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「スールー王国軍」兵士侵入事件(山本博之)

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アメリカのSFテレビドラマシリーズで映画も制作され ている『スター・トレック』にカトーという日系人が登場 す る。 た だ し、 こ れ は 演 じ た 役 者 が 日 系 人 だ っ た こ と も あって日本語吹き替え版につけられた日本版オリジナルの 役名であり、実際の役名はヒカル・スールーという。ヒカ ルは光源氏、スールーはスールー海に由来する。スールー 海から名前を取った理由は、後づけと思われるものを含め ていくつか知られており、その一つに、この役にアジア系 でありながら特定の国籍をイメージさせたくなかった制作 者が、アジアの海のうち複数の国に接しているスールー海 を見出したというものがある。 スールー海はフィリピンの南西部に位置する。ミンダナ オ 島 と ボ ル ネ オ 島 (カ リ マ ン タ ン 島) の 間 に あ り、 そ こ に は南南西から東北東にかけて約三〇〇キロに及ぶスールー 諸島が存在する。スールー諸島には一五世紀から一九世紀 に か け て ス ー ル ー 王 国 が 繁 栄 し、 植 民 地 化 と 独 立 に よ り フィリピン領に組み入れられて現在にいたっている。 この海域は、フィリピンの中央政府からもマレーシアの 連邦政府からも辺境として長く関心の埒外に置かれてきた が、二〇一三年に入って両国政府および国際社会の注目が 集まっている。二〇一三年三月一日、マレーシア・サバ州 の東海岸ラハダトゥで「スールー王国軍」を名乗るフィリ ピン人武装集団とマレーシアの治安部隊の間で銃撃戦が生 じ、双方あわせて一四人の死者が出る事件が発生した。そ

第Ⅱ部

東南

地域研究

王国軍

兵士侵入事件

山本博之

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の翌日には、サバ州の別の村で地元警察と武装集団の銃撃 戦が生じ、双方あわせて少なくとも一三人が死亡した。三 月五日には、マレーシアの警察と国軍の合同による「スー ルー王国軍」の大規模な殲滅作戦が展開された。 意見の違いを暴力の行使に頼らず解決する文化を作り上 げてきたマレーシアで、多数の死傷者が出る銃撃戦や大規 模な軍事作戦の展開が続いたことは大きな衝撃をもって受 け 止 め ら れ た。 こ の 事 件 を ど の よ う に 理 解 す れ ば よ い の か。また、 「サバ領有権問題」 「旧スールー王国のスルタン の 末 裔」 「イ ス ラ ム 武 装 集 団」 な ど の 言 葉 で 語 ら れ て い る この出来事をどのように把握すればよいのか。 本 稿 で は 、 二 〇 一 三 年 三 月 に 発 生 し た 「 ス ー ル ー 王 国 軍 」 兵 士 の マ レ ー シ ア ・ サ バ 州 東 海 岸 へ の 侵 入 事 件 を 取 り 上 げ 、 上 記 の 問 題 に つ い て 考 え て み た い 。 な お 、 こ の 事 件 は 、 治 安上の理由から情報が制限されているために全体像を掴み に く い 。 本 稿 で は 、 主 に マ レ ー シ ア の 一 般 報 道 情 報 を も と に 、 サ バ 州 の 政 府 関 係 者 へ の 聞 き 取 り 調 査 等 に よ っ て 可 能 な限り補いながら、事件の経緯および意味を検討する。

位置

サバ州は、連邦国家マレーシアを構成する一三州の一つ で、首都クアラルンプールが位置する半島部マレーシアで は な く、 そ こ か ら 南 シ ナ 海 を 挟 ん だ ボ ル ネ オ 島 に 位 置 す る。 サ バ 州 の 本 島 面 積 は 約 七・ 四 万 平 方 キ ロ で、 北 海 道 (本 島 面 積 約 七・ 八 万 平 方 キ ロ) と ほ ぼ 同 じ 大 き さ で あ る * 1 。 地 理 的 関 係 を イ メ ー ジ す る た め に 北 海 道 の 例 を 使 う な ら ば、サバ州の州都コタキナバルはクアラルンプールと約一 六〇〇キロ離れており、これはおおよそ札幌と石垣島の距 離にあたる (図1参照) 。 事件の主な舞台は、サバ州東海岸のラハダトゥ郡にある タンドゥオ村という小さな村だった。コタキナバルからラ ハダトゥ郡の中心地ラハダトゥ町まで約二七〇キロあり、 そこからタンドゥオ村までさらに約一三〇キロある。再び 北海道を例にとると、札幌から根室までが約三四〇キロな ので、コタキナバルからタンドゥオ村まではそれよりも遠 いことになる。 サバ州東海岸は、熱帯雨林が広がる土地に、沿岸部や川 沿い、そして内陸部の盆地に人々がまばらに住んでいる土 地である。最近は大規模開発によるアブラヤシ農園も作ら れ て お り、 そ の 周 囲 に 村 が 点 在 し て い る。 タ ン ド ゥ オ 村 も、アブラヤシ農園が広がる土地の、海辺の小さな村であ る。タンドゥオ村はコタキナバルからもラハダトゥからも 遠 く 離 れ て い る が、 目 の 前 に 広 が る 海 の す ぐ 向 こ う に は フィリピン領のスールー諸島がある。

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事件

経緯

二 〇 一 三 年 二 月 一 二 日 頃、 「ス ー ル ー 王 国 軍」 を 名 乗 る フィリピンの武装集団がラハダトゥの海岸に侵入してタン ドゥオ村を占拠した。侵入者の人数は報道によって約一〇 〇人から約四〇〇人まで幅があり、その全員がスールー諸 島から来たのか、それとも一部はサバ在住者でスールー諸 島 か ら 来 た 人 々 と 合 流 し た の か な ど は は っ き り し な い。 「スールー王国のスルタン」を名乗り、 「スールー王国軍」 を派遣したとされるジャマルル・キラム三世は、派遣人数 を二二五人と言ったと報じられた * 2 。 「ス ー ル ー 王 国 軍」 が タ ン ド ゥ オ 村 を 占 拠 す る と、 マ レーシアの治安部隊はタンドゥオ村を包囲し、投降を呼び かけるビラを撒いたりして平和的な解決を試みていた。し かし三月一日、タンドゥオ村で治安当局と武装集団の間で 銃撃戦が生じ、マレーシアの治安当局の隊員二人と「スー ルー王国軍」側のメンバー一二人が死亡した * 3 。 このときマレーシア側で犠牲になったのは、マレーシア 警 察 の 対 テ ロ 対 策 特 殊 部 隊 で あ る V A T 6 9 部 隊 ( Very Able T rooper -69 ) に 所 属 す る 二 人 の 隊 員 だ っ た。 V A T 6 9 部 隊 は、 イ ギ リ ス 陸 軍 の 特 殊 空 挺 部 隊 (S A S) に 倣 っ クアラルンプール ⇔コタキナバル( 1623㎞) コタキナバル⇔ラハダトゥ(271㎞) タイ インドネシア シンガポール インドネシア フィリピン サバ州 石垣島⇔札幌(1627㎞) 札幌⇔根室(343㎞) サバ州 ・面積 7万3631平方キロ ・人口(全体)312万人(2010) ・人口(国民)224万人(2010) 北海道 ・本島面積 7万7984平方キロ ・人口 548万人(2010) ・人口(札幌市)191万人(2010) 図1 サバ州とラハダトゥの位置

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て、共産主義ゲリラ対策のため一九六九年に作られた。一 九 七 五 年 の 日 本 赤 軍 事 件 を 機 に 設 立 さ れ た U T K 部 隊 ( Unit Tindak Khas ) と と も に マ レ ー シ ア 警 察 の テ ロ 対 策 の特別部隊のもとに置かれ、UTK部隊は潜入捜査、VA T 6 9 部 隊 は ジ ャ ン グ ル で の 作 戦 を 中 心 と し、 半 島 部 マ レーシアではスランゴール州以南をUTK部隊、それより 北をVAT69部隊が管轄している。二人の隊員は、この 事 件 の 対 応 の た め 半 島 部 マ レ ー シ ア か ら サ バ 州 に 派 遣 さ れ、職務遂行中に命を失った。スランゴール州出身の四六 歳の隊員とトレンガヌ州出身の二九歳の隊員で、とくにト レンガヌ州出身の隊員の家庭では二歳と一歳の男の子二人 を抱えた妻が残され、マレーシアで大きく報じられて国民 的な同情を買った。 この事件と関連して、ラハダトゥ以外の場所でも銃撃戦 などの事件がいくつか報じられた (図2参照) 。三月二日、 センポルナで治安当局と武装集団の間で銃撃戦が発生し、 警官六人、武装集団メンバー七人が死亡した。前日の銃撃 戦から逃れた「スールー王国軍」兵士が村に潜入したとい う通報を受けて地元の警察が捜査に赴いたところ、発砲さ れて銃撃戦になったという。犠牲になった警官はほとんど が サ バ 州 出 身 者 だ っ た。 警 察 は、 は じ め こ の 事 件 は タ ン ド ゥ オ 村 の「ス ー ル ー 王 国 軍」 と 無 関 係 だ と 言 っ て い た が、 後 に こ れ も「ス ー ル ー 王 国 軍」 の 関 係 者 に 含 め ら れ ラハダトゥ タンドゥオ村 クナック センポルナ ▶2月12日頃、「スールー王 国軍」を名乗る武装集団 が侵入 ▶ラハダトゥ郡タンドゥオ 村を占拠 ▶3月1日、タンドゥオ村で 銃撃戦、15人死亡 ▶3月2日、センポルナで銃 撃戦、13人死亡 ▶3月2日、クナックで武装 集団メンバー10人を逮捕 ▶3月3日、センポルナで住 民が武装者を撲殺 ▶3月4日、治安部隊を増派 ▶3月5日、警察と陸海空3 軍による大規模な殲滅作 戦を開始 ▶3月7日までに治安当局は ほぼ全域を制圧 ▶治安当局8人、市民1人を 含む60人が死亡 図2 「スールー王国軍兵士」侵入事件の経緯

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た。また、同じ日に、地元警察は、サバ州東海岸のクナッ クで武装した三人を含む「スールー王国軍」兵士一〇人を 逮捕した。 さ ら に 三 月 三 日 に は、 セ ン ポ ル ナ の 別 の 村 で、 住 民 が 「ス ー ル ー 王 国 軍」 兵 士 を 撲 殺 す る と い う シ ョ ッ キ ン グ な 事件が発生した。住民らの話をまとめた警察によると、銃 を持った一人の男が村にやってきて、住民たちを銃で脅し て村の広場に集め、この村を自分の支配下に置こうとした が、男がタバコを吸おうと銃を置いた瞬間に若者たちが飛 びかかり、もみ合っているうちに誤って殺してしまったと いう。警察は、このような実力行使は本来なら許されない が、男が「スールー王国軍」兵士を名乗ったという特殊な 事情があるために情状酌量の余地があると述べた。殺され た男の身許は明らかにされなかったが、遺品から「モロ民 族 解 放 戦 線」 (M N L F) の 身 分 証 が 出 て き た た め、 「ス ー ルー王国軍」の関係者だとされた。 「ス ー ル ー 王 国 軍」 の 目 撃 情 報 は こ れ ら の ほ か に も サ バ 州各地で警察に寄せられた。たとえば東海岸のタワウでは 「ス ー ル ー 王 国 軍」 に よ る 車 上 荒 ら し の 被 害 が 通 報 さ れ、 警察が調査したところ、車上荒らしの被害は確かにあった が、犯人は「スールー王国軍」とは無関係の人物だったと いう。このほかにも「スールー王国軍」の目撃情報が何件 も寄せられ、それぞれ警察が捜査に当たった。目撃情報や 噂 は 東 海 岸 か ら 遠 く 離 れ た 州 都 コ タ キ ナ バ ル に も 及 び、 「ス ー ル ー 王 国 軍」 兵 士 が 近 隣 の 村 か ら 州 都 に 向 か っ て い る と い う 情 報 も 飛 び 交 っ た が、 そ の 実 体 は な く、 警 察 は 「噂を信じないように」と呼びかけた。 「ス ー ル ー 王 国 軍」 兵 士 が サ バ 州 各 地 に 出 没 し て い る と いう情報がもたらされるなか、マレーシア政府はサバ州東 海岸に治安部隊を増派し、三月五日に警察と陸海空三軍の 共 同 作 戦 に よ る 大 規 模 な 包 囲 殲 滅 作 戦 を 開 始 し た。 「ス ー ル ー 王 国 軍」 兵 士 が 占 拠 す る タ ン ド ゥ オ 村 と 近 隣 の タ ン ジュンバトゥ村を対象に、戦闘機による空爆および陸上と 海上から包囲した攻撃を加え、治安当局は三月七日までに ほ ぼ 全 域 を 制 圧 し た と 発 表 し た。 「ス ー ル ー 王 国 軍」 側 は 少なくとも五一人が死亡し、先に銃撃戦で死亡した警察の 八人と民間人一人を加え、この一連の出来事で少なくとも 六〇人が死亡したことになる。 三月七日、マレーシア政府はサバ州東海岸の五つの郡を 特別保安地域に指定して、軍と警察を追加配備した。さら に、 「ス ー ル ー 王 国 軍」 兵 士 が 住 民 に 紛 れ て 逃 亡 し て い る として、警察が追跡捜査を続けている。

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王国

領有権問題

この事件の首謀者とされるスールー王国のスルタンとは 何者で、サバ領有権の主張とはどのような内容なのか。

王国

領有権

* 4 ボルネオ島北部に位置するサバが一つの行政単位となる のは、一八八一年、イギリスの北ボルネオ会社によってこ の土地が統治されたことによる * 5 。 一八八一年より前、サバはブルネイとスールーの二人の スルタンによる二重の統治領だった。ただし、サバ全域に 二人のスルタンの支配が及んでいたわけではない。当時、 この地域の支配は川ごとに行われていた。熱帯雨林には野 生 動 物 や 病 気 が 多 く、 人 々 は 沿 岸 部 や 川 沿 い に 住 ん で い た。内陸部では川が主な交通路だったため、河口を押さえ ておけば人の動きも物流も押さえることができる。川ごと の支配と言っても、実際には影響力はせいぜい河口や周囲 の沿岸部にしか及んでいなかった。 川ごとに支配者がおり、それを名目上支配しているのが スルタンだった。その意味で、サバはスルタンの統治下に あったものの、スルタンが直接統治しているわけでも、ス ルタンの統治が北海道とほぼ同じ広がりを持つサバ全域に 及んでいるわけでもなかった。また、川ごとの支配者とス ルタンの間では、必ずしもスルタンの力が強いわけではな く、川ごとの支配者がスルタンに反抗することもしばしば あった。また、ある川に対する名目上の支配権をスルタン が別の人物や会社に売ったり譲ったりすることもあった。 一 八 八 一 年 に イ ギ リ ス 北 ボ ル ネ オ 会 社 が 設 立 さ れ た の は、駐香港オーストリア領事のオフェルベクとイギリス人 商人のデント兄弟が転売目的でボルネオ島北部の権利を買 い集めたものの、買い手が見つからなかったために北ボル ネオ会社を設立して経済開発を試みたという経緯がある。 オフェルベクらは一八七八年にサバ西海岸のいくつかの 川 の 支 配 権 を ブ ル ネ イ の ス ル タ ン か ら 手 に 入 れ た が 、 名 目 上の支配者がスルタンからイギリス人に変わっても住民が イ ギ リ ス 人 に 従 う と は 限 ら な い 。 銃 な ど の 武 器 の 力 を 借 り て 言 う こ と を 聞 か せ よ う と し て も 、 北 ボ ル ネ オ 会 社 が 支 配 権を持たない隣の川の流域に逃げられればそれ以上追うこ と は で き な い 。 そ の た め 、 北 ボ ル ネ オ 会 社 は 約 二 〇 年 か け て ブ ル ネ イ の ス ル タ ン か ら 川 を 一 本 一 本 買 い 、 現 在 の サ バ 州 の 領 域 を 北 ボ ル ネ オ 会 社 の 統 治 領 域 と し て 整 え て い っ た * 6 。 他方、オフェルベクらはスールーのスルタンから一八七 八年にサバを一括して買い取った。このとき契約書に書か

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れ て い た の は「パ ジ ャ ッ ク」 ( pajak ) と い う 言 葉 だ っ た。 こ れ を オ フ ェ ル ベ ク ら は「割 譲」 と 解 釈 し た の に 対 し、 スールーのスルタンは「租借」と解釈し、これがフィリピ ン の サ バ 領 有 権 問 題 の 起 源 と な っ た。 北 ボ ル ネ オ 会 社 は 「パ ジ ャ ッ ク」 の 対 価 と し て ス ー ル ー の ス ル タ ン に 毎 年 五 〇〇〇海峡ドルを払う契約を結んだが、これについても、 北ボルネオ会社は購入代金の分割払いであると解釈したの に対し、スールーのスルタンは借料を毎年受け取っている と解釈し、両者の解釈は食い違っていた * 7 。 一九五〇年代に入ってサバがイギリスからの独立を構想 するようになり、サバは単独で独立するのか、近隣のサラ ワ ク や ブ ル ネ イ と 一 緒 に ボ ル ネ オ 連 合 と し て 独 立 す る の か、それとも同じイギリス領だったマラヤ連邦と合併して 独 立 す る の か が 検 討 さ れ 始 め た * 8 。 そ れ ら の 案 の 一 つ と し て、一九五七年にイギリスから独立したマラヤ連邦ととも にマレーシアという新連邦を作ることが提案されると、イ ンドネシアとフィリピンはこの構想に反対した。 スールー王国は、フィリピン諸島の植民地支配者がスペ インからアメリカになったときにフィリピンの一部に組み 込まれ、フィリピン政府はスールー王国の存在を公式に認 めなくなっていた。しかし、フィリピン政府はマレーシア 構想に反対する過程で、サバはスールー王国のスルタンの 領土であり、スールー王国はフィリピンの一部であり、し たがってサバはフィリピンの領土であると主張した。これ がフィリピン政府によるサバ領有権の主張となった。 フィリピンによるサバ領有権の主張について詳細に論じ ることは本稿の目的から外れるのでこれ以上立ち入らない が、土地の所有権を誰が持っているかということと、その 土地の主権が誰に属すかは別であることは確認しておきた い。所有権に関しては、一八七八年の「パジャック」が割 譲なのか租借なのかが問題となり、北ボルネオ会社がスー ルーのスルタンに毎年払ったのが購入代金の分割払いなの か毎年の賃借料なのかという問題と関連して議論されてい る。ただし、仮に「パジャック」が租借であり、スールー 王国のスルタンに毎年払われていたのが賃借料だったと解 釈しても、そのこととサバの主権は切り離して考えるべき だろう。一九六一年にマレーシア構想が提案され、その二 年後にマレーシアが結成されるまでの間、サバの独立のあ り方に関する住民の意向調査が二回行われた。一回目は一 九六二年のコボルド調査団による調査で、サバの住民はマ レーシア結成におおむね賛成という結論を得た。ただし、 この調査団はイギリスとマラヤ連邦が指名したために中立 性を欠くという批判も可能だろう。そのため、イギリスと マラヤ連邦は当初予定されていた独立とマレーシア結成の 日程を延期して、一九六三年に国連が改めて住民の意向調 査を行った。その結果は、サバの住民はマレーシア結成に

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賛成というものだった。これを受けて一九六三年にマレー シアが結成され、サバはマレーシアの一州となった。名目 上の支配者であるスルタンの意向ではなくサバの住民の意 向に従うならば、サバの帰属はマレーシアということにな る。

王国

紛争

今回の事件の首謀者とされるスールー王国のスルタンと はどのような人物なのか。まず確認しておくべきことは、 「ス ー ル ー 王 国 の ス ル タ ン」 を 名 乗 る 人 物 は 一 人 で は な く、比較的よく知られている人物だけでも数人いるし、実 際にはさらに多くの人々がいることである (図3参照) 。 ス ー ル ー 王 国 は 一 五 世 紀 か ら 続 い て い る が、 サ バ を オ フェルベクらに「パジャック」したのは第二九代スルタン の ジ ャ マ ル ル・ ア ラ ム (統 治 一 八 六 二 ― 一 八 八 一) だ っ た。 第 三 〇 代 ス ル タ ン は そ の 息 子 バ ダ ル ッ デ ィ ン 二 世 (一 八 八 一 ― 一 八 八 四) 、 第 三 一 代 ス ル タ ン は そ の 弟 ジ ャ マ ル ル・ キ ラ ム 二 世 (一 八 八 四 ― 一 九 三 六) で、 第 三 二 代 ス ル タンにはその弟のムワリル・ワシト二世が就くことになっ ていたが、即位直前に亡くなった。この後しばらく、複数 の家系から立てられた複数のスルタンが競合する。第二次 世界大戦の時期と重なったこともあり、日本軍が認めるス Jamalul Alam 29(1862-1881) BadaruddinⅡ 30(1881-1884) Aminul UmaraⅠ (Ombra Amilbangsa) (1936-1950) Jainal Abirin (1936-1950) 1878年にサバを 「割譲」 Jamalul KiramⅡ 31(1884-1936)Muwallil WasitⅡ32(1936-1936) Julaspi Kiram (1936?-1994) Esmael KiramⅠ 33(1950-1974) Muhakuttah Kiram 34(1974-1986) Punjungan Kiram (1980-1983) Akijal Atti (1990-1999) Rodinood (2004-) 2008年、マレーシア政 府がスルタンの資産相 続人と認知 2011年2月、サバで第33代 スルタン即位を発表(後に 撤回) Mohd Akjan (2011)

Muedzul Lai Tan Kiram (1986-2012raja muda)

35(2012-) 2012年9月に第35 代スルタンへの即 位を発表 Jamalul KiramⅢ

(1983-1990) (1999-)Esmael KiramⅡ(Azzimudie Kiram)Agbimuddin Kiram (raja muda) 2012年11月に一族が集まり、 Jamalul Kiram Ⅲを対外的な スルタン、Esmael Kiram Ⅱ を対内的なスルタンとするこ とに合意 2011年以降のスルタン (自称を含む) 2013年2月ラハダトゥ 侵入の関係者 図3 スールー王国のスルタン

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ルタン、アメリカ側につくスルタン、サバのスルック人と 繋がるスルタンなど、外部世界のそれぞれ異なる勢力と結 びついてスルタンを名乗る人物が複数現れた。 第二次世界大戦後の一九五〇年にはイスマイル・キラム 一 世 (一 九 五 〇 ― 一 九 七 四) が 第 三 三 代 ス ル タ ン と な っ た が、その死後、その弟のプンジュンガン・キラムと息子の ムハクッタ・キラムがそれぞれスルタンを名乗り、この二 つの家系で別々にスルタン位が継がれていった。 プ ン ジ ュ ン ガ ン・ キ ラ ム (一 九 八 〇 ― 一 九 八 三) の 家 系 で は、 息 子 の ジ ャ マ ル ル・ キ ラ ム 三 世 (一 九 八 三 ― 一 九 九 〇) な ど を 経 て、 そ の 弟 の イ ス マ エ ル・ キ ラ ム 二 世 が 一 九 九九年よりスルタンとなって現在に至る。 他 方、 ム ハ ク ッ タ・ キ ラ ム (一 九 七 四 ― 一 九 八 六) の 家 系では、第三四代スルタンのムハクッタ・キラムが一九八 六年に亡くなると、その息子のムズル・ライ・タン・キラ ムがラジャムダに即位した * 9 。 二〇一二年九月、ムズル・ライ・タン・キラムが第三五 代 ス ル タ ン に 即 位 し た と 発 表 さ れ る と、 こ れ を 受 け る 形 で、 同 年 一 一 月 に イ ス マ エ ル・ キ ラ ム 二 世 の 家 族 が 集 ま り、イスマエル・キラム二世が引き続きスルタンであるこ と、ただしその兄で元スルタンであるマニラ在住のジャマ ルル・キラム三世が対外的なスルタンを務めることが確認 された。このジャマルル・キラム三世が、今回「スールー 王国軍」兵士をサバ州に派遣した「スールー王国のスルタ ン」である * 10 。また、その弟のアジムッディン・キラム * 11 は、 ラジャムダとして武装集団を率いてサバ州に侵入したとさ れている。 上であげた自称スルタンたちはいずれもフィリピンで生 まれ育っているが、サバ州で生まれ育った自称スルタンも いた。二〇一一年二月、モハマド・アクジャンという人物 が ス ー ル ー の 第 三 三 代 ス ル タ ン に 即 位 し た と 発 表 し、 マ レ ー シ ア 政 府 に と っ て 重 大 問 題 と な っ た。 マ レ ー シ ア で は、イギリスの直轄植民地だったサバ州などの四つの州を 除く各州にスルタンがいる * 12 。スルタンは世襲で、各州のイ スラム教の擁護者であり、マレーシアの国王はスルタンの 互選で選ばれる。マレーシア国外でスールーのスルタンを 名乗る人物が複数いてもマレーシアとしてはとくに問題な いが、マレーシア国民がマレーシア国内でスルタンを名乗 ることは国体への重大な挑戦であり、マレーシア政府とし ては看過できないことだった。そのためマレーシア政府は モハマド・アクジャンを逮捕し、モハマド・アクジャンは 後にスルタン即位を否定した。 自 称「ス ー ル ー の ス ル タ ン」 は こ れ ら の 他 に も 複 数 い る。たとえば、ジャマルル・キラム二世の孫のロディノド もスルタンを名乗っており、マレーシア政府はロディノド をサバの購入費を毎年支払うスルタンの資産継承人と認め

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ている。また、マレーシア政府はスールーのスルタンの資 産継承者に割譲費の分割払いとして毎年五三〇〇リンギを 支払っているが、一説によるとその金額は九人の自称スル タンで分け合っているという。 「ス ー ル ー 王 国 の ス ル タ ン の 末 裔」 と 聞 く と、 そ の 人 物 が旧スールー王国を一人で引き継ぐ立場にあると誤解しか ねないが、そのようなことはない。 ま た、 も う 一 つ 重 要 な こ と は、 こ れ ら の 自 称 ス ル タ ン は、家柄はとても高貴だが、いずれも今日のフィリピン社 会において政治的にも経済的にも周縁部に置かれており、 社会における影響力はほとんどないということである。 ミンダナオ紛争の中心的な位置を占めてきたのはモロ・ イ ス ラ ム 解 放 戦 線 (M I L F) で、 二 〇 一 二 年 一 〇 月 に フィリピン政府とMILFの間で和平の枠組み合意が結ば れ、二〇一六年の自治政府組織に向けて交渉が進められて いる。交渉のための会議は、マレーシアがホストとなり、 ク ア ラ ル ン プ ー ル で 二 〇 一 三 年 二 月 末 に 行 わ れ る こ と に なっていた。しかし、この和平合意にも自治政府組織のた め の 交 渉 に も、 「ス ー ル ー の ス ル タ ン」 た ち は 関 わ っ て い ない。 二〇一二年九月頃に「スールーのスルタン」を名乗る人 物が増えたことは、フィリピン政府とMILFの和平過程 が進むのに対して、そこに「スールーのスルタン」たちが 参加できないことに苛立ちや危機感を抱き、ミンダナオの 将来を考える上で自分たちも当事者として加わりたいとい う ア ピ ー ル の 意 味 が あ っ た こ と を 物 語 っ て い る。 か つ て フィリピンの上院議員を務めたことがあるジャマルル・キ ラム三世が対外的なスルタンとされたのも、フィリピン政 府に対する交渉力を期待したためとも考えられる * 13 。 しかし、予期せぬいくつかの状況の積み重ねと、今回の 状況を利用しようとする人々の思惑が重なって、事態は想 像を超えて不幸な方向に大きく展開してしまった。その原 因として、そもそも「スールー王国軍」兵士が武装してサ バ に 侵 入 し た こ と に 加 え、 「ス ー ル ー 王 国 軍」 や「ス ー ルー王国への故地への帰還」という語り方がなされたこと が、事態を不幸な方向に進める口実を与えたようにも思わ れる。 事件の当初、フィリピン政府は「スールー王国軍」兵士 らに帰国を呼びかけ、これに対して「スールー王国軍」兵 士側は自分たちの土地に滞在しているだけで何の法も犯し ていないと応答した。この前半部分が「スールー王国の故 地への帰還」と語られたため、世間はこの問題に領土問題 としての関心を向けるようになった。また、フィリピンで は militia と 呼 ば れ る 民 兵 が 珍 し く な い が、 今 回 の 事 件 で は そ れ が メ デ ィ ア な ど で army と 呼 ば れ、 さ ら に「ス ー ルー王国」と結びついて「スールー王国軍」と語られたこ

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とも、マレーシア政府が最終的に大規模な軍事作戦を展開 して大きな犠牲を生むことになった遠因の一つとなったよ うに思われる。

外国人問題

総選挙

マ レ ー シ ア 側 か ら こ の 出 来 事 を 見 た と き、 不 思 議 な の は、どうしてマレーシア政府はこれほどの大規模な軍事作 戦を取らなければならなかったかということである。その 背景の一つに、二〇一三年四月までに行われると見られて いた総選挙で与党連合が厳しい戦いを強いられそうで、勝 利 の 鍵 を 握 る の が サ バ 州 住 民 の 支 持 で あ る と い う 連 邦 政 府・与党連合の事情と、一九六三年のイギリスからの独立 以来、出身地を問わずに多様な人々から成る混成社会を作 ろうとしてきたサバ州で、一九八〇年代以降に外国人人口 の流入によって人口バランスが大きく変化しており、それ へ の 対 応 を 求 め て き た (し か し 連 邦 政 府 は 十 分 な 対 応 を と ろうとしてこなかった) というサバ州の事情がある。

連邦政府

事情

マレーシアでは、五年に一度の総選挙で連邦政府を担う 政 党 (連 合) が 選 ば れ る。 一 九 五 七 年 の 独 立 か ら 今 日 ま で 五〇年以上にわたり、連立与党の中核であるUMNOが首 相 を 出 し 続 け て い る。 「独 立 の 父」 ア ブ ド ゥ ル・ ラ ー マ ン ( Abdul Rahman ) 首相も、長期政権のマハティール・モハ マ ド ( Mahathir Mohamed ) 首 相 も、 現 在 の ナ ジ ブ・ ラ ザ ク ( Najib Razak ) 首 相 も、 い ず れ も U M N O の 党 首 と し てマレーシアの首相を務めてきた。 た だ し、 U M N O は 単 独 で 政 権 を 担 っ て き た の で は な く、他の政党と連立して与党連合を組織し、その中心にU MNOがおさまることで政権を担当してきた。与党連合が 五〇年以上も政権を担当し続けてきた秘訣は、政策に不満 を持つグループが政党を結成して勢力を伸ばすと、それを 与党連合に取り込み、与党連合内で資源の配分を調整して き た こ と に あ る。 現 在 の 与 党 連 合 は 国 民 戦 線 (B N) で、 U M N O の よ う に 主 に 半 島 部 を 基 盤 と す る 政 党 だ け で な く、サバ州やサラワク州を基盤とする政党も取り込み、安 定した政権を運営してきた。 しかし、マハティール首相の後継者と目されていたアヌ ア ル・ イ ブ ラ ヒ ム ( Anwar Ibrahim ) が マ ハ テ ィ ー ル と の

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路線対立によって一九九八年にUMNOを除名されたこと を 契 機 に、 ア ヌ ア ル を 指 導 者 と す る 人 民 公 正 党 (P K R) が結成されると、国民戦線の統治に不満を抱く政党や社会 勢 力 が P K R と 連 携 し て、 野 党 連 合・ 人 民 協 約 (P R) に 発展した * 14 。人民協約は基本的に半島部で国民戦線に不満を 持つ勢力が集まったもので、結成当初、サバ州とサラワク 州では人民協約に直接合流する動きはなかった。 二〇〇八年の総選挙では人民協約が大躍進し、国民戦線 は国会の過半数の議席は維持したものの、国会の議席は三 分 の 二 を 割 り 込 み、 「大 敗」 し た。 国 会 の 二 二 二 議 席 は 与 党連合が一四〇議席、野党連合が八二議席となった。半島 部、サバ州、サラワク州ではそれぞれ異なる政党が活動し て い る た め * 15 、 二 〇 〇 八 年 の 総 選 挙 の 結 果 を 半 島 部、 サ バ 州、サラワク州に分けると、国会の与野党の議席数は、 半島部   八五対八〇 サラワク州   三〇対一 サバ州   二五対一 となる。半島部では与党連合が五議席差でかろうじて勝っ た が、 わ ず か 三 議 席 移 っ た だ け で 与 野 党 が 逆 転 す る 僅 差 だった。サバ州とサラワク州では与党連合の圧勝に見える が、サバ州とサラワク州の政党は半島部の与党連合とは直 接の繋がりがない地元政党がほとんどで、もし半島部で人 民協約が過半数になるなら人民協約に合流してもよいと考 え て い る 政 党 も 少 な く な く、 く ら 替 え の 敷 居 は と て も 低 い。 国会議員の任期は五年間で、二〇一三年四月二七日が任 期満了だった。任期満了までにタイミングを見計らって首 相が解散・総選挙を行うのがマレーシア政治の慣行だが、 このときは与党連合の準備が進まず、解散・総選挙は遅れ ていた。その背景の一つとして、半島部の国民戦線と人民 協約の対立は根深いものがあり、ほぼ互角という状況は大 きく変わりそうにないため、選挙で勝つにはサバ州とサラ ワク州の支持を固めなければならず、そのためサバ州とサ ラワク州にとって深刻な課題に応えなければならないとい う事情があった。こうして、二〇一三年の総選挙を直前に して、連邦政府はこれまでサバ州が三〇年近く要求してき た課題である国境警備と外国人移民問題に対応せざるをえ なくなった。

内政

課題

︱︱安全保障 と 経済開発 に 挟 ま れ た 外国人問題 一九六三年九月、サバはイギリスから独立してマレーシ アの一州になった。このとき、マレーシアという枠組みで の独立を選んだ大きな理由は安全保障だった。当時、北か らは中国からベトナムへと共産主義化の動きがあり、南か

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らはニューギニア島の一部を併合したインドネシアの拡張 主義があり、サバは単独で独立すればいずれ共産主義勢力 かインドネシアのどちらかに呑みこまれてしまうという恐 れがあった。マレーシア結成に参加すれば二つの拡張主義 から逃れられるというのが、サバの指導者たちがマレーシ ア参加に踏み切った大きな理由だった。 独立してマレーシアの一州となり、国防と治安の問題で 頭を悩ませることがなくなったサバ州は、州内の経済発展 に乗り出した。一九六三年には、マラヤ連邦に倣ってサバ 州 の 主 要 三 民 族 を 代 表 す る 三 つ の 政 党 が 与 党 連 合 を 組 織 し、 州 政 府 を 担 当 し た。 州 首 相 は ド ナ ル ド・ ス テ フ ァ ン ( Donald Stephens ) で、 ニ ュ ー ジ ー ラ ン ド 人 と カ ダ ザ ン ドゥスン人の混血者である父親と、イギリス人とおそらく 日本人の混血者である母親を持ち、半分白人の外貌を持っ たキリスト教徒だった。ステファンは、州内の木材資源を 利用した経済開発を構想し、木材生産業を州有化しようと したが、木材業者たちの反発を受けて失脚した * 16 。 一 九 六 七 年 の 選 挙 で 第 一 党 に な っ た 統 一 サ バ 国 民 機 構 (U S N O) の 総 裁 と し て 州 首 相 に な っ た ム ス タ フ ァ・ ハ ル ン ( Mustapha Harun ) は、 ス ル ッ ク 人 の イ ス ラ ム 教 徒 で、スールー王国のスルタンの親類だった。ムスタファは サバと半島部が文化的に対等になる必要があると考え、教 育言語を英語からマレー語に切り替えたり、内陸部の先住 諸族をイスラム教に改宗させたりする「マレー化」による 「文 明 化」 を 進 め た。 サ バ 州 沖 で 採 れ る 石 油 ロ イ ヤ リ テ ィ の州の取り分を五%とするという連邦政府の提案に反対し てサバをマレーシアから離脱させる可能性を示唆したり、 木材生産業を公営化してそこから得られた資金をもとにミ ンダナオのMNLFを公然と支援したりしたため、連邦政 府の頭を悩ませ、一九七六年の選挙で連邦政府の支援を受 けたブルジャヤ党に敗北した。 一 九 七 六 年 に 州 政 権 に つ い た ブ ル ジ ャ ヤ 党 ( Berjaya ) は、インド・パキスタン系とマレー人の混血者と言われる イ ス ラ ム 教 徒 の ハ リ ス・ サ レ ー ( Harris Saleh ) 総 裁 が 州 首相を務め、連邦政府のマハティール首相の支援のもと、 フィリピンやインドネシアから外国人労働者を積極的に受 け入れてサバ州の経済開発を進めた。フィリピンやインド ネシアから労働者を入れただけでなく、国民登録局の担当 官に指示して本来なら与えられないはずのマレーシア国民 の身分証明書を発給したため、多くの外国人がマレーシア 国民の身分証明書を持つことになった。この身分証明書は 不正な手続きで得られたものだが、手続き自体は正規のも のであるため、身分証明書も正規のものとなる。こうして マレーシア国民の身分を手に入れた人々の多くは「マレー 人」を名乗るようになり、身分証明書が手に入らなかった 人々は「外国人」としてサバ州に滞在することになった。

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このためサバ州では一九八〇年代以降に人口が急増し、と く に「マ レ ー 人」 と「外 国 人」 が 大 き く 増 え て い る (図 4 参照) 。 フ ィ リ ピ ン や イ ン ド ネ シ ア か ら の 移 民 人 口 が 急 激 に 増 え、しかもその多くがマレーシア国民の身分を手に入れ、 有権者の人口構成が大きく変化していることに対して、主 に 内 陸 部 に 住 む 非 ム ス リ ム の 先 住 諸 族 (カ ダ ザ ン ド ゥ ス ン 人 や ム ル ト 人) や 主 に 町 に 住 む 華 人 の 間 で 危 機 感 が 高 ま り、一九八五年の選挙ではこれらの人々の支持を受けたサ バ 団 結 党 (P B S) が 政 権 に 就 い た。 党 首 の パ イ リ ン・ キ テ ィ ガ ン ( Pairin Kitingan ) は カ ダ ザ ン ド ゥ ス ン 人 の キ リ ス ト 教 徒 で、 「サ バ 人 の サ バ」 を 掲 げ て 州 自 治 を 求 め、 連 邦政府に対してサバ州の経済開発や国境警備、外国人急増 問題の解決を要求した。パイリンの弟であるジェフリー・ キ テ ィ ガ ン ( Jefrrey Kitingan ) は、 サ バ 州 の 先 住 諸 族 出 身者で初のハーバード大学の博士号取得者で、大学で学ん だことをサバ州の現実に照らして実現するために柔軟にア イデアを出し、自らの信念にしたがって行動する人物とし て知られる * 17 。外国人問題の調査・解決や石油ロイヤルティ の見直しなどを連邦政府に要求し、連邦政府がこの要求に 応えないとサバのマレーシアからの離脱の可能性を検討す るにいたり、国内治安法で逮捕・勾留されたこともある。 パイリン州首相のもと、PBS政権は連邦政府に対して厳 1980年代以降に人口が急増 (とくにマレー人と外国人) 現在では州人口の3割が外国人 カダザンドゥスン ムルト マレー バジャウ 他の原住民 華人 その他 外国人 主に非ムスリ ムの原住民 主にムスリム の原住民 1951 1960 1970 1980 1991 2000 2010 0 50 100 150 200 250 300 350 33.4 45.4 65.1 86.3 173.4 246.8 311.0 1951 1960 1970 1980 1991 2000 2010 カダザンドゥスン 35.3 31.9 28.3 25.3 18.6 18.6 17.6 ムルト 5.7 4.8 4.8 4.2 2.9 3.3 3.1 バジャウ 13.5 13.2 12.0 10.5 11.7 13.4 12.8 マレー 0.6 0.4 2.8 — 3.3 12.0 11.7 他の原住民* 18.6 17.4 19.4 21.8 17.0 15.2 14.4 華人 22.2 23.1 21.4 21.6 11.5 10.3 9.0 その他 5.4 10.8 14.7 14.4 10.4 5.4 4.8 外国人 — — — — 24.5 22.4 29.7 合計 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 *「他の原住民」の内訳 (1970年、単位:万人) ・クダヤン(3.8) ・スンガイ(1.8) ・ビサヤ(1.4) ・スルック(1.1) ・ティドン(0.8) ・サイノ(1.0) ・その他(2.8) サイノ(華人との混血者) 以外はムスリム 図4 サバ州の人口構成と民族 単位:万人 単位:%

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しい態度で臨んだが、これによってPBS政権と連邦政府 の対立は激しくなり、連邦政府の中核であるUMNOが一 九九一年にサバ州に進出してサバ州の直接統治に乗り出し た。 一九九四年の選挙では、UMNOが中心となって国民戦 線のサバ州支部を組織し、州政権をPBSから奪った。半 島 部 の 国 民 戦 線 に 倣 っ て 民 族 別 政 党 が 連 立 す る 方 式 を 取 り、 州 首 相 の ポ ス ト は、 ム ス リ ム (マ レ ー 人 や バ ジ ャ ウ 人 な ど) 、 先 住 諸 族 (カ ダ ザ ン ド ゥ ス ン 人 な ど) 、 華 人 の 主 要 三 民 族 の 輪 番 制 と し た。 州 首 相 輪 番 制 が と ら れ た 九 年 間 は、国民戦線を与党、PBSを野党とし、親連邦路線かサ バ州独自路線かの選択が迫られた時期だった。しかし、こ の 間 も 州 内 の マ レ ー 人 (イ ス ラ ム 教 徒) の 数 は 増 え 続 け、 有権者の半数以上がイスラム教徒となったため、二〇〇三 年には州首相の輪番制を廃止し、州首相は常にUMNOか ら出すことになった。 PBSは二〇〇三年に国民戦線に加わり、オール与党体 制となった国民戦線政権のもと、サバ州では連邦政府の資 金をもとに東海岸のアブラヤシ農園の大規模開発などが進 められ、その労働力の供給源となる外国人の急増問題は放 置 さ れ た。 「開 発 で き る と こ ろ か ら 開 発 す る」 と い う 方 針 に よ り、 内 陸 部 の 経 済 開 発、 東 海 岸 の 国 境 地 帯 の 国 境 警 備・治安維持、さらにフィリピンやインドネシアからの移 住者が身分証明書を持っていないためにサバ社会にうまく 位置付けられず、その子どもたちが無国籍児童となって十 分な教育や医療が受けられないことなどの問題は置き去り にされたままとなった。 二〇〇八年以降、半島部で野党連合・人民協約が勢力を 伸ばす状況で、野党連合との連携によってこれらの問題の 解決の可能性を求めたのが、東海岸ラハダトゥ出身の華人 で 州 首 相 経 験 者 で も あ る ヨ ン・ テ ッ ク リ ー ( Yong Teck Lee ) と、 内 陸 部 出 身 の カ ダ ザ ン ド ゥ ス ン 人 で あ る ジ ェ フ リー・キティガンの二人だった。

外国人問題

サバには単一の「サバ民族」がなく、さまざまな民族が サバ州住民を構成している。前項で一部を紹介した歴代の 州首相を見ても、マレー人ムスリムだけでなく、白人とア ジア人の混血者 (ステファン) 、スルック人 (ムスタファ) 、 イ ン ド・ パ キ ス タ ン 系 の 混 血 者 (ハ リ ス) 、 先 住 諸 族 の カ ダ ザ ン ド ゥ ス ン 人 の キ リ ス ト 教 徒 (パ イ リ ン) 、 華 人 (ヨ ン・ テ ッ ク リ ー) な ど さ ま ざ ま な 民 族 が お り、 し か も そ の 多くは混血者である。民族性、宗教、出身地が違っていて も、正規の手続きを経て社会の一員となれば誰でも受け入 れて一緒に社会を作って来たのがサバ社会の特徴であると

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言える。 さまざまな文化背景を持つ人々が一つの社会を作る上で サバで形作られてきた工夫として、民族ごとに長を決め、 民族内の争いはその長が裁定し、民族を越えた争いは長ど うしが協議して裁定する仕組みがある。これを外国人に適 用する仕組みが、大使館・領事館とパスポートである。相 手 が 何 者 で あ る か を 示 す 公 的 な 文 書 (パ ス ポ ー ト) を 持 ち、 何 か ト ラ ブ ル が あ っ た と き に 誰 が 長 な の か (大 使 館・ 領事館) を明示するという仕組みである * 18 。 サバ州における外国人問題の解決といったとき、主要な 問 題 は、 (1) 一 九 八 〇 年 代 以 降 に サ バ 州 の 人 口 が 急 激 に 増加し、しかもマレーシア国民が急増しているのはなぜか を 調 査 す る こ と、 (2) フ ィ リ ピ ン や イ ン ド ネ シ ア の 政 府 に働きかけて、サバ州にそれぞれの領事館を置いてもらう とともに、サバに入境する外国人は一人一人がパスポート を所持するようにすることの二点である。 (1) に 関 し て は、 調 査 委 員 会 を 組 織 し て ほ し い と い う サバ州の要求をずっと無視してきた連邦政府は、総選挙で サバ州の有権者の支持を得なければならない状況で重い腰 を 上 げ、 二 〇 一 二 年 六 月 に 外 国 人 問 題 の 王 立 調 査 委 員 会 (R C I) を 設 置 し た。 調 査 委 員 会 の ヒ ア リ ン グ が 進 め ら れるにつれて、調査内容の一部が新聞などで報じられ、外 国人への身分証明書発給がマレーシアの政府高官を含めて 行 わ れ て い た こ と な ど が 明 ら か に さ れ つ つ あ る。 (2) に 関しては、フィリピン政府がサバ領有権の主張を取り下げ ていないためにサバに領事館を置いておらず、このことが 結 果 的 に サ バ 州 に お け る フ ィ リ ピ ン 人 の 立 場 を 悪 く し て いる * 19 。

銃撃戦

軍事作戦

二〇一三年三月五日、マレーシアの治安当局は大規模な 軍事作戦を展開して「スールー王国軍」の殲滅に乗り出し た。サバに侵入した「スールー王国軍」兵士はせいぜい四 百人であり、二月半ばにサバ州に上陸して以来、マレーシ ア警察に包囲されて食料も不足していたという。警察と陸 海空の三軍の合同で二万人を動員するほどの大規模な作戦 を 展 開 し て 対 応 す る 必 要 が あ っ た の か と い う 疑 問 が 生 じ る。 しかし、その妥当性はともかく、マレーシア政府は大規 模な軍事作戦を展開し、このことはマレーシアの領土を脅 かそうとする外国勢力への抑止の意味に加え、マレーシア 国 民 (と く に サ バ 州 の 有 権 者) に 対 し て、 連 邦 政 府 が 強 い 態 度 で 国 民 の 安 全 を 守 ろ う と し て い る と い う ア ピ ー ル に なった。

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「ス ー ル ー 王 国 軍」 が 立 て こ も っ た の は タ ン ド ゥ オ 村 で、三月五日の軍事作戦の対象となったのはタンドゥオ村 および隣接するタンジュンバトゥ村だった。三月二日から 三日にかけて生じた警察と武装集団の銃撃戦などの事件で は、当初、警察は「スールー王国軍」との関係を否定して いたが、後にこれらの事件も「スールー王国軍」関係者が 起こしたと言うようになった。もっとも、その根拠は「逮 捕 者 の 服 装 が『ス ー ル ー 王 国 軍 』 兵 士 に 似 て い る」 と か 「死 亡 し た 武 装 者 か ら M N L F の 身 分 証 が 見 つ か っ た」 と いう曖昧なものであり、信憑性はかなり疑わしい。 M N L F は、 一 九 七 〇 年 代 に は フ ィ リ ピ ン で 勢 力 が 強 かったムスリムの反政府運動の担い手だったが、サバ州で は、一九九〇年代までには、ふだん仕事がない地元の若者 たちが所属する集まりのような存在になっていた * 20 。その役 割 は、 住 民 の 間 で 揉 め 事 が 起 こ る と (時 に は 腕 力 を 使 っ て) 仲 裁・ 解 決 す る と い う も の だ っ た。 当 時、 「も し ミ ン ダナオがフィリピン政府と独立戦争を始めたら参戦するつ もりか」と尋ねると「自分はマレーシア人だからフィリピ ンの話は関係ない」と答えた人も多く、MNLFの身分証 を持っていたからフィリピンの反政府運動と繋がっている という主張に説得力はない。ただし、サバの事情をよく知 らない半島部出身者は MNLFが反政府の武装勢力である という説明を 鵜呑みにするかもしれない。 事件の関係者をMNLFと結び付ける情報が流れた背景 には、マレーシア国民に対して、そしてフィリピンの政府 と 国 民 に 対 し て、 さ ら に 国 際 社 会 に 対 し て、 「ス ー ル ー 王 国軍」に対する軍事作戦を展開する承認を取り付ける必要 があり、そのためサバではほとんど実態がなくなっていた MNLFを持ち出し、さらにそれを「イスラム武装集団」 と語ったのだろう。 ま た、 「ス ー ル ー 王 国 軍」 を 非 人 道 的・ 非 文 明 的 な 集 団 で あ る と 見 せ る 試 み も 見 ら れ た。 「ス ー ル ー 王 国 軍」 が タ ン ド ゥ オ 村 を 占 拠 し た 当 初、 マ レ ー シ ア 警 察 は 英 語 と ス ル ッ ク 語 で 書 か れ た ビ ラ を 撒 い て 投 降 を 呼 び か け た と い う。スールー諸島ではフィリピン領でありながらマレー語 が通じる場所が多いが、マレーシアにおいて民族間の共通 語であるマレー語を用いずに英語とスルック語だけで書か れたビラを撒いたということは、マレーシア国民に「スー ルー王国軍」が「話の通じない」人々というイメージを与 え る の を 助 け る こ と に な る。 「ス ー ル ー 王 国 軍」 側 に 投 降 を 呼 び か け る よ う 電 話 で 話 を し た と い う 報 道 で も、 「ス ルック語で話をした」という情報が添えられた。 また、三月一日の銃撃戦でマレーシアの警官二人が死亡 し た 事 件 の 報 道 で は、 「ス ー ル ー 王 国 軍」 の メ ン バ ー が 白 旗を掲げたため、投降するのかと思って警官二人が近づい たところ、突然発砲されて二人が死亡したと発表された。

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自分と意見が違う相手であっても決められたルールは守る という文化が深く根付いているマレーシアの人にとって、 白旗を掲げたので投降かと思って近づいたら撃ち殺された と い う の は 想 像 を 絶 す る 状 態 で あ る。 「ス ー ル ー 王 国 軍」 側はマレーシア警察が先に発砲したと主張しており、真相 は わ か ら な い が、 少 な く と も マ レ ー シ ア 国 内 で の 報 道 が 「ス ー ル ー 王 国 軍」 が 非 人 道 的 で あ る と い う 印 象 を マ レ ー シア国民に与え、軍事作戦の展開への支持を取り付けるの に役立ったことは確かである * 21 。 また、フィリピン政府・国民や国際社会の支持を取り付 けるため、マレーシア政府は「スールー王国軍」をテロリ ス ト と 見 な そ う と し た。 そ れ を 支 持 す る 情 報 と し て、 「イ スラム武装組織」MNLFの身分証を持っていたことに加 え、銃撃戦の際に「スールー王国軍」メンバーが死亡した マレーシア人警官の体の一部を切り取ったように見える映 像が流されたこともあった。この映像は後に今回の事件と は 無 関 係 の も の と 判 明 し た が、 マ レ ー シ ア 国 民 の 多 く に 「ス ー ル ー 王 国 軍」 が 非 人 道 的・ 非 文 明 的 で あ る と の イ メージを与えるには十分だった。また、マレーシア警察が 「ス ー ル ー 王 国 軍」 の 非 人 道 性・ 非 文 明 性 を 強 調 し た の に 対 し、 非 文 明 性 が 神 秘 性 を 醸 し 出 す た め、 「ス ー ル ー 王 国 軍」側もそれを敢えて否定せず、その結果、実態よりも大 きく誇張された 「スールー王国軍」の 姿が立ち現れた側面 もあった。 主にマレーシア警察によるこれらの情報は、テロリスト 扱いしようとすることが結果として実態以上に相手を大き く見せてしまうが、住民が噂という形で発する情報もそれ と同じ働きをすることがある。三月二日のセンポルナでの 銃 撃 戦 の 始 ま り は、 住 民 か ら「タ ン ド ゥ オ 村 か ら『ス ー ル ー 王 国 軍 』 が 逃 げ て き た」 と の 通 報 が あ っ た た め だ っ た。タワウでも車上荒らしが「スールー王国軍」の仕業で はないかという通報があった。これらは、今回の事件の発 生 以 前 か ら 地 域 社 会 に あ っ た 課 題 の 解 決 の た め、 住 民 が 「ス ー ル ー 王 国 軍」 を 口 実 に し て 警 察 に 捜 査 を 求 め た と い うことである。その背景には、普段は軽微な犯罪について 警察に通報しても十分に対応してくれないが、このタイミ ングで「スールー王国軍」と言えば捜査してくれるという 考え方があったと思われる。

共産主義

外国人

この事件に対するマレーシア政府の対応の背景の一つに は、マレーシアの国家的な「敵」の認識の変化があるよう に思われる。事件から約半年を迎えた二〇一三年九月一六 日、ナジブ・ラザク首相はマレーシア結成五〇周年記念式

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典に参加するためサバ州コタキナバルを訪れた。夕方から の式典の準備が進められている最中、マラヤ共産党の最高 指 導 者 チ ン・ ペ ン (陳 平、 Chin Peng ) が 滞 在 先 の バ ン コ クで死亡したというニュースが入り、ナジブ首相は記念式 典の直前にテレビを通じて国民にメッセージを発表した。 マラヤ共産党はマレーシアで長く公式に国家の敵とされて きたが * 22 、数年前、マラヤ共産党による反英武装闘争は結果 と し て イ ギ リ ス に よ る マ ラ ヤ へ の 独 立 付 与 を 早 め た と し て、マラヤ共産党およびそのシンパを再評価する議論がマ レーシアで起こり、マラヤ共産党から国家を守るために命 を落とした警官や軍人の遺族から激しく批判される出来事 があった。ナジブ首相はテレビを通じた国民へのメッセー ジのなかで、国家に対する深刻な脅威だったマラヤ共産党 と対峙するためにマレーシアの国軍・警察や市民が大きな 犠牲を強いられたことを改めて確認し、その最高指導者で あるチン・ペンの葬儀をマレーシア国内で行ったり遺体を マレーシア国内に搬送して埋葬したりする可能性を完全に 否定した。その上で、いまやマレーシアは共産主義という 脅威はなくなったが、それにかわる新しい脅威に直面して おり、国軍・警察や市民は団結してその脅威に立ち向かう 必要があると呼びかけた。脅威の具体的な内容は語られな かったが、ラハダトゥで発生した「スールー王国軍」兵士 の侵入事件を念頭に置き、外国からの侵入を指しているこ とは明らかだった。 半島部マレーシア北部のタイとの国境地帯のジャングル で主に共産主義ゲリラ対策にあたっていた部隊がアブラヤ シ農園が広がるボルネオ島東海岸のフィリピンとの国境地 帯で作戦に従事していることは、地理的にも「敵」のイデ オロギーの上でも状況が大きく異なっているが、国境地帯 で外敵の侵入を防ぐという点は共通している。また、サバ の国境問題を考える上では、東海岸ラハダトゥから目と鼻 の先に位置するスールー諸島が属するフィリピンとの国境 問 題 だ け で な く、 サ バ 州 の 北 部 に 位 置 す る 南 沙 諸 島 (ス プ ラ ト リ ー 諸 島) を め ぐ る 紛 争 も 重 要 な 国 境 問 題 で あ る * 23 。 マ ラヤ共産党の背後に共産中国がイメージされていたのに対 し、サバ州の国境警備の背後にも、膨張する中国に対する 警戒が見え隠れする。

人の出入りが激しいという意味で社会的流動性が高い島 嶼 部 東 南 ア ジ ア に お い て、 国 境 問 題 が ど の よ う な 形 で 表 れ、どのような意味を持つのか。島嶼部東南アジアの多く の地域では、住民はまばらに住んでおり、国境地帯は文化 的に多様な人々が混在して密集する地域というわけではな

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い。近代になって国境が引かれることで、国境の両側で社 会制度や経済状況が異なり、そのため国境を越えて人が移 動し、その結果、国境のどちらか側に混成社会が形成され る。人々は国境ができる前から移動していたが、その多く は少数が比較的短期間に「行って戻る」訪問だった。これ を国境のために生じる移動が多数で生活拠点を移すことを 含めたものであることと同列に扱うことはできない。 ただし、領域国家の形成によって国境が引かれ、国境の 内側でそれぞれ均質な社会制度の構築が目指されても、実 際 に 国 境 の 内 側 で 均 質 な 社 会 制 度 が 出 現 す る と は 限 ら な い。 と り わ け 首 都 か ら 離 れ た 国 境 付 近 で は、 そ の 国 民 で あっても、領域国家の中央政府による管理や保護が十分に 行き届かない場合も少なくない。そこに国境を越えて訪れ 定住する人々は、居留先国からも出身国からも管理や保護 の対象とされないことになる。 国家内の周縁部では、その地域の人々にとっては死活問 題で一刻も早い解決が求められるが、それを解決しうる権 限や資源を持つ中央政府にとっては優先順位が低く、その ため長い間にわたって放置され問題が解決されないことが ある。そのような課題に人 々 の目を向けさせる上で有効と 思われる方法の一つに、国際社会の関心を集めることがあ る。それぞれの課題は現場の事情に応じて存在するが、そ れ を「国 境・ 領 土 紛 争」 や「災 害」 「テ ロ リ ズ ム」 の よ う なグローバル・イシューとして語ることにより、国際社会 の関心を集め、その結果として中央政府による対応を引き 出 す 可 能 性 が 出 て く る。 ま た、 い っ た ん グ ロ ー バ ル・ イ シューとして語られ、中央政府や国際社会による対応が行 われると、そこにもともと存在していた課題とは異なる別 の課題への対応も入り込むことになる。 「ス ー ル ー 王 国 軍」 兵 士 の サ バ 州 東 海 岸 へ の 侵 入 事 件 も、それが「国境・領土紛争」として語られ、国際社会の 関心を集めてマレーシア政府の対応を引き出す過程で、さ まざまな立場の人々に利用されることになった。 サバの多くの人々にとっては、長年の課題だった国境警 備 と 外 国 人 問 題 に 連 邦 政 府 が 本 格 的 に 取 り 組 む こ と に な り、地元住民も外国人も含め、身の危険を感じずに暮らせ ると思えるようになった。マレーシアの連邦政府も、サバ 州の有権者の支持を得て政権を維持するとともに、国境警 備を増強し、周辺国との国境紛争に備える方向で対応でき たことになる。 ただし、一般の人々の生活に悪い影響が出ることが懸念 さ れ る。 と り わ け「ス ー ル ー 王 国 軍」 と 民 族 的 に 同 じ ス ルック人は、サバ社会において厳しい立場に置かれること が 想 像 さ れ る。 サ バ 州 全 体 で 約 三 万 人 い る と 言 わ れ る ス ル ッ ク 人 の 文 化 団 体 は、 侵 入 事 件 の 直 後、 自 分 た ち は 「ス ー ル ー 王 国 軍」 と は 無 関 係 で あ り、 ス ー ル ー の ス ル タ

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ンによるサバ領有権の主張を認めないという声明を発表し た。もっとも、役人や議員のように、本来ならこれらの団 体の活動に積極的に参加して地域社会におけるスルック人 の生活環境の改善に取り組むべきスルック人の多くは、自 分がスルック人であることを隠そうとする傾向があるため に こ れ ら の 団 体 の 活 動 に 積 極 的 に 参 加 せ ず 、そ の た め ス ル ッ ク人の生活環境が向上しにくいという問題があるという。 フ ィ リ ピ ン 側 を 見 る と、 最 も 大 き な 犠 牲 を 払 っ た ス ー ルー諸島出身者は、ミンダナオ和平の過程への積極的な関 与が実現しておらず、ミンダナオ和平が実現しても周縁化 されたままとなる可能性が残されている。また、間接的な 当事者として、今回の事件を契機に、サバ州に住むフィリ ピン系住民は厳しい生活を余儀なくされるかもしれない。 「ス ー ル ー 王 国 軍」 と の 関 係 を 疑 わ れ て 職 を 失 っ た フ ィ リ ピン系住民が増えていると報じられているが、サバ州に移 住して長いため、フィリピンには家も職もないし、それで もフィリピン側に戻ったとしても大量の「帰郷者」を受け 入れることになった社会が混乱し、さらなる問題を生むこ とになる。サバ州に長期滞在するフィリピン系住民は数が 多く、その保護のためにサバ州はサバにフィリピンの領事 館を置くことを求めているが、フィリピンはサバ領有権を 唱 え て い る た め に 領 事 館 を 置 く こ と が で き ず、 そ の た め フィリピン系住民が不都合を被っている状況は改善されて いない。 アジア系でありながら特定の国をイメージさせないため に「スールー」と名付けたのが『スター・トレック』制作 者の意図だったが、観客が親しみを湧くように特定の国と 結 び 付 け ら れ、 「ス ー ル ー」 と い う 名 前 は 舞 台 裏 に 退 い た。今日のグローバル社会に生きる私たちは、私たち自身 が日々の暮らしを営むのと同時に、報道・研究や他の情報 源 を 通 じ て 互 い の 様 子 に 目 を 向 け あ う 存 在 で も あ る。 グ ローバル社会に暮らす他の人々にどのような関心の目を向 けるかは、その人々が自分たちの抱える課題をどのような 形で世界に訴えるかという選択と密接に関わっている。人 は、グローバル社会の関心を集めるため、自らが抱える課 題をグローバル・イシューに引き付けて語ろうとする。グ ローバル・イシューを捉える上では、その裏にどのような 地域の事情があり、それがどのように解決されるかという 観点から見ることも大切である。 ◉注 * 1 一 九 九 〇 年 代 頃 ま で、 日 本 人 へ の サ バ 州 紹 介 で は「北 海 道 ぐ ら い の 広 さ の 土 地 に 札 幌 市 ぐ ら い の 人 口 が 住 ん で い る と こ ろ」 と 言 わ れ て い た。 最 近 で は サ バ 州 の 人 口 は 大 幅 に 増 え て お り、 本 稿 で 述 べ る よ う に こ の 人 口 増 加 は 今 回 の 事 件 と 密 接な関わりがある。 * 2 「ス ー ル ー 王 国 軍」 兵 士 侵 入 事 件 の 経 緯 お よ び 報 道 内 容

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に つ い て は、 マ レ ー シ ア で 刊 行 さ れ て い る 日 刊 紙 各 紙(全 国 紙 お よ び サ バ 州 の 地 元 紙) お よ び 二 〇 一 三 年 五 月 に 筆 者 が サ バ 州 コ タ キ ナ バ ル で サ バ 州 政 府 関 係 者 に 行 っ た 聞 き 取 り 調 査 や個人的な通信をもとにしている。 * 3 当 初 は こ の 銃 撃 戦 で 市 民 一 人 も 巻 き 添 え に な っ て 死 亡 し た と い う 情 報 も あ っ た が、 こ の 事 件 に 関 す る 公 式 情 報 や 一 般 報道では言及されていない。 * 4 独 立 以 前 の サ バ の 歴 史 は ( Tregonning 1965 [ 1967 ]; Ranjit 2000 )を参照。 * 5 当 時、 こ の 土 地 は「北 ボ ル ネ オ」 ( North Borneo ) と 呼 ば れ、 一 九 六 三 年 に イ ギ リ ス か ら 独 立 し て マ レ ー シ ア の 一 州 に な っ た と き に「サ バ」 ( Sabah ) に 改 称 し た。 そ の た め 一 九 六 三 年 ま で は「北 ボ ル ネ オ」 と 呼 ぶ べ き だ が、 便 宜 上、 本 稿 では一九六三年以前も「サバ」と呼ぶ。 * 6 北 ボ ル ネ オ 会 社 が ブ ル ネ イ の ス ル タ ン か ら 川 ご と に 統 治 権を買って領土を拡大した様子は( Black 1983 )に詳しい。 * 7 フ ィ リ ピ ン の サ バ 領 有 権 主 張 に つ い て マ レ ー シ ア 側 か ら 書かれた研究として( Mohd. Ariff 1988 )がある。 * 8 一九五〇年代のサバの独立構想については(山本 二〇〇 三)を参照。 * 9 「ラ ジ ャ ム ダ」 と は 皇 太 子 の 意 味 だ が、 メ デ ィ ア に よ っ ては「副王」と訳しているものもある。 * 10 日 本 語 や 英 語 の メ デ ィ ア で は こ の 事 件 の 首 謀 者 を「キ ラ ム 三 世」 と 書 く も の が あ る が、 正 し く は「ジ ャ マ ル ル・ キ ラ ム三世」であり、 「キラム三世」は適切ではない。 * 11 マレーシア側の報道では Azzimudie Kiram 、フィリピン 側の報道では Agbimuddin Kiram と書かれる。 * 12 州 に よ っ て は「ス ル タ ン」 の 称 号 を 用 い な い と こ ろ も あ る が、 ス ル タ ン ま た は そ れ に 相 当 す る 各 州 の 統 治 者 を 本 稿 で は「スルタン」と呼ぶ。 * 13 サ バ 州 侵 攻 に 踏 み 切 る 前 に、 ジ ャ マ ル ル・ キ ラ ム 三 世 は フ ィ リ ピ ン 政 府 に ス ー ル ー 王 国 の 関 係 者 の 窮 状 を 訴 え る 書 状 を 送 っ て い た が、 フ ィ リ ピ ン 政 府 側 か ら は 反 応 が な く、 今 回 の 事 件 が 起 き た 後 で フ ィ リ ピ ン 政 府 が 調 査 し た と こ ろ、 外 務 省 内 で ほ か の 書 類 に 紛 れ て 放 置 さ れ て い る の が 発 見 さ れ た と いう。 * 14 日 本 語 メ デ ィ ア や 研 究 書 に よ っ て は「人 民 同 盟」 「人 民 連盟」などと訳されることもある。 * 15 マレーシアの二〇〇八年総選挙については(山本編 二〇 〇八)を参照。 * 16 ス テ フ ァ ン の 経 歴 と 背 景 に つ い て は(山 本 二 〇 〇 三) を、 ス テ フ ァ ン の 木 材 政 策 に つ い て は( Lee 1976 ) を 参 照。 一 九 九 四 年 に い た る サ バ 州 政 治 に つ い て は( Luping 1994 ) を参照。 * 17 ジェフリーについては(山本 二〇一〇)を参照。 * 18 大 使 館・ 領 事 館 が 作 ら れ、 一 人 一 人 の 外 国 人 が パ ス ポ ー ト を 所 持 す る よ う に な れ ば 犯 罪 は 減 る し 争 い も 簡 単 に 解 決 す る、 と い う 発 想 は 必 ず し も 現 実 的 で な い 面 が あ る が、 少 な く と も サ バ の 人 々 は こ の 二 つ の 課 題 を 解 決 す る こ と が 重 要 だ と 考 え て い る。 こ の 発 想 は、 サ バ 社 会 が も と も と 穏 や か で 厳 し い争いがほとんどないことをよく表している。 * 19 イ ン ド ネ シ ア は サ バ 州 に 領 事 館 を 置 い た が、 パ ス ポ ー ト

参照

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