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〈調査報告〉公益財団法人陽明文庫蔵琉球関係資料について: 沖縄地域学リポジトリ

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Academic year: 2021

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全文

(1)

Title

いて

Author(s)

外間, みどり; 早瀬, 千明; 篠原, あかね; 濵地, 龍磨

Citation

沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE

HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(42): 181-219

Issue Date

2019-03-25

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/24876

(2)

181 -一 、はじめに 本 稿 は、 平 成 三 十 年( 二 〇 一 八 ) 七 月 四 日、 京 都 の 公 益 財 団 法 人 陽 明 文 庫( 以 下、 陽 明 文 庫 と 記 す ) で 調 査 し た 巻 子 六 件、 謄 写 冊 子 三 件、 文 書 三 件、 木 製 杯 一 件、 計 十 三 件 の う ち、 巻 子 六 件、 木 製 杯( 「 孔 林 楷 杯 」 ) 一 件 の 琉 球 関 係 資 料 の 調 査 報 告 で あ り、 平 成 二 十 九 年( 二 〇 一 七 ) 十 二 月 十 八 ~ 十 九 日 の 陽 明 文 庫 の 調 査 報 告を補うものである )1 ( 。 陽 明 文 庫 は、 公 家 の 名 門「 五 摂 家 」 の 筆 頭 で あ る 近 衛 家 に 伝 承 された古文書 ・ 古典籍 ・ 記録 ・ 書状 ・ 美術工芸品など、国宝八件 ・ 重 要 文 化 財 六 十 件 を 含 む 約 十 万 点 に お よ ぶ 資 料 を 保 存 管 理 す る。 昭 和 十 三 年( 一 九 三 八 ) に 当 時 の 首 相、 近 衛 家 第 二 十 九 代 当 主 の 近衛文麿によって財団法人として設立、 平成二十四年(二〇一二) 四月に京都府により公益財団法人に認定されている )( ( 。 こ の 近 衛 家 第 二 十 一 代 の 当 主 近 衛 家 煕( 一 六 六 七 ~ 一 七 三 六 ) が 琉 球 と 深 く 関 わ る 人 物 で あ る。 家 煕 と 程 順 則( 一 六 六 三 ~ ( ( ( ( ( ( 一 七 三 四 ) 、 蔡 温( 一 六 八 二 ~ 一 七 六 一 ) 等 と の 交 流 に つ い て は、 池 宮 正 治 氏 や 田 名 真 之 氏 が 家 譜 の 記 載 か ら 述 べ て い る が )( ( 、 家 煕 に 献 上 さ れ た 品 々 の 所 在 に つ い て は 明 か で は な か っ た。 特 に 程 順 則 が 献 上 し た「 孔 林 楷 杯 」 は お 酒 を 嗜 ま な い 家 煕 が 裏 返 し て「 木 仮 山 」 と し た と あ り、 そ の 形 に 想 像 を め ぐ ら し た 者 は 少 な く な い に違いない。今回、 陽明文庫の調査で確認できたのは「孔林楷杯」 を は じ め「 物 外 楼 記 」 「 木 仮 山 記 」 の 書 で あ る。 こ れ ら は す べ て 家 煕 に 献 上 さ れ た 品 々 で あ り、 家 譜 等 の 記 載 を 裏 付 け る こ と が で き る だ け で な く、 新 た な 事 項 も 確 認 で き る 貴 重 な 資 料 で あ る。 こ れ ら の 資 料 を 長 い 間 に わ た り 大 切 に 保 存 し て く だ さ っ た 陽 明 文 庫 には心から敬意と感謝の念を表したい。 本 稿 で は 平 成 二 十 九 ・ 三 十 年 の 調 査 を 踏 ま え て、 陽 明 文 庫 蔵 の 琉 球 関 係 資 料 が 近 衛 家 煕 に 献 上 さ れ る に 至 っ た 歴 史 的 背 景 を 程 順 則、 蔡 温、 玉 城 朝 薫 等 の 家 譜 お よ び「 吉 貴 公 記 」 ( 『 鹿 児 島 県 史 料 旧 記 雑 録 追 録 三 』 所 収 ) 等 の 記 録 か ら 詳 ら か に し た い。 ま た 資 料 調 査 内 容 を 記 し た 調 書 と 落 款 集 を 付 し た。 な お、 資 料 の 解 釈 は 後 日 の 課 題 と し て、 資 料 の 翻 刻 を 付 し た。 さ ら に 近 衛 家 煕 と 程 順 則 ( ( (   〈調査報告〉

 

公益財団法人陽明文庫蔵琉球関係資料について

外間みどり・早瀬千明・篠原あかね・濵地龍磨

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18( 18( -等との交流にかかる簡易な年表を付した。 本 題 に 入 る 前 に 少 し 近 衛 家 熙 に つ い て 言 及 し た い。 家 煕 は、 応 円 満 院 基 煕 を 父 に、 後 水 尾 天 皇 の 皇 女 無 上 法 院 常 子 内 親 王 を 母 に も つ。 家 熙 の 同 母 姉 の 煕 子 は 江 戸 幕 府 六 代 将 軍 徳 川 家 宣 の 御 台 所 で あ る。 ま た 家 熙 の 息 子 の 家 久 は 島 津 吉 貴 の 娘 を 娶 る な ど 薩 摩 の 島 津 氏 と も 姻 戚 関 係 で 結 ば れ、 後 述 す る 家 熙 と 程 順 則 や 蔡 温 等 と の 交 流 に も 薩 摩 の 存 在 が 大 き く 関 与 し て い る。 家 熙 は 宮 中 で 要 職 を 歴 任、 学 問 を 好 み、 有 職 に 詳 し く、 書、 詩 歌、 茶 の 湯、 立 花 な ど の 諸 芸 に 通 じ て い た こ と で 知 ら れ る。 こ れ に つ い て は『 豫 楽 院 鑑   近 衛 家 熙 公 年 譜 』 か ら、 家 熙 の 深 い 教 養 ば か り で な く、 当 時 の 公 家、 徳 川 将 軍 家、 大 名 家、 学 者、 文 人 お よ び 茶 人 等 と の 幅 広 い交流を窺うことができる )( ( 。 二 、陽明文庫蔵琉球関係資料の歴史的背景 家 譜 に よ る と、 程 順 則 は 正 徳 四 年( 一 七 一 四、 康 熙 五 四 ) の 琉 球 使 節 の「 江 戸 立 ち 」 の 帰 途、 近 江 の 草 津 で 近 衛 家 煕 か ら「 物 外 楼」の詩を依頼された。 「 物 外 楼 」 は 近 衛 家 煕 の 別 邸( 隠 居 ) 河 原 御 殿 に あ る 高 楼 で あ る。 物 外 は 世 事 を 離 れ た 場 所、 俗 世 間 の 外 の 意。 河 原 御 殿 は 東 山 を 望 み 賀 茂 川 に 臨 む と こ ろ に 位 置 し、 家 煕 が こ よ な く 愛 し て い た 別 邸 で あ り )( ( 、 正 徳 三 年( 一 七 一 三 ) に 一 応 の 完 成 を 見、 家 煕 は ( ( ( ( ( ( 移 り 住 ん で い る。 家 熙 は、 正 徳 元 年( 一 七 一 一 ) に は 太 政 大 臣 を 辞 し、 翌 正 徳 二 年( 一 七 一 二 ) に は 摂 政 を 辞 し、 そ の 後、 元 文 元 年(一七三六)に薨ずるまで物外楼のある河原御殿で過ごした。 ( 一 )正徳四年の琉球使節と「物外楼記」の献上 正 徳 四 年 の 琉 球 使 節 は、 慶 賀 正 使 尚 監 与 那 城 王 子 朝 直・ 謝 恩 正 使 尚 永 泰 金 武 王 子 朝 祐 以 下 計 一 七 〇 名 で 構 成 さ れ て お り )( ( 、 程 順 則 )( ( ( 江 戸 慶 賀 掌 翰 使   道 中 は 宮 里 と 改 名 ) の ほ か、 組 踊 り の 創 始 者 と し て 知 ら れ る 玉 城 朝 薫 )8 ( ( 座 楽 主 取 兼 任 通 事 役 ) ら が 従 事 し て いた。 使 節 は、 正 徳 四 年( 一 七 一 四 ) 五 月 二 十 六 日 に 那 覇 港 を 出 港。 五 月 三 〇 日 鹿 児 島 山 川 港 に 入 港。 六 月 八 日 麑 げ い ふ 府 に 到 着( 玉 城 家 譜 では六月九日) 。 九 月 九 日 に 江 戸 へ 向 け て 海 船 に て 出 発、 こ の 時 琉 球 使 節 と 共 に 島 津 吉 貴 )( ( が 江 戸 へ の 二 年 一 回 の 参 勤 を 行 っ て い る ) 11 ( 。 す な わ ち 麑 府 を 出 立 し た 使 節 と 島 津 吉 貴 ら 薩 摩 藩 の 参 勤 の 一 行 は 江 戸 ま で の 道中の一部を同行することになった ) 11 ( 。 十 月 二 十 七 日 に 大 坂 到 着( 島 津 吉 貴 の 大 坂 到 着 は 二 十 九 日 ) 。 十 一 月 三 日 に 伏 見 到 着( 吉 貴 の 到 着 は 十 一 月 四 日 ) 。 こ の 伏 見 に お い て 近 衛 家( 家 熙 の 父 基 煕 ) と 琉 球 人 と の 初 め て の 交 流 が お こ な わ れ た こ と が『 基 煕 公 記 』 か ら 確 認 で き る。 琉 球 使 節 は 家 煕 の 父 基 煕 と 願 王 院 ) 1( ( を 通 し て 会 っ て い る。 後 述 の 程 順 則 ら と 家 煕 と の交流も願王院がその仲介役であった。 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (

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18( -琉 球 使 節 と 薩 摩 藩 の 参 勤 の 一 行 は 十 一 月 七 日 に 伏 見 を 出 発。 江 戸 芝 屋 敷( 薩 摩 藩 上 屋 敷 ) へ 到 着 し た の は 十 一 月 二 十 六 日 の こ と で あ っ た。 な お、 使 節 の 江 戸 で の 行 動 に つ い て は 詳 述 を 省 く。 将 軍( 七 代 将 軍 家 継 ) 1( ( ) へ の 謁 見 を 終 え た 琉 球 使 節 は 十 二 月 二 十 一 日、 薩 摩 藩 家 老 肝 付 主 殿 ) 1( ( ら と 共 に 江 戸 を 出 発。 正 徳 五 年( 一 七 一 五 ) 一月九日草津に到着した。 一月九日、 近衛家熙は願王院権僧正徧詢を派遣し、 程順則に「物 外楼」に関する詩文の作成を依頼し、 自筆の「小武当山八景手巻」 一 軸、 「 欹 案 」 一 個、 「 薫 物 」 一 香 合 を 下 賜 し た ) 1( ( 。 家 熙 の 依 頼 を 受 け 程 順 則 が 作 成 し 献 上 し た も の が、 「 物 外 楼 記   程 順 則 書 」 ( 資 料 1 ) 1( ( ) で あ る。 「 物 外 楼 記 」 ( 資 料 1) の 作 成 の 日 時 は「 正 徳 乙 未 春 正 月 燈 節 前 三 日 於 江 州 草 津 客 邸 」 と あ り、 燈 節( 元 肖 節 ) の 三日前すなわち一月十日に草津の宿でしたためたものである ) 1( ( 。 ま た、 玉 城 朝 薫 の 家 譜 に よ れ ば、 同 九 日、 近 衛 家 熙、 中 院 大 納 言 通 茂 ) 18 ( が 使 者 と し て 願 王 院 権 僧 正 徧 詢 を 草 津 の 薩 摩 藩 家 老 肝 付 主 殿 の 宿 へ 派 遣 し、 そ こ に 召 し 出 さ れ た 玉 城 朝 薫 等 は 扇 子 へ 琉 歌 を 書 い て ほ し い と 依 頼 を 受 け て い る。 朝 薫 は 扇 子 に 琉 歌 を 書 い て 献 上 し、 家 熙 か ら「 香 合 」 一、 通 茂 卿 か ら「 小 人 形 入 手 匣 」 一 を 賜 っ た ) 1( ( 。 陽 明 文 庫 で は、 朝 薫 が 献 上 し た「 琉 歌 」 の 扇 子 の 所 在 は確認できていない。 草 津 を あ と に し た 使 節 一 行 は 一 月 十 一 日 伏 見 着。 一 月 十 二 日 大 坂 着。 二 月 二 十 一 日 麑 府 に 到 着 し た。 麑 府 で 琉 球 使 節 は 約 三 週 間 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( の 滞 在 の 後 ) (1 ( 、 三 月 十 八 日 山 川 港 を 出 港、 三 月 二 十 四 日 那 覇 に 到 着した。 ( 二 )「孔林楷杯」の献上 使 節 の 帰 国 後、 正 徳 五 年 四 月 二 日、 尚 敬 王 か ら 薩 摩 藩 家 老 種 子 島 弾 正 ) (1 ( 宛 て に 草 津 に お け る 近 衛 家 熙 と 程 順 則 ら の や り 取 り に 関 し て、 書 状 が 出 さ れ た ) (( ( 。 書 状 に は、 家 熙 か ら 宮 里( 程 順 則 ) ・ 玉 城( 朝 薫 ) ・ 浜 川 ) (( ( に 手 跡 の 御 用 を 仰 せ つ か り、 拝 領 物 も あ っ た こ と は あ り が た い こ と で あ る、 こ れ は ひ と え に 中 将( 島 津 吉 貴 ) の 威 勢 の お か げ で あ る。 ( 吉 貴 に ) よ ろ し く 伝 え て い た だ き た い、 とある。 こ の 尚 敬 王 の 書 状 と は 別 に、 程 順 則 も 六 月 二 十 六 日 付 の 書 状 で、 拝 領 物 に 対 し て 返 礼 の 品 を 用 意 し、 薩 摩 藩 を 通 し て、 近 衛 家 熙 に 三品を献上することを願い出ている。 一康熙皇帝御詩宸筆石摺壹枚 一詩韻釋要壹部   一孔林楷杯壹 右、 當 正 月 江 府 ヨリ 罷 下 候 砌、 於 草 津 之 宿 従   近 衛 摂 政 様 物 外 楼 之 詩 文 并 讃 字 之 類 書 調 被 仰 付、 拝 領 物 等 頂 戴 難 有 仕 合 奉 存 候、 依 之 書 調 差 上 候 節、 唐 字 之 類 軽 物 献 上 仕 候 而 者 如 何 御 座 候 哉 之 旨 両 王 子 ヨリ 被 伺 置 候 付、 右 之 品 進 上 仕 度 奉 願 候、 於 成 合 申 儀 者此節差登可申候此旨宜御披露頼上候以上 六月二十六日      前名宮里親雲上   古波蔵親方 ((2 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (

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18( 18( -正月、 江戸からの帰途、 草津の宿において摂政様 (家煕) より 「物 外 楼 」 の 詩 文 お よ び 讃 字 の 類 を 書 く よ う 仰 せ つ か り、 拝 領 物 を い た だ い た。 こ れ に よ り 書 を 献 上 す る 際、 唐 字 の 類 の「 軽 物 」 を 献 上 し て は ど う か と、 江 戸 立 ち の 両 使 者 与 那 城 王 子、 金 武 王 子 よ り 伺ったので、右の品々を進上したいとある。 こ の 時、 程 順 則 か ら 近 衛 家 熙 に 献 上 さ れ た 品 が「 康 熙 皇 帝 御 詩 宸筆石摺」 一枚、 「詩韻釈要」 一部、 「孔林楷杯」 一である ) (( ( 。この 「孔 林楷杯」が陽明文庫で確認できた「孔林楷杯」 (資料2)である。 献 上 さ れ た こ れ ら の 物 品 の 様 子 が、 翌 正 徳 六 年( 一 七 一 六 ) 六 月二日の書状から見て取れる。 疇 昔、 御 持 参 從 琉 球 国 古 波 蔵 親 方 献 上 之 三 箇 御 熟 覧 之 處、   康 煕 帝 宸 筆 石 刻 一 幅、 詩 韻 釋 要 一 帙、 當 時 珍 書 始 御 覧 之 事 候、 就 中 孔 林 楷 杯 一 枚 他 邦 之 奇 物 殊 更 順 則 持 来 之 委 曲 記 録 被 相 添 候、 深 志 旁 御 感 悦 不 斜 忝 御 秘 蔵 御 事 候、 此 等 之 趣 種 子 島 弾 正 方 猶 宜 有御傅達之旨   前摂政殿御命候、恐惶謹言 六月二日     中川石見守長堅 願王院権僧正様 机下 ) (( ( 書 状 は、 家 熙 の 属 僚 中 川 石 見 守 か ら 派 遣 さ れ た 願 王 院 に よ り 種 子 島 弾 正 に 届 け ら れ た 後、 種 子 島 弾 正 か ら 三 司 官 へ と 送 ら れ、 程 順 則 に 伝 え ら れ た。 書 状 に は、 以 前、 程 順 則 が 献 上 し た 三 品 を 熟 覧 し た と こ ろ、 康 熙 皇 帝 御 詩 宸 筆 石 刻 と 詩 韻 釈 要 は 当 時 の 珍 書 に ( ( ( ( ( ( ( ( し て 初 め て ご 覧 に な っ た と の こ と。 と り わ け「 孔 林 楷 杯 」 は 異 国 の 奇 物 に し て、 わ ざ わ ざ 程 順 則 が 持 ち 帰 っ て き た 由 来 を 詳 し く 書 き添えてくれた心遣いに感激し、 これを秘蔵物とする、 とある。 「孔 林楷杯題字   程順則書」 (資料3) (以下 「孔林楷杯題字」 (資料3) と記す)がその由来を認めた書である。 こ れ に よ る と、 程 順 則 が 家 煕 に 献 上 し た「 孔 林 楷 杯 」 は、 魯 国( 山 東 省 ) の 孔 林( 孔 子 と そ の 末 裔 の 墓 地 ) か ら の も の で あ る。 孔 子 の 高 弟 子 の 子 貢 が 孔 子 の 墓 に 植 え た 楷 樹 が 繁 茂 し て 林 と な っ て お り、 好 事 家 は そ の 楷 樹 の 盤 根 の 錯 節 の こ ぶ し の よ う に な っ た と こ ろ を 取 っ て 杯 盤 を 作 成 し て い る と い う。 私( 程 順 則 ) が 康 熙 四 五 年( 一 七 〇 六 ) 進 貢 正 議 大 夫 ) (( ( と し て 渡 閩、 上 京( 北 京 へ 赴 く ) の 途 中、 山 東 省 に 立 ち 寄 り、 孔 子 廟 を 参 拝、 次 い で 孔 林 に 拝 し た 際 に、 楷 杯 を 得 て 持 ち 帰 っ て き た。 こ こ に そ の 経 緯 を 記 し て 徴 言 と す る、 と あ る。 「 徴 言 」 は「 験 証 言 辞 」 ( 証 拠 の 言 ) の 意 で、 「 孔 林 楷 杯 」 に は こ の よ う に 確 か な 由 来 が あ る と い う こ と で あ ろ う。 こ の「 孔 林 楷 杯 題 字 」 ( 資 料 3) は「 徴 言 」 と し て、 程 順 則 の家譜にも記載されている ) (8 ( 。 「孔林楷杯」 (資料2) については、 家煕の侍医、 山科道安の 『槐 記 ) (( ( 』 「享保九年或時条」に次のような記載がある。 或 ト キ、 宗 白 ト 一 所 ニ 参 候 ノ 事 ア リ ケ ル。   御 談 ニ 琉 球 ノ 程 順 則 ハ 年 来 故 ア リ テ 折 ニ 書 翰 ヲ 奉 ル。 去 年 輪 番 ニ テ 本 唐 ニ 行、 今 年 カ ヘ リ テ、 土 産 ニ 孔 子 ノ 廟 ヘ 参 リ、 孔 廟 ノ 傍 ニ 昔 シ 子 貢 ノ 植 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (

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18( -ラ レ タ リ ト 云 楷 木 ノ カ ブ ア リ テ、 ソ ノ 木 ハ 枯 朽 テ、 又 砌 ニ 若 木 ノ 楷 木 ノ 後 世 ニ ウ ヱ タ ル ア リ。 ソ ノ 昔 ノ 楷 木 ノ 杭 ノ 一 塊 ヲ ト リ カヘリテ、 内ノカタヲ 0 0 0 0 0 漆 0 ニテヌリ 0 0 0 0 、 楷杯ト号シテ、 又一巻ヲ捧ク。 ソ ノ 形 古 木 ニ シ テ 今 様 ア ル ヘ キ 物 ニ ア ラ ス、 然 レ ト モ   公 曾 テ 酒 ヲ 嗜 玉 ハ ス、 イ ト 惜 キ 事 ナ リ。 覆 シ メ ミ レ ハ、 木 理 縦 横 高 下 凸 凹 フ ノ 形 假 山 ト シ テ ミ ハ ヤ ト ヲ ホ シ メ シ テ、 其 旨 ヲ 仰 ツ カ ハ サ ル。 程 氏 モ 辱 キ 事 ニ 思 ヒ ケ ン、 又 假 山 記 一 巻 を 書 テ 奉 ル ((3 ( ( 以 下後略 ( 『 槐 記 』 に は、 程 順 則 が 楷 木 の 塊 を 持 ち 帰 り、 そ の 内 側 に 漆 を 塗 っ て「 楷 杯 」 と し た と あ り、 「 孔 林 楷 杯 題 字 」 ( 資 料 3) に い う 「拜孔林時、 得楷杯而歸矣」 (孔林に参拝した時に楷杯を得て帰る) の表現とは異なる。現在、 陽明文庫に保存されている「孔林楷杯」 ( 資 料 2) の 内 側 に は 金 が ほ ど こ さ れ て お り、 金 を 定 着 さ せ る た め に は 下 地 に 漆 を 塗 る 必 要 が あ る と い う こ と を 考 慮 す る と、 程 順 則 が 中 国 か ら 持 ち 帰 っ た 楷 木 ) (1 ( で、 楷 杯 を 自 ら 作 製 し た 可 能 性 も 否定できない。詳細は今後の調査を待ちたい。 ( 三 )「木仮山記」の献上 正 徳 六 年( 一 七 一 六 ) に 近 衛 家 熙 の も と に 献 上 さ れ た「 孔 林 楷 杯 」 ( 資 料 2) の 様 子 が 琉 球 へ 届 く の は 二 年 後 の 享 保 三 年( 康 熙 五七、 一七一八)のことである ) (( ( 。 享 保 三 年 八 月 十 九 日 付 の、 家 煕 の 命 を う け 近 衛 家 老 近 藤 刑 部 左 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 衞 門 が 薩 摩 に 伝 え る よ う に と 願 王 院( 権 ) 僧 正 に 宛 て た 書 状 に は 次のようにある。 前 摂 政 殿 旦 暮 御 賞 愛 不 少 候、 然 者 如 御 存 知 御 酒 不 被 召 上 候 故 杯 之 儘 ニ 而 被 差 置 候 ハ バ 御 残 念 思 召 候、 依 之 杯 を う ち 返 し 御 覧 被 成 候 得 者 其 形 木 假 山 ニ 成 申 候 間、 御 床 被 差 置 御 覧 被 成 度 思 召 候、 梅 聖 兪 木 假 山 老 泉 木 假 山 記 御 覧 被 成 候 故 被 思 召 付 候、 於 日 本 ハ 木假山を愛候儀無之候故、旁以御秘蔵思召候事 ((( ( 家 熙 公 は 朝 も 夕 も「 孔 林 楷 杯 」 を 賞 愛 し て い る。 と こ ろ が ご 存 じ の 通 り( 家 熙 公 は ) お 酒 を 召 し 上 が ら な い の で、 杯 の ま ま 置 い て お く の は 残 念 だ と お 考 え に な り、 杯 を 裏 返 し て 御 覧 に な ら れ た と こ ろ、 そ の 形 は 木 假 山 と な っ た の で、 御 床 に 置 い て 御 覧 に な り た い と 考 え ら れ た。 梅 聖 兪 ) (( ( の「 木 假 山 」 ・ 老 泉 ) (( ( の「 木 假 山 記 」 を 御 覧 に な ら れ た 故 の こ と で あ ろ う。 日 本 に お い て は 木 假 山 を 愛 で る 習 わ し( 風 俗 ) は な い の で、 御 秘 蔵 と し て 大 事 に し て お ら れ る、 と あ り、 続 け て、 ① 家 熙 が「 楷 杯 」 を「 木 仮 山 」 と し て 愛 玩 し て い る こ と。 ② 程 順 則 が 献 上 の 際 に、 「 楷 杯 」 は 程 順 則 が 使 者 と し て 中 国 に 行 っ た 時 に 孔 林 で 手 に 入 れ た 物 で あ る と、 そ の 入 手 経 路 が 記 さ れ た 書 が 添 え ら れ て い た こ と。 ③「 楷 杯 」 を 物 外 楼 に おいて愛玩していること。④前述の経緯を書き入れて 「木仮山記」 を 書 い て い た だ き た い。 そ の 作 者 は 程 順 則 の ほ か、 「 琉 球 国 学 士 」 の 中 の 誰 で も よ ろ し い。 清 書 し た も の は 巻 物 に 仕 立 て て ほ し い。 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (

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18( 18( -こ の た び 薩 摩 藩 家 老 種 子 島 弾 正 に 相 談 し て、 薩 摩 の 守( 吉 貫 ) の 内 諾 も 得 て「 木 仮 山 之 記 」 作 成 の 要 望 が 叶 う よ う 願 王 院 に も 一 働 きして欲しいとの内容であった ) (( ( 。 享 保 三 年( 康 熙 五 七、 一 七 一 八 ) 冬、 薩 摩 を 通 し て 琉 球 へ「 孔 林 楷 杯 」 の 現 況 と「 木 仮 山 記 」 作 成 の 依 頼 が 伝 え ら れ る と、 王 府 は 蔡 温 に 命 じ て「 木 仮 山 記 」 一 篇 を 作 成 さ せ た ) (( ( 。 「 琉 球 国 学 士 」 の中からと選ばれたのが蔡温であった。 なお、 程順則は 「木仮山記」 を 書 い て い な い。 程 順 則 は 同 康 熙 五 七 年 十 月 二 十 一 日 に 来 年 封 王 謝 恩 使 紫 金 大 夫 に 任 命 さ れ ) (8 ( 、 尚 敬 冊 封 の 謝 恩 使 節 の 副 使 に 決 ま っ ていた。 「木仮山記」 作成の依頼が琉球に伝えられたのは、 同年 (享 保 三 ) の 冬 で あ る か ら、 程 順 則 は ま さ し く 冊 封 使 節 迎 接 と 冊 封 後 の 謝 恩 の 準 備 で 極 め て 多 忙 で あ り、 「 木 仮 山 記 」 を 書 け る 状 況 に なかったと考えられる ) (( ( 。 翌 享 保 四 年( 康 熙 五 八、 一 七 一 九 ) 夏、 蔡 温 作「 木 仮 山 記 」 一 篇 が 薩 摩 を 通 し て 近 衛 家 熙 に 献 上 さ れ た ) (1 ( 。 こ の「 木 仮 山 記 」 一 篇 が、 陽 明 文 庫 に 保 存 さ れ て い る「 物 外 楼 楷 杯 為 木 假 山 記   蔡 温 書」 (資料4) (以下「木仮山記」 (資料4)と記す)である。 「木仮山記」 (資料4)には、左記のようなくだりがある。 甲 午 の 秋、 吾 が 国 の 程 順 則、 江 戸 出 使 の 際、 家 煕 の 高 雅 な 風 格 を 聞 き、 大 い に 慕 う が、 な に し ろ 旅 先 の こ と で わ ず か な 物 し か 持 っ て お ら ず、 か り そ め に 中 華 の 楷 杯 を 家 煕 公 に 献 上 し た。 家 煕 公 の 獲 た そ の 杯 は、 異 国 の も の で あ っ て も、 ( お 酒 を 嗜 ま ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ない家煕公の ( この楼 (物外楼 ( に相応しい器ではない。ある日、 ( 家 煕 公 が ( こ れ( 孔 林 楷 杯 ( を 鑑 賞 し て い る と き に、 手 の 動 き の ま ま 裏 返 し た と こ ろ、 そ の 形 は 山 の よ う で あ り、 じ っ と こ れ を 眺 め て い る と、 ま る で 崑 崙 山 が 俗 界 の 煩 悩 か ら 解 き 放 た れ た よ う で あ り、 ま た 蓬 莱 山 が 海 に 浮 か ぶ か の よ う で あ る。 遠 く か ら 眺 め て も 近 く か ら 見 て も、 そ の 興 趣 は 尽 き な い。 家 煕 公 は 机 を 叩 い て 喜 ん で 言 っ た。 「 こ れ は 木 仮 山 だ。 か の 木 仮 山 に つ い て は、 私 は 耳 に し た こ と は あ る が、 ま だ 目 に し た こ と は な い。 今、 私 が こ れ を 手 に 入 れ る と は、 思 い が け な い 縁 で は な い だ ろ うか」と。そこで物外楼に置いて、朝夕これを愛でた。 あ る 人 が こ れ を 聞 い て 言 う に は、 「( 楷 杯 は ( 杯 で も あ り 仮 山 で も あ る。 一 つ な が ら に 二 つ の 器 で あ る。 ぬ き ん で た 物 と 謂 え よ う 」 と。 私( 蔡 温 ( が 言 う に は、 「 そ う で は な い。 家 煕 公 が ま だ 手 に 入 れ て い な い 時 は 酒 器 で あ っ た が、 家 煕 公 が 手 に 入 れ て 初 め て 仮 山 と な っ た。 物 が ぬ き ん で て い る の で は な い、 人 が ぬ き ん で て い る の だ 」 と。 あ る 人 が 感 嘆 し て 言 う に は、 「 美 事 な こ と よ。 家 煕 公 の 楽 し み は 仮 山 に あ り、 酒 の 杯 よ り は る か に すぐれている」と。私(蔡温 ( がまた言うには、 「そうではない。 別 の 人 た ち の 楽 し み は 仮 山 に あ り。 そ の 楽 し む と こ ろ は『 仮 』 で あ り、 『 真 』 で は な い。 家 煕 公 の 楽 し み は た だ こ れ を 得 た と い う こ と だ け で あ っ て、 そ の 心 は 仮 山 に あ る わ け で は な い。 そ の 楽 し む と こ ろ は『 真 』 で あ り、 『 仮 』 で は な い の だ。 そ う だ と す る と、 物 外 の 趣( お も し ろ み ( は 家 煕 公 ひ と り が こ れ を 感 じとっているのであって、どうして別の人にわかろうか」と (24 ( 。 ( ( ( (

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18( -蔡 温 の「 木 仮 山 記 」 は、 官 職 を 辞 し、 世 俗 を 避 け、 物 外 楼 の あ る 別 邸 河 原 御 殿 で 過 ご す 家 煕 に つ い て、 物 外 す な わ ち 隠 逸 の 世 界 の 興 趣 を 感 じ 取 っ て い る の は 家 煕 公 た だ 一 人 と 称 え た も の で あ る。 そ の こ と が 家 煕 の 興 味 を ひ い た こ と は 想 像 に 難 く な く、 後 述 の 蔡 温等に改めて 「物外楼」 の詩を依頼する契機になったと考えられる。 と こ ろ で 蔡 温 は「 木 仮 山 記 」 の 中 で、 程 順 則 が 楷 杯 を 献 上 し た の は、 江 戸 出 使 の 甲 午 の 年( 正 徳 四、 康 熙 五 三、 一 七 一 四 ) の 秋 と し て い る が、 実 際 に 程 順 則 が 楷 杯 を 献 上 し た の は、 前 述 し た よ う に、 江 戸 出 使 か ら 戻 っ て 約 三 ヶ 月 後 の 翌 年 正 徳 五 年( 康 熙 五四、 一七一五)六月二十六日である。 享 保 五 年( 康 熙 五 九、 一 七 二 〇 ) 九 月 三 日、 種 子 島 弾 正 か ら 以 下の書状がもたらされた。 右 前 摂 政 様 江 先 年 程 順 則 ゟ 差 上 候 楷 杯 御 物 数 寄 ニ 而 木 假 山 ニ 被 成 候 記 調 差 上 候 處、 蔡 文 若 文 章 結 構 ニ 成、 程 順 則 別 記 相 添 差 上 丁 寧 懇 切 之 儀 不 残 御 喜 慮 之 御 事 ニ 候、 文 章 両 篇 物 外 楼 之 珍 玩 不 過 之 思 召 候、 依 之 御 側 江 有 合 候 品 々 右 之 通、 此 度 拝 領 被 仰 付 候。 間、難有頂戴可仕候、以上 (2( ( 書 状 に は、 摂 政 様 へ 先 年 程 順 則 が 献 上 し た 楷 杯 が、 「 木 仮 山 」 と な っ た こ と に つ い て 書 き 調 え 献 上 す る よ う に 申 し て い た と こ ろ、 蔡 温 の「 文 章 」 は た い へ ん す ば ら し く、 程 順 則 も「 別 記 」 を 添 え て 献 上 す る な ど、 懇 切 丁 寧 な こ と と て も お 喜 び で あ る。 こ の 二 篇 ( ( ( ( の 文 章 は 物 外 楼 の 珍 玩 も 及 ば な い と の お 考 え で あ る。 よ っ て 側 置 きの品を差し上げるのでありがたく頂戴するようにと、あった。 享 保 五 年( 康 熙 五 九、 一 七 二 〇 ) 冬、 種 子 島 弾 正 を 通 し て 近 衛 家 熙 か ら の 拝 領 物 が 琉 球 に 到 着、 蔡 温 は「 五 重 硯 匣 」 一 分 を 受 け 取 っ た。 な お、 程 順 則 が 拝 領 物( 「 薫 物 」 一 香 合 ) を 受 け 取 っ た の は、 中 国 へ の 謝 恩 使 節 か ら 戻 っ た 翌 年 の 享 保 六 年( 康 熙 六十、 一七二一)六月であった ) (( ( 。 こ の 拝 領 物 に 対 す る お 礼 と し て、 国 王 尚 敬 が 薩 摩 藩 家 老 北 郷 作 左 衞 門 ) (( ( に あ て た 享 保 六 年 四 月 十 三 日 付 の 書 状 に よ る と ) (( ( 、 蔡 温 の 「 文 章 」 、 程 順 則 の「 別 記 」 、 す な わ ち「 物 外 楼 」 の 珍 玩 も 及 ば な い と す る「 両 篇 」 と は、 蔡 温 の「 木 仮 山 之 記 」 と 程 順 則 の「 楷 杯 之記」 のことである。程順則 「楷杯之記」 が何を指すかについては、 『 魁 記 』 の 記 述 に、 「 孔 林 楷 杯 」 を 裏 返 し て 几 つく え の 上 に 置 き、 そ の 周 り に 砂 を ま き、 砂 洲 の よ う に し、 そ ば に は 中 国 か ら 持 ち 帰 っ た 由 来 を 書 い て「 楷 杯 」 と し た 一 巻 と「 仮 山 記 」 一 巻 を お い て 拝 見 し た と あ る ) (( ( 。 ま た 現 在、 陽 明 文 庫 蔵 の「 木 仮 山 記 」 と「 孔 林 楷 杯 題 字 」 の 二 件 が 一 つ の 箱 に 収 め ら れ て い る 状 況 を 鑑 み る と、 尚 敬 王 の 書 状 で い う 程 順 則「 楷 杯 之 記 」 は 程 順 則 が「 孔 林 楷 杯 」 に 添 え て 家 煕 に 献 上 し た「 孔 林 楷 杯 題 字 」 ( 資 料 3) を 指 し て い る と 考えてよいだろう。 ( 四 )「物外楼記」の献上 前 述 九 月 三 日 の 書 状 よ り 三 ヶ 月 前、 近 衛 家 煕 か ら は ま た 別 の 依 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (

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188 18( -頼 が 届 い て い た。 家 煕 の 依 頼 を 受 け て、 享 保 五 年 六 月、 種 子 島 弾 正 よ り 薩 摩 藩 内 に 宛 て、 蔡 温 に「 物 外 楼 」 の 詩 の 作 成 を 所 望、 ま た 蔡 温 以 外 の 琉 球 人 で 詩 文 の 作 成 が で き る 者 に も 書 い て 欲 し い、 そ れ ら を「 物 外 楼 」 に か け て お き た い、 詩 文 は 唐 紙 に 書 き 調 え て、 で き 次 第 送 付 し て 欲 し い 旨 の 書 状 が 出 さ れ た ) (( ( 。 こ れ を 受 け て 同 年六月十七日、 書状の内容が弓削益右衛門から三司官(琉球王府) に通達され、蔡温等に伝えられた ) (8 ( 。 享 保 六 年、 蔡 温 は「 物 外 楼 記 」 一 篇 お よ び 漢 詩 四 首 を 薩 摩 を 通 して、家煕に献上した ) (( ( 。 この蔡温の 「物外楼記」 一篇が、 陽明文庫蔵の 「物外楼記 蔡温書」 (資料5)であり、 漢詩四首が、 「物外楼記 蔡温書」 (資料6の1) で あ る。 資 料 5 に は「 享 保 六 年 春 二 月 穀 旦 」 と 作 成 年 が 記 さ れ て い る。 蔡 温 の 漢 詩 四 首 に は 作 成 年 月 は な い が、 資 料 5 と 同 時 期 に 献 上 さ れ て い る の で、 資 料 6 の 1 の 作 成 年 月 は 享 保 六 年 二 月 ご ろ だと推定できる。 蔡 温 以 外 の 琉 球 人 で 詩 文 の 作 成 が で き る 者 に も 書 い て ほ し い と の要望のもと選ばれた者が、 陽明文庫蔵の「物外楼記   蔡文溥書」 ( 資 料 6 の 2) 、 「 物 外 楼 記   陳 其 湘 書 」 ( 資 料 6 の 3) 、 「 物 外 楼 記   楊 大 正 書 」 ( 資 料 6 の 4) と「 物 外 楼 記   蔡 肇 功 書 」 ( 資 料 7 の 1) 、「物外楼記   曾暦書」 (資料7の2) 、「物外楼記   蔡淵書」 (資 料 7 の 3) か ら 確 認 で き る。 選 ば れ た の は 蔡 文 溥、 陳 其 湘、 楊 大 正、 蔡 肇 功、 曾 暦、 蔡 淵 で あ っ た。 こ の う ち 蔡 文 溥 が 作 成 し た 漢 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 詩 六 首 は、 蔡 文 溥 の 家 譜 に も 記 載 が あ る が ) (1 ( 、 作 成 年 月 は、 資 料 6 の 2 か ら「 享 保 歳 在 辛 丑 仲 夏 望 後 五 日 」 す な わ ち 享 保 六 年 五 月 二 十 日 で あ る こ と が わ か る。 蔡 文 溥 以 外 の「 物 外 楼 記 」 に は 作 成 年 月 の 記 載 は な い が、 お そ ら く 蔡 文 溥 と そ れ ほ ど 離 れ て い な い 時 期に作成、献上されたものと考えてよいだろう。 ま た 資 料 6 ・ 7 は 絹 本 で、 七 名 の「 物 外 楼 記 」 の 詩 文 は す べ て、 紗 綾 形 に 花 模 様 浮 織 の 入 っ た 絹 が 使 用 さ れ て い る。 家 煕 か ら は 唐 紙 と 指 定 さ れ た が、 近 衛 家 に 贈 る 書 な の で、 最 高 級 の 材 質 を と 中 国 由 来 の 絹 を 使 用 し た の だ ろ う か。 な お、 蔡 温 が 同 時 期 に 作 成 し た と 考 え ら れ る 資 料 5 と 資 料 6 の 1 に 用 い ら れ た 絹 は 種 類 が 異 な っ て い る こ と か ら、 お そ ら く「 物 外 楼 記 」 の 詩 文 に つ い て は、 同じ絹を用いるよう指示があったのだろう。 さ て、 蔡 温 以 外 に「 物 外 楼 記 」 の 作 成 に 選 ば れ た 蔡 文 溥 ) (1 ( 、 陳 其湘 ) (( ( 、蔡肇功 ) (( ( 、曾暦、蔡淵、楊大正について見ていきたい。 蔡 文 溥、 陳 其 湘、 蔡 肇 功 の 三 人 は、 一 七 一 九 年( 康 熙 五 八 ) 六 月 中 国 皇 帝 の 使 者 と し て 来 琉 し た 冊 封 使 節 の 副 使 徐 葆 光 の『 中 山 伝 信 録 』 巻 六「 中 山 贈 送 詩 文 」 に も 名 を 連 ね、 さ ら に 徐 葆 光『 海 舶 三 集 ) (( ( 』 ( 「 奉 使 琉 球 詩 」 ) に お い て も、 徐 葆 光 が 三 人 に 贈 っ た 詩 が 掲 載 さ れ る 等、 詩 文 を 以 て 交 流 し た こ と は あ き ら か で あ る。 ま た徐葆光は蔡文溥のことを「中山第一の才」 、 陳其湘のことを「漢 語 を 能 く す 」 と 評 し て い る ) (( ( 。 三 人 は 程 順 則 や 蔡 温 と と も に 漢 語 を 能 く し、 漢 詩 に 精 通 し、 「 物 外 楼 記 」 の 作 成 に 選 ば れ て 当 然 と ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (

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18( -いえる人物たちである。 曾 暦 ) (( ( は、 一 六 九 八 年( 康 煕 三 七 ) に 漢 字 筆 者、 一 七 〇 二 年( 康 熙 四 一 ) の 進 貢 存 留 通 事、 一 七 〇 八 年( 康 熙 四 七 ) の 小 船 都 通 事、 一 七 二 三 年( 康 熙 五 三 ) の 慶 賀 并 進 香 の 正 議 大 夫 と 渡 唐 役 を 歴 任 し た。 ま た 正 徳 四 年( 康 熙 五 三、 一 七 一 四 ) の 江 戸 慶 賀・ 謝 恩 使 節 で は、 程 順 則 と と も に 謝 恩 掌 翰 使 を 担 っ た。 十 八 世 紀 初 頭、 幕 府、 島 津 が 明 確 に 琉 球 = 異 国 と す る 政 策 に 転 換 し た こ と で、 琉 球 は 逆 に 自 国 意 識 を 強 め て ゆ き、 琉 球 使 節 の 江 戸 立 ち も、 自 発 的 に 中 国 的 形 式 を 充 実 さ せ て い き、 中 国 的 学 問、 教 養 を 身 に つ け た 久 米 村 人 の 存 在 が 必 要 と さ れ て き た ) (( ( 。 そ の よ う な 中 で、 曾 暦 が 程 順 則 と と も に 謝 恩 掌 翰 使 を 命 じ ら れ た こ と を 考 え る と、 曾 暦 も ま た、 薩 摩 や 江 戸 等 の 知 識 人 た ち と 交 流 の で き る 漢 詩 文 の 教 養 を 身 につけた人物であったことは確かであろう。 蔡 淵 ) (8 ( は、 蔡 温 の 異 母 兄 に あ た る。 一 六 九 七 年( 康 熙 三 六 ) の 『 歴 代 宝 案 』 の 編 集 で は 筆 帖 式 と し て 蔡 温 と 同 様、 名 を 連 ね る。 一 七 〇 三 年( 康 熙 四 二 ) 接 貢 存 留 通 事、 一 七 一 〇 年( 康 煕 四 九 ) 都 通 事、 一 七 二 四 年( 雍 正 二 ) 正 議 大 夫 を 歴 任 し て い る。 蔡 淵 の 家 譜 は な い の で 詳 細 は わ か ら な い が、 存 留 通 事 で 約 一 年 半 は 福 州 に 滞 在 し、 そ の 後 も 渡 唐 し て い る こ と を 考 慮 す る と、 会 話 や 公 文 書 の 作 成 だ け で な く、 中 国 側 と 交 渉 を 行 え る 能 力 と 漢 詩 文 に 通 じ た 知 識 を も っ て い た と い え ) (( ( 、 だ か ら こ そ 蔡 淵 も ま た「 物 外 楼 記 」 の作成者に選ばれたのだろう。 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 楊 大 正( 大 成 ) (1 ( ) は、 『 楊 姓 家 譜   元 祖 古 波 蔵 筑 登 之 』 に は「 大 成 」 と 記 録 さ れ て お り、 「 成 」 を「 正 」 と し た 理 由 は 不 明 で あ る ) (1 ( 。 一七二二年 (康熙六一) の存留通事の名前を、 『歴代宝案』 や陳其湘 ・ 梁 鼎 の 家 譜 で は「 楊 大 成 ) (( ( 」 、 蔡 垣 の 家 譜 で は「 楊 大 正 ) (( ( 」 と 記 す な ど 混 同 が 見 ら れ る が、 五 世 楊 文 彬 が 楊 大 正 と 同 じ 落 款 を 使 用 し て い る こ と か ら 同 一 人 物 と 判 断 し た ) (( ( 。 残 念 な こ と に『 楊 姓 家 譜 』 は 頁 の 錯 簡 が あ り、 四 世 楊 大 成、 五 世 楊 文 彬 の 項 目 が 抜 け 落 ち て い て 詳 細 は あ き ら か で は な い。 楊 大 成 は「 物 外 楼 記 」 の 作 成 者 の 中 で 最 年 少 で、 初 め て の 渡 唐、 一 七 二 二 年( 康 熙 六 一 ) 存 留 通 事 と し て 中 国 に 赴 く 途 中、 船 が 座 礁 し て、 正 議 大 夫 の 陳 其 湘 と と も に 亡 く な っ て い る。 楊 氏 の 元 祖 楊 明 州 は 浙 江 省 台 州 府 出 身 で、 一 六 二 九 年( 崇 禎 二 ) に 同 郷 の 張 五 官 と 八 重 山 島 川 平 地 方 に 漂 着 し、 一 六 四 八 年( 順 治 五 ) に 久 米 村( 唐 榮 ) に 訓 詁 師( 漢 文 の 句 読 に 精 通 し た も の ) と し て 招 か れ、 後 に 正 議 大 夫 と な っ た。 五 世 楊 文 彬 は「 楊 氏 家 譜 再 序 」 で、 楊 明 州 の 訓 詁 師 と し て の 功 績 を 強 調 し、 漢 語 に 精 通 す る こ と は 一 族 に 引 き 継 が れ て い る と 述 べ て お り、 楊 大 成 も そ れ を 引 き 継 い で い た と 思 わ れ る。 将 来 を 嘱 望 さ れ た若手として、 「物外楼記」の詩文作成に選ばれたのだろう。 三 、おわりに 陽 明 文 庫 の 調 査 で 確 認 さ れ た 資 料 が、 ど の よ う な 経 緯 で 近 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (

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1(1 1(1 -衛 家 煕 に 献 上 さ れ た か を 述 べ て き た。 正 徳 五 年( 康 熙 五 四 年、 一 七 一 五 ) か ら 享 保 六 年( 康 熙 六 ○、 一 七 二 一 ) の 時 期、 近 衛 家 煕 と 程 順 則、 蔡 温 等 と の 間 で 密 度 の 濃 い や り と り が 行 わ れ て い た こ と を 知 る こ と が で き る が、 こ の 交 流 に は 常 に 薩 摩 が 介 在 し て い る こ と を 忘 れ て な ら な い だ ろ う。 今 回 の 調 査 で 程 順 則、 蔡 温、 蔡 文 溥 の 家 譜 の 家 煕 に か か わ る 記 載 が 実 証 さ れ た ば か り で な く、 陳 其 湘、 蔡 肇 功、 曾 暦、 楊 大 正( 成 ) が「 物 外 楼 記 」 の 詩( 書 ) を 家 煕 に 献 上 し て い た こ と も 新 た に わ か っ た。 「 物 外 楼 」 が 詩 の 題 材 と し て 選 ば れ た 要 因 の 一 つ と し て、 家 煕 が 程 順 則 に「 物 外 楼 」 の 書 を 依 頼 し た 正 徳 四 年 は、 家 煕 が 摂 政 を 辞 し( 正 徳 二 年 ) 、 物 外 楼 の あ る 河 原 御 殿 に 移 り 住 ん だ 正 徳 三 年 か ら 間 も な く、 家 煕 に と っ て「 物 外 楼 」 は 非 常 に 身 近 な 存 在 で あ っ た こ と が 挙 げ ら れ る ) (( ( 。 な お、 陽 明 文 庫 蔵 琉 球 関 係 資 料 は、 昭 和 十 年( 一 九 三 五 ) 、 九 月 二 十 四 日 か ら 十 月 四 日 ま で 京 都 恩 賜 博 物 館 で 開 催 さ れ た「 近 衛 家 煕 公 遺 墨 展 覽 会 」 で 展 示 さ れ て い る。 展 覧 会 の 目 録 に よ る と ) (( ( 、 「孔林楷杯題字」 (資料3) 、「孔林楷杯」 (資料2) および 「木仮山記」 ( 資 料 4) の 三 点 が 揃 っ て 展 示 さ れ た こ と が わ か る。 し か し、 こ の 展 覧 会 以 後、 琉 球 関 係 資 料 は そ の 存 在 が 知 ら れ な い ま ま で 陽 明 文 庫 に 所 蔵 さ れ て い た。 今 後 は 沖 縄 県 内 で 公 開 さ れ る 機 会 が 得 ら れ る こ と が 期 待 さ れ る。 特 に 孔 林 楷 杯 は 制 作 地 や 技 法 な ど 未 だ 明 らかで無いため、専門家による調査の機会が必要だと考えられる。 ( ( ( ( ( ( ( ( さ ら に、 今 後 の 展 望 と し て 未 発 見 の 資 料 に つ い て 述 べ て お き た い。 先 に 述 べ た よ う に 正 徳 五 年 草 津 の 宿 に て 近 衛 家 熙 の 求 め に 応 じ、 程 順 則 は「 物 外 楼 」 に 関 す る 詩 文 の 作 成、 お よ び 玉 城 朝 薫 は 琉 歌 を 写 し た 扇 子 を 献 上 し た こ と が わ か っ て い る。 「 物 外 楼 」 の 詩 文 に つ い て は 今 回 の 調 査 で 発 見 す る こ と が で き た が、 朝 薫 の 扇 子 は 発 見 で き な か っ た。 家 譜 に は 家 熙 か ら 朝 薫 へ 返 礼 と し て「 香 合 」 一 が 下 賜 さ れ た こ と も 記 載 さ れ て い る た め 朝 薫 が 依 頼 を 完 遂 し た こ と は 間 違 い な い と 考 え ら れ る が、 現 在 陽 明 文 庫 に は 所 蔵 さ れ て いないという。 ま た 他 に も 琉 球 か ら 近 衛 家 へ 渡 っ た 絵 画 の 存 在 が 知 ら れ て い る。 絵 師 で あ る 山 口( 神 谷 ) 宗 季( 唐 名 は 呉 師 虔 ) の 家 譜 に は、 以 下 の よ う な 内 容 が 記 載 さ れ て い る。 正 徳 五 年( 一 七 一 五 ) の 春、 近 衛 摂 政 よ り「 琉 球 御 取 次 役 」 を 通 じ て 花 鳥 図 の 依 頼 が あ り、 三 司 官 か ら 宗 季 に 命 令 が 下 さ れ た。 宗 季 は 心 を 込 め て 花 鳥 図 を 描 き、 同年の夏に薩摩へ献上した ) (( ( 。 家 熙 が な ぜ 宗 季 を 知 っ て い て、 ど の よ う な 経 緯 で 花 鳥 図 を 依 頼 す る に 至 っ た の か は 明 ら か で な い が、 家 熙 が 宗 季 へ 花 鳥 図 の 依 頼 を し た 時 期 は 先 に 述 べ た 正 徳 五 年 草 津 の 宿 で 願 王 院 を 通 し て 程 順 則 ら に 詩 文 な ど の 作 成 を 依 頼 し た 直 後 と 考 え ら れ る。 林 進 氏 は こ れ に つ い て、 程 順 則 が 宗 季 を 紹 介 し た の で は な い か と 推 測 し て い る が ) (8 ( 、 史 料 か ら は 家 熙 と 琉 球 人 が 直 接 的 な 接 触 を お こ な っ た 事 ( ( ( ( ( ( ( (

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1(1 -実 は 確 認 で き な い た め、 そ の 可 能 性 は 考 え ら れ な い。 む し ろ、 近 衛 家 と 琉 球 人 の 交 流 は 全 て 願 王 院 が 仲 介 を お こ な っ て い る こ と、 願 王 院 自 身 が 近 衛 家 に 出 入 り し 琉 球 に 関 す る 情 報 を 提 供 し て い る 状 況 が「 基 煕 公 記 」 か ら も 読 み 取 れ る ) (( ( 。 宗 季 に 関 し て も 願 王 院 を 通 し て、 も し く は 姻 戚 関 係 に あ り、 「 監 琉 球 」 を 務 め 琉 球 の 情 報 に 詳 し い 種 子 島 弾 正 を 介 し て、 そ の 存 在 を 知 っ た と 考 え る ほ う が よ り 自 然 で あ ろ う。 い ず れ に し て も 正 徳 四 年 か ら の 一 連 の 流 れ か ら は 家 熙 が 琉 球 に 強 い 関 心 を 持 っ て い た こ と が わ か る。 未 発 見 の資料については今後の調査に期待したい。 最 後 に、 調 査 に お い て は、 陽 明 文 庫 の 名 和 修 文 庫 長 か ら 貴 重 な 資 料 を 調 査、 撮 影 す る 機 会 を い た だ き、 調 査 の 様 々 な 面 で 御 協 力 い た だ い た。 こ こ に 深 謝 の 意 を 表 す。 ま た 現 地 で の 調 査 に お い て は 都 築 晶 子 氏 に 御 指 導・ 御 協 力 い た だ き、 報 告 書 を ま と め る 過 程 に お い て も 御 教 示 い た だ い た。 落 款 の 解 読 に つ い て は 稲 福 政 斉 氏 からご教示いただいた。改めて御礼申し上げる。 注 ( 1) 外 間 み ど り・ 早 瀬 千 明「 『 孔 林 楷 杯 』 と 関 連 資 料 に つ い て ― 公 益 財 団 法 人 陽 明 文 庫 所 蔵 の 琉 球 関 係 資 料 調 査 レ ポ ー ト 」 『 沖 縄 史 料 編 集 紀 要   第四一号』 (沖縄県教育委員会   二〇一八年) 。 ( 2) 名 和 修「 陽 明 文 庫 の 沿 革 」 『 陽 明 文 庫 名 寶 図 録 』 ( 二 〇 〇 六   財 団 法 人 陽 明 文 庫 ) 、 『 陽 明 文 庫 設 立 八 〇 周 年 記 念 特 別 研 究 集 会   記 念 図 録   ― 最 新 の 研 究 成 果 の 報 告 と 陽 明 文 庫 の 過 去 と 未 来 ―』 ( 二 〇 一 八 ( ( ( ( 年) 。 ( ()『那覇市史   資料編第一巻六   家譜資料二』 (以下 『家譜 (二) 』 と記す) 五 四 五 ~ 五 五 九 頁( 那 覇 市 企 画 部 市 史 編 集 室   一 九 八 〇 年 ) 、 『 家 譜 (二) 』 三六五~三七七頁。また、 池宮正治 ・ 小渡清孝 ・ 田名真之 (編) 『久 米村―歴史と人物』 一九四頁 (ひるぎ社   一九九三年) 、 田名真之 『近 世沖縄の素顔』 一七〇頁 (おきなわ文庫   ひるぎ社   一九九八年) ・『ク ニンダ人物志一   蔡氏』 一〇三頁 (社団法人久米崇聖会   二〇〇八年) 等参照。 ( () 緑川明憲 『豫楽院鑑   近衛家煕公年譜』 (勉誠出版   二〇一二年) 。 ( 5) 『 慶 応 四 年   京 都 細 見 図 』 ( 知 郷 書 販 ) の 賀 茂 川 西 側 沿 い の 土 手 町 大 黒 丁( 現 在 の 京 都 市 中 京 区 土 手 町 夷 川 上 ル の 地 ) に み え る「 近 衛 様 御 ヤ シ キ 」 が 河 原 御 殿 の こ と だ ろ う。 河 原 御 殿 の 完 成 に つ い て は、 前掲注( ()正徳三年五月二十三日の条参照。 ( 6) 横 山 學『 琉 球 国 使 節 渡 来 の 研 究 』 ( 吉 川 弘 文 館、 一 九 八 七 年 ) 四八一~四八三頁を参照。 ( 7) 程 順 則 の 江 戸 慶 賀 掌 翰 使 へ の 任 命 は、 正 徳 三 年( 康 熙 五 二   一七一三)五月十八日。 『家譜(二) 』五四七頁。 ( 8) 玉 城 朝 薫 の 座 楽 主 取 兼 任 通 事 へ の 任 命 は、 正 徳 三 年( 康 熙 五 二   一 七 一 三 ) 同 年 十 一 月 二 十 二 日。 『 那 覇 市 史   資 料 篇 第 一 巻 七   首 里 系 家 譜 』 ( 以 下『 家 譜( 三 ) 』 と 記 す ) 二 九 七 頁( 那 覇 市 企 画 部 史 料 編集室   一九八二年) 。 ( 9) 延 宝 三 年 ~ 延 享 四 年( 一 六 七 五 ~ 一 七 四 七 ) 。 薩 摩 藩 主。 宝 永 七 ( 一 七 一 〇 ) 、 正 徳 四( 一 七 一 四 ) 、 享 保 三 年( 一 七 一 八 ) の 計 三 度、 琉球使節と共に参府を行っている。 ( 11 島 津 吉 貴 の 江 戸 参 勤 は 本 来 正 徳 三 年 に 行 わ れ る は ず で あ っ た が、 琉 球 使 節 の 江 戸 参 府 に 合 わ せ て 参 勤 を 行 い た い と の 旨 を 幕 府 に 申 請 し、 こ れ が 許 可 さ れ た こ と を 受 け 琉 球 使 節 と 共 に 正 徳 四 年 に 江 戸 へ と参勤を行うこととなった( 「吉貴公記」正徳三年の条) ( 11) 琉 球 使 節 の 行 程 は 前 掲 注( 6) に 詳 し い。 横 山 は 使 節 一 行 の 行 程 が 原 則 と し て 薩 摩 藩 主 の そ れ と 同 一 で あ る が、 「 琉 球 使 節 は 海 路 で 大 坂 に 至 る の に 対 し、 藩 主 は 陸 路 を 取 っ た 模 様 で、 大 坂 薩 摩 屋 敷 で

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1(( 1(( -合 流 し て い る 」 と 述 べ て い る。 な お、 正 徳 四 年 の 使 節 と 藩 主 の 一 行 は、 麑 府 か ら 陸 路 と 海 路 に 分 か れ た 後、 一 度 豊 州( 現 在 の 九 州 北 東 部) において合流、 播州 (現在の兵庫県南西部) までを海路で同行し、 再度海路 (琉球使節) と陸路 (藩主) に分かれ大坂入りした様子が 「吉 貴 公 記 」 ( 正 徳 四 年 の 条( 三 九 七 ) ) か ら 窺 え る な ど、 通 常 と は 異 な る行程を辿ったようである。 ( 1() 万 治 二 年 ~ 寛 保 三 年( 一 六 五 九 ~ 一 七 四 三 ) 。 師 諱 は 智 周。 字 は 徧 詢。 江 州 膳 所( 現 在 の 滋 賀 県 ) の 生 ま れ。 十 歳 の 時 蘆 浦 観 音 寺 に 出 家。 元 禄 一 〇 年( 一 六 九 七 ) に 東 叡 の 執 当 職 に 任 ぜ ら れ、 宝 永 三 年( 一 七 〇 六 ) に 執 当 職 を 辞 す る も 同 年 権 僧 正 に 任 ぜ ら れ る。 四 年 ( 一 七 〇 七 ) 東 叡 を 辞 し て 観 音 寺 へ と 還 る。 六 年( 一 七 〇 九 ) 島 津 吉 貴 の 依 頼 を 受 け 薩 摩 藩 内 に て 活 動 を は じ め、 翌 七 年 大 雄 山 を 開 山 し た( 「鹿児島の金石文」 『鹿児島市史第三巻』七六一~七六二頁) 。 ( 1( 前 掲 注( 1) 六 〇 頁 で 八 代 将 軍 吉 宗 と し た の は 誤 り、 正 し く は 七 代将軍家継である。ここで訂正する。 ( 1() 肝 付 兼 柄。 寛 文 五 年 ~ 享 保 三 年( 一 六 六 五 ~ 一 七 一 八 ) 。 島 津 家 家 老 と し て 島 津 吉 貴 の 参 勤 お よ び 琉 球 使 節 の 参 府 に 帯 同 し た。 こ の 時 肝 付 兼 柄 は 五 十 二 人 の 家 臣 を 従 え て い た( 『 喜 入 町 郷 土 誌 』 一 六 八 ~ 一六九頁) 。 ( 1() 池 宮 正 治 氏 に よ れ ば、 「 程 順 則 は 宿 舎 で そ れ( 物 外 楼 記 ) を 認 め て 渡 し、 家 煕 は そ の お 礼 に、 雪 堂 燕 遊 草 に 収 め ら れ た 福 建 省 の 浦 城 に あ る 小 武 当 山 の 八 景 を 歌 っ た 詩 に、 家 煕 自 ら 筆 を 執 っ た 八 景 図 そ の 他 を 送 っ た の で あ る 」 ( カ ッ コ 内 は 筆 者 ) ( 池 宮 正 治『 続・ 沖 縄 こ と ば の 散 歩 道 』 「 楷 」 の 条、 六 一 頁( お き な わ 文 庫   ひ る ぎ 社   一九九五年) とあるが、 家煕が 『雪堂燕遊草』 収録の 「小武当山八景」 を 題 材 に 手 巻 を 書 い た と い う 根 拠 は 不 明。 な お 京 都 大 学 附 属 図 書 館 蔵近衛文庫の 『雪堂燕遊草』 (正徳四年出版   瀬尾源兵衛刊本) には、 首 巻 に「 近 衛 本 」 の 朱 印 が あ り、 家 煕 は『 雪 堂 燕 遊 草 』 を 目 に し て いる可能性はある。 京都大学附属図書館蔵の近衛文庫については、 『京 都 大 学 附 属 図 書 館 六 〇 年 史 』 ( 京 都 大 学 附 属 図 書 館 編   一 九 六 一 年 ) 第三章第三節参照。家熙から程順則への依頼については 『家譜 (二) 』 五四七頁参照。 ( 1() 資 料 番 号 は、 調 書 及 び 落 款 表 の 資 料 番 号 と 対 応 す る。 以 下 の 資 料 番号も同様である。 ( 1() 内 田 道 夫 編・ 解 説『 北 京 風 俗 図 譜 一 』 ( 全 二 巻 )   平 凡 社 東 洋 文 庫   一 九 六 四 年 ) 一 ― (   正 月 の 燈 籠 の 市( 元 宵 燈 節 ) 「 正 月 十 五 日 の 夜 を 元 宵 と 呼 び、 こ の 夜 を 中 心 に 十 三 日 ~ 十 七 日 ま で 」 と あ り、 燈 節の三日前だと一月十日となる。 ( 18 中 院 通 茂。 一 六 三 一 ~ 一 七 一 〇 年。 江 戸 時 代 中 期 の 公 家、 歌 人。 程 順 則、 玉 城 朝 薫 両 名 の 家 譜 に は 正 徳 五 年( 一 七 一 五 ) に 中 院 通 茂 へ と 献 上 品 を 送 っ た 旨 が 記 載 さ れ て い る も の の、 当 時 通 茂 は 既 に 鬼 籍 に 入 っ て い る こ と か ら、 玉 城 朝 薫 が 献 上 品 を 送 っ た 人 物 に つ い て は考察の余地が残る。 ( 1() 家 譜( 三 ) 』 二 九 七 頁。 『 池 宮 正 治 著 作 選 集 (   琉 球 史 文 化 論 』 三四八頁(笠間書院   二〇一五年) 。 ( (1) 将 軍 へ の 謁 見 を 終 え、 江 戸 を 出 発 し 麑 府 へ と 到 着 し た 琉 球 使 節 は、 通 常 数 日 の 滞 在 の 後 琉 球 へ と 向 か う こ と が 一 般 的 で あ っ た よ う で あ る( 前 掲 注( 6) 三 九 一 頁 参 照 ) 。 し か し、 正 徳 四 年 の 琉 球 使 節 は、 程 順 則 が 木 村 探 元 の 絵 画 に 画 讃 を 書 く こ と を 島 津 吉 貴 よ り 依 頼 さ れ て い た た め に、 約 一 ヶ 月 と 通 常 よ り も 長 期 に わ た る 鹿 児 島 で の 滞 在 期 間 が 設 け ら れ た( 程 順 則 は 麑 府 で 滞 在、 そ の 他 の 使 節 は 山 川 に て 滞在した) ( 『家譜(二) 』五四七頁参照) 。 ( (1) 種 子 嶋 久 基。 寛 文 四 年 ~ 寛 保 元 年( 一 六 六 四 ~ 一 七 四 一 ) 。 種 子 嶋 家 十 九 代 当 主。 童 名 は 鶴 袈 裟 丸。 正 妻 は 島 津 光 久 の 十 一 女 千 代 松。 後 妻 は 島 津 光 久 十 四 女 袈 裟 千 代。 宝 永 二 年( 一 七 〇 五 ) に 勝 手 方、 七 年( 一 七 一 〇 ) に 父 の 国 老( 家 老 ) 辞 職 に 伴 い 国 老 と な る。 正 徳 三 年( 一 七 一 三 ) に 監 琉 球( 琉 球 掛 ま た は 琉 球 館 聞 役 の こ と か ) に 任ぜられる。元文元年 (一七三六) に出家し栖林に改名 ( 「種子嶋家譜」 『 旧 記 雑 録 拾 遺 家 わ け 四 』 二 三 六 ~ 二 九 九 頁 ) 。 二 人 の 妻 の 父 島 津 光 久 は 島 津 吉 貴 の 曾 祖 父。 島 津 光 久 の 娘 と の 婚 姻 に よ り 種 子 嶋 家 と 島 津 家 は 姻 戚 関 係 に あ っ た。 ま た、 島 津 吉 貴 の 娘 が 近 衛 家 煕 の 息 子 家 久 と 婚 姻 し た こ と に よ り、 種 子 嶋 家 は 近 衛 家 と も 姻 戚 関 係 が 結 ば れ

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1(( -て い た。 近 衛 家 煕 と 程 順 則 や 蔡 温 な ど と の 交 流 に 際 し て 種 子 嶋 弾 正 が 深 く 関 わ っ て い た 背 景 に は、 種 子 嶋 家 と 近 衛 家 の 姻 戚 関 係 が あ っ たと想定できる。 ( (()『家譜(二) 』五四七頁。 ( (( 浜 川 に つ い て は、 程 順 則 の 家 譜 に 記 さ れ た 記 述 の み で あ り、 現 在 の と こ ろ 詳 細 は 不 明 で あ る が、 前 掲 注( 6) に よ る と、 正 徳 四 年 の 使節において 「浜川」 と名のつく人物は楽童子である濱川里之子 (蔡 廷 儀 ) の み で あ る。 楽 童 子 は 通 常 元 服 前 の 男 子 が 勤 め る 職 で あ る が、 幼 少 期 か ら 書 画 の 方 面 に お い て 能 力 が 優 れ て い る 場 合、 渡 航 先 に お い て 作 品 を 献 上 す る 例 も 確 認 で き る こ と か ら、 濱 川 里 之 子 が 程 順 則 等の家譜に記載された「浜川」である可能性は十分に想定できる。 ( (()『家譜(二) 』五四七頁。句点は筆者による。以下同じ。 ( (( 陽 明 文 庫 の「 孔 林 楷 杯 」 が 納 め ら れ て い る 箱 の 側 面 に 張 ら れ た 白 紙 に は、 「 孔 林 楷 杯 / 内 々 / 康 熙 皇 帝 御 詩 宸 筆 / 墨 刻   一 幅 / 楷 杯 圖 賢 木 刻 写 一 通 / 願 王 院 へ 宛 て 書 状 三 通 卜 / 木 仮 山 一 通 入   一 包 / 在 中 」 (/ は 改 行 ) と、 後 世 に 書 か れ た と 思 わ れ る 墨 書 が あ る。 程 順 則 が「 楷 杯 」 と と も に 献 上 し た 康 熙 帝 自 筆 の 詩 文 の 拓 本 の ほ か、 願 王 院 宛 て 書 状、 木 假 山 一 通 等 が 一 緒 に 保 管 さ れ て い た よ う で あ る が、 現 在、 こ の 箱 に 保 管 さ れ て い る の は「 楷 杯 」 の み で あ る。 な お、 康 熙帝自筆の詩文の拓本の所在は確認できなかった。 ( (( 『 家 譜( 二 ) 』 五 四 八 頁。 程 順 則 か ら 正 徳 五 年 六 月 二 六 日 付 け で 家 煕に献上された物品は、 前掲注 (4) 二四八頁においても 『看聞秘鈔』 の 記 録 か ら 正 徳 六 年 に 近 衛 家 煕 の も と に 届 い て い た こ と が 確 認 さ れ ている。なお、正徳六年六月二十二日に改元(享保) 。 ( (()『家譜 (二) 』 五四六頁。程順則は康熙四五年に進貢正議大夫 (副使) に 任 命 さ れ、 福 州 へ 赴 き、 翌 康 熙 五 五 年( 一 七 〇 七 ) 、 北 京 へ の 途 中 山東省曲阜の孔子廟を詣でている。 ( (8)『家譜(二) 』五五四頁。 ( (() 山 科 道 安( 一 六 七 七 ~ 一 七 四 六 ) は 近 衛 家 煕 の 侍 医。 『 槐 記 』 は 道 安 が 家 煕 の 言 行 を 書 き 留 め た も の。 享 保 九 年( 一 七 二 四 ) 正 月 か ら 同二十年(一七三五)正月までの十一年間の記事を含む。 ( (1) 槐 記 』 の 記 載 に つ い て は、 前 掲 注( 1() 楷 」 の 項( 六 一 頁 ) で も取り上げている。句読点及び傍点は筆者による。 ( (1) 明 ) 謝 肇 淛 著・ 岩 城 秀 夫 訳『 五 雑 組 』 巻 十「 孔 林 の 楷 杯 」 一 五 四 頁(平凡社東洋文庫六二九   一九九八年)参照。 ( (()『家譜(二) 』三六七頁。 ( (() 原 文 草 書 に つ い て は、 『 蔡 氏 家 譜 抄 録 』 ( 那 覇 市 歴 史 博 物 館 蔵 ) 原 本を用いた。 ( (() 宋 の 梅 堯 臣( 一 〇 〇 二 ~ 一 〇 六 〇 ) 。 梅 聖 兪 は 梅 堯 臣 の 字。 宋 の 詩 人。 『宋史』 巻四四三。 『家譜 (二) 』 三六七頁の 「毒経愈」 は 「梅聖兪」 の誤り。原本は「梅聖愈」とあるが「愈」は「兪」の誤り。 ( (() 宋 の 蘇 洵( 一 〇 〇 九 ~ 一 〇 六 六 ) 。 老 泉 は 蘇 洵 の 号。 字 は 明 允。 宋 の 文 人。 唐 宋 八 大 家 の 一 人。 『 宋 史 』 巻 四 四 三。 『 家 譜( 二 ) 』 三 六 七 頁の「左泉」は「老泉」の誤り。 ( (()『家譜(二) 』三六七頁。 ( (()『家譜(二) 』三六八頁。 ( (8)『家譜(二) 』五四八頁。 ( (()翌年、 康熙五十八年六月一日、 冊封使節(正使海宝、 副使徐葆光) 、 総 勢 六 九 四 人 が 来 航。 翌 五 十 九 年( 享 保 四   一 七 二 〇 ) 春、 冊 封 の 事 す べ て 終 了 し、 二 月 二 十 九 日、 程 順 則 は 謝 恩 使 節 の 副 使 と し て、 冊 封 使 節 の 船 と と も に 那 覇 を 出 航、 そ の 後、 謝 恩 の た め 北 京 に 向 か った。帰国は康熙六十年六月であった。 『家譜(二) 』五四九頁参照。 ( (1)『家譜(二) 』三六八頁。 ( (1) 原 文 は、 資 料 翻 刻 の 資 料 4 を 参 照 の こ と。 大 意 に つ い て は 都 築 晶 子氏の教示を得た。 ( (()『家譜(二) 』三六八頁、 『家譜(二) 』五四九頁。 ( (()『家譜(二) 』五四九頁。 ( (() 北 郷 左 衞 門   北 郷 久 嘉。 延 宝 三 ~( 一 六 七 五 ~?) 。 元 禄 三 年 に 家 督 を 相 続( 「 北 郷 氏 一 流 第 三 」 『 旧 記 雑 録 拾 遺 諸 氏 系 譜 二 』 ) 。 享 保 三 年( 一 七 一 三 ) の 時 点 で 島 津 家 家 老( 「 種 子 嶋 家 家 譜 」 『 旧 記 雑 録 拾 遺家わけ四』 ) 。 ( (()『家譜(二) 』三六九頁、 『家譜(二) 』五四九頁。

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1(( 1(( -( (()前掲注( (()『槐記』 「享保九年或時条」 。 ( (()『家譜(二) 』三六九頁。 ( (8)『家譜(二) 』三六九頁。 ( (()『家譜(二) 』三六九頁。 ( (1)『家譜(二) 』三〇八頁。 ( (1) 蔡 文 溥   一 六 七 一 ~ 一 七 四 五 年( 康 煕 一 〇 ~ 乾 隆 一 〇 ) 。 久 米 村 蔡 氏( 具 志 家 ) 十 一 世。 祝 嶺 親 方。 字 は 天 章。 号 は 如 亭、 堂 号 を 四 本 堂 と 称 し た。 一 六 八 七 年( 康 煕 二 六 ) に 清 代 最 初 の 官 生 と し て 北 京 国 子 監 に 留 学 し、 一 六 九 二 年( 康 熙 三 一 ) に 帰 国 し て 講 解 師 兼 訓 詁 師( 教 師 ) を 務 め た。 九 九 年 に 接 貢 存 留 通 事 と な り 福 建 に わ た る。 帰 国 後 も 世 子 や 世 孫 に 四 書 や 詩 経 を 教 え た が、 三 四 歳 で 病 気 の た め 職 を 辞 し て 以 降、 公 職 に は 就 か な か っ た。 一 七 二 〇 年( 康 煕 五 九 ) 、 五 〇 歳 で 紫 金 大 夫 と な る。 著 作 に は 詩 文 集『 四 本 堂 詩 文 集 』 、 「同楽苑八景」 、「中山学校序」 がある。 『家譜 (二) 』 三〇三~三〇六頁、 前掲注 ( ()『久米村―歴史と人物―』 一九五頁、 『沖縄大百科事典』 (中) 一 八 六 頁 参 照。 蔡 文 溥『 四 本 堂 詩 文 集 』 ( 沖 縄 県 立 博 物 館 美 術 館 藏   乾 隆 間 刻 本 ) の 影 印 本 が、 高 津 孝・ 陳 捷 主 編『 琉 球 王 国 漢 文 文 献 集 成   一 -三 六 』 ( 復 旦 大 学 出 版 社   二 〇 一 三 年 ) 第 二 五 冊 に 収 録。 同 詩集に 「題前攝政 向 ママ 公物外楼六首」 が掲載。 「物外楼記   蔡文溥書」 (資 料 (の ()と文字の異同あり。 ( (() 陳 其 湘   一 六 七 三 ~ 一 七 二 二 年( 康 煕 一 二 ~ 六 一 ) 。 久 米 村 陳 氏 ( 真 栄 平 家 ) 三 世。 松 堂 親 雲 上。 字 は 楚 水。 号 は 全 信。 正 議 大 夫。 一六九二年 (康煕三一) に勤学として福建に渡り、 五年滞在して帰国。 帰 国 後 は 御 書 院 楽 生 に 中 華 歌 併 琵 琶 三 弦 を 以 て 教 授 す る 職 に 就 い た。 また、 一七〇一年(康煕四〇)の接貢存留通事、 〇五年の接貢都通事、 〇 八 年 に は 北 京 都 通 事、 一 八 年 の 請 封 正 議 大 夫( 尚 敬 の 冊 封 使 節 の 迎 接 ) を 歴 任。 二 二 年 の 進 貢 正 議 大 夫 と し て 渡 唐 す る が、 船 が 沈 没 し て 死 亡 し た。 一 七 〇 七 年( 康 煕 四 六 ) に 程 順 則 が 山 東 省 に あ る 孔 子 廟 に 献 上 し た『 廟 び ょ うが く き り ゃ く 学 紀 略 』 に は 講 解 師 と し て 名 が 記 載 さ れ て い る。 ま た 清 朝 康 煕 年 間 の 漢 詩 集 で あ る『 皇 こ う し ん し せ ん 清 詩 選 』 に も 作 品 が 掲 載 さ れ る な ど 漢 詩 文 に 精 通 し て い た こ と で 知 ら れ る。 『 家 譜( 二 ) 』 四 六 九 ~四七四頁参照。 ( (() 蔡 肇 功   一 六 五 六 ~ 一 七 三 七 年( 順 治 一 三 ~ 乾 隆 二 ) 。 久 米 村 蔡 氏 ( 具 志 家 ) 四 世。 湖 城 親 方。 号 は 紹 齋。 紫 金 大 夫。 一 六 七 二 年( 康 煕 一 一 ) に 進 貢 船 の 総 官、 七 八 年( 康 熙 一 七 ) に は 暦 法 を 学 ぶ た め に 福 建 に 渡 り、 三 年 半 滞 在 し た 後 に 帰 国 し て 大 清 時 憲 暦 を 琉 球 で 初 め て 印 刷 し て 国 中 に 広 め た。 『 歴 代 宝 案 』 の 督 抄 官 も 務 め て い る。 九 〇 年 進 貢 存 留 通 事、 九 六 年 小 船 都 通 事、 一 七 〇 四 年 に 進 貢 正 議 大 夫 を 歴 任。 著 作 に は 漢 詩 集『 寒 か ん そ う き じ 窗 紀 事 』 が あ る。 蔡 肇 功 の 家 譜 は 富 島 壯 英著 「 『歴代宝案』 第一集の編集者達」 九三~九五頁 『歴代宝案研究』 第 2 号( 沖 縄 県 立 図 書 館 史 料 編 集 室   一 九 九 一 年 ) に 収 録。 『 沖 縄 大 百 科 事 典 』 ( 中 ) 一 七 九 頁 参 照。 蔡 肇 功『 寒 窗 紀 事 』 ( 沖 縄 県 立 図 書 館 蔵 同 治 十 二 年 福 州 刻 琉 球 本 ) の 影 印 本 が、 高 津 孝・ 陳 捷 主 編『 琉 球 王 国 漢 文 文 献 集 成   一 -三 六 』 ( 復 旦 大 学 出 版 社   二 〇 一 三 年 ) 第 二五冊に収録。同詩集に「題物外楼」として詩が掲載。 ( (()『国家図書館蔵琉球関係資料三編 (上下) 』(北京図書館   二〇〇六年) に収録。 『海舶三集』 は 「舶前集」 、「舶中集」 、「舶後集」 の三巻からなる。 ( (() 前掲注 ( (() に収録の 『海舶三集』 及び 『家譜 (二) 』 三○六頁参照。 ( (() 曾 暦( 信 )   一 六 七 七 ~ 一 七 四 六 年( 康 煕 一 六 ~ 乾 隆 一 一 ) 。 久 米 村曾氏 (砂辺家) 七世。砂辺親方。字は欽授 (落款は敬授) 。号は若天。 暦 の 字 が 禁 止 さ れ た た め に 信 と 改 名 す る。 実 父 は 蔡 応 祥 大 田 親 雲 上。 六 世 曾 虁 ( き ) に 子 が 無 か っ た た め 養 子 に 入 っ た。 蔡 文 溥 と は 従 弟 に あ た る。 『家譜(二) 』三九五~三九九頁参照。 ( (() 十八世紀初頭における久米村系士族の展開については、 田名真之 「近 世 久 米 村 の 成 立 と 展 開 」 二 一 七 頁『 新 琉 球 史 ― 近 世 編( 上 ) 』 ( 琉 球 新報社   一九八九年)参照。 ( (8) 蔡淵   一六八〇~没年不明。 (康煕一九~?) 久米村蔡氏 (志多伯家) 十一世。 志多伯親方。 蔡鐸 (志多伯親方) の長男。 字は徳生、 号は潜菴。 『 家 譜( 二 ) 』 九 三 五 頁、 『 家 譜( 二 ) 』 三 六 五 頁、 『 歴 代 宝 案 』 第 一 集 序 文、 『 歴 代 宝 案 』 二 -〇 二 -一 五、 二 -〇 五 -一 三、 二 -一 四 -〇 八 参照。 ( (() 前 掲 注( (() 一 一 四 頁、 上 里 賢 一 編『 校 訂 本   中 山 詩 文 集 』 解 題

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1(( -一一頁( (財)九州大学出版会   一九九八年) 。 ( (1)楊大正 (大成)   生年不詳~一七二二年 (康煕六一) 。 久米村楊氏四世。 名 嘉 地 親 雲 上。 号 は 雅 生。 楊 聯 桂 古 波 蔵 通 事 親 雲 上 の 長 男。 『 楊 姓 家 譜   元祖古波蔵筑登之』 『楊姓家譜大宗(写)   一世楊明州』参照。 ( (1 母 が 成 氏 出 身 で あ る こ と か ら「 成 」 の 文 字 を 避 諱 と し た と 考 え ら れる。 ( (()『歴代宝案』二 -一二 -一五 ・ 一六、 『家譜(二) 』四七二、 七八二頁。 ( (()『家譜(二) 』二六五頁。 ( (()楊文彬書「鶯」 (沖縄県立博物館・美術館蔵) 。 ( (() 龍 谷 大 学 蔵『 近 衛 家 家 煕 公 遺 墨 展 覽 会 目 録   附 : 家 煕 公 小 傳 』 ( 恩 賜 京 都 博 物 館   昭 和 十 年( 一 九 三 五 ) の「 附 : 家 煕 公 小 傳 」 に「 蓋 し 物 外 楼 の 額 は 琉 球 人 程 順 則 を 介 し て 彼 地 の 大 儒 に 書 せ し め ら れ た る も の。 其 額、 唐 細 工 に し て 実 に 雅 趣 に 富 む。 故 に 公 最 も 之 を 愛 し、 蔵 儲 の 典 籍 類 に 多 く 此 楼 に 因 め る 印 を 捺 せ り 」 ( 一 九 頁 ) と あ り、 家 煕 が い か に「 物 外 楼 」 に 愛 着 を も っ て い た か を 伺 い 知 る こ と が で き る。 家 煕 が 程 順 則 を 介 し て 彼 地 の 大 儒 に 書 せ し め た 人 物 に つ い て は、 前 掲 注( 4) 『 豫 楽 院 鑑   近 衛 家 煕 公 年 譜 』 の 享 保 四 年( 康 熙 五 八、 一 七 一 九 ) の 十 月 三 日 の 条 に、 「 程 順 則 を 介 し て 清・ 閩 南 儒 者 王 登 瀛 に 揮 毫 を 依 頼 し て い た。 登 瀛 揮 毫 の「 物 外 楼 」 額 が 届 き、 物 外 楼 に 掲 げ る。 そ れ ま で は、 家 煕 が 揮 毫 し て い た「 物 外 楼 」 額 が 掲 げ ら れ て い た。 」 ( 二 五 〇 頁 ) に よ り、 閩 南 の 儒 者 王 登 瀛 で あ る こ と が わ か る。 都 築 晶 子 氏 に よ る と、 王 登 瀛 は 一 六 九 〇 年( 康 熙 三 〇 ) 頃から琉球館で久米村の子弟に学術を教授していた人物。王登瀛 『柔 遠 駅 草 』 ( 内 閣 文 庫 蔵 ) 一 六 九 四 年( 康 熙 三 三 ) 刊 行 の 詩 集 が あ る。 一七〇八年(康熙四七) 、 福州にわたった蔡温を琉球館で教えている。 一 七 一 七 年( 康 熙 五 六 ) 刊 行 の 蔡 温『 要 務 彙 編 』 に 王 登 瀛 の 序 あ り。 ま た 蔡 文 溥『 四 本 堂 詩 文 集 』 に は 王 登 瀛 が 雍 正 三 年( 一 七 二 五 ) に 寄 せ た 序 が 載 る( 都 築 晶 子「 蔡 温 の 儒 家 思 想 に つ い て ―『 要 務 彙 編 』 を め ぐ っ て ―」 二 九 二 頁『 龍 谷 大 学 論 集   第 四 四 五 号 』 龍 谷 学 会   一 九 九 五 年 ) 。 一 七 二 五 年 刊 行 の 程 順 則『 中 山 詩 文 集 』 に も 一 七 二 一 年( 康 熙 六 〇 ) の 王 登 瀛 の 序 あ り。 な お、 陽 明 文 庫 で は「 物 外 楼 」 の額の所在は確認できなかった。 ( (() 前 掲 注( (( 「 遺 愛 品 」 の 項( 二 〇 頁 ) に 次 の よ う に あ る(/ は 改 行 ) 。 1(1  楷 杯 記 二 巻 /( 其 一   首 ニ 孔 林 楷 杯 の 四 題 字 あ り   楷 杯 出 於 魯 国 孔 林 / 者 也 云 々 中 山 程 順 則 謹 識 ) ( 其 二   物 外 楼 楷 杯 為 木 假 山 記   中山蔡温文若氏拝稿)/ 1((  楷杯   一箇。 ( (() 呉 氏 家 譜 」 。 「 呉 姓 家 譜 」 は 比 嘉 朝 健「 琉 球 歴 代 畫 家 譜 」 『 美 術 研 究   四五號』 (昭和十年(一九三五) )に収録。 ( (8) 林 進『 日 本 近 世 絵 画 の 図 像 学   ― 趣 向 と 深 意 ―』 二 四 五 頁( 八 木 書店   二〇〇〇年) 。 ( (()陽明文庫蔵『応円満院基煕公記』正徳五年三月三日の条。 凡例 【 調 書 】 ① 資 料 名 は 報 告 書 作 成 に あ た り 、当 方 で 作 成 し た 名 称 を 採 用 し た 。 ② 収 蔵 番 号 は 、 陽 明 文 庫 で 付 さ れ て い る 番 号 で あ る 。 ③ 本 紙 に か か る 画 像 は 一 部 を 除 き 、 本 紙 の 部 分 を 掲 載 し た 。 【 落 款 】 表 示 の 番 号 は 【 翻 刻 】 中 の 番 号 に 対 応 す る 。 【 翻 刻 】 ① 翻 刻 は 一 行 の 文 字 数 及 び 行 数 は す べ て 原 文 通 り で あ る 。 ② 資 料 翻 刻 で 用 い た 字 体 は 、 原 則 、 原 文 通 り で あ る が 、 や む を 得 ず 表 記 で き な い 場 合 は 、 当 該 文 字 の 右 に * に 付 し 、 常 用 字 体 ・ 正 字 体 と し た 。 ③ 翻 刻 の 中 に 付 し た 番 号 は 、 落 款 の 位 置 で 、【 落 款 】 表 の 番 号 に 対 応 す る 。

(17)

1(( 1(( -【調書】 【資料1】 資 料 名:物外楼記   程順則書 法 量:(軸装)縦 四九〇㎜、全長 四七六〇㎜ (本紙)縦 四六三 ㎜、横 三〇八五㎜ 表 装 裂:黄緑地花唐草文浮織 本 紙:絹本(無地) 軸 芯:黒漆螺鈿水仙模様 収蔵番号:五八二二〇/十二の一 備    考:本資料は沖縄県立博物館 ・ 美術館所蔵「程順則の書」 ( 県 指 定 有 形 文 化 財 ) と 若 干 の 文 字 の 異 同 は あ る が 内 容 は ほ ぼ 同 じ。 「 程 順 則 の 書 」 は 第 二 行 の 最 後 の 「 稿 」 字 に よ り 控 え か と 考 え ら れ る。 な お、 『 那 覇 市 史   資 料 編 第 一 巻 六   家 譜 資 料 二 』 ( 以 下 家譜 (二) 』 と記す) 五 五 三 頁 に も 記 載 がある。 (本紙・部分) (軸芯)

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1(( -【資料2】 資 料 名:孔林楷杯 収蔵番号:西   四上 法    量:横幅(最大幅)二六〇㎜、高さ 七四㎜ 備    考 : 素 材 は 楷 樹。 楷 樹 の 木 目 が そ の ま ま 残 る。 表 面 に は 透 漆 の よ う な 光 沢 が 見 ら れ る。 内 側 は 下 地 に 黒 漆、 その上から金が施されている。 【資料3】 はこの 「孔 林 楷 盃 」 に 添 文 と し て 贈 ら れ た 楷 杯 の 由 来 を 書 い た ものである。 (同) (同)

(19)

1(8 1(( -【資料3】 資 料 名:孔林楷杯題字   程順則書 法 量:(軸装)縦 四三一㎜、全長 三六〇七㎜ (本紙)縦 四一一 ㎜、横 二〇一七㎜ 表 装 裂:金地菊唐草文浮織 本    紙:絹本(無地) 軸    芯:黒漆螺鈿龍模様 収蔵番号:楷杯記二ノ内   箱二八 備    考: 『家譜 (二) 』 五五四頁に 「徴言」 として記載がある。        楷杯と一緒に添文として贈ったもの。 (本紙・部分) (軸芯)

参照

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