京魚荷飛脚について
藤村潤一郎
(1)京魚荷飛脚については、大正二年刊「大阪市史」第一に「京大阪通路魚荷飛脚七名あり。魚荷飛脚屋は魚荷以外の
運搬をも掌り'賃銀は1定せずと錐も'大略書状1通につき片便十文'返事取十五文'状箱は大小に応じ荷物は重畳
百日より三百日迄銀二分五厘乃至三分'三百日より五百日迄四分五厘許'五百日より八百日迄六分乃至七分'八百日(2)より宅貫目迄八九分乃至壱匁なりし」とあり'また昭和三五年刊'横山誼校訂「好色1代女」に詳細な免荷飛脚につ
いての補注がある。本稿はこれらの先学の某紙に基き京魚荷飛脚についてみるものである。
1地誌にみえる魚荷飛脚(3)まず京都では延宝六年午霜月書日刊「京雀跡追」天に
魚にびきゃ‑糊慧F,5粘詰丁(4)とあり'延宝六年戊午八月膏祥日刊「懐中京江戸大坂名所町案内」の京諮商人所付には前記「京雀跡追」と同Tの(5)記部がみられる。つぎに大坂では延宝七己未沿月下旬'水雲子序「難披雀」には
京魚荷飛脚について(藤村)
第1表 延宝7年京大坂通路魚荷飛脚賃銀定表
史料館研究紀要第二1号
京大坂通路魚荷飛脚宿
江戸堀竹や丁
権五郎尉前
高琵橋四間町
書 状 通 片便10文 返事攻15文
位匁35700001〜〜〜〜524680000
状 箱 大小見合
荷物重日 100‑300日
300〜500 500.〉800 800‑1000余
久兵衛
長兵傭
九郎兵衛
とみえ'その賃銀は第1表の通りであり'書状は片便と返事取'他に状箱と荷物を取
扱い'後者は重畳により賃銀が定められている。そして「右賃銀極りなし大鉢ハ如斯也」
と説明が付いている。(6)なお延宝七歴五月序'難波隠士「難波雀跡追」には前記の京大坂通路魚荷飛脚宿の人
名に「権五郎殿前・弥右街門'備後町一丁日活右衛門」の両人が増加している。⁚・さらにこの「難波雀」を訂正増補した同質の書である延宝七己未林鐘中旬'.難波隠士(7)友月翁序「難波罷」kは
京大坂通路魚荷飛脚宿
江戸堀竹や丁
権五郎殿前
岡
備後町一丁め
か㌢らい橋四間町
平ノ稽古西へ1丁半入南かわ 久兵衛
長兵衛∵
弥右衛門
清右衛門
九郎兵衛
河内や与兵衛
第1国 魚荷持 ・飛脚回(「人倫訓蒙国魚」所収)
京魚荷飛脚について(藤村)内かち町浜
JQ
半丁東南かわ万や長右衝門とあり'賃銀は鰐
1表と同様である。ところで魚荷持と飛脚について元禄三庚午戟七月菅且開板(8)
晶禁人倫訓蒙図整三作業部に闘幽那&・別狩より茄が
S jbるは朗て.#L.る,
大にし,wなミうaAのほ坂より西南の魚を'大坂につきしを京に上すかご上とtLはしりJbたrや▲.さんせつことハ'髄に入て夜道に
走来るへ漆山切なる事なり、かごい‑かごになJ..
寵壱つ四分にて残髄も荷なり
国 軍 宗 を
はじめ郡
への飛脚有て'甥かよいつくな]>をさためて通ふもあり'又何所成ともやとひ次だいゆく・bりに←つくわんめ第に行もあり'江戸六日切荷物壱貫 目二付六‑+..tひレ匁'二駄負壱貫目二付三匁五分'伊勢へ同八分tか、た・しふゆせつも,かうけセはり加賀へ同二匁'但冬ハ雪中ゆへ高下有'
尾張へならか,やJbしう壱匁五分'奈良へ五分'高野へ<分 '紀忍へ一
匁也(9)とある。また同書に
は第一図の魚荷持'飛脚の図が掲載されている。こ
の記述には魚荷拝は京都へ丹後'若狭'大坂から来るとあり'飛脚も京都からの
史料館研究紀要第二1号
吉辰板「諸国買物詞方乱」tの京都江戸大坂三所7覧'諸工商人所付の「う
ぅを荷ひきゃ‑柳ノばゝ㌍盟鏡やとあり'「ひ大坂之分」に ものであるから'京都の場合についての魚荷拝と飛脚と考えてよいだろう。
そこで再び京都の魚荷飛脚に戻ると'「難波鶴」「京羽二重」を参考にして編輯されたといわれる元禄五歳壬申三月(10)京之分」に
(飛脚宿)同
同
同
同同
同
同 京‑を荷謂?っつミや弥右街門
同所長兵衛
江戸はり久兵衛
ういや町書兵衛
ぴんご町清右衛門
ひらの町与兵衛
舟こし町長右衛門
として'賃銀は前記第7表と同様であるが'「右ハ上りだちん也、但し大鉢かくのごとLt極めたる直段なし'下
リハ直段やすし」とある。上り'下りで直段の異なる事と'金額は上り駄賃とした点は従来記るされていなかった事
であるが'これは突魚でな‑「難波雀」でも同様だったと考えたい.(ll)っぎに元禄七甲成年五月日序'「京独案内手引集」には
魚にぴきゃ‑開明fFJd札Q.hJLJ1.雪とあり「京雀跡追」と同様である。
(12)また元禄l〇年'難波の東乃軒不沈子序「日本国花万葉記」巻第一之上'山城の諸国飛脚宿に(大坂才)
国魚荷宿塩や五郎右衛門柳ノはゞ錦上
近江や与兵衛同下町伏見や三郎兵衛富小路輪薬し上(13)とあり'同巻六之二(摂州難波丸上巻)の大坂ふ諸国飛脚宿に
京魚荷宿咽詔や弥右街門同町芸術江戸掘久兵衛かいや町宝ハ衛備後町碧街門
舟越町長右衛門 平の町与兵衛
とあり'上り駄賃は第1表と同様である。これ迄みた地誌の内容は大略同じと考えてよかろう。(14)延享四丁卯孟春'志田誓助拭「誤難波九習」約四冊に(京)同魚荷飛脚八百や町llアリ
一とあり'同書の延事五年三月版'寛延改正版、宝暦改正版'宝暦九年版はこれと同様である。つぎに安永六年丁酉(15)初夏・陰山三郎兵衛序「㌍難莞綱目」第四冊に京負荷飛脚北勘四郎丁永共や清右衛門
と記るされ'同召天明版'革和元年版もこれと同じである。元禄期に比較すると数の弼少がめだっている。
二文学にみえる魚荷飛脚
魚荷飛脚について具体的な史料をまだみていないので'近世の文学作品に現らわれた魚荷飛脚についてみる。(16)まず貞事三丙寅歳林鐘中洗日'書林岡田三郎右衛門板「好色一代女」巻三に
京免荷飛脚について(藤村)
史料館研究紀要第1二号三1六
AtJやうかねかぷんしようなitしょうがりそのかはりあさゆうねんこうはJr・だう
京から'銀借りにつかはせし文章おかしや'銀八拾目にさしつまり内証借にして'其代には朝夕念ずる'弘法大し一)きくによらいすまあづけセくこひかはしゆ
師の御作の如来を済す迄預け置べLtうき世の恋はたがひ事さる女を久しくだました替りに'いやといはれぬ首びこうますせひL1のみかもふみとJけちん
尾になりて子を産うちの入日'是非に頼たてまつる平野屋伝左衛門様まいる'賀茂昆八兵衛より'此文の屈賃もんうモにI)とがさ此方にて十文魚荷に'相わたし申供との断はり喜
とある。これは料金払済の上での利用である。
つぎに実際に使用された例としては'慶長1三年生'元禄元年笈の河内国柏原村大文字屋七左衛門'後庄左衛門の
三田浄久は'干鰐'油粕等の肥料商で'粕原船に従事Lt荒蕪地の開拓にも従事した。また延宝七年には「河内鑑名
所記」を刊行している。彼は古川定尉(稲熊七右衛門)の前句附を後援したが'この両者の書状は天和'貞享年間の
ものが多‑三田家に残存しているといわれている。1二月二五日付t.771田浄久老宛、大坂住'古河定圃書状には'冒(17)頭に「魚荷便りこ令啓上候」とある。大坂と柏原間にも魚荷飛脚があった事が知られる。これが前記の大坂の魚荷飛
脚かは明らかでない。恐らく別個のものではあるまいか。(18)なお七月二三日付'定固公宛'柏原浄久書状には
一(前略)此度措書致'我等七月二日に持参申候'飛脚二遺し侯へ.ハ'ちん出申侯へ.ハ笑止に存'我等持参申侯(級
略)
1先日ハさいく状進じ侯へ共'此方ノ人に持七遣'銭′いらぬやうこ致申供
一此度ノ巻飛脚ちん'此方からやり可申侯間'早ゝ片時も‑急御持越待申供'方々の衆も今時分際二見たがり被
申政
とあり1飛脚賃が意識されていた事と'高値である事を示している。この飛脚も魚荷かは明らかでない。京魚荷と
はtはなれるが記るしておく。(19)再び文学作品に戻ると'元禄五申歳初春丁難波西鶴序「世間胸算用」巻三の四「神さへ御自適ひ」に'
しんだいまくらわすよきくらしの人さへかくあればまして身体かるき家‑はそろばん枕に寝た間ものびちゞみの大節季を忘るゝ事
もなぐ朗鋸の朗和を松が秋と鋸め日わまへの離鰯が見たかる京の朗に見せよL毎夜鮎荷にのはし郎V.#Lには"Ej鵬つも
も土くさいとて買ぬ所ぞかし。
とある?.これは魚荷が瀬戸内海から京都に毎夜鯛を運ぶ場合であるが'飛脚の業務にはふれていない.(20)また元禄一五年九月一五日序'夜食時分「好色敗毒散」巻之四'第二枚槍に'労咳養生のため京にのぼり'全快後
島原の揚足丸田新兵衛に遊び'今は大坂に帰り新町で女郎遊びを始めた主人公についてI)ヽろL‑iなよ竹の伏見より夜舟にて下りはすれど、都に残る心魂'たくはまたの病気もきのどくなり'何とぞこの事忘れ
\るやうにと方便のよね狂ひ,金吾の君に受領して・なるれば移る色なるや・「京の御状御返聖と,免荷がせが じゆりやう
めどもt.いかな′11'「丸太昆新兵街にすっとせい」とはかりなり
とあり'京から大坂に返事取の魚荷飛脚が使用され'女郎が恐らく歴々利用したのであろう。(21)かわす.Cだ・こうやくだいじんさらに享保三年正月二日序'一洞「寛潤大臣気質」二之巻の「金を吸出す膏薬大臣」に都の東辺より毎日膏薬を売
に廻る男がわかしうたのi)やうもちちんおろせふんある時若い衆に頼まれ'島原への状1通持て参りけるに'賃は卸の並として五分くれられたり'大阪より十里のう七にかご︻こ脱力︼くるふみせにお書きとよ所を魚荷寵とづかり釆さへ'文一ツを銭十文にさだめ置Lに'島原は近き里なるに是は好い串と思ひっぎて'そまちち・rtしのぶみやりくり)bJれより町中の忍び文を造繰して・其後は鋸耶が用ども閲
て
,と、大坂'京都間の免荷飛脚賃が宙状1通一〇文であり'都の内の女債の状賃と比較されている。
京魚荷飛脚について(藤村)三︼七
史料館研究紀要第一二号三一八(22)たがいのりあひぷねまた宝暦二王申初春序'南圭梅翁「世間母親客気」巻之五'第三「思ひ′1心は互に乗合船」に,しろはうほうかむりひとりう)bみに・&なかんぎぎけま
後の方に頬冠せし五十はかりの甥'我独の憂身と思ひしに'世には似たる事もあるもの哉'私は神崎近き食溝とぎいし,<t'いくいへくらたはL.ひやくせうふとこめいちいふ在所の老代々家蔵田畑多くL二十三人暮らせし百姓'不図大坂の米市にか1り'一年計りはして取りLが'i,ばたかぎいかねそんうづほどふまわじA<J)ラ男へは下る売れは上る'田畑書入れて銀としハ損を埋めんとする程不廻り'家も売り娘も二人女郎に出し、文共と・Eit'ぴ.Cかざとしかんがしんしようぎさいこ‑AtIんわんはうねんの銀でか1つて見Lに'今年は唐黍の板が北へさしたれは'風年と考へ身上限り買ひし所に'西国近年の豊年に̲士てさかなかちにやとだちん寸こてt.はた′1と下りを受けt.水も飲まれぬ身の果∵京へ魚の徒足荷に傭はれ'すう′1言ふての駄賃暮らし'故Jkpや・r・ちかめんば‑かはむなみだかくものがた
郷へは近けれども'面目なくて顔けならずと'涙を隠す物語り'∫
とある。大坂近郊の村方地主が米相場で財産を失ない離村して日雇に転落Lt京魚荷になった物語である。実は奈ヽいひ良の母親が子供に聞かせるために'伏見の辻立の駕の者に金一匁を遣わして、出入の者の指図により同船させての「言ふくむかしがた
含めし昔語り」であるが'魚荷持の社会階層を示しているが1これも飛脚の業務にはふれていな小.(2)うをにぎなさけになおひこ・ちさて明和二年正月刊'二世八文字良日英「禁短気三編」巻之五'第四「魚荷も義と情を荷ふ老心」にはtなしのAtlて,へんしやくLJくなんむめながかくれたるよりあらはれたるは梨木町辺に'借宅して身の難をのがれんとする梅永大蔵'大坂にて出入のさかなさかひこいちほんた‑つうろにしぎさかなじや・nようL,つ
や堺の小市といふものをかたらひ'本宅よりの通路小市は錦のたなへ肴になひこむつゐでに'状を取つぎ用を達しやうへんし1{ものいまふねしけるが大蔵方より大坂妾のもとへ返書をうけとり'つれ立し者共とほお‑れしまゝ今いせ船にのりはずさじとばみちいそあさやまへんおにと'鳥羽道へ急ぐ所に秋山の辺にて'文蔵殿tJ八郎左衛門'戸大夫に行あひ'外は見しらぬ共心の鬼にて戸大夫しんつねに見られまじと'道をかけぬるよりかへってふ審たち'まてと声をかけられ常にとなりと身が方へ心やす‑'さに一︼んかなをいるゝ其方が身共を見ていやがる心ねtがてんがゆかずと二言ともなく三人かゝり打たをし'‑はいちうにんぎんしゆせADしや,I)を見れば大蔵かへな忍山とありて'手跡も人だのみなれは証拠にならぬ共文ていまがふ所なく'なにとやらん取
Atlんじつせうpきた心もとなきゆへ近日鎌倉へ立のくべLとの義'あて名おかる殿とは妾の名なれは、(後略)
とある。.大坂から京に魚荷があり'書状を取扱い'返事も支っている。魚荷が集団で行動している事がわか
る。.
三丹後国田辺の京通ひ‑結びにかえて‑
.、以上大坂から京に上る京魚荷飛脚についてみてきた。いずれも断片的な史料である。前記の通り「人倫訓蒙図免」
には魚荷拝は丹後'若狭にもあると記るされている。丹後の場合について'瀬戸美秋「コ見通ひ﹄について‑田辺津(24)陸運史の1駒‑」により考えたい.
瀬戸氏によると'弘化四年'丹後国田辺(舞鶴)藩の触苔には京通ひの起源について「前々より仲買より出焼魚符
号持通い侯もの共'京通ひ日雇と相立釆侯」とあり'魚荷拝が通日屈を営んだ事を記るしている。
通ひ日雇について延享二年一一月に藩の定書が作成され'同年に京通ひの日僻拝の者は日仰頭久右衛門支配に属
し'京都止宿は丹後屋五兵衛と指定された。日僻頭の口銭は'田辺から京都迄の御用荷物'その他の諸荷物'町方登
せ荷物についてtZ時廻御飛脚1人tjI二日着御飛脚1人(但六貫匁)'臼御供附入質匁1人t的御荷物10質匁1人
は'1人前10文宛で'上貫目の場合は前記の割合による。固駄継7枚につき三〇文t的日雇賃を取り持出した魚荷
物t.その他の荷物は1荷につき10文'肘自身運搬の魚荷及びその他の荷物は1荷につき五文の口銭である.これに
は「京通ひ賃持不仕者'自身之商物持登供類'魚荷之外口銭取不申供」と但宙がある。
つぎに近在に日僻を出す場合には'若狭国小浜が七文'丹後国宮津が五文'丹波国梅柏が三文'地廻が三文の口銭
である。
京魚荷飛脚について(藤村)
第2回 田辺松葉星関係図
史料館研究紀要I・第二1号
三二〇この京通ひは飛脚昆'通日雇'魚荷飛脚を兼ねた経営と考えられる。京都から田辺に下
る荷物口銭は前記丹後星五兵衛が取扱い、前述の
; 〜
榊は1人前八女宛で但書は変らない。そして川
諸方から集めた荷物の口鼠は五貫匁迄は五銭宛'それ以上は八銭宛'似全べて軽目の物と魚物頬は賃銀に応じ上
記の割合の口銭である。㈲田辺か
らの注文で京調達の荷物'自分の京での買物の荷物は'再後屋宅に入れるから庭銭を
壱荷につき四文宛'但し荷物の軽重により'金額を見計らう事にしている。このような口銭の規定は丹後良も日傭頭'
人宿的な性格であった事を推測させる。(25)っぎに田辺滞京郡奉行下役秋田宇右街門道典「旧薄牧野家郡役所年中行
りで二別者は伏見の項の次忙左記の但書がある畑
京都迄御用井御家中魚荷物壱貫匁二付壱匁三分五厘'壱荷物拾貫匁迄'御供二面六貫匁持
これは魚拝が田辺から京都に動いている事実を不しているQjつ官に第三表は田辺周辺での日用賃を示している。京
都かtft田辺への下竹荷物の賃銀は第四表の通りで為る。そし了」の金額を認可の上は、町を共犯相対で貸銀を決定し
ない事を定めている?僻に第四表の場合'その内容かもみてこの松薬屋はt.参勤交代の通日屈請負の可能性が考えら
れるq
‑謹たこの外に凄状を周辺かち京都御屋敷へ持参の場合には'・御用'御家中共に貸銀は受取ちず'京都か屯田辺へ7?
第2表 延事 2年丹後国田辺b御定 日雇賃表
窺髄 2人 荷拝 眉 上下‑2人
迄 匁 匁
丹波 国山家 6.45 3.00 須知 13.50 '園部 15.45
、亀 山 19.90 山城 国京 都 27.00 淀 27.00 伏 見 27.00【
摂沖 国大坂 40.05
5500417158021123
丹波 国政部 6.45 3.00 丹後 国伊佐村 9.00 若狭 国高浜 7.80 小浜 ‑15.45
第3衷 延事 2年田辺周辺賃叙衣
1人 ‑付 上下 、 御乗物 地 日用 1.65匁
地姻 り 1.65
同天台寺 XJ.:1 2人1.80匁 3人2.7
0匁
同見樹 寺 約 1.20 . I
.80
丹故国 鹿 原 2.10 1人
3.55
・松 尾 2.5
5 3.75
一 .由 良 2
.703.15京魚荷飛脚
第4表 延享2年京都 3田辺宛 賃鋲表
史料館研究紀要第一二号
・賃銀
下 り窺 1人 10.50匁
時廻 し御飛 脚1人 10.50 御供 日用6貫 10.50 2日着御飛脚荷物6貫 6.75
下 り荷物1貫 目 0.90
空乗物1挺 (3‑ 4貫 目荷物入2人) 14.55 同上小均質 (荷物多入) 2.25 差合物2人 (15‑ 6貫 目) 14.70 同上 (18‑20) 19.95 同上 (25‑30) 29.25 器物諸事軽目1荷持 7.20 軽 日差合物2人 14.70 長持犀風箱2人 (15‑ 6貫 目) 14.70 同上 (〜20) . 19.55
空長持2人 9.90
笥笥頬 1人持 9.15
衣桁1貫匁 ー0.90
環 2枚持2人 14.70
錯長 1丈 1.05
同上長2問 1.50
弓1挺 0.67
第5表 延享2年 田辺 3京都御屋敷迄賃銀表 賃銀 刀1腰箱入紙包共 (御屋敷迄) 1.50匁 同上 (竹屋利兵 衛,
50505760)05291013201
柳屋 久右 街門方迄) 脇差1腰 ('liF屋 敷迄) 同上 (竹屋,柳屋方迄 ) 御荷物10貫 呂持1人 九尺鑓1筋
弓1張
同様としているのは'日傭頭の一種の冥加であろう。ただ京都での届ける道法が遠い場合には賃銀を求めている。な
お京都へ二日着御定がtJ111日着などの際には増分を要求しない。近国からの戻り荷物は京都からの戻り賃銀の割合で
金額を定める事にしている。
最後に田辺から京都御昆敷迄の賃銀は簡五表の通りであり'内容は一般の武家荷物である。御荷物が多い場合には
一〇貫目の賃銀の割合で勘案する。.蓑以外に指合御荷物貫匁ハ貫目迄は日用二人としている。(26)これらの点から松葉邑久右衝門の日傭頭は'福岡日雇支配と頬似したものと考えられる。
再び瀬戸氏によると'弘化四年の触書には
近頃は登り之魚荷仲買共へ申談買講'自分之荷物二致持登り迎'印札上ケ切供者追々二相増'此節二両者不残右
様二致成し'京通ひ日雇壱人も無之由二而御用筋井諸向差支族
とある由で'これは魚荷持が口銭陰れをしている事実を示し'同年の日傭人足一五〇人の内で在が二一〇人'町が
三〇人であり'八割は虫村にいる事がわかる.
さて以上の事からすれば、大坂からの京魚荷飛脚も矢張り免荷持として日雇の性格を持QJ人宿的な統制があった
と考えるべきであろう。こしれが田辺のようにならなかったのは'京'大坂の大都市には飛脚問屋'人宿が別個に存在
し'その余地がなかったからであろう。そして全国各地の魚荷拝の場合にも'これが飛脚を兼ねる可能性はあったと(27)考えたい。
註Wl刑(2)
(3)(4) 「大阪市史」第一三九五頁
井原西鶴作「好色1代女」(岩波文雄)二三
〇
五、補注二一野間光辰編「新修京都殺喜」1巻二九
〇
天国立国全図喜館蔵'延宝六年刊「三部雀
」(三冊本)上による。同番の原題茶は失なわれ'現在のものは後輩であ
る。原表紙の上に回漕館で付した表紙があり'その裏にペソ書で「懐中京江戸大坂町名所町案内原題茶天理本[1アリ」とある。「大東急記念文庫畜日」三二7真に「京
許名所町秦内訂宝六刊l(屈豊庄兵衛)1ffとあJCJ・この」冊本には矢張り原題茶はなく、「都名所独案内記」と
後輩され.て小る。内容は前記三部雀と同Tでぁるので'表
京免荷飛脚について(藤村) 記の吉名で記るした。な空二部雀については'和田万書著'朝倉治彦増補「新訂増補舌版地誌解題」ハー七PI(参照。「京雀跡追」と同様のものとしては'この
他
に延宝七己未年孟春初吉辰'伊丹良書右衛門板r都ひとり案内」巻1(横山盃監修「近世文学幣料類従台板地誌嗣4京雀」三五七頁)に魚にひきやく初のはゝにしき上ル町同下町しほや土石とある。(T?)昭和El四年、前田勝雄発行、投刻版「懐中難波すゝめ」(6)慶応義塾図番館戒(7)大東急記念文店放'なお慶応誠塾大学国文学研究会規「国文学論泣筋1輯西鶴研究と資料」1三1貢所収の・姶谷昭彦、伊藤哲夫、福島行1「資料翻刻難波杓」参侭
三二三
史倒儲研究凝層第二二号
(8)大正九年一q月!仙胡屈Pr禰杏層製填薫心髄悪儀漢
濁釘「洞本省壌全集」*1!廟七萄1.二三項摩周
(9)F洞本台演壇集」*1二期七億1二八涙
(
1
0)花咲高層「儲屑屑物周溝記欝弘黒鯛頂」八二!九九耳(ll).I「潮肇兄邦題澄三選二七長(誓朝食瀧濠贋慣「郁屑花方蔑空(活版他薦儀容二億七五京
.( 7ヽ( ( ・( ,γヽ′'ヽ′(
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「洞右」二億1七八長
多層比郁夫、日野龍夫尉輯「校本難波丸鋼目しT七八貢「同右」雪一五貢
揮唆康隆腰釘「億木屑腐全魔」二巻二九三貢
平林治徳締著「三田浄久」四六、1四五‑七京「同右」二七京
曙唆康隆校訂「定本西鶴全集」七巻二四七京
長谷州儲瀧唖「仮塙等予選博せ草子巻(日本着典文学全集37)四二〇京(21)博文館編斡局
校
訂「校訂統気質全集」(帝国文庫四拾点)1<七月
(q)博文僧儲輯鳳訂「校訂名憲二屑潤各三拾篇)七四1五貢
(
23 )
博文
館編輯局校訂「校訂珍本全集下」・(帝国文庫111拾参儲)八九七貰㌧ 三二周(a)腐儲地方渡瀬究1ie.二1
0
合潮望肩叫
七項:凍瀧選下乗徴「潤遡層の﹃京通いヒ
屑
塀地訪選一四
号は大略国内▼′J‑I‑‑,Ill,1容で洩るe(班)瀬戸美秋氏から"fiJIを恵与された。記して感謝したい■ノト‑iI(讐胡嘱F層潤.ZE屈ま現川淡償儲旧慣方点者乎概況っ小三
思料潜研究紀要八号参照(2)阿溺謹池「中世せ瀧す格人∬皇1望竃には!QfJ.ヨ1㌃。(.f・世には肉卦は定期的に近隣の農村を馬で廻り・家畜の頂竹を行聴うので、都市間の郵便物の配適をT・)は七I
は委託濡れ'事実上なかで,i,公的な郵便儲廟を層負ってさえ
い七蓬石う。現滋のドイツ遜邦郵便のマーク止洩っている
刑久は、は+}油滴屈46割層は出瀧の合図屯鳴梅山七の混ち
p吾妻小rg.嘉鴇満潮価・偲食喝の運乱せ過信業務が1.1ノ′結びついた例だろう。
付記本稿の作成について、国立史料館、国文学研究資料館'
国立国会図各館'慶応義塾図書館、大東急記念文庫は所蔵史
料'図書の利用を許可された川.瀬戸芙秋氏には史料コeiJIを
・恵与され雪せた小野尚志、永田治樹.'歌野博'中村K.,÷丁の諸氏のお世話になった。記して感謝したい。