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元国民学校生徒:王紹海氏へのインタビュー記録       大森直樹  張 亜東

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(1)

元国民学校生徒:王紹海氏へのインタビュー記録       大森直樹  張 亜東

解説

 近年、日本の植民地教育の研究において、当事者・現地の体験者からの「聞き取り」調査 が重視さつつあるΦ。とりわけ植民地「満洲国」の教育研究では、 「聞き取り」調査から 得られたデータを、文書資料を補う副次的なものとしてではなく、研究資料の中心に据える 試みも始まっている(2)。 政策・制度史を中心とした先行研究をふまえつつ、かつての生 徒・教師・行政官の生育史を軸にして「満洲国」教育を捉えなおす試みである(・3)。 「満洲 国」初等教育の体験者である王紹海氏(以下敬称略)の証言をまとめた本記録も、このよう な「満洲国」教育研究の一環である。とくに王の事例に注目したのは以下の理由からであっ

た。

 まず第1に、 「満洲国」建国から4年を経た1936年に王が生まれていた事実が重要であ る。「満洲国」下で生を受けた王にとって、「満洲国」の存在は自明のものとならざるを得 なかった。このため、 「満洲国」崩壊直前に国民学校(後述)に入学した王は、いわば純粋 培養的に「満洲国」教育を受けたのだった(表1参照)。王は次のように証言している。

「当時教育を受けたとき、私は自分が中国人であることを全く知りませんでした。自分 を偽満洲国人だと思っていました」

 王のこのような意識形成のプロセスを就学前から辿ったのが本記録である。日本軍(関東 軍)や憲兵に対する王の印象も語られ、王の日本人観の形成の道筋も述べられている。

 第2に、王の「満洲国」教育体験が国民学校ωに関わるものだったことが注目される。

国民学校とは、1937年の学制公布によって実施された「満洲国」独自の4年制初等学校であ る。2年制の国民優級学校に接続して総計6年間の初等教育を構成し、このあとに中・高等 教育が接続した。設置数からみても「満洲国」における最も主要な教育機関だったが、その 実態はこれまで明らかになっていなかった。王が1945年3月に入学した寿亨国民学校につい て、日本語教育の実施状況や教師の民族構成(寿亨国民学校学校の場合日本入教師はいな かった)が語られている。

 第3に、「満洲国」教育における暴力の問題を考える上で王の証言が重要である。今回の

インタビューより2年前の日中合同研究交流会の席上で5、−Eは「満洲国」教育の特質を

列挙し、その第4番目の特質を次のように述べていたのである。

(2)

表1 王野平氏略年譜

西暦 歳 月日    王野平氏の行動 月日    関連事項

1931

9.18 関東軍、「満洲事変」起こす

1932 3.9 「満洲国」建国

1936

0

3.12鉄嶺県 街にて生まれる

1940

一.一

@家族とともにチチハル蒙古屯に移る 1944

一.一

@家族とともにチチハル三里巷に移る

1945

8

3.1 寿亨国民学校入学 8.8 ソ連、日本に宣戦布告、「満洲国」

9

8.一 ソ連軍の空爆などにより同校閉校 に侵攻開始

8.15 天皇、戦争集結の詔書を放送

1946

3.一 寿亨学校再開

一.一

@寿亨学校、チチハル第二初級小学校

1947

3.一 チチハル第二初級小学校卒業 に改称

一.一

@チチハル第五完全小学校入学

戦 1949

13

10.韮 中華人民共和国建国

1951

3.一 同卒業、チチハル第一中学校入学

15

8.一 チチハル第二中学校編入

1952

16

8.一 チチハル第三中学校編入

1953

17

8.一 黒龍江省実践中学校(後チチハル実

験中学校(編入)

華 1956 20 8.一 同卒業

8.一 東北師範大学(1958年より1981年ま

で吉林師範大学)入学

1960 24 8.一 東北師範大学卒業 和 8.一 吉林実験中学校勤務

1979 42 2.一 吉林省教育科学研究所勤務 成 1983 47 10.一 吉林省高等教育科学研究所勤務 立 1989

3.一 吉林省教育科学院勤務

以 53 5.一  『東北 陥14年教育史』刊行(共

編)

「第4番目の特質は体罰教育といいますか、叩く、子どもを殴る、そういう教育、こん 棒教育でした。こうした現場のやり方は、文献、文書には残っていません。しかし、こ の件について、そのとき教育を受けた私たちのような生徒だった入には、自分の体験が

あります」c61

 つまり、王のいう「こん棒教育」の実態を明らかにするためには、「聞き取り」調査以外 の方法がないことを王は語っていたのである。なお王が体罰を受けたのは中国人教師からで あった。暴力の実施をもって「満洲国」教育の特質とすることができるかどうかについて は、さらに「聞き取り」調査を重ねていく必要がある。

 最後に記録の収録方法について。本インタビューは、1993年8月15日に中国吉林省の長白

山賓館にて行ったものである(通訳:張、昼食をはさんで11時30分〜14時頃)。その際、こ

れに先立ち王の来日時に行ったインタビューの記録71を参考にしている。通訳を介して実

施したインタビューの収録にあたっては、まず、録音された王の証言を中国語のまま書きお

こし、それを大森と張が議論のうえ日本語に翻訳する方法をとった。通訳の会話旧本語)

(3)

をそのまま活字にするだけでも証言の大意を知ることはできるが、重要な固有名詞・表現を 正確に訳すためにはこの方法が有効である。意味の通りづらいところは()を付して会話

を補い、解説が必要な部分には注記を付した。会話はほぼ全てを収録しているが、繰り返し に終始した質問や会話等については適宜省略し、そのつど……などと記した。

1.出生とチチハルへの移住(10)

○大森 お生まれになった場所はどちらでしょうか。

○王 遼寧、遼寧省鉄嶺tS です。……昔は(鉄嶺)県です。……今は(鉄嶺)市になりま した。鉄嶺県の 路街でした。

○大森 先生のお父さまとお母さまはどんなお仕事をされていたんですか。

○王 農民です。……(所有していた土地は)大体数 でした。1 が15 なので、およそ 30〜40 でしだ9i。

○大森 それは一つの家庭が生活していくのに十分な畑でしたか。

○王 あのときは駄目でした。私が何歳のときだったか、土地を全部売ってしまいました。

康徳7年つまり1940年にチチハルに行きました(11)。1940年にチチハル市に着いてから父は土 地がないので労働者になり、その後に警察に勤めるようになりました。

○大森 先生の家庭は兄弟を合わせるとどういう家族構成でしたか。

○王 姉と弟がいて、はじめは姉と妹がいまして全部で5人でした。……はじめは6人でし た。兄がいましたが若くして亡くなりました。……近くの家が火事になって焼死しました。

○大森 そうでしたか……。農民で暮らしていたときにはどんな作物を作っている家だっ たんですか。

○王 農作物は東北では高梁とトウモロコシでした。

○大森 1940年にチチハルに行かれたのは生活が困難だったからですか。

○王 生活ですか。これは引っ越しでした。チチハルに着くと日本は鉄工場を作るために労 働者を募集しており、父は採用されました。……鉄工場とは製鉄場のことでした。遼寧省で は、2 の土地がありましたが、生活は困難でした。「天災人禍」があって農民の生活は困 難でした。これがチチハルへと移った経緯です。私が教育を受けたところもチチハルでし

た。

○大森 チチハルに移られてからのお父さまの仕事の具合はいかがでしたか。

○王 仕事は生活を維持するだけでした。……(ただし)当時、食べることができ学校にも 行かしてもらえたので、まずまずでした。

○大森 家はどうされたんですか。

(4)

○王 家屋はありませんでした。……家屋の条件は非常に悪かったのです。……チチハルの 郊外の蒙古屯におりました。そのあとで三里巷に移りました。いずれの場所でも部屋を借り

ました。

○大森 (蒙古屯から三里巷に)移られたのはいつごろでしょうか。

○王 移ったときはもう1944年になっていました。……蒙古屯は斉斉恰爾市の郊外でした。

隣に日本の陸軍病院があって、有刺鉄線で区切られていました。

2.日本軍に対する印象

○大森 日本陸軍の病院について何か思いではございますか。

○王 陸軍病院は印象に残つています。あの……大森さんは日本人ですから、私の話をどう か悪く思わないで下さい。……日本人についての最初の印象は、陸軍病院なのです。日本人 は歩哨に立って巡回をしました。巡回の歩哨はあるとき民家を騒擾しにやってきました。物 を盗るのではなく、民家を騒擾して女を犯すためでした。医院の物品が無くなったときな ど、日本人は民家の捜索に現れました。彼らは銃を携帯して武装していたので、小さかった 私は大変に恐ろしかったことを覚えています。私の通学路には431部隊があってその大門の 横を通らなければならなかったのですが、大門には歩哨が立っていました。歩哨に近づかな いよう遠回りをして歩いたものでした。

○大森 先生のお知り合いの方で具体的な被害を受けられた方は多かったですか。

○王 子どもの頃は聞いたことがありませんでした。……あの頃はこうしたことを議論する ことができませんでした。もし、国事を議論すれば思想犯として逮捕されました。現在この 研究に従事してわかったのですが、1942年以降、思想上・政治上、統治は厳しくなりまし た。そのほかに経済犯がありました。経済犯とは中国人の食米を禁じたものでした。もし中 国人が米を食べたら経済犯となりました。思想と言論は時宜に適していないと思想犯となり ました。このため一般の百姓は政治を論じることはなかったのです。大人は(子どもに)談 論を厳しく禁じました。……偽満洲国教育を植民地教育の角度からみると、そこには成功し た部分がありました。たとえば私のように、日本が降伏したとき、1945年、私は9歳か10歳 でしたが、私は自分が中国人だということを一切知りませんでした。このことは、中学生や 大学生などの学年が上の人たちは皆知っていたのですが。小学生やそれ以下の子どもは(知 らなかったのです)。家族は(何も)いいませんし、他の人にも(何も)いって貰えなかっ たのです。それ(あのときの教育は)は、何かを教え込めばその通りになるというものだっ たのです。満洲国人を教え込めば満洲国人となったのです。

○大森 先生、少し話しが戻って申し訳ないんですが、先生の場合には日本軍が怖いという

印象は何によって生まれたんでしょう。 (たとえば〉どういう事件から。

(5)

○王 先程述べたように、蒙古屯におりましたとき、日本の歩哨が民家を騒擾しに来ること がありました。もうひとつありました。街で日本の憲兵が(中国)入を捕まえるのを見たこ とがありました。市場で、彼は帯刀軍装で一黄色い羅紗の軍装で一何か気にいらないと、少 なくとも顔に平手を食らわしました。「三兵的給(シッペをくれてやる)!」こうした場面 に子どものときに接しました。そのため、 (日本人には)親近感が持てず、近づくこともで きませんでした。(こうした)印象が子どものときに残りました。そのほか、子どものと き、 (憲兵に)捕まった人の話しを聞いたことがあります。捕まえられた人は、 (憲兵に)

水責め・虎ベンチ(坐老虎という拷問器具)・圧柾子(拷問器具)・唐がらし水の注入……

を受けるのが常でした。

○大森 それらを先生は間近で見たことがございますか。

○王 ないですi・]2)。……(ただし)人が逮捕されるところは街で見たことがあります。

3. 「満洲国」下の小学校への入学

○王 あとで私は(蒙古屯から)三里巷に引っ越しましたが、借りた家屋はとても破損して いる泥で出来た部屋でした。そばに日本小学校があったのですが、これは私が通っている学 校と全く違いました。……(三里巷ではよい)部屋を探すことができませんでした。

○大森 家賃が高かったからですか。

○王私が住んだ家はかなり壊れていて、修繕されていなかったため、家賃は要りませんで した。 (三里巷の家は)蒙古屯の家屋よりも悪かったです。倒れそうでした。

○大森 先生が学校に行かれるようになったのはそこ(三里巷)に引っ越しをされてからど れくらい経ってからでしょうか。

○王 引っ越してから半年ぐらいでした。……私がそこに移ったのは1944年でしたが、学校 に行ったのは1945年の春でした。……3月1日に学校ははじまりました。偽満の時期に半年 ほど学校に行きました。

○大森 学校の名前はこういう名前でいいんでしょうか……。これは正式には寿 国民学校 というのでしょうか。寿 国民優級学校というんでしょうか。

○王 寿 学校でした。正式名称は国民学校でした。

○大森 これは先生の家からどれくらいの距離があったんでしょうか。

○王 3〜4里(1.5キロメートル)でした。私は城(県城)のそばの三里巷に住んでいま

した。 (学校があったのは)斉斉恰爾市でした。

(6)

図1 チチハル関係略図

       (王紹海の説明にしたがって作図:大森)

○大森 先生のふたつのお住まいと学校の位置関係は大体どれぐらいになるのでしょうか。

○王 蒙古屯がここにあって、三里巷がここです(図1参照)。私はここに住みました。こ れが431部隊です。当時ここには道路があって、現在は違うでしょうが、これが431部隊で

した。これが陸軍北大営で、東西南北はこうでした。私の学校はこのあたりにあって、胡同 里にあった寿亭学校でした。

○大森 陸軍病院はどこですか

○王 蒙古屯の近くでした。広大な敷地で、これが陸軍病院でした。

○大森 日本人学校はどこになりますか。

○王 ここです。日本小学校と呼ばれていました。

○大森 これ全体が何という街になりますか。

○王 これらの街ははっきりと覚えていないから……。大体こうした三角地帯がありまし た。これは……小魚市などと呼ばれていました。当時魚がたくさんありました。魚市が開か れていたのです。この西が旧城で、それがチチハルでした。あの旧城はト奎すなわちチチハ

ルでした。

○大森 チチハル市はどこですか。

(7)

○王 これ全部がチチハルでした。……これが城(県城)の周辺です。ここ一帯がチチハル です。チチハルがここにあって、ここが郊外です。ここが軍営、これか部隊、これが大営で した。大営は非常に大きく、この付近が日本人宿舎でした。このあたりは空き地で、空き地 は大きく人家はまばらでした。

4. 「満洲国」下の父の半生

○大森 先生のお父さまの鉄工場はどこにあったんでしょう。

○王 南大営のそばで、かなり遠かったです。地図を書くと、チチハルの南の方でした。こ こに書きます。 (父は毎日そこへ)歩いていきました。当時一般の家に自転車がないですか ら。自転車を持っているのは最近のことです。 (距離は)10里(5キロメートル)ありまし た。空き地を通っていきました。城市は通りませんでした。

○大森 お父さんが警察官になられたのはいつですか。

○王 それは44年の春です。……正式な仕事は警察でしたが実際の仕事は監獄の看守でし た。なぜ、私が当時の刑罰についてわかるのか。あれやこれやの刑罰について。あのころ 看守の仕事をしていた父は、そうした状況について知っていました。

○大森 監獄はどこにあったんですか。この(地図の)中で。

○王 城(県城)の中でした。この辺りでした。

○大森 それではお父さまは苦しい思いをされたんでしょうね。

○王 彼は仕事について詳しくはいいませんでした。ただ、遼寧省からチチハルで製鉄工場 の仕事をして、しばらくの間、生活はとても困難でした。ただし(チチハルに)来たのは1 人ではなくて、多人数でした。皆20代ぐらいで、家族を連れてきました。みんなは義兄弟で

した。鉄工場で働いた期間は、私にははっきりわかりません。あのとき、工場で、日本入と の関係が悪くなって喧嘩をしました。とうとう工場を辞めて、馬車の駅者をしました。その 後、友人の紹介で日本人が経営する阿片署で一日本人が阿片を売っていました一会計をしま した。実際は2〜3人の会計と記帳がいました。ところが洪水がおこって阿片が流されてし まい、結局、阿片署の主任が日本人に逮捕されて監獄に入れられてしまいました。主任は安 といい、監獄で死にました。父は逃れて田舎の土地を借りて耕作をしたりしましたが、収穫 は思わしくなく、結局チチハルに戻りました。……1947年、父は国民党軍に従って鄭家屯に 一白城市南方に一駐屯しました。1947年、同地でコレラが発生して父は亡くなりました。日 本の731部隊が細菌戦をを実施して、1947年に、白城鄭家屯とその南方の鉄嶺の辺りでコレ

ラが発生したのでした。田舎(王の実家は鉄嶺にあった)では祖父の兄弟と叔父たちがコレ

ラで死にました。日本が残麗した細菌は大変な被害を及ぼしました。東北では、多くの家族

がその細菌のせいで死にました13。

(8)

○大森 日本人としてそのことを深く反省して恥ずかしく思っております。この土地で偽満 洲国の時期に細菌を使って、その土地に入ったために病気に罹ったんですか。

○王 日本は東北で細菌戦を実施しました。ある時期には汽車も入れないほどにひどかった のです。あのとき(蔓延したコレラを)抑制することはできませんでした。黒死病や百斯篤

(バイスートゥ)と呼ばれましたが、現在はコレラと呼ばれています。

5.日本語教育の実態

○大森 あとふたつのことをお聞きしてもよろしいでしょうか。ひとつは、先程の国民学校 のことで、もうひとつは戦後の先生の経歴を簡単に教えて頂きたいと思います。このふたつ です。先生の学校は先生と生徒の数は何人だったでしょうか。

○王 学生は大体40入くらいでした。

○大森 その民族構成は。

○王 大体漢族でした。……(学校の中には日本人は)いなかったです。一般に偽満小学校 には日本人がいません。中学になるといます。日本の学制は1938年以降、降伏まで、日本人 と満人の通校となりました。日本人は毎年増加しました。

○大森 先生の学校で日本語教育はどれくらい受けたでしょうか。

○王 簡単な字母と単語を学びましたCl4)。

○大森 教科書はあったでしょうか。

○王 ありました。

○大森 日本語は週に何回くらいだったでしょうか。

○王 勉強していた当時のことはよく覚えていません。後でこの分野を研究するようになっ て、このことに触れるようになってから、わかるようになりました。日本語と満語は大体1 対1ぐらいでした。満語は6時間で日本語は6時間ぐらいでしたu5)。あのころのことははっ

きり覚えていないのですが。

○大森 1対1というのは語学の半分が日本語ということですか。それとも全授業の半分が 日本語ということでしょうか。数学とかはどちらのことばでしょうか。

○王 数学はとても簡単で、加減乗除でした。 (数学の授業は)全部満語でした。

○大森 私の質問は、1対1というのは学校の全部の授業の半分が日本語なのか、語学の中 の半分なのか(を教えて頂きたかったのです)。

○王 いいえ、小学校では駄目でした。当時の日本語の訓練はまず字母を学んでから日常の 日本語と習慣を学びました。たとえば、さようなら、ありがとう、などを日本語で喋りまし

た。

○大森 じゃあ(全部の授業グ)/半分というのは違いますね。

○王 1年生のときは満語を使いました。

(9)

○大森 学校に行くことは先生にとってわりと楽しい誇らしい気分でしたか。それとも大変 なことでしたか。

○王 今、東北は日本語ブームですがあのころは違いました。漢族の学生は日本語を勉強し たくなかったのです。こんな諺がありました。「日本語不用学 再有几年用不着」 (日本語 学習は不必要、数年で使うことなし)

6.日本敗戦時の学校の状況

○大森 日本が負けたとき、学校はどうなったんでしょうか。

○王 1945年8月にはソ連の飛行機が飛んできて、爆撃をしたため、学校に通うことができ なくなり、学校は授業停止となり、休業は1946年の春の3月まで続いてから回復しました。

約半年というもの、この時期は非常に混乱していました。

○大森 日本が負けたというのはいつわかりましたか。

○王 あのとき、学校で毎日軍事演習があり、授業の時間は少なかったのです。防空壕を 掘ったり、簡単な救護法や避難方法など、これらを学校で学びました。8月10日、ソ連の飛 行機が爆撃をしてq6)1週間ぐらいしてからソ連軍がやってきました(17)。ソビエト赤軍と一緒 に抗日連軍もやってきました。当時のチチハルの抗日連軍の王明貴という人物がいました。

この人は、1980年代に黒龍江省軍区司令となっています。9月20日になると八路軍も入って きました。これに関しては小説『開不敗的花 』があります。……(これは)中国の小説で

す。

○大森 8月10日は先生は学校にいらっしゃいましたか。

○王 先生は皆家に帰っていました。……学校には管理する人がいなかったので生徒は学校 に行きませんでした。……ソ連紅軍の飛行機が爆撃をしてから学校に行くことができず、学 校は終わりになりました。……(質問と打合せの会話略・昼食休憩)……

7.棍棒教育の実態

○大森 先生は以前に偽満下の教育が棍棒教育だったとお書きになっていますが、それは先 生の調査結果によるものでしょうか。ご体験によるものでしょうか。

○王 私は体験を持っていますが、私だけではなくて、この教育を受けた者は皆知っている

のです。

○大森 中国人が何故そんなことをするんですか。先生も体験があるんですか。

○王 あります。あります。

○大森 中国人の先生がそんなことをするんですか。

(10)

○王 ありました。これは個別現象ではありません。これは成文化されていない規則だった のでみんなが行っていたのです。

○大森 (そうだとすると)日本の敗戦後も学校が続きますよね。そして多分同じ先生が学 校にいると思うんですが、殴っていた先生が解放後は殴らなくなったんですか。

○王 敗戦後、戦乱のため、国民党がやってきては出ていき、共産党がやってきては出てい きました。このとき、国民党に参加する先生もいたし共産党に参加する先生もいたため、教 師は分かれていきました。残った先生は僅かでした。暴力は成文化されない制度でした。教 師が生徒を殴るのは当たり前でした。教師が学生を殴ることは、学生にとっても当たり前で した。1947年に共産党が来てからは暴力は否定されましたが、私は殴られたことがありまし た。始業のベルが鳴ったとき、生徒が教室に入っていくと、先生が教室の入口で待っていま した。始業のベルだったので授業はまだ始まっていませんでしたが、先生より遅かったので 私は蹴られたのです。このようなことは満洲国では毎日見られたことでした。学校外でも学 年が下の学生は学年が上の生徒におじぎをしなければ殴られるのでした。喧嘩は満洲国期の 統治上の策略でもありました。満洲国期、学生たちが怒ったときには集団で警察を殴りまし た。これも軍国主義の教育です。私の姉の主人はチチハル師道学校(181の学生でしたが、あの ころいつも他の学校の生徒と喧嘩をしていました。武器としてベルトを手にした学生たちが 集団で喧嘩をしていましたが、この雰囲気はあのときの教育がもたらしていたのです。

8. 「満洲国」教育の教訓

○大森 先生にとって「満洲国」下で教育を受けたことはその後の人生に何をもたらしたの でしょうか。

○王 偽満教育を受けた時間は短かったので、後でこのことについてよく考えることはしま

せんでした。ところが、仕事としてこの問題を研究するようになって、様々な教育や人間の

不平等や教師と生徒の間の不平等について認識するようなりました。その後、私は教師とし

て絶対にこうしたことをしなくなりました。私が教育の仕事に従事してから、私と学生の関

係は常に良いものになりました。私は単にこの分野の経験を総括して終わりにするだけでは

ありません。この分野を研究することは考えることが多いのです。 たとえば私は佐々木先

生19も言われたように、わが国の古代教育史から中国の東北の教育まで一現実の教育を含む

一(幅広い)問題を研究しました。たとえば、満洲国の暴力教育は、私は去年日本で一大森

さんもいったように一棍棒教育といいましたが、実際にわが国の古代教育における体罰の現

象は酷かったのです。4〜500年前に明朝の国子監には学校に懲罰の式がありました。懲罰

の道具もありました。生徒は学校の規則に違反すれば、椅子に伏せさせられて、専門の執科

者によって竹のムチでお尻を叩かれたのです。学校の規則でした。ただし民間の学院制度は

比較的に民主的でした。教師と生徒の間で問題の討論が可能でした。歴史上ふたつの伝統が

(11)

あって、ひとつは民主的、もうひとつは非民主的でした。偽満洲国の教育は、非民主的な面 を受けてそれを展開させました。そのころ私がこうした教育を受けたことは、私が歴史を研 究するのに役立っています。当時教育を受けたとき、私は自分が中国人であることを全く知 りませんでした。自分を偽満洲国入と思っていました。これは害毒を受けた結果でした。た だし、このような教育を受けたことで、私はこのことを研究する上で良い面があります。思 考の筋道が広がるようになりました。

○大森 大変ありがとうございました。

(1)植民地教育関係者への「聞き取り」調査を目的とした共同研究の成果として,磯田一雄 ほか「日本の旧植民地・占領地における教育政策の研究」 『成城学園教育研究所研究年報』

第14集(1991年)がある.そのほかの「聞き取り」調査記録に以下のものがある

1)阿部洋・槻木瑞生・二見剛史「戦前「満洲」における日本人の教育活動一三宅俊成氏イン タビュー記録」 『国立教育研究所研究集録』第5号 1982年9月

2)馬越徹「回想の京城帝国大学十松月秀雄氏の教授生活」阿部洋編『戦前日本のアジアへの 教育関与』国立教育研究所紀要第121集 1992年3月

植民地教育を主題とする磯田一雄編『教科書研究通信』各号にも関係インタビュー記録が収 録されている

(2)「満洲国」教育に関する「聞き取り」調査記録に以下のものがある

1)槻木瑞生・野村章・大森「元「満洲国」文教関係者が語る「満洲国」教育の実態十後藤春 吉氏へのインタビュー記録」日本語教育史研究会『第二次世界大戦前・戦時期の日本語教育 関係文献目録』 〔文部省科研総合研A報告書〕1993年3月

2)中島純「戦時下農村女性の自己形成と「満洲移民」 (前・後)一元飯島女子生年団団長の 証言から」東京学芸大学教育学科『教育学研究年報』第12・13号 1993年11月・1994年5月 3>大森・李立泳「元師道学校学生が語る「満洲国」教育の実態十縢健氏へのインタビュー記 録」 (『戦前日本の植民地教育政策に関する総合的研究』 〔1992・93年度科研究費補助金研 究成果報告書〕1994年3月

4>大森・金美花・張「中国入が語る「満洲国」教育の実態一元吉林師道大学学生:王野平氏 へのインタビュー記録」『東京学芸大学紀要』第1部門 第45集 1994年3月

5)犬塚康博・大森「元日本語教師が語る「満洲・満洲国」教育の実態一山田 貴氏へのイン タビュー記録」『「満洲国」教育史研究』第2号東海大学出版1994年7月刊行予定 6)金美花・大森「「満洲国」教育体験者座談会の記録(1)」 『同上書』

7)張・李立氷「「満洲国」教育体験者座談会の記録(2)」 『同上書』

(12)

8>大森「ある戦時下教師の歩みと「大陸の花嫁」送出(1)」東京学芸大学教育学科『教育 学研究年報』第13号 1994年5月

「聞き取り」調査記録を主要な資料とした関係論文に以下のものがある

9)相庭和彦・陳錦・大森「〔大陸の花嫁〕政策の研究十戦前社会教育と植民地支配(2)」

『新潟大学教育学部紀要』第34巻第2号 1993年3月

10)大森「「満洲国」教育と日本人」 『「満洲国」教育史研究』第1号 1993年5月 11)大森「中国人にとっての「満洲国」教育」 『月刊 私学公論』第27号 1994年1月

(3)当事者・体験者の日常生活から教育史をとらえなおした研究はすでに多い.たとえば HOcke,Haraid/Re imer,Uwe『ヒトラー政権下の日常生活』 〔山本尤・鈴木直訳]社会思想社

1984年、福岡安則ほか『被差別の文化・反差別の生きざま」明石書店 1987年 など参照

(4) 「満洲国」国民学校についての先駆的研究に鈴木健一「満洲国における教育政策の展 開」 『中島敏先生古稀記念論集』下巻(開明堂 1981年)ほかがある

(5)1991年5月6日に中国吉林省教育科学院高等教育研究所で開催された日中「満洲国」教 育研究交流会.ちなみに王は同研究所の所長である.交流会については大森「現代中国にお ける教育改革・学術研究一教育改革研究会1991年訪中団の報告」教育改革研究会編r教育改 革研究』第10輯(東海教育研究所 1992年3月)3ページおよび前掲r「満洲国」教育史研 究』第1号(東海大学出版 1993年5月)159ページ参照

(6)王野平ほか「中国人にとっての偽「満洲国」教育史研究の意義と課題」前掲『教育改革 研究』第10輯29ページ

(7)注2の6)文献に収録

(8) 「満洲国」成立前より奉天省に属し、 「満洲国」でたびたび行われた省制改革後も奉天 省に属した。いわゆる満鉄線の沿線に位置する

(9)東北地方では1 == 15 ,1 =6.67アール

(10)ハルビンに次ぐ黒龍江省の主要都市. 「満洲国」成立後1934年の省制改革により龍江省 に属した. 「満洲国」期には鉄嶺の北方の四平街より鄭家屯を経てチチハル(斉斉吟爾)に いたる平斉線が開通しており,王たちもこの路線で移住したものと推察される

(11)康徳は「満洲国」独自の元号.執政博儀が「満洲国皇帝」に即位した1934年3月1日を もって康徳元年とされた(その前の元号は大同〉

(12)直接見ることはなかったが監守となった父から聞いたようである.本記録の第4項参照

(13)中国における日本陸軍による細菌戦の実施とその影響についてはまだ不明な点が多い.

常石敬一『消えた細菌戦部隊』筑摩書房 1993年 参照

(14)字母とは,中国語の基本音を意味するものであり,本来の日本語習得には関係ない.た

だしここでの字母は日本語の51音のことと推察される.これに関して,国民学校の教則ほか

を定めた国民学校規定眠生部令第13号 1939年10月10日制定)第2条第2項には次のよう

に記されている。 「……国語に関する教材を授くるには初学年に在りては発音を正し簡易な

(13)

る文字の読方書方又は綴方を知らしめ進んで日常須知の文字及普通文に及ぼし又言語を練習 せしむべし……」 (カタカナをひらがなに改めた.以下の引用も同じ)。なお,上の条文中 の「国語」は、 「満洲国語」を意味するものと解釈できるが,同規定はそれが具体的に何語 を示すのかを記していない.ただし、同規定の上位法に相当する国民学校令(勅令第69号)

の公布(1937年5月2日)にともなって公表された学制要綱によると,「三 学制立案上の 要点」の第6項に以下のような文言がみられた「日本語は日満一徳一心の精神に基づき国語 の一として重視す」これによって、 「満洲国」政府においては、 「満洲国」に複数存在した

「国語」の中で日本語が最も重視されており、国民学校においても国語教授が日本語教授を 中心とすることが期待されていたことがわかる。なお,上記国民学校規定第2条によると

「国民学校の学科目は国民科,算数,作業,図書,体育,音楽とす」とされていた。 「国 語」はこの中の国民科の中に含まれていたものである。同3条には「国民科は国民道徳の基 礎を授くると共に国語を習得せしめ国史、地理及自然に関する知識の初歩を得しめ以て知徳

を啓培するを其の要旨とす」としている. 「満洲国」教育史研究会編『「満洲・満洲国」教 育資料集成』第3巻 エムティ出版 1993年294, 353ページ

(15)上記した国民学校規定第1号表によると1年生の場合「国民科」の授業を1週13時数行 い,うち6時数は「日語」により7時数は「満語又は蒙古語」によることが定められてい た.「国民科」に「国語」 (その中心としての日本語)が含まれていたことについては前注 参照

(16)ソ連軍の「満洲国」への進攻は1945年8月9日に開始された.これにともない同日夜明 け前からチチハルほか主要都市にソ連軍による空襲があったが,日本側の報告では殆ど被害 はなかったとされている.王のいう8月10日の空襲については現在未確認.中山隆志「満洲 一1945年 ソ連軍進攻と日本軍』国書刊行会 1990年 40ページ参照

(17)中山『同上書』によるとソ連軍は8月19日までにチチハルに到着しており,王の記憶と ほぼ符号する.『同上書』によるとチチハルへのソ連軍到着は以下の経過を辿ったと思われ る.当時チチハルには関東軍第4軍司令部が置かれ「満洲国」北方および北西正面の戦闘を 担当していた.これに対峙して進攻したのが極東ソ連軍のザバイカル方面軍第36軍だった.

ソ連同軍はチチハル北西のハイラルにおける関東軍第4軍第119師団との戦闘を経て,8月 19日までにチチハルに進駐したという.なお、それより前の11日、第4軍司令部は関東軍の 命令によりチチハルよりハルビンに移動していた. 『同上書』429ページほか

(18)師道学校とは「満洲国」における初等教員養成学校.国民優級学校・国民学校および国 民学舎の教師の養成を目的とした.1941年の時点ではチチハル師道学校をはじめ18ケ所に設 置されていた.前掲『「満洲・満洲国」教育資料集成』第5巻 423ページ

(19)「佐々木先生」については表確認である.ただしiEのこの発言は,1992年8月に王氏が

来日参加した第2回日中「満洲国」教育研究フォーラムをふまえたものと思われる.同フォ

ーラムにて,中国東北教育史の流れの中に「満洲国」期の教育を位置づける必要が海老原治

(14)

善ほかにより提起されていた.海老原「「満洲国」教育研究の今日的意義」前掲f「満洲 国」教育史研究』6ページ参照

謝辞:取材に快く応じて下さり記録の発表についてもお許し頂いた王紹海氏に心よりお礼を 申し上げたい。吉林省教育科学院高等教育研究所所長の王氏には、 「満洲国」教育の史実解 明を主題とした編著『東北倫陥14年教育史』 (吉林教育出版 1989年)があることを書き添 えておく。なお、本記録は、日中共同の「満洲国」教育研究交流の成果の一部でもある(そ の経緯については前掲『「満洲国」教育史研究』第1号巻末参照)。その中で王氏が果たさ れた役割にもはかり知れないものがあった。日本側で一連の交流を実質的に組織された海老 原治善氏(北京大学名誉教授)と金子和彦氏(東海教育研究所)にも心よりお礼を申し上げ

たい。

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