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<研究ノート>クラウス・モーディック 『サンセット』に関するノート ーFeuchtwanger und Brecht in Kalifornienー

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クラウス・モーディック

『サンセット』に関するノート

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  Feuchtwangerund Brechtin Kalifornien  

浅野 洋

ASANO Hiroshi

Resümee:

 „Sunset“1von KlausModick zeichnetden stürmischen Austausch zwischen den beiden führenden deutschen Schriftstellern des20.Jahrhunderts,Lion Feuchtwangerund Bertolt Brecht,in derZeitihrerBegegnung biszu BrechtsTod 1958 nach.Im Roman werden die folgenden Themen dargestellt. Feuchtwangers Rolle in Kalifornien im Exil, insbesondere Villa Auroras Rolle als die Salongesellschaft, Feuchtwangers Beziehung zum FBI in der McCarthy-Ära,und die Exilanten derNachkriegszeit,die nie nach Europa zurückkehrten.  Viele Schriftstellerund Künstler,darunterThomasMann,Einstein und Chaplin,gingen am Ende des Krieges nach Europa und Deutschland. Lion Feuchtwanger, der noch als Schriftstellerim Exilin Kalifornien lebte,erhielteinesAugust-Morgensein Telegramm von Johannes Becher, in dem dieser den plötzlichen Tod von Bertolt Brecht berichtete. Feuchtwanger, der das literarische Talent von Brecht entdeckt und ihn finanziell und anderweitig unterstützt hatte, war tief schockiert. Im Dialog mit seinem verstorbenen Freund wacht Feuchtwanger einen Meilenstein in dieser Freundschaft als Rückruf. Die Anfänge derFreundschaftmitdem Revolutionsratin München,dasExilleben in Sanary sur Mer und Pacific Palisades. Seine Erinnerungen offenbaren die treibende Kraft seines

      

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Schreibensin seinereigenen literarischen Karriere.Am Ende diesesTages,wenn die Sonne im stillen Pazifik untergegangen ist,erinnerternachdrücklich an dasElend seineseinsamen Exillebensund die nie zuvorstande gekommene Zurückkehrnach Deutschland.

キーワード:亡命文学、カリフォルニア、赤狩り、FBI、非米活動委員会(HUAC) 1.はじめに  『サンセット』は激動の20世紀を亡命作家として生き抜いたリオン・フォイヒトヴァンガーと ベルトルト・ブレヒトの出会いから別離までを描いた小説である。20世紀を代表するドイツ文学 の作家、トーマス・マン、ハインリヒ・マン、フランツ・ヴェルフェル、ブレヒト、フォイヒト ヴァンガーなどがカリフォルニアのサンタ・モニカ周辺に集結したのは、第二次大戦最中の1940 年から1943年にかけてのことだった。作家クラウス・モーディックは、二人の亡命作家の交流を 1958年の夏のある一日における回想のなかに織り込む手法をとり、12章に書き分けた。  2019年6月11日、オルデンブルク在住のクラウス・モーディックを訪問した筆者は、4時間に 及ぶインタビューのなかで、作品の成立事情、テーマの設定、作品構成、フォイヒトヴァンガー 研究の現状などについて確認、疑問点を質した。モーディックは亡命文学研究の泰斗、ハンス・ アルベルト・ヴァルターに私淑したゲルマニストであり、かつて南カリフォルニア大学の管理下 にあるフォイヒトヴァンガーのVilla Auroraに研究滞在した経験があり、とくに30年代のフォイ ヒトヴァンガーの亡命文学に造詣が深い。この作品は亡命文学研究家でもあるモーディックに蓄 積された該博な知識を土台にして成り立っているわけだが、「小説」としての完成度をあげるた め、簡潔なイメージを結ぶために、多くの資料を放棄せざるをえなかったようだ。大量の資料、 出典、背景的な記録をどのように駆使するかは大きな課題であったが、微細な自伝的な描写、巨 大な伝記的な構築物とは対蹠的に二人の関係に焦点を当て、虚と実をない交ぜにした物語として 描いた、と語っている。むしろ棄てることの勇気が必要だった、といっている。すくなくとも本 作の三倍の量になってもおかしくなかった、という発言からもわかるように手紙、日記、対話な どの資料を犠牲にするほかはなかった。  舞台を8月のある一日に設定し、太陽が昇りはじめる早朝から第12章のサンタ・モニカの日没 で終わるという着想は、作品の冒頭に登場する東ドイツの文化大臣ヨハネス・ベッヒャーからの ブレヒトの悲報から得たものだった。モーディックは南カリフォルニア大学の資料からこの電文

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を発見し、電報の届いた日を起点に物語を紡ぐという発想を得た、という。つまり、評伝的な記 述に関心のなかったモーディックは、作品の舞台を8月17日に設定し、ブレヒトとの邂逅から別 れまでを回想しながら、過去と現在の往還という形式をとって叙述したものである。 2.フォイヒトヴァンガーとブレヒト  ミュンヘン一揆のころ、ブレヒトがフォイヒトヴァンガーのミュンヘンの住居を訪れたときに 両者の交流は始まるが、ブレヒトはまったく無名であり、フォイヒトヴァンガーが劇作家として すでに名声を馳せていたのとは対照的であった。そのときブレヒトが持参した作品が『シュパル タクス』であり、フォイヒトヴァンガーを訪問した理由が、この作品を上演したいということ、 そしてフォイヒトヴァンガーにはそのための伝手があり必要な条件を整えていたからだった。こ のときに、フォイヒトヴァンガーがブレヒトの劇作家としての才能を見抜いたことで、ブレヒト にとっては一躍世界の舞台にのしあがる切っ掛けとなったわけである。ブレヒトは21歳であった。 ブレヒトは、ナチス誕生の1933年を契機に、スウェーデンでの亡命時代を経て、モスクワ、ナ ホトカ経由でロサンジェルスに辿り着き、活動の拠点をサンタ・モニカに定めアメリカでの6年 間の亡命生活を送ることになる。戦後の1947年、ブレヒトはマッカーシー旋風のなか、HUAC (非米活動員会)にワシントンで喚問された翌日の10月30日、ニューヨークをあとにしてスイス、 そしてDDRで1958年まで過ごすことになるが、わずか56歳で短い生涯を閉じることになる。一 方、フォイヒトヴァンガーは1933年のアメリカ講演旅行のさいにヒトラーの政権奪取のニュー スを知ることになるが、ドイツへの帰国を断念してスイス経由で南仏に避難し、サナリー・シュ ル・メールで7年間の亡命生活を送った。サナリーは多くのドイツ、オーストリアの亡命作家の 交流拠点となり、このサナリー時代、両者はモスクワで刊行されていた雑誌「言語」の編集委員 であり、ブレヒトは亡命先からフォイヒトヴァンガーを訪ね、途切れることなく両者の関係は続 くことになる。フォイヒトヴァンガーは1941年のナチス来襲の南仏をあとにしてヴァリアン・フ ライの支援によってポルトガル経由でニューヨーク港に着き、ロサンジェルスに居を定めること になる。こうしてフォイヒトヴァンガーは終生アメリカで亡命生活を送ることになる。  テクストは、すでにブレヒト、チャップリン、アインシュタインなど多くの作家、芸術家がド イツに帰国してしまったパシフィック・パリセーズのパセオ・ミラマー通りにあるヴィラ・アオ ローラで、朝の体操をする老いの迫ってきた70歳のフォイヒトヴァンガーの描写から始まるが、

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フォイヒトヴァンガーは体操の最中、DDRのヨハネス・ベッヒャーからブレヒトの訃報を受けと る。  「『ひどい』とかれは霧にむかって言い放った、『いや、なんということだ』。疑りながら、呆 然として頭を横にふり手の震えをおさえようと必死だった。電報を二度目に読むときは、一度目 になにか大事なことを見落としていないかゆっくりと一字一字、一語一語読んでみた」2。その 電報の差出人はDDRの文化大臣ベッヒャーからであり、電文は以下の通りであった。         WESTERN UNION(ウエスタン・ユニオン)         TELEGRAM(電報) AUG 16 PM 2 26(8月16日、午後2時26分) IntlFR=ZP VIA WU(国際電報 ベルリン ウエスタン・ユニオン ケーブル 16 1929経由) Leion Feuchtwanger(リオン・フォイヒトヴァンガー)(LeionはLionの間違い=筆者) 520 PASEO MIRAMAR(パセオ・ミラマー通り520番地)

325 PACIFIC PALISADES(CALIF)=(325パシフィック・パリセーズ(カリフォルニア))

ベルトルト・ブレヒト死去 8月18日土曜日、シッフバウアーダム劇場における国家行事に参加 されたし。 名誉博士 文化大臣ヨハネス・R・ベッヒャー(S.17) ブレヒトが死去したのは1958年8月14日、サンタ・モニカの郵便局に打電されたのは8月16日、 フォイヒトヴァンガー邸に届いたのは8月17日だった。もともと出席は不可能ではあったが、い かに形式的にDDRの官僚体制からこの訃報が発せられているかがわかる。 「ああ、ブレヒトよ。病気はそれほどだったのか。たしかにインフルエンザで入院したシャリ テーの病室で書いた最後の手紙を受けとってはいたが、じつに楽天的な雰囲気がまだあったのだ。 パリで実現しそうな『シモーヌ』の演出が話題になっていた。ブレヒトのほうからは、フォイヒ トヴァンガーのヨーロッパ旅行はどうなっているか、問い合わせていた」。(S.19)これはブレ ヒトからフォイヒトヴァンガー宛の最後の手紙3であるが、入院先のシャリテーでヨーロッパ帰 還のことを問いただしていることは、じっさいの手紙に記されている通りである。そして帰国は       

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むずかしく、国籍取得がうまくいかない状況ではあれ、東ドイツへの帰還、ましてや共産主義の 作家、親ソの作家とみなされているフォイヒトヴァンガーには選択肢は残されていなかった。ブ レヒトのDDRでの立場、置かれている状況はこのように説明されている。「とつぜんフォイヒ トヴァンガーに聞こえてきたのは、ブレヒトの最後の手紙に書かれた黒ツムギの歌にかんする奇 妙な言葉だった。自分のほうにやってくる黒ツムギのことがうれしくて、しばらく前から死の恐 怖などありません、というのも自分自身がいなくなっても、欠けるものはなにもないのですから、 と書かれていた。だがかれに欠けることになったのはブレヒトなのだ。そして明日11時の国家行 事にかれは出席していないだろう。明日、東ベルリンで待っている、と電報をきょうロサンジェ ルスに送信してきた者が、現地で会いたいと思うことはなく、ただ厄介な職務から解放されてい るにすぎないのだ。ベッヒャーは自分の意思で詩人からプロレタリアートになり、プロレタリ アートから名誉博士になり、公僕として仕え陰謀をくわだてた男だが、いまは、ブレヒトに国家 行事を気前よく提供しているのだ。いま、ブレヒトは死んでしまい、永遠に口をつぐんだままな のだ。よりによって、国家とはなんの関わりもなかったブレヒトに国家行事なのだ。十分に発酵 しきっていない、民主的と自称しているかのドイツ民主共和国で」。(S.21)この引用からわか るように、DDRという社会主義国家がブレヒトに劇作家としての活動の場をあたえはしたもの の、とくに1953年の労働者の暴動を切っ掛けに多くの文学者、文化人に動揺と不信感をもたら した。例えばアンナ・ゼーガースなども、社会主義政権の補完的な役割を期待されて迎えいれら れたにすぎないが、その後の壁の構築などは帰還作家にとって説明のつかない、矛盾に満ちた出 来事であった。フォイヒトヴァンガーはブレヒトの置かれた状況に思いを馳せる。「いったいブ レヒトは十分に生きたのか。『うんざりしたのかい』と死者に問いかけてみた。国葬は、それを       

3 Lion Feuchtwanger:BriefwechselmitFreunden 1933-1958 Band 1,hrsg.von Harold von Hofe und Sigrid Washburn,1991,S.97. (ブレヒトからフォイヒトヴァンガーに宛てた手紙)      1956年5月3日 ベルリン   博士兄 かんたんに書きますね。というのも私は目下、ウィルス性流感の治療のためにシャリテー(ベルリ ン医科大学=筆者)に入院しているからです。(略)あなたのヨーロッパ旅行はどうなっていま すか。        心から あなたのブレヒト 追伸 ちょうどあなたの手紙が届いたところです。心内膜炎に罹っていますが、良性でしだいに よくなっているようです。

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執り行う人びとには自己満足となるもの。ベッヒャーや共犯者たちのことである」。(S.40) 3.ヴィラ・アウローラ サロンの役割  ヴィラ・アウローラはフォイヒトヴァンガーが廃屋同然であった屋敷を買い取り、修築して住 んだ巨大な邸宅、亡命者たちが小さな城と呼ぶほどの館であり、時に嫉妬の念を禁じえなかった トーマス・マンなどはそのサロンの常連となっていた。ヴィラ・アウローラは、サナリーの邸宅 ヴィラマー同様に作家、芸術家、ハリウッド関係者などの集結する一大サロンであり、そこでは 新作の朗読会、ミニ音楽会、無声映画の上演などが催されていた。「ロートンがパセオ・ミラ マーのフォイヒトヴァンガーの新居で自分の翻訳を朗読することがあった。やってきたのはヴェ ルフェル夫婦、またもや泥酔したネリーをともなったハインリヒ・マン、妻同伴のルートヴィ ヒ・マルクーゼ、ハンス・アイヒラー、オーナをともなったチャーリー・チャップリン、フリッ ツ・ラング、エドワード・G・ロビンソン、妻同伴のジャック・ワーナーとサム・ゴールドウィ ン、さらに何人かの亡命者とハリウッドの関係者。マン夫妻は直前にとりやめたが、カーチャの 伝言では、トーマスは胃の神経性不調で苦しんでいるということだった」。(S.51)このように 閉じられた亡命者たちの社会では噂話がひとの行動原理を支配する場面がしばしばある。「むろ ん、サン・レモ・ドライブのマン家でフォイヒトヴァンガーが話題にのぼるときは冗談交じりで はなかった。ロサンジェルスの亡命者にかんする過熱した噂話やゴシップは、それが病的な陰口 であれ、ねらいを定めた意地悪にせよ、たちまちのうちに広がっていった。毒舌家で毒薬の注射 器であるエーリカ・マンが、すべての亡命者のなかでだれが劣等生の栄誉に輝くべきか質問した ことがあった。ヴェルフェルか、レマルクか、ヴィッキィ・バウムか。トーマス・マンはこう いった、フォイヒトヴァンガーという名前はあらゆる人物のなかでなんといってももっとも有名 で、名状しがたい名前の持ち主である、と。それ以来マンの家ではただ『名状しがたい男』と呼 ばれた。トーマス・マンが、公式の場で『小さな巨匠』にたっぷり二重の意味をもたせて語ると きは、かれの過小評価を社交的な陽気さをもって語るのがすきだった。だがマンがじっさいにこ の巨匠をどう思っていたかは、噂の発生源のもうもうたる煙を突き抜けて確実にパセオ・ミラ マーまで届いた」。(S.55f)この狭いパシフィック・パリセーズの一角で、二十世紀を代表する ドイツ文学者たちは、嫉妬と憎悪のなかで暮らしていたわけである。「個人的な交際範囲は、い わゆる(ハインリヒ)マンから(トーマス)マンまで及び、トーマス・マンはもちろんつねに親

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切の権化であり、ほんのときおりノーベル賞のことで少しうぬぼれていたが、手紙ではフォイヒ トヴァンガーの作品を有頂天になって受け入れていた。トーマス・マンはヨーロッパに帰還する つもりなどなく、むしろ当地に留まりたかった、椰子の下で、フォイヒトヴァンガーのよき隣人 として、静かな大洋、おだやかな気候のもとに留まりたかった。だがエーリカ、このヒステリッ クな陰謀家で、落ちぶれた芸人は帰ろうとしたのだ、というのは彼女はアメリカ国籍を拒否され ていたのだ。トーマス・マンが死んだのはいつのことだったか。(略)1年前だ。ほぼちょうど 一年前のおなじ日だ。二人はもう死んでいるのだ、偉大なマン、そしてフォイヒトヴァンガーの もっとも愛すべき、ひょっとして唯一の友人ブレヒト、かれの愛すべき敵がトーマス・マンだっ た。マンはブレヒトを身の毛もよだつ畏怖の気持ちで嫌なやつだと称していた」。(S.57f)ドイ ツ文化、文学、芸術の華開いた太平洋のヴァイマル、狭い文化空間、亡命者村ともいうべきパシ フィック・パリセーズには、本国ドイツでは実現の可能性がない濃密なサロン社会が成立してい たことになる。それはあたかも、アンナ・ゼーガースが『トランジット』で描写した、亡命者が 情報交換するマルセイユのカフェでの風景と重なるものがある。これがドイツ・オーストリアの 亡命者の数がピークを迎えた1942年、43年ごろのヴィラ・アウローラの状況であるが、戦後も 1958年になると往時を偲ぶフォイヒトヴァンガーの姿があった。「そうなのだ、この家は西側 世界の最果てにあり、多くの人のための隠れ家、サロン、仕事場となった。来客名簿は名前、日 付、詩句、感謝の言葉、スケッチなどでびっしりと埋まっていた。だがゆっくりと忍び寄るよう に、閑散とした家は人の気配はなくなり冷気がただよっていた。今となってはマルタとかれには 大きすぎたのかもしれなかった、そう、ミヒ・ツヴァイクのような挫折者以外にだれも避難所を もとめてはこないのだから。友人や亡命仲間はとっくにヨーロッパにもどってしまった。ブレヒ ト、アイスラー、チャップリン。トーマス・マン、デーブリン。または死去したハインリヒ・マ ン、フランツ・ヴェルフェルは、椰子の木の下に埋葬された。そしてブレヒトはベルリンの地で 国葬」。(S.169)カリフォルニアにおける戦後の亡命作家に残されたのは、書くことによる救 済であった。「そして世界が絶望と大量虐殺に沈んでいるあいだ、かれは楽観主義を捨てずに、 創造と構築を続けた。待っているのは執筆であり、エフタとかれの娘だった。かれにはまだする ことがあった」。(S.120)

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4.言語の危機、母国語と英語  フォイヒトヴァンガーの経済的基盤を支えていたのは、ドイツ語による著書のほかに英語によ る翻訳であった。自国でのマーケットをはるかに超える規模で翻訳作品が世界中に頒布されてい くことこそが、フォイヒトヴァンガーがとくに戦後のアメリカ社会で生き延びる縁であった。 「かれはドイツ語で書き、コスモポリタン的に考えるユダヤ人作家であり、作品はすべての文化 言語に翻訳され、全世界で読まれ、全世界で理解されている。全世界から報酬と印税が流れこん だ。翻訳されることで暮らしていた。妬んだひとがかつて、かれの本は書かれるよりも早く翻訳 されている、と発言したことがあった。そのことを伝えられると、かれは笑ってはいたもののい らいらしていた。かれの書物はドイツではかつて焚書となり、西ドイツではこんにちまたもや、 というかいまだにかれの書物をボイコットする書店がある。このことでかれは腹立たしく思って いたが、ドイツのマーケットを経済的な理由であきらめられるだろうか。じっさい不満をいわざ るをえないのは、書物がけっして翻訳されることのない人びとなのだ」。(S.67)翻訳のもたら す経済マーケットと西ドイツでの評価は裏腹の関係であったが、それゆえに西ドイツだけをマー ケットにすることのむずかしさもあったといえよう。  サナリー時代を含めるとフォイヒトヴァンガーの亡命期間は25年に及んだわけだが、英語の運 用能力に欠けていたフォイヒトヴァンガーは母国語と英語環境とのあいだで苦しむことになる。 つまり、書記言語としてのドイツ語は以前のままであり、ドイツ時代のままの言語を使用するわ けであり、それゆえに新しい事象の表現には不向きとなることがあった。母国語と亡命先での英 語の使用のあいだで呻吟するフォイヒトヴァンガーにとって、亡命と創作言語との関係は徐々に 致命的な問題となっていく。「母国語というものは言葉の意味、概念的な内容だけでなく、雰囲 気や皮膚感覚も伝えている。言葉の表面にあるニュアンス、そして意味のかなたで揺れ、なにか を表わしている言葉の底にあるニュアンス、母国語はこの二つのあいだで変化する様相も伝え る」。(S.66)  ブレヒトも英語の運用能力はきわめて低かったが、それが望ましい結果をもたらすことになっ た。「英語をしゃべることがブレヒトにはひじょうに役立つことがあった。ブレヒトはマッカー シーの赤狩りで厳しい取り調べの席に召喚されたのだが、外国人であるかれに脅威となるのは監 獄ではなく、国外追放だけであることは知っていた。そしてパリ、チューリヒ行きの切符をポ ケットにいれていたブレヒトは、膝をがたがたふるわせてワシントンへいった。外にむかっては つねに自信があったが、内面の深いところでは臆病な人間だった。いつでもかれは死を畏れてい

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た。  尋問の一部はラジオで流された。大きなサロンの後ろにある小さな蔵書室でフォイヒトヴァン ガー夫妻は、マルクーゼ夫妻、ディーテルレ夫妻とともにラジオの前に座り、おびえながら尋問 に耳を傾けていた。しかしブレヒトは無知、ヒステリー、狂信的な頑迷さの混じった悪賢さに対 抗して頭は冷静だった。かれの声は力なくおびえていて、ほとんど言いなりに聞こえたのだ。か れがひじょうにずる賢く嘘をつくのははじめてではなかった。混じりけのない真実を、素朴に、 思慮深く、入念に演じながら述べた。(略)かれはうまく切り抜けた。尋問を楽しんだかにみえ、 長びくほどに演劇の演出のつぼをじんわりと押さえ込んでいるようだった。ブレヒトは自分自身 を擁護する必要はほとんどなく、擁護する必要があるのは友人だけだった」。(S.70)ブレヒト はHUACの喚問を、自己演出により乗り切り、「上院議員のニクソンのような熱狂的な煽動者 が、あいもかわらず反共産主義の炎でむかつくようなスープをつくり、自分たちのパラノイアを 国家の行動原理に仕立てようとしていた」。(S.13)そしてブレヒトはマッカーシーの赤狩り時 代に別れを告げる。  一方、アメリカ在住の決断をしたフォイヒトヴァンガーの戦後の生活は拠り所のないものに なった。「問題なのは、アメリカ国籍を拒否されているかぎり、かれがふたたび入国できるかど うかなのだ。移民局は、マルタとかれにいともかんたんにアメリカ在住を決断させたが、かれら の生活をつらいものにした。25年前から座っている亡命の待合室はひょっとして待合室などでは なく、終身の監獄ではないだろうか」。(S.21)アメリカでの亡命生活の実相がここに示されて いるわけであり、25年間の亡命生活は安定とは対極の位置にある、終わりのない旅路であり、た えずつぎの行き先を待っている旅人であった。アメリカの50年代は移民にとっては、産業の発展、 娯楽の発展、物質的な繁栄をしていくアメリカに適応するのがむずかしい社会であった。そして かつての同志の姿も消えていく現実が待っていた。  また、FBIの監視下に置かれていたフォイヒトヴァンガーにとって、1937年のモスクワ訪問の 影響は大きかった。フォイヒトヴァンガーのモスクワ訪問が亡命先アメリカでは、国籍取得にさ いし異様な警戒感をあたえることになり、最大の不安材料となった。亡命者と適応の問題は、と くにルーズベルトによる敵性外国人宣言、そして夜間外出禁止令がだされた1942年から翌年に かけて、フォイヒトヴァンガーに適応の道を歩ませた。「ドイツのアメリカへの宣戦布告、そし て日本の真珠湾攻撃のあと、ドイツとオーストリアのすべての亡命者は敵性外国人と宣言され、 夜間は外出禁止、全戸の家庭訪問がなされた。フォイヒトヴァンガーは、共通の敵にされること で自分に助けをもとめられることに悪い気はしなかった。そうすれば、国籍取得の手続きに役立

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つだろう、と願った」。(S.134)このような妥協的なアメリカにたいする姿勢は、作品のタイ トルにも現われた。「フォイヒトヴァンガーが、残念ながらモスクワ訪問記を書きとんでもない 失敗をして以来、西側では頑固なスターリニストとみなされていた。東側ではおべっか使いの ベッヒャーが、かれのことをようやく先ごろアメリカ帝国主義のかばん持ちと呼ぶようになった、 というのはフォイヒトヴァンガーが長編のタイトルを『アメリカのための武器』と名づけたから だ。そしていまでは東のマーケット用に『ワイン畑の狐』と名づけたので、この長編は二つの題 名をもつことになった。やはりタイトルは妥協的で、柔軟で、朗らかでなくてはならないのだ。 これもまたかれが成功した秘訣のひとつなのだ。それでもかれは破壊分子、アスファルト文学者 としての一面によって叱責され、著書はボイコットされ、他方でかれはブルジョアのボヘミアン、 巨匠の補欠として嘲笑された。そして双方の陣営がかれの世界的な成功をうらやんだ挙げ句、だ れもが文学の大量生産者とみなすことになった」。(S.144)亡命先アメリカで延命することの 難儀さがここにあり、妥協的に生きるほかはなかった。つぎの引用は、フォイヒトヴァンガーが 喚問された委員会での1937年のフォイヒトヴァンガーの訪ソをめぐるやり取りである。  「『あなたは前回の聴聞で、スターリンとの会合では独裁制にたいし徹底的に批判した、と述 べています。具体的に説明してもらえますか』。  『よろこんで、委員長。私はソビエト憲法に心酔したのですが、この憲法では基本的な人権と して教養(知識)、労働、休養の権利、そして高齢者と病人の扶助の権利が保証されています。 そしてこの点でも進歩している面が多くあることがわかり、感銘をうけました  』。  『私が質問しているのはあなたの批判のことです、博士』。  『たしかに、そうですね。私がスターリンに注意を促したのは、怠惰な官僚主義、困窮した住 宅事情のことです。ほかに国家が芸術家を子ども扱いし牛耳ること、そして作家が作品のなかで 英雄的な楽観主義を評価するように指示をだす計画経済の政治のことも指摘しました』。  『それでスターリンはどう反応しましたか』。  『かれはだまってじっと聞いていました』。  『あなたは個人的にもスターリンを批判したのですか』。  『かれをめぐる個人崇拝は西側では奇異に映る、と指摘しました』。  『かれはそれにもだまっていたのですか』。  『いいえ、かれはこういいました、ソビエト帝国は大きすぎるので、ウラジオストックでも聞 こえようとすれば、モスクワで大声で叫ばなくてはならない、と』」。(S. 156)

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5.ブレヒトとアメリカ文化  芸術を消費するアメリカ  ブレヒトにとってアメリカは、気候、食事、芸術全般にわたって異質な文化の国であり、とく に芸術が消費の対象になっていることには最後まで抵抗があり、そもそもハリウッドからは見向 きもされない、受容の可能性のない風変わりな無名の劇作家にすぎなかった。「(アメリカの) 議会は多少の差はあれ、恥も外聞もなくビジネスの代理人であり、そのような存在としてふるま い語っていた。議会は汚職とは無縁だった、といえたのは汚職にまちがった思い込みもなかった からだ。ものを売ることはアメリカ合衆国のブルジョアの徳であり、ものを買うとはブルジョワ の義務、余暇の楽しみだった。すべては金銭で買え、芸術家もそうだった。そして芸術作品は消 費された。ここでは考え方を売ったなどという打ち明け方はできなかった、というのは考え方は 裸のままあちこち走りまわっているからだ」。(S.183)相容れないアメリカ文化との衝突は、 はじめからアメリカのブルジョワ文化、快楽主義に適応するつもりのないブレヒトにとっては当 然の帰結であった。「この民主主義はブレヒトの社会批判をにぶらせることで、詩を除くすべて のかれの芸術を無用にさせた。かれの詩は、ひじょうに繊細でささやくようでもあったが、ひど く高飛車、狭量、野蛮であり、同時にまたひとの感情を害し、挑戦的でもあった。それでもまだ 詩を読むひとがいたというのか、だれが抒情詩を買ったというのか。だれがアメリカでドイツ詩 を待望したというのか。ブレヒトはこのことを認めたくなかったにせよ、自己保身本能から認め ることはできなかったにせよ、かれの人生をつらいものにした。ブレヒトがひそかに期待してい た輝かしい成功をハリウッドが提供していたら、ハリウッドに残ったかもしれないが、それはそ れで、じっさいに存在している社会主義など意に介さなかっただろう。というのも、社会主義は たしかにかれ自身の劇場を用意はしたが、現実性にまったくとぼしく、このベンチのように灰色 で無情であることはわかっていた。そしてブレヒト自身の人生の演出における大げさな仕草、か れが公式にも軽蔑していたハリウッド・スターの神格化は、ブレヒトにはきわめて似つかわしい ものであり、これはフォイヒトヴァンガーというはるかに有名で、はるかに成功に満ちた、はる かに人気のある、筆舌に尽くしがたい作家よりもずっと近しい存在だった」。(S.184)このよ うにブレヒトが侮蔑の対象にしていたハリウッドスターの神格化、商業主義とブレヒトにはじつ は通底する要素、二律背反的ではあるが共通した要素があったことは特筆されてよいだろう。そ してアメリカでの受容がないままに、DDR(ドイツ民主共和国)に招待され、受け入れられ、 政治利用されていくブレヒトにはわずか10年の猶予しかなった。

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6.ブレヒトとDDR、そしてヴィラ・アウローラでの別れ  「ソビエトの戦車が終息させた1953年の暴動のあとは、ブレヒトは政治からますます遠ざ かっていった。このことがツヴァイクにはきわめて訝しかった。かれがこの時間にブッコウで執 筆していても驚くことはない。ブレヒトがまだ詩を書いているなんてすばらしいではないか。東 ドイツにはおそらく、不快なブレヒトが詩を書かずに、永遠に口をつぐむことに喜びを感じるひ とが多くいたのだろう」。(S.96)官僚化したDDR、形骸化した役割をもつ指導部、もはや創造 の場を失っていたブレヒトにとって、かつて「壁に釘をうつことなかれ、上着は椅子にかけてお け、なぜ四日先のことをかんがえるのだ、きみはあす帰るというのに」と詩に書いたように、 DDRは目的地ではない、つぎの避難所への中継点にすぎないのだが、いよいよ病気との闘いに 敗れる。  「ふたりはユーカリの木の下にある、テラスの石のベンチに坐ったが、それはかれがいま坐っ ているベンチとおなじだった。フォイヒトヴァンガーはそのときなにを語り合ったのか、ほとん ど一語一語精確にいまだに覚えていた。ブレヒトはこういった、アメリカに自分が幻滅すること はなかった、というのはあやまって期待をかけてしまうと幻滅させられるからだ。つまり自分が 手にいれてないものを望むとそうなる、と。しかしこれはブレヒトの真底の気持ちではなく、す くなくとも暗い森のなかで助けをもとめる笛だったのだ。アメリカへのかれの想いは、ロマン チックでありほとんど子どもじみていた。ハリウッドへの期待はすさまじかった。『三文オペ ラ』の作者は、ここでは崇拝されている、と信じこんでいたが、ここではだれもこの作家のこと を耳にすることはいっさいなかったのだ。アメリカの社会はなんとかしてかれの作品を打ち砕き、 かれの手から可能性を奪いとったが、それもまったく適法であり、暴力は一切なかった」。(S. 182f)フォイヒトヴァンガーが成功者という理由で、ブレヒトが嫉妬を掻き立てるという間柄で はあれ、フォイヒトヴァンガーは経済的に困窮していたブレヒトを助けることに熱心であり、あ らゆる寄付行為にも積極的に自分の財を投げ打った。両者は胸襟を開き、共同作業でも徹底して 議論し合う関係であり、巷間言われているように、ブレヒトが直截的で挑戦的なもの言いをする はげしい論争タイプの人間であるのにたいし、フォイヒトヴァンガーは理性的に合理的に反論す る慎重居士であった。

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