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京魚荷飛脚について

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京魚荷飛脚について

(1)京魚荷飛脚については、大正二年刊「大阪市史」第一に「京大阪通路魚荷飛脚七名あり。魚荷飛脚屋は魚荷以外の

運搬をも掌り'賃銀は1定せずと錐も'大略書状1通につき片便十文'返事取十五文'状箱は大小に応じ荷物は重畳

百日より三百日迄銀二分五厘乃至三分'三百日より五百日迄四分五厘許'五百日より八百日迄六分乃至七分'八百日(2)より宅貫目迄八九分乃至壱匁なりし」とあり'また昭和三五年刊'横山誼校訂「好色1代女」に詳細な免荷飛脚につ

いての補注がある。本稿はこれらの先学の某紙に基き京魚荷飛脚についてみるものである。

1(3)まず京都では延宝六年午霜月書日刊「京雀跡追」天に

魚にびきゃ‑糊慧F,5粘(4)とあり'延宝六年戊午八月膏祥日刊「懐中京江戸大坂名所町の京諮商人所付には前記「京雀跡追」と同Tの(5)記部がみられる。つぎに大坂では延宝七己未沿月下旬'水雲子序「難披雀」には

京魚荷飛脚について(藤村)

(3)

1表 延宝7年京大坂通路魚荷飛脚賃銀定表

1号

京大坂通路魚荷飛脚宿

江戸堀竹や丁

権五郎尉前

高琵橋四間町

書 状 通 便10文 返事攻15

35700001〜〜〜524680000

大小見合

荷物重日 100‑300

300〜500 500.〉800 800‑1000

久兵衛

長兵傭

九郎兵衛

とみえ'その賃銀は第1表の通りであり'書状は片便と返事取'他に状箱と荷物を取

扱い'後者は重畳により賃銀が定められている。そして「右賃銀極りなし大鉢ハ如斯也」

と説明が付いている。(6)なお延宝七歴五月序'難波隠士「難波雀跡追」には前記の京大坂通路魚荷飛脚宿の人

名に「権五郎殿前・弥右街門'備後町一丁日活右衛門」の両人が増加している。⁚・さらにこの「難波雀」を訂正増補した同質の書である延宝七己未林鐘中旬'.難波隠士(7)友月翁序「難波罷」kは

京大坂通路魚荷飛脚宿

江戸堀竹や丁

権五郎殿前

備後町一丁

か㌢らい橋間町

平ノ稽古西へ1丁半入南かわ 久兵衛

長兵衛∵

弥右衛門

清右衛門

九郎兵衛

河内や与兵衛

(4)

1 魚荷持 ・飛脚(「人倫訓蒙国」所収)

(藤)内かち町浜

JQ

半丁東南かわ万や長右衝門'

1(8)

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S jb.#L.る,

にし,wなaAのほ西'かごとtLはしりJbrや▲.んせこと'

かごい‑かごになJ..

国 軍 宗 を

'かよつくな]>'ゆく・bりくわんめ'荷物 ‑+..t''伊t・しふゆつも,かうはり''

か,Jbし''< '

匁也(9)

'

'''

(5)

1号

吉辰板「諸国買物詞方t京都江戸大坂三所7覧'諸工商人所付の「う

ぅを荷ひきゃ‑ばゝ㌍盟鏡やとあり'「ひ大坂之分」に ものであるから'京都の場合についての魚荷拝と飛脚と考えてよいだろう。

そこで再び京都の魚荷飛脚に戻ると'「難波鶴」「京羽二重」を参考にして編輯されたといわれる元禄五歳壬申三月(10)京之分」に

(飛脚宿)

同同

同 京‑を荷?街門

長兵衛

江戸はり久兵衛

ういや町書兵衛

ぴんご町清右衛門

ひらの町与兵衛

舟こし町長右衛門

として'賃銀は前記第7表と同様であるが'「右ハ上りだちん也、但し大鉢かくのごとLt極めたる直段なし'下

リハ直段やすし」とある。上り'下りで直段の異なる事と'金額は上り駄賃とした点は従来記るされていなかった事

であるが'これは突魚でな‑「難波雀」でも同様だったと考えたい.(ll)っぎに元禄七甲成年五月日序'「京独案内手引には

魚にぴきゃ‑開明fFJd札Q.hJLJ1.雪とあり「京雀跡追」と同様である。

(6)

(12)また元禄l年'難波の東乃軒不沈子序「日本国花万葉記」巻第一之上'山城の諸国飛脚宿に(大坂才)

宿塩や五郎右衛門柳ノはゞ錦上

近江や与兵衛同下町伏見や三郎兵衛富小路輪薬し上(13)とあり'同巻六之二(摂州難波丸上巻)の大坂ふ諸国飛脚宿に

京魚荷宿咽詔や弥右街門同町芸術江戸掘久兵衛かいや町宝ハ衛備後町碧街門

舟越町長右衛門 平の町与兵衛

とあり'上り駄賃は第1表と同様である。これ迄みた地誌の内容は大略同じと考えてよかろう(14)延享四丁卯孟春'志田誓助拭「誤難波九習」約四冊に(京)同魚荷飛脚八百や町llアリ

一とあり'同書の延事五年三月版'寛延改正版、宝暦改正版'宝暦九年版はこれと同様である。つぎに安永六年丁酉(15)初夏・陰山三郎兵衛序「㌍難莞綱目」第四冊に京負荷飛脚北勘四郎丁永共や清右衛門

と記るされ'同召天明版'革和元年版もこれと同じである。元禄期に比較すると数の弼少がめだっている。

魚荷飛脚について具体的な史料をまだみていないので'近世の文学作品に現らわれた魚荷飛脚についてみる。(16)まず貞事三丙寅歳林鐘中洗日'書林岡田三郎右衛門板「好色一代女」巻三に

京免荷飛脚について(藤村)

(7)

史料館研究紀要第1二号三1六

AtJかねかitりあさゆJr・だ

ら'りにつかはせかしや'銀八拾目にさしつまして'る'し一)きくによらいすまあづけセくこひかはしゆ

Ltうき世たがひ事さる女を久しくだましに'いやといはれびこうますせひL1のみかもふみとJけちん

になりちの入日'てまつる平野屋伝左衛門様まいる'昆八兵衛より'もんうモにI)とがさ此方にてに'わたし申供と

とある。これは料金払済の上での利用である。

つぎに実際に使用された例としては'慶長1三年生'元禄元年笈の河内国柏原村大文字屋七左衛門'後庄左衛門の

三田浄久は'干鰐'油粕等の肥料商で'粕原船に従事Lt荒蕪地の開拓にも従事した。また延宝七年には「河内鑑名

所記」を刊行している。彼は古川定尉(稲熊七右衛門)の前句附を後援したが'この両者の書状は天和'貞享年間の

ものが多‑三田家に残存しているといわれている。1二月二五日付t.771田浄久老宛、大坂住'古河定圃書状には'冒(17)頭に「魚荷便りこ令啓候」とある。大坂と柏原間にも魚荷飛脚があった事が知られる。これが前記の大坂の魚荷飛

脚かは明らかでない。恐らく別個のものではあるまいか。(18)なお七月二三日付'定固公宛'柏原浄久書状には

一(前略)此度措書致'我等七月二日に持参申候'飛脚二遺し侯へ.ハ'ちん出申侯へ.ハ笑止に存'我等持参申侯(級

)

1日ハさいく状進じ侯へ共'此方ノ人に持七遣'銭′いらぬやうこ致申供

一此度ノ巻飛脚ちん'此方からやり可申侯間'早片時も急御持越待申供'方々の衆も今時分際二見たがり被

申政

とあり1飛脚賃が意識されていた事と'高値である事を示している。この飛脚も魚荷かは明らかでない。京魚荷と

(8)

はtはなれるが記るしておく。(19)再び文学作品に戻ると'元禄五申歳初春難波西鶴序「世間胸算用」巻三の四「神さへ御自適ひ」に'

だいまくらよきくらしの人さへかくあればましるき家‑はそろば寝た間ものびちみの大節季

もな日わまへ見たかる京見せLにのはV.#Lに"Ejつも

さいとて買ぬ所ぞかし。

とある?.これは魚荷が瀬戸内海から京都に毎夜鯛を運ぶ場合であるが'飛脚の業務にはふれていない.(20)また元禄一五年九月一五日序'夜食時分「好色敗毒散」巻之四'第二枚槍に'労咳養生のため京にのぼり'全快後

島原の揚足丸田新兵衛に遊び'今は大坂に帰り新町で女郎遊びを始めた主人公についてI)ヽろL‑iなよ竹の伏見より夜舟にて下りはすれど、都に残'たくはまたの病気もきのどくなり'何とぞこの事忘れ

\るやうにと方便のよね狂ひ,金吾の君て・なるれば移る色なるや・「京の御状御返聖と,免荷がせが じゆりやう

めどもt.いかな′11'「丸太昆新兵街にすっとせい」とはかりなり

とあり'京から大坂に返事取の魚荷飛脚が使用され'女郎が恐らく歴々利用したのであろう。(21)かわす.Cだ・こうやくだいじんさらに享保三年正月二日序'一洞「寛潤大臣二之巻のす膏に都の東辺より毎日膏薬を売

に廻る男がわi)やあるれ'島原へ1参りけるに'並としてれられたり'大阪より十里のう七にかご︻こ脱力︼くるふみせにお書きとよ所へ'文にさだLに'島原は近るに是い串と思ひっぎて'そまちち・rtしのぶみやりくり)bJれよて・其後用ど

,

と、大坂'京都間の免荷飛脚賃が宙状1通一文であり'都の内の女債の状賃と比較されている。

京魚荷飛脚について(藤村)

(9)

(22)また宝暦二王申初春序'南圭梅翁「世間母親客気」巻之五'第三「思ひ′1心に,しろはうほうかむりひとりう)bみに・&な

し五十はかりの甥'と思ひしに'世にたる事もあるも'とぎいし,<t'いくいへくらたはL.ひやくせうふとこめいちいくL二十三らせ'大坂1り'一年計りはして取りLが'i,ばたかぎいかねそんうづほどふまわじA<J)ラ男へは下る売れは上る'しハんとす'家も売り娘も二出し、文共と・Eit'ぴ.Cかざとしかんがしんしようぎさいこ‑AtIんわんはうねんの銀でか1つて見Lに'今年が北へさしたれは'買ひし所に'西̲士てさかなかちにやとだちん寸こてt.はた1と下りを受けt.水も飲まれぬ身∵京れ'すう′1ふてらし'故Jkpや・r・ちかめんば‑かはむなみだかくものがた

れども'ならずと''∫

とある。大坂近郊の村方地主が米相場で財産を失ない離村して日に転落Lt京魚荷になった物語である。実は奈ヽひ良の母親が子供に聞かせるために'伏見の辻立の駕の者に金一匁を遣わして、出入の者の指図により同船させてのふくむかしがた

」であるが'魚荷持の社会階層を示しているが1これも飛脚の業務にはふれていな小.(2)うをにぎなさけになおひこ・ちさて明和二年正月刊'二世八文字良日英「禁短気巻之五'第四にはtなしのAtlて,へんしやくLJくなんむめながかくれたるよりあらはれたるは'て身のがれんとす蔵'大坂にて出入のさかなさかひこいちほんた‑つうろにしぎさかなじや・nようL,つ

いふものをかたらひ'小市たななひこむつゐでに'取つしやうへんし1{ものいまふねしけるが大蔵方より大もとうけとり'つれ立とほお‑れしまのりはずさじとばみちいそあさやまへんおにと'て'文蔵殿tJ八郎左衛門'戸大夫に行あひ'外は見しらぬ共心て戸大夫しんつねに見られまじと'道をかけぬるよりかへってち'まてと声をかけらにとなりと身が方へ心やす‑'さに一︼んかなをいる其方が身共を見ていやがる心ねtがてんがゆかずもなく三人かり打たをし'‑はいちうにんぎんしゆせADしや,I)を見れば大蔵かへありて'人だのみなれならぬ共文ていまがふ所なく'なにとやらん取

(10)

Atlpきた心もとなきゆ鎌倉へ立のくべLとの義'あて名おかる殿との名なれは、(後略)

とある。.大坂から京に魚荷があり'書状を取扱い'返事も支っている。魚荷が集団で行動している事がわか

.

三丹後国田辺の京通ひ‑結びにかえて‑

.、以上大坂から京に上る京魚荷飛脚についてみてきた。いずれも断片的な史料である。前記の通り「人倫訓蒙図免」

は魚荷拝は丹後'若狭にもあると記るされている。丹後の場合について'瀬戸美秋「コ見通ひ﹄について‑田辺津(24)陸運史の1駒‑」により考えたい.

瀬戸氏によると'弘化四年'丹後国田辺(舞鶴)藩の触苔には京通ひの起源について「前々より仲買より出焼魚符

号持通い侯もの共'京通ひ日雇と相立釆侯」とあり'魚荷拝が通日屈を営んだ事を記るしている。

通ひ日雇について延享二年一一月に藩の定書が作成され'同年に京通ひの日僻拝の者は日仰頭久右衛門支配に属

し'京都止宿は丹後屋五兵衛と指定された。日僻頭の口銭は'田辺から京都迄の御用荷物'その他の諸荷物'町方登

せ荷物についてtZ時廻御飛脚1人tjI二日着御飛脚1人(但六貫匁)'臼御供附入質匁1人t的御荷物10質匁1人

は'1人前10文宛で'上貫目の場合は前記の割合による。固駄継7枚につき三文t的日雇賃を取り持出した魚荷

物t.その他の荷物は1荷につき10文'肘自身運搬の魚荷及びその他の荷物は1荷につき五文の口銭である.これに

は「京通ひ賃持不仕者'自身之商物持登供類'魚荷之外口銭取不申供」と但宙がある。

つぎに近在に日僻を出す場合には'若狭国小浜が七文'丹後国宮津が五文'丹波国梅柏が三文'地廻が三文の口銭

である。

京魚荷飛脚について(藤村)

(11)

2 田辺松葉星関係図

I・1号

この京通は飛脚昆'通日雇'魚荷飛脚をねた経営と考えられる。京都から田辺に下

る荷物口銭は前記丹後星五兵衛が取扱い、前述の

; 〜

榊は1人前八女宛で但書は変らない。そして

諸方から集

めた荷物の口鼠は五貫匁迄は五銭宛'それ以上は八銭宛'似全べて軽目の物と魚物頬は賃銀に応じ上

記の割合の口銭である。㈲田辺か

らの注文で京調達の荷物'自分の京での買物の荷物は'再後屋宅に入れるから庭銭を

壱荷につき四文宛'但し荷物の軽重により'金額を見計らう事にしている。このような口銭の規定は丹後良も日傭頭'

人宿的な性格であった事を推測させる。(25)っぎに田辺滞京郡奉行下役秋田宇右街門道典「旧薄牧野家郡役所年中行

(12)

りで別者は伏見の項の次忙左記の但書がある畑

京都迄御用井御家中魚荷物壱貫匁二付壱匁三分五厘'壱荷物拾貫匁迄'御供二面六貫匁持

これは魚拝が田辺から京都に動いている事実を不しているQjつ官に第三表は田辺周辺での日用賃を示している。京

都かtft田辺への下竹荷物の賃銀は第四表の通りで為る。そし了」の金額を認可の上は、町を共犯相対で貸銀を決定し

ない事を定めている?僻に第四表の場合'その内容かもみてこの松薬屋はt.参勤交代の通日屈請負の可能性が考えら

れるq

‑謹たこの外に凄状を周辺かち京都御屋敷へ持参の場合には'・御用'御家中共に貸銀は受取ちず'京都か屯田辺へ7?

2 延事 2年丹後国田辺b御定 日雇賃表

髄 2 眉 上下‑2人

丹波 国山家 6.45 3.00 須知 13.50 '園部 15.45

、亀 山 19.90 山城 国京 都 27.00 27.00 伏 見 27.00【

摂沖 国大坂 40.05

5500417158021123

丹波 国政部 6.45 3.00 丹後 国伊佐村 9.00 若狭 国高浜 7.80 小浜 ‑15.45

3 事 2年田辺周辺賃叙衣

1人 ‑付 上下 、 御乗物 地 日用 1.65匁

地姻 り 1.65

同天 XJ.:1 21.80匁 32.7

0匁

1.20 . I

.80

鹿 原 2.10 1

3.55

尾 2.5

5 3.75

一 . 良 2

.703.15京魚荷飛脚

(13)

4 延享2年京都 3田辺宛 賃鋲表

・賃銀

下 り窺 1 10.50

時廻 し御飛 脚1 10.50 御供 日用6 10.50 2日着御飛脚荷物6 6.75

下 り荷物1貫 目 0.90

空乗物1 (3‑ 4貫 目荷物入2人) 14.55 同上小均質 (荷物多入) 2.25 差合物2 (15‑ 6貫 目) 14.70 同上 (18‑20) 19.95 同上 (25‑30) 29.25 器物諸事軽目1荷持 7.20 軽 日差合物2 14.70 長持犀風箱2 (15‑ 6貫 目) 14.70 同上 (〜20) . 19.55

空長持2 9.90

笥笥頬 1人持 9.15

衣桁1貫匁 ー0.90

環 2枚持2 14.70

錯長 1丈 1.05

同上長2 1.50

弓1 0.67

5表 延享2年 田辺 3京都御屋敷迄賃銀表 賃銀 1腰箱入紙包共 (御屋敷迄) 1.50 同上 (竹屋利兵 衛,

50505760)05291013201

柳屋 久右 街門方迄) 脇差1腰 ('liF屋 敷迄) 同上 (竹屋,柳屋方迄 ) 御荷物10貫 呂持1 九尺鑓1

1

同様としているのは'日傭頭の一種の冥加であろう。ただ京都での届ける道法が遠い場合には賃銀を求めている。な

お京都へ二日着御定がtJ111日着などの際には増分を要求しない。近国からの戻り荷物は京都からの戻り賃銀の割合で

金額を定める事にしている。

最後に田辺から京都御昆敷迄の賃銀は簡五表の通りであり'内容は一般の武家荷物である。御荷物が多い場合には

貫目の賃銀の割合で勘案する。.蓑以外に指合御荷物貫匁ハ貫目迄は日用二人としている。(26)これらの点から松葉邑久右衝門の日傭頭は'福岡日雇支配と頬似したものと考えられる。

再び瀬戸氏によると'弘化四年の触書には

近頃は登り之魚荷仲買共へ申談買講'自分之荷物二致持登り迎'印札上ケ切供者追々二相増'此節二両者不残右

(14)

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(16)

参照

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