• 検索結果がありません。

近世における塩田の永代売買に就いて

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "近世における塩田の永代売買に就いて"

Copied!
33
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

徳川幕府は三代将軍家光の富永二十卑︵㌫︶三月﹁田畑永代売御仕置﹂を出して以来︑ともかくその終焉まで田  

畠の永代売買ほ禁止していた︒法規的・抽象儲的には明治五年︵㌫︶二月人民の土地処分権が確認されるまで︑その  

永代売買禁止の精神は二百三十年間護持されてきたものと理解される︒幕府の刑法たる延革元年︵堅極という御  

定番第三十条に︑田畑を永代匹売れるものは過料に処せられ︑売渡証文に遺著せる名主︵庄屋︶はその職を免ぜられ︑  

また証人となれるものは叱に処せられているし︑更にこれを買取れるヰのは︑その田畠を没収すると規定されてい  

︵l︶ 

︑ヽヽ   る︒また貞革頃頼納売と称して︑田畑を質入せるとき︑質取入が収益を取りながら︑その年責負担を地主に負わせ  

たとき︑質置主を過料に処し︑質取入はその土地を没収せられた上ぜた過料に処せられ︑質入証文に連署せる名主  

もその職を免ぜられている︒近世中期︑十七世紀末で︑なおこれ程地主の財産権が擁護されているのは︑拘に驚歎  

するのはかなく︑幕政担当者紅とっ∵ては︑土地よりの収益収奪に最大の望′みを托し︑彼等の何よりも恐れたのほ︑  

土地制度が瓦解されて︑その税制秩序の崩壊するごとであっセ︒この為に︑旧慣墨守・新儀停止は浪費節約の経済  

倫理と深く結びついて︑ながく封建的固定化政策のバ︑ックポーンとなっていたのである︒ところが︑いま此処で  

問題とす牒ように︑︑この田畠売買にも例外は出来.ていた︒H高論のない新開の田畠と︑日浪人侍等所有の田畠であ   

第三十巻.第二1ニュ骨  

近世における塩田の永代売買に就いて  

先  王    洋  

︵一三四︶ 三〇  

(2)

る︒これ等は何れも永代売買が許可されていたのである︒高話のない田畠とほ鍬下年期中の田畠であって︑新たに  

土地を開墾する場合︑この鍬下年期申は無税でありて︑これは塩田の場合にも殆ど適用されているが︑数年の期間  

後改めて検地縄張を行い︑村高虹加えられるのであって︑この高論の未決定の田畠・塩田は自由鱒売買することが  

出来︑薄営塩田の場合など民間に切売払下げられることもあった︒また侍は仙般に扶持米︑切米を給せられ︑知行取  

にしても指定地の年責だけを得るのであり︑むしろ擬制的小岩主として拝領土地を所有せぬのが普通であるが︑し  

かも侍・浪人にして新開地開墾の場合など土地を所有するものがあり︑塩田にしても︑竹原における寺西新開など  

︵2︶  

侍による開墾塩浜の著例といいうるものが存する︒管見に従えば︑近世塩田の売買は︑はぼ米作田の売買に準じて  

行われたと見られるのであって︑その実例を塩業各地と史料館︵暇豊糟︶紅探求サることが出来た︒しかも︑それは︑  

夷k例外を乗り越えた普遍化した売買の顆型となっており︑立法者は如何に細心の注意を払って︑その転売を禁止  

しようとしても︑事実金に窮して﹁たんぼ﹂或は塩田を売ろうとすれは︑何時でも放ち得たものと解せられる︒すで  

︵$︶ に中世以来﹁本銭返し﹂の名目便法によって︑はぼ真実の売買と等しい経済効果を知った近世人は︑いつでも村組  

及び名主︵庄屋︶の協力を得て︑結果的笹ほ田地・塩田などを巧み軋転売し︑その資金融通をはかっている︒曽て  

小野武夫博士が︑近世の百姓は或る程度土地所有権を得ていたと筆者望ロわれた言葉も理解される虻十八世紀に入  

り︑正徳・草保ともなれば︑近世の塩美玉国安芸津・金沢清閑係の塩業文書虹︑H塩田を入質して借金し︑或は  

日永代売却せる文書がしきりに現われでくる︒薄営塩田など︑すでに開浜の当初から︑小作民に切売された事例も  

ないでほないが︑近世中期に入っての︑かかる事例の発生ほ︑何はりも先ず︑塩の商品経済の普遍化して釆たこと  

を示すと同時に︑また塩村自体が分化﹂分解しかけてきたことを示唆するものである︒次に草保中期の借用銀及び  

永代売の実例を示すであろう︒この頃は︑全国的に塩浜が漸く不況期に入った時代であると見倣される︒  

︵−三五︶ 三一   

近世における墟田の永代売買に就いて  

(3)

本  郷  村  

弥  左︑ 兵  衛   

とある借用証文ほ壱町六反拾八畝の不動産たる塩田に従属物の釜屋・大坪・塩蔵・浜子小屋も添えて質入し︑上銀  

入賞目を月壱分半の利息で三年間借りたものであるが︑不返済のときは質入塩浜相渡と云い︑本文後半には石垣が  

痛めば取巻もすると附帯の条件もつけられている︒かかる種類の借用にほ︑その返済期限に完済し得ず︑更に期限    此質物我等抱七軒屋之塩浜壱ケ所    御帳面畝数壱町六反拾八畝    釜屋壱軒 茅野︑大坪一一夕 茅晋︑塩蔵壱︑建物 八軒カヤプキ浜子小屋︑瓦茸棟数 八軒   右之塩浜質物犬銀子三年切嘩癌用申事実正候間来未年卜申年両年者毎年極月廿日限利足相調可中西ノ年︹詣霜押︺質入之塩  

浜相渡可申︵以下東食多く略︶  

享保十一年九月四日  

.・′■ヽ︑   

一︑上銀八冊月目元銀   第三十巻 第二・三号  

借 用 申 銀 子 之 事  

但レ利足月壱朱単定  

︵4︶  

銀 借 り 主  

加茂郡竹原  

善   ︵一三六︶三二  

一丁  

(4)

を延し︑又遂に債権者が塩田の所有権者に変る例も少くない︒更に興味深いのは︑この草保十毒午十二月竹原の  

浜主五十六名が月利壱分三原の利息で銀三十一義目を→市村の年寄と塩浜庄屋・仲間の連印を以て藩屏たる郡代官  

から借財融通を受けている︒いわば藩庫はいつしか問屋・仲間への金融金貸業に手だししているのであって︑自ら  

棍祝する商行為を敢えて行い金利を稼いでおり︑幕末に至てては︑塩問屋と競争的立場覧つ場合すらある︒  

次紅金沢澤の扱ケ浜売買の例について考えたい︒その塩菓経営が近世賢ける専売類似の典型的なものと見られ  

る同薄の場合でも︑それはいつに︑貸すに米をも?てし︑返すに塩をもってする﹁塩手米﹂による生産から販売へ  

の施策に藩の関与面が大きいというだけであっ′て︑塩贋の採械所有権者がその浜を永代売却せる所例は珠洲郡真浦  

の橋詰家文書に見られる︒多くの場合︑その売却理由は年東米が足らぬからというに尽きるが︑ここでは塩浜蒜  

沼井二十彼の揚ケ浜が正徳元年︵≡碁に仁江村の徳兵衛から同村の太郎兵衛へ売却の取引が出来ている︒ところ  

が︑如何なる理由かこの時在所の百姓共から文句をつけられて連判を拒まれ︑草保十二年末享交渉が十大年間も  

停頓し︑漸くこの年︑代米八石二斗で契約が成立している︒︵諾慧︶置この同じ浜が安政四年︵㌫︶太郎蓋・惣  

右衛門より真浦村の橋爪三右衛門へ五両弐分と銀四百目で転売されているのも興深く︑これ鱒鱒名を襲える仁江村  

の太郎兵衛外妄がその所持の塩浜を橋爪家へ売却せることを意味するものである︒︵那︶参翌  

︵5︶  

︶   二 永代売渡浜証文之事   ︵  

此代米八石弐斗  

右者御塩浜売渡申所実正二御座候則代米嘩1受取御公儀様御納米持上ケ申所無御座候然上者此聖徳元年之琴亮渡申所工在所連   一︑壱枚弐拾般.取   近世における塩田の永代売買に就いて  

御塩浜  

二三七︶ 三三   

(5)

欝三十巻∵第二・三骨 

︵二一天︶ 三匹  

判仕候間数と申只今迄相延申居候双方納得仕申侯此証文亮主従兵衛一門並字相中連判新組合肝煎奥書ヲ以相渡牒候然上着代米  

受取上納可仕候於後︑ゝ少茂申分無御座候以上  

享保十式年未十仰月  

浜売主仁江∴村  

徳   

宗  

一 門  

助  

仁江村百姓  

義   右  

滑   左   六 郎  

与  

三  

惣   右  

市   郎  

九   郎  

左  

仁  

六   右  

作  

太   右  

十 十 兵  

兵   衛  兵  兵  衛  兵  兵  衛  

循   

衛  

ロHJ  P  

臼HJ  P   

衛  衛  

︻RJ  F  

衛  

衛  

口HJ  P  

衛   

口HJ  P   ⑳  ⑳   ⑳   ⑳  ⑳  ⑳  ⑳  ⑳  ⑳  ⑳  ⑬   

(6)

右仁江村太郎兵衛ね永代浜売買証文通り相違無御座候以上  

真 浦  村  

橋  爪  三 右 衝 門 殿  

右証文之通リェ御座候以上   兵  左  衛  門ノ⑳  

本証文占添香仕候  

右私儀近年難渋仕而諸役舎貝−壷迄不足相成何角方便才覚茂無御座候二付一門中相談上ヲ以右浜買券証貴殿ね当十二月中迄金  

五両二分−銀印紙四百目慎二受取候所実年−御座候若レ同十二月元利共返済無之時者永代御決配可被下候為其請人一門村肝煎組  

合頭印形共相渡申所一札如件  

安政四年   □月  

近世における塩田の永代売買に就いて   仁江村肝煎片岩  

藤   左  l衛  

村い組合長楕村肝煎  

売主仁江村  

太. 郎  

山 門 同 村  

惣   右  

仁江村肝煎  

︵一三九︶ 三五   

兵  

兵  

衛   門 ⑳  衡 ⑳   

門 ⑳  

(7)

同 組 合 顔   門⑳   義右.衛  

かくてこの文書は要するに︑安政四年︵㌫︶に至って仁江村︵鵜観照洲︶の太郎兵衛が︑享保十二年以来の自家の所  

有塩田で空ことを立証しっつ︑その塩浜芸浦村︵開削鯛難酬が︶の贋三者衛門に金五両二分と銀札四富にて清却   せるものなること票すものであるが︑かかる贋の整貝は米田の売雪殆ど同様荒の臆するとこ長く︑禁令   姦祝して︑浜師仲間で盛ん監売されたところに︑僻地と離も近世末の貨幣経済の渉透がしのばれ︑も等通り   芹の法令を以てしてほ︑売買というような人間の経済藷に切夷な影響をもつ契約に対しては余りにも賢で︑   追いつめられた貧困に︑祖先の獲得した塩田を手離していくと見るの外ないのである︒   しかも層の立法者は何故旨姓の土地兼併とその売買を恐れたのか︑それにほ立法者自身の言わん与る所が  

あろう︒寛永二十年︵覧︶三月︑幕府は田島の永代売買に閲す舟法を発布すると同時に︑地方行政に関する七箇  

条の法令︵詔翳︶蓋して凍り︑その讐条に︑﹃身←嘗姓は︑田地を買取︑弥嘉︑身賢成者は︑富令消   却︑猶々身上不可成之間︑向後田畠売買可為停止事﹄との理由蕃をも明示しているバ貧富がいよいよ懸隔する十方  

彼等の暴力滴蕃に細心の注意をはらい︑その衣食住誓で干渉して衛度の節約を強い︑専心耕作蒜励させよシ   家慶の兼併を恐れた帝府は︑同時にまた百姓中の大多数を占める小農の破産をも恐れ︑何よりも先ず農村の分解を   危倶したのである︒当時の代官は常に小虚の生活難緩和に心をくだき︑各藩の行政官も亦︑武家の経済的支柱富   

と試みたのである︒    はかならぬこの事は︑彼等の農業労働力を極大値にまで発展させる企図からではあるが︑過ぎてほ及ばざる事例も    欝三十巻 琴丁三甘  

清  ︵一四〇︶ し三六  

左  衛  門 ⑳  

(8)

多く彼等為政者のこと屡と志とたがい︑おしひしがれた農民は父祖伝来の土地を処分し︑これを手放さざるを得な   ↑なり︑塩浜ほ塩民仲間に︑いとも容易に転売されるにいたったのである︒その禁止︑処罰法規の存するところ︑総   て這かかる被禁止事実の存在を肯定させるものがある︒ただその農地転売の資料が案外すくなく︑殊に塩田売買   熊本・仙台・蓼河の諸地方では盛んに塩田が開発されるが︑とく紅入浜塩甲は︑まさしく﹁たんば﹂であり︑それ   の古文書に至?ては︑容易に発見されぬため︑従来ときにかかる塩浜売買の事実さえ疑わさせるものもあったが︑こ   こ数年来︑扱グ浜の多き能登地方を初め︑入浜の多き安芸・周防・阿波等の十州塩田地帯にも浜売買の史実を可成り   つきとめ得たのである︒かくて﹂すでに金沢港においては︑正徳元年︵≡より︑安芸薄においては盲妄㌫年︵㍍︶   より︑また周倍大島辺においては寛政十二年︵茎よりその史実の存することを探索し得て︑ニ応整序して見ると︑   後尾に掲げる如き一覧表壷二表︶を得たのである︒   近世瀬戸内播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・阿波・讃岐・伊予の十川地帯を初めとし︑加苧大村   

は春季から夏季にかけて強力な小集団の農業労働を要請される採朗組織をもつものである︒﹁田由巴のゆえに︑年   耕もすれば施肥もするが︑米田賢ける新掛警鍬下年期の問題は当然軋塩田驚適讐れうる事柄となって︑  

塩田の切売・譲渡の事実は既に近世初期から内海沿岸の各藩.で行われたようである︒元禄六年寺本思衡著述の﹁竹 でこ  

原下市高志﹂にも︑寛文後まもなぐ﹁売レ浜別其地相共渡二英人Lという旬が見られ︑附属塩釜・畠もこ別を含め   て移譲する不文律が確立されたか紅見える︒    末尾第二表﹁近世塩浜売買価格壷表﹂に見る如く︑風防大島においても︑竹原においても︑その浜売買の古文書  

には﹁浜付田畠﹂﹁屋敷﹂﹁縫台﹂﹁塩蔵﹂﹁釜屋﹂﹁浜子小屋﹂﹁大坪﹂﹁諸道具﹂ほ皆殆ど主たる本塩田に従属して売買 ぶんまレ︵7︶  

されており︑更に本塩田の売買面積の次には次表≡露欝示す如く︑必ず米に直した﹁分米﹂も明記されている︒  

︵忘こ 三七    近世における塩田鱒永代売買に就いて  

(9)

安芸国竹原では軍氷の頃既紅塩浜は田地付で売買されている︒いま小山末興の竹原塩鎚誌ぬよれば︑同宝永四  

年︵監︶の浜売計の文書が見え   れによ・つて該塩浜の優劣を評価し︑その塩田価格も直観しうるのである︒  

︵一重一︶ 三八  

空手巻第二ニュ号  

分米とは田畠の地質︑段別の多少︑収穫の多寡等夫々上・中・下の畝歩高に応じて課する租米のことであるが︑こ   

覚   

浜付田弐反九畝九歩  

て上下浜六反三軟式拾七歩  

分米拾弐石七斗八升  

代銀 拾三賞五百目  

内   

浜仲田壱反四畝拾九歩五度   

三反壱畝弐拾八歩五厘  

分米六石三斗九升  

代銀 六貰七百五拾目   

浜付田壱反四畝拾九歩五度   

三反壱畝弐拾八歩五度  

分米六石三斗九升  

代銀 六貰七百五拾目   売主宗巴屋藤右衛門悼   伊  

買主  三 .原  屋  

吉  

買主  天  野  屋  

重   右   

†T   ︵8︶  

助  

(10)

墟 浜 庄 屋  

太  左  衛  門 殿  

仲 間・衆 中  

春原審年寄庄屋仲間虐町野亀之東棟高閣源太夫様宛二出ス免許月日不明   

とある︒伊之助が上の下浜六段三畝二七歩を全く切半して︑夫々舌十郎と重右衛門に分売したのである︒  

︵9︶  更に竹原塩田における草保十八年の売買雛型を示そう︒   

元禄を過ぎてこの期に入れば︑塩浜開墾も各地に試みられたあと寧ろ過剰となり︑上浜七反六畝弐拾壱歩が七賢  

三百目で瀬戸田の細田屋伊右衛門孫︑武左衛門から竹原下市の阿波屋惣兵衛に売却されている︒この場合︵こ文  

書・︵二︶文書を仔細に見れば禁令を犯すという浜売買も草保ともなれば余程普遍化したらしく︑然もその様式が  

実に整備されていて︑へこ文書では︑先ず売主・買主が夫々の請保証人を作って年寄庄屋・仲間衆へ売買事項を  

届出で︑︵二︶文書では届出をうけた該年寄及び浜庄屋から薄役人.へ同文書を弐通作成提出している︒  

四三︶ 三九   

近世における塩田の永代売買に就いて   畝数〆六反三畝弐拾七歩  

右之塩浜分浜一−仕売買仕度奉存候 御公儀様へ被伸上御帳切被仰付可被下候以止  

宝永四年亥ノ極月  

買  主   

同   

買請人   売  主   宗  巴  

友 天 三  

野 原   屋 屋 屋   助 重 富  右 右  

十   衡 衡   門 門 郎  

屋  

伊  

之  

助  

(11)

覚  

浜付田自訂 弐段九畝六歩  

一︑上浜七反六軟式拾壱歩  

※ 分米拾六石八斗七升四合   

代銀 七貰三百目  

右之輯浜売買仕度姦存候御公儀様ね被伸上御帖切被仰付可  

被下候双方共申分無御座候為後日如件  

享保十八年丑六月九日  

二七三こ︶  

瀬戸田隅田屋伊右衛門孫   売主   武 左 衛 門  

下・市阿波屋   買主   惣  兵  衛   同  角  屋   買請人  九 左 衛 門  

瀬戸田隅田屋  

売請人  茂 右 衛 門  

下市村年寄  

単  三  郎 殿   

同  

太 左 衡 門 殿   第三十巻 第二ユニ号  

︶ 文  

覚  

瀬戸田隅田屋伊右衛門孫  

売主  武 左 衛 門   下市阿波屋   買主   惣  兵  衛   同  角  屋  

買請人  九・左 衡 門  

瀬戸田隅田屋   売請人 茂 右 衛 門   

西中鴫之内  

一︑塩浜一軒  

一︑上浜七反六畝弐拾壱歩  

※ 分米拾六石八斗七升四合  

て浜付田島 弐段九畝六歩   

代銀 七貰三百目  

右之塩浜売買仕度双方共奉願供付年寄庄屋仲間共吟味仕候処  

売主買主二付浜町より那申者鯉御座候御帖切被為仰付被下候  

者難有司奉存候以上  

享保十八年丑六月  

下市村年寄  

単  三  郎   

︵こ︶ ○文  

四四︶ 四〇  

書  

(12)

いま瀬戸内海塩浜を通観しで見ると︑明和期に入れは︑安芸国竹原地方では︑しきり転塩浜売買が行われている   が∵﹂のことは︑十川塩田の塩浜不景気や休浜問題とも無関係でほなかろう︒殊に明和初期に多く︑其の著例を拾  

って見ると︑明潮二年︵㌫︶正月には︑・竹原東中嶋の申の下浄八反八畝拾弐歩︵紛相聞謂紅附謡歩︶は代銀拾参貫五百目  

で︑また上の下浜七反三畝︵謂㌍︶と六反八畝三歩︵鰭誓㌍︶が合せて弐拾参貫目で売買されており︑其の売却の  

事情は浜不景気の故のようである︒更に次の第一表︑塩田売買価格山蒐表の㈹を見ると︑明和五年に同じく常中嶋   の上の下浜山町三畝十歩半︑分米二十石六斗七升をあげうる塩田が︑浜付田畠四反三畝十九歩半を併せて︑弐拾五   眉で売却されている︒此等は明和における塩浜のただならぬ変動期を説明していると見られよう︒  

四五︶ 竺    近世妃おける塩田の永代売買に放いて   下  塩  

仲 正市 忠 浜′  

間  庄 右 庄   衆  屋衛屋   中 郎  門    殿  殿  

松原助右衛門   八 木 治 三 郎  

梶 川 助 三 郎  

弐道上ル  

様様様  

極  

太 左 裾 門  

塩 浜 庄 屋   忠 右 衛 門   下市村庄屋   正  三  郎   仲  間  衆  

(13)

(墓蔓慧≡糾紬の竹原塩田売買価格一軍表  

浜等級上面 積l分 米   第三十巻 第二・三骨  

浜 村 田 畠   町段畝歩  

8.4..15   7り 4.9   5..7.27  

2  

66   8。327  

7  

74.18   9..5−3   7.4,.18   7L.9.3   1.0.3,10●5   

7.924  

右斗升合  

11.8.3  

15 6 0 3   11L58   

4.2   11.2 2  

11.74.6  

14  

13.4.28  

17 118  

134 2り 8  

17.4.0‖ 2  

20.6、7   16.7、5.8  

反歌歩   3L.89  

3・4 24( 田 )  

2818( 〝 )  

4  ( 〝 )   4・5..12(田と屋敷)  

2小 927( 田 )   4.0.18(田・畠)  

1.612( 〝 )   410.18( 〝 )   2.512( 〝 )   4.319・5(〝)  

4318(   )  

下  浜   上 中浜   上 下浜   上 中浜   中 中浜   下  浜   上 下浜   中  浜   中  浜   中  浜   上  浜   上 下浜   上 中浜  

原塩浜売買並譲浜帳其他諸覚帳の原典史料のみに拠る。  

に譲れる塩田を瞼外して−、その面積が平均8段14・3歩であること   正徳3年、宝暦2年、明和5年が高く  ◎印  

ことである  △印  

四六︶ 四二   

次に十八世紀における竹原塩田の売買価格一  

︵10︶  

覧表を作成して見るに︑当世紀の竹原浜では塩  

田平均面積ほ凡そ八反であることがわかり︑更  

に正徳三年︑宝暦二年︑明和五年等の塩浜価格  

は案外高く︑草保八年西中島︑申の中浜は面鏡  

六反六畝分米十〟石二斗二升の浜が浜仲田四反  

を添えても︑なお八貰五〇〇目の安値で売却せ  

られ︑宝暦十四年の西中島上浜七反九畝三歩も  

僅か入賞目で売買されているのが注目される︒   

近代日本の黎明期を一入三〇年代のいわゆる  

天保期に見きわめようとするのが︑戦前からの  

変らぬ私の脚つの見解であるが︑いま放りに塩  

田の開拓・売買などの史実から推しても︑十川  

塩田地帯でほ︑この期に入れば急激にその件数  

の増えててるのが注目される︒小浜の開拓は儲  

かる場合が多く︑浜の売買にも多分に儲け意欲  

が伴っている︒この事は︑天保期ほ決して退嬰  

的な時代ではなく︑寧ろ企業精神の旺盛な劉期   

(14)

て︑揚ゲ浜一山枚を二十一両で︑同村三右衛門へ姑却してい 

高き能登塩浜にも︑容赦なく貨幣経済が渉透してくる︒天保はまさ虹ひとつの転換期であるといえるのである︒  

︵11︶  

第一義 十八世紀  

︵甲 表︶ 永代売渡塩浜之事   

一︑梅屋浜壱軒  

但壱町六段五畝六歩 高四拾八石壱斗八升四合  

代】区域  

畠七軟式拾歩高八斗五合  

並釜屋壱軒 大坪弐本  

近世における塩田の永代売買に就いて  

正徳3年(1713)  

正徳3年   7月26日   享保6年(1721)2月  

〝  

享保8年(1723)1月14日  

〝   享保11年(1726)5月  

〝17年(1732)8月   寛保3年(1743)2月17日   宝暦2年(1752)申  

〝14年(1764)2月   明和5年(1768)2月   安永3年(1774)2月  

島島島堀   中中中   西東西北  

〃 〃 〃  

以上  

竹原塩業協同組合所蔵:竹    上表を見て気づくことほ、  

(−)当時竹原塩田でほ(3)・(4)の兄弟間  

(ニ)その場所にもよるが、塩浜価格が   享保8年、宝暦14年が比較的安い  

的時代たる事を立証する仙つの素材を提供して  

くれる︒塩浜の売買にしても︑理由は道上銀の  

不足などといろいろつけているが︑浜の持主が  

転々と動ける事実は争われなく︑明和之聯か事  

情が異り︑天保七年の小松塩田の梅屋浜と胡屋  

浜の売買など山〇七貰五〇〇目の大金が支払わ  

れており︑この頃浜子の居小屋が瓦プキとなっ  

ているのも注目すべきであろう︷卵攣︒また同年  

金沢港珠洲郡真浦の彦六の浜永代重態︶など︑  

彼及び・山門四人が惣百姓十五人の同意連判を得  

四七︶ 四三   

(15)

山︑胡屋浜壱軒  

但壱町五段弐畝弐拾四歩  

高四拾四石五斗六升八合  

畠六畝八歩  

︵合′誤り︶  

高六斗五升八石  

並釜屋壱軒 大坪三本  

居固屋壱軒 塩蔵壱軒  

浜子固屋壱軒 炭固屋壱軒  

其外諸道具有懸り不残  

以上弐浜  

此代正銀百七貰五百目也   

天保七年申十二月廿一月   欝三十巻 第二二二号 

000  瓦プキ居固屋壱軒  

000  瓦プキ塩蔵壱軒  

炭固屋壱軒   

其外諸道具有掛り不残  

0000  浜子固屋壱軒   ︵一四八︶ 四四   

(16)

西ノ方ハ海切り  

南ノ方ハ樋田禅語ノ道切沓面也  

代金弐拾壱両也  

右私手前近年打続難渋仕御諸役銀等過分不足遠成何方俊才覚茂・儲璧門間甫相談内談之J私持御塩浜永代翼殿咋売渡代金  

前段之通−噂話取申所実雪御座候然上ハ此浜之璽付私子々孫々壷迄少も申分無之若何方正中分ケ︵間︶敷義申出候ても此証文  

を以急度埠明負殿ね御苦労相懸串間敷候為後日山門村中印渡備依而如件  

一︑壱枚  

天保七年中正月  二八三六︶  

近世における塩田の永代売買に就いて  

小 松 屋 清 三 郎 殿  

︵乙 表︶ 永代売渡申御塩浜証文事  

字向浜申所釜屋敷本共   

但此浜境  

東ノ方市兵衛浜ねかよい馬道切り   

北ノ方ハ書三郎浜間l〝井川切リ  

真浦村本主  

彦  

同 村一  

宗    臼 杵 屋 宗 三 郎 ⑳  

口HJ  P  

兵  

︵一四九︶ 四五   衛 ⑳    六 ⑳  

(17)

第三十巻 第二二さ号  

同  

同  

同  同  

同  

同   同   

同   同   

同   五   五〇︸ 四六   断  

村    左  

衛 ⑳   門 ⑳  

衛 ⑳  

郎 ⑳  

衝 ⑳  

郎 ⑳  

郎 ⑳   

衛 ◎  

(18)

真浦村冒∵三   右 衛  門 殿   三  

近世における塩田の永代売買に就いて  

太   長   村   左  

太    衛  

又   太  

村    村   村    村  

村  

(  

鼓  

四  

七   

兵  

門   郎  

⑳   ⑳  

(19)

次に天保十山年︵㌫︶十月の阿波藩斉田地方における塩浜売買の一例を見たい︒塩浜仙町仙反四畝四歩に荒地菅反  

八畝十八歩︑電屋菅軒︑水潮土蔵二軒︑水潮土蔵床壱ケ所︑塩納屋菅軒が添えられて︑代銀拾弐貫目で黒崎村の出  

作浜人嘉久蔵より︑斉田村の茂吉へ売却されている︒この文書の前半には嘉久蔵の前所有者林左衛門及び︑その娘  

が如何にして天明八年︵㍍︶以前よりこの地方中浜の下の上浜三反七畝二四歩と荒浜二灰四畝十二歩計五反二畝六  

歩を大桑島村及び薄更から貰い︑また開拓せしかを述べ︑更に下の上浜︵謂凋︶六反則畝二八歩を斉田村の次兵衛よ  

り譲受けしかを説明している︒結局両者の合計壱町壱反四畝四歩が時の庄屋及び村の五人粗に保証されて黒崎村の  

出浜人寡久蔵より斉田村の茂吉へ売却されたもので挙るが︑近世のかかる売買契約では︑庄屋若くは五人組等の論  

判なくしてほ︑殆ど形式的には無効に近かったものであろう︒本文伝領証文後半を次に示して見よう・︒  

︵ほ︶       譲渡申塩浜書物之寧  

合壱町壱段四畝四歩   

右之通私方へ議論候古証文弐通︵貼錮・請桐畑難読諾配︶並御下札壱通前手続之適所持仕居中候右浜地御納銀之養老春請︒御極   

被仰附年々増減被仰付次第勧請奉仕筈  

山︑荒地売渡壱反八畝拾八歩  

但右荒地売渡御取調之上元御帳御省キ被仰付浜成らせ候迄毎時御納銀引    右真浦村彦六証文之通相違無御座候一一付為其奥書仕申候以上       ¢   呉浦和肝煎  

士ロ  

︵一五二︶ 四八  

郎 ⑳  

(20)

右者板野郡雷村境浜地譜之御帳之内此方所持2塩浜一房竺候莞処無拠子細有之一一附右浜代銀拾弐雷一箱定メ其方へ譲渡 代銀憶三講習所実正一慮⁝右浜地子御帳面引合反数名負字相違警且弐重譲受詩論質入等工茂不仕外姦障聖二付右孟  

勧引除御郡代武市将曹様柏木半平桜江奉願←蔑届之上右翼之養老被召上雫札壱通相添所之庄畢五人組加判其上撃代和  

賀申請譲渡中上者子々子々壷迄毛頭違乱撃且後年地浩之有之節者其竃負可被諸侯依而為後日塩浜譲受証文如件      ︵受︶  

黒崎村点斉田村へ出浜人  

︵銀︶  

一︑重宝厘懸之儲ハ塩直段丘望遠二付壱厘より五度迄被仰何次第持出筈  

屋   一︑竃  

て水 潮 土 蔵  

一︑水潮土蔵床  

一︑塩 納 屋   一︑銀札五首八拾五匁   

右者昨亥年末浜澄入銀として御揮倍返上候義ハ出塩厘懸リヲ以月三朱御利足相加へ毎︵年︶十方切返上奉仕筈  

天保十一子年十月  

近世匿おける塩田の永代売買に就いて  

小   〒  馴  姦・  弐ケ所  壱㌢所  

壱 軒  

斉田村庄屋   苫 成 久 之 丞 ⑲  

同村五人組  

次  

久  寡  

︵小五三︶ 四九    蔵 ⑳  衛 ⑬  

(21)

に︑宝永から慶応にいたる一三ハ件の売買実例を分頬整頓して見ると次の如き覧目録を得た︒その面積について極  

大なるものを求むれば︑脚慶応三年卯七月の塩満屋浜二町融段壱畝二十仰歩を挙げることが出来るし︑極少なる隼    以上によって︑近世における塩浜の売買を現地における史料探索により︑   斉  田  村  

茂  

第三十巻 第二・三号  

︵婁   亭︶   

表審之譲浜御郡代卸間届之上拙者霹判如件   

書 殿   同  同   同   同  

曽 家 部 甚 右 衛  

三  

木   栄  

庄  野  駒  十   

はば明らかにし得たが︑  

月   普  

坂  井一施 右 衛 門 ⑳    五四︶ 五〇  

郎   兵  

門 @  

介 ⑳  

郎 ⑳   

いま本文末尾  

衛 ⑳   衛 ⑳  

吉 幽用翫㈹  

(22)

のほ︑㈹夢永三年正月の岩本屋浜︵頭浜︶ の五反七畝九歩をあげうる︒概して山町二︑三段といえるが︑本例史料  

の多くは周防国大島郡小松塩田についてである︒また浜の最も有価なるものほ㈹天保七年十二月廿劇日︑梅屋浜〟  

町六反五畝六歩と胡屋淀二町五反二畝二四歩が山〇七貰五〇〇目で売買されている例であり︑両にして闇文久三年  

十二月の小校閲作の中屋浜一町二反二畝二九歩が最高の七二五両を示していることである︒また㈲の挙保十二年十  

一月能登国珠洲郡仁江村の 

衛・忽右衛門より真樹村の橋爪三右衛門に金五両二分と銀四百目で売却された浜とは三〇年間の伝儲関係が見ら  

れ︑︑後者の太郎兵衛は前者の太郎兵衛の襲名であろう︒文久四年正月の塩屋浜一軒が鋤より釦へと極めて短時日の  

うちに移動しているのは︑特殊事情の潜むものがあるを考えさせられ︑何れにしても永く採掘する意思をもたなか  

ったのであろう︒更に︑文久三年七月の小松塩田おける脚・鍋・闘の中屋浜の移動について仔細に検するに︑この  

三者にほ一連の関係があって∴﹂の時︑由賢町二反二畝二九歩を平野屋大兵衛より六七〇両の高価で眉取れる山  

形屋幸吉は︑同じ月七月に二七〇両も損をして直ちに小松屋清三郎に売却している︒その事情ほ知る由もないが︑  

よく近世売却文書の前段書出しにことさらに理由を附して現われる如き単なる納磯金不足のためではなかろう︒  

︑︑ 1 ︑︑ 1 ︑︑︑︑︑ 1 1 ︑ 1 1 1 1 1 1 1\1 〜 1 ︑ 1 1 ︑ 1 1 1 1 1 1 ヽ 1 ヽ ヽ ヽ 1 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 小松屋にはこの種の塩届をひろく男優めた形跡が見られ︑このとき∵﹂れを買得た小松屋は同年十二月末に三二五  

︑︑︑ 1 1 ︑ 1 ︑︑︑ 1 1 1 1 1 1 1 1 11 1 1 ヽ ヽ 1 1 ヽ ヽ ヽ 1 1 ヽ 1 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 両も儲けて七二五両で鍵屋茂治右衛門へ譲渡している︒儲ける為の転売と見るの外ない︒  

第二表  近世塩浜売買価格一覧表  

近世紅ぶける塩田の永代蔓只に就いて   典拠史料  

︵ 

矢田部家文番︵粟屋家知行︑山口県大島郡小松塩田︑粟屋帯刀預塩浜売券状控︶を主とし  

て整理し︑小山末興集蔵文蛮︵広島県竹原塩協︶二通︵○聖︑橋詰桝三家文番︵※印︑石川県珠  洲郡西海相異浦︶三通︑及び文部省史料館所蔵の蜂須賀清文垂二通︵◎印︶を加えて作成した︒   

二濫五︶ 五仙   

(23)

(4)   0(3)   墨(2)   ○(1)   

■   

.′■ ̄ ̄ 、\  

寛    事   享正   

ー 政    保‥徳    宝  

永   

十    十   

四   

18(椙    1733  八    1707 年   

年    .十 元      (王子墨書毒墓       六年   

申   

月丑    十  

日   

月   

沼大浜釜尾   下   

上    浜  歩浜二上   

坪■ ̄・墜・  

■の   

固・    枚  厘田八下   

ー・三屋塩  

已二 歩漠   

ニ本各成  一 浜    六   に反五六   

○ 一・・  町  分 畝    十  切九厘■反   

台・ 軒屠六一六 塩   

米 ニ    妓  半畝宛三   

固畝 段 浜    取  す九に畝   

屋廿 五  る歩切ニ   

...〉    /ヽ   ̄ ̄   

も単七   

歩 九  

八  

ーーし歩   

歩    斗   反てを   

防   妻案   壷   妻く芸宗差  

垂買   国 仁一ノ    完  

年   代一 浜の面積・従属物其他   欝三十巻 第二・三骨  

代米八石弐斗   十三貰五〇〇目  

七貰三〇〇目  

八〇文銭  

七三貫目  

l11l       −t■ 貝   冗 主  主  

買 買 売   主 主 主  

売主 大浜屋三郎左工門  

買主 熊毛郡岩田村  

徳十郎鶴   間  岩田村  

国光武右工門︵抱浜︶  

百姓   

買    主   太仁   

江   郎村   兵  

瀬戸田隅田屋伊右裾門孫  

武 左 衛門  

下市阿波屋  

惣  兵  循   主・買   主  

仁江村徳兵衛   ︑億 兵   宗巴屋 伊之助   三原屋 吉十郎  

天野屋重石衛門  

宗 十 助 十  

衡 郎郎衛一  

門  

(24)

(8)   (7)   (6)   (5)   

又   文   文  文   

政   化   化    化   

元  

十  

1818  年   1817  

四  

十   

1807  

四  

六  

年    十   

月  

±  

七  

月   

月  

浜屈畠 松  浜炭釜縫屋 伊  其浜、縫屋/室  諸続縫沖畠 新       ・   

道宅   野  付小屋敷勢  他子台数 屋  道き 村    屋   

具′・   

屋   諸屋・一 

屋  道小九   浜  具・.一・畠   浜   

塩    涙  道・塩ニ    具屋四    一・浜○   

蔵  −   

具大蔵三 一枚  一各・ −    切子五 

・五町   

釜畝ニー 

坪・台七町浜  切一居五町・一・  不小台 −・町一 

三屠 畝六  不、軒宅畝二軒  残屋・ 畝二軒  

屋十段軒    永宅 二段一  残・一・⊥・段   

各釜∴−・−・段   

・四三   

土⊥酎  、大軒五ニ    一・屋∴三■セニ   

歩   

浜 歩畝   :.麗    軒:歩歩畝  

子    ニ塩 ・−  

小 歩    固   六    本蔵 五    塩   

(  歩    ・ 歩   (   歩  

〝    〝   〝  

仁l  

ヽ_./  

上 固  

) 蔵    、ノ  

屋  

/へ    八    八    八   

○    ○    ○    ○   

六 文    七 又  

六 文   

六 文   

二鏡    六 銃    七 銃    三 銭   

1ぎEト  

貰    貰    貫   

目    冒   目   

F可     ・=:±:・   

・=土r  

F工rl      士    P::エコ    ▼ニヒ   

主  主    主  主    タ議  主主  

笥 

難雉伊    国  平   

角  松  

笹  

屋    汲波  勢    光  田    岩岡 韻兵田  

蕃    春寒  屋    喜  源   

率 四    漂蔵森   御兵 次    泰  

取 衛  郎    助 一郎  

職 カ   

蔵   」空軍 純  

次   

近世における塩田の永代売買に就いて  

︵一五七︶ 五三   

(25)

(12)   (11)   (10)   (g)   

天    文    文    文   

保    政   

六   

′   些    些  

1835  年    1825ノ 年   

1819  年  1819  年   

十   

月   

主    ±  士  

月   

諸料′居士 艮  各釜〝畠屋 一・大  浄釜屋布  道居釜土 中    道−・小事 国  ■・†屋   敷 軒嶋  手屋敷袋  具小屋手 屋   

具軒屋・ 屋  軒・   屋  固・    屋  附屋・†塩浜   

有。・ 

懸大浜敷−    大蔵  

坪・′ 一六町 単   

犀大  浜  ・塩屋浜  

り坪子 町   其・六町   

坪・†   

通土小五ニ    ニ浜 畝畝一 浜  地境畝五   

二炭畠−   

軒屋軟投    本子十十二段    浜蔵ニ段  

●  −・・・▲ −   

・到三六八一    軒固 町  

墟七畝    本屋歩歩歩畝    ・ 七    〆・軟投   

蔵歩−    家・  

五   

道固 −    横浜十二   

八   

ー、炭  

歩    具屋 ○   

(不 、歩   

数子七畝   

( 石 歩  (軒小  

〝 炭   〝 屋    〃残   

小   房錆歩克 軍 歩  

)  屋  

正   八    八   

四 銀    七 ○    六 ○  

九      貰    三 文    ○ 文   

七    貰 銭    賞 金莞   

五   

九 四   

五    五   

○    ○    ○   

○    分 五        二 匁    ○    ○   

冒    厘    目    冒   

第三十巻∴第二・三骨  ︵一五八︶ 五四  

売主  中屋冶兵衛  

買主  平野屋 太兵衛  

売主  治  郎  桧  

田  

福  

買主  小松屋 清三郎  

同   友二郎  

売主  萱原 伊左工門  

買主  国 光 喜兵衛  

売主  蓉  七  郎  

◇  0 0  0  0  0 0  

買主  鍵屋茂次右衛門   

′▼  

(26)

4  

一﹂■■  

5  

1   天保七年正月  天保七年  

十二月廿一日  

近世における墟田の永代売買紅就いて  

l  6  3  

8  1  

浜山枚   東の方 市兵衛浜ねかよい廣道切り   北の万 苦三郎浜   西の方 海切り   南の方 樋田樽話ノ道  

︵能登国︶  

梅屋浜︑  

一町六段五畝六歩  

畠   七畝二〇歩   釜屋・浜子小屋・炭小屋各〟軒   大坪 弐本  瓦プキ居固屋   瓦プキ塩蔵各一軒   諸道具有掛り不残  

畠  六畝八歩  

釜屋・居固屋・塩蔵・  

浜子小屋炭固屋各一軒  

大坪 三本  

一町五段二畝t一匹歩  

︵周防国︶   弐拾壱両  

叫〇七貰五〇〇目  

二五九︶ 五五   

売主 異浦村  

彦  

同村二門  

宗  

売主  臼杵屋 宗三郎  

買主  岩国領柳井町  

小松屋清三郎  

買 主   三三、次利   右郎郎左   衛兵兵エ   門衛衛郎衡 六  

⑳⑳ ⑳  

(27)

命(16)  

(17)  

t19)  

嘉永三年正月   天保十二年間正月  

1  4  8         1  

第三十巻 第二・三号  

1850  

_、▼___▼.___l  

若松屋浜  一町四段九畝−○歩  畠  八畝三歩  同  一畝十七歩  

釜屋・炭小屋︒塩蔵︒居小屋・浜子  

小屋各一軒・大坪三軒・道具不残  

︵ 〃 ︶  

岩本屋浜  

塩浜二枚  

侶 頭浜 五段七畝九歩  

下浜 七反七畝十歩  

屋敷   四畝山歩  

畠  三畝三歩  

釜屋︒塩蔵・炭小屋各一軒  

大坪二本・浜子本国屋一軒  

縫一山○台・浜道具有懸り  

︵  ︶   福田屋浜計単  

畝石御帳前   屈小屋・塩蔵∵釜屋各一軒   台坪二軒・諸道具附  

︵ ケ ︶  

三七貰五〇目   八〇叉銭  四〇貫目   四一貫目   六〇︶︑五六  

売主  小鴨三郎兵衛内   三 輪 太兵衛  

井上三郎右二門  

買主  八 左 衡 門  

売主  岡 本 新次郎  

買主  秋 元 久兵衛    売主  臼杵屋 宗三郎   買主  岩国領大畠浦   岩政屋 茂兵衛  

(28)

顎   ︵くU  

ク︼   安政五年  

OU  5  

︵‖0  1  

近世における塩田の永代売買に就いて   ・松屋浜一軒  

¶町岬段二畝二六歩  

緑屋浜 山軒  

一町四段九畝¶○歩  

畠  八敬三歩  

釜屋∴灰小屋・塩蔵・屈小屋  

浜子小屋各一軒︒大坪三本  

︵ 〃 ︶  其他建物・道具山切  

屋敷   五畝一四歩  

︵其他建物諸道具附︶  

浜山枚︵二十横取︶  

緑屋浜一軒  

一町四段九畝一〇歩  

畠  八畝三歩  

釜屋・炭小屋・塩蔵・居小屋  

小松屋開作  

福田屋浜 仙軒  

叫勘叫段七畝二八歩  

浜子小屋各一軒・大坪三本   其他建物道具劇切  

屋敷   六畝二歩  

固屋も道具付不残   ︵ 〃 ︶  ︵周防国︶   ︵能登国︶   

︵ 〃 ︶    金五両二分と銀四百目   三山○両   四〇〇両  三山○両  

︵〟六 五七    小松屋開作地浜  兼庄屋  

売主  三 輪 辰之助   

買主  岩田屋 弥八郎  

ロコ1      士   L1    ■・■」  主  主  

橋真惣太仁   買 売  

主 主  

売主  原田内   八 左 二 門  

買主 山 本 雄 助  

岩田屋  

三 輪 辰之助  

(29)

(28)   (27)   (26)   (・25、)∴・   

文    文    叉   

久    冬    冬   

1863  尋    1863  毒    1863   叉        冬  

十    七   

月  

七  

月   

月    月  

建土   小  〝 畠屋, 常    建土  中    建土  中   

物事  中松    敷  盤    物手  屈    物事  屋   

有・ 浜   

掛屋  浜作    屋   

有・ 浜  

計屋   

\ 土  −−−   \‡ −・・■   

痍・町 

一六町一   

残。町浜    残・む浜   

自 − lヨヨ・・・・・・・−   

畝畝一枚   

自・− t:日−−・・・−    畠二   

段    ー・−  二段半    段    段   

′ヽ H・・.・−  三六八一   ′ヽ __    ′\ _一 

畝畝   歩歩歩畝    畝畝    畝畝   

十ニ   

五   

十二    十二  

/、   

歩   七九   

歩歩   七九  

歩歩   歩歩  

〝   〝   防  

ヽ_./   

七   

四    四   

五    五   

六  

○   

両    両  ○   両   

欝lニ十巻 第二・三号  ︵二ハ二︶ 五八  

売主  平野屋 大兵衛  

買主  山形屋 幸 吉  

岩田村  

売主  忠  三  郎   

買主  川崎屋清右工門   売主  山形屋 幸 吉   買主  小松屋 清三郎  

売主  小桧屋 清三郎  

買主  鍵屋茂治右二門   

(30)

(y32)   (31)   (30)   (29) 

文   

治    久    文   

一■■1−■■■■ヽ■    (  

元   四   

1864   年   

1864   年   

1864   四       年    一 

正    正  

=−−  

十  

月   月  

一  

入と同  

、__一′  

宜一・諸屋松   建屋塩   建屋塩   其屋塩   

外軒建敦  賀    他敷  屋   

諸  物   屋    物敷  屋    物敷  屋   付   浜   

道  及   浜    掛    掛   

不 ・【山 

属   

具  屠  −    不  一・−  諸  叫− 

不  固六町    残  残五町軒    小五町軒   

残  屋畝三    畝六    畝六    屋畝六 

。十段    二段    二段   

二段   

浜一ニ   

歩四    歩四    塩歩四   

子歩九   蔵 畝  

固 歩   

等ニ   

屋   

有  六  

棟    歩    歩  ( 姿  歩   

〝 

健  

〝    ノゲ    ′′  

) 

〆  

四   

七   

八   

五  

○    六 文   

/へ  

両    両    八鎖   六銃  

貫  

五  

百   ○ 貰  

目    目  

ロー‡     士   

[!≡;l     士    l;些      ■=ヒ■   

Ilコ::l     士      貝   冗   

主 主   

矢 矢庄    浜   広  中   

田  

屋   永屋  

部野   文林   杯源   源伊  

善孝  

左  右   

衛 エ   

右  右  

エ   エ   右  を   

丘   エ   エ   

衛.−吉    門  門    門  門   門  門   

近世における塩田の永代売買に就いで  

︵.二ハ三︶ 五九   

(31)

く36)   (35)   (34)   (33)   

)  フ ̄ 

) 

(32)

︵1︶三浦周行﹁江戸時代における田島永代売買の禁止につき三 ︵京都大学還済論讃﹂大正十四年九月号︶  

︵2︶この場合︑竹原塩浜の﹁寺西新開﹂など︑天保初期の絵図︵竹原塩業組合所蔵︶では除浜となっており︑寺西責馬浜の竿入   

が明治五年に︑東浜下々浜一町三反六畝六歩︵外に二反三畝ご十山歩−沼井・建物︶酉浜下々堅Ⅶ二畝二十妄︵外竺   

反八畝二十四歩−沼井・建物︶と決定されるまでながく納税すら見逃されている︒寺西新浜御竿入引帳・竹原塩田誌︶  

︵3︶拙著﹁熊野三山経済史﹂王室罵日本経済史辞典︑下巻二重二頁参考   

﹁本鏡返し﹂の中世史的・近世史的意義を検討するに︑鎌倉時代の徳政令ほ土地の売買壷入を無敗としたが︑﹁本餞返し﹂    は例外としたから︑それは広く庶民の間に行われている︒しかし室町時代に入ると本銀返しも亦徳政令の適用を受けるに至   

った︒ところが近世に入るに及んで︑本銀返しは質入と同視せられるようになり︑事実中担の入質と結合して︑この時代の   

質権制度の根幹となっている︒室町の元利鏑却賀としての本餞返ほ占有質に吸収せられ︑従って本城返の形態は減じたが︑   

威然質入と並んで︑田畑の売買に就て盛んに行われ︑盲文書も多く残している︒また︑近世の﹁地方凡例録﹂に従うと︑旧   

慣虹従うとと多き関西地方では﹁本銭返﹂といひ︑関東地方においては之を﹁年季売﹂というとある︒年季売ほまた﹁年切   

売﹂とも呼ばれている︒かくて︑近世の本餞返しは︑質入と殆ど変らず両者の区別は頗る困難となるが︑重要なる相違は︑   

質入が享保以後法定期限の十カ年を附けたのに刺し︑本銃遮ほかかる期限を法定せぬ点にある︒贋入︑本鎖返ほ共に請戻に   

よって︑田畑が地主の所有に復帰する為に﹁田地永代売買禁止令﹂にほ抵触することなく︑従って両者並び行われるが︑特   

に本鎖返しは右の法定期限なき為に︑その禁制を廻適する手段として盛に利用せられ︑明治維新以後となっても依然として  

行われ︑裁判所も亦之を担保権の.脚種として認めている︒  

︵4︶寅保十劇丙午年﹁竹原塩浜蔑覚書﹂ ︵旧竹原墟浜集議所所蔵︶  

︵5︶石川県珠洲郡西海村黄浦︑橋詰桝三家所蔵文書  

︵6︶寺本立軒﹁竹原下市ご覧空十脚丁  

近世における増田の永代売買に就いて  

六五︶ 六一   

(33)

︵7︶ 分米  

︵日本経済史辞典︑下巻︑九四七頁上︑九九七真下︑一〇〇四貫上︑一山八四貢上︑一二七三克中︑山四二四頁下︑山四七  

二頁上等︶ に︑  

領主が現実に租税として徴集しうる分ほ現石といい︑その石甘同を〟村に通計したものは村高であるが︑分米は多Y一撃限迄  

ヽヽ  

で土免ともいった︒石高制は明治六年靡止される︒また﹁村のうち︑上田︒中田二卜田の夫々の高を分米といい︑その分米  

の合計を高辻とも言っている︒  

︵大規文彦﹁大言海﹂欝四巻︑二三八頁︶ に︑  

地方凡例録︑二分米村之中二而︑上・中・下所々之畝歩之高卜云フ時︑此分米︑何程卜唱フルナリ云々︑山利之内所  

々ノ畝歩之分ニ︑掛リタル米ヲ附ケルト云フ心ニテ︑分米卜唱フル也︒  

地方落穂集︑四︑分米高辻と云事﹁分米卜云ハ︑反別テ其位切二石盛ヲカケ︑上ノ分米何程︑中ノ分米何程︑下ノ分米何程  

ト︑夫々ノ米ヲ仕出スニ付︑分米上空とある︒  

︵8︶ ︵9︶︵10︶ 竹原塩業協同種合所蔵文書︒  

︵11︶山口県大島郡小松塩田︑矢田部家叉番︑文頭に﹁安政三辰十一月改所務代座寅蕃相成山石国御領柳井町小松屋楕三郎抱浜券状  

接﹂と見える︒  

︵12︶石川県珠洲郡西海村真浦︑橋詰桝三家文苔︒  

︵13︶東京都品川区豊町二︑文部省史料館所蔵︑蜂須賀家関係文書っ   

第三巻 第二ニュ骨  

︵一六六︶ 六二  

参照

関連したドキュメント

 処分の違法を主張したとしても、処分の効力あるいは法効果を争うことに

従って、こ こでは「嬉 しい」と「 楽しい」の 間にも差が あると考え られる。こ のような差 は語を区別 するために 決しておざ

問についてだが︑この間いに直接に答える前に確認しなけれ

排出量取引セミナー に出展したことのある クレジットの販売・仲介を 行っている事業者の情報

排出量取引セミナー に出展したことのある クレジットの販売・仲介を 行っている事業者の情報

   遠くに住んでいる、家に入られることに抵抗感があるなどの 療養中の子どもへの直接支援の難しさを、 IT という手段を使えば

一︑意見の自由は︑公務員に保障される︒ ントを受けたことまたはそれを拒絶したこと

単に,南北を指す磁石くらいはあったのではないかと思