オリヴァ・クロムウェルの護国卿体制と成文憲法︵都法五十六‑一︶ 三二九
Ⅰ 問題の所在
イギリス近世史を語るうえで︑オリヴァ・クロムウェル︵Oliver Cromwell 1599-1658︶に対する歴史的評価を
留保することはできない︒王政復古直後から今日に至るまでに現れた︑彼に関する評論︑伝記︑研究文献の数は他
の人物の追随を許さぬほど突出しており ︵
︑このことは彼の思想と行動とが︑一七世紀ピューリタン革命︵共和制 1︶
イングランド︶の︑ひいては近代史におけるイングランドの歴史的位置づけのために不可欠の考察対象と見なされ
てきたことを示している︒しかし反面︑共和制期の最終局面に現れ︑彼の代名詞ともなった護国卿体制︵the
Protectorate︶それ自体の分析ということになると︑一九九〇年以前は包括的な考察が怠られてきたと言っても過
言ではない︒本稿はかかる事情に鑑みつつ︑近年の研究成果の助けを借りながら︑その体制の政治思想史上の意味
の一端を立憲主義と成文憲法の視点から明らかにしようとする試みである ︵
︒ 2︶
オリヴァ・クロムウェルの護国卿体制と成文憲法
大 澤 麦
三三〇
本稿が取りあげる護国卿体制は︑一六五三年一二月一六日︑クロムウェルがイギリス史上初の成文憲法﹁統治
章典﹂によって︑その生涯の最後の段階で構築した支配体制である︒その第一条と第二条によれば︑護国卿︵Lord
Protector︶は議会と最高立法権を共有し︑国務会議の補佐により執行権を行使する︑強大な権限を付与された終 身の官職であった︵IG, pp.405-6︶︒二〇世紀前半から中葉にかけては︑この体制における護国卿の強権的な支配が
断定され︑クロムウェルをヒットラー︑ムッソリーニ︑スターリンらとの比較において語る言説︑その体制の中央
集権的な構造を強調する見解が目立った ︵
︒だが︑二〇世紀後半に入って一定期間強い影響力をもったのは︑逆に 3︶
この体制の統制能力の脆弱性を強調したH・トレヴァー=ローパーの研究であった︒彼は一九五六年に発表した護
国卿体制下の議会に関する研究の中で︑一六世紀のエリザベス一世を引き合いに出しながら︑クロムウェルを冷静
な議会運営能力と政策の一貫性を欠いた全くの素人政治家として描いた ︵
︒こうした護国卿体制への消極的な評価 4︶
の定着は︑その体制に対する研究者たちの関心を減退させ︑一九八〇年代における当該研究の低迷をもたらした ︵
︒ 5︶
この傾向に歯止めをかけたのが︑一九九〇年代に入ってから頻りに主張されるようになった︑イングランド一国史
観︑中心史観からの脱却を試みる歴史家たちの動向であった︒たしかにその重鎮J・モリルが強調するように︑護
国卿体制に︑同一の国家元首と同一の議会による三国︑すなわちイングランド︑スコットランド︑アイルランドの
統合という︑一六世紀以来の歴史的動向の完成を見ることは実に興味深い視点である ︵
︒しかし︑この見方にして 6︶
も︑近年のアイルランド史家たちが精力的に描き出したクロムウェル支配の負の側面︑そしてヘンリ八世以来のプ
ロテスタント・イングランドによるカトリック・アイルランド制圧の実態を考慮すれば︑依然としてイングランド
とプロテスタント諸勢力を軸に三国関係を見ているとの批判は残るであろう ︵
︒これに対して本稿が意図するのは︑そ 7︶
うした複合的な国際関係からする護国卿体制の評価ではなく︑一六四〇年代からイングランド国内で発展していっ
オリヴァ・クロムウェルの護国卿体制と成文憲法︵都法五十六‑一︶ 三三一 た立憲主義の流れの中に︑この体制を位置づけることにある︒すなわち︑ 護国卿体制はこの革命の立憲主義の展開
過程から断絶したところに成立する特異な独裁政権ではなく︑むしろその成果を継承し︑土台にして︑この革命の
生み出した﹁国王も貴族院もない共和国にして自由な国家﹂を確立しようとしたのである︒
こうした視点に立つときに重要なのは︑三国の複合的な関係よりも︑むしろ近年精力的に遂行されてきた更な
る二つの研究動向︑すなわちB・ウォーデンやJ・C・デーヴィスらによるクロムウェルのキリスト教思想の研
究︑そしてP・リトゥルやD・L・スミスらによる護国卿体制全体の実像に迫らんとする高度に実証主義的な研究
である︒彼らの研究を基底にして護国卿体制の政治思想的側面に光を当てるとき︑我々はその体制がレヴェラーズ
の成文憲法草案﹃人民協約﹄︵Agreement of the People︶に端を発する共和政体の構想の線上に位置し︑またそう位 置づけられたときにこそ︑その最も積極的な意味を表出することを知るであろう ︵
︒護国卿体制下においては︑﹁統 8︶
治章典﹂を含めた六つの成文憲法関係の文書が作成され ︵
︑政治権力の﹁抑制と均衡﹂に基づく統治の安定が真剣 9︶
に検討された︒そして︑これらの文書の成立には︑軍の高級将校︑長老派議員︑国務会議員︑顧問官など︑クロム
ウェルを取り囲む様々なグループが関わり︑政治過程において自らの主張を実現せんとして活発な政治活動を展開
した︒護国卿体制を単純にクロムウェルの独裁と断定できない所以である︒また︑護国卿体制の確立には︑一六四
〇年代以来間断なく検討されてきた教会改革の成功が不可欠の前提であった︒その点で︑右の各成文憲法の中の宗
教条項は極めて重要な意味をもっていたのである︒
以下︑本稿では一六四九年の国王チャールズ一世処刑と共和国出現における立憲主義上の諸問題を析出した後
で︑それらを前提にして︑護国卿体制の成文憲法の問題を検討したい︒そしてその中で︑ピューリタン革命におけ
る共和国確立の条件を国制と教会の両側面から探ることで︑護国卿体制が共和国の大義を裏切った軍事独裁ではな
三三二
く︑むしろ共和国の原理を体現せんとした体制であったことを示したい︒
Ⅱ ピューリタン革命における成文憲法構想
イングランドにおける成文憲法の構想と言えば︑周知の通りレヴェラーズの﹃人民協約﹄が極めて有名である︒
かつては︑レヴェラーズとこれに立ちはだかるクロムウェル︑ヘンリ・アイアトン︵Henry Ireton)らニューモデ
ル軍幹部との論争︵パトニー討論︑ホワイトホール討論︶を護国卿体制の前史に位置づける叙述が定型化していた
が︑近年の実証主義的な研究が示すところによれば︑両陣営の主張の差異は決して大きいものではなかった ︵
︒そ 10︶
もそも自然権理論と契約説を原理とし︑人民全体の代表としての一院制議会が統治する共和制モデルの国家像を提
示した﹃人民協約﹄の構想は︑一六四七年一月の第一次内戦終結後に現実味を帯びてきた﹁国王なき政体﹂到来の
意識と歩調を合わせるかのように進展していった ︵
︒それ以前︑イングランドの﹁革命議会﹂たる長期議会は︑国 11︶
王の絶対権力の象徴ともいえる星室庁裁判所および高等宗務官裁判所の廃止︑カンタベリ大主教の処刑から︑国王
と戦う議会軍の創設︵民兵条例︶に至るまで︑あらゆる急進的な改革をすべて﹁古来の国制﹂︵Ancient Constitu-
tion︶のパラダイムの中で正当化してきた︒しかし︑国王という官職それ自体を廃止する国制の改変となれば新し いConstitutionによって基礎づけられる以外にはなく︑それは紙の上に描かれる青写真という形を取らざるをえな
い︒この認識は︑一六四八年八月の第二次内戦終結後もなお︑国王との和平条約︵ニューポート条約︶の締結に固
執する長期議会に幻滅した軍幹部も共有し始めた︒アイアトン主筆の﹃軍の抗議﹄︑そして﹃士官人民協約﹄︵The
Council of Officers’ Agreement of the People ︶は︑﹁古来の国制﹂解体後に来るべき共和制体を基礎づける︑レヴェ
オリヴァ・クロムウェルの護国卿体制と成文憲法︵都法五十六‑一︶ 三三三 ラーズの路線に則った軍の成文憲法構想にほかならなかった︒
﹃軍の抗議﹄の規定する最高意思決定機関は︑定期的に行われる自由な選挙で選出される議員から成る﹁人民の
代議体﹂︵representative body of the people︶としての﹁最高評議会﹂である︒ここで注意すべきは︑同文書が︑
この﹁最高評議会﹂を﹁全人民の選ぶ平等な代議院﹂にするために必要な選挙の平等な配分は﹁署名を要する人民
の一般契約ないし協約によって確立される﹂必要があるとし︑この﹁契約ないし協約﹂に同意して署名しない者に
は一切の恩恵に与らせないと規定している点である ︵
︒これはまさに﹃人民協約﹄の契約理論のアイデアそのもの 12︶
であった︒この文書が国王の裁判と処刑を明確に要求できたのは ︵
︑その後の国制のシナリオが出来あがっていた 13︶
からだと言えよう︒だが︑同文書内の次の主張に目を向けるとき︑これを王制から共和制への政体の改変の要求と
即断することはできない︒﹁国王は今後︑代議院を通じて人民が選出するか信託するかしない限りは︑承認される
ことはない︒また︑いわゆる代議院すなわち議会の庶民院の決定に対する一切の拒否権の主張を最初に放棄し捨て
ない限りは︑同じく承認されない︒これまでの戴冠式宣誓以上に明確な形でこれを行うべきである ︵
﹂︒つまり︑﹃軍 14︶
の抗議﹄が否定するのは世襲の王制であって︑選挙に基づくものであるなら王制を敢えて拒むものではない︒こう
した軍幹部の考え方が︑後の護国卿体制の伏線になっていたことは明らかである︒
一六四九年一月二〇日︑国王裁判開始の当日に庶民院に審議を求めて提出された﹃士官人民協約﹄は︑この﹃軍
の抗議﹄を成文憲法草案の形にまとめ上げたものであった︒しかし︑それは結局審議されないまま放置され︑事態
は一月三〇日の国王処刑にまで突き進むことになる︒その意味では︑共和国はせっかく作り上げた青写真を置き去
りにして︑デ・ファクトに成立してしまったと言える︒もっとも︑庶民院は一月四日︑国王裁判に先立って︑﹁議
会に参集したイングランドの庶民院議員は人民によって選ばれ︑人民を代表するがゆえに︑この国の最高権力を有
三三四 する﹂という決議を採択していた ︵
︒つまり︑この時点で︑軍と議会は成文憲法︵人民協約︶に頼らずとも︑この 15︶
決議に依拠して国王を処刑できると判断していたのである︒類似の言い回しは︑一六四九年三月の貴族院廃止宣言
と共和制︵﹁共和国にして自由な国家﹂︶宣言の直後に出された﹃イングランド議会の宣言﹄にも見られ︑そこでは
一院制となった現議会が﹁人民により選出され︑人民を代表し︑人民によって共通善のために信託され権威づけら
れたイングランド議会﹂と自己を規定している ︵
︒しかし︑ここで拠り所にされている一院制議会︵庶民院︶の実 16︶
態は︑前年十二月の﹁プライド大佐の粛清﹂によって軍に背く多数派の長老派︵保守派︶議員が追放された後の
﹁残部﹂︵ランプRump︶であり︑これを全人民の代表とみなす不条理は火を見るよりも明らかであった︒このこと
を自覚した残部議会がデ・ファクトに存在するレジームの正当性を事後的に調達せんとした試みが︑一八歳以上の
全男性に﹁国王や貴族院のない共和国﹂への忠誠誓約書への署名を求める﹁共和国臣従契約﹂︵Engagement︶で
あった︒﹃人民協約﹄における署名と国家設立の手順を逆立ちさせたこの﹁臣従契約﹂の最大の特徴は︑共和国の
敵である国王派と長老派を排斥するのではなく︑これを可能な限り包摂することに︑その目的が置かれていること
である︒言うまでもなく︑これなしにイングランドの国民的一体性を保った共和国の形成は不可能だからである︒
しかし︑この手順前後はその後のレジームに甚大な禍根を残すことになった︒クロムウェルの護国卿体制成立時に
再び登場することになる成文憲法=﹁統治章典﹂の意味は︑まさにこの文脈で問われなければならないのである︒
Ⅲ 護国卿体制の成立 と マーチャモント・ニーダムの視点
一六五一年九月︑アイルランドとスコットランドの反動勢力の制圧を終えたクロムウェルは︑﹁古来の国制﹂消
オリヴァ・クロムウェルの護国卿体制と成文憲法︵都法五十六‑一︶ 三三五 滅後のイングランドの国制問題に取り組まなければならなかった︒一院制の残部議会の脆弱な正当性を考えれば早 期の総選挙が望まれた︒しかし︑ヘンリ・ヴェーン︵Henry Vane︶ら議会の共和派︵Commonwealth-men︶がこ
れに反対して︑逆に軍の削減を主張し始めると︑議会と軍の対立が再燃した︒そうしたなか︑一六五三年四月︑ク
ロムウェルは残部議会の武力解散を断行する︒同年七月には彼と軍の士官会議とが指名する一四〇人の議員で構成
された﹁聖徒議会﹂︵﹁指名議会﹂または﹁ベアボーン議会﹂︶が成立するが︑この議会の活動に満足できない軍は
再びクーデタを起こし︑同年十二月︑全権力をクロムウェルに移譲する決定を行った︒彼がイングランド史上初の
成文憲法﹁統治章典﹂によって︑護国卿に就任するのはその僅か四日後のことであった︒
こうした一連の動向を政府の立場から巧みに弁護したのが︑広報担当者マーチャモント・ニーダム︵Marchamont
Nedham︶の﹃共和国の真実の主張﹄であった︒同書の基調になっているのは︑﹁統治章典﹂による護国卿体制が
内戦中からの軍の主張と一貫した原理に基づいているということである︒その主張とは﹁人民の自由と安全﹂の確
保︑そしてそのための﹁法を逸脱した恣意的支配﹂を行う暴政の抑制にほかならなかった︒彼によれば︑これこそ
が﹁あらゆる統治の目的﹂であり︑軍は特定の政体︵すなわち共和制︶の樹立を目的にしたことは一度もなかった ︵
︒ 17︶
肝要なのは︑国王が公共の利益に反した恣意的支配を行えないように拘束することであったが︑暴君チャールズ一
世に対してこれを望むことは不可能であった︒統治の目的は統治の形態に優先されなければならず︑その意味では
処刑はやむを得ぬ措置であり︑神の正義に適っていた ︵
︒だが︑その後に現れた残部議会による統治は︑チャール 18︶
ズのそれを上回る危険を伴うものであった︒先に述べたとおり︑共和国の存立基盤が脆弱であるがゆえに早期の総
選挙による統治の正当性の回復は必須であったが︑残部議会はすでに四年以上の長きにわたって存続してきただけ
でなく︑今後も二年毎に議員の任期を形式的 000に 0更新することを可能にする﹁二年議会法案﹂︵Biennial Bill︶を提出
三三六
することで︑自らの権力の永続化を図っている︒ニーダムはまた︑残部議会の権力の万能性︑絶対性も非常に危惧
している︒古来の知恵によれば︑立法権を﹁議会における人民﹂︵People in Parliament︶に︑執行権を唯一人と評
議会に分けて置くのが常道であり︑これこそ﹁自由と良き統治との偉大な秘訣﹂であった︒しかるに︑国王と貴族
院の廃止は︑畢竟︑立法権と執行権と裁判権のすべてを残部議会の手に握らせることになったために﹁均衡や抑制
の方法が用意されておらず﹂︑﹁腐敗と暴政の驚くべき注入﹂が図られている︒したがって︑一六五三年の軍による
武力解散は︑﹁衡平な根拠﹂に基づいていたのである ︵
︒ 19︶
ところで︑ニーダムによれば︑残部議会の解散後にどのような統治を形成するかについては︑少数者支配にする か多数者支配にするかで軍の士官評議会︵Council of Officers︶内で意見の対立があった︒結局︑残部議会によっ て宣言されていた﹁自由な国家にして共和国﹂の形態において最高議会︵Supreme Assemblies︶の継承を行って いくのが望ましいとの考えから︑後者の案が採択された ︵
︒しかも︑議員には﹁神を恐れ︑忠実であることが認め 20︶
られている人たち﹂が﹁諸州から召集されねばならない﹂︒その際の議員の選出方法は︑総司令官と士官たちによ
る指名制であった ︵
︒これが一六五三年七月から十二月までの僅か五ヶ月の短命に終わった︑クロムウェルの﹁聖 21︶
徒議会﹂である︒議員たちは﹁敬虔で高潔な人々﹂︑﹁神の民の利益﹂を解する﹁大いなる魂を持っている﹂人々と
考えられた︒この場合の﹁神の民の利益﹂とは︑﹁再生と信仰と愛との証し﹂をもち︑自らが従うべき形式から逸
脱せず︑﹁聖徒の交わりにおいてキリストを拒絶せず︑聖書を蔑ろにしない﹂すべての人が﹁保護と自由との平等
な享受に与る権利を有する﹂ということである︒そこにはまた︑﹁人間が人間として︵たとえ再生のしるしが当人
に見られなくても︶︑戦争法規やそのほか世俗事項と認められる領分での要求において︑それぞれ関心を持つ事柄
の利益を享受する﹂ことも含まれる ︵
︒しかし︑ニーダムによれば︑聖徒議会はこうした期待を見事に裏切った︒ 22︶
オリヴァ・クロムウェルの護国卿体制と成文憲法︵都法五十六‑一︶ 三三七 彼らは聖徒であるとの強い自負から︑自らの基準に満たない人々を﹁非聖徒﹂と断じ︑﹁宗教改革の敵として断罪﹂
した︒さらに彼らは﹁理も論拠﹂も示さずに︑﹁夢想と空想﹂によって自分たちの﹁押しつけ精神﹂を働かせた ︵
︒ 23︶
その結果︑彼らは﹁国の聖職者制度全体を反キリスト的と宣言﹂するのみならず︑﹁不面目になる牧師を追放﹂す
ることによって牧師改革を断行しようとし︑牧師たちの生活や教理に対する調査権と不適格牧師の追放権とをもっ
た委員︵Commissioner︶を各州に派遣する制度を提案した︒ニーダムは︑この制度が生活調査を含んでいること
から牧師の国民としての世俗的権利の侵害であること︑また教理の調査を含んでいることから牧師の良心の自由の
侵害であることを指摘している︒そして︑この制度は否決されたとはいえ︑為政者が宗教的な事柄に権力を揮うこ
と︑とりわけ福音の説教者を派遣することへの反発心を多くの人々の間に惹起したが︑このことは公の説教者制度
を再建することへの大きな妨げになったと主張されている ︵
︒ 24︶
こうしたニーダムの批判の根底には︑聖俗の領域の混同に対する強い懸念があった︒聖徒であることは︑世俗の 領域において何ら特別な権利や権限を生み出すことではない ︵
︒﹁神は⁝⁝世を自然的な資質と能力との︑道義に 25︶
適った向上によって秩序づけられるに任された﹂のであり︑﹁統治の仕事﹂は﹁外なる人の業﹂に属する︒よって︑
それは﹁常ならぬ方法﹂ではなく︑﹁自然の光と自然的良心の命令に従って﹂為されなくてはならないのである ︵
︒ 26︶
霊的な利益と世俗的な利益︑教会と国家を混同した聖徒議会は︑教皇制や主教制と変わらぬテオクラシーを行って
いる ︵
︒しかも︑それは残部議会から権力の万能性という悪しき性質を受け継ぎ︑﹁深慮によって確立し︑多年にお 27︶
よぶ多世代の経験によって確認されてきたイングランドの古き良き法﹂を次々に覆して︑相互に矛盾する新しい法
を大量に導入した︒今やこれによって︑国民の生命・財産・自由は危機に瀕している ︵
︒さらに︑聖徒議会で勢力 28︶
を伸張させた急進派が軍の指揮系統の解体を目論み︑議会に分裂をもたらすに至っては︑軍がこれを解散させ︑全