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(1)

49

西欧輔神の本質は批評精神である︒西欧では芸術が時代の

進展とともに生じる新しい現実に対処出来なくなり内的表現

の方法を失った時︑芸術活動の内部から芸術概念の意識的反

省が轍り返し行はれて来た︒人間とは何か︑自然とは何か︑

芸術とは何か︑芸術は人間にとって何を意味するか︑芸術と

自然との関係如何︑芸術各ジャンルの相互関係如何I音楽と

絵画︑絵画と文学︑文学と音楽の性質の相違と類似性は何か

l芸術の素材I文学における言葉︑絵画における色彩と線︑

音楽における音︑演劇における肉体と言葉lの性質︑そして

芸術家の個性と素材のかかわり合い方如何︑作品と鑑賞者と

の関係如何︒この様に芸術的創造行為と批評精神が併存し芸

術の行詰りとともに本源への復帰迎動が行われ︑そこから新

しい我現の方法が意識的︑方法舗的に探究された事は︑近代

ヨーロッパ特に十九世紀の特徴であり我々が西欧から学ばね

ばならぬ率の一つである︒この小瞼では︑その様な運動の一

幸日少﹂ 楽言葉

jIlニーチェの﹁悲劇の誕生﹂を中心にI

つ︑ワグナーに始まりショーペンハウエルを経てニーチェの

﹁音楽の精神による悲劇の誕生﹂人目の︵渚g鼻骨﹃司国恩昌の目印号ョ︵郁冒・閏冨扁弄Vに一つの結論を見る問題を音

楽と言葉と言う観点から考えて行きたい︒このワグナー︑シ

ョーペンハウエル︑ニーチェの問組は一方ではゲーテ︑シラ.

−の﹁索朴文学と傭感文学﹂の問題の延長上にあるとともに

他方では一八七○年代から九○年代に主に仏独で盛んであっ

たポオドレエル︑マラルメ︑ヴェルレエヌ︑ランボオおよび

ゲオルゲ︑ホフマンスタール︑リルケ等の象徴主義文学にも

直接間接につながっている︒問題は一貫して音楽の象徴的性

絡をめぐって展開され︑言葉あるいは文学の問題は殆んど直

接取り上げられてはいない︒然し音楽の表現力の増大は文学

の表現倣域を犯す鞭は明らかで︑それが自覚されたものであ

るだけに文学の性質への反省を呼び起す躯は当然である︒ロ

マン派音楽の表現力の異常な増大の影瀞を受けて︑文学の中

芳樹

(2)

でも音楽と境を接している杼情詩の領域で詩人たちが﹁音楽

から彼らの富を奪回する︒﹂八局ロ厨邑昂妙毎日扇ご月行員

豆9V象徴派の運勁が起った聯は当然の成行きであった︒

﹁悲劇の誕生﹂で言語表現の問題は直接取り上げられてはい

ないが問題の朋芽は十分認められるのである︒

一ワグナーの線合芸術隣

リヒャルト・ワグナーの綜合芸術論は三つの主署﹁芸術と

革命﹂人穴目鼻匡鼠go旨匿9V︵一八四九年︶﹁未来の

芸術作品﹂人口閉居昌騨弩閏弄烏﹃冒冒目津V︵一八四九年︶

および﹁オペラとドラマ﹂八○周﹃巨昌口国目V︵一八五二

年︶に分散的に述べられ前二著では問題の要点を簡明に︑

後者では楽劇論を詳細に展開して︑前者から後者へ思想の発

展が見られるが︑今これらを再構成して︑ワグナーの芸術に

ついての問題の要点を述べる︒

ワグナーによれば芸術は決して人工的造り物でなく芸術へ

の要求は人間性の深部に根差したものである︒芸術の母胎は

自然︑即ち人間性であってそれ故歴史の中に自然に生じて来

た民族の習俗人望茸のVである︒芸術は表現された宗教であ

り神話八冨胃琴9Vである︒然しこの宗教は民族の自然の意

識から自ら湧くもので︑芸術家は宗教を作る事は出来ない︒

次にワグナーはこの棟な人間的芸術の典型をギリシャ芸

術︑特にギリシャ悲劇に見る︒ギリシャ悲劇はギリシャ民族

の意識の雌深部の表現︑人間性の総合的な表現である︒ギリ

シヤ悲劇においては造形芸術︵建築︑彫刻︑絵画︶︲と詩文芸

術と音楽は有機的に溶け合って綜合芸術として最高の表現に

達していた︒これらの諸芸術を総合芸術たらしめていた紐帯

がギリシャ人の民族意識としてのギリシャの宗教であった︒

この民族的宗教の紐柵の消滅がギリシャ精神と悲劇の解体を

芥らす︒以後芸術は各々勝手な近を歩き始め︑現代ヨーロッ

パの術芸術に発逮した︒然し芸術はその本質と発生から見

て︑一つものであり一体とならねば人間性の完全な表現に連

する邪が出来ない︒詩文芸術八勺吊帯Vが人間の理性に︑音

楽が人間の内的旋祁に︑舞踊が肉体のリズムに︑いづれも人

間の精神肉体の衝動に照応する様に芸術自体に人間性の総体

的表現として︑他の芸術と結合しそれにより始めて芸術とし

ての機能を完うする必然性が内在する︒それ故ギリシヤ悲劇

こそ芸術の理想の姿であり︑その解体から生じた諸芸術は︑

ルネッサンス以後多くの天才を産み出したにも拘らず完全な

芸術作品とは言えないのである︒

第三に︑ギリシャ悲劇の如き総合芸術のみが唯一の完全な

芸術である理由は︑蛎一に人間性があらゆる芸術の総合を求

めるからであり︑第二に芸術自身がそれぞれ結合する必然性

をもつからである︒削者を考えるなら芸術は人間の内的なも

のを表現するが︑この淡現は三つの近︑即ち肉体︑感悩︑理

性を通じて行われる︒この三表現能力は舞踏︑音楽︑詩の芸

術分野であるが人が三位一体八口鼠く⑦吊冒Vの形で完全な橡

一 望

(3)

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に︑三姉妹芸術合体して生命ある芸術となり︑単一のもので

は芸術たりえない︒人間は単一の感覚をもつのでなく︑浦砿

党をもち︑普皿的人間能力である︒全ての能力が参加出来る

芸術こそ完全な人間的芸術である︒︵未来の芸術作品︶次に

芸術の結合の必然性であるがまづ﹁未来の芸術作品﹂によると︑三姉妹芸術のうち︑舞踊芸術八弓色目百コ牌Vは︑肉体総

てによる表現である故︑他の芸術と結合する条件がある︒即

ち︑歌う人間︑語る人間が身振りを伴って完全な表現になる

様に音楽と詩は︑舞踏芸術により具体化する︒即ち︑音楽と

舞踊の共通点はリズムであり︑音楽の代表である人間の声に

とって喬葉はリズムに当り旋律を整える役目をする︒舞踊と

詩は︑音楽を通じて間接的に結合する他︑舞踊の意味内容を

明確にするため高菜が必要であり︑これで三姉妹芸術の輪舞

の翰は閉ざられる︒次に﹁オペラとドラZによれば︑青楽

と言葉の結びつきは次の棟になる︒音楽は女性︑詩は男性で

あり︑音楽は感情︑詩は理性に立脚する︒音楽には規定能力

がなく︑言葉にはそれがあるが︑言葉はその内容を充填する

事は出来ぬ︒規定されたものの内容を感情的に豊かに充填す

るのは音楽である︒散乱した行為や概念を一点に集約するの

が言葉の働きなら音楽は︑その集約された点を感憎内容に従

って豊かに拡げる働きをして完全な表現がえられるのであ

る︒第四に︑それでは﹁未来の芸術作品﹂はどの様なものであ るべきか︒それは︑ドラマを中心としそれにあらゆる芸術作品が参加する邪によって成立する︒ドラマが中心となる理由は︑詩人により香かれた文芸作品は︑記憶と想像の産物であり現実ではない︒然るに演劇においては術に現在が問題となり過去や未来も現在を媒介として現はれる︒それ故演劇においてこそ︑真の生が忠実に表現される︒この演劇に参加する芸術は全体の目的のためにその分を守らねばならぬ︑音楽も和声からでなく詩から生み出さるべきである︒

第五に︑この演劇の内容は歴史劇であってはならぬ︒それ

は事実をを示しても人間の志向を示しはしないからである︒

未来の芸術作品の内容は神話でなければならぬ︒歴史に色づ

けられぬ人間の巡命が神話に於て蛾も叩純に象徴的に表現さ

れるからである︒

妓後に﹁未来の芸術作品﹂は民衆の中から生じるものであ

る︒伸大な人間革命のみが我々にこの棟な芸術作品を斉員す

率が出来る︒ワグナーの楽劇論の核心は以上に尽きる︒彼の思想は最初

から音楽の全和声織組の上にあった︒その楽劇の劇的性格を

無視してワグナーの意図を理解する事は出来ない︒然し彼の

意図は︑人間革命でありその為の﹁芸術の革新﹂﹁芸術によ

る人間の救済﹂だった︒ニーチェの思想の索材は全てワグナ

ーにより与えられたが彼を激しく把へたのは何よりもこの芸

術の使命に対する自覚である︒ワグナーは当時フォィェルパ

(4)

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ツハの合理的楽天的哲学に親しみ未だ深い哲学的背景をもた

なかったが︑一八五四年ゲオルク・ヘルヴェークによりショ

ペンハウエルの﹁意志と表象としての世界﹂を知り急速にそ

の世界に入って行く︒ワグナーⅡシヨペンハゥェルの出合い

はニーチェⅡワグナー︑一IチェⅡショペンハウェルの避逓

と岡槻に大きな事件である︒﹁悲劇の誕生﹂の分析のため︑

二人の帝楽論を鯛くればならない︒ニショペンハウエルの音楽形而上学

ショペンハウエルは音楽は物自体八国眉目里8Vを表現

するものと規定し︑他の芸術の間に占めるその特異な性格を

次の様に説明する︒

芸術の対象はプラトンの言うイデア︵物自体即ち﹁意志﹂

の客体化八○厘の寓言農9V︶であり︑個々の事物や︑又理性

的思考の対象である概念八罵曽壁寓Vでもない︒このイデア

を認識し叙述するのが芸術家の目的であるが芸術一般のこの

定我に妥当しないものが一つある︒それは脊楽である︒我々

は音楽の中に他の芸術の場合の橡に何らかのイデアの表現を

見る小が出来ない︒にも拘らず音楽は人間の内面に面接作用

して全く将皿的な言莱として深く理解され︑その明噺さは視

覚の世界をすら凌弧する︒青楽の世界に対する関係は表現の

表現されるものへの関係即ちAz画呂匡匡VのA気旨亘匡Vに

対する関係である邪は他の芸術との類似から推察出来るが音

楽の我々に与える効果は一層強力︑迅速︑的確であり︽世界 全体との関係も正確で︑これは音楽の形式の数学的整然さを見ても理解される︒この様な音楽の実感から次の結論を得るがこれは本来証明不能の問題である︒それは音楽を本質的には表象となり禅ないものの表象として.直接には決して表象されえないAく自亘丘VのA﹄蚕呂匡匡Vとして砿認するからである︒即ち︑︲結論は次の通りである︒個々の具体的な蛎物の表現を通じてイデアを認激する邪が音楽以外の芸術の目的であり︑それ故他の芸術は全てイデアを通じて間接的に﹁意志﹂を客体化したが︑音楽は﹁意志﹂そのもの︑物自体の直接の容体化︑模像A少g旨Vである︒即ち汗楽は物自体の直接の客体化としてイデアと同列︑現象界すべてと同列である︒それ故︑イデアが個体化の原理八卑冒o言ご言昌く己匡島︒ご厨Vによって発現した多様性の現象界が存在しないとしても音楽は存在する事が出来る︒そして音楽もイデアも同一の﹁意志﹂の発現であって識発現の仕方が違うだけだから︑この二つの間には楯の裏表の級に平行現象が存在する︒即ち和声の四段階︑パス・テナー・アルト・ソプラノが自然界の四段階︑鉱物界・植物界・動物界・人間に対比し︑段間声域のソプラノのみが旋律の荷い手となり僻る聯が︑人間のみが﹁意志﹂の現象界への発現の故間段階として知性八冒篇房蚕Vをもつ躯に照応し︑旋律が基底音より出て再び韮底音に蝿る事実が人間の欲望と充足の関係に照応する様に︒要するに自然現象︑輔神現象を含めて現象界のすべての事象は︑音楽と照応す

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る︒それ故に現象界︵自然︶と汗楽は同一の耶柄の二つの全

く異った表現であり帝楽は世界の表現として蛾尚の將珊譜

八豊鴇邑凰蔚讐39①Vであってそれ故世界を形象化された

音楽とも形象化された﹁意志﹂と呼んでも差しつかえない︒

然し青楽が現象界の個々の躯象を説明すると言うのはあくま

でも音楽が︑物自体の棋像として︑現象に対して物自体とし

て︑形而下のものA1閉勺ご鰹開冨Vに対して形而上的なも

のA含め富里gご爵呂のVとして︑個々の物に対して普遮的

なもの人愚い崖一鴇目国鳥Vとして普遮妥当性があると言う

に過ぎない︒それ故音楽と現象との関係は普城概念と具体例

の関係に似ているが︑音楽の普刈性と概念の普遡性との相述

は︑Ⅲ者が個々の典体的小物の観照により縛られる︑蛎物から抽象された外面的形式であるのに対して後者はイデアで

あり形象に先立つ躯物の内的実質である点に存する︒スコ

ラ哲学の剛語によれば事物は人屋三く禽閻冒冒恩V概念は

人目ご図箇冒冒牌尉目V音楽はA目弓の刷匙置昌厨忌日V

である︒人が音楽に身振りや言葉を加えて形象化を計り逆に

詩を歌として又は身募りを伴う目に見える表現として或は二

つをオペラとして音楽の力を借りる事により表現力を豊かに

する事が可能なのは上述の関係から説明がつく︒然し劇の進

行に音楽が如何に豊かな淡現を与えようと︑物の秘密な意味

を音楽が内部から解明する級に見えようとも︑音楽と形象と

の結合は何ら内的必然性をもたず︑音楽は形象や概念の力を かりずとも完全な麦現力をもつ︒

シヨペンハウェルの脊楽災学は﹁意志と表象としての世界

﹂一︑二巻の二箇所に芸術愉の一部として掲紋されていて大

部分が吉楽と現象界との平行現象を挙げたもの︵二巻は全部

その説叫︶で︑要点は上述の邪項に尽きる︒芸術倫の総成

は︑建築︑彫刻︑絵画など造形芸術から始まり︑中間に文学

を︑文学の中でも叙事詩を妓初におき杼惰詩を妓後におき︑

芸術論の妓後が音楽治である︒この配列は彼の哲学体系に従

っており︑終りに行くほど﹁意志﹂の高次の発現段階となっ

ており︑造形芸術はイデアの棋象として仮象であり︑仮象へ

の意志なき観照により人間は一時的に矛盾に充ちた﹁意志﹂

の世界の苦悩から解脱出来るとされている︒この芸術の分類

と序列は﹁悲劇の誕生﹂でも蹄襲される︒﹁物自体﹂も﹁意

志﹂も理解し難いが︑音楽の呪象界に現われるには余りにも

純粋な光の嫌な象徴的性絡は﹁物自体﹂と言う茜葉で理解出

来る︒ニーチェもワグナーもシヨペンハウエルの哲学の全体

系に共鳴したが︑雌も心を打たれたのが音楽論だった︒次に

ワグナーの﹁ベートヴェン論﹂によって音楽および音楽家の

本質を翼に考えて行きたい︒この論文はベートーヴェン生誕

百年記念︵一八七○年︶に書かれたもので︑シヨペンハウェ

ルの理論を援用して発展させたものである︒ニーチェは﹁悲

劇の挺生﹂を書くに当りショペンハウエルの音楽美学やワグ

ナーの楽劇に影響を受けたのは当然だが︑直接に触発された

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のは﹁ベートヴェン総﹂によってだった︒その邸は﹁怨劇の

誕生﹂の中で三箇所も﹁ベートーヴェン論﹂に触れているの

でも解る︒︵十六章﹁リヒャルト・ワグナーに捧げる序筒﹂

﹁般初に計画されたリヒャルト・ワグナーヘの序菖﹂︶な

お︑ショペンハウェルの規定した帝楽の形象に対する関係か

らニーチェのディオニソス的芸術能力のアポロ的芸術能力へ

の関係が純粋に理論的に描き出せるがそれは﹁悲劇の誕生﹂

の項で述べる︒

三ワグナーの﹁べlトーヴェン論﹂

ワグナーはシヨペンハウェルが斉楽を表象不可能なものの

表象としてその本質の解明を断念した所から出発した︒ショ

ペンハウェルが﹁意志と表徴としての世界﹂で残した思考材

料を使って音楽の分析を試みた︒シヨペンハウェルの背楽が

パレストリナの青楽の棟に九天の尚さから超絶肴として現わ

れるならば︑ワグナーの音楽は地上の人間の内面意識にそ

れに呼応する審楽的世界を砿認する深脳心理学的試みであ

学︵︾︒

シヨペンハウェルによれば意志なき観照により認識するイ

デアは物の本質でなく接近を示すに過ぎない︒それ故我々が

物自体に対し他の接近方法をもたなければそれは永遠に不可

解な謎である︒然るに認識主体である人間は︑個物でありそ

れ故自然の一部である︒個物は﹁意志﹂の個体化原理による

現象界への客体化として︑それぞれ﹁意志﹂を分与されるが

人間は唯一の認識者として自意識八牌胃庁冨葛匡障総冒Vの中

に﹁意志﹂の姿Ⅱ自然の本質を砿得出来る︒所でショペンハ

ウェルは別の所でイデアが意餓に上る条件として﹁意志に対

する知性の一時的優位︒生理的には︑蝋梢昂恋の全くない大

脳の観照活助の尚揚﹂を挙げ︑更に人間の意識には二面があ

り︑一つは自分自身に関するもの即ち﹁怠志﹂︑他の一つは

事物についての意識︑即ち外界の観照的認識であり意識の一

面が活釛すれば他面の機能は低下すると述べている︒ワグナ

ーは前者と後者を結合して推論する︒音楽の概念は観照的認

識の対象でない事はシヨペンハウェルの美学で明かだから意

識の別の面︑即ち内部意識に源をもつ筈である︒次にワグナ

ーは音楽と内部意識との関係を明らかにするためシヨペンハ

ウェルの﹁明視現象﹂八田農用言国Vの仮鋭と夢の理描を援

川する︒我々の閲常の鯉めた意搬の下では︑意志の活動する

閥の世界は漢然と感じられるに過ぎぬが︑白展夢でば内に向

いた愈撤が明視の能力を御てそれと川時にこの夜の枇界の底

から青楽が﹁恵志﹂の波接の表明として意識に立昇って来

る︒︵S︶︒この胸理現象からワグナーは︑現実の枇界と夢の

世界とを含む可視的世界八厘︒三冬農Vに並行して聴覚を通

じて認識出来︑音によって表現する音響世界人砕冨二毛農V

を内部に想定する︒夢の世界が日常の可視的世界から遮断さ

れた所で夢の機関八弓国匡目胃彊︒Vと言う大脳活動を経て内

面意識から意識に知覚される様に︵S︶音響世界も同様の

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機柵を経て聴覚に斉らされる︵w︶︒不安な夢から我々は叫

び声とともに醒める躯があるが︑この事こそこの世界の存

在を暗示するものであり︑叫び声は﹁意志﹂の段も確かな

表明である︵w︶︒夢の機関が外界から刺戟される事なく専

ら内面意識により活動する以上我々とこの世界との関係は

理性的認識の形式︑空間・空閥・因果律の適川を受けない様

に︵S︶︑音響世界も物自体の世界故︑直党的に理解される︒

︵W︶︒外界から青楽が聞える時︑人間の内奥からの叫びの反

響と鵬じられ内界は外界の﹁意志﹂の高菜を瓶ちに理解する

のはこの故である︒育楽の効果の直砿性は他の芸術︑特に造

形芸術と比べると一層明瞭になる︒仮象の光に照らして見る

時︑眼前に拡る外界は我々の内面意識に全く無関係な存在に

見えるが︑我々が意志なき観照に沈潜すると仮象の迷妄は消

え︑物の客硯的性格︵イデア︶が現はれる︒造形芸術は仮象

との遊戯を通じて仮象に包まれたイデアの姿を示す小にあ

る︒それ故に造形芸術では純粋な意志なき捌照の〃かな安ら

ぎを得るためには︑観照者の﹁意志﹂と対象との関係を弛緩す

る事が必要である︒然し︑仮象の観照によりイデアを認識す

る高等な遊戯も決して物自体を示すものではない︒︵SⅡw︶

以上でワグナーの内面意識と音楽を結びつける操作の第一

段階が終る︒我々が音楽を耳にする時︑それが外界にありな

がら我々の内奥に初めからあったものを遥かに遠い所から喚

ぴ起す作用を実感出来る叩からも︑この閥係はうなづける︒ この悠覚は一秘の肉体的な感覚である︒ワグナーは︑この関係をより具体的に見るため﹁創造の笠感に葱かれた音楽家﹂の状態を﹁創作する造形芸術家﹂の状態と対侭して考える︒

造形芸術家の場合︑鑑賞者と同様創作に先立ち対象の意志

なき純粋な観照が必要であるが斉楽家にはこの様な硯照によ

りイデアに商めるべき対象がない︒帝楽自身が肚界のイデア

で遡識を経る小なく表引されるからである︒迭形釈では観照

により沈黙させられた意志が汗楽家では辨刈的愈識として覚

醍する︒棚者では深い沈黙が後者では意志の昂揚がある︒前

者では個体の中の﹁意志﹂が対象の純粋な観照を経て始めて

個体の枠を破る事が出来るのに対して後者は始めから個体性

の枠を起えて出現する︒世界が聴覚を通じて音楽家の中に侵

入する︒現象の世界の個体の束縛の破砕は︑背楽求の中に比

頚のない桃惚状態八両×愈陥Vを喚起する︒彼は枇界のイデ

アを負う者として慌惚たる明視状態八・国圃扁冨昌号﹃雷里︲

厨言冨釘斎再Vに陥るが覚醗とともに個体化の枇界の惨めさ

を味わればならぬ︒この明視状態で音楽家が軽験するものの

内容は確認するのは困難である︒深い眠りの中の夢が﹁夢

の機関﹂の媒介により覚醒直前の讐職的な第二の夢人口胃

農凋自胃胃司国匡gVに置換されて醒めた意識に移行する様

に﹁意志﹂は自己の姿を鏡に映すため第二の伝達機関を設定

する︒それは一方では内面に繁るとともに外界とは音轡と言

(8)

う唯一の交感的伝達作用で繋っている︒音楽家がその言葉を

語る事の出来る︑この第二の夢の状態の性質は我々の日常経

験から類推出来る︒即ちそれは音楽をきく時の効果と同じで

外界に目は向けられながら視覚は弱まり何も見ていない白墨

夢の状態である︒この第二の夢の状態から背楽家は如何にし

て外界と繋がるかは﹁夢の機関﹂から類推出来る︒夢の表象

能力に相当する音響世界の言語能力は単純な叫びから和音の

戯れまで幾段階もあるが︑音楽家はこれを使って内部の夢を

外界に理解出来る形で伝達するためには讐峨的な夢と同様に

覚醒した意識の表象に接近しなければならぬ︒その際︑音楽

家は伝述の外的契機として時間の我象のみに触れて空間の表

象には触れない︒脊楽の本質は空間時間にも腐さぬ和声であ

るが背楽家は現象世界からリズムを借り︑瀞のリズムによる

調整により音楽は可視的・形象的世界と接触する︒リズムは

舞踏の本質であるがリズムの音楽に対する関係は光の物体に

対する関係で物体による屈折がなければ光が見えない雛にリ

ズムがなければ音楽は認識出来ない︑和声とリズムの接点上

に音楽の本質がある︒

以上のワグナーの考察は︑次の二点に築約できる︒

I﹁物自体﹂の世界は人間の内部にもある︒この世界が

音楽家において発現する場合︑自我意識を解体して宇宙的生

命との合一職を与える悦惚状態を生ずる︒

Ⅱこの洸惚状態が外界の形象的なものと結合する事によ り︑始めて形を整えて現象界に現われる︒逆に形象的なものに結合せねば発現できない︒

この二つの結講は︑ショペンハウェルの青楽の規定を定理

とすれば系の如きものと言えるが︑ワグナーが音楽の世界を

人間の内部意識に導入した功級は大きい︒﹁音楽﹂に対して

﹁音楽的なもの﹂﹁音楽の騎神﹂又は﹁ディオニソス的なも

の﹂と週換えて見ればニーチェの発想に通じるからである︒

ニーチェは古典文献学研究を通じてギリシャ糟神史のうちに

﹁音楽的なもの﹂の底流を見た︒そして一括してディオニソ

ス的なものと呼んだ︒ディオ一ソス的なものの作用は音楽の

作川と側一の法則に従う︒それ故我々は︑右の結為で﹁悲劇

の拠生﹂を解く鍵を僻た小になる︒後は方秘式を解かねばな

らない︒然しニーチェは彼雑な多元方秘式であり未知の因数

は多い︑既知のものを代入して解くより方法はないのであ

︾︵︾○四ニーチェの﹁悲劇の誕生﹂

﹁悲劇の誕生﹂は建解である︒原因は歴史的叙述と本質論

の交錯︑十五章までをギリシヤ悲劇精神の発展解体史に十七

章より二十五章迄をワグナー楽劇の解明と自然科学的Ⅱ実証

主溌的十九世紀文化批判に当てテーマが分裂した柵成上の難

点︑ショペンハウェルの形而上学概念の使州とそれからの無

意識な逸脱︑逆に論理的整合性を守るための思想の不自然な

歪曲︑用語の混乱i例えばアポロ的なる言葉で︑三つの異る

(9)

概念を指す如きl論争癖による本筋からの逸脱︑自ら﹁自己

批判の試み﹂で述べている級な非諭理など挙げられる︒然し

本質的な困難は思想そのものの把え難さにある︒−1チェは

悲劇の象徴的世界を﹁おそるべき深さをもたない美しい我面

はない﹂人口扇壹胃含のm1R三思冨〆巨邑異隠一普鼻︾Q農

$宍凰己の乏農号四津開きα月司霞呂①︒写扁凰胃闇冑屑天屋呂の

弓詩詩凰言Vと言う確信の下に二枚のレンズの組合せによっ

て分析して見せるが遂には象徴的世界を象徴的に語らざるを

得ない︒然しそれにも拘らず我々は一一Iチェの言う所を直覚

的に理解してここではある確かな事が述べられている事を盛

じる︒悲劇的なるものへの感覚は人間性に深く根差している

からである︒ツァラトウーストラを完成したニーチェは十七

年伽の自作を評して﹁自己批判の減み﹂の中で﹁その問題性

にも拘らずあらゆる悪い意味で処女作﹂と述べているが﹁悲

劇の誕生﹂の含む問題は︑十九世紀ヨーロッパの精神史から

見ても必然的に起るべくして起った問題であり︑歴史的時点

一八七二年lも︑必然性を感じさせる︒合理主義的Ⅱ実証

主義的潮流のもとに鱒蔵していた精神がニーチェを機に爆発

した感があり︑その影響力は実体も解らぬまま世紀を越えて

今日にも及んでいる︒

今﹁悲劇の誕生﹂の問題を二点から要約する︒一つは︑ニ

ーチェの人間存在の悲劇性の思惣であり︑もう一つは既に

三︑四で見た音楽輪の発展である︒ ⑪ペシミズムⅡ悲劇精神︸一Iチェは﹁自己批判の試み﹂で﹁悲劇の誕生﹂の問題は

﹁強者の為のペシミズム︒溢れ出る紬服からの︑存在の充実か

らの︑存在の困難なもの︑戦傑すべきもの︑悪しきもの問題

のあるものへの愛︑過剰の悩み︑自らの力を試す躯のⅢ来る

相手として恐るべきものを求める鋭い眼差﹂であると述べて

いる︒二lチェは古典文献学の研究から﹁ギリシャ的明朗性﹂

A9員三思富国昌男冨騨Vの底に潜むギリシヤ人の悲劇精

神を発見した︒オリンピアの澄明にして典雅な官能に充ち溢

れた神々の世界の基底にもこの仮像の世界の不協和なもの

入局のロ厨冨﹃ョ呂厨号①V醜悪なもの人Sm頭農胃胃Vの認

識︑個体は滅びねばならぬと言うシレヌスの知慈ディオニソ

ス的認識があり︑それにも拘らずそれを巡命として受け入れ

る悲劇輔神がギリシャ人の巡命に対する根本的態度であると

言う︒ニーチェによって蘇生したギリシャ悲劇粘神はM時に

十九世紀の時代糟神たる自然科学的Ⅱ合理主義的Ⅱ楽天的人

間観に対する反措定である︒エウリピデスによる悲劇の抹殺︑

ソクラテス的﹁理論的人間﹂八号﹃昏8号胃胃冨呂開毒V

の出現︑新アッチカ喜劇の現世利益的幸福の追求など悲劇精

神の解体を述べる件りでは我々はその口吻に時代精神に対す

る鋭い批判を感じる︒人間を意識と物質に還元する科学精

神︑知識によって一切を救済し得るとし︑認識主体としてあ

らゆるものを無理に客体化する合理主装的糖神︑生の超越

(10)

的︑形而上的救済を理解出来ず平面的に無制限に肯定する楽

天思想は︑ニーチェにとって典の堕落に見えた︒︵この時代

批判は﹁反時代的考察﹂の四つの論文ではっきりした形をと

る︒︶悲劇は人生肯定の妓間の形式である事︑生は一度死を

通じなければ肯定されないと言うのが彼の根本認識である︒

ニーチェの表現によれば﹁科学を芸術家の光学で見︑芸術を

生の光学の下で見る﹂八皇の言厨認雪段富津二三閏邑曾○胃弄

烏︑穴冒降行厨昌綴胃旦昌の宍匡邑降蝕冨﹃巨昌禽旦曾烏い

原胃易Vのが遮本的態度である︒彼が芸術による生の救済

を考えたワグナーを理解したのは当然である︒ニーチェのペシミズムはシヨペンハウエルにより鍵はれた小は碓かだが

﹁意志﹂なき観照により永遠の苦悩より解脱する諦念的ペシ

ミズムはニーチェのそれとは本質的に異質であり﹁悲劇の誕

生﹂の後半では既に明らかにシヨペンハウェルの世界からの

離脱の傾向が見られる︒

②アポロ的およびディーオニソス的芸術象徴又は音楽

の糖神人︒g鼻骨﹃言扁弄V

﹁悲劇の挺生﹂一六莱でニーチェはシヨペンハウェルの帝

楽美学とワグナーの﹁ベートーヴェン総﹂から触発されて︑

この二つの対立概念の蓉想を僻たと述べている︒既に三︑四

章で見た結果から次の定義を立てる小がⅢ来る︒

Iディオニソス的なものA烏のpご昌爵gのV

﹁意志﹂︑音楽の精神︑解体的なもの︑陶酔の世界

Ⅱアポロ的なものA・勝鈩冒雲凰閣篇V:

﹁個体化の原理﹂︑造形的鞘神︑形式を与えるもの︑夢の世

然し︑シヨペンハウェルでは単に形而上学的概念に過ぎなか

った対立概念がニーチェでは生活の腺理であり美的原理で

もある︒それらはニーチェにおいては﹁自然の芸術衝動﹂

A旦胃閑匡易寓19号﹃z異胃Vとして人間性に備ったもの

として肉体化しているため理解し易いが︑その作用はシヨペ

ンハウェルの﹁意志﹂の個体化の服理による発現と荷う形而

上学的巡助法則に依存している為︑必ずしも現爽の芸術現象

に完全には整合しない︒その点ではシヨペンハウェルの災学

も側械で舷も性絡の明確な青楽の場合が蚊も成功し︑雌も多

面的で現災の世界と密着し中間的立珊にある文学の規定が蚊

も腰昧である︒さて二つの脈理の結合の千変万化の姿は︑ギ

リシャ悲劇の発生から解体に至る様々の形態の説明として随

所に見られる︒主なものを挙げるとホメロスの叙事詩に対す

るアルキロコスの杼傭詩︵五六︶コロス︵八︶エウリピデ

ス︵一二︶更に刺半の要約として比鮫的に体系的なニハ章︑

ワグナー楽劇の印象を述べた二一︑二︑四章がある︒いま二

つの芸術脱理の迎勤法則を要約して述べる︒

ディオニソス的芸術能力はアポロ的芸術能力に二師類の力

を及ぼす︒

Iディオニソス的普適性を形象化する様に刺戟する︒

(11)

Ⅱかくして得られた形象に深い意味を与える︒

この迎勤法則は三単で述べたシヨペンハウェル帝楽災学の

結論および二束のワグナーの音楽論の結総の二︑そしてより

根本的にはショペンハウェル形而上学の埜本概念からの論理

的帰結である事は言うまでもない︒然しディオニソス状態は

いつも音楽に媒介されると限らず一般的なものであり︑ニー

チェはこの概念をショーペンハウエルやワグナーより拡大し

た︒それ故右の連動法則が普迦妥当性をもつか検証の必要が

ある・ニーチェが自然のディオニソス的衝動としては︑春の訪

れに際しての歓喜や麻薬による陶酔を挙げているが︑今更に

拡大して考えれば呪術によるもの︑揃側やヒステリーの発作

など胸理的なものから通術人の心理としては死への衝勤や性

衝動が挙げられる︒この様な広汎なディオニソス的衝動の表

現としてディオニソス的芸術が如何なる形でD←A逆勤を完

成するか︑果して本当に完成するか否か︑又D←A形態の芸術

が如何なる効果を与えるか検す必要がある・ニーチェは︑ディ

オニソス的Ⅱアポロ的芸術として音楽︑杼悩詩︑舞踊︑その総

合として悲劇やワグナーの楽劇︵DⅡA︶純粋にアポロ的芸術

犀︶として絵画︑彫刻︑叙事詩を挙げる︒これらすべての

芸術の自然の埜底からの形成過私を全部は検証出来ないから

今代表的なものをとって考紫する︒コロスの挽明︵八︶楽劇

弱の印象︵一二一面︶からDⅡA芸術の椛造をニーチェから

再椛成する︒. ギリシャ悲劇は周知の如くディオニソス祭礼のディテュランボス合唱歌から生じた︒このコロスは悲劇を現実川界から遮断し詩的自山を確保する﹁生きた壁﹂であった︒この間術次元と異る虚椛の自然状態の中に虚柵の自然的存在者を瞳き︑象徴的世界を構築する︒自然的存在者とはサチマ︷ロス即ちコロスの一員であり本源的自然力の象徴︑人間の脈型である︒この象徴的気分の中でサチュロスがディオニソスの知慧を語りコロスが和して歌うやコロスは忘我の境八号﹃一騨冒︲員買曽の圃扁冨且Vに陥り自分が変身し甦った自然の精となった幻覚に陥り︵D︶間分に代って自分を波戯するヴィジョンを自分の外部に求める衝動をもつ︵A︶・ギリシャ悲劇はこの自然現象を模倣した︒悲劇の尖体はコロスⅡ泄存にあり︵D︶ディアロゴスはコロスの峨胎より生じたアポロ的仮象である︒このアポロ的仮象はホメロス的明噺さをもつがディオニソス世界のアポロ的象徴の中間世界︵DⅡA︶として︑アポロ的仮象の安らかな観照︵雄︶とは完全に異る︒楽劇の印象ではこの考察が更に徹底する︒中間世界︵DⅡA︶ではDはAに従属する如く見えるが妓終的には︑AはDにより否定される︒ドラマの世界舞台上の世界は音楽の糖神により比類のない表現力を得︑観審は平耐視力でなく内部を透視する異術な視力の拡大を経験するが︑側時にドラマの個体の世界の破滅を希う矛盾した気持ちがある︒脊楽の粉神によって翼を与えられた中間世界は︑そのアポロ的仮象のヴェールの奥を

(12)

見る事を観客に誘いかける一方︑そのあまりにも強い明度の

ため観客の目を眩惑して見る事を拒否する︒観客は見るとと

もに見る事を越えて髄れねばならず︑この併存八邑賠Z?

席画凰愚且RVが悲劇の体験である︒かくしてアポロ的なも

のは再びディオニソス的なものにより克服され円理は閉ぢら

れ︵D←A←D︶背楽の梢神による個体の世界の迩波と破域

の遊戯のうちに悲劇が完成する︒五結びl音楽と言葉l

最後にニーチェの思想を散術して述べる︒

我々の存在の知覚の中には生きる意志と生を求める意志が

ある︒我々は激しく生きる事を望むとともに何物かによって

我々の存在が否定される事を願う︒この矛盾した心の働きは

然し別々の物ではない︒我々は深く生きる事を欲する故に死

を望むのである︒死を通じてのみ生が得られ︑死の中にしか

生はないのである︒それではその何物かとは何か︒それは自

己を越えたあるものである︒それは我々に対立し成々の個我

を否定する︒それは認識する躯が川米ないが閲党する小が出

来る.我々は行為の瞬間に内部で何物かが死ぬのを感じ︑そ

の郡に必然性を感じ納押する躯が川来る︒それを我々は迎命

とも全休とも名づけてよい︒燗は全休に遡らねばならない︑

そしてそこから我々は再び雄える︒この棟にして円環はとぢ

られ行為は完成する︒生から死へ︑死から生へ︑本源に向っ

ての求心運動と遠心運動が人間の悲劇的存在としての本質で

あり︑存在の両極への糖神の運動が行為する人間の本質であ

る︒そしてこの行為の有効性を保証するのが本源への復帰で

ある︒知的ソクラテス主疑は腿識する人間としてあらゆるも

のを客体化し人間をも認識の対象として物賀と怠織に還元

し︑それを再椛成して社会化した︒自らがあらゆる折の主体

なろうとする努力の中に根源的なものすら対象化して通に人

間の主体性そのものの危機を招いた︒この様な状況から人間

性を恢復するには再び生に州るしかなく︑それは科学的認識

によってではなく芸術的行為による︒芸術は行為であり︑本

源に向う創造的行為を日常次元と別な象徴的世界でより純粋

な形式で行う演戯だからである︒そしてその妓高の形式とし

て音楽の精神に基く悲劇が与えられ︑生と死の二つの極の問

を激しく飛翔する精神の巡勤の中に人間の偉大さが成就す

る︒

以上が一一lチェの﹁悲劇の誕生﹂に表はれた思想の核心で

ある︒

次に芸術企てのもつ象徴的性格と箇語芸術の性格を述べて

結びとする︒

芸術の本質は人間の行為の本質であり根源的生命への復鮒

と再生の歓びを現実と異る理想的な場で一層純粋な形で行う

邪である︒観客は或いは芸術の鑑賞者はその人間としての全

感覚を挙げて芸術に参加する事を要求され自らの内的生命

︵D︶の自然の発露である登場人物︵A︶の苦悩と破滅の演

(13)

61

戯に恐怖と哀憐の慨を感じると共に深い喜びを感じる︒その

性質は迦徳的生理的なものでなく︑更に深い美的形而上学的

慰癖である︒そしてその際︑形象の世界の志向するものは背

後に拡がる不可知な間の世界であり形象の光の照らし出すも

のは間の深さであると共に周囲の間の世界の深さが形象の光

を際立たせる︒形象の師きの明度と間への志向を保障するの

は︑間の不可知性である︒芸術がある全体を志向する連動で

あるならそれはこの様な形象をもって語らねばならない︒そ

してこの様な形象は象徴である︒ワグナーⅡニーチェに於い

ては音楽や悲劇が中心になっていたが芸術は全て根源的なも

のを志向する限り象徴的である︒我々の経験に照らすならば

我々は物や人間や自然の背後に存在を感じる瞬間があり︑言

莱も人間の深部から現れる確かな存在である事を感じる︒ニ

ーチェはアルキロコスの杼梢詩についてそれが音楽的気分か

ら生じ︑文体も語莱も脊楽を模倣して極度に緊眼している邪

を指伽した後文学に脊楽を棋倣する杼愉詩︑形象を棋倣する

叙聯詩の二つを区別する︒言葉は即物性︑物質性︑形象性の

故に帝楽と造形芸術の中間に位瞳する︒叙事詩は散文の発達

とともに解体し︑小説や批評に吸収された︒然し散文や小説

の中にも我々は芸術の象徴性を見る事が出来る︒小説の登場

人物は悲劇の主人公と同様作者の精神︵D︶の分身︵A︶で

あり︑その象徴性ゆえ人間の典型となる︒又散文に於ても唯

一つの思想を言い表す為多くの技法や織造が必要であり︑言呑︲ 葉は中心を目指して無根の循琉速勤をする︒散文の精神も詩の鞘神を核とするものであり絆に象徴派文学では詩の糖神は批押梢神だった︒ニーチェによって音楽を桃倣すると規定された杼仙詩の分野ではこの祇後時的簡譜を定立する象微派文学遮動が起った・言莱は︑背楽の椛成要莱である﹁背﹂と同様︑一鞭の物質であるが︑﹁音﹂の様に純粋物質としての性質のほかに﹁意味﹂をもち︑﹁音﹂と﹁意味﹂は不可分に結びつき︑その結果︑感党的諸要衆のほかに日常次元の複雑な諸要業を含む︒即ち︑感覚的要業としては︑単語の硬度︑粘着度︑文の抑揚︑旋律︑リズムなど﹁音﹂の性質︑色彩︑亜み︑輝きなど視覚的︑絵画的要糸があり︑﹁意味﹂の要索として︑言葉の事物への依存性︑指示性︑形象性︑叙述性︑そしてその結果として言莱の遊具としての役割︑伝達性と︑抽象性︑諭理性がある︒ヴァレリーの筒う﹁瞥通感党﹂A綿弓総︲三目匡昌蔚屈Vを目指して︑この様な困難な衆材から純粋な詩的苫語を創造する努力が象徴派の詩人によって朋始された︒然し︑象徴派の述助が単に脚然主稚の反描定として出現したのではなく︑ブローベル︑パルザックらによる散文騎神の発述の極にあらわれた一和の継承である事を忘れる事は出来ない︒一八六○九○年代には散文の精神と詩の精神が文学の世界に対極していたのであり︑この事は文学の正常な発達を示すものである︒ニーチェ自身言葉について意識的に述べる所は少いがその透徹した批評精神により比類のない散文

(14)

62

を残しいくつかの象徴詩を残した︒我々はワグナーⅡニーチ

ェの中にボーと同じく象徴主義の先駆を見る鞭が出来る︒ニ

ーチェと象徴派の人たちの親近性︑具体的影響の授受︑ワグ

ナーⅡニーチェの影縛力の測定については︑然し乍ら別の機

会に誠らねばならない︒

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︵一九六四年十一月稿︶

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参照

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