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沖縄商業史の研究(序説): 沖縄地域学リポジトリ

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Title

沖縄商業史の研究(序説)

Author(s)

石川, 政秀

Citation

沖大経済論叢 = OKIDAI KEIZAI RONSO, 4(1): 53-73

Issue Date

1980-03-31

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/6668

(2)

沖繩商業史の研究(序説)

石川政秀 目次 第1章沖縄史研究の課題 第1節沖縄史研究の歴史(戦前) 第2節沖縄史研究の歴史(戦後) 第1章沖縄商業史の研究方法 第1節沖縄産業経済史の課題 第2節沖縄商業史研究の意義 第3節沖縄商業史の時代区分 第1章沖縄史研究の課題 第1節沖繩史研究の歴史(戦前) よく1980年代は「地方の時代」といわれるが、従来中央政権の争奪にの み明け暮れた日本史の記述からすると、地方史の記述はどちらかというと、郷 士史家のお国自慢、あるいは独りよがbの歴史物語として受け取られてきた。 しかし近代日本の発展過程のなかで避遠の地方がいかに軽視されてきたか、そ の差別と虐遇のなかでいかに地方民は自らの喜びと哀しみと唱いあげてきたか。 先祖の足跡を知りたいと願う民衆の歴史意識は近年とみに高まりつつある。 わが南西諸島は日本列島の最南端に位置し、中国人からは古来「琉球」と呼 ばれ、島の人々はこれを「うるま」と呼んだ。うろまとは珊瑚礁の島々と考え たからであろうが、「うろ」は珊瑚石のことで、「ま」とは慶良間、池間、多 いやく 良間と同じく島の呼禰である。古代日本では種子島以南を「夷耶久」と呼び、 南島人は鬼ケ島か竜宮に住む人々と考えられた。従って言語の通じない異邦人 -53-

(3)

として待遇されたらしい。(1)

.。○O おぼつ力>なうろまの島の人なれや わが言の葉を知らず顔なる。(千載集) 本土の側に「沖縄」の名称で知られるにいたったのは753年(天平勝宝5)、 あこなわ 藤原清河、吉備真備、僧艦真らの遣唐船が帰国の際海上暴風に遭い、阿児奈波 島に漂着したことが初まりで、9世紀ころ遣唐使は大陸沿いの北路よりも、九 州南端から南西諸島づたいに南支那海を航海したほうがはるかに安全ではない か、と考えていた。当時大和地方に君臨していた古代政権は、東北地方でさえ もやっと支配するぐらいの武力しか持っていなかったから、南島を支配しなけ れば、航海の安全は保てないと考えたのか、使を遣わして入貢をすすめ、服属 を強要した。その結果616年に屋久島、699年に徳之島、ついで714年 には最南端の石垣(信覚)島まで朝貢をするようになった。727年、大和朝 廷は遣唐使のため南西諸島に碑を建てさせ、753年、藤原清河、僧艦真の漂 着の際、碑を建てかえさせたといわれろ。 奈良時代から平安時代に入ると、894年、菅原道真の献策により遣唐船の 派遣が廃止が決まるや、南西諸島の必要性はうすれ、次第に彼我の航海はすた れていった。しかし宋が中国大陸を支配するや、再び貿易がさかんとなり、鎌 倉、室町時代には琉球商船も本土に往来し宋銭が国内通用するほどに持ち込ま れた。 13世紀ごろ源平合戦の余波は南島にも及び、奄美には平家の落人が、沖縄 本島には源為朝が上陸したと伝えられている。これらの豪族は南西諸島を中心

に支配し、とくに,3世紀ごろ蕊が政権を握ると、奄美以南から沖縄本島、

16世紀には宮古、八重山までが沖縄本島を中心にした政権に統一された。 1372年琉球王国は中国と貿易を開始するようになったが、1609年 (慶長14)隣国薩摩藩は徳川政権に執り入り、明国貿易の利を抑えんものと 琉球王国を征服した。彼らはまず奄美五島を自国領とし、沖縄本島、久米島、 宮古、八重山諸島をもって琉球王国の飾りを残しながら明国との朝貢貿易にあ たらせた。 明治維新の結果、新政府はこれらの島々を領有したが、いちばん困ったのは -54-

(4)

沖縄県の異風異俗であり、言語、文化の統一上、行政調査の必要を感じ、中央

政府より役人を派遣し、法制、生産、流通、習俗の調査にあたらせた。

まず松田道之は1879年(明治12)に内務省へ琉球処分報告書を送り、

1894年(明治27)一木吉徳郎は「一木書記官取調書」を、次いで森賢吾

は「沖縄法制史」、「沖縄旧慣租税制度」、「沖縄旧慣制度地方制度」等を報

告した。しかし彼らは沖縄県に派遣された中央政府の役人であっただけに、正

しく沖縄の姿を見、それを日本史のなかに位置づけていったかは、きわめて疑

わしいものがある。

一部の良心的な知識人、学者は沖縄県を訪れ、南方文化を日本文化の原型と

把えた。1877年(明治10)、伊地タビIi贄鑿は「沖縄志」を書き、笹森儀助

しで

は1894年(明治27)「南島探験」を著述した。また第七高等学校教授幣

菅但は1899年(明治32)「南島沿革史論」を書き、従来の調査報告を近

代史的立場から克服し、前人未踏の独創的な新学説を発表した。彼の影響を受

けた人たちのなかに沖縄県立中学校教員、田島利三郎と加藤三吾がいた。

田島利三郎は県立中学校に奉職するかたわら、おもろ研縄に精進し、彼の教

え子のなかから伊波普猷、真境名安興が出ており、その後輩に東恩納寛惇がい

た。彼は従来の郷士史研究がややもすると、琉球文化の特異性のみを強調し、

アイヌ、朝鮮、中国文化との比較から論究せらるろのにたいし、沖縄県民の感

覚で言語、慣習、宗教意識について内側から解明しようと努めた。

彼の教え子であった伊波普猷は1906年(明治39)東京帝国大学言語学

科を卒業し帰郷するや、田島利三郎のおもろ研究を継承し、はじめて古代史を

おもろの光りで読んだ。その研究成果は1911年(明治44)「古琉球」に

まとめられて出版された。彼は同年4月、沖縄県立師範学校で「郷土史に就い

ての卑見」と題する講演を行ったが、従来の他府県人の研究が沖縄県を特殊地

域と見倣し、植民地同然に取り扱ってきた現状を批判し、沖縄文化の独自性、

優秀性を強調した。

彼の郷士愛に支えられた歴史研究は多くの若者たちに強烈な印象を与えたら

しく、西新町1丁目にある寓居「物外棲|には数多くの支持者が集まった。後

輩として東恩納寛惇、仲原善忠、比嘉春潮が出ており、金城朝永、島袋源七、

-55-

(5)

島袋盛敏、喜舎場永洵、宮里栄輝、源武雄らが輩出した。1910年(明治4 3)、沖縄県庁の一角に県立図書館が開設されるや、初代館長に迎えられ、郷 士史文献五千冊を集めたのも彼の功績によるのであろう。 1920年(大正9)、民俗学者柳田国男は沖縄県に来訪、宮古、八重山ま で足を伸ばし、それをまとめて「海南小記」と題して発表した。伊波は柳田国 男のすすめに従い、おもる研究に没頭すべく1926年(大正15)郷土を後 にした。伊波、柳田は大正の末期東京で研究家を集めて「南島談話会」を設立 し、数多くの論文を1955年(昭和30)ごろまで発表した。伊波普猷の 「をなり神の島」(1939年)「日本文化の南漸」(翌40年)や、東恩納 寛惇の「黎明期の海外交通史」(1940年)、大日本地名辞典続篇の「琉球 の部」(1950年増補改訂されて、沖縄文化協会から「南島風土記」として

出版された)もこのころの作品である。

地元の沖縄では東京と相呼応して「沖縄郷土協会」が1929年(昭和3) に組織され、真境名安興、島袋全発、島袋源一郎、大湾政和、比嘉景常、比嘉 盛昇、富原守清、源武雄、安里延が次々と論文を発表した。しかし戦後の研究 家が意図した方向は、沖縄県民が日本民族の一分枝であることを強調すること により、本土の迷蒙を醒ましめ、琉球文化が日本文化の原型であることが証明 できれば、本土の人はもちろん、県民の劣等感の根源である被差別意識もなく なるであろうと考えた。 そのような啓蒙主義的立場から戦後、比嘉春潮の「沖縄の歴史」、仲原善忠 の「琉球の歴史」や東恩納寛惇の「概説沖縄史」などが書かれたけれども、戦 後地方史研究が世界史的な規模で行なわれるにつれ、地方史研究も科学的な歴 史観の下で確立され、補助科学として新たに考古学、民俗学、言語学が生れ、 郷士史研究は大きく発展した。 第2節沖縄史研究の歴史(戦後) 1947年(昭和22)、伊波普猷は東京で客死したけれども、彼の遺著 「琉球歴史物語」はいわば彼の生涯の研究報告書とも受取れるものである。伊 波は若いころ、恩師田島利三郎の指導により言語学的方法から郷士研究に入っ -56-

(6)

たもので、従来の琉球史では舜天以前を神代とし、古文書の「琉球国由来記」、 「女官御双紙」、袋中上人の「琉球神道記」や歴史書の「球陽」なども断片的 にしか古代史を掲載していなかったが、おもる双紙を新史料として解釈するこ とにより、おもろの光りによって古代史の全貌を把えようとした。彼の言葉を 借りると、 「このとおりオモロがわかりかけると、今までわからなかった古琉球の有様 が、ほの見えるここちがした。オモロの光りで琉球の古代を照してみた。とき どきは妙な発見などもした。発見するたびごとに、それを郷土の新聞に出した。 それを見て、伊波君は狂ったのではないか、とあやしんだ人々もあったという

ことである。」(2)

おもる双紙は古代琉球人の残した生活記録であったが、1609年以来、薩 摩藩支配からはいつしか女神官、詩人の専有物となり、祭儀のときに唱われる 神歌となった。古代人の詩歌としての面が忘れられ、門外不出の秘文として女 神官たちの間で語り伝えられた。伊波はおもろの古謡を紹介しながら、古代琉 球人の考え方、生活の原点を浮びあがらせた。戦後、おもる研究は伊波普猷の 急逝により、一時中断されたが、島越憲三郎、仲原善忠、外間守善氏らにより、 「おもる双紙全釈」、「おもる双紙校訂本」、「おもる辞典」などが相次いで 発刊された。 伊波普猷の言語学的方法から琉球史を研究しようとする態度は、さらに東京 大学の服部四郎教授に引き継がれ、琉球方言を含む日本各地の方言は現代言語 の核心部の源流として考証された。服部氏によると、日本語の祖語は紀元前後 に北九州で栄えた弥生文化時代の言語とされ、紀元2,3世紀ごろに北九州か ら大和地方や南西諸島へかなり大きな民族移動があったのではないか、と指摘

していろ。(5)服部教授によると、琉球方言なるものは元来、古代日本の言語に

間違いなく、奈良朝以前の大和言葉から発達したもので、その成果はほとんど 県出身の研究者が説いていることに一致していろ。 1954年(昭和29)、琉球政府内に「文化財保護委員会」が設置され、 沖縄本島を中心に奄美以南の貝塚遺跡が次々と調査発掘されたけれども、専門 官のひとり多和田真淳氏は琉球政府発行の「文化財要覧」に注目すべき論文を -57-

(7)

発表した。1956年に「琉球列島の貝塚分布と編年の概念」、1960年に 「その補遺(1)(2)」、次いで1961年に「琉球列島における遺跡の土器、須恵 器、磁器、瓦の時代区分」を行った。多和田氏の編年作業によりはじめて南島 考古学上の発掘が原始時代から古代、中世にいたるまでの歴史に組み立てられ、 そのおかげでわれわれは原始、古代、中世に及ぶ時代区分を科学的な立場から 知ることができた。南西諸島の考古学もこれらの業績の上に立って軌道を修正 しながら、大きく前進した。 南西列島の考古学的発掘調査は現在まで県文化財保護委員会の手によって進 められているけれども、新沖縄国際大学の高宮弘衛教授は多和田氏の編年史を 手がかりに修正年表を進めていろ。九州大学の金関武夫教授、熊本大学の國分 直一教授は先島の考古学的発掘作業を精力的に行い、原始時代文化の基底層に 南方系統が入り混っていることを立証した。国立民族学研究博物館の佐々木高 明氏も南島文化の基底層にポリネシア系統の根菜農耕が存在していることを指 摘しているが、金関教授はインドネシア系統の南島式農耕文化が北上して沖縄 に達したと考えておるようである。 民俗学はまだ研究範囲がはっきりせず、文化のなかに残存せる物、たとえば 民間伝承を究明する学問と考えられているが、西洋では古くギリシヤのボーザ ニアスによって「ギリシヤ志」が書かれ、18世紀に入ってから自然科学の発 達に刺激され、これまで見逃してきた国民文化事実を民族固有の.価値から眺め るため民族学の名称で呼ばれた。ドイツのグリム兄弟がドイツの各地方に語り 継がれた昔話を古老から丹念に採譜する仕事を始め、「グリム昔話」を出版し て世界の注目を集めた。 日本では徳川時代に「嬉遊笑覧」、「守貞漫稿」などの民俗学らしいものが 出版されたが、それらは当時の民間行事、風俗、俗信等を紹介し、どちらかと

いうと都会趣味の、濃蒙の随筆趣味に堕しているのが多かった。彼らのなか

には菅江真澄のように、農村のなかへ入ってまじめに庶民の生活を紹介した人 もあったが、明治に入ってからでも人類学者坪井正五郎博士が「人類学雑誌」 に一部を掲載したものの、随筆趣味から脱却できなかった。柳田国男はこれら 人類学者の片手間仕事に不満を持ち、全国を行脚して各地の風俗を紹介し、 -58-

(8)

1910年(明治43)に「石神問答」を出版し、1913年(大正2)に高

木敏雄と共同編集で、「郷土研究」という機関誌を定期刊行した。

柳田は1912年伊波普猷の「古琉球」を読んですっかり感動し、中央の学

界にこれを紹介した。しかし南島来訪の思いは抑えがたく、1920年(大正

9)に自ら来県、12月中旬から翌年2月まで探訪し、その調査記録を「海南

小記」にまとめた。彼はこのとき伊波普猷と出会い、東京で共同研究すること

をすすめた。彼は1925年(大正14)に各方面の学者に呼びかけ、日本民

族学協会を設立し、雑誌「民族」を定期刊行した。柳田は従来の神話、伝説の

類が荒唐無稽なものとして斥けられていたのを民族の成立、民族心理を表わす

ものとして取り上げた。彼の影響は県出身の研究者に大きく与えたらしく、佐

喜真興英の「女人政治老」、金城朝永の「異態習俗老」、仲原善忠の「セジの

信仰」、比嘉春潮の「翁長旧事談」などが発表された。

民俗学がそのまま歴史叙述になるのではないが、考古学が物的証拠を提供し

てくれるのと同じく、補助史料として戦後の郷土史研究を大きく前進させたこ

とは疑いがない。これまで日本史研究がややもすれば中央の権力闘争にのみ眼

が奪われ、地方の史実や庶民の暮しなどをなお去りにした感があった。しかし

戦後の研究者はできるかぎり地方の特殊な状況を重視し、中央政府の動きを地

方との関聯で眺めようとする動きが強まってきた。その意味で郷土史があらた

めて日本史全体と係わり会い、その意味が問い返えされたのである。

戦後、日本史学は、とりわけ地方史の体系的叙述や項目別の史料分析に細分

化してきた。沖縄県庁では1963年(昭和38)沖縄県史を明治、大正、昭

和(戦前)の範囲で全24巻の計画で出版し、1977年(昭和52)に外に

近代史辞典を加えて完結した。那覇市役所でも1966年(昭和41)に那覇

市史、資料篇第2巻を刊行し、現在も継続中である。

過去の研究者が、本土の側からする沖縄人の差別意識を取り上げ、日本人と

して認めてほしいという動機から出発したのにたいし、戦後の研究者は本土の

側から沖縄の内部に眼を向けると同時に、沖縄をとおして日本全体を見据える

視点がなければならぬとし、「沖縄歴史は沖縄だけの小宇宙で自己完結してい

るのではなく、大きく日本歴史の中へ位置づけられる沖縄社会の、独自的な矛

-59-

(9)

盾の展開と、それが日本歴史の方向にどのような積極的な意味を持っていたか、 を明らかにしていくことが沖縄歴史研究の主要な内容である」と、規定してい

る。(4)

戦後沖縄の教育界では本土復帰運動が強まるにつれ、沖縄をどう子どもたち に教えるかで論議がなされ、1952年(昭和27)沖縄民政府文教部が在京 の仲原善忠に、中学校社会科の副読本に「琉球の歴史」を執筆するよう要請し た。彼の著作も過去の沖縄人の歩み、その歴史叙述をいかに教えるかで書かれ ており、その内容は戦後の歴史学カリキュラムに即し、庶民の暮しの立場から 編纂された。残念なことは現在中学生が受験準備に追われ、副読本として余り 使われないけれども、最近郷土史読本を読み返えそうという気運が教員間で高 まりつつあることは、特筆すべきことであろう。 註1) 2) 3) 島袋源一郎著「琉球百話」22頁・ 伊波普猷著「おもるそうしの歴史」おもるそうし選釈21頁より抜粋。 服部四郎教授論文「琉球の言語と民族の起源」谷川健一編起源論争所収119頁 に、「私が今日まで観察し研究し得た琉球諸方の言族(それは人種的には混質的 であったかも知れない)のかなり有力な分派(数においても原住民にまさる集団) が九州方面から、少なくとも沖縄本島の中頭、島尻地方のような豊かな土地に移 住して地盤を作った蓋然性がある」と指摘しておられろ。 金城正篇、西里喜行氏論文「沖縄歴史研究の現代と問題点」沖縄文化論叢第1巻 85頁より抜粋。 4) 第2章沖縄商業史の研究方法 第1節沖繩産業経済史の課題 1947年(昭和22)伊波普猷の逝去に伴い、南島談話会のメンバーは東 京で沖縄文化協会を組織して研究事業の継続を図っだが、初代会長に仲原善忠、 会員には比嘉春潮、島袋源七、金城朝永、崎浜秀明、諸見里朝慶が名を列ね、 顧問に東恩納寛惇、客員に島袋盛敏、宮良当荘、奥里将建を迎え、機関誌「沖 縄文化」を定期発行した。 1951年(昭和26)10月、外務省は沖縄文化協会に沖縄現代史の講義 -60-

(10)

を依嘱したが、その講義内容は次の項目別であった。(1)

沖縄現代史序説金城朝永 沖縄現代政治史仲原善忠 沖縄現代産業・経済史仲原善忠 沖縄現代社会・風俗史比嘉春潮 沖縄現代教育・文化史島袋源七 この講義内容は翌年の春に文化沖縄の「沖縄現代史特集号」として公開され たが、東恩納寛惇も同じころ外務省の要請により「渉外沖縄史」を講義したが、 このころ政治、外交、産業、社会、経済、教育、文化等の方向に細分化しはじ め、従来の総合的な研究分野が専門的に分化した。これらの研究態度は在京の 留学生にも影響を与え、彼らの指導で戦後の若手研究者が育てられ、法政大学 の外間守善教授はおもろ研究で仲原善忠、金城朝永から学びつつ、琉球古謡の 研究を大成することができた。続いて仲本正智、新里恵二、田港朝昭、金里正 篤、比屋根照夫、西里喜行氏らはこれら先学の業績の上に立って、日本史学の 研究分野を確立しようとしていろ。 1965年(昭和40)、沖縄歴史研究会が県立図書館内に設立されてから、 宮里栄輝、島尻勝太郎氏らを中心に古文書の解読作業がすすめられ、琉球、冊 封使録、中山伝信録、季朝実録が次々と再刊された。沖縄の古文書、たとえば 歴代宝案の翻訳は旧師範学校出身の稲村賢敷、真栄田義見氏らによってなされ たが、これらの研究者は理論的な研究というより、むしろ史料を解読すること に努め、戦後、史料解釈学を打ち樹てた功績は大きいと思う。 沖縄経済史、産業史の研究は戦前、仲吉朝助、田村浩らによって始められた が、戦後仲原善忠の呼びかけによって多くの若手研究者が輩出した。1972 年4月刊行の沖縄県史第3巻各論編2は「経済」の項に充られており、旧藩時 代より明治、大正、昭和を経て戦前までの経済史がほとんど時代別にまとめら れていろ。1974年の那覇市史通史篇第2巻も同じ内容で、那覇、首里地方 の経済、産業発展の歩みが述べられているが、残念なことには産業、経済の歴 史がいづれも昭和20年の破局的な戦争体験によって終っているということで ある。 -61-

(11)

沖縄県は昭和20年6月23日、日本軍の潰滅によって20万近くの尊い生 命と、-千年余の歴史を持つ市街地、農村地帯、貴重な文化遺産が米軍の侵攻 によって破壊されつくしたけれども、それから27年間、米軍支配下に多くの 政治、経済的諸問題を背負わされたことにより、多大の困難を克服し、県民自 らの手によって数多くの産業分野を確立して現在に到っているのであって、戦 後における歴史の再評価はまず沖縄県という地域における経済文化の歴史的発 展過程を究明することに始まるが、単にその内容は経済史全体、一定の生産様 式および生産発展段階に対応するところの階級的諸関係を研究するのみでなく、 産業の個々の部門、商品生産から流通までの形成発展や、あるいは産業部門間 の相互連関、国民経済に及ぼす影響をも取り扱わねばならない。 沖縄県の産業構造は現在(昭和52年)、第1次産業(農林水産業)が162 %、第2次産業(製造、建設業)が206%、第3次産業(卸小売、金融、保 険、不動産業、運輸、通信、電気、ガス水道業、サーヴィス、公務等)が637 %となっていろ。これを全国平均に見ろと、第1次産業部門が119%、第2 次産業が348%、第3次産業が537%となっているため、わが沖縄県の産

業構造は現在第3次産業を中心に、農林水産業が全国平均よりも高く、第2次

産業は異常に低いことになる。 これらの産業構造からして毎年中高校、大学の卒業生はほとんど第3次産業 を中心に就職し、農漁業に復帰する狩者は非常に少ない。社会全体として第3 次産業の職業教育が望まれているのに、商業サーヴィス業に対する蔑視感が災 いし、職業過程におけるカリキュラムがほとんど本土の文部省編成の検定教科 書に依拠し、郷土の実状に即した職業教育はなされていない。 郷士史学会で生産様式論、生産体制構造は多く取沙汰されても、流通機構の 解明が充分になされていない。項目別の研究は花咲かりでも、産業経済史全体 の通史を書くことは瞭々たる有様である。従って各産業における卒業生は、郷 士のことはほとんど知らされずに猪突猛進する。 「知らろべきことがまだ知らされていない」とはギリシヤの歴史家ツキヂデ スの言葉であるが、郷土の若者の職業教育に必要な歴史知識を提供せんがため、 本論稿は書かれているのであって、一人でも多く郷士の歴史、とくに産業経済 -62-

(12)

史を学んでほしいし、また若者が自分のこれから進むべき流通部門を学ぶこと

は楽しいものである。そのように先人の歩みを学び、現実の矛盾に目醒め、矛

盾を克服しようとするところから誇高き産業人が生れるものである。知識は求

めなければ自覚に到らないものであるが、自らの知識は教育の課程から履修さ

れることがもっとも望ましい。

閑話休題、沖縄の文化は日本文化のなかでも珍らしい変り種とよくいわれる

が、それは長い歴史のなかで本土、中国、南方から入ってきた要素が混り合

い、多重層型の混合文化をなしていろ。しかし日本文化なるものは元来、大

陸、南方から渡来してきた民によって本土各地に及び、地方で強弱の度合いは

あれ、複雑融合して今日の地方文化となったように、沖縄の織物にしても絹は

中国から、蝿南方と本土、芭蕉布も南方から伝わったといわれ、日本文化の

なかでも異質の諸文化が混り合ってできた小型の複合文化、これが沖縄文化の

原型なのである。

織物にしても、琉球のような小さな島々によくもこれだけのすばらしい技術

が保存されたものだと感心せざるを得ないが、われわれの先祖は先進技術の修

得のため、万里の波涛を物ともせずに渡っていったのだろう。安南、ビルマ、

タイの習俗と比較すると、女の髪の結い方から泡盛の製造法まで酷似し、最近

まで地方に見られた女の手首の入墨などの風習は南洋サモア島の土着民とほと

んど変らない。琉球の音楽、舞踏もトンガ王国のものによく似ていろ。これら

大洋洲の文化がどのような影響を沖縄に及ぼしたかは、文化人類学の課題であ

るが、これからの研究課題としてとくに興味の惹<ところである。

沖縄本島はもちろん先島でも、12,13世紀のころまで土器、木の葉や貝殻

が食器として使用されたことからすると、多分に原始時代の習俗が支配してい

たのであろう。とくに沖縄は日本の地方のなかでも離島の持つ島国的性質が支

配的で、日本史のなかでは著しい地域的較差が生じることはもちろん、琉球王

府の時代はこれらの地域差を利用して、特産物を興して貢納させた。従って沖

縄の経済文化が東アジアのなかでも、著しい複雑な混合形態をなしている以上、

沖縄の産業形成、発展を叙述することはそう容易なことではあるまい。

沖縄の民が自らの地理的位置を利用し、外国文化を学ぶことによって体制的

-63-

(13)

なおくれを克服し、わずか数百年のうちに現在のような経済文化を築き得たこ

とは、世界史のなかでもそう多くはない。よく外国から訪れる研究者が沖縄を

学んで、「日本文化の古代博物館」と賛えたり、あるいは沖縄を東アジアのな かでも南方、中国への玄関口と考え、そこから文化の比較をするのも自然な論 理だと思うのである。 第2節沖縄商業史研究の意義

戦後日本の歴史学会では研究主題を時代別に専門化したり、細分化したりす

る傾向が強かった。とくにテーマの選択にあたっては、当面の政治経済状勢や 政党の戦術、戦略に焦点を会わせて行う傾向が強かったようである。これら自 らの興味の赴くまま、自己の置かれた経済的視点から考察することは止tPを得 ないとはいえ、なおそこに歴史発展の法則を追求する意図が少なかったのでは ないだろうか。イタリヤの歴史家クローチェが言っているように、確かに「真 の歴史は現代の歴史」であろう。それは過去を振返って因果関係を叙述するに しても、やはり歴史家の属する現代の階級的視点が問題となろう。 たとえば歴史といっても王朝、政府の機関によって歴史は書かれるのだが、 沖縄の歴史といえば支配者の立場から編纂された文書記録にすぎず、尚家中心 の歴史にすぎなかった。沖縄の支配者階級であった尚家の歴史は僅々五百年に 及ぶわけだが、もし沖縄の歴史が二千年まで湖ろことが可能だとすれば、尚家 の歴史はわずかその四分の一にしかすぎない。そのため従来の歴史書は支配者 の側から書かれた記録であって、生産を担当する庶民の側から書かれたもので

はない。(2)

従って従来の沖縄史はどちらかというと王統中心に編年され、庶民の生活を

捨象し、日本史の発展段階、東アジア周辺諸国の文化を考慮に入れなかった。

しかし戦後の研究者は歴史の発展法則に注目し、民族の生成発展の基本法則を 解明しようと努力を傾けてきたように思う。とくに経済史に関していえば、生 産の技術、生産手段の所属、労働の組織構成などの生産様式論、あるいは生産 物の分配、流通の方法などが重要な課題となり、その物質的基礎構造の上に政 治、文化が成り立つものと考えた。 -64-

(14)

これらの考え方は社会主義史学である唯物史観に基づいて行なわれているの だが、ドイツ歴史学の流れに即していえば、リストの生産力発展段階説からウ ェーバーの国民経済の類型論的考察にいたって高度の比較史的方法が完成した。 戦後マックス・ウェーバーの歴史理論が流行した背景には欧米、日本等におい て自由主義経済思想が復活した事情があり、日本の歴史学界では東京大学の大 塚久雄教授とそのグループにより産業革命期以後の国民経済の叙述に比較史的 方法を用いて行なってきた。 これまでの主題別の研究、政党労組の立場からする階級的視点より古代の奴 隷反乱や中世の百姓一摸を堀りおこす作業が現代の労働運動を鼓舞するとか、 あるいは源頼朝や徳川家康の治国策を学ぶことによって現代企業の労務管理を 効果あらしめるなど、もろもろの研究が花咲かりとなった。とくに最近アメリ カの1930年代の恐慌体験、日本の昭和恐慌の出版が跡も切らない状況であ る。 われわれの歴史といっても、現代において過去の事実をいかに解釈するか、 人類数千年の歴史とはいえ歴大な文書記録を取捨選択し、それを時代別に配列 することはそうたやすいことではない。第一にいかなる立場に立って歴史を編 纂するかでも、書かれた歴史はまったく内容がちがうし、原始時代から現代に いたるまでのトータルな歴史像を浮かびあがらせることが歴史家の任務とはい っても、全体と部分とをどう統一するかについても、理論的な枠組み作業がな されなければならない。 その意味でひとつの方法論としてマルクスの唯物史観や歴史学派の発展段階 説があるけれども、世界各地の国民経済、地域経済はそれぞれ個性的な経済特 質を持っているので、一般的な発展法則には律せられない特殊史が存在する。 大塚教授はそれを近隣諸国との経済史的比較を行うよう提唱したのであるが、 それぞれの支配体制を批判するばかりか、さまざまな史料から特定の史実を拾 い上げ、それを組み合わせてひとつの経済像を組み立てる。個々の史実はそれ とどのような意味を持つか、という問いかけ、たとえば日本で封建社会の成立 は鎌倉幕府の創設、あるいは南北朝期に成立したと見るのが通説であるが、近 世史学会では太閤検地以後、日本の封建社会が築かれたように考えている人が -65-

(15)

多い。これらは通説の上に立って歴史を書こうとする場合、その歴史家の依っ て立つ学説によって大きな違いを見せるものである。さまざまな事象から特定 史実を拾い上げ、その視点にもとづいた歴史像を再構成しようとする場合、批 判的な比較ということが導きの糸にならなければいけない。 ここで大塚氏の言葉を借りろと、「このように比較史的方法を意識的に駆使 しようというのだから、私たちの場合には、またどうしても批判的な比較のた めの基準としてさまざまな方法概念が構成されることになり、そのためには社

会科学、とくに経済学の諸知識が援用されねばならなくなってくる。」(5)戦後

日本の歴史学界において、比較史的方法というものは、まだ普及されたばかり で、年数が浅いため個々の産業史的応用はまだ未開拓の分野だといわれる。た とえばその産業が統計学の導入によって量的比較は可能になったとはいえ、質 的な比較は結局残された分野として存在する。 日本経済のなかでも特定の変り種だといわれる沖縄経済圏も、その発展段階 を考察するに際し、個々の産業の成立及び発達を見るばかりでなく、東アジア の近隣諸国、とくに本土各府県との経済的比較を抜きにしては、研究作業は一 歩も前進しない。これまでの通説では沖縄は一般に生産力が低く、その産業内 部の発展は本土各地より7,8世紀もおくれたというけれども、古代はたしか に農耕地が少なく、人口が稀薄で、おまけに産業の種類が少なかったというの が、古代国家の成立をおくらせた要因とも考えられる。村落共同体のなかで自 給自足の時代というものは、商業がまだ成立しない時代である。やはり商業の 発生は自給自足経済が崩れ、社会的分業が始まるところから現われろと考えら れろ。

しかし商業の発生は人類(畷Iflで古くから存在し、必需物資の交換から発生

しているようである。ふつう商とは商品売買の意味に使われているが、古来商 品を「あきもの」、商人を「あきびと」と呼ばれていたことから、秋の収穫時 に生活物資(穀物)が成熟し、これを他の必需物資と交換して商業が成立した。 原始、古代はまだ銭貨の使用が認められないけれども、直接布殻を代償して需 要が満たされていただけに、秋の季節に交易が行なわれていたのであろう。こ

の秋ものの交易を「あきない」と呼んだのではないか。(4)

-66-

(16)

秋の収穫時にできた余剰農産物は海岸地方の塩、海産物と交易されるが、次 第に交易は生活必需品から著侈品へとひろがり、それら物資を運搬する行商人 にいたって、商人という社会的分業が成立する。共同体的な自給自足の経済が

崩され、数ケ村を含むような局地内で、彼ら商人間にも生産物の売買が行なわ

れて、互いに販路を求め合うようになる。ここに大塚久雄教授の述べておられ る局地的市場圏が成立し、人間は必需品から著侈品をも含め、社会的分業の下、 に商人の果す流通機能を是認する。 中国における商の成立は、紀元前7世紀ごろ周から鄭にやってきた商人の一 族が新しい土地で商業の傍ら開墾事業に従事し、旅商、行商を営みながら村落 を築いていったらしい。彼らは遠近の地方から物資を運び、有無相通ずろとこ ろから地方民の称賛を博し、勢力を持つにいたった。従って商人とは商という 地方に勢力を持つ職業集団であるという説と、もうひとつは故国を追われて地 方に散在して商業活動に従事したユダヤ人と同じく、周の時代に段の遺民が亡 国の民として各地方に散在し、当時の商業活動に貢献したところから、段すな

わち商国人の業務というのが商業の起こりだというのである。(5)

従ってかなり古い時代から商業行為はあったし、日本でも藤原京、平城京、 平安京には宮司、貴族、寺院のために商品交換の場として東西市の制度が認め られていた。律令体制下でも朝貢貿易という形での朝鮮半島や大陸との交易が 見られたし、日本各地に局地的商業圏が成立するに伴い、漸次市場を通じて勢 力を扶植する商人が自然成長していったものと考えられろ。 第S節沖繩商業史の時代区分

沖縄の人々は昔から云わず語らずのうちに、世替bを覚えて歴史意識を形成

したようである。沖縄がまだ中国や日本の支配下におかれず、自らの手で琉球

諸島を守っていた時代をPli繩]と呼び、14世紀ごろ自ら進んで中国の冊

と-00-封を受け、進貢船を送っていた時代を「唐世」と称えた。唐は中国の代名詞み

たいなもので、1405年(永楽3)琉球にはじめて中国の冊封船を迎えたが、 かんせ/i, その際冊封使の船が王冠を携えてくるところから「冠船」と呼んだそうである。 しかし1372年、浦添按司察度が明の太祖の招請を受けた服属しない以前、 -67-

(17)

随、唐、宋、元の時代でも琉球)M}の往来はあったらしく、随書にも「琉球人が

初めて船艦に見え、もって商旅をなす。往々にして軍中に詣り、貿易する」と

述べており、琉球船は古代すでに中国沿岸まで交易に行っていたらしい。

やがて平安末期、源為朝から鎌倉幕府の創建に達すると、朝貢貿易は影を潜 め、アラビヤ商人が絹の道、海上の道を伝って西方の物資を運搬したが、唐商

人は南海物産、自国物産の販路を日本及び朝鮮に求めた。従って琉球人は新羅

商人と同じくその仲継商人として歴史の舞台へ登場する。薩摩藩も中国貿易の

利を求めたが、明国の拒絶に会い、琉球王国をとおして渡唐船を送った。やが

て1879年(明治12)、廃藩置県になると明治政府の体制内に組み込まれ、

やまとIO- 沖縄の人々はこの時代を「大和世」と呼んだ。

沖縄県民の間で戦後前の呼び方に倣って、米軍占領下に入った時代を「ウラ

ンダ世」と称したがウランダとは徳川時代和蘭貿易船がよく近海を往来してい

たところから西洋を表わし、ここでは米国を意味していた。このように民衆の

なかには政治的事件を記憶し、暗黙のうちに世替り思想を表現していることは

面白い。(6)県民意識のなかでの時代区分、すなわち沖縄世、大和世、ウランダ

世の三区分に学問的裏付けがあるわけではないが、、従来の歴史教育書では古代、

中世、近世、現代の四区分説が戦前有力であった。たとえば神田清輝の「沖縄

郷士歴史読本」を見ろと、次のように区分されていろ。 (1)古代(616年~1187年)

南島人の大和朝廷への入貢時代を第一期とし、孝謙天皇以後の大和朝

廷との交流衰微時代を第二期としていろ。 (2)中世(1187年~1609年)

舜天が支配し、察度が明と交通を始めるまでを第一期とし、察度から

薩摩入りまでの237年間を第二期とする。 (3)近世(1609年~1868年)

島津氏の支配から明治維新までを区分し、以下日本史の区分に準じて

いる。 (4)近代(1868年~現在) 明治以後から現代までを近代としていろ。 -68-

(18)

彼は昭和の初めどろ、県立第三中学校の校長を勤めており、いきおい日本史 の区分法を採り入れ、郷士史も日本史と同様に区分すべきだと考えていたよう である。 日本経済史の面では戦前、本庄栄治郎、黒正巌などの六区分法がやはり古代、 中世、近世、現代の四区分説から経済体制の変遷に重点をおいた区分説に変っ ていった。 (1)氏族経済時代 (2)班田収受時代 (3)荘園経済時代 (4)分権的封建時代 (5)集権的封建時代 (6)国民経済時代 これらの六区分説はドイツ歴史学派の影響により従来の四区分説から前進し、 戦後の歴史学界にも引き継がれ、東京大学の古島敏雄教授、大阪大学の宮本又 次教授も、この区分法に従って産業史が書かれた。この分類は仲原善忠にも大 きな影響を与え、日本史との関連で「琉球の歴史」が書かれた。 戦後日本の歴史学界にマルクス学派が勢力を有するにつれ、唯物史観の公式 に従い五区分説が普及した。 原始共同体→アジア的貢納制→古代奴隷制→中世封建制→資本主義体制 この図式はあまり沖縄の歴史学者に影響を与えなかったらしく、東恩納寛惇、 伊波普猷などの歴史叙述は、まだ経済社会の発展が明らかでないので、西洋史 学からこれらの考え方を借りなければ、生産様式、階級関係、分配の仕方など は明らかにされない嫌いがあるので、古代国家成立以前の歴史老いちおう原始、 古代、中世、近世、現代の順序に分けて分類する。 (1)原始社会(原始~8世紀) (2)古代社会(9世紀~12世紀) (3)中世社会(13世紀~16世紀) (4)近世社会(17世紀~19世紀) (5)現代社会(19世紀~20世紀) -69-

(19)

この五分説は戦後多くの文化史、経済史家に採用されるところから沖縄経済

史、産業史の面でも普及されるものと思うが、教育的意図から「琉球の歴史」

を書いた仲原善忠も、沖縄社会の内部的発展に重点をおき、沖縄地方史の時代

区分を次のように分類した。 (1)原始的狩猟漁携社会 (2)古代農業社会(部落時代) (3)a中世前期封建社会(按司~三山時代) b近世後期封建社会(王国第一、島津入り以後) (4)近代社会(沖縄県時代~現代) この四区分説は氏の長年の研究内容から出てきた結論であって、決して単な

る便宜的、窓意的なものではなかった。しかもこれまでの王統中心の真境名安

興、東恩納寛惇、川平朝申、新屋敷幸繁氏らと一線を画し、これが将来とも社

会経済史の面から支持されるものと信じた。1944年4月、沖縄、奄美大島

は事実上日本本土から分断され、翌年1月連合軍総司令部マッカーサー元師か

ら「琉球人は日本人でない」と声明されたが、この声明が動機となって当時沖

縄文化協会長の席にあった仲原は伊波普猷、東恩納寛惇にそれぞれ歴史を書い

て貰ったが、それらを不満に思い、自ら「琉球の歴史」を執筆したと語ってい

ろ。(7)

仲原氏の四区分と対照的なのは比嘉春潮氏であり、氏の「沖縄の歴史」は次

のような八区分説に立っていろ。 (1)原始時代(原始期~3世紀) (2)部落時代(4世紀~6世紀) (3)按司時代(7世紀~14世紀) (4)三山時代(14世紀~15世紀) (5)王国時代前期(15世紀~17世紀) (6)王国時代後期(17世紀~19世紀) (7)沖縄県時代(19世紀~20世紀) (8)米軍占領時代(~現代)

比嘉氏のそれは従来の王統中心の時代区分から脱却し、沖縄社会の内部的発

-70-

(20)

展を基準にしたもので、(1)の原始社会は(2)(3)の古代社会へ移行し、(3)(4)の政治

的社会の成立から(4)(5)の古代国家の形成期となり、(5)(6)の封建社会への傾斜期

を経て、(7)(8)の近代社会へ移行したと考えた。

比嘉春潮の「封建社会への傾斜」を重視する新里恵二氏は、沖縄の社会的発

展が本土より8世紀もおくれ、16世紀まで古代的(前封建的)性格をもって

いろと考え、薩摩入り以後、ようやく封建社会の傾斜を示すようになり、幕末

にいたるまで純粋な意味での封建社会には達し得なかったとして仲原氏の四区 分説を批判した。(次表参照) 新里説と仲原説との区分比較 (新里恵二箸「沖縄史を考える」131頁) -71- 世紀 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 仲原説 原始社会 漁猟時代 古代社会 部落時代 (農業社会) 前期 |封建社会 三山時代 按司時代 後期 封建社会 前期 王国時代 王国時代 後期 年代 I 1 I 一六○九 一四七○ 一四二九 一一一一一一一ハ 新 里説 原始社会 原始社会 最盛期の 崩壊期の 原始社会 政治的社 会の成立 古代社会 部落連合 豪族連合 中央集権 への傾斜 封建社会 からの道 おける上 封建化に

(21)

新里氏はこれは仮説であると断っておられるが、沖縄では鉄器と水稲耕作の 渡来が本土よりおくれたため、原始社会がかなり長く続き、6,7世紀ごろ本 土からの文化流入によってようやく原始社会の崩壊がはじまった。12世紀ご ろ按司と呼ばれる族長的支配が始まり、’4世紀に農機具の革命がおこなわれ、 従来の木製鍬、石斧が鉄器に代り、明と交易してから急速に進歩したとしてい ろ。 沖縄本島では中山、南山、北山という小国家が14,15世紀に乱立したけれ ども、これは封建国家ではなく、一種の部族連合だと氏は指摘する。15世紀 の初期、第一尚氏によって沖縄本島が統一され、初期の古代国家が成立するけ れども、これは一種の豪族連合政権であり、第二尚氏の尚真にいたって宮古、 八重山を従え、古代専制国家が成立する。それから1世紀のち、島津氏の琉球 入りによって沖縄の社会は封建社会への傾斜をみせはじめろ。氏の言葉を借り ろと、「慶長以後、琉球王国は封建社会への傾斜をみせており、古代的なもの

は遺制として残されていろ。」(8)

たしかに戦後われわれが地方をめぐって史料、口碑伝承を蒐集している間、 驚嘆したことは戦争によって文書記録がほとんど煙滅しているにもかかわらず、 農漁民の間に祭儀、習俗、口碑伝承が依然として記憶から消されることなく、 生きていることであった。しかし古代遺制が沖縄社会に根強く残っていること は事実だが、はたしてそれが’7世紀はじめまで古代とする史観が成立するか どうか、はなはだ疑問を感ぜざろを得ない。むしろ社会経済史の面から見れば、 仲原氏の区分説が有力であり、ここに暫らくは続くものと思う。もちろん新里 氏が沖縄史研究を日本史学の水準まで一気に押しあげようとする熱意はわかる が、まだ仮説的段階という気は免れない。 註1) 2) 雑誌「おきなわ」第18号に掲載されている。仲原善忠全集(沖縄タイムス刊)第1巻所収「沖縄歴史の考え方」176頁~ 206頁参照。 大塚久雄著作集第9巻(岩波書店発行)所収「比較経済史学ということ」295 頁より抜粋。 宮本又次著「概説日本商業史」(大原新生社刊)13頁。 福田敬太郎著「商学原理」(千倉書房刊)40頁。 3) 4) 5) -72-

(22)

6)金城朝永全集下巻(沖縄タイムス刊)所収「沖縄研究の粥 450頁。 7)仲原善忠全集第1巻所収前掲論文177頁以下。 8)新里恵二箸「沖縄史を考えろ」(勁草書房刊)188頁。 「沖縄研究の新段階とその意義」 -73-

参照

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