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地方教育行成の組織及び運営に関する法律の成立における地域の実態 : 高砂市を事例として

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(1)

地方 教 育行 政 の組 織 及 び運 営 に関す る法 律 成 立 にお け る地域 の実態

―高砂市を事例 として一

学校教育研究科

教育内容・方法開発専攻認識形成系教育コース社会系教育分野 学籍番号

M14136G馬

場 幸平

(2)

目次 は じめに・・ 0。・・・・・ 0● ●●0● ●●●●●・

00000000●

●●●0● ●3 第一章 教育委員会法発足か ら地教行法への概要 と変遷・・・・・・ 。・

00000004

第一節 戦前教育か ら、教育委員会法成までの推移

4

1-1

戦前教育か らの脱却

4

1-2

教育委員会法制定までの経緯

5

第二節 教育委員会法、地教行法の両者の違い、その評価

7

2-1

地教行法制定過程における「任命制」議論

8

2-2

「任命制」をめぐる議論の 「世論」の動向

9

2-3

二本建制度廃上について

11

第二章 高砂市における、二つの教育委員選出方法の結果について・・・・ 。・・・・14 第一節

新市高砂市になるまでの各町村の教育委員選挙の結果

14

第二節

高砂市成立と教育委員選挙

15

2-1

合併前の高砂

15

2-2

高砂市教育委選挙結果 と、その過程

16

2-3

教育委員会選挙立候補者について

18

第二節

米田統合 と教育委員の任命制への移行

20

3-1

米田町の分町統合

20

3-2

公選制か ら任命制に

21

第二章 地教行法成立前後での高砂市の教育費用について0。・・・・・・・ 0・ ・・

24

第‐節 高砂市の教育費用の推移

24

第二節 総教育費の内訳 と年度ごとの推移

28

第二節 地教行法制定前後の教育委員会費の推移 とその内訳について

31

おibりに・・ 。・・ ●● o ● o ●●●●●・・・・・ 0 0 0 0 ●●●●●● o ●●●●

38

参考文献・資料・

00・

・・

00000・

・ 0・・・・・・・・・・・・・・・・

0039

(3)

は じめに 現在の 日本においては、様々な分野において 「改革」 とい う言葉が用い られていると感 じる。中でも「教育改革」 とい うものは最近に始まつたことではなく、戦後 日本において 真 つ先に取 り組まれた政策であった。戦前教育の反省を生か し、「教育の民主化」を基本精 神 とした教育基本法、または、これを支 える教育委員会法は戦後教育改革の要であつた。 教育基本法、教育委員会法は、「占領軍の押 し付けで作 られた法律である」 といつた声があ るよ うだが、そのようなことは決 してなく、両者は、

GHQか

ら認められた 日本の教育家が 議論 を重ねて作 られた法律である。 この二法律の制定によつて 日本の教育は再スター トを きつたのである。 しか し、その後、冷戦などの国際的情勢の変化によつて、 日本に対す る 占領軍の姿勢 も変化 した。それに伴い、戦後教育改革の要の一つであった教育委員会法 も さまざまな議論を重ねた結果、改正へ と踏み切 られた。 しか し、その変更内容はあま りに も大きく、当時の批判の的 となつていたのである。 本論文では、第一章において、教育委員会制度の成立 と、地方教育行政の組織及び運営 に関する法律 (以下、地教行法

)へ

の移行の過程、そ して、両者の差異について述べてい く。「教育委員の公選」か ら「任命」への変更、教育に関する予算案を地方 自治体の長 と教 育委員会が有 していた 「二本建制」の廃止、 とい う二つの事に関 しては、戦後教育改革の 根幹を揺 るが し中央統制的な教育への逆戻 りとなる、 として各方面か ら批判の声が多 く飛 んだ。本研究の目的は、実際に地域では教育委員会法か ら地教行法へ と移行 したことによ つて、 どのような変化が生 じたのかを検証 し明 らかにす ることである。そこで、高砂市を 事例 としてこのテーマを検証す る。高砂市は、私 自身の故郷であると同時に、昭和

27年

の 全国一斉の地方教育委員選挙を実施 し、当時全国的に進められていた合併政策の流れにの つて、昭和

29年

、「新市高砂市」 として運営がスター トした。そ して、その年の うち再度 地方教育委員選挙が行われた。つま り、教育委員の公選が三度行われたとい う特殊性を持 つているのである。更に、当時の状況を映 し出す資料が多 く残つていることも理由の一つ に挙げられる。 第二章では、公選制か ら任命制への移行に関す るそれぞれの結果 (当選者や投票率

)を

見て、両者を比較 し、地教行法の影響を検証する。第二章では、高砂市の昭和

29年

度か ら 昭和

34年

度の間の『 兵庫県高砂市歳入歳出決算書』を年度毎に見比べ、教育委員会法期 と 地教行法期の両者で、教育費用が大幅に削減 され るな どの問題は起きたのか否か、または、 どのように教育費用は運用 されたのかを調べ、地教行法が教育費用に与えた影響を検証 し、 高砂市における地教行法が どのよ うに作用 したのかを明 らかにする。

(4)

第一章 教育委員会法発足か ら地教行法への概要 と変遷 第一節 戦前教育か ら、教育委員会法成立までの推移

1-1

戦前教育か らの脱却 昭和

20年

8月 15日 、 日本は第二次世界大戦に敗れ、その後、米国の占領政策を受け入 れ ざるを得なくなつた。米国の占領政策 と、日本に対す る改革は主に

GHQに

よってなされ た。今回、取 り上げていく主な内容は戦後教育改革についてである。戦前教育の大 きな特 徴は中央集権的・官僚的な統制 による、いわば 「上か らの教育」であつた。 この様 な当時 の教育体制が、直接的にあるいは間接的に国民を戦争へ と導いて しまつたことは事実であ る。したがつて

GHQが

先ず、取 り掛かる教育改革は中央集権的・官僚的教育か らの脱却で あつた。 目指す ところは 「教育行政の民主化」であつた。昭和

22年

、この精神 を基盤に し て制定 されたのが教育基本法である。そ して、翌年の昭和

23年

にはこの法律の精神 に基づ き、それを支える教育委員会法が制定 された。 戦後改革 と聞けば、

GHQが

主に改革 した、とい う見方が多いよ うであるが、実際にはそ うではない。昭和

21年

1月 9日 、アメ リカ教育使節団が来 日した際の 日本側の委員会「日 本側教育家委員会」が設置するように、との指令が

GHQよ

り出された。これに対 して文部 省は 日本側教育家委員を結成 し、2月 18日 に構成員

29名

による初会合がなされ、南原繁 が委員長 として任命 された。この中の20名は後の教育刷新委員会の委員 となつている。主 な活動内容 は、米国教育使節団 と対応す る他、 自主的に会合 を開き、報告書 をまとめ、 日 本政府 と、米国教育使節団に提出す る、 とい うものであった。具体的には 「教育勅語に関 す る意見」1「学校体系に関す る意見」2「教権確立問題 に関す る意見」3などであつた。昭

21年

8月 10日 、この 日本側教育家委員会を継承 し、更に発展 させた組織が教育刷新委 員会である。 この組織 も教育に関す る重要事項の調査 と審査 を行 う機関であつたが、文部 大臣の諮問機関ではなく、内閣総理大臣の直属であつた。南原繁は、 日本側教育家委員会 の際の文部省の干渉に不満 を持つてお り、それを防ぐために内閣総理大臣の直轄機関とし、 更に、文部省に対 しても指示が出来る様な、委員会の運営を したい との意図があつたので

1人

間性 (個の完成 と相互尊重)、 自主的精神 (自発的な生活態度)、 合理的精神 (批判、思 考力)、 社会生活 (自 由と責任)、 家族、隣人、国家・国際的精神 、平和 と文化、な どを「勅 語」 とい う言葉を避け、基本的理念 として取 り組む教育についての意見。

2現

在でも採用 されている

6-3年

制の義務教育 と、

3年

制の高等教育制度、

4年

制の大学 制度を設 けることが議論 された。

3教

育行政の在 り方に関する議論で、学校 に対す る文部省などの監督権 を縮小 し、府県単位 で地方教育委員会を設 ける、 といつた教育委員会制度のひな型 をこの時に議論 している。

(5)

ある。これに関 して、米国側の反応は どうであつた力Ъ 同年の 9月 4日 、米国教育使節団、 教育刷新委員会、文部省の三者による会談が設けられた。 この会談によつて三者の関係性 は明確 となつた。米国教育使節団は、教育刷新委員会を 日本の最高 レベルの機関 として尊 重 し、その建議に関 しては一切の干渉を しない、更に、文部省が教育刷新委員会に干渉せ ず、尊重す ることを期待 したい、 との旨を述べてお り、文部省 もそれに同意 している。 こ れによつて、教育刷新委員会は大きな裁量権 を獲得 したのであつた。そ して、翌年の昭和

22年

3月 31日 、教育刷新委員会によつて多 くの建議がなされた教育基本法が制定 され、 戦後 日本の教育はスター トを切つたのであった。

1-2

教育委員会法制定までの経緯 教育委員会法は昭和

23年

7月 5日 に制定 されるが、海後は、この法律を憲法0教育基本 法体制を支 える大きな支柱であ り、

6030304制

な ど教育制度・ 教育内容にわたる改革 と ともに、戦後教育改革の重要な指標の一つ と言 うべき、 と述べている4。 教育基本法の性格 は教育権の国家か ら国民への解放、つま り、国民の教育を受ける権利 (日本国憲法

26条

) を保障す るための法律である。 これを保障す るために教育委員会法には三つの原則があ り、 「教育行政の民衆統制」5「教育行政の地方分権」6「教育行政の一般行政か らの独立」7で ある。 では、いきな り教育委員会法が成立 したのか と言 うと、そ うではなかつた。は じめに法 案 を出 したのは当時の文部大臣田中耕太郎であつた。その法案は 「学区庁構想」8とぃ ぅも のであつたが、文部省の直属 とす る性格があ り、教育民主化に逆行す る可能性があるとし て、南原等の教育刷新委員会の反対によ り、後退 した。その後、この法案の内務省か らの 独立の精神 を受け継いだ 「大学区構想」が昭和

21年

10月 4日 の教育刷新委員会第五回総 会で、文部省か ら持 ち上った。「学区庁構想」 と比較す ると、①学区庁長官の選出方法が、 公選か大学総長 との

2案

が挙げられたほか、②府県に学区支庁を置 く、③学区庁、学区支 庁、地方 自治体ごとに教育委員会を設 けることが挙げられている点において異なっている。 この法案に関 しては第

3特

別委員会が設 けられ、教育刷新委員会において審議 され ること になつた。審議内容は、公選制 による教育委員会の案 には多数が賛成 を示 したが、文部省 の出先機関 としての性格が強い学区庁を地方に置 くことや、そのことか ら、文部省 による 新たな中央統制へ と進みかねないことへの危惧がなされ、文部省のあ り方に対する意見が

4海

後宗臣 『 戦後 日本の教育改革』第五巻、東京大学出版会、昭和

50年

349頁

5従

来の官僚的な統制ではなく、教育委員の公選制によつて地域住民の教育意思を反映 させ ることで、教育行政の民主化を図る、 とい う意図である。

6教

育行政の中央集権ではなく、地域の具体的な教育運営を教育委員会に委ねることを指す。

7-般

行政か ら独立 した教育委員会を各地に設置 し、知事・市町村長の下に属 さない、自主 性 を持つ制度を目指 した。

8全

国を

9ブ

ロックに分け、その中心を各帝国大学 として、その下に高 。中・小をピラミッ ド状に置き、各帝国大学長をその学区庁の長官 とし、教育行政の一般行政化 を図つたもの であった。

(6)

多 くなされ、文部省は府県知事や市町村長 と協力 をす る参与的立場、あるいは諮問機関に 留まるべきであ り、一時的ではあるが 「文部省廃止論」 とい う案 も出たほどであった。 こ のよ うに して、文部省か ら提出された案件は頓挫す るのであった。 しか し、「大学区構想」 の内容の全てが否定 されたのではなく、続いて出 され る教育委員会法において、その委員 の選出方法では公選制 を採用 しようと言 う意見が多かったので、そこは踏襲されている。 同年 11月 15日 、教育刷新委員会第11回総会が開かれ、地方における教育行政体制に関 す る議論がなされた。議論の中心は教育委員会制度についてであつた。①府県に教育委員 会を設けること。教育委員会の委員数は7名か ら9名で行い、任期は

2,3年

に留め、市民 よ り選出すること。②教育委員会は教育長を選出す る。③教育委員会は教育に関す る人事、 予算案を決め、要求す る権利を有す ること。④市町村にも教育委員会を置き、教育長 を置 くと。以上の

4項

目が報告されている。第

14回

総会では上記に加 えて、数府県を

1単

位 と して、ブロックごとの地方教育委員会を設ける案が起 こつた。 この案件に対 して反対 した のは南原等だけでな く、それまではあま り干渉 してこなかつた米国側の教育使節 も反対 し ている。その理 由も共通 してお り、やは り、中央統制的な性質 を帯びている、 とい うこと であつた。 これに対 して第17回総会では、市町村、府県に公民での選挙による教育委員会 を設 け、教育に関す る議決機関 とし、教育委員会が教育長を選任 して、執行の責任者 とす る体制 を定めた。 この機関は学校の設置、廃止、管理、教育内容、人事、教育財政の権利 を持つ、 とした。翌年の昭和

22年

1月 15日 、文部省か らブロック単位の地方教育委員会 の設立 とい う項 目を盛 り込んだ 「地方教育行政に関す る法律案」が法文化 されたが、やは り同様の理由で反対 され るのであった。 これ以降、地方教育委員会案は後退 してゆき、翌 年の昭和

23年

には完全に姿を消 した。 しか し、これ等の案件は内務行政か らの独立を前向 きに考えて出されたものであったので、内務省が 自身の存在意義をかけての反発 もあつた よ うだが、昭和

22年

7月 6日 、内務省の廃止が決定 した。このことに関 して、海後は 「中 央集権的統制の中心点」である内務省の廃止そのものは、一般行政か らの教育行政の独立 の好機であつた といえよう9、 としている。 このように して、教育委員会法は文部行政か ら の支配 も逃れ10、 制定 された。 教育委員会法は、戦後教育改革において教育基本法を支える重要な法律であることは先 述 した通 りである。教育委員会法の基本精神である「教育行政の民衆統制」「教育行政の地 方分権」「教育行政の一般行政か らの独立」は、教育委員を公選によって選出 し、地域住民 の民意を教育に反映 させ ること、更に、一般行政か ら独立 して、独 自の教育予算を組める 体制を持つ ことによつて達成 され るとされ、これが認められたのである。公選制 について は、様々な議論がなされた。昭和

22年

に教育委員会法案が出された際に、委員の選任方法 晴 後宗臣 前掲『 戦後 日本の教育改革』、

357頁

。 10文部省側 は、都道府県教育委員会に対する文部大臣の監督権を有す ること、市町村教育 委員会に対 して第二次監督権 (第一次監督権は都道府県教育委員会

)を

有するここと、を 求めるなど、文部省の権限を保持す る姿勢が見 られたが、文部大臣の教育委員会に対す る 監督権の維持は、米国側によつて拒否 された。

(7)

では公選制の考え方がある程度浸透 してはいたが、教育刷新委員会の中でも、任命制にす るか、公選制については、昭和

23年

3月 の頃でもまだ議論が続いていたのである。当時、 矢野貫城 (つらき

)主

査は今、公選にす ると、地方の状態によつては十分な人物を選出で きない可能性があるので、教育刷新委員会は地方の文化向上に努めて、ある程度文化が熟 したな らば市町村に教育委員会 を置いて、公選制でやればいい。 しか し、現段階での 日本 の状態を考えると、任命 制によつて教育委員会 をまず結成 して、その役割を住民に伝 える ことが必要である11、 との旨を述べている。同年 4月 16日、第

10特

別委員会において、 ① 当分の間は都道府県、市及び特別区のみに教育委員会を置き、町村には置かない。②教 育委員の選任について三つの案12が出され、最終的には都道府県会議長、都道府県内の市長 の互選による一名、都道府県単位 の町村長会長、都道府県内の大学長、高等学校長、中学 校長、小学校長の互選による各一名、都道府県知事が産業経済会か ら二名、文化関係か ら 一名、労働 関係か ら一名、婦人か ら一名を、議会の同意 を得て選出す る。 この十名が選考 委員 とな り、教育委員の定員の三倍の候補者 を選び、一般投票 を行 う、 ことが報告 された が、その後 も選任方法については米国の使節団や教育刷新委員会、文部省の間で建議 され、 最終的には公選制による教育委員の選任方法が採用 され、教育委員会法は成立 した。 第二節 教育委員会法、地教行法の両者の違い、その評価 昭和

23年

10月 、都道府県、五大市、その他希望によつて設置 した

21市

27町

村にお いて教育委員選挙が行われ、教育委員制度は遂に始動 した。設置す る規模 については、次 第に全ての市町村へ と拡大す るのが当初の予定であつたが、それに関 しては、市町村長 と 教育委員会 との間で軋礫が生 じて しまわないか、あるいは、「市町村に教育委員会 をお くと、 教育委員には

4流

5流

の小物がなるのではないか」13「市町村側に依然 として反対の声が強 く、受け入れ体制が出来ていないこと、教育委員会に対す る啓発宣伝 も今までほ とん どや つていないので、地方住民が教育選挙に無関心である」14と言つた状況に加 え、地域の成熟 度がバ ラバラであるために、その地のボス的な人物や、天下 りの巣窟 とな り、教育委員が 利権視 され腐敗 して しま うことに対す る可能性があるとして、全国の市町村 に教育委員会 を設 けることについては反対する声 もあつた。結局は、昭和

27年

10月 5日 、全国の市町 11教育刷新委員会第

61回

総会 にお いての発言 を要約 し、引用 している。『 刷新委員会会議録』

1947年

3月 18日 。 12上記の他に、①当分の間、経済、産業、文化、労働、婦人の各界のものにつき、知事、 市長、区長が議会の同意を得て、任命する方式、②一般選挙で、委員数は

7人

か ら 11人 、 任期は

4年

とし、

2年

ごとに半数は交代する。啓蒙宣伝をその都度十分にすること、であつ た。 13『毎日新聞』 昭和

27年

8月 30日。 14『 毎日新聞』 昭和

27年

8月 31日。

(8)

村 において教育委員会選挙は行われた。 これによつて、全国に約

4万

もの教育委員会が設 立 されたのであつた。全国的な投票率は

58%前

後で、大阪では 35%、 京都では

38%と

居 非常に低い投票率を記録 して しまつた。 このことは先に述べたよ うに、地域住民の関心度 の低 さや、宣伝活動が十分でなかつた点が考えられ る。 この様 に発足当初の教育委員会制 度は円満なスター トを飾 ることは出来なかつたのである。毎 日新聞は 「とにか く、教育委 員会は生まれた。 この上は、教育を政治 。時の政治的権力か ら独立させて、地域住民の意 思を反映 しよ うとい う教育委員会の精神 を生か して、立派に育てていかねばな らない。」15と 言 うよ うに、その後の教育委員会の運営に期待 し、共に育ててい くことが大切であるとし ている。 しか し、その後、各地での首長 と教委の間での予算の対立や、冷戦・朝鮮戦争勃発に伴 う米国側の占領政策の転換な どによ り、次第に教育委員会法の改正の声があがるよ うにな り、昭和

31年

に地教行法が制定 され ることとなつた。先行研究の多くでは、地教行法が教 育委員会法の教育の地方分権、民主化、 自立性の確保 とい う根本的な要素を後退 させ、原 理的な修正を行 うものであ り、教育委員会法 とは明 らかに異質である16、 とぃ ぅ評価が一般 的であつた。 この地教行法以降の地方教育体制に対す る意見の共通項ははつき りしている。 それは、戦後教育行政改革の基本理念の修正を目的 として、中央―地方に通 じる教育行政 組織 を集権化 し、国の策定す る教育政策の効果的・効率的実施 を目指 した公教育管理の緻 密化す ることである。そ して、 これ を 「文部省対 日教組」や 「国家の教育政策対国民の教 育」や 「冷戦下における資本主義体制 と共産主義体制」 とい う二項対立的な構図であては めて、地教行法は評価 され る傾 向にある。本節では、教育委員会法 と地教行法の主な変更 点 を、教委の選出方法 と、二本建制度の二点を主に見ていく。

2-1

地教行法制定過程における 「任命制」議論 公選制か ら任命制にす ることで、教育行政を政治的確執 より遠 ざけ、広 く望ま しい人物 を委員に加 えられることができ、首長 との政治的摩擦 を軽減 し、選挙に必要な財政負担 を 軽減できる。 これ らは文部省の基本的な考え方である。当時の二大政党支配の時代におい ては、「公選制 こそが教育に政治色を及ぼす」と、考えていたのである。これは例 えば、あ る地域において、特定の政党の権力や影響力が著 しく強かつた場合、政党を支援す る活動 が起 き、選挙活動を非常に有利 に運ぶ ことによつて、教育委員の大半をその政党色を帯び た者が占めて しま う可能性があることを懸念 してのことであった。 これに対 して、「

10大

学学長」17をは じめとする各方面か らの意見は、公選制は戦後教育改革の大きな要素である 15『毎 日新聞』 昭和

27年

10月 7日 。 16岡村達雄『 教育の現在 第一巻 戦後教育の歴史構造』昭和

63年

、社会評論社の内容を 一例 として要約 している。 17「 戦後 日本教育史料集成」編集委員会『 戦後 日本教育史料集成』第五巻、昭和

58年

、100 頁。

(9)

こ と、 さらに、委員 を任命 す る人が首長では、首長 の政治的思想 に沿つた人選 になつて し ま う可能性があること、を危惧 し、公選制 には反対 したのであった。以下、任命制 に対す る意見 をま とめる。 ・ 任命制賛成 ① 公選制は党派的支配 を招 きやす く、教育の中立性 を損 な う可能性 があ り、中立性確 保 のためには人柄 を考慮 した任命制が良い。 ② 任命制 といつて も、公選 によつて選 ばれた首長等 が関与す るので、民主主義 を尊 し てい ると言 える。 ・ 任命制反対 ① 任命制 の採択 に よつて教 育行政 に対す る地域住民の民意 の反映が困難 とな り得 る。 ② 首長が人選す ることによつて、特定政党の党派的支配にさらされ る。また、都道府 県教育長の任命には文部大臣の承認が必要であるな ど、教育委員会法が掲げた教育 行政の民主化に反する官僚統制におちいる可能性がある。 当時、南原繁は「公選で選出された首長が任命す る形式を公選制 と同義 と捉えることは、 形式的過 ぎる」18とぃ ぅ旨を国会でも述べてきたが、貝塚は「公選によつて選出 された地方 公共団体の長や地方議会が「任命」することが、どうして「教育行政の民主化、民衆統制」 を否定す ることになるのか とい う点について、その反対論の論理は説得的でなかった とい えるだろ う。」19と している。或いは、「委員の任命については、その うち二人以上が同一の 政党に所属す ることとなつてはならない」 と、地教行法原案

4条

(任命

)に

は記 されてお り、首長の人選による特定政党の独 占への対策はある程度確立 されていると考えられる。

2-2「

任命制」をめぐる議論の 「世論」の動向 このよ うな教育の大問題に対 して新聞各紙は、地教行法、特に公選制か ら任命制への移 行 については、批判的な記事が多 くみ られた。 しか し、国会審議のあ りようについて、教 育委員会制度の改革論議が煮詰まらず、政府 による審議会への諮問が行われない うちに地 教行法案が提出され、文部省が立法府 を無視 したことを発端に、主に社会党議員によって、 乱闘国会 とい う前代未間の事態 となって しまつたのである。 この事件を機 に、その批判の 矛先は変わつていくのであつた。昭和

31年

6月 2日 、地教行法が可決 された第

24回

通常 国会が行われ るのだが、この審議に対す る新聞 (世論

)の

意見を見てみる。

B同

148頁

Ю貝塚茂樹『

1950年

代教育委員会制度の再編課題に関する実証的研究 ―地教行法制定を めぐる「任命制」議論 と「地教行法」体制―』平成

13年

94頁

(10)

新教育委員会法案の審議をめぐつて暴力 ざたを起 こし、汚点を残 した参院は二 日松野議 長の要請によつて警察隊五百名が出動。 しかもその うち二十名が正式の指示にもとづい て本会議場に入つた。一昨年六月の吉 田内閣当時の衆議院では警察隊は出動 した ものの 正式指示によつて本会議場に入 るところまではいかなかつたので今回の警察隊出動は帝 国議会当時か らまった く前例のないことで国家は暴力 ざたの上にさらに一大汚点を印 し た。 このよ うな事態に至った参院の混乱状態に対す る世間の批判は厳 しく、わが国議会 政治の前途 を心配 して政党の 自制を望む声が高まっている。暴力事件 を起 こした社会党 をは じめ政府、 自民党にもよ うや く反省 の色がみ られ事態収拾に動きは じめたが、暴力 事件か ら警察官の議場入 り警察官の待機 の下での国会審議 とい うなげかわ しい事態は今 後 も国民の深刻な批判を受けるだろ う。20 国会は、きょう終了す るが、真先 きに取 り上げねばならぬ問題が、参議院における社会 党議員の暴力行使、議長の要請による警察力発動 とい うとんでもない事実であることは、 議会政治のために遺憾の極み とい うほかない。議会政治の危機 ともい うべ きである。21 このよ うな、異常な状況下で地教行法は成立 したのだが、問題は議論 された ことが何一つ 修正 されないまま可決 されて しまつたことにある。多 くの教育界の識者の重要な意見 もこ うなつて しまっては全 くの無意味であつた。『 毎 日新聞』でも乱闘国会を引き起 こした社会 党の姿勢を非難 している。また、このよ うな社会党の強硬な姿勢の背景には 日教組の活動 があるとす る指摘 している。昭和

31年

6月 3日 の『 毎 日新聞』の 「社会党暴力の背景」と い う記事において、社会党の国会対策の狙いは、小選挙区法案の阻止にあつた と分析 して いる。自民党 もイヽ選挙区法案を諦める代わ りに、社会党が国会運営を正常に行 う、つま り、 地教行法成立を認めるとい うことで妥協点を持つたが、参議院においては 日教組議員の発 言力が強 く、社会党内でも、社会党執行部 と日教組出身議員 との間で確執があつた とい う ことが、記事では述べ られている。 す こし話が前後す るが、地教行法案が混乱の中で衆議院を通過 した後、世論の期待は地 教行法案の修正へ と向けられていく。それは参議院での緑風会の修正案への期待を意味 し ているのであるが、緑風会はもちろん修正案 を用意 し、 自民党、社会党、の両党の間で妥 協を図つてい く構 えであつた。両党の間で一応の合意がなされたのは以下である。 ① 市町村教育委員会の長は委員の兼務 となつているのを、選任教育長を置 くように改 める。 ② 市町村教委の教育長任命につき都道府県教委の承認 を必要 とする原案を改め、市教

"「

戦後 日本教育史料集成」編集委員会、前掲、

152頁

、『 朝 日新聞』昭和

31年

6月 2日。 21同 上

153頁

昭和

31年

6月 3日。

(11)

委 の教育長は都道府 県教委 の承認 を要 しない よ うにす る。 都道府 県教委教育長 の任命 にあたつて、事前 に文相 の承認 を うる との条項 を削除す る。 文部大 臣または都道府 県教委の措置要求についてはその範囲を厳密 に規定す る。 教科 書以外 の教材 の使用 にあたつて事前 に届 出 るか教委 の承認 を求 め る との規定は 余 りにぼ くぜ ん と してい るので届 出ない し事前 に承認 を必要 とす る教材 については、 「政令で定める」 ことにす る。

2

この修正案は、完全には 自民党が応 じるとい うことはないものの、修正案 の内容 (特に ② と③

)を

見る限 りでは、地教行法における、文部省大臣―都 道府県教育委員―市町村教 育委員、 とい う一本化 された中央統制色の強化は薄 くなつていることが見て とれ る。緑風 会 も任命制には同調 していた。そ もそも、教育刷新委員会においても半数は任命制 と公選 制 に意見は分かれていたことはすでに述べている通 りである。あるいは、「公正な推薦母体 で推薦 された候補者の中か ら任命す る」 とい う公選制 と任命制 を併せた 「森戸方式」 と呼 ばれ る方法案 もあ り、地教行法が衆議院を通過 したか らといつて、完全に議会制 を放棄 し、 強硬策に出る必要性は無かつたのである。緑風会の修正案などを国会で審議す る正攻法を 取つていれば、後々にまで 「民主的教育の後退」や 「戦前教育への逆戻 り」 とい うよ うな 批判は少なかったのではないだろ うか。確かに、私見では、公選制か ら任命制への変更は、 戦後教育改革が掲げた精神 に反す る点はあると思われ る。 しか し、その精神 を守 るために 様々に思案 した識者の意見や、修正案を十分に審議せず に、議会制そのものを無視 した行 動は非常に残念に感 じる。

2-3

二本建制度廃止について 三本建制度 とは、教育委員会が教育予算の分野に関 して、地方 自治体の長に送付権を持 つていることをさしている。つま り、教育委員会には教育に関する予算案の作成権があ り、 地方 自治体の長にも予算案の作成権がある、 とい う意味で 「二本建」なのである。 このこ とは教育委員会法の第

56条

から第 6Cl条にかけて明記 されている。少 し長 くなるが引用す る。 第五十六条 教育委員会は、毎会計年度、その所掌に係 る歳入歳出の見積に関す る書類 を作成 し、これを地方公共団体における予算の統合調整に供す るため、地方公共団体の 長に送付 しなければな らない。 ③ ④ ⑤ ■ ■ 22貝塚茂樹 前掲書

(20101頁

(12)

第五十七条 地方公共団体の長は、毎会計年度、歳入歳出予算を作成す るに当つて、教 育委員会の送付に係 る歳出見積 を減額 しようとするときは、あらか じめ教育委員会の意 見を求めなければならない。 第五十人条 地方公共団体の長は、教育委員会の歳出見積 を減額 した場合 においては、 教育委員会の送付に係 る歳出見積について、その詳細を歳入歳出予算に附記す るととも に、地方公共団体の議会が教育委員会の送付に係 る歳出額を修正す る場合 における必要 な財源 についても明記 しなければならない。 第五十九条 地方公共団体の議会において予算 を議決 した ときは、地方公共団体の長は、 教育委員会の所掌に係 る予算を、当該教育委員会に配当 しなければな らない。 第六十条 教育委員会は、その所掌に係 る予算について、その配当の範囲内で、支出を 出納長又は収入役に命令す る。23 つま り、教育委員会が教育費に関す る原案を作成 し、地方公共団体の長が議会にそれを提 出す る。その際に、長が原案を修正する時は、教育委員会の意見を添えなければな らない、 とい うことになる。 このことか ら、教育委員会法の地方における権力は非常に強力であつ た ことが伺 える。その権力を地教行法は、予算送付権を教育委員会か ら奪 うことで抑 えよ うとしている、として議論 された。昭和

31年

2月 1日 、文部省は自民党政務局調査会政策 審議会で 「教育委員会制度改正要綱」24を提出 した。その内容の中に、地方 自治体における 教育行政 と、一般行政 との調和をすすめるために、予算案に関 して、二本建制度を廃止 し、 学校施設の取得、処分、予算の執行等について地方公共団体の長に一定の調整権 を持たせ ること、が掲げられた。 この様 な変更の理由として、文部省は、教育委員会法では国の責 任が明確でないこと、地方 自治行政 との三分化を招 くこと、の二点を挙げている。25この二 点を是正 し、地方公共団体における教育行政 と一般行政 との中和をすす めること、国、都 道府県、市町村 を一体 としての教育行政制度を整 えること、これが地教行法の基本的な性 格である。国の責任を明確 にす る、 とい うことに関 しては、教育委員の選抜方法を公選制 か ら、任命制に変更 したことが、それに該当する。一般行政 との中和が二本建制度の廃止 に当たる。第

24回

国会衆議院文教委員会において、予算原案送付権についての議論がなさ れている。河野正 (日本社会党

)は

「二本建制について、今回の改正法で予算送付権が無 くなつているが、これによつて、教育が今後、不 当な圧迫を受 けた り、教育委員会の 自主 性 とい うものが次第に踏みに じられ、教育の中立性がおかされるのではないか」26とぃ ぅ懸 2・

3『

解説 教育六法』平成

18年

、三省曳

24『

文部広報』昭和

31年

2月 3日 25同 上、昭和

31年

、3月 3日。

%「

戦後 日本教育史料集成」編集委員会、前掲、地教行法案国会論議の河野議員の発言を

(13)

念に対 して、清瀬大臣は「予算条例に関 しては、町村議会で十分にやれ るはずである」27と 答 えた。 しか し、それに対 して、河野議員は「現在、対立予算が出てきている地域があ り、 教育委員会の予算は圧迫を受けている。そのよ うな実情を考慮す ると、大臣の考え方は甘 い」 と、反論。緒方信一 (文部省初 中局長

)は

「地教行法第

29条

23において、予算を作る 際に教育委員会 も意見をあらか じめ聞 く、 とい うことになつているので、教育委員会の意 見は反映 されると考えられ る。今後は教育委員会 と首長の調和 をもつて教育行政をすすめ ていくことを期待 したい」"と したが、河野議員は「実情からしても、なかなか話 し合いで 解決することは困難である。その うえ、教育委員会が対立予算 を出す権限もな くなつて し ま うと、やは り不当な圧迫を受けて しま うのではないか と思 う」30と発言 し、議論はその後 も平行線のまま続いたが、最終的には二本建制度が廃止 されたのであった。 教育委員会法においては、教育委員会が地方に及ぼす権力は予算案 を持つな ど、非常に 強力であった。それは、良い点 としては、地方分権の要 として教育行政 を運営できる事が 挙げ られ る。 しか し、その反面では、地方公共団 との軋礫が生 じた ことは紛れ もない事実 である。教育委員会の権限を削減 し、国が地方の教育に関与 してい くとい う転換には、地 教行法が大 きく関わるであろ う。た しかに、地教行法の内容は、多 く述べ られてきたよ う に 「公選制廃止」「二本建制廃止」 とい うよ うに、「戦後教育改革の精神」に反す る捉え方 が出来る点はある。 しか し、地教行法の前身である教育委員会法の精神 に譲歩 している箇 所 も多 くある。一般的に見れば、地教行法は教育行政の民主化 に逆 らう法律 と捉 えること が出来るだろ う。では、具体的にはどのよ うに地方に影響を与えていったのだろ うか。そ れに関 しては第二章、第二章で考察 していく。 要約 し、引用 している。 27同上資料 よ り、清瀬大臣の発言を要約 した。

2地

教行法第

29条

(教育委員会の意見聴取

)地

方公共団体の長は、歳入歳出予算の うち 教育に関する事務に係 る部分その他特に教育に関する事務について定める議会の議決を経 るべき事件の議案 を作成する場合においては、教育委員会の意見をきかなければならない。

"前

掲資料 「戦後 日本教育史料集成」より、緒方委員の意見を要約 した。

"前

掲資料 「戦後 日本教育史料集成」より、河野議員の意見を要約 した。 13

(14)

第二章 高砂市における、二つの教育委員選出方法の結果について 本章では、高砂市の変遷に触れなが ら、昭和

27年

の全国で行われた第一回教育委員選挙 の結果、そ して、新市高砂市 としてスター トす る昭和

29年

の教育委員選挙の結果や背景を、 新聞な どを用いて明 らかにす る。次に、地教行法によつて任命 された教育委員が どのよ う な人物が選出されたのか、公選制時の人物 と比べて大きな偏 りは無いかをみ る。そ して、 第一章で述べた公選制 と任命制のメ リッ トとデメ リッ トが、高砂市では影響 を及ぼ したの かをみることで、高砂市においての、公選制か ら任命制への移行の評価を下 したい。 第一節 新市高砂市になるまでの各町村の教育委員選挙の結果 昭和

27年

(1952年)、 全国の市町村 において教育委員選挙が行われ、全国に

4万

もの教 育委員が誕生 した。その投票結果は、昭和

27年

10月 13日 の文部広報31による選挙結果の 統計では、全国的な投票率は

61,09%で

あつた。更に、市町村教育委員会の投票結果の最 高値は山形県の 87%、 次いで、島根県の

84,08%が

記録 されている。当初の新聞各紙、文 部省 としては予想 と同等、またはそれを少 し上回 る結果であつた。それほど高 くない投票 率 となつて しまつた要因 としては、先述の通 り、教育委員会選挙についての啓蒙活動が不 十分であつたこと、地域住民の関心度の差が挙げられている。 昭和

27年

当時、現在の高砂市はまだ市ではなかったので、現在の高砂市を形成 している 各々の地域で教育委員会選挙が行われた。『 神戸新聞』では 「各町村で候補者が乱立、激戦 模様 の加印地方教委選」32ぁるいは「加古郡高砂町の教育委員会選挙は二七 日立候補者人名 におよび (定員四名)、 この地方きっての激戦区となつた」33と してぃる。10月 2日 の神戸 新聞、地方誌には、教育委員選挙の高砂町、荒井村、伊保村、曽根町における立候補者が 掲載 されてお り、以下がそれである。 ・ 高砂町 小谷二郎、藤野利勝、工楽辰二郎、松井宗一、大崎一郎、曽根て る子、松本富 雄 ・ 荒井村 り‖森国蔵、田中善秋、岩崎五郎、内橋正三、砂原亀次郎、広川菊次 ・伊保村 小暮宰、中村幸子、福田享子、井村正三、井上岩 市、暉峻隆範、砂川利夫 ・ 曽根町 カロ古喜市、塩谷 とし子、匈 ‖順正、大道政治、丸川善也、松浦大策、川西五郎 しか し、その後の 10月 4日 の記事では 「相次 ぐ立候補辞退」 とあ り、荒井村では二名が辞 退 し、曽根で一名が辞褪勇荒井村、曽根町においては無投票当選をとるかたちとなつた。「辞 「戦後 日本教育史料集成」 『 神戸新聞』

1954年

9月 『 神戸新聞』

1954年

9月

編集委員会

1983『

戦後日本教育史料集成

第四巻』

338頁

26日 28日 3.   認   3 3

(15)

退す る立候補者が他の地域でも続出 した背景を 「乱戦模様」 と化 した教委選に恐れ をな し たのではないか」34と予想 されている。最終的な当選者は以下である。 0高砂町 小谷二郎 、工楽辰二郎、松井宗一、大崎一郎、 ・ 荒井村 り│1森国蔵、田中善秋、岩崎五郎、砂原亀次郎、 ・ 伊保村 小暮宰、井村正三、暉峻隆範、砂川利夫 ・ 曽根町 カロ古喜市、創 │1順正、丸川善也、松浦大策、 当選結果の特徴 として、女性委員候補は全て落選 していること、そ して高砂町、伊保村で は候補者が多 く、記事の通 り激戦であつたことが伺 える。 この選挙の投票率の記録は残念 なが らつ きとめることは出来なかつた。 しか し、立候補者の相次 ぐ辞退や、それに伴 う無 投票地区が増えた こともあ り「いよいよ今 日、教育委員選挙が行われ るが、東播地方 も一 般 に衆議院議員選挙 とくらべ関心は ぐっと下回るのではないか との見方」35と ぃ ぅ記事が出 てお り、初めのころは盛 り上がったが、徐々にその熱が冷めていき、投票率 もあま り伸び なかつた とい う可能性が高い。 第二節 高砂市成立 と教育委員選挙

2-1

合併前の高砂 昭和

28年

10月 には 「町村合併促進法」が施行、続いて

1956(昭

31)年

には 「新市 町村建設促進法」が施行 された。高砂市 も、この、全国的に行われていた市町村の統廃合 の流れにのつて、昭和

29年

年 7月 1日 より高砂市は加古郡高砂町・荒井村 。伊保村・ 曽根 町が合併 し、高砂市は誕生 した。前述 した通 り、昭和

27年

の教育委員会選挙が行われた時 は、まだ高砂市ではなかったのである。 町 村 名 有権 者 投票 者 投 票 率 替 成 反 対 無効 高砂 町 9.822 7.042 71.70% 5.750 82.496 1228 17.696 64 荒 井 村 4_485 3_563 79_401 1_648 46_8% 1877 53_2% 38 伊 保 村 4.85G 3.541 72.90% 2.351 72.996 D46 27.196 44 曽根 町 3.039 2.278 74.70% 2.042 90.296 223 9.896 13 上記は、昭和

29年

年 2月 7日 、現在の高砂市の一部を形成 していた高砂町、荒井村、伊保 村、曽根町は市制実施 を目指 して、合併に対 して賛成か、反対かの住民投票を行つた結果

『神戸新聞』

1954年

10月 4日

『神戸新聞』

1954年

10月 5日

『 高砂市史

第二巻第五章

戦後の改革と高砂市の誕生』

658頁

“   3 5   3 6 15

(16)

である。結果的には、四つの全ての地域で

70%を

超えている。 さすがに住んでいる所の問 題 とあつて、住民 らの関心は高かった と言える。 賛成0反対について、賛成は高砂町では82%、 伊保村では72.9%、 曽根町においては

90%

を超 えてお り、合併に賛成する町民、村民が多かつたことは明白である。唯一、反対票が 過半数を超 えた荒井村に対 しては 「荒井村は大工場労組が全体的に合併の推進に大きな不 満 を抱いている」37こ とがこの結果 を招いた大きな要因の一つであると考えられ る。実際に 高砂ブロック合併の推進途上において荒井村では 「合併説明会における暴行事件、予期 し なかつた住民投票での過半数の合併反対、村長、助役、および村会議員 らの総辞職問題 と 合併計画に大支障を招き “高砂合併危 うし

"の

報 さえ一時流布 され、当事者 を非常にあわ て させた。」 “といつた問題が起きていた。 これの事態を収めるべ く高井義夫氏が後任村長 となつた。彼は「いま村が合併か ら脱落すれば村将来の発展に大 きな汚`点を残す」"と 決意 を固め合併推進に尽力するとともに村民の総意を結集 し、再び合併を軌道に乗せたのであ つた。その後、昭和

29年

6月 中旬か らは、合併に関する記事が神戸新聞では連 日掲載 され ていつた。 当時の市長職務執行者であった山本清次 (旧伊保村長

)は

新市高砂市の誕生に 際 して、合併の 目的が地方 自治の強化 と行政の簡素化であつたことは明白であつたが、「町 村間の住人感情、利害それに地理的条件、行政運営面における勢力の優劣な どが大きな原 因 となつてお り」 “これ らの問題 を克服 し、新市の臨海工業都市の性格 を主軸に して企業の 振興に努めることが大切であるとい う旨を述べている。このよ うな経緯 を経て、昭和

29年

7月 1日 、高砂市は誕生 したのであつた。

2-2

高砂市教育委選挙結果 と、その過程 新市としてスター トした7月 1日か ら一週間後、高砂市の市長、市議会議員、教育委員 の同時選挙の 日程は早 くも 7月 29日 と決定 された。この選挙に関する新聞記事 も連 日のよ うに取 り上げられている。7月 7日 には 「地盤協定、縄張も、すでに潜行運動」41と ぃ ぅ見 出 しの記事が出され、①革新系は議会選を優勢に進め、市政を牽制 していくとい う政治戦 略を企てる②選挙運動が起こる前に水面下での行動が活発化 してお り、地域から出た人物 を支援する構えである、とい う内容が記されてお り、7月 9日には「革新、市長候補出さず」

2あ

るいは 7月 11日 「市長選に出馬 しない 強力野党へ市議選に全力」毬とあり、①旧高 砂町の人 口に比べ、荒井、伊保、曽根は各々の人 口が少ないので、それぞれから一名の候

37『

神戸新聞』 “『神戸新聞』 39同 上。 40同 上。 41『 神戸新聞』

2『

神戸新聞』 43『神戸新聞』 昭和

29年

2月 10日 。 昭和

29年

7月 1日 。 昭和

29年

7月 7日. 昭和

29年

7月 9日 。 昭不口

29年

7月 11日 。

(17)

補に絞つて出馬 させ る方針であること②革新系か らは市長候補は出さずに、市会議員の議 席 を多 く獲得 し、野党的な立場でもつて市政を担 う、 とす るな ど、連 日活発 な選挙活動が すでに行われている模様を伝えている。そ して、7月 29日 、教育委員選挙を含む三つの選 挙が実施 された。 「市臨時選管委では直接市民につなが りのある選挙だけに危険防止の宣伝にあれ これ努 め、市民 も新人候補が少なく新鮮味のない選挙 と一部ではみているが、やは り身近な選 挙だけにいつにない関心を高め開票結果 を待ちわびている。投票率の予想は

85%∼

9

0%の

間ではないか とみ られている。(略

)高

砂市臨時選挙管理委員会では二十九 日執行 され る市長、市議、教委の同時選挙の投票について候補者 を間違わないよ う有権者に注 意 している。投票所には①市長②市議③教委の順で記載所 を設 け候補 ごとに二回にわけ て投票を行 うように している。市長の投票用紙は 「赤」市議は 「黒」教委は 「藍」色で 印刷 されている」。

4

選挙活動の充実性 と住民の関心度の高 さ、更には、市長選、市議会議員選が同時に行われ るとい う特殊な状況 もあつたために、新聞もかな り高めの投票率を予想 している。以下は その結果である。 7月29日執行高砂市長、議会議員、教育委員会委員選挙 投票 区 1 4 5 6 7 8 9 計 有権者数 男 1091 645 587 ●ι●07Aυ 1990 365 1424 10718 女 1021 り0ハυ7 1361 709 555 2502 2192 422 1647 11896 計 2299 2420 247〔 1354 1142 4881 4182 787 3071 22416 投票者数 男 1017 1028 1024 585 552 2146 1819 341 1361 9873 女 1150 1232 1324 651 506 2356 2141 399 1603 11364 計 2167 226C 234〔 ^ υ う 0 2 1058 4504 3960 740 2964 21237 投票数 94.20% 93.40% 94.801 91.30% 92.601 92.30% 94.70% 94.00% 96.50' 93.909 上記は高砂市役所か ら得た昭和

29年

年の教育委員会選挙の情報をもとに制作 したのである が、総投票率が

93%以

上を記録 し、地区によつては

95%を

上回るとい うとてつ もない数字 を記録 している。この記録は昭和

27年

に全国の市町村で行われた教育委員選挙の最高投票 率であつた山形県の

87%を

大きく上回つている。全国平均

61%で

あつた ことを考えると、 異常な投票率の高 さと言える。高い投票率を記録 した理由としては、 ①選挙活動が充実 していたこと。

②市が合併するという非常に身近な出来事があつた為に否が応でも関心度が高揚したこと。

44『

神戸新聞』

1954年

7月 29日

45『

昭和

29年

度高砂市事務報告書』

(高

砂市役所所管課所蔵

)。 17

(18)

③7月 29日 の教育委員、議会委員、市長の選挙が同時に行われた こと。 以上の三点が挙げられ る。 ②のような特殊な状況下における高砂市の教育委員選挙であつたが、注 目すべきは① と③ である。 ① のように事前の選挙活動が活発に行われ、住民の関心度を引くことが出来たならば、投 票率は高い水準で保たれることを示 して くれている。高砂市の教育委員選挙は、宣伝活動 不足によつて住民の関心を引き付けられなかつた昭和

27年

の全国一斉に行われた市長村教 育委員選挙の問題 を一つ、克服 したのである。宣伝活動が十分な らば、公選制 は多 くの住 民の意見を反映 し、 しつか りと機能す る制度なのである。 ③のように二つの選挙を同時に行 うことで、新聞な どの報道 も大きくな り、教育委員選挙 のみにはあま り関心は無 くとも、同 じ会場で、市長、市議会議員の投票 も行 うので、必然 的に投票率は向上するだろ う。以上、①、③は公選制を高水準で維持す るための一つの方 法であると言える。

2-3

教育委員会選挙立候補者について 教育委員選挙の投票率は本当に素晴 らしい数字 を記録 した高砂市であるが、その立候補 者は どういつた人物がたて られたのだろ うか。下記は昭和

29年

7月 29日 に行われた高砂 市教育委員選挙の立候補者名、所属党、得票数、当落の有無 を示 したものである。候補者 を順に説明す る。 教育委員会委 員選挙

①加古喜市

昭和27年、旧曽根町の教育委員である。

②植杉安夫

昭和 29年

3月 30日

伊保村議会会議酔

7の

出席議員として掲載されており、

旧伊保村の教育委員長である。

③小谷二郎

社会党右派、昭和27年、旧高砂町教育委員長である。

④砂原亀次郎

昭和27年 旧荒井村教育委員であり、旧荒井村議会議員も務めている。

⑤田中泰三

昭和

29年

3月 30日

伊保村議会会議黎

3の

出席議員として掲載されている。

46前

掲注釈 (46)と同亀

47『

高砂市史 第二巻第五章 戦後の改革 と高砂市の誕生』平成

26年

698頁

48同上。

(19)

⑥内海周治 昭和

29年

3月 30日 、荒井村議会会議録つの出席議員 として掲載 されている。 選挙による当選者は

4名

で、党派の内訳は無党派が3名、 日本社会党が1名、そこに松本 悦蔵市議会議員を加 えた

5名

で高砂市教育委員はスター トした。松本悦蔵 は教育委員会法 第

7条

(委員

)3項

「委員の うち一人は、当該地方公共団体の議会の議員の うちか ら、議会 において、これを選挙する」に則 り、8月 12日 、議会選出の教育委員選挙が議員内で行わ れ、

17票

を獲得 している。教育委員長は曽根町の議会議員であつた松本悦蔵が務め、副委 員長には内海周治が就いた。教育長は事務局の中か ら、かねてか ら「高砂市教委機構決ま る 初代教育長に中村氏有力」厠とあるよ うに、中村八十二が就いた。 当選者の中で最 も多 くの獲得票数 を得たのは 日本社会党か らの小谷二郎であつた。二番 手の内海周治におよそ

1500票

もの大差をつけての当選であつた。なぜ、これほ どまでに大 差 をつけての当選を果たす ことが出来たのか とい うと、小谷氏 自身の仁徳はもちろんのこ と、彼を後押 ししていた労働団体の働 きが大きいと考えられ る。 「東播労働組合連合会翼下の高砂荒井地協

=組

合員六千名

=で

は二十五 日午後一時か ら 高砂町東労連事務所で加入十一単組代表が集ま り高砂市の市長、市会議員、市教委の同 時選挙の対策 を講 じるため協議 した。(略

)選

挙対策の方針 として 「地方 自治体の民主化 のため積極的に候補を出 して闘 う」ことを申し合わせた。(引用者が句読点を加筆

)候

補 の選挙基準 として①東労連の方針な らびに議決 を推進す る者②保守系お よび共産党員で ない者―としている。また具体的な当面の対策 として①各単組 ごとに選挙人名簿を早急 に作成す る②単組の選挙対策は地協対策委員会 と連絡 を密にす ること③推薦候補につい ては対策委員会において地盤協定を行 う④各単組は対策委員会の対策にそつて強力な選 挙闘争を行 う一の四項 目を取 り決めた。」51 上記の記事の通 り、社会党支持の大きな労働団体が しつか りとした選挙活動や支援を した ことが明 らか となつている。 これは小谷にとつては大 きな力になったことは言 うまでもな いだろ う。 この高砂市にお ける教育委員選挙によって見えて くることは二つある。第一に、立候補 者は全て、各地域の議会議員や教育委員経験者、つま り有力者であった、 とい うことであ る。 これはある程度仕方のない ことであるが、公選制か ら任命制に移行す る理 由の一つ と して、文部省側は地方の有力者 ばか りが立候補 し、一般市民か らの立候補者が出にくい環 境 を作つている、 とい う旨を述べてお り、今回の高砂市の選挙でもそれは当てはまった状 況である。第二に、社会党支持の巨大な労働団体が選挙に大きな影響をおよぼす、 とい う 49同上。

706頁

Ю『 神戸新聞』昭和

29年

51『

神戸新聞』昭和29年、

日 日 6 7 2 2 月 月 6 6 19

(20)

ことである。初代高砂市長 となる中須義男が「四か町村の合併は二十年来の懸案であった。 古い歴史を持つ町村が新 しい市 として誕生す るが、名 目だけの市ではな く、充実 した工業 都市、田園文化都市になるよ う努力 したい」52と高砂市誕生の際に述べた通 り、高砂市は、 工場地帯であるため、労働団体の力が強いことは当然であつた。中須市長 も労働団体に対 す る姿勢は宥和であつた。高砂市においては、市議会議員選挙においても社会党か ら

5名

が出馬 し

4名

が当選 してお り、労働団体の選挙政策によつて、教育委員選挙を非常に有利 に進めることも可能であ り、公選制に対す るマイナスポイ ン トとして投げかけられた 「選 挙によつて教育委員の半数 を特定政党で占めて しま うこと」が高砂市では起 こり得 る状況 であつた とも言える。 しか し、か と言つて、高砂市で行われた教育委員選挙が失敗であつ た といえば、そ うではない。確かに、公選制による特定政党の委員独 占の可能性は多少感 じるが、

90%以

上の民意 を反映 した事実を考慮すれば、今回の公選制は間違いなく成功 し たのである。 第二節 米国統合 と教育委員の任命制への移行

3-1

米田町の分町統合 昭和

29年

より高砂市は誕生 したわけであるが、現在、高砂市に含まれている米 田町はそ れまで単体の 自治体であった。加古川市 と高砂市の両市による分町は「どこを境にするか」 とい う問題で高砂市発足当時か ら話 し合いがなされていたのであった。分町には多 くの上 地的な問題 も多かつたが、教育の行政区画の問題 も抱えていた。 大方の市町村教育委員会の職務遂行体制は弱体で、職務遂行能力低 く、地方教育行政の 責任機関としての役割 を十分に果た しているとはいえない。その基本的な原因は、設置 単位が人 日の少ない小規模 自治体であるために、十分な職務遂行体制 を整備するに足る 財政力をもたないことにある。そこで、市町村教委の

1952(昭

27)年

の全面設置当初 よ り、職務遂行体制 を強化・充実 して遂行能力 を高めるための、 さまざまな工夫や試み が行われてきた。その主な方式は、教育委員会の設置単位 の規模 を拡大 して地方教育委 行政の区域を広域化す ることや、それぞれの教育委員会の事務を一括 して共同で処理す ることである。53 このように、堀内は当初か ら弱体であつた市町村教育委員会の問題点を指摘 してお り、そ の具体的な対策法 として、市町村の合併や教育委員会の共同設置を挙げている。昭和

28年

に 「町村合併促進法」が施行 され、地教行法施行や、「新市町村建設促進法」も施行 された 52『

神戸新聞』

1954年

7月 1日

53堀

内孜『地方分権と教育委員会制度』ぎょうせい、平成

12年

207頁

(21)

昭和

31年

に米田町の分町問題が進行 した。 二十七 日夜、県町村合併審議会は、地元米 田町長およびカロ古川、高砂市の市長、市会生 副議長および合併委員会 を招 き、徹夜で同町の分町境界線 を協議 した結果、県審議会か ら「米国町の うち船頭、平津は加古川市へ、その他は高砂市へ合併」の裁案が下された。 54 分町に際 して、兵庫県か ら裁定案が出 されてお り、その内容には、「米田町内における幼稚 園、小学校、中学校その他組合員立による公共施設は高砂、加古川両市の組合員立 として 継続す ること。」 とい う要項が含 まれてお り、高砂市 としては受 け入れ られない点 もある。 裁定書よ りも議会 の議決が法的に先行す るとの意見などもあつて、結論は出なかつたので、 市長、議長 らの合併委員は裁定書を上県 している。 高砂市合併協議会は28日 につづいて29日午前

9時

か ら開かれ、県が印南郡米田町に示 した合併裁定書の議案を行つた。会議は前夜 と同様字句の解釈について議論が自熱 した が、結局米田町議会の態度 をまつ こととし、(略)「裁定案には多分に矛盾がみ られ、高 砂市 としては不満ではあるが現情勢ではやむを得ない」 と満場一致で可決、ただちに県 へ報告 した。(略

)印

南郡米 田町は加古川、高砂市にそれぞれ分町合併す ることになった が、国鉄山陽線宝殿駅前の平津住民か ら「地 目変更 して高砂市合併を認 めて欲 しい」 と

29日

120人

の署名をそえて県に陳情書を提出 した。宝殿駅前の居住者は平津地区とし て加古川市 と合併す ることになつているが、地形上南北を高砂市には さまれた突端で、 こん ご (ママ

)の

生活上非常な困難 を伴 うので、平津の駅前地区を米 田部落へ地 目変更 して高砂市合併をさせてほ しい とい うもの

(55

このよ うに米田町の各地でも立地などの面か ら、加古り│1市、高砂市の どちらに合併 され る かは極めで重要なことであったが、結局は同年 9月 30日 、船頭、平津は加古川市へ統合 さ れ、米田、米 田新、古新、塩市、島、神爪は高砂市に統合 され、現在の高砂市の形 となっ た。

3-2

公選制か ら任命制に 昭和

29年

の教育委員選挙は投票率 とい う点においては大成功をな した。では、その後の 地教行法制定による、公選制か ら任命制への変更に際 して、選出された教育委員会のメン バーは どのようになつていったのか。

秘『神戸新聞』

昭和

31年

9月 29日

55『

神戸新聞』

昭和

31年

9月 30日

21

(22)

昭和

29年

公選制時の教育委員 植 杉 安夫 29.7.30 31.9.30 加 古 喜 市 29.7.30 31.9.30 松 本悦蔵 (委員 長) 29.7.30 ∼ 30,7.31 井上甚二郎 30.8.1. ∼ 31.9.30 小 谷 二郎 29.7.30 31.9.30 内海 周 治 29。7.30 ∼ 31,9,30 30.8.1-31.9,30 (委員長) 昭和

31年

地教行 法施行 任命 制 北 野 直次 31.10.25 ∼ 32.10.24 豊 岡至道 (委員 長) 31.10.1 ∼ 35。9。30 山本 清 次 31.10.1 ∼ 33.6.13 児 玉道夫

31.10.25-34.

10.24 ' 野村晋 亮 (教育 長) 31.10.1 ∼ 35.5.25 教育委員の任命者は、高砂市の初代市長は前高砂町の町長であつた中須義男である。中須 は、高砂市合併に積極的に取 り組んだ人物であ り、優勢に選挙 を進めた。教育長 と教育委 員長 については混同されやすいが、教育長は教育委員会法第

41条

42条

57によ り、教育委 員長については第

33条

"34条

59による。地教行法では、第

16条

60で教育長について、第

12条

61で教育委員長について規定 されている。教育行政の トップが教育委員長であ り、執

56教

育委員会法第

41条

教育委員会に、教育長を置 く。

2項

教育長は、別に教育職員 の免許に関 して規定す る法律の定める教育職員の免許状 を有す る者の うちか ら、教育委員会が、これ を任命する。

3項

教育長の任期は、四年 とす る。但 し、再任す ることができる。

57教

育委員会法第

42条

教育長は、教育委員会の指揮監督を受け、教育委員会の処理す る すべての教育事務 をつかさどる。 田 教育委員会法第

33条

教育委員会は、委員の うちか ら委員長及び副委員長各一名 を選挙 しなければならない。

2項

委員長及び副委員長の任期は、一年 とす る。但 し、再選 されることができる。

3項

委員長は、教育委員会の会議を主宰す る。

4項

副委員長は、委員長を助け、委員長に事故があるとき又は委員長が欠 けた ときに は、その職務を行 う。

59教

育委員会法第

34条

教育委員会の会議は、委員長が、これを招集する。

60地

方教育行政の組織及び運営に関す る法律 (以下地教行法

)第

16条

教育委員会に、教 育長 を置 く。

2項

教育長は第

6条

(兼職禁止

)の

規定にかかわらず、当該教育委員会の委員 (委員 長を除 く

)で

ある者の うちか ら、教育委員会が任命する。

61地

教行法第

12条

教育委員会は、委員 (教育長を除く

)の

うちか ら、委員長を選挙 しな ければならない。

2項

委員長の任期 は一年 とする。ただ し、再選 されることができる。

参照

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