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固有名と自己 : 1~2歳児と保育者の関わりの観察から

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Academic year: 2021

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(1)兵庫教育大学研究紀要第23巻2003年3月pp.59-67. 固有名と自己 -1-2歳児と保育者の関わりの観察からName and Self. -Based on Perticipant Obsevation of 1- and 2-year-olds at Nursery Schoo卜 石野秀明* Hideaki ISHINO 固有名は「ことば」と「自己」との交叉点に生じる現象である。従来の研究では,子どもが「名前」という<意味する もの>と「自己像/他者像」という<意味されるもの>との結合を理解したことを示すものとして捉えられてきた。しか し,こうした枠組みでは, 1歳児の固有名の使用と自己のありようを十分に掬い取ることはできない。そこで,本論 では,自他の差異という新たな観点から, 「発達の中のことば」として固有名の意味を探り当てることを目的とした。結 果は,以下の通りである。 ①1-2歳時,固有名がそれとして機能する以前,保育者は,自らの呼びかけに対する正誤に 関わりなく,子どもが近事をするという事実を賞賛する。この一連の過程で共有される「歓び」が,子どもの「自己」を 充実させ,ことばを息づかせる。 ②自分の名前を理解している子どもでも,保育者の名前を正確に使用することは難しい。 これは, 1-2歳児にとって, 「自己」以上に「親しき他者」としての保育者が差異化Lがたい存在であることを示して いる。 ③保育者からの名前の呼びかけに対して,子どもが頑に返事をしないことがある。これは, 1-2歳児が,自他の 差異を尭く意識し, 「他者」とは際立つかたちで「自己」を立ち上げようとしていることを示唆している。ただし同時に, この時期の子どもは,保育者を初めとする「親しき他者」に強く依存している。以上の知見を踏まえ, 「ことば」と「自 己」との関係について,発達論的な観点を三点挙げ考察を展開した。 キーワード:固有名、自己、 1-2歳児、保育者、ことば Key words : name, self, 1- and 2-year-olds, caregivers, language. 間魔 "固有名は,実際にはそれなしにありえないにもかか わらず,哲学においてもっとも軽視され周縁に追いやら れてきた問題なのである" (柄谷,1994),ここでの「哲 学」を「心理学」に置き換えても,ほとんど,差し支え ないように思われる。今や,子どもの固有名の使用は, 1-2歳児の発達指標として取り上げられることはあっ ても, "発達の中のことぼっ岡本,1982)として,その 意味が改めて問い直されることはまずない。. 前を使うようになる以前に,周囲にいる他者の名前を使 用することを報告している。また百合本(1981)は,鏡 を用いた実験でこれを実証している。それによれば, 1 歳半の子どもでも,自分の名前を呼ばれて,自分や自分 の鏡像を指すことが難しかったという。こうした現象は, 何を意味するのであろうか。岡本(1982)は,以下のよ うに説明している。 "自分のよく知る他人(友だちや保 母)の場合,その名によって示される対象は,一個の実 体として,つねにその顔を見,その声を聞き知っている 外的実在である。これに対して,自分の名によって指し 示されている自己というのは, -・そのときそのときの 自分が内に体験している・-・漠然とした一体感でしかあ りえないであろう。そうした表示対象としての実体性の 希薄さが,もっとも頻繁に聞いているはずの自己の名が 表示している対象の認知を困難にしている大きな原因で あると思う"0 こうした説明の背景には,ことばの発達についての理 論があるOたとえば,浜田(1988)は.それを"二つの 三項関係"として明確に概念化している。 ことばは,その完成相では, <意味するもの>とく意. ここで,注意を促しておきたいのは.冒頭で掲げた 「固有名という問題性」は,広範な射程を有しているこ とである。恐らく.差異に満ちた現実-子どもは「一 人ひとり」異なる存在である,顔も適えば,生きている 世界も時間も異なる。加えて「一人ひとり」異なる大人 は,各々の子どもと共に生きてゆく-から,いかにし て,いかなる「知」を構成してゆくのか,という発達心 理学の今日的課題(e.g.石野,2001b;宮崎,1998)にも直結 することだろう。 問題性の彼岸を見つめつつ,本研究では,さしあたり, 固有名という現象が立ち上がる地点を丁寧に描き出して ゆきたいoまず,従来の知見を確認してゆこうG Guillaume (1943)は, 1-2歳児が,自分自身の名. 味されるもの>とが結合したものとして,通常理解され る。しかし,その結合が生成するためには, <話し手-. *兵庫教育大学第1部(幼年教育講座). 平成14年10月21日受理. 59.

(2) 石野秀明. この点については浜田も自覚しており, <意味するも. 聞き手>の交流の輪が必要である。たとえば,音声「マ ンマ」が<意味するもの>となるには,子どもが大人に 向けて発し,大人がこれを自分に向けられたものとして 受け止め,そこに意味を読み取ろうとしなければならな い。このように, 「音声を介した三項関係」が成立して いることが第-の条件となる.同様に「ごはん」がマン マに対応した<意味されるもの>となるには,子どもと 大人が,ごはんを共通テーマとしてやりとりし,その意 味脈絡を共有していなければならない。つまり,第二の. の一意味されるもの>の対は末だ漠然としており,子ど ものことばは"ふくらみ"を有していると述べている。 問題となるのは.このふくらみ,つまりこの時期の子ど もの「体験内容」である。そして,固有名という現象に 主として関わるのは, 1 -2歳児の自己体駿の内容であ ろう。 ここから第二の問題点が派生する。すなわち「自己」 の捉え方について。固有名を使用する以前,子どもの自. 条件として「テーマをめぐる三項関係」の成立が必要に なる。この二つの三項関係が絡み合うことで,初めてこ とばが生成する。つまり,まず, <子ども一大人>の共 有関係が土台となって,その上に<意味するもの-意味 されるもの>の記号関係が成立するのである。 これまでの議論を踏まえると,先ほどの岡本の説明は, 大略以下のように言い換えられるだろうo固有名の使用 は,子どもと大人との共有関係を基盤としている。その 上で,子どもは, 「名前」という<意味するもの>と 「自己像/他者像」という<意味されるもの>との結合 を理解するのである。. 己のありようは,果たして岡本の言うように「漠然とし. こうした従来の知見は,それなりに興味深いものであ り,かなりの説得力を有している。しかし,これで十分 かと言えば,必ずしもそうは思えないO非常に大雑把な. 試すことはできないとしている(ただし,その理由につ. 言い方をすれば,固有名という現象は, 「ことば」と 「自己」の交叉点に生起するものである。そもそも,こ とばと自己という現象自体が、それぞれ大変禎雑であっ て,容易な解明を許さない。本論は, 「別の見方」を探 索的に提示することで満足しなければならないだろう。 こうした自覚の下で,以下,従来の知見に対して二つの 問題点を指摘し,新たな観点を提示してゆきたい。. ろう)。. 第一に, 「ことば」の捉え方について。言うまでもな く,固有名はことばの一種である。しかし,他のことば との質的な遣いはないのであろうか。むろん,自己像/ 他者像を<意味されるもの>としている点で特殊であ る。しかし,それは,あらゆる個別のことばに当てはま ることである。そうではなくて, 「発達の中のことば」 として,固有名に独自の質的特性は存在しないのであろ うか。. 体」としての子どもの特性を示すものとしては妥当なも. また,仮に,そうした特性が存在しないとしても, 「二つの三項関係」という理論的枠組みには問題がない. 間を越えて一貫する存在としての自分が理解されてくる. だろうか。この理論は,子どものことばの発達を外側か ら捉え,説明するときには有効であろう。しかし,子ど も自身の内側から,つまり1-2歳児の体験内容を踏ま えるならば疑問が残る。三項関係は,ことば一般の生成 を説明する強力な図式である。しかし,その強力さ故に,. める"。ここには,認識主体としての自己理解を「土台」. Vygotsky (1962)が指摘するように,この時期の子ども が,このような図式を発見するのだと想定することには, どうしても無理があるように思えるのである。もっとも,. とば」としての固有名の質的特性,および,国有名を使. た一体感」でしかないのであろうか。また,固有名の獲 得は,自己像/他者像の理解,ある程度対象化された自 己の獲得(麻生,1985)として捉えるだけで十分であろ うかo Spitz (1957)は, 15ケ月頃,子どもが「No」という 概念を使用し, 「わたし」を「わたしでないもの」から 区別すると指摘している。同様に,麻生・伊藤(2000) も,この時期の子どもの自己主張的な振る舞いについて 報告している。さらに, Wallon (1941/1982)は. 12歳児は,まず否定というかたちでしか.自らの人格を いては,十分な議論が尽くされているようには思えない。 後に,本論の中で一つの見方を提示することになるであ こうした知見を踏まえると.固有名獲得以前の1-2 歳児の自己体験を, 「漠然とした一体感」として記述す ることには疑問が残る。また,固有名の使用によって示 されるこの時期の子どもの自己のありようを, 「対象化」 と特徴づけるだけでは不十分であろう。確かに,対象化 という概念は,自他理解という枠組みの中で, 「認識主 のである。しかし,子どもの下に浮かび上がり,大人の 下に感じられる自己のありよう,つまり「実践主体」と しての子どもの特性を説明するものでは必ずしもないよ うに思われる(石野,2001a)<先述の岡本(1982)は, 固有名と自己との関係を注意深く以下のように述べてい る。 "自分の名の理解は,その本人自身に実体性を与え るのである。 -・自分の名を手がかりとして,状況や時 とともに,意図的行動主体の中核となる自我が機能し始 として,実践主体としての自我が立ち上がるとの指摘が 読みとれる。問題となるのは,この時期機能し始める自 我の特性,自己のありようであり,それを記述するため の「別の見方」が求められる。そして,その鍵は, 「こ 用する「自己」の体験内容にこそ.秘められているよう に思うのである。本論では,以下, Levi-Straussの民俗 60.

(3) 固有名と自己. 誌とDerridaによる解釈2)に,その鍵を兄いだしてゆき. 体は独自性を喪失し, 「社会の一員」として位置づけら. Levi-Strauss (1955/1977)は,固有名の使用について,. れる。ただし,固有名が,全くその特性を失うわけでは ない。誰しも自分が,独自の存在,他ならぬこの私であ. 以下のような興味深いエピソードを紹介している。 "あ. ることを直感している。飼い猫を「ネコ」と名付けた人. る日,私が子どもたちと遊んでいた時,一人の女の子が. にとって, 「ネコ」は固有名であろう。つまり, Derrida. 仲間の女の子の一人にぶたれた。ぶたれた方は私の傍へ 逃げて来て,さも大事な内緒話だというように,私の耳. とKripkeが共に指摘するように,ある「ことば」が固有 名であるのは,個体に対する意識や態度によって決まる. に何やら噴き始めた。 -その結果もう一人の女の子が. のである。. 蝣SB. 策略を見抜き,あからさまにぷりぷりして,今度はそち. 話がずいぶん逸れたように映るかも知れないが,決し. らが私のところへ何か重大な秘密らしいことを告げに来. てそうではない。 1-2歳児の自己の体験内容を規定す. た。 ・-・初めの女の子は,仕返しをするために喧嘩相手. るものこそが,この意識や態度ではないかと思われるの である。. の名前を私に教えに来たのだが,相手の方はこれを知る と,さらにそれへの報復として,初めの女の子の名前を. ここで示された「自己」の捉え方とは,以下のような. 言いつけたのだ"。ここナンビクワラ族の社会では,個. ものであろう。固有名は差異を指示する。そして,その. 人を固有名で呼ぶことは禁止されていたのである。. 差異への意識,態度こそが,他者を他者として,私を私 としてあらしめる(桶谷,1994)。しかし,固有名が使用. 何故だろうかDerrick (1967/1972)は,以下のよう な鋭い解釈を示している。 "名付けること,場合によっ. されるや,この差異は消失し,自己は社会の一員として. ては,口に出すことが禁じられるような名前を与えるこ. 位置づけられる。ここには, 「実践主体」としての主体. と,これが言語の根源的な暴力であって,これは差異の. 間の基本的構造が見出せるのではないだろうか。つまり,. 中に絶対的な呼びかけ符号を書き込み,それをクラス分. "人間とは常に固有の個人です。 -しかしながら,こ. けし,宙吊りにする。独自なものを体系の中で思惟する. の個人は常にある特定の集団の構成員としてしか存在し. こと,それを体系の中に刻み込むこと。これが原-エク. えないのです(Wallon,1976/1983)。. リチュールの所件である。つまり,原-暴力であり,固. 固有名の使用は, 1歳児が「他ならぬこの私」に. 有なるものの喪失,決して与えられはしなかったが夢見. 気づいたことを示す現象ではないだろうか。この差異へ. られ一一自己自身の消失においてしか出現することので きなかった一つの<自己への現前>の喪失なのだ''。こ. の意識こそが,この時期の子どもの自己のありようを特 徴づけているように思われる。 Guillaume 1943の報. こで示された「別の見方」を注意深く読み解いてゆこう。. 告は,それまでの子どもにとっての他者の重要性を示す. まず, 「ことばの捉え方」に関して.固有名の質的特. ものである。自己は確かに子どもによって生きられてい. 性が伺い知れるだろう。固有名は,独自なものを夢見さ. るのだが,自他の差異がモチーフとして意識されること. せる。この「独自性」とは何か。それは,誰によっても. はなく,それは身近な大人を初めとする周囲の他者の中. 認識され,その気になれば記述可能な「自己像/他者像」. に組み込まれているのだろう。こうした子どもの自己の. のことではないKripke (1980/1985)は,そのことを 以下のような例で示しているD 「アT)ストテレス」とい. 言うように根源的な暴力による独自性の喪失であるだろ. ありようは,固有性という観点からすれば, Derridaの. う固有名は, 「古代の最も偉大な哲学者」という記述で. う。しかし, Wallon (1976/1983)が指摘するように.. 置き換えることができるように思われる。しかし,反事. 人間が生きてゆく上で,殊に初期の子どもにとっては,. 実的状況を考慮すると,奇妙なことが起こる。つまり,. 他者や集団,社会への依存性は本質的なものでもある。. 「アリストテレスは哲学者ではなかったかも知れなかっ. ただ,一端,差異が意識されるや,事態は一転するであ. た」と想定することは問題なく文意も通る。しかし,. ろう。子どもは自己の独自性を直感する。しかし.それ. 「古代の最も偉大な哲学者は哲学者ではなかったかも知. まで組み込まれてきた「他者」の外側には, 「自己」に. れなかった」と果たして言いうるだろうかKripkeは, 固有名が,あらゆる反事実的状況でも使用できることか. 値するものは末だ何も存在しない。先述のSpitzやWallon が指摘するように, 1-2歳児は,まず「No」という. ら,これを"固定指示子"と呼んだ。それは,何か言い. かたちで自他の差異を示すはかないだろう。したがって,. 換え可能な意味内容を持つことはなく,他でもないこの. 固有名の使用と「No」という概念の獲得が,ほぼ同時. 個体の独自性,端的に他者と自己の「差異」を指示する のである。. であることは必然的である。なぜなら,それらは共に, この時期の子どもが,自他の差異への意識や態度を育み. しかし,それは夢見られるものでしかない。一端使用. つつあることを示す現象であるからであるO. されるや,固有名は,言語の体系の中の一部に書き込ま れる。また,名付けられ呼びかけられる営みの中で,価. 61.

(4) 石・野秀明. 日的. 面とは言え,微妙に異なり,多様なかたちで展開してい く。そこに居合わせていた私も,呼びかけの「間」では, 思わず息を詰めて身を乗り出してしまう。子どもたちの 手が挙がると,名前との対応に関係なく,私たちは笑い ながら「できたね-,上手,上手」と言い拍手する。子 どもたちも嬉しそうに拍手してゆく。昼食を前に,笑い. これまでの議論で, 「発達の中のことば」としての固 有名の意味について,従来の知見を批判的に吟味し, 「別の見方」を導き出してきた。次に求められる作業は, 個々具体の出来事に即して,この見方に心理学的な内実 を与えてゆくことだろう。本論は, 1-2歳児と保育者 の関わりの場面を取り上げ,この時期の固有名の使用と 自己のありようについて新たな観点を提示することを目 的とする。. に満ちた楽しい時が過ぎていった。 一番年長のAくん(1歳6ヶ月)は,自分の名前の時だ けに「バーイ!」と勢いよく返事をする.得意げな様子 を微華ましく感じるoBちゃん(1歳1ケ月)とCくん(8 ヶ月)は, Aくんと自分と相手の名前の時に,先生方を 見て笑いながら手を挙げる。二人は.互いを確認するよ うに目を合わせて嬉しそうに微笑む。先生方も「上手上 手」と声をかけて笑う。 Bちゃんは,先生方と一緒にパ チパチと拍手する。 Dちゃん(1歳6ヶ月)とEちゃん (1歳4ヶ月), Fちゃん(11ケ月)は,名前を呼びかけ られると,少し恥ずかしげに笑って返事をしなかったo M先生は,それぞれの子どもたちを見つめて,笑いなが ら「バーイ!,バーイ!」と大きな声で繰り返し,返事 を促すように力を込めて真っ直ぐ手を挙げる。手を挙げ. 方法 著者は,京都市内の保育園で, 1996年5月より2002年 6月まで,約6年間にわたって縦断的に関与的観察を行 ったO本論で職り上げる子どもたちと,入園から卒園ま での年月を共にしたことになる。観察の形態は,週に一 度概ね9 : 30-18 : 00の保育に参加するかたちで行った。 長期の自然な参入によって,著者は,子どもたちとは 「補助的保育者」として自然に関われるようになり,煤 育者からもそれを認められていた。ただし,保育士資格 を有しておらず,あくまでも研究目的で参加しているこ とから,保育日誌の記載や集団保育の設定など,保育の 組織的活動を任されることはなかった。記録については, 日常の保育の妨げにならない範囲で,印象に残った場面 について,適宜メモを取った。保育終了後,できるだけ 早くメモを基に事例として文章化した。なお,著者の観 察法の詳細については,石野(2003)を参照されたい3)。. て欲しいという願いが感じられる。しかし, 3人は,モ ジモジとして結局手を挙げられずにいた。するとT先生 が後ろに回って,支えるようにして一緒に手を挙げ「バ ーイ」と言う。 3人は,照れたように笑っていたが,そ れでも嬉しそうだった。先生方と私は,同じように「上 手上手」と声をかけ,笑って拍手をする。. 本論で事例を提示するに当たって, 「子ども」の呼称 は提示順にAからLを割り当てた。 「保育者」については. イニシャルを充てて「∼先生」と表記した。 「著者-関 与観察者」については「私」と表記した。以下の事例は 全て,子どもたちが1-2歳時のエピソ-ドである。. 【考察1】この場面で, Aくん以外は,正確に返事をし ていない。従来の知見によれば,子どもが, 「名前」と いう<意味するもの>と. 「自己像」という<意味され るもの>との結合を理解していないことを示している, ということになるだろう。また,固有名使用の土台とな る,保育者との共有体験を典型的に示す事例とも言えな くはない。しかし,この場面で,一体何が,どのように 共有されているのだろうか。ここでの出来事は,こうし た解釈以上の意味を有しているように思われる。 BちゃんやCくんは,確かに「正確」ではないが,と ても楽しげに返事をしている。先生方も,彼らの「正誤」. 結果と考察 まず,固有名が,それとして機能する以前の場面を取 り上げよう。 【事例1】お昼ごはんの前に,いつもの歌に合わせて 『お返事』をすることになった。先生方と私は「♪お名 前呼ぶよ-J--」と明るく歌う。子どもたちも,歌の リズムに合わせるように,体を揺するなど,楽しげにし ていた。 M先生が,歌の終わりに「大きな声で○○ちゃ -ん!」と一人ひとり名前を呼んでゆく。そして,子ど もの反応を注意深く見つめ、呼吸を合わせて,代弁する ように笑いながら「バーイ」と言って手を挙げる。 T先 生も私も,やはり同じようにそちらを見つめ,子どもた ちと一緒にお返事をしてゆく。当然,手を挙げる子,挙 げられない子,また自分の名前ではないが,楽しげに手 を挙げる子もいる。先生方の対応は,一人ひとりの子ど もの反応としっくりと絡み合っていて.同じお返事の場. に関わりなく,返事をしたという事実を賞賛している。 DちゃんとEちゃん, Fちゃんは,とにかく恥ずかしくて 返事をせずにいる。ただし,後の事例3のHくんのよう なはっきりとした拒否とは明らかに異なる。 3人は,先 生方に支えられて.恥ずかしさと嬉しさの混ざった表情 を浮かべている。先生方は,願いを込めつつ名前を呼び かけ,時には支持的に関わりつつも,やはり返事をした という事実を賞賛している。 ここで,子どもたちが.自分たちの名前を理解してい るかどうかは,実際のところよく分からない。少なくと ち,固有名は,その質的特性を有しつつ現れていない。. 62.

(5) 固有名と自己. 上げてゆこう。従来,他者の名前の使用が,自己の名前 の使用に先行することが指摘されてきた。しかしながら, 微細に見てゆくと,必ずしも,単純にそうは言えない場 面に立ち会うことになる。 【事例2】みなでお昼ごはんを食べていたとき, Gち ゃん(2歳0ケ月)は顔を上げて, M先生に「Yせんせ -!」と笑いながら呼びかけた. M先生はえっ?という 感じで笑う。 Y先生が引き取って「はーい! ,私がY先 生よ。あちらはM先生よ. Mせんせえってゆってみ-」 と笑いながら, Gちゃんに声をかける。 M先生も笑いな がら「Mせんせえってゆって」とGちゃんの口調を交え つつ,お願いするように言う。 Gちゃんは, M先生をじ っと見て,何かもの言いたげな様子だ。先生方も, Gち ゃんのことばを待ち受けている様子で,私も自然と身を. しかも,それらは,子どもたちや先生方にとって,関わ りを駆動するモチーフとして働いていない。確かに,煤 育者は名前を呼びかけるとき,当の名前を有する子ども に働きかけ,返事ができるように支えている。両者は, 「名前」という<意味するもの>と, 「自己像」という< 意味されるもの>とを共有しようとしていると言えなく はないOしかし,これまでの記述から明らかなように, このような道具的な関わりは,ほんの一部に過ぎない。 重要なことは.保育者が呼びかけ子どもが返事をすると いう事実であり,その過程である種の「歓び」が共有さ れているということである。 この「歓び」とはどういったものか。保坂(2001)は, 以下のような例で,言語の裏地ある肉体的な「歓び」を 示唆しているOある先天性の障害を負った女性は,幼い 頃,ほとんど点滴で栄養摂取をしていて,口からは苦い. 乗り出す。しかし,ことばにはならず, Gちゃんはやが て食事に戻る。 Y先生は,体から力が抜けた様子で「ア カンか-。 "Y先生"が, "先生"ってことなんかなあ」 と私たちに尋ねる。 M先生が「そう言えば, T先生が, Gちゃんは私のことを"Y先生"やと思ってるみたいよ。 困ったね-つてゆったはりました」とT先生をまねてお どけたように言う。Y先生は「そらない,そらない」と いって大笑いする。 M先生は「それで,先生みんなに "Y先生"ってゆわはるんですよ。先生だけじゃないです よってゆったら, (T先生は)ーあらそ-"ってゆったは りました」と応える。笑いが巻き起こり,子どもたちも 楽しそうに笑う。先生方は「ね-」と笑いながら応じる。 【考察2】ここでのGちゃんの振る舞いを,従来の知 見で,解釈することは難しい。 Gちゃんは,この時点で, 自分や他の子どもたちの名前,さらに一週間に-度しか こない私の名前すら,はっきり言うことができた。 M先. 粉薬だけが投与されたのみであった。それでも彼女は, 薬や水が食べられることが嬉しくて, 「おいしいおいし い」と何度も味わっていたという。ここでの「おいしい」 ということばは,おいしい/まずいという判断以前に, ただただ存在することの「歓び」があったことをよく示 している。 程度の遠いこそあれ,同質の出来事が,ここで生じて いるように思われる。つまり,正/誤に関係なく,先生 方が名前を呼び,子どもたちが返事をし,皆で拍手をす る-この一連の過程が存在することの「歓び」として 体験されているのではないだろうか。保育者がことばを 語りかけ,子どもはそれを取り込むようにことばを話し, 歓びを共有する。そういった体験が,ことばを息づかせ ているように思える。 また,容易に想像ができるように,この歓びは,存在 の次元に関わっているが故に,子どもの自己のありよう. 生とY先生は,普段毎日を過ごす担任保育者であり,目 に見える他者である。にも関わらず, Gちゃんは,正確. をも規定するだろう。子どもは存在することの歓びを表 現し,保育者はそれを歓待して自らの歓びと重ねて映し. に先生方の「名前」を言うことができない。私が,観察 できた限り,こうしたことは他の子どもたちにも当ては まり,保育者の名前を正確に区別して使用した例は,時 期的に2歳5ケ月頃を待たなければならなかった。何故だ ろうか。 考えてみると,私たちは,親しい間柄だと,却って正 確に名前を呼ぶことが少ないのではないだろうか。夫婦 や友達が,フルネームで呼び合うことはまずない。公式 行事など改まった場では,正確な名前を使うことが多い だろう。つまり,固有名の使用には.人間関係が関わる。 それは,本論の観点から言えば,固有名が「自他の差異」 を指示するからだと考えられる。. 返す。子どもは,その映し返しを取り込んで,さらに自 らの存在感を確かなものとして体験する。鯨岡(1998) は,このような大人との映し合う関係が,子どもの自己 を充実させることを鞍詞している。 ただし,ここで固有名がそれとして機能していないこ とから分かるように,子どもと保育者との関わりの中で, 自他の差異は主たるモチーフとなっているわけではな い。子どもは末だ「他者」との差異を明確には意識して いないし,保育者もまずは.子どもによって生きられて いる「自己」を充実させるよう支持的に関わっているO つまり,ここでの子どもの自己のありようは,末だ保育 者を初めとする他者の中に組み込まれつつ,立ち現れて. 今少し,詳細に検討してゆこうWerner&Kaplan (1963/1972)は,以下のような図でことばの発達を説明 した。彼らは,ことばが生まれる土台として, 「シンボ. いるものと言えるだろう。 ***. 以下では,子どもが固有名を獲得した後の事例を取り. ル」と「対象」, 「話し手」と「聴き手」が,一体となっ 63.

(6) 石野秀明. との親密な交流を阻害することがあることも念頭に置い. た構造を想定している。その上で,ことばの発達を,各 構成要素が,徐々に差異化してゆくことだと考えた。こ うして,ことばは,次第に親しい話し手と聞き手のあい だでのみ通じる特殊な「声」ではなくなり,一般に通じ るような公共的な「言語」のかたちを取るようになる。. ておくべきあろうStern (1985)もまた,こうしたこ とばの有する二面性を, 「両刃の刃」と称している。こ のようなことばの本来的な性質に目を向けるとき,それ を従来のように認識の問題としてのみ捉えるのはいかに も不十分である。ことばを実践の位相で問題にしてゆく. :T-^. ことの重要性は,いくら蛍調してもし過ぎることはない だろう。 ***. 最後に,名前を呼びかけられても,子どもが返事をし ないという場面を取り上げる。本事例のHくんに限らず, しばしば観察された状況である。このような事態は,固 有名の使用を, 「名前」という<意味するもの>と「自 己像/他者像」という<意味されるもの>との結合とし て捉える従来の知見では,全く説明できないように思わ IE* 【事例3】お昼ごはんの前に,久しぶりに『お返事』 をすることになった。 「♪お名前呼ぶよ一一一大きな声. 話し手. で○○ちゃ-ん♪」の歌に乗せて,先生方は子どもたち. 図「ことばの発達」のモデル(Werner&Kaplan,1974). の名前を一人ひとり呼んでゆく。子どもたちは,自分の 名前を呼ばれると「バーイ」と嬉しそうに手を挙げてゆ. これを踏まえると,親しき間柄で,固有名が正確に使 われない,場合によっては,ニックネームなど特殊なこ とばが使われるという素朴な事実が理解できるだろう。. く。みな月齢が進んだこともあって,事例1での場面の ように,もう,他の子どもたちの時にお返事をすること はない。先生方は,笑いながら「バーイよくできたね一, ○○ちゃんいました-」と応じて拍手をする。周りの子. 事例1で,自他の差異が意識される以前,子どもは,煤 育者を初めとする他者との関係の中で,自己たりうるこ とを確認した。ここでの出来事に立ち返ると, Gちゃん にとって,先生方は「親しき他者」であって,正確に名 前を使えるほど,差異化された存在ではないと考えられ る。むしろ, 「自己」の方が,この年齢ともなれば,他 の子どもたちを初めとする周りの他者とのいざこざを含 む多彩な関わりの中で差異化され, 「他でもないこの私」 として意識されやすいのではないだろうか。だからこそ, Gちゃんは,自分の名前や,周囲の子どもたちや私とい. どもたちも,それに倣って,パチパチと拍手してゆく。 Hくん(2歳0ケ月)もまた,他の子どもたちができると, 機嫌良く笑いながらパチパチと拍手していた。両隣のI ちゃん(2歳1ケ月), Jちゃん(1歳9ケ月)がお返事をす るときには,何かとお世話好きの彼らしく,相手の腕を 支えるようにして一緒に手を挙げて,顔を見合わせて, 得意そうに笑っていた。 ところが,Y先生が「♪大きな声で, Hく-ん! J」 と呼びかけたところ, Hくんは,机の上で抱え込んだ両. った「他者」の名前を,正確に使用したのだろう。言い 換えれば, Gちゃんの自己のありようは,自他の差異が 意識され, 「他者」に対してある種の境界性を有しつつ 立ち上がりつつも,未だ「親しき他者」としての保育者 に強く依存しているのである。 最後に「発達の中のことば」について,付言しておき たい。正確なことばの使用は,公共性の高まりと共に, 子どもの世界を押し広げる。しかし同時に,それは「対 象」,つまり広い意味での「体験」や,生きられる「自. 腕に,叩きつけるように顔をガッと伏せて返事をしよう. 己」 / 「親しき他者」との差異化の所産でもある。私た ち大人は,子どもたちのことばの発達を,何にも増して 喜ばしく感じるものであろう。しかし一歩間違うと, Derridaの言う根源的な暴力が表に出る。つまり,こと ばは,体験という土台を見失わせたり,自己体験や他者. のだろう?と尋ねるかのように,先生方の方を見る。 M. としない。先生方は,子どもたちを見回し「あれー,ち ういっぺん呼んでみよか-, ♪大きな声でHく-ん♪」 と再び呼びかけるが,やはり顔を伏せたまま返事をしよ うとしないo Y先生は「あれ, Hくんいないのかな-」 と言う。一番年長のKくん(2歳4ヶ月)と仲良しのLく ん(2歳3ケ月)が,心配そうに「H-」と声をかける。 KくんはHくんの方に手を差し出すが, Hくんは,バッ と振りほどく。 KくんはHくんを指さし, Hはどうした 先生は,顔いてKくんに応じつつ「おかしいね, Hくん, いないのかな」と, Hくんに声をかけるが, Hくんは依 然として顔を伏せたままである。両腕の隙間からかろう じてHくんの衷情が伺えたが,目を堅くつむり口も歪ん. 64.

(7) 固有名と自己. たちで,固有名を使用している点である。先述のように, これらは, 1-2歳児が,自他の差異への意識や態度を 育みつつあることを示す現象であるように思われる。 固有名は端的に自他の「差異」を指示する。しかし, Derridaが指摘するように,他者による呼びかけは,固 有名が実はことばの体系の一部に過ぎず,差異を抹消し, 社会の一員として位置づける装置であることを端的に示 す現象である。ここで, Hくんは「他の子どもたちと同 じように」,先生方に呼びかけられること,あるいは.近 事をすることを拒否したのではないだろうか。先述のよ. でいて,いかなる働きかけも拒否する感じである。この ままでは時があかないと判断されたのであろう,先生方 は「じゃあ,お祈りしようか」とみなに明るく声をかけ, 『いただきます』のお祈りをする。お祈りが終わり,他 の子どもたちが昼食を食べ始めたところ,ようやく, H くんは顔を上げた。不快そうな表情は変わらず,前方に 視線を投げかける。 Y先生は「Hくん,お祈りしてから 食べようね」と優しく声をかける。周りの子どもたちの 何人かが心配そうに「H-!」と声をかける。しかし, Hくんは抱え込んだ腕に顎を乗せ,相変わらずじっとし. うに, SpitzとWallonは, 「No」という表現が,子どもの 最初の自己主張であると述べた。 Hくんは,事例1と2 で確認したような, 「他者」に埋め込まれた状態に対し. ている。先生方は暫く待って「先生たちも今から食べる から,一緒にキラキラパッチ-ンしよ」と声をかけ,お 祈りの歌を歌うが, Hくんは応じようとしない。 Y先生. て拒否を突きつけ, 「他ならぬ私」を際立たせようとし ているのではないだろうか。そのことによって,差異へ. は,背中越しにHくんと一緒に手を組んで,そっと様子 を見守りながら「いただきます」と声をかける。すると,. の意識を表現するかたちで, 「自己」を強く主張してい るものと考えられる。 ただし,注意されなければならないのは, Hくんが, 保育者への依存性を断ち切ろうとしているわけではない ことである。彼は,かなりの時間,先生方や他の子ども たちからの働きかけを拒否しているが,一転して何事も なかったかのように食事を取り始める。場面の転換がき っかけとなって, Hくんは矛を収めて,不快さを解消し たのであろうか。確かにそう言えなくはないが,それだ けとは思えない。お祈りの場面に至るまで,先生方の掬 わりは, Hくんに「みなと同じように」振る舞うことを 促すものであった。しかし,それでは時があかず,一緒 に手を組んでお祈りをするなど, 「他の子どもたちとは 遣うかたちで」彼と特権的に関わることになった。つま. それまでの挺子でも動かない様子から一転して, Hくん は,何事もなかったように,すぐに食器を取って食べ始 める。Y先生は,苦笑して「明日はお祈りしてね-」と 言う。Hくんは「うん」と言い, 「おいしい-」と先生 方ににっこり笑いかけ,先生方も「おいしいね-」と笑 って応じる。その後, Hくんは,隣のJちゃんにスプー ンを差し出し食べるよう薦めるなど,周囲の子どもたち と楽しげに食事を進めた。 【考察3】 Hくんは,二人きょうだいの弟である。しっ かり者の姉がいて,家は飲食店を経営しており,多くの 大人に囲まれて日々を過ごしている。たくさんの人にお 世話をしてもらえる環境で育ってきたが故に,役割を転 じて自分でもお世話をしてみたいのであろうか,普段こ の年齢の子どもとしては「世話好き」の印象を受ける。. りHくんは, 「親しき他者」としての保育者の配慮に依 存して, 「自己」を立ち上げたものと考えられるSpitz (1957)は, 「No」を意味する首振りが,乳房という部 分対象によって象徴される保育者に対する探索行動から 派生したものであるとして,この時期の子どもの「自己 主張」の背後に保育者への「依存性」が働いていること を指摘している。 このような二面性を考慮に入れると,ここでのGくん の自己のありようには,以下のように記述できる。一方. このように,他者からの働きかけを自分のものとして交 替する態度は,この時期の子どもに特徴的なものでもあ る(Wallon,1963/1983),本事例でも, IちゃんとJち ゃんが返事をするときは,丁度事例1で保育者が行った ように支持的に関わり,お昼ご飯の時は少し年少のJち ゃんにスプーンを差し出している。総じて, Hくんは, とても機嫌が良く得意そうな様子が伺える。それだけに, 自分の名前を呼びかけられたときの彼の態度は対照的で ある。. でGくんの振る舞いには,それまでの他者との関係の中 に溶け込んでいた状態を脱しようとする指向が見出せ る。つまり,自他の差異への意識を強く持ち,いわば 「自己」が,周囲への抵抗の核として現れつつある。し かし,他方で「他者」の外側に育まれつつあるその核は 末だ小さい。 Hくんは,保育者を初めとする「親しき他 者」から備給されることで,初めて「自己」たりうるよ うな脆弱さも抱えているのである。 .これまでの議論を踏まえ, 「発達の中のことば」につ いて,一言触れておきたい。本論で何度か出てきた『お. Hくんは,先生方に名前を呼ばれて,返事をすること を明確に「拒否」している。本当に不快極まりない様子 で,先生方の働きかけやKくんとしくんの慰めに対して ち,容易に譲ろうとしない。年齢からしても,他の子ど もたちに対する支持的な関わりからも,また,まさに自 分の名前が呼ばれたときに拒否的な反応を示している点 からも, Hくんが,自他の名前を理解していることは明 らかである。従来のように,固有名の使用を,認識の問 題として捉えたとき,彼の態度は解釈できない。 ここで注目すべきなのは, Hく′んが, 「No」というか. 65.

(8) 石・野秀明. 返事』の歌には, "lなまえ・なまえ・なまえ,それがき. 頑に返事をしない場面を取り上げた1-2歳児は,自 他の差異を意識し,それを抹消するような働きかけを拒 否する。しかし,同時に,保育者の特権的な関わりによ って,初めて,子どもが「他ならぬ私」として立ち上が る様子が伺えた。つまり1-2歳児は, 「他者」への抵 抗の核として「自己」を育みつつも,保育者を初めとす. みの名前,聞いてみてビックリー・"という詞が含まれ ている。この一節には,固有名の特性がよく表れている だろう。つまり,他者との差異を指示する固有名は,当 の他者から名付けられたものである。この矛盾は, Derridaが,磨-エクリチュールの暴力と言い換えてい るように,ことばに本質的なものである。私たちは,. る「親しき他者」に強く依存しているのである。 以上の知見を踏まえ,ことばと自己との関係について,. 「自分のことば」を固有なものとして話しているように, 通常思っている。しかし,ことばは一つの体系であり, その独自性を抹消し, 「自己」を「社会の一員」として 位置づける。言い換えると, 「自己」に固有のことばな ど存在せず,ことばは本来的に「他者のことば」である。 このように考えると,発達心理学の中で,通常用いられ る「言語獲得」という概念は適切でないように思えてく. 発達論的な観点を幾つか提示したOよぎ,原初的なこと ばは,存在の次元に関わる体験を裏地に有しており,そ れがことばに生動性を与えている可能性を示唆した。次 に,ことばが「両刃の刃」としての特性を有することを 確認した。ことばは,公共性を帯びる方向で発達し,私 たちの世界を押し広げる。しかし同時に,それは,体験. るMerleau-Ponty (1988/1993)が指摘するように,子 どもは,既存のことばの網目,社会の中に生まれ落ち, そこに「着床」してゆくと考えるべきではないだろうか。 自他の差異は,どこまでも意識や態度によるが故に,絶 えず生成と喪失の契機を含んでいる。したがって,輪郭 を有するかたちで,自分なりのことばを育むことは,こ の時期に限らず,生涯発達的な課題なのである。. という土台を見失わせたり,自己体験や他者との親密な 交流を阻害するかたちで働く可能性があることを寮調し た。最後に,ことばは,一つの体系であって, 「自己」 の固有性を抹消し「社会の一員」として位置づける働き を有することを強調した。この点を踏まえ, 「発達の中 のことば」を捉える基本的な境位として, 「獲得」から 「着床」への視点の転換を提案した。 先述のように, 「ことば」と「自己」は,いずれも複 雑な現象であるOそこから,淡み尽くせぬ問題性が生じ てくる。重要なことは,多様な観点から,少しでもその 内実に迫ることである。本論が提示した「別の見方」が, 発達論的な観点として,いかほどの有効性を有している のか,今後,さらに具体的な研究を積み重ね,検討して ゆく必要があるだろう。. 結語 本論では, 「発達の中のことば」としての固有名の意 味について検討してきた。固有名は, 「ことば」と「自 己」との交叉点に生じる現象である。従来は,認識の位 相で, 「名前」という<意味するもの>と「自己像/他 者像」という<意味されるもの>との結合として捉えら れてきた。しかし,こうした枠組みでは, 1-2歳児の 固有名の使用と自己のありようを十分に掬い取ることは できない。そこで,固有名の特性として自他の「差異」 を指示することを挙げ,この差異への意識と態度が,実 践の位相で,この時期の子どもの自己のありようを規定 するのではないかと考えた。. 註 1) "ことばは発達のなかから生まれ,さらにその発達 そのものを大きく変えてゆく。右のような視点に立つ と,いままで使われている「ことばの発達」というい い方はあまり適切でないように私には思えてくる。と. 事例1では,固有名がそれとして機能しておらず,保 育者が名前を呼び,子どもたちが返事をするという過程 において,存在することの「歓び」が共有されている場 面を取り上げた。そして,この時期の子どもの自己のあ りようとして,未だ自他の差異はモチーフとして機能せ ず,保育者を初めとする他者の中に埋め込まれているこ とを示した。事例2では,子どもが,自分の名前を理解 していながら,保育者の名前を正確に使用できない場面 を取り上げた。子どもにとって,保育者という「親しき 他者」は, 「自己」以上に差異化し難い存在であること が示唆された。ここから, 1-2歳児が,自他の差異を 意識して, 「自己」を立ち上げつつも「親しき他者」と しての保育者に組み込まれていることを示した。事例3 では,保育者からの名前の呼びかけに対して,子どもが. いうのは,何かそれだけで一つの独立した発達がある ような印象を与えやすいからである。 「ことばの発達」 というよりも,むしろ「発達の中のことば」とか「こ とばと発達」という方が,いまのべてきたような私の 考えにはふさわしいような気がするのである" (岡 本,1982) 。 2)ここで, Levi-Strauss自身の解釈を採らないのは, 固有名という主題に関わって, Derridaが,より深い 洞察を示しているからである。 3)なお付言すれば,当時,私は修士論文を書き終え,進 むべき路を見失いつつあった。まさに,私自身が,自 らの名を探していたのかも知れない。このように,関 与的観察やフィールドワークでは,観察者自身の個人 的な生活史までが反映してくることがありうる。した 66.

(9) 固有名と自己. がって,方法論的な要請として,自らの存在の次元の 奥深くまで,常に反省のまなざしを向ける必要がある。 引用文献 麻生武. (1985).自己意識の成長.原野公太郎・小嶋 秀夫・宮本美沙子・大村彰道・高橋恵子・湯川良三 (棉) ,児童心理学の進歩XXW (pp.163-187).莱 京:金子書房 麻生武・伊藤典子. (2000). 1歳と2歳:他者の意図 に従う力・逆らう力.岡本夏木・麻生武(編著), 年齢の心理学(pp.63-102).京都:ミネルヴァ書房. Derrida,J. (1972).根源の彼方に:グラマトロジーに ついて上(足立和浩,釈).東京:現代思潮社.. の間で(pp.57-102).東京:東京大学出版会. 岡本夏木. (1982).子どもとことば.東京:岩波書店. Spitz, R. A. (1957). No andYes: On the genesis of human communication. New York: International Universities Press. Stern, D. N. (1985). The interpersonal world of the infant: A view from psychoanalysis and developmental psychology. New York: Basic Books. Vygotsky, L. S. (1962). Thought and language. Cambiridge: MIT Press.. Wallon.H. (1982).子どもの精神的発達(竹内良知,釈). 京都:人文書院. (Wallon, H. (1941). L-evolution. (Derrida, J. (1967). De la grammatologie. Paris:. psychologique de 1-enfant. Collection Armand Collin. ). Wallon, H. (1983).自我の水準とその変動(浜田寿美. Minuit. ). 男,釈).身体・自我・社会(pp.23-51).京都:ミネ ルヴァ書房. (Wallon, H. (1963主Niveauxet. Guillaume, P. (1943). Psychologic Paris: Presses Univerasitaires de France.. 浜田寿美男. (1988).ことば・シンボル・自我.岡本夏. fluctuations du moi. Enfance, 87-97. ). 木(編著) ,認識とことばの発達心理学(pp.3-36). 京都:ミネルヴァ書房. 保坂和志. (2001).世界を肯定する哲学.東京:筑摩書 戻.. Wallon,H. (1983).ワロン選集上・下(波多野完治, 監訳).東京:大月書店(Wallon, H. (1976). Lecture d'Henri Wallon: Choix de textes. Paris:. 石野秀明. (2001a). 2-3歳時の子どもの存在/自己 のありようを記述する試み:主体間の両義的な力動的 関係という観点から.発達心理学研究, 12, 110-122. 石野秀明. (2001b).保育の場での子どもの生長を捉え てゆくために:横断的な研究と実践に向けて.人間・ 環境学, 10, 17-32. 石野秀明. (2003).関与観察者の多様な存在のありよ う:保育の場での子どもの「育ち」を捉える可能性を 探り当てる試み.発達心理学研究, 14,51-63. 柄谷行人. (1994).探求Ⅱ.東京:講談社.. Werner, H. , &Kaplan, B. (1974).シンボルの形成 (柿崎祐一,監訳).京都:ミネルヴァ書房.. Sociales. ). (Werner, H. , & Kaplan, B. (1963). Symbol formation. NewYork: John Wiley & Sons. ) 百合本仁子. (1981). 1歳児における鏡像の自己認知の 発達.教育心理学研究, 29, 261-266.. Kripke, S. A. (1985).名指しと必然性:様相の形而上 学と心身問題(八木沢敬・野家啓一,釈).東京:産 業図書. (Kripke, S. A. (1980). Namingand necessity. OxforchBlackwell. ). 鯨岡唆. (1998).両義性の発達心理学.京都:ミネル ヴァ書房. Levi-Strauss, C. (1977).悲しき熟帯下(川[馴Lj造,釈). 東京:中央公論社. (Levi-Strauss, C. (1955). Tristes Tropiques. S. A. : Librairie Plon. ,. Merleau-Ponty, M. (1993).意識と言語の獲得:ソルボ ンヌ講義I (木田元・鯨岡唆,釈).東京:みすず 書房. (Merleau-Ponty, M. (1988). Merleau-Ponty a la Sorbonne: resume de cours 1949-1952. Paris: Cynara. ). 宮崎清孝. (1998).心理学は実践知をいかにして越える か:研究が実践の場にはいるとき.佐伯肝・宮崎清 孝・佐藤学・石黒広昭(捕) ,心理学と教育実践 67.

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