理論地理学ノート,No.22(2020),125~146
写真による福島県西郷村川谷地区の地域表象研究
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開拓誌の写真と家族写真の比較を中心に-
青 砥 和 希
Ⅰ はじめに
地表面での現象を科学する地理学の最も簡便な定 義のひとつに照らせば,写真というメディアと地理 学の融和性は非常に高い.撮影される景観や建物,
人物といった被写体はもちろんのこと,撮影者,鑑 賞者,購入者,評論家や購入者らもすべて地表面に 存在する.それらいずれもが,どこか特定の空間に 存在し,その空間のコンテクストの中に配置される.
写真(カメラを通じて感光材料に定着された光学的 痕跡)には,単に被写体として地理的な情報が含ま れるだけではない.写真が撮影され,保存され,鑑 賞され,評価され,利用されてきたあり方,写真を めぐる人間の営為すべてが,空間と場所の影響下に あり,またそれらに影響を及ぼす.ゆえにそれらす べてが地理学の研究対象となりうる.最も有名な写 真論のひとつであるソンタグの『写真論』では,写 真についてこう書かれている.
そこに表面がある.さて,その向こうにはなにがある のか,現実がこういう風に見えるとすれば,その現実 はどんなものであるはずかを考えよ,あるいは感じ 直観せよ.(ソンタグ, 1979, p.30)
本研究は,地理学や隣接学問分野における写真研 究の蓄積を整理したうえで,調査対象地である福島 県西郷村川谷地区のヴァナキュラー写真の分析を行 う.画像や被写体にのみ着目した写真の分析ではな く,その時代的・地域的コンテクストや,その保管 や鑑賞のあり方を踏まえた分析を通じて,地域の表 象にとって写真が持つ意味を再度検討・評価するも のである.
Ⅱ 地理学における写真資料の再検討
1.地理学と写真
カメラによって撮影される景観や建物,人物とい った被写体はもちろん,撮影者,鑑賞者,購入者,
評論家や購入者らもすべて,地表面に存在する.そ のいずれもが特定の空間に存在し,その空間のコン
テクストの中に配置される.地理学はしばしば,写 真を研究手法あるいは研究対象にしてきた.
最も多くの蓄積がある研究は,写真に撮影されて いる地理的な情報を収集・整理・分析したものであ る.美術研究家のクラウス(1994)は,19世紀に活 躍した写真家ティモシー・オサリバン(Timothy
O’sullivan)の19世紀の写真を取り上げている.地質
学の資料に掲載されたオサリバンの写真は,地理学 写真アーカイブにおけるキャビネットに収められて いた1)という.杉浦(2010)によれば,19世紀半ば に写真が発明され実用化されるようになると,地理 学者を始めとする人々2)は競って,地理情報を写真 という新しいメディアを通じて伝達することを試み るようになったという.写真の誕生と,地理学に代 表される 19 世紀科学の成立が同時期であり,また 地球規模での移動が活発化し,西洋諸国が競って植 民地の獲得競争に参入したことを背景に,地理学に おける写真はまず地理情報を保存し,伝達する意図 で用いられてきた.
西洋諸国に後れて近代化が進んだ日本においても,
地誌の作成を目的に,積極的に地理学で写真を活用 しようという動きが続いてきた.20世紀以降は,そ れらの蓄積を整理し,また地理学における写真の活 用について定義づけを行おうとする研究も行われた.
田中(1935)の『地学写真』や石井(1988)の『地 理写真』はその代表作である.また近年でも,原(2012) の『写真地理を考える』や香月(2013)の『風景写 真論ノート』など,たびたび写真と地理学との関わ りを考察する研究が行われている.これからも写真 によって地理情報を保存し,地誌を作成しようとす る実践は繰り返されると想定される 3).それらの多 くは,クラウス(1994)が指摘するように,再現的
(representation)な機能,すなわち対象物の様態を指 示する機能への注目によって利用されてきた写真群 である.
日本の地理学における写真の役割を一般化して論 じようと試みた研究に,石井賓の諸研究がある(石 井, 1974; 1989; 1998; 1999).多数の写真と地理学に関 する研究論文・著作を残した石井は,地理学におい
て活用する「地理写真」の定義を,次のように行な った.
地理写真は,結果的に地理的な情報が写されたとい うのではなく,最初からはっきりと写すようにしな ければならない.地理研究者は地理的な諸要素から 構成されている場所をどのように見るか,そしてそ れをどのように写真によって表現するか考えること が必要である.それであるなら地理研究者でなけれ ば写せない写真があってもよいのではないか,とい うより,研究者が最も適切な地理写真を写すべきで あるし,写せるはずである.(石井, 1988, p.23)
ここには,石井の写真観が見て取れる.石井の言 う「地理写真」とは,撮影場所の地理的な情報を撮 影以前から把握し,それを写真表現によって再現す るものである,というものだ.石井の研究成果とし ての「地理写真」は現在,石井フォートライブラリ ーとして千葉県にある国立歴史民俗博物館に所蔵さ れ,日本の景観資料としてその価値を評価されてい る.
しかし,前述した石井の写真観に照らせば,石井 の写真は視覚映像それ単体でなにかを成すものでは なく,既存の地理学的学問知を再確認するものであ ると言わざるを得ない.それは,次のような記述か らも明らかである.
地理写真の読み取り作業について述べたが,次の問 題はその地理写真が本当に意味のあるものなのか,
また利用に値する写真であるかどうかということで ある.ある場所についての地誌を書く場合,何から何 まですべてを書くことはできない.そしてすべてを 書くということは,詳しいようでありながら,実はこ れを読む者にかえって正確な内容の把握を困難にし てしまう.これは「記述」であり,「説明」にはなら ない.地理写真に対してもこれと同様のことがいえ る.地理的な内容をしっかりと把握できない写真,つ まりただ写したという写真は「記述」の写真である.
明確に地理的な意味を持つ写真は「説明」できる写真 でなくてはならない.そのために撮影対象の選択的 行為が行われる.(石井, 1988, pp.114-116)
石井は,「地理写真」の本質を,正確な内容の情報 伝達にあると考えている.そこで伝達される情報は,
写真によって判明した新規性のある情報ではなく,
撮影段階で予測可能な,既知の地理的知見の説明で ある.すなわちここで写真は,地理学的知を補う言 語の代替・強調程度の役割に位置づけられている.
日本の地理学における代表的な写真研究の蓄積と して石井の一連の研究を取り上げた.一方で,日本
国内外の地理学においては,既存の写真に対する地 理学におけるアプローチを批判的に検討し,新しい 研究分野を開こうとする実践も行われてきた.アメ リカの写真家を検討したDavis(1992),イデオロギ ーや思想史に着目したCosgrove(1994),家庭の写真 に着目したRose(2003)などである.日本国内でも,
成瀬(1997a; 1997b; 2001; 2010)や藤永(2007)が,
地理学の立場から写真を用いた新しい研究に取り組 もうとしている.
成瀬(1997b)は,被写体に着目してきた石井(1998) の研究を踏まえながら「写真による地域や場所の表 現は,地域や場所へのコンテクスチュアリスト・ア プローチである」とする.画像としての記録は,文 節可能な要素のみならず,文節不可能な要素,そし て撮影者が意図せざるものの記録を含むという.成 瀬(1997b)は,写真,そしてその写真家や被写体や 鑑賞者が置かれた状況に織り込まれた場所・地域の コンテクストを研究対象とする可能性を提示してい る.
また藤永(2007)は,藤永自身が撮影した写真や,
鹿児島県喜界島に残る澁澤写真群を取り上げた景観 写真研究を通じて,景観写真に写されなかった「隙 間を埋める」ことを重要視する.写真が撮影された 場所や地域の,時系列的な変化を追い,異なる場所 の空間的な繋がりや断絶性を考察していくことで,
「隙間を埋める」ことを実践するという意欲を見せ る.
地理学における写真を用いた研究は,写真に写さ れた地理的情報の読解や,その撮影,景観分析の資 料としての利用など,被写体の様態を指示する機能 への着目が主であった.しかし1990年代以降,記号 論や人文主義地理学などの人文科学の研究成果を背 景に,写真に写された地理的な情報のみではなく,
その写真を取り巻く社会的・地理的コンテクストの 分析に取り組む研究が現れた.従来の言葉と地図に よる地理学の補足資料ではなく,写真だからこそ実 現できる地理学知を志向する傾向である.
2.写真史・写真論における写真
写真が誕生し,社会に普及する過程の中で,批評 家や哲学者,美術研究家たちが,写真が持つ機能を 明らかにし,定義しようと試みてきた.多くの研究 と論文があり,そのすべてを整理することはできな いが,写真の研究者が定義しようと試みてきた写真 の本質への理解が,地理学において写真の理解と研 究の可能性に資することは言うまでもない.ここで
は,主要な写真をめぐる研究と,近年になって注目 を集めているヴァナキュラー写真をめぐる研究につ いて取り上げ,整理したい.
1931 年に発表されたベンヤミンによる最初期の 写真論『複製技術時代の芸術』(1970, p.13)は「あく まで写真はオリジナルの模造品であり,オリジナル ではない」ことを写真の特徴と位置付けた.哲学者 のロラン・バルトは『明るい部屋-写真についての 覚書』(1985, p.102)において「「写真」が私に及ぼす 効果は,(距離や時間によって)消滅したものを復元 することではなく,私が現に見ているものが確実に 存在したということを保証してくれる点にある」と 書き,写真の本質は「それはかつてあった」ことを 示すことだとする.
写真4)は,現実をそのままに写し取るのではない.
現実と写真の間には相違点が存在し,写真を現実と 理解することは誤謬を産む.そのような写真の本質 を,ベンヤミンは20世紀初頭に,そしてバルトが影 響力のある写真論でそれぞれ指摘した.しかしその 後の世界では,「写真は,一瞬に作り出される証拠と して現実の世界にとって代わっ」てしまったことも,
明らかにされている(バージャー, 1993, p.68).バル ト自身も,その著作『現代の神話』(2005)では「写 真というメディアがしばしば,客観的であると考え られる」と社会のなかで写真というメディアがどの ように認識されているのかを整理している.
これらの写真論が示すことは,写真そのものは,
政治性や客観性を帯びていないことである.写真で はなく,写真を用いようとする者たち-写真家や評 論家,政治家や市民-こそが,イデオロギーや恣意 的な事実らしさを,写真によって表明しようとする ことを明らかにしている.
ベンヤミン,バルトに並んで重要な写真論である ソンタグによる『写真論』(1979, p.12)は,「写真は 事実を歪めているかもしれない.しかしなにか写真 にあるようなものが存在する,あるいは存在した,
という推定はつねにあるのである」という慎重で注 意深い見方を表明する.ソンタグはまた,次のよう に続ける.
写真映像の基本的な知識は,「そこに表面がある.さ て,その向こうにはなにがあるのか,現実がこういう 風に見えるとすれば,その現実はどんなものである はずかを考えよ,あるいは感じ直観せよ」といってみ ることである.自分ではなにも説明できない写真は,
推論,思索,空想へのつきることのない誘いである.
写真の含意は,世界をカメラが記録するとおりに受
け入れるのであれば,私たちは世界について知って いるということである.ところがこれでは理解の正 反対であって,理解は世界を見かけどおりに受け入 れないことから出発するのである.(ソンタグ, 1979, p.30)
写真の本質や,その含意を理解することを通じて,
写真にこそ実現できる,言語や絵画にはなし得ない 表象とは何か.写真論を背景に,写真による表現に 最も真摯に取り組んできたのは,写真家たちである.
日本の写真家による成果は,『日本写真史1840-1945』
(日本写真家協会, 1971)や『日本現代写真史-1945-
1970』(日本写真家協会, 1977)などにまとめられて
いる.写真家協会による書籍の他にも,飯沢(2008) や鳥原(2013)など,「写真史」を写真家の歴史とし て記述し,残すことは,写真家たち自身や写真評論 家によって幾度も試みられてきた.絶えず新しい写 真家が登場し,最新の「写真史」書籍には,毎年新 しい名前とページが増えていく.写真家たちは,写 真集の出版や美術館での展示,「写真史」書籍に掲載 されることを通じて,作家・アーティストとしての 地位を確立する.写真家としての地位が確立するこ とは,その撮影者個人に経済的・社会的に写真表現 を継続する可能性を与える.現代においては,生業 としての写真家が存在できる.
一方で近年,作家主義とも言える写真史の担い手
=写真家という歴史認識に修正を加えようとする動 きがある.バッチェン(2010, p.27)は,ニューヨー ク近代美術館の写真担当学芸員であったニューホー ルの著書『写真の歴史』(1956)やその後輩にあたる シャーカフスキーによる展覧会の序文などを検討し,
写真家たちが生産する「自身の生産過程に意識的な 写真」が付与されてきた特権性を批判する.バッチ ェンは「写真の美術作品化を推し進める」ような特 権性をフォーマリズムと呼んだ.バッチェンを筆頭 に,フォーマリズムが見落としてきた写真,無視し てきた写真を再評価しようとするポストモダニズム の写真理論家たちは,別の写真史/写真論を対置す る.その中には,地理学などの文脈で機能していた 写真が美的言説に挿入されることを批判したクラウ ス(1994)も含まれる.
バッチェンらポストモダニズムの写真理論家たち が,従来の写真史からは見落とされてきた写真,い わば「縁としての写真」を写真史に組み込もうとす るときに取り上げられる概念が「ヴァナキュラー写 真」である.前川(2007)によれば,「ヴァナキュラ ー」は従来,建築史家が特定の地域や時代と結びつ
く建築を説明するために流用し始めた形容詞である.
「ヴァナキュラー写真」の定義は議論があり一概に その意味を断定することはできないが,最も明確な 特徴のひとつを述べるならば,写真史上で美術的価 値・商業的価値の低いと見なされてきた写真である.
写真家や技術者ではないものが過ごす日常や非日常 のなかで,無数に生産され,保存されてきた写真た ちである.前川(2007)は,「ヴァナキュラー写真」
の概念が指し示す範囲を,次のように定義する.
(1)原則として写真についての専門的訓練を受けてい ない,あるいは独学で技術を学んだひとびとから構 成された匿名の者が,美的な機能を二次的な働きと した写真を,美的な制度とはひとまず無関係に製作 した写真であり,同様の例が大量にあり,撮影技術か らみればとくに際立ったことがないとみなされる写 真.
(2)機能の面から見れば,美的な機能とは対立する機能 や用法がドミナントになっている.ただしそれは,写 真の被写体を透明に伝達するというよりは,その透 明性を損なう物質性によって感情的,情動的な機能 を強く帯びることも多い.
(3)(2)の規定と関係した写真の提示および受容形態が ある.
写真史が見落としてきた写真を,写真史において 論じようとするとき,ヴァナキュラー写真の概念は 最大限にその可能性を発揮する.ヴァナキュラー写 真の概念は,写真史において,写真の画像や撮影者 に注目するのではなく,写真を巡る経験や感覚,時 間性に注目することを可能にした.そして同時代・
同地域的に不特定多数の者が製作したヴァナキュラ ー写真からは,その社会を構成する集団の経験や記 憶をも議論の対象とすることができる.言い換えれ ば,写真の歴史から,写真経験の歴史へと,写真に 関する研究の可能性を拡張するものである.そして,
写真史・写真論が構築してきた歴史へのポストモダ ニズムな批判から,ヴァナキュラー写真という概念 が登場したことは,地理学が研究対象としてきた場 所や地域という概念と,写真史・写真論の蓄積とが 接続する可能性をも示唆する.同時代性・同地域性 を背景に写真というメディア,あるいはその表象を 地理学の立場から理解する可能性を,ヴァナキュラ ー写真という概念が実現するのである.
3.地理学における写真資料の再検討に向けて ノウルズ(2012, p.30)が指摘するように,写真の 持つイメージが,あまりに人間の注意をひきつける
がゆえに,研究者はしばしばそれらを説明に役立つ 目的でのみ用いてきた.地理学に限らず,社会学・
歴史学・民俗学・メディア研究者など,人文・社会 科学の研究者が,それぞれの写真に対する研究を批 判的に検討し,新しい研究成果を発表する試みが続 けられている.
緒川ら(2012)は史学における写真は固有の「史 料」というより,史実を説明する文字テクストを補 完する「挿絵」として恣意的に切り貼りされたに過 ぎないとする.それらを省みることで,史学だけで はなく,社会学・民俗学・地理学などの人文・社会 科学が,写真経験の社会史研究に取り組む契機にな るという.具体的には,緒川ら(2012, pp.24-25)は いくつかの研究指針を提示する.
(1)写真にかかわるモノ・ヒト・出来事を社会との関係 で史的に捉えなおすこと,すなわち,写真に媒介され た様々な社会関係・社会経験を史的に考証する方法 論・実証研究の総称.
(2)写真を特定の時代相を刻印された生活・日常イメー ジの歴史記録として読みなおすこと=「生活・日常イ メージの史料化」.
(3)「モノとしての写真の社会的存在形態」.
(4)「写真史料論と社会的叙述の相互性」.
緒川らの提示した研究方針は,前節で整理したバ ッチェンや前川によるヴァナキュラー写真概念が射 程に収めようとする写真の歴史と近接している.写 真が特定の空間で生産され,経験されるものである 以上,いずれの指針に則ることも,写真による地理 学の可能性を開きこそすれ,閉じるものではない.
特定の場所や地域において,写真をめぐる社会関係,
社会経験があり,それぞれの場所・地域による差異 が見出される可能性がある.
地理学における写真資料の再検討では,写真をめ ぐる地域独自の経験や感覚を明らかにしようとする ことが求められる.地域が個人によって形作られる ものではなく,地理的な制約を持って構成される集 団によって形作られるものであるからこそ,写真が 生産される・保存されるその集団内部の社会的な関 係性もまた重要な意味を持つ.写真の地理学は,従 来の言葉と地図による地理学では不可能であった主
張(成瀬, 1997b)を実現するものが望ましい.隣接
分野の研究蓄積や,写真論におけるヴァナキュラー 写真の研究をも援用することではじめて,まだ蓄積 の乏しいこの分野の可能性を検討できる.
ベンヤミンが唱えたように,写真はオリジナルで はなくオリジナルの複製である.「地域における写真」
が存在するとき,それは何かを表象する存在になっ ている.地域の住民,あるいは地域での生活,地域 の自然など,地域の空間に関わる構成員と関係性と 環境が存在する限り,写真は地域の表象足り得る.
ある地域が表象され,言説の中に位置づけられるこ とは,社会の中で普遍的に行われていることである
(荒山・大城, 1998).ある地域の何を表象し言説と するのかは,社会的な構築の結果であり,しばしば その社会的な権力関係が批判的に検討されてきた.
ある地域の表象のありようを考察することは,それ らを産み出している社会的な権力関係を明らかにで きることが,既存研究から明らかになっている(荒 山・大城, 1998; 関, 2003;「郷土」研究会編, 2003; 小 林, 2007など).
本研究においては,写真資料,それもマスメディ アに表象されてきたわけではない,ヴァナキュラー な写真の分析を通じて地域の表象分析を試みたい.
具体的には,戦後の緊急開拓によって地域が形成さ れた福島県西郷村川谷地区の写真分析を行う.マス メディアの写真表象にせよ,ヴァナキュラー写真に せよ,現実から切り取られメディア化された映像は,
みかけとは違い,実際は単体では成り立たない.さ まざまな関係性のなかでなければ,社会的意味がみ えてこないのである(原田, 2013).戦後緊急開拓と いう表象・言説を持つ地域において,ヴァナキュラ ー写真はどのような意義を持つのだろうか.
ヴァナキュラー写真と地域をめぐる先行研究とし て,小原(2008; 2014)による増山たづ子(1917-2006)
の写真の研究が挙げられる.増山たづ子は,1987年 に徳山ダムの建設に伴って廃村となった岐阜県徳山 村(現揖斐川町)の住民である.徳山村は福井県と 滋賀県の県境に位置し,周囲を1200mの山岳に囲ま れた山村であった.村内に8つの集落があり,人口
は1,500人程.1957年に徳山村を水没させるダムの
建設計画が浮上し,1957年から調査・移転準備・建 設計画が本格的に開始された.転居を強制される住 民や工期についての議論は長期間に渡り,最終的に 住民と事業主体の水資源開発公団との間の補償契約 が完了するのは1989年であった.ダムは2000年に 着工し,2006年に完成・湛水が行われた.
増山は 1917 年に岐阜県徳山村で生まれている.
1936年に婚姻し,二児をもうける.1945年,出征し た夫が第二次世界大戦中にビルマで行方不明となる.
戦後は農業の傍ら民宿を営んでいた.徳山ダム計画 が本格化する 1977 年,民宿の客に教えてもらった カメラ(KONICA C35EF5))で徳山村の撮影をはじめ
る.ダムができれば水没してしまう自らの故郷を,
写真によって残そうと考えた.村の暮らしと人びと の写真を撮った増山は,2006 年に亡くなるまでに,
70,000枚のネガフィルムとプリントを残した(第1
図).ピーク時の写真現像費用は月20万円に上った という.
第1図 増山たづ子の写真アルバム 注)小原・野部編(2014)より転載.
増山は1977年,60歳のときにカメラを使って撮 影を始めた.増山の写真は,集落の構成員や子ども たちをはじめとして,村への来訪者,村の景観や催 事,伐採される樹木や,転居後の自宅など,様々な 被写体が撮影されている(第2図).
国のやることには勝てんからな.戦争もダムも,大川 に蟻が逆らうようなことをしとってもしょうがない で.そんなバカげたことをするよりも,本当に村がの うなってしまうかもわからんから,そうならんうち にすこしでもな,いろんなことを残しておこうと思 うようになったんだな.残しておきたいという気持 は,あきらめからきてるもんだな.(増山, 1985, p.134)
いい写真を撮ろうと思って撮ったことはいっぺんも ないの.ぼやけたのまで,みんな好き(増山,「“徳山 の友達”写す」,中日新聞,2006年3月9日朝刊より)
増山の写真は,技術的には優秀ではなく,またそ の写真プリントも,家庭で一般的に用いられるサイ ズで行われ,その保存も,一般的なアルバムに綴じ る形で行われていた.徳山村や,増山をめぐるコン テクストから切り離された写真の画像だけを鑑賞す ると,その写真の撮影地や撮影者を知らない我々に は,どこにでもありそうな写真に見える.
増山の,本来どこにでもあるヴァナキュラー写真 をめぐっては,生前から写真展やマスメディアの取 材という形で注目が集まり6),また死後も回顧展や
巡回写真展7)が行われている.小原(2008; 2014)の 指摘も踏まえ,増山の写真が地域にとってどのよう な意味を持っているのかを,筆者なりに3点に整理 してみる.
(1)技術革新が可能にした安価で簡便な記録手法とそ の成果が,高度経済成長によるダム建設によって破 壊される村の共同体を記録している.残された写真 群が,近代化の可能性と受難を象徴している.
(2)増山の私的な撮影行為による写真からは,増山と被 写体の住民との関係性を読み取ることができる.私 的な写真にも関わらず,その撮影後は村の構成員に とっての記憶の拠り所として機能している.
(3)物理的に残っている7万枚の膨大な写真を持って しても,水没した村の記録は不完全である.写された ものが写されなかったものを想起させ,地域が喪失 されたことを伝える.
増山の写真は,増山が置かれた戦後日本社会とい う時代的背景,河川上流の過疎山村という地域的背 景を表象する.そしてその写真には,増山をめぐる 村落の中での社会関係と,村落の構成員らの社会経 験が記録されている.そして当時の日常・生活のイ メージが地域をめぐる重層的なスケールでの政治・
社会・地理の記録として機能している.物理的に残 された写真群は,廃村後も地域の構成員にとっての 地域の記憶の拠り所となる.同時に,次の世代の新 たな鑑賞者が,過去に地域を巡って存在した社会関 係や社会経験,政治や言説を知り・論じるための契 機として機能する.増山の写真は,ヴァナキュラー 写真の可能性を提示する写真群である.
本研究が対象とする福島県西郷村川谷地区は,戦 後の緊急開拓によって集落が形成された地域である.
日本国内の戦後開拓と写真を巡っては,高橋(2008) や土田(2008)などの研究があるが,それぞれ青森 県と北海道を対象とした調査であり,福島県を対象 としたものではない.新井(1971),田島(1975), 武田(1992)らが戦後開拓地の土地利用をそれぞれ 分析した研究によれば,同じ戦後開拓地であっても その後の変遷は近隣都市との関係等による地域差が あり,「写真」と「戦後開拓」の研究事例を個別の地 域ごとに蓄積することには意義がある.高度経済成 長を背景とするダム建設が地域に及ぼした影響を,
増山たづ子が写真を通じて明らかにしたように,戦 後緊急開拓の行われた地域におけるヴァナキュラー 写真による表象が,従来の言葉と地図による地域の 記述の他にどのような地理学を可能にするのか,以 下の章で論じる.
第2図 増山たづ子の写真の一部 注)上から順に,徳山村の人々,徳山村の風景,取り
壊される家屋.小原・野部編(2014)より転載.
Ⅲ 福島県西郷村川谷地区の写真
福島県西白河郡西郷村は,福島県中通りの南部に 位置する.東・北は白河市,西は南会津郡下郷町,
南は栃木県那須郡那須町に接する.村域の西には東 北地方の脊梁山脈の一部をなす那須連峰があり,村 内の山岳地帯は東北第二の河川である阿武隈川の源 流地域である.西郷村東部を縦断する形で国道4号 線が,村を横断する形で国道289号線が通っている.
東北自動車道白河インターチェンジ,JR 東北新幹 線・東北本線の新白河駅が,それぞれ村の東部に所
在している.
調査対象地である川谷地区は,西郷村立川谷小学 校・中学校両学校の通学区域を指す.住所表記では 川谷,芝原上,下芝原,由井ヶ原,甲子それぞれの 地区にあたる.川谷地区の中心となる川谷小学校・
中学校は同じ校舎・敷地を有する村立学校で,所在 地の標高は約560m.川谷地区全体が500m~750mの 高原地帯に位置し,平地と比較すると冷涼で降水量 の多い気候である.村の中心である西郷村役場から は約8km,新白河駅からは約12km.村の中心部から 自家用車による所要時間は 15 分程度である.主な 産業は乳牛の飼育による酪農,馬鈴薯や飼料作物な どの農業,甲子温泉・新甲子温泉による観光業など である.
地域の特徴に,地区の中心である川谷・由井ヶ原 の両集落の大半が,村外出身者による入植者で占め られることがある.いわゆる戦後開拓地として,第 2 次世界大戦後に入植した住民とその子孫が主要な 地域の構成員になっている.当地は,冷涼な気候と 地力の低い火山灰土壌であることを背景に,第2次 世界大戦終結までは農地・宅地としての利用はほと んどなされていなかった.日清戦争直後の 1897 年 から 1945 年の終戦までは,陸軍の軍馬補充部白河 支部が置かれ(西郷村史編さん委員会, 1978),軍馬 の育成を目的とする粗放な土地利用がなされていた にすぎなかった.第2次世界大戦が終結すると,食 料の増産,満州開拓を予定していた人材の活用,海 外植民地からの引揚者の受け入れ,旧軍用地の活用 などを背景に,同地の開拓が企図された.茨城県内 原町(現・水戸市)にあった元満蒙開拓指導員養成 所および元満蒙開拓青少年義勇軍訓練所の訓練生ら
が, 1945年10月から入植し,「白河報徳農業協同
組合8)」を組織し,それまで粗放な土地利用がなさ れていた同地を農地として開拓していった.同様の 戦後開拓集落は日本に散在するが,この川谷地区の 特徴は,入植を指導する中心人物がいたことと,満 州に入植する予定であった福島県外出身の 20 代男 性がまとまって入植したことである.中心人物であ り,入植・営農を指揮した加藤完治は,満蒙開拓指 導員養成所の教師であり,戦後日本が海外植民地を 失う中で,日本国内での開拓・食糧増産の優れたモ デルをつくろうと「全国の軍馬補充部跡地の中で,
もっとも耕作条件が悪く,誰もが希望しない土地」
(白河報徳開拓農業協同組合三十年誌編集委員会編, 1978)である当地を選び,その教え子にあたる養成 所の訓練生へ入植を推奨した.また,川谷地区内で
も由井ヶ原地区は,国鉄食糧増産本部の直轄農場と して開拓が開始された地区である.1946年に開始さ れた入植は,日本国有鉄道の賃金労働者にルーツが あり,白河報徳農業協同組合を組織した元満蒙開拓 青少年義勇軍訓練所の訓練生とは経緯が異なる.し かし,由井ヶ原地区も川谷小学校・中学校の同じ学 区に含まれること,由井ヶ原地区の農協は 1955 年 に川谷地区と合併していることから,本研究におい ては必要がない限り両地区を区別しない.
第3図 西郷村立川谷小・中学校前にある開拓記念碑
第4図 西郷村立川谷中学校のジャージ
開拓が開始されてから70年以上が経過した2010 年代後半にあっても,川谷地区は開拓地として認識 されており,その地域の象徴として「開拓」という 言葉が用いられている.川谷小学校・川谷中学校そ のものが,開拓による人口増加によって整備された 学校であり,学校の校庭の前には開拓記念碑(第 3 図)があること,学校の運動着には「拓魂 Frontier
Spirit」と記されていることなど(第4図)など,近
代以前から続く集落や学区とは異なる特徴を持ち,
いわば「開拓」という地域的アイデンティティを構 成員が認識している地域である.
この川谷地区は,開拓集落という背景から,地理
学の研究対象になってきた.例えば北崎(1999; 2009)
は,開拓の指導者である加藤完治の役割に着目した 一連の研究を行なった.川谷地区を特に取り上げた ものは他に伊藤(2004)があるほか,この川谷地区 を含む東北地方の開拓を概観したものとして横山
(1968)や菊池(1984)がある.川谷地区を取り上 げたものを含め,開拓地に関する研究論文の多くは,
戦後日本社会の政治課題である緊急開拓事業の評価 や個別の開拓地における産業の進展に着目したもの が大半である.
ヴァナキュラーな写真資料を用いて開拓の集落を 理解しようとすることは,どのように地域とその社 会が,出来事を記録・記憶してきたのかを明らかに しようとする試みである.ナショナルスケールの社 会的要請である緊急開拓によって開かれた集落は,
開拓集落であるという地域的アイデンティティを付 与されてきた.一般にそれを理解しようとする他者 や,入植当時を知らない構成員,地理学その他の研 究者もまた,開拓集落である集落をその農業生産に おける進展について着目して理解しようとしてきた と推測される.発展的な集落・地域の記述をヴァナ キュラー写真は強化するのか/あるいは揺るがそう とするのか,大別して2種類の写真を題材に明らか にする.ひとつは,地域の郷土資料である開拓誌に おける写真,そしてもうひとつは,地域の家庭に保 存されてきた家族写真である.
Ⅳ 川谷地区の『白河報徳開拓誌』分析
川谷地区の開拓の資料は,各種先行研究のほか,西郷村の歴史民俗資料館,『西郷村史』(西郷村史編 さん委員会, 1978)にも残っているが,その中でも中 心的な資料が,白河報徳開拓農業協同組合 三十年誌 編集委員会による 『白河報徳開拓誌』(1978)であ る(以下「開拓誌」).西郷村川谷地区の入植者自ら が編纂した資料で,書籍の形で発行されている唯一 の資料である.「開拓誌」と銘打たれた書名に違わず,
入植当初からの経緯や各産業分野での労苦が綴られ ている.ここには多くの写真資料が含まれており,
単純な人物写真から,風景や産業の記録をとった写 真,航空写真や書の作品を撮影したものも含めて,
189点が挿入されている.
「開拓誌」に含まれる写真を,被写体によってジ ャンル分けしたものが第5図である.本研究の問題 意識は,写真において重要なのは被写体のみではな いという点である.「写真とは写真の画像そのものの 形式によって分類されるべき概念ではな」く,また
「分節不可能な要素,そして撮影者の意図せざるも のの記録を含む」(成瀬, 1997b)のであるから,ここ でのジャンル分けは「開拓誌」に大量に含まれる写 真を便宜的に,被写体から筆者が推測によって写真 を整理したものにすぎない.また,写真にキャプシ ョンが書き添えられていれば,編集者の意図はより 正確に把握できる可能性が高まるが,キャプション を書き添えた編集者の意図と,写真の撮影者・保有 者の意図とは全く異なることも想定される.第5図 が示すのは,あくまで「開拓誌」編集者の意図を推 測した集計結果に過ぎない.
ジャンルは,原田(2013)の「映像のインデキシ ングの実際」を参考とし,<歴史>,<地理・場所 第5図 『白河報徳開拓誌』に含まれる写真のジャンル(単位は枚)
の記録>,<産業・ものづくりの記録>,<日常の 記録>,<民俗>,<人物の記録>,<事件・事故・
出来事>,<戦争>,<行事・式典・催し>,<家 族の記録>,<芸術・美術>,<自然・科学>,<
航空写真・映像>,<教育・啓蒙>の14分野とした.
もっとも多い写真は川谷地区の<産業・ものづく りの記録>を伝えようとした写真である.酪農や畑 作といった入植の目的である農業に関するものが多 く,分野ごとに章を割いて説明が行われている.次 に<人物の記録>が続く.これは,開拓を主導した 加藤完治氏の写真の他,白河報徳開拓農協の組合員 の集合写真,「開拓誌」の発行時点での物故者の写真 が含まれるためである.以下から,それぞれのジャ ンルについて,「開拓誌」の写真における特徴を整理 する.
<地理・場所の記録>
第6図 開拓誌の写真―雪割橋
場所の記録で最も多い被写体が「雪割橋」である.
「雪割橋」は阿武隈川の右岸にあたる川谷地区の中 心部と,左岸にあたる由井ヶ原地区とをつなぐ橋で ある.入植当初,両地区の間にある渓谷・崖を越え る橋はなく,河床に降りて両地区は往来されていた.
その移動は労力と危険を伴うものであり,両岸をつ なぐ橋が当初から要請され,架橋は地区住民の悲願 であった.初代の架橋の後も,安全性や自家用車の 利用などの要請から,その都度新しい橋の架橋が行 われてきた.川谷地区を構成する2つの主要な入植 地同士をつなぐ橋であり,また四季にわたって渓谷 美を見せる象徴的な場所であることから,扉絵等(第 6図)にも用いられている.
<産業・ものづくりの記録>
最も枚数が多い分野である.1940年代からの写真 も含まれる他,地域の主要産業となる乳牛の生産に かかるもの(放牧,牛舎,集乳など第7図参照)を はじめとして,養鶏,養豚,馬鈴薯栽培,椎茸栽培,
栗栽培,大根栽培,鉄加工業,小売業,運輸業など,
地区住民が従事した多様な職業の記録が含まれる.
多様な産業にわたって記録があることから,当初か ら写真資料を残す意図が存在したことが推測される.
しかしその一方で,農地のみ,動物のみ,機械のみ を写した写真は少ない.多くの写真で,人物が写り 込んでおり,また人物がカメラ目線で写っているこ とも多い(図8図).
第7図 開拓誌の写真―共同経営時代のサイロ詰め
以上を踏まえると,川谷地区の写真をめぐって,
ふたつの推論が可能である.ひとつは,開拓集落と いう性格が,各構成員に諸産業の担い手として役割
9)意識を自覚させていたことである.多岐にわたる 産業種は,地域でそれぞれの生業が成立するのか試 行錯誤10)されたことを示しており,現代から振り返 れば,産業として成立しているものがないものもあ
る.例えば,現在において栗農地は耕作放棄されて いる場合も多い11).また地域内での鉄加工業・製材 業も現在は廃業されている.人物が伴って,圃場で の写真や,農業用機械との写真が撮影されているこ とは,試行錯誤そのものが,入植の意義であり,各 構成員は諸産業の当事者としての自認があったこと を示すものである.もうひとつの推論は,写真撮影 にあたっては,人物が介在することではじめて,撮 影する動機が充足されたことである.1940年代から 50年代にかけては,都市部を含めたカメラの世帯普 及率は50%に満たず,限られた撮影の機会のみがあ るだけであった12).当初から他の入植地のモデルと なる高い志を掲げていた川谷地区の入植者たちは,
その産業の記録を写真によって記録しようとした.
しかし単純に農地の様子や機械だけを写すのではな く,その従事者を共に撮影する当時の感覚があった と考えうる.
第8図 開拓誌の写真―開拓営農特別振興 施設資金による小型トラクター導入
<歴史>
農業組合発足時の書類や,記念碑などを記録した ものである.カメラで撮影されたと思しき書類など が挿入されている.
<日常の記録>
この分野に分類される写真は多くはないが,産業 分野として分類した写真は,文字通りそれらの産業 が生業であったことから,日常という分野に区分し てもさしつかえないものも多い.あえてこの分野に 分類した写真は衣食住など,特に生活に関わるもの で,産業とは係わりの弱いものである.各班や各地 区の集合写真,それも正装ではなく普段着での集合 写真が含まれる他,入植初期の独身者が行なってい た共同生活における食事風景なども含まれる.日常
生活を撮影しようとした意図は,この写真やキャプ ションから読み取ることは難しい(第9図).
第9図 開拓誌の写真―本部地区の食事風景
<民俗>
伝統的な祭りや宗教行事などの写真・資料が,こ の「開拓誌」にはほとんどない.これは,戦後開拓 の集落であることを印象付けるものである.唯一挿 入されているのは,川谷盆踊りのものである.現在 も,「夏祭り」としてお盆の時期に行われているこの 盆踊りは,「俺たちには思い出がないので 13)」盆の 行事として考案し,花火と共に地域住民の楽しみと するものであったという.
<人物の記録>
第10図 開拓誌の写真―現在の組合員 の集合写真,物故者の写真
開拓の指導者である加藤完治氏,集落の構成員,
物故者の写真である.加藤完治氏の写真が登場する のは,「開拓誌」の冒頭や,章の最後など,書籍の中 で区切りとなる箇所である.構成員の写真は終章に 集合写真で,物故者の写真は正方形の写真で一人一
人切り取られている(第10図).同じ人物写真では あるが,対照的な両者の取り扱いは,共同体から喪 失された構成員の存在を強く意識させる.
<事件・事故・出来事>
事件や事故の写真はほとんどなく,1967年加藤完 治氏の告別式の様子の写真が唯一である.すでに当 時,川谷地区から離れ,茨城県水戸市内で療養して いた加藤氏の告別式には,川谷地区から代表者が出 席した.写真には喪服姿の男性が10人並ぶが,告別 式の文字だけが写り,加藤氏の姿はもうない.
<戦争>
第11図 開拓誌の写真―加藤所長と後 列左より水野,今井,長沢副所長
戦争に関わる写真は2枚で,どちらも,茨城県内 原(現水戸市)にあった満蒙開拓青少年義勇軍訓練 所のものである.昭和12年(1937年)に広田内閣 による満蒙開拓青少年義勇軍に関する閣議決定に基 づいて建設された訓練所は,利欲にひきまわされが ちな壮年者を入植させるより「純真な青少年を訓練 して入植させること」を目的としたものだと「開拓 誌」には記されている.写真に写っている指導者層 である4名(第11図)は,施設の責任者であった加 藤氏をはじめとして,日本軍を思わせる装いをして いる.この施設を経て,終戦の年までに満州へ移民 した人数は86,530人とされている.戦争に関わる写 真は少なく,川谷地区の歴史があくまで終戦後から 始まったことを示している.しかし,その歴史は突 然始まったのではない.国内の寒冷地への入植の前 提となる満蒙開拓少年義勇軍訓練所を指導していた 加藤の写真は,地区の歴史を日本・国際社会の中の 大きな歴史の流れと,川谷地区とを接続するもので ある.植民地政策を成立させるための訓練生の指導 という目的を失った加藤氏は,日本列島本土におけ
る食糧増産・開拓の指導者となるべく,西郷村に向 かうことになるのである.
<行事・式典・催し>
行事や式典の写真は多い.公共施設の落成や,入 植の周年行事,皇族の訪問などの写真である.特に 注目したい写真は,「開拓誌」の中で「加藤完治先生 追放解除祝」とのキャプションを与えられているも のだ(第12図).開拓の指導者であった加藤氏は,
第二次世界大戦中,海外植民地である満州国への入 植を指導していたことから,戦後直後からGHQ か ら公職追放処分を受けていた.その処分解除の祝賀 会を撮影した写真である.1951年に撮影されたこの 写真は,加藤夫妻を中心に,子どもや女性を含む,
地区住民や英語教諭など,多数の人が写り込んでい る.撮影場所はいまの川谷中学校・小学校の場所で,
いまでも学校のシンボルとなっている松の木が写っ ている.この写真の特徴は,同様の写真が複数の家 庭に保存されていることである.
第12図 開拓誌の写真―加藤完治先生追放解除祝
Vで述べる聞き取りを行った複数の家庭には,そ れぞれ同じネガから焼き増したと思われる写真が保 存されている.すべて「HAYAKAWA」の焼き付けが してある.「開拓誌」の写真には「HAYAKAWA」ロ ゴの焼き付けはないので,現像・焼き増しの作業を 行った写真館もしくは写真家の屋号と考えられる.
引き伸ばされた印画紙のサイズはそれぞれ異なって いる.A家(第13図)では,写真はそのまま保管さ れ,マジックペンで日付と,家族の年齢が書き込ま れている.E家(第14図)では,家族アルバムに写 真が収められている.A家の写真のほうが,引き伸 ばしサイズが大きい.
A家の書き込みを見ると「6才」の文字が見える.
血縁者の年齢を示したと思われるこの書き込みは,
入植の前後に生誕した子息がいること,その子息が この写真に写り込んでいることを示す.「開拓誌」に は,入植当時の集合写真や,独身者を集めた集合写 真があるが,その血縁者や子息までもが,一同に会 した写真はこの他には見当たらない.
第13図 A家の写真―加藤完治先生追放解除祝
第14図 E家の写真アルバム―加藤完治先 生追放解除祝のあるページ
この写真は入植がはじまって6年目の記念碑的な 写真であり,さらにその後も続いていくこの共同体 を予見させる.子どもの姿は,次世代の地域の担い 手であり,また教育者が写っていることもそれを示 す.
この写真を撮影するまでに,開拓を中断して山を 降りる者や事故死に見舞われるものがいた.集落の 構成員が揃うことの意味,そこで家庭を築くことの 意味を込めて,自覚的に記念写真を撮影したはずだ.
<家族の記録>
家族の記録はあまり多くはない.寄稿した集落構 成員のエッセイの章(おもいで)に含まれているの みである(第15図).個人のアルバムを見ると,家 族で撮影する機会が当時なかったわけではない.ま た,夫婦と思われる男女の組み合わせで,農地の前 で写っている写真もいくつかある.あくまで主題は 地域産業の紹介だと推測されるため,そのような写 真は産業分野に分類した.編集の段階でいずれかの 家族だけを取り上げることを避けた可能性は考えら れるが,その一方,産業や共同生活の担い手は,特 定の個人や少人数でも掲載されている.個人ではな く家族が,開拓にあたって担っていた役割について は,軽視されているように考えられる.
第15図 開拓誌の写真―「おもいで」章の「思い出の数々」
<芸術・美術>
加藤完治の書の作品が主である.「丈夫で仲良く迷 わずに」と書かれた書は,満蒙開拓青少年義勇軍訓 練所時代からの加藤が重要視していた言葉である.
巻頭の肖像写真に添えられているこの書が,開拓の シンボルとして扱われることがわかる.
<自然・科学>
地形・気象に関するものが多い.それらの地理的 条件は,生活の可否・生業の成否に直接影響する.
渓谷を登る写真(第16図)は,写真単独ではその地 質や高低差,斜度などはわからない.しかし,対岸 の開拓にあたって,当時の入植者が経験した労苦,
それを記録しようとした意思を読み取ることができ
る.地形図判読によれば,河床と崖上の台地の最も 低い斜面との差は40~50mにもなる.現在その渓谷 を降りて対岸に渡ろうとするものはいないが,往時 の生活・交通環境を想起させる写真である.
第16図 開拓誌の写真―阿武隈渓谷 を登って由井ヶ原農場へ
<航空写真・映像>
「開拓誌」の最初の1枚の写真は航空写真であり,
本文中にも幾度か航空写真が挿入される.地域の概 観を示すために,章や節の冒頭に挿入されることが 多い.
<教育・啓蒙>
第17図 開拓誌の写真―学校林の作業
学校に関する写真が3枚ある.うち2枚は,異な った年代・異なった校舎の前に並んで撮影されたそ
れぞれの年代の集合写真である.当初3名の児童生 徒から始まり,児童数の増加,環境整備に伴って分 校,ついで本校として昇格して行ったという川谷地 区の学校教育を物語るものになっている.印象的な 3枚目の写真(第17図)は,「学校林の作業」とキ ャプションが付されたものである.写真から読み取 れるのは,農具を用いて農作業に従事する児童の姿 である.学校運営費などを独自に捻出しなければな らなかった当初の環境にあって,児童自らが作業を 行なっていたとの記録がある.
Ⅴ 川谷地区の家族写真分析
川谷地区の家庭には,「開拓誌」や,西郷村の資料 館にはない写真が保存されている.いわゆる「家族 写真」である.家族写真についても,多くの論考が なされている.例えばJacobs(1981)は「素朴で,
技術的に優れているわけではなく」「(西洋世界の)
ほとんどの人が自分の家のどこかに(時には自分の 職場で)持っているスナップショット」であり「彼 ら自身の家族のメンバーが撮影,保有,鑑賞する」
ものだとしている.
家庭のスナップは「いずれも,際立って特別とい うわけではな」く「ほとんどはそれが属するジャン ルの典型的な例に過ぎない」写真である(バッチェ ン, 2010).家族写真は日常的な写真実践の代表であ り,それをまとめた冊子体が「写真アルバム」であ る(馬場, 2017).
有馬(2012)は「人はともに過去を再構成しよう とすることによって,ある集団に帰属する」という.
そして「家族写真やその冊子体である家族アルバム は集合的記憶の保存装置」だとする.そこには「意 図せずに描かれた地域社会の自画像」があるはずで ある.家族が所属する空間は,特定の地理的空間で あり,開拓者たちにとって開拓の現場であり,また 当時を知らない次の世代にとっては「かつてそこに あった」場所である.それらの写真を分析すること は,どのような場面で撮影が行われ,どのように写 真が保存されてきたのか,当時の構成員やその次世 代がどのようにその写真を鑑賞・理解しているのか を明らかにすることである.
調査では,地域住民の保管する家族写真に関して インタビューを行った.
筆者は,2018年度を通じて,西郷村立川谷中学校 における「総合的な学習の時間」の授業を行う・ア ドバイスする立場にあった(第18図).この調査は,
授業の中で「郷土の歴史探求班」による地域調査に とりくむ中学生の保護者・血縁者・近隣住民のうち,
「川谷地区の写真について調査ご協力のお願い」(第 19図)に協力いただける方にインタビューを行った ものである.
<A家の写真>
A家へのインタビューは,川谷地区に入植した世 代であるB氏(1926年生まれ),B氏の妹であるC 氏(1933年生まれ),C氏の息子にあたるD氏(1956 第18図 西郷村立川谷中学校での総合的な学習の時間の計画
年生まれ)の3人に,同時に行った.
A家からは,「昔の写真」とA家の3人と思われ る写真が共有され,その写真の束を元にインタビュ ーが行われた.インタビューに持参いただいた写真 は7枚で,うちモノクロの写真が4枚,残りが3枚
である.A家の写真は多くはない.「建て替えのとき にどこかにやってしまった」「(2011年3月の)震災 で壁から落ちた時にどこかにしまってしまった」そ うで,手元にある写真は,長兄であるB氏が保管し ているものだ.前述の通り,「開拓誌」において「加 第19図 西郷村立川谷中学校での総合的な学習の時間の計画
藤完治先生追放解除祝」とのキャプションが付され ている写真も含まれている.A家の親戚(C氏の義 理の姉で,D氏の叔母)が石川県で時計店を営んで おり「うちはどこよりもカメラがあった」という.
A家の写真のうち,ここでは2枚の写真を取り上 げたい.
第20図の写真は,正方形の写真14)に建物と,楽 器を弾く男性が写されている.これは,C氏の夫が,
りんご畑の前でギターを弾いている写真だという.
当時は畑の脇に小屋を立て,休憩小屋としていたそ うで,時折趣味のギターを弾いていたという.果樹 栽培に取り組んでいたのはC氏が結婚してまもない 時期で,1953年頃だと推測される.「開拓誌」には,
地区住民の芸術や文化に関する写真はほとんどない.
開拓地を調査した既往研究は,営農形態や生産構造 に着目したものが多い.飯沢(2008)や鳥原(2013)
を引けば,1950年代の写真家たちは代表的な作家で ある土門拳の『筑豊のこどもたち』(1977)に象徴さ れるように,貧しさや生活の困難さを告発する写真 が称揚される時代であった15).
第20図 A家の写真―ギターを引く男性
家庭に保存されているこれらの写真は,「開拓地=
当時,貧しく・労苦に耐えなかった地域」という過 去への認識を揺るがす.過去が貧しく,現在に向け て常に発展的に地域が豊かになってきたという発展 的な歴史観を揺さぶる.「開拓誌」の写真たちが,当 時の産業のあり方の記録に真摯に取り組んでいるゆ えに,過去の貧弱な生産設備を記録することに紙面 を多く割いている.一方で,家庭に残された写真は,
当時の地域の豊かさを示し,過去の地域に対する新 しい認識の可能性を示すのである.インタビュー調 査を筆者とは別に行なった川谷中学生は,この写真 を見て,「縄文時代の家のようだ」とコメントした.
また,川谷中学生自身によるインタビュー調査でも,
「家」であるとの誤認を持ってインタビューをして いた.
第21図 A家の写真―ホンマさんが山を降りる時の写真
開拓集落の家族写真・家族アルバムは,困難な環 境にありながらも,様々な産業に取り組みながら,
家屋や家族が増えていくというストーリーが読み取 れる.肯定的な写真が多いこと,家族は幸せ(少な くとも不幸ではない)であるというのは,既存研究
(Kuhn, 1995; Walkerdine, 1990)とも整合的である.
第21図の写真は,集合写真である.20代の青年 が立って8人並び,カメラを見ている.持ち主のB 氏は「ホンマさんが千葉大に行くときに撮った写真」
だと言う.入植した当時の若者たちは,戦時中も「ま ともに英語の勉強をしていた」と言い,進学のため に川谷地区を離れた人もいたという.また,C氏に よれば「山を降りた人は,数えきれないほどいた」,
「あんときは,写真を撮った」という.そして,そ のC氏は次のように語る.
ホンマは,坂田種苗でプリンスメロンをつくった.外 国人を呼んで英語を勉強したり.我々なんかは独学 でしたけどね,戦時中も,まともに英語の勉強をして いたの.
この写真は,およそ8人が等しい大きさで写って いる.また,どの人員も地域に入植して開拓に貢献 した構成員である.ただし,この写真の主題は所有 者のB氏にすればホンマ氏なのである.ホンマ氏は
「山を降りた」.「開拓誌」にも,入植後に地域を離 れた人がいたことは綴られているが,どのような目 的で地域を離れたのか,離れた後どのような人生を 歩んだのかの記述はない.また,「開拓誌」に挿入さ れた写真には,下山を主題にしたものは含まれない.
開拓の歴史を残そうした編集方針から,そのような 写真は取り上げられなかった.川谷地区での経験を 元に“下山”し,社会に貢献した同世代の”拓友”16)が いたことを示すものがこの写真である.
<E家の写真>
E家へのインタビューは2回実施した.1 回目の インタビューの対象は,現在牧場の経営を行ってい る,入植世代の両親を持つ男性のF氏(1962年生ま れ).2回目のインタビューは,F氏と,兄弟の中で 末の長男であるF氏の姉にあたるG氏(1956年生 まれ)の2名である.
第22図 E家のアルバム―父親の長野県での学生時代
E家の写真は,家族アルバムの形式をとっている.
600枚あまりのモノクロ・カラーの写真が,2冊のア ルバムに収められている.1 冊目のアルバムは写真 サイズを問わないサイズで,小さいものでは3cm程 度の証明写真サイズのものから,六つ切サイズのも のまでが含まれる.カラー写真も含まれる.2 冊目 のアルバムは,カラー写真が大半を占め,L 版の写 真を6枚ずつ収めることができるアルバムである.
F氏とG氏の父親が,生前に整理したアルバムで あり「昔はそのまま仕舞ってあった」ものを,アル バムに改めて貼り直したものであるという.1 冊目
のアルバムは,持ち主であった父親の出生地である 長野県の親類の写真からはじまる.「これはうちのお じいちゃん」(G氏)がもっとも目立つ写真だ.次に 父親の学生時代の写真(第22図),勤労奉仕と思し き場所での集合写真,と,順序よく,年代順に写真 が並べられる.出生地である長野での幼少期の話を G氏はよく聞いていたと記憶しており,「長野のこと を,教えたかったんでしょうね」と振り返る.
第23図 E家のアルバム―入植間もない独身時代の写真
第24図 E家のアルバム―川谷地区での集合写真
川谷地区での写真は,入植初期に共同生活をして いた時期の食事風景や,独身時代の生活風景のスナ ップショット(第23図),また地区住民同士の集合 写真からはじまる(第24図).その中には「開拓誌」
において「加藤完治先生追放解除祝」と書き添えら れた写真,またA家で「ホンマさんが千葉大に行く ときに撮った写真」とされていた写真も含まれる.
集落の中でその構成員同士が,同じ写真を共有して いることが判明するページから,川谷地区での家族 アルバムははじまるのである.集合写真だけではな く,こたつに父親が入っている写真もある.このよ うな写真は近所に住んでいた父親の訓練所の同期が 撮りに来てくれた(G氏)という.
第25図 E家のアルバム―正方形の写真
畜産に取り組んでいることがわかる写真(第25図)
がいくつかある.G氏は牛が写っているいくつかの 写真を見て「カンノさんの近くの山の上に牛を引い ていた」ことを思い出す.
牧草地まで,牛を引いて行くんですよ.朝,学校に行 く前のことだったので覚えています.牧草地までは,
歩いて20分くらい.夜というか,夕方に牛をまたと りにいく.(牧草地は)まだ木をきったばかりで,切 り株からキノコが出ていて.父親が帽子をひっくり 返して,帽子にキノコを仕舞っていたのを覚えてい ますね.切り株があの頃はまだ(牧草地に)残ってい たのね.
家庭の中で,どのように生業に関わる分業が行わ れていたのかは,「開拓誌」からはわからない.また 当時の牧草地の環境(切り株が所々に残っている)
も「開拓誌」の畜産の写真からは読み取ることがで きない.
当時小学生の子どもたちは,自らで書き残したり,
保存する表現方法を持たない(可能性がないわけで
はない).写真は一般大衆が入手できるカメラが普及 した後は「シャッターを押すだけ」で眼前の光の様 子を定着することができるようになった.眼前の「い まここ」を「かつてあった」状態に留め置くことが,
誰しも可能になった.しかし一方で,誰もがカメラ 機能付きの情報端末を持つ現代と比較すれば,押す だけのシャッターを押す役割は,往往にして家父長 の役割が多かった(ブルデュー, 1990, p.37).しかし 写真は,そこにあるものを写すだけで,なにも語ら ない.語らないが故に,シャッターを押した本人以 外も,写真を自らの記憶を想起する媒体として用い ることができるのである.
第26図 E家のアルバム―子どもの写真
長女(G氏),次女,長男(F氏)の誕生という家 族の構成員の増加を,アルバムは保存している(第 26図).E家がカメラを購入するのは,F氏が中学生 になるころ,1970年代の半ばだったという.家族が 増える,増えた後の記念写真は,近所に住んでいた 父親の訓練所の同期や,親戚が来た時に撮ったもの だという.第24図の左上の集合写真に含まれる2人 の少女は,G 氏(長女)とその妹(次女)の写真だ という.川谷地区には洋服を購入できるような商店 はなく,親戚が洋服をくれた時に撮影したものだと いう.入植はまず共同生活からはじまり,戸建て住 宅の建設や,農地の拡大や機械化など,地域の協働 の中で行われた.第25図の最上段右から2番目の 写真に写っているじゃがいも畑で,隣家と共同でじ ゃがいもを掘ったことをG氏・F氏も記憶している.
カメラと写真は,農作業や開拓と同じように,地