<調査報告>大規模プロジェクトと地域の変貌――
青函トンネル建設下の青森県三厩村の場合――
著者 仁昌寺 正一
雑誌名 東北学院大学東北産業経済研究所紀要
号 11
ページ 127‑151
発行年 1992‑02‑20
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024479/
<調査報告>
大規模プロジェクトと地域の変貌
−青函トンネル建設下の青森県三厩村の場合一
仁昌寺正一
内発的地域振興に対する村民の関心が薄くな り、地域の再建が極めて軌道に乗りにくくなっ ていた。
帰仙後、 このとき調査したことを一度きちん と整理して染るとともに、できればさらに立ち 入った調査を行って詮たいという思いを抱いて いたものの、何分すでに予定されていた仕事の ことなどから時間がとれないまま、今日にいた ってしまった。収集してきた資料も散逸する恐 れがあり、 また記憶もどうしても薄れていくた め、 とりあえずここで思い切って整理しておこ うと思ったわけである(尚、岩本教授も、 この 時の調査をもとに、 「東北における巨大プロジ ェクトはいま−青函トンネルが地域にもたら したもの・青森県三厩村」 〔『山形県の社会経済
・1991年』第4号、山形県経済社会研究所〕を 発表しておられる)。
以下では、 Iで、青函トンネルの概要(青函 トンネルの長さ、構造、建設期間、建設後の運 輸・交通面の変化やそれに伴う問題点など)、
及びこの工事が完了するまでの沿革について簡 単に言及する。以下の展開のために、ああ程度 の予備知識があった催うがよL,と思われるから である。Ⅱで、 トンネルの建設過程における三 既村の変化をL、<つかの指標によって黙る。Ⅲ で、トンネル建設過程における三厩村の対応を、
ズリ利用による海岸線埋め立て(「漁民団地」
の建設)、漁場汚染に対する漁業補償、地場産 はしがき
本稿執篭の動機にふれておきたい。 1989年7 月下旬、筆者と本学の岩本由輝教授は青森県東 津軽郡を訪れた。毎年行われている東北産業経 済研究所主催のシンポジウムに関する調査のた めである。 この年のシンポジウムのテーマは、
これまで推進された大規模な国家プロジェクト が東北地方に如何なる影響を及ぼしたかを総括
して患ようというものであり、その具体例の一 つとして、青函トンネルの本州側の建設推進地 域となったこの地方が選ばれたのである。
この地方にあるいくつかの自治体でヒアリン グや資料収集を行ううちに、 とくにトンネル建 設の経済的恩恵を多大に受けた自治体におい て、 トンネル完成後、筆者らの予想を超えるほ ど大きな変化と深刻な問題がおきていることを 知った。経済的恩恵を最も多大に受けた自治体 とは、当トンネル掘削拠点となった三厩村のこ とである。ここでば例えば次のような現象が顕 著となっていた。第一に、人口がごく短期間に 急減し、その傾向に一向に歯止めがかかりそう にない状態が続いていた。 もともとのトンネル エ事関係者ばかりでなく、在来の村民までが次 々に村を離れてL、たからである。そしてそのこ とから第二に、高齢者比率の増大、所得水単の 低下、村財政の硬直化といった過疎問題が急速 に深刻化していた。第三に、こうした状況下で、
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業振興・観光開発などの例から詮る。 江差線の中の木古内一五稜閣間37.8m、函館本 線の中の五稜閣一函館間3.41m,) と結んだのが 津軽海峡線である。 この路線の開題によって、
青森と函館は160.411皿の鉄道によって結ばれた わけである。このうち、中小国一木古内間は新 幹線を通し得る規格で整備がなされた。
トンネルの構造は、本坑、作業坑、先進導坑 の3本のトンネルからなってL、る(図−3参 照)。本坑は、断面が幅1Om、高さ7.5mであり、
複線の新幹線を通し得る規格で建設された。そ の本坑から約30m離れたところにあるのが、幅 5m弱、高さ4mの作業坑である。本坑掘削の ための資材等の運搬に利用されたが、 トンネル 完成後は、保守用通路として利用されている。
先進導坑ば、幅5m弱、高さ4mであり、地質 調査などを行うために建設されたいわゆるパイ
ロット トンネルである。本坑貫通後は、排水、
I.青函トンネルの概要と 完成までの沿革 1 .青函トンネルの概要
青函トンネルは、本州側の今別町浜名と北海 道側の知内町湯の里を結ぶ全長53.851煙のトン ネルである(図‑1参照)。世界一の長さであ るが、海底部(23、3knl)だけをとって象ると、
1993年に開業予定のイギリスーフランス間の ドーバー海峡トンネル(37.51m)の方が長い。
ともあれ、世界の1 , 2の長さを争う トンネル であることは確かである (図−2参照)。
このトンネルを含む本州側の取付け部(中小 国一浜名間19.21m)及び北海道側の取付け部(湯 の里一木古内間14.7m)を、既存のL、くつかの 営業線(津軽線の中の青森一中小国間31.41m、
図−1 青函トンネル
青森
160
資料:建設新聞社『東北ジャーナル』 1988年4月号
‑128−
図−2世界の長大トンネル 眺用 種別 トンネル名 開始年
青 函
ドーバー海峡 新関門
セバーソ
長
今=
<23.3)
嘩一醇一︾一一嘩一伸一岬︾醗酵一群価一価一︾|悪手畔竿嘩一一 瞬一錨一〃 (km)
'53~9
(37~5) ’ '49~2
水 底 ト ン ネ ル
の 4 4 3 3 価 9 2 6 5 く 1 1 8 3 2
⑳ j j
lⅡⅣ即いい
〃 一
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6)7.0 '975
l886 1886 1934 1942 1958 1982 1922 1934 1980 1972 1982 1982 1882 1982 1913
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マーシー界 の 長 大 ト ン ネ ル
マーシ一
関 門
関 門
'22 2
大清水 シンブpンⅡ アベ二ン ゴットハルト
六 甲
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中 山
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雑一〃|〃|率一準〃|〃|〃|〃
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陸 上 ト ン ネ ル
16.3 16.3
│ '5」
'5&' ' '5 0 ' 14 9
'46
〃
㈱「 ]は水底部区間を示し、 ( )内の数字はその延長である。
資料;同上
換気通路として利用されて↓、る。
工事期間は、鉄道建設公団の発足(1964年)
から津軽海峡線の開業(1988年)まで、24年間、
約4分の1世紀にも及んだ。それだけにこの期 間中に投下された工事費も巨額であった。 1981 年度価格で計算すると、 トンネルエ事5,310億 円、取付部工事910億円、改良部工事670億円で あり、総額では6,890億円であった。
その外、工事に関連するいくつかのことにつ いてふておくと、 24年間で、工事に従事した作 業人員1,370万人、工事現場から排出されたズ リの量663㎡、 コンクリート使用量147㎡、セメ ント使用量84.7万t、火薬使用量2,860t、鋼 材使用量16.8万tにも及んだ。尚、 トンネルエ
事には多数の建設会社が参加したが、最大の工 事である本坑工事は、竜飛工区では鹿島グルー プ(鹿島建設・吉岡組・鉄道建設JV)、吉岡 工区では大成グループ(大成建設。間組.前田 建設工業JV)が担当した。
次に、青函トンネルの完成一津軽海峡線の開 業によって、輸送・交通面にどのような変化が あったのかをみておこう。旅客輸送面では、青 森一函館間が特急により2時間で結ばれ、これ まで4時間近くかかっていた青函連絡船の所要 時間の半分になった。そして、函館一上野問は 最短で10時間52分となり、これまでよりも,時 間半近く短縮された(短縮時間については、図
−4参照)○貨物輸送面では、かつての青函連
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絡船の場合、一日7.5往復で、 しかも就航時間 が限定されていたが、ジャスト ・イン・タイム の24時間輸送システムが確立され、料金も割安 になった。
こうしたメリットに加えて、本州と北海道が 陸続きになることで連帯感が強まる心理的効果 のメリットも無視できない。実際、 1987年6月 に閣議決定された第四次全国総合開発計画でも、
「青函インターブロック交流圏構想」構想が打 ち出されたのを機に、 トンネル開通を地域振興 の起爆剤にしようとする気運が高まっている。
だが、 もちろんいいことばかりではなL、。旅 客輸送では、何といっても飛行機との競争が問 題となる。今日、札幌一東京間における飛行機 と鉄道の利用比率は40対1という状況であり、
これをくつがえすことは容易ではなく、やはり
図−3冑函トンネル(海底部)立体略図
北海道方
吉 岡Aで
竜 飛
津軽海峡
戸巨・守﹃
:|13
坑立
坑 斜
坑
*up0fF 蝶 雲軸
目儒穆捜誇端 儒穆捜誇端
"穆感
色色︻先
/
3
進導坑 1 , 000
2/j
嘉嵜鶚会
/1,03/1,OOO先進導坑一 00
3/1,000
トンネル入口からのキ口埋(皿)
12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 ,27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 m
資料:同上
図−4津軽海峡線開通がもたらす時間距離への影響 青
森
中小国
番
五稜郭 函館駅 名 合計
内
津軽線| 海峡綴
3"比 87 8m
津軽海峡綴
│江差線│蕊
│ 37sh, │34k"
営業所名
160.4趣 愛称線名
資料:同上
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青森〜函館 上野〜函館 上野〜札幌
3時間50分→約2時間00分 9時間35分→約7時間40分 14時間00分→約12時間10分
発が重視され、そこから、本州との物資・労働 力の迅速・大量の輸送ルートとして当トンネル の建設が着目されたのである。終戦の翌年の 1946年4月には、運輸省鉄道総局に「津軽海峡 ずい道調査委員会」が設置され、現地の地質調 査が開始されることになった。そして3年間に 及ぶ調査の結果、下北半島の「東ルート」、津軽半 島の「西ルート」のうち、後者が適当との結論 が出された。すなわち「野辺地から青森を経て、
津軽線の三厩と北海道の福島を接続し、さらに は五稜閣までを結ぶ20.7"のルートに決定す る。地質は良好で建設は十分可能である」と。
けれども、 この調査結果が発表された年に、運 輸行政の再編(日本国有鉄道の運輸省からの分 離)があり、 また当トンネル建設へのGHQの 反対があり、それ以上前進することはなかった。
その後、国のプロジェクト事業として青函ト ンネル建設計画が登場したのは、講和条約成立 後の1953年であった。 この年の第16特別国会で 成立した鉄道敷設法の中で、 「青森県三厩付近 ヨリ渡島国福島付近二至ル鉄道」が敷設「予定 線」とされたのである。調査も再開された。 と
ころで調査が行われていた1954年9月26日、青 函トンネル建設推進の一大転機となる事件がお きた。いわゆる洞爺丸事件である。台風15号に よって、乗客、乗組員合わせて、 1,555人が死 亡するという我が国海難史上賎大の惨事であっ た。当然のごとく 「こんな悲惨な事故を二度と 起こしてはならない。天候に左右されない安全 な輸送の確保をめざすべきだ」という世論が高 まった。これに対し、 日本国有鉄道は、この事 件から5カ月後の1955年2月に「津軽海峡連絡 ずい道技術調査委員会」を設置し、調査を急い だ。そして、翌1956年に、 「ずい道の掘削は可 能。工期10年以内。工費は600億円以内」とい う結論を出した。そして1961年5月には、鉄道 東京一札幌間の新幹線建設に期待をかけざるを
えない状況にある(新幹線電車では、東京一札 幌間は6時間弱とされている)。また貨物輸送 でも、 コンテナ列車が走るものの、 トラックを 搭戦するカートレイソは狭軌設計のため走行不 可能であり、一定のハンディがある。その上、
経営面での不安がある。路線はJR北海道が無 償で借りて運営しているが、年間77億円の経費 に対して、収入は47億円と見込まれ、30侭円の 赤字が出ることが予想されている。さらに、 ト
ンネルを前提とした地域開発構想についても、
東京一極集中が進む中で、北東北・北海道経済 の低迷が続いており、その前途は必ずしも明る いとはいえない。
2.青函トンネル完成までの沿革 (1) 「調査線」段階
青函トンネルの建設プランがはじめて机上に 乗ったのは、 1939年の「大陸縦貫鉄道構想」(鉄 道省で立案)の中であった。 「大東亜共栄圏」
構想と一体となったこの構想は、二つの鉄道 ルートの建設を計画していた。一つは、東京か ら西進し、対馬・朝鮮半島を経て南満州鉄道に 達し、 さらに北上してシベリア鉄道に接続する ルートであり、 もう一つは、下関から北上し、
津軽海峡を渡り、 さらに宗谷海峡を渡って樺太 に達し、そこから中国大陸に入るルートである。
後者のルートの中に、青函トンネルの建設プラ ンが組糸込まれていたのである。しかしこの壮 大な構想は、朝鮮海峡の一部で地質調査や地震 探査が行われたものの、第二次大戦が拡大して いくなかで財源の見通しがたたなくなり、挫折
してしまった。
終戦後、青函トンネル建設プランは、国内資 源開発の必要上から再浮上した。我国の経済復 興にあたって、未開発資源の豊富な北海道の開
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建設審議会が、青函トンネルを「予定線」から 建設を前提とする「調査線」 (三厩一福島間)
への昇格を決めた。
1964年3月には、調査坑(斜坑)の掘削工事 がスタートすることになり、工事主体となる鉄 道建設公団(以下、鉄建公団と略)が発足した。
そして、ついにこの年の5月には北海道側で、
2年後の1966年3月には本州側竜飛で工事が始 まった。
このように、洞爺丸事件を契機に、青函トン ネルの建設プランが急速に早まったのである が、同時に社会経済的背景からもこのトンネル の建設が必要とされていたことに注意しておく 必要がある。周知のように、当時の日本は「も はや戦後ではない」といわれた時期を過ぎ、高 度経済成長路線を走り始めていたのであるが、
その中で国土の一層の効率的利用を追及する観 点から、全国の輸送・交通の再編が意図されて おり、その一環として当トンネルの建設が推進 されようとしていたのである。そのことは、
1962年に策定された「全国総合開発計画」が、
「経済規模の拡大にともなう輸送通信需要に対 処」するために、青函トンネルの建設を強調し ていることでも明らかである。
尚、 これ以降、 トンネルエ事が本格的に推進 され20数年後に完了することになるが、この間 には、社会経済情勢の大きな変化の中で、 トン ネルの位置付けや利用のしかたが大きく変化し ていく。その様子は、四次にわたって策定され た全国総合開発計画における当トンネルに関す る記述からも窺える(表‑1参照)。
湾の拡張・新設、全国新幹線鉄道網の建設など による高速交通網の全国ネットワーク化を図る ことを一つの柱にしており、その中で「青函ト ンネルを経て札幌に至る新幹線鉄道を建設す る」ことも提案していた。そして、 こうした開 発政策を踏まえて、 1971年4月には、運輸省が、
これまで「調査線」であった青函トンネルを「工 事線」に切り替えること、及びそれを新幹線規 格とすることを正式決定した。かくして、 この トンネルは25年にわたる調査期間に終止符を打 ち、本坑の工事へ第一歩を踏染出すことになっ たのである。
本坑の工事は1971年11月末から始まった。 11 月14日には北海道側で、翌15日には青森県側で それぞれ起工式が行われた。青森県側の起工式 の様子を同年11月16日の「東奥日報」は次のよ
うに報じている。 「青函トンネル本坑の起工式 は15日午前11時から東郡三厩村で行われた。 こ の日は竜飛特有の日本海から吹き上げる風雪に 見舞われ、…・ ・ ・…武内県知事をはじめこれまで 調査坑掘削で事故#こあい殉職した人の遺族5人 と海底で働く作業員360人力乱ヘルメット姿で出 席し、 『世紀の海底トンネル』工事の起工式に ふさわしいムードが漂った。」
その後、 トンネルエ事は「水と岩との闘い」
のため、順調に進んだわけではない。幾度もの 異常出水や地盤の悪化に遭遇して当初の予定よ り遅れがちであった。それでも、連続機動体制 の採用、セメント ミルクの注入方法の改善、掘 削の強化などの努力が重ねられ、本坑のパイロ
ット トンネルである先進導坑は、残すところ、
竜飛・吉岡間の未掘削距離が1976年1月にはl0 m, 78年12月には7!皿、 79年5月51皿、 80年1 月31皿、 81年11月21m、 82年7月にはlblと縮 められていき、ついに83年1月に貫通したので ある。本坑工事も、竜飛工区で700m、吉岡工
(2) 「工事線」への昇格
1969年には「新全国総合開発計画」が策定さ れた。 この計画は、それまでの高度成長を継続 させるために、高速自動車道の整備、空港・港
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表−1 これまでの全国総合開発計画における青函トンネルの位置づけ
新全国総合開発計画(新全総) 第三次全国縫合開発計画(三全総) 第四次全国総合開発計画(四全総)
計画の名称 全国縫合開発計画(全総)
1987年6月30日閣譲決定 策定年月 1962年10月5日閣謡決定 1969年5月30日閣議決定
1972年10月31日一部改訂
1977年11月4日閣齪決定
中曽根内閣
策定内閣 佐藤内閣
田中内閣
福田内閣 池田内閣
年 年
↑ ひ
︽ U
蝿 帥 1
2
基準年次 目標年次
1958年 1970年
基鰯年次 目標年次
年 年
− 3 号
①
妬 蛎
1
1
基準年次 目標年次
1975年 1985年(90年)
基準年次=
目標年次 計画期間
l 急激な円高による櫛造経済調整 2 人口、産業などの東京圏へ
の再集中(地域格差の拡大)
3 情報化、国際化、都市化、技術 革新、高齢化の進展
l 高度成長経済への移行 2 過大都市問題、所得格差の拡
大
3 所得倍増計画(太平洋ベルト 地帯鯛想)
高度成長経済
人口、産業の大都市集中 情報化、国際化、技術革新 の進展
安定成長経済
人口、産業の地方分散の兆し 国士資源、エネルギー等の有限 性の顕在化
国民意識の変化 1
2 3
1 人 内 邑 n
背 景 J
l 壗 四 I
4
人間居住の総合的環境の整備 多極分散型の国士づくり 基本課題 地域の均衡ある発展 開発可能性の全国士への砿大、均衡化
交流ネット 'ノーク櫛想 o「全国一日交通圏」の構築
・約15カ所の国際空港
・約1万4千キロ (計画期間中 は8千〜9千キロ)の高規格 幹線道路網
・地方都市を中心に約50〜70地 区でコミューター航空導入 拠点開発構想
o新産業都市(全国15カ所指定)
八戸、秋田臨海、仙台湾、
常磐郡山、新潟
○工業特別整備地域
(全国6カ所)
大規模プロジェクト構想
○交通網の全国的ネット ドフー ク化
新幹線 高速道路
○大規模工業基地
開発可能性を全国士に拡 大
(全国5カ所)
むつ'」、川原、秋田
定住瞬想
oモデル定住圏は全国40圏域
(584市町村) と東京、大阪の 一部を加えて計44圏
津軽(青森)、両磐(岩手)、能代 山本(秋田)、大崎・栗原(宮城)、
最上(山形)、会津(福島)、上越
(新潟)
開発方式
「青函地域は、青函トンネルの開 通を一つの契概として、北東北及び 北海道南の交流カミ促進されようとし ており、仙台、札幌の中間地点とし て、 また、北海道、東北ブロックの 結節点として、活性化が期待される 地域である」
「経済規模の拡大にともなう輸 送通信需要の増大に対処して、幹 線道路網、主要港湾、主要空港、
幹線通侭網等の整蛸を推避すると ともに、青函航送の補強、青函ず い道路建設の促進等をはかり、総 合的通信体系の確立を期する」
「鉄道については、青函トン ネルの調査を早急に終了し、建 設を推進する。また、青函トン ネルを経て札幌に至る新幹線鉄 道を建設するとともに、函館本 線等の電化、綴増等を進め、札 幌と道東を連絡する鉄道網を建 股する」
「北海道・本州を結ぶ青函鉄道ト ンネルの完成を因る」
腎函トンネ ルの位睡づ け
資料:青函トンネルの位腫づけを除く箇所は、東北経済連合会『東北の概要」 (1990年版) より
区で2kmを残すの象であった。 かくして、 さまざまな問題を抱えつつも、
1988年3月13日、津軽海峡線は開業した。奇し くもこの年4月10日には、本州と四国を結ぶ瀬 戸大橋も完成し、ついに日本列島の四島が「陸 続き」で結ばれることになったのである。
尚、さきに述べたように、 1987年6月に策定 された「第四次全国総合開発計画」では、青函 トンネルの完成を見越して、 「青函インターブ ロック交流圏構想」が提起され、その中で、札 幌と仙台との間に、 この地域の発展の核となる 百万都市の形成が計画されてL、為。
(3) 「在来線で開業」に後退
このように当初の計画からすれば遅れていた ものの、工事は着々と進んでいた。しかし、我 が国の経済が、第一次オイル・ショックを契機 に「安定成長」期に入り、 さらに財政危機が表 面化する中で、青函トンネルの位置づけも大き く変化していった。例えば「第三次全国総合計 画」 (1977年策定)でば、青函トンネルは北海 道と本州を結ぶ単なる鉄道トンネルとされ、新 幹線構想についてば別項目とされていたのであ る。 1982年7月には、運輸省も、青函トンネル エ事実施計画の変更を正式に決め、在来線規格 による軌道整備を行うとした。
そして、 トンネル完成が近づくにつれ、その 利用方法ヤこついてはさらに検討が加えられるこ とになり、そのために、 1983年4月に、運輸省 が、運輸大臣の諮問機関として「青函トンネル 問題懇談会」 (財界、学界などから15名で構成)
を発足させ、またこれと並行して鉄建公団が「青 函トンネル問題研究会」 (学識経験者19名で構 成)を発足させた。これらの会合の中では、赤 字必至の運営であることから、 「石油備蓄基地 にせよ」といった意見も出されたが、結局は「青 函トンネルの利用方法として考えられるものは 交通施設以外にはない。 しかも、自動車道路と しては換気方法などに問題があって現実的には 不可能であり、 トラックを貨車に戦せて運ぶカ ートレイン方式案が有効である。これに在来鉄 道の象を通す案も加えて決断すべきである」と いう方向でまとまった。政府もこうした案を支 持し、在来線軌道をトンネル内に敷設して、両 端を津軽線と江差線に結んで旅客列車と貨物列 車を通すこと、そして1987年4月の国鉄民営化 以降はJR北海道に無償貸与することを決めた。
Ⅱ、掘削地点である三厩村の変貌 三厩村は、本州最北端に位置し、北東は津軽 海峡を隔てて北海道と相対し、西は半島の中央 部分を縦走する中山山脈によって北郡小泊村と 隣接し、南ば今別町に接する臨海山村である。
村の総面積は65.83㎡であり、その約90%を平 均傾斜度20%を越える山林地帯が占めている。
平坦地は、増川地区にわずかにあるだけである。
青函トンネルの工事が開始される前は、沿岸 漁業を経済的支柱とする一寒村であった。 しか し漁業だけでは生活が苦しいため、出稼ぎに行 く者が多かった。 トンネルエ事が始まると、出 稼ぎ者は、坑内作業、発破士、土木関係などに 従事するようになった。 また、主婦が炊事婦や 洗濯手伝L,人となるなど、 トンネル関係の仕事 が村で吹々に増加していった。
トソネルエ事によって、村は有史以来の賑わ L、をみせ、 漁業の村"から トンネルエ事の村 しこ変貌していった。村のメーンストリートには、
資材を納めるメーカーの支店、食料品・日用雑 貨品販売業の出張所が立ち並び、旅館は商社の セールスマンで満員といった様子であった。
村の中でもとくに大きく変貌したのは、最北 端にある竜飛崎である (流行歌でも有名であ
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る)。竜飛崎は「竜が飛ぶ」といういわれの通 り、冬の11月から3月までの間は風速30メート ルの猛吹雪の日がほとんどであり、気温は氷点 下10度前後となる。そのため、 日本海に面して いる岬の西側には、樹木が育たず人家はまった くない。東側には、断崖と海岸をはしる小路と の間に点々といくつかの集落があるだけであ る。 この竜飛崎が青函トンネル建設工事の本州 側の推進拠点になるとともに、作業員の最大の 生活拠点になった。工事開始とともに、 ここに は、強風にも耐えられるように設計された工事 関連の事務所や保安施設、鉄建公団アパート、
作業員宿舎、集会場、診療所、ショッピングセ ンターなどが次々に建設され、景観は一変した。
三厩村という地名は義経伝説に由来してい る。 1197年に源義経が衣川の高館で敗れ、蝦夷 ケ島(北海道)に渡ろうとしてここにきたが、
海上波高<、岩上に頓座して観世音に祈願し、
静波をまって龍馬3頭をもって蝦夷ケ島に渡っ た。その際、 3頭の龍馬を3つの洞窟がある巌
(厩石)につないだことから、三厩と称するに 至ったとされている。
1989年に町村制が施行されたとき、今別村(現 今別町)から分離し三厩村となり、現在に至っ ている。われわれが訪れたとき、村制施行100 周年記念事業の取組染に鏥詣わらわであった。
以下では、この村が青函トンネルの建設工事 の過程でどのように変化していったかを、いく つかの指標によって糸てみることにする。
た図−5は、住民基本台帳により1966年から 1987年までの毎年の同村の人口数を鍬たもので ある。 このいずれの資料でも、 トンネル建設工 事の進行時に当村の人口がどのように変化して いったかがよくわかる。
国勢調査で象ると、 1960〜70年の人口は、若 干の増減はあるものの、 5,500人程度で一定し ており、隣接町村に躍られる過疎現象はおこっ ていない。 1975年の人口は6,356人であり、一 挙に800人以上増加している。本坑工事開始に 伴い、いわゆるトンネルマソ(鉄建公団職員・
建設作業員) とその家族が転入してきたからで ある。
1970年から75年にかけて転入してきたトンネ ルマンとその家族構成員数は、 もう少し正確に 桑れぱ1, 100人程度である。そのことは、同村 にある13の集落人口のうち、彼らの生活拠点と なった竜飛、増川集落の人口がこの期間に1, 107人増加していることで裏付けられ為。因魏 に、残りのl1集落のうち10集落が、この期間、
人口減となっている(表−3)。
1975〜80年にかけては、若干の減少はあった ものの、 6,000人を割っていない。しかしトン ネル本工事が一段落した1985年の人口は4,298 人であり、わずか5年間で約1,800人、同村の 人口の3分の1が減少している。問題なのは、
1985年の人口が、工事が開始される前の同村人 p (1960年5,515人、 1965年5,813人)を大幅に 下回っていることである。工事が終了に近づく につれ、工事期間中の承村に留まっていた工事 関係者ばかりでなく、在来村民も、他地域に流 出していったからである。
最近発表されたばかりの1990年の国勢調査の 結果(速報値)を象ると、同村の人口は3,128 人であり、 5年前よりもさらに1, 170人、率に して27.2%も減少した(この減少率ば東北地方 1 .人口の動き
まず人口の動きについて糸よう。表−2は、
5年毎に行われる国勢調査によって、 1960年か ら1985年までの同村を含む青森県内の過疎指定 地域の人口の推移(あわせて財政力指数の変化、
昭和60年の高齢者比率)をみ、たものである。ま
‑135‑
表一2青森県の過疎指定地域の動向(人口、財政力指数、高齢者比率)
国凋人口 (人) 同 減少率(%) 財政力指数
高齢者比率 (1985年)(%)
市町村名 公示 市町村名
時点 1兜4〜
髄年度
︑匿蠅群18
1960年 65年 70年 75年 80年 85年 65/60 70/65 75/70 80/75 85/80 85/70 85/60 蟹田町
平館村 三厩村 深浦町 岩崎村
柏 村
稲垣村 車力村 相馬村 西目屋村 市浦村 十和田湖町 天間林村 佐井村 脇野沢村 南郷村 倉石村 新郷村
7,243 5,498 5,518 14,513 5,329 6,045 7,859 8,005 5,701 5,346
− 一僕守
り,J3j
lO,870 14,683 5.271 4,742 10,332 4,954 6,409
6,558 4,816 5.813 14,277 5,432 6,065 7,687 7,715 4,570 5,036 5, 147 9,829 11,923 4,869 4,689 9,215 4,298 5,548
5,959 4,713 5.586 13,272 4,885 5,475 6,876 7,383 4,276 4,327 4,518 9, 122 11,024 4.622 4,205 8.154 3,929 4,754
5,329 4,314 6,356 11 ,889 4,437 4,909 7,024 6,507 4,060 3,430 4, 164 8,701 9,879 4,462 3,873 7,579 3,803 4,448
蟹田町 平館村 三厩村 深測町 岩崎村
柏 村
稲垣村 血力村 相馬村 西目屋村 市涌村 十和田湖町 天間林村 佐井村 脇野沢村 南郷村 倉石村 新郷村 5, 110
3,815 6.030 11,384 4,061 4,832 6,054 6,012 4,038 2,812 4,059 8, 164 10,028 4, 174 3,739 7.438 3,709 7,332
5. 126 3,431 4.298 10,494 3,813 4,960 5,966 6,711 4, 133 2.474 3,751 7,811 10,025 3,634 3,486 7,261 3.607 41 134
9.5 12.4
+5.3 1 ,6
+1.9 十0.3 2.2 3.6 19.8 5.8 7.4 9.6 188 7.6 1、1 10.8 13.2 13.4
9. 1 2. 1 3.9 7.0 10. 1 9.7 10.6 4.3 6.4 14. 1 12.2 72 7.5 51 10.3 11.5 8.6 14.3
10.6 8.5
+13,8 10.4 9.2 10.3
+2.2 11.9 5. 1 20.7 7.8 4.6 10.4 3−5 7.9 7. 1 3.2 6.4
4. 1 11.6 5. 1 4.2 8.5 1 .6 13.8 7.6 0,5 18. 1 2.5 6.2
+1.5 6.5 3.5 1 .9 2.5 2.6
+0.3 10, 1 28.7 7.8 6, 1
+2.6 L5 十11 .6
+2.4 12.0 7.6 4.3 0.0 12.9 6.8 2.4 2.8 4.6
14.0 27.2 23.1 20.9 21.9 9.4 13.2 9. 1 3.3 42.8 17.0 14.4 9. 1 21.4 17, 1 11.0 8.2 13,0
29.2 37.6 22.1 27.7 28.4 17.9 24.1 16.2 27.5 53.7 32.5 28. 1 31 .7 31. 1 26.5 29.7 27.2 35.5
0. 17 0. 11 0.36 0. 18 0. 16 0. 19 0. 15 0. 15 0. 12 0. 10 0. 11 0.31 0. 17 0. 1 0.09 0. 19 0. 13 0.13
0.22 0. 11 0.24 0.19 0−16 0.21 0.18 0. 19 0. 13 0.10 0. 13 0−27 0.21 0.13 0, 11 019 0. 15 0. 13
0.21 0. 12 0.20 0. 19 0.16 0.21 0. 18 0. 18 0. 14 0. 10 0. 13 0.26 0.21 0. 13 0. 11 0, 18 0. 15 0. 13
13.9 17.3 13.6 15.5 16.8 12.2 12.4 11.6 13.9 15.8 14.4 13.7 12.4 16.3 13.8 139 16.9 15.0 l
壗 争 I
資料:国土庁『過疎対策の現況』 (1986年度版) 254〜257ページ。
表−3 三厩村内集落別人口・世帯数の推移(「住民基本台帳」)
年 1965 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 部落
世帯数 人 口
的 踊 2 9 235
1,072 250 1,090
1
駒 鴨
︑
〃
﹄ T
l
257 1,035
264 1.005
310 1, 144
362 1,384
375 1,407
401 1.報3
413 1.520
408 1,471 255
1 075 増 川
世帯数 人 口
136 559 142
625 138 600
134 580
134 565
136 566
128 531
124 494
114 469
110 443
115 450
115 448
120 452 本 町
世帯数 人 口
2 2 3 5 1 7
136 773
136 778
3 4 3 5 1 7
131 734
131 719
147 722
2 2 5 3 1 7
160 739
163 744
178 784 136
760 136 760 中 浜
世帯数 人 口
馳哩
6 暁
可 I 4 鄙
7 泥 7 4
8 鯛
苛
﹄ 4 誼
9 泥 7 4
82 458
82 452
2 鴨 8 4
6 純 8 4
6 猫 8 4
7 認 8 4
5 8 4
4 8 4 六条間
世帯数
j, 口
〆P、
39 210
l
鵠 岬
拓断
41
235 0 認
凸 叫 巳
︑
/
﹄
9 鍋 3 2
41 223
40 221
41
212 3 W 4 2
40 198
40 211
40 217 藤 島
世帯数 人 口
31 183
l
銘
1 駅 詔皿 認
1 棚 33 153
nn Dd
l46 36 165
型
1 舵 34 167
4 弱 3 1
35 161
d可FT
・J
182
︑ 是
﹄ 戸 h
︺
3
四枚橋 Ⅳ
世帯数 人 口
59 355
5 鮒 6 2 0
釘
虞 U q J
2 舵 6 3
4 帥 6 3
0 認 6 3
59
343 57 335
7 鵠 5 3
67 334
6 鴎
貸 U 9 J
65 311
64 294 釜野沢
世帯数 人 口
4 塀 6 3
62 324
65 314
69 313
67 3〔}0
︵ u J n
/
﹄
6 鋤
6 刑 6 2
6 閃 6 2
6 柵 6 2
7 蹄 6 2
8 脚 6 2
3 銘 6 2
6 舵 6 元宇鉄 2
世帯数 人 口
43 227
1
3 証 4 2
44 215
44
q
203 44 196
判 粥
I
45 232
45 221
46 222
45 210
45 196
44 205
4 7 4 上宇鉄 釦
世帯数 人 ロ
9
1119 16 93
19 108
17 91
17 89
17 86
18 85
8 8 1 7
8 7 1 7
18 74
18 72 18
101 18 98 番 泊
世帯数 人 口
12 73 15
103 15 103
15 108
15 106
12 87
2 2 1 7
13 68
13 48
13 48
3 9 1 4
13 47
13 43 川 梨
世帯数 人 口
87 519
89 451
2 妬 8 4
9 鋪 7 3
80 376
79 364 92
543 87 511
89 492
89 480
5
㈹ 8 4
84 447
8()
399 梹 榔
世帯数 人 口
250 838
418 1,256 73
401 140 589
嶋 輔 2 7
2 1 3 2 2 8
馴 鯛 2 8
265 878
271 907
368 1.173
397 1,218
397 1,221
416 1.243 竜 飛
世帯数 人 口
ワ
﹈ 戸 り り
﹄ 局
﹄ 2 4 L 5
1,483 5,954
1,545 5,993 991
5.318 7 3 8 8 O 5 L a
1, 166 5,726
1,210 5,691
1,261 5,605
1,228 5,368
1,277 5,448
1,443 5,943
1,518 5,997
1,561 5.968 合 計
資料堂三厩村役場
では最大であった)。村民の減少には全く歯止 めがかかっていない。
ところで、人口の動向に関連して、同村の年 齢階層別・男女別人口構造を、1965年、75年、85 年で比較してみると、ここにもトンネルエ事と 関連すると思われる特徴が染られる(図−6)。
斜坑工事開始1年前の1965年の構造はピラミ ッ ド型であり、低年齢層になるに従って人口が多
く、各階層の男女比もほぼ同じである。 ところ が、本坑工事が進行している股中の1975年のそ れはつり鐘型になっており、 とくに25歳から50 歳くらいまでふぐら糸が大きくなっている。 し かもこれらの年齢層の男女比では、女性より男 性の方のふぐら染が大きいという他町村にはみ、
られないような特異な構造になっている。この 年齢層で、単身(未婚、既婚の単身赴任)の男
‑137‑
図−6三厩村の年齢階層的人口講造(1965年、75年、85年)
図−5三厩村の人口動向
① 1965年‑5,813人(全人口)
6蝿画 (人)
5頓10‑
41N沌己
②1975年‑6,356人(全人口)
通
9 4 9 6 6 5
毛1−1−
5 0 5 6 6 5
+
男 300019666768697071 72 73747575777879808182聴爾 雷罵 毒
女
且
50〜54
4
45〜49 40〜44
L
35〜39
▲
卯〜34 25〜29且 20〜24 15〜19 10〜14
&
5〜9 0生4 資料: 「住民基本台鰻」各年版より作成
性トンネルマンが増加したことを物語っている。
さらに、 1985年の構造からは次のような特徴が 象てとれる。第一に、各年齢層とも、 75年と比 してふくらZAが小さくなっていることである。
トンネルマンとその家族をはじめとする多数の 人口流出があったからである。第二に、わずか ながら女性の人口が男性の人口よりも少なくな っていることである。これらの点について役場 で聞いたところ、 「他地域から赴任してきた独 身のトンネルマンの中には、村の娘さんと結婚 した者がおりました。やがて子供が2, 3人生 まれましたが、村をでていくときには家族全員 がでていってしまいました。つまり、 1人でき て4, 5人ででていったのです。こうした例は
100 200 300 300 200 100
③1985年‑5,813人(全人口)
八
一▲ −
資料: 1965年、 75年、80年「国勢閏査」より作成
‑138‑
少なくありません」という答えが返ってきた。
新聞でも、 トンネルの建設工事の過程で「公団 や企業体の臨時事務職員として入社し、同じ職 場で働く若い男子職員と結ばれるケースも多 い。すでに十数組のカップルが誕生した」 (「東 奥日報」 1970年3月13日付夕刊) ことが報道さ れており、事実の一端を指摘していることは確 かである。
高齢者比率についてみ、ると、同村の1985年の それは13.6%であり、青森県の12.3%を上回っ ている。 トンネルエ事終了とともにこのような 高い比率になったのであり、今なお生産年齢人 口の流出が統いていることから、今後青森県の 中でも屈指の高齢者比率の高い地域になってい
くことは確実である。
④第一次産業の中の漁業、⑤第二次産業の中の 建設業について象たものである。これを鍬ると、
同村の産業の柱が、青函トンネルエ事の影響が 皆無といえる1955年には、漁業中心の第一次産 業であったこと、 トンネルエ事進行中の70〜75 年に建設業中心の第二次産業に変わったこと、
トンネルエ事が終盤を迎えた80〜85年にかけて それ以前の構造が変化しつつあることがわかる。
表−4によって、 こうした動きをもう少し具 体的にみ、ておこう。昭和55年には、同村の就業 人口総数は2,538人であったが、そのうち1,913 人(75.3%)を第一次産業が占めている。その 内訳は農業403人(15.9%)、林業243人(9.6%)、
漁業1,262人(49.9%)である。第二次産業は215 人(8.5%)、 また第三汰産業ば410人(16.2%) にすぎない。これらの数値が示すように、まだ 青函トンネル建設が着工されていない段階に鐺 2.産業構造の変化
三厩村の産業構造がどのように変化してきた かを染てみ、よう。図−7は、 1955年から1985年 までの全産業に占めjる就業人口の構成比率を、
①第一次産業、②第二次産業、③第三次産業、
(%)畑 図−7 三厘村の第一次・二次・三次別産業別就業人口比率の推移 蝿
80-
■■
0
0
0
0
0
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小 耳
﹄ 6 戸
︒ 4 凸 バ ー
?
﹄ 1
〆>、
〆>、
第二次産業迎設業(第二次産業内)、
、
、、一
、 ノノ
〆一争一̲
/
プラス
〆〆㎡ 、〆
第三次産業
〆 〆
〆群
〆群 第一次産業
漁菜(第一次産業内)
〆 〆 〆
〆 −−−
〆 〆
一一一一二"ず
I
1955 60 65 資料: 「国勢闘査」各年版より作成
75 80 85 (年)
70
‑139‑
3%)から1,382人(49.6%) と2.7倍も増加し ている。また、この期間に第三次産業は、卸売
・小売業やサービス業の就業人口の増加によっ て、 534人(20.0%)から609人(21.9%)へと 若干ながら増加している。つまり、三厩村の産 業構造は、 1970年頃を境に、 トンネルエ事関係 者の増加に対応して、元来の第一次産業中心の 構造から建設業中心の構造へ大転換していった のである。
しかし、 1983年の先進導坑貫通とともに、 こ の建設業中心の産業構造にも変化があらわれ る。 1980年から85年にかけて、建設業就業人口 が1,639人(57.7%)から836人(44.2%)へと 一挙に半減している。全産業に占める構成比が それぼど大きく低下をしていないのぱ、建設業 以外の諸産業の就業人口も一様に減少したから である。因み、に、 1985年の就業人口総数1,890 いては、第一次産業とくに漁業が三厩村の競大
の産業であった。
ところが、 1966年のトンネルエ事着工ととも にこの構造が大きく変化していく。 1965年から 75年までの変化をぷて象ると、産業就業者総数 が2,673人から2,784人に増加しているにもかか わらず、その中の第一次産業は1,504人(59.9
%)から663人(23.3%)へと凄まじい勢いで 減少している。その内訳は、農業が130人(4.9
%)から15人(0.5%)、林業が298人(11. 1%) から169人(6. 1%)へ、漁業が1,076人(40.2
%)から479人(17.2%)へとなっている。農 業はぼぼ消滅状態となり、漁業ば半減している。
これに対して、 この期間の第二次産業の伸びは 635人(23.7%)から1,512人(54.3%) とめざ ましく、その中で工業が119人(4.5%)から129人
(4.6%)と微増であるが、建設業が516人(19.
表−4三厩村の産業別就業人口の推移
1955年 19 年 1965年 1970年 1975年 1980年 1985年
巽散 揖成比 翼数 櫛成此 翼数 揖成比 実数 揖成比 実数 構成比 翼数 揖成比 魂数 構成比
(人)
1,913 403 243 1 ,267
(%)
75.3 15.9 9.6 49.9 第一次産業
農業 林業 漁業
4 4 9 1 6 2 7 6 4 4 2 7
L 1
0 0 3 2 8 9 2 6 1 1 3
4 0 8 6 0 3 9 7 5 1 2 O L
L 9 9 1 2 口 串 4 1 1 ヘ リ テ リ
.
○
q
0 8 1 1 7 5 0 1 O 2 8
L 6
4 2 0 3 塾 8 3
43
3 5 9 9 6 1 6 7 6
1
4 8 5 1 2 3 0 6 7 2
1 2 7 3 2 8 1 3 3
4
1
3
9 6 7 7 6 0 4 1
11
7 8 9 0 3
0
2 3
1
2 8 4 8 6 7 0 5 1
11
鰯二次産業 鉱業 建設業 製造業
5 0 5 0
1
9
2
21
7 0 9 8 4
9
4 3
1
1 7 4 3
B■
4 0 8 6
1 5
0 6 9
3
1
1
6
5
1
7
3
5 3 0 9 4 2
1
2 1 2 9
1
8
2
5
3
1 L
L 54.3
0 49,6
4.6 2 1 9 2 2 3 8 7
6
L1
5
4
4
甲
0 0 7 2
65
1 1 6 4 8 3 4 9 8 1
9 1 2 6 1 0 4 7 5
4 5
8
〃 8 0 3 4
1 0 5 6 3
0
2 8
7
1
師 R
︶
︻ J 1 士 I 且 可
︑ J
︵
Ⅷ
︺ n ハ リ F 丸
︾ 句
︑ ロ
︑ 〆
﹄
第三次産業 卸小亮業 金融・保険等 運輸・通侭粟 矼気・水遊 サービス業 公務 分田不能
2 5 5 7 O 9
Bq6 4 4 0 5 1 0
1 6
3 2 1 4 4 6 3 4 0 凸 3 5 4 5 2 0 1 1
2 6 5 6 2 5 0 1
■■■■■
3 8 5 0 6 2 0
2 4
6 2 3 2 5 3 0 3 6
︲ 2 7 6 5 1 0 1 1
0 2 1 6 1 6 4
h.1Ⅱ凸■?■甲
0 6 4 0 6 2 0
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9 3 8 1 1 3
・・1Ⅱ凸b5P七
2 6 4 0 7 3 0
2 9
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甲 ゆ L P 中 〆 n U 心
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Ⅲ U 弓
︐ 4 句
﹃
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︵ 叩 叩
︶
︑ロム 6 2 7 8 1 0 3 2 4 9 士 6 4 2 6
1
0
2
1 7 7 8 9 4 3 1
・・1ⅡLd
2 6 2 0 8 4 0
2 1
9 0 7 0 3 4 0 7 7 6
8 2 5 1 1 1 1
2 5 0 9
3
0 5 1 9 0 6 7 0 1 1 ロ 1 2 4 4 1 0 1 1
3
3
3
5 0 5 8 2 4 0 0 5 7
・ 1 7 8 5 1 0 1 1
5 7 6
5■七
3 0 9 6 0
総 数 2,538 lⅨ).0 2,357 l帥‑0 2,673 1帥.0 2,456 l帥‑0 2,784 lⅨ)̲() 2『850 1(X).0 1,890 l帥.0
資料: 「国勢飼査」各年版より作成
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人は1955年の2,583人も下回っている。いずれ にせよ、建設業の就業人口は、 1985年以降にお いても、減少することはあっても増大すること はないから、三厩村では、 これに代わる就業機 会の創出に努力しなければならなくなってい
る。
の所得水準を高めてL,ったといえる。
表−5は、 1967年から1985年までの一人当り の所得水鵡を、青森県、東津軽郡、三厩村の三 つで比較して象たものである。
これをみ、るように、 この期間中、青森県を100 とすれば、東津軽郡が一度もこの水準を超えた ことがないが、三厩村ば1974年からその水準を 超える状況が続き、 75年には156.8という高さ を記録している。
しかし、先進導坑が貫遡した1983年以降は、
工事の縮小→建設業就業人口の減少とともに県 水準を下回るようになり、県平均を100として 84年92.2, 85年89.2と下降傾向にある。
3.所得水準の変化
既述のように、 トンネル建設工事の過程で、
同村の第一次産業の就業者の多くが賃金の高い
(トンネルの)建設業就業者に移っていった。
ではその賃金水準はどれぼどだったのか。 1981 年当時で、 「平均年齢40歳前後で日給7千円強。
これ#こ随時超過勤務手当がつき、入坑者には1 時間あたり165円の入坑手当も支給される。月 に25, 6日就業するとして月収は30‑40万円に なる」 (同年11月7日付「毎日新聞」) といわれ た。当時の地元の賃金水準より3割近くも高か ったのである。 この高賃金が、村の商業やサー ビス業などに波及効果を及ぼし、全体として村
4.出穂ぎ
先にふれたように、当村ば、村内の90%以上 を山林が占める土地柄から、工場進出もぼとん どなく、就業の場は漁業など第一次産業に限ら れており、そのため県外への出稼ぎ者が多かっ た。 トンネルエ事が開始されると、 「勤務時間
表−5 −人当り市町村民所得水準(青森県平均=100) (実額単位#千円)
二農へ
実 青森県額 水 準 実 東津軽郡平均額 水 単 実 三厩村額 水 姻1967年 68 69 70 71 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85
247 274 317 368 421 741 842 931 1 ,028 1.145 1,244 1,238 1,281 1,345 1.403 1,504 1 ,576
191 218 254 291 335 642 791 832 919 1,019 1,122 1, 123 1, 150 1.248 1, 169 1,224 1,303
77.3 79.8 80. 1 79. 1 79.6 86.6 93.9 89.4 89.4 89.0 90.2 90.7 89.8 89.8 83.3 81.4 82.7 1脚.0
100.0 100.0 1帥.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100 O 100.0 100.0
197 188 253 311 335 888 1 ,320 1 ,024 1 , 186 1 ,258 1 ,354 1,389 1.415 1.493 1,405 1 ,388 1 ,415
79.8 68.9 79.8 84.5 79.6 119.8 156.8 110.0 115,4 109.9 108.8 112.2
】10 5 110.5 100. 1 92.3 89.8 資料:三厩村役場
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