株式投資の適格者
その他のタイトル Person qualified for Stock Investment
著者 今西 庄次郎
雑誌名 關西大學商學論集
巻 20
号 6
ページ 453‑469
発行年 1976‑02‑25
URL http://hdl.handle.net/10112/00021057
株 式 投 資 の 適 格 者 ( 今 西 )
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株 式 投 資 の 適 格 者
今 西 庄 次 郎
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序 言極端にいえば,株式投資は,やろうと思えば誰でもやれる。しかし投資は 成功ささなければならず,株式投資も当然そうであるが,既に株式の性格論
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で明らかにされたように,投資物件としての株式は中々に厄介なものであ り,かなり以上の成功を収めるのは並み大抵のことではないのである。この ため株式投資は誰がやってもよいとはならず,所定の資格を持たなければな らないとなるのだ。もとより資格といっても,国家機関などで公認された資 格を指すものではなく,能力,性格,境遇等において具わったことを意味す ること,注釈するまでもない。何れにしても,株式投資においては投資者と しての適格性が重要な問題となり,株式投資論としては是非そのことを取り 上げねばならないのである。
従来の株式投資論の著書をみるに,この点大いに欠けている。それらの多 くは,,投資銘柄の選択,その前提としての株式の評価,投資タイミング,投 資分散等の投資戦略が中心で,投資者の適格性を取り上げているものは,極
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めて少なく,否皆無に近い。確かに,株式投資論の主要な内容は,それらの
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拙稿「投資物件としての株式」本誌創立九十周年記念特輯106‑127頁。(2)
アメリカでも,僅かに,D .F . f o r d a n and H . E . D o u g a l l , I n v e s t m e n t 1 9 5 6 ,
J . 0 . Kamm, Economics o f I n v e s t m e n t 1 9 5 1
などに投資家のことが触れられ ているが,それも現実の投資家の種類を挙げるのみで,適格性という角度からの 取り上げではない。投資戦略であり,それらが本論であろう。しかし株式投資の適格性をもたな い者が徒らに投資戦略を振り回わしてもうまくゆくはずはなく,投資戦略は その適格性を具えた者のみが使うべきものといわれるのだ。事は恰も兵法に 似ている。兵法に,敵を知り己れを知るはその初め(戦に勝つ出発点)なり という言があるが,株式投資も正にその通りなのである。要言すれば,株式 投資論は各種の投資戦略綸だけでは足らず,それに入る前に,まずこの投資 者適格性論をやるべきであるのである。
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株式投資をやる者は投資に関する経済知識(投資経済知識)をもたなければならない
株式投資をやる者は,何より株式投資に関する専門知識をもたなければな らない。それは,もたなければ
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パーセント不成功に終わると限らない が,成功度は低いという意味である。ところで,序言で,株式投資をやる者 は投資論本論の知識の前に所定の資格を具えねばならないとなし,その第一 として投資経済知識を挙げた私の論旨からは,この投資経済知識が株式投資 に関する専門知識とは別であることは,当然となる。しからばその投資経済 知識とは如何なるものであるか。一言にしていえば,株式投資専門知識の前 提知識換言すれば,株式投資専門知識を理解するに足る基礎知識である。つまりこの前提的な投資経済知識を具えて始めてよく株式投資専門知識を身 につけ,株式投資を有効に遂行出来るというわけである。
株式投資家たるには,投資経済知識をまずもたねばならぬとして,その具 体的内容,レベルが問題となろう。内容は,要約すれば,国民経済の組織と 運営,景気の動き,特に株式会社企業の仕組みと役割等である。そしてその レベルであるが,これは今日何れの国においても,学問,知識は学校教育を 以って国民に授けているので,学校教育の物尺で示すが判り易いとなる。し からば投資者として必要な投資経済知識はその標準でどの辺であろうか。私 は今日の我が国大学の経済学部修了の学力,知識と考える。大学修了の学力 も戦後(新制大学では)次第に相対的に低下気味であり,今日のレベルとし
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たのはこの点を考えてのことである。大学経済学部としたので高校修了の程 度では低く,又大学でも経済学部系(経済学部,経営学部,商学部等)以外 の学部修了では,畑遮いとして不充分である。上は学力,知識の標準として 学校を用いたのであり,必ず大学経済学部を出なければならぬというもので ないこと,もちろんである。高校を出て独学で大学経済学部修了程度の知識 を身につけてもよく,叉経済学部系以外の大学出身者も独力で経済学部的知 識を身につけても差支えはない。株式投資の適格者たるには,投資経済知識をもたねばならぬとして,それ だけで完全となるのでなく,それを基礎とし,さらに株式投資専門知識を身 につけねばならない。既に知れる如く,この専門知識は,株式投資論の本論 に属するところであるが,そこで知られるように,それはなかなかに難し い。投資経済知識を具えている者は誰でもそれを理解し,身につけるという わけにゆかない節がある。そこで,一部の人々,否相当数の人々は,自ら投 資専門知識を勉強することをやめ,その知識を身につけている人からそれを 授からんとする。しかも世には恰もそのような知識と刻々の投資情報を集 め,投資大衆に提供するのを業とする者が生まれつつある。これらの提供機 関の中には,単に,投資知識,投資情報を提供する所謂投資アドバイザーと なるに止まらず,進んで,投資大衆の代理となって投資行為を行う者すら現 れるに至っている。このような投資情報提供,ないし代行機関の助けを借り ると,投資大衆は投資経済知識を身につけるだけで投資適格者に変化するわ けで,極めて身軽るとなるわけである。
ところで,この事態から出てくる問題点は,投資情報提供,ないし代行機 関の助けを借りると,投資経済知識を具えた者は投資専門知識を自ら修める 必要がなくなるというに止まらず,投資経済知識をも身につけなくてもよい
となるのでないかである。
この問題提起は一応尤ものようである。しからば,株式投資情報機関,な いし投資代行機関が発達するに至れば,投資家は最早投資経済知識をもたな くてもよいとなるであろうか。私が投資家の適格性の第一として挙げた,投
資経済知識をもたねばならぬということは解消するに至るであろうか。私は 否といい度いのである。換言すれば,投資家が投資経済知識をもたねばなら ぬということは,それらの機関が発達しても,あくまで必要な条件,資格で あるのだ。
しからばその理由如何であるが,これは,株式投資専門知識は投資情報提 供機関,ないし投資代行機関に依存するとしても,それらの提供ないし代行 機関そのものを選択するのに,また相当な知識が必要とされるからである。
知識,情報の提供機関の中にはいかがわしいものもあり,たとえ国家的に規 制され,不良なものは排除されるとしても,なおその機関の能力,誠実さに 相当な開きがあり,延いてその選択を誤まると投資効果に大きい差遣をもた らすのだ。従って,選択が大切となるが,このため投資家自身にその能力が 必要となり,ここにかの投資経済知識の具有が最少限の条件となるのであ る。似たことは投資代行機関を利用する場合にもいわれる。投資代行機関を 利用する最もボピュラーな方式は投資信託に加入する(アメリカでは投資会 社
I n v e s t m e n tCompany
の株式に投資する)ことであるが,投資信託の設 定をなす委託会社は数が多く,またその設定,発行する受益証券に種類が多 く,適当なものを選択することは並み大低な業ではない。その選択には,投 資家自らが,少なくとも基礎的な投資経済知識を具有することが必須条件と なるのである。以上により,株式投資家の資格として投資経済知識を具有することが第一 であることが理解されたと思う。我が国の株式界は,明治以来,正直にいっ て,いびつ,不健全な姿で進展して来たが,その主要な原因は,大衆投資家 が株式投資専門知識を欠いていたところにありとされているが, そ れ よ り .
も,その知識の前提たる,投資経済知識を具有していなかったことの方が大 きかったのでないかといわれる。この知識を欠いていたので,彼等は株式投 資専門知識の理解が出来ず,あるいは誤解して株式投機の方に走ったのであ る。株式投機の専門知識は,株式投資専門知識と遮った意味でなかなか難し いが,投資の場合のように,前提,基礎的な知識がなくてもとりかかれる性
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質をもっている。このため投資経済知識を具有していない所謂投資家が誤っ て投機の方に進んだわけである。3
投 機 兼 投 資 は 玄 人 投 資 家 に 限 る べ き で あ り , 素 人 投 資 家 に は 向 か な い一口に株式投資家といっても,能力に応じ玄人投資家と素人投資家の二つ に分たなければならない。この種別は,実際にはなかなか難かしいが,私 は,やはり,株式投資の専門知識を具えている度合と,投資経験の厚薄の二 つによってなさるべきものと思う。投資専門知識の造詣が深いとともに,か なりの投資実践経験を積んだ投資家が玄人である。大切なことは,知識と経 験の二つを具えて玄人となるのであり,一方だけ,例えば投資専門知識が深 くても\,実践経験の少ない間は完全な玄人とはいえず,又たとえ実践経験を いくら重ねても,投資専門知識の薄いものは真の玄人ではない。両者ともむ しろ素人の方に入れるべきである。もちろん,専門知識が薄い上に,投資実 践経験の少ない者が典型的な素人である。
以上述べた玄人投資家,素人投資家の種別は,いわば定義的なものであ り,両者を明確に区別する線はない。投資専門知識の造詣がどれくらいあれ ば玄人というレベルであるか,又投資実践経験がどれくらいあれば玄人とい うに適わしいかの規準はなく,社会的尺度で決める外はない。ややもすれ ば,投資家が主観的に判断し己ぬぽれになる可能性が多いが,客観的第三者 的な判定を取り入れることが必要だと思う。
注 玄人投資家,素人投資家の種別と分たなければならないのは,職業的 投資家,非職業的投資家の区別である。職業的投資家とは株式投資の収 益で生活を営むものを指し,非職業的投資家とは別個に本業ないし本職 があり,余裕資金を株式投資によって利殖せんとするものを称する。や やこしいのは,玄人投資家と職業的投資家の別であり,ややもすれば両 者は混同される。確かに非職業的投資家には素人が多く,職業的投資家 は殆んど玄人である。しかし,非職業的のままでも玄人となり得ないも
のではなく,大衆の中にも玄人投資家は充分存在する。
玄人投資家,素人投資家の区別方法はそれとして,その種別の意義は極め て大きい。けだし,両者により投資の態様を選択しなければならないからで ある。その具体的,詳細なことは,もちろん,株式投資本論の内容に属する が,今,基本的なことは,玄人投資家は投機兼投資をやってもよいが,素人 投資家は純投資の分を守るべしということである。既に知れる如く,株式投 資には,純投資とやや多く危険を冒す投機兼投資とがあるが,素人投資家は 投資適格者だとしても,投機兼投資をやる資格はないのである。
人間は誰しも欲の深いものだが,これに付け込んだというか,玄人は投機 をやってもよく,素人は一一ー投機は少こし危険だが一やや慎重な投機兼投 資をやるのが適わしい,純投資の如きは債券の場合に限るぺきであり,卑し くも株式に対面する以上,投機兼投資で臨むのが最低線である,との主張が ある。株式売買の仲介手数料を稼ぐ証券業者は,株式硯物が長期間保有され 売買回転の少ない純投資を嫌い,その回転の早い投機兼投資,特に投機を好 むところから,この種の主張をバック・アップせんとする。しかし,この種 の考えは,能力のことを忘れた議論であり,素人投資家がいきなり投機兼投 資に走っても成功率は低い。稀に成功することがあっても,回数を重ねてい
るうちに,失敗の方の多いことに気付く破目となる。
あるいは,素人投資家が投機兼投資をやるのを恐れていては,いつまでも その経験を積むことが出来ず,玄人投資家になり得ない,初めのうちの失敗 は一種の授業料と見倣すべきだという意見も,あるかも知れない。しかしこ れは正しくない。素人投資家が玄人になるには,純投資を重ねていてもその 能力は養なわれるはずであるからである。なお,注意しておき度いのは,投 機兼投資は玄人投資に向くといっても,玄人は投機兼投資のみをやるべきだ というのではなく,これらの人も純投資をやって奄もおかしくはなく,それ も立派な投資態度であることである。ただ,玄人投資家ともなれば,投機兼 投資をやっても,失敗の結果に終わる回数は少ないので,これもやり得ると いうに過ぎない。
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株 式 投 資 を や る 者 は 余 り 神 経 の 細 く な い 人 で あ る こ と , 意 志 の 強 い 人 で あ る こ と が 要 件 で あ る( 4 5 9 ) 7
株式投資家たる資格として第一に投資経済知識を具有すべきことを挙げた が,その資格としては,単に知識,知性の点だけでなく,感情, 意 志 の 点 においても,必要とせられるものがある。まず感情の点であるが,神経質の 人は不適格といわねばならない。インカムを主目標とする純株式投資でも,
消極的ながら,投資株式の相場変動に曝されるのを免れ得ないのであり,こ れに耐えられるような神経をもたねばならないのである。投資した株式の相 場が一時下落したのにくよくよし,夜も寝られぬというような神経質,神経 の細い人は,投資家たる資格はない。もとより,神経質の人でも株式投資は やれないのではなく,又その人達の成功率が低くなるというのではない。た だこのような人にとっては,たとえ投資そのものは成功しても,精神上の苦 痛で人生的にマイナスになるとみるのである。
上は純投資の場合を問題としたのであるが, インカムとともにキャビクル
・ゲインをも狙う投機兼投資の場合は,やや,否相当に事情は変わってくる。
この場合は神経質でないという程度では駄目で,さらに積極的に強い神経の 持ち主でなければならないのだ。説明するまでもなく,この場合は投資株式 の相場変動を相当に冒さねばならないからである。前段に投機兼投資は玄人 向きであることを述べたが,この点から,玄人投資家は強い神経の持ち主で ないと向かない,否そうでないと玄人投資家にはなれないといっても過言で ない。もっとも,強い神経が必要だといっても,純投機の場合ほどに強い,
所謂図太い神経を必要としないことも,注釈するまでもないであろう。
さて,株式投資をやる人は,神経の細くない,ないし強い神経の持ち主た ることが要請されるのみならず,さらに意志の点において,辛棒強さの欠け ていないことが要件とされる。投資は,投機が短期決戦型であるのに対し,
長期抗戦型である。その意味は既に投資の本質論で明らかにされたはずであ
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るが,投機が一掴千金的であることは,短期間の間に利得を挙げなければ成 功といえなくなるとともに,株価が思惑と反対方向にいった場合,潔よく見 切ってしまうのをむしろ得策とするのに対し,投資はインカムを中心とする がゆえ,必然的に長期間かからざるを得ないとともに,投資株式の相場が下 落した場合も,その回復を待つという態度をとるものだと,いうのである。
この投資における株価の回復は,もちろん常に可能というのでないが,多く の場合可能であり,ただそれに長期間を要するというのが通常である。従っ て,投資家として,その間じっと我慢しなければ有終の美は飾れないことに なり,ここに投資家の資格として辛棒強い意志が絶対に必要とされるのだ。
なお,神経の場合,投機兼投資は純投資より強いものが必要とされたが,意 志の点については,投機兼投資の方が純投資より必ずしも強い忍耐力を必要 としない。けだし,投機兼投資は投資株式の相場が思惑と反対にいった場 合,思い切ってしまわず持ち続けるので,純投資と同様,忍耐力を必要とす るが,相場が値上りすれば,素早くキャピクル・ゲインを収めるべく手仕舞 するのが常套であり,この性質から純投資ほどに忍耐力はなくても済むから である。
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特 定 職 業 の 人 は 株 式 投 資 を 避 け る べ き で あ る序言で,株式投資家がもたねばならぬ資格とは,能力,性格,境遇等にお いて具わっていることを指すと述べ,上来,能力として投資経済知識や投資 経験をもつこと,性格として神経が細くなく辛棒強いことを述べて来たが,
境遇としてはどのようなことが求められるであろうか。色々考えられるであ ろうが,著しいものとしてその人の職業が挙げられる。この職業という境遇 の場合,それが具わっているとは,ある職業にあることが必要とせられるの でなく,逆にある職業に従事していないことが必要とせられるのである。つ まり特定の職業に就いていないということが,株式投資家の資格として大切
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拙稿「株式投資の意義」本誌第18
巻第4 , 5 , 6
合併号50 52
頁。株 式 投 資 の 適 格 者 ( 今 西 )
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なのである。もちろん,これは非職業的投資家についての条件であり,職業 的投資家については議論の対象とならないこと,断わるまでもない。しからば,株式投資を不得策とさせるある種の職業とは如何なるものであ るか。識者により多少見解の相遣はあろうが,軍人,司法官,警察官,芸術 家,宗教家,学者等は大方の一致するところである。これらの職業の人々の 中には,それぞれの職業上の専門知識獲得のため,株式投資の基礎知識とも いうべき投資経済知識を身につける余裕が少なく,これにより株式投資家た る資格を欠く者も少なくない。このような事態も,職業と株式投資の関係と みられないではないが,この本体は第一の必要な投資経済知識をもたないと いう能力に関するとするが正しい。換言すれば,今,特定の職業の人は株式 投資家の資格を欠くというのは,投資経済知識をもちながら,特定の戦業に あるという理由で,株式投資に不向きだということでなければならないわけ である。事実,上記の職業に従事している人は,投資経済知識を身につける 余裕の少ないのは確かだとしても,全てがそれを具備していないとまではい えない。職業上の専門知識を授ける教育を受けながら,独力で大学経済学部 的知識を身につけている人があり,又学校は大学経済学部系学部を卒え,さ らに職業専門の教育を受けたという人もある。これらの人は,現に特定の職 業にありながら,第一の投資経済知識を身につけているので,その点からは 株式投資家に進む資格は欠けていないわけであるが,しかもその職業のゆえ に,株式投資は控えるべしとされるのだ。
そこで,その理由如何であるが,株式投資に必要な投資専門知識を身につ けるため,さらには投資実行に伴う労苦のため,職業への集中,なかんづく 精神的集中が妨げられ,職業的使命が充分に果たし得なくなるからである。
さらに進んでいえば,上に挙げたような職業は重要な社会的任務を果たす嵩 高なものとされ,それに没頭するのが株式投資による利殖よりも遥かに生き 甲斐を感じるはずであるからである。
上記の職業にある人々は株式投資を避けるぺきだという主張に対し,それ を無差別的に振り回わすのは当らないという批判がないでもない。それは,
! ノ
それらの職業の人も,地位によって職業上の使命感に差があり,下級の人々 は必ずしもその職業に生き甲斐を感じるものでないという見解に立つ。さら に,これら下級の人々の物質的待遇が満足するほどでなく,延いてその経済 生活の充足に意欲を感じるということも附け加えられる。しからば,それら 職業の下級の人々は,株式投資家たる資格を欠かないとなるであろうか。こ の結論は,実はなかなかに難かしい。下級の人々もその職業に使命感を燃や
•し,努力によってその地位を高めるのも一つの行き方と考えられ,又その経 済生活の充足を計る方の途を選ぶのも一つの行き方と考えられるからであ る。結局,何れをとるかは,その人の処世観にまつというところとなる。望 ましいのは,下級の人が後者の途を選ぶとした場合,自ら投資専門知識の獲 得,投資実行の仕事に当るべきでなく,かの株式投資代行機関を利用する方 法をとるべきことである。いうまでもなく,彼等の職業の期待される社会的 使命がお留守にならないためである。
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あ る 種 の 資 金 は 株 式 投 資 に 適 し な いこの表題では,事は投資々金の問題で,今吟味している投資家の問題でな いとも感じられよう。しかし資金は必ず誰かに所有されており,その人,今 投資家の境遇が資金にのり移り,資金に一定の性格を附与するに至る。斯<
て,資金の問題も投資家の問題に帰するのである。
株式投資に向かないある種の資金としては,まず老年者の老後資金が挙げ られる。老年者の年令範囲については色々な捉え方もあろうが,私は人生を
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オ壮年者,4 , 5 0
オ成年者となし,大体6 0
オ以上の人を老年と見倣すの が無難と考える。老後資金とは,それから生まれる果実と元本の少こしづつ の流用で,専ら老後の日常生活を賄う資金である。その額が幾許であるか は,時代や国による物価水準,国の社会保障の普及度,人間の余命の程度等 ではっきりとはいえないが, 現在(昭和5 1
年)の我が国を例としては,7 0 0
万ないし1 , 0 0 0
万円と.いう所であろう。ポイントである,老後資金は何故株 式投資に向かないかは,株式の相場が変動し易く,配当も変化するからであ/
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ることはもちろんであるが,一面,老年ともなれば収益大性を余り追求する 必要はなくなるからでもある。以上,老年者の老後資金が株式投資に向かないのであるがゆえ,老後資金 といっても,成年者,壮年者のものは株式投資の資金として差支えはない。
壮年者に属する人々は未だ老後資金を貯えている人は少ないであろうが,成 年者ともなれば大低は老後資金をもつはずである。これらの人は人生に余裕 があり,老後資金を収益大性を狙って運用しても大丈夫である。なお,老年 者も老後資金として留保された以外の資金は,株式投資に向けて差支えない が,上述,最早収益大性を追求する人生的意義が少ないということを考える
と,確定対価証券の方が無難ともいえるであろう。
株式投資に向かない資金は,老年者の老後資金の外にもないではない。収 益大性を追求するよりも元本の減少危険を回避するのを大切とする資金は,
殆んどこれに属する。例えば,成年者が子弟のために蓄積した教育資金など これに入るとしてよい。子弟の教育費は月々の収入で賄われるのを多しとす るが,大学教育ともなればまとまった金額が必要であり,このため成年者の 中には早くより蓄えて資金を造り上げている人がかなり見かけられるところ である。
ここで一寸断っておかねばならないのは,上記の老年者の老後資金,成年 者の子弟教育資金等が株式投資に向かないというのは,老年者,成年者個人 の所有資金の場合であり,社会の多数の老年者の老後のため,多数の青少年 の教育のため,社会に奉仕的に提供された資金については一普通これらは 特に基金 Fundと呼ばれる一株式投資が不適当とはいえないことである。
我が国ではこの種の基金の例は少ないが,アメリカなどでは,社会福祉目 的,教育目的,宗教活動目的等のため,基金が多く設定されていること,周 知の通りである。この種の基金となれば,収益のより大性の発揮が大切とな り,又その運用は高度の投資専門機関によって遂行されることになっている がゆえ,株式投資は,不適当といえないというよりも,積極的に適当してい るといわねばならないのである。
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株式投資に適しない資金として,世間一部に,人が営々として汗水たらし て貯えた資金を挙げる人がある。これらは老後資金,教育資金に当てるや否 やを問わず,すべて堅実本位に運用すべきであり,株式投資は回避すべきで ある,と。しかしこの考えは必ずしも正しくない。額に汗して営々として貯 えるというのは,勤労者,それも下層の勤労者であると見倣してよいが,こ のような人の資金であるがゆえ,一層収益大性を発揮する利殖が有意義だと いわれるのだ。もとより能力,・性格,職業等の条件が満たさなければならな いが,これらに支障がない限り,株式投資に向けて別段差支えなしとなして よい。ただ,それらの人の多くは株式投資家として素人であり,従って投機 兼投資は避け,純投資を本位とすべきことが勤められるところである。
資金と株式投資の適格性との関係として吟味すべく残されているのは,ぁ る程度以上多額の資金は株式投資に向かないという説である。この場合,多 額の資金とはどれ位を指すかがまず一応議論の対象となる。一般に,証券投 資の資金層は,極少額(微額),少額,普通額,多額,巨額に大別される。そ の具体的な数字額は,その国民の所得,貯蓄の度合等が影善するところで,
従って国により,時代によって一様でない。しかし現在の我が国としては,
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万円以下は極少額,それ以上1 0 0
万円以下は少額,それ以上数千万円以下 は普通額,それ以上数億円以下は多額,数億円以上は巨額というところであ ろう。従って,硯在我が国において,多額の投資々金として問題とされるの は,数千万円以上数億円ということになる。ところで,大低の先進国では,同一個人が同一会社株式の一定数量,例えば
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パーセント以上を所有すると きは,会社の経営支配を惹起するという理由で禁止されているので,たとえ 投資目的で所有せんとしても, それは不可能となり, (投資戦略としての分 散投資でなく)経済政策上分割投資のやむなきに至る。つまり株式投資につ いては,巨額の資金は巨額のままで働かず, (多額の資金でも問題とされる ので巨額の資金では一層問題となりそうだが,この点)複数の多額の投資々 金となるところである。しからば,多額の投資々金は,いうが如く,株式投資に向かないであろう
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か。一休このような説の出て来た根拠は,主として,普通額の投資々金,な かんづく少額の投資々金に比べ,配当所得に対し課せられる税金が累進的に 高率とされ,手取り配当額の割が悪くなるところにありとしてよい。確か に,これは事実である。しかし多額の資金の株式投資から生まれる配当に,高率の累進所得税が課せられるのは,高額所得者には高率の所得税という進 歩的な税制上の趣旨から出ており,止むを得ないところといわざるを得ない と思うのである。多額の株式投資々金の境遇を問題とする場合には,少額の 株式投資々金と比較するよりも,むしろ他の物件,なかんづく最も競争的な 公社債や長期性預金に多額の投資をした場合と比較べすきなのである。しか もこの比較において,多額の利子所得にも高率の所得税が課せられるはず で,株式投資がそれほど不利とはいえなくなるのだ。
もっとも,この点,一部に,多くの国においては,多額の公社債投資や長 期性預金に比べ,多額の株式投資の所得課税が比較的に重い事例を挙げ,ゃ はり多額の株式投資の不利を唱える者もあるようだ。確かに,ある段階の投 資々金では,公社債投資等の方が有利なケースもある。しかし,それは,所 詮,制度上のあやに過ぎない。けだし,本質的にいって,公社債投資等より
も株式投資を抑制しなければならない社会的いわれはないからだ。
なお,一部に,株式投資は多額となるにつれ,公社債投資等よりも一般に 運用難になる事実を挙げ,多額株式投資の不適格を主張する人がないでもな い。しかしこの主張は,見当遣いと評さざるを得ない。多額資金の株式投資 となれば,運用が難かしくなり,公社債投資のように簡単にゆかないのは,
確かである。けれども,それは投資運用の困難であり,今,投資が不利かど うかの問題でない。投資に適格であるか否かは,不利であるか否かによって きまるところである。
以上,私は,多額の資金も,株式投資に対し(運用は難かしくなるが)必 ずしも不利ではなく,延いて不適格とはいえないことを論じたが,われわれ と逮った方向から,これを恩めようとする論者がないでもない。 そ の 見 解 は,株式投資の途は,独り配当を主として狙う純投資だけでなく,キャビク
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株 式 投 資 の 適 格 者 ( 今 西 )ル・ゲインをも併わせ狙う投機兼投資があり,たとえ多額資金による配当課 税が公社債等の利子課税より重くなったとしても,この途を選べばよく,多 額の株式投資は充分に存立し得るというのである。しかし,これは,キャピ クル・ゲインに対し所得課税がない場合に適用する議論であり,キャピクル
・ゲインに所得課税,それも累進課税がなされる所では,その通用力薄らぐ のみならず,株式投資の途として配当中心の純投資が投機兼投資よりもより 正道である以上,この立場において問題を決すべきであると思うのである。
株式投資への適格性については,多額の資金が問題となるだけでなく,逆 に極少額の資金も問題になると考える人もあるかも知れない。今日,多くの 国の株式市場では,売買取引に一定の単位を定めており,その数量は所定以 上のラウンド・ナンバーとされている。従って, 極少額の資金では,(端株 売買の制度もあれ)多くの場合,株式の売買が出来ず,投資は不可能になら んとする。以上の考えは,主としてこの事実から生まれるものとみてよい。
しかしこの考えのとるに足らぬことは,最早いうまでもない。けだしそれは 投資運用の困難であり,運用の困難は投資の不適格につながらないことは,
既に触れたからである。投資運用の困難は努力によって克服される可能性が あり,又硯に,今日,多くの先進国では,広く極少資金の投資者の資金を合 同し株式投資を行う仕組み,すなわち投資信託が広範囲に発展しているとこ ろでる。
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個 人 投 資 家 , 機 開 投 資 家 は そ れ ぞ れ 分 に 応 じ た 株 式 投 資 を し な け れ ば な ら な い , 又 事 業 会 社 は 株 式 投 資 を 控 え る べ き で あ る個人投資家とは,いうまでもなく,個人が自己の資金を利殖せんとする姿 を指すが,機関投資家の方はやや不明確である。これは具体的には,銀行,
保険会社などの金融機関,投資信託(アメリカでは投資会社), 及ぴ教育団 体,宗教団休などの投資基金を指し,本来は投資団体というべきものであ る。ただ,個人の投資家を個人投資家と呼ぶのに対応さしては,これらを団
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休投資家と名付けてもよいとなるが,何故機関投資家と呼ぶのであろうか。一般にわれわれの社会では,組織的団体を社会における一つの機関
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とみるところから(銀行,保険会社を金融機関と呼ぶのはその例), 団 体投資家という代わりに機関投資家という呼称が生まれたと解釈されるが,それらの投資団体は個人と異り,それぞれ投資専門の機関
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をもつと ころからそう呼ばれるのだという考え方も,与するに値すると思う。私は,個人投資家も機関投資家も,その株式投資の方策については,基本 的には変わらないと思う。両者を頭から別扱いとするのは誤りであろう。し かし両者が又投資家としてそれぞれ特色をもっているのも事実である。両者 がすぺての点において同じ方策をとってよいのであれば,両者を分つ必要は ないともいわれる。もとより,両者が如何なる点においてどのような投資戦 術をとってよいかは,株式投資綸の本論における仕事,領域に属する。ただ ここに指摘しておくべきだと思うのは,そういう相遮をもたらす両者の根本 的な特色である。
まず個人投資家には素人と玄人とがあるが,機関投資家は殆んど,否すべ て玄人である。次に,機関投資家はその名の通り必ず専門機関を擁するが,
個人投資家は玄人といえども殆んど機関をもっていない。次に,個人投資家 は多額の資金をもつ者もあるが,一般にそれほど多くの資金をもたないのに 対し,機関投資家は殆んどすべてが多額ないし巨額の資金をもつ。機関投資 家はこの多額の資金ゆえに分散投資の戦術を充分に行い得る力をもつ反面,
株式の購入,売却が大口のため市場株、価に波瀾を起こす等の悩みをもつこと になる。既に個人投資家,機関投資家が如上の特色をもつとすれば,それを 発揮する,又それに順応する投資態度に出るべきことももちろんであり,表 題に掲げた分に応じた投資とはこれを指す。
投資家には個人投資家,機関投資家のほかになお一つある。それは何等か 事業を営んでいる事業会社であのる。事業会社は手持ち資金をその営んでい る事業に使用するのが本則である。しかしその一部分を事業経営と別途に,
投資のため他会社の株式取得に向けることもある。断っておくが,事業経営
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株 式 投 資 の 適 格 者 ( 今 西 )上の必要から他会社の株式を取得することは,ここには入らない。このよう な株式保有は経営上の取得,所謂経営保有である。投資のための取得,所謂 投資保有とは,個人が資金を利殖するが如き目的で取得するのをいう。何れ にしても,事業会社も個人,金融機関等と並んで投資家となることは充分に あり得,否,近時我が国などではそれは非常に増加しているところだ。
この事態に対し,われわれとして疑問に思うのは,事業会社は株式投資家 として果して適当しているやである。もちろん,この議論の観点は,あくま で事業会社そのものの利害の立場にある。これを社会経済的な立場からみれ ば,頭から否定的な見解も出てくる。日<,事業会社は何等かの生産・配給 という社会的任務を分担している組織であり,出来得る限り優秀な製品,サ ービスを不足なく,しかも安価に供給するよう努力する使命を帯びているは ずである。従って,手許の資金もその使命に向って活用すべきであり,一時 的に余裕があるからといって,他会社の株式投資などに向けるべきでない。
それは目的外であるのみならず,経営担当者がそれに深入りすれば本来の事 業経営がお留守になることもあり得,社会的に損失となる,と。
しかし事業会社も一個の法人としてその余裕資金を株式投資に向けること は許されて然るべしという論も成立するところで,今,投資論としてはこの 立場に立ち,株式投資は事業会社にとってうまくゆくか,有利であるかの方 向の議論をすればよいわけである。この場合,まず指摘されるのは,事業会 社は株式投資家として素人であるということである。もちろん, 個 人 と 同 様,努力すれば玄人の域に達することは可能である。が,このためには相当 な努力がいる。その一つの途は,経営担当者が勉強する方法であり,他は,
経営担当者の代わりに会社内に投資専門の機関を設ける方法である。しかし 前者の方法では,本来の会社事業経営がお留守になる恐れがあり,既述の社 会経済的立場は別として,会社収益の上からも不利となる危険がある。又9
後者の方法では,そのための人件費,調査費が多額にかかることとなる。斯 くて,事業会社の株式投資は,一部の素人の個人投資家のように,直接投資 をやめ投資信託の如き専門機関を通じてやる間接投資がむしろ妥当というこ
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とになる。しかも,なお,提案されることは,このような投資方法しかとり 得ないとすれば,なぜ会社が余裕資金を抱き株式投資をやらねばならないの か,むしろそのような資金は,株主に還元するに如くはないかである。さら に,事業会社の株式投資については看過出来ないことがある。それは,事業 会社は個人よりも資金の借入れが容易であるという性質を利用し,手許余裕 金が少ない場合,金融機閲から借入れた資金をもって株式投資をなす可能性( 4 )
のあることである。既に株式投資の意義論で明らかにされたはずと思うが,
自己資金でなく借入れ資金での株式投資は,投資ではなく投機である。株式 投機が危険性の大なること,又言をまたない。この可能性を考えるとき,事 業会社の株式投資は益々慎しむべきことがいわれ,私としては,事業会社は 株式投資家として最も不適当なものといい度いのである。