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アメリカにおける軍事技術開発振興政策の史的展開

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(1)

アメリカにおける軍事技術開発振興政策の史的展開

その他のタイトル A Short History of Military R&D in the United States

著者 坂井 昭夫

雑誌名 關西大學商學論集

26

6

ページ 687‑707

発行年 1982‑02‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00020851

(2)

アメリカにおける軍事技術開発 振興政策の史的展開

ベトナム戦争後ある程度なりをひそめていたアメリカの軍産複合体制が,

いま「強いアメリカ」の再建を叫ぶレーガン政権の手で新たな活力を吹き込 まれようとしている。筆者は,かかる現実がそれを要請することを意識しな がら,さらにはそうすることが自らに中期的課題として課している 軍事経 済に対する科学的聡識の確立への寄与 という目標に近づく上での一助にな るとの思いを抱きつつ,ここ当分はアメカ軍産複合休制の内的編成と運動法 則の究明に微力を傾けるようにしたいと考えている者である。

小論であるが,以下では上記課題を果たすための努力の一礫,と言うより もむしろ欠かせない予備的作業として,軍事研究を促進し組織化しようとす るアメリカ政府の試みが過去からどのように展開されてきたのかをざっと跡 づけてみることにしたい。軍と産とを綴じ合わせている主要な糸の1つが軍 事技術開発であるのは,すでに周知の事柄に属していると言ってよい。そう

した関係を成立させるにいたった歴史の一断面をなぞってみようというわけ である。

本論に入るのに先立って,予め2つの点を断わっておかなければならな い。第

1

に,小論の叙述は考察の順でも個々の項目の内容においても

A.H

ュプリーの詳細な研究やD.C.スウェインの要領のよい概括に負うところが 非常に大きく,その意味で筆者自身にとっての私的なノートの性格が濃い。

(3)

より重要な問題であるが,第2に,ここで取り上げようとしているアメリカ の政策およびその体現物たる機構の変遷は,•決してそれ自体に内在する論理 だけから説明されうるものではなく,軍事産業や経済全体の動向によって大 きく規定されてきたと考えてしかるべきである。にもかかわらず,筆者の準 備と整理の都合上,それについての掘り下げた分析は他の機会に回さざるを えない。したがって,さしあたり小論においては,政策・機構の移り行きを 確固たる必然性の論証なしに現象描写的に記述する形になってしまう。かか る政策史研究としての不首尾さにつじヽては,その早急な補完の意志を明示 し,もってとりあえずの御寛恕を願う以外にない。

[南北戦争期]

特許制度の整備,関税障壁を用いての技術産業の擁護,技術訓練・教育の 助成等によって技術進歩を促進しようとするアメリカ政府の政策は建国とと もに緒についたとみられるし,

1 9

世紀前半には政府内外の研究所や科学機 関,さらには民間企業に対する直接贈与の事例も目につくようになるのであ

(1) 

るが,特定的に軍事技術を振興する努力ということでは南北戦争期にその起 源を求めるのが適当であろう。ちなみに,南北戦争においては,すでに発明 されていた鉄道,電信,鉄船,あるいは銃組立ての革新等によって戦争の形 態とスピードとが従来とは一変する状況があらわれた。そうした環境にあっ

たのを思えば,政府部内や議会のうちに戦争を有利化する方途として軍事技

('2) 

術の振興を重視する風潮が高まったのは, けだし当然であった。

南北戦争の期間にしるされためぼしい足跡は 2つある。まず, 1862年に 海軍のもとに設置された常設委員会 (Navy  Department's  Permanent  Commission)。同委員会は,民間のすぐれた科学者達を組織して,次々に国

(1)  M. Kranzberg C.  W. Pursell,  Jr.,  ed.,  Technology in Western Civili zation,  New York,  1967(小林達也監訳「20世紀の技術」上下,東洋経済新報 1976年).第31 (M. B.  Sherwood),参照。

('2). A. H. Dupree,  Science theFederal Governme Cambridge,Massachusetts,  1957,  p.  120. 

(4)

内の発明家達から寄せられてくる各種の提案(魚雷や水中銃,さらには戦艦 の設計といったものもあった)の有用性を評定する仕事に携わった。

1 8 6 5

9月の戦争終結までに257もの報告書が出されたことにその活動の活発さが しのばれるが,とはいえそれはあくまでも発明家の案件の持ち込みに対応し た受動的性質の活動であり,常設委員会が独自に課題を選択して追求するよ

(3) 

うな仕組みにはなっていなかった。

もう

1

つが,

1 8 6 3

年に議会がら憲章を与えられて設立の運ぴとなった全米 科学アカデミー

( N a t i o n a lAcademy o f  S c i e n c e s )

NAS

の構想自体はア メリカの科学者達が数十年来胸中に抱いてきたものであったが,それが南北 戦争に伴う軍事的要請に促されて実現され, そのいきさつとのかかわりで

「政府各省庁の望む科学ないし技術上の問題について調査,検討,実験して 報告する」ことを目的の

1

つに掲げるにいたった(その意味で

NAS

は政府・

が能動的に軍事研究を組織化するための手段であった)のを看過してはなる

(4) 

まい。なお,会員に栄誉を与える観点から会員の枠を狭く制限(当初

5 0

していた

NAS

は,政府の要請ごとに臨時委員会を組むやり方で上の責務を

(5) 

全うしようとした。かかる

NAS

の活動の歴史的意義については,

D.C

ウェインの1節を引き写すだけで事足りよう。彼はこう書いている,「アカ デミーは,鉄船の底を塩水によって破損されないようにする研究や,鉄船上 においてコンパスの磁気偏差を修正する問題を研究するために,特別委員会 を組織した。しかし,

NAS

の控え目な研究成果は, ほとんど戦争の結果に 影響を与えなかった。海軍常設委員会の場合のように,その努力は,目に見 える結果という見地よりも,この種の科学的な活動に対する先例をつくった

(6) 

という意味で,より重要である」。

(3)Ibid.,pp.1町 ー138.

(4)市川泰治「アメリカの研究産業」鹿島研究所出版会, 1971 15ページ。

(5) ̲D. 

K .   P r i c e ,   G o v e r n m e n t  and S c i e n c e ,   New Y o r k ,  

1954(中村陽一訳「政 府と科学」みすず書房, 1967 17ページ。)

(6) 

M. K r a n z b e r g  

& C. 

W. P u r s e l l ,   J r .

, 前掲邦訳書,

3 4

(D. C. 

S w a i n ) ,  

275ページ。

(5)

2 6 6

[南北戦争後]

続いて南北戦争後を一瞥すると,

1 8 6 2

年に誕生した農務省による農工大学 の実験場に対する支援,地質調査や森林調査をおこなう政府の休制の整備,

1 8 9 0

年代初頭のデュボン社やジェネラル・エレクトリック社を皮切りにし

2 0

世紀に入ると本格化した民間大企業の研究所設立の波,

1 9 0 1

年創設の標準局

のごとき政府研究所の発達等にみられるように,非軍事分野については,政 府による科学研究の組織化の進展を内包しつつ,政府・民間の双方において 科学研究活動の相当の前進が生じている。ところが,軍事の分野はと言うと およそ事態は正反対で,政府による軍事研究の後押しは南北戦争の終結とと もに大幅に後退し(海軍常設委員会は早期に解消されたし,

NAS

にしても かろうじて存在を保ちはしたものの,財源難から急速な活動縮小を余儀なく されている),以後も,新しい歩みとしてあげられるのはたかだか

1 9 0 7

年頃 から陸軍の通信部隊が無線や航空技術に関する小規模な研究計画に着手した ことぐらいで,第1次大戦の戦端がひらかれるまで基本的に停滞から脱する ところとはならなかった。しかも,ほとんど唯一の例外であった陸軍にして もが全体として先進的な軍事技術の開発に邁進したというにはほど遠く,た とえばその補給部隊などは,自動車が大量に出回っていた第1次大戦直前の 時点にあってさえなおラパの荷車を運搬用に使う上でのテストにかかずらわ

(7) 

っている有様であった。また,米西戦争

( 1 8 9 8

年)時に気球に代わる動力飛 行機の軍事的可能性を探る視点からS.P.ラングレーとスミソニアン研究所 に対して計 7 万ドル以上の資金を提供した陸•海軍両省が, 1903年のラング レーの飛行機の実験失敗を機に(そのわずか 9日後にライト兄弟の飛行機実 験が成功しているにもかかわらず)動力飛行機の開発への支援から手を引い てしまった事実も,軍部のしっかりした先見性の欠如を示す事例として記憶

(8) 

にとどめられるべきである。

(7)  274ページ。A. H.  Dupree, op, cit., pp. 148,  303.  (8)星野芳郎編「戦争と技術」雄渾社, 1975 129ページ。

(6)

691)23 

軍事技術が

1 9

世紀末から

2 0

世紀初頭にかけての産業技術上の目覚ましい革 新(鋼の大量生産法の確立,蒸気タービンや内燃機関の出現.化学工業の変 革,自動車の普及,等)の成果を満足に吸収しえずに低迷を続けるといった 硯象は,大谷良一氏によれば;アメリカばかりでなく諸列強に共通してお り,かつ飛行機にかぎらず広い領域にわたっていた(戦車の建造は第1次大 戦に入って後に開始されたが,キャクピラーや内燃機関などのその構成諸要 素はとうに実用化されていた。また,銃砲・弾丸の生産における自動機械の 応用も迅速さを欠いた)。ついでに, そうした事態が何故に導かれたのかに ついての同氏の説明も載;せておくと,次の遥りである。いわく,

1 9

世紀中葉 以降,相つぐ戦争(クリミヤ戦争, アメリカ南北戦争,普澳戦争,普仏戦 争.等)を契機に軍事技術に一定の前進(木造帆走軍艦→装甲汽走軍艦,前 装式青銅砲→後装式鋳鋼砲.等)が起こったが,,それは民間兵器メ・ーカーの 激しい競争を通じて達成されたものであった,しかしながら「民間兵器工業 が国際性を強め,独占に転化し,保守的な軍部との結合を強めれば強めるほ.

ど,軍事独占資本は,独占の地位に安住し,腐敗と停滞の傾向を強めること

(9) 

になる」と。アメリカを個別に問題にする場合には,同国軍部と国際的兵器 会社との癒着の実態を分析して検証する態度が求められるし,また自国軍事 産業を育成しようとする米政府・軍部の志向やアメリカ帝国主義の特殊性が

(10) 

そこにどう絡んでいたのかもはっきりさせなければならないが,一般的傾向 の指摘としては傾聴に値しよう。

[第

1

次大戦期]

1

次大戦

( 1 9 1 4

7

月ー

1 8

1 1

月)がその進行ともに国家総力戦の様相

(9)  121126, 1S6ページ。

(10)  20世紀初頭以来の列強の急速な軍備拡張に比してアメリカのそれが相対的に緩 やかであった事実をアメリカ帝国主義の質とかかわらせて論じている森果氏の見 解が参考になる。宇野弘蔵監修「講座帝国主義の研究」第3巻(アメリカ資本

主義),青木書店, 1973年,•第 2 章 I 。

(7)

2 6

巻 第

6

を強めたこと,換言すれば,交戦列強のそれぞれが新兵器開発を主目的に「科 学動員」体制を敷き,またそれと見合う形での工業動員休制を整えつつ未曽 有の物量戦を展開するようになったということ(大谷氏は,機関銃,戦車,航 空機,港水艦等の新たに出現した武器のいずれもが軍事技術水準より先んじ ていた一般産業技術を母体にして生み出されたものであったために民間産業

(11) 

の軍事生産への動員は容易であった,と説いている),ならびに同大戦が連 合国の兵器廠の役割を担ったアメリカの世界経済に占める地位の飛躍的向上 を帰結したこと,についてはこの場では詳論を避ける。参戦の時期こそ

1 9 1 7

4月と遅かったけれども,アメリカが連合諸国の軍事発注にこたえるため に,また海外輸送の安全を確保するために(同国が輸出の余力をなくしてい る諸列強を尻目に海外市場を次々に手中におさめつつ工業力強化の実をあげ ていこうとするさいに,これは必須の要件をなした)参戦以前から他の国と 同様に科学の軍事動員を手がけていた点への注意を喚起するだけにして,た だちにその流れの要述に駒を進めるとしよう。

1次大戦の勃発に触発されてアメリカ政府・軍部が軍事技術の進歩を促 すべく打った最初の手とみなされるのは,

1 9 1 5

年秋の海軍専門調査局(Naval Consulting Board)の創設であった。この機構は南北戦争時の海軍常設委 員会の再硯にほかならず,要するに,民間の優秀な技術者や発明家を引き抜 き(海軍省が議長に任命したのはT.A.エジソン),彼らに米国市民から出 される数多くの発明や技術的な提案の審査をおこなわさせることを眼目とし ていた。もっとも,大戦が終わるまでの期間に

1 1

万もの案件が選別にかけら れたにもかかわらず,小委員会によるより詳細な吟味を必要とするだけの利 点を認められたのは

1 1 0

件にすぎず,実際の生産にまで行き着いたものとな ると実に1つだけであったという実績が物語るように,その軍事技術に対す

(12) 

る実質的な貢献は尤大な業務量とは裏腹にごく小さいものでしかなかった。

海軍専門調査局は発明家や技術者だけを代表する機関であったが,

1 9 1 6

(11)星野芳郎編,前掲書,137ページ。

(12)  A.  H.  Dupree,  op.  cit.,  p. 308. 

(8)

6月にはこれとは別に,国内の科学的資源のすべてを戦争準備に動員する意 図のもとに全米研究評議会 (NationalResearch Council)が発足させられ ている。 NASの下部組織とされた NRCは,栄誉団体の体質が強く最新の 科学技術の発展からは取り残されがちな NASではドイツ渚水艦による通商 破披への対応といった種類の政府の急場の要請にこたえにくかった事情を勘 案して,知名度にかかわりなく有能な人物を自由に委員会に加えうる柔軟な

(13), 

組織として構想された点を特徴とした。「数多くの委員会,小委員会,特別 パネル討論会で構成された NRCは,数百人の個々の科学者達を戦時科学研 究計画に参加させる機関になった。 (NRCは)その任務を実行するために大 学の科学者や工業界の専門家達の協力を懇請した。… •••1917 年の 2 月まで NRC 国防会議の研究部門として広範囲な軍事研究を実施し始め た。… •••(NRC は) 1917年と 1918年に,戦時科学研究計画に対する『中央 手形交換所』として活動することによってその価値を証明した。それは,貴 重な研究情報サービスを提供し,その専門委員と委員会は,陸軍と海軍に対 して有益な役割を果たした。その他の仕事として, NRCは第1次世界大戦 中に生じた複雑な技術問題ー一たとえば,いかに港水艦の存在を発見する か—などの広域研究を調整した」.——NRC の多面的な活動についての D.

(14) 

C.スウェインのスケッチである。

少し補足しておくと, NASがそうであったのと同じように, NRCは公共 機関には相遮なかったが基礎的な支持は民間によって与えられていた。ちな みに,第1次大戦期におけるNRCの活動は,主としてカーネギー・コーボレ ーションやロックフェラー財団の拠出(前者15万ドル,後者5万ドル)によ って賄われた。だが,反面で,アメリカの参戦の直前にNRCが国防会議の 研究部門の役目を負わされて以後,政府資金の投入が増加したのもまぎれも ない事実である'(政府の支出分の総計は不明であるが,国防会議から流れた 金額だけで約13万ドル)。 NRCが政府の軍事研究財源を獲得しようとする

(13)  D.  K.  Price,前掲邦訳書. 38ページ。

(14)  D.  C.  Swain,前掲論文, 277ページ。

(9)

場合にはそのもとにある科学者を将校に任命させるのが唯一の効果的な方法 であったということ,彼らが政府の研究所に配置される中で

NRC

と軍部・

政府科学機関の協力による毒ガスや光学器械をはじめとする広範な研究プロ ジェクトが組織されたこと, そしてそうであればこそ戦争の進行に伴って

NRC

の計画がますます軍部の統制下に置かれるようになったこと, を知ら

(15) 

なければならない。

海軍専門調査局と

NRC

のほかでは,アメリカの航空の発展を支援する目的

1 9 1 5

年に設けられた全米航空諮問委員会

( N a t i o n a lAdvisory Committee  f o r  A e r o n a u t i c s )

の活動が, とりわけ民間研究機関との委託研究契約の先 鞭をつけた点で注意をひく。

NACA

の最初のプロジェクトはマサチュセッ

ツ工科大学に

8 0 0

ドルの補助金を支給する形で実施されたが,後にふれる通

(16) 

り,その歴史的な意味は金額のささやかさとは対照的に非常に大きい。

[両大戦間期]

両大戦間期に話を移すと,第

1

次大戦が終わるとすぐに,アメリカの軍事 研究計画は工業動員解除の進行と歩調を合わせて急速な衰退をみせるところ となった。軍事技術の水準が一般産業技術のそれと大差がない場合には,エ 業生産力を軍事生産力に転換するのが比較的容易であるので,少なくとも軍 事的には平時に尤大な軍事産業を保持し続けなければならない理由はない。

この各国に共通であった事情に加えて,相対的に衰えはしたものの戦後もな おアメリカと並ぶ一流の帝国主義国の地位にあったイギリスの勢力圏に浸透 する方法として,アメリガが経済的・金融的手段の活用を本命視した点も考 えに入れるべきである。同国が戦争によってもたらされた各国間の軍事的カ 関係の維持,大海軍国としての自己の地位の湿存に熱心であったのは確かで あるが,それにしてもが戦時中に膨張した政府支出をできるかぎり圧縮しよ (15)星野芳郎編,前掲書, 144ページ。

D .K .   P r i c e ,

前撮邦訳書, 38ページ。 A.

H. 

D u p r e e ,   o p .   c i t . ,   p p .  

312,  324.  (16) 

D .   K .   P r i c e ,

前掲邦訳書, 37ページ。

(10)

うという志向に規定されて,軍縮条約の締結を主導する方向で達成される経

(17) 

過となったことを想起してほしい (1921年11月に開催された5大海軍国によ るワシントン会議で,主力艦建造の10年間停止,および主力艦・航空母艦の 制限トン数についての各国の比率が決定された)。

まず NRC(19185月の政令で恒久機関化されていた)をみると, 1919 年の改組で同組織と政府との間の緊密な関係は実質的に断たれてしまった。

国防会議を媒介にして政府と結びつき,アメリカの科学界全体の動きを調整 する中心的機関として稼動した NRCは過去のものとなり,爾後のその活動 は,カーネギー・コーボレーションやロックフニラー財団の拠金に依存しな がら,国内の科学技術団体の代表者達の集合の場となることを通じて研究情 報の交流に寄与したり,あるいはそれらの各種プロジニクトにロックフェラ

ーやカーネギーの資金を分配したり,また国際的な研究情報の交換をおこな ったり, という内容に変わっている。 こうした平時向けに再編された NRC の機能は, 1916年以前のアメリカには十分には備わっていなかったものであ

り,その意義を軽んじるわけにはいかないが,いまの場合には,財源面から その活動が厳しく制約されたことと合わせて, NRCが官庁の研究機関と協 力したり,あるいはそれに対して積極的に勧告したりするような立場にはな

(18) 

かったことをこそ強調しなければなるまい。

軍関係の研究諸機関が第1次大戦の終了によってこうむった打撃は,上に みたNRCに比していっそう甚大であった。財源の欠乏と民間科学者の撤退

(=職場への復帰)がその基本的な原因をなしたが, 1920年の陸軍省改革に おいて研究を調達に結びつける措置との言い方で研究の目的が大量生産の要 件をなす標準化に限定されてしまったこと,参謀本部が科学機関を経由せず に仕様書を作成する傾向が生じたこと(参謀本部の代表者達が陸軍技術委員 会を構成),第1次大戦時から繰り越された在庫が大量に存在しており政府・

(17)  H.  Claude,  Cu va L'imperialisme americain,  Paris,  1950(小出俊・陸井 四郎訳「アメリカ帝国主義の史的分析」社会書房. 1952 40, 43ページ。)

(18)  A.  H.  Dupree,  op. cit., pp. 328‑330. 

(11)

軍部としてはその消化を先行させざるをえなかったこと,等も軍事研究機関

(19) 

の沈滞を強める要因として作用した。

ここで

1 9 2 3

年に創設された海軍研究所

( N a v a lR e s e a r c h  L a b o r a t o r y )

ふれるべきであろう。先に第1次大戦期に海軍専門調査局が果たした役割を 明らかにしたが,実は調査局の活動が開始されてほどなく,ほかならぬ同組 織に属する人達自身がその活動の限界性を明瞭に駆識するといった状況があ らわれている。すなわち,国内に散在する発明家達から個別に送られてくる 分散的な諸提案だけでは浩水艦戦に代表される急を要する戦闘上の技術問題 の解決はありえないことが事実として露わになってくるのにつれて,科学の 理論と軍事的必要の双方を解する高度に訓練された人達からなるチームによ って緊急の技術問題の解決をはかろうとする考え(=問題解決アプローチ)

に支持が集まったのであって,そうしたもとで

1 9 1 6

年には調査局が海軍の研 究所を設立する旨を提起して議会に100万ドルの予算を約束させるところに まで事が進んだ。だが,実際には研究所の立地さえ確定しない段階でアメリ カの参戦が決まったために,その計画は中断の憂き目をみる羽目になってし まった。ただし,議会の承駆は生きており,それが

1 9 2 3

年になってようやく 日の目をみたというわけである。こうして誕生した海軍研究所においては少 数の民間科学者によって第2次大戦時のレーダーの実用化につながる実験が 手がけられたが,これは陸•海両軍での研究の一般的欠如からみればほんの

(20) 

小さな例外にすぎなかった。

軍事研究の低落傾向にとってのより顕著な例外ということでは, NACA の活動があげられよう。軍部の代表も加わっていたが民間科学者が優位を占 めスミソニアン研究所や他の政府内外の研究機関とも結びついていたその固 有の組織形態,およぴ飛行問題が戦時ばかりでなく平時でも重要性を有して いたという事情,がNACAの前進を要請し可能にしたのであろう。 NACA の予算はさして大きくはなかったが

( 1 9 2 3

年が

2 0

万ドル,

2 7

5 0

万ドル),

(19)  Ibid., pp. 331332.  (20)  Ibid., pp. 307,  333. 

(12)

アメリカにおける軍事技術開発振興政策の史的展開(坂井)

1920年代から30年代にかけてのその飛行問題についての着実な研究を評価す

(21) 

る声は高い。参考までに

R.R

.ネルソンら

3

名の共同著作の該当部分を示し ておく。「1930年代の全盛期には, NACAは,アメリカの軍事航空のみなら ず民間航空の発展にとっても主要な役割を演じたさまざまな研究所や研究機 関を運営した。 NACAは,一般的使用のための研究開発装置̲ fことえば 風洞_の開発と操作,情報の収集と普及,および基礎研究と実験開発の道 をひらいた。それは,飛行機のスティームライニング,ェンジンの部品の設 計,燃料特性,飛行機設計の構造的諸側面,あらゆる種類の実験装置の建設

(22) 

とテストを実施した」。

NACAを除けば軍事研究が停滞している状態は,第2次大戦の火蓋が切 って落とされるときまで続いた。 1930年代の半ば頃から国際的な緊張が高ま るもとで,アメリカも他の主要国と前後して軍備増強に乗り出したが,その さいでも開発ずみの兵器の調達が優先され,軍事研究計画の拡張は後回しに されるケースが目立った (1920年代から軍事研究予算は年400万ドル程度で 推移したが, 35年には陸軍に対して追加的に500万ドルの研究費が与えられ た。その大半を陸軍は航空隊に用いている。また翌年には「1936パラドック ス」と呼ばれる事態一再軍備計画の研究予算は適切な割合を超えている,.

すでに開発されている武器の調達をこそ急ぐべきだ,として陸軍幹部が時間

(23) 

を食う研究プロセスの回避を決定した一ーが発生した)。

誤解を避けるためにぜひとも記しておかなければならないことがある。以 上に述ぺたのは政府が関与している,かつはっきりそうとわかる軍事研究計 画の推移であって,それがそのまま軍事研究のあり様の全体像を示している わけではない。民間企業での独自の軍事研究や政府のそれに対する目立たな い形式での援助があったとすれば,必ずしも軍事研究が全体として低調であ

(21)  Ibid., p. 334.  D.  C.  Swain,前掲論文, 278‑279ベージ。

(22)  R.  R.  Nelson,  M. 

J .  

Peck & E,  D.  Kalachek,  Technology Economic  Growth and Public Policy,  Washington,  D.  C.,  1967,  pp. 164165. (23)  D.  C.  Swain,前掲論文, 280ページ。

(13)

ったなどとは言えなくなることもありうるわけである。この点に関連する中 村静治氏の主張を聞いてみよう。氏はこう書いている,「この時期 (1930 代)に現われた重要な技術で,軍事的考慮なしに工業化されたものは,きわ めて少なかった。むろん,大企業は恐慌の打撃から逃れようとして,新技術 の開発,新品種の創出に務めていたが,幾多の新方法,新品種のなかで,生 きながらえ,多かれ少なかれ経済的価値をもつようになったものは,なんら かの意味で戦争準備につながるものであった。この時期,いちじるしい進歩 をとげた特殊鋼,軽合金,薄板圧延技術……などは,直接的に軍事上の配慮

(24) 

によって助成,展開されたものである」。中村氏がこの理解の上に立って当 時の技術開発が軍事技術によって先導されたと説く場合に,そうした視点を 欠く大谷良一氏流の立場と真っ向からぶつかり合うのは多言を要しないが,

軍事技術の主導性を唱えうるほどにそうであったのかどうかは別にして,中 村氏の指摘にはおろそかにしえない内容が含まれているものと考えるべきで あろう。

第 2次大戦期]

19399月の英独開戦, それに続くヨーロッパ大陸全域への戦火の拡張 は,アメリカに対して,連合国の兵器廠としての役割を担い同時に自国の防 衛を強化するための科学動員体制を早急に構築するよう迫らずにはおかなか った。そして,アメリカ政府・軍部が1936バラドックスにみられたごとき軍 事研究に対する一定の消極姿勢を払拭し,全面的な科学動員にうって出た ことの証しとなったのが, 19406月 の 国 家 防 衛 研 究 委 員 会 (National Defense Research Committee)の結成であった。

NDRC の組織形態は NACA にならったもので,陸•海軍の代表者にも 座が用意されたが,民間科学者の優勢を確保できるよう配慮された構成とな っている(委員会は全員で8 NASNRCNDRCへの協力を要請 された。なお, NACAの担当する航空の分野は NDRCの 管 轄 外 と さ れ

(24)  中村静治「戦後日本の技術革新」大月書店, 1979 23ページ。

(14)

た)。その組織のあり方とかかわっているのであるが, NDRCが関与したプ ロジェクトの多くは軍部から出されたリストのうちから拾い上げられたもの であったけれども, NDRCはその選択や実施法についての独自の判定権を保 持するように努めた。これは,第1次大戦期のNRCが財源の面から次第に 軍部の統制下に組み込まれプロジェクトを開拓する力を削がれていったこと への反省,ならぴに民間科学者の創意を生かした両大戦間期の NACAの業 績に対する評価,から説明されよう。また,前大戦下のNRCが軍関係の多 数の研究機関を生み出し (NRCの支持のもとでなされる研究が実用的な開 発の段階に入ると,それに従事していた民間科学者が将校として政府の研究

(25) 

所に配属される,といった形になっていた), その結果,戦時研究計画の全 局面についての単一的な管理を困難にする傾きがあったのに対し, NDRC 場合は, NACAによって開発された研究契約方式を利用してのより効果的 な戦時研究計画の管理が期されている。少し説明をたしておけば, NDRC は発足時からそれ自身として研究に従事しはしない旨を決め,地理的な条件 とは無関係にそれぞれのプロジェクトを最も適当な大学や民間企業に担わさ せるための契約方式の開発にいそしんだ。実は蓬か以前のNASの根拠とさ れた法律の中に誰も研究から利益をあげてはならないという原則が盛り込ま れており, NDRCとしてもそれを採用せざるをえなかったのであるが, 時に NDRCが間接費を含む費用の完全補償をおこない,もって委託研究の 民間研究機関にとっての魅力の増進をはかろうとした点もみておくべきであ

再確認の意味合いで,また前項末の中村静治氏の指摘とのつながりも考慮 して改めて言うのであるが,第 2次大戦以前にあっては政府の軍事研究計画 は総じて低調であったし, その大半は政府・軍部の研究所で実施されてい た。ところが,一方では同じ時期に民間の研究機関が激増をみている。次に 示すR.R.ネルソンらの1節は,この2つの現象の内的な連関についての示

(25)  D.  K.  Price,前掲邦訳書, 38ページ。

(26)  A.  H.  Dupree, op. cit.,  323324,  370371.

(15)

唆を含むものとして注目されよう。彼らはこう書いている,「(大戦前には)

政府の国防研究開発支出ば低く……仕事の相当部分が陸軍の造兵廠や海軍の 諸機関でなされていた。主たる努力は,民間企業に対して,軍に装置や部品 やシステムを販売するという希望をもって彼ら自身の資金を投下させること を刺激するような要請を述べる仕方で獲得された。陸軍航空隊は,可能なか ぎり民間企業に直接的に研究開発資金を融資するのは避け,民間で開発され

(27) 

た飛行機やエンジンを購入する政策をとった」。この引用に描かれた状況が NDRCの登場によって一変したわけであるが, そうした変化そのものが先 行する民間研究機関の族生を前提にしてのみ可能であったことに留意しなけ ればなるまい。

ところで, NDRC19416月に科学研究開発局 (Officeof Scientific  Research and Development)が設立されたさいに,その一部に編入されて いる。 NDRCによって組織された研究の成果を戦場に生かすには両者を媒 介ずる技術開発の段階を軽視するわけにはいかなかったこと, NDRCには 自己がつかさどる研究と陸海軍や NACAの研究とを調整する仕組みが備わ っていなかったこと,そして軍事医学の研究が不十分であったこと—より 包括的な戦時研究の管理機関としての OSRDの登場を促したのは, これら

(28) 

の要因であった (OSRDの傘下には, NDRCとならべて医学研究委員会が 置かれた。また,その局員には,軍部代表,科学者に加えて NACA代表も

(29) 

任命された)。

OSRDの華々しい活動ぶりは, それが動かした資金の大きさ(大戦期間 中の総計では30億ドル以上, 1945年度だけで10億ドル)から容易にしのばれ るが,必ずしも金高には反映されていない側面,たとえば OSRDが軍部の 研究機関との緊密な協力関係を通じてそれらの研究活動の歩調を定める役割 を演じたといった事情をもとらえきる場合には,そのアメリカ史上前例の

(27)  R.  R. N̲elson, M. J.  Peck E. D.  Kalachek,  op.  cit.,  p. 157.  (28)  A.  H. Dupree,  op.  cit.,  p. 373. 

(29)  市川泰治郎,前揚書, 28ページ。

(16)

アメリカにおける軍事技術開発振興政策の史的展開(坂井) 701)33  ない強力な中央科学管理機関としての全貌が自ずと浮かんでくる (OSRD の協力関係がその重要な条件をなしたのであるが,第2次大戦期に NACA はプロペラ機の性能向上,海軍研究所はレーダーの実用化,陸軍の通信部隊 は無線送受信の小型化, 化学部隊は毒ガスの蓄積, 砲兵部隊はロケット開

(30) 

発,そし陸軍技術者の多くが原爆製造,とそれぞれに成果をあげた)。なお,

OSRDはそれ自体としては委員会形式をとらず,その局長が当該行政につい ての全責任を負う仕組みになっていた。そうした執行機関としての性格を有 したればこそ, OSRDはそれ自身の予算と軍のための研究開発計画を選択

(31) 

し認可する権限を享受しえたのであるし,また OSRD局長に直接大統領と 接触できる権限が授けられたことが軍部からの同機関の相対的な自立性の保 持に対する保障になったと考えて大過なかろう。さらに

D.K

.プライスの言 葉を引きながら追加的に述べると,「(OSRD翼下の NDRCのもとには)多 数の部がおかれ,各部の頂点には,それぞれの分野の専門家からなる委員会 がおかれた。この委員会の構造は,大学や研究機関で科学者になじみの深い 組織形態を提供し,この形態のもとに合衆国全体から科学的同僚を集めた」。

つまりは,前大戦時の NRC流の委員会体系は「国内の指導的科学者を戦時 研究に招致して,かれらの才能を発揮させるためにできるだけ自由に働かせ る」観点から注意深く踏襲されたのであって,その委員会体系と執行的構造

(32) 

とを巧みに融合させたのが OSRDであったという理解になろう。

続いて,もう 1 OSRDの局長が大統領に直接責任を負う立場にあっ たことは,同機構が当面の実戦の必要だけにとらわれがちな軍部の指導者に とっては興味の対象となりにくい特別な兵器の開発を遂行する上で大いに役 立った。しかも,綿密な委員会体系と研究契約制度とによって,広範な研究 機関と多数の科学者・技術者がその目的に向けて結集されうるシステムにな

(30)  D.  C.  Swain,前掲論文, 283ページ。

(31)  R.  A.  Faramazyan, USA: Militarism and the Economy, Moscow, 1974,  p.121. 

(32)  D.  K.  Price,前掲邦訳書, 39‑40ページ。

(17)

っていた。レーダーの開発および原子カプロジニクトがことに重要な位置づ けを受けたのであったが, うち後者は

1 9 4 3

年に陸軍の管理化に編入され「マ

(33) 

ンハッタン計画」と呼ばれるようになる。周知のように,

2 0

億ドルを投じて 原爆をつくり出した同計画は,いわゆるビッグ・サイエンスの最初のケース

(34) 

であった。

最後になったが,南北戦争期や第

1

次大戦期と同様に,第

2

次大戦の期間 中にも発明家から寄せられる提案を処理するための機関がつくられはした。

だが,前大戦時の失望すべき経験から,政府・軍部はそれに対して事実上何 の期待もかけるところとはならなかった。高度の技術的問題の解決について の偶発的な発明の無力さが冷静に直視され,軍事研究の組織化を通じて軍事 技術開発を推進する点にいっさいの努力が集中されるようになったのだ,と いうことである。

[第 2次大戦後]

2

次大戦時の

OSRD

の活動とマンハッタン計画の成功は,科学技術研 究の軍事的価値を立証するとともに,大がかりな軍事研究計画の遂行が戦後 アメリカの世界的規模での安全保障政策の中核に端座するようになるであろ うことを,広く印象づけずにはおかなかった。換言すれば,軍事技術が戦争 の過程で一般産業技術の水準を逝かに凌駕してしまった状況下では,しかも 社会主義圏の膨張を阻止しつつ資本主義世界の指導者たる自国の地位を固め ていく必要から世界最強の軍事力を維持しなければならないという条件がそ こに重なり合ってくるところでは,アメリカとしても従来とは進って,戦時 に築かれた政府・軍部と科学との密接な関係を終戦を機に一気に後退させて しまうわけにはいかなくなってしまったのである。では,そうした政府と科 学との近しい間柄の戦後への延長ないし平時化は,一体いかなる手順を踏ん で進行したのであろうか。

(33)  41‑42ページ。

(34)  今井隆吉「科学と国家」中央公論社, 1968 7ページ。

(18)

703)35 

やはり粗筋を書きとめるだけになるが,いまだ戦争たけなわの1944年夏頃 までには, OSRDの指導者達は同機関の解散について積極的に考えだすよ うになっていた。政府の側からは戦後においても OSRDに中央科学機関と しての活動継続を期待するという意向が示されていたけれども,戦後の平和 産業への転換の必要に伴ってそのスクッフの保持が困難になるのは目に見え ていたし,科学に対する政治的千渉,軍事目的をおびた応用科学の偏重の対 極における基礎研究の停滞,等をめぐる科学者達の危惧の念も急速に増大し てきていたからである。 19457月に ORSD局長が大統領に差し出した報 告書は,そうした科学者達の立場を反映したもので,軍事研究ばかりでなく 基礎的研究を広く援助するための,そして政府とは無関係の9名のすぐれた 科学者からなる委員会によって管理される国立研究財団の設立を提案した。

ただし,これに対しては,公共資金の配分を非常勤委員会のごとき責任系統 の分散した機関に委ねるべきでないとする上院を中心とした反論があり,以 5年間にわたり両者の角逐が続くなりゆきとなった。結局, 1950年の全米 科学財団(NationalScience Foundation)の創設によって結着がつけられ たのであるが(大統領によって指名される理事と有限の権限を持つ全国科学 委員会とが管理にあたるものとされた),実はその間に軍事研究の調整・振 興の道は別途に開拓されていたので, NSFの役割は実際には基礎研究の支

(35) 

持に限定されるところとなっている。

だとすると,NSFにかかわる議論がおこなわれている間に小論が問題とす る分野で何が起こったのかが次に問われなければならないが, OSRDの機能 停止は,同機関によって管理されていた兵器研究のうち続行の価値があると 思われるもの(原子力を除く)の軍部への移管を当然に予定した。それらの 軍事研究プロジェクトの管理手段を科学者達の意向をも汲み上げながら模索 (35)  A.  H. Dupree,  op.  cit.,  pp.町4‑5.D. K. Price,前掲邦訳書, 44‑45 

ページ。 E. Mansfield,  The Economics of Technological  Change,  Norton,  1968(伊藤史朗訳r技術進歩の経済学」日本経済新聞社, 1971 171‑172ペー

参照

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