国策会社 電源開発(株)のダイナミズム
「大容量海外炭火力の推進」を事例として
伊 藤 輝 美
1. はじめに 電源開発株式会社(以下「電発」という)は,日本の電力体制が重油火力に向かう時期に, 大容量海外炭火力を推進した。電発は,第 4 次中東戦争に端を発した石油危機を見越していた かの如く,エネルギー流体革命に逆行するかのような大容量海外炭火力の導入検討を行ってい た。本稿の目的は,同社はなぜこのような企業行動を敢行したのか,日本最初の海外炭火力で ある同社松島火力(50万 kW× 2 基)とその後の関連技術の革新はなぜ実現したのか,につい て明らかにすることにある。 電発は,1952年 9 月,資金力も技術力も安定しなかった民有民営・地域分割(地域独占)・ 発送配電一貫運営の 9 電力体制を補完して電力の安定供給を図るため,全国的な視点から発送 電の開発を行う国策会社(特殊法人)として設立された。同社は,その設立の目的が達成され れば統廃合の対象にされたとしても不思議ではなかったが,「佐久間ダムの開発」,「大容量海 外炭火力の推進」,「佐久間周波数変換所と送変電技術への展開」,「高落差大規模揚水発電の建 設」等のリスクの高い困難な事業に挑戦し,大きな成果を上げた。同社は,2004年10月に東京 証券取引所第一部に上場し,完全民営化を実現した(1)。本稿でいうダイナミズムとは,「組織 に内在する構成要素や矛盾が組織内エネルギーの単純総和以上の力強い動きを導きだすこと」 であり,電発の事例でいえば,「前述のようなリスクの高い困難な事業に,想定以上のエネル ギーをもって挑戦した経営行動」を「電発のダイナミズム」と称する。 本稿を進めるに当たり先行研究をみると,これまでの電力産業研究は 9 電力体制に焦点を当 てたものであり,同社が果たした独自の補完的役割に関する分析と評価が看過されてきてい る。橘川(2004)は, 9 電力各社は,1950年代後半から1960年代初頭にかけて電源開発の主導 権を握り,高度経済成長期に同質的競争を行いながら高効率の大型重油火力を建設(油主炭従 化)し,低廉な電力を安定供給して「黄金時代」を迎えていたが,その後半には公害問題が深 刻化し,原油転換や LNG(液化天然ガス)を導入したと記載している。中瀬(2005)は, 9 電力会社が推進した火力発電は,国内炭から重原油への燃料転換,発電設備の大型化と高効率 化,開発競争,消費地立地を特徴とし,中東石油への依存,公害対応の遅れ等が問題であった と論じている。小堀(2010)は,日本は高度経済成長期に世界最高水準の原油需要急増と輸入 論 文 経営史学 第53巻第 4 号(2019年3月) 3 ~27頁 伊藤輝美(いとう・てるみ),一橋大学大学院商学研究科博士後期課程修了価格低下を両立させたので海外原油依存度が顕著になったと記すとともに,エネルギー流体革 命の意義は国産エネルギー(国内炭)から輸入エネルギー(海外原油)への転換であり,消費 構造は重油に偏重(典型例は火力発電燃料の油主炭従化)したと述べている。島西(2011) は,1960年代までの脱石炭は国内炭政策や大口需要の存在で緩やかに進行したが,1960年代末 に公害問題が深刻となり,石炭産業は重層的なエネルギー革命(低価格化とクリーン化)に対 応できずに衰退していったと記述している。 これらの研究では,電源構成の推移,エネルギー流体革命,公害問題への対応等を中心に分 析を行っており,石炭は石油や LNG との競争に敗れた資源であるとの立場から論じている。 しかし電発は,このような事業環境にありながら,電源構成の多様化に資する大容量海外炭火 力を推進して成功を収め,石油危機後にエネルギー・ベストミックスの観点から日本の電力安 定供給に貢献していくことになるが,先行研究では同社の果たした役割が見落とされている。 もう一つつけ加えるならば,石油危機を見越したかのような同社の経営行動の背景に踏み込ん だ研究も存在しない。 本稿では,最初に国内炭政策と電力業界の対応に触れ,揚地火力(炭鉱と地域的に離れて立 地する国内炭火力)誕生の経緯,公害防止協定(横浜方式),揚地火力等の建設と運転を記載 し,環境規制の強化,産炭地と石炭火力の存続を賭けた湿式排煙脱硫装置の導入開発について 論じる。そして,「電発廃止論」の顛末を記述した後に,石油代替電源として重要な役割を果 たす大容量海外炭火力の詳細な調査内容,石油危機に対応する国際エネルギー機関(IEA)の 決議,海外炭火力の国内外への波及,海外炭火力の性能を一段と向上させた技術開発等につい て記し,最後に結論を述べる。 2. 揚地火力の建設 ( 1 )国の石炭政策と電力業界の対応 1950年代から1960年代にかけて,日本の火力発電原価は低下していった。その要因は,火力 発電設備の大型化,高効率化および燃料費の低減であった。このため政府は,1955年に石炭産 業の保護を目的として, 5 年間の時限立法で「重油ボイラーの設置の制限等に関する臨時措置 に関する法律」(以下「重油ボイラー規制法」と略記)を施行し,更に原重油関税賦課措置 (原油 2 %,重油6.5%)により石油消費の抑制を図った。1960年10月,重油ボイラー規制法 は,付帯決議「① 石炭の新需要の拡大を積極的に推進すること。② 火力発電所の重油専焼ボ イラーの設置は石炭需要確保の観点から必要やむを得ないものに止めること。③ 本法失効後 も急激な石炭需要の減少を来さないよう適切な対策を講じること」を付して, 3 年間の延長が 決定された。しかし,この付帯決議にもかかわらず,敷地制約または急激な負荷変動に追従可 能な発電特性が必要な場合には重油火力が許可されたので, 9 電力各社は重油火力の開発を行 い,油主炭従化を加速させた。1960年度に横浜火力(東京電力,以下「東電」という),三重 火力 3 号機(中部電力,以下「中部」という),新名古屋 4 号機(中部),尼崎 3 号機(関西電
力,以下「関電」という)等の10地点15機(計283万 kW)の重油火力が認可され,1964年度 に石油系燃料が火力発電用燃料の50%を超えた。 1961年に通産省は年間300万トンの九州炭を消費する「関西地区揚地石炭火力建設構想」へ の協力を電力業界に要請した。しかし,電力業界はこの要請を拒否した。この300万トン問題 は,同年12月に電気事業連合会(以下「電事連」という)の太田垣会長ら電力首脳と佐藤通産 大臣の会談において,「電力業界が引取る」ことで決着した(『電事連35年のあゆみ』100⊖ 104,124⊖126)。同年の植村甲午郎による斡旋「石炭の長期安定引取についての申し合せ」(以 下「植村斡旋」という)に基づき,電力業界は石炭企業の合理化による炭価引下げを前提に, 1963年度に1,800万トン,1967年度には2,300万トンを引き取ることになった(田村,1966,28⊖ 29)。 1962年 5 月に政府は,有澤廣巳(東京大学名誉教授)を団長とする「石炭鉱業調査団」を発 足させ,同年10月に同調査団は石炭救済の抜本策を盛り込んだ答申大綱(第一次答申)を政府 に提出した。これを受けて政府は,同年11月に「石炭対策大綱」を公表し,電力業界の引取量 は1963年度2,050万トン,1967年度2,550万トン,1970年度3,000万トンとし,「電力会社の石炭 引取りに伴う負担増および石炭火力発電所の建設資金については,国が所要の措置を講ずる」 と明記した。電力業界は,年間1,900万トンの石炭消費が限界であり,石油火力の経済性を犠 牲にしてまで石炭引取り量を増大させることは困難であった。しかし,1963年 4 月に開催した 9 電力会社の社長会議は,こうした厳しい環境にもかかわらず,前述の植村斡旋より250万ト ン上積みした引取量を決定した。これが電力業界の大きな負担となった。同年 7 月の社長会議 は,「今後,経済ベースを無視した石炭火力の着工には応じられない。しかし政府の石炭政策 に協力する観点から,38(1963)年度以降に着工する石炭火力は電源開発会社に建設を依頼す る。この実現には 9 電力として土地・人・技術などで最大限の協力をする」ことを決定した。 一方,電発は,「国策会社として国の石炭救済政策に協力するのは当然のこと」との判断に 立って,「政府の助成と電力会社の協力を前提にこの要請を受ける」ことにした。そして1963 年 9 月, 9 電力会社と電発で構成する中央電力協議会(以下「中電協」という)は,電発が 1964年度から1967年度にかけて,磯子火力(26.5万 kW× 2 基,横浜市),高砂火力(25万 kW × 2 基,兵庫県)および竹原火力(25万 kW× 1 基,広島県)を,総工事費675.6億円で建設す ることを確定した(『電事連35年のあゆみ』126⊖129,『電発30年史』191⊖193)。 ( 2 )揚地火力建設をめぐる課題とその対応 ①公害防止協定(横浜方式) 電発磯子火力の立地に際し,横浜市は企業と合意して公害防止を図る方法を生み出した。 1964年 2 月,東電は,前述の経緯を踏まえ,横浜市から購入した土地の一部(約11.6 ha)を電 発磯子火力の建設に使用させたいと横浜市に同意を求めた。売買契約書に「埋立地を第三者に 使用させる場合には横浜市の同意が必要」と記載されていたからである。横浜市は,この条文
を公害対策の有効な手段と捉え,東電への回答を保留した。 同年 4 月末,経済企画庁は神奈川県知事に電発磯子火力計画の照会を行なった。同知事は 「石炭利用に伴うばい煙その他公害の予防については万全の措置を講ぜられるよう要望する」 と回答したが,横浜市には何ら照会も連絡もしなかった。そして同年 5 月,政府は電源開発調 整審議会(以下「電調審」という)を開催し,電発揚地火力の建設を決定した。この頃,横浜 市中区磯子区環境衛生保全協議会は,政府および横浜市長に根岸湾石油コンビナートの公害事 前調査を陳情した。同年 7 月,革新市長の飛鳥田一雄から依頼された学識経験者(4人)は, 「工業立地計画・都市計画の再検討が必要」,「火力発電所の立地変更が必要」,「市独自の公害 防止基準の設定と行政指導の強化が必要」など 9 項目を提言した。このため横浜市は,同年 8 月に本牧沖と根岸湾埋立地の気象調査と既往観測データの統計解析を実施し,電発は長崎の三 菱造船所で風洞模型実験(1/2,500)による大気汚染影響評価を行った。横浜市長は,これら の資料をそろえ,横浜市公害対策協議会に磯子火力の立地問題を諮問した。同協議会の結論が 国内炭政策に重大な影響を及ぼすため,政府および電発は関心を払った。同年 9 月,同協議会 は,磯子火力は石炭専焼火力であることに鑑み,① 通産省(電発を管轄)に対し十分な監督 と予算措置などの周到な注意を払うことを要請し,② 電発は横浜市が要求する大気汚染その 他の公害防止に対し万全の対策を保証し,③ 東電には今後の重油専焼火力計画について改め て慎重に検討を加える旨を申入れる,という三者の条件を満たすならば,その立地を認めざる を得ないと横浜市長に答申した。この答申に基づいて,横浜市は,通産省,電発および東電に 申し入れを行った。通産省は貴意に沿いたい旨を回答し,電発は横浜市の要求する公害防止対 策を保証すると返答し,東電は横浜市と事前に公害対策について協議し了解を得た上で着工す ると確約した。1964年12月,電発は横浜市と同市第 1 号の公害防止協定を締結した。横浜市 は,この協定で,電発に対し,「①ばいじん排出濃度0.6 g/m3N 以下(ばい煙規制法の1/2), 硫黄酸化物(SOx)排出濃度500 ppm 以下(ばい煙規制法の1/4),②集じん器の捕集効率98% 以上,③煙突高さ120 m(2号機は140 m),④低硫黄・低灰分の北海道炭と低硫黄重油の使用, ⑤騒音防止,⑥海水汚濁防止,⑦燃料成分分析,排出ばい煙濃度,ばいじん捕集効率,騒音・ 廃液等の測定結果の報告,⑧公害発生時の措置(市の代執行権)など」,当時としては厳しい 条件を課した。同社は,これを反映した設備設計を行い,1965年 1 月に磯子火力の建設に着手 し,最高性能の電気集じん器を設置した。同社は,磯子火力運開後も横浜市の環境行政に応え て,後述のボイラー改造や湿式排煙脱硫装置の設置を行った。 横浜市は,前述の実績を踏まえて,根岸湾臨海工業地帯に進出する企業と次々に公害防止協 定を締結していった。横浜市は,環境法が未整備で自治体の権限も無い中で,企業と合意して 公害防止対策を行う行政手法(横浜方式)を創出した。この横浜方式は,実質的な自治体によ る公害防止協定の嚆矢といわれ,公害に苦しむ日本全国の自治体に波及し,日本の環境行政に 貢献していった(助川・猿田,1965,58⊖71,猿田,1968,58⊖65,鳴海,1970,279⊖283,猿 田,1981,241⊖272,阿部,1998,1⊖6,伊藤,2016,45⊖50)。
②揚地火力の建設と運転 日本の電力供給は「水主火従」から「火主水従」へ移行し,火力発電燃料は「油主炭従化」 へ急激に転換していった。同社は,九頭竜川の大規模水力開発を進めていたものの,開発地点 が枯渇し,手持ちの水力調査地点は経済性を失うなど,厳しい事業環境に直面していた。この ような状況で 9 電力会社から要請されたのが同社揚地 3 火力の同時建設であった(『電発30年 史』,184)。電発は,1964年 6 月に火力部を発足させ,通産省火力課長の相部嘉輔を初代部長 に迎えた。同社は,電力会社の最後発で火力事業に参入し,1963年に中国電力(以下「中国」 という)の指導を得て低品位炭(3,000 kcal/㎏)を燃料とする若松火力(7.5万 kW× 2 基)を 建設し稼動させていた。しかし,電発は火力経験者も火力要員も不足し,同社単独で揚地 3 火 力を同時に建設することは困難であったので,東電から磯子火力に 5 名,関電から高砂火力に 7 名の技術者(後に東電常務取締役や関電原子力部長に就任した人もいる)を建設所長,機械 課長,電気課長等の要職に受入れた(中林,1995,11⊖13)。同時に,同社はダム工事用土木機 械職37名と水力電気職53名の合計90名を火力職へ転向させ,電力各社の火力発電所で研修実施 後に各建設所に配属した(村井,2003a,33⊖34,『電発30年史』,193)。 同社は,電力会社が要求する卸売料金で全量受電を目標に通産省当局と折衝を重ね,設計炭 6,000~6,200 kcal/kg,稼働率75%,発電原価2.90円 /kWh(重油火力2.64円 /kWh と石炭火力 3.26円 /kWh のほぼ中間値)で計画したが,仕上がりは3.10~3.20円 /kWh(磯子は少し割高) となった(2)(企画室,1964,10⊖11,広報室,1966,22,相部,1967, 7 )。磯子火力 1 号機は 1967年 5 月(2号機1969年 9 月),高砂火力 1 号機が1968年 7 月(2号機1969年 1 月)および竹 原火力 1 号機は1967年 7 月に運開した(『電発30年史』,537⊖539)。この揚地 3 火力は,3,000 ~5,000トン船で北海道の釧路,九州の三池・池島・筑豊の一部から年間300万トンの石炭をピ ストン輸送して発電を開始した(村井,2003a,54)。その後,電発は,1970年の夏に深刻な電 力危機を経験した電力業界から要請を受けて,電力需給の逼迫する関電に供給するため,同社 唯一の重油火力であった竹原火力 2 号機(35万 kW)を緊急に増設し,1974年 6 月に運開させ た(『電発30年史』,276⊖279)。 ( 3 )揚地火力運転継続をめぐる課題とその対応 ①環境規制の強化 高度経済成長期の後半に公害が大きな社会問題となった。1970年12月の「公害国会」は,公 害対策基本法(1967年 8 月成立)を改正(「経済との調和条項」を削除他)して,公害関連14 法案を成立させた。これらの法案は,環境影響評価(アセスメント)の実施による環境汚染の 未然防止,環境基準の設定と強化,大気汚染や水質汚濁に関する総量規制の導入,公害健康被 害補償制度の実施等を主な内容としていた。1971年 7 月に環境庁が発足し,政府の環境行政と 公害対策を推進していった。地方自治体の多くは,国より厳しい環境基準を制定し,条例で独 自の環境アセスメント制度を採択するところもあった。
1970年代の前半には「 4 大公害訴訟」(「水俣病」,「新潟水俣病」,「イタイイタイ病」および 「四日市公害」)の判決が下り,原告住民が全面勝訴した(橘川,2004,270⊖271)。とりわけ火 力発電所の操業と密接な関わりのある四日市公害訴訟の判決において,排煙中の硫黄酸化物 (SOx)と健康被害の因果関係が認定され,世界最高の技術と知識を動員して予防措置を講ず ることなど,大気汚染防止対策について厳格な運用が要求された(政野,2013,204⊖205)。 環境庁は,1973年 5 月,SOx 環境基準の改定と同時に,新たに窒素酸化物(NOx)の環境 基準を定めた。環境規制強化の動きは,電発の揚地火力にも重大な影響を及ぼした。当時は, SOx 対策として,排煙拡散効果が期待できる高煙突化と低硫黄燃料の使用しか方法がなかっ た。同社揚地火力は,低硫黄炭の増量調達が困難となり,定格容量の50%で設計した低硫黄重 油の混焼(石炭系統の故障や補修の時に使用)の割合を更に上げて発電しなければならない状 況に陥り,年間300万トンの国内炭消費が厳しくなった。特に,九州一般炭は硫黄分が高く, その需要の殆どを電気事業に依存していたので,揚地火力の石炭引取量が減少すれば,産炭地 に深刻な影響を及ぼすことは明白であった。揚地火力は,1970年から1975年にかけて,重油専 焼に転換するか,排煙脱硫装置を設置して国内炭の使用を継続するかの瀬戸際に追い込まれ た。重油専焼の道を選択すれば,揚地火力は存在意義を失うことを意味した。 一方,NOx 低減対策は,ボイラーの改造(二段燃焼,低 NOx バーナー等)で対応すること ができた(『電発30年史』,387,389,中林,1995,32)。 ②石炭火力用湿式排煙脱硫装置の導入開発 電発は,産炭地と揚地火力の存続を図るため,排煙脱硫装置を設置する決断をした。湿式か ら乾式までの全排煙脱硫技術を評価し,プロセスの簡潔さ,副製品の処理,経済性等から湿 式・石灰石・石膏法が適切との結論に達した。しかし,どのメーカーの設備が良いか決定でき ず,石炭火力の先進国である米国調査を踏まえて判断することにした。米国の石炭火力(10~ 70万 kW)で開発初期段階の湿式排煙脱硫装置は稼動していたが,排ガスの100%処理が困難 で,スケールトラブル(液中の溶存物質が機器・配管等に析出し固着する障害)のため長期連 続安定運転は不可能であり,しかも亜硫酸石膏のまま灰処分場等に投棄していた。このような 状況で,同社は米国のケミコ社とバブコック & ウィルコックス社の湿式排煙脱硫装置を日本 に導入可能な技術と評価したが,排ガス全量処理,長期連続安定運転,石膏回収(副製品)等 の課題を解決する必要があった(中林,1995,32⊖35)。電発は,三池炭(高硫黄炭)を使用す る高砂火力に最初の湿式排煙脱硫装置を設置する決定をし,重工メーカーと共同で発電所構内 の実ガスパイロット試験および工場内の模擬ガス(重油燃焼ガスに石炭灰を注入)パイロット 試験を同時並行的に行った。これらの試験成果を反映した設備設計がほぼ完了し着工間近と なった1973年末に,米国ケミコ社から「湿式排煙脱硫装置で石炭中の塩素成分が濃縮し,腐食 のため鋼鉄製タンクに穴が開いた」との情報を入手した。同社は,湿式排煙脱硫装置の塩素濃 度を規定値以下に保つために排水処理設備の設置が必要となった。電発は兵庫県および高砂市
に設計変更の説明をしたところ,兵庫県は「湿式排煙脱硫装置は石膏を生産する無機物製造装 置に該当するので,1973年11月施行の瀬戸内海環境保全特別措置法(以下「瀬戸内法」とい う)の関係自冶体12府県市(大阪府,大阪市,兵庫県,神戸市,和歌山県,岡山県,広島県, 山口県,徳島県,愛媛県,福岡県および大分県)の了解が必要である」との見解を示した。こ のため,環境庁と資源エネルギー庁は協議して,「湿式排煙脱硫装置は電気事業設備と認定す るが,瀬戸内法の排水基準を遵守し COD(Chemical Oxygen Demand 化学的酸素要求量)を 10 ppm 以下にすること」で高砂火力の排水処理設備は許可された。この基準達成は困難視さ れたが,同社は水処理メーカーの協力を得て「イオン交換樹脂による吸着処理」で排水基準を 満足させることができた(『火力部30年誌』,31⊖32,『大都市の中の石炭火力発電所』,299, 308⊖311,374⊖375)。こうして同社は,世界初の石炭火力用湿式排煙脱硫装置を高砂火力で商 用化し,磯子火力および竹原火力に順次設置していった。政府は,国内炭鉱保護政策の立場か ら石炭石油対策特別会計より「電源開発㈱排煙脱硫装置設置交付金」を設定し,所要経費の一 部を助成した。後のことであるが,1981年 5 月に米国環境保護庁(EPA)首脳が磯子火力の 排煙脱硫装置を視察した時に,「世界最高の公害防止対策設備である」と評価した(『電発30年 史』,388,村井,2003a,36⊖37)。 ( 4 )電発廃止論 もう一つ,電発の海外炭火力実現の背景として重要なのは「電発廃止論」である。1962年 2 月,池田内閣は能率的で総合的な行政の実現を目的に,第一次臨時行政調査会(会長 佐藤喜 一郎 三井銀行会長,以下「第一臨調」という)を発足させて調査・審議を進め,1964年 9 月 に政府に答申した。この具体化のため,官財界の首脳や太田薫(後の総評議長)等の有識者を 委員とする行政監理委員会が設置された(3)。1967年の夏に行政監理委員会は調査検討に入り, 同年 8 月15日の朝刊は「今年度廃止は電発を含む 8 特殊法人に決定」と掲載した。このため, 電発の社内は騒然となり,社員の受けたショックは強烈だった。 行政監理委員会は, 8 月31日の定例会で審議結果を取りまとめ,「特殊法人の改革に関する 第一次意見」を行政管理庁長官に提出した。同社の廃止理由は,「① 電発の設立目的はほとん ど達成された。② 電発に対する融資金利では経済的に可能な開発地点が少なくなっている。 ③ 政府が低金利融資の抜本的な施策を行なわないかぎり電発を存続させる理由はない」の 3 点であった。同年 9 月,通産省は行政管理庁に対し,「① 水力開発推進の担い手である。② 電力の広域運営推進の中核的役割を果たしている。③ 国策遂行の担い手である。④ 新技術開 発とその実用化の担い手である」の 4 点をあげて,電発廃止の理由は見当たらないと反論し た。同年12月に,臨時行政改革閣僚協議会(会長・首相,大蔵・自治両大臣,行管・総務・官 房の 3 長官で構成,自民党 3 役常時出席)が開催され,同社は統廃合に含まれず,その存続が 容認された(『電発30年史』,256⊖258)。 結局,「電発廃止勧告」は撤回されたが,若い社員に「この会社を,地下資源のない日本の
エネルギー政策になくてはならない存在にしてみせる」という気概や「何くそ,いまにみてい ろ」などの思いを強める契機となった(村井,2003a,29,村井,2003b,15)。 3. 大容量海外炭火力の建設構想 ( 1 )経営トップの構想を推進した中間管理職 最初に,大容量海外炭火力の実現に重要な役割を果した総裁の大堀弘,企画室部長補佐の村 井了(元代表取締役常務)および火力技術課長の中林恭之(元常務取締役)を紹介する。 大堀は,1922年 3 月に東京帝国大学法学部卒業後,同年 4 月に商工省に入省した。戦時中は 内閣対満事務局経済課,大東亜省満州事務局殖産課等の満州関係部署を担当し,戦後商工省に 戻った。1950年12月,大堀は通産省秘書課長の時,若手官僚数名と一緒に公益事業委員会の総 務課長として出向し,松永安左ヱ門の下で電気事業再編成を進め,1951年 5 月に 9 電力体制を 発足させた。1952年 3 月に議員立法により電源開発促進法(以下「電促法」という)の国会審 議が始まったが,大堀は終始これに反対した。電促法は同年 7 月末に可決成立し,公益事業委 員会は廃止,電力行政は通産省公益事業局の所管となり,大堀は同年 8 月に同局経理長として 戻った。その後大堀は,通商局次長,重工業局次長,鉱山局長,公益事業局長を経て,1961年 7 月に中小企業庁長官,1962年 7 月には経済企画庁事務次官となった。大堀は,1963年12月に 電発副総裁に就任し,着任早々,東電の木川田社長および電事連の石原理事長の協力を得て揚 地火力の建設に奔走し,1970年 8 月に総裁に昇格した(志村,2007,48⊖49,『追悼 大堀弘』, 73,421⊖432,大堀,1972, 7 )。大堀は,公企業は国民の税金で事業を行なうため,私企業よ り合理化の責任は重く, 9 電力各社に負けない実力をつけて国策を遂行していくと考えていた (大堀,1964,2⊖3)。 村井は,1953年 3 月に東京商科大学を卒業し,同年 4 月に電発一期生として入社した。総裁 は「佐久間ダムの開発」で陣頭指揮をとった高碕達之助であった。村井は,新入社員の時に, 経理部会計課で「佐久間ダムの開発」で使用する土木機械の輸入手続きに従事し,工程を確保 するために連日深夜まで働いた経験から,「プロジェクトの開発は会社のシステムそのものの 開発であることを学び,プロジェクトを企画する立場になってから大いに役立った」と述懐し ている。その後,水力現場の黒又川建設所,経理部予算課,企画室,火力部火力業務課長代 理,経理部予算課長等を経て,1972年に企画室長補佐となった。この時に,村井は大堀から 「大容量海外炭火力の可能性調査」の指示を受けた。村井は,高碕の言葉,「この会社は国が出 資して電源開発をする会社であって,単なる営利会社ではない。株主は国民全部である」に働 きがいを見出し,「資源に恵まれないこの国にとって,エネルギー政策の確立こそ国の根幹を なす問題である」との信念で仕事に没頭した。村井は,船乗りになるため高等商船学校に入学 したが,終戦を迎えて「日本の再生に必要なのは,経済の土台を支えるエネルギーである」と いう父親の忠告を受入れて退学し,東京商科大学で学び直して電発に入社した経歴の持主で あった。学生時代にユネスコ学生連盟の初代委員長を務め,電発では労組委員長になるなど,
人望,折衝能力,統率力があった(村井,2003a,18⊖23,38⊖41,232⊖233,250⊖255)。 中林は,東京大学工学部で電気工学を専攻して1956年に電発に入社し,本店で田子倉,奥只 見,滝の水力発電所の業務に携わり,糠平では遠方制御を行なう芽登第一発電所の建設に従事 した。中林は,1961年頃,水力発電は遠方制御を実用化し技術が完成の域にあること,水主火 従から火主水従の転換期で電発は水力のみで将来は大丈夫かと思ったこと,火力の大容量化と 蒸気条件の向上が目覚ましかったこと,米国の雑誌が計算機制御を掲載していたことなどか ら,火力技術に興味をもった。1962年の夏に火力へ転向した中林は,「火力発電は石炭でなけ ればならない。ボイラーはダーティな燃料の石炭を受け入れることができる。油をボイラーで 焚くのはもったいない」と考えたが,エネルギー流体革命の下で油主炭従化が進展していっ た。中林は,1964~1968年に火力部で揚地火力の管理業務に従事後,高砂火力の技術課長代理 に赴任し,そこで同社火力部最初の技術開発「徳之島産コーラル・リーフのボイラー炉内吹込 み脱硫試験」に挑戦したが,脱硫効率は10%前後で期待した成果を得ることができなかった。 1971年10月に本店火力部に戻り,竹原火力 2 号機(35万 kW)の設計業務に従事した。これ以 降,中林は新規計画と火力技術開発(排煙脱硫技術,排煙脱硝技術,超々臨界圧蒸気条件 (USC)ボイラー・タービン技術等)に専念することになった(中林,1995,目次,1⊖6,15⊖ 18,29⊖30,中林自筆の経歴年表)。 ( 2 )大容量海外炭火力構想の誕生 日本の一次エネルギーは,政情不安な中東原油に75%以上を依存していた(図 1 参照)。 (%) 100.0 95.0 90.0 85.0 80.0 75.0 70.0 65.0 1960 65 70 75 80 85 90 95 2000 05 10 15 年度 91.2(1967 年度) 77.5(1973 年度) 第 1 次石油危機 第 2 次石油危機 75.9(1979 年度) 67.9(1987 年度) 中東依存度 (出所) 『エネルギー白書2017』,【第213⊖1⊖4】原油の輸入量と中東依存度の推移(XLS 形式)より作成。 図 1 原油輸入の中東依存度推移
そして日本の電力体制は,総発電電力量の約75%を石油火力から供給していた(図 2 参照)。 石炭は,世界に広く賦存し,石油・天然ガスに比べて圧倒的に豊富な埋蔵量を誇り,海外で は大型機械を使用して生産コストの低い露天掘りで採掘されていた(表 1 参照)。 これを何とか利用できないかと考えていた大堀は,1973年の年頭挨拶で,「今後 5 ~10年の 間に世界的なエネルギーの需給が逼迫して,それが日本の経済活動に大きな影響を与えるであ ろう。また,我々官民あげて,今日からその具体的な対策に取り組まなければならない」と社 員に呼びかけた(大堀,1973,6⊖7,大堀,1974, 6 )。同年春,大堀は村井を呼び,「電発は 国内炭政策に協力して揚地火力や公害対策の貴重な経験をしてきた。このノウハウを生かして 海外炭を大量に輸入することで重油の代替ができないか。(略)検討の価値があると判断した ら報告して欲しい」と指示した。大堀は,通産省時代に日本の鉄鋼業をサポートした経験があ り,この考えの発端は新日鉄の田部常務から旧ソ連のヤクート炭鉱開発の相談を受けた時で あった。大堀の指示が社内に漏れて,役員や部長の一部から「余計なまねをするな」,「これか ら原子力という時代に,今さら石炭などで会社をつぶす気か」などの圧力や批判があった。石 炭火力は,大量の固体燃料を取り扱い,重油火力に比べて排煙中に SOx,NOx,ばいじんを 0 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 (%) 55 60 65 70 75 1980 85 90 95 2000 05 10 15 新エネ等 揚水 一般水力 石油等 LNG 石炭 原子力 第 2 次石油危機 石炭火力10%以上に 石炭火力20%以上に 石炭火力30%以上に 松島火力運開 石油火力の急増 第 1 次石油危機 年度 構成割合 図 2 発電電力量の構成割合の推移 (出所)『エネルギー白書2017』,【第214⊖1⊖8】発受電電力量の推移(一般電気事業用)(XLS 形式)より作成。 (注)1971年度までは沖縄電力を除く。 表 1 石油・天然ガス・石炭の可採埋蔵量 項 目 石 油 天然ガス 石 炭 確認可採埋蔵量 1兆450億バレル 150兆m3 9,842億トン 生産量 272億バレル 2兆4,000億m3 43億4,000万トン 可採年数 40年 61年 227年 (出所)村井(2003a,225)。 (注)原典は英国 BP 統計(2001)。
多く含み,揚貯運炭設備,排煙処理設備,灰処理設備,灰処分場等の設置が必要なため,設備 費は重油火力の30~40%割高であった。また石炭のエネルギー密度は重油の約65%で,燃料費 も約30%近くハンディキャップがあり,当時の価格で重油火力に対抗できるプランの作成は容 易ではなかった(村井,2003a,40⊖41,44⊖45)。村井は,中林ら火力技術陣の協力を得て,若 手の精鋭数名と極秘で作業を開始した。そして浮上したのが,日本鉄鋼業をモデルにした規模 の経済性を追求する「大容量海外炭火力構想(100万 kW 規模 1 ヵ所,200万 kW 規模 2 ヵ所 の計500万 kW)」(以後「大堀構想」という)であった。「海外炭火力と重油火力の経済比較 (100万 kW× 2 基,稼働率70%)」をしたところ,海外炭火力は産炭地(豪州,南アフリカ, カナダ)からの運賃相当額(10~15ドル)だけ重油火力に及ばなかった。しかし,石炭は世界 中に豊富に埋蔵しており,産炭地の選択肢も多く,日本までの海上輸送距離もほぼ変わらない という利点があった。村井らは,電力業界と行政に本構想の意義を説明して理解を得ることが 重要との結論に達し,第一次石油危機発生直前の1973年 9 月,大堀に,「① 海外炭火力は検討 の価値がある。② 重油価格が 1 万円 /㎘になれば事業化は可能である。③ 発電所候補地とし て数地点を検討している。④ 電力業界および行政と協議する時期に来ている」との検討結果 を報告した(村井,2003a,41,57⊖58)。大堀は,エネルギーのバランスドミックスと将来の 貿易摩擦を予見して,「各国から計画的に継続して石炭を購入することは,その雇用力の懐の 深さから必ず役立つし必要な事」と判断し,大堀構想を公表する決断をした(『追悼 大堀弘』, 242⊖243)。 中林は,1973年の暮れ,揚地火力に設置する湿式排煙脱硫装置の米国調査で,大型石炭火力 (130万 kW)が試運転中の TVA カンバーランド発電所を訪問した。この視察で,中林は「日 本でも大型石炭火力は実現できる」と確信した。電発揚地火力は日本最大の石炭火力(25万 kW 級)であったが,この経験しかない技術者には100万 kW 級石炭火力を想像すらできなかっ たに違いない。中林の TVA 訪問は,大堀構想を具体化させる原動力になったと思われる(中 林,1995,19⊖20)。 ( 3 )長崎県の石炭火力誘致および政府・電力業界との折衝 長崎県は,造船業・石炭産業・水産業の三本柱で経済を支えていたが,その一角の石炭産業 が壊滅寸前の状態にあった。このため長崎県は,福岡通産局の構想「九州の産炭地に石炭火力 の建設」(1973年 2 月全国通産局長会議で発表)を県内で実現させることに活路を見出した。 これとタイミングを合わせるかのように,同年 3 月15日に長崎県議会の離島産炭地振興特別委 員会は「石炭火力の誘致促進を全員一致で決議」し,同月30日の長崎県議会も「石炭専焼火力 発電所の建設促進決議を全員一致で可決」した。これを受けて,同年 6 月に久保長崎県知事は 上京し,通産省を始め関係各省に1974年度予算措置の陳情を行うなど石炭火力の誘致に全力を 傾けていた。しかし久保知事は,電発が海外炭火力の候補地を極秘に調査していることは知ら なかった(五十嵐,1982,20⊖25)。
同社は,太平洋側の大半は工業地帯として開発済みのため発電所候補地として日本海側を重 点的に調査し,200~300万 kW の大型石炭火力発電所を二ヶ所に設置したかったが,決定に 至らなかった。第一次石油危機が襲来した1973年の暮れに,同社揚地火力に池島炭を納入する 松島興産から有力者を介して大堀に,「松島炭鉱跡地に海外炭を導入して国内炭と混焼する火 力発電所を建設してもらえないだろうか」と相談があった。電発は,直ちに現地調査を行った ところ,10万トン級大型船が入港可能な深湾を発見した。同社の関係者は,急遽取りまとめた 松島火力計画の青焼き資料を仕事納めの日に受け取り,社内論議が開始された。年が明け,久 保知事は大堀に「松島炭鉱跡地への石炭火力建設の申し入れ」をした(『火力部30年誌』,126⊖ 127,村井,2003a,47,58⊖59)。当時,公害問題,住民の意識,企業不信等から電源立地が難 航していた(村井,2003b,16,橘川,2004,391⊖392)。このため長崎県および松島興産の誘 致は,電発にとり千載一遇のチャンスとなった。同年 3 月,大堀は久保知事を訪問し,「松島 火力計画(50万 kW× 2 基)」を公表した。しかし,政府および電力業界の反応は厳しく,そ れから 2 年間,同社はこの構想を巡り折衝・調整を行った。電力業界は,「石炭は前時代の遺 物」,「石油代替エネルギーの本命は原子力」と信じていた。行政当局は,「今さら石炭?」, 「これからは原子力,人口過密地帯は LNG で繋いだらどうか」と難色を示し,「経済性から重 油火力の座は揺らぐことはない」との考えが支配的だった。民間シンクタンクのシンポジウム や政府のエネルギー関係の委員会等でも発言し理解を求めたが,同様の反応であった。同社経 営トップをはじめ企画・財務部門の担当は,建設資金を融資する財政当局に忍耐強く説明と説 得を続けた。電発の理解者は,海外炭鉱の開発と石炭輸入の実現に向けて行動を共にし,既に 海外から原料炭や鉄鉱石を輸入して銑鋼一貫体制を確立していた日本の鉄鋼業界だけであっ た(4)(村井,2003a,58⊖61,78,村井,2003b,16⊖18,『電気新聞』1974年12月 6 日,南ヤクー ト炭開発協力株式会社,1990,80⊖81,御厨・佐脇,2003,313⊖314)。大堀は,「発電所を作ら なければ会社の生きる道がない。何とか作らせてほしい」との思いで頭を下げて回り, 9 電力 会社に熱心に松島火力計画を説明した(中村,1986,246⊖247)。大堀は,田中角栄総理に説明 し,電力業界を説得し,通産当局の支持をとりつけ,辛うじて1975年度予算に頭を出した所 で,1975年 5 月に退任した。 1975年 6 月,両角良彦(元通産事務次官)が大堀の後任総裁として就任した。大堀の引継ぎ に大容量海外炭火力の実現があった。おりしも,関電や中国では新規電源立地が進まず,電力 需要増大への対応が危惧されていた。九州と本州を結ぶ関門連系線の送電容量に余裕がなく, 松島火力の発生電力を本州に送電するためには西地域連系線の増強工事(22万 V →50万 V) を同時に進める必要があった。政府は,石油危機後のハイパーインフレーションを克服するた め,経済・財政の両面から総需要抑制策を推進していた中で,両角新総裁の初仕事は政府から 松島火力と西地域連系線の建設同意を取り付けて,1976年度の財投予算に計上させることで あった。同社は両角を先頭に政府に働きかけ,電力首脳も大蔵省に陳情した結果,大蔵省は国 際的に逼迫する石油エネルギー事情を考慮して,同社の予算要求を承認した。これが日本最初
の海外炭火力を実現させる大きなステップとなった(大堀,1982,15,村井,2003a,62⊖63, 御厨・佐脇,2003,314,『電発30年史』,483)。 両角は,後に次のように回想している(日本経済新聞社編,2004,224⊖225)。 1975年(昭和50年) 6 月,私は畏敬する三木総理から電源開発株式会社総裁に任命する 辞令を受け,『まあ君,しっかりやってくれ給え』との一言を重く承った。ところが自分 の不勉強をさらけ出すようだが,会社に入ってみて意外な思いに駆られた。つまり 9 電力 会社と電発との相互の係り合いは,いわば主従の関係にあって,何事も相手方の意向に即 して決めねばならない。それは電発が発送電の一部のみを担当し,他はすべて 9 電力が行 なう仕組みからくる当然な帰結である(5)。 そうした中で,大堀総裁から引き継いだ案件に,輸入炭火力発電所の実現という項目が あった。それまで電発が国の石炭政策に協力して,国内炭を用いて発電した技術を活か し,割安な海外炭を利用して大規模石炭火力を建設しようとする斬新な構想である。すで に長崎県の松島で立地の話し合いもまとまっていた。残る課題は低利の財政融資が受けら れるか否かである。大蔵省理財局は,前年度査定でこれを認めなかったので,今回も危ぶ まれたが,国際エネルギー情勢の変化もあり理解を示してくれた(6)。もちろん事前には電 力三社の内意を質したろうが,私の新任へのご祝儀と思って同意してくれたのかもしれな い。 4. 松島火力の建設と国内外への波及 ( 1 )日本最初の大容量海外炭火力 松島火力(50万 kW× 2 基)は,セキュリティの視点から多種多様の海外炭を使用するた め,揚地火力とは異なる思想でボイラー,運転制御システム,排煙処理設備,揚貯運炭設備等 を設計する必要があった。最大の難題はボイラーであった。高度経済成長期に 9 電力各社は, 大型石油火力の建設・運転に特化したため,日本の重工メーカーは大型石炭ボイラーの製造経 験がなかった。同社は,豪州,ソ連,中国,南アフリカ,米国等から性状の異なる多銘柄の外 国炭を調達するので,ボイラー設計を一段と困難にさせた。1975年10月に,同社は社内に「大 容量火力技術委員会」を発足させた。揚地火力の運転実績,米国の大型石炭火力調査,揚地火 力で実施した20数銘柄の海外炭燃焼試験(豪州炭,ソ連炭,中国炭,南アフリカ炭,米国炭 他)などを評価して,高効率が期待できる日本初の超臨界圧石炭貫流ボイラー(蒸気圧力 24.1 MPa,蒸気温度538/538℃)を採用した。発注先の三菱重工は,米国コンバッション エン ジニアリング(CE)社と技術提携を行なってボイラーを製作した。松島火力は,多種多様の 海外炭を効率よく燃焼させて応答特性の速い貫流ボイラーを制御するため,計算機自動制御シ ステムを採用した。中央制御室は CRT 主体に完全自動化を図り, 1 ・ 2 号機 7 名以下の少人 数運転(揚地火力は15名前後)を可能にさせた(中村,1986,255⊖256,『火力部30年誌』,
111⊖114,『松島パンフレット』)。海外炭の使用は,排煙処理システムにも影響を与えた。多く の海外炭燃焼灰は,低温電気集じん器(低温 EP,排ガス温度140~160℃で使用)で捕集が困 難であった。これは灰の電気抵抗に起因するもので,米国で実績のある高温電気集じん器(高 温 EP,排ガス温度350~380℃で運転)の採用で安定した捕集が可能であるため,松島火力は 日本で最初に高温 EP を設置した。排煙脱硫方式は揚地火力で実績のある湿式・石灰石・石膏 法を採用したが,アフターバーナー方式に代わり排ガス再加熱器(GGH)を初めて設置した (伊藤,2003,48⊖50)。また松島火力は,年間230万トンの海外炭を取り扱うので, 6 万トン級 大型船が接岸できる桟橋を配置し,貯炭場の石炭積付けと払出しに鉄鋼業で実績のあるスタッ カ・リクレーマ方式を電力業界で初めて採用した。貯炭場貯蔵容量は,産炭国のストライキ, 悪天候,輸送途中の事故等を考慮して約45日(現在は発電所数増のため約30日)で計画した (『松島設備概要』)。 ( 2 )新たなノウハウ・能力の構築 ①豪州政府との石炭調達交渉 大堀は,村井に,「とにかく君が全部燃料を調達してこい。互いに信頼ができるまで何回で も同じ人間が外国へ行け」と厳命した(村井・藤野,1988,33)。村井は,大堀の指示を受 け,最初に豪州政府と石炭調達交渉を開始した。これと併行して,南アフリカ,インドネシ ア,カナダ等とも接触した。電発が石炭調達最優先国として豪州を重視した理由は,日本の鉄 鋼業が原料炭輸入取引の実績があること,炭田と輸出港との距離が近く積出港の設備が整備さ れていること,南半球であるが航路が比較的安定していることなどであった。当時の日本は, 国内炭保護政策のため IQ(Import Quota 輸入許可制)を取り,石炭は実質的に輸入禁止の状 態であった。豪州も主要な鉱産物の輸出を禁止していた。 同社は,1974年 2 月から豪州連邦政府と石炭輸入交渉を開始した。半信半疑のコナー鉱物資 源省大臣等は,「輸入した石炭で発電する発想など聞いたことがない」,「資源は国民のもので 一企業のものではない」,「資源が無くなることは国が無くなることである」などと強硬な姿勢 であった。しかし電発は,ロイヤルカンパニー(政府の出資会社)であることが豪州政府の信 用となり,「具体的な発電所計画があれば検討する」との約束を取付けた。同年 8 月末,豪州 鉱物資源省のヒューイット次官が来社し,「① 今後の需要見通しに基づいた電発の発電所計画 を豪州政府に説明すること。② 電発は日豪首脳会談で石炭問題を取り上げるように日本政府 と協議すること」の 2 点を大堀に申し入れた。これを受けて,同社は行政関係機関と協議する と同時に,村井他は同年 9 月30日に豪州政府を訪ね,コナー大臣,ヒューイット次官,ウィル コックス商務官に火力計画の説明をした。同年11月に日豪首脳会談(田中首相とウィットナム 首相)がキャンベラで開催され,その成果は日豪共同新聞発表の形で行われた。豪州は,電発 の石炭輸入交渉を契機に資源輸出禁止を解除し,日本に発電用石炭,天然ガス,ウラン等の輸 出を確約したのである(7)(村井,2003a,65⊖66,71⊖80,『朝日新聞』1974年11月 2 日,谷明人,
2007, 8 )。 ②海外炭の調達計画および海上輸送システムの構築 電発は,1974年当時,産炭国と日本との輸送距離に着目し,不当な値上げ,供給コントロー ルを抑止するため,「豪州と南アフリカ」,「アメリカとカナダ」および「中国とソ連」の三つ の組合せで,輸出港積込み渡し(FOB)で石炭調達計画を立案した(村井,2003a,105⊖ 106)。石炭の積出しが期待できる港は,ニューキャッスル,ヘイポイント,ポートケンブラ, グラッドストーン(豪州),リチャーズベイ(南アフリカ),バンクーバー(カナダ),秦皇島 (中国)およびナホトカ(ソ連)であった(図 3 参照)。 石炭は輸送に始まり輸送に終わる。海上輸送費は石炭価格の30~40%を占めるため,いかに 海上輸送効率を上げるかが経済性確保の決め手となる。同社は,実績のある日本の鉄鋼業(新 日鉄)の助言を受けて,船の手配と船会社の選定を自ら行い,海運市況に影響されない大型石 炭専用船を導入し,世界で初めて本格的な海外炭火力発電を行うために長距離海上輸送システ ムを構築した。また松島火力は,新規貿易港の手続きも行なわれ,検疫・入国審査・通関等が 全て現地で対応可能となった(村井,2003a,117⊖122,『電発30年史』,416)。 ③環境アセスメントの経験 1973年12月,資源エネルギー庁の通達「発電設備の設置に関わる環境保全に関する資料の提 出について」により,15万 kW 以上の火力および原子力を建設する場合には環境影響調査が 図 3 海外炭の海上輸送 (出所)村井(2003a,107)。
義務付けられた。そして環境審査顧問会(資源エネルギー庁長官の諮問委員会)がその調査結 果を審査することになった。同社松島火力はその適用第 1 号となり, 9 電力各社に先駆けて環 境アセスメントを経験し,このノウハウを獲得した(『電発30年史』,372,環境立地本部, 1974,20⊖23)。 ( 3 )国際エネルギー機関(IEA)の決議と日本政府・電力業界の対応 前述したように,石油危機前の日本は原油輸入の75%以上を中東に依存し, 9 電力会社は総 発電電力量の約75%を石油火力から供給していた(図 1 および図 2 参照)。 1973年10月,第 4 次中東戦争が勃発して第一次石油危機が発生したため,世界の石油需給は 中東産油国の禁輸措置により逼迫し,日本の高度経済成長が終焉した。1978年の秋には政情不 安のイランで,国営石油会社や公共部門等で大規模ストライキが頻発して原油生産量が激減し た。同年12月のイラン革命を経て,1979年には政情は安定に向かったが,イランの原油輸出量 が従前の規模を大きく下回り,世界の石油需給バランスが崩れ,再び原油価格が高騰した。第 二次石油危機の発生である(図 4 参照)。二度にわたる石油危機の直撃を受けて, 9 電力各社 の業績は急激に悪化していった(橘川,2004,373⊖374,460)。 IEA は,1974年11月に OECD 加盟16ヵ国が消費国の立場からエネルギー問題に対処するた めに設立された。1979年 3 月に IEA 理事会がパリで開催され,イラン新政権が原油生産を再 開しても日産500万バレル水準の回復は不可能との見通しに立ち,同年 4 月から12月まで IEA 0.0 10.0 20.0 30.0 40.0 50.0 60.0 70.0 1971 73 湾岸戦争時の最高値: 32.5ドル/バレル 第 4 次中東戦争勃発 (1973年10月) イラン・イラク戦争勃発 (1980年 9 月) イラクのクウェート侵攻 (1990年 8 月) 米国同時多発テロ事件(2001年 9 月) 第 1 次石油危機時の 最高値:11.7ドル/バレル 第 2 次石油危機時の 最高値:34ドル/バレル (単位:ドル/バレル) -アラビアンライト-原 油 価 格 75 77 79 81 83 85 87 89 91 93 95 97 99 2001 03 05 年 図 4 原油価格の推移 (出所)『エネルギー白書2007解説版』解説 1 ,国際原油価格の推移(XLS 形式)より作成。
加盟国の石油消費量を約 5 %, 1 日200万バレル程度を節減し,加盟国は省エネルギー対策, 石油代替エネルギー開発を推進することが決定された。その後,この石油消費量の節約だけで は産油国側の減産や値上げ攻勢に対抗できないという認識が広がった。このため,同年 5 月開 催の第 3 回 IEA 閣僚理事会は,「石油火力の新設禁止および石炭の開発利用拡大に関する行動 原則」を決議した(『電発30年史』,367⊖368,555)。 これを受けて通産省は,電力業界に対し,「現在建設中のものおよび計画中のものを除く石 油火力の建設中止と石炭火力への転換を指導する」ことを決定した。電力業界は,「石炭火力 の建設に積極的に取組む」ことを直ちに確認し,海外炭調達を目的に「石炭資源開発会社」 (電発を含む電力10社の共同出資)を設立した。このようにして,同社の海外炭火力構想は電 力業界に波及していくことになった(五十嵐,1982,195⊖197)。 ( 4 )松島火力の運開と国内外への波及 松島火力 1 号機は1981年 1 月に運開し,同 2 号機は同年 6 月に営業運転を開始した。総建設 費は1,600億円, 1 ・ 2 号機の総合発電原価は12円 /kWh 弱で,電力各社は「この建設費は高 い」との印象をもった。しかし,図 4 に示すように石油危機で原油価格が暴騰したため,石油 火力は燃料費だけで14円 /kWh 程度(松島火力運開時点)となり,海外炭火力が圧倒的に経 済的であることを実証した(『電発30年史』,399)。松島火力は,石炭火力のイメージを払拭さ せ,政府と電力各社に石炭は重要なエネルギー資源であることを再認識させた。 電力各社は,高度経済成長期に石油火力の建設を推進したので,石炭火力技術者が殆んど不 在となってしまった。このため電力各社は,海外炭火力を計画する場合には,電発の経験とノ ウハウ(地元対応,設備設計,施工管理,試運転,運営管理,石炭調達,開港手続き,環境調 査等)を活用する必要があった。九州電力(以下「九電」という)松浦火力,四国電力(以下 「四電」という)橘湾発電所および東電常陸那珂火力は電発と共同開発を行い,同社の技術, 経験およびノウハウを吸収していった(8)。 このように同社が創造した「大容量海外炭火力発電モデル」は,経済合理性およびセキュリ ティの両面で優れた特性を有することが実証されたため,電力各社は石油代替電源として海外 炭火力を積極的に建設していった(表 2 参照)。 2015年度における日本の総発電電力量の約30%は石炭火力が供給している(図 2 参照)。 セメント・紙パルプ産業は,火力発電所の建設までに長期間(6~10年)を要する電力会社 に先駆けて,1970年代の後半から海外炭に切り替えていった。アジア諸国(韓国,台湾,香港 他)も電発の成功を見て,海外炭火力を建設した。この動きは,豪州・中国・南アフリカ等の 産炭国を刺激し,コールフィーバーを巻き起こした。ポーランド危機により同国炭を使用して いた欧州の国々までもが,豪州,南アフリカ,米国東部等に働き始めた。特に,豪州ではその 傾向が著しかった(村井,2003a,112⊖113,千村,1983,48⊖49,53,55,『日本経済新聞』 1981年 4 月 2 日)。
表 2 日本の海外炭火力一覧(電力関係) 会社名 発電所名 出力(万 kW) 蒸気条件 運開 J-POWER 松島 1 号 50 24.1 MPa-538℃ /538℃ 1981.01 J-POWER 松島 2 号 50 24.1 MPa-538℃ /538℃ 1981.06 J-POWER 竹原 3 号 70 24.1 MPa-538℃ /538℃ 1983.03 北海道電力 苫東厚真 2 号 60 24.1 MPa-538℃ /566℃ 1985.10 中国電力 新小野田 1 号 50 24.1 MPa-538℃ /566℃ 1986.04 J-POWER 石川石炭 1 号 15.6 18.6 MPa-566℃ /566℃ 1986.11 中国電力 新小野田 2 号 50 24.1 MPa-538℃ /566℃ 1987.01 J-POWER 石川石炭 2 号 15.6 18.6 MPa-566℃ /566℃ 1987.03 九州電力 松浦 1 号 70 24.1 MPa-538℃ /566℃ 1989.06 J-POWER 松浦 1 号 100 24.1 MPa-538℃ /566℃ 1990.06 北陸電力 敦賀 1 号 50 24.1 MPa-566℃ /566℃ 1991.10 中部電力 碧南 1 号 70 24.1 MPa-538℃ /566℃ 1991.10 中部電力 碧南 2 号 70 24.1 MPa-538℃ /566℃ 1992.06 中部電力 碧南 3 号 70 24.1 MPa-538℃ /593℃ 1993.04 東北電力 能代 1 号 60 24.5 MPa-538℃ /566℃ 1993.06 沖縄電力 具志川 1 号 15.6 16.6 MPa-566℃ /538℃ 1994.03 東北電力 能代 2 号 60 24.1 MPa-566℃ /593℃ 1994.12 北陸電力 七尾大田 1 号 50 24.1 MPa-566℃ /593℃ 1995.03 沖縄電力 具志川 2 号 15.6 16.6 MPa-566℃ /538℃ 1995.03 九州電力 苓北 1 号 70 24.1 MPa-566℃ /566℃ 1995.12 東北電力 原町 1 号 100 24.1 MPa-566℃ /593℃ 1997.07 J-POWER 松浦 2 号 100 24.1 MPa-593℃ /593℃ 1997.07 中国電力 三隅 100 24.5 MPa-600℃ /600℃ 1998.06 東北電力 原町 2 号 100 24.1 MPa-600℃ /600℃ 1998.07 北陸電力 七尾大田 2 号 70 24.1 MPa-593℃ /593℃ 1998.07 四国電力 橘湾 1 号 70 24.1 MPa-566℃ /593℃ 2000.06 J-POWER 橘湾 1 号 105 25.0 MPa-600℃ /610℃ 2000.07 北陸電力 敦賀 2 号 70 24.1 MPa-593℃ /593℃ 2000.09 J-POWER 橘湾 2 号 105 25.0 MPa-600℃ /610℃ 2000.12 中部電力 碧南 4 号 100 24.1 MPa-566℃ /593℃ 2001.11 沖縄電力 金武 1 号 22 16.6 MPa-566℃ /566℃ 2002.02 J-POWER 磯子 新 1 号 60 25.0 MPa-600℃ /610℃ 2002.04 北海道電力 苫東厚真 4 号 70 25.0 MPa-600℃ /600℃ 2002.06 中部電力 碧南 5 号 100 24.1 MPa-566℃ /593℃ 2002.11 沖縄電力 金武 2 号 22 16.6 MPa-566℃ /566℃ 2003.05 九州電力 苓北 2 号 70 24.1 MPa-593℃ /593℃ 2003.06 東京電力 常陸那珂 1 号 100 24.5 MPa-600℃ /600℃ 2003.12 東京電力 広野 5 号 60 24.5 MPa-600℃ /600℃ 2004.07 関西電力 舞鶴 1 号 90 24.1 MPa-595℃ /595℃ 2004.08 J-POWER 磯子 新 2 号 60 25.0 MPa-600℃ /620℃ 2009.07 関西電力 舞鶴 2 号 90 24.1 MPa-595℃ /595℃ 2010.08 合計出力 2726.4 (出所) 火力原子力発電技術協会(2006)『火力原子力発電』第57巻第601号,14⊖15頁および火力原子 力発電技術協会(2010)『火力原子力発電』第61巻第649号,63頁より作成。 (注) J-POWER とは電発のコミュニケーションネーム。
5. 海外炭火力の性能を一段と向上させた技術開発 電発は,厳しい環境規制を遵守して高性能の大容量海外炭火力を建設するため,日本の重工 メーカーと共同で後述の排煙脱硝技術,超々臨界圧蒸気条件(USC)ボイラー・タービン技 術,乾式排煙脱硫技術等の技術開発を積極的に行い,その成果を新規火力に適用した。現在, 同社の海外炭火力は世界最高水準の発電端熱効率(実績値43%,HHV 基準)と環境性能(図 5 参照)を有している(9)(坂梨,2017, 9 ,24,25)。 ( 1 )排煙脱硝技術 ボイラー燃焼改善(低 NOx バーナー,二段燃焼等)では100 ppm 以下の低 NOx 濃度達成 は困難であるため,触媒を使用する排煙脱硝技術(Selective Catalytic Reduction of NOx, SCR 技術)の開発が必要となった。同社は,自社発電所構内でパイロット試験を重工メーカー と共同で行い,この成果を踏まえて竹原火力 1 号機(25万 kW)で実証試験(通産省委託事 業,1978~1982年)を実施し,世界に先駆けて商用化に成功した(中林,1995,48⊖51)。 現在,竹原火力 3 号機(70万 kW),松浦火力(100万 kW× 2 基),橘湾火力(105万 kW× 2 基)等に排煙脱硝装置を設置し,NOx 濃度45 ppm 以下を達成している。 ( 2 )超々臨界圧蒸気条件(USC)ボイラー・タービン技術 熱効率の本質的な課題は蒸気タービン入口条件(温度・圧力)の向上であったが,最近まで 改善されてこなかった。これは米国 USC 技術開発の歴史とも関連していた。米国は1955年代 1.0 0.6 2.0 1.2 0.6 1.1 0.9 1.3 0.5 0.8 0.2 0.3 0.001 0.06 0.0 0.5 1.0 1.5 2.0 2.5 3.0
SOx NOx SOx NOx SOx NOx SOx NOx SOx NOx SOx NOx SOx NOx アメリカ(2014) カナダ(2014) イギリス(2014)フランス(2014) ドイツ(2014) 日本(2014) 磯子(2016) 石炭・石油・ガス火力の合成 石炭火力 (g/kWh) -火力発電電力量あたりのSOxとNOxの排出比較-図 5 世界トップクラスの環境対策技術 (出所) 坂梨(2017,10)より作成。 (注)排出量 /OECD Stat Extract。
発電電力量 /IEA ENERGY BALANCES OF COUNTRIES 2016 EDITION。 磯子は2016年度実績。
後半に火力発電プラントの蒸気条件向上を図り,24.1 MPa の超臨界圧を突破した。しかし, 当時の材料技術等が未熟のため,故障が多く,稼働率も低迷し,米国 USC 技術開発は失敗に 終わった。米国の火力技術は後退期に入り,蒸気条件も24.1 MPa,538℃レベルに留まった。 世界の電力会社と重工メーカー各社は,蒸気条件の向上は困難と思い込み(約30年間),米国 では超臨界圧から亜臨界圧へ逆行していった。このため,1980年以降,電発が中心となり通産 省の補助金を得て,日本の重工メーカーと共同で USC 技術開発を実施した(中林,1995,61⊖ 64,154⊖156)。その成果は,同社の松浦火力 2 号機(100万 kW,24.1 MPa,593/593℃),橘 湾火力(105万 kW× 2 基,25 MPa,600/610℃)および磯子火力(60万 kW× 2 基,新 1 号機 25 MPa,600/615℃,新 2 号機25 MPa,600/620℃)に適用され,他電力にも波及していった (表 2 参照)。 ( 3 )活性炭方式乾式排煙脱硫技術 電発は,通産省の補助または委託を受けて,水資源を使わない活性炭方式による乾式排煙脱 硫装置の技術開発を竹原火力と松島火力で行なった。この方式には排煙脱硝機能もあり,乾式 同時排煙脱硫脱硝装置としての評価も加わった。同社は,この技術を,竹原火力 2 号機(35万 kW)流動床ボイラー転換工事の排煙脱硝装置に採用し,磯子火力新 1 ・ 2 号機(60万 kW× 2 基)更新工事では横浜市が削減要請した LNG 火力並みの NOx 排出濃度(公害防止協定; 新 1 号機20 ppm,新 2 号機13 ppm)を達成するため,排煙脱硝装置(SCR)と乾式排煙脱硫 装置の排煙脱硝機能を併用している(中林,1995,46,『磯子パンフレット』)。 6. おわりに 9 電力会社は,電気事業再編成後,政府および通産省の電力政策から「自立」した判断をし て,電源構成の「火主水従化」,火力発電用燃料の「油主炭従化」等の経営行動を展開した。 そして, 9 電力各社は,高度経済成長期に同質的な競争を行いながら高効率の大型重油火力を 建設し,民間企業としての活力を発揮して「低廉で安定的な電気供給」を行う「自律的電力経 営」を実現していった(橘川,1995,8⊖9,446⊖447,橘川,2004,546⊖547)。 本稿の目的は,「日本の電力体制が重油火力に向かう時期に,電発はなぜ大容量海外炭火力 を推進したのか。日本最初の海外炭火力である同社松島火力(50万 kW× 2 基)とその後の関 連技術の革新はなぜ実現したのか」を,解明することであった。これまでの調査と分析から次 の結論が導き出される。 電発の「大容量海外炭火力の推進」は,1960年代に始まったエネルギー流体革命によって発 電体制が石油火力に向かう時期に,海外炭を輸入して低公害で高効率の発電を行い,電源構成 の多様化を目指すものであった。その基本となっていたのは, 9 電力体制の補完的役割を課せ られた電発が 9 電力会社と棲み分けた事業構造にしかその存在意義を訴えることができなかっ たという側面と,同社の事業を継続しようとする生存欲求であった。
同社松島火力の実現には,揚地 3 火力の建設,電発の廃止勧告,湿式排煙脱硫装置導入開発 の成功,日本鉄鋼業の原料輸入型ビジネスモデルの先行事例,石炭劣位を一変させた石油危 機,長崎県の石炭火力誘致,財投予算獲得等の歴史的経路が存在した。これらの経路を,同社 の閉塞的事業環境の打開につなげたのが,石油を中心としたエネルギー流体革命下における大 容量海外炭火力だったのである。 9 電力会社は,政府が「石炭対策大綱」に明記した国内炭引取量に対し,「今後,経済性を 無視した石炭火力の着工に応じられない。しかし国内炭政策には協力する」との見解を示し, 国の資金投入や低金利の財投資金が活用できる電発に揚地 3 火力の建設を要請した。電力業界 は,同社に揚地 3 火力を建設・運営させることで,国内炭増量問題に終止符を打ち,高効率の 大型重油火力の建設に専念できる事業環境を整えた。この意味で,1963年に電発が揚地 3 火力 の建設を受諾したことは, 9 電力会社の「自律的電力経営」に貢献したということができる。 磯子火力の立地に際し,環境法が未整備で自治体の権限もない中,横浜市は電発と合意して 公害防止を図る「横浜方式」を創出した。同社は,この「横浜方式」を遵守した設備設計を行 い,最高性能の電気集じん器を設置した。同社は,発電所運開後も横浜市の環境行政に応え て,ボイラー改造(二段燃焼,低 NOx バーナー等)や湿式排煙脱硫装置の設置を行った。 電発が揚地 3 火力を推進していた1967年の夏に,同社を震撼させる事件が起こった。特殊法 人の整理統合を検討していた行政監理委員会が電発廃止を勧告したので,同社は存亡の危機に 直面した。この勧告は最終的に撤回されたが,その後の同社の事業活動に大きな影響を与え た。その後,電発は,電力業界の要請で電力需給の逼迫した関電に供給するため,竹原火力 2 号機(35万 kW)を緊急に増設して,1974年の夏に運開させた。 この重油火力を建設中に,今度は揚地 3 火力が操業の危機に直面した。国と地方自治体が, 1972年 7 月の四日市公害訴訟判決等を機に,SOx 等の排出規制を強化したからである。この ため電発は,米国から未完成の湿式排煙脱硫技術を導入して開発を行い,世界で初めて営業運 転に成功した。同社は,この開発で,独自の火力技術を取得し,揚地火力を存続させ,松島火 力建設への道を開くことになった。 一方,電発は,前述の廃止論を踏まえ,国内炭火力で培った運転実績と湿式排煙脱硫装置の 導入開発で蓄積した低公害技術を,日本鉄鋼業で成功したビジネスモデル(最新鋭の臨海製鉄 所に大型船で鉄鉱石と原料炭を輸入)に結合した「大容量海外炭火力発電モデル」を石油危機 の発生前に構想した。その開発地点を極秘に探していた時期に,長崎県は松島炭鉱跡地に電発 の石炭火力を誘致した。電発は,政府と電力業界に対し,「電源構成の多様化を図るためにも 松島火力を推進する意義がある」と説得したが,その理解を得るのに 2 年の歳月を要した。お りしも,中国と関電の両電力管内では新規の電源立地が進まず,増大する電力需要への対応が 危惧され,石油危機の勃発で石油優位が一変したこともあり,関係電力会社の同意と政府の理 解(財投予算)を得ることができた。1981年に同社松島火力は運開し,石油火力より圧倒的に 経済的であることを実証した。