
︑一 九五 八年 に開 催さ れた 広島 復興 大博 覧会 にお いて 平和 記念 資料 館が 原子 力科 学館 とさ れた とき
︑長 岡が そこ で原 爆被 害の 展示 を堅 持し た事 実を 確認 し︑ その 意義 を評 価す る︒ 以 上の こと から
︑一 九四 五年 から 五八 年に かけ て︑ 長岡 省吾 が被 爆資 料を 収集
・公 開・ 展示 して きた 状況 を概 観す るこ とが でき る︒ その 結果
︑彼 の被 爆資 料に 対す る考 え 方 は︑ 時 代と と も に変 化 し たこ と が 明 らか に な るで あ ろ う︒ その 集大 成と 見做 すこ とが でき る原 子力 科学 館後 の平 和記 念資 料館 の展 示を 分析
︑解 釈す るま でが
︑本 稿の 射程 とな る︒
長 岡 省 吾 に よ る 被 爆 資 料 の 収 集
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・ 展 示
― 2 ―
一
︑ 長岡 前 半 生の 経 歴 と原 爆 投 下時 の 行 動 一│
一︑ 満州 にお ける 学歴 と職 歴 長 岡省 吾の 経歴 をま とま った かた ちで 紹介 する 文献 は少 ない
︒人 物事 典の 類で 唯一 参照 する こと がで きた のは
︑中 国新 聞社 が一 九八 二年 に発 行し に﹃ 広島 県大 百科 事典
﹄に ある 以下 の掲 載内 容で ある
︒ 長
岡 省 吾︵ な がお か し ょ うご
︶ 一 九
〇一 年
︵明 治 三 四︶ 八・ 一一
│一 九 七 三年
︵昭 和 四 八︶ 二・ 一︒ 広島 平和 記念 資料 館︵ 通称
=
原 爆資 料館
︶の 初代 館長
︒地 質学 者︒ 佐伯 郡玖 波町
︵現 大竹 市︶ の生 まれ
︒一 九三 五年
︵ 昭和 一〇
︶旧 満州 国︵ 現中 国東 北︶ の 哈 爾賓 露 支 語専 門 学 校︵ 地質 学 専 攻︶ を 卒業
︒以 後
︑地 質 検査 の 業 務を 通じ て陸 軍特 務機 関︑ 哈爾 賓博 物館
︑地 質学 鉱物 学研 究所
︑満 州鉱 業︵ 株︶ など に勤 務の のち 帰国
︒戦 時中 の一 九 四四 年
︵昭 和 一 九︶ から 一 九 四七 年
︵昭 和 二二
︶ま で 広 島 文理 科 大 学地 質 学 鉱 物 学 嘱 託 を 務 め
︑一 九 四 九 年
︵ 昭和 二四
︶原 爆被 災資 料を 収集 と調 査を 実施 する 専 門 職と し て 広島 市 役 所に 勤 務︒ 専 門 知識 を 生 かし て 精 力的 に活 動︑ 一九 五五 年︵ 昭和 三〇
︶広 島平 和記 念資 料館 開設 と同 時に 同館 長に 就任
︒一 九六 二年
︵昭 和三 七︶ 退職 す るま で 現 在 の同 館 の 基礎 確 立 に 大 き な 足 跡 を 残 し た
︒著 書 に
﹃
HIROSHIMA-Hiroshima under A tomic bomb at-
tack
﹄︵ 一九 五四 年七 月三
〇日
私 家版
︶が ある ほか
︑爆 心地 調査 論文 など もあ る︒⑶
― 3 ― 長
岡 省 吾 に よ る 被 爆 資 料 の 収 集
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本 節で は︑ この うち 長岡 が満 州か ら日 本に 帰国 する まで の経 歴を 検証 する
︒こ こで まず 目を 引く のが
︑彼 の学 業終 了年 とそ の卒 業校 であ る︒ 前者 は︑ 彼の 年齢 が三 三歳 であ った 一九 三五 年と され てい る︒ また
︑後 者に 関し ては
︑管 見の 限り
︑﹁ 哈 爾賓 露支 語専 門学 校﹂ とい う名 で地 質学 を 講 じた 教 育 機関 が 歴 史上 存 在 し た事 実 は 確認 で き ない
︒と ころ が︑ 次節 で扱 う長 岡の 手記 には
︑原 爆投 下時 に﹁ 弐拾 数年
︑苦 心し た私 の資 料︑ 化石 鉱物 類﹂ を収 集し てい たと 記さ れて いる
︒つ まり 一九 二〇 年頃
︑す なわ ち︑ 彼が 二十 歳の 頃に は︑ すで に少 なく とも 地質 学を 専攻 して いた こと にな る︒ 一九 世紀 末か ら二
〇世 紀前 半に かけ て中 国東 北部 にあ った 教育 機関 を網 羅的 に調 査し た中 島毅 によ れば
︑当 時同 地に おい て唯 一地 質学 を専 攻で きた 教育 機関 は︑ 日本 では 東清 鉄道 の名 で知 られ るロ シア 資本 の中 東鉄 道が
︑自 社の 技術 者養 成を 目的 に︑ 一九 二〇 年一
〇月 に開 校し た﹁ 露中 技 術 専門 学 校﹂ で あ った
⑷
︒同 校 は︑ 一 九二 二 年 四月 に帝 政ロ シア の高 等技 術専 門学 校を モデ ルに カリ キュ ラム を再 編し
︑五 年制
︑二 学科 から なる
﹁露 中工 業大 学︵
Русско
- Китаи ̆ски й полите хниче ск ии ̆институт
︶﹂ とな る︒ 二八 年四 月に は︑ 中国 側に 強制 的に 移管 され
︑﹁ 東省 特別 区立 工業 学校
﹂と 改称
︒同 年一 一月 には
︑中 ソ双 方の 代 表 か らな る 体 制に な り︑
﹁ ハル ピ ン 工 業大 学
﹂と 再 度改 称 さ れた
︒さ らに は︑ 一九 三一 年九 月の 満州 事変 後︑ 日本 側か らの 圧力 が強 まり
︑一 九三 六年 四月 には
﹁哈 爾濱 高等 工業 学校
﹂と いう 和名 で三 度目 の改 称を 強い られ た︒ この よう に︑ 複雑 な再 編と 改称 を繰 り返 した が︑ この 時代 のハ ルピ ンで 地質 学を 専攻 でき た教 育機 関は 同校 をお いて 他 に な い︒ した が っ て︑
﹁哈 爾 賓 露支 語 専 門 学校
﹂と は
︑こ の 学校 を 日 本語 訳す る際
︑便 宜的 につ けた 校名 と考 える のが 妥当 であ ろう
︒す ると
︑長 岡は
︑技 術者 養成 を目 的と した 同校 で︑ ロシ ア語 で地 質学 を学 んだ こと にな る︒ 長岡 の就 学年 数が 長期 にお よん だ理 由の ひと つは
︑こ こに 求め るこ とが でき るか もし れな い︒
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満 州に おけ る陸 軍特 務機 関は
︑関 東軍 司令 部の 指揮 下に あっ た︒ ハル ピン にお ける 都市 計画 を詳 細に 調べ た越 沢明 によ れば
︑﹁ 満 州事 変後
︑関 東軍 を中 心に 満州 全土 の植 民 地 政策 の 立 案が 精 力 的に 進 め ら れ︑ それ を 担 った の が 関東 軍特 務 部 と満 鉄 経 済 調査 会 で あっ た
﹂⑸
︒ 都 市計 画 立 案 のた め に は︑ まず 詳 細 な大 縮 尺 の 地形 図 が 必要 と さ れる
︒そ の ため の 測 量 は一 九 三 三年 一 二 月か ら 翌 三 四年 三 月 末 ま で 実 施 さ れ た⑹
︒ さ ら に︑ 松 花 江 の 洪 水 に 悩 ま さ れ る 同 地 に︑ 一九 三二 年夏 と三 四年 の夏 に大 洪水 が襲 う⑺
︒ すな わち
︑一 九三
〇年 代 前 半の 同 地 に とっ て
︑測 量 と洪 水 か らの 復旧
︑な らび に防 水工 事の ため の地 質調 査は 喫緊 の課 題で あっ たこ とに なる
︒長 岡が 就学 中か ら陸 軍特 務機 関の 仕事 に駆 り出 され てい たと する なら ば︑ 彼の 卒業 年次 が遅 れ た 第 二の 理 由 をこ こ に 求め る こ と が可 能 で あろ う
︒さ ら に︑ 一九 三五 年三 月二 三日 には
︑ソ 連が 中東 鉄道 を満 州国 に売 却す る⑻
︒ 長岡 の学 校 卒 業年 時 に 当 たる こ の 年の 社 会 情勢 が︑ 同地 にお ける 実学 とし ての 地質 学の 需要 を高 めた こと は︑ 容易 に想 像が つく
︒ 哈
爾賓 博物 館の 建物 は︑ ロシ ア帝 国に よっ て一 八九 八年 に開 拓さ れた 新市 街︵ ノヴ ィゴ ロド
︶に モス クワ の一 流商 店を 出店 させ る勧 商場 とし て建 てら れた 建造 物で あっ た︒ しか し︑ ロシ ア革 命の ため 勧商 場は 実現 せず
︑そ の建 物は 博物 館に 転用 され る⑼
︒ 同館 は︑ 歴史 と自 然史 の二 部門 から なる 総合 博物 館で ハ ル ピン 工 業 大 学の 研 究 機関 と し ても 機能 して いた
︒つ まり 長岡 が︑ 哈爾 賓博 物館 に就 労し てい たこ とは
︑そ の自 然史 部門 で地 質学 の調 査研 究を して いた こと を意 味す る︒ 地質 学鉱 物学 研究 所の 実態 は不 明で ある が︑ 満州 鉱業
︵株
︶は
︑満 州国 内の 鉱工 業が 一元 的に 統制 され る一 九三 七年 まで 存在 した 企業 であ った
︒し たが って
︑長 岡の 職歴 が︑ 就労 順に
﹃事 典﹄ に記 され てい たと する なら ば︑ 長岡 がハ ルピ ンで 職を 得た 時期 は一 九三 七年 まで とい うこ とに なる
︒
― 5 ― 長
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一│ 二︑
﹁ 廃墟 に佇
つ﹂
│
│原 爆投 下当 日な らび に翌 日の 行動 生 前長 岡が
︑唯 一︑ 活字 に残 した 私的 な手 記は
︑原 爆投 下の 当日 から 翌日 にか けて
︑彼 が見 聞し
︑自 ら取 った 行動 を書 き残 した もの であ る︒
﹁ 廃墟 に佇 つ﹂ と題 され たそ れ は 一九 五
〇 年八 月 に 地元 の 同 人 誌に 発 表 され
︑次 の よ うに 始ま って いた
︒ 私
たち に忘 れら れな い日
││
八 月六 日︑ 朝は から りと 晴れ た良 い天 気で あっ た︒ 私は 早起 きの 気質 だが
︑連 日の 調査 で疲 れが 出た のか
︑う とう とし てい ると
︵広 島文 理大 の現 職の まま 暁部 隊の 本部 に属 し︑ 山口 県上 ノ関 町方 面の 地質 調査 に出 張中 だっ た︶
︒ ドン
⁝⁝ とい う 爆 発音 で 眼 をさ ま し た︒ 朝早 く か ら 爆薬 で 壕 掘り が 初 まっ た︑ と思 って 時計 を見 ると
︑八 時十 七分 を指 して いた
︒⑽
以 下︑ 当番 兵か ら﹁ 岩国 方面 に火 柱が 上が り︑ 目下 燃焼 して いま す﹂ と報 告が あっ たこ と︑ 心配 にな って 外に 出て みる と︑
﹁ 広島 方面 を見 れば
︑暗 雲と 思わ れる 入道 雲 が 覆っ て い る﹂ 様を 目 撃 した こ と を 記し て い る︒ 山口 県 上 ノ関 町は
︑広 島市 中心 部か ら南 西七 三㎞ にあ る三 方を 瀬戸 内海 に囲 まれ た町
︵図 1︶ であ る︒ ちな みに 長岡 が確 認し た八 時十 七分 とい う時 刻は
︑海 面上 の音 速︵ 約三 四〇
m/s
︶ から 計算 して
︑広 島に おけ る原 爆投 下時 の八 時一 五分 に一 致す る︒ 岩国 は︑ 広島 と上 ノ関 のほ ぼ中 間点 の西 に位 置し
︑長 岡の 自宅 があ った 大竹 は︑ 岩国 と隣 接し た広 島寄 りの 町で ある
︒軍 務の 地質 調査 を打 ち切 り︑ 本来 の職 場で ある 広島 文理 大に 向か うこ とを 決め た長 岡は
︑途 上の 柳井 港︵ 図1 参照
︶や 停車 した まま なか なか 動か ぬ汽 車の 中で
﹁被 害は 想像 以上
﹂と 感じ
︑不 安を 募ら せて ゆく
︒大 竹の 自宅 の最
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― 6 ―
寄 りの 玖波 駅で 知り 合い に声 をか けら れた こと から
︑初 めて 被害 の 甚大 さを 具体 的に 告げ られ
︑こ の日 は広 島行 きを 諦め
︑無 事で あ った 妻子 とと もに 自宅 で夜 を明 かす
︒そ の夜 の大 竹を
﹁町 は恐 怖 が 潮 の よ う に 広 が り︑ 悲 し み の 町 と 化 し て い た
﹂と 記 し て い る
﹁ ︒ 翌早 朝
︑家 の 者 が止 め る のを 振 り 切っ て
︑広 島 に 出 発 す る﹂
︒ 以 下
︑﹁ 草 津 付近 の 家 の屋 根 瓦 は波 状 に 盛 り上 が っ てい る
﹂と い う 記 述 に 始 ま り︑
﹁古 江 付 近 は 半 壊︒ 己 斐 に 近 づ く に つ れ 燃 え︑ 全壊 に近 い﹂ と︑ 車窓 から 見え る被 害状 況 を 冷 静に 観 察 して い る︒
﹁ 己斐 駅 に 下 車﹂ 後︑ 徒歩 に な って か ら は︑ 市街 の 被害 状 況 よ りも 怪 我 人と 死 人 に関 す る 記 述 が 増 え る︒ 天 満 橋 を 渡 っ た と こ ろ で 出 会 っ た 怪 我 人 の 描 写 で い え ば︑
﹁ 衣服 は焼 かれ 裸体 にな り︑ 火傷 のた め頭 髪は な く︑ 血 の滴 る 光 頭︑ 眼は 飛 び 出し 手 足 が 折れ
︑火 傷 の 苦し み に 狂い 廻っ てい る︒ まさ に地 獄絵 巻で あ る﹂ と 綴 って い る︒
﹁ よう や く︑ 護 国神 社 の 入 口に 辿 り 着い た
﹂の は﹁ 八 時半
﹂で あ った
︒当 時 の 護 国神 社 は 基町 に あ り︑ 爆心 地 の 北 三〇
〇 mに 位 置し た 神 社 であ っ た
︒以 下
︑次 の よ う に 記 し て い る︒
倒 れず にい る鳥 居を 見た
︒も う歩 くこ とは でき ない
︒入 口の 燈籠 に腰 をお ろし た︒ とた ん掌 に針 で刺 した よう な痛 みを 感じ た︒ よく 見る と︑ 花 崗岩 の 表 面 が溶 け て いる
︒﹃ ア ッ!
﹄と 驚 い た︒ 何 度も 見 返 した が
︑間 違 いな
図1 広島−上ノ関間地図
― 7 ― 長
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く溶 けて いる
︒普 通で はな い︒ 特殊 な爆 弾だ と感 じた
︒急 に気 を取 り戻 し︑ 大学 へと 急ぐ
︒ こ
こで
︑注 目す べき は︑ 彼が 掌に 感じ た﹁ 痛み
﹂か ら花 崗岩 の溶 解に 気づ き︑ そこ から 即座 に理 性的 判断 に立 ち戻 った 点で ある
︒前 日に は︑
﹁ ドン
⁝⁝ とい う爆 発音
﹂で 目を 覚ま し︑
﹁岩 国方 面に 火柱
﹂と いう 曖昧 な報 告を
﹁広 島方 面﹂ の﹁ 入道 雲﹂ とい う自 らの 目視 で修 正し た上
︑調 査を 打ち 切り
︑広 島行 きを 決め てい た︒ 感覚 的刺 激↓ 観察
↓理 性的 判断 とい う思 考連 鎖が 護国 神社 にお いて は瞬 時に 結実 した ので ある
︒広 島に 向か う車 窓か らの 眺め や駅 に降 りて から 見た
﹁地 獄絵 巻﹂ にし ても
︑冷 静な 観察 眼を 保っ てい る︒ しか し︑ 感情 が麻 痺し てゆ くな か︑ それ らの 場面 に対 する 理性 的判 断は 停止 状態 にあ った とい え る︒ と こ ろが
︑文 字 通 り﹁ 手に し た﹂ 痛 みで 地 質 学 者と し て の我 に 返 り︑ 当初 の目 的で あっ た大 学を 目指 して いる
︒ 一 時間 あま りか けて 辿り 着い た大 学で は︑
﹁ 弐拾 数 年︑ 苦 心し た 私 の資 料
︑化 石 鉱物 類 は 焼 けて ボ ロ ボロ に な って いた
︒諦 めて はい たも のの
︑や はり 諦め きれ ない
︒人 生の 大半 を鉱 物の 授業 につ くし たの だ︒ 資料 を前 にし て涙 がと どめ なく 流れ る﹂ とあ る︒ 文中
︑唯 一︑ 涙を 流す 場面 であ る︒ 帰 路︑ アス ファ ルト 上に 焼き つい た︑ 被爆 時に そこ を歩 いて いた 人た ちの
﹁死 の影
﹂を 見る
︒さ らに
︑教 え子 を探 し廻 る老 教師 の姿 に胸 を詰 まら せる
︒し かし
︑こ こで も︑ 判断 を下 した り︑ 泣い たり はし ない
︒知 り合 いに 呼び 止め られ
︑そ の妻 の遺 骸を トタ ン板 に乗 せ仮 の火 葬場 まで 運ぶ
︒こ こで も長 岡の 思考 停止 状態 は続 く︒ 火葬 のた め﹁ 各所 で燃 える 炎が 悲哀 の色 を濃 く映 し出 し⁝
⁝屍 の町 に夜 明け を待 った
﹂︒ こ の一 文で 手記 は閉 じら れて いる
︒ B 5判 の紙 面に わず か二 頁の 短い 文章 であ る︒ しか し︑ ここ に彼 が後 に被 爆資 料に 対し てと った 態度 が凝 縮さ れた
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かた ちで 現れ てい る︒ すな わち
︑市 街の 破壊
︑岩 石の 溶解
︑そ して 人体 損傷 とそ の焼 失︵
﹁ 死の 影﹂ と﹁ 火葬
﹂︶ が順 を追 って 短い 文章 で的 確に 記さ れて いる
︒そ して
︑そ れら を観 察・ 描写 する きっ かけ とな った 起点 に聴 覚と 触覚 が受 けた 刺激 があ った こと をと りわ け印 象深 く書 き止 めて いる
︒ 一│
三︑ 終戦 前後 の職 歴と 専門 領域
││ 広島 文理 科大 学地 学科 地質 学鉱 物学 専攻 嘱託 原 爆投 下時
︑長 岡が 所属 して いた 広島 文理 科大 学は 一九 二九 年四 月に 設立
︑三 一年 一〇 月に 開学 した 官立 の旧 制大 学で あっ た︒ 四三 年一
〇月 に地 学科 地質 鉱物 学専 攻が 設置 され る︒ 同校 五〇 年史 によ れば
︑授 業と して の地 質学 講座 が開 講し たの は同 年一 二月 の今 村外 治の 着任 によ って いた
︒と ころ が翌 四四 年六 月︑ 今村 は京 都帝 大に 転出 する
︒後 任の 梅垣 嘉治 の着 任は 同年 九月 であ った
⑾
︒し たが っ て︑ 先 に挙 げ た﹃ 事 典﹄ で︑ 長 岡が
﹁戦 時 中 の一 九 四 四年
︵昭 和一 九︶ から
﹂同 校嘱 託を 務め たと して いる のは
︑こ の間 の人 事異 動に とも なっ たと 推察 され る︒ 長岡 が同 校に 着任 し て 間 も な く
︑同 教 室 の 図 書 の 大 部 分 と 標 本・ 顕 微 鏡 類 は︑ 長 岡 の 斡 旋 に よ り 彼 の 自 宅 が あ っ た 玖 波 町 に 疎 開 す る⑿
︒ 終戦 間際 の四 五年 六月 には
︑岩 石学 担当 助教 授と して 小島 丈兒 が着 任し た⒀
︒ 小 島は 着任 早々 の四 五年 九月
︑次 節で 触れ る原 子爆 弾災 害調 査研 究特 別委 員会
・地 学班 に名 を連 ねる
︒調 査内 容の 詳細 は後 に譲 るが
︑問 題は 小島 が公 式の 調査 報告 が 出 版 され た 直 後に
︑改 め て﹁ 石 材と 屋 根 瓦 の被 害 か ら見 た 原 爆﹂ と題 した 修正 論文 を寄 稿し てい る点 であ る⒁
︒ 岩石 学の 専門 家と して 小島 は 被 爆石 の 研 究 に近 い 位 置に あ っ た︒ それ に対 し︑ 先の 手記 で﹁ 私の 資料
︑化 石鉱 物類
﹂と 述懐 して いる よう
︑当 時の 長岡 は化 石や 古代 生物 を専 門に した 可能 性が ある
︒マ ンモ スな ど古 代生 物が 豊富 な満 州で 学生 時代 を過 ごし
︑哈 爾賓 博物 館に 勤め た職 歴は
︑彼 がそ の領 域を
― 9 ― 長
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専 門と し た 蓋 然性 を 高 めて い る︒ 岩 石の 高 熱 に よる 様 態 変化 の 観 察 と分 析 に 関し て は︑ 少 なく と も 原 爆投 下 の 時 点 で︑ 長岡 より 小島 に一 日の 長が あっ たと 思わ れる
︒ と はい え︑ 戦後 の四 六年 四月 の地 質学 講座 の授 業再 開に 際し
︑資 料疎 開先 の玖 波国 民学 校が 同大 学地 学科 の分 室と なっ た⒂
︒ かほ ど︑ 長岡 は同 教室 の存 続に 貢献 した
︒し かし 四八 年六 月︑ 元京 城 帝 国大 学 教 授 兼朝 鮮 総 督府 地 質 調査 所技 師の 木野 崎吉 郎が 広島 文理 科大 学鉱 物学
・鉱 床学 担当 教授 に着 任す る⒃
︒こ れ によ り 長 岡 の同 教 室 にお け る 授業 担当 はな くな った よう であ る︒
﹃ 広島 県大 百科 事典
﹄は 長 岡 の文 理 科 大へ の 勤 務を 一 九 四 七年 ま で とし て い るが
︑そ れは 学年 歴の 四七 年度 末︑ すな わち
︑木 野崎 が就 任し た四 八年 六月 より 前の 春を 意味 する もの と思 われ る︒ 二
︑ 被爆 資 料 の収 集 と 公開 二│
一︑ 石材 及窯 業製 品等 の収 集│
│原 子爆 弾災 害調 査研 究特 別委 員会 地学 班 一 九四 五年 九月 一四 日︑ 日本 学術 会議 は﹁ 原子 爆弾 災害 調査 研 究 特別 委 員 会﹂ を 設置 し た⒄
︒ そ の日 の う ちに
﹁物 理化 学地 学科 会﹂ を含 む九 つの 分科 会と 二八 名の 委員 が発 表さ れる
︒地 学班 委員 には
︑東 京帝 国大 学の 渡辺 武男 が選 ばれ
︑そ の地 質調 査に 関わ る七 名に 長岡 の名 があ った
⒅
︒七 名の うち 現 地 調査 を 行 っ たの は
︑渡 辺︑ 長 岡と 東 京 帝国 大学 の山 崎正 男の 三名 のみ であ る︒ この 折の 渡辺 の調 査内 容を 一次 資料 から 精査 した 田賀 井篤 平に よれ ば︑ 彼ら 地学 班三 名は 地理 班三 名と とも に同 年一
〇月 一一 日か ら三 日間 かけ 広島 を調 査し た︒ その 方針 は﹁ 地質 の研 究者 が通 常行 って いる 調査 方法 をそ のま ま実 行し
︑原 子爆 弾に よっ てい ろい ろな もの がど のよ うに 変化 して いる かを 地図 上に 正確
長 岡 省 吾 に よ る 被 爆 資 料 の 収 集
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・ 展 示
― 10 ―
に 表し て い く﹂⒆
も の であ っ た︒ 広 島調 査 の 最 終日
︑メ ン バ ーは 玖 波 の長 岡 宅 に 泊ま る
︒そ し て︑ その 晩 の 話し 合 い で︑ 長岡 の長 崎調 査同 行が 決ま る︒ 彼ら は一
〇月 一五 日か ら四 日間
︑長 崎で 同様 の調 査を 行っ た︒ こ
れら の調 査結 果は
︑同 年一 一月 三〇 日に 開催 され た原 子爆 弾災 害調 査研 究特 別委 員会 第一 回報 告会 で渡 辺に よっ て発 表さ れる
︒翌 四六 年二 月二 八日 に第 二回 報告 会が あっ たが
︑地 学班 の発 表内 容は 第一 回と ほと んど 変わ らな かっ た⒇
︒ 報 告会 は こ の 二回 で 終 了と な り︑ そ の内 容 を も とに 五 一 年に
﹃原 子 爆 弾 災害 調 査 報告 書 総 括 編﹄
︑五 三 年 に は︑
﹃ 原子 爆弾 災害 調査 報告 集﹄ 二分 冊︵ 以下
︑﹃ 報告 集﹄ と表 記︶ が︑ 日本 学術 会議 から 刊行 され る︒ 翌年 には
︑そ の英 語版 も出 版さ れた
︒つ まり
︑こ れら に掲 載さ れた 地学 班の 報告 は︑ 出版 ま で 七乃 至 九 年 が経 過 し てい た に もか かわ らず
︑最 初の 調査 内容 の分 析を 踏襲 する もの であ った
︒ そ
の概 略は
︑以 下の とお りで ある
︒地 学班 は︑ 現地 調 査 に 赴き
︑﹁ 平 素 研究 の 対 象と し て 取 り扱 っ て いる 岩 石 類や 窯業 製品 等が 原子 爆弾 の爆 発の 影響 を著 しく 蒙っ てい るこ とを 知 った
﹂
︒熔 解 や石 は ね 現 象を 示 す それ ら は︑
﹁ 爆心 地附 近 に おい て そ の 影響 が 最 大で
︑こ れ を 遠ざ か る に した が い︑ そ の影 響 が 弱ま る こ と が明 ら か にな っ た﹂
︒ そこ から
︑﹁ 原 子爆 弾の 爆発 中心 地等 を想 定で きる こと も明 らか にな った
﹂
︒ま た︑ 熔 解安 山 岩 の 薄片 を 顕 微鏡 観 察 した 結果
︑そ こに は︑ 著し く不 均質 で気 泡に 富み
︑色 と屈 折率 も様 々に 異な るガ ラス 状に 変化 した 熔解 が認 めら れた
︒そ れ を短 時 間 で 熔解 し た 原子 爆 弾 特有 の 現 象 と導 き 出 す こ と も で き た
︒さ ら に は
︑﹁ 例 え ば 屋 根 瓦 の 熔 融 の 範 囲 は︑ 広島 より 長崎 の方 が範 囲が 広い
﹂ こと から
︑原 子爆 弾に よっ て︑
﹁長 崎市 の 方 が︑ 広島 市 の 場 合よ り 強 い変 化 を うけ
― 11 ― 長
岡 省 吾 に よ る 被 爆 資 料 の 収 集
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てい る﹂ と いう 結論 を導 き出 して いる
︒ 先 に挙 げた 田賀 井が 明ら かに した よう に︑
﹃ 報告 集﹄ に 掲 載さ れ た 地学 班 の 文面 は
︑渡 辺 に よる 草 稿 とほ ぼ 一 致す る
︒ し たが っ て 文 責は 渡 辺 にあ っ た と見 做 し て よい
︒広 島 に 関す る 内 容 は﹁ 緒言
﹂に 始 ま り︑
﹁調 査 お よび 研 究 方 法﹂ を説 明し た後
︑広 島市 域一 帯の
﹁地 質 概 観﹂ を 述べ
︑﹁ 石 材 及窯 業 製 品等 に 及 ぼ した 影 響﹂ を 報告 し て いる
︒挿 図は
︑花 崗岩 に表 面剥 離し た範 囲︵ 一〇
〇〇 m︶ と瓦 が溶 けた 範囲
︵六
〇〇 m︶ を爆 心か らの 同心 円で 示す
﹁広 島市 原爆 被災 地区 略図
﹂︵ 図 2︶ に始 まる
︒次 に墓 石や 橋柱 に 使 われ た 石 材の 剥 離 を示 す 通 常 写真 が あ り︑ 花崗 岩 中 の黒 雲母 の結 晶融 解を 示す 拡大 写真
︵図 3︶
︑ 安山 岩 熔 解を 写 す 顕微 鏡 写 真が 続 く︒ す な わち
︑巨 視 的 な視 点 か ら︑ 通常 視 と 近 接 視 を 経 て︑ 微 視 的 な 図 解 に 移 っ て い る
︒そ し て
︑ア スフ ァル トに 焼き つい た通 行人 の﹁ 死の 影﹂ の写 真
︵図 4︶ に至 る︒ それ はま た︑ 長岡 が手 記﹁ 廃墟 に佇 つ
﹂で 記 し た︑ 広 島 市 外 か ら 徐 々 に 市 内 中 心 部 に 近 づ き
︑爆 心近 くの 護国 神社 で異 様な 花崗 岩に 接し た後
︑失 意 の帰 路で
﹁死 の影
﹂を 見た 順番 に合 致す る︒ した がっ て
︑た と え﹃ 報 告 集﹄ 地学 班 の 文責 は 渡 辺 武 男 に あ り︑ 当 時の 長岡 の専 門領 域が 岩石 学で なか った とし ても
︑調 査 の 導 き 手 と し て 彼 が 大 き な 役 割 を 果 た し た こ と が︑
﹃報 告 集﹄ の 文章 構 成 と挿 図 の 順番 か ら 推 し量 る こ と が
図2 広島市原爆被災地区略図
A.護国神社 B.元安橋
C.相生橋 D.広島文理科大学
E.萬代橋 F.広島県庁
G.花崗岩の剥離の認められる範囲 R.瓦のとけた範囲
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でき る︒ 前
章で 見た よう
︑長 岡の 被爆 石に 対す る 関心 は 原 爆 投下 翌 日 に 始 ま っ て い た︒ 本 節で 見 た よ う
︑組 織 的 な 学 術 調 査 は︑ その ひと 月後 に始 まり
︑ひ と月 半で 結論 を出 し︑ その 後進 展し なか った
︒被 爆石 材や 窯業 製品 の収 集を 継続 し︑ 調査 の精 度が 上が るの は︑ 長岡 のそ の後 の個 人的 努力 に負 って いた
︒ 二│
二︑ 被爆 採集 資料 の公 開│
│原 爆参 考資 料陳 列室 の開 設 一 九四 九年 九月 二九 日︑
﹃ 中国 新聞
﹄朝 刊は
︑﹁ 眼み はる 原爆 資料
││ 基町 中央 公民 館に 見学 客お しか く﹂ とい う見 出し のも と︑
﹁ 原爆 参考 資料 陳列 室﹂ 開設 を伝 える 記事
︵図 5︶ を掲 載し た︒ 内容 は以 下の とお りで ある
︒ 広
島の 地に 幾多 のナ ゾや 奇跡 を残 し︑ 専門 家の 研究 や観 光客 の参 観に 垂え んの 的と なっ てい る原 爆参 考資 料陳 列室 をこ のほ ど市 では 暫定 的に 基町 中央 公民 館 内 に 開設 し た︒
︻ 写真 は 陳 列室 一 部︼ 市 で は被 災 以 来原 爆 に 関す
図3 広島元安橋附近で採集した黒雲母花崗岩、黒 雲母の結晶が熔融している有様(約30倍)
図4 広島萬代橋の「死の影」
― 13 ― 長
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る各 資料 を集 めて おり
︑昨 秋か らは 元広 島文 理大 地質 鉱物 学教 室嘱 託長 岡省 吾氏 が市 嘱託 とし て中 心と なり 収集 整理 を続 け︑ 全資 料は 将 来平 和 記 念 館 が 建 設 さ れ た 際 は 同 館 内 に 陳 列 さ れ る 予 定 で あ る が︑ とり あえ ず予 算が ない ため 公民 館の 一室 で机 のう えに なら べて 設備 は貧 弱な がら 公開 する こと にな った もの
︒陳 列品 は岩 石︑ かわ ら︑ コ ンク リ ー ト︑ 植 物類 六
︑七 百 点の ほ か︑ 被 害統 計 表 な ど で︑ おそ らく 部屋 は小 さく ても 世界 随意 一の 収集 室だ と関 係者 は語 って いる
︒陳 列さ れた 焼瓦 や変 形岩 石に より 放射 能ム ラが あり
︑瞬 間的 な各 種の 影が はっ きり 残り
︑断 焼熔 解上 の変 化な ど原 爆の 奇異 が素 人 眼に も 確 か め ら れ る の で 内 外 人 が 開 設 以 来 早 く も 多 数 訪 れ て い る︒ 以
上が 全文 であ る︒ ここ から
﹁原 爆参 考資 料陳 列室
﹂に 関し
︑少 なく とも 以下 四点 のこ とが わか って くる
︒① 長岡 は︑ 一九 四八 年秋 から 市の 嘱託 とし て同 室 開設 に 取 り 組ん で い た︵ これ は
﹁一 九 四九 年 か ら⁝
広 島 市 役所 に 勤 務﹂ とし た﹃ 広島 県大 百科 事典
﹄の 記述 と異 なる
︶︒
② 同室 陳 列 資料 は
︑新 た に建 設 さ れる 平 和 記 念館 に 移 すこ と に なっ てい た︒
③同 室陳 列資 料は
︑岩 石や 植物 など 採集 物が 大半 で︑ その 数は この 時点 で六
〇〇 から 七〇
〇点 であ った
︒④
﹁ 幾多 のナ ゾや 奇跡
﹂と いう 言い 廻し や﹁ 放射 能ム ラ﹂ と い う記 述 に 見ら れ る よう
︑被 曝 に 関 する 当 時 の一 般 的 理解
図5 原爆参考資料陳列室開室を伝える『中国 新聞』1949年9月29日朝刊。写真提供:
中国新聞社
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は︑ 憶測 と誤 解に 満ち てい た︒ 一
方︑ この 記事 の隣 には
﹁シ リカ
・ガ ラス 送れ
南 豪博 物館 から 懇請 状﹂ とい う見 出し のも と︑ シド ニー の博 物館 から 同室 宛に
︑被 爆に より ガラ ス質 に変 わっ た鉱 物送 付の 要請 が あっ た こ とを 伝 え て いる
︒す な わ ち︑
⑤開 設 の時 点で
︑同 室は 研究 機関 とし て海 外か ら認 知さ れて い た︒ そ こ に長 岡 が 寄与 し て いた こ と は 容易 に 想 像が つ く︒
﹁ 原爆 参考 資料 陳列 室﹂ は以 上の よう な状 況で
︑一 九四 九年 九月 二八 日以 前に 開設 した ので ある
︒ と
ころ で︑ 冒頭 で述 べた 長岡 の遺 族か らの 寄託 資 料に は︑
﹃ ひろ しま 公民 館報
第 1号
﹄︵ 広島 市中 央 公民 館︑ 昭和 二九 年一
〇月 一〇 日発 行︑ 以下
﹃公 民 館報
﹄と 表記
︶が 含ま れて いた
︒そ こに は︑ 平面 図
︵ 図6
︶を は じ めと す る 同館 の 基 本 情 報 が 掲 載 さ れ てい て︑ 新た に以 下の こと が明 らか にな った
︒⑥ 中 央 公民 館 は
︑一 九 四九 年 七 月三 一 日 に 設 立 さ れ た
︒
⑦同 館 は 木 造平 屋
︑建 坪 二 四 二・ 七 五 坪 で あ っ た
︒
⑧こ のう ち︑ 原爆 参考 資料 陳列 室と して 使用 され た のは
︑先 の﹃ 中国 新聞
﹄掲 載の 写真 や︑ 部屋 の用 途
図6 広島市中央公民原爆記念館平面図
― 15 ― 長
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から 考え
︑倉 庫︵ 三・ 七五 坪︶ であ った 蓋然 性が 高い
︒さ らに
︑原 爆記 念館 の竣 工日 が昭 和二 五年 八月 六日 とあ るた め︑
⑨原 爆参 考資 料陳 列室 開設 期間 は︑ 一九 四九 年九 月下 旬か ら五
〇年 八月 初め まで の約 一〇 ヶ月 であ った
︒以 上九 点を 原爆 参考 資料 陳列 室の 基本 情報 とし て抑 える こと がで きる
︒ 一 九四 九年 二月 に広 島市 が︑ 市長 と市 議会 議長 の連 名で 作成 した
﹁請 願書
﹂に は︑ 平和 記念 公園 内に 建て る平 和会 館に
﹁陳 列室
﹂を 設け るこ とを 謳っ てい る︒ その 設置 趣旨 は﹁ 原子 爆弾 災害 の一 切の 資料 を収 集し て世 界平 和愛 好者 の 参考 及 び 研 究に 供 す る﹂ た めで あ っ た︒ す なわ ち
︑そ の 収集 対 象 は原 爆 被 災 資料 に 限 られ て い た︒ 次に
︑そ の 来 室者 に は︑ 専門 家 や 海 外の 研 究 者を 想 定 して い た
︒そ う した 施 設 とし て
︑
﹁ 陳列 室﹂ の設 置 を 考 えて い た︒ 先 の記 事 に ある よ う に 四八 年 秋 から 長 岡 が市 の嘱 託と して 働い てい たな らば
︑こ の文 案は
︑彼 の存 在が あっ たか ら こ そ生 ま れ た もの と 考 え ざ る を え な い
︒当 時 広 島 市 長 で あ っ た 浜 井 信 三 が︑ 四八 年秋 以前 に長 岡の 研究 の重 要性 を認 識し て作 成さ れた 設置 趣旨 と 推し 量る こと がで きる
︒暫 定的 にで も︑ いち 早く 原爆 参考 資料 陳列 室が 開 設さ れた のは
︑当 時の 長岡 の熱 意と
︑そ れを 受け 止め た浜 井の 信頼 と期 待 の篤 さに 由来 する と考 える こと がで きよ う︒ 二│
三︑ 原爆 記念 館の 開館 一 九 五
〇 年 八 月 六 日 に 竣 工 し た 原 爆 記 念 館
︵図 7︶ は︑ 前 節 で 述 べ た
図7 基町の原爆記念館(1952年)
撮影:岩波映画製作所
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﹃ 公民 館 報
﹄掲 載 の平 面 図︵ 図6
︶に あ る よう
︑中 央 公 民 館に 増 設 され た 建 物で あ っ た
︒本 館 と は 通 路 で つ な が り︑ 図 面に は
﹁原 爆 資 料陳 列 室﹂ と 記さ れ て いる
︒つ ま り そ れは 中 央 公民 館 内 に ある 部 屋 の名 称 に 過 ぎ な い
︒組 織 的 に は︑ あく まで も中 央公 民館 に属 して いた
︒と はい え︑ 本 館と は別 に出 入口 を持 つ﹁ 原 爆記 念館
﹂と 名乗 り︑
Atomic Bomb
Memorial Hall
とい う看 板 も 掲げ て い た︒ 建坪 は 四
〇 坪︵ 約一 三 二㎡
︶で
︑正 方 形 の部 屋 ふ た つを 併 置 した つ く りで あっ た︒ そこ から 一部 屋一 辺の 長さ は︑ 四間 半︵ 約八
・二 m︶ であ った と算 出で きる
︒ 長
岡の 遺族 から の寄 託品 には
︑﹁ 原 爆資 料 館 保管 簿 広 島 市 原爆 記 念 館﹂ と題 さ れ た 台帳 が 含 まれ て い る︒ それ を翻 刻し たも のが
︻表 1︼ であ る︒ 台帳 に日 付の 記載 はな いが
︑一
︑二 番に ある 一五
〇枚 の写 真と 三番 から 七番 にあ るわ ずか な備 品︑ そし て八 番以 下の 被爆 鉱物 等が その すべ てで ある こと から
︑開 館当 初に 作成 され たと 推定 でき る︒ その うち
︑一
〇番 に は長 崎 市 の 被爆 瓦 や 岩石 も 含 ま れ て い る︒ 広島 が被 災し た規 模を 示す ため に︑ 長崎 との 比較 を重 視し た現 れで ある
︒被 爆鉱 物類 の総 数は 一︑ 三九
〇点 で︑ 原爆 参考 資料 陳列 室開 設時 から ほぼ 倍増 して いる
︒ 一 方︑ 広島 市公 文書 館に は︑ 一九 五〇 年六
【表1】原爆資料保管簿 広島市 原爆
記念館
数量 90 60 1 1 1 1 3 283 554 18 10 20 5 500 註:通し番号は便宜的につけた。原簿
には「受入年月日」「物品取扱主任 印」な ど の 項 目 が 載 っ て い た が、
未記入であったため割愛した。
適用 原爆写真A No.1-90 原爆写真B No.1-60 傾斜儀
製図器 縮尺 雲形定規 写真帳
瓦岩石A No.1-283 瓦 B No.1-554
瓦岩石C(長崎市)No.1-18 瓦B特 Np.1-10 陶器ガラス D No.1-20
B特 No.1-5(花崗岩)
安山岩礫No.1-500 1
2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14
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【表2】平和会館陳列室 陳列物品一覧表
1950. 6. 27 内容
被爆前写真100点、被爆後写真350枚、現況航 空写真(6×6 m 床置き)
瓦、石、硝子等2000点(大部分は50 cm乃至5 cmの間)、建築物端片15点(沢山の硝子によ り傷つけられた壁面、沢山の硝子のささった柱、
放射線の影響を受けた工作物等)
広島全景3点(戦災前、戦災直後、将来計画)、
被爆建造物模型15点(産業奨励館模型、広島城 模型、相生橋模型)
1万分の1地図50枚、5千分の1地図20枚(地 図により爆心位置、爆心よりの距離、爆風の影 響、気象学との関係、放射線の距離的時間的推 移等を説明す)
20枚(地点別、被害、放射能の時間的推移等を 示す)
200点(標本、被害模型等)
50点(衣服、所持品等)
被爆せる樹木、花の枯死せるもの(遺伝関係の 変化を示すため、被爆植物と非被爆植物を併列 する)
50点(被爆状況に関係せる絵画、各階層の人々 により画かれたるものを陳列す)
被害比較地図グラフ3面、長崎被害写真全紙大 10枚、半紙大20枚
原子科学に関するパノラマ10枚、原子研物に関 する図面、グラフ5面、原子研物25点(放射能 検出器、原子科学関係写真、原子力の文化生活 への利用想像図等)
100冊(現在迄に残された記録、文献等を蒐集 陳列す)
床面積
(㎡)
36 160
168
50 30 55
10 5
20
534 壁面積
(㎡)
112.5
390
80
60
22.5 31.5 60
756.5 種別
項目 写真 被爆物品
模型
地図
統計グラフ 医療関係 遺留品 植物
絵画 広島長崎比 較 原子科学関 係資料
記録文献 事務室、研 究室等
合計 1 2
3
4
5 6 7 8
9 10 11
12 13
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― 18 ―
月二 七日 付け で市 が作 成し た﹁ 平和 会館 陳列 室 陳列 物品 一覧
﹂が 保管 され てい る︒ 陳列 館の 実施 設計 終了 直後 に提 出さ れた もの で︑ その 中身 を具 体化 する ため 一覧 にさ れた もの であ ろう
︒と 同時 に原 爆記 念館 竣工 ひと 月余 り前 に作 成さ れた とい う意 味で
︑同 館開 設時 の資 料︻ 表1
︼に
︑何 を加 えよ うと して いた かを 伝え る一 覧に もな って いる
︒こ の時 期︑ 広島 市関 係者 でこ れを 作成 でき たの は長 岡を おい て他 に考 え難 い︒ 内 訳 は︑
︻ 表2
︼の と お りで あ る︒ ま ず目 を 引 く の は
︑瓦
︑石
︑硝 子 等 二
︑〇
〇
〇 点 を は じ め と す る﹁ 被 爆 物 品﹂ が︑ 点数 的に も 床 面 積︵ 一六
〇
㎡︶ の上 で も︑
﹁ 医療 関 係﹂
︵ 五〇
㎡︶ や﹁ 遺 留品
﹂︵ 三
〇
㎡︶ など 他 の 被爆 資 料 を圧 倒 して い る 点 であ る
︒ま た︑
﹁ 原爆 資 料 館保 管 簿
﹂に 記 載さ れ た 被爆 鉱 物 類 が
︑一
︑三 九
〇 点 で あ る こ と か ら︑ 二︑
〇〇
〇と いう 数字 は︑ 原爆 記念 館開 館後 も︑ その 収集 を続 ける 姿勢 を示 して いる
︒ 注
目す べき は︑ それ と同 等 以上 の 床 面 積︵ 一六 八
㎡︶ を﹁ 模型
︵広 島 全 景三 点
︑被 爆 建 造物 模 型 一五 点
︶﹂ に 割こ うと して いる 点で ある
︒す なわ ち︑ まず
︑岩 石や 瓦類 が原 爆の 熱線 によ って 生じ た表 面変 化を 実物 資料 で示 す︒ それ を受 けて
︑市 街全 体が 原爆 によ り被 った 物理 的変 化を 模型 によ って 示そ うと する 狙い であ る︒ その 結果
︑岩 石や 瓦類 のミ クロ 的変 化が 見る 者の 痛点 など の身 体感 覚に 訴え
︑そ れが 市域 全体 の被 った マク ロ的 状態 変化 の把 握に 連動 する こと を想 定し てい る︒ これ は︑ 長岡 が﹁ 廃墟 に佇 つ﹂ で綴 った
﹁感 覚的 刺激
↓観 察↓ 理性 的判 断と いう 思考 連鎖
﹂と 同じ もの でも ある
︒そ れは また
︑実 物資 料や 模型 の存 在感 と︑ 手を 伸ば せば 触れ るこ とが でき ると いう 潜在 的触 知可 能性 に依 拠し たプ ラン でも ある
︒﹁ 陳 列物 品一 覧﹂ 作 成 者︑ おそ ら く は長 岡 で あろ う こ の 人物 は
︑少 な くと も 五
〇年 六月 の時 点で
︑こ うし た点 を重 視し た資 料配 置を 構想 して いた
︒
― 19 ― 長
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二│ 四︑ 広島 全景 模型 と解 説図 板の 導入
││ 一九 五二 年の 原爆 記念 館 原 爆記 念館 に関 して は︑ 岩波 写真 文庫 のう ち﹃ 広島
│戦 争と 都市
﹄取 材班 が︑ 一九 五二 年の 春か ら夏 にか けて 撮影 した 鮮明 な写 真が 四枚 公刊 され てい る
︒ その うち の一 枚は
︑同 館第 一室 入口 付 近 から 斜 め 奥 にカ メ ラ を向 け て 撮影 した 写真
︵図 8︶ であ る︒ 目を 引く のは
︑画 面の 下お よ そ 三 分の 一 を 占め る 被 災し た 市 街 模型 で あ る︒ その 寸 法 は︑ 原爆 記念 館一 室一 辺の 寸 法︵
=
八
・二 m︶ か ら 考え て
︑五 m四 方 に近 い 規 模で あ っ た と推 定 で きる
︒そ れ は︑
﹁ 平和 会 館陳 列室
陳 列物 品一 覧﹂
︻ 表2
︼の 3に ある 広島 全景 模型
︵戦 災直 後︶ に 先ん じた もの であ った
︒長 岡は それ に執 着し
︑先 行的 に実 現さ せた
︒壁 沿 いに 設置 され たの ぞき ケー スの なか の岩 石類 と市 街模 型を 見較 べる こと に よっ て︑ 来館 者の 触覚 から 概念 的把 握を 連動 させ る工 夫で ある
︒ 同じ
写真 の壁 に目 を転 じる と︑ 第二 室へ の入 口上 に︑ 扁額 のよ うに 吊る さ れた 縦書 きの 図板
︵解 説パ ネル
︶が 見え る︒ 太字 で記 され た﹁ 爆発 時の 状 況﹂ と﹁ 爆心 の位 置﹂ とい う見 出し は︑ 次章 で触 れる 長岡 が一 九五 四年 に 執筆 した 解説 書の 第一 と第 二の 見出 しと 一致 する
︒左 側壁 面中 ほど に写 る 図板 には
﹁原 子爆 弾爆 発﹂ の文 字が 日英 併記 され
︑そ の内 容が 図解 され て いる
︒こ れら は︑ 市街 被災 模型 を来 館者 に見 せ︑ 被害 状況 の全 体像 を把 握 させ た後
︑彼 らに その 原因 とな った 爆弾 を物 理学 的に 説く 意味 合い があ
図8 原爆記念館内部(1952年)
撮影:岩波映画製作所
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る︒ 注目 すべ きは
︑第 二室 の最 初に 見え る図 板に
﹁ウ ラニ ウム
﹂と 書か れ︑ ここ にも 大き な図 解が され てい る点 であ る︒
︻ 表2
︼に
﹁原 子科 学関 係資 料﹂ の項 目が ある よ う︑ 原 爆記 念 館 にお い て すで に
︑原 子 物 理学 の 基 礎に 関 す る啓 蒙が 行わ れて いた
︒岩 波写 真文 庫取 材班 が捉 えた 写真 は︑ その 証左 にな って いる
︒ 壁
の最 も高 い位 置に は同 規格 の額 が吊 るさ れ︑ その それ ぞれ に二 から 四枚 の写 真が 掲出 され てい る︒ 将来 的に 陳列 館 で公 開 さ れ る﹁ 陳列 物 品 一覧
﹂︻ 表 2︼ にあ る 写 真 一点 の 寸 法は 五
〇㎝ 四 方と 算 出 で き る が
︑こ こ で は
︑そ の よ う な引 き 伸 ば しは さ れ てい な い︒
︻ 表2
︼第 一 項 目に あ る﹁ 被 爆後 写 真 三五
〇 枚﹂ を そ のま ま 掲 出 し た の で あ ろ う︒ それ らを 一つ ひと つ見 るこ とは
︑来 館者 に時 間と 忍耐 を求 める こと を意 味す る︒ 原爆 記念 館に おい ては
︑原 子物 理学 の啓 蒙に 力を 入れ る一 方︑ 原爆 被災 者に 対し ては
︑充 分と はい える 紹介 の仕 方を して いな かっ た︒ 三
︑ 人的 被 害 への 眼 差 し 三│
一︑ 市街 荒廃 と人 体損 傷の 視覚 的対 比│
│
HIROSHIMA under Atomic bomb attack
の刊 行 一 九五 四年 八月 六日
︑竣 工四 年目 にあ たる この 日
︑原 爆 記 念館 は 長 岡省 吾 に よる 英 日 併 記著 書
HIROSHIMA- H iro-
shima under A tomic bomb attack
︵以 下︑
HIROSHIMA
と 表 記︶ を発 行 し た︒ 邦題 は
﹃ひ ろ し ま 原子 爆 弾 によ る 被 害 状 況﹄ とさ れ て い る︒ つま り
︑英 文 タイ ト ル では
attack
と して い る も のを 邦 題 では
﹁被 害
﹂と 書 き 換 え
︑原 爆 投 下 の受 け止 め方 の差 を使 用言 語に よっ て鮮 明に 使い 分け てい る︒ 内容 は︑ 広島 にお ける 原爆 投下 の結 果を 伝え る刊 行物
― 21 ― 長
岡 省 吾 に よ る 被 爆 資 料 の 収 集
・ 公 開
・ 展 示
で︑ 英文 二〇 頁︑ 写真 掲載 頁は 見返 しも 含め 三六 頁︑ 和文 一〇 頁か らな って いる
︒本 文は
︑客 観的 な記 述と 統計 の分 析に もと づく が︑ それ もさ るこ とな がら
︑豊 富な 掲載 写真 によ って
︑原 爆投 下の 結果 を視 覚的 に訴 える とこ ろに 本書 の特 徴が ある
︒ 文 章の 書き 出し は︑
﹁ 昭和 儡年 8月 6日
︒午 前 8時 儜分
︒晴 天 無風 状 態
﹂ で あ る︒ すな わ ち︑ 手 記﹁ 廃墟 に 佇 つ﹂ と同 様︑ その 日広 島が 晴朗 であ った こと を最 初に 伝え てい る︒ 快晴 無風 の真 夏の 朝﹁ ドン
⁝⁝ とい う爆 発音 で眼 をさ まし た﹂ 回想 で始 まる 手記 に対 し︑
HIROSHIMA
の 記述 は︑ その 日の 朝︑ 米国 陸軍 機 B優 三機 が 飛 来し
︑う ち 一 機が 市の 中心 部に 原子 爆弾 を投 弾し たと いう 日本 陸軍 高射 砲隊 の観 測報 告 に よ っ て い る
︒﹁ 爆 発 当 時 の 状 況
﹂と 題 さ れ た こ の 最 初 の 節 で は
︑ 以下
︑地 上約 五七
〇m で爆 弾は 炸裂 し︑ 直径 約六
〇m の火 球を 生じ た こと
︑そ の温 度は
︑三
〇万 度に 達し たこ と︑ それ にと もな う火 焔に よ って
︑広 島市 の約 四割 が放 射性 物質 に覆 われ たこ とが
︑米 国原 子力 委 員会 の資 料に もと づ き記 さ れ てい る
︒そ れ に 続い て 長 岡が
﹁熱 線 の 遮断 物に 依り 生じ た 影﹂ 六︑ 五 三四 点 の 方角 と 仰 角 を測 定 し た結 果
︑ 空中 爆心 地を 特定 した こと を記 して いる
︒こ こに
︑日 本学 術会 議の 公 式調 査以 降︑ 長岡 が一 人で 行っ た研 究成 果が 示さ れて いる
︒ そ れに 加え
︑掲 載さ れた 写真 の順 番と レイ アウ トか ら︑ 被爆 に対 す る長 岡の 関心 の広 がり を読 み取 るこ とが でき る︒ 掲載 図版 は︑ 広島 市
図9 広島航空写真:長岡省吾『HIROSHIMA』(1954 年)より
長 岡 省 吾 に よ る 被 爆 資 料 の 収 集
・ 公 開
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全域 を写 した 航空 写真
︵図 9︶ に 始 ま る
︒一 頁 め く る と﹁ 原 子 雲
﹂ の写 真に なる
︒さ らに 一頁 めく る と︑
﹁ 廃 墟 と 化 し た 広 島 全 市﹂ の パノ ラマ 写真
︵図 儗︶ が折 り込 み 掲載 され てい る︒ 視線 は徐 々に 市 中に 入り
︑中 景か ら建 物個 々を 捉 えた 写真 が続 く︒ そし て︑ 被爆 し た市 街の 中景 写真 二枚 と被 爆者 収 容施 設を 遠目 に捉 えた 写真 二枚 を 同じ 紙面 にレ イア ウト した 頁︵ 図 儘︶ が 現 れ る
︒こ の 後︑ 視 線 は 徐々 に被 爆者 個々 に近 づき
︑熱 線 によ りケ ロイ ドが 生じ た被 爆者 の 近接 写真
︑さ らに は墓 石の 剥離 の 影 や ア ス フ ァ ル ト に 焼 き 付 い た
﹁ 死 の 影﹂ の 頁
︵図 4︶ へ と つ な
図10 廃墟と化した広島全市:長岡省吾『HIROSHIMA』(1954年)より
図11 被災した広島市街および被爆者収容施設:長岡省吾『HIROSHIMA』(1954 年)より
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岡 省 吾 に よ る 被 爆 資 料 の 収 集
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・ 展 示
がっ てゆ く︒ すな わち
︑同 書は 原爆 によ る広 島の 被害 状況 を︑ 市街 全域 や建 物の 荒廃 写真 から 始め
︑人 体の 状態 変化 へと 読者 の視 線を 導い てい る︒ 本
文 で も﹁ 人 体障 害 作 用﹂ とい う 見 出し を 設 け︑ 原 子爆 弾 症 を射 熱 症 と外 傷 と 放 射能 症 の 三つ に 分 け て 捉 え て い る︒ さら には
︑死 者と 負傷 者の 総数 を示 すに とど めず
︑男 女別 に都 道府 県別 生存 者数 を一 桁に 至る まで 数え 挙げ た一 覧表 を掲 載し てい る
︒ 被爆 後を 生き る人 を伝 える 発想 は五
〇 年 六月 作 成 の﹁ 陳 列物 品 一 覧﹂
︻表 2︼ に はな か っ た︒ それ に対 し︑
HIROSHIMA
で は︑ 被爆 後を 生き る人 に向 き合 い︑ 彼ら のこ とを 伝え る姿 勢を 端的 に示 して いる
︒ 三│
二︑ 人的 被害 への 注意 喚起
││ 東京 原爆 展
HIROSHIMA
の出 版か ら四 ヶ月 近く が経 過し た一 九五 四年 一一 月二 五日 から 一二 月三 日 にか け て︑ 東 京都 港 区 芝に ある 日本 赤十 字社 の本 社講 堂に おい て﹁ 広島
・長 崎原 爆資 料公 開展
﹂が 開催 され た︒ 広島 では
﹁東 京原 爆展
﹂と 通称 され る本 展の 主催 者は
︑日 本赤 十字 社と 被爆 二都 市 の 三 者で あ っ た︒ 開催 趣 旨 は︑
﹁広 島 や 長 崎の 原 爆 被害 の 実 相を 明ら かに し︑ 原水 爆使 用禁 止に 関す る世 論喚 起に 資す ると とも に︑ 原爆 障害 者治 療対 策の 重要 性を 強調 し︑ 政府 の支 援を 強力 に要 請す るこ と﹂ に あっ た︒ こ
の年 のは じめ
︑日 本赤 十字 中央 病院 院長 には
︑都 築正 男が 就任 して いる
︒彼 は︑ 一九 四五 年八 月に 原爆 症患 者を 最初 に認 定し た医 師で あっ たば かり でな く︑ 五四 年三 月一 日に ビキ ニ環 礁の 水爆 実験 で第 五福 竜丸 が被 災し た際
︑医
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学調 査を 行い
︑衆 議院 や赤 十字 国際 会議 にお いて 証言 した 医師 でも あっ た︒ 彼は また
︑五 三年 一〇 月一 三日 には 広島 県医 師会 館で 外科 関係 原爆 障害 者三
〇名 を診 察し
︑翌 一四 日に は広 島市 民病 院で 三名 の公 開手 術を 行っ た原 爆被 災者 治療 の第 一人 者で あっ た
︒ 一方
︑広 島・ 長崎 両市 関係 者は
︑五 四年
︑原 爆 被 災者 の 治 療 費に 関 す る協 議 を 重ね
︑同 年九 月に 厚生 省か らよ うや く初 めて 原爆 治療 対策 費を 勝ち とっ たば か り であ っ た
︒ こ う した 状 況 のな か
︑三 者 の思 いが 一致 して 本展 が開 催さ れる
︒そ こで は新 聞 報 道 によ れ ば︑
﹁ 広島 で
!
ピ カ ドン"
を う け 一 瞬に し て 灰と 消 え た勤 労者 学徒 のナ マヅ メ︑ 皮膚 の一 部な ど生 々し い資 料や
︑長 崎市 浦上 天主 堂の
!
ア ンジ ェラ スの 鐘"
の破 片︑ 故永 井博 士の 遺品 など をは じめ
︑当 時の 悲惨 な状 況を 思い 起こ させ る被 災物 百十 点︑ それ に写 真︑ 図版
︑ス ライ ドな ど四 百八 点が 展示
﹂ され た︒ 長
岡の 遺族 の寄 託資 料の なか には
︑本 展に 出品 され た資 料一 覧が 含ま れて いる
︒そ れを 翻刻 した もの が︻ 表3
︼で ある
︒こ れを 先に 挙げ た五
〇年 六 月作 成 の
﹁平 和 会館 陳 列 室 陳列 物 品 一覧
﹂︻ 表 2︼ と 対比 す る こと に よ って
︑原 爆記 念館 開設 から 四年 を経 て︑ 被爆 資料 の捉 え方 とそ の見 せ方 に関 する 意識 の変 化を 浮き 彫り にす るこ とが でき る︒ ま
ず︑ 指摘 して おか なけ れば なら ない こと は︑ 両者 の間 には
﹁陳 列﹂ から
﹁展 示﹂ へと 展覧 会用 語の 変化 が認 めら れる こと であ る︒ 一般 に︑
﹁ 展示
﹂と いう 言 葉 は︑ 単に も の を並 べ た 公開 を 意 味 する
﹁陳 列
﹂に 代 わっ て
︑並 べ る順 番や 置き 方を 工夫 する こと によ って
︑観 覧者 に対 する 誘導 と啓 蒙を 行う 語と して
︑昭 和三
〇年
︵一 九五 五︶ 頃か ら多 く用 いら れる よう にな った とさ れて いる
︒し たが っ て︑ 一 九五
〇 年 作 成の
︻表 2︼ と 五四 年 作 成の
︻表 3︼ の 間に
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【表3】東京原爆展・展示資料一覧 A.一般的展示資料
4尺×6尺 1枚 6尺×9尺 1枚
3尺×3尺 12枚 1.8尺×2.2尺 100枚
100点 100点
テープ2巻(吹き込み料)
B.被災物(一般)展示資料
衣類 5点、時計 2点、竹 4点、立体模型 1点、靴 1点、馬皮ケロイド 1点、馬の眼球 1点、布の爆疫 1点、人骨と灰 1点、安山岩鉱 10点、鉄 平岩 1点、柘榴岩類 5点、針 1点、古銭焼け 1点、アルミ貨焼け 1点、
硯 1点、陶 器 類 20点、硝 子 製 品 15点、釘 1点、学 徒 の 生 爪 と 生 皮 1 点、セメント製品 3点、黒雲母片麻岩 1点、溶解状となった瓦 6点、瓦類 の変化各種 15点、碁石 1点、合計100点
C.原爆障害者関係展示資料
1枚 2枚×2 1枚+6枚+1枚 1枚
1枚 4枚+6枚 5枚+15枚+10枚 若干
2枚 2枚 2枚 1.趣意書
2.日本地図及び被曝生存者表(広島・
長崎)
3.原爆爆破状況(広島市のみ)
4.原爆被害状況(「上下水道被害状況」
等12項目)
1.原爆直後の広島市(原爆前の広島市 写真)
2.原爆当時の被害状況 3.被災物
4.原爆障害者関係 1.出品現物に対するもの 2.写真に対するもの 原爆と広島
1.総体的説明 2.眼科 3.内科 4.健康管理
5.原爆障害者治療対策協議会の活動 1.眼科
2.外科 3.内科 1.白血病 2.パシチー症 3.赤血球
ケロイドを外科手術したものの肉片(ア ルコール漬)
1.図板
2.写真
3.説明書 4.スライド
1.図板
2.写真
3.スライド
4.展示物
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