日雇い労働者の「日記」にみる男性性の「温床」 ――昭和初期の東京市社会局調査資料を素材として――
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(2) ジェンダー史学 第 15 号(2019). 【表①】調査対象宿泊所 『日傭労働者の日記』 宿泊所名. 所 在. 記入者数 平均年齢. 備 考. 東京市富川町簡易宿泊所. 深川区富川町. 43. 31.0. 1925 年 12 月設立. 東京市浜園臨時簡易宿泊所. 深川区浜園町. 22. 38.0. 1924 年 1 月設立. 黒龍会自由宿泊所. 麹町区永田町. 59. 30.3. 1923 年 11 月設立(24 年 11 月改築). 日蓮宗報効団宿泊所. 浅草区永住町. 20. 31.4. 1923 年 11 月設立(天幕→ 25 年旧館→ 27 年新館). 相愛会宿泊所. 本所区太平町. 0. −. 1921 年頃設立(27 年移転新築決定)/相愛会は 親日内鮮融和団体. 『日傭労働者の日記 二』 宿泊所名. 所 在. 記入者数 平均年齢. 〔62 木賃宿〕. 本所区花町. 32. 33.5. 〔30 木賃宿〕. 深川区富川町. 43. 34.5. 四谷区永住町. 28. 45.5. 浅草区田中町. 24. 29.3. 〔18 木賃宿〕 東京市田中町簡易宿泊所. 備 考. 1928 年 7 月設立. [出典] ・東京市社会局編『日傭労働者の日記』(東京市社会局、1928 年 3 月)、「はしがき」。 ・東京市社会局編『日傭労働者の日記 二』(東京市社会局、1929 年 7 月)、「はしがき」。 ※「記入者数」「平均年齢」「備考」の各欄は筆者付記(出典は以下)。 ・東京市社会局編『東京市社会事業施設年表』(東京市社会局、1929 年 7 月) ・黒龍会編『黒龍会三十年事歴』(黒龍会、1931 年 1 月) ・日蓮宗報効団編『日蓮宗報効団宿泊所概要』(日蓮宗報効団、1934 年 9 月) ・「相愛会館新築」(『東京朝日新聞』1927 年 3 月 31 日)/「内地在住の朝鮮人はどんな生活をしてゐるか」 (『京城日報』1933 年 8 月 2 日). 「発現」した個別の男性性の特異性を、その「温床」という観点から、男性性総体との関わりにお いて把握する必要がある。加えて第四に、対象とする時期の問題、つまり社会経済状況の変化(好 況期=第一次大戦期から不況期=昭和初期への変化)と男性性との相関関係を視野に収める必要が 3 ある 。これらの課題を念頭に置きつつ、以下の本論では、昭和初期の日雇い労働者の①実態・意 4 識、②「他者」認識、③娯楽・文化 を相互に関連づけつつ考察してゆく。. 最後に、本稿が依拠する史料とその性格について触れておきたい。本稿では、東京市社会局が編 纂した『日傭労働者の日記』(1928 年 3 月、以下日記①)及びその続編『日傭労働者の日記 二』 5 (1929 年 7 月、以下日記②) を中心的に用いる。「日傭労働者自身をよく知る事」「労働者自身より. その虚らざる声を聞く事」を目的に実施された社会調査の一環として、日雇い労働者に「日記」の 6 記入を求め、それをそのまま採録したものである 。調査期間と対象は、日記①の場合、1927(昭. 和 2)年 10 月 24 日(月)∼ 30 日(日)、東京市内 5 箇所の市営/私設宿泊所止宿者(記入者 144 名)、日記②の場合、1928(昭和 3)年 11 月 4 日(日)∼ 10 日(土)、東京市内 110 箇所の木賃宿 と 1 箇所の市営宿泊所止宿者(同 127 名)で、分量はまちまちながら、合計 271 名分の「日記」が 収められている【表①】。 この「日記」の史料的価値は、何よりもまず、①日雇い労働者自身の「語り」であることに加 え、②男性性の日常的展開を知り得ること、③日雇い労働者の平面観測が可能であることに求めら れるだろう。もちろん、「〔11/5〕社会局から答申を求められてゐると思ふと何んとなく自分がテス トされてゐるやうな気がしてならない」(Z.N. 37 歳、日記②、2-3 頁)などとあるように、①他人 (役人)に読まれる「日記」という問題(迎合・誇張・自己正当化の恐れ、博打・買春の不可視化)、 ②執筆能力の有無という問題(相愛会宿泊所の朝鮮人労働者の不可視化)、③調査期間・時期の問 6.
(3) 日雇い労働者の「日記」にみる男性性の「温床」 (伊東). 題(1 週間という短期間調査、かつ労働力需要が払底する冬季を目前に控え、抑制的生活に傾きが ちな時期)という限界には留意しなければならないが、それらを踏まえてもなお、本稿にとっては 恰好の素材といえる。. Ⅰ.昭和初期の日雇い労働者の実態と意識 1.日雇い労働者をめぐる状況の変化 大正末から昭和初期にかけて、東京市内(府内)在住の日雇い労働者の数は急激に増加してい る。1922(大正 11)年 3 月の東京市社会局の推算では、市内在住者の概数は 20,093 人であったの に対し(東京市社会局 1923、59 頁) 、25(大正 14)年 10 月の失業統計調査(速報)では 40,540 7. 人/附近合計 91,426 人(東京市社会局 1927、1 頁)、さらに 29(昭和 4)年 6 月末の労働人口統計 では、府内在住の「日傭労働者其ノ他」の概数は 131,455 人との数値が得られる(内閣統計局 1930、8-9 頁)。 この背景には、反動恐慌(1920 年 3 月)以降の不況(軍工廠・造船業など不況部門の被解雇者 の 20 ∼ 30%が「都市雑業」層に転落したとされる)という全国的な動向に加え(西成田 2015、 288 頁)、関東大震災という東京特有の事情も関係していた。すなわち、震災後の応急作業のため に大量の日雇い労働者が必要とされ、罹災失業者や地方からの流入者などがその需要に応じたとい う事情がそれである(加瀬 2011、143-144 頁)。 そうした事情は、日雇い労働者の賃金の下落に直結した。いうまでもなく、不況下であることも 相まって、応急作業が一段落するや否や、需要(減少)と供給(過剰)のアンバランスが露呈する こととなったからである。実際、【表②】からは、日雇い労働者の賃金は震災前年をピークに下落 しはじめ、その下降曲線は活字工(男性)・製糸工(女性)などと比べても始点が早くかつ急激で あったことがわかる。つまり彼らは、不況の影響を最も敏感に反映する存在であった。とりわけ 「大正十三年の暮から十四年の三四月へかけての自由労働者の失業は実にひどいもの」 (吉田 1930、 【表②】1 日当たり賃金の推移(単位:銭) 年. 活字 工. 日傭 人夫. 男. 男. 農業日傭 男. 女. 製糸 工 女. 綿紡織. 250. 男. 女. 1910. 51. 53. 39. 24. 31. 43.4. 27.2. 1912. 57. 58. 44. 27. 31. 46.7. 30.5. 1914. 60. 56. 47. 30. 35. 44.1. 31.9. 1916. 63. 57. 48. 30. 31. 50.0. 33.4. 1918. 82. 96. 75. 46. 43. 68.6. 47.5. 1920. 200. 201. 144. 92. 89 156.7 119.6. 1922. 215. 218. −. −. 102 154.4 124.3. 1924. 220. 216. 152. 118. 96 152.4 120.6. 1926. 227. 205. 142. 110. 98 154.8 122.2. 1928. 236. 198. 144. 128. 92 158.9 122.9. 1930. 235. 193. 114. 86. 86 152.6 105.5. 1932. 217. 130. 77. 55. 67 137.5. 82.7. 【表②】1日当たり賃金の推移(単位:銭) 活字工 男. 1934. 217. 131. 79. 61. 62 137.3. 75.4. 1936. 220. 133. 89. 67. 65 132.6. 72.2. 【表②】1日当たり賃金の推移(単位:銭) 日傭人夫 男. 1938. 221. 158. 147. 115. −. −. 71. 200 150 100 50 0. 【表②】1日当たり賃金の推移(単位:銭) 製糸工 女. [出典]三和良一・原朗編『近現代日本経済史要覧 補訂版』(東京大学出版会、2010 年)、99 頁。原資料は日本 銀行統計局編『明治以降本邦主要経済統計』ほか。. 7.
(4) ジェンダー史学 第 15 号(2019). 332 頁)であり、1925(大正 14)年 8 月には、第 2 次加藤高明内閣のもとで冬季・六大都市を対象 8 とした失業救済事業 の実施方針が決定されることとなる。. また、不況にともなう中等教育以上享受層の転落も、日雇い労働者急増の一因をなしていたと考 えられる。一例を挙げれば、「〔10/27〕あゝやつぱり僕には土方なんて仕事は出来ないらしい…… 僕の至らないのを見て「オイあまり堕落するな、お前も学校へ行つたんだろうかた[堅?]気にな と云われた時は全く悲しく一人涙がこぼれた」(T.H. 19 歳、日記①、162-163 頁。[ ]は原. 〳〵. れ. 文注記)との「日記」の筆者も、そうした転落者の一人であっただろう。参考として、1928(昭和 3)年 10 月の失業救済事業登録者(東京市)の教育程度を確認してみると、登録者総数 19,160 人 (うち朝鮮人 10,496 人)中、中等教育以上享受層は、半途退学者を含めて 2,201 人(うち朝鮮人 1,104 人)と決して多くはない(東京市社会局職業課〔1929〕、41-42 頁)。しかし、「〔11/6〕年と共 に生存競争場裡から敗れて来る者数知れず。割合に生半可なる教育を受けた者が多くなつて来た」 (T.I. 30 歳、日記②、60 頁)とあるように、日雇い労働者たちの実感としては、決して少なくもな かった。 その上で注意しておきたいことは、そうした転落者たちの「日記」には、「〔10/26〕貪慾と野卑、 安酒と売春婦、早くこうしたものから足を抜かなければならない事を知らない人々の為に目覚めよ と叫ばずには居られない」(T.K. 27 歳、日記①、143-144 頁)などといったように、日雇い労働者 の対抗文化を冷笑することで、自らを差別化しようとする傾向が認められるということである。日 雇い労働者の急増にともなう内部的多様性の拡大は、一面では、その対抗文化を相対化しようとす る動きを内包していたといえるだろう。 そもそもそれ以前から(好況期においても)、日雇い労働者は天候・季節による需給関係の変動 (特に彼らは、仕事が激減する雨天や冬季=「霜枯れ時」を恐れた)や、中間請負業者を介する間 接的雇用関係に基づくピンハネの横行など、日々脅威にさらされつづけていたわけであるが、以上 のように、昭和初期にはそこに就労機会の減少(就労をめぐる競争の激化)、賃金の下落、さらに は「親分子分といふが関係」に象徴される「私的保護」の衰退(東京市社会局 1927、2-3 頁)と いった新たな脅威が折り重なっていった。そしてそのことを反映するかのように、彼らの「日記」 からは、「不安」や「怯え」に満ちた内面世界が浮かび上がってくる。 2.日雇い労働者の内面世界 前項で確認した日雇い労働者の実態を踏まえつつ、本項では「日記」から読み取れる彼らの意識 の傾向を確認していきたい。まず、「日記」のなかで特に目立つのは飲酒に関する記述である。彼 らはなぜ飲むのか――。例えば、「〔10/26〕無味乾燥の一日であつた、感情之波の高ぶる儘に書け ば私も人の子である色々の事件があつたけれどすべては黄金色の液体によつて一掃される、酒の力 を借りて苦痛より逃れるのは卑劣な手段であるが現実は私にそれを強いる」(M.K. 26 歳、日記①、 104 頁)という記述からは、それが精神的な「苦痛」からの逃避の手段と意識されていたことがわ かる。あるいは、次のような記述もある。 〔11/8〕此頃は仕事は室内で楽だが先頃(夏内)は可成り激げしい仕事をした勿論日給も二円 以上であつたが収入の如何にかゝわらず其時は慰安を求めるに切で自分は酒は余り好む方でも 無かつて[た]がよく飲んだ、活動や芝居も見たい考へが多かつた、此頃は身体に疲労が少い 為か酒も飲み度くない、寄席、芝居、活動も嫌いでは無いが強いて見たいと思わない、其余裕 8.
(5) 日雇い労働者の「日記」にみる男性性の「温床」 (伊東). (金)が有つてもである、然し過激な労働をした時は決して此頃の様な落ち付いた考は起らな い、労働の激しい時と楽な時で自分の気持がこんなに異つて来ることを発見した。(S.O. 32 歳、 日記②、123 頁) ここからは、それが肉体的な「疲労」をほぐすための手段と意識されていたこと、そしてその度 合いによって、対抗文化や娯楽への依存度が変化していたことが窺える。 また、「他者」からの視線を気にする記述も多い。それは例えば、「〔10/25〕〔電車内で〕吾等労 働者のミスぼらしいナリをして座席を求むれば、ブベツの目を以て自分の装の美さをけがさんに務 る様、吾等労働者を馬鹿にせんとするそぶり」(T.T. 28 歳、日記①、98 頁)あるいは「〔10/30〕昼 は例の通りD食堂に行く、こんな食堂さい我々労働者に使ふ語或はタイドと会社員等のタイグウが 違ふやうだ、ましてや会社員等より我々を見た時におや、如何なる様に見えるであろうか、無論ド レイのやうに見えるであらう」(K.T. 21 歳、日記①、154 頁)などといったように、自分はどう見 られているのか、こう見られているに違いない、そうした「怯え」と「憤り」の表現である。もち ろん、自己に向けられた視線に対する彼らの解釈には、彼らの自己認識(自己卑下)も投影されて いただろう。 さらには、「〔10/28〕今日は雨で休んだ、なす事もなく無意[為]に日一日をすごした。……た まらなく淋しい」(Y.T. 25 歳、日記①、154-155 頁)、「〔11/5〕淋しい一日でした、何で淋みしいか 自分にも分りません」(T.S. 20 歳、日記②、126 頁)などと、孤独感を吐露する記述も少なくない。 その背景に、日々リセットされる労働環境=人間関係があったことはいうまでもないが、加えて彼 らの対抗文化の性格も関係していたと考えられる。つまりそれは、いくら通俗道徳的な実践に励ん だとしても社会的上昇が不可能であるという現実のなかで育まれたオルタナティヴな価値体系で あったのであり(藤野 2015、189-190 頁)、彼らはその内部では、より腕力が強いこと、より我慢 強いこと、より女性経験が多いこと等々、「俺」同士のしのぎ合いに勝利できさえすれば「上昇」 することもできた。しかし、そうした一種の「競合」原理は、彼らの対抗文化が「社交」的機能を 保持することをかえって困難にしたはずであるからである。 以上はあくまでも粗描にとどまるものであるが、精神的「苦痛」、肉体的「疲労」、差別的「視 線」から逃れ、日々累積する「淋しさ」を癒やす「社交」の場を、彼らが欲していたであろうこと は疑いない。. Ⅱ.昭和初期の日雇い労働者の「他者」認識 1.抑圧する/競合する「他者」 本節では、日雇い労働者の「他者」認識を通して、彼らの実態・意識をより多角的に把握してい きたい。彼らにとって最も身近な「他者」は、親方・世話役・人夫引き等の中間請負業者であっ た。仕事を世話してもらう以上、頭が上がらないという「怯え」――「〔10/24〕親方の機嫌が良け ればよいがとばかり思ふ心をじつと見つめると自分乍ら唾棄したい嫌悪の情にかられる事がある」 (T.K. 27 歳、日記①、142-143 頁)――と、給金をピンハネされるという搾取に対する「憤り」―― 「〔10/25〕労働者の労働賃金の上前をはねる階級あり、是を職業となす輩あり、実に憎むへき人間 共である。……恐るへき搾血鬼なり」(同上、143 頁)――が、「日記」にはしばしば表現されてい る。そこからは、自己に向けられる視線に対するのと同じ両面価値的な意識・感情を読み取ること 9.
(6) ジェンダー史学 第 15 号(2019). ができるだろう。 一方、この時期急速な勢いをもって増加しはじめた「競合他者」の存在も、彼らの「日記」には 登場する。朝鮮人労働者(あるいは中国人労働者)である。例えば、「〔10/26〕往復の途大島町、 〔 マ マ 〕. 砂町辺にて支那人労働者の激増せるに一驚を喫すと同時に我官憲の取締の寛に失す、否官憲の愚を 痛烈に感じた。……我等は速に彼等を放逐するの策を立てねばならぬと思つた」(S.O. 32 歳、日記 ①、6 頁)との記述からは、自らの領分を「蚕食」されることへの「怯え」と「憤り」を、また、 「〔10/29〕朝五時からおきて深川紹介所にいつたがいつもあふれつづきで、かへつてバルコニーか ら下をながめたら朝鮮人が円満にくらしてゐるのになぜにじぶんは意気地なさを感んじた」(T.K. 31 歳、日記①、19 頁)との記述からは、「同類」ではなく、自らの不遇を際立たせる「他者」とし ての評価を、それぞれ民族差別的な認識とともに読み取ることができる。 朝鮮人労働者についていえば、その急増の背景には、日雇い労働者を苦境から脱出させるための 政策的措置=失業救済事業の実施というある種皮肉な事態があった。すなわち、朝鮮人労働者は通 常、日本人労働者よりも 2 ∼ 3 割低廉な賃金のもとで長時間かつ「危険の伴ふ仕事、穢い仕事、労 苦の多き仕事」(東京府学務部社会課 1929、76 頁)に従事することを余儀なくされていたが、失業 救済事業の賃金には民族的格差がなかった(1 円 40 銭前後)。そのため、日本人にとっては低廉な その賃金が、朝鮮人にとってはかえって高額に映るという従来の差別待遇ゆえの逆転現象が生じる こととなったのである(加瀬 2011、92-93, 152-153 頁) 。実際の数値を確認しておくと、東京市の 9. 失業救済事業登録者に占める朝鮮人労働者の割合は、1927(昭和 2)年度には 20.1%(1,678 人)、 それが翌年度には 54.7%(10,496 人)と一気に半数を突破(加瀬 2011、150-151 頁;東京市社会局 職業課〔1929〕、前言 2 頁)。また全体的にみても、 「日記」が執筆された前後= 1927 ∼ 29(昭和 2 ∼ 4)年には、朝鮮人労働者の渡航者数から帰還者数を差し引いた数値が、毎年プラス 3 万 5 千人 前後とそれまでにない増加率を示している【表③】。 こうして無視し得ない「層」となりつつあった 朝鮮人労働者は、日本人労働者と同様に社会調査 の対象となっている。その報告書のなかで目を引. 【表③】朝鮮人労働者の渡航者/帰還者数 (単位:人) 年. 渡航者数(A) 帰還者数(B) (A)−(B). 1922. 41,038. 21,982. 19,056. 1923. 87,268. 78,045. 9,223. 1924. 104,361. −. −. 1925. 107,392. 93,804. 13,588. 1926. 63,979. 63,413. 566. 1927. 102,434. 68,871. 33,563. 1928. 130,838. 92,879. 37,959. 1929. 107,244. 70,427. 36,817. 1930. 64,148. 78,112. -13,964. 1931. 65,908. 56,791. 9,117. しの銭は持たぬ」という対抗文化の埒外にあるこ. 1932. 68,949. 46,801. 22,148. とは明らかだろう。つまり日本人労働者にとっ. 1933. 91,179. 52,179. 39,000. 1934. 95,007. 69,209. 25,798. 1935. 57,779. 61,712. -3,933. 1936. 59,807. 61,678. -1,871. 1937. 60,997. 62,918. -1,921. 1938. 83,658. 74,275. 9,383. 1939. 154,972. 90,460. 64,512. 1940. 192,203. 115,844. 76,359. くのは、「本調査に依り、吾々は先づ一驚せざる を得ないのは、即ち彼等〔朝鮮人労働者〕が剰余 金を有し、貯金又は国許へ送金さへするもの、多 いことである」(東京府学務部社会課 1929、128 頁)といった記述である。この調査によれば、剰 余金を有する者の割合は世帯員・独身者ともに 6 割に達しているが、そうした生活態度が、「宵越. て、「競合他者」たる朝鮮人労働者は、対抗文化 という観点からしても異質な「他者」として映じ 10 ていたと考えられるのである 。. また、「競合他者」は同じ日本人のなかにも存. 在した。東京の日雇い労働者の数は、農閑期にお [出典]外村大『在日朝鮮人社会の歴史学的研究―― ける出稼ぎ労働者の流入、そして夏季に東京から 形成・構造・変容』(緑蔭書房、2004 年)、47 頁。 10.
(7) 日雇い労働者の「日記」にみる男性性の「温床」 (伊東). 北海道やカムチャッカなどへ「出張」していた労働者の還流によって、秋口から冬季にかけて増加 するという季節的な変動があった。別言すれば、労働力需要が減少していく時期に、供給の側が増 加していくという矛盾がそこにはあった。「〔10/24〕追々寒空に向つて来り地方の百姓の子弟が稲 上京する為め各〔職業〕紹介. 〳〵. 刈取を済し出稼ぎに寒い国奥州信州越後辺から知り人を頼りどん. 所人夫集場が知らぬ地方人夫の襲来の為め我々生粋の東京労働者に対し一大恐懼を感ずるものな り」(K.I. 27 歳、日記①、19-20 頁)といった記述などからも、そうした矛盾が幾度も繰り返される なかで、「霜枯れ時」に対する「怯え」の感情が増幅されていったであろうことが読み取れる。 以上から確認できることは、ここでも日雇い労働者たちの内面には「怯え」ゆえの「憤り」とい う両面価値的な意識が渦巻いていたということ、加えてこの時期には、全方位的な脅威. 11. にさらさ. れているという彼らの不遇感が、より一層の被抑圧的存在であった朝鮮人労働者の急増・競合者化 によって亢進されていたという事実である。そしてそうした敵意を孕んだ「他者」認識は、彼らと 「他者」との関係性が、「社交」の場ならぬ「抑圧」あるいは「競合」の場において生じがちであっ たということともちろん無関係ではない。 2.女性という「他者」 日雇い労働者たちの生活環境はいわば構造的に単性化されていたが、亀戸や玉の井をはじめとし た私娼街、仕事現場の周辺、あるいは行き帰りの電車内などで、女性という「他者」とも交錯して いた。まず買春についていえば、「日記」には次のように、わずかながらその痕跡が残されている (史料の性格上、買春の多寡・頻度を計ることまではできない)。 〔10/25〕「女なくして何んの此の世の桜かな」古人の言むべなる哉、昨日亀戸に遊ぶ。 吾等労働者に取つての慰安は実に亀戸にあり女! 女あらん限りの媚と魅惑的な細い線を作つ たY子? 唇、頬、肌、女の寝臭い臭気の籠る陰気な取乱された四畳の室、一夜の室。 噫俺は幸福だ、俺は今天国の夢の中、斯くして一日の労働苦を忘れる。(H.A. 20 歳、日記①、 133-134 頁) 〔ママ〕. これと関連して、「〔10/30〕友達が[に]遊廓に行かないかと進められたが俺は止めた、俺は今 そんな気分になれない、現在の境遇が余りに惨めなためだ」(T.S. 21 歳、日記①、72 頁)などと、 12 買春の誘いについての記述も散見される 。. 他方で、買春に関わる「娼婦」という言葉が、「〔10/26〕〔仕事現場の〕前を通る娼婦形[型]の 見やがる」(R.F.. 〳〵. 女がいかにも貴婦人面しやがつて丁度人種でも違ふかの様の目を以てちよい. 24 歳、日記①、94 頁)といったように、買春とは関わりのない文脈で使われていることにも留意 したい。いうまでもなく、それは女性に対して敵意を表出する際のレッテルのようなものとして使 用されているのである。以上要するに、彼らの主観からして「娼婦」とは、「怯え」ることなく自 らが「上位」に立てる数少ない存在であり、だからこそ彼らは、その側では「一日の労働苦を忘れ る」ことができ、逆に「貴婦人面」で彼らを「下位」に見る(と彼らが一方的に評価する)女性 は、「娼婦」化することで「上位」から引きずり下ろさなければならなかったのだといえるだろう。 また、「〔11/6〕現代婦人がいたづらに外国文化を愉[輸]入してそれを表面のみを行ひ内面的方 面を我日本国民として古性を忘れ(古性とは男子に取り大和鬼[魂]の事)」 (N.A. 33 歳、日記②、 11.
(8) ジェンダー史学 第 15 号(2019). 136 頁)云々という記述や、時代を反映する次のような記述からも、彼らの女性認識を垣間見るこ とができる。 〔11/6〕今日仕事を終つて帰る途中電車の中でモーダンガールとか云ふ者を見ました。彼の婦 人は立涙[派]な髪を短く切つて洋服を着て帽子をかむらずに居りました。西洋婦人は外出す る時は何時も帽子をかむつて居るのに彼の女は短い髪を人々に見せるためにわざと帽子をかむ らずに居たのでせう。本人は非常に得意そうな顔付をして居りましたが非常に見苦しいと思い ました。日本婦人の彼様なスタイルはあまり感心致しません(S.S. 27 歳、日記②、106-107 頁) これらの記述においては、「現代婦人」(女性の「外国文化」摂取)あるいは「モーダンガール」 (女性の「西洋婦人」化)に対して、「古性」ある「日本婦人」からの逸脱という理由をもって敵意 13 が向けられていることがわかる 。そしてそこから透けて見えてくるのは、女性という「他者」が、. 真の意味で彼らにとって「他者」となってしまうことへの「怯え」と「憤り」である。. Ⅲ.昭和初期の日雇い労働者の娯楽と文化――安来節興行を事例として 1.安来節とは 「日記」からは、浅草などの盛り場で思い思いの娯楽に興じる日雇い労働者たちの姿も浮かび上 がってくる。最も多いのはやはり活動写真(映画)で、寄席や浪花節、講談本なども相変わらず人 気である。だがそうした「定番」の一方で、「〔10/24〕浅草六区遊楽館入場安来節を聞き午後十一 時帰所」(S.M. 28 歳、日記①、164 頁)、「〔11/10〕〔浅草公園内を散歩後〕午前十一時より出雲名 代の安気[来]節[を]聞く事約三時かんあまり」(T.Y. 31 歳、日記②、58 頁)などとあるように、 やす ぎ ぶし. 「安来節」という娯楽もそれなりのシェアを誇っていたことはあまり知られていない。そこで本節 では、この安来節(興行)の実態把握を通じて、彼らの娯楽・文化をこれまでの議論の延長線上に 位置づけていきたい。 安来節とは、鉄の積み出し港として栄えた島根県安来地方の民謡(俗曲)で、その源流は「出雲 節」や「さんこ節」など酒席の騒ぎ唄、花柳界のお座敷唄であったとされる。現在につづく型が確 立したのは明治に入ってからのことで、大正期には東京・大阪に進出。銭太鼓や「泥鰌すくい」の 踊りを交えた興行娯楽として一躍流行するに至る。最盛期は関東大震災前後のこととされている 14 が、昭和初期にもその人気を保持していた 。. 安来節の歌詞に注目してみると、「. 安来千軒 名の出た所 社日桜に 十神山」という有名な. 一節のように、出雲の名所を唄ったものが基本となっている。しかし興味深いことに、古い歌詞の なかには、まるで日雇い労働者(男)たちの「現状」(金なし・酒飲み・手を振るう)を「肯定」 する「女性」を唄ったかのように読めるものも散見される――「 たしゃあなたの 気にほれた」「 「. 男振りより 金より気立て わ. 酒飲男は 可愛いてならぬ 酔うてクダ巻きゃ なおかわい」. 叩かれながらも その手にすがり 主の短気に ワシャほれた」(松本[1968]1975、38 頁)。 実際、安来節興行は老若男女が入り交じって楽しむような娯楽ではなく、「〔自由労働者の娯楽. 中〕当世流行の八木節、鴨緑江節、安来節等は、一般労働者階級と等しく非常な勢力を有つて居 る」(東京市社会局 1923、141 頁)あるいは「ファンも、どちらかと言えば社会的には下層に偏っ ていた」(石田 1982、212 頁)などと評価されているように、同時代的には「労働者階級」・「下層」 12.
(9) 日雇い労働者の「日記」にみる男性性の「温床」 (伊東). の娯楽として認知されていた。つまりそこには、日雇い労働者たちを楽しませる特有の「何か」が 存在したと考えられるのである。 2.安来節興行はなぜ(「彼ら」の間で)流行したのか 昭和初期から戦後初期にかけて、知識人たちは安来節興行の現場に「潜入」を試みている。いう までもなく、なぜそれが労働者階級に歓迎されているのかを突き止めるためにである。例えば漫画 家の岡本一平は、「何故安来節が流行の命脈を保つて居るのだらうか。見物の民衆と舞台の芸人と 一つ座敷にある気持ちだからだ。土間の民衆は舞台の芸人を所有してる。女を所有してる」(岡本 1930、128 頁)と記し、また日記①の調査期間中に「潜入」した堺利彦も、全く同様に次のように 述べている。 円タクを奮発して再び浅草に引返し、〔友人の〕B君と共に御園劇場で安来節を聞いた。こゝ の空気は一種特別で、舞台の女達と、聴衆とが密接に連絡して、両者の交互作用に依つて演技 の過程が遂行されて居る。つまり聴衆は掛声を発したり、相の手を受持つたり、色々な. 文を. 出したり、種々雑多な巧妙な野次を飛ばしたりして、演技の一部を分担して居るわけである。 従つて聴衆は、一組の友達が芸者を揚げて遊んで居ると云つた様な気持であるらしい。そこに 御園劇場と安来節の盛んに歓迎される理由があるらしく考へられる。(堺 1928、133 頁) これらの記述からは、安来節興行に「疑似芸者遊び」としての側面があったことがわかる。つま りそれは、舞台(女性芸人)から聴衆(男性労働者)へと「唄」や「踊り」が届けられる一方向的 な娯楽であったのではなく、舞台の「唄」「踊り」と聴衆の「掛声」「. 文」「野次」とが入り乱れ. る双方向性を最大の特色としていたのである。別の言い方をすれば、そこは日雇い労働者たちに とって、自らの至らない「現状」を「肯定」してくれる「女性」と「一つ座敷にある気持ち」にな れる「社交」の場にほかならなかった。 時期は異なるが、戦後初期の浅草の安来節興行を分析した福田定良氏も、舞台と聴衆との間の 丁々発止のやり取りに着目し、特にそこでは「卑猥な冗談」が「たがいに未知なひとびとを社交的 関係にひき入れる有力な手段」になっているとの傾聴すべき指摘を行っている。例えば、聴衆の男 性が発した「猥談」に舞台の女性が「応酬」し(その逆も然り)、それを見聞きした周りの聴衆は 思わずドッと吹き出す。そうして瞬時に、席を占める他人同士が「擬制的な社交関係」のなかに取 り込まれるというのである(福田 1953、50, 67 頁)。 しかし、安来節興行が「彼ら」の間で流行した理由はそれだけではない。結論を先にいえば、そ れはいわばストリップ・ショー的な側面も意図的に盛り込んでいた。以下はやや時期は下るが、 1932(昭和 7)年の靖国神社大祭に出された掛け小屋内の光景である。 〔「肉弾三勇士」の映画が終わり〕映写機の騒音がやんで粛然たる客達も、ホッとした顔付。下 座のお囃子が、ひとしきり陽気に鳴って、安来節の舞台と一転した。 「待ってましたァ」の声に、四、五人の女が裾をまくって、赤い腰巻、妙に白い大根足をむ きだし、泥鰌すくいの田吾作男をなかに、卑猥な踊りが始まった。客が、最前列を動かずにい た訳である。女達は、ひらいた股間に、ザルを前後に動かし、足をあげ、ザルを通す、そのた びに、生白い太. が深々とのぞく。……昻奮した客は、女がしゃがむと、腰巻に手をかけてま 13.
(10) ジェンダー史学 第 15 号(2019). くりあげたりする。「ナニすンだ、このド助平野郎ッ」と、舞台に上半身のりだして見上げよ うとする客を、蹴ったり、ふんだりするという騒ぎ――これが数分前、「天皇」に頭をたれて いた羊のような客である。(児玉 1967、115 頁) 常連客だったというある男性の回想――「向こう〔芸人〕もサービスのつもりで、ちょっと〔裾 を〕めくるんですよね。……若い娘の素足に赤い蹴出は、本当に色気があった」(石田 1982、240 頁)――も、この娯楽のそうした一面を裏づける。安来節を「都市民の欲望を引き受け、形成され た実践」と表現する秋吉康晴氏は、舞台で衆目を集めた女性の身体とは「地方的な身体」であり、 「地方の労働を示す様々な記号(ザルや魚籠)を身につけた田舎の〈少女〉」の身体であったと評価 している(秋吉 2007、69 頁)。その文脈でいえば、日雇い労働者たちが欲望し消費したのは、同じ 都会に住むという意味では間近にいながら自らと隔絶した「モーダンガール」ではなく、地理的に は隔絶しながら舞台を通じて自ら間近に迫れる「田舎の〈少女〉」、そしてその「卑猥な踊り」で あったのである。 最後に、「田舎の〈少女〉」の実態についても触れておかなければならない。もともとは出雲の検 番から芸者を調達するという形で芸人が集められていたようであるが、流行が過熱してくるとそれ では足りず、勢い「素人娘」へと勧誘の手が伸びはじめる。問題はその供給源で、関係者(大阪の 吉本興行に関係した芸人らが中心)に聞き取りを行った石田信夫氏によれば、彼女たちの多くは 15 弓ヶ浜半島一帯の地域(通称「浜」) の貧農出身であった(石田 1982、183-188 頁)。つまり興行. 主や周旋人は、女性も含めて出稼ぎ労働が常態化していたその地域に狙いを定めていたのであり、 加えて、「電報は握りつぶすし、田舎にもなかなか帰らせてくれん。〔吉本の〕寮にいる間は、監獄 みたいだった。まるで女郎になったような気持ちだった」(同上、196 頁)という当事者の証言も あるように、獲得した芸人たちを囲い込んだ。もはや明らかなように、日雇い労働者たちの「怯 え」や「淋しさ」を引き受け、代わって彼らに擬制的な「社交」の場を提供することで流行娯楽の 座を占めた安来節興行は、その裏面において、「イモタ」と軽. され「女郎」のように使役される. 女性芸人たちの犠牲(あるいは都市による地方の搾取)によって支えられていたのである。. おわりに 以上、昭和初期の日雇い労働者の「日記」からみえてきたことを、論点提示という形で整理する ことで結びに代えたい。第一の論点は、日雇い労働者の男性性(あるいは対抗文化・「男らしさ」) の「温床」とはいかなるものであったのかということである。時期・素材ともに限られた分析であ るという留保を付しつつあえていえば、それは「怯え」とその反転形態としての「憤り」――「怯 える(がゆえの)男らしさ」――という両面価値的な意識であった。そしてそうした「不安に苛立 つ」意識の有り様は、日雇い労働に従事する男性だけが飲み・打ち・買っていたわけではないとい う事実からも明らかなように、とりわけ今回みた不況下など社会経済状況の変動期においては、他 の職業や階層の男性にも共有され得るものであったと考えられる。 とはいえ、本稿で扱った時期・素材のなかの日雇い労働者は、労働形態の不安定性、業務内容に 基づく精神的「苦痛」・肉体的「疲労」、そして差別的「視線」など、以前と変わらぬ「怯え」⇔ 「憤り」の諸要素に加えて、不況や震災を背景にした不安定性の亢進、労働者間の「競合」関係の 激化(量的増加)・複雑化(民族的要素等の混入)など、それをさらに助長する新たな状況のなか 14.
(11) 日雇い労働者の「日記」にみる男性性の「温床」 (伊東). に身を置き、その「温床」を過剰に抱え込んでいた。そしてそれに堪え切れなくなると、彼らは対 抗文化というシェルターへと避難しようとした(実際、「日記」の記述のなかにも、飲酒や買春を 通じて「労働苦」の解消を実感している男たちの姿があった)。しかしその一方で、彼らが対抗文 化によっては満たし得ない「淋しさ」を持て余していたことも事実である。安来節興行のような娯 楽は、そうした「淋しさ」を癒やす「社交」的機能を、逆に「俺」同士の「競合」に偏りがちな対 抗文化に代わって担うことで、彼らの男性性の日常的展開を下支えしていたといえる。 この第一の論点を掘り下げていくなかで、いわば副産物として浮かび上がってきたのが第二の論 点=対抗文化の行方という問題である。昭和初期には日雇い労働者の急増=多様化を背景に、対抗 文化の外部に立とうとする(学歴ある)日雇い労働者や、実際にその外部に立っていた朝鮮人労働 者の存在感がそれぞれ無視できるものではなくなりつつあった。また「日記」のなかには、本来対 抗文化の「発現」を促すはずの「温床」的要素が過剰なものとなるにつれ、逆に「発現」が抑制さ れているようにも読める示唆深い記述も存在した(「余りに惨めなため」 「そんな気分になれない」)。 それらはいずれも対抗文化の訴求力低下を暗示しているようであるが、昭和恐慌期以降の時代の実 態解明を通じて、あらためてその真否を問うてみる必要があるだろう。 最後に第三の論点として、日雇い労働者の男性性の「温床」と女性性との関係如何ということが ある。本稿の議論を通して確認できたのは、①男性性の「温床」的要素は女性性の「変容」にとも なって増幅されていたということ、また、②それは他方で女性性の「抑圧」「搾取」を通じて一時 的に解消されていたということであった。①については、例えば社会的階層を可視的に際立たせる 「モーダンガール」の存在などがその増幅要因となっており、それらに対して彼らは「娼婦形」や 「見苦しい」などの反動的言辞を投げかけていた。一方②については、「娼婦」に対する性的「抑 圧」を通じて、あるいは「古性」ある「日本婦人」たれという規範的「抑圧」を通じて、さらには 「田舎の〈少女〉 」との「社交」(実態は男性/都市による女性/地方の「搾取」)を通じて、その慰 撫が図られていた。もちろん①と②はコインの表裏であり、繰り返しになるが、それは労働環境か らも対抗文化からも見出し得ない「社交」の場を、女性という「他者」との――遊廓にしろ舞台に しろ金銭を介した――関係のなかに、つまりジェンダーの権力関係のなかに辛うじて確保しようと する日雇い労働者たちの実態と意識の反映にほかならない。 課題も残されている。まず、「日記」にも「〔11/4〕東京の労働者と大阪の労働者は何れが幸福か 大阪の方が数段幸福であると思ふ」(K.M. 33 歳、日記②、27 頁)云々とあるように、他都市の素 材を俎上に加えて、東京の素材から得られた本稿の成果の再検証を行わなければならない。また本 稿では、ジェンダー史(男性史)以外のアプローチでなされた労働者研究にほとんど言及すること ができなかった。工場(組織)労働者を主たる対象とした既存の研究に対して、そこからこぼれ落 ちてきた日雇い労働者の「語り」が、そこにも通底する内容、しかもジェンダーと深く結びついた 内容を備えていたとする本稿の観点は意義を有すると考えるが、それを具体的な研究史の文脈に即 してあらためて位置づけ直していく必要があるだろう。 【注】 1 藤野氏の研究における「実践」概念の詳細については(藤野 2011a)、同じくルポルタージュ分析について は(藤野 2013)をそれぞれ参照。 2 近年におけるジェンダー史の潮流として、歴史的アクターの「主体」や「主観性」への着目が一定の広が りをみせつつあるとの指摘がある(ローズ 2017、第 6 章)。なお、都市下層社会研究という文脈において. 15.
(12) ジェンダー史学 第 15 号(2019) も、人びとの「主体のあり方」をどう捉えるかが重要な論点となっている(佐々木 2018、103 頁)。 3 藤野氏の研究と対照させるならば、同氏は日雇い労働者をめぐる「語り」 (の読解)から「客体」としての 彼らを「主体」化しようとしたのに対し、本稿は日雇い労働者自身の「語り」から「主体」(「日記」を書 く「主体」)としての彼らを対象化する。また、同氏は観察された彼らの男性性の諸「発現」形態に着目し たのに対し、本稿は彼らが自ら語った男性性の「温床」的要素に着目する。もちろん、藤野氏がエゴ・ド キュメントではなくルポルタージュを選択的に用いたのは、日雇い労働者の「実践」を捕捉するためには、 彼らの「意図」ではなく、意図されていない行為の「意味」を読み取ることが必要なのであり、彼らがそ の「意図」を綴った文章(当事者が書いたテクスト)においては、その「意味」が改変されてしまう可能 性があるとの認識ゆえである(藤野 2011a、58-59 頁)。ただ本稿は、そうして捨象された日雇い労働者の 「意図」のなかにこそ、彼らの「実践」 (対抗文化)を男性性総体との関わりにおいて把握するための手が かりが含まれているのではないか、との観点に立っている。 4 男性史における娯楽・文化研究の重要性は、細谷実氏によって早くから指摘されてきた。同氏によれば、 男性主体の構築は「高級文化」よりもむしろ「通俗的文化・大衆的言説」のなかで進行してきたのであり (細谷 2001、164 頁)、また藤野裕子氏も、日雇い労働者たちは、現実の世界と娯楽などの架空の世界を往 復しながら「男らしさ」の価値体系を維持していたと論じている(藤野 2015、186-187 頁)。 5 本史料を紹介・活用した研究として、(加瀬 2011)(山口 2012)などがある。 6 社会局による解説のなかでは触れられていないが、日記①の調査期間中に対象地周辺を視察した堺利彦の 労働日記帳を渡す、完全に一週間分記載して呉れた人には、. 〳〵. 記録には、 「 〔富川町簡易宿泊所には〕いよ. 薄謝として金一円づゝ社会局から交附するといふ張出しもある」 (堺 1928、127 頁)とあり、記入者には報 酬が支払われていたことがわかる。 7 本所・深川などの下町方面に多く分布し、世代は 30 歳前後> 40 歳前後> 20 歳前後の順に多い。それに対 して女性は. 少でかつ 50 歳前後が最多となっており(「綱曳(ヨンヤコラ)や男工の手伝等」)、この点に. ついては、「三十才前後以下の女子にありては、女工にしても一般家庭の女中にしても、乃至商店会社、官 公省の事務員、女給仕、乃至は飲食店其他の賤業方面にも充分な需要口のある事を示すものである」(東京 市社会局 1923、121-122 頁)との分析がなされている。 8 当該自治体が失業者の就労を目的とした公共事業を実施する場合、賃金総額の半額を国庫が負担するなど というもの。就労希望者は職業紹介所での事前登録が必要であり、賃金は普通よりも低廉に抑えられたほ か(失業からの脱出を促すため)、中間請負業者を介さない直接雇用方式が採用された(加瀬 2011、142160 頁)。 9 また、それは同様に内地農村部で就労可能な農業日雇い賃金よりも高額であったため、農村余剰労働力の 流入を促すことともなった。失業救済事業の制度的変遷等、より詳しくは(加瀬 1998)参照。 10 ただし、朝鮮人労働者との直接的な接触の機会が増えたことで、「〔10/27〕良く日々の新聞紙上等で見受け る「日鮮人の争闘」なぞと云ふ様な事は皆んな日本人自身が悪いからではあるまいか」 (T.H. 25 歳、日記 ①、166 頁)あるいは「 〔11/6〕季 君と云ふ鮮 人の立場を開き[聞き]拾円程貸して矢[遣]りました」 (K.T. 21 歳、日記②、149 頁)などといったように、自省や交流が促されることがあったことも事実であ る。 11 彼らにとって脅威となったのは「人間」だけではない。「〔10/25〕建築場に毎日眼新らしき機械にて多量の 材料を. に小人数にて製作出来得るには驚くの外なく、実に便利の事は云ふ. もなけれども其反面に我々. に取りては実に恐るべき大敵」 (K.N. 38 歳、日記①、126 頁)、「〔10/27〕昨夜上野松坂屋工事場に於て起 電機墜落四名即死十数名負傷人生の儚さ文明の悲哀今日有つて明日無き命感慨無量」 (E.K. 26 歳、日記①、 48 頁)などとあるように、仕事/生命を奪う「機械」の脅威にもさらされていた。 12 この頃亀戸・玉の井の私娼街を視察した堺利彦の記録には、「 〔玉の井の場合〕揚代の通り相場は一円で、 甘い人は二三円も取られる。夜中から朝まで宿るのは五円だそうだ」 (堺 1928、133 頁)とある。また、当 時の木賃宿街には日雇い労働者を相手とした「路. 」も存在した(吉田 1930、641 頁)。. 13 この点に関連して、第一次大戦期に「アメリカニズム」という形で社会の上層から進んだ「生活様式の変. 16.
(13) 日雇い労働者の「日記」にみる男性性の「温床」 (伊東) 4. 4. 4. 4. 化」が、社会的・階級的分化を可視的に 際立たせることになったという指摘も想起しておきたい(松沢 1973、146 頁) 。 14 安来節についてより詳しくは、(山陰文化シリーズ刊行会 1964) (松本[1968]1975) (石田 1982)参照。 15 砂地が広がりサツマイモしかとれないため、 「浜」出身者は軽. を込めて「イモタ(芋太)」「イモタラア」. などと呼ばれたという(石田 1982、188 頁) 。. 【参考文献】 秋吉康晴 2007「 〔修士論文要旨〕旅に誘う「民謡」――明治・大正期における「安来節」の〈保存〉と〈変容〉 」 『美学芸術学論集』(神戸大学)3 号。 阿部恒久 2006「近代化と男性労働者像」阿部恒久・大日方純夫・天野正子編『男性史 1 男たちの近代』日本 経済評論社。 石田信夫 1982『安来節』中国新聞社。 岡本一平 1930『スポーツと探訪』先進社。 加瀬和彦 1998『戦前日本の失業対策――救済型公共土木事業の史的分析』日本経済評論社。 ―――― 2011『失業と救済の近代史』吉川弘文館。 児玉数夫 1967『活動狂時代――やぶにらみ映画史』三一書房。 堺利彦 1928『当なし行脚』改造社。 佐々木啓 2018「 「仁義」の動員――戦時期日本における日雇労働者」 『歴史学研究』976 号。 山陰文化シリーズ刊行会編 1964『山陰文化シリーズ 7 安来節』松江今井書店。 東京市社会局編 1923『自由労働者に関する調査』東京市社会局。 ―――― 1927『日傭労働者の疾病傷害に関する調査』東京市社会局。 東京市社会局職業課編〔1929〕『昭和四年 東京市職業紹介所成績年報』東京市社会局職業課。 東京府学務部社会課編 1929『社会調査資料第七輯 在京朝鮮人労働者の現状』東京府学務部社会課。 内閣統計局編 1930『昭和五年版 労働統計要覧』東京統計協会。 西成田豊 2015『近代日本の労務供給請負業』ミネルヴァ書房。 福田定良 1953『民衆と演藝』岩波新書。 藤野裕子 2011a「 〈実践〉の世界へのアプローチ」『民衆史研究』81 号。 ―――― 2011b「戦前日雇い男性の対抗文化――遊蕩的生活実践をめぐって」 『歴史評論』737 号。 ―――― 2013「表象をつなぐ想像力――ルポルタージュ読解試論」 『歴史学研究』913 号。 ―――― 2015『都市と暴動の民衆史――東京・1905−1923 年』有志舎。 細谷実 2001「大町桂月による男性性理念の構築」 『関東学院大学経済学部総合学術論叢 自然・人間・社会』 31 号。 松沢弘陽 1973『日本社会主義の思想』筑摩書房。 松本興 1975(再版、1968 初版)『安来節の歴史』安来タイムス社。 三宅義子 2004「明治期労働運動における男性労働者像の構築」小玉亮子編『現代のエスプリ 446 マスキュリ ニティ/男性性の歴史』至文堂。 山口輝臣 2012「日傭労働者の日記」山口輝臣編『日記に読む近代日本 3 大正』吉川弘文館。 吉田英雄 1930『日稼哀話――日雇労働者の奴隷的労働とそのどん底生活の記録』平凡社。 ローズ、ソニア・O 長谷川貴彦・兼子歩訳 2017『ジェンダー史とは何か』法政大学出版局。. 17.
(14) ジェンダー史学 第 15 号(2019). “Cultural Cradle” of Masculinity and Counter-Culture of Day Laborers in Early Showa Period ITO Hisanori This paper focuses on the “cultural cradle” that gave rise to a distinctive idea of masculinity and counter-culture as seen in records of day laborers’ own monologues preserved in a collection of workers’ diaries. The main material for the paper comes from the ‘Diaries of day laborers’ (total of two volumes) collected and compiled by the Bureau of Social Affairs of the city of Tokyo in the early Showa period. As for the masculinity of day laborers, the peculiar “expression” style was symbolized in discourses on “drinking, gambling, and prostitution.” On the other hand, in order to grasp the day laborers’ expressions of masculinity in relation to the totality of masculinity, this paper focuses the discussion on the “cultural cradle” = various elements that promoted these “expressions”. Concretely, this paper examines (1) the actual conditions of daily laborers and their consciousness, (2) their awareness of “others”, and (3) the forms of entertainment and culture favored by day laborers, correlating the various factors. The results can be summarized in the following three points. First, what formed the “cultural cradle” of the masculinity and counter-culture of day laborers was the ambivalent consciousness of “frightened” and “resentment” leading to an inverted form — “frightened masculinity (frightened but masculine)”. This consciousness was formed during the depression years and in “not sociable” relationships with “others” such as intermediate contractors, Korean laborers and women. Second, the appeal of this counter-culture was not constant. We can see this in the fact that there were a significant number of day laborers with academic backgrounds who tried to stand outside of the counter-culture as well as the Korean laborers who also stood outside of this counter-culture. Third, the “cultural cradle” of their masculinity was amplified or eliminated in the context of femininity. This can be clearly seen from their reactionary remarks against “Modern girls” and the reality of a form of “sociable” entertainment called “Yasugi-bushi” which was popular among day laborers.. 18.
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