天治本新撰字鏡と法隆寺一
一
、
天治本
﹁
新撰字鏡
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と
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法隆寺一切経﹄との関係について
現存最古の漢和字書﹃新撰字鏡﹄の今日までの研究成果をふりか えってみると、まず、所収の和訓の年代的新古の問題を取り上げる という語象論 ・ 語禁史の立場からの研究が 、 早くに行なわれた。ま た 、 その和訓を表記している万葉仮名遣の問題を 、 音韻論 ・ 用字法 の立場から研究するという傾向が 、 近年 、 特に目立っている。さら に 、 ﹃新撰字鏡﹄の成立に関わる問題を解明すべく 、 ﹃ 玄 応 一 切経音 義 ﹄ ﹃ 玉 篇 ﹄ ﹃ 切 韻 ﹄ や 、 その他私記類を取り上げ 、 比較対校した出 典論の立場からの研究も着実に成果を上げている。 と と ろ が 、 ζ れらの研究の基礎となる 十 二巻本﹃新撰字鏡﹄の唯切経の書誌学的研究
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一の古写本である天治本﹃新撰字鏡﹄(以下 、 天治本と略す)その ものの本文校訂や書誌学的研究は 、 乙れまでほとんど行なわれるこ とがなかった。た だ 、 そ の 中 で 、 特に天治本の書写者の問題に絞っ て 論 じ た 田 中 論文 ( 二 、 天治本﹃新撰字鏡﹄について第 二 節で詳 述 ) の 存 在 は 、 非 常 に 大 き い と 一 一 一 守 え る 。 と の 、 天治本の書写者の問題を解明することは 、 右に述べたよう に、天治本の書誌学的研究が 、 等関視されてきた と いう点を考慮す れ ば 、 今後 、 天治本の書写成立過程を究明し 、 ま た 、 その本文校訂 の問題を追究していく上で 、 重要な意味を持つのではないだろう ふ μ さて、本稿において 、 天治本の書写者をいかに解明していくかに ついて、その概略を説明しておく。まず 、 天 治 本巻第 一 の奥書を左 に 掲 げ る 。 ウ t新
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右に掲げた奥書のうち 、 経 印 ・ 天治本の奥書より見た﹃法隆寺一 切経﹄との関係・書写者名のご一点に着目する乙とを出発点とし 、 天 治本と﹃法隆寺一切経﹄両者の関係について以下の様に考察してみ る こ と に す る 。 A 一 ・ 経 印 V 天治本が縮小印刷されているために 、 ﹃ 法 隆 寺 一 切 経 ﹄ 分 の 一 に縮小したものを掲げた。(図①参照) も 、 約 二 会 一 ・ 天治本の奥書より見た法隆寺 一 切経との関係 V ︿ 天 治 本 ﹀
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巻第 一 天 治 一 元 年 間 五 月 下 旬 書 窯 之 皐 制闘剖↓ J 切劃劃期割削剥割剖諸人各一巻書寓之中 此巻是五師静因之分以援筆所 寓 耳O
巻 第 二 天治元年問五月二日間書官吋畢法隆矧一切 経音義料 也為自他法界平 等利益勧進僧林幸O
巻第五 天治元年四月廿九﹄為令法久住法隆寺一切経蔵料書官珂執筆僧 覚厳之O
巻第七 天治元骨一蹴五月十九日交了法隆寺一切経勧進沙門 同寺僧五師大法師琳幸結縁 書寓寺僧静尋 廻向元土井O
巻第八 天治元年肝四月廿六日書寓畢為弘法利生結縁助成敬白執筆僧 隆退 出働制判↓倒樹割判満寺翠文輩各一巻書之O
巻第九 天治元年間四月廿七日岬巳魁書局巳畢 法 隆 盛 e文寺為一切経之音義嘗寺諸僧 各一巻書之 A 1 此巻同寺僧究印書之 - 73一O
巻第十二 天治元年問五月十白書寓了法隆寺一切経論料也 会 一 ・ 書写者名 V ︿ 天 治 本 ﹀O
巻 第 一 ・ : 静因 。巻第二・:林幸O
巻第五:覚厳O
巻第七:静尋O
巻第八:隆還O
巻第 九 ・ ・ 覚 印図
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(巻第六)
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巻第 十 ・ : 応順 ︿ 法 隆 寺 一 切 経 ﹀O
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4 A : ・ 大 賓 積 経 巻 第 九 十 二 永 久 三 年 党 胤 B ・:根本説一切有部毘奈耶雑事巻第二 十 八 保 安 四 年 覚 長 C : 摩詞般若波羅蜜極恕拘舎羅道行経勧助品第四巻第三 天 治 元 年 良 祐 D -聡伽師地論 巻第三十 天治二年 行住B
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か行・:快円・快与・覚允・閣刑・覚胤・覚賀・閣閥・覚春・ 覚長・覚益(薬師 寺 ) ・ 覚 俊 ( 薬 師 寺 ) ・ 観 寂 ・ 久 仁 ・ 経真・経選・経与・慶舜・皮深・見円・兼仁・兼忍・ 兼与・厳意・厳雅・厳賀・厳海(飛仙道者)・厳足(興 福寺)・厳舜・行教・行住・行逗 さ行・慈炭・実運・尺海・重賀・ 呑 珍・俊憲・勝賢・浄遷・ 浄尊・静因・静快・静尋・尋因・尋応・尋 海 ・ 尋 覚 ・ 尋玄・信耀・真与・仁勝・性意・性厳・正円(三井 寺)・正春・清寂・清珍・清曜・選快・還尊・宗信・ 尊珍 た行:・泰範・滋証・智印・智賢・智厳・智仁・朝順・長覚・ 長順・珍久(薬師寺)・定快・定観・定舜・道海・道 寂・徳厳 な行 ・ ・ ・ 念 寂 は 行 ・ : 範 雅 ・ 範 勝 ・ 範 禅 ・ 弁 海 ま 行 : ・ 明 行 ・ 明 奥 や 行 ・ ・ ・ 与 清 ら行・:頼円・頼度・頼憲・頼助・頼文・頼祐・幽嵐・良円・ 良勝・良能・良祐・林覚・州割・林容・林勝・林智・ 琳 範。
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以上、天治本 巻 第一の奥書から着目すべき三点を取り上げて、天 治本と﹃法隆寺一切経﹄両者の関係について概観してみたが、 A 一 -経 印 V においては、経印内の文 字 の比較を行なってみると、両資 料 と も 、 す べ て の 文 字 が 同 一 で あ る ( ( 法 ) : ・ 芳 の 下 部 ︿ ゑ ﹀ ・ ( 寺 ) :・六画自の位置︿す﹀、および、右上がりである字体の傾き・(ご : ・ 筆 の 入 れ 方 、 お よ び 、 筆 の 止 め 方 八 円 ﹀ ・ ( 隆 ・ 切 ・ 経 ﹀ ・ : 偏 、 お よび、芳の字体)乙とがわかる。また、 A 一了天治本の奥書より見 た法隆寺一切経との関係 V に お い て は 、 ﹁ 法 隆 寺 一 切 経 書 寓 之 次 ・ : ﹂ ( 巻 第 一 ) 、 ﹁ ・ ・ 法 隆 寺 一 切 経 蔵 料 書 湾 ・ : ﹂ ( 巻 第 五 ) と い っ た 奥 書 か らして、﹃法隆寺一切経﹄の 書 写作業の中で、天治本も書写された 乙とが明らかである。さらに、会了書写者名 V においては、天治 本を書写した人物が、﹃法隆寺一切経﹄の書写者一覧中に全員含ま れているように、彼らが﹃法隆寺一切経﹄の書写作業κ
深 く 関 わ っ ている(︿法隆寺一切経﹀の│線部分参照)乙とが明らかとなった。 すなわち、以上の三点から、天治本と﹃法隆寺一切経﹄との聞に は、密接な関係があることがわかる。よって、本稿において、天治 本の書写者不明箇所を追究していくための手がかりとして、﹃法隆 寺一切経﹄を天治本と対校させる理由は、まさに、乙こにあると言 ・ え ヲ h v o しかし、単に、天治本を﹃法隆寺一切経﹄と対校させるといって 注① も、﹃法隆寺一切経﹄は、長和年聞から嘉慶年閉までの約三百七十 年間という長い年月をかけて書写され、約七千一百巻という莫大な 巻数からなるものであるから、それらすべてについて対校しても意 味がないのは当然であろう。そこで、本稿で扱う﹃法隆寺一切経﹄ については、その書写年代を、天治本が書写されたと 言 われる天治年聞に絞って 、 天治本と比較対校し 、 天治本の書写者を解明してい くととにする。なお、本稿が、天治本と対校させる﹃法隆寺一切 経 ﹄ は 、 す べ て 、大 谷大学図書館所蔵のもの(以下 、 谷 大 本 と 略 す ﹀ を用いた。との谷大本の詳細については 、 ︹ 一 二 、 ﹃ 法 隆 寺 一 切 経 ﹄ に つ い て ︺ の 第 二 ・ 三 節 で 述 べ る こ と に す る 。
一
一
、
天治本
﹁
新提字鏡
﹄
について
第 一 節 総 記 援者は 、 南都法相宗系の学僧であったとされている昌住。最初、 寛平四年(八九二)に、﹃玄応一切経音義﹄を主体として三巻本を 編集したが、後の昌泰年間(八九八t
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一 ) に 、 ﹃ 玉 篇 ﹄ ﹃ 切 韻 ﹄ および私記類を吸収して、現存する十二巻本へと増補改定され 、 都 合二度の編纂が行なわれた。現存するものは、完本と抄本の二種 で 、 前者は、天治元年(一一二四)五月に 、 法隆寺にて書写された 十 二 巻本系統のもので 、 後者は、室町時代頃に 、 完本系から和訓の ある文字だけを抄録したものであるが、これには、享和三年(一八O
三)正月刊本(日享和本)と、﹃群書類従﹄所収本(
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群書類従 本)とがある。以下、本稿が問題とする前者 、 完本系天治本の体裁 について述べていく乙とにする。 様出字数は約二万九百三十余字で、そのうち約 一 万 六千三百余字 に つ き 、 偏 ・ 芳で分類され 、 各字に反切・漢字による意義注がつけ られている。また、なかに、真仮名で示す和音が約七十例 、和 訓 が 約三千七百条補入されており 、と の和音 ・ 和訓の存在が、﹃新撰字 鏡﹄が現存最古の大規模な漢和字書と言われる所以であるとされて いる。との他に、特別な異体字(︿例﹀群│翠l
豪)や、国字(和 製 漢 字 ) ( ︿ 例 ﹀ 榊 、 拘 、剣) が収められている。﹃新撰字鏡﹄が日 本語資料として重要な意味をもっ和訓に関しては 、 ﹃ 文 選 ﹄ ﹃ 遊 仙 窟﹄の傍訓や 、 ﹃日本霊異記﹄の訓釈を取り入れたかと恩われる箇 所が見られるととがわかる。一方、乙の和訓を付したのは、例え ば 、 巻第十の三丁裏にある﹁恒﹂という文字に着目してみると、 ﹃ 象 隷 万 象 名 義 ﹄ に は 、 ﹁ 於汲反歎息 ・ 不 安 ﹂ と あ る が 、 ﹃ 新 撰 字 鏡 ﹄ では、両訓注ともとっておらず 、 特 に 、 ﹃ 家 隷 万 象 名 義 ﹄ の ﹁歎 息 ﹂ と、﹃新撰字鏡﹄の﹁伊太弥奈介久﹂とを照会してみると、﹃新撰字 鏡﹄は、﹃玉篇﹄にあった ﹁ 歎息﹂を、和訓 ﹁ 伊 太弥奈介久﹂によ って代用させたという乙とが推測され、今、わずか一例だが、も し、全和訓にこのようなことが適用できれば 、 撰者、昌住自身であ るという可能性も高いと考えられる。さらに、右記の点を補強する 根拠として、それらの和訓表記に用いられた真仮名(万葉仮名) は 、 上 代特殊仮名遣が大部分失われているものの 、 ﹁ コ ﹂ の 仮 名 に 限って甲乙二類の使い分けがなされている。乙ういった現象が生じ 注② たのは、平安初期頃までである点と、﹃新撰字鏡﹄の成立した寛平 や昌泰という年代を考え合わせても、和訓を付したのは 、 援者 、 昌 住自身であるというととが首肯されよう。 ﹃新撰字鏡﹄全体の体裁は、百六十部の部首分類体の字形引字書 であるが、大局的には、天(日・月 ・ 肉 ・ 雨 ・ 風 部 な ど ﹀ ・ 人 事 - 77ー( 父 ・ 親 族 ・ 身 ・ 頁 ・ 面部など ) ・自然動植物(山 ・ 谷・玉・田部な ど)の三大区分 の 順 序で成り立っている。とうした意味分類の排列 は、﹃新撰字鏡﹄の特色の一つで 、 後 の 、 ﹃ 倭名類衆抄﹄﹃世尊寺本 字鏡﹄﹃字鏡集﹄に大きな影響を与えている。 とうして﹃ 新撰字鏡﹄は 、 我が国の字書史において 、 重要な 位 置 を占めるも の となった の だが、鎌倉時代 の 弘 安末年頃( 一 二 八七年 頃)に成ったとされる﹃本朝書籍目録﹄には 、 当字書の名が見られ ず 、 ま た 、 本居宣 長 が 、 ﹃ 玉 か つ ま ﹄ に 、 新撰字鏡は 、 利寸引制阿川引判制判剖剖引
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削叶めづらしく 近 きころ出て 、 古へ学びするともは、あまねく用ふるを、あつ めたる人の 、 ったなかり け む ほ ど 、 序の文のいと拙きにてしる く 、 すべてしるせるやう 、 い と も い と も 心 得 ぬ 書 也 。 と 書いているように 、 成 立後間もなく世 に知られなくなったのかと 考えられる。しかし、院政時代の僧心 覚 ( 一 一 一 七 J 一 一 八O
)
の ﹃鶏珠紗﹄七巻には、当字書の引用が見 られ 、字書を日常よく使っ ている者には流布していたのではないかということもかいま見 る と と が で き る 。 第二節田中論文の紹介 近年の﹃新 撰字鋭﹄の研究の傾向に関して 、 ﹃新撰字鋭﹄の内容 そのものの研究、すなわち 、 所収の和 訓を取り 上げた 語集論的研究 ゃ 、 出 血 ( 論 的 研 究 は 、 多 く 行 な わ れ て い る が 、本文校訂や 書写者に 関する書誌学的研究は 、 ほとんど行なわれていないということを、 先 の ︹ て 天 治本﹃新撰字鏡﹄と ﹃ 法隆寺 一 切経﹄との関係に つ い て ︺ の中で触れたが 、 本節では 、 数少ない書誌学的研究の分野にお い て 、 大きな存在意義を持つと恩われ る 田中論文 を紹介しておく こ と に す る 。 乙 の田中論 文とは 、 ﹁ 天 治本﹃新撰字鏡 ﹄ 書 写 者の検討﹂と い う 題名で 、 昭和五十 八年度の大阪 樟蔭女子 大学国文 学科卒業論文 と し て、田中千 賀さん に よ っ て 書 か れ 、 後 、国語学会中四国 支部第二 十 九回大会 で発表されたものであり 、 天治本 全十二巻のう ち 、 奥 書 の ない巻(巻第三 ・ 六 ・ 十 一 ) 、および 、 奥書があっても 名 前 が 書 か れていない巻( 巻第 四 ・ 十 一 一 ) の 、 書 写者が不 明 な 五 巻 の 書 写者検 討 が 行 な わ れ て い る 。 こ の田中論文で は 、 まず 、 ﹁ 也 ﹂ 、 ﹁ 第 ﹂といった 各巻において頻 出度の比較的 高 い文字を各巻毎に抽出し、比較する乙とにより、書 写者不明の 各 巻 に は複数の書写者の手が存在することを明確に し て いる。そして 論中に おいて 、 書写者が判明 し た い くつかの箇所を列 挙すると、左記のようになる。 ①書写者のわかっている巻第五と、書写者の不明な 巻第 十 一 と を ﹁ 也 ﹂ 、 ﹁ 第 ﹂ 、さ ら に 、 ﹁ 反 ﹂ な ど と いった文字を手がかりに 比較するととにより 、 巻第十一内部に巻第 五と同 筆の箇所 が存 在する。その書写者は 、 巻第五の 書 写者 、 すなわち 、 覚厳で あ る 。 ② 巻 第 十 一 の 四十二丁表(七一九 ) か ら は じ ま る 経 文 、 ﹁ 不 空 親索神呪心経序 ﹂ の 書 写 者 は 、 巻第 十一の三十 六丁表(七O
表 ① 12 11 6 4 I 3 巻 FI E D CI B A 記号書写者
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七 ) から四 十一丁 裏 ( 七 一 八)までに見られるいくつかの種類 の 文 字 と 、乙の﹁不 空絹索神呪心経序 ﹂ 内の文字の比較を行な っ た 結 果 、 ﹁ 不 空 間 相 索 神 呪 心 経 序 ﹂ の直前まで書写 してき た 人 物 、 つ まり 、 巻第十 一 の 三 十六丁 表 ( 七O
七 ) か ら 四 十 一 丁 裏 (七一八)までを担当した書写者 E ( 表 ① 参 照 ) で あ る 。 ③ 巻 第 十 二 の 政文 の書写者は 、 巻 第 二 の 字 形と類似する箇所が 多く見られる と と か ら 、 巻第二の書写者 、 林 幸 で あ る 。 ま た 、 乙れら以外花 、 巻第五 ・ 六 ・ 十一・十二 に見られる追加部 分(各巻の最後に書き加えられて い る も の の こ と 。但 し 、 本文内の 上・下 ・ 左 ・ 右に書き加えられているものは含まない。)に関して も 、 文字を比較するという同じ方法で、書写者の検討が行なわれて い る 。 右に摘記してきた点を総合的にまとめると 、 天治本内部で書写者 がすでに判明し て いる各巻と不明な各巻との相互の比較の結果は 、 田中論文によると、上記の表①のようになる。 以上、田中論文の大筋を紹介したが、その田中論文の存在意 義 の 大ききは 、 すでに述べた通りである。しかし 、 問題点はいくつか存 在する。そのうちの最も大きいもの と し て 、 調査対象を天治本に限 定 し 、 天治本の書写に関わった僧の筆跡を基準にしてしか比較しな かったという ζ と が挙げられる。そのため 、 残された書写 者不明 箇 所 が多すぎるのではないだろうか。 - 79一﹁法隆寺一切経
﹄
について
第 一 節 総 記 一切経とは、経律論の三蔵を中心に名高い僧侶達の著書を収集し た仏教典籍の総集をいう。党語の原典は完全な形をとどめないが、 パ l リ語原典をはじめ、中国語、チベット語、蒙古語、満州諸など の訳本が現存。最も完備し、大部なのは中国語訳で、歴朝にわたっ て翻訳され、唐代に五千四十八巻に定着したが、その後も増補が繰 り返されて、結局、一万一千九百七十巻という大規模なものとなっ た 。 ζ の一切経は、我が固にも、すでに奈良時代には幾種類かのもの がもたらされ、さらに、転写が繰り返された。そのうち、本稿にお いて扱う﹃法隆寺一切経﹄は、今日、法隆寺に伝存されている保安 三 年(一二三)三月廿三日の﹃法隆寺林幸 一 切 経書写勧進状﹄に よれば 、 永久二年( 一 一 一 四 ) の 頃 、 勝賢によって二千七百余巻の 書写が終ったので 、元永 元年(一一一八)十月二日小田原上人教懐 を嘱請して 、 未完のまま一応供養を遂げたが 、 残る四千四百余巻は 五箇年を経た今日猶いまだ手をつけてないので、今年保安三年三月 より始め、都都に勧進し、一紙、一巻の奉加によって太願を遂げた いといっている。ただ、そうした経緯で書写された経典の他に、長 和 元 年 ( 一O
一二)の書写になる﹃十地経論巻第十﹄が大谷大学に 存することから、おそらくこの一切経書写の発願は、永久二年を百 二年ほど淵った長和元年以前とも考えられる。とすると、この書写 は、第一期として、長和元年頃から行なわれはじめ、以後、応徳 ・ 承 徳 ・ 康和・の各年代にわたって少しずつ書写が進められていたよ うである。そして、第二期として、永久二年に 、 勝賢の勧進によっ て行なわれ 、 さらに第三期と し て 、 保安三年に 、 林幸の勧進によっ て 行 な わ れ た と 言 え る 。 ところで、右に述べた書写の笠枠の中に掲げた経典の巻数を見る と、第二期に約二千七百巻、第三期に約四千四百巻の書写が行なわ れたことになる。ということは、計約七千一百巻もの経典が 、法 隆 寺に収められていたのであろう。しかし 、 今日、法隆寺に伝存して 注 ③ い る 、 い わゆる﹃法隆寺一切経﹄は 、 六百六十一巻にすぎない。ま た 、 私に調査したところでは 、 法隆寺以外に所蔵されているものが 百六十八巻あった。よって、現存の﹃法隆寺一切経﹄は、計八百二 十九巻と、当初存したであろうものの、わずか一割強にしか満たな い。さらに、法隆寺に所蔵されているものは 、 重要文化財の指定を 注 ④ 受けており 、 容易に見ることができない状態にある。 第 二 節 田 中 塊 堂 ﹁ 法隆寺一切経目録 ﹄ へ の 批 判 ﹃ 法 隆 寺 一 切経﹄の目録としては 、 田中塊堂氏のものが唯 一 の 存 在である。その目録は、昭和十七年から 十九 年の二ヶ年にわたる法 隆寺古文書整理の際の私記によってまとめられたものである。本稿 を成すにあたって 、 ﹃ 法隆寺 一 切経﹄の所在を確認する作業を行な った中で、二応の目安をつける手助けとはなったが、 内 容的にいくつかの間題点が 存する こ と も わ か っ た 。 そ の問題点のいくつかを挙 げると 、 左 記 の 通 り で あ る 。 ①目録としての整理が不十分なために 、たとえ ば 、 目 録 内 に 一 示 された所蔵者が 、 当該の経典のどの 範 囲のものを所蔵している かが明確に示されていない。 ②目録内に誤字が多すぎる。たとえば 、 所蔵者名 ﹁ 山田 文 昭 ﹂ を 、 3 すべて﹁山田文郁﹂と誤ってい るなどが それであ る。とう した誤字が存すると、目録中に掲げられた経典名や奥 書に対 し て も 不 安 が 残 る 。 こ のような初歩的な問題点が存するこ主により 、 乙 の目録への信 頼度が半減してしまう。そうした初歩的問題にとどまらず、私が独 自に﹃法隆寺一切経﹄の所在を調査したと乙ろ 、 法隆寺以外に所蔵 されているものとして、乙の目録に掲 載され て い な い も の を 、 大 量 花見つけ出すことができた(次 節参照 ) 。そのうちの最多の所蔵者 は 、 大谷大学図 書館である。目録には 、わずか七巻しか存しないよ うになっているが、実 際には 、 八 十 巻も所蔵されていたのである。 ま た 、 目録に掲載されていない所蔵者としては 、 ﹁ 谷村文庫(京大 図書館 ) ﹂ ﹁ 守 屋 孝 蔵 ﹂ ﹁ 島 田 蕃根﹂等々がある。こうした点を考え る と 、 と の目録が、いかに粗雑なものであ渇かがわかる。よって 、 現在 、 法隆寺に所蔵されているものが調査できないので 、 とりあえ ず、私独自で調査した範囲のものを次節に掲げ、今後の研究 の一助 と し た い 。 第三節法隆寺旧蔵 一 切経所蔵 者について 木節で列挙 していく法隆 寺旧蔵 一 切経所蔵者は 、 昭和六十 三 年度 に作成した卒 業論 文(本稿と問 題 ) に掲載 するために、昭和 六 十 二 年 十 月から十二月までの三ヶ月間調査を 行なった結 果 、 得られ た も の で あ る 。 A 凡例 V 一掲載順は 、 ま ず 、 所蔵者を︿﹀で阻み 、 その後 、 経典名 ・ 書写年 ・ 書 写者名を一項として列挙した。 二 通し番号を
O
で囲んだものは 、田中 塊堂﹃法隆寺一切経目 録﹄に掲載されているものであ る 。 三以下に列挙する各経典は 、 左記の諸書 によって所 在を確認 し た も の で あ る 。 - 81 -腕鳥文庫仏教関係図書目録金沢大学図書館編昭和 三 大 年 三月 ・ 越後無為信寺不争宝蔵目録大谷大学図書館 -真福寺善本目録(本 ・ 続 ) 黒 板 勝 美 編 ・ 刊 昭 和 十t
十 一 年 ・ 真 福 寺 善 本 集 影 大 阪 府 立 図 書 館 編 昭 和 十 年 -薬 師 寺 経 蔵 目 録 薬 師 寺 編 昭 和 手 八 年 ・ 安田文庫古経清嬰︿上中下三 巻 ﹀ 石田茂 作編 昭 和 二 十 七 年 龍谷大 学図書館編昭和十年 龍谷大学図書館編昭和七年 龍谷大学図書館編昭和十一年 -龍谷大学和漢書分類目録 -龍谷大学図 書 館貴重書目録 . 龍谷大学図 書 館善本目録-弘文荘善本目録 ・ 尊経閣文 庫 漢籍分類目録 -住吉大社御文庫貴重図書目録 . 松尾大社社蔵文書目録 -早稲田大学図書館和漢図書分類目録(九冊のうち三冊) . 法隆寺宝物考詮 ・ 大谷大学図書館和漢書分類目録(一、 t 三)大谷大学図書館編 ・ 古経題政︿解題叢 書 ﹀ 鵜 飼 徹 定 締 録 大 正 五 年 -続 古 経 題 政 ︿ 解 題 叢 書 ﹀ 鵜 飼 徹 定 輯 録 大 正 五 年 ・ 訳 場 列 位 ︿ 解 題 叢 書 ﹀ 鵜 飼 徹 定 輯 録 大 正 五 年 ・ 古局経 綜 堅 田 中 塊 堂 著 昭 和 十 七 年 -日 本 寓 経 綜 堅 田 中 塊 堂 著 三 明 社 昭 和 二 十 八 年 八 月 ・ 日 本 古 寓 経 現 存 目 録 田 中 塊 堂 編 思 文 閣 昭 和 田 大 年 七 月 ・ 静嘉堂文庫国書分類目録(二七一
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四 八 四 ペ ー ジ ) 静 嘉 堂 文 庫 編 昭 和 士 一年 ・ 華 頂 山 古 経 目 録 知 恩 院 編 大 正 十 四 年 ・ 守屋コレクション震翰古経目録 京都国立博物館編昭和二十九年 京都国立博物館編昭和三十九年 文華堂書庖 -守屋孝蔵蒐集古経図録 . 大蔵会展観目録 ・ 昭和現存天台書籍綜合目録 -平 安 遺 文 題 践 編 竹 内 理 三 編 東 京 堂 出 版 昭 和 四 十 三 年 -石井積翠軒文庫善本書白 川 瀬一馬編臨川書庖昭和五十六年五月 -不空庵常住古紗奮葉録 ・ 重要文化財( m
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︿ 大 谷 大 学 ﹀ ・ 古経帖 -古写経集 ・ 古 写 経 車 内 英 帖 -開元釈教録巻第十九 ②貞元新定釈教目録巻第一 ③貞元新定釈教目録巻第七 ④貞元新定釈教目録巻第十六 ⑤貞元新定釈教目録巻第二十四 ⑤貞元新定釈教目録巻第二十九 ⑦貞元新定釈教目録巻 第 二十九 ③貞元新定釈教目録巻第三十 9 貞 元 釈 教 録 残 欠 叩大周刊 定 衆 経 目 録 巻 第 七 日 大周刊定衆経目録巻第十三 ロ 大 唐 内 典 録 巻 第 九 日 阿 育 王 伝 巻 第 九 H 弘 明 集 巻 第 八 日長阿 合 経 巻 第 五 日 雑 阿 合 経 巻 第 九 松田福一郎編 毎日新聞社刊 大治二年 大治三年 大治四年 大治四年 永久二年 康和二年 永久三年 永久二年 永久四年 永久五年 大治二年 大治二年 昭 和 十 八 年 一 月 昭 和 E 十 一 年九月 隆 隆 林 返 還 勝 慈 林 林 静 林 慶 幸 幸 因 幸 清曜 覚 春げ別 訳 雑 阿 合 経 巻 第 八
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四 阿 合 暮 抄 解 巻 上 四 央 掘 魔 羅 経 巻 第 一 却仏 本 行 集 経 巻 第 十 幻 仏本行集経 巻 第 四十八 幻摩詞般若 波 羅 蜜 経 巻 第 二十二 幻摩詞 般 若 波 羅 蜜 経 巻 第 三 十 二 , M 光讃経 巻第四 お 勝 天 王 般 若 波 羅 蜜 経 巻 第 四 永 久 四 年 お仏 説濡首菩薩無 上 清 浄 分 衛 経 巻 上 幻 大 明 度 無 極 経 巻 第 四 お摩詞般若 波羅蜜温恕 拘舎 羅道行経勧助品第四 天治元 年 永 久 二 年 永久三年 天治二年 却正 法 華 経 巻 第 十 九 却 大方広仏華厳経修慈分 幻 大 方 広 仏 華 厳 経 巻 第 十 四 辺 大 賓 積 経 巻 第 十 六 お大賓積経 巻第四 十七 出大賢 積 経 巻 第 九 十 二 お大賓 積 経 巻 第 百 十 一 % 護国主ロ薩所閉経巻上 幻仏説 草口薩蔵経巻 中 お大 般 浬 奨 経 巻 第 三 十 永久三年 永 久 元年 頼 林 文 智 羽大方 等大集月蔵経 必賓女 経 巻 下 必阿 蒋達龍王経 巻上 位 首 拐 厳 三 昧 経 巻 中 円 相 大樹緊那 羅王 所 間 経 巻 第 一 H H 仏説超日明 三 昧 経 巻 下 日 制 仏 説等御諸法経 必那先 比 丘 経 巻 下 円 引 仏 説 仏 名 経 巻 第 七 ⑬金光 明 経 巻 第 二 川 日 蘇 悉 地 潟 羅 経 略 疏 巻 第 三 回 大威徳陀 羅尼経 巻第十五 日 大威徳陀 羅尼 経 巻 第 十 九 回大吉 義 神 冗 経 巻 第 四 日根本 説一切有部毘奈耶雑事 臼 根本説 一 切 有部毘奈耶雑事 白根 本説 一 切 有部毘奈耶雑事 日四分 律 巻 第 五 十 四 町 大智度経論 臼十地 経 論 巻 第 四 日十地 経 論 巻 第 十 印毘 婆 沙 善 見 律 巻 第 十 一 日阿 毘 達 磨 発 知 論 巻 第 一 巻 第 九 明 輿 巻第三 良祐 実運 頼 覚 助 胤 大治 二 年 永久三年 応徳三年 巻第十二 巻第十五 巻第二十八 天治 二 年 長 和元年 正 春 覚 春 ( 注 ⑤ ) 覚印 徳 厳 -83一 保安四年 保安四年 保安四年 良勝 尊 珍 覚長 行 静 教 因臼阿毘曇八鍵度巻第十五 臼阿毘達磨大昆婆沙論巻第二十八 叫阿毘達磨大毘婆沙論巻第五十二元永元年 間山阿毘達磨大毘婆沙論巻 第 百 七 十 二 日阿毘達磨大毘婆沙論巻第百八十 円町阿昆曇婆沙論巻第四 臼阿毘曇婆沙論巻第六
ω
阿毘曇婆沙論巻第二十 河阿毘曇婆沙論巻第四十七 礼阿昆曇婆沙論巻第六十三η
阿毘曇婆沙論巻第六十四 刀稗婆沙論巻第一 日舎利弗阿毘曇論巻第八 万立世阿毘曇論巻第十 河般若燈論 付究寛一乗賓性論巻第一 河稔伽師地論巻第三十 円 摂 大 乗 論 巻 上 回十八空論 ※大方広仏華厳経 ︿ 浜 田 徳 海 ﹀ ⑧続高僧伝 @続高僧伝 巻第四 巻第七 巻第二十 嘉慶元年 永久三年 天治二年 大治二年 天治二年 永久三年 永久三年 久 仁 良 勝 覚賀 慈慶 行 隆 頼 応 住 選 慶 舜 頼 憲 ( 注 ⑥ ) 林 尋 覚 玄 @続高僧伝 ︿ 知 恩 院 ﹀ 制成唯識論述記巻第四 郎成唯識論述記巻第五 郎長阿合十報法経巻下 抑 制 分 別 善 悪 所 起 経 路大乗方広総持経 ∞ ∞ 金 剛 般 若 波 羅 蜜 経 卯大悲経巻第一 引大悲経巻第二 ︿ 大 東 急 記 念 文 庫 ﹀ m出金剛頂議伽中略出念諸経巻第一 回蘇悉地渇羅経路疏巻第七 川 四 大 乗 縁 生 論 %阿毘達磨品類足論巻第十二 ⑮仏説十一想思念如来経 幻三教治道論下巻巻第二 m m 歴代三賀記巻第三ω
中阿合経巻第五十九 川大乗広百論釈論巻第十 川五千五百仏名経巻第七 ⑩破邪論 ︿ 安 田 文 庫 ﹀ 巻第二十八 延暦五年 康平四年 天平宝字六年 永久三年 永久三年 大治二年 大治二年 保安四年 保安四年 大治元年 天平宝字六年 保安四年 選尊 尋 覚 経 海 印 遅 選 智 尊 厳 静 因 ? 覚 印巻第
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弘明集 川掌中論 ︿ 谷 村 文 庫 ( 京 大 図 書 館 ) ﹀ 川摩詞僧祇律巻第十 ︿ 尊 経 閤 ﹀ 川広弘明集巻第二十八 ︿ 東 京 国 立 博 物 館 ﹀ 川申日 児本経 ︿ 書 陵 部 ﹀ ⑩貞元新定釈教目録 川続高僧伝巻第三 ︿ 四 天 王 寺 ﹀ ⑩高僧伝巻第一 ⑪一角僧伝巻第二 ⑮ 高 僧 伝 巻 第 三 ⑮ 高 僧 伝 巻 第 四 ⑩ 高 僧 伝 巻 第 五 ⑮ 高 僧 伝 巻 第 六 ⑩一角僧伝巻第八 ⑪ 高 僧 伝 巻 第 九 ⑩続一両僧伝巻第九 八 法 金 剛 院 ﹀ ⑩大小乗律論疏目録 巻第十二 巻 上 大治二年 永久三年 大治四年 大治二年 保安四年 保安四年 保安四年 大治二年 林 智 勝 賢 静 隆 因 遅 慈 林 林 覚 慶 幸 勝 春 静 因 ⑩大小乗律論疏目録 ︿ 松 本 文 三 郎 ﹀ 山十二門論 ︿ 河 野 法 雲 ﹀ 川 勝思惟党天所閉経 ︿ 守 屋 孝 蔵 ﹀ 山稔伽師地 論 巻 第 二 十 一 山大方広仏華厳経巻第十五 山仏説興起行経巻上 川註梼伽経巻第一 ︿ 伊 豆 修 善 寺 V @正法念処経巻第四十一 へ 天 理 図 書 館 ﹀ ⑬ 大 薩 遮 尼 乾 子 所 説 経 巻 第 三 永 久 三 年 別 大方広仏華厳経入法界品巻第三 十九 ︿ 島 田 蕃 根 vm
阿 毘 達 磨 雑 集 論 巻 第 十 川賢雨 経 巻 第 四 問 優 婆 塞 戒 経 巻 第 四 川優婆塞戒経巻第五 ︿ 唐 招 提 寺 ﹀ 山小乗律論疏目録 川大乗 経律論疏記 巻下 巻第 大治四年 天平神護三年 永久三年 静 因 良 目 旨 信 濃。 。
勝 賢 静 静 因 因巻第四十七 ︿ 興 福 寺 ﹀ 川 高 僧 伝 巻 第 十 三 ︿ 妙 法 院 門 跡 ﹀ 間廻 誇論 ︿ 国 会 図 書 館 ﹀ 川大慈恩寺三蔵法師伝 ︿ 京 都 浄 福 寺 ﹀ ⑩ 僧 伽 月 経 巻 第 二 ︿ 根 津 美 術 館 ﹀ 川大乗掌珍論 ⑪鼻奈耶律序根本薩多部毘奈耶 ︿ 龍 門 文 庫 ﹀ ⑩禅要経 ︿ 小 川 陸 之 助 ﹀ 出金剛場陀 羅 尼 経 巻 第 一 ︿ 伊 藤 庄 兵 衛 ﹀ 川 三 瀬 底 部 論 巻 中 ︿ 禿 氏 祐 祥 ﹀ 川諸経 要 集 巻 第 七 川大周刊定衆経目録 ︿ 一 柳 知 成 ﹀ ⑩大賓積経 ︿ 村 手 重 放 ﹀ 巻第三 巻第三 天治三年 巻第十 大治三年 大治二年 長寛二年 智 賢 ρ主今 見 印 隆 退 慶 泰 深 範 覚 印 ⑩ 仏 説 仏 名 経 巻 第 十 二 ⑩ 仏 説 陀 羅 尼 集 経 巻 第 十 二 八 生 田 龍 成 ﹀ ⑩説一切有部発智大毘婆沙論巻第八十九 @根本薩婆多部律摂巻第十五 ︿ 堀 江 清 足 ( 名 古 屋 ) ﹀ ⑮分別功徳論 ︿ 山 田 文 昭 ﹀ ⑮ 大 賢 積 経 巻 第 百 十 六 川 大 賓 積 経 巻 第 百 十 七 長 寛 二 年 ⑮摩詞般若波羅蜜初品小品経巻第 一 ⑮ 十 住 経 巻 第 一 ⑮ 阿 毘 曇 婆 沙 論 巻 第 五 保 安 四 年 ︿ 住 田 智 見 ﹀ ⑮太周刊定衆経目録巻第八 ⑮大周刊定衆経目録巻第九 ⑩大周 刊 定 衆 経 目 録 巻 第 十 天治二年 川 決 定 蔵 論 心 地 品 之 二 大 治 二 年 間 阿 昆 達 磨 発 知 論 巻 第 十 八 大 治 二 年 間阿毘達磨大毘婆沙論巻第百三十二 八 神 田 喜 一 郎 ﹀ ⑩ 大 唐 西 域 記 巻 第 二 ︿ 反 町 茂 雄 ( 弘 文 荘 ) ﹀ 大治二年 保安四年 大治元年 慈 隆 慶 遅 性意 覚 印 慈 勝 慶 賢 智 尋 怒 慈 慈 厳 因 慶
E
芝 慶 静 尋川仏説長者子六過出家経 附続高僧伝巻第四 川弁正論 八 石 井 積 翠 文 庫 ﹀ 川古写経集( 一 切経断巻合) 保安四年 大 治 二 年 保安四年 静 因 第四節書写者と書写年代 ﹃法隆寺一切経﹄の書写に関わった僧については 、 す で に ︹ 一 、 天治本﹃新撰字鋭﹄と﹁法隆寺一切経﹄との関係について︺で触れ た通り、百十名もの名前が明らかになっている。その中でも天治年 間前後、天永年間から天承年閉までの二十九年聞に活躍した書写者 を 、 ︹ 一 、 天治本﹃新撰字鏡﹄と﹃法隆寺 一 切経﹄との関係につい て︺の合一・書写者名 V の︿法隆寺一切経﹀の項に掲げたものを利 用して、書写年代別に再整理してみると、左記の表②・①のように な る 。 さ ら に 、 その表② ・ ③から書写年代を、保安年聞から大治年間ま で の 十 四年間に絞り、そこで活躍した書写者を摘記すると、以下の 通 り で あ る 。
。
。
あ 行 ・ : 胤 願 か行・覚允・覚印 ・ 覚賀・党厳 ・ 覚春 ・ 覚長 ・ 観寂 ・ 経 真 ・ 経 遅 ・ 度深 ・ 厳雅 ・ 厳海 ・ 行住・行遅 さ行:慈慶 ・ 尺海 ・ 浄尊・静因 ・ 静快 ・ 静尋 ・ 尋 応 ・ 尋 海 ・ 尋覚 ・ 尋 玄 ・ 仁 勝 ・ 正円・正春 ・ 清寂 ・ 清珍・清曜 ・。
退快 ・ 遅尊 ・ 白 不 信 ・ 尊珍 た行・智印 ・ 智厳 ・ 智仁・長党・定快・定観 ・ 定 舜 ・ 道寂 な行・念寂 は 行 : ・ 範勝 ・ 弁海 ま行・明行 ・ 明 輿 ら行:・頼慶・隆選・良円・良勝・良能・良祐 ・ 林幸 ・ 林勝 ・ 林智 ・ 琳 範 では、次に 、 本稿が天治本との対校に用いる谷大本の奥書に見ら れる書写者を 、 布記の保安年間から大治年閉までの十四年間に活躍 した書写者を摘記したものを用いて整理してみ る と 、 左記のように な る 。0 0 0 0 0
~8
7
静因(康和二 J 大治二) 党長(保安四) 尊珍(保安四) 覚春(保安田 J 大治二) 隆退(保安四 J 大治四) 林勝(保安四t
大治二)O
良祐(天治元 J 大治二)O
行住(天治二)O
頼慶(天治二)O
明 由 民 ( 天 治 二 )O
清曜︿大治二) 大谷大学が八十巻という多数の﹃法隆寺一切経﹄を所蔵している0 0 0 0 0 0
承天
大浴天治
保安元永 永久 永天… 一21
6
5
4
3
2
132 1
543 2
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432 143 2
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4
胤 願 永 兼 永 珍 円 智 応 舜 快 円l 快 与 覚 允 覚 印 覚 胤 覚 賀 覚 厳 覚 春 覚 長 覚 益 観 寂 久 仁 経 真 経 還 慶 深 見 円 厳 意 厳 雅 厳 海 足 行 往 行 運 慈 慶 尺 海 重 賀 春 珍 浄 逗 浄 尊 静 因 静 快 静 尋 尋 応 尋 海 尋 覚 尋 玄 信 耀 表 ②天 承 大治天治 保安元永 永久 天永
~
守 21654321321543213216543214321-•
真 与•
仁 勝•
性 厳•
正 円•
正 春•
清 寂•
清 珍•
清 曜•
選 快•
•
選 尊-→
・
宗 信•
尊 珍•
湛 証•
智 印•
•
智 厳•
智 仁•
朝 順•
長 覚•
長 順•
定 快•
定 観•
定 舜•
道 寂•
念 寂•
範 勝•
弁 海•
明 行•
明 輿•
与 清•
頼 慶•
頼 助•
頼 文.
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隆 逗•
良 円 a・
a邑 良 勝•
良 能•
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林 幸• • •
林 勝•
林 智•
琳 範 表 ③ ハ w d o o乙とは、前の第三節で触れたが、保安年聞から大治年間までという ふうに書写年代を絞って活躍した書写者を見てみると、右に示した 通り、わずか 十 一名と非常に少ない乙とがわかる。重要文化財に指 定されている法隆寺所蔵のものを見るととができれば 、 よ り 一 一 層 幅 の広い天治木との対校が可能になるとは思うが 、 本稿では、右に示 し た 書写者 ( 天 治 本 巻第 一 の 書 写に関わった静因 、巻第八の書写に 関わった隆退の経典は除く)の経典を中心に 、 天治本との対校を行 な う と と に す る 。
四
天治本
﹁
新
撰
字鏡
﹄
と
﹁
法隆寺
切経
﹄
との比較・対校
第一節作業の手順紹介 天治本との対校に用いた﹃法隆寺一切経﹄は、すべて谷大本であ るが、乙れらの谷大本は 、 大谷大学の沙加戸弘先生 、 大谷大学図書 館の方々の御好意により 、 大谷大学が所蔵しているすべての﹃法隆 寺一切経﹄八 十 巻を調査させていただいた後 、 各経典の書写年 、 お よ び 、 書写者が明確になっているものを中心に選び 、 それらのマイ クロフィルムによる複写を依頼して得られたものである。今回、対 校に用いた谷大本は、以下の通りである。 1 大賓 積 経 巻 第 百 十 一 永 久 元 年 2 立 世 阿 毘 曇 論 巻 第 十 永 久 三 年 3 大 賓 積 経 巻 第 九 十 二 永 久 三 年 覚 応 頼 胤 舜 助 4 大周刊定衆経目 録 巻 第 十 三 永 久 四 年 5阿毘達磨大毘婆沙論巻第五十二元永一冗年 6 根本説一切有 部毘奈耶雑事巻第二 十 八 7根本説一切有 部毘奈耶雑事巻第十二 8 摩詞般 若波羅蜜温恕拘舎羅道行経勧助品第四 天治元年 天治二年 天治二年 天治二年 大治二年 大治二年 大治二年 久仁 保安四年 保安四年 巻 第 三 良祐 9 稔伽師地 論 巻 第 三 十 行 住 叩 摩 詞 般 若 波 羅 蜜 経 巻 第 二 十 二 明 奥 日 般 若 燈 論 頼 度 ロ 長 阿 合 経 巻 第 五 党 春 日阿育王 伝 巻 第 九 清 曜 M 関 元 釈 教 録 巻 第 十 九 林 勝 目 大 周 刊 定 衆 経 目 録 巻 第 七 詳 ぷ 皮 国 別 訳 雑 阿 合 経 巻 第 八 林 智 以上、対校に 、 右に列挙した十六の経典を用いたが、︹三 、 ﹃ 法 隆 寺一切経﹄について︺の第四節で列挙した谷大本の奥書に見られる 書写者の経典の他に 、 書写年代が未詳であっても 、 天治年間あたり に活躍したかと恩われる怒慶や林智の経典ゃ、永久年間、および、 元 永 年間 といった保安年間以前の 書写年代が記されている経典を も 合わせて対校に用いた。 まず 、 対校を行なうにあたって 、 書写者が不明な天治本五巻 ( 巻 第 三 ・ 四 ・ 六 ・ 十 一 ・ 十一己において 頻出度の高 いいくつかの文字 (田中論文内で扱われていた﹁也﹂ ・ ﹁ 第 ﹂ ・ ﹁ 反 ﹂ な ど の 文 字 も 含 め 尊 覚 珍 長る ) と 同様 の文字を、右に列挙した谷大本の各々の経典から切り取 りし、天治本との対校が容易に行なわれる様 、切 り取った各々の文 字 を ビニールシ l ト に 貼 布 し た 。 ところが、これら谷大本の各々の経典から得られた頻出度の一角い 文字の資料を用いて、田中論文内で解明が不可能であった箇所を中 心に、天治本との対校を行なってみたと乙ろ、頻出度の一角い文字の 資料に関して 、 ①天治本において多数見られた ﹁ 也 ﹂ をはじめとして、独立し た 文 字 の 例 が 少 な い 。 ②独立した文字と 、 その文字自体が偏や芳の構成要素となって いるものとを比較してみると、両者の字体がかなり違っている。 というようなこつの不 十分 な点が見られたので、その点を補強する 材料を得るために、天治本五巻内に各々収められている部首と同じ 部首を持つ文字を、谷大本から抽出するというさらに細かな対校を 行 な っ た 。 右記の対校結果は、次節で紹介することにする。なお、天治本側 の書写者(筆)の別は 、田中論 文の結果に従う ζ と に し、本 稿 で は 、 それを便宜 上 、 表①の下段に設けた略号によって表記する。 (田中論文内で既に判明している書写者、林幸と覚厳の箇所は、対 校の対象にはせず、略 号も 設けない乙とにする。 ) 第二節比較・対校の実際 本節では 、 書写者が不明な天治本五巻と 、 第 一 節において列挙し 表 ④ 16 15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 経典番号 × × × × × × × × ム × × × × × × × 3 a 対校結果
t
本天治 × × × × × × × × × ム × × × × × × 4 a × × × × X × × × × × × × × × × × 6 a × × × × × × × × × × × × × × × × 6 b の × × × × × × × × × × × × × × × × 11a 書喜
× × × × × × × × × × × × × × × × 11b × × × × どL × × × × どミ × × × × × × 11c 筆 × × × × × × × × × × × × × × × × 11d 別 × × × × × × × × × × × × × × × × 11e 』こ × × × × × × × × × × × × × × × × 12a 従'? × × × × × × × × × × × × × × × × 12 b fこ章
Z
な塁本
望
置
に2
2
喜
本
書
Z
J
主
本
責
号
E
2
5
章
い い い い 注⑮ い い い 注@ 注 ① い い、
し
い L、
総毒毒
毒
毒
車
ぷE泊3、 結 い、 巣~I ~
員
菌関
ない本天治自国 員
つ つ -っ っ・ ザ3 ・9 っ- つ つ の つ つ っ --91-た谷大本十六巻との対校結果を紹介する。なお 、 紙幅の都合上、詳 細な各経典毎の対校結果の解説 、 および、資料の掲載は省略し 、 表 ④ と し て 整理している。(表中の経典番号とは 、 第一節において列 挙 し た谷大本 十 六巻の上記に付した通し番号を示す 。 ) 注① 仰 の ( 作 ) ・ ( 大 ) ・ ( 入 ) と 、 以 の(言)において類似が 見 ら れた(後の資料を参照のこと)が 、 両者で他の文字 と の対校を 行なってみた と こ ろ 、 類似が全く見られなかったので 、 谷大本 の書写者である尊珍は 、 仰 と 山 の書写には一切関わっ て い な か ったことにする。従って 、 尊珍は 、 天治本の書写に一切関わっ て い な い こ と が わ か る 。 A h 制 V
天治本
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谷大本
谷大本
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夜 、
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︿ 類似点﹀: ・ す べ て 資料に付したO
印のものを参照のこと ( 作 ) ︿ 作 ﹀ が 見 ら れ る ︿ 大 ) 一 一 間 目 と 二 画 自 の 傾 き ・ 三 画 自 の 筆 の 入 れ 方 ( 入 ) 二 画自の筆の入れ方と払い天治本
九
九
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谷大本
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A 山 v天治本
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1 r J時 34 白⑧ 会
人 司
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︿ 類 似 点 ﹀ ( 言 ) 一 画 の 長 さ ( 一 一 闘 目 が 三 園 自 に 届 い て い る ﹀ ・ ニ 函 自 の 傾 き ・ ︿ 口 ﹀ の 形み わ
s衣
注 ⑨ 加 の ( 諦 ) ・ ( 詮 ) ・ ( 詞 ) ・ ( 謂 ) に お い て 類 似 が 見 ら れ た ( 後 の資料を 参 照のこと)が、そのおで他の文字との対校を行な っ てみたと乙ろ、類似が全く見られなかったので、谷大本の 書 写 者である良祐は、加の書写には一切関わっていなかった乙と にする。従って、良祐は、天治本の 書 写に一切関わっていない と と が わ か る 。 ︿ 類 似 点 ﹀ ( 諦 ) ・ ( 詮 ) ・ ( 詞 ﹀ ・ ( 謂 ) 似 の 四 文 字 と も 、 偏と芳の字体が類 -93-議 一 台 仰 ベ
.-:J-盛L
天
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谷大本
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努
注⑮ 山 の(大)において 、 一 部 、 類似が見られた(下の資料を参 照 の こ と ) が 、 その中での類似数が少なかったとと 、 ( 大)以 外の文字で行なった 山 の対校の結果 、 類似が全く見られなかっ たことの二点から 、 谷大本の書写者である覚春は 、 山 の 書 写 に は 一 切関わっていなかった 乙 とにする。従って 、覚 春 は 、 天 治 本の書写に一切関わっていないととがわかる。 ︿類似点﹀・資料に付したO
印のものを参照のとと ( 大 )一 周目と二画自の傾き ・ 二 画目と三回 目 の筆の動きが終 わる位置ーき=ー天
打 差
ー云軍;p~
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画家
谷大本
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苛
苛
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党
党
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久太夫久的)
③
3
え
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結
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問 今 回 、 本稿を成すにあたって 、 ﹃ 法 隆 寺 一 切経﹄の所在を検索す る拠り所となったのは 、 問中塊堂氏の﹃法隆寺一切経目録﹄が唯一 のものであった。ところが 、 調査を重ねて い く中で 、 本稿︹三 、 ﹃ 法 隆 寺 一 切経﹄に つ いて︺で述べたように 、 大谷大学図書館に八 十 巻もの﹃法隆寺 一 切経﹄が所蔵されていること 、 さ ら に 、 そ の 他 、 か な り の 数 の 蔵 書 目 録 ( 一 二 、 ﹃ 法 隆 寺 一 切経﹄について第三 節 の A 凡例 V 三を参照のこと)を調査した結果、谷大本をも含め て 、 法隆寺以外に所蔵され て いる﹃法隆寺 一 切経﹄が 、 百六十八巻 もあることがわかった。今 、 田中塊堂氏の目録を 比 較してみたと ζ ろ 、 田中塊堂氏の目録には 、 かなりの遺漏があると と が明確となっ た 。当時の学問 レ ベ ル 、 蔵 書 目 録の出版事情等を考慮すれば 、 そ う した遺 漏 もいたしかたないものであると思われるが 、 現在では 、 唯 一 の﹃法隆寺 一 切経﹄の目録である以上 、 その遺漏の多さは大きな 問題であり、やがて 、 書き換えの必要性も起 こ りうるものと考えら れる。従 っ て 、 法隆寺には 、 昭和大修理の際に作成したと 言われる 目 録が存 す るという 乙 と か ら 、 私に調査して得られたものと 、 そ れ らを総合すれば 、 田 中 塊堂氏の﹃法隆寺一切経目録﹄以上の目録が 完成するに違いな い 。ニ
今 回 、 十六巻の谷大本に限定して 、 天治本との対校を行なった。 しかし 、 その結果は 、 ︹ 四 、 天治本﹃ 新 撰字鏡﹄と﹃法隆寺一切経﹄ との比較・対校︺の第二節で紹介したように 、 どの経典の 書 写者 も 、 天 治 本 の 書 写には関わっていなかった と いう非常 に残念な形の ものに終ってしまった。ただ、こうした結果は 、 今後のこの分野の 研究に資するととろは大きい。その 意味 で 、 と の 論 文 の 意義は大 き い と 自 負 し て い る 。 その点、今後 、 大谷大学図 書館以 外で所蔵されてい る﹃法隆寺 一 切経﹄を数多く調査し 、 それら と対校す れ ば 、 書写者が判明する 乙 ともあろうし 、 ま た 、 将来 、 法隆寺が所蔵 し て い る ﹃ 法隆寺 一 切 経﹄が公開され る ようなことがあれば、今回の調査 ・ 考察以上に 、 様々な問題が解明できるであろう。 注 注①田中塊堂氏は 、 承 徳 三 年 ( 一O
九九)の﹃大賓積経巻第 七 十 四 ﹄ を 、 ﹃ 法 隆寺 一 切経﹄の 最 古 の ものとし 、 書写過程の第 一 期をその 承 徳 に定めている。しかし 、 大谷大学所 蔵のものに長 和 元 年 ( 一O
一 二 )の﹃十地経論 巻 第 十 ﹄が存す る乙とか ら 、 書写過程の第 一期を、承徳よりも古い時期に設 定するべき だ と 考えられる。なお 、 この﹃十地経論巻第 十 ﹄が書写された長和 元年よりもさらに古い時期に 書写さ れたものも存在するという -95-乙とが﹃法隆寺一切経﹄の所在を検索した際、明らかとなった (三、﹃法隆寺一切経﹄について第三節で列挙した経典、白・ 初 ・