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世界劇場からパフォーマンスへ ――

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世界劇場からパフォーマンスへ

―― ホーソーン文学はパフォーマンス研究として考察できるのか ――

川 下   剛

(受付 ₂₀₂₀ 年 ₆ 月 ₂₉ 日)

は じ め に

 人間は日常的に「自分」とは別の何かを演じている。これは古代ギリシャ・ローマ時代よ り受け継がれてきた世界観であり,人は神の目を意識しながら演じるのが常であった。しか し₁₉世紀アメリカでは,宗教的な信仰が薄れ始めるのと時期を同じくして,神の目よりも人 の目を意識しながら演技を披露する劇場文化が繁栄する。この時代に生まれたナサニエル・

ホーソーン(Nathaniel Hawthorne, ₁₈₀₄-₆₄)は当時の劇場文化を受容しつつも,人は日常 的に何をどのように演じているのか,演じる人間はどのような本性,あるいは「自分」を秘 めているのか,人間を「見る」ことに興味を覚え,それを文学作品に反映させた作家である。

幼少期より劇作家ウィリアム・シェイクスピアの作品を愛読していたホーソーンは,この世 を舞台に,人を役者に喩える世界劇場(theatrum mundi)の隠喩に親しんでいたのである。

それゆえこれまでもホーソーン作品は,シェイクスピアの影響や文学作品の演劇性,当時の 劇場文化との関連性など,様々な視点から論じられてきた。しかし世界劇場の隠喩は現在,

パフォーマンス研究の領域へと引き継がれて進化の途上にあることを考えれば,シェイクス ピアの世界観を踏襲したホーソーン文学はパフォーマンス研究として考察することができる のではないだろうか。

 そこで本論では,まず世界劇場からパフォーマンス研究までの流れを概観し,次にパフォー マンスとは何かを定義する。最後に,文学におけるパフォーマンスとはどのようなものかを 例証して,ホーソーン文学におけるパフォーマンス研究援用の可能性について考察したい。

1. 世界劇場からパフォーマンスへ

 E・

R・クルツィウスによれば,世界劇場の隠喩は,古代ギリシャ,ローマを取り巻く地中

海世界よりしばしば用いられ,中世ヨーロッパ世界へと広がった(E. R. クルツィウス ₂₀₀-

₂₀₈)。例えば,紀元前 ₄ 世紀半には,ギリシャの哲学者プラトンが『法律』の中で「わたし たち生きものはみな,神の操り人形だと考えてみるわけです。もっとも,神々の玩具として

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つくられているのか,なにか真面目な意図があってつくられているのか,それは論外として ね。なぜなら,そんなことは,わたしたちに認識できることではありませんから」(『法律

(上)』

₇₂)と,人生を神が演出する人形劇に擬えている。また紀元後 ₁ 世紀のローマでは,政

治家であり,哲学者,詩人でもあるセネカが『倫理書簡集』の中で「人生の喜劇――それが 私たちに割り当てる役柄を私たちは拙劣に演じる定めだが」(『セネカ哲学全集 ₅ 』

₃₆₁)と,

日常生活においてだれしもが仮面を被り,舞台上で「役柄」を演じているのだと述べている。

一方,時代が下がってルネサンス期のイギリスでは,シェイクスピアが『お気に召すまま』

(₁₆₂₃)の中で,「この世は舞台,男も女もみな役者にすぎない,それぞれに退場があり登場 がある,人間は自分の出番に何役も演じるのだ・・・」(As You Like It ₂₂₇)と,端的にこ の隠喩を表現している。シェイクスピアの戯曲における台詞ではその他にも,『ヴェニスの商 人』(₁₆₀₀)における「私はこの世はこの世としか考えていないよ,グラシアーノ――つまり 舞台だ,みなそこでは一役演じなければならない,私のは哀れな役というわけだよ」(The

Merchant of Venice ₁₉₃)や,『リア王』(₁₆₀₈)における「わしらはみな生まれたときに泣く

のだよ,道化にあふれたこの世というばかでかい舞台に連れてこられたことにな」(King Lear

₉₃₅)など,この隠喩の世界観には枚挙にいとまがない。『シェイクスピア大辞典』の序の中 で大場健治は,「世界は劇場であるという古代以来の『世界劇場』(theatrum mundi)のメタ ファーは,神を演出者に想定することで中世の世界観とみごと結合してルネサンス期に及び,

とりわけシェイクスピアの作品にその最も豊かな演劇的表現を見出した」(ii)と述べている。

 このような世界観をもつ古代ギリシャ・ローマやシェイクスピアの戯曲など,西洋の古典 思想や文学が知識人の教養の一部であった₁₉世紀アメリカにおいてもまた,世界劇場の隠喩 を用いる例は多い。自国文学が芽生え始めたアメリカン・ルネサンス期の代表作家の ₁ 人,

ナサニエル・ホーソーンは初の長編作品『緋文字』において,「老ロジャー・チリングワース は,彼らみなが役者であった罪と悲しみの劇に密接なつながりがある者のひとりとして,後 に続いた。当然,その終幕に登場する権利を与えられているとして」(The Scarlet Letter ₃₆₇)

と,物語の結末に役者が揃ったことを演劇的な表現で説明している。そして翌年の『七破風 の屋敷』(₁₈₅₁)では,「あなたはあたかもこの古い屋敷がまるで劇場であるかのように話す のね。・・・この劇では役者たちの犠牲が大きすぎるし,観客の心が冷たすぎるわ」(The House

of the Seven Gables ₂₁₇)と,屋敷を劇場に,物語を戯曲に重ね合わせている。続く『ブライ

ズデール・ロマンス』(₁₈₅₂)の序文では,「要するに,この社会主義共同体をめぐる著者の 現在の関心は,普通に往来のある本道から少し離れたところに劇場を建てることである。そ こでは著者の頭脳が生み出した人物たちが,日常生活の現実的な出来事との詳細な比較に晒 されることもなく,次々と道化を演じることができるのである」(The Blithedale Romance ₁)

と,語り手はこれから語る物語が裏通りの劇場で披露されるかのように読者を誘っている。

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そして最後の長編作品『大理石の牧神』(₁₈₆₀)の序文では,「これから作法に則り,みなさ まに受け取っていただくこの作品について二言三言述べますが,それが終われば恭しくお辞 儀をして幕の後ろへ引き下がります」(The Marble Faun ₂)と,語り手はあたかもこれから 舞台公演が始まるかのように振る舞っている。ジェラルド・カファロによれば,序章におけ る「演劇的文彩(theatrical trope)」については,チャールズ・ディケンズの『ピックウィッ ク・ペイパース』(₁₈₃₆-₃₇)やウィリアム・サッカレーの『虚栄の市』(₁₈₄₈)ですでに用い られているため,ホーソーンはそのような₁₉世紀イギリス文学の手法を踏襲したのではない かと考えられる(Cáfaro ₂₆₇-₂₇₁)。また,竹内勝徳が上梓した『メルヴィル文学における

〈演技する主体〉』(₂₀₂₀)では,シェイクスピアやホーソーンに影響を受けた₁₉世紀のアメリ カ人作家ハーマン・メルヴィルの全長編作品が取り上げられ,「自分」という存在の本質を問 う「演技する主体」について詳細に論じられている。このように₁₉世紀のアメリカ社会では,

独立戦争で湧き上がった反英感情にも関わらず,劇場でも書籍でもシェイクスピア人気が衰 えることはなく,ホーソーンやメルヴィルのように世界劇場の隠喩を踏襲する作家たちを生 み出していたのである

 古代ギリシャ・ローマの思想からシェイクスピアの戯曲を経由して₁₉世紀アメリカへと輸 入された世界劇場の隠喩は,₂₀世紀に入ると社会学の分野に応用される。社会学者アーヴィ ング・ゴッフマンは,人は日常的に社会規範に適した仮面を身につけ,それに応じた役割を 演じているとして,現実における演劇的側面を論じ,「パフォーマンス」という視点を導入す る。「『パフォーマンス』とは,既定の機会に既定の参加者が,他の参加者に何らかの影響を 及ぼすあらゆる活動と定義できよう」(Goffman ₁₅)と語ったゴッフマンは,「この世はすべ て舞台という主張はあまりにもありふれている」(Goffman ₂₅₄)と,世界劇場の隠喩が凡 庸な視点であるという断りを入れている。古くから続く世界劇場の隠喩は,あまりにも一般 的で受け入れやすいがゆえに多用され,ありふれた日常生活にも適用される決まり文句にも なったのであろうが,それを社会学へと応用したゴッフマンの視点は斬新だったといえよう。

さらにこのゴッフマンのパフォーマンスという用語を踏襲し,世界中のあらゆるパフォーマ ンスという言葉と概念を纏めながら,その理論的枠組みを構築しているのがリチャード・シェ クナーである。彼は現在も領域横断的に様々な学問領域を結びつけ,世界劇場の世界観を踏 まえたパフォーマンス研究を進化させている途上にある(Performance Studies ₂₀₂₀, ₃₁-₃₄; 以 下

PS)

。つまり,古代ギリシャ・ローマ時代から脈々と受け継がれてきた世界劇場の隠喩は 今,パフォーマンス研究の領域に引き継がれているのである。

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2. パフォーマンスとは何か

 パフォーマンスとは現在,どのような意味で使われているだろうか。例えば,日常生活で も,パフォーマンスがいい,パフォーマンスが悪い,とは耳目に馴染んだ言葉であるが,様々 な場面や文脈を連想させる。インターネットやパソコンの話であれば,機器の通信状態や性 能,情報処理能力の良し悪しとなる。またスポーツやビジネスの場面では,個人の才能や能 力の良し悪しを指し,勝利や成功へいかに貢献しているかを判断される。一方,外食や買い 物の話であれば,その食事や買ったものに対する金銭的,精神的満足度の基準となる費用対 効果,いわゆるコストパフォーマンスの良し悪しとなる。そして,音楽や演劇,映画につい てであれば,何かを演奏したり演じたりする芸術的な表現によって,観客の心を震わせ,魅 了しているかどうか,あるいは表現技術の高さでパフォーマンスの良し悪しが決まる。つま りパフォーマンスという言葉は現在,多くの場面で様々な意味に使われているため,その定 義はそれぞれの文脈に応じてなされなければならないといえよう。

 高橋雄一郎によれば,学問分野としてのパフォーマンス研究のはじまりは,ニューヨーク 大学芸術学部において,大学院の演劇科がパフォーマンス研究科へと名称を改めた₁₉₈₀年で あり,その中心的役割を果たしたのがリチャード・シェクナーである。₁₉₆₇年に同大学芸術 学部の創設に参画したシェクナーは,ニューヨークのソーホー地区で実験演劇を主催しなが ら,従来の戯曲研究に基づいた演劇学の在り方の革新を試みる。彼は,文化人類学や社会学,

民俗誌学,精神分析学,記号学,フェミニズム研究など,様々な学問領域の理論的諸相を考 察し,パフォーマンスが意味する対象の共通項に着目する。そしてテクスト研究中心の演劇 学から人の行為に注目するパフォーマンス研究へと研究活動の場を広げた。この間シェクナー は,世界各地のパフォーマンス文化やパフォーマンス研究の学問的在り方をめぐる国際会議 を重ね,様々な専門家と意見交換をしながら,パフォーマンスの多様な形態に関する理論的 モデルの構築に努めた(PS ₂₀₂₀, ₃₄-₃₅)。このようなシェクナーの研究を初めて本格的に日 本へ紹介したのが,『パフォーマンス研究――演劇と文化人類学の出会うところ』(₁₉₉₈)で ある。この日本語版の序文によればパフォーマンス研究とは,「演劇,舞踊,音楽などの『美 学的ジャンル』だけでなく,日常生活におけるパフォーマンス,祭祀や公共の儀式などの文 化的パフォーマンス,ジェンダーやアイデンティティのパフォーマンス,大衆芸能,さらに 動物,特に霊長類に見られるパフォーマンス的な行動なども含む,広義の『遂行的(パフォー マティヴ)行為』を研究対象とする」(『パフォーマンス研究』

₁ )。このように世界的に大き

な学問的影響力を及ぼし,領域横断的な考察が重ねられたシェクナーの研究結果は,ようや く₂₀₀₂年に『パフォーマンス研究』として纏められる。その後もシェクナーは,時代と文化

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の変化よって流動的に用いられるパフォーマンスの諸相に応じながら,₂₀₀₆年に第 ₂ 版,₂₀₁₃ 年に第 ₃ 版,₂₀₂₀年に第 ₄ 版と,精力的にパフォーマンス理論のバージョンアップを行って いる。

 では具体的に,パフォーマンスを行うとはどういう行為なのだろうか。シェクナーは以下 の ₄ つの言葉の関係性を用いて説明している。

 ・存在すること  ・すること

 ・することを呈示すること

 ・することを呈示することを説明すること(PS ₂₀₂₀, ₄)

シェクナーによれば「存在すること」とは,動的や静的,物質的や精神的に関わらず存在そ れ自体である。そして「すること」とは,原子や分子などの細かい粒子から動物や植物など の生物,そして宇宙規模で行われているあらゆるものの活動を指す。「することを呈示するこ と」とは,指を指したり,何かを呈示したり,展示したりなど,他者を意識したあらゆる行 為を指し,これがパフォーマンスであるという。ここで注意しておきたいのは,パフォーマ ンスをするためには必ずパフォーマンスをする側と見る側,言い換えればパフォーマー(演 者)とオーディエンス(観客)の存在が必要だということである。そして最後の「すること を呈示することを説明すること」がパフォーマンス研究である。それゆえパフォーマンス研 究とは,パフォーマンスが呈示するものをどのように観客が受容しているのか,その場に呈 示された行為や存在の意味作用を様々な学問領域に関係付けながら読み解く研究だといえる。

 シェクナーは,パフォーマンスという用語が使用されている領域を ₉ つに分類している(PS

₂₀₂₀, ₇-₉)。その ₉ つの領域とは,①日常生活,②芸術,③スポーツや人気のある娯楽,④ 仕事,⑤政治,⑥科学技術,⑦セックス,⑧儀式,⑨遊び,である。①の日常生活における パフォーマンスについては,人が社会生活を送る上で演じる社会的役回りや行為をパフォー マンスとして捉える社会学的な概念であり,アーヴィング・ゴッフマンが著書『行為と演技』

(₁₉₅₉)の中で詳しく論じたものである。この著書では,実生活におけるパフォーマンスが例 示されているだけでなく,シモーヌ・ド・ボーヴォワール,ジョージ・エリオット,ジョー ジ・オーウェル,ハーマン・メルヴィルなどのフィクションにおける登場人物の行為がパ フォーマンスとして取り上げられている。そこでは,日常生活において人はいかに他者のま なざしを意識しながら,社会生活で求められる仮面を身につけ,演技し,自己を呈示してい るかについて論じられている。次に,②の芸術におけるパフォーマンスとは,演劇,音楽,

ダンス,パフォーマンスアートなどを含むが,絵画,写真,陶芸,著作物(writing)はパ

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フォーマティヴに理解されうるという。これらの芸術に共通する行為は,観客に美的,想像 的創作を公開すること,つまり「することを呈示すること」である。生の身体行為を呈示で きない絵画や文学におけるパフォーマンスがどのようなものかは,後で詳しく見ていきたい。

③のスポーツや人気のある娯楽では,例えば,ユニフォームを着て,ポジションや役割を与 えられたスポーツ選手は,日頃から厳しい練習を重ねているからこそ観客の前で素晴らしい プレーが披露できる一方,音楽コンサートやテーマパークなどでも,演者はあらかじめ決め られた役割を演じ,観客が期待する服装,振る舞い,サービスを提供しているといえる。④ の仕事でも,あらかじめ決められた役割を演じるのは同様である。例えば,法廷や医療,ビ ジネスの場ではその役割分担が顕著だろう。⑤の政治では,ある国の首相がいかに私的な利 益誘導や本音を隠し,あたかも国民のために全力を尽くしているという振る舞いをしていれ ば,それが政治的パフォーマンスと呼ばれるので,この領域ではパフォーマンスという言葉 が悪い意味で使用されているのではないだろうか。⑥の科学技術には,ツイッターやフェイ スブック,インスタグラムなどの

SNS

やインターネット上の仮想空間が含まれるだろう。そ こでは自分とは別の名前や「アバター」を使用して,自分が望む人格や役柄を演じながら世 界中の人々と交流ができる。⑦のセックスでは,様々な状況や場所が想定されうるが,そこ には役割や演技が用いられることもある。⑧の儀式とは,宗教的なもの,世俗的なものも関 わりなく,各国の儀礼や慣習に根差した文化的行動様式であり,人類学的な領域だといえる。

高橋は,「宗教儀礼や,国家によりプロデュースされるパフォーマンスは,民族の起源にまつ わる神話や共同体の歴史を,演劇的な手法を使って再現する。この時,参加者や観客,ある いはテレビの視聴者は,呈示された物語を自らの関係性において振り返り,身体化された記 憶として受け入れていく」(『身体化される知』

₁₉-₂₀)という。⑨の遊びでは,おままごと,

かくれんぼ,おにごっこなど,子どもたちはゲームのルールによって異なる役割を演じるこ とを楽しむが,大人になっても様々なゲームはあるだろう。

 では,このように様々な領域に跨るシェクナーのパフォーマンスの定義とはどのようなも のだろうか。そしてパフォーマンスを行うとはどういうことだろうか。シェクナーは,ゴッ フマンの『行為を演技』におけるパフォーマンスの定義を前提としているので,本論でも次 のようなゴッフマンのパフォーマンスの定義を参照したい。

ある「パフォーマンス」とは,既定の機会に既定の参加者が,他の参加者に何らかの影 響を及ぼすあらゆる活動と定義できよう。特定の参加者と彼のパフォーマンスを基準と なる参照点とすれば,その他のパフォーマンスへ寄与する人々は,観客,監視者,共同 参加者といえる。あるパフォーマンスの間に明らかにされたり,また他の機会に呈示さ れたり,演じられたりする決められた行為のパターンは,「役柄」や「お決まりの仕事」

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と呼べるだろう。これらの状況で使用される用語は,従来の構造用語と容易に関連付け られる。ある人,すなわちパフォーマーが,異なる機会に同じ観客に対して同じ役を演 じれば,ある種の社会的関係が生じうる。社会的役柄を既定の地位に付属した権利と義 務を演じることと定義すると,社会的役柄は ₁ つ以上の役を含み,それらの異なる役は それぞれ同一のパフォーマーによって,一連の機会に同種の観客に対して,あるいは同 じ人々で構成される観客に対して呈示されることになるといえよう。(Goffman ₁₅-₁₆)

ここでゴッフマンは,日常生活における人々の行為をパフォーマーが演じる演技と見なし,

パフォーマーが見る人に対して何らかの影響を及ぼす行為をパフォーマンスと定義している。

例えば,大学教員を例に挙げてみよう。教員は既定の時間に既定の学生の前で専門の授業を 行い,参加した学生に専門的な知識を伝達する。これを「世界劇場」の隠喩で捉えれば,大 学教員は学生という観客の前で教壇という舞台に立ち,「役柄」に応じた「お決まりの仕事」

を行うといえよう。これが教員のパフォーマンスである。教員は毎週,異なる機会に同じ学 生を相手に授業を行うので,そこには教員と学生という固定された社会的関係が生じる。し かし大学教員は授業が終わり,大学の廊下で別の教員と挨拶をすれば,教員同士の同僚とい う社会的「役柄」へと切り替わり,家族のもとに帰れば,父母や夫婦,子のような社会的「役 柄」に切り替わる。日常生活において人は ₁ つ以上の「役柄」を演じているのである。つま りゴッフマンによれば,人間は社会生活において日常的にその環境に応じた仮面を身につけ,

「私」ではない別の社会的「役柄」を演じているのである。従ってパフォーマンスとは,見る 者に対して何らかの知的,感覚的,精神的影響を与える行為だと定義できる。そして,この ゴッフマンの定義を踏まえてシェクナーは,「パフォーマンスを行うとは,現在進行している 終わりのない(一連の)活動である」(PS ₂₀₂₀, ₃)と纏めている。

 もともと演劇学の研究者であったシェクナーは,ゴッフマンのパフォーマンスの定義に「再 現された行為(restored behavior)」(PS ₂₀₂₀, ₁₀)という重要な基本概念を加えている。「再 現された行為」とは「 ₂ 度行われた行為(twice-behaved behavior)」,つまり初めてではなく

₂ 度以上行われた行為を指すパフォーマンス研究の用語である。以下,もう少し詳しくシェ クナーの説明を見てみよう。

パフォーマンスは,行為の意味を示し,時間を屈曲させ,形を作り直し,その体を飾り,

物語を物語る。再現された行為は,日常生活,癒し,儀式,遊び,スポーツ,芸術など,

あらゆる種類のパフォーマンスの基本過程となる。再現された行為は「私」から離れた

「向こう」にある。再現された行為とは,「あたかもだれか他人であるかのように私が振 る舞うこと」,「言われたように振る舞うこと」,あるいは「習ったように振る舞うこと」

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である。・・・「私」が重層的であるという事実は,攪乱のしるしではなく,ものごとの あり方である。(PS ₂₀₂₀, ₁₀)

「再現された行為」を演劇に擬えるならば,監督や脚本,演出によって人の日常生活や社会の あり方を再現,あるいは再構築した行為がそれだといえよう。そしてシェクナーは,日常生 活においても,文化的社会的に適切な行動をとるためには訓練や練習が必要であるという。

幼稚園や小中学校,高校における教育だけでなく,社会や家庭における体験や経験は,現代 人が成人後に社会生活へ適応するため,あるいは好ましいパフォーマンスを行うために不可 欠な訓練となる。つまり,舞台上の役者だけでなく,日常生活において人はだれしも,様々 な訓練を積み重ねた上で社会的「役柄」を演じているというわけである。また,役者やパ フォーマーによる即興的な行為であっても,それらは元々行われていた無数の行為を組み合 わせ,編集した「再現された行為」であるという。このようにパフォーマンスとは,観客に 対して何らかの知的,感覚的,精神的影響を与えるパフォーマーの「再現された行為」だと いえる。

3. 文学におけるパフォーマンス

 では文学におけるパフォーマンスとはどのようなものだろうか。シェクナーは,「すべても のごとをパフォーマンス『として』研究可能である」(PS ₂₀₂₀, ₁₂)と主張しているが,現実 における生の身体行為と同じようにフィクションにおける身体行為もパフォーマンスと見な すことができるのだろうか。この問いについて,シェクナーはパフォーマンス「である(is)」

行為とパフォーマンス「として(as)」捉えられる行為とに分けながら説明している。

 まずパフォーマンス「である」行為とは,演劇やダンス,音楽や儀式のように,観客の眼 の前で行われる行為がパフォーマンス「である」。

歴史的社会的文脈,慣習,慣例,そして伝統がそうだと示す時,それはパフォーマンス

「である」。儀式,遊び,スポーツ,演劇,ダンス,音楽,そして日常生活における役割 は,文脈,慣習,慣例,そして伝統がそうだと示すのでパフォーマンスである。だがど のような儀式か。どのような日常的役割なのか。明確な文化的背景がなければ,何がパ フォーマンス「である」のかを決めることはできない。(PS ₂₀₂₀, ₁₂)

例えば相撲には,取り組みが始まるまでに様々な決まりごとがある。土俵に入った力士は,

つま先立ちで腰を下ろし,左右に両腕を広げて柏手を打つ。そして四股を踏んだり,塩をま

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いたりする。相撲がただのスポーツではなく神事であることを心得ている観客は,力士たち が神聖な土俵上でどのような儀式を行っているのか,慣例や伝統によって理解している。そ れゆえ相撲はパフォーマンス「である」。また,食事の前にお祈りをしたり,両手を合わせた りする行為も,その家庭の宗教や慣習に基づいた日常生活におけるパフォーマンス「である」。

なぜならそれらの行為には,その家庭固有の意味が存在し,家族にはその行為に対する共通 認識が存在するからである。一方,あらかじめ観客との間に共通理解がなく,演者がその意 味を問いかけるような劇場の舞台やストリートのダンスなどもパフォーマンス「である」。そ の場における所作の意味は,歴史的,社会的文脈,あるいは空間表象よって演者と観客の間 に生成されうる。つまり,だれかが見ている目の前で「することを呈示すること」がパフォー マンスなのである。

 このように演者の動作を必要とする「である」パフォーマンスに対し,動きのないものは パフォーマンス「として」捉えられる。シェクナーは

PS

第 ₃ 版(₂₀₁₃)の中で世界地図の メルカトル図法とペータース図法を引き合いに出し,パフォーマンス「として」捉えられる 対象を以下のように説明している(PS ₂₀₁₃, ₄₁-₄₂)

 本来,地球は丸い。国境もない。しかし平面上に書かれた地図には,当然のごとく国や町 の境界に線が引かれ,国家や民族に隔てられている。それゆえ地図しか見たことのなかった かつての人々が宇宙から撮影された地球の姿を見た際は驚いたに違いない。地図とは,本来 の地球の姿を映したものではなく,世界に関する独自の解釈が施された投影図法にすぎない のである。その代表例が₁₆世紀フランドルの地理学者ゲラルドゥス・メルカトルが作成した 世界地図である。それまで曲線としてしか描かれなかった地図上の経線と緯線をメルカトル が直線を使って引き直したことで,当時の航海士たちは出発地から目的地まで航路をまっす ぐ測定できるようになり,とても役立った。それゆえメルカトル図法は船乗りや貿易商人に 適した地図だったといえる。しかし本来 球体である地球の縦横の線を直線で捉え てしまえば,当然歪みが生じる。極に向 かうに従って面積がおそろしく肥大化し てしまうのである。例えば,ヨーロッパ や北アメリカの面積は大きくなり,アフ リカや南アメリカの面積は小さくなって いる。このような視覚的影響について シェクナーは,「あらゆる地図は特定の 方法で地球を表現するだけでなく,国家 間 の 力 関 係 を も 規 定 す る の だ」(PS 図1 メルカトル図法

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₂₀₁₃, ₄₂)と指摘している。つまり,

メルカトル図法は植民地保有国が望む 地球の姿を「規定/上演(enact)」

(PS ₂₀₁₃, ₄₁)し,見るものに西洋社 会優位の印象を与えるのである。この 歪みは,アルノ・ペータースが作成し た「面積が正確な」地図と比較してみ るとより明らかになるだろう。しか し,彼の地図では南半球が引き伸ばさ れ,北半球が押しつぶされているよう に,こちらでは形が不正確となっている。結局,丸い地球の平面地図を作ろうとすれば,形 状か面積が犠牲になってしまうのである。このように両者の地図を見比べてみると,あらゆ る平面な世界地図は本来の地球の姿とは異なる別の姿を「規定/上演(enact)」していると いえ,シェクナーはこれを地図のパフォーマンス「として」捉えている。この点について高 橋雄一郎は,「身体を媒介とする行為に限らず,私たちが世界をどのように認識し,どのよう に表象するかという,より概念的な営みもまた,パフォーマンスとして考えることができる。

換言すれば,自己を提示する行為だけでなく,現実を知覚し,説明しようとする試みのすべ てがパフォーマンスなのである」(『パフォーマンス研究のキーワード』

₂₉)と述べている。

 では先に見てきた絵画や文学など,演者の動きや振る舞いが見えない芸術はどのようにパ フォーマンス「として」解釈できるのだろうか。この問いについてシェクナーは,パフォー マンスがどこで行われているのかという問いに言い換えて言及している。

「パフォーマンスはどこで行なわれるのか」。絵画であれば,物質的なものの中で「行わ れる」。小説であれば,言葉の中で「行われる」。しかしパフォーマンスは,行為,相互 作用,関係性として行われる。この点に関して,絵画や小説はパフォーマティヴであり える,あるいはパフォーマンス「として」分析できる。パフォーマンスは何かの「中に」

ではなく,「間に」存在するのである。(PS ₂₀₁₃, ₃₀)

現実のパフォーマーは,日常生活や舞台,劇場,儀式,スポーツの場において観客の目の前 で,あるいはテレビやインターネットの中継を通してパフォーマンスを行う。一方,絵画で あれば,パフォーマンスが描かれる画家のキャンバスの上で,文学であれば登場人物の行為 が表象される言葉の中で,パフォーマンスは行われる。ここで気をつけなければならないの は,パフォーマンスは「行為(action)」,「相互作用(interaction)」,「関係性(relation)」と

2 ペータース図法

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して,何かの「間で(between)」行われるという点である。例えば家族の食事中, ₂ 歳の女 の子が突然食事を中断し,父親の食べるパスタを指差して言葉にならない言葉で「うー」と か「んー」とかいったとしよう。ここでのパフォーマーは女の子であり,両親は観客となる。

女の子のパフォーマンスは,彼女が指を指す行為だけではなく,言葉にならない発話も含ま れる。両親は,普段から女の子が食べ物へかなりの興味を示していることから,父親のパス タが食べたいのだろうと推測する。また,言葉が意味をなさなくても,両親は彼女の声の大 きさや抑揚などから,やはりパスタを食べたいのだろうと考える。つまりパフォーマンスと は,パフォーマーが伝えたい何かを行為によって呈示し,観客は呈示された行為をパフォー マーとの関係性で読み解くという,パフォーマーと観客との「間で」生じる行為なのである。

そして,画家は女の子のパフォーマンスにどのような意味が生成されているのかを絵画で表 現し,小説家はそれを言葉で表象するというわけである。それゆえ,パフォーマンス「とし て」文学を解釈するという行為は,どのような対象がどのように表象されているのか,パ フォーマンス「である」行為の研究方法と同じように,歴史的,社会的文脈,あるいは空間 表象よってパフォーマーと観客の「間に」生成される行為の意味を考察し,作家がそのパ フォーマンスをどのように知覚し,呈示しているのか,その言語的行為表象を読み解く行為 だといえるだろう。

ま  と  め

 古代ギリシャ・ローマの西洋思想からシェイクスピアの戯曲を経由して₁₉世紀アメリカ社 会へと受容された世界劇場の隠喩は,₂₀世紀にパフォーマンス研究の領域に流れ込むと,社 会学や人類学を始めとした様々な学問領域と視点を共有しながら₂₁世紀に領域横断的な研究 へと発展する。その中のひとつが文学におけるパフォーマンス研究だろう。特にホーソーン の長編作品においては,登場人物たちは本来の自分とは異なる別の役柄を演じ,それを観客 が眺め,時に感想を語るというある種の劇場空間が表象されている。そして登場人物たちは 人々が見ている目の前で,言葉よりも行為によって真実を語ろうとする。それゆえホーソー ン文学では,彼らの台詞だけでなく描写された行為表象を読み解くことで作品の理解を深め られる可能性を秘めている。これまでシェイクスピアの影響や世界劇場の隠喩,そして₁₉世 紀当時のアメリカの劇場文化,社会を参照しながら論じられてきたホーソーン文学の演劇的 側面は,演者の行為を考察するパフォーマンス研究の新たな視点を援用することで,いまだ 未開の地平を切り開くことができるのではないだろうか。

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₁ .ホーソーンが生まれ育った時代のセイラムにおける劇場文化についてはパット・ライラン・ジュニアの論 考を参照。

₂ .例えば,『緋文字』を ₅ 幕に分割したマルコム・カウリー,ホーソーン作品全体を演劇性の観点から論じ たジェフリー・リチャーズ,初期短編におけるシェイクスピアの影響を論じたスティーブン・ピーター シェイム,₁₉世紀英米文学における序論の演劇的文彩を論じたジェラルド・カファロの論考などがある。

₃ .世界劇場の隠喩がシェイクスピアから₁₉世紀アメリカ社会へ受容された経緯については常山菜穂子の『ア メリカン・シェイクスピア』第 ₁ 章を参照。

₄ .プラトンから現代に至るパフォーマンスの学問的前提はPS ₂₀₂₀,₃₁-₃₃を参照。

₅ .パフォーマンス研究の歴史については,高橋雄一郎の『身体化される知』₂₁-₂₉を参照。

₆ .地図はPS ₂₀₁₃からではなく別のものを使用。

引 用 文 献

Cáfaro, Geraldo Magela. "The Preface as Stage: The Theatrical Trope and the Performance of Authorial Identities in the Nineteenth Century." Ilha do Desterro, vol. ₇₀, no. ₁, ₂₀₁₇, pp. ₂₆₅–₇₄.

Cowley, Malcolm. "Five Acts of The Scarlet Letter." College English, vol. ₁₉, no. ₁, October ₁₉₅₇, pp. ₁₁–₁₆.

Goffman, Erving. The Presentation of Self in Everyday Life. Doubleday, ₁₉₅₉.

Hawthorne, Nathaniel. The Scarlet Letter. The Centenary Edition of the Works of Nathaniel Hawthorne, vol. ₁.

――――. The House of the Seven Gables. CE, vol. ₂.

――――. The Blithedale Romance. CE, vol. ₃.

――――. The Marble Faun. CE, vol. ₄.

Petersheim, Steven. "'Legitimate strokes of humor' in Hawthorne's Early Picaresque Tales." Nathaniel Hawthorne's Review, vol. ₃₉, no. ₂, ₂₀₁₃, pp. ₆₀–₇₇.

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Summary

From Theatrum Mundi to Performance: Is It Possible to Examine Nathaniel Hawthorne's Works as a Performance Study?

Takeshi Kawashita

"All the world's a stage / And all the men and women merely players" is a line spoken by

Jaques in William Shakespeare's As You Like It. In everyday life, people perform as someone who is separate from "me" like an actor on the stage. Because they are conscious of being watched by others. This is a notion inherited from the ancient Greek and Roman period and called "theatrum mundi." Nathaniel Hawthorne, a ₁₉th century American writer who was fond of reading Shakespeare, naturally accepted this metaphor, and reflected it in his own literary works. A number of studies have discussed the theatricality or the use of theatrical tropes in his works. But now, the notion of

"theatrum mundi" is being passed down to the academic

field of performance studies. If so, is it possible to examine Hawthorne's works as a perfor- mance study? And what is performance?

Thus, the purpose of this paper is, to explore a progression from

"theatrum mundi" to

performance, to define performance, and to consider whether or not we can examine literary

works as a performance study.

参照

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