日本社会政策学派の人口論とその分化(2) : 続日本 人口論史
その他のタイトル On Population Theory of the Japanese School of Social Policy and it's Partition (II)
著者 市原 亮平
雑誌名 關西大學經済論集
巻 7
号 2
ページ 124‑187
発行年 1957‑05‑01
URL http://hdl.handle.net/10112/15668
︹ 註 ︺ さて日本帝国主義の諸矛盾の展開は︑第二に農業と工業との不均等発展の激化︑半封建的土地所有と第一階梯的
端縮的金融資本との初期的な矛盾︑
なく資本主義生産の基本特徴は︑生産︐の社会的性質と占有の私的性質との矛盾にあり︑資本主義的生産様式のもと
における個別生産者は相互に不均等な発展をとげ︑
拡大された市場をもとめる︒ この一般的な農工間の不均等発展は明治三
01
四 0 年における産業資本確立ー農工分
化の決定化と金融資本の端緒的成立︑
成によっていよいよ激化せしめられ︑ 一言にしていえば農村と都市との早激的な矛盾としてしめされた︒いうまでも
より発展した産業は他を追い越して国境外にはみ出し︑無限に
それを根本において制約した寄生地主的土地所有の明治四 0 年代における完
本格的
11構造的に展開されるいぜんに︑ ここに米騒動を契機とする資本主義の全般的危機とむすびついて農業危機が
︵ 註︶
いちはやく農業危機が端緒的にひらかれることとなった︒
この明治四 0
年代農業危機開始説にたいしては︑い農業危機が生産力の問阻ではなくて生産関係の危機である︒②農業危 機は資本主義の全般的危機と結合することによってはじめて本格的な体制的危機として現実化する︑という梱造的見地を 欠いた謬見であるとの栗原白寿氏の見解があるが︵﹁現代日本農業論﹂一四ー五頁︶︑しかしわたくしは直接日本資本主義
の楷造的危機としてあらわれない、むしろ体制的危機を早激的にうみだしていくそれ以前の—ーいはば端緒的危機として 二︑絶対主義的人口政策
1 1
移植民問題
ー 続 日 本 人 口
論
史 ー ー
市
原
日本社会政策学派の人口論とその分化口
亮
二 六
平
125
日本社会政策学派の人口論とその分化︵市原︶ 分解冨地主
11金融業者化並に土産的な醸造専業者化と簑生する近代的な零細マニュフアクチュア︑零細工場ー製糸
織物等ーヘの転化と諸系列の同時並存的傾向︺︹屯大な小作農民層の成立︺と年屈の一般支配的存在の趨勢とその
季節屈︹特殊地域的な商業的農業地帯ー長野︑群馬︑埼玉︑一円地としての漂泊労仇力の大群を擁する養蚕地帯︑
香川の定期的出稼に依拠する岡山︑大分の蘭の地帯等ーの構成︺︑日雇︹主穀化地帯︺への転化︒一般農業過剰労力
の賃労仇化︒﹂なる事態はこの農業危機開始期の態様を特徴づけている︒以上︑要するに︑農業構造上の変貌が生
産力
11経営面を制約し︑高橋亀吉氏のいうように﹁農業は勿論それ自体としては発展したけれども︑その相対的比
重は漸次縮少してきた︒農業生産力伸張の相対的停滞とエ鉱等にたいする農業の地位の低下とはまづ日清戦争期を
( 8 2 )
中心に現れ︑ついで日露戦争期に益々顕著となった﹂のであった︒ちなみにここで﹁生産力の停頓とは︑絶対的意
味においてではなく︑エ鉱業生産力の飛躍的進歩に対比せられての概念であるが︑日露戦争后において農業生産力 山田盛太郎氏の規定する︑
二 七
この期の農業危機を承認したい︒これは金融資本の端緒的成立に即応してあらわれたもので︑大正九年頃より顕現し一般 的恐慌において満開したところらの農業危機が何よりも生産関係の危機であり︑それゆえ小作争議や農民運動︑それと労 佑者との結合や組織の産的質的発展が中心的分析対象になるのにたいし︑この段階の端緒的なそれは︑生産力の低段階の 早激な停頓や農工間の不均等発展の激化が主要な分析対象となる︒これ端緒的なこの段階の危機が生産力的表現をとり︑
本格的な一般的危機段階のそれが生産関係的表現をとったことのあらわれでもある︒なお明治四
0 年代農業危機開始説は
農業試験場技師斉藤万吉氏をはじめ主として当時の農政学者によって唱端され地主的な米価吊上げの農政運動に利用され たもので︑これをはじめて系統的に論述したのが高橋亀吉氏の﹁明治大正農村経済の変遷﹂︵大正十五︶でこの所見は旧 購座派にうけつがれた︒なお別に明治末期農業危機説を指摘したひとに横田英夫がおり︑明治四五年に﹁農村減亡論﹂︵
東京朝日連載︶大正三年には﹁農村革命論﹂を書いて危機を高唱したが︑大戦后の本格的危機の開始にあたつても﹁農村
改造か︑農村革命か﹂︵大正九︶を書いている︒
﹁所謂る産業資本確立期を基準とする農業・工業分化︒即ち︑地主手作
11豪農経営の
︵大日本農会報二七一号︶ーが その意味はさらに次のように具体的に限定せられる︒︵一︶米の生産
高が全体として停頓し又減退したこと︑︵二︶反当生産力の停頓︑︵三︶耕作上の土地面積拡張の鈍化︑︵四︶資本又
このような帝国主義の諸矛盾の農業面における早激なあらわれは︑農村
内部の階対級立をはげしくさせた︒地主の土地の農民への﹁均分﹂を要求した土地復権同志会は︑明治三十九年か
ら活動して潜勢力をもち︑小作争議は各地でおこり︑明治四十一年雑誌﹁中央農事報﹂は地主の危機をつぎのよう
﹁つらつら今の時世をかんがえ将来を察するに地主の地位は時々刻々に危くなってきたようである︒
各種事業の勃興は︑⁝⁝農民をしてクワをにぎり︑星をいただき月をふむ苦しみをいさぎよしとしない感情を誘導
(83)
し︑また社会主義とかいう思想も近年だいぶ田舎にまではいりこんできた︒﹂と︒
的な農業行きづまり論をとなえ︑ 四一年の高米価︑ 地主的土地所有の端緒的なこの危機にのぞんで絶対主義的農政学者横井時敬や農事試験場技師斎藤万吉らが地主
︵ 註︶
日露戦后の米穀関税撤廃や地租軽減の問題︑明治四 0 ︑
三︑四年の低米価という戦后米価の乱高下をめぐる米穀問題の捲頭にあたり︑全国農事会︑およびその后身帝国農
会を先頭として地主制守護の農政運動をくりひろげたのである︒以上にみたような地主制の端緒的危機とこれを地
主守護の線で処理せんとした農政運動が農政学者や絶対主義官僚に複雑な人口問題ー農民離村向都の問題や人口
11
食糧問題解決策としての移植民問題を提起せしめることとなった︒
( 1 )
明治三七年ー大日本農会にたいする清浦
農商務大臣よりの諭達および酒勺常明農務局長の﹁詳述要旨﹂中第一次中における農外産業の拡充にともなう農業
労仇力の不足の訴えー﹁近時我農業ハ漸ク労カニ不足ヲ生ズルニ至レルノミナラズ﹂
日本ではじめてなされはじめ︑ に
叫 ん
だ ︒
いっぽう︑明治四十年
1日清戦争后の紡績・製糸女工の離村問題にあらわれた農民 は労仇当生産性の停滞︒﹂の意味である︒ が停頓化をますにいたったといふときには︑
日本社会政策学派の人口論とその分化︵市原︶
ニ 八
大 正
/27
︹ 註 ︺
t こ ︒
日 本 社 会 政 策 学 派 の 人 口 論 と そ の 分 化 ︵ 市 原 ︶ 数六十万戸に逹すべしと称せられる︒ が早激なかたちで換頭し︵農工間のさきに述べたような不均等発展︑ 移行等にもとづく︶︑これの処方箋として移植民が図られはじめ︑ 本
農 会
報 三
0 一号︶は同四一年より開始された同地移民の前奏としての紹介記事をのせたが︑
題もあらわれ︑
米 の
自 給
体 制
の 崩
壊 ︑
二 九
離村向都の問題が産業資本確立にともなう労佑力吸収によってあらたに論議されはじめた︒
( 2
)
人口
11食糧問題
明治三三年いらいの米輸入国への
たとえば熊本県農会は﹁今や農家経済の状態は生活向上の気運と人口増加の圧迫とに依り益々困難 に陥るの傾向あるに鑑み本県農会は県の補助金により県下農民の朝鮮移住を奨励し之に保護監督を加へ移住の目的
を達せしめんこと﹂を所期している︵帝国農会報︑第一巻第十一号︶︒さらに明治四五年年ブラジル移民事業計画が図
られ︵帝国農会報︑第 2
巻第十二号︶︑大正二年南米移民計画が報知新聞︑帝国農会報第三要第二号によって提言され
ており︑移民の必要性を述べて︑
﹁過剰人口の為めに海外移住の途を開くは帝国の最も急務とする所にして帝国の 植民地たる朝鮮・樺太及び関東洲等に地ては尚余少なからざる人口を繁殖するの余地を有するものの如く或はその
されど帝国の人口にして現今の増加率を以て進まんには此等の植民地も亦 数年を出でずして人口過剰の状況を量するに至らんと訂]といつている︒これらは米騒動
11
全般的危機の波及と農
業危機の本格的開始にともなう人口
11食糧問~ゃの危機激化形態での登場いぜんの、 いはば序史を占めるものであっ
米殻関税撤廃と地租軽減問題をめぐる地主とプルジョアジーの相対的矛盾について簡単に触れ︑日本社会政策学会分化の 党派的背飛をうかがつてみることにしよう︒明治三七年桂内閣は日露戦争の戦喪を調達するために第一次非常特別税を
課し︑明治︱‑︳八年一月さらに第二次のそれを課したが︑この二つの増税で再度にわたり地租の増徴をみることになったわ
け で あ る ︒ ー 明 治 ︱ ︱ ‑ + ︱ 年 一 月 に 成 立 し た 伊 藤 内 閣 の 大 増 税 計 画 の た め 提 案 さ れ た 地 租 増 徴 案 が 通 過 し て 地 租 が 三 分 三 厘
いっぽう︑朝鮮移民問
明治三九年ー隈部三郎﹁南米ブラジル移住﹂︵大日
にひきあがったわけであるが︑このとき絶対主義者谷干城と勃興する産業資本のイデオローグ田口卯吉とのあいだに有名 な論争がおきている︒谷は河上螢流の日本尊農論的視角から﹁余は従来尊皇の主義で︑日本の安寧を維持するのは実に自 作農業者が多数であることにあると信じる︒⁝⁝だから︑余は小地主すなわち自田自作者のなお多数であることをよろこ び︑彼らを自然に放任せず︑できるだけ保護したい考えである︒
. . . .
. . 余が最も尊び最も望むところほ︑独立・農業者すな わちおよそ︱町より二町ぐらいの自由を自作し︑一家数人︑寒にこごえず︑兇年にも死亡をまぬがれ︑豊年には一家だん
(85)
らん︑たのしく世をおくる人民が多いことを欲するのである︒﹂と地租増徴が絶対主義の社会的藩屏たる中堅自作農を揺 落させないかとおそれているのである︒旧絶対主義者の地主護持︑地租増徴反対の叫びにはとうてい応じられなくなり﹁
( 8 6 )
財政と軍備﹂との矛盾を産業資本の犠牲においてではなく地主と﹁自田自作﹂の﹁独立農業者﹂の負担において解決しな
ければならなくなった•新しい段階の絶対主義者ー|注桂内閣が意をけつして第二次非常特別税を課したわけであるが、こ
れとからんで農業保護関税の是非が西園寺戦后内閣の第二二議会︵明治三九︶に問はれること
4
なった︒プルジョアジー は低賃銀確保のため低米価したがつて米の輸入税廃止を要求したのであるが︑地主の利益代表の難詰に遭つて決定未了に もちこまれた︒地主とプルジョアジーとの帝国主義的諸矛盾のンワ寄せされた農業における初発の危機をめぐつてのこの 米穀関税の是非にかんする重大な懸案にたいし社会政策学派が黙してかたらない理由はなかった︒はたして︑明治四一年 十二月の社会政策学会第二回大会は︑﹁関税問題と社会政策﹂につき活溌な論戦をくりひろげたが︑第一回大会の際エ湯 法問題でみられた微妙な内部対立はさらにあきらかとなった︒すなわち農業保護関税の廃止を叫ぷプレンターノ的路線に 立った堀江帰一︑神戸正雄博士等と同関税の設置に賛成するワグナー的軌道に乗った矢作栄蔵︑酒勾常明博士等との対 立︑これであり︑それは談会内におけるプルジョアジーと地主との対立を反映していた︒農産物自由貿易
1 1
保護関税撤廃
( 8 7 )
論の代表として堀江博士の所論をきこう。—|i「近年の貿易状態から云ひますると、日本固有の製造品は、之を欧米諸国
に輸出する︑而して機械工業其他の製造品は之を盛に東洋諸国に輸出し︑而して此の機械工業其他の製造品は之を盛に東 洋諸国に輸出し︑而して此の機械工業の製造品を輸出して居る代りには東洋諸国からは機械工業を維持するに必要な原料 品食料品を輸入する事実になって居る︑尤も之に対しては多少エキセプツヨンはある︑即ち棉花を亜米利加から遥々持つ てくるといふ事の如きは︑一つの除外例ではありますが︑さういふ事を除きますれば︑日本固有の製造品は欧米諸国に輸
出し︑機械工業の製造品は東洋諸国へ輸出し︑其の代りに是等の国から原料品食料品の供給を受けるといふ位置に立.つて 日本社会政策学派の人口論とその分化︵市原︶
1 0
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日本社会政策学派の人口諭とその分化︵市原︶
居るのであります︒今日本が斯かる貿易上の状態になって居る︑其の時に先程から一部の方々に依つて主張せらる
4
如く
に日本が心得速ひにも農業保護の政策をとり︑而して穀物を始め農産物に対して雌い翰入税を課して其の輸入を排斥す る︑さうすれば内地に於て工業を営む者は独逸と同じように価の高くなった農産物を消費し︑或は価の高くなった所の原 料 品 を 使 用 し て 工 業 を 営 む と 云 ふ 状 態 に 陥 る
︑ 幸 ひ に 斯 か る 政 策 の 下 で 日 本 の 内 地 の 農 業 は 盛 ん に な っ て 来 る と し た 所 が︑一方では関税の為めに東洋諸国から日本への食料品︑原料品として輸入されて来る所の貿易は制限される︑一方で価 の高い所の原料品︑食料品を使って作られた所の工芸品であるから︑是れ亦価が高くなりまして︑欧米諸国に向つて輸出 することも出来なければ︑東洋諸国に向つて輸出しようとしても出来ない︑斯うい.ふ結果に陥るのであります︑かうして 日 本 で 農 業 保 護 の 関 税 策 を 執 る と い う こ と は
︑ 食 料 品 又 は 原 料 品 の 如 き 貨 物 が 東 洋 か ら 日 本 へ 輸 入 さ れ て く る の を 妨 害 し︑而して東洋諸国へ向つて輸出さる
4
機械工業の製造品の阪路を防過すること
4
なる︑然らば其の結果として現われて 来 る 所 の も の は 何 で あ る か と 言 へ ば
︑ 日 本 独 り 東 洋 に 於 て 孤 立 経 済 を 営 ま な け れ ば な ら ぬ と い ふ こ と に な る の で あ り ま
( 8 8 )
す ︒
﹂
( 89 )
これにたいする農産物保護貿易
1 1
保護関税必要論の代表として酒勾博士の所説にきこう︒いわく︑﹁今日の日本の商工 業の発達というものは︑大変に学問が進んでいる︑技術が発達している︒或は金があって商売が上手であると云ふような事 ではなくて︑詰り此の輸入品を段々と退けて行く︑或は満韓は勿諭︑欧米にも品物を出して行く︑其の理由は何でありま するかといふと︑生産喪の高いと云ふ処に在る︑品物が良いといふのでは無い︑其の生産費の安い理由は二つあると思い ます︒其の第一は日本の小工業︑家庭工業︑所謂副業であるのです︑此の小工業が合計して大なる生産となる︑大分木綿 物を済て居らる
4
諸君が多いようでありますが︑是は実に安くて結構なものであります︒暖くて値段が安い︑吾々の最も
貴重すぺき着物である︑何ぜ此の木綿物が安いか︑是は悉く農家の副業として︑実に努力の充分に出来る所の若者の男な
どが田畑で佑き︑家に居る老幼婦女︑是等の者も織物に従事して安く持へる︑海外に売出す所の生糸はどうである︒日本
第一の輸出品︑国家の命脈は之れに繋ると云ふ所の生糸︑亜米利加に欧羅巴に一億円以上のものが出来る︑絹織物を合せ
ますれば一億五千万円にもなる︑此の養蚕をして生糸を生み出すものは何であるか︑農家の副業である︒養亜業者でやっ
たら成立たぬ︑米を作り畑に物を作り︑而して傍らに老幼婦女が従事して安く生産するから︑支那の糸︑仏蘭西︑伊太利
の糸を屏息せしむるといふことになったのであります︒殊に農業と云ふものは米が必要である︑農家が衰へると云うこと
130
第一次大戦を転機に一のあたらしい段階にはいるが︑ のにしたことはいうまでもないが︑
さ て
︑
国際的環境との関連のうちにいますこし註説してみたい︒ 国際移民の流れは
になったならば︑総ての副業︑小工業︑家庭工業と云ふものは日本に無くなって了う︒⁝⁝之が第一の関係︑第二は同じ く工業に対する労力の供給︑唯今は農家の副業︑農家自らの工業生産の点から観察したのですが︑今は大工業︑唯今亜米 利加に輸出しまする所の生糸︑是は農家が副業として繭を生産し︑之を糸に紡ぐ︑此の製糸の工業で分る︑信州諏訪を首 めにして全国に製糸工湯といふのが沢山ございます︒此処の乙女の給金は幾らでありましよう︑実に安い︑或は低いのは 十銭︑高いのが二十銭といふような非常に安いものでございます︒斯かる安い労仇力は何処から得られましようか︑決し て都会或は町からは来ない︑皆農村から来るのであります︑それから大阪に致しましても︑其の他各地の紡絞の工場︑此 処に幾千幾万の職工が居ります︑是れも甚だ安い賃銀である︑是は何処から来ますか︑皆農村から来るのであります︑而 して農村から来る所の労佑者が賃銀が安いといふ所以があるのであります︑即ち農村に於て一家族︑或は五人あるか十人 あるか其の家族があって︑さうして己れの小作して居る或は分有して居る所の田畑を耕作して︑尚ほ労力余り有るといふ 所の分子が即ち此の都会或は製造地に来まして職工労佑者となる⁝⁝唯だ其の家族の一分子が工業の労佑に従事するので ありますから︑其の人一人生活し得る収入を取れば宜しいのであります︑之が即ち労銀が安い所以である⁝⁝是は実に我 が国の発展上商工業といふ関係に於て此の農業の非常に必要なる原動力であるということが分る︑それは農業の根本を固 め︑農業の衰へないようにして置くということは非常に必要である︑而してそれは農本たる所の米の価を下げないように する︑無論無暗に高くする必要はありませぬ︑或る適当な程度を保つことにする︑之が為めには関税の関係を保つより外
•(90)
に無いのであります︒﹂この代表意見でた
4
かわされたように︑農本主義
1 1
倫理的低賃銀論と自由主義的生産力論との葛 藤は議会にもちこまれ第二五談会の闘論をして関税合戦の態にいたらしめたが︑この地主とプルジョアジーの攻防も保護
論者
1 1
地主の要求を容れて決済せしめられた︒︵このさい河上蛮は﹁日本経済新誌﹂に拠つて田口卯吉の主宰する﹁東京 経済雑誌﹂の自由貿易主義に対抗し﹁外米輸入税﹂論争を展開していた︑たとえば﹁輸入米課税の改正︵其の反対論の無
意味︶﹂同誌︑第一巻第一号所収︶︒
この端緒的農業危機の開始にともなう人口
11食糧問題の尖鋭化が日本移植民問題を従来になくするどいも 日本社会政策学派の人口論とその分化︵市原︶
レーニンはこのことについて一九ニ︱年につぎのように述
131
日本社会政策学派の人口論とその分化︵市原︶ ﹁大洋の彼方への労仇者と農民の移民はヨーロッパの資本主義制度に対して︑
また革命運動が挫折したのちにおいて増大した︒ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ メリカおよびオーストリアは移住に対してますます大きな障害を設けている︒移民の安全弁は閉されている︒﹂と︒
しかしここでいわれているような移民の安全弁の閉鎖はすでに十九世紀末から二 0 世紀の初頭にかけて︑すなはち
帝国主義段階への移行期にその兆候をみせはじめていた︒十九世紀末(‑八八 0 年代︶から第一次世界大戦のおきた
一九一四年までの間に︑
た い
し て
︑
その移民を禁止あるいは制限したのであって︑これ河上博土のいわゆる﹁経済的鎖国主義﹂の端的なあ
らわれでもあった︒このような移民縮減は資本主義の帝国主義段階への突入の結果としての経済の停滞と衰退化の
ため巨大な移民収容力をもちえた地域の消滅したためにもよるが︑
いつさう圧迫し︑失業群の恒常化にともなう本国労仇者の階級的抵抗の激化をさらに刺戟したから︑
移民の低賃銀労仇の収取と地価の高騰とに利益をみいだしていた流入国支配層も︑階級対立の激化をふせぐため﹁
経済的鎖国主義﹂を採用しはじめとくに黄色移民の制限・禁止に着手しはじめたためでもある︒こうして流入国支
配層は民族意識や種族意識をあふりたて︑
黄色移民制限や禁止が社会的同化の困難を理由としてまづ提起されはじめたのである︒
ところでわが国における本格移民は︑明治十四年からの松方デフレ政策にともなう日本型原始蓄積のすすんでゆ
くなかで︑明治十八年政府によっておくり出されたハワイ契約移民にはじまるが︑
十三年の資本主義最初の恐慌︑ じ
た ︒
カ ナ
ダ ︑
ア メ
リ カ
︑
それは沈滞の継続する時期において︑
べ て
い る
︒
つねに安全弁の役割を演
オーストリアそして南阿があいついで︑中国人︑ 日本人︑インド人に
さらに他方︑移民の流入が流入国の労佑市場を
アメリカとイギリスに従属したカナダ︑ それまで流入
オーストラリア︑南阿における
そのご移民は増加し︑とくに二
マイエット﹁日本農民の疲弊及其救治策﹂における移植民論とマルサス説との内的 しかし現在ではア
移民は本国経済に貢献せず国
一 国
に
一路西へ太陸へと向かはざるをえなくなった︒
︵ 明
治 二
十 七
年 三
月 い
ご 政
府 の
契 約
移 民
の
連繋にもとかく日本型移植民論の原型の完成︵イギリスにおける一八二五年恐慌を契機とするウエークフィールドおよび子
ミルの近代的移植民論との対比︶を理論的根拠とする
論を背景にいつさう移民の規模はふえ二十七年までに二万七千名がハワイにおもむいた︒この時期にいまひとつの
そのご前后者ふたつの移民の流れは日清戦争ごの移民保護法の制定︵明治二十
九年にできたが︑これは移民を保護するのではなくたんに移民会社を取締る法規︶︑三 01
三一年および三三し三四年の恐
慌など︑を劃期として移民数は日清戦争まえにくらべ数倍にのぼる躍進をしめすのであるが︑'この時期における移
民の主流は明治四十年日米紳士協定・日加協定により移民が制限されるまでの間︑
ていったのであった︒ところがこの早期的農業危機の開始←人口
11食糧問題の登場を構成要素として増大をみた移
民溢出も︑明治二十年代にはじまったアメリカ︑ カナダの日本移民排撃運動
送出は廃止された︶は明治四十年の日米協定いごさらに激化し︑この東行を阻まれた移民の流れは濠洲政府によって
南行も妨げられ︵明治三五年移住民制限法制定︶︑ しかしこの西行移
民は日露戦后における南樺太•関東洲・満鉄附属地の占有と明治四十三年の朝鮮の占取を契機に盛んとなり東への
移民と盛衰を異にするにいたったのであり︑かかる事情を背景に満韓移民集中論が描頭するにいたった︒
満韓移民集中論をめぐる論議が撲頭した当時︑河上肇は明治四十二年二月の﹁日本経済新誌﹂に拠つて︑
︑ ︑
おける労仇力喪失を非とする見地から移民に反対している︵同誌︑四巻十号十三頁﹁還国移民の価値﹂︶︒
巻十一号︵明治四十一年三月︶においても︑同誌所載の河津週博士の移民論を批判し︑
民経済の最後の理想は移民の放出ではなく︑移民の吸収にある︑としている︵同号﹁海外移民の価値如何﹂三頁︶︒こ 移民形態ー朝鮮への渡航がうまれ︑
日 本
社 会
政 策
学 派
の 人
口 論
と そ
の 分
化 ︵
市 原
︶
また同誌二 ハワイ移民の延長線上に溢出し ﹁植民協会﹂や﹁東邦協会﹂
の 設
立 ︑
さらには海権・商権伸張
四
133
日本社会政策学派の人口論とその分化︵市原︶
横井時敬の収穫逓減法則の作用を否定しこれを理論的根拠とする移植民は﹁棄
民﹂なりとの否定論と同型であることは︑さきにややくわしく検討した﹁日本尊農論﹂中の収穫逓減法則にたいす
る否定的見解と移植民へのネガテイブな態度とをみれば理解されるに相違ない︒
植民を非とする河上の所論が︑幸徳等社会主義者の移植民政策
1 1
帝国主義反対論と軌をことにしていることはいうまでもない︒た とえば︑明治三十七年西川光治郎は﹁週刊平民新聞﹂四四号で︑移民は結局労佑者の搾収を︑
けつして貧困の解決策ではないとして移民に反対しているが︑この種の社会主義的反対論︹平民新聞四十 四号西川生﹁移民乎捨民乎﹂︺とは全然性質をことにしていたわけである︒
﹁社会主義と国際戦争﹂中に﹁人口問題と戦争﹂に触れ︑
また堺利彦︑森近運平共著﹁社会主義網要﹂は第八章
﹁帝国主義者は曰く︑
民政策を採るを要し︑之が実行の為には軍備と戦争とを必要とすると︑
吾人は限り無く増殖する人口を処置せんが為に植 よ亜非利加の一少殖民地を経営せんが為と称して軍備の大拡張を行へる独逸帝国は︑
其日ふ所一理あるが如くにして事実狡猾なる虚言なり︒見
其兵卒の数と年々其領地に移住する人民の数 と幾何の比例をなせるか︑又見よ其巨額の軍費の幾割が殖民地より回収せらる
4
か を
︑ て得たる南亜の鉱山には︑白人労佑者を排斥して土人若くは支那人を使役したるを見ずや︒
十万の失業者を生じたるの外︑奄も新住居と新職業とを得ざりしに非ずや︒
の処置法としては全く価値なきものなり︑:・・・・資本家的競争に伴ふ虚栄的︑
の難問題たりと雖も︑単に之のみを以て戦争の原因たり得ぺしとするは︑ 中にうつすにすぎない︑ の所見がつぎに検討するように︑
一 五
︹なお念のために一言すると︑この移
英国が十万の人命と三十億の黄金とを費し 又英国の労佑者は此戦争に因りて︑ニ 最近には日露戦争の結果として︑日本労佑者の満洲若 しくは韓国に往く者幾許もあらずして︑却つて清鮮労佑者の輸入を見たるに非ずや︒実に現時の殖民政策なるものは過多なる人口
浪費的の殖民政築は社会主義の実現と共に第一に廃止 せらるべき也︒﹂と述べたのち︑アメリカにおける黄色移民排斥に触れ︑これが﹁甚しく賃銀の高下を異にせる︑両国間一時例外
実に浅見たるを免れず⁝⁝若し外に何等の利害もなくば 能に十万やそこらの労佑者の為に︑日本大帝国が戦争を開くべしなど思ひも寄らず︒
されば此頃米国に於て大に人種的反感を煽動
一国資本家の手から他国資本家の手
︹ 註 ︺
に就きて敢へて偏見を抱くものにあらざれども︑当分は我移民を禁止するを得策とす︒﹂
社
と述べているのは︵評論 の移民排斥問題にからむ日米当局の交渉を評して︑ し
つ
4
︑租々気色ばむ様子あるほ︑
大過なかるぺし﹂と断じていることを附言しておこう︵青木文庫版一五
0
ー 六
頁 ︶
︺ ︒
と こ
ろ で
︑
ア メ
リ カ
︑
畢党東洋における米国の経済的利益が日本の為に侵害さる
4
の事実が投影せられたる者と見て
カナダにおける日本移民排撃運動はひろく日本移民の﹁棄民﹂型出稼ぎ労仇としての性格
と密接に関連するのであるが︑石川啄木が明治四十一年に﹁雲間寸観﹂と題して﹁釧路新聞﹂に書いた時評が︑
﹁而して日米交渉の移民問題に関しては外務省に参じて何事も ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ 云わざる心算なるが︑元来日本の所謂移民なるものは移民に非ずして出稼人なり︒動もすれば欧米人に悦ばれざる
上︑資本家が労銀安き日本人を歓迎するより︑米国労仇者と勢い衝突を免れざる次第にして︑有識者は人種の相違
﹁性急な思想﹂河出︑啄木全集
( 1 3 )
二 ニ
貝 ︶
︑
日本型移民の構造的特徴を摘出しえているといわなければならない︒ こ
会政策学会が明治四十二年十二月の第三回大会で﹁移民問題﹂を討議の中枢に置いたのも︑もちろん背景としては
さきに述べたように早期的農業危機←体制的な人口問題の登場があったわけであるが︑寵接には移民問題の日本人
︵ 註︶
排斥連動の激化にもとづく深刻化が要因をなしているのであり︑だから日本型移民の構造的特徴についてすこし註
説しておくことは︑以下の大会討論の内容を検出するにも便宣であろう︒
日本型移民の構造的特徴はそれが︑絶対主義権力の経済的基礎たる半封建的農村ーーしヘヴェズネルのいわゆる﹁国内植民 地﹂としてのーが溢出させる出稼型移民を基幹とする点にあることは︑啄木によって指摘されたとおりである︒そして この日本移民のパターンは農民的土地所有
( I
局地的市場圏︶と在郷資本の絶対主義政府と財閥特権資本の合体勢力によ る懐滅ないし圧服︵自由民権運動を波頭とする︶のいちおうの完成たる明治二十年代初年に確定するが︑このことは寄生
地主制の確立にもとづく日本資本主義の再生産軌道の敷設とそれによる人口法則の定立をいみしていた︒すなはち日清戦 日本社会政策学派の人口論とその分化︵市原︶
六
135
日本社会政策学派の人口論とその分化︵市原︶
七
争を契機とする軽工業︵紡鋲業中心︶の産業資本確立をさ
4
えた労佑力源が寄生地主制を基礎とする半労半農型の低賃銀 労佑であり︑この労佑を需給する労佑市場が局地的市場園
1
自由な労佑市場を媒介にしない上からの縦断的家父長的労佑
1市場で構成されていることをいみしたのである︵日本型﹁企業別組合﹂の母胎/︶︒半労半農の出稼型低賃銀労佑のうえ に立った底の浅く脆弱な幼い日本資本主義の矛盾が前年の米と同年の麦の大兇作という前資本主義的要因に加速されてお ちいった明治二十三年恐慌は随所に米騒動をひきおこし︑絶対主義の階級的基盤たる地主制保持︑つまり農村の階級平和
維持のための絶対主義的移植民政策(絶対的過剰人口↓移植民↓商•海権の伸張↓領土侵略)を採らざるをえず、こ
4に日本移植民政策の原型がみいだされる次第はすでに一再ならず関説したとおりで︑その極北としての日清戦争とそのさな かに軍・帝・帝国主義のアポロジーとして書かれた徳富の﹁大日本膨脹論﹂もいくたびか検出したとおりである︒かくし て日本型移民は絶対主義的移植民政策の一環として採られ︑恐慌と農業危機と米騒動とをピークとしつ
4
半封建的農村
1 1
﹁国内植民地﹂からすでに世界的な不況と帝国主義段階への突入とによって加速された先進国の慢性的失業人口によって
反撥されつ
4多難な国外移民へと出向いていかざるをえなかったのであり︑しかも彼等の大半は﹁国内植民地﹂から流出 した出稼型移民であった︒明治いらい昭和十年にいたる十八年間の移民総数は明確ではないが過大にみつもつてもほぼ二 百万であり︑この数字はたとえばイギリスが一八四五し一九一四年の間に二千百万︑年平均三十万を送出し︑また日本と 同じくほとんど一八八
0
年以降に移民送出をはじめたイタリアの移民数が一八七六年し一九二六年の五十年間に千七百 万︑年平均三十四万人の流出であったのと対比するとそのいちじるしい数量上の貧弱性におどるくのであるが︑問題はこ の数薩的貧弱さを規定づけた移民の梱造的特性にあることはすでにあきらかなとおりである︒ところで対比の対照とし て︑日本における稀有な自由主義移植民論者田口卯吉に影糧をあたえ近代の体系的な移植民論の建設者といわれるかのウ ェークフィールドとその祖国イギリスをとりだしてみよう︒ー
l│
十九世紀の三十年代にウエークフィールドと子︑︑ルの手によって近代的恐慌の週期が発生した当年のイギリス資本主義
の現実認識をさ
4えとして︑過剰資本と過剰労佑の輸出︑したがつて経済の進展にたいする媒介的機能をはたすものとし ての植民が体系だって主張されること
4
なった︒︵明治二十三年の日本型資本主義恐慌を契機とする日本型移植民論のマ イエットを先頭とする扱頭と対比︶︒すでに古典学派の建設者によって形成されつ
4
あった過剰人口と過剰資本との発生
にかんする二つのべつべつの理論的解明を子︑︑︑ルとウエークフィールドとが統一し︑綜合することによって近代移植民論
136
が完成されたわけである︒十九世紀の初期にすでに植民政策論の研究が着手されていたが︑オッグスフォード大学では経 済学者メリベールによって﹁植民と植民地に関する講義﹂がひらかれ︑またウエークフィールドの植民理論が批判され検 討されて次第に植民思想が盛んとなっていった︒メリベールはかくも植民思想と植民の研究が盛んになった理由をふりか えつて︑それは一部では不景気に沈滞しつ
4
あった商業界が過剰人口の理論に帰依して広大な外地を所有する︸
Jとが当時 の切迫した危機を緩和・救済するという期待にあい応じたものである︑として近代的植民と恐慌(‑八二五年の資本主義 的な最初の恐慌︶との関係を示唆している︒ウェークフィールドとともに過剰人口
過剰資本論と体系化した子︑︑︑ルは同
1 1
時 に 近 代 人 口 論
( 1 1
新マルサス主義︶をも理論的に完成し両者をむすびつけていたのである︒ウイークフィールドはみづ
からの近代植民論をもととして一八一︱
‑ 0
年に植民協会を設立し︵板垣退助等による明治二十年代の﹁植民協会﹂や﹁本邦 協会﹂の設立とパラレルに考へよ︶︑たんなる移民に代へるに組織的植民をもつてせんとし︑この協会の活動によって﹁
英国の植民政策に変革を来たさしめた﹂のである︵黒田謙二﹁植民経済論﹂二七七頁︶︒エヂヤートンが﹁一八三一年は 植民政策史上における境界標と考へられる﹂といつているのは
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︑このことをいみしている︒この協会の人達によって作られ数年間存続した
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なる機関誌はイギリスの植民思想を剌戟•発展せしめたのであり、また南薔洲、ニュー・ジーランド等が建設されたのもこの協会の力に負
ったのである︒子︑︑︑ルは﹁経済学原理﹂の第六版(‑八六五年︶にその第二篇﹁分配﹂第十三章﹁さらに低労賃の救済策 を 論 ず
﹂ の 末 尾 に 次 の 文 章 を つ け く わ え た
゜ ー
﹁ 当 代 の 科 学 上 の 大 成 功 の た め に
︑ 交 通 が 簡 易 と な り
︑ 世 界 中 の 遠 く 離
︑︑︑︑︑︑︑︑
れた地方の労佑市場の状況を殆どすぺての人々が知り得るに至り︑わが島国の人々は︑みづからす
4
んで移民となって大 洋の彼方の新国へ渡航するに至り︑その数は減少せずかえつて増加の傾向にある︒従つて国家が何ら組織的な移民政策を とらなくとも︑大プリテンの労賃は︑あたかもすでにアイルランドに於てみられるごとく︑大いに裔まるべく︑しかもそ の高額を永くつづけるであろう︒か応い
i
かい恥がいいか恥恥ががい
5応いい5
︑知孵心いい応いや釈恥いいが加かがか く︒か
4
る近代史上の新事実が起じたので︑これらが相まつて為にわが国の人口過剰も息つぐことができた︒この休息期 間こそ︑極貧者のみならずすぺての人口の智徳の向上に利用すぺきものである︒﹂︵戸田訳︑第二巻︑三一三頁︶産業革命 末期に深刻化した社会問題対策としてウエークフィールドが提唱した組織的植民論に子ミルが共鳴したのは三
0
年代の初 頭であったが︑六五年のこの文章はそれいごのイギリス資本主義の発展と資本の菩腋過程ー│'六七年にマルクスが﹁資本
日本社会政策学派の人口論とその分化︵市原︶
入
137
日本社会政策学派の人口論とその分化︵市原︶
l九 [[[[[=;ニ仁済」/[[/[/[/[~[[[/股-に[経三[[程戸[~[
てはさきに述ぺたようにむろん半労半農型は存在しないし︑徹底的な農民的農業革命をなしとげた割地農民のフランスに
おいてもありえない︶︑それが酷烈な国外溢出つまり出稼型移民の形態をとるのは別してアジア的におくれた国々におい
てである︵中国農民の出稼ぎ形態として有名な満洲移民と華僑とをみよ/︶︒これらアジア的におくれた諸国の移民はし
たがつて︑かつての日本資本主義論争の一争点としてもちだされた﹁インド以下的低賃銀﹂論争にもあきらかなように︑
極度の苦汗と低貨銀労佑とを基準としているのであり︑移民流入国︵アメリカ︑カナダ︑オーストリア等︶が黄色移民の排
撃をおこなったのも︑啄木の指摘するように﹁元来日本の所謂移民なるものは移民に非ずして出稼人なり︒動もすれば
欧米人に悦ばれざる上︑資本家が労銀安き日本人を歓迎するより︑米国労佑者と勢ひ衝突を免れざる次第にして﹂という
摩擦関係がひる<流入国とアジアの黄色国民との間にあてはまったからなのである︒
以上の考察によってや
4日本型移民の構造的特質はあきらかとなったとおもわれるから︑いよいよ︑社会政策学会第三
回大会の討議内容に触れてみたい︒
さ て
︑ 移 民 問 題 討 議 の た め の
︑ 報 告 第 一 席 は 福 田 徳 三 博 士 で あ っ た が
︑ 博 士 の 日 米 移 民 問 題 係 争 に か ん す る 所 見 は
︑ さ き に 引 い た 啄 木 の 時 評 と ほ ぼ 同 意 で あ つ て
︑ 社 会 政 策 学 会 論 叢 の 要 約 に し た が ひ つ
A︑ そ の 大 凡 を 左 に し め
移民は種々の点より之と観察するを得れども︑予は観点の範囲を縮少して社会政策の観点より之を解釈せんと欲す︒移民に二種
あり移出民並に移入民是なり︑国によりて移入民多く利害を感ずるものあり︑又移出民につきて利害を感ずるものありと雖も︑
社会政策の見地よりすれば移入を以て寧ろ重要なりとす︒何となれば若し多数の人民が本国を離るれば其行先に於てこそ影多の
問題を惹起すべしとはいえ︑其移出国に於ては社会調和の問題を惹起すことあらざるぺければなり︑反之外国より多数の移民を
吸集したる国にては︑先住のものと新に移住したるものとの間に利益の調和し難きものあり︑従つて社会政策より之を講究する
の要あるなり︑之を歴史に徴するに今日国民経済時代に於て政策の推移変還は昔都市経済時代に於て都市の政策の推移変遷した
るに相類するものなり︑
さ う
︒ ー ー
都市は第一期は移民を歓迎せり︑第二期にいたり都市の住民は其特権を失はざらんが為に之を排斥せ
日本社会政策学派の人口論とその分化︵市原︶ 四〇
139
日本社会政策学派の人口論とその分化︵市原︶
の う ち に 吸 収 さ れ て い っ た と こ ろ に
︑ ブ レ ン タ ー ノ の
J a
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b
四
のいわゆる﹁高き労銀の
り︑之と同じく往時移入民を歓迎したる国も先住のもの其利益を失はざらんが為に之を排付せんとするなり︒反之貨物の輸出は
今日之を禁過するものなしと雖も︑移出民に対しては尚制限を設くる国少からざるなり︑醗つて移入民国につきて見るに人間を
要する国と仕事を要する国とあり︑前者は多くの移民来住するも差支なし︑其国の人口稀薄にして来住するを許せばなり︑勿論
人口稀薄なればとて真に多数の移民を要し之を養ふを得といふにはあらず︑富源を開拓し以て人口を養ふを得る場合に移入する
に適するなり︒所謂手の要る国は如何なる移民にても来住するものあればよしといふにあらず︑事業を遂行するを得る労佑者よ
りいえば最も移住するに適する国なり︑米国の如きは所謂手の要る国なり︑然れども貧者移民を喜ばず︑其の多く生活の程度の
低き国より来れるが故なり︑其の程度の低き国よりの移民を歓迎せざるは理由あることにして︑予にして米国に生れれば同じく
移民を排斥するやも知る可らず︑若し生活の程度の低き国より移住する時は一般の生活の程度を低くするなり︑是れ社会政策上 ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ よりいふも慶すぺき現象にあらず︑且つやこれ等下等の労仇者が移住し来る結果として内国人は熟練なる労仇者の位置に進まざ
るを得ず︑其結果労仇の不足を感ずるなり︑而して下等の労仇者は来るも人口こそ増加すれ︑米国人は為に増殖せざるなり︑米
国が移民を排斥するは洵にいはれある理由ありと信ず︑之を移出国よりすれば特に移出せんとするものを禁過する必要なしとす ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ るも︑之を移入国に迫りて移入を強ふるが如きは解す可らず︑是れ社会政策の見地よりする移民に関する意見なり︒
右に約述した福田の日米係争にかんする社会政策の見地よりする平和
11
自由主義的処理策は彼の師父ブレンター ノに代表される後進国ドイツ流の商工立国主義と演述中引いている
たとおりであるから省くが︑
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経済﹂に理論的根拠を置いているので︑若干説明をくわえておこう︒リストについてはすでにや
4
くわしく検討し
︵ 註︶
このリスト流の農商工併進論がリカードウ学派の収穫逓減法則にもとづく商工立国論
﹁農政学原論﹂'︵一八九六年︶にみられるように考え方をう
んでいった︒プレンターノはリストと反対に農業における収穫逓減法則を信奉している︒しかしこの法則は商工業
︹ 註 ︺
化の発展によってあるていど相殺されるという︒工業における長期的な収穫逓増法則の作用により︑肥料・機械・
素材としては従来とおなじだが価額においては従来より少い資本と労仇と
で︑従来と同じ生産高をあげる可能性が農業にあたえられる︒商工立国によって農業の荒廃ではなく農商工併進が
なしとげられうる根拠はこ
4にある︑とブレンターノは考える︒植民地は農業一般のために必要なのではない︒農
業のうちでもとくに粗放な性格が濃く収穫逓減傾向のつよい種類のもの I すなわち穀作等のために植民地農業が必
要なのである︒収穫逓減傾向のよわい種類のもの︑
もつ集約的蓄産などを国内農業としてえらぶべきなのであり︑かくてプレンターノにしたがうならば︑商工業およ
び集約農業的本国と粗放農業的植民地という分業関係の成立することがのぞましく︑
イツの商工立国主義者はただ国内農業の保護にのみ反対し国内商工業の保護を主張したのであって︑福田の日本保
護関税問題論争にかんする所見もほぼこの線に沿つていたといつてよい︒
リカードウ学派の収穫逓減法則にもとづく商工立国論は
J . s .
︑ルの﹁経済学原理﹂︵一八四五年︶に代表されている といえよう︒エンクロージャーがいちおう達成された十九世紀初頭の産業資本がこれまで妥協ないし同盟してきた土地所 有との関係を改変し土地所有を平均利潤率化の作用に包摂してしまうため︑資本の利害を代表する経済学者︑いわゆるリ カードウ学派によって自らの商工業立国論を基礎づけてもらったわけであるが︑まづ収穫逓減法則の内容から説明してい
こう︒!ー'工業生産は資本と労佑力との結合によっていとなまれうるのにたいし︑農業生産は資本と労佑力と土地との結
合によっていとなまれる︒ひとつの工場のみをとつてみれば技術の一定の発展段階においてはそれによって規制される一 定の適正規模というものがあり︑その規模にたつするまでは生産高が資本および労仇力の増加比率より大きな比率で増大 し︑その規模をこえたときは生産高が資本および労佑力の増加比率より少ない比率で増大するという傾向が存在する︒す なわち一定の規模以上では収穫逓減傾向があらわれるという法則が存在する︒しかしそういったときには同じ規模の工場
運賃がしだいにやすくなるおかげで︑ 日本社会政策学派の人口論とその分化︵市原︶
たとえば園芸や逓減傾向のほとんどは農産加工にちかい性格を
このような視点から後進国ド
四
141
日本社会政策学派の人口論とその分化︵市原︶
四
を他に増設すればよいのであって︑したがつて全体としての工業生産には収穫北例の法則が作用するのだといえる︒しか も技術の進歩は﹁適正規模﹂の範囲をますます大きくする傾向があり︑収穫率を旧来から高めてゆく傾向がある︒とする と工業に支配するのは︑短期的には収穫比例の法則であり︑長期的には収穫逓増の法則である︑といえよう︒工業への追 加投資は︑短期的には概して均等の利澗率をもたらし︑長期的には概して増大する利潤率をもたらす︒しかし農業では︑
資本と労仇力とを併行して増すことはできても︑土地をもそれに比例して増すことはできない︒土地一般はまだほとんど 無制限といつてよい没どあらうが︑耕作されうる豊度の高い土地は限られている︒だから工業におけるように︑その時代 の技術水準により規制されるところの適正な規模の経営を︑一定数以上に増設することはできない︒一定数以上の増設は 必ずや従来より劣った豊度の土攘の上になされざるをえず︑したがつて生産高は比例的に増大することはできない︒農業 では短期間に収穫逓減傾向が支配する︒技術の進歩は工業におけると同じく︑適正規模の範囲を拡大し生産性を増大して ゆくことができるであろう︒短期的な収穫逝減傾向と歴史的な技術の進歩との相殺の結果がどういうことになるかは抽象 的に論ずれば未知数である︒しかし実さいには土地の制限性のために長期的にもやはり収穫逓減傾向がみられることであ ろう︒短期的にも長期的にも︑農業では収穫逓減法則が支配するであろう︒農業への追加投資は短期的にも長期的にも︑
低下する利潤率をもたらすであろう︒農業での人口増加は短期的にも長期的にも低下する生活水準をもたらすであろう︒
ーだいたい以上が︑ミル﹁経済学原理﹂にしめされた収穫逓減法則の大略である︒このような考え方からは︑一国内の農 業を荒廃させても商工立国政策をとることが︑その国の利澗率をたかめ生活水準をたかめる賢策であるという考え方が当 然みちびかれてくる︒後進国ドイツの商工立国論がイギリスのそれと少しだけちがい農業の荒廃をともなう商工立国では なく︑﹁農商工併進﹂となるような商工立国論
1 1
生産力説であることについては︑別にリストの所論について検討したと おりである︒後進国の商工立国論者ですらしかり︑いわんや農業立国
1 1
尊農論者がリカードゥ学派とくに
J.S
・ミル流
の収穫逓減法則についての考え方についてどのように手厳しい反撥をみせるかについては︑河上肇﹁日本尊農論﹂のうち 収穫逓減法則を批判した︑第一章第四節﹁農業と工業との経済的性質を以て全く相異れりと為すの非﹂についてすでに考 察したとおりであり︑横井時敬も往ぽ同意の考え方であるといつてよい︒
この種の商工業立国論は帝国主義段階以前にあっては︑興隆しつつある資本の利益を代表しドイツ流の妥協解消
性をもちながらにせよ封建主義とた
4かう進歩的傾向をつよくもつていたが︑帝国主義段階にはいると帝国主義国
でのいま一層の商工立国ー植民地再分割への不断の衝動を学んだーとして収穫逓増と富裕化の法則をもつ工業︵お
前面に押し出されてかつての進歩的側面を喪失してゆくのであって︑
︵ 註︶
いた帝国主義的な商工立国論もこの系統にはいるであろう︒ 日本のスミス田口卯吉が日露戦争の直前に吐
ミル式自由主義者田口卯吉は藩閥政府の北海道拓植や屯田兵制度を批判し台湾統治策として自由放任論を提唱し︑明治三 一年﹁対外国是﹂論では﹁余が国家に望む所は阪図を拡むるに非ずして殷富を進むるにあり︑土地を大陸に啓くに非ずし て貿易を我が帝国に集むるにあり﹂と産業プルジョア的な市場拡張論を楯に対外硬論には与みせず陸海軍備の拡充に反対 さえしている︒ところが日露の風雲がみだれはじめ﹁盛んなる哉所謂帝国主義の流行﹂の声たかくなった明治三五年には
﹁日本帝国が此の狭少なる面蹟を以て数多の人口を養ひ世界強国の間に立ちて国威を宣場せんと欲せば︑其の商工をして 他の強国より剰利を得せしむるの策を立てざるぺからず﹂と述言し︵﹁機械発明の結果如何﹂東京経済雑誌三五年八月九 日号︶︑明治三十七年には東京・大阪で新聞雑誌記者大会を組織して︑﹁満洲問題の解決なくして商工業の発展なし﹂と
開戦のための硬諭││帝国主義的商工立国を進言しているのである︒
しかし帝国主義段階に移行したのちも︑近代帝国主義を補位代行するものとしての軍・封・帝国主義が強力であ
その背骨としての絶対主義
11封建主義がいぜん存続していった終戦前の日本の政治経済体制のもとにあって
は︑ブレンターノ流の商工立国論はそれが封建主義
( 1 1
半 封
建 的
土 地
所 有
や 絶
対 主
義 権
力 機
構 ︶
と た
4 かう資本の前進
的要求を代表するかぎりなお相対的に進歩的側面をもちつづけていたといえよう︒じじつ︑博士のブレンターノ流
の商工立国論の相対的進歩性は米騒動
11全般的危機の波及いごも保持・強化されているのである︒ー一九五二年
に か
の J.M
・ケインズとともに革命にともなう紛乱と外国の武力千渉と反革命の危機をようやくきりぬけたソヴ
り ︑ ︹ 註 ︺
よ び
集 約
農 業
︶ は
自 国
に ︑
収穫逓減と貧困化の法則をもつ農業︵とくに穀物︶ は植民地にという露骨な植民地主義が 日本社会政策学派の人口論とその分化︵市原︶ 四四
143
日本社会政策学派の人口論とその分化︵市原︶
エ ト の 学 士 院 に 招 待 さ れ た 福 田 徳 三 博 士 は
︑ ケ イ ン ズ に 論 争 を い ど み 一 場 の 講 演 を こ
4
ろみているが︑
( 1 0 )
述の一部分ー﹁社会政策より見たる移民問題﹂
ような人為的のものだから或る程度まで大事に守り育てなければならない︒労佑時間を短くしてやる︑
四 五
こ
4での演 は 第 三 回 社 会 政 策 大 会 に お け る 博 士 の 論 旨 を さ ら に 敷 行 し て い る
﹁明治四十一︑二年頃であると思ふが︑アメリカに於て日本の子供をアメリカの学校へ入れる入れないといふ所謂学童問題と云
ふものが起った︒⁝⁝其時にどうもアメリカが日本に対して差別的待遇をするのほ怪しからぬといふ国論が喧しかったのです︒
私は予てからどうも是は日本の言ふ事が無理だと思ふて段々考へた︒仮に地を異にして日本がカリフォルニャだったらどうする
か︑そこで其時に日本の社会政策学会の第三回大会であったと思ひますが︑丁度当時移民問題といふのが大会の討論題目であり
まして︑私は報告者であったから︑始めて自分の意見を纏めて斯ういふ事を言った︒アメリカ於て日本人を差別的待遇すること
が︑怪しかる怪しからぬといふ事は別問題として︑社会政策の立場から見た移民問題としては日本の言ふことには無理がある︒
アメリカの言ふ事には道理がある︒差別的待遇は怪しからぬけれども︑根本に遡つて何んで日本人排斥といふことがカリフォル
ニアに起ったかといふことを考へて見ると︑アメリカの労仇者は大変結構な暮しをして居る︑結構な労仇条件を持つて居る︑是
は労仇組合があって無理に支持しているので︑此の労佑待遇を得て居るといふことは⁝⁝人為的のものである
f紙で栴へた家の
或は賃銀を高くしてや
る︑それは結局生産力を増進する効能があると言っても︑直ぐに目に見えて現われるとは限らない︒けれども何年かそれに習熟
して行くうちには高い生活程度に慣れて来て︑昔よりはずつと生産力が増加する︒さうすると労仇時間を短くしたり労仇賃銀を
増加してやったことが算盤珠に弾いて損にはならないといふことになる︒:・・・・古い方のヨーロッパでは試験済みで︑労佑者の進
んだ生産力は﹃紙の家﹄ではないけれども︑新しいアメリカでは必ずしもさうではない︑下ろうと思へば下れる︒彼の高い生活
の程度と之に応ずる生産力が若し競争が来て安い賃銀で仇ぎ長い時間仇くといふことがあると︑'それと競争しなくてはならな
から︑繁をいとはず左に引用してみよう︒ーー'
を養ひ得るからである︒養ひ得なくなれば人口増加は止まる︒
一 形
の
一口に日本の人口増加々々々々と云ふけれども︑徳川時代の人口
一 国
い︒さうなると生産力は減じるかも知れない︒之を壊されることは労仇の保護者としては余程困ることである︒そこへ安い賃銀
で非常に粒々辛苦して仇く日本人が行くといふことは︑日本人の方から言へば正当なる競争であるけれども︑彼等から言へば不
当競争である︒それで彼等が之を恐れることは十分諒解してやらなければならぬことだろうと思ふ︒又日本の立場から言ふと︑
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ 人口増加を緩和する為には是非外国へ移民をさせなければならぬといふことは︑私は間違つて居ると思ふ︒常態としては︑
の国民経済は其の養い得ないやうな人口を久しきに互つては増加するものではない︑戦争の為め沢山に人が死んだ時には急に出
産率が殖えるけれども︑それは僅かの間で長く続くということはない︒人口の過剰があるとして移民をしたら︑どれだけ之を緩
和出来るか︑出来るものではない︒何十万の日本人を海外に移民すると云つても出来るものではない︒ブラジルヘやるチリヘや
ると云つても︑外の意味に於ての移民政策ならば結構であるが︑併し人口問題の解決としては移民政策は全然無意味で︑海の水
を手で掬ふやうなものである︒若し効力ありとしても︑其の国民経済がそれだけの人口を︑例へば一ケ年日本に七十五万を増加
する人口を養ひ得る生産力がある限りは︑十万を取って移民すればアト十万は直ぐ生れる︒:・・・・世界の表に於ける日本人の数を
多くして分布する上に於ては大変意味を持つけれども︑ 人口過剰問題の解決としては何にもならない︒此の趣意を︑明治四十
一︑二年頃に当時私は社会政策学会で述べた︒日本の七十万の人口増加は日本の国民経済の発達︑殊に日本の生産力の増加が之
増加率は極く小である︒徳川時代に於ては生産力が若千は増しつさあったけれども︑ 極めて緩漫にしか増加してゐなかったか
ら︑⁝・・・徳川二百何十年間に増加した割合は少いものであった︒日本の著しい人口増加は明治になってからの話である︑
自然増加率があるようになったのは大正年度に入ってからである︒大正年度に這入ってから日本は色々な財政難があると云ふけ
れども︑公平に見れば生産力の増加がそれだけ大である︒此の勢にして屈せざる限りは︑どんなことをしても七十万人或は八十
万人殖えることになって行っても養ふ力がある︒即ち諸君のマルクス主義から言っても又私の人口統計の見る所から言っても︑ 日本社会政策学派の人口論とその分化
0市 原
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四 六
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