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日本近代史研究の新 しい波

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(1)

一岩波講座 『日本通史 近代

1』

を読んで‑

今 西

はじめに

コーネル大学の酒井直樹氏 は,雑誌 『 世界』の座談会のなかで,「これ は僕 の個人的な感想 なんですけれども, 日本研究はこの二〜三年で非常に大 きな変 化を しそうだ と思 うのです」 と語 っている

1) 。

私 もまた,最近の

1960

年前後 に生 まれた,冨山一郎 ・桜井進 ・駒込武 ・長 志珠絵民 らの研究を,「フーコー革命」の世代 と呼んでいる

2)。

彼 ・彼女 らは, 研究の出発点か らミッシェル ・フーコーなど構造主義の影響を強 く受け,既存

1

)酒井直樹 ・ブレット‑ ドバ リー ・脇田晴子 「 文化の摩擦学

」(

『 世界』第

588

,1993

年)

213

頁。なお この座談会の酒井氏の設問に対 して,脇田晴子氏は, 日本史研究 会の英文年報 『日本史研究』が発刊できなかった問題を取 り上げて, これに反対 し た 日本人研究者が

,

「 一種の精神的鎖国の中へ入 り込」んでいる, とい う見当外れ な答えを している。

私 もその

1

人であ るが,英文年報 『日本史研究』に反対 した人 々は

,

「日本 にお ける日本史の研究 は相当の伝統があ り,その水準 は世界のなかで もかな り高 いと 言 ってよいと思われる 」

「これまでの 日本史研究が 日本の中で行われてきたことか ら,外国人 に理解で きるかどうかはほとんど問題 にな らなか ったのである。現在の 外国人の 日本史研究者 にとって も,理解 は相当難 しいのではなかろうか

」(

『日本史 研究』第

331

,1990

,184

頁) といった,今 どき珍 しい自文化 中心主義 ( エス

ノセ ン トリズム)に反発 したのである。

2

)冨山一郎 『 近代 日本社会 と 「 沖縄人」 』(日本経済評論社

,1990

年) ,桜井進 『 江戸 の無意識』( 講談社新書

,1991

年) ,駒込武 「 植民地教育 と異文化認識

」(

『 思想』第

802

,1991

年) ,長志珠絵 「 言語学の 『 受容 』 」( 西川富雄他編 『日本思想 と ドイツ 学受容の研究』立命館大学人文科学研究所

,1993

年)他。

107

(2)

108

商 学 討 究 第

45

巻 第

1

の戟後歴史学 とは異 な った方法を提示す る,新 しい世代の誕生だ と考えてい る。

岩波講座 『日本通史 近代

1

』( 岩波書店

,1994

年)に執筆 された方 々は,そ れより上の世代であ り,今 日の 日本の歴史学では中堅以上の人々であるが,そ のなかで も 「 新 しい歴史学の波」は確実に押 し寄せて きている。本稿では,そ の 「 新 しい波」の影響が顕著 に見 られ る,安丸良夫 ・成田龍一 ・牧原憲夫民 ら の研究を中心に,転換期にある日本近代史研究の方法を検討 してみたい

3)

0

これは, 自分 自身 も 「 社会史」研究を推進 して こられた西洋史の 川 北稔氏が 語 っているよ うに,「 社会史をは じめ とす る 『 新 しい歴史』の真価 は,個 々の トピックの斬新 さか らくる魅力をこえて,それが通史の流れに組み込 まれた と き,通史その ものをどのように変えてい くのか,によって定まるはずである

」4)

といった意見が存在す るか らである

もっと意地の悪 い言 い方をすれば,「 通 史」を書 けて こそ 「 社会史」は一人前 と評価 されるとい うのである。本講座 と

りわけ本巻の成否のひ とつ は,

1980

年代 の 「 社会史」研究の成果 を, ど う吸 収す るかにかか っている, と言 って も過言ではないだろう

1 岩波講座 『日本通史 近代 1 』の内容

通史

1850‑70

年代の日本 一推新変革」( 安丸良夫) まず安丸氏は,「 やや 狭義の政治史に焦点をおいて概観 したい」 とす る。そ して,近代世界史を 「 資 本主義世界 システムが支配す る時代」 として捉 らえ

,

「 社会主義」国家 もイス ラム諸国家 も,「 国民国家のそれぞれに特徴 ある類型」 とす る。氏のい う 「 国 民国家」 とは ‑

3

)当然,本巻所収の鶴巻孝雄論文

(

「 民衆運動 と社会意識 」) について も言及 しなけれ ばな らないのだが, 氏の議論 については, 既 に拙稿「 民衆運動史研究の新地平 」 ( 『商 学討究

』44

1・2

号)で述べ た こと以上 に,特 に新 しい論点 はないので省 略 し

た 。

4)川 北稔 「 通史を拓 く『 新 しい歴史 』 」( 岩波講座 『日本通史』パ ンフ レッ ト ,1993 年) 0

(3)

国民国家 は,水平 的には国境線 を一義的に確定 して世界 を国家単位 に 分割 し,垂直的には支配 と統合 を縦深 的に深 めてゆ く

琉球 と蝦夷地 は 前者の対象 とな り,そ こに住 む人び とは強制的に国民国家‑編入 されて,

「ヤマ ト」化 ・和風化 された。身分制度 とそれ にかかわ る諸規制 の解体 や文明化の過程 は,強制 と抑圧,鍛冶 と解放を交錯 させなが らの垂直的 統合の展開 として把握 しえよ う

そ して, こうした過程の メダルの裏面

は,国民国家の対局的存在に向けての分割 ・排除 ・差別などがある。

とされ る

(3

頁) 0

とりわけ幕藩制国家の解体か ら近代的国民国家への転換を,「 人び とが求め 受容す る正当性根拠 と, 権力をめ ぐる現実状況 との問に, 大 きな懸隔が生 まれ, あ らたな権力の樹立‑ と歩む ジグザ グの過程 として把握」 し,「 幕閣独裁 に対 置 されて登場 した公論正義の理念 は」 , 「こうした過程を全体 として理解す るう えでの鍵をなす正統性的理念」であるとす る (

4

頁) 0

1853

年 のペ リー来航 の時,幕府 は諸大名 ・幕 臣に も意見を求 めたが, 「 処 士や庶民 に も上書 して海防策を論ず る者があ った」 。幕府 は 「 対外的危機 に対 処す るために支配層の意思統一をはか」ろうとしたが, ここには 「やがてさま ざまの政治勢力の登場を促す ことになる新 しい状況の萌芽が表現 されていた」

(7頁) 0

日米修好通商条約の締結の過程で,幕府 内部 には川路聖譲 ・岩瀬忠震 らの

「 革新的吏僚層」が形成 され, 「 『 理を尽 し議論に及事 と成』 るという新鮮な気 風が生れて きていた」 とい う

(l

o員) 。 しか し,同条約の調印をめ ぐって,朝 廷が 「 幕府 とは異 なる政治的意思をは じめて明確 に表明 した」 。そ こで岩瀬 ら

は,英仏連合艦隊の江戸湾進行を とらえて,「 無断調印を断交 した

」 (1

1 頁) 。

同条約 は勿論 「 不平等条約」であるが,中国の天津条約 と比べて 「日本の方

がず っと有利」である。 これは 「 天津条約がアロー号事件の赦北 による 『 敗戦

条約』だ ったのに, 日米条約 は 『 交渉条約』だ った」とい う加藤祐三説 を安丸

氏 は支持 し, さらに 「アヘ ン戦争,太平天国の 乱 ,セポイの反乱 などに集約 さ

れ るような民族的民衆運動が」 , 「日本の民族的 自立の世界史的条件 とな って作

(4)

110

商 学 討 究 第

45

巻 第

1

用 していた」 とす る

しか し,「 違勅調印」が 「 反井伊 ・反幕閣勢力に絶好の 口実を与え」,「 幕府の正統性根拠に大 きな亀裂を生みだ し」たことも指摘 して いる (

ll‑12貢 )01857

年末か ら 「 幕閣批判の正統性根拠 として,尊王論 と排 外主義が政治の舞台の中央へ呼び出されて しまった」のである

(13

頁) 0

そ して

60

3

月の桜田門外の変 は,「 公論正義対専制的私権,前者を実現す るための 『 天課に代』る実力行使 という党派的活動様式が成立 して,それが権

たお

力の頂点に立っ人物をいっきょに痘 したのである。そこには,国家の存立根拠 をめ ぐる明確な対抗の図式が提示されているが, この対抗に照応す るなかば逸 脱的な人びとの新 しい活動様式がより広汎に成立 しつつあって,それが この事 件の背景 となっていた」 ことに注 目す る

(15

頁) 。

「 桜田門外の変か ら八 ・一八政変までの政治過程 は,公武合体派 と尊援派の 対抗 として とらえ られるが,六二年後半か ら八 ・一八政変までの期間は,尊壊 派の方が政局の主導権を握 っていた

しか し,「 彼 らに固有の権力機構や軍 事力が存在 していたわけではなか った

」 (20

貢) 。そ こで 「 文久期の尊擾派が, 絶大な権威性を もった政治カ リスマとしての天皇を歴史の舞台‑登場 させたの は,現実的力関係では圧倒的に劣弱な自分たちの立場を,天皇の権威性を強調 す ることで代償 し,状況突破のテコに しようと」 したか らである。 ここに出現 したのは , 「 現実の天皇 とはまった く異なる志士たちの幻想 としての天皇」で あった

(22

貢) 。

「 八 ・一八政変後」になると,「 表面的には公武合体派 と幕府の勝利,長州 藩 と尊壊派の敗北で,とりわけ第一次征長 はその ことを決定的に したように見 える。 しか し,より実態的に見ると,幕藩制国家の分裂 と解体が深まり,権力

としての統合性が解体 していた

」(26

頁) 。

一万,

1866

年以降は,‑撰 ・打 こわ しや,「ええ じゃないか」の前身 「 長勝 踊」,「 残念 さん」信仰などの民衆運動が進展す る。「これ らの民衆運動 には, 民衆文化の伝統 と結びっいた独 自の様式性があり」,「 民衆運動の状況が権力政 治の舞台をその基底部で規定 していた

」 (29

頁) 0

だが政局は

,67

年後半以降,後藤象二郎 らの大政奉還 ・公議政体論を軸 とし

(5)

て動いていたが, 「 兵力を用いずに弁舌の力で事態を収拾 しようとす る後藤の 手法の甘 さは,西郷や大久保 によってはじめか ら見すかされお り,彼 らは土佐 藩の大政奉還運動に支持を表明 しつつ も,他方で長州藩 との間で武力討幕の盟 約を定めた

」 (30‑31

貢) 。公議政体 と武力討幕の

2

本の流れが確定 した。

その後,大政奉還,王政復古 と政局は進むが,王政復古の 「 三職制は公議政 体派の構想をひきついではいるが,摂関以下の朝廷内旧制度を廃止 し, クーデ ターをおこした勢力だけで人事を独 占しているか ら,討幕派の政治指導を制度 的に保証 した ものだ といえ る

」 (33

貢) 。 しか し,「 諸大名の会同を具体的な内 実 とす る 『 公議』形成 という公武合体派 ・公議政体派の主張を,討幕派 と維新 政権 も否定できなか ったが,鳥羽 ・伏見の戦いのあとでは, 『 公議』は既存の 政治勢力 と旧体制か ら剥離 されて抽象性を強めるとともに,天皇の神権的権威 と結びっけられた」 。五箇条誓文,大久保の遷都建白書などは,「こうした権威 的天皇像の演出であ り」 , 「あ らゆる既成的存在を超出す る天皇の権威を介 して

『 公論』が形成 ・実現 され」た

(34

)。69

1

月,政府 は 「 輿論公議」にも とづ く 「 国是」確立を標梯 した。

「 維新政府が天皇の権威性 とその もとでの 『 公論』実現をどれほど強調」 し て も,佐幕派の奥羽北越同盟などは,「 天下 卜共二其公論 ヲ定メ」ていかなけ ればな ららいのに,「 薩戚」は 「 天下 ヲ欺」いているとして, 自らも 「 奥羽越 公議府」 と名乗 っている

(35

頁) 。正に 「 公議」が分裂す る可能性を含んでい

他方,「 民衆の社会的願望 と維新政権 とのかかわ りに眼を転ず ると,一八六

八年初頭には維新政権の登場 と民衆の世直 し願望 との間にかすかな交錯が生 ま

れていた」が

(37

頁),「 世直 し勢力に脅かされた地域支配層 は官軍をすすんで

受けいれ,維新政権 はこうした勢力 と結んで地域秩序の回復をはか った」 (

38

頁) 。また,「 尊壊派や草葬諸隊と農民‑按 とは,行動様式 も社会的願望 も異なっ

ており,両者が結びつ くことは実際にはなか ったけれども,両者の結合によっ

て もた らせ る権力 と秩序の土崩瓦解 は,七七年 ごろまでの政府首脳を脅か しつ

づけた最大の悪夢だった」(

39

貢) 0

(6)

112

商 学 討 究 第

45

巻 第

1

廃藩置県を前後 して,「 文 明的国家の創設を 目ざ. した諸改革がいっせいに展 開す る

」(41

)

。 「 宮中の神仏分離 と皇族葬祭の神道化,全国的な神社制度の 整備 と神道 による国民教化政策なども,文明的国家統合の一環 として,七一年 か ら翌年 にかけて展開 した」 。また学制布告,徴兵告諭などが,「 文明的国民国 家創設のための上か らの啓蒙的近代化 として推進 され,その改革理念のなかに

は国民一般の権利や 自由の 自覚‑の呼びかけさえ も含んでいた」(

42

頁) 。 こうした開化政策 は,「 地域秩序の再編成の方途 を模索 していた」村落支配 層 には,「よ り普遍的な理念 と方策を与え るとい う意味」で受入れ られ るが, 一般民衆 には,「 伝統的生活様式への抑圧 と編成替えの強要を意味 した」

「 政 府の開化政策に向 きあ う地域民衆の態度 には,大 きな亀裂 と葛藤 」 が生 じた

(43

頁) 。

「 征韓論政変 は,王政復古 と廃藩置県 につ ぐ第三の クーデターともい うべ き 政変で」あ った

(46

)0

「これまで西郷 ・板垣 ・江藤 らの声望を結び目として 新政府を支えてきた旧西南雄藩の士族層が,征韓論政変を契機に士族的反政府 勢力‑ と形成 されたのであ り,そのゆえに彼 らの活動 は維新政権以来の正統性 根拠のある側面を継承 しよ うとす る性格を もっていた」(

47

頁) 。また 「 伊勢暴 動,七七年の熊本の‑按 と西南戦争の鎮定 によって,暴力装置を独 占す る存在 としての国家権力の優位性 は誰の 目にも明 らか とな り,西郷 と旧薩摩士族 との 関係 に代表 され るよ うな人格的結合関係 は国家権力の構成原理か ら疎外 され て,社会 と国家の分離を前提 とす る,新 しい形態の政治的磁場の形成が促 され ることにな った」(

52

頁) 。

1874

1

17

日の民撰議院設立建 白書 は ,「 『日新真事誌』に掲載 されて広 く 知 られ るよ うにな った とき,幕末以来の公議公論 ・公議政体 とい う政治理念 は,よ り普遍化 された形態 におきなおされて,まった く新 しい意味を も」った。

それ は,人民一般の 「 通議権理」‑民撰議院‑広汎な人びとの自覚 と活動力の 高揚‑国民国家的課題の担 い手の創 出, といった 「 文明史的必然性を もった新

しい政治理念」を 「 有司専制政府 に対置」 した

(53

頁) 0

自由民権運動 は,「 正統性原理の実現を阻んでいる者を実力で除去す る」 と

(7)

いう 「 尊擾運動以来の反政府運動の伝統」を もってお り,「 志士的性格」が強 か った。 しか し,「 民権の伸張 こそが国民の活力を発展 させて国民国家を実現 するのだとい う 『 民権 ‑国権』型ナショナ リズムの立場をとることで,反政府 運動 はは じめて新 しい時代 に相応 しい公共性 ‑正統性 を獲得す ることがで き た

」(55

貢) 0

80

1

1 月の国会期成同盟第

2

回大会では,「 請願路線 は否定 され,憲法草案 の作成 も急がな くてよいことにな り」 , 「 実力 ヲ養成スル」 ことになった。実力 とは

,

「 新 聞 と演説会」「 武力蜂起 ・実力行使 にそなえ ること」であ った

(59

貢)。そこか ら演説会,懇親会, さらに民権歌謡 ・民権踊 り ・民権講談 ・民権 葬儀などの 「 政治文

」が重視 され, 「 地域の人びとの生活世界を基盤 としな が ら, しか しそ こか ら自立化 した政治的公共圏がつ くりだされ,それが国家権 力に対置 された

」(60

貢) 。 明治1

4

年政変 という「 実力行使 による社会的混乱 や叛乱 という形をとらずに,広い意味での言説を介 してひとつの政治的危機が 成立 したとい うことは,まった く新 しい状況で」あった

(61

頁) 。

「 帝都東京」( 成田龍一) 成田氏は,まず研究史 として塚本学氏の 「 江戸 と東京のあいだに 『 転換』をみ」,「 天皇 と 『みやび』が東京 に移 され,東京 は 全国を 『 教化す る拠点』 として 『 文明』の窓 口」になった, という説を紹介す る

(177

頁) .そ して東京については,「モ 国家の都市寸 としての性格」を強調す る石塚裕道説 と,「 庶民生活総体の有機的連関」 に視点をすえる小木新造説を 提示 し,自分 は 「 都市空間論」の立場であるとす る 。 「(

1

)都市空間は,空間 の均一化を推進するベ ク トルをもつ とともに,均一化の もとで多様な空間が産 出され

, (2)

近代 における都市空間は,近代都市空間 もモデルの形成‑外延 化‑制度化 という展開をする。本稿で扱 う一八 八 〇年前後は近代都市空間のモ

デル形成期」だ とする

(178

貢) 。

そ して,「 東京‑の転換 は 『 文明化』を核に始動 し,一八八〇年代 における

『 帝都』‑の過程は,『 文明化』の戦略が軌道にの り具体化す る過程 となる」 。

以下,「 身体 と精神のあ りようを導入 とし,均一的空間の形成 され る過程」を

(8)

114

45

1

見 る。「 近代の都市空間は,『 文明化』の もと,人びとを 『 伝統社会』か らひき ず り出 し,公的 ・匿名性を特徴 とするあ らたな空間秩序を形成 し」,「 身体を馴 致 し,精神の鋳型をつ くり出 し,『 文明』にふ さわ しい身体 と精神へ と領導を する

」(180‑1

頁) 0

氏は,「 教化 と強制の手法 は, コレラ対策のばあいはもっと徹底 している」

として コレラ対策 に注 目す る

。1877

年か ら

90

年 まで

5

回の コ レラの流行のな かで,「 人びとは,(

1

)コレラを筆頭 とす る伝染病 は『 原因』を もち,

(2)『

予 防』のために 『 警戒』す ることを意識 し,( 3) 『 清潔』を価値化 し,『 消毒』

の効用を学んだ

」(123‑4

頁) 。 しか し,「 公衆衛生 とい う身体の規範」は,「 病 の 『 予防』が」,「 他者への 『 監視』 として」あ らわれ,「 負の要素を排除す る 点」にむけ られ,

『 不潔』は 『 清潔』 とい う文明の対極 にあ り,『 下等人民』

は文明の名の もとに裁断され る

(187

頁) 。

また近代の都市空間は,

『国語』の輪郭 と構制」を形づ くる

(188

)

「 東 京における話 しことばは,東京の 『 都市』空間として階層的に垂直的に区分 さ れ るとともに,『 首都』空間として全国各地か ら集 まる人びとの言葉が水平的 に区分 される」 。前者は 「 言語による階層区分 ( 上流/中流/下流

)」

であ り,

かずと し

後者は 「 方言」の問題である

(189

貢) 。上田万年 らによって 「 標準語」制定が 推進 され るが,

『 首都』東京の言語が 『 標準語』に選定されることにより,秦 京の位置は特権化 され, 東京のみが『中央』とな り,他 はひとしなみに 『 地方』

として概括 され,その うえで東京 との 『 距離』により序列化 される」ようにな る

(192

貢) 。

次に首都の空間認識の問題であるが,『 東京穴探』などでは,

『 文明』の首 都東京 における 『 非文明』の局面を批判的に抽出 し,文明批評」が行われ るよ うになる。また

『 地方』の 『 非文明』が,東京の 『 文明』 との対比で意識 さ れる」ようになる

(195

貢) 0

「 新聞紙上には,『 文明』の東京における 『 野蛮』( 祭礼 ・火事 ・暴カー引用

者)の出来事 と,「 異界」の生態 ( 「 貧民窟」一同)が記述 された。描 き出され

た都 市 空 間 の様 相 に対 し,読 者 は, 『 野 蛮』 と 『 異 界』 の対 極 と して の

(9)

『 文明』の側にたち,『 野蛮 』 『 異界』を否定的媒介 とし,自己の価値を確認 し, 自己の世界の内実を形づ くる」 。 これ は 「 『われわれ』 と 『 他者』の分割で あ り,たえず文明の未発達,非文明の他者を創造 し文明の価値を推進するシステ ムの形成である

」(202

貢) 。

最後 に 「 郷友会」の問題について言及する

。1880

年代の後半か ら,

『 想像の 共同体 』 として 『 郷里』が構制 され,創造 された 『 郷里』をきずなとして郷友 会が結成 され る

「 地域を出た人びとは,東京で 『 郷里』を発見, 自己のアイ デ ンティティを 『 郷里』に見出 した うえで, 自らを東京 とむすびっけ, ○ ○出 身の在京者 と化す。彼 らは 『 郷里』 と東京の二つの世界を生 きるが,多地域か らの流入者で構成され る 『 首都』東京 は,『 郷里』を もと 『 地方』出身者の集 合体 として自己像を措 く」のである

(209

頁) 。 これは 「 均一化の空間である東 京に

「 相対的な多様性を主張す る空間が登場 したといいうる

」(210

頁) 0

「 文明開化論」( 牧原憲夫氏) 牧原氏は

,1878

年の起業公債の図が,西洋 人の顔を した 「 神功皇后」であることを,「 文明開化の本質を見事 に表現 した もの」 とす る

(251

貢) 。即ち福沢諭吉の言 うように 「 西洋文明の普遍性を近代 国民国家 という個別の枠組のなかに切 りとれない

ぎり, 日本の国家的自立は ありえなか った。だが,明治政府にとってそれは同時に,天皇制の確立でなけ ればな らなか った。つまり,文明開化 には,近代的価値意識 ( 勤勉 ・規律 ・衛 生等々)への民衆の馴致,民衆の国民化,自由主義的国民経済の確立,天皇制 イデオ ロギーによる教化,とい ったい くつ もの課題があ り,それを解決 して『 文 明国の国民に して天皇の臣民』をっ くりあげることが最終 目標 となった

」(252

蛋) 。氏は,「この く 文明開化の重層性)を政治文化論的視角か ら再検討」す る

(253

頁) 。

「 民衆 にとっての 『 文明開化』はまず,風俗 (日常生活)統制 としてあ らわ

れた」 。 これは 「 民衆を国民 として国家の内部 にとりこむ,いいかえれば 『 制

外』の存在を認めてはな らないがゆえに,四民平等 と風俗統制が同時に必要

だった」のである

(255貢 )0

「 近世の兵農分離制 は,被治者 たる民衆の武装権

(10)

116

商 学 討 究 第

45

巻 第

1

を否定す るかわ りに t h 兵士 にとられぬ権利t hを保障 した。 この t t 客分t h として の気楽 さこそ,公的世界か らの疎外に対す る代償であ った

。 「 裸体禁止などの 風俗統制 は,文明国 らしい外見を整え ること以上 に,『 国民』の育成 とい う歴 史的課題 と深 く結びっいて」いた

(258

頁) 。

「 裸 とな らんで 日本人の祭好 きも西洋人の 目にとまった

」(259

頁) 。 しか し,

「 野蛮への非難 は も 西洋近代も だけでな く,廃仏穀釈 の流 れか らも生 じた」

(262貢 )

。 「 近世社会 に根づいた民衆の信仰や 日常生活 は,も 西洋近代寸 と も日 本古代もの双方か ら挟撃 された

。 「この西洋近代 と日本古代の癒着 は しか し, 明治維新の不可避的な産物」であり,「 く開化 ‑復古〉の図式」だ った

(263

亘) 。

「 文明開化 はさらに,その政策実施の現場である地域社会の秩序回復運動 と い う性格を もっていた

」(265

頁) 。 しか し,「 現実の小学校 は地域社会 に混乱 と

乳 裸を生」み, 「 『開化』はさ らに,子 どもの遊びを も規制 した

」(266

頁) 。 ま た若者組の統制 に対 し,「 若者たちは結髪で対抗 した

」(267

)

。 「 天皇の巡行 も人び との反発をまねいた

」(268

頁) 。牧原氏は,「旧来の民俗世界 に安住 し荒 唐無稽な流言に騒 ぐ民衆の姿 は,いかにも も 愚昧ものよ うにみえなが ら,その 底 には,近代的な政治 ・経済原理を盾 に仁政を拒否す る 『 天皇の政府』に向け

られた,す ぐれて政治的な抵抗の心情が秘め られていた」 とす る

(270

貢) 。 しか し,「 文明開化の基調 は一八七七年 ( 明治

一〇)

頃を境 に,行政主導 の 抑圧的 ・禁欲的開化か ら自発的 ・功利的開化へ と大 き く転換 しつつ,人び とを しだいに内面か らとらえていった

しか も「 他のア ジア諸国に比 して 『 文明』

が急速 に受容 されたところに日本の特質があ り,その原因のひとつが明治以前 の歴史的蓄積にあった ことはい うまで もない

」(272

貢) 。

幕府 は

『 教化的国家』 ‑の傾斜を強め

」(277

頁)てお り,「アイヌ民族の も 保 護もを となえつつ刺青や髭を禁止 し和名を強制 した。創氏改名 は近代天皇制国 家の専売ではな」か った。「もちろん明確 な華夷意識 は知識人層 に限 られたが,

く都会 ‑利発, 田舎 ‑のろま)の図式 は庶民 に も根づ いていた。そ こへ,野

蛮一半開‑文明 という進歩史観が もちこまれ, さらに も 開化 された 日本寸が喧

伝 された

」(379

貢) 0

(11)

また 「明治

〇年代 には自由民権派か らも文明‑の同化が熱心 に説かれた。

た とえば,参政権つ ま り国民 としての権利を要求す る彼 らはおおむね徴兵制 に 肯定的であ」った。「 民権派に対す る民衆の共感 こそが,それ まで も おかみも と して一体化 して いた国家 と政府 を分離 し,個 々の政策の是非を超えた愛国心や モ 文明国 日本も‑の帰属意識 をは ぐくんだ と言え る

」(281

貢)。膨大 な資料 に あた った研究で,デテ ェ‑ルを省略す るのは残念である。

2

各論文への疑問 と問題点

安丸氏の論文 は,それ こそ安丸 「 魔術」 とで も言 うべ き文章の巧み さと,個 別的な表現の面 白さがあるが,それを要約で は伝え られないので,是非,実物 にあた っていただ きたい。 また氏の議論の特徴 は,従来の政局 「 政治史」 とは 違 って,近代国民国家の形成を,国家 と民衆運動 との対抗を軸 に,社会構造や 民衆思想の変化 を も含 めて描 きだす ところにあ る。 この方法論 には,全面的に 賛辞 をお くりたい

5)。

しか し,氏 の論文 の問題点 につ いて は,既 に 『思想』

831

号で,安丸氏 と宮地正人 ・山室信一民 らの座談会があ り,そのなかで殆 ど出 しつ くされてい る

6)。

ここで は屋上屋 を重 ね ることにな るが, その議 論 を紹介 して, 2 ・3の所見を付 け加えてお きたい。

まず宮地氏 は,幕末 に 「 広 い意味での国民的な ものが形成 された とい うこと は主張 しますが,それ は廃藩置県以降のよ うな国家的凝縮性 にす ぐそのまま収

5

)かつて私 は, 自由民権運動期の民衆運動 と帝国憲法体制期の政局 「 政治」史の断絶 という研究状況を問題 に した ことがある( 拙著『 近代 日本成立期の民衆運動』 緒論, 柏書房

,1991

年) 。 しか し民衆運動史の側が,古い 「階級闘争」史 にこだわ ってお り,政局 「 政治」史が ますます 「システム」論的な方法を強めていけば,両者の断 絶 は強まるばか りだと考える。

なぜ近年,「システム」論的な思考が浮上 して きたか とい う点 については,山之 内靖 「システム社会の現代的位相」上 ・下

(

『 思想』第

804・5

,1991

年)を参 照 。

6

)宮地正人 ・安丸良夫 ・山室信一

『 公論』世界 と国民国家

」(

『 思想』第

831

,1993

年) 。以下,特に断 りのない場合 は同書による。

(12)

118

商 学 討 究 第45 巻 第

1

欽するとは考えていないという点です。国民的なものが形成 されることは,同 時に,地域 とか地方の独 自性が出て くる段階で もあったのではないだろうか」

とす る。また 「国民的なものが出て きたか ら,それがす ぐ国家的中央集権的な ものに凝集す るということには直結 しない。 もう少 し別なかたちでの国のまと まりと,地域の独 自性の主張はありうるのです。幕末期の国学 というのは,ま だその両方が併存 していたのではないか という感 じなのです」と指摘する。

そ してオラ ンダやイギ リスなどの多様な国民国家の例を挙げなが ら , 「 国民 形成 といって も,廃藩置県以前において豪農商層が考えていたのは,廃藩置県 以降政府がつ くろうとした国民ではやはりないで しょう

それぞれの地域世界 にかな りしつ こくしがみついた意味での国家 と国民のイメージだ ったと考えて います」 。 廃藩置県 「 以前,豪農商層 も含めて,藩がな くなることはあまり 考えていない。いわば藩のなかに自分たちをコミッ トさせ,その藩が横に連合

して,太政官政府を支えてい くとい う発想がで きていたのではないか。 しか し,それ とは全然別 コースの選択を,廃藩置県によって国家が とった時,やは り戸惑いと抵抗が爆発的に出てきている。それが新政反対一校 というかたちに なる。あれはたんに遅れた層がおこした運動 というよりは,国家形成が別のロ ジックのなかに入 り込んで しまったときの国民的摩擦だと私 は思います」 と語 る。

これに対 して安丸氏 は,「 藩閥政府に反感を もっている人たちも天皇 と国家 の権威を求める傾向が強 く,地域社会の独 自性 とか伝統を守 るかか ということ

も, 日本の場合には,中央に権威を求めることと結びっ きゃすか ったというこ とです。地域の社会にそれな りの伝統 に根ざ したゆたかさがあって,俗な言い 方だけれども,その単純な延長線上に 『 民主的な』 とか 『 分権的な』社会がで

きるというふになっていないのではないで しょうか」 と反論する。

私は維新史 には素人であるが,宮地氏の議論に親近感を覚える。明治政府の

凝縮性 は,幕藩制国家か らス トレー トに持ち込まれるのではな く,一度幕藩制

的な諸制度や地域社会が解体するか ら,それを再編 した明治政府の国家的凝縮

性は,より強まるのではないだろうか。宮地氏の言 うように,「 国民的なもの」

(13)

の形成過程は,同時に地域社会の自律性を強めてい く過程で もある。そのなか にあった 「 未発の近代」の可能性に対 して,安丸氏の議論はあまりにも厳 しす ぎるので はないだろ うか。明治政府 の文明化政策 ‑凝縮性 は,豪農商や国学 者,いな一般民衆か ら見て も遥かに予想を超えたものであった。民衆 にとって 明治政府 は,正に 「 異形 ・異類」の政権であ り,それが新政反対‑按を頻発 さ せた原因のひとつで もあったと考えている。

また明治政府にとって も,強権的な天皇制国家だけが唯一の途であったか, という疑問がある。宮地氏は,「そ こではい くつかのコースがあった と思いま すが,集議院というかたちで諸藩会議 に予算決定権を も持たせろという方向が あ り, これは事実,出は じめていたのです。 しか し,それをや った ら国家は保 てない。焦眉の課題 は強力国家形成だ という意味では,廃藩置県でつ くられた 国家はまさに異質な国家 として・ ・ ・( 略)・ ・ ・ ヨーロッパモデルを借 りなが ら,強 引につ くりは じめて しまった」 としている。中村哲氏にいたっては,明治初年 に 「 共和政」的な政治の可能性 さえ示唆す る

7)。

ここで もやはり,安丸氏の 議論は天皇制国家への一元論に陥 っていると考える。

次に 「 公論」の問題であるが, これ も山室氏が指摘 しているよ うに,「 担 い 手」の問題が気 になる。安丸氏 は,「自由民権運動 は幕末の 『 公論』のよ り文 明的な,より国民主義的な形態であったか ら,説得力があったのだと思 うので す。つま り民権運動 と幕末の政治運動のあいだにはかな り濃厚 な連続性」が あったことを強調す る。

思想史では,以前か ら丸山真男 ・植手通有民 らが自由民権運動での 「 武士的 エー トス」を強調 し,近年では宮城公子氏が 「 儒教的主体」を提起 している。

また民衆運動史では,稲田雅洋氏が民権運動での 「 士族層」の役割を強調 し,

7

)中村哲 『日本の歴史1

6明治維新』(

集英社,1

992

年)60 頁。

8)丸山真男『

忠誠 と反逆』( 筑摩書房

,1992

年) ,植手通有 『日本近代思想の形成』( 岩波

書店,1

974

年) ,宮城公子 「日本の近代化 と儒教的主体」( 『日本史研究』第295 号,

1987

年) ,稲 田雅洋 「民権運動 と士族」( 『 一橋論叢』第71

6

,1974

年) ,尾藤正

英 「明治維新 と武士」( 『 思想』第735 号,1

985

年) 。

(14)

120

商 学 討 究 第

45

巻 第

1

尾藤正英氏が 「 公議輿論」の近世か ら近代‑の連硬性を主張 してお られ る

8' 。

安丸氏の議論 は,それに新たにユルゲ ン ・‑‑バーマスの 「 公共性」論を加 え て,「 身分 制 社会のなかでの政治的意思決定の システムか ら,政治的公共圏が 権力か らも私生活か らもいちお う自立化 して,権力 も政治的党派 もそれを媒介 に して構成されてゆ く,少な くともそ うした契機な しには政治が動かないとい うシステムに転換す る」過程を措かれ る

しか し,安丸氏の叙述には,運動 と しての 「 公共性」 と政治的社会的制度 としての 「 公共性」 との区別が弱 く,そ れを担 う主体が 「 士族」などの上層に限定 されす ぎている。そ こか ら近世 と近 代の連続性が過度 に強調 されていると思 う。

最後に,蛇足になることを承知で,一言だけ付け加えてお きたい。近年,政 治学者の妻尚中氏 は,戦後の思想史研究を リー ドして きた丸山真男の福沢諭吉 研究を批判 して,次のよ うに語 っている 。 「 丸山の思考 は,国民国家の形成が, そ もそ ものは じめか ら隠蔽あるいは排除,抑圧 して きた 『 異質なるもの』に対 す る問題意識 はほとんど伝わ って こない」 。「そ もそ も近代国民国家の形成 は, その内側 に 『 異質なるもの』を包摂 し,排除あるは同化 してい く過程で もあっ た。 とりわけエスニ シティとジェンダーの不可視化 こそ,そ うした国民国家の 形成に卒 まれた,おそ らく最 も深刻な問題であ った

9)。

安丸氏の研究 もまた,( 差別)の周辺の問題を取 り上 げなが ら,実 に周到に (差別)の問題 に介入す ることを回避 している。 これは,氏の研究が意外 に禁 欲的で,自己限定的なところか らくるものであろう

しか し,冒頭に安丸氏は, 国民国家を定義 して,「メダルの裏面 は,国民国家の対局的存在 に向けての分 割 ・排除 ・差別などがある」 としている

今 日,国民国家の形成期の問題を扱 う時, この ( 差別)の問題 は不可避だ と考える

率直に言 って,安丸氏の 「 通 史」には く差別〉の問題が弱す ぎると思 う

成田論文 は,フーコー流の 「 身体」論を,最 も意欲的に取入れようとした論

9

)妻尚中 「 丸山真男 と 『 体系化の神話』の終 蔦

」(

『 現代思想』第

22 1

,1994

年)

227

頁。

(15)

稿であるが,意図はともか くとして成功 しているとは思えない。地方語の否定 と 「中央 」 「 地方」観念の形成。内なる 「 野蛮 」 「 異界」の成立 と,「 多様な空 間」 としての 「 郷友会」 というのは,あまりにも単純な図式である。

まず言語の問題 としては,「 書 きことば」 と 「 話 しことば」が,やはり区別 して論 じられなければな らない。近代初頭の二葉亭四迷の 「 言文一致」につい て,既に寺田透氏 は,「 言文一致」 とい う新 しい 「 文体」の創造であることを 明 らかに している

10)。

また 「 言文一致」運動 は,「 書 きことば」の優位 という

「 神話」の創 出で もあった。 ウォルター ・J ・オ ング氏は,『 声の文化 と文字 の文化』のなかで,次のように語 っている。

イギ リスや ドイツやイタ リアのように,一群の方言があるところでは, しば しば,経済的,政治的,宗教的な理 由,あるいはその他の理 由か ら, 書 くことに結びっ くことによって,一つの地域方言が他の方言か らぬき んでて発展 し,その結果,その方言 は,国民言語

nationallanguag

[ 国 語] になる。 こうした ことが起 こったのは,イギ リスではロン ドンの上 層階級の英語 [ の方言], ドイツでは高地 ドイツ語 ( 南部の高地地方の ド

イツ語) ,イタ リアでは トスカ語である。 これ らはすべて, もともと,事 実上,地域方言 ない し階級方言だ った。 しか し,書 くことを とお して整 序 され る国民言語 としての地位 をえ ることよって,広汎な しかたでは書 かれ ることのない他 の諸方言 とは異な った種類の方言ない し言語 となっ たのである

オ ング氏 は,「 方言的な形式のあるものは捨て,方言 とはまった く異なった 源泉か らさまざまな語嚢の層をっ くりだ し,さらには,ある種の特殊な統辞法 さえ もつ くりだ した 」 「 文字で書かれるこの種の言語」を,アイナル ・‑ ウゲ ンにな らって,「 文字言語

grapholec

t 」 とも呼んでいる

11)0

10)

寺田透 「 近代 日本文学 と日本語

」1959

年 ( 同 『ことば と文体』河出書房新社

,1975

年)参照。

ll)

ウォルター ・ ∫ ・オ ング ( 桜井直文他訳)『 声の文化 と文字の文化』( 藤原書店,

1991

年)

221

頁。

(16)

122 45 1

日本では,文字言語優位の 「 言文一致」体の確立は,何を もた らしたのであ ろうか。私はまず近世戯作の表現や,百姓‑按の義民伝承などの語 りが否定 さ れていったことを重視 したい。新政反対‑撰などでの流言蛮語を見て も,皇后 を 「 玉藻前」 と見た り,朝廷を 「 鬼」 と呼んだ り,「 繍櫛城」の伝説が蘇 った りしている

12)

。民衆の想像力の源泉 となる 「 寓話性」が否定 され,解体 して いったのである

成田氏が注 目している 「 方言」の問題では,先述 した長志珠絵氏が注 目すべ き研究を発表 している。長氏 は,その 「 言語学の 『 受容』

とい う論文のなか で,近世の国学者よりも, ヨーロッパ言語論を学んだ金沢庄三郎 らの 「 言語系 統論」の危険な役割を強調す る。そ して,「 韓国の言語 は,わが大 日本帝国の 言語 と同一系統 に属せ るものに して,わが国語の‑分派たるに過 ぎざること, あたか も流球方言のわが国語 におけると同様の関係 にあるもの とす」( 金沢庄 三郎 『日韓同国語同系論』三省堂書店,1

910

年) とい う金沢の有名 な言葉を

引用す る1 3 )0

しか し,長氏の論文で も注意すべきは,金沢は 「 流球方言」や「 韓国の言語」

を 「わが国語の一分派」 と言 っているのであって, これを 「 撲滅」せよとまで は言 っていない。む しろ1

927

年,文部省の 「 朝鮮‑イウマデモ無 ク我帝国 ノ 一部ナル ヲ以テ,其 ノ地方 ノ言語 ヲ以テ外国語中二列スル‑其 ノ事既二理由無

シ,依 ツテ之 ヲ廃 ス」 とい う命令で東京外国語学校の朝鮮語部が廃止 された 時,当時主任教授であった金沢 は辞職 している 1 4 ) 0 「 言語系統論」か ら日露戦 後の 「 方言撲滅」運動,そ して他民族の言語否定までは,い くつかの段階があ

るように思 う

これ も是非,考えていきたい課題である。

最後に,成田氏が都市の 「 均一空間」のなかで,「 相対的な多様性を主張す る空間」 として評価 している 「 郷友会」について一言 しておきたい。「 郷友会」

12)

拙著 『 近代 日本の差別 と村落

』 (雄 山闇,1993

年)第二部二 「 新政反対‑按 と民衆 的想像力」参照。

13)長志珠絵前掲論文,242

頁。

14)大坂外国語大学の石川遼子氏の卒業論文 (朝 日新聞』19944

11日)。

(17)

については,それ こそ神島二郎氏の 「 第二のムラ」論以来,い くつかの議論の あるところである1 5 )。 しか し, ここで私が注 目したいのは, このように 「 第 二のムラ」 とも言 うべき 「 郷友会」に参加できる人間と,それに入れないスラ ムや被差別部落の人 々という 「 多様な空間」 こそが,都市によって作 りだされ ていることである。「 都市は人間を解放す る」 とい うのは幻想であって,近代 都市がどのような 「 差別 と排除の共同体」を再生産 しているかを,都市の構造 論 に即 して明 らかに していただ きたい。総 じて成 田氏の論文 は,都市論 に も

なっていない し,まして 「 帝都」論にはなっていないという感想をもった。

牧原論文 は,本巻のなかで も最 も興味深 く読んだ力作である。豊富な史料を 背景にし, 1冊の著書に していただきたいような内容であった。 しか し氏の議 論にも,い くつかの疑問点 はあるので,それを提示 しておきたい。

牧原氏が とられる文明開化の 「 開化‑復古」という把握の方法 は,飛鳥井雅 道民によって提起 された ものである

16)。

ただ飛鳥井氏の議論 は,秩父事件な どを 「 近代化その ものにたいす る 『 拒否』の論理をふ くみ こんでいたのであ り,明治十四年 までの民権運動 とは,質を ことしていた」 という鋭い指摘を含 んでいるが,民衆思想研究については次のような批判を提示 している。

しか し,ある 「 思想」を民衆意識 と対置 し,その距離や限界を指摘す ることで,精神史 は本当に再構成 され うるであろ うか。文明開化 その も のを 「 政策」の枠内で,既成の考えかたで簡単 に否定す るのではな く, 把握の しかたを変えて とらえなお したいと,わた しは考える。丸山教 も, 明治十年代にはた しか反天皇制 ・反民権であ り,近代‑の全面批判を う ちだ していたのは事実だが,ひとたび天皇制の側 に とりこまれて しま う と,安丸良夫 もみ とめるとお り 「む しろ天皇制支配を支え る下か らの強 力なエネルギーを提供す る」のが歴史的な事実 だ った。短 い期間のラデ

15)

神島二郎 『 近代 日本の精神構造』( 岩波書店

,1961

年) 。

16)

飛鳥井雅道 「 近代精神の成立過程」( 林屋辰三郎編 『文明開化の研究』岩波書店,

1979

年) ,同編 『 国民文化の形成』( 筑摩書房

,1985

年),同 『 文 明開化』( 岩波書

,1985

年) 0

(18)

124

商 学 討 究 第

45

巻 第

1

カルさを誇張す るよ りも,わた しは,より長い時間のなかで考えたい。

文 明開化 は, はた して民衆 とあいいれなか ったのか。開化への動向 は 民権運動 と敵対 関係 にあ ったのだ ろ うか。 その根底 で は, 明治維新 に よ って突 出 した近代国民形成 は,常 に 「 民衆」 と対立 した内容で しか推 進 されなか ったのか との疑問を,おさえることがで きない。

飛鳥井氏の見解 には,私 も賛同す る部分が多いが,氏の研究では幕末 ・維新 の変革が開明派の動向を中心 に描かれてお り,小学校教育‑の高い評価など疑 問点 も多 い

17)。

後者 の小学校教育の点で は,教育史の龍谷次郎民 らが明 らか に しているように,幕末の寺子屋教育などの下か らの 「 公」教育の進展 に対 し て,新政府の教育政策 はかな り破壊的であ り,そのため明治初年には就学率の 低下などの混乱が起 こっている 1 8 )。新政反対‑按や コ レラ騒動 も出て こない 飛鳥井氏の文明開化研究 は,私 はやはり近代主義だと考える。

しか し,「 開化 ‑復古」の シェ‑マはな るほど魅力的で,開化政策が復古的 な表現 と結 びっかなければ現われないというのは事実である。 しか し,その場 合の 「 復古」を

E

・J ・ホブズボ‑ム流の 「 創 られた伝統」 と見 るのか,天皇 制国家に固有な もの と考えるのか, とい う問題がある。天皇制国家固有の く 伝 統性)の問題 と,国民国家 に普遍的な く 創 られた伝統) との関連を議論す る段 階に,研究史 はさ しかか っていると考え る。

また牧原氏の独特な議論のひ とっ に,「 被治者 としての民衆」論 とい うもの がある。安丸氏の表現を借 りれば,「 生活の専門家」 と しての民衆 とい うこと になる。近代の国民国家 は, この 「 被治者 としての民衆」を徴兵令などによっ て国政に 「 参加」させようとする所か ら,大 きな矛盾 と 乳 蝶に遭遇する。氏は, 徴兵令反対‑按を次のように説明す る。

17)

飛鳥井雅道前掲書 『 文明開化』

,187・23・132

18)

龍谷次郎 『 龍谷次郎日本教育史論集』( 大空社

,1993

年) 。今日でも幕末の識字率の 高さから , 「 文化革命」だの日本の近代化の成功を説 く議論があるが,龍谷氏の研 究は, 寺子屋から近代「 公教育」 ‑の間に,いかに断絶があるかをよく示 している。

「 私」 的なものの集合として「 公」が生まれないところに,私は日本人の 「 公権力」

への弱さがあると考えている

(19)

徴兵忌避のほん とうの原因は,臆病 とか破廉恥 といった レベルの問題 ではなか った。豊 臣秀吉の刀狩 り ・兵農分離以来,民衆 は抵抗の武器を とりあげ られたが,その反面,戦争 にな って も原則 として人夫 に徴用 さ れ るだけで直接戦闘にか りだされ る心配 はな くな ったのだ。それ は被治 者 としての農工商民の 「 特権」 といって もよか った。幕末の混乱期です ら,農民を百姓身分のまま戦闘に動員す ることはで きなか った。 ま して 外国 にまでつれだされた り,平時においてす ら三年間 も身柄 を拘束 され

ることなど,考え られ もしなか った。

氏の 「 被治者 としての民衆」論 は,なかなか魅力的な議論であるが,い くつ かの疑問がある。まず 「 刀狩令」については,既に藤木久志氏が,「 近世の百 姓を文字通 りにいわゆる丸腰の農民 とみることはできない」 という疑問を呈 し ている

19

)。 この疑問を受けて,朝尾直弘氏や,熊谷光子民 らは,牢人や帯刀 人などの 「中間的身分」についての実証的研究をすすめている2 0 )。私たちの 近世史研究の動向を受けて,近世での 「 武器」体験についての認識を改める必 要がでてきている。

また私は,新政反対‑按での民衆の恐怖を分析 したが,民衆の心性は,その ように 「 合理的」な ものではな く,「 文明化」総体への激 しい恐怖 と憎悪が見 られる。 目下は,それが何であるかを考えたいのであって,牧原氏の議論は説 明の後付けになっていると思 う

したが って,徴兵令反対一 一漠の終蔦 も,「 国 民皆兵のふれ こみにもかかわ らず,実際に徴兵の作業をすすめてみた ら,適齢 者の八割以上がなん らかの免役事項にあてはまったのだ」 。 「これな ら,処罰覚 悟で‑按をお こす よりも, 養子やモ 病気もにな って合法的にのがれたほうがて っ

とり早 く確実だった」 とい うの も,‑授終蔦の理 由としては,あまりにも単純

19)藤木久志 『

豊臣平和令 と戦国社会』 ( 東京大学出版会,1985 年)21

4‑ 6

頁。

20)朝尾直弘 「

近世京都の牢人

」(

『 京都市歴史資料館紀要』第10 号,1

992

年) ,同 「 十

八世紀の社会変動 と身分的中間層」( 『日本の近世10 』中央公論社,1993 年) ,熊谷

光子 「 帯刀人 と畿内町奉行所支配」( 脇田修はか編 『 身分的周縁』部落問題研究所,

1994

年) 0

(20)

126

45

1

である。総 じて 「 文明化」を拒否 した民衆が,なぜ1

877

年 頃を契機 に積極的 に受容す るのか。民衆の心性に即 した説明が必要だと考えるO

しか し,牧原氏の 「 「 被治者 としての民衆」論 は,氏の他の議論 と同様,良 い歴史的スパ ンで考え られている議論である。氏は次のように語 る。

封建時代の民衆の仁政要求 はまさに被治者の立場か らの抵抗であった。

農民‑按 は,それが どれほど過激であって も,「 治者」 としての 「 職分」

をまっとうに果たす よう要求す るにとどま り,領主の統治権その もを否 定す ることはなか った。西欧民衆のモラル ・エ コノ ミー的要求 も 「 外部 の上級権力の存在を承認 した上で 自己の世界を主張」 したにす ぎず,支 配者 とのあいだには家父長的な保護 一服従の 「 均衡関係」が厳然 と存在 していた。 もちろん,不正 ・不義をはた らく行政担当者を糾弾 しその更 迭を求める異議 申 し立て ‑ 「 不服従」の運動が,農民のなかに権利意識 をっ ちかい,封建体制を動揺,崩壊 させてい った ことは否定で きない。

だが,それ はみずか らが権力を奪取 して 「 治者」になる 「 革命」ではな か った。‑ ( 略)・ ・ つ ま り,民衆運動の 「 敗北」は現実の政治力学の結 果であるだけでな く,民衆思想 に内在す る被治者意識の必然的な帰結な のだ。

そ して,植木枝盛の専制政府批判にたい して も ,「 『 権力を握 る』とは 『 国家』

を自己の内面にかかえ込む ことなのだ。そのおそろ しさをあ らか じめ自覚 して いないようなやわな 『 被治者』意識では,抵抗権をかかげて専制権力を倒 した 新政府が一転 して国民の批判を 『 反革命』 として弾圧す るような,あ りきたり

2

1 )牧原憲夫 『明治七年の大論争』(日本経済評論社,1990 年)48・70・246‑ 7 頁。

また氏 は , 「民衆の願望をす くいあげたユー トピアが往 々に して も 良 い国家t tによ る牢獄的管理 に帰結す るの も,権力の行使を 『 人民保護』のための行為 とみなす パ

ターナ リズム ( 家父長的な恩 ‑頼関係)か ら 『 革命』家が脱却で きないか らだOそ

こでは,善政 と悪政の区別 はあって も,権力 と人民 とをあ くまで も対置 し,国家 ‑

統治 その ものを 陵疑す る発想,つまり徹底 した被治者意識が欠落 してお り,民権 と

国権の相互浸透 ・相互転化の関係性 は少 しも解体 されていない」 とす る

(247

頁) 。

氏の議論 は , 「自主管理」社会主義 まで射程 にいれている

(254

頁) 0

(21)

の 『 革命』 しか実現できない」 とする

21)。

氏の議論 には,総論 としては賛成であるが,いささか議論が飛躍 しす ぎてい るように思 う

氏の方法では,幕末か ら明治初年の民衆が,国訴や百姓‑按の なかで展 開 した自主的な 「 地域管理」や,民権期の民衆が行 な った地方 「自 治」闘争などを,充分に歴史的に評価で きないと考える。歴史を半歩で も進め て きた民衆 の営みを解 くのには,氏の方法 はいささかマ クロ的す ぎると考え

る。

また私の問題関心 としては,文明開化の段階で,なぜ 「 身体性」の問題が浮 上す るのか, という点が気 にかか る。 この問題については,武智鉄二民 らが, 日本人の 「 右足が前に出る時は,右手 も前 に出る」とい うナ ンバ とい う歩 き方 が,軍隊の行軍にとって障害になった ことを指摘 している㌶

) 。

これ も大事な 問題であろうが,私 は近代化のなかでの 日常の生活や習慣の同一化 ということ が,「日本

「日本人」 という共通性 ( ‑幻想の 「 共同体」

)を創 り出 してい く

のであ り,それ と同時に異なる生活や習慣を持つ人間を排除 し,差別 していっ た と考えている

「 過剰同調」 と言われ るよ うに, 日本の近代化 は,強烈な

「 同化」の過程 として進行す る。それだけにマイノリティーにとっては,激 し い 「 異化」 と排除の過程 ともなったのである。

す くな くとも本巻 は,「 国民国家」の相対化が重要な課題 となっている今 日, 多 くの問題 を考え させて くれ る論集であ った。私 自身が,今後 の研究のなか で,各論者に出 した疑問点を考えていきたいと思 っている。

( 付記) 本稿 は

,1994

2

19

日の歴史学研究会近代史部会での報告 に加筆 した も のである。報告の機会を与えて くださった歴研委員の方 々と,当 日貴重な意見を くだ

さった,安丸良夫 ・牧原憲夫 ・鶴巻孝雄民 らに心か ら感謝 したい。

22)

武智鉄二 『 伝統 と断絶』( 新装復刻版,風涛社

,1989

年)

27

頁。杉 田敦 「 政治 にお ける 『 近代』 と 『脱近代 』 」( 岩波講座 『 社会科学の方法第 7巻 政治空間の変容』

岩波書店

,1993

年) 0

参照

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