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インド生保史の概観

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(1)

インド生保史の概観

1

インド生保史の概観

祐 一 郎

         目     次   1 保険における開発途上国の研究   (1)現 状

  (2)意 義

  (3)インド生保業研究の意義   II インド生保史一国有化骨

。  (1)概 観   (2) 1913−1939   (3)1938年法   (4) 1940−1955

  111 インド生保史一国有化後   (1)国有化

  (2)国:有化の論拠   (3)国有化の成否   (4)課題と展望   IV 結 び

1 保険における開発途上国の研究

 (1)現   状

 一般的にみてわが国では開発途上国の生保業は,殆ど注目されていないようである。例 えば,『新生命保険実務講座』第9巻(1966)は,「外国事情」にあてられている。本書で は26ケ国(但し,沖縄を含む)が取りあげられているが,しかし,南アジア,南米等の諸 国は含まれていない。一方,アメリカとカナダ,およびドイツ,イギリス,フランス,イ タリア,そしてスイスを含むヨーロッパ諸国が全体の約70%の分量を占め,欧米への関心       (1)

が著しく高いことを示している。

 こうした関心の偏りは,われわれに等しく共通する欧米第一主義的精神構造もさること ながら,次のような事情によると思われる。まず第一に,保険業,ことに生保業では,海 外進出は,必ずしも重要な課題ではない。なぜなら,販路の拡大とか原材料市場の確保

といった意味に乏しい一方,金融機関としての重要性が外国企業に対する非友好的態度を 往々にして醸成する傾向を伴うからである。とりわけわが国の生保業の海外進出は,「地        (2)

元市場志向型」というよりも,「本国系市場志向型」とみられている。こうした事情のも、

(2)

 2

とでは,海外市場,ことに開発途上国の生保市場の解明は,実際的な価値を殆ど有しえな いであろう。

 第二に,わが国保険業が模範としたのは,いうまでもなく欧米であった。保険制度自体 が明治期以降にそこから輸入されたものである以上,専ら欧米に関心が集中されることは むしろ当然といえよう。一方,わが国保険業の進路決定や問題解決に際し,開発途上国の 経験が有益な示唆を与えることは,まず考えられない。かくして,開発途上国の保険業に 関する情報が,わが国では殆ど入手しえないことになり,それが今度は逆に,関心の乏し       (3)

さを一段と助長してしまうと考えられる。

 もとより,開発途上国への関心は,業界に劣らず学界でも乏しい。ここでも研究者の眼 は,専ら欧米に向けられている。保険業の現状把握には先進諸国の研究が必要である一方,

保険先進国では保険研究が盛んであり,それ故,参照すべき多くの理論があるζとが,こ        (4)

うした関心の乏しさを説明すると思われる。

 (2)意   義

 開発途上国の生保業への関心は,以上のように,きわめて希薄だといっても過言でない。

その理由を考えれば,ある程度は止むをえない面がある。しかし,全く無意味だともいえ ないだろう。では,開発途上国の生保業を研究する意義は,どこに求められるべきであろ うか。もとより,知的好奇心の充足は,それ自体有力な動機となろうが,しかし,ことさ らに開発途上国を取りあげる意義は,ヨリ大きな問題意識の中で,つまり比較(史)的研 究というフレームワークの中で捉えられるべきであろう。

 生保業の発展を規定する主要な要因は,経済一般の発展であろう。このことは,国民所 得の伸びが生保保有契約高の拡大に結びつくとの認識により一応は確認されている。しか しながら,詳細にみるとき,先進国とよばれる諸国の間においてすら決して国民所得と生 保保有契約高との問に一義的相関関係は,認められない。例えば,アメリカ,カナダ,日 本は,1976年度に生保保有契約高が国民所得の150%以上に達している。一方,イギリス,

スイス,フランス,そして西ドイ1ツは,いずれも100%を割っており,とくに西ドイツは 50%にすぎない。同じ先進国に属する諸国がこのように2つのグループに分けられること

をどのように説明すべきであろうか。

 問題は,生保業の発展に関連する諸要因を探り出し,それぞれの要因がどの程度のウェ ートで寄与するかを評価することでなければなるまい。ところが.生保業に関連する要因 は,実に多様である。思い付くままに列挙すれば,人口数,都市人口比率,老齢人口比率 など人口学上の諸要因,国民所得,ことに1人当り可処分所得とその分布,個人貯蓄,各 種金融機関の形態や活動状況,社会保障の発展度など経済的諸要因,家族形態と規模,伝 統的社会組織の残存状態,いわゆる国民性などの社会学的諸要因,そして保険:企業の形態

とその活動状況,国有形態の有無など,保険経営的諸要因などがある。しかも,これらの 要因は,いうまでもなく,歴史的経過の中で  大幅に,あるいは微妙に .変化する。

(3)

 インド生保史の概観      3 例えば社会保障の成立と展開が生保業にいかなる影響を与えたか,決して十分に明らかに

されているわけではない。

 生保業の発展に関連する諸要因の探査とその評価は,決して簡単な作業ではない。そし てこの種の作業では,2,3の先進諸国を取りあげるだけでは不十分であり,できうる限 り広くデータを収集することが望まれる。しかも,そのようにして収集されたデータの全 てが計量分析になじむわけでもない。むしろ1つ1つの国について生保業を社会・経済構 造の展開過程と関連ずけて把握するとの地道な作業の積み重ねが望まれる。開発途上国の 生保業の解明が,こうした比較(史)的研究の枠内においてとくに有意義であると思われ る点は,第1に,工業化の初期段階における生保業の発生についてデータを与えうること,

第2に,伝統的社会組織の残存が生保業にいかなるインパクトを与えうるかを明らかにし うることである。もとより上述のように,この点に関する研究は,皆無に近いし,データ の収集は,著しく困難である。それにもかかわらず,この種の研究の必要性は,否定され えないであろう。

 (3)インド生保業研究の意義

 インド生保史研究の意義は,開発途上国の保険業研究という一般的文脈の中に当然含ま れるが,尚次の3点において有益であろう。

 第1に,外国企業が早くから進出しているとの事実である。われわれは,これについて例 えばイギリス側の資料をもち,したがって,専ら進出した側の眼でみているが,一方,進 出された側の実情は,十分に明らかとはいえない。これは,保険業の海外進出の問題につ いて有益な素材を提供するであろう。もとより,インドはかつてイギリスの統治下にあっ        (5)

たから,イギリス支配の実態を保険業の面から明らかにしうるかもしれない。第2に,独 立後のインドは,いわゆる混合経済体制をとり,したがって,純粋な資本主義的発展とは 異なる特殊な要因をもつ。こうした状況の中でのインド生保業の展開は,生保業一般の発 展過程を考察する上できわめて有益であろう。第3に,損保業が依然として民営であるの に対し,生保業は,1956年以降,国営化されている。これは,生保業と国営化の問題につ いて興味ある素材を提供するであろう。

 本稿は,以上のような問題意識の下で展開されるべき研究の端緒を成す。しかしながら,

参照しえた資料は,わずかにG.R. Desai,五漉1η5〃プ〃z6θ加1η伽に限られる。そのため,

上記の問題点の展開が不可能であるばかりか,事実認定に関しても多くの不明確な領域が 残されている。むしろ本稿は,Desaiの紹介にすぎないが,インド生保史が殆ど知られて いない現状にあっては若干の意義をもちうるかもしれない。資料収集に努め,後日,一そ        (6)

う詳細な研究を期したい。

注(1)ちなみに本書で取りあげられた26ケ国を次のように分類してそれぞれがどのような比重で記述され   ているかを示してみよう。

   1 アメリカ,カナダ

(4)

4 II III

V

I II III

V

ヨーロッパ諸国(ドイツ,イギリス,フランス,イタリア,スイス)

オーストラリア,ニュージーランド

北欧4ケ国(デンマーク,ノルウェー,スウェーデン,フィンランド)

東アジア11ケ国 ソ連邦 総ページ数

112P.

205P.

 17P.

 28P.

 48P.

 43P.

国数

2 5 2

4

12 1

一国平均ページ数   56.OP.

  41.OP.

  8.5P.

  7.OP.

  4.OP.

  43.OP.

(2)塗明憲「保険企業の国際経営をめぐる諸問題」『保険学雑誌』462(1974),P.37以下.

(3)損保業では,再保険関係を通じて国際的性格が濃厚であるし,また海上保険のように,むしろ英国  の制定法,判例,慣習法が重要である種目すら存在する。一方,生保業は,貯蓄吸収機関としての性  格から,むしろ外国保険業者を排除しようとする性格をもつ。したがって生保業は,損保業に比べて  すら,著しく非国際的性格をもつといえよう。

(4)例外は,塗明憲氏の一連の論稿である。「イラン・パキスタン・トルコ三国間の保険に関する地域協  力体制一序説のイランの保険事情一」『近畿大学創立45周年記念論文集』(1971.3),「同,序説仁⇒

 パキスタンの保険事情」『商経論叢』42(1971.9),「同,序説国トルコの保険事情」『同』43(1972.3),

 「地域経:済協力における保険一RDCの場合一」『所報』(生命保険文化研究所)23(1973.4),

 「タイ国におけるわが国の保険企業」『同』29(1974.12)。

(5)本稿では外国業者についてはふれていない。Desaiの記述からは必らずしも十分にその実態が明ら  かにならないからであり,また,かれの引用する数字にも不明確なところがある。インドにおける,

 とくにイギリス保険業については,旧稿を期したい。

(6)以下,本文中に示したページ数は,Desaiのものである。

II インド生保史 国有化前

 (1)概   観

 インド生保業は,1956年の「生命保険公社」(Life Insurance Corporation of India, L.

1.C.)の設置をもって国有化前と国有化後に大別される。国有化前の段階は,1818年に始 まり1955年春終る約140年間を含むが,Desaiは,1818−1870,1870−1912,1913−1928

−1939,1940−1955の4期に細分している。1870年は,L.1. C.が1970年にインド生保業 百年祭を祝ったことに基づき,また,1912,1928,1938の各年には生命保険会社法が制定        (1)

されている。この時代区分は,必らずしも正確かつ適切とはいえないが,し かし,インド 生保業の実情に即して適格に区分しうる十分なデーダが手許にあるわけではなく,さしあ

(5)

 インド生保史の概観       5 たりDesaiの区分に従うほかない。とくに1912年以降を中心にみてゆくことにしよう。

また,この140年間の大部分は,イギリスの植民地支配の下にあり,その間の経済発展は,

純粋の資本主義経済の成立・発展に程遠い。したがって,英米の如く近代生保業の成立を 明確に画定することは困難であり,この問題は,将来の課題とせざるをえない。

 さて,インド最:古の生保会社は,1818年に主としてヨーロッパ人によりカルカッタに設 立されたOriental Life Assurance Companyである(pp.1−2)。 次いで1823年には Bombay Life Assurance Companyが設立された(P.3)。その後1870年までに,上記2 社を含め国内会社は合計8社が設立され,一方,1840年のUniversal Lifeを皮切りに,

イギリスを中心として多数の外国会社が進出してきた。1818−70の期間をとれば,進出外 国会社数は,12,一方,脱退した会社は,6社であった。このようにインド生保業は,ア メリカとほぼ同じ19世紀初期に始まっている。

       次の1912年までの期間にも,生保会社の設   第2・1表 生保会社数の推移

      立と外国会社の進出が続いた。この間におけ       る国内会社の新設は,合計58社を数え,一方,

      消滅した会社は,28社であった。また,外国       会社は,30社が参入する一方,21社が撤:退し       た。ところで,1818年から1912年までについ  注)外国会社は含まない。         ては,保有契約高等の数字は・不明である・

 出典)Desai・・P・cit・・P・6・Tablel・1・P・14・  また,生保経営の実態も明らかでない。もつ    Tabie 2.1, p.32Table 3.3.

      ともDesaiによれば,1818−1870の期間は,

「死亡率データを欠いたため,生保契約の引受けは,haphazardであった」とされている

(P.3)。その後1912年までの期間も,基本的には同じであったらしく,国営生保の設置 を要望されたイギリス政府は,死亡表の欠如,年齢に関する信頼しうるデータの入手困難,

そして死亡証明書の得難いことを理由に拒絶したという。さらに,「ヨーロッパ流の思考 に慣れ,工業都市に居住するわずかな部分を除いて,保険志向性(insurance−minded)は 欠けていた」(pp.7−8)。だから,科学的生保業を営むためのいくつかの前提条件も,生 保が広く普及するための社会的・経済的基盤も,大幅に欠如していたといえる。19世紀の 実情については不明な領域が多く,この程度で満足しなければならない。

 さて,生保会社の設立は,1913年以後に急増し,この年から1933年までの間に226社を 数えた。同時に,この期間には破産,精算等の運命に遭遇した会社も多く,78社に達した。

とくに1929−39の期間は,「1834−1868のイギリス生保史に匹敵する」程であった(p.40)。

 一方,1914年以降,新契約高や保有契約高に関する数字が得られるようになった。Desai は,1912年の数字をあげているので,それを最初の年として,その他判明している数字と あわせて第2・2表に要約しておいた。10年毎の保有契約高の増加率をみると,1912−20

=44.7%, 1920−30=173.0%, 1930−40=166.2%, 1940−50=196.9%, 1950∴一60ニ=

設立会社数 消滅会社数 1818−1870

8 3

1870−1912 58 28 1913−1928 50

18

1929−1939 176 60

(6)

6

第2・2表

 新契約高と保有契約高の推移     (単位:1000万ルピー)

新契約高 保有契約高

1912

2.1 21.5

1920

5.2 31.1

1930

15.7 84.9

1940

32.3

226

1950

139.0

671

1955 261 1220 ,

1960 498 2285 ,

1965 701

4,394

1970

1,035 6,425

出典)Desa量, op. cit., p.15, Table 2,3,

 p.32,Table,3.4, p.89, Table 9.1.

 p.133.Table 12.2

   「最近におけるインドの生命保険  事業の進展状況」 『生命保険協会会  報』37−4(1956.10),pp.54−57    「インドの75−6年度生保集計」

  ・『生命保険経営』45−5(1979.9),

 pp.158−9

第2・3表

 世界主要国の生保業の発展(個人保険保有契約高)

      (単位:100万ドル)

1955 1971 i1955=1.0)

指  数 ア メ リ カ

256,282 828,369 3.2

日     本

6,217 235,000 37.8

イ ギ リ ス

22,758 99,501 4.4

カ  ナ  ダ

19,344 61,β10 3.2

西 ド イ ツ

6,778 74,494 11.0

フ ラ ン ス

3,238 19,862 6.1

スエーデン

3,433 6,744 2.0

オーストラリア

4,056 28,459 7.0

オ ラ ン ダ

3,084 18,142 5.9

ス  イ  ス

2,278 8,687 3.8

イ タ リ ア 11,431

10,462 7.3

イ  ン  ド

2,361 11,103 4.7

ベ ル ギ 一

1,492 7,177 4.8

メ キ シ コ 458

3,939 8.6

出典)『生命保険経営』第42巻第5号(1974.9),p.147  第1表より作成。

240.5%,1960−70=181.2%である。1920年以降,保有契約高の顕著な増加が観察され,

年当りでは約10%から15%の増加率に達している。それ以前の期間との比較は不可能であ るが,会社数の推移とあわせて考えれば,1920年以降に急速な発展を開始したとの推測が 許されるかもしれない。

 ところで,以上からさしあたり次の2点を指摘することができる。第1に,インド生保 業が高い成長率を維持してきたことであり,これは,他の諸国に比べて決して低い率だと はいえない(第2・3表)。但し,・高い成長率がヨリ広い範囲への生保の普及を意味したか

どうか,問題が残る。Desaiは,この点にふれていないが,重要な課題である。第2に,

国有化の前と後では,成長率に顕著な差が見出されないことである。国有化に関しては,

それに伴う非能率が成長率の鈍化を招くだろうとの批判がしばしば加えられるが,インド の経験は,それに対して鋭い反証を提示している。この点も,慎重な検討を要する重要な 課題である。

 以下においては,1913年以降の状況をいま少し詳細に見ることにしよう。便宜上,1913

−1937と1939−1955の2期に分け,そしてこの2つの期間を結ぶ重要な出来事として1938 年法を述べることにする。

(7)

 インド生保史の概観  (2) 1913−1939

 第2・4表は,1915年から1955年までについ て,5年間隔毎に新契約高と保有契約高を示し ている。1915年を1.0とすると,1940年には新 契約高が14.0,保有契約高が9.0に達している。

また,1901年から1941年までの人口増と対比し た第2・5表からも、急速な成長を知ることが できる。すなわち,この間の入口が1.3倍増で あったのに対し,保有契約高は,28倍増を記録 した。それに伴い,1人当り平均保険金額は,

1901年=0.37ルピーから,1941年=7。81ルピー へと,21倍となっている(第3・6表をみよ)。

De謡は,同一時期のアメリカと比較して,「イ ンドの保険は,依然として揺藍期にあるが,し

       7 第2・4表新契約高と保有契約高の推移       (1915−1955)

        (単位:1000万ルピー)

新契約高 保有契約高

1915

2.3 22.8

1920

5.2 31.1

1925

8.2 47.0

1930

15.7 84.9

1935

31.6 146.0

1940

32.3

226

1945

136.0

462

1950

139.0

671

1955 261

1,220

出典)Desai, op. cit., p.32 Table 3.3,

  P.50Table 4.1, P.80より作成)

かし,発展のペースは,きわめて早い」,例えば,1人当り平均保険金額の伸びは,アメリカの 3.4倍であった,と指摘している(p.21)。この期間には,第一次世界大戦と世界恐慌とが発生

し,インド経済に大きな影響を与えたが,しかし,保有契約高の面では殆ど余波を被っていない。

 この期間は,順調な拡大を持続しえたが,その一方では,すでにこれ以前に発生してい た生保会社の乱設と崩壊という現象も依然として続いていた。これがインドで最初の生保 会社法をもたらした。1866年以降,生保業は「会社法」の下におかれていたが,これは,

生保業の規制には適していなかったといわれている(p.22)。そこで1912年,「地方共済組 合法」(Provident Insurance Societies Act)と共に,「インド生命保険会社法」(Indian Life Assurance Companies Act)が公布された。これは,国内会社および生保業にのみ適用さ れた。生保業に関する情報が得られるよ、うになったのは,本法によるものである。詳細な 内容は不明だが,1909年のイギリス生保会社法の線に沿っていたという。また,1928年に

第2・5表 人口,保有契約高及び1人当り平均保険金額の推移        (1901−1941)

人 口

保有契約高 1人当り平均保険金額

指 数 指 数 指 数

万人 万ルピー ルピー

1901

23,834

100

8,903

100

0.37

100

1911

25,201

106

20,102

226

0.80

216

1921

25,124

105

33,519

377

1.33

359

1931

27,887

▲113

93,958 1,055 3.37

911

1941

31,854

134

248,806 2,796 7.81 2,111

出典)Desai, op. ciも, p.19より作成。

(8)

 8

は,1912年法を若干の点で修正し,また外国会社と生保以外の種目とについての情報収集 を可能とする法律が制定された。もっとも,これは,規制という点では単なる「穴埋め」

にすぎないと指摘されている(p.17)。

 これら2つの法律が規制という点で殆ど実効を伴わなかったことは,その後会社設立の ペースがますます加速されたことからも明白である。1913−39の間に,すでに引用したよ

うに,226社の新規参入をみたが,とりわけ1929年から1937年までの9年間は,毎年,12

〜29社が設立され,総計では170社を数えた。一方,このうち吸収合併されたもの,26,

1930年代末までに消滅したもの,27であったから,死亡率は,3分の1に達した。

 生保会社の乱設は,当然,競争の激化を招く。Desaiは,次のように述べている。「問題 の期間中,多数の会社の設立が各社間に殺人的(cut−throat)競争をもたらした。新契約コ ストは,大低の場合,100%をこえた。全般的コスト(overall cost)は,28%から32%の 間を変動した。激しい競争に直面して契約を得るために指名されたSpecial Agents, Chief Agents,そしてManaging Agentsは,多くの会社には支え切れない負担であった。余り に多い合併,余りに多い破産,そして疑問のある投資,これはまさに憂慮すべき事態であ

り,背任行為と戦うための立法措置を緊急に必要とした」(p.22)。1928年創立のIndia Life Assurance Offices Associationの第9回年次大会(1937)における会長報告は,

Managing Agencyの廃止,手数料の制限,そして事業費の削減にふれている(pp.37−8)。

この発言は,規制の難しさや望ましくないことを訴えているが,しかし,そのことは,規 制を望む声がとくに政府に強かったことを示唆している。かくして,翌1938年に新たな生 保会社法の成立をみたのである。

 (3)1938年法

 1912年法は,生保会社の乱設や事業費の高騰といった幣害に有効に対処しえなかったか ら,新たな立法の機運が芽生えた。1937年に上程された法案は,「議会でも,業界でも,

そして広く一般に討議された。そして1938年に成立し,インドにおいてこの問題について 最初の真に包括的な法律となった」(p.22)。

              (2)

 1938年法の詳細は,当時の邦語文献に紹介されている。簡単に要約しておく。

 イ)供託金  生保=20万ルピー,火災保険=15万ルピー,海上保険=15万ルピー,災   害保険その他=15万ルピー,全ての種目を兼営する場合=45万ルピー,生保以外の種   目を兼営する場合=35万ルピー。

 ロ)保険監督  政府は,アクチュアリーの資格をもつ保険監督官を任命し,保険事業   全般についての監督権を委ねる。保険会社は,年次報告及び5年毎のアクチュアリー   報告を提出する義務を負い.一方,監督官は,不正,不完全な提出書類の棄却,帳簿   の検査,その他広汎な権限を与えられる。

 ハ)投資  生保会社についてのみ規定され,また国内会社とイギリス会社に関する規   定と,その他の外国会社とは区別されている。前者については,資産の25%以上をイ

(9)

 インド生保史の概観       9   ンド政府のルピー債券に,また30%以上をそれと類似の債券に投資することが要求さ   れ,一方,後者についてはそれぞれ33%%と66%%とされた。

 二)リベ「トの禁止,手数料の制限,代理人の免許制  手数料率は,生保以外につい   ては保険料の15%とされ,一方,生保では,初年度保険料の40%,および継続保険料   の5%とされた。

 ホ)非インド会社に対する報復規定  インド会社が外国で営業する場合,その外国政   府によって課される規制がインド保険法に規定される以上に厳格であるとき,当該国   よりインドへ進出した会社に対し報復的規制を課することになった。

 ハ)2年間の不可争期間の設定。

 ト)取締役会定数のうち4分の1以上は,加入者代表であること。

 チ)各種報告書の提出

1938年法は,注目すべき内容を有している。当時の批評として,「1912年法の改正を提唱 せる人々の期待以上に革新的である。実際,新保険法は,印度生命保険界に新しき方向を       (3)

指示したものと云っても過言でない」とされている。また,Indian Life Assuranee Of−

fices Associationの会長は,全般的印象として,「確かに,現状の著しい改善があった」と 評するとともに,保険監督官の設置は,「確かに必要であった」こと,リベート禁止によ

り「間違った慣行がチェックされるだろうと希望する」が,同時にその「実効は,会社自 体の行動に大幅に依存するだろう」と指摘するなど,詳細な吟味を加えている(pp.38−

40)。

 当時の外野構造や経営機構の詳細が明らかでないので,個々の点についての評価は,留 保するとして,二,三の注目すべき点にふれておく。まず,一般に「保険監督主義」は,

公示主義,準拠主義,そして実体的監督主義に分類される。いうまでもなくイギリスは,

      (4)

公示主義の典型を示し,1912年インド生保会社法も,イ・ギリスに「極めて近似せる、」内容 をもった。一方,1938年法は,「英国流の自由主義公開主義の流れを汲みながら,重要なる        (5)

点に於てはカナダ法に倣って」いるとされる。すなわち,公示主義を基調としながらも,

生保監督官制の設置に象徴される如く,著しく実体的監督主義に傾斜したと考えちれる。

      (6)

その点,カナダの場合と同じであった。

 監督主義の基調の変化は,「料率戦争」,「経費高」といった,インド生保業の混乱を反 映していた。1938年法の意義は,業界代表者ですら認めざるをえなかった程に乱れていた 実態を,もはやイギリス流の公示主義をもってしては規制しえないことを明示したことに ある。生保監督史の観点からみても,1938年法は,看過されるべきでない重要性をもつ。

さらに注目すべき点は,本法が全種目を一応対象としながらも,生保業に対しては殊更に 厳格な規制を加えていることである。これは,要求される供託金額に示されている。もと もと,リスクの性格からみれば,生保が海上保険より安定度において劣ることは考えられ ない。それにもかかわらず,生保について最も高額の供託金が要求されたことは,生保経

(10)

 10

営の安定性が最も劣るとされたこと,しかも,その原因がリスクの性質に求めえない以上,

むしろ経営の実態にあることを示している。実際,会社数の増減からみれば,損保会社に 一      (7)

は殆ど変化が認められない一方,上述のように,生保業には乱設の弊害が顕著であった。

実体的監督主義を最も早く展開したアメリカでも,対象となったのは生保である。このよ うにみるとき,1938年半は,生保業の性格を如実に示しているといえよう。

 (4) 1940−1955

 この期間も,生保業は急速な発展を記録した。すなわち,1939年の新契約高,4億2500 万ルピーは,1955年には26億1000万ルビ』へ,保有契約高は,21億5000万ルピーから98億 ルピーへと,それぞれ6.1倍増と4。6倍増であった。1人当り平均保険金額も,同じ期間 中に,7ルピーから27ルピーへと上昇した(p.48)。1951年の生保についてDesaiは,ア メリカと比較して次のように述べる。「1人当り平均保険金額は,21ルピーであり,1人 当り国民所得は,266.5ルピーである。平均保険金額当りの平均年間保険料は,約1ルピ ーである。かくしてインド人は,毎年,それが得る266.5ルピーの中から保険のために1 ルピーを節約する。かれは,少なくとも所得の10%を,つまり26.65ルピーを取っておく べきであった。そうしておれば,保有契約高は,2,038億ルピーになっていただろう」。一 方,同一時期のアメリカでは,1人当り国民所得は,1,880ドル,1人当り平均保険金額 は,1,129ドル,そして年間保険料支出は,56.5ドルであった。保険料支出をベースとす れば,「アメリカは,1951年にわれわれの80.1倍であった。以上から,1入当り国民所得 に対する1人当り平均保険金額の割合が,インドでは7.9%,アメリカでは60.1%,また 1人当り国民所得に対する保険料支出の割合が,それぞれO.38%と3.01%であったことが 分る」。これが国有化直前のインドの生保業であった。著しく急速な発展を示す半面,アメ

リカに比べ相当に遅れているとの認識があった。

 ところで,この期間は,1938年法の成立と1956年の国有化とに狭まれた,「インド生保 史で最も重要な」期間であった(P.4軌いいかえれば,急速な発展の途上にあったにも かかわらず国有化されるに至ったのは,1938年法が様々な混乱や弊害を結局は改善しえな かったと考えられるからである。Desaiは,この期間について12項目の重要な出来事を列 挙している。もっとも,その中には生保自体には属さない項目(第2次世界大戦,独立,

ルピーの切り下げなど)が含まれている。生保に直接に関連する項目は,次のようである

(ibid)。

 イ)1938年法の一連の修正。

 ロ)生保経営に見出される傾向と好ましくない特徴をチェックするため,実情を調査し,

  改善方法を勧告する委員会の設置。

 ハ)National Planning Committeeの保険小委員会による所見。

 二)Principal Agenciesの廃止と一般種目の事業費率枠の決定に関する1950年保険修正   法。

(11)

 インド生保史の概観       11  ホ)保険会社間の料率戦争,殺人的競争(cu枕hroat competition)。

 へ)インド国民議会による生保国有化勧告。

 ト)Federation of Insurance Institutesの設立。

 チ)国有化令。

 各項目の詳細は,必らずしも明確でないが,インド生保業が刻々と国有化へ接近してい った様子が窺われる。結局,国有化へ到着した要因  もしくは,その口実にされた要因   は,生保業に発生していた,そして1938年法によっても改善しえなかった様々な混乱 や弊害であった。Desaiによれば,「多くの保険会社の記録は,実に恥ずべきものであった。

この事業は,僅かな資本で始めることができたから,多くの事業家がこれを利用し,そし てあらゆる種類の背任行為に頼った」(p.42)。例えば,「料率戦争」が続いた。この実情を 説明するにはもう一冊の本が必要であり,それは,「この事態を招いたインド保険業者の 近視眼的な,自己中心的な政策を十分明らかにするだろう。政府が1956年の政令を公布す

るに当り,料率戦争は,重要な要素の一つであった」(ibid)。

 確かに,生保業に生じた弊害,あるいは私利の追求は,目に余るものがあったらしく,

『独立後のインド経済』の著者,Venkatasubbiahも,いくつかの実例をあげて次のよう        (8)

に指摘している。1938年法は,資産の55%を拘束していたが,残りの45%は,自由に任さ れていたから,「危険で不正な投資の源泉になった」。1945年に改革の試みがあったが,し かし,事態は,少しも改善されなかった。例えば,北部インドで,銀行,2つの投資会社,

建設組合,そして若干の工業会社を経営するある有力な事業家は,生保会社資産の50%の 少なくとも半分を,自己の企業グループ内で還流させることができたが,法律に違反する ことなくそれを行うことができたという。さらに,保険監督官の調査権は,不十分であっ ただけでなく,罪を犯した会社に改善を命じても,「多くの場合,卒直にいって無視され た」といわれている。

 こうした私利の追求や契約獲得のための濫費は,結局,事業費率の高騰,高い失効率,

そして破産の頻発として現象する。国有化直前のこの時期には,急速な発展と同時に,多       (9)

くの好ましからざる現象も発生していたのである。

注(1)1939年を第3期の末とした理由は,不明である。

 (2) 「1938年制定の印度保険法」『生命保険経営』11−6(昭和14年12月),pp.141−5;「印度に於け  る生命保険」『保険調査彙報』33(昭和15年11月),pp.49−53.前者は, R. W. Sturgeon, The Indi−

 an Insurance Act 1938, Jo曜ηα♂o∫疏61π∫漉厩θo∫Aσ伽瘤3, vol. Lxx, part IIの,また後者は

 丁舵Rθη∫伽,June 7,1940の紹介記事である。

(3)前掲『保険調査彙報』p.50.

 (4)同上

 (5)前掲『生命保険経営』p.143.

 (6)カナダの保険監督制度については,前掲『新生命保険実i務講座』第9巻,pp.90−3。

(12)

12

(7)前掲『生命保険経営』p.142.

(8) H.Venkatasubbiah, 1π4ぬηE60πoηzッ3加ご81π4θ〆)θη46ηごρ (1961), pp.104−12.

(9)この期間については,『生命保険協会会報』37−3(昭和31年10月),pp.54−7に紹介がある。

III インド生保史 国有化後

 (1)国 有 化

 1956年1月19日,インド政府は,議i会休会中にもかかわらず,生命保険緊急措置令(Life Insurance(Emergency Provisions)Ordinance)を公布し,即日実施すると共に,広く内 外に発表,通知した。これによりインド国内の生保事業,およびインド保険業者による外 国事業は,この日をもってインド政府に接収された。接収されたのは,インド会社154,非 インド会社16,および地方共済組合75であった。同年1月19日から8月31日まで,接収さ れた各社は,保管人(Custodians)のもとに置かれ,そして9月1日より,生保公社(L.

1.C.)に全契約が引きつがれたのである。

 生保公社の機構は,次のようであった。

    Central Office        l     Zona10ffices        l     Division Offices        l     Branch Offices        i     Sub− Offices        I

    Developmental Centers

 発足時にzonesは5, divisional officesは34,そしてbranchesは216であった。生保 会社に雇用されていた職員は,一定条件を充足するかぎり全員を引きつぐことになってい たが,最終的には21,000名が吸収され,一方,219,000名の代理人が解職された。もっと

も,その中で活動的であったのは一部(約8,900名)であったという。ともあれインド生 保業の国有化は,私営保険業がそれまでに築きあげていた地盤を継承し,その上に新たな 機構を設置することによって達成された。われわれの関心は,国有化の経過よりむしろ国        (1)

有化の論拠とその成否にあるから,それらの問題に移ることにしよう。

 (2)国有化の論拠

 インド生保業の国有化の論拠を,Malaviyaは,次のように説明している(cit. in pp.

55−6)。

 イ)保険業の性格は,リスクの共同負担のための協同組合的企業(cooperative enter−

  prise)ということである。それに必要であるのは,リスク分担のため多数入を集める   組織だけであり,一方,拡張のための資本は,加入者自身の資金によって調達するこ   とができる。

(13)

 インド生保史の概観       13  ロ)インドの保険は,浪費的経営に恥り,リスクに高い価格を付け,加入者と会社との   間に高い手数料と多額の俸給を取る多くの仲介人を雇っている。

 ハ)保険における私的な競争は,大衆,あるいは加入者に対してさえ,サービスの改善   をもたらさなかった。「競争は,むしろ逆行的な役割(regressive role)さえ果して

  いる」。

 二)生保の失効率は,きわめて高く,大きな国民的無駄をもたらし,また被保険者には   損失を与える一方,仲介者のみを,ある程度は保険者を,得させるだけである。

 いうまでもなく(イ)は,保険業の性格把握に関わり,ごく普通に見出される見解である。

一方,(ロ),の,そして(→は,保険が私企業に担われることから発生する弊害の認識であ る。すなわち,生保会社の創立には殆ど資本を要しないことから,一一状態が発生し,過 度の競争や破産の頻出等の現象が発生する。また生保業の競争形態が主として仲介者の数 や質に依存する結果,過度の競争は,手数料率の引き上げと,その結果たる事業費率の上 昇を,また過度の勧誘による失効・解約率の増大を招くことになる。いずれにせよ,私企 業による生保経営と競争は,むしろ経営効率の悪化をもたらし,多くの場合,加入者サー ビスの改善の方向へ作用せず,最終的には「国民的無駄」を形成する。多くの国でこうし た弊害が発生したことは,周知の事実である。そして弊害の認識と,保険業の性格を協同 組合的と理解する立場とが結びつくと,現状の改善は,保険における営利性の否定,した がって営利企業の排斥と非営利的経営形態(例えば公営形態)への転換とを要求する傾向 をもつ。もっとも多くの国では,私企業に担われる生保業が大きな成長をとげたことが,

       (2)

さしあたり,こうした生保業批判を弱体化させ,また公営化要求の現実化を阻んでいる。

その点でインド生保業の国有化は,稀なケースといえるだろう。

       (3)

 一方,大蔵大臣のC.D. Deshmukhは,次のようにのべた(pp.56−7)。かれはまず,

第2次5ケ年計画に関して,「国民貯蓄を吸収する径路を拡大し,深化することが,かっ てない程に必要となってきた。ヒの過程において保険国有化は,重要な部分を成す」と指 摘する。さらに,「生保の発展の可能性には疑問の余地がない」ことを強調する。当時,

インド生保業は,100億ルピーの契約高を保有しており,これは,1人当りでは25ルピー となる。Deshmukhは,保有契約高が800億ルピー,1人当りでは200ルピーになるだろう との予測に賛成していた。「私がこの数字に言及するのも,保険を通じてわれわれの貯蓄 がいかに大きく増加しうるかを示すためにほかならない」。このように,生保資産の増大 が第2次5ケ年計画にとってきわめて重大であることが示されている。かれは,一転して 従来の生保業を批判する。「適切に経営されるならば決して失敗するはずのない事業の典 型たる保険においてさえ,ここ10年間に25社が清算され,別の25社が資金を無駄使いした ために保有契約を他社へ移転し,加入者へ損失を与えた」。一方,国営形態であれば,生 保経営の安全性は,絶対的に保証されるという。そして,生保業のみを国営化した理由は,

次のように説明されている。

(14)

 14       インド生保史の概観   「われわれに最も大きな影響を与えた要素は,こうである。一般の保険は,商工業と  いう民間部門の一部を成し,その部品であり,年度別ベースで活動する。その経営にお  ける怠慢とか犯罪といった誤ちは,直接に個人に及ぶことはない。対照的に生保は市民  一人一人に直結している。経済発展にとりきわめて重要な個人貯蓄は,会社支配者の間  違った行為や不法な行動に左右されるし,独創的な政策の欠如によって妨害されるだろ

 う」。

 ここでは,生保業が他の種目とは異なる地位にあることが指摘されている。とりわけ,

生保業が他の一般企業ではなく,個人を対象とすることからその経営に対し有効な抑止力 が働きえないとの指摘は,重要である。多くの場合,生保業に対しヨリ厳格な公的規制が 課されるのも,往々にして生保経営が野放図に流れる可能性が考慮されるからである。お そらくは1938年法が有効な規制力をもちえなかったとの認識があったのであろう。Desh−

mukhは最後に,「生保国有化は,この国が社会主義的パターンという目標達成のために 選んだ道程の一里塚である」と述べている。

 さて,Deshmukhの説明から,生保業に内在する弊害の外に,大衆貯蓄の動員という要 素が重視されたことが明らかである。とりわけ,第2次5ケ年計画は,公共投資による重 化学工業,就中鉄鋼業の開発に著しく傾斜していたから,政府にとり生保資金は,きわめ て重要であったろう。もっとも,これには疑問がないわけではない。すでに1950年の新立 法により,政府は,投資可能な生保資金の4分の3を吸収し,公的投資に転じさせていた。

したがって,残りのうち15%程度が民間部門へ投資されていたにすぎない。つまり,あら ためて公共部門へ吸い上げるにしても,僅かな部分しか残されていなかった。先に引用し た『独立後のインド経済』は,次のように述べている。「この方策は,もし生保が数年内 に二倍にも増加し,そして投資可能な資金がそれに応じて増大するだろうと考えるときに のみ,正しいといえるだろう。政府自体,これが可能だと信じていたのかどうか,疑わし い。国有化の,唯一のではなくとも主要な理由は,政府が1950年とは違う手段を1956年に        (4)

は心情的に取る気になったということであろう」。

 確かに,生保国営化に伴う.メリットは,1956年の時点では大きくなかったと考えられる。

しかし,生保業が飛躍的に発展する場合には,政府に利用可能な資金量も大幅に増加する。

Deshmukhが保有高の急速な拡大の可能性にふれたのは,その意味で,正当化の有力な論 拠がそこにあったことを示唆している。いいかえれば,インド生保業が国有化直前に顕著 な成長をみせていたからこそ,国有化の意味があったことになる。第2次大戦後に生保業        (5)

国有化の動向が世界中に拡まったことは,周知の事実である。しかし,現実に全面的国有 化へ転換した国は少なく,精々,フランスやイタリアの如く,公私企業の併存状態が生じ たにすぎない。メキシコの場合は,国営会社を民営に転換することさえ行っている。これ らのケースは,結局,私企業による成長の可能性が,それに伴う弊害にまさるとの見解が 有力であったことを示唆する。インドのケースが予想外の「出来事」と受取られたのも,

(15)

 インド生保史の概観       15 むしろ当然であった。インド生保業国営化の理由は,その全てが十分に明らかになってい

るとはいえないが,その一つに,他国では国営化を阻む要因として働いた顕著な成長とい う事実があったことを認めねばならないであろう。生保業に内在する様々な弊害は,むし ろ国営化の論理を側面から補強する役を果したと考えられる。

 (3)国有化の成否

 1956年以降,生保公社(L.LC.)が成功を収めたかどうかは,インド生保業にとってだ けでなく,他の諸国の保険業界にも,また保険研究者にも重大な関心事であろう。

 第3・1回忌,国有化前後の事業成 績を示し,また第3・2表は,1930年

と1955年目基準年としてそれぞれ1955 年とユ976年の指数を表示してある。こ れから国有化前の25年間と国有化後の 20年間とでは,生保業の成長という点

で大差ないことが分るであろう。

 公社の成長は,次の数字によっても 知ることができる。まず,国民所得に 対する保有契約高の割合は,ユ955年の 11.6%から1969年には21.4%へとほ

第3・1表新契約高,保有契約高,保険料収入の推移        (単位:1000万ルピー)

二二上高 保有契約高 保険料収入

1940 45 240 ユ2

1950 139 700 35

1955 261

1,220

59

1960 497

2,285

98

1965 701

4,394

180

1969 929

5,725

235

1976

5,119 17,942

653

出典)Desal, op. cit., p.ユ33 Table 12.2.1976年につ

 いては,『生命保険協会会報』58−3(1978.8),

 P.58.

第3・2表 国有化前後の比較(各期間中の増加指数)

新 契 約 高 保有契約高 保険料収入

1930−1955 P955−1976

1,630 P,960

620

P,470

1,480 P,110

第3・3表 生保公社の事業成績

1955 1969

新  契  約  高 261,000万ルピー 929,000万ルピー

保 有 契 約 高

1,220,000 〃 5,725,000 〃

保 険 料 収 入

59,000 〃 235,000 〃

生保フアン ド

355,000 〃 1,434,000 〃

雇 用 者 数

21,000名 51,667三

層 給 支 払 高 5,250万ルピー 30,700万ルピー

事  務 所 数 249 679

人       口 4億人 5億3,000万人 1人当り保険金額 30ルピー 108ルピー

国  民  所  得 1,048億ルピー 2,681億ルピー

1人当り国民所得 262ルピー 506ルピー

出典)Desai, oP. cit., PP.70,80

(16)

 16

倍増を示した。1人当り平均保険金額は,30ルピーから108ルピーへ,1人当り保険料支 出高も,1.5ルピーから5.4ルピーへと増加した。さらに,1人当り国民所得に対する1人 当り保険料高の割合も,0.57%から1.07%へと倍増した。Desaiは,「公社の成長は,大い に満足すべきである」と評価すると共に,1956年から69年までを,「インド生保業の真の 始まりを成す」期間とみている(pp.80−2)。

 国有化は,以上の数字から判断すれば,成功を収めたというべきかもしれない。しかし ながら,国有化の成否は,いま少し詳細な吟味が必要である。Desaiは,国有化の目標と

して11項目をあげ,それぞれについて成否を問うているが,それは,すぐのちに紹介する として,ここではまず事業費率と失効率の推移を瞥見しておく。

 さて,事業費率の高騰が国有化の有力な論拠め一つとされていた。第3・4表は,1913

−19と1948−69の期間に関する事業費率の推移を示している。これから明らかなように,

1913−19に関する事業費率が約21%前後であったのに対し,国有化前には30%前後に上昇 している。一方,国有化後の事業費率は,若干の低下を示しているとはいえ,決して顕著 な成果を収めたとはいえない。Desaiは,次のように説明している。「事業費は,上りっぱ なしである。その主な理由は,われわれが依然として新契約の引き受けに力を注いでいる こと,そしてインド勤労者の大部分をカバーするまでは,それを続ける必要があることで ある。だから,全般的事業費が25%かそれ以下に低下するには長い時間がかかる。多分,

1981年までには,新契約獲得運動を緩和しうる保有高水準に到達するだろう」(pp.84−5)。

第3・4表 事業費率の推移

1913

22.2%

1948

29.0%

1959

28.7%

1914 216 1949

29.2

1960

28.4

1915

21.1

1950

28.9

1961

27.9

1916

20.5

1951

27.1

1962

29.3

1917

20.1

1963

27.5

1918

21.9

1955

31.8

1966

27.6

1919

24.8

1956

33.7

1967

27.7

1957

27.3

1968

28.5

1958

29.2

1969

27.5 出典)Desai, op. cit., p.90. Table p.3.

第3・5表事業費率の比較

インド アメリカ インド アメリカ

1954

7.3% 3.8%

1962

9.1% 5.1%

1955

7.6 3.8

1963

8.7 5.1

1956

9.1 4.2

1964

8.0 5.0

1957

6.4 5.4

1965

7.6 5.1

1958

5.3 5.7

1966

7.8

1959

6.3 5.2

1967

7.4

1960

7.0 5.2

1968

6.3

1961

7.5 5.6

1969

5.9

出典)Desai op. city p.91, Table 9.4より作成

(17)

 インド生保史の概観      17

「保有高が国民所得を越えるような目覚ましい発展に達するには時間が必要だが,その日 は,遠くない。それと共にコスト問題は,解決されるであろう」(p.88)。事業費率の推移

とDesaiの展望は,国有化問題の論議にとり重要である。けだし,新契約の獲得に力点 を置くかぎり,経営形態の如何を問わず事業費率高騰の傾向が内在することが示唆されて いるからである。

 失効率問題も,民間部門の弊害を示すものと認識されていた。第3・5表は,1954年以 後の失効率を,アメリカの経験と共に示している。Desaiは,この点で「改善されている」

とみる一方,「L.1.C.のように急速に発展している機関が長期にわたり4%以下にまで 引き下げることはありえないだろう。保険が全ての家庭の必要品となり,保険契約を有効 に保つことの重要性が理解されれば,加入者は,契約を有効に保つための借入れさえ厭わ ないだろう。今計画中の社会保障制度のもとで,この問題は,うまく解決されるだろう」

と述べている(p.88)。失効率が,生保理解の水準と外野活動の活発さとのいずれにヨリ強 く依存するか,必らずしもはっきりしないが,しかし,私企業制のもとで激しい競争を展 開するアメリカが,国有形態のL.1.C.よりも低い失効率を記録していることは,示唆 に富んでいる。

 さて,Desaiは,『インドの生命保険』の第11章で国有化の成否を詳細に論じている。

かれは,公社設置に当り指摘された「目標」を要約し,それを「ゼロ仮説」(null hypo−

thesis)として成否を測定しようとする。ゼロ点からの重大な乖離iを示すならば,失敗,

重大な乖離を示さないならば成功とみるのである。ここでは,各項目について大雑把な要 約を示すことにしよう。

イ)事業費の大幅な減少  公社は,事業費について不当に大きな金額を費している。そ  の結果,公共部門に属し,独占体であるにもかかわらず,民間部門に比べてさえ有利さ  を失っている。英米生保業の新規コストは,公社よりはるかに低くさえあるし,最高水  準の競争を行う民間部門がうまくそれをコントロールしてきている。公共部門も,それ  と同じことができた筈である。それゆえ,「L.Le.の運営は,主要目標からの重大な  乖離を示し,改善を要する」(p.105)。Desaiは,そのためには外務貝の手数料率め引  き下げとインスペクター関係のコストの削減  充分な数の外務員の割当てと,十分な  外務員教育  が必要だと指摘する。しかし,前にも引用したように,成長に伴って       (6)

 「事業費に関するゼロ仮説は,やがて満足されるだろう」ともみている(p.106)。

ロ)分権化  艮D.Malaviyaがインド国民議会へ提案したとき,支店レベルへの権限委  譲が望ましいことを指摘していた。すなわち,「販売とサービスの主導権,経営効率,

 経済性と迅速性」,これらの面で「ヨリ大きな分権化こそ国営生保の成功に不可欠であ  る。支店は,その機能と規模において最も重要な環であり,上級の各部局は,少数のス  タッフで機能するだろう」(cf. p 67)。公社の現状は, Desaiによれば,分権化に程遠い。

 「もし,公共部門が……顕著な発展を望むなら,すぐに分権化が実施されなければなら

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少しずつ増加し、最近では 151 万ウォンレベルにまで上がっております。1998 年の 100 万ウォ ンから 2009 年の 151

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 ふるさと納税の寄附金額(受入額)は,導入当 初の 80 億円程度から 2010 年度には 100 億円を超 え,2014 年度に 388 億円,2015 年度は 2014 年度 の 4

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