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朝鮮宣祖代の対明外交交渉︱

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(1)

Ei ji KU WA NO

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“W an li Hu id ia n” an dS el ec ti on of th eM er it or io us Re ta in er

稿

使 使

使

使

使

使

使 寿

使 稿

使

)

(2)

︻目 次︼ はじ めに 一

﹃明 実録

﹄へ の奏 請文 採録 1︑ 奏請 使李 後白 の派 遣 2︑ 通事 洪純 彦に よる 情報 収集 3︑ 謝恩 使洪 聖民 の外 交交 渉 4︑

﹃萬 暦会 典﹄ の編 纂と 朝鮮 政府 の対 応 二

﹃萬 暦会 典﹄ の頒 賜 1︑ 奏請 使黄 廷彧 の派 遣 2︑ 玉河 館の 失火 と陳 謝使 裴三 益の 派遣 3︑

﹃萬 暦会 典﹄ の完 成と その 頒賜 三 光国 功臣 の録 勲 1︑ 一等 輸忠 貢誠 翼謨 修紀 光国 功臣 2︑ 二等 輸忠 翼謨 修紀 光国 功臣 3︑ 三等 輸忠 翼謨 光国 功臣 4︑ 光国 原従 功臣 むす じめ 明代 の国 制総 覧で ある

﹃正 徳会 典﹄

︵正 徳六 年︑ 一五 一一

︶に 太祖 李成 桂︵ 在位 一三 九二

~九 八年

︶が かつ ての 政敵 李仁 任の 嗣 子で ある と記 録さ れて いた こと が朝 鮮中 宗一 三年

︵一 五一 八︶ に 発覚 し︑ 以後

︑朝 鮮政 府は その 修正 を要 求す べく 使節 をた びた び 明に 派遣 した

︒そ の記 録が 洪武 帝︵ 在位 一三 六八

~九 八年

︶の 家

訓書

﹃皇 明祖 訓﹄

︵洪 武二 八年

︑一 三九 五︶ から の引 用で あっ た こと から 朝中 間の 外交 交渉 は難 航し たが

︑最 終的 には 交渉 経緯 を 増補 修正 版の

﹃萬 暦会 典﹄

︵萬 暦一 五年

︑一 五八 七︶ に註 記す る こと で決 着し た︒ その

﹃萬 暦会 典﹄ 全帙 は宣 祖二 二年

︵一 五八 九︶ に神 宗萬 暦帝

︵在 位一 五七 二~ 一六 二〇 年︶ より 下賜 され

︑ 宣祖 は宗 廟に 眠る 歴代 国王 に報 告し て全 国に 恩赦 令を 下し た︒ こ れが 朝中 間の 一大 外交 案件 であ った 宗系 弁誣 問題 の概 要で ある

︒ さて

︑一 九四 一年 に末 松保 和氏 が長 編の

﹁麗 末鮮 初に 於け る対 明関 係﹂ を斯 界に

( )

公表 して 以来

︑す でに 六〇 年以 上が 経過 した

1

しか し︑

﹁宗 系弁 誣の 発端

﹂は とも かく と

( )

して

︑朝 鮮前 期︵ 文

2

禄・ 慶長 の役 以前

︒ほ ぼ一 五・ 一六 世紀 に相 当︶ にお ける 宗系 弁 誣問 題の 全容 解明 は遅 々と して 進ま なか った

︒た とえ ば︑ 筆者 は かつ て書 誌学 的関 心か ら名 古屋 市蓬 左文 庫に 架蔵 され る朝 鮮版

﹃正 徳会 典﹄

︵明 宗七 年内 賜本

︶の 成立 事情 を論

( )

じた

︒一 方︑ 中国

3

古代 史を 専門 とす る李 成珪 氏は 己卯 士林 のひ とり であ る李 耔を 再 照明 する 共同 研究 の一 環と して 中宗 一三 年の 対明 外交 交渉 に注

( )

目し

︑ま た権 仁溶 氏は 一六 世紀 中国 人の 朝鮮 認識 とい う観 点か ら

4

この 問題 に接 近

( )

する など

︑か なら ずし も体 系化 され た研 究成 果が

5

蓄積 され てき たわ けで はな い︒ 韓国 の歴 史学 界に おい て﹃ 大明 会 典﹄ の編 纂事 業と 宗系 弁誣 問題 とい う朝 鮮の 外交 活動 に注 目す る よう にな った のも

︑ご く最 近の こと で

( )

ある

︒唯 一︑ この 問題 を総

6

括的 に取 りあ げた のが 朴成

( )

柱氏 であ るが

︑金 暻緑 氏は これ を﹁ 概

7

説的 な叙 述﹂ と批 判

( )

した

︒そ もそ も一 編の 論考 でこ の問 題を 論じ

8

るに は無 理が あろ う︒ まず はこ の朝 中間 の外 交交 渉に 関す る事 実 関係 を徹 底的 に洗 い出 す必 要が ある

︒そ こで 筆者 はこ の宗 系弁 誣

(3)

問題 が再 燃し た中 宗代

︵一 五〇 六~ 四四 年︶ より 順次 説き 起こ し︑ 明宗 代︵ 一五 四五

~六 七年

︶ま での 展開 様相 につ いて はひ と まず 整理

・分 析を 終

( )

えた

9

筆者 は中 宗一 三年 の奏 請使 南袞 の派 遣を 第一 段階

︑中 宗二 四年 の聖 節使 柳溥 によ る外 交交 渉を 第二 段階

︑そ して 中宗 三〇 年代 の 明使 との 直接 交渉 を経 たう えで の奏 請使 権迦 の派 遣︵ 中宗 三四 年︶ を第 三段 階と 考え てい る︒ 以下

︑﹃ 嘉靖 会典

﹄︵ 嘉靖 二九 年︑ 一五 五〇

︒未 刊︶ 写本 伝来

︵明 宗七 年︶ 後の 奏請 使金 澍に よる 外 交交 渉︵ 明宗 一八 年︑ 桓祖 の記 載︶ が第 四段 階︑ そし て本 稿で 詳 論す る宣 祖代

︵一 五六 七~ 一六

〇八 年︶ の奏 請使 李後 白に よる 交 渉︵ 宣祖 六年

︑﹃ 明実 録﹄ への 記載

︶は 第五 段階

︑宣 祖二 二年 の

﹃萬 暦会 典﹄ の獲 得と 光国 功臣 一九 名の 録勲 が最 終の 第六 段階 で ある な ︒ お︑ 光国 功臣 の録 勲に 関し ては 朴成 柱氏 がそ の概 要を 提示 し つつ

︑光 国功 臣が 宣祖 代の 奏請 使に 集中 して いる こと

︑ま た﹁ 宣 祖代 以後 は改 撰さ れた

﹃大 明会 典﹄ の頒 賜に 焦点 をあ わせ た﹃ 頒 降奏 請使

﹄的 な性 格が つよ い﹂ こと を指 摘

( )

した が︑ 事実 誤認 も少

10

なか らず みう けら れる

︒そ の理 由は 金暻 緑氏 が批 判し たよ うに

︑ 朴成 柱氏 の論 考自 体が

﹁概 説的 な叙 述﹂ であ った こと によ る︒ 本 稿で はこ の光 国功 臣の 選定 事情 につ いて も再 検討 を加 える とと も に︑ 光国 原従 功臣 の録 勲に 関し ても 若干 の考 察を ここ ろみ るこ と にし たい

﹃明 実録

﹄へ の奏 請文 採録

使

一五 六七 年七 月三 日︑ 宣祖 は景 福宮 の正 殿で ある 勤政 殿に て即 位

( )

した

︒当 時一 六歳 の宣 祖は 先代 の明 宗の 直系 では なく 徳興 大院

11

君︵ 中宗 七男

︶の 三男 であ って

︑明 宗妃 の仁 順王 后沈 氏と 大臣 ら の合 意に より 玉座 に即 いた 傍系 の朝 鮮国 王で

( )

ある

︒明 宗一 八年 に

12

金澍 の奏 請に より 明政 府が 太祖 李成 桂の 父で ある 桓祖 李子 春の 名 を﹃ 大明 会典

﹄に 採録 する こと を許 可し たの ち︑ 朝鮮 政府 で宗 系 弁誣 問題 が論 じら れる のは まさ にそ の宣 祖即 位年 七月 のこ とで あ る︒ 隆慶 新皇 帝登 極頒 詔︹ 詔使 翰林 院検 討許 国・ 兵科 左給 事中 魏 時亮 入我 境︑

︵中 略︶

︺︑ 請行 宗系 辨誣 之奏

︹先 是︑ 国朝 宗系 被誣

︑列 聖遣 使請 辨︑ 垂二 百年 而莫 能得

︑及 太史 之来 也︑ 先 生知 其誠 待無 間︑ 仍言 及此 事︑ 詳辨 無蘊

︑太 史釋 然曰

︑非 相 國言

︑我 輩在 中朝

︑何 以得 其詳

︑待 我還 朝︑ 即行 奏文 則俺 當 力辨 于朝

︑及 使還

︑即 遣任 説・ 黄瑞

・金 戣等 赴京 辨誣

︑先 生 親製 三度 呈文

︑又 條列 所対 説話

︑如 楊燕 奇等 事十 二條 以付 之 曰︑ 吾與 太史 有答 問之 言︑ 宜以 此申 辨︑ 且勅 訳官 閔扈

・崔 世 協・ 林芑 等以 送之

︑及 至京 師︑ 礼部 所問 皆出 於十 二條 中︑ 一 行莫 不驚 服︑ 果因 太史 之力 辨︑ 遂蒙 會典 更印 時許 改之 詔︑ 其 後會 典之 更印 也︑ 申奏 前詔

︑竟 得宗 系之 正亦 先生 之力 也︺

︵後 略︶

︵﹃ 東皐 先生 遺稿

﹄巻 七︑ 年譜

︑穆 宗隆 慶元 年︹ 明宗 二二 年︺ 丁卯

︑先 生六 九歳

︑七 月条

(4)

とき の領 議政 李浚 慶の 遺稿 集﹃ 東皐 先生

( )

遺稿

﹄に よれ ば︑ 穆宗

13

隆慶 帝︵ 在位 一五 六六

~七 二年

︶即 位の 詔書 を奉 じて 来朝 した 翰 林院 検討

︵従 七品

︶許 国・ 兵科 左給 事中

︵従 七品

︶魏 時亮 の助 言 によ り︑ 李浚 慶は 宗系 弁誣 奏請 使の 派遣 を御 前に て宣 祖に 進言 し た︒ 明使 は﹁ 我れ 朝に 還る を待 ち︑ 即ち 奏文 を行 えば

︑則 ち俺 當 に朝 に力 辨す べし

﹂と

︑こ の外 交問 題の 解決 に好 意的 な姿 勢を 示 した から であ る︒ その 結果

︑朝 鮮政 府は 任説

・黄 瑞・ 金戣 の三 使 を帝 都北 京に 派遣 し︑ 訳官 とし て閔 扈・ 崔世 協・ 林芑 らが 同行

( )

した

︒こ のと き礼 部宛 ての 呈文 を製 述し たの が李 浚慶 であ る︒ 任

14

説一 行の 外交 交渉 によ り﹁ 果た して 太史

︵= 明使

︶の 力辨 に因 り︑ 遂に 會典 更印 の時

︑改 むる を許 すの 詔を 蒙る

﹂と いい

︑﹁ 其 の後

︑會 典の 更印 する や前 の詔 を申 奏し

︑竟 に宗 系の 正を 得る も 亦た 先生 の力 なり

﹂と

︑李 浚慶 の功 績を 強調 する

︒こ の宣 祖即 位 年七 月に おけ る朝 鮮政 府の 動向 は﹃ 朝鮮 王朝 実録

﹄に は記 録さ れ てお らず

︑宗 系弁 誣問 題の 空白 を埋 める 史料 とい えよ う︒ とこ ろが

︑宗 系改 正を 許可 した 隆慶 帝も 一五 七二 年五 月に 三六 歳の 壮年 で死 去し

︑第 一四 代の 萬暦 帝が 即位 した

︒そ のた め︑ 萬 暦帝 はみ ずか らの 即位 を朝 鮮に 通達 する 詔諭 使節 とし て︑ 翰林 院 編修

︵正 七品

︶韓 世能

・吏 科左 給事 中陳 三謨 を派 遣す るこ とに

( )

なる

︒朝 鮮政 府で は領 議政 権轍

・左 議政 洪暹 以下

︑礼 曹判 書朴 永

15

俊・ 兵曹 判書 金貴 栄・ 吏曹 判書 盧守 慎・ 礼曹 参判 柳希 春ら の高 官 が早 朝か ら承 文院 に会 し︑ 明使 との 接待 儀礼 の場 で提 出す る宗 系 改正 の文 面を 事前 に検 討し てい た︒ その 文書 は領 議政 が礼 曹判 書 に起 草さ せ︑ 左議 政が 潤色 を加 えた うえ で通 事洪 純彦 らに より 漢 語に 翻訳 させ る︑ とい う段 取り であ

( )

った

︒と はい え︑ ひと たび 文

16

書が 完成 する と宣 祖に も不 安は 残っ た︒ この 文書 をい つ︑ どの 宴 席で 明使 に提 示す るの か︒ 中宗 代以 来︑ 朝鮮 国王 が明 使来 訪の 際 に宗 系改 正を 要請 する 文書 を提 出し たの は一 度や 二度 では なく

︑ かな らず しも その 効果 があ った わけ では ない

︒明 使と 直接 対面 し て弁 明す れば

︑彼 らも むげ に断 るわ けに はい くま いか ら丁 重に 返 事は して くれ るで あろ う︒ しか し︑ 外国 の私 情に より 中国 の史 書 を改 訂す ると は考 えが たく

︑か えっ て明 使の 疑心 を買 うの では あ るま いか

︑と 宣祖 は恐 れて いた

︒さ いわ い明 の新 皇帝 は英 明で あ ると 聞く

︒む しろ 来春 を待 って 奏請 使を 派遣 する こと とし

︑今 回 の明 使に わず らわ しく 文書 を提 出す るの は避 ける べき かも 知れ な い︒ かと いっ て︑ 明使 に宗 系改 正の 件を ひと こと も告 げな いわ け にも いく まい

︑と 宣祖 は逡

( )

巡し

︑以 下の よう な腹 案を 示し た︒

17

備忘 記下 于政 院曰

︑︵ 中略

︶但 以宗 系改 正及 悪名 辨誣

︑小 邦 累世 冤痛

︑至 今猶 未得 雪︑ 聖代 普天 之下 無物 不得 其所

︑而 独 惟海 隅東 藩之 臣︑ 尚抱 罔極 之冤

︑非 惟一 国臣 民痛 心疾 首︑ 先 祖地 下之 霊必 為掩 泣於 冥冥 矣︑ 頃将 奏請 已定 使臣

︑臨 発︑ 遽 聞先 皇帝 忽遺 弓剣

︑未 及上 達︑ 此由 於小 邦無 禄之 甚︑ 思及 于 此︑ 尤不 勝摧 慟于 中也

︑不 幸之 餘︑ 幸遇 新天 子聖 神︑ 東藩 臣 民欣 欣然 意得 再生 之恩

︑欲 於来 歳煩 奏︑ 望大 人照 察通 天之 冤︑ 以此 善為 措辞 諷之

︑則 庶或 可也

︑詳 思回 答︑

︵﹃ 宣祖 実 録﹄ 巻六

︑五 年一

〇月 戊寅

︹二 五日

︺条

︶ 宗系 弁誣 問題 をめ ぐっ て今 回の 明使 に伝 達す る内 容の 要点 は︑ 以下 の二 点に 整理 でき よう

︒ま ず第 一に

︑朝 鮮政 府は すで に宗 系 弁誣 奏請 使の 人選 を終 えて 北京 へ出 発さ せる 予定 であ った が︑ 先 皇帝 の訃 報に 接し

︑上 奏を 断念 した

︒後 述す るよ うに

︑こ のと き

(5)

奏請 副使 に決 定し てい たの は成 均館 大司 成︵ 正三 品堂 上官

︶奇 大 升で ある

︒第 二に

︑不 幸中 の幸 いな がら 新皇 帝が 即位 した こと に より

︑﹁ 東藩

﹂た る朝 鮮の 臣民 は欣 々然 とし て﹁ 再生 の恩

﹂を 得 たも 同然 であ り︑ 来年 にで も奏 請使 を派 遣し たい とい う︒ 宣祖 は 慎重 に考 慮の うえ 回答 せよ と命 じる と︑ その 日の うち に承 政院 は 宣祖 の意 向を 尊重

( )

した

18

さて

︑明 使韓 世能 と陳 三謨 の一 行が この 年宣 祖五 年一 一月 一日 に漢 城郊 外の 慕華 館に 到着 する と︑ 宣祖 は百 官を 率い て五 拝三 叩 頭の 迎拝 礼を 実施 した

︒こ の日 はそ の後

︑景 福宮 勤政 殿に て迎 勅 礼︑ しば し休 憩し て茶 礼を 行い

︑つ いで 明使 の宿 舎で ある 太平 館 では 下馬 宴が 催さ れた

︒夜 更け には 光化 門外 で鼇

︵山 台

華麗 な装 飾を 施し た大 型の 置き 山︶ の観 覧に 興じ るな ど︑ 接待 儀礼 の 舞台 はめ まぐ るし くか

( )

わる

︒そ して 三日 後︑ 明使 をあ らた めて 景

19

福宮 に迎 えた 宣祖 は︑ 勤政 殿の 宴席 で宗 系改 正奏 請使 を派 遣す る 意志 を伝 えた

︒ 天使 詣景 福宮

︑周 覧慶 會樓

︑赴 勤政 殿之 宴︑ 上以 宗系 改正

・ 悪名 申雪 奏請 使将 遣事

︑令 通事 告于 両使

︑答 曰︑ 天子 聖明

︑ 今若 奏請

︑可 得請 矣︑ 上又 請曰

︑初 七日 発行 云︑ 冬至 節日 行 望闕 礼而 後発 行︑ 日晩 矣︑ 一日 之間 請留

︑天 使曰

︑懇 至︑ 當 依許 留︑

︵後 略︶

︵﹃ 宣祖 実録

﹄巻 六︑ 五年 一一 月丙 戌︹ 四日

︺ 条︶ この とき 明使 は︑ 天子 つま り萬 暦帝 は聡 明で ある ゆえ

︑い まも し宗 系の 改正 を奏 請す れば 成就 でき るで あろ うと 助言 する

︒そ こ で宣 祖は 明使 の帰 国日 を延 ばす よう 懇願 した

︒明 使は 三日 後の 一 一月 七日 に帰 国す る予 定で あっ たが

︑当 日は 冬至 にあ たっ てお

り︑ 宣祖 は望 闕礼 を実 施す る予 定で あっ たか らで ある

︒望 闕礼 と は名 節の 正朝

・冬 至・ 聖節 そし て千 秋節 に︑ 朝鮮 国王 が文 武百 官 を率 いて 王都 漢城 の王 宮よ り紫 禁城 に住 まう 明の 皇帝 を遥 拝す る 王朝 国家 儀礼 で

( )

ある

︒実 際に 冬至 の七 日に は早 朝よ り宣 祖が 群臣

20

を率 いて 望闕 礼を 行い

︑午 前八 時に 群臣 は宣 祖に 対し て冬 至を 祝 う朝 賀礼 を実 施し

︑つ いで 午前 一〇 時頃 にな ると 宣祖 は太 平館 に 赴い て酒 宴に 参席

( )

した

︒宣 祖は 従来 どお り群 臣と とも に遠 く漢 城

21

より 萬暦 帝に 忠誠 を誓 い︑ また 接待 儀礼 を通 して 遠来 の明 使を 手 厚く ねぎ らう こと によ って 宗系 改正 に期 待し たの であ ろう

︒翌 日 の八 日に 宣祖 はふ たた び太 平館 に赴 いて 明使 のた めに 上馬 宴を 催 し︑ 九日 には 慕華 館に て餞 別の 宴を 設け

︑宗 室と 文武 百官 がみ な 再拝 礼を 行う なか

︑明 使韓 世能

・陳 三謨 の一 行は 帰国 の途 につ

( )

いた

︒こ の頃

︑北 京で は賀 登極 使朴 淳・ 副使 成世 章の 一行 に正 使

22

の子 弟と して 同行 した 許震 童が 礼部 に﹃ 明世 宗実 録﹄ の編 纂状 況 を探 らせ たと ころ

︑同 書は 未完 なが ら﹃ 明穆 宗実 録﹄ は去 る一

〇 月二 六日 に纂 修局 を開 いた

︑と の情 報を 得て

( )

いる

︒き わめ て正 確

23

な情 報で ある が︑ 翌年 の宣 祖六 年正 月に 漢城 に戻 った 賀登 極使 朴 淳が この 件を 宣祖 に報 告し た形 跡は

( )

ない

24

さて

︑明 使に よる 宗系 改正 の口 添え を得 た朝 鮮政 府は 宣祖 六年 二月 に戸 曹参 判李 後白 を奏 請使 とし

︑副 使尹 根寿

・書 状官 尹卓 然 の三 使を 明に 派遣

( )

した

︒奏 請使 李後 白の 一行 が明 の礼 部と の交 渉

25

の結 果を 報告 して きた のは

︑半 年後 の宣 祖六 年八 月で ある

︒同 知 中枢 府事

︵従 二品

︶柳 希春 は先 来通 事か ら送 られ た書 状に 事前 に 目を 通し たと みえ

︑﹃ 眉巌 日記 草﹄ に﹁ 奏請 の事

︑大 概請 を得

︑ 云々

﹂と

( )

記す

︒で は︑ 李後 白が 北京 から 朝鮮 政府 に送 り届 けた そ

26

(6)

の書 状を みて みよ う︒ 奏請 使書 状来 到︑ 礼部 題奏 皇帝

︑皇 帝以 為︑ 俟世 宗実 録畢 修 後︑ 更取 旨施 行︑ 大概 只應 宗系 改正 一事

︑悪 名辨 誣一 事無 黒 白云

︑但 皇朝 太宗

︑嘉 靖中 改号 成祖

︑癸 亥年

︵= 明宗 一八

︑ 一五 六三

︶︑ 金澍 奏請 使時

︑文 武亦 称成 祖︑ 頃日 奏請 文字 以 太宗 書填

︑中 朝礼 部以 為事 不恪

︑其 時都 提調 以下 盧守 慎・ 朴 忠元

・金 貴栄

・姜 士尚

・柳 希春 啓曰

︑嘉 請

十七 年︵

=中 宗三 三︑ 一五 三八

︶︑ 朴

寬回 自京 師︑ 齎改 太宗 為成 祖詔

︑厥 後十 八年

︵= 中宗 三四

︶奏 文称 成祖

︑丁 巳年

︵= 明宗 一二

︶奏 文 称太 宗︑ 癸亥 年奏 文称 成祖

︑臣 等因 循謬 例︑ 以致 皇朝 査究 不 恪之 責︑ 臣等 之罪 重矣

︑惶 恐待 罪︑ 答曰

︑偶 未及 察之 事︑ 不 必待 罪也

︑右 相以 掌撰 官再 待罪

︑提 調等 先退

︑︵

﹃宣 祖実 録﹄ 巻七

︑六 年八 月己 未︹ 一二 日︺ 条︶ 李後 白の 書状 によ れば

︑礼 部が 朝鮮 側の 要請 を萬 暦帝 に上 奏し たと ころ

︑萬 暦帝 は先 々代 の﹃ 明世 宗実 録﹄ の編 纂終 了後 に再 度 検討 のう え施 行す ると いう

︒た だし

︑そ れは 宗系 改正 に関 する 一 件の みで あり

︑﹁ 悪名 辨誣

﹂つ まり 高麗 王氏 の弑 逆に つい ては 明 確な 回答 がな かっ た︒ 柳希 春の 日記 によ れば

︑宣 祖は 礼部 の回 答 に不 快感 を示 した と

( )

いう

︒そ のう え︑ 李後 白の 書状 に﹁ 嘉靖 十七

27

年︑ 朴

寬京 師自 り回 り︑ 太宗 を改 めて 成祖 と為 すの 詔を 齎す

﹂と みえ るよ うに

︑嘉 靖年 間に 太宗 永楽 帝︵ 在位 一四

〇二

~二 四年

︶ の廟 号を 成祖 と改 号し たと の詔 書を 得て

( )

いた

︒に もか かわ らず

28

明宗 一二 年に 趙士 秀が 提出 した 奏請 文に は太 宗と 記さ れて

( )

いた こ

29

とも 物議 を醸 した よう であ る︒ 朝鮮 初期 には 事大 文書 に誤 字が 発 見さ れた 場合

︑承 文院 の担 当者 が処 罰さ れた こと を伝 える 記事 が

散見

( )

する

︒ま た︑

﹃経 国大 典﹄ 礼典 によ れば

︑奏 請文 をは じめ と

30

する 事大 文書 は通 常︑ 拝表 の日 に議 政府

・六 曹・ 司憲 府・ 承政 院 の長 官が 立ち 会い のも と最 終検 査が 行わ れ︑ 奏請 文の 場合 は承 文 院都 提調

・副 提調 そし て正 使と 副使 も検 査す るこ とに なっ て

( )

いる

︒つ まり

︑明 宗一 二年 当時 は政 府高 官と 承文 院に よる チェ ッ

31

ク機 能が はた らい てい なか った こと にな る︒ その ため 翌日

︑承 文 院都 提調 以下

︑右 議政 盧守 慎・ 礼曹 判書 朴忠 元・ 吏曹 判書 金貴 栄・ 兵曹 判書 姜士 尚そ して 柳希 春が その 責任 を痛 感し て処 分を 待っ たが

︑宣 祖は

﹁偶 たま 未だ 察す るに 及ば ざる の事 なる に︑ 必 ずし も待 罪せ ざる なり

﹂︑ と彼 らを なだ める ほか なか

( )

った

32 それ にし ても

﹃宣 祖実 録﹄ に残 る奏 請使 李後 白の 書状 では

︑萬 暦帝 の勅 書の 内容 が簡 略に すぎ る︒ 宣祖 六年 八月 に届 いた 李後 白 の書 状と 朝鮮 政府 の対 応は

﹃眉 巌日 記草

﹄を もと に復 元さ れた た め︑ 史料 上の 限界 は否 めな い︒ 萬暦 元年 の礼 部の 題本 と同 年六 月 三日 付け の聖 旨は 泰昌 元年

︵光 海君 一二

︑一 六二

〇︶ に成 立し た 兪汝 楫編

﹃礼 部志 稿﹄ に﹁ 朝鮮 の為 に実 録を 改む

﹂と して 記録 が 残っ て

( )

おり

︑ま た﹃ 宣祖 修正 実録

﹄も 李後 白一 行の 外交 交渉 と勅

33

諭に 関し て具 体的 な記 録を 残す

︒ 遣奏 請使 李後 白・ 尹根 壽等

︑乞 将宗 系・ 弑逆 已辨 誣等 事増 入 続修 會典

︑蓋 皇朝 方修 続大 明會 典故 也︑ 礼部 尚書 陸樹 聲等 覆 題曰

︑拠 称︑ 宗系 各有 本源

︑既 與李 仁人 不同

︑又 謂国 祖由 于 推戴

︑亦 與弑 王氏 無預

︑在 我皇 祖之 大訓

︑固 得于 一時 之伝 聞︑ 在伊 裔孫 之辨 詞︑ 実出 於一 念之 誠孝

︑宜 念其 世秉 礼義

︑ 克篤 忠勤

︑依 其所 請︑ 奉聖 旨︑ 該国 前後 奏辞

︑備 細纂 入於 皇 祖実 録内

︑新 會典 則候 旨続 修増 入︑ 仍降 勅諭

︑略 曰︑ 爾祖 某

(7)

久蒙 不韙

︑荷 我列 祖垂 鑑︑ 已為 昭雪 改正

︑茲 者纂 修実 録︑ 欲 将前 後奏 辞備 行採 録︑ 以垂 永久

︑朕 念爾 係守 礼之 邦︑ 且事 関 君臣 大義

︑特 允所 請︑ 即命 抄付 史館

︑備 書于 粛祖 実録

︑俟 後 修新 會典

︑以 慰爾 籲雪 先祖 懇情

︑︵

﹃宣 祖修 正実 録﹄ 巻七

︑六 年一 一月 条︶ 奏請 使李 後白 と副 使尹 根寿 は﹃ 大明 会典

﹄の 増補 修正 版に 朝鮮 政府 によ る宗 系改 正の 事情 を記 録す るよ う︑ 礼部 尚書 に要 請

( )

した

︒﹃ 萬暦 会典

﹄︵

﹁萬 暦重 修会 典﹂

︶の 編纂 に着 手さ れる のは こ

34

れよ り三 年後 の萬 暦四 年︵ 宣祖 九︶ 六月 で

( )

ある から

︑﹃ 宣祖 修正

35

実録

﹄に

﹁蓋 し皇 朝︑ 方に 続大 明會 典を 修せ んと する の故 なり

﹂ とあ るの は︑ 史官 が勅 諭の 内容 を判 断し たう えで 挿入 した 文章 で あろ う︒ 奏請 使が 上申 した 内容 は史 料中 の﹁ 拠称

﹂︵ 申し たて に よれ ば以 下云 々︑

( )

の意

︶以 下に ある とお り︑ 太祖 李成 桂の 宗系 が

36

李仁 任の 系譜 とは まっ たく 異な るこ と︑ また 高麗 王氏 の殺 害で は なく 臣下 の推 戴に よっ て新 王朝 が開 創さ れた こと

︑の 二点 であ る︒ 礼部 尚書 陸樹 聲ら の覆 題︵ 回答

︶に よれ ば︑

﹁我 が皇 祖の 大 訓﹂ つま り﹃ 皇明 祖訓

﹄所 載の 朝鮮 情報 が一 時の 誤っ た伝 聞に よっ て生 じた こと を︑ すで に礼 部も 認め てい たよ うで ある

︒朝 鮮 国王 の先 祖に 対す る孝 行と 明に 対す る忠 誠に 鑑み

︑礼 部が この 要 請を 萬暦 帝に 上奏 した とこ ろ聖 旨を 得た

︒李 成桂 がひ さし く被 っ てい た不 名誉 な誤 報は すで に歴 代皇 帝に よっ て改 正さ れて おり

﹃明 実録

﹄の 編纂 に際 して 前後 の奏 請文 を採 録す る︑ との 勅諭 が 降っ たの であ る︒ 萬暦 帝の 勅諭 には

﹁特 に請 う所 を允 し︑ 即ち 命 じて 史館 に抄 付し

︑備 に粛 祖実 録に 書せ しむ

﹂と あり

︑こ こに い う﹁ 粛祖 実録

﹂と は隆 慶元 年︵ 明宗 二二

︑一 五六 七︶ 三月 に総 裁

官の 大学 士張 居正 を中 心に 編纂 が開 始さ れ︑ のち 萬暦 五年

︵宣 祖 一〇

︑一 五七 七︶ 八月 に完 成す る﹃ 世宗 粛皇 帝実 録﹄ 五五 六巻 を

( )

指す

︒こ のと き明 政府 が実 録の 編纂 にあ たり

︑朝 鮮政 府に 対し て

37

一歩 踏み 込ん だ対 応を した とこ ろに 注目 され る︒ つま り︑

﹃大 明 会典

﹄の 条文 を改 正す るだ けで なく

︑正 史の

﹃明 実録

﹄に も宗 系 弁誣 の事 情を 採録 する と明 政府 は正 式に 約束 した ので ある

︒実 際 に︑

﹃明 世宗 実録

﹄に は聖 節使 柳溥

︵中 宗二 四年

︶に よる 宗系 改 正の 奏請 内容 が詳 細に 収録 され てい るこ とは

︑す でに 別稿 にて 検 討し たと おり で

( )

ある

︒い ま︑ その

﹃明 世宗 実録

﹄の 記録 を﹃ 萬暦

38

会典

﹄朝 貢条 の﹁ 朝鮮 国﹂ の附 録と 比較 する と︑ 高麗 恭愍 王一

〇 年︵ 一三 六一

︶の 紅巾 軍の 侵入 に関 する 叙述 以外 はほ ぼ一 致し て いる こと が容 易に 理解 でき よう

︵︻ 表1

︼参 照︶

︒そ のう え︑ 勅諭 の末 尾に は﹁ 後ち 新會 典を 修す るを 俟ち

︑以 て爾 が籲 びて 先祖 を 雪ぐ の懇 情を 慰め ん﹂ とあ るこ とか ら︑ 萬暦 帝は 即位 後ま もな い この 頃に は﹁ 新會 典﹂ つま り﹃ 萬暦 会典

﹄の 編纂 事業 を構 想し て いた に相 違な い︒ この 萬暦 帝の 勅書 を獲 得し た奏 請使 李後 白の 一行 が宣 祖六 年九 月中 旬に 帰国 する と︑ 宣祖 は慕 華館 にて 勅書 を迎 え入 れ︑ 大臣 と 臺諫 の反 対論 を抑 えて 宗廟 への 告祭 を決 定し

︑ま た勤 政殿 にて 全 国に 恩赦 令を 下し た︒ さら に︑ 宗系 改正 の外 交交 渉に 功績 があ っ た正 使李 後白 と副 使尹 根寿

・書 状官 尹卓 然に は土 田と 奴婢 が賜 給 され

︑李 後白 の位 階は 従二 品の 嘉義 大夫 に︑ 尹根 寿も 同じ く従 二 品の 嘉善 大夫 に昇 格

( )

する

︒宗 廟告 祭と 恩赦 令︑ 奏請 使に 対す る褒

39

賞と 加資 につ づき

︑中 宗三 五年

︵権 迦の 奏請

︶と 明宗 一八 年︵ 金 澍の 奏請

︶の 前例 にな らっ て宗 系改 正別 試の 実施 も決 定

( )

した

︒つ

40

(8)

【表1】『明実録』と『萬暦会典』の比較

李成桂系出本国全州、遠祖翰仕 新羅為司空、六代孫兢休入高 麗、

十三代孫安社生行里、行里生 椿、椿生子春、是為成桂之父、

李仁人ママ者、京山府吏長庚裔也、

始王氏恭愍王顓無子、養寵臣辛 蚊子禑為子、恭愍王為嬖臣洪倫 等所弑、李仁人當国誅倫等立 禑、

禑嗣位十六年、遣将入犯遼東、

成桂為副将在遣中、至鴨緑江、

與諸将合謀回兵、

禑懼伝位于其子昌、時恭愍妃安 氏以国人黜昌、立王氏孫定昌君 瑤、誅禑・昌、逐仁人ママ

巳而瑤妄殺戮、国人不附、共推 成桂署国事、表聞高皇帝、命為 国王、遂更名旦、贍瑤別邸、終 其身、

李〔太祖旧諱〕系出本国全州、

遠祖翰仕新羅為司空、六代孫兢 休入高麗、

十 三 代 孫〔穆 祖 諱〕生〔翼 祖 諱〕、生〔度 祖 諱〕、生〔桓 祖 諱〕、是為〔旧諱〕之父、

李仁任者、京山府吏長庚裔也、

始王氏恭愍王顓無子、養寵臣辛 蚊子禑為子、恭愍王為嬖臣洪倫 等所弑、李仁任當国誅倫等立 禑、

禑嗣位十六年、遣将入犯遼東、

〔旧諱〕為副将在遣中、至鴨緑 江、與諸将合謀回兵、

禑懼伝位其子昌、時恭愍妣安氏 以国人黜昌、立王氏孫定昌君 瑤、誅禑・昌、逐仁任、

巳而瑤妄殺戮、国人不附、共推

〔旧 諱〕署 国 事、表 聞 高 皇 帝、

命為国王、遂更名旦、貶瑤別 邸、終其身

旦初名成桂、其先本国全州人、

二十八世祖翰仕新羅、為司空、

新羅亡、翰六世孫兢休入高麗、

十三世孫安社仕元、為南京五千 戸所達魯花赤、世襲其職、元季 兵興、安社曾孫子春與男成桂避 地東還、至正辛丑、當高麗恭愍 王之十年、有紅巾賊二十万衆入 境、成桂領兵勦賊有功、授武班 職事、時尚未知名、

恭愍無嗣、陰畜寵臣辛蚊之子禑 為己子、晩多躁暴、為嬖臣洪 倫・内竪崔萬生等所弑、権臣李 仁任車裂倫・萬生於市、立禑為 嗣、其子昌為世子、

禑十六年、擢成桂為門下侍中、

時禑遣将犯遼東、成桂為副将、

行至鴨緑江、與諸将議、不宜得 罪上国、乃還、

禑懼遜位于昌、昌以洪武二十二 年宣諭、以偽姓見黜、而後王氏 之裔定昌君瑤主国事、仁任罪竄 於外、

既王瑤又不義、国人憤怨、乃共 廃瑤、推立成桂、成桂請命於太 祖高皇帝、乃命成桂為王、国号 朝鮮、改名旦云、

3)『萬暦会典』

2) 裴三益の「朝天録」

1)『明世宗実録』

1)『明世宗実録』巻104、嘉靖8年8月壬午(19日)条

2)『臨淵斎先生文集』巻4、朝天録、萬暦15年丁亥7月甲午(7日)条 3)『萬暦大明会典』巻105、礼部63、朝貢1、東南夷上、朝鮮国条

(9)

いで 一〇 月下 旬に は宗 系改 正に 対す る謝 恩使 とし て李 陽元 が明 に 派遣 さ

( )

れた

︒李 陽元 はか つて 明宗 一八 年に 奏請 使書 状官 とし て赴

41

京し

︑嘉 靖帝 の勅 書を もた らし た経 歴が

( )

ある

︒萬 暦帝 によ る勅 書

42

が朝 鮮に 届い たこ とに 対し

︑宣 祖が 今回 の奏 請使 によ る功 績を い かに 高く 評価 した かは 容易 に推 察さ れよ う︒ 翌年 正月 中旬 に北 京 では 謝恩 使李 陽元 以下

︑総 勢三 五名 の遣 明使 節が 謝恩 表と とも に 朝鮮 の土 産と 馬匹 を献 上

( )

した

43

いま や朝 鮮側 は﹃ 大明 会典

﹄と

﹃明 世宗 実録

﹄の 完成 を待 つば かり とな った

︒宣 祖七 年五 月に は萬 暦帝 の聖 節︵ 八月 一七 日︶ を 祝う 聖節 使朴 希立

・書 状官 許篈

・質 正官 趙憲 が北 京へ 向け て出

( )

発し

︑同 年一 一月 に約 五ヶ 月間 の北 京紀 行を 終え て漢 城に 戻る

44

とこ ろが

︑こ の聖 節使 の帰 国報 告は 趙憲 の見 聞に よる 中華 文物 の 隆盛 で占 めら れて おり

︑﹃ 大明 会典

﹄刊 行の 進捗 状況 は実 録に は 記録 され てい

( )

ない

︒と はい え︑ この 聖節 使一 行が 八月 四日 の北 京

45

到着 後︑

﹁八 月一 七日 に宮 廷へ 参内 し︑ 萬暦 帝の 聖節 を祝 うと い う目 的を 果た した ほか

︑礼 部が 主催 する 宴会 に出 席し

︑﹃ 大明 会 典﹄ の朝 鮮記 事を 改変 させ る交 渉﹂ を行 い︑ また 書状 官許 篈が 情 報収 集の 見返 りと して 鴻臚 寺序 班か ら賄 賂を 要求 され たこ とを

︑ すで に夫 馬進 氏が 許篈 の﹃ 荷谷 先生 朝天 記﹄ をも とに 指摘 して

( )

いる

︒屋 上屋 を架 すべ きで はな かろ うが

︑筆 者は ここ で以 下の 三

46

点を 指摘 して おき たい

︒ まず 第一 に︑ 聖節 使朴 希立 の一 行は 入京 後︑ 通事 洪純 彦の 情報 網に より

﹃明 実録

﹄と

﹃大 明会 典﹄ の編 纂状 況を 知っ たこ とで あ

る︒ 北京 滞在 中の 聖節 使一 行の 動向 は︑ みず から 書状 官に 名乗 り 出た 礼曹 佐郎

︵正 六品

( )

許篈 の﹃ 荷谷 先生 朝天 記﹄ に詳 しい

︒こ

47

の﹁ 朝天 記﹂ を繙 けば

︑八 月九 日に 通事 洪純 彦は 礼部 の吏 員よ り

﹁穆 宗実 録已 に纂 すれ ども

︑世 宗実 録は 未だ 畢わ らず

﹂と の情 報 を入 手し て

( )

いる

︒た しか に﹃ 穆宗 荘皇 帝実 録﹄ 七〇 巻は この 年萬

48

暦二 年︵ 宣祖 七︶ 七月 に完 成し たば かり で

( )

あり

︑洪 純彦 が得 た情

49

報は 正確 であ る︒ 朝鮮 半島 を北 上し てい た六 月上 旬に

︑洪 純彦 は 平安 道宣 川の 林畔 館に て夜 更け に許 篈と 語ら い︑ 明の 最新 事情 を 伝え てい る︒ 許篈 が忘 れま いと して 書き 記し た﹁ 朝天 記﹂ には

﹁癸 酉年

︵= 宣祖 六︶

︑奏 請使 に随 いて 京師 に在 り︒ 実録

・新 修會 典改 纂等 の事 を聞 かん と欲 して 書を 許賛 善国 の家 人兪 深に 通じ

︑ 以て 之を 問え り﹂ とあ り︑ 前年 の奏 請使 李後 白一 行に 通事 とし て 同行 した 洪純 彦は かね てよ り﹃ 明実 録﹄ と﹃ 大明 会典

﹄の 編纂 状 況に 関す る情 報収 集に 努め て

( )

いた

︒許 国は かつ て宣 祖即 位年 七月

50

に隆 慶帝 即位 の詔 書を 奉じ て来 朝し た人 物で

( )

あり

︑の ち﹃ 萬暦 会

51

典﹄ の編 修に 際し て総 裁の ひと りと

( )

なる

︒三 使で ある 正使

・書 状

52

官・ 質正 官の だれ より も宗 系弁 誣問 題に 通じ てい たの は︑ むし ろ 通事 を担 当し た洪 純彦 であ った に相 違な い︒

﹃明 世宗 実録

﹄未 完 との 情報 に接 した 聖節 使朴 希立 らが 礼部 尚書 との 外交 交渉 を計 画 した のは 八月 一二 日で ある

︒許 篈が 綴っ た当 日の

﹁朝 天記

﹂を み てみ よう

︵前 略︶ 洪純 彦・ 安廷 蘭等 往告 曰︑ 上年

︑本 国奏 請改 定宗 系 続載 會典 等事

︑而 必待 実録 之完

︑然 後方 修會 典云 云︑ 小的 等 在路 聴得 実録 已皆 完了

︑會 典之 新纂

︑不 知何 以為 之︑ 陪臣 欲 呈文 於本 部︑ 故敢 稟︑ 員外 曰︑ 穆宗 実録 則已 畢︑ 而世 宗実 録

(10)

則更 有幾 年功 夫矣

︑然 會典 則各 司今 方抄 出新 増事 類︑ 移報 翰 林院

︑故 本司 公事 之採 録︑ 我実 任之

︑嘉 靖八 年奏 請之 詞已 載 於其 中︑ 而他 年之 事俟 検出 而備 書︑ 陪臣 若欲 呈文 則亦 無妨 也︑ 純彦 等退

︑員 外更 招以 語之 曰︑ 會典 時属 纂録

︑呈 文内 不 可言 其已 完也

︑純 彦曰

︑小 的等 欲聞 會典 修纂 之始

︑非 謂其 已 完也

︑且 俟呈 文之 浄写

︑然 後先 達于 老爺

︑以 取進 止為 計︑ 員 外曰

︑知 道︑

︵後 略︶

︵﹃ 荷谷 先生 朝天 記﹄ 中︑ 萬暦 二年 甲戌 八月 一二 日癸 丑条

︶ 前年

︑朝 鮮政 府が 奏請 使を 派遣 して 宗系 改正 を要 請し たと こ ろ︑ 明政 府よ り﹃ 明世 宗実 録﹄ の編 纂終 了後 に﹃ 大明 会典

﹄の 編 纂に 着手 する 旨の 回答 を得 たこ とは

︑す でに われ われ もみ たと お りで ある

︒入 京後

︑洪 純彦 らは

﹃明 実録

﹄の 編纂 完了 との 情報 に 接し たが

︑﹃ 大明 会典

﹄の 編纂 状況 に関 して は知 るす べも なか っ た︒ そこ で今 回︑ 陪臣 朴希 立の 名義 で礼 部に 呈文 を提 出し たい

︑ と主 客司 員外 郎銭 拱宸 に申 し入 れた ので ある

︒員 外郎 銭拱 宸も

﹁穆 宗実 録は 則ち 已に 畢わ れど も︑ 世宗 実録 は則 ち更 に幾 年の 功 夫有 らん

﹂と その 事実 を認 めて いる

︒当 時︑

﹃大 明会 典﹄ は新 増 事項 を抄 出中 であ って

︑主 客司 にお ける 採録 の事 務は 銭拱 宸本 人 が担 当し てい た︒ その うえ 銭拱 宸は

︑﹁ 嘉靖 八年 奏請 の詞 は已 に 其の 中に 載す れど も︑ 他年 の事 は検 出を 俟ち て備 に書 す﹂ と打 ち 明け

︑陪 臣名 義に よる 呈文 の提 出を 助言 した

︒﹁ 嘉靖 八年 奏請 の 詞﹂ とい えば

︑中 宗二 四年 の聖 節使 柳溥 によ る奏 請に ほか なら な い︒ 柳溥 の奏 請内 容は

﹃明 世宗 実録

﹄に 詳細 な記 録を 残し てお り︑ また

﹃嘉 靖会 典﹄ の草 本に は礼 部・ 内閣 いず れの 所蔵 本に も

﹁嘉 靖八 年︑ 使者 言え らく

︑其 の国 王︑ 李仁 任の 後に 係ら ず﹂

云々 と記 され て

( )

いた

︒し たが って

︑後 日完 成す る﹃ 萬暦 会典

﹄に

53

附録 され た李 成桂 の宗 系と 朝鮮 建国 始末 は︑ おそ らく 柳溥 の呈 文 を基 礎に 作成 され たも のと 推測 され る︒ 銭拱 宸は いさ さか 饒舌 に すぎ たと 思い 直し たの か︑ 席を 立と うと する 洪純 彦を 呼び 止め

︑ 呈文 には

﹃大 明会 典﹄ の編 纂状 況に は触 れな いよ う口 止め して い る︒ なら ば︑ この 日の 銭拱 宸か ら得 た情 報は いっ そう 信憑 性が 高 いと 判断 して よか ろう

︒洪 純彦 は清 書し た呈 文を 先に 銭拱 宸に 届 ける ゆえ

︑よ ろし く取 り計 り願 いた いと 依頼 し︑ 銭拱 宸も これ を 快諾 した

︒ 第二 に︑ 聖節 使朴 希立 の一 行は 礼部 尚書 に呈 文を 提出 した もの の︑ 彼ら の北 京滞 在中 に礼 部が 題請 する こと はな かっ た︒

﹁朝 天 記﹂ によ れば

︑朴 希立 一行 は聖 節の 翌日 であ る八 月一 八日 に礼 部 へ赴 き︑ 月台

︵殿 閣の 前に 広く 石を 敷き 詰め た基 壇︶ の上 に跪 い て礼 部尚 書萬 士和 に呈 文を 提出 した

︒し かし

︑礼 部尚 書は

﹁這 事情

︑時 に未 だ暁 得せ ず︒ 當に 査看 し你 に替 わり て行 うべ し﹂ と 即答 を避 け︑ 朴希 立一 行は いっ たん 東廊 へと 退出 を余 儀な くさ れ たが

︑し ばら くし て朴 希立 名義 の呈 文に 目を 通し た尚 書が 洪純 彦 を呼 び戻

( )

した

︒そ の直 後︑ 礼部 尚書 と洪 純彦 のあ いだ には 以下 の

54

よう な論 議の 応酬 があ った

︵前 略︶ 洪純 彦趨 赴月 臺上

︑尚 書曰

︑此 事已 為題 過︑ 実録 完 後自 可以 行︑ 今不 敢再 題︑ 純彦 対曰

︑此 則陪 臣亦 知之 矣︑ 但 聞今 方纂 修會 典︑ 陪臣 之意

︑望 老爺 通査 各年 事例

︑再 行題 請︑ 移文 翰林 院︑ 則陪 臣等 其将 回話 於国 王︑ 而国 王感 激之 意︑ 何可 量耶

︑尚 書曰

︑會 典今 雖纂 集︑ 而内 院尚 未設 局︑ 若 開局 則你 国之 事︑ 自可 増入 矣︑ 今不 須題 請︑ 此意 回報 陪臣 知

(11)

道︑

︵中 略︶ 侍郎 顧語 純彦 曰︑ 此事 已悉 之矣

︑但 実録 時未 完 了︑ 待其 完則 自當 増録

︑決 無遺 漏︑ 今不 須題 也︑ 此意 帰報 陪 臣︑ 純彦 扣頭 而出

︑罷 堂後 余等 遂帰

︑︵ 後略

︶︵

﹃荷 谷先 生朝 天記

﹄中

︑萬 暦二 年甲 戌八 月一 八日 己未 条︶ 本件 は実 録の 編纂 完了 後に 行う べき であ って

︑現 時点 で礼 部尚 書は 再度 皇帝 に題 奏す る考 えは なか った

︒む ろん

︑洪 純彦 もそ の 点は 承知 して いた

︒と はい え︑

﹃大 明会 典﹄ の編 纂が 始ま ろう と して いる こと を聞 き知 った 以上

︑こ のま ま朝 鮮に 帰国 する こと は でき ない

︒朴 希立 とし ては これ まで の奏 請の 事例 を調 査の うえ

︑ 再度 題請 して 翰林 院に 移文 して いた だけ れば 朝鮮 国王 も感 激す る であ ろう

︑と 礼部 尚書 に訴 えた

︒そ の結 果︑

﹁會 典︑ 今に 纂集 す と雖 も︑ 内院 尚お 未だ 局を 設け ず︒ 若し 開局 せば

︑則 ち你 が国 の 事︑ 自ら 増入 すべ し︒ 今は 須く 題請 すべ から ず﹂ との 回答 を引 き 出す こと がで きた

︒い まの とこ ろ臨 時官 庁の 会典 館こ そ開 設さ れ てい ない が︑ 礼部 尚書 は﹃ 大明 会典

﹄の 編纂 事業 計画 の存 在を 示 唆す る︒ 本件 は﹃ 明実 録﹄ の完 成後 に遺 漏な く増 補収 録さ れる で あろ う︑ と礼 部侍 郎も 洪純 彦に 声を かけ

︑朴 希立 らは 会同 館へ と 戻

( )

った

︒そ の翌 日の 早朝

︑員 外郎 銭拱 宸が 会同 館を 訪問 した

︒お

55

そら く︑ 昨日 の礼 部尚 書へ の呈 文の 件が 気が かり であ った ので あ ろう

︒宗 系改 正が 一国 の大 事で ある ゆえ

︑あ えて 呈文 を制 止し な かっ たと 銭拱 宸は いい

︑﹁ 世宗 四十 五年 の実 録甚 だ多 く︑ 更に 一 両年 を待 ちて 後ち

︑方 に完 了す るを 得ん

︒會 典は 則ち 各衙 門︑ 今 は只 だ内 翰に 抄送 する のみ

︒其 の開 局は 則ち 未だ 其の 早晩 を知 ら ざる なり

﹂︑ と当 時の 政府 内の 状況 を伝 えて

( )

いる

56

第三 に︑ 礼部 尚書 はあ らた めて 題請 する こと はな かっ たが

︑朴

希立 名義 の呈 文は 礼部 主客 司に 保管 され

︑﹃ 大明 会典

﹄編 纂時 の 参考 資料 に付 され た︒ この 点も 以下 に提 示す る許 篈の

﹁朝 天記

﹂ から 容易 に読 み取 るこ とが でき よう

︵前 略︶ 礼部 都吏 来館

︑謂 通事 等曰

︑前 日呈 文︑ 尚書 下于 主 客司

︑以 備會 典新 修時 査考

︑平 時凡 呈文 之不 可行 者︑ 則尚 書 不下 該司

︑而 今則 如是

︑可 見其 必行 於後 日也

︑︵ 後略

︶︵

﹃荷 谷先 生朝 天記

﹄中

︑萬 暦二 年甲 戌八 月二 一日 壬戌 条︶ 礼部 都吏 は来 館の うえ

︑﹁ 平時

︑凡 そ呈 文の 行う べか らざ る者 は︑ 則ち 尚書 該司 に下 さず

︒而 れど も今 は則 ち是 の如 し︒ 其れ 必 ず後 日に 行う を見 るべ きな り﹂ と通 事に 伝え た︒ 入京 後に 聖節 使 朴希 立一 行は 急遽 呈文 を書 き直 し︑ 礼部 尚書 に題 請を 拒否 され た と思 われ たが

︑こ の連 絡を 受け てひ とま ず安 堵し たに 相違 ない

︒ 上述 した 三点 は朝 鮮側 の実 録記 事に は記 録さ れて おら ず︑ 朝鮮 宣 祖代 にお ける この 対明 外交 交渉 の具 体相 をい ささ か不 透明 なも の にし てい る︒ なお

︑許 篈・ 趙憲 らは 前日 の八 月二

〇日 に内 城北 部 の国 子監 に拝 謁し

︑二 五日 には 外城 にあ る天 壇︵ 圜丘 壇︶ を参 観 して おり

︑孔 子廟 と天 壇の 観覧 は朝 鮮使 節に とっ てす でに 恒例 と なっ て

( )

いた

57

さて この 頃︑ 宣祖 七年 八月 下旬 に北 京へ 向か った 冬至 使安 自裕 以下

︑書 状官 李彦 愉・ 質正 官金 大鳴 の

( )

一行 が年 末に 先来 通事 を朝

58

鮮に 派遣 し︑ 宗系 改正 の事 情が 採録 され たと 報告 して きた

︒ 冬至 使安 自裕 等送 先来 通事 啓聞

︑宗 系改 正事 已蒙 載録

︑上 深 喜之

︑令 承政 院議 遣謝 恩使

︑︵

﹃宣 祖実 録﹄ 巻八

︑七 年閏 一二 月乙 酉︹ 一五 日︺ 条︶ 簡略 なこ の実 録記 事に は﹁ 宗系 改正 の事

︑已 に載 録を 蒙る

﹂と

参照

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