朝 鮮 宣 祖 代 の 対 明 外 交 交 渉
︱ 『 萬 暦 会 典
﹄ の 獲 得 と 光 国 功 臣 の 録 勲
︱
桑 野 栄 治
︻欧 文表 記︼ Ei ji KU WA NO
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“W an li Hu id ia n” an dS el ec ti on of th eM er it or io us Re ta in er
︻要 旨︼ 本稿 は︑ 朝鮮 宣祖 代に おけ る﹃ 萬暦 会典
﹄編 纂の 情報 収集 をめ ぐる 対明 外交 交渉 の展 開様 相︑ なら びに
﹃萬 暦会 典﹄ の 獲得 によ り録 勲さ れた 光国 功臣 の選 定事 情に つい て︑ 朝中 の官 撰史 料で ある
﹃朝 鮮王 朝実 録﹄
﹃明 実録
﹄の ほか
﹁朝 天録
﹂﹁ 光国 功臣 会盟 録﹂
﹁光 国原 従功 臣録 券﹂ を活 用し つつ 整理
・分 析を 加え たも ので ある
︒ 宣祖 六年 の奏 請使 李後 白︑ 宣祖 七年 の聖 節使 朴希 立︵ とく に通 事洪 純彦 によ る情 報収 集︶
︑そ して 宣祖 八年 の謝 恩兼 奏請 使洪 聖民 によ る一 連の 対明 外交 交渉 が功 を奏 し︑
﹃萬 暦会 典﹄ のみ なら ず﹃ 明実 録﹄ にも 宗系 弁誣 の事 情が 採録 され た︒ とり わけ
﹃明 世宗 実録
﹄に は中 宗二 四年 の聖 節使 柳溥 によ る外 交交 渉に 関し て詳 細な 記録 を残 し︑ この 記録 を基 礎に 李成 桂の 宗系 と朝 鮮 建国 始末 が﹃ 萬暦 会典
﹄朝 貢条 の﹁ 朝鮮 国﹂ に附 録さ れた こと が判 明し た︒ 宣祖 一四 年に は李 珥の 建議 をう けて 奏請 使金 継輝 が
﹃萬 暦会 典﹄ 全巻 の受 領を 要請 する 外交 交渉 にあ たり
︑当 時の 礼部 尚書 徐学 謨の
﹃世 廟識 餘録
﹄に は李 珥の 奏本 のほ か︑ 書状 官 高敬 命と 質正 官崔 岦の 上書 を収 録す る︒ そし て宣 祖二 一年 に謝 恩使 兪泓 がま ず﹃ 萬暦 会典
﹄一 冊を
︑翌 年に は聖 節兼 奏請 使尹 根寿 が﹁ 朕︑
︵朝 鮮を
︶視 るこ と猶 お内 服の ごと し﹂ との 勅書 とと もに
﹃萬 暦会 典﹄ 全二 二三 巻を 宣祖 のも とに 届け た︒ その 間︑ 奏請 使黄 廷彧 は秘 蔵で あっ た﹃ 萬暦 会 典﹄ 原稿 本の 当該 箇所 を確 認し
︑ま た北 京玉 河館 の失 火を 謝罪 すべ く赴 京し た陳 謝使 裴三 益も 完成 直後 の﹃ 萬暦 会典
﹄謄 写本 を 朝鮮 に持 ち帰 って いる
︒こ うし た情 報戦 のす え宗 系弁 誣問 題は 解決 し︑ 光国 功臣 一九 名の ほか 八七 二名 にの ぼる 原従 功臣 が録 勲 され ると とも に︑ 宣祖 には 萬暦 帝に 対す る﹁ 再造 の恩
﹂が 生ま れる こと にな る︒
︻キ ーワ ード
︼朝 鮮前 期︑ 外交 交渉
︑宗 系弁 誣︑ 萬暦 会典
︑明 実録
︑宣 祖︑ 萬暦 帝︑ 光国 功臣
︑光 国原 従功 臣
留 米 大 学 文 学 部 紀 要 文化 学科 編第 二十 七号
︵二
〇一
〇)
︻目 次︼ はじ めに 一
﹃明 実録
﹄へ の奏 請文 採録 1︑ 奏請 使李 後白 の派 遣 2︑ 通事 洪純 彦に よる 情報 収集 3︑ 謝恩 使洪 聖民 の外 交交 渉 4︑
﹃萬 暦会 典﹄ の編 纂と 朝鮮 政府 の対 応 二
﹃萬 暦会 典﹄ の頒 賜 1︑ 奏請 使黄 廷彧 の派 遣 2︑ 玉河 館の 失火 と陳 謝使 裴三 益の 派遣 3︑
﹃萬 暦会 典﹄ の完 成と その 頒賜 三 光国 功臣 の録 勲 1︑ 一等 輸忠 貢誠 翼謨 修紀 光国 功臣 2︑ 二等 輸忠 翼謨 修紀 光国 功臣 3︑ 三等 輸忠 翼謨 光国 功臣 4︑ 光国 原従 功臣 むす は び じめ に 明代 の国 制総 覧で ある
﹃正 徳会 典﹄
︵正 徳六 年︑ 一五 一一
︶に 太祖 李成 桂︵ 在位 一三 九二
~九 八年
︶が かつ ての 政敵 李仁 任の 嗣 子で ある と記 録さ れて いた こと が朝 鮮中 宗一 三年
︵一 五一 八︶ に 発覚 し︑ 以後
︑朝 鮮政 府は その 修正 を要 求す べく 使節 をた びた び 明に 派遣 した
︒そ の記 録が 洪武 帝︵ 在位 一三 六八
~九 八年
︶の 家
訓書
﹃皇 明祖 訓﹄
︵洪 武二 八年
︑一 三九 五︶ から の引 用で あっ た こと から 朝中 間の 外交 交渉 は難 航し たが
︑最 終的 には 交渉 経緯 を 増補 修正 版の
﹃萬 暦会 典﹄
︵萬 暦一 五年
︑一 五八 七︶ に註 記す る こと で決 着し た︒ その
﹃萬 暦会 典﹄ 全帙 は宣 祖二 二年
︵一 五八 九︶ に神 宗萬 暦帝
︵在 位一 五七 二~ 一六 二〇 年︶ より 下賜 され
︑ 宣祖 は宗 廟に 眠る 歴代 国王 に報 告し て全 国に 恩赦 令を 下し た︒ こ れが 朝中 間の 一大 外交 案件 であ った 宗系 弁誣 問題 の概 要で ある
︒ さて
︑一 九四 一年 に末 松保 和氏 が長 編の
﹁麗 末鮮 初に 於け る対 明関 係﹂ を斯 界に
( )
公表 して 以来
︑す でに 六〇 年以 上が 経過 した
︒
1
しか し︑
﹁宗 系弁 誣の 発端
﹂は とも かく と
( )
して
︑朝 鮮前 期︵ 文
2
禄・ 慶長 の役 以前
︒ほ ぼ一 五・ 一六 世紀 に相 当︶ にお ける 宗系 弁 誣問 題の 全容 解明 は遅 々と して 進ま なか った
︒た とえ ば︑ 筆者 は かつ て書 誌学 的関 心か ら名 古屋 市蓬 左文 庫に 架蔵 され る朝 鮮版
﹃正 徳会 典﹄
︵明 宗七 年内 賜本
︶の 成立 事情 を論
( )
じた
︒一 方︑ 中国
3
古代 史を 専門 とす る李 成珪 氏は 己卯 士林 のひ とり であ る李 耔を 再 照明 する 共同 研究 の一 環と して 中宗 一三 年の 対明 外交 交渉 に注
( )
目し
︑ま た権 仁溶 氏は 一六 世紀 中国 人の 朝鮮 認識 とい う観 点か ら
4
この 問題 に接 近
( )
する など
︑か なら ずし も体 系化 され た研 究成 果が
5
蓄積 され てき たわ けで はな い︒ 韓国 の歴 史学 界に おい て﹃ 大明 会 典﹄ の編 纂事 業と 宗系 弁誣 問題 とい う朝 鮮の 外交 活動 に注 目す る よう にな った のも
︑ご く最 近の こと で
( )
ある
︒唯 一︑ この 問題 を総
6
括的 に取 りあ げた のが 朴成
( )
柱氏 であ るが
︑金 暻緑 氏は これ を﹁ 概
7
説的 な叙 述﹂ と批 判
( )
した
︒そ もそ も一 編の 論考 でこ の問 題を 論じ
8
るに は無 理が あろ う︒ まず はこ の朝 中間 の外 交交 渉に 関す る事 実 関係 を徹 底的 に洗 い出 す必 要が ある
︒そ こで 筆者 はこ の宗 系弁 誣
問題 が再 燃し た中 宗代
︵一 五〇 六~ 四四 年︶ より 順次 説き 起こ し︑ 明宗 代︵ 一五 四五
~六 七年
︶ま での 展開 様相 につ いて はひ と まず 整理
・分 析を 終
( )
えた
︒
9
筆者 は中 宗一 三年 の奏 請使 南袞 の派 遣を 第一 段階
︑中 宗二 四年 の聖 節使 柳溥 によ る外 交交 渉を 第二 段階
︑そ して 中宗 三〇 年代 の 明使 との 直接 交渉 を経 たう えで の奏 請使 権迦 の派 遣︵ 中宗 三四 年︶ を第 三段 階と 考え てい る︒ 以下
︑﹃ 嘉靖 会典
﹄︵ 嘉靖 二九 年︑ 一五 五〇
︒未 刊︶ 写本 伝来
︵明 宗七 年︶ 後の 奏請 使金 澍に よる 外 交交 渉︵ 明宗 一八 年︑ 桓祖 の記 載︶ が第 四段 階︑ そし て本 稿で 詳 論す る宣 祖代
︵一 五六 七~ 一六
〇八 年︶ の奏 請使 李後 白に よる 交 渉︵ 宣祖 六年
︑﹃ 明実 録﹄ への 記載
︶は 第五 段階
︑宣 祖二 二年 の
﹃萬 暦会 典﹄ の獲 得と 光国 功臣 一九 名の 録勲 が最 終の 第六 段階 で ある な ︒ お︑ 光国 功臣 の録 勲に 関し ては 朴成 柱氏 がそ の概 要を 提示 し つつ
︑光 国功 臣が 宣祖 代の 奏請 使に 集中 して いる こと
︑ま た﹁ 宣 祖代 以後 は改 撰さ れた
﹃大 明会 典﹄ の頒 賜に 焦点 をあ わせ た﹃ 頒 降奏 請使
﹄的 な性 格が つよ い﹂ こと を指 摘
( )
した が︑ 事実 誤認 も少
10
なか らず みう けら れる
︒そ の理 由は 金暻 緑氏 が批 判し たよ うに
︑ 朴成 柱氏 の論 考自 体が
﹁概 説的 な叙 述﹂ であ った こと によ る︒ 本 稿で はこ の光 国功 臣の 選定 事情 につ いて も再 検討 を加 える とと も に︑ 光国 原従 功臣 の録 勲に 関し ても 若干 の考 察を ここ ろみ るこ と にし たい
︒
一
﹃明 実録
﹄へ の奏 請文 採録
1 ︑ 奏 請 使 李 後 白 の 派 遣
一五 六七 年七 月三 日︑ 宣祖 は景 福宮 の正 殿で ある 勤政 殿に て即 位( )
した
︒当 時一 六歳 の宣 祖は 先代 の明 宗の 直系 では なく 徳興 大院
11
君︵ 中宗 七男
︶の 三男 であ って
︑明 宗妃 の仁 順王 后沈 氏と 大臣 ら の合 意に より 玉座 に即 いた 傍系 の朝 鮮国 王で
( )
ある
︒明 宗一 八年 に
12
金澍 の奏 請に より 明政 府が 太祖 李成 桂の 父で ある 桓祖 李子 春の 名 を﹃ 大明 会典
﹄に 採録 する こと を許 可し たの ち︑ 朝鮮 政府 で宗 系 弁誣 問題 が論 じら れる のは まさ にそ の宣 祖即 位年 七月 のこ とで あ る︒ 隆慶 新皇 帝登 極頒 詔︹ 詔使 翰林 院検 討許 国・ 兵科 左給 事中 魏 時亮 入我 境︑
︵中 略︶
︺︑ 請行 宗系 辨誣 之奏
︹先 是︑ 国朝 宗系 被誣
︑列 聖遣 使請 辨︑ 垂二 百年 而莫 能得
︑及 太史 之来 也︑ 先 生知 其誠 待無 間︑ 仍言 及此 事︑ 詳辨 無蘊
︑太 史釋 然曰
︑非 相 國言
︑我 輩在 中朝
︑何 以得 其詳
︑待 我還 朝︑ 即行 奏文 則俺 當 力辨 于朝
︑及 使還
︑即 遣任 説・ 黄瑞
・金 戣等 赴京 辨誣
︑先 生 親製 三度 呈文
︑又 條列 所対 説話
︑如 楊燕 奇等 事十 二條 以付 之 曰︑ 吾與 太史 有答 問之 言︑ 宜以 此申 辨︑ 且勅 訳官 閔扈
・崔 世 協・ 林芑 等以 送之
︑及 至京 師︑ 礼部 所問 皆出 於十 二條 中︑ 一 行莫 不驚 服︑ 果因 太史 之力 辨︑ 遂蒙 會典 更印 時許 改之 詔︑ 其 後會 典之 更印 也︑ 申奏 前詔
︑竟 得宗 系之 正亦 先生 之力 也︺
︑
︵後 略︶
︵﹃ 東皐 先生 遺稿
﹄巻 七︑ 年譜
︑穆 宗隆 慶元 年︹ 明宗 二二 年︺ 丁卯
︑先 生六 九歳
︑七 月条
︶
とき の領 議政 李浚 慶の 遺稿 集﹃ 東皐 先生
( )
遺稿
﹄に よれ ば︑ 穆宗
13
隆慶 帝︵ 在位 一五 六六
~七 二年
︶即 位の 詔書 を奉 じて 来朝 した 翰 林院 検討
︵従 七品
︶許 国・ 兵科 左給 事中
︵従 七品
︶魏 時亮 の助 言 によ り︑ 李浚 慶は 宗系 弁誣 奏請 使の 派遣 を御 前に て宣 祖に 進言 し た︒ 明使 は﹁ 我れ 朝に 還る を待 ち︑ 即ち 奏文 を行 えば
︑則 ち俺 當 に朝 に力 辨す べし
﹂と
︑こ の外 交問 題の 解決 に好 意的 な姿 勢を 示 した から であ る︒ その 結果
︑朝 鮮政 府は 任説
・黄 瑞・ 金戣 の三 使 を帝 都北 京に 派遣 し︑ 訳官 とし て閔 扈・ 崔世 協・ 林芑 らが 同行
( )
した
︒こ のと き礼 部宛 ての 呈文 を製 述し たの が李 浚慶 であ る︒ 任
14
説一 行の 外交 交渉 によ り﹁ 果た して 太史
︵= 明使
︶の 力辨 に因 り︑ 遂に 會典 更印 の時
︑改 むる を許 すの 詔を 蒙る
﹂と いい
︑﹁ 其 の後
︑會 典の 更印 する や前 の詔 を申 奏し
︑竟 に宗 系の 正を 得る も 亦た 先生 の力 なり
﹂と
︑李 浚慶 の功 績を 強調 する
︒こ の宣 祖即 位 年七 月に おけ る朝 鮮政 府の 動向 は﹃ 朝鮮 王朝 実録
﹄に は記 録さ れ てお らず
︑宗 系弁 誣問 題の 空白 を埋 める 史料 とい えよ う︒ とこ ろが
︑宗 系改 正を 許可 した 隆慶 帝も 一五 七二 年五 月に 三六 歳の 壮年 で死 去し
︑第 一四 代の 萬暦 帝が 即位 した
︒そ のた め︑ 萬 暦帝 はみ ずか らの 即位 を朝 鮮に 通達 する 詔諭 使節 とし て︑ 翰林 院 編修
︵正 七品
︶韓 世能
・吏 科左 給事 中陳 三謨 を派 遣す るこ とに
( )
なる
︒朝 鮮政 府で は領 議政 権轍
・左 議政 洪暹 以下
︑礼 曹判 書朴 永
15
俊・ 兵曹 判書 金貴 栄・ 吏曹 判書 盧守 慎・ 礼曹 参判 柳希 春ら の高 官 が早 朝か ら承 文院 に会 し︑ 明使 との 接待 儀礼 の場 で提 出す る宗 系 改正 の文 面を 事前 に検 討し てい た︒ その 文書 は領 議政 が礼 曹判 書 に起 草さ せ︑ 左議 政が 潤色 を加 えた うえ で通 事洪 純彦 らに より 漢 語に 翻訳 させ る︑ とい う段 取り であ
( )
った
︒と はい え︑ ひと たび 文
16
書が 完成 する と宣 祖に も不 安は 残っ た︒ この 文書 をい つ︑ どの 宴 席で 明使 に提 示す るの か︒ 中宗 代以 来︑ 朝鮮 国王 が明 使来 訪の 際 に宗 系改 正を 要請 する 文書 を提 出し たの は一 度や 二度 では なく
︑ かな らず しも その 効果 があ った わけ では ない
︒明 使と 直接 対面 し て弁 明す れば
︑彼 らも むげ に断 るわ けに はい くま いか ら丁 重に 返 事は して くれ るで あろ う︒ しか し︑ 外国 の私 情に より 中国 の史 書 を改 訂す ると は考 えが たく
︑か えっ て明 使の 疑心 を買 うの では あ るま いか
︑と 宣祖 は恐 れて いた
︒さ いわ い明 の新 皇帝 は英 明で あ ると 聞く
︒む しろ 来春 を待 って 奏請 使を 派遣 する こと とし
︑今 回 の明 使に わず らわ しく 文書 を提 出す るの は避 ける べき かも 知れ な い︒ かと いっ て︑ 明使 に宗 系改 正の 件を ひと こと も告 げな いわ け にも いく まい
︑と 宣祖 は逡
( )
巡し
︑以 下の よう な腹 案を 示し た︒
17
備忘 記下 于政 院曰
︑︵ 中略
︶但 以宗 系改 正及 悪名 辨誣
︑小 邦 累世 冤痛
︑至 今猶 未得 雪︑ 聖代 普天 之下 無物 不得 其所
︑而 独 惟海 隅東 藩之 臣︑ 尚抱 罔極 之冤
︑非 惟一 国臣 民痛 心疾 首︑ 先 祖地 下之 霊必 為掩 泣於 冥冥 矣︑ 頃将 奏請 已定 使臣
︑臨 発︑ 遽 聞先 皇帝 忽遺 弓剣
︑未 及上 達︑ 此由 於小 邦無 禄之 甚︑ 思及 于 此︑ 尤不 勝摧 慟于 中也
︑不 幸之 餘︑ 幸遇 新天 子聖 神︑ 東藩 臣 民欣 欣然 意得 再生 之恩
︑欲 於来 歳煩 奏︑ 望大 人照 察通 天之 冤︑ 以此 善為 措辞 諷之
︑則 庶或 可也
︑詳 思回 答︑
︵﹃ 宣祖 実 録﹄ 巻六
︑五 年一
〇月 戊寅
︹二 五日
︺条
︶ 宗系 弁誣 問題 をめ ぐっ て今 回の 明使 に伝 達す る内 容の 要点 は︑ 以下 の二 点に 整理 でき よう
︒ま ず第 一に
︑朝 鮮政 府は すで に宗 系 弁誣 奏請 使の 人選 を終 えて 北京 へ出 発さ せる 予定 であ った が︑ 先 皇帝 の訃 報に 接し
︑上 奏を 断念 した
︒後 述す るよ うに
︑こ のと き
奏請 副使 に決 定し てい たの は成 均館 大司 成︵ 正三 品堂 上官
︶奇 大 升で ある
︒第 二に
︑不 幸中 の幸 いな がら 新皇 帝が 即位 した こと に より
︑﹁ 東藩
﹂た る朝 鮮の 臣民 は欣 々然 とし て﹁ 再生 の恩
﹂を 得 たも 同然 であ り︑ 来年 にで も奏 請使 を派 遣し たい とい う︒ 宣祖 は 慎重 に考 慮の うえ 回答 せよ と命 じる と︑ その 日の うち に承 政院 は 宣祖 の意 向を 尊重
( )
した
︒
18
さて
︑明 使韓 世能 と陳 三謨 の一 行が この 年宣 祖五 年一 一月 一日 に漢 城郊 外の 慕華 館に 到着 する と︑ 宣祖 は百 官を 率い て五 拝三 叩 頭の 迎拝 礼を 実施 した
︒こ の日 はそ の後
︑景 福宮 勤政 殿に て迎 勅 礼︑ しば し休 憩し て茶 礼を 行い
︑つ いで 明使 の宿 舎で ある 太平 館 では 下馬 宴が 催さ れた
︒夜 更け には 光化 門外 で鼇ごう 山ざん
︵山 台
サ ン
︒デ
華麗 な装 飾を 施し た大 型の 置き 山︶ の観 覧に 興じ るな ど︑ 接待 儀礼 の 舞台 はめ まぐ るし くか
( )
わる
︒そ して 三日 後︑ 明使 をあ らた めて 景
19
福宮 に迎 えた 宣祖 は︑ 勤政 殿の 宴席 で宗 系改 正奏 請使 を派 遣す る 意志 を伝 えた
︒ 天使 詣景 福宮
︑周 覧慶 會樓
︑赴 勤政 殿之 宴︑ 上以 宗系 改正
・ 悪名 申雪 奏請 使将 遣事
︑令 通事 告于 両使
︑答 曰︑ 天子 聖明
︑ 今若 奏請
︑可 得請 矣︑ 上又 請曰
︑初 七日 発行 云︑ 冬至 節日 行 望闕 礼而 後発 行︑ 日晩 矣︑ 一日 之間 請留
︑天 使曰
︑懇 至︑ 當 依許 留︑
︵後 略︶
︵﹃ 宣祖 実録
﹄巻 六︑ 五年 一一 月丙 戌︹ 四日
︺ 条︶ この とき 明使 は︑ 天子 つま り萬 暦帝 は聡 明で ある ゆえ
︑い まも し宗 系の 改正 を奏 請す れば 成就 でき るで あろ うと 助言 する
︒そ こ で宣 祖は 明使 の帰 国日 を延 ばす よう 懇願 した
︒明 使は 三日 後の 一 一月 七日 に帰 国す る予 定で あっ たが
︑当 日は 冬至 にあ たっ てお
り︑ 宣祖 は望 闕礼 を実 施す る予 定で あっ たか らで ある
︒望 闕礼 と は名 節の 正朝
・冬 至・ 聖節 そし て千 秋節 に︑ 朝鮮 国王 が文 武百 官 を率 いて 王都 漢城 の王 宮よ り紫 禁城 に住 まう 明の 皇帝 を遥 拝す る 王朝 国家 儀礼 で
( )
ある
︒実 際に 冬至 の七 日に は早 朝よ り宣 祖が 群臣
20
を率 いて 望闕 礼を 行い
︑午 前八 時に 群臣 は宣 祖に 対し て冬 至を 祝 う朝 賀礼 を実 施し
︑つ いで 午前 一〇 時頃 にな ると 宣祖 は太 平館 に 赴い て酒 宴に 参席
( )
した
︒宣 祖は 従来 どお り群 臣と とも に遠 く漢 城
21
より 萬暦 帝に 忠誠 を誓 い︑ また 接待 儀礼 を通 して 遠来 の明 使を 手 厚く ねぎ らう こと によ って 宗系 改正 に期 待し たの であ ろう
︒翌 日 の八 日に 宣祖 はふ たた び太 平館 に赴 いて 明使 のた めに 上馬 宴を 催 し︑ 九日 には 慕華 館に て餞 別の 宴を 設け
︑宗 室と 文武 百官 がみ な 再拝 礼を 行う なか
︑明 使韓 世能
・陳 三謨 の一 行は 帰国 の途 につ
( )
いた
︒こ の頃
︑北 京で は賀 登極 使朴 淳・ 副使 成世 章の 一行 に正 使
22
の子 弟と して 同行 した 許震 童が 礼部 に﹃ 明世 宗実 録﹄ の編 纂状 況 を探 らせ たと ころ
︑同 書は 未完 なが ら﹃ 明穆 宗実 録﹄ は去 る一
〇 月二 六日 に纂 修局 を開 いた
︑と の情 報を 得て
( )
いる
︒き わめ て正 確
23
な情 報で ある が︑ 翌年 の宣 祖六 年正 月に 漢城 に戻 った 賀登 極使 朴 淳が この 件を 宣祖 に報 告し た形 跡は
( )
ない
︒
24
さて
︑明 使に よる 宗系 改正 の口 添え を得 た朝 鮮政 府は 宣祖 六年 二月 に戸 曹参 判李 後白 を奏 請使 とし
︑副 使尹 根寿
・書 状官 尹卓 然 の三 使を 明に 派遣
( )
した
︒奏 請使 李後 白の 一行 が明 の礼 部と の交 渉
25
の結 果を 報告 して きた のは
︑半 年後 の宣 祖六 年八 月で ある
︒同 知 中枢 府事
︵従 二品
︶柳 希春 は先 来通 事か ら送 られ た書 状に 事前 に 目を 通し たと みえ
︑﹃ 眉巌 日記 草﹄ に﹁ 奏請 の事
︑大 概請 を得
︑ 云々
﹂と
( )
記す
︒で は︑ 李後 白が 北京 から 朝鮮 政府 に送 り届 けた そ
26
の書 状を みて みよ う︒ 奏請 使書 状来 到︑ 礼部 題奏 皇帝
︑皇 帝以 為︑ 俟世 宗実 録畢 修 後︑ 更取 旨施 行︑ 大概 只應 宗系 改正 一事
︑悪 名辨 誣一 事無 黒 白云
︑但 皇朝 太宗
︑嘉 靖中 改号 成祖
︑癸 亥年
︵= 明宗 一八
︑ 一五 六三
︶︑ 金澍 奏請 使時
︑文 武亦 称成 祖︑ 頃日 奏請 文字 以 太宗 書填
︑中 朝礼 部以 為事 不恪
︑其 時都 提調 以下 盧守 慎・ 朴 忠元
・金 貴栄
・姜 士尚
・柳 希春 啓曰
︑嘉 請ママ
十七 年︵
=中 宗三 三︑ 一五 三八
︶︑ 朴ママ
寬回 自京 師︑ 齎改 太宗 為成 祖詔
︑厥 後十 八年
︵= 中宗 三四
︶奏 文称 成祖
︑丁 巳年
︵= 明宗 一二
︶奏 文 称太 宗︑ 癸亥 年奏 文称 成祖
︑臣 等因 循謬 例︑ 以致 皇朝 査究 不 恪之 責︑ 臣等 之罪 重矣
︑惶 恐待 罪︑ 答曰
︑偶 未及 察之 事︑ 不 必待 罪也
︑右 相以 掌撰 官再 待罪
︑提 調等 先退
︑︵
﹃宣 祖実 録﹄ 巻七
︑六 年八 月己 未︹ 一二 日︺ 条︶ 李後 白の 書状 によ れば
︑礼 部が 朝鮮 側の 要請 を萬 暦帝 に上 奏し たと ころ
︑萬 暦帝 は先 々代 の﹃ 明世 宗実 録﹄ の編 纂終 了後 に再 度 検討 のう え施 行す ると いう
︒た だし
︑そ れは 宗系 改正 に関 する 一 件の みで あり
︑﹁ 悪名 辨誣
﹂つ まり 高麗 王氏 の弑 逆に つい ては 明 確な 回答 がな かっ た︒ 柳希 春の 日記 によ れば
︑宣 祖は 礼部 の回 答 に不 快感 を示 した と
( )
いう
︒そ のう え︑ 李後 白の 書状 に﹁ 嘉靖 十七
27
年︑ 朴ママ
寬京 師自 り回 り︑ 太宗 を改 めて 成祖 と為 すの 詔を 齎す
﹂と みえ るよ うに
︑嘉 靖年 間に 太宗 永楽 帝︵ 在位 一四
〇二
~二 四年
︶ の廟 号を 成祖 と改 号し たと の詔 書を 得て
( )
いた
︒に もか かわ らず
︑
28
明宗 一二 年に 趙士 秀が 提出 した 奏請 文に は太 宗と 記さ れて
( )
いた こ
29
とも 物議 を醸 した よう であ る︒ 朝鮮 初期 には 事大 文書 に誤 字が 発 見さ れた 場合
︑承 文院 の担 当者 が処 罰さ れた こと を伝 える 記事 が
散見
( )
する
︒ま た︑
﹃経 国大 典﹄ 礼典 によ れば
︑奏 請文 をは じめ と
30
する 事大 文書 は通 常︑ 拝表 の日 に議 政府
・六 曹・ 司憲 府・ 承政 院 の長 官が 立ち 会い のも と最 終検 査が 行わ れ︑ 奏請 文の 場合 は承 文 院都 提調
・副 提調 そし て正 使と 副使 も検 査す るこ とに なっ て
( )
いる
︒つ まり
︑明 宗一 二年 当時 は政 府高 官と 承文 院に よる チェ ッ
31
ク機 能が はた らい てい なか った こと にな る︒ その ため 翌日
︑承 文 院都 提調 以下
︑右 議政 盧守 慎・ 礼曹 判書 朴忠 元・ 吏曹 判書 金貴 栄・ 兵曹 判書 姜士 尚そ して 柳希 春が その 責任 を痛 感し て処 分を 待っ たが
︑宣 祖は
﹁偶 たま 未だ 察す るに 及ば ざる の事 なる に︑ 必 ずし も待 罪せ ざる なり
﹂︑ と彼 らを なだ める ほか なか
( )
った
︒32 それ にし ても
﹃宣 祖実 録﹄ に残 る奏 請使 李後 白の 書状 では
︑萬 暦帝 の勅 書の 内容 が簡 略に すぎ る︒ 宣祖 六年 八月 に届 いた 李後 白 の書 状と 朝鮮 政府 の対 応は
﹃眉 巌日 記草
﹄を もと に復 元さ れた た め︑ 史料 上の 限界 は否 めな い︒ 萬暦 元年 の礼 部の 題本 と同 年六 月 三日 付け の聖 旨は 泰昌 元年
︵光 海君 一二
︑一 六二
〇︶ に成 立し た 兪汝 楫編
﹃礼 部志 稿﹄ に﹁ 朝鮮 の為 に実 録を 改む
﹂と して 記録 が 残っ て
( )
おり
︑ま た﹃ 宣祖 修正 実録
﹄も 李後 白一 行の 外交 交渉 と勅
33
諭に 関し て具 体的 な記 録を 残す
︒ 遣奏 請使 李後 白・ 尹根 壽等
︑乞 将宗 系・ 弑逆 已辨 誣等 事増 入 続修 會典
︑蓋 皇朝 方修 続大 明會 典故 也︑ 礼部 尚書 陸樹 聲等 覆 題曰
︑拠 称︑ 宗系 各有 本源
︑既 與李 仁人ママ 不同
︑又 謂国 祖由 于 推戴
︑亦 與弑 王氏 無預
︑在 我皇 祖之 大訓
︑固 得于 一時 之伝 聞︑ 在伊 裔孫 之辨 詞︑ 実出 於一 念之 誠孝
︑宜 念其 世秉 礼義
︑ 克篤 忠勤
︑依 其所 請︑ 奉聖 旨︑ 該国 前後 奏辞
︑備 細纂 入於 皇 祖実 録内
︑新 會典 則候 旨続 修増 入︑ 仍降 勅諭
︑略 曰︑ 爾祖 某
久蒙 不韙
︑荷 我列 祖垂 鑑︑ 已為 昭雪 改正
︑茲 者纂 修実 録︑ 欲 将前 後奏 辞備 行採 録︑ 以垂 永久
︑朕 念爾 係守 礼之 邦︑ 且事 関 君臣 大義
︑特 允所 請︑ 即命 抄付 史館
︑備 書于 粛祖 実録
︑俟 後 修新 會典
︑以 慰爾 籲雪 先祖 懇情
︑︵
﹃宣 祖修 正実 録﹄ 巻七
︑六 年一 一月 条︶ 奏請 使李 後白 と副 使尹 根寿 は﹃ 大明 会典
﹄の 増補 修正 版に 朝鮮 政府 によ る宗 系改 正の 事情 を記 録す るよ う︑ 礼部 尚書 に要 請
( )
した
︒﹃ 萬暦 会典
﹄︵
﹁萬 暦重 修会 典﹂
︶の 編纂 に着 手さ れる のは こ
34
れよ り三 年後 の萬 暦四 年︵ 宣祖 九︶ 六月 で
( )
ある から
︑﹃ 宣祖 修正
35
実録
﹄に
﹁蓋 し皇 朝︑ 方に 続大 明會 典を 修せ んと する の故 なり
﹂ とあ るの は︑ 史官 が勅 諭の 内容 を判 断し たう えで 挿入 した 文章 で あろ う︒ 奏請 使が 上申 した 内容 は史 料中 の﹁ 拠称
﹂︵ 申し たて に よれ ば以 下云 々︑
( )
の意
︶以 下に ある とお り︑ 太祖 李成 桂の 宗系 が
36
李仁 任の 系譜 とは まっ たく 異な るこ と︑ また 高麗 王氏 の殺 害で は なく 臣下 の推 戴に よっ て新 王朝 が開 創さ れた こと
︑の 二点 であ る︒ 礼部 尚書 陸樹 聲ら の覆 題︵ 回答
︶に よれ ば︑
﹁我 が皇 祖の 大 訓﹂ つま り﹃ 皇明 祖訓
﹄所 載の 朝鮮 情報 が一 時の 誤っ た伝 聞に よっ て生 じた こと を︑ すで に礼 部も 認め てい たよ うで ある
︒朝 鮮 国王 の先 祖に 対す る孝 行と 明に 対す る忠 誠に 鑑み
︑礼 部が この 要 請を 萬暦 帝に 上奏 した とこ ろ聖 旨を 得た
︒李 成桂 がひ さし く被 っ てい た不 名誉 な誤 報は すで に歴 代皇 帝に よっ て改 正さ れて おり
︑
﹃明 実録
﹄の 編纂 に際 して 前後 の奏 請文 を採 録す る︑ との 勅諭 が 降っ たの であ る︒ 萬暦 帝の 勅諭 には
﹁特 に請 う所 を允 し︑ 即ち 命 じて 史館 に抄 付し
︑備 に粛 祖実 録に 書せ しむ
﹂と あり
︑こ こに い う﹁ 粛祖 実録
﹂と は隆 慶元 年︵ 明宗 二二
︑一 五六 七︶ 三月 に総 裁
官の 大学 士張 居正 を中 心に 編纂 が開 始さ れ︑ のち 萬暦 五年
︵宣 祖 一〇
︑一 五七 七︶ 八月 に完 成す る﹃ 世宗 粛皇 帝実 録﹄ 五五 六巻 を
( )
指す
︒こ のと き明 政府 が実 録の 編纂 にあ たり
︑朝 鮮政 府に 対し て
37
一歩 踏み 込ん だ対 応を した とこ ろに 注目 され る︒ つま り︑
﹃大 明 会典
﹄の 条文 を改 正す るだ けで なく
︑正 史の
﹃明 実録
﹄に も宗 系 弁誣 の事 情を 採録 する と明 政府 は正 式に 約束 した ので ある
︒実 際 に︑
﹃明 世宗 実録
﹄に は聖 節使 柳溥
︵中 宗二 四年
︶に よる 宗系 改 正の 奏請 内容 が詳 細に 収録 され てい るこ とは
︑す でに 別稿 にて 検 討し たと おり で
( )
ある
︒い ま︑ その
﹃明 世宗 実録
﹄の 記録 を﹃ 萬暦
38
会典
﹄朝 貢条 の﹁ 朝鮮 国﹂ の附 録と 比較 する と︑ 高麗 恭愍 王一
〇 年︵ 一三 六一
︶の 紅巾 軍の 侵入 に関 する 叙述 以外 はほ ぼ一 致し て いる こと が容 易に 理解 でき よう
︵︻ 表1
︼参 照︶
︒そ のう え︑ 勅諭 の末 尾に は﹁ 後ち 新會 典を 修す るを 俟ち
︑以 て爾 が籲さけ びて 先祖 を 雪ぐ の懇 情を 慰め ん﹂ とあ るこ とか ら︑ 萬暦 帝は 即位 後ま もな い この 頃に は﹁ 新會 典﹂ つま り﹃ 萬暦 会典
﹄の 編纂 事業 を構 想し て いた に相 違な い︒ この 萬暦 帝の 勅書 を獲 得し た奏 請使 李後 白の 一行 が宣 祖六 年九 月中 旬に 帰国 する と︑ 宣祖 は慕 華館 にて 勅書 を迎 え入 れ︑ 大臣 と 臺諫 の反 対論 を抑 えて 宗廟 への 告祭 を決 定し
︑ま た勤 政殿 にて 全 国に 恩赦 令を 下し た︒ さら に︑ 宗系 改正 の外 交交 渉に 功績 があ っ た正 使李 後白 と副 使尹 根寿
・書 状官 尹卓 然に は土 田と 奴婢 が賜 給 され
︑李 後白 の位 階は 従二 品の 嘉義 大夫 に︑ 尹根 寿も 同じ く従 二 品の 嘉善 大夫 に昇 格
( )
する
︒宗 廟告 祭と 恩赦 令︑ 奏請 使に 対す る褒
39
賞と 加資 につ づき
︑中 宗三 五年
︵権 迦の 奏請
︶と 明宗 一八 年︵ 金 澍の 奏請
︶の 前例 にな らっ て宗 系改 正別 試の 実施 も決 定
( )
した
︒つ
40
【表1】『明実録』と『萬暦会典』の比較
李成桂系出本国全州、遠祖翰仕 新羅為司空、六代孫兢休入高 麗、
十三代孫安社生行里、行里生 椿、椿生子春、是為成桂之父、
李仁人ママ者、京山府吏長庚裔也、
始王氏恭愍王顓無子、養寵臣辛 蚊子禑為子、恭愍王為嬖臣洪倫 等所弑、李仁人當国誅倫等立 禑、
禑嗣位十六年、遣将入犯遼東、
成桂為副将在遣中、至鴨緑江、
與諸将合謀回兵、
禑懼伝位于其子昌、時恭愍妃安 氏以国人黜昌、立王氏孫定昌君 瑤、誅禑・昌、逐仁人ママ、
巳而瑤妄殺戮、国人不附、共推 成桂署国事、表聞高皇帝、命為 国王、遂更名旦、贍瑤別邸、終 其身、
李〔太祖旧諱〕系出本国全州、
遠祖翰仕新羅為司空、六代孫兢 休入高麗、
十 三 代 孫〔穆 祖 諱〕生〔翼 祖 諱〕、生〔度 祖 諱〕、生〔桓 祖 諱〕、是為〔旧諱〕之父、
李仁任者、京山府吏長庚裔也、
始王氏恭愍王顓無子、養寵臣辛 蚊子禑為子、恭愍王為嬖臣洪倫 等所弑、李仁任當国誅倫等立 禑、
禑嗣位十六年、遣将入犯遼東、
〔旧諱〕為副将在遣中、至鴨緑 江、與諸将合謀回兵、
禑懼伝位其子昌、時恭愍妣安氏 以国人黜昌、立王氏孫定昌君 瑤、誅禑・昌、逐仁任、
巳而瑤妄殺戮、国人不附、共推
〔旧 諱〕署 国 事、表 聞 高 皇 帝、
命為国王、遂更名旦、貶瑤別 邸、終其身
旦初名成桂、其先本国全州人、
二十八世祖翰仕新羅、為司空、
新羅亡、翰六世孫兢休入高麗、
十三世孫安社仕元、為南京五千 戸所達魯花赤、世襲其職、元季 兵興、安社曾孫子春與男成桂避 地東還、至正辛丑、當高麗恭愍 王之十年、有紅巾賊二十万衆入 境、成桂領兵勦賊有功、授武班 職事、時尚未知名、
恭愍無嗣、陰畜寵臣辛蚊之子禑 為己子、晩多躁暴、為嬖臣洪 倫・内竪崔萬生等所弑、権臣李 仁任車裂倫・萬生於市、立禑為 嗣、其子昌為世子、
禑十六年、擢成桂為門下侍中、
時禑遣将犯遼東、成桂為副将、
行至鴨緑江、與諸将議、不宜得 罪上国、乃還、
禑懼遜位于昌、昌以洪武二十二 年宣諭、以偽姓見黜、而後王氏 之裔定昌君瑤主国事、仁任罪竄 於外、
既王瑤又不義、国人憤怨、乃共 廃瑤、推立成桂、成桂請命於太 祖高皇帝、乃命成桂為王、国号 朝鮮、改名旦云、
3)『萬暦会典』
2) 裴三益の「朝天録」
1)『明世宗実録』
1)『明世宗実録』巻104、嘉靖8年8月壬午(19日)条
2)『臨淵斎先生文集』巻4、朝天録、萬暦15年丁亥7月甲午(7日)条 3)『萬暦大明会典』巻105、礼部63、朝貢1、東南夷上、朝鮮国条
いで 一〇 月下 旬に は宗 系改 正に 対す る謝 恩使 とし て李 陽元 が明 に 派遣 さ
( )
れた
︒李 陽元 はか つて 明宗 一八 年に 奏請 使書 状官 とし て赴
41
京し
︑嘉 靖帝 の勅 書を もた らし た経 歴が
( )
ある
︒萬 暦帝 によ る勅 書
42
が朝 鮮に 届い たこ とに 対し
︑宣 祖が 今回 の奏 請使 によ る功 績を い かに 高く 評価 した かは 容易 に推 察さ れよ う︒ 翌年 正月 中旬 に北 京 では 謝恩 使李 陽元 以下
︑総 勢三 五名 の遣 明使 節が 謝恩 表と とも に 朝鮮 の土 産と 馬匹 を献 上
( )
した
︒43
2 ︑
通 事 洪 純 彦 に よ る 情 報 収 集
いま や朝 鮮側 は﹃ 大明 会典﹄と
﹃明 世宗 実録
﹄の 完成 を待 つば かり とな った
︒宣 祖七 年五 月に は萬 暦帝 の聖 節︵ 八月 一七 日︶ を 祝う 聖節 使朴 希立
・書 状官 許篈
・質 正官 趙憲 が北 京へ 向け て出
( )
発し
︑同 年一 一月 に約 五ヶ 月間 の北 京紀 行を 終え て漢 城に 戻る
︒
44
とこ ろが
︑こ の聖 節使 の帰 国報 告は 趙憲 の見 聞に よる 中華 文物 の 隆盛 で占 めら れて おり
︑﹃ 大明 会典
﹄刊 行の 進捗 状況 は実 録に は 記録 され てい
( )
ない
︒と はい え︑ この 聖節 使一 行が 八月 四日 の北 京
45
到着 後︑
﹁八 月一 七日 に宮 廷へ 参内 し︑ 萬暦 帝の 聖節 を祝 うと い う目 的を 果た した ほか
︑礼 部が 主催 する 宴会 に出 席し
︑﹃ 大明 会 典﹄ の朝 鮮記 事を 改変 させ る交 渉﹂ を行 い︑ また 書状 官許 篈が 情 報収 集の 見返 りと して 鴻臚 寺序 班か ら賄 賂を 要求 され たこ とを
︑ すで に夫 馬進 氏が 許篈 の﹃ 荷谷 先生 朝天 記﹄ をも とに 指摘 して
( )
いる
︒屋 上屋 を架 すべ きで はな かろ うが
︑筆 者は ここ で以 下の 三
46
点を 指摘 して おき たい
︒ まず 第一 に︑ 聖節 使朴 希立 の一 行は 入京 後︑ 通事 洪純 彦の 情報 網に より
﹃明 実録
﹄と
﹃大 明会 典﹄ の編 纂状 況を 知っ たこ とで あ
る︒ 北京 滞在 中の 聖節 使一 行の 動向 は︑ みず から 書状 官に 名乗 り 出た 礼曹 佐郎
︵正 六品
︶
( )
許篈 の﹃ 荷谷 先生 朝天 記﹄ に詳 しい
︒こ
47
の﹁ 朝天 記﹂ を繙 けば
︑八 月九 日に 通事 洪純 彦は 礼部 の吏 員よ り
﹁穆 宗実 録已 に纂 すれ ども
︑世 宗実 録は 未だ 畢わ らず
﹂と の情 報 を入 手し て
( )
いる
︒た しか に﹃ 穆宗 荘皇 帝実 録﹄ 七〇 巻は この 年萬
48
暦二 年︵ 宣祖 七︶ 七月 に完 成し たば かり で
( )
あり
︑洪 純彦 が得 た情
49
報は 正確 であ る︒ 朝鮮 半島 を北 上し てい た六 月上 旬に
︑洪 純彦 は 平安 道宣 川の 林畔 館に て夜 更け に許 篈と 語ら い︑ 明の 最新 事情 を 伝え てい る︒ 許篈 が忘 れま いと して 書き 記し た﹁ 朝天 記﹂ には
﹁癸 酉年
︵= 宣祖 六︶
︑奏 請使 に随 いて 京師 に在 り︒ 実録
・新 修會 典改 纂等 の事 を聞 かん と欲 して 書を 許賛 善国 の家 人兪 深に 通じ
︑ 以て 之を 問え り﹂ とあ り︑ 前年 の奏 請使 李後 白一 行に 通事 とし て 同行 した 洪純 彦は かね てよ り﹃ 明実 録﹄ と﹃ 大明 会典
﹄の 編纂 状 況に 関す る情 報収 集に 努め て
( )
いた
︒許 国は かつ て宣 祖即 位年 七月
50
に隆 慶帝 即位 の詔 書を 奉じ て来 朝し た人 物で
( )
あり
︑の ち﹃ 萬暦 会
51
典﹄ の編 修に 際し て総 裁の ひと りと
( )
なる
︒三 使で ある 正使
・書 状
52
官・ 質正 官の だれ より も宗 系弁 誣問 題に 通じ てい たの は︑ むし ろ 通事 を担 当し た洪 純彦 であ った に相 違な い︒
﹃明 世宗 実録
﹄未 完 との 情報 に接 した 聖節 使朴 希立 らが 礼部 尚書 との 外交 交渉 を計 画 した のは 八月 一二 日で ある
︒許 篈が 綴っ た当 日の
﹁朝 天記
﹂を み てみ よう
︒
︵前 略︶ 洪純 彦・ 安廷 蘭等 往告 曰︑ 上年
︑本 国奏 請改 定宗 系 続載 會典 等事
︑而 必待 実録 之完
︑然 後方 修會 典云 云︑ 小的 等 在路 聴得 実録 已皆 完了
︑會 典之 新纂
︑不 知何 以為 之︑ 陪臣 欲 呈文 於本 部︑ 故敢 稟︑ 員外 曰︑ 穆宗 実録 則已 畢︑ 而世 宗実 録
則更 有幾 年功 夫矣
︑然 會典 則各 司今 方抄 出新 増事 類︑ 移報 翰 林院
︑故 本司 公事 之採 録︑ 我実 任之
︑嘉 靖八 年奏 請之 詞已 載 於其 中︑ 而他 年之 事俟 検出 而備 書︑ 陪臣 若欲 呈文 則亦 無妨 也︑ 純彦 等退
︑員 外更 招以 語之 曰︑ 會典 時属 纂録
︑呈 文内 不 可言 其已 完也
︑純 彦曰
︑小 的等 欲聞 會典 修纂 之始
︑非 謂其 已 完也
︑且 俟呈 文之 浄写
︑然 後先 達于 老爺
︑以 取進 止為 計︑ 員 外曰
︑知 道︑
︵後 略︶
︵﹃ 荷谷 先生 朝天 記﹄ 中︑ 萬暦 二年 甲戌 八月 一二 日癸 丑条
︶ 前年
︑朝 鮮政 府が 奏請 使を 派遣 して 宗系 改正 を要 請し たと こ ろ︑ 明政 府よ り﹃ 明世 宗実 録﹄ の編 纂終 了後 に﹃ 大明 会典
﹄の 編 纂に 着手 する 旨の 回答 を得 たこ とは
︑す でに われ われ もみ たと お りで ある
︒入 京後
︑洪 純彦 らは
﹃明 実録
﹄の 編纂 完了 との 情報 に 接し たが
︑﹃ 大明 会典
﹄の 編纂 状況 に関 して は知 るす べも なか っ た︒ そこ で今 回︑ 陪臣 朴希 立の 名義 で礼 部に 呈文 を提 出し たい
︑ と主 客司 員外 郎銭 拱宸 に申 し入 れた ので ある
︒員 外郎 銭拱 宸も
﹁穆 宗実 録は 則ち 已に 畢わ れど も︑ 世宗 実録 は則 ち更 に幾 年の 功 夫有 らん
﹂と その 事実 を認 めて いる
︒当 時︑
﹃大 明会 典﹄ は新 増 事項 を抄 出中 であ って
︑主 客司 にお ける 採録 の事 務は 銭拱 宸本 人 が担 当し てい た︒ その うえ 銭拱 宸は
︑﹁ 嘉靖 八年 奏請 の詞 は已 に 其の 中に 載す れど も︑ 他年 の事 は検 出を 俟ち て備 に書 す﹂ と打 ち 明け
︑陪 臣名 義に よる 呈文 の提 出を 助言 した
︒﹁ 嘉靖 八年 奏請 の 詞﹂ とい えば
︑中 宗二 四年 の聖 節使 柳溥 によ る奏 請に ほか なら な い︒ 柳溥 の奏 請内 容は
﹃明 世宗 実録
﹄に 詳細 な記 録を 残し てお り︑ また
﹃嘉 靖会 典﹄ の草 本に は礼 部・ 内閣 いず れの 所蔵 本に も
﹁嘉 靖八 年︑ 使者 言え らく
︑其 の国 王︑ 李仁 任の 後に 係ら ず﹂
云々 と記 され て
( )
いた
︒し たが って
︑後 日完 成す る﹃ 萬暦 会典
﹄に
53
附録 され た李 成桂 の宗 系と 朝鮮 建国 始末 は︑ おそ らく 柳溥 の呈 文 を基 礎に 作成 され たも のと 推測 され る︒ 銭拱 宸は いさ さか 饒舌 に すぎ たと 思い 直し たの か︑ 席を 立と うと する 洪純 彦を 呼び 止め
︑ 呈文 には
﹃大 明会 典﹄ の編 纂状 況に は触 れな いよ う口 止め して い る︒ なら ば︑ この 日の 銭拱 宸か ら得 た情 報は いっ そう 信憑 性が 高 いと 判断 して よか ろう
︒洪 純彦 は清 書し た呈 文を 先に 銭拱 宸に 届 ける ゆえ
︑よ ろし く取 り計 り願 いた いと 依頼 し︑ 銭拱 宸も これ を 快諾 した
︒ 第二 に︑ 聖節 使朴 希立 の一 行は 礼部 尚書 に呈 文を 提出 した もの の︑ 彼ら の北 京滞 在中 に礼 部が 題請 する こと はな かっ た︒
﹁朝 天 記﹂ によ れば
︑朴 希立 一行 は聖 節の 翌日 であ る八 月一 八日 に礼 部 へ赴 き︑ 月台
︵殿 閣の 前に 広く 石を 敷き 詰め た基 壇︶ の上 に跪 い て礼 部尚 書萬 士和 に呈 文を 提出 した
︒し かし
︑礼 部尚 書は
﹁這こ 箇の 事情
︑時 に未 だ暁 得せ ず︒ 當に 査看 し你 に替 わり て行 うべ し﹂ と 即答 を避 け︑ 朴希 立一 行は いっ たん 東廊 へと 退出 を余 儀な くさ れ たが
︑し ばら くし て朴 希立 名義 の呈 文に 目を 通し た尚 書が 洪純 彦 を呼 び戻
( )
した
︒そ の直 後︑ 礼部 尚書 と洪 純彦 のあ いだ には 以下 の
54
よう な論 議の 応酬 があ った
︒
︵前 略︶ 洪純 彦趨 赴月 臺上
︑尚 書曰
︑此 事已 為題 過︑ 実録 完 後自 可以 行︑ 今不 敢再 題︑ 純彦 対曰
︑此 則陪 臣亦 知之 矣︑ 但 聞今 方纂 修會 典︑ 陪臣 之意
︑望 老爺 通査 各年 事例
︑再 行題 請︑ 移文 翰林 院︑ 則陪 臣等 其将 回話 於国 王︑ 而国 王感 激之 意︑ 何可 量耶
︑尚 書曰
︑會 典今 雖纂 集︑ 而内 院尚 未設 局︑ 若 開局 則你 国之 事︑ 自可 増入 矣︑ 今不 須題 請︑ 此意 回報 陪臣 知
道︑
︵中 略︶ 侍郎 顧語 純彦 曰︑ 此事 已悉 之矣
︑但 実録 時未 完 了︑ 待其 完則 自當 増録
︑決 無遺 漏︑ 今不 須題 也︑ 此意 帰報 陪 臣︑ 純彦 扣頭 而出
︑罷 堂後 余等 遂帰
︑︵ 後略
︶︵
﹃荷 谷先 生朝 天記
﹄中
︑萬 暦二 年甲 戌八 月一 八日 己未 条︶ 本件 は実 録の 編纂 完了 後に 行う べき であ って
︑現 時点 で礼 部尚 書は 再度 皇帝 に題 奏す る考 えは なか った
︒む ろん
︑洪 純彦 もそ の 点は 承知 して いた
︒と はい え︑
﹃大 明会 典﹄ の編 纂が 始ま ろう と して いる こと を聞 き知 った 以上
︑こ のま ま朝 鮮に 帰国 する こと は でき ない
︒朴 希立 とし ては これ まで の奏 請の 事例 を調 査の うえ
︑ 再度 題請 して 翰林 院に 移文 して いた だけ れば 朝鮮 国王 も感 激す る であ ろう
︑と 礼部 尚書 に訴 えた
︒そ の結 果︑
﹁會 典︑ 今に 纂集 す と雖 も︑ 内院 尚お 未だ 局を 設け ず︒ 若し 開局 せば
︑則 ち你 が国 の 事︑ 自ら 増入 すべ し︒ 今は 須く 題請 すべ から ず﹂ との 回答 を引 き 出す こと がで きた
︒い まの とこ ろ臨 時官 庁の 会典 館こ そ開 設さ れ てい ない が︑ 礼部 尚書 は﹃ 大明 会典
﹄の 編纂 事業 計画 の存 在を 示 唆す る︒ 本件 は﹃ 明実 録﹄ の完 成後 に遺 漏な く増 補収 録さ れる で あろ う︑ と礼 部侍 郎も 洪純 彦に 声を かけ
︑朴 希立 らは 会同 館へ と 戻
( )
った
︒そ の翌 日の 早朝
︑員 外郎 銭拱 宸が 会同 館を 訪問 した
︒お
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そら く︑ 昨日 の礼 部尚 書へ の呈 文の 件が 気が かり であ った ので あ ろう
︒宗 系改 正が 一国 の大 事で ある ゆえ
︑あ えて 呈文 を制 止し な かっ たと 銭拱 宸は いい
︑﹁ 世宗 四十 五年 の実 録甚 だ多 く︑ 更に 一 両年 を待 ちて 後ち
︑方 に完 了す るを 得ん
︒會 典は 則ち 各衙 門︑ 今 は只 だ内 翰に 抄送 する のみ
︒其 の開 局は 則ち 未だ 其の 早晩 を知 ら ざる なり
﹂︑ と当 時の 政府 内の 状況 を伝 えて
( )
いる
︒
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第三 に︑ 礼部 尚書 はあ らた めて 題請 する こと はな かっ たが
︑朴
希立 名義 の呈 文は 礼部 主客 司に 保管 され
︑﹃ 大明 会典
﹄編 纂時 の 参考 資料 に付 され た︒ この 点も 以下 に提 示す る許 篈の
﹁朝 天記
﹂ から 容易 に読 み取 るこ とが でき よう
︒
︵前 略︶ 礼部 都吏 来館
︑謂 通事 等曰
︑前 日呈 文︑ 尚書 下于 主 客司
︑以 備會 典新 修時 査考
︑平 時凡 呈文 之不 可行 者︑ 則尚 書 不下 該司
︑而 今則 如是
︑可 見其 必行 於後 日也
︑︵ 後略
︶︵
﹃荷 谷先 生朝 天記
﹄中
︑萬 暦二 年甲 戌八 月二 一日 壬戌 条︶ 礼部 都吏 は来 館の うえ
︑﹁ 平時
︑凡 そ呈 文の 行う べか らざ る者 は︑ 則ち 尚書 該司 に下 さず
︒而 れど も今 は則 ち是 の如 し︒ 其れ 必 ず後 日に 行う を見 るべ きな り﹂ と通 事に 伝え た︒ 入京 後に 聖節 使 朴希 立一 行は 急遽 呈文 を書 き直 し︑ 礼部 尚書 に題 請を 拒否 され た と思 われ たが
︑こ の連 絡を 受け てひ とま ず安 堵し たに 相違 ない
︒ 上述 した 三点 は朝 鮮側 の実 録記 事に は記 録さ れて おら ず︑ 朝鮮 宣 祖代 にお ける この 対明 外交 交渉 の具 体相 をい ささ か不 透明 なも の にし てい る︒ なお
︑許 篈・ 趙憲 らは 前日 の八 月二
〇日 に内 城北 部 の国 子監 に拝 謁し
︑二 五日 には 外城 にあ る天 壇︵ 圜丘 壇︶ を参 観 して おり
︑孔 子廟 と天 壇の 観覧 は朝 鮮使 節に とっ てす でに 恒例 と なっ て
( )
いた
︒
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さて この 頃︑ 宣祖 七年 八月 下旬 に北 京へ 向か った 冬至 使安 自裕 以下
︑書 状官 李彦 愉・ 質正 官金 大鳴 の
( )
一行 が年 末に 先来 通事 を朝
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鮮に 派遣 し︑ 宗系 改正 の事 情が 採録 され たと 報告 して きた
︒ 冬至 使安 自裕 等送 先来 通事 啓聞
︑宗 系改 正事 已蒙 載録
︑上 深 喜之
︑令 承政ママ 院議 遣謝 恩使
︑︵
﹃宣 祖実 録﹄ 巻八
︑七 年閏 一二 月乙 酉︹ 一五 日︺ 条︶ 簡略 なこ の実 録記 事に は﹁ 宗系 改正 の事
︑已 に載 録を 蒙る
﹂と