韓半島沿海捕鯨と資料の問題 ; 1
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(2) 54. 韓半島沿海捕鯨 と資料の問題 〔1〕. せ る技術革新 か ら始 まる。 この アイデアは古 く, 1820年 にはすで に 「捕鯨 銃」 (ボ ム ラ ンス)が あ り, アメ リカで は 1860年 代 まで に 20件 以上 の特許 が 申請 されて い る (Tonnessen 1982)。. 日本 で は 1880年 に関澤 明清 らが中. 心 とな り,捕 鯨 銃 (ボ ム ラ ンス)の 開発 と実 用実 験 が 繰 り返 されて い る。. 1856年 Sag Haborの T.Wo Roysが スカ ンデ ィナ ビア半 島ゴL方 海域 にお い て行 った 52回 の発射 で は, シロナ ガス. (1頭 )ザ トウ (4頭 )を 捕獲 し ,. 遊泳 ス ピー ドが速 く死後沈下 す るた め捕獲困難 と考 え られて きたナ ガス類捕 獲 の可能性 が証 明 され る。 この捕鯨銃 の アイデアに決定 的 な改良 を加 えた の が ノル ウェーの Svend Foynの 捕鯨 砲 であ る。 この方式 は,爆 薬 を装填 した ロー プ付鈷 を発 射 す る砲 を高速艇 の船首 に マ ウ ン トした もので,遊 泳速度 の速 いナガス類 を追尾 し,か つ沈下 す る鯨体確 保 す ることが可能 とな り,文 字通 りす べ ての鯨類 が捕獲対象 に入 って来 た。 この捕獲技術 を基本 に開発 された捕鯨技術 シス テ ムを「 ノル ウェー式」 と呼 ぶ。 さ らに海上 で の鯨体解剖・ 鯨 体処 理 を行 な う大型母船 が 20世 紀初頭 に 登場 し,加 えて鯨油 の新処 理技術革新 と,そ れ に ともな う新利用法 が結 びつ き,新 たな捕鯨 時代 が始 まる。 この一 連 の技術革新 はナガ スクジラ類資源開 発 を加速 し,北 海北方海域 ,北 米大 陸北方海域 ,南 氷洋 な ど各地 で新 しい捕 鯨場 が 開発 され る。 なかで も南氷洋 は捕鯨産業 に と っての最後 の フ ロ ンテ ィ アで あ り,現 代捕鯨 の方 向 を決定付 ける ことにな る。 東 ア ジア海域 で は, この世界 的 なナガス資源開発 の うね りの 中 で,韓 半 島 沿海 お よび 日本 列 島沿 海域 が 開発対 象 とな る。具体 的 に は,19世 紀前 半 の アメ リカ帆船捕鯨 進 出 を嗜矢 に, 19世 紀後半 か ら始 20世 紀初頭 にか けて の ロシアによる開発 , 19世 紀末 のか ら 20世 紀半 ば まで継続 され る日本 によ る 開発 が続 く。 しか し, この運動 に は,例 えば北 海北方海域 や北 米大陸北方海 経営〕 とい う要素 が大 き く 域 と異 な り,「 近代 的」 に特徴 的 な植民地支配 〔 入 り込 ん で い る。東 ア ジア海域 (あ る い は もう少 し限定 して,韓 半 島沿 海 域 )の 鯨類資源開発 は,植 民地 とい うフ ァク ター を加 えて考慮 す べ き研究対 象 で あ る。本論 は,今 後継続 的 に研究 す る計画 を立 てて い る韓半 島沿海捕鯨.
(3) 森 田 勝 昭. 55. に関す る植民地主義 的捕鯨研究 の準備 と して の意味 が あ る。. 2。. 韓 半 島 沿 海 域 鯨 類 資 源 開 発 と植 民 地. ロ シア及 び後発 の 日本 によ る東 ア ジア海域 ナガ ス鯨類資源開発 は,両 勢 力 の植民 地 政策 とい う大 きな枠 の 中 で 展 開 され た きわ めて「近 代 的」 な「事 業」 であ る。異文 明圏 に植民地 を形成 す る欧米型 と異 な り, 日本 の植民地 は まず 同一 文 明圏 に始 ま り,次 第 に拡大 す るとい う発展 を見せ る。 この基本 的 条件 が 日本 の植民地支配構造 に特質 を与 え,現 在 の東 ア ジア諸地域 の関係 に 影響 を及 ぼ して い る (大 江, 1992)。 韓半 島海域 に対 す る植民地支配 は同一 地域 の伝統 的 な社会・ 経済・ 文化 シス テ ム に,「 近代 的」 植民地支配 シス テ ムを押 し付 けて行 くプ ロセ スで あ る。従来 の植民地研究 の 中 で は比 較 的注 目 の集 ま りに くい漁業 の分野 は,実 はそ の典型 的 な事例 といえ る。 いわゆ る「朝鮮通漁」現象 は歴 史 的 には数百年 の深度 を想 定 で きるとい う (吉 田,1954)。. 19世 紀後半 か ら 20世 紀 中葉 まで続 く「 朝鮮通漁」 は,個 人. レヴェル か ら始 ま り,や がて,企 業法人 ,地 方公共 団体 ,中 央政府 までを巻 き込 む 巨大 な運動 に成長 す る。 それ は いわば古 い 自然発生 的経済文化 シス テ ム に,「 近代 的」 な植民地政治経済 的 シス テ ムが重 な って ゆ く運動 で あ り. ,. この シス テ ムの現在 へ の影響 も少 なか らず残 って い る。「 朝鮮通漁」 は複雑 な要素 を考慮 しな ければな らない問題 で あ り,東 ア ジアの歴史 と未来 のため 今後 さ らに解 明す べ き課題 といえ る。「朝鮮 通漁」 を通 じて起 った韓半 島 の 文 化変 容 に関 して は,例 え ば佳 吉城 によ る先 駆 的研究 な どが あ るが (佳. ,. 1990),そ れを さ らに前進 させ ると同時 に,「 日本」側 か らの研究 の必要性 も 高 ま って い る。 日本列 島 で は少 な くとも数百年 の歴史 を持 つ鯨類資源 の産業 的利用 が,列 島沿岸海域 を離 れて韓半 島沿岸域 に達 す るの は 19世 紀後半 か らで あ る。捕 鯨 はきわめて特殊 な技術 と資本力 を要す る漁業 で あ り,な かで も中型・ 大型 捕鯨 は個人 レヴェル で の操業 が 事 実上不可能 で あ る。 19世 紀後半 ,日 本列.
(4) 56. 韓半島沿海捕鯨 と資料 の問題 〔1〕. 島沿岸域 での捕鯨活動 は長期間 の停滞 に陥 って お り,そ の苦境 を打破 しよ う とす る試 みが 1870年 代 頃 か ら次第 に活発化 して くる。 この動 きは官民両方 か ら推進 され,政 府 の水産関係省庁 ,半 官半民 の漁業団体 であ る「大 日本水 産会」, 地方政府 の水産関係部局 , さ らには個人 的 な技術 開発 まで, 種 々の 試 みが繰 り返 され る。 同時 に,い わゆ る旧式捕鯨 の「 浦」 で も独 自の鯨類資 源開発運動 が展 開 され る。 中 には漁 民 の「朝鮮通漁」 の一 貫 と して韓半 島沿 海域 へ 進 出 し,伝 統 的 な「網捕 り式」や,ア メ リカ式捕鯨銃 によ る操業 を行 う事例 も見 られ た。 この試行錯誤 の後 19世 紀末 にな って 「 ノル ウェー式捕 鯨技術」 と官民 一 体 の漁業資本 によ る近 代的捕鯨産業 が韓半 島沿海域 へ進 出 す ることにな る。 ただ, この一 連 の動 きの具体 的 な「事実関係」 に関 してす ら未解 明 の点 が 多 い。 日本 にお ける捕鯨史研究 は韓半 島沿海捕鯨 のテー マ を ほ とん ど対象 と して扱 えなか った。 著者 は前述 の とお り,韓 半 島沿海捕鯨 に関す る植 民地主義 的研究 を進 めて い る。 しか しこの研究 は韓半 島沿海捕鯨 の「歴史 的事実」 の発掘 を 当面 の 目 的 とせ ざ るを得 ない。 そ の上 で,そ うした「事実」 を さまざまな レヴェルで 分析 す る作業 が続 く。 まず 当然捕鯨産業経済史 の分析 が必要 とな る。次 によ り大 きな枠 の漁業史 か らの理 解 ,韓 半 島沿岸社会 との接触 を扱 う社会史 あ る い は文化史的研究 , さ らに植民地支配 とい う枠 の 中 での植民地 主義 的産業史 研究 , これ らを踏 まえ つつ,現 在 の東 ア ジア社会文化論 が続 くことにな るだ ろ う。 この研究 は,捕 鯨 とい ういわば限 られた特定 のテーマ を視点 に して. ,. 東 ア ジア とい う地域 に とって の植民 地 とはなんだ ったのか,現 在 と未来 の東 ア ジアを ど う理解 しヴ ィジ ョ ンを描 くのか とい う問題 に対 す るひ とつの アプ ロー チを示す ことを 目的 とす る。本論 はそ の準備段 階 と して,従 来 日本 で は あま り知 られ ることのなか った韓国 の韓半 島沿海捕鯨研究 の一 端 の紹介 か ら 始 め る。.
(5) 森. 3。. 田. 勝. 昭. 57. 資料 の問題. さて,韓 半 島沿海域 の「 植民地 的」捕鯨活動 に関 して はそ の性格 か らい く つ かの資料群 が想定 で きる。 まず ,技 術 と技術者 を送 り出す ノル ウェー資料 (お そ らく当時 の政治状況 か らデ ンマー ク語 によ る記録 ),お よび最初 に東 ア. ジア海域 で大型捕鯨 を実 行 に移 した ロシアの資料 であ る。次 に, ロシアの後 を追 いやがて韓半 島沿海域 の捕鯨 を 1945年 まで独 占す る日本側資料 が あ り ,. さ らに植 民地支配下 の韓 国政府 によ る歴史記録 お よび捕鯨 関連文書 (条 約等 を含 む),捕 鯨 関連施設 の あ った地 方行政府 の関連文書 ,新 聞等 の証言記録. ,. そ して最後 に蔚 山 や 巨済 島 な ど各地 の捕鯨基地周辺 での 日常 的 な接触 を通 し ,. また「外国」捕鯨会社 に雇 われ「外国人」 によ る捕鯨 を観察 し続 けた韓国民 衆側 の資料 な どが 予想 され る。 日本語資料 と韓 国語 資料 関 して は, この研究 を通 じて終始 問題 が付 きま と う。 つ ま り,簡 単 に言 えば, これ らの資料 は「事実」 を傍証 す る資料 とい う 第一次 の レヴェル と同時 に,「 植民地支配」 とい う大 きな枠 で常 に批判 的検 討 を続 ける作 業 が要求 され るか らであ る。 この作業 は単 な る「 資料考証」 と い う作業 に とどま らず,韓 国研究 の根幹 にかかわ る問題 を は らんで い る。 そ れ は,元 植民地宗主 国 で あ り,現 在 も社会・ 経済・ 文化 的影響力 を行使 して い る日本 の研究者 の アイデ ンテ ィテ ィに直接 かかわ る問題 で もあ る。 さて 19世 紀末 か ら 20世 紀前半 にか けて の ほぼ 50年 間 , 日本語 によ る韓 国研究書 が数多 く生産 されて い る。政府 お よび朝鮮総督府 が 中心 とな って行 われた系統 的 な韓国情報収集 お よび 出版 ,ま た非政府 レヴェルの韓国研究. ,. 植民地 で の社会・ 文化・ 経済活動 を奨励 す るプ ロパ ガ ンダな ど,そ の 出版件 数 は相 当数 に上 る。現在 , こ うした韓国研究書 に中 には『 奮韓末 日帝侵略史 料叢書』,『韓 国併合史研究資料』,『韓 国地理風俗誌叢書』 (ま た は,『 南北朝 鮮地理風俗誌叢書』)等 のかた ちで復刻 出版 され, 簡単 に利用 で きる もの も 増 えて きて い る。桂吉城 は『 日帝 時代. せ. 漁村 鋼 文化愛容』 (佳 ,1992).
(6) 58. 韓半島沿海捕鯨 と資料の問題 〔1〕. で,植 民地下 の韓国 あ るいは同時代 の 日本 で生 産 された「 日本語資料」 の歴 史 的意義 と研究 上 の価値 を詳細 に検討 した結果 ,そ の研究上 の価値 を認 め る とい う立場 を とる。 佳 は,朝 鮮総督府 の韓半 島調査記録 を代表 とす る韓国関連 資料体 は,植 民 地支配下 の「 資料」 とい う条件 を常 に考慮 しつつ,植 民地侵略 主 義 の イデオ ロギ ーの分析 とい う レヴェル と,「 歴史的事実」 の レヴェル を注意深 く検討 すれば,歴 史文化研究 の資料 と して利用 で きると し,更 に踏 み込 んで,そ の 綿密 な検討 と資料化 を積極 的 に推進 す べ きで あ ると主 張 す る (佳 , 1992)。 佳 の指摘 は植民地下 の「 日本語韓国調査資料」 のみ に とどま らず,全 ての資 料 に妥 当す る ものだが,韓 国研究 に関 して は とりわ け この「 資料」 の客体化 とその成果 の研究 へ の フ ィー ドバ ックが求 め られ ると筆者 も考 えてい る。 韓半 島沿海域 の捕鯨活動 に関 して は基 本 的 な資料 が い くつ か存在 す る。代 表 的例 と して,当 時 すで に世界最大 の捕鯨会社 だ った東洋捕鯨株式会社 が社 史 と して編集・ 出版 した 『本邦 の諾威式捕鯨誌』 (1910)が あ る。 それ以 外 に も,や は り同時代 の記録 と して例 えば『 大 日本水産會報』 に収録 された記 事 や江見 水蔭『 実録捕鯨船』 の ドキ ュメ ン タ リーな どがあ る。 ただ研究書 と な ると極 めて少 な く,あ って もきわ めて簡単 に言及 され るか不正確 な ものが ほ とん ど とい って よい。近 年 ,鳥 巣 京 一 が九 州地 方 の 資料 を発 掘 し,ノ ル ウェー式 ロ シア捕鯨 や韓半 島沿海域 へ進 出す る捕鯨会社 の分析 に着手 して い る (鳥 巣, 1994,1999)。. しか し日本 で は, 日本語資料 の批判 的利用 は もち. ろん,韓 国側資料 の利用 が ほとん ど進 んで いないのが実情 で あ る。 釜 山水産大学校 の朴九乗 の『 韓半 島沿海捕鯨史』 (朴 , 1995)は , おそ ら く初 めて韓国側資料 を駆 使 し,さ らに日本 お よび ロシアの資料 を立 体 的 に組 み合 わせ ることで,韓 半 島沿海域 の捕鯨活動 を記述 しよ うと した研究 であ る。 本稿 で は, 日本 にお け る捕鯨史研究 で もほとん ど利用 され ることがなか った 韓国側資料 とこの韓国研究者 による捕鯨史 の一 端 を紹介 す る。 まず朴九乗 に よ る ロ シアの 捕 鯨 活 動 の 記 述 を 検 討 す るが,そ の 前 に 従 来 の 研 究 に よ る. Dydymovの 捕鯨 の概要 を見 てお こう。.
(7) 森. 田. 勝. 昭. さて, 1860年 代 に登場 したのち 1880∼ 90年 代 に ピー クを迎え, 90年 代 の 自由競争時代 を経 て 1904年 のノルウェー沿岸 での大型捕鯨禁上 に至 る間. ,. ノルウェー式捕鯨技術 はその圧倒的な効率で捕鯨産業界を席捲 し,砲 手 をは じめとす る捕獲技術者 と操船技術者 の移動 とい う形 で,世 界各地 への広 が り を見 せ る。 ロシアで は,1870年 に日本海 に進 出 し早 くも日本 へ の鯨肉輸 出 を手 がけた Otto Vo Lindholmに よる Helsingfors捕 鯨会社 (1861年 設立) のあとを追 って, Akim Grigore宙 tch Dydymovが ノルウェー式捕鯨法 を 採用 し,オ ス ロでキ ャッチャーボー トを発注 して いる (1887年 )。 彼 は 1889 年 にノル ウェー式捕鯨技術開発者 Svend Foynの 親戚 2名 を船長 と航海士 として乗組 ませ ウラジオス トックで操業 を開始 し,そ の年 の数 ヶ月で捕鯨範 囲 を朝鮮半島まで広 げて いる。 1890年 冬,Dydymovの 捕鯨 は捕鯨船遭難 を機 に終 わ りを告 げる。その後 い くつかの捕鯨試行 が失敗 に終 わ った後, ロ シアによる東 アジア捕鯨 で最 も成功 した Ho Ho Keizerlingの ロシア太平洋捕 鯨会社 が登場す る。 さて,Dydymovの 捕鯨 に関す る朴九乗 の記述を見 てみ よう。. 4。. Dydymovの 捕 鯨. :本 卜九 乗. に よ る ロ シ ア資 料 の 利 用. 東南 アジア海域 での ロシア人 によるノル ウェー式捕鯨 を最初 に開始 した人 物 が海軍 出身 の Dydymovで ある。朴九乗 は Dydymovに よる捕鯨 を再構 成す るために,① ロシア人研究者 の成果,② 日本側資料,③ 韓国側資料 の 三 つを利用す る。 まず 1880年 代後半 か ら始 まる捕鯨事業準備期 か ら1889年 の捕鯨成功 まで の時期 に関 して は,ほ とん どが ロ シア人研究者 Ernst Webermanと ノル ウェー人研究者 の Jo N.Tonnessen/A.0。 Johnsenの 記述 によ って い る。. Ernst Webermanの 捕鯨産業史 (1914)は ,朴 九乗お よび Tonnessenの 重 要 な 2次 資料 である。Webermanの 産業史 は Dydymov自 身 が発表 した論 文 (1886)を 中心的 な資料 として採用 して いるが,Dydymovに 関 しては朴.
(8) 韓半島沿海捕鯨 と資料 の問題 〔1〕. の記述 が詳細 であ る。 それ によれば,Dydymovは 海軍 士官 と して東 ア ジア海域 で活動 中, この 海域 の鯨 類 資源 の可能 性 に気 づ き,同 時 に Lindholmお よび ア メ リカ捕鯨 船 の操業 を 目の 当 た りに して捕鯨産業開始 を考 え始 め る。 Dydymovは この 間 の事情 を論文 の形 で発 表 して捕鯨 の経済 的 な可能性 を力説 し, ロシア領海 の鯨 類 資源 を外 国勢 力 (ア メ リカ捕鯨産 業 と Lindoholm)に 奪 われて い る 事実 に言及 , ロシアのナ シ ョナ リズ ムに訴 えた。 Dydymovは 政府関係者 へ 精力 的 に働 きか けて捕鯨許可 を獲得 す ると同時 に政府 や民 間 か ら資金 を集 め て い る。 実際, 1881年 か ら 4年 にか けて 31隻 の アメ リカ捕鯨船 が シベ リア 東海 域 で操 業 し,966頭 の ク ジラを捕獲 し 75万 3千 ポ ン ドの収益 を上 げた とい う (Tonnessen,1984). Dydymovは 東 ア ジア海域 ヘ ノル ウェー式捕鯨 を初 めて導入 す るためにオ ス ロの Nylands造 船所 に捕鯨船 を発注 す る。朴九乗 によれ ば アイス ラ ン ド 海域 で活動 した汽船 を モ デ ル と して作 られ た 《ケネ ジ. ネ ベ リス コイ号》 と. 命名 され た同船 は,全 長 84フ ィー ト,幅 18フ ィー ト,排 水 トン数 170ト ン ,. 登録 トン数 41ト ン, 120馬 力 ,最 高速度 12ノ ッ ト,最 新式 の フ ォイ ン砲 を 搭載 して いた とい う。竣工 は 1887年 だ ったが 資金不足 とそれ に と もな う人 員不足 で 2年 間繋留 を余儀 な くされ た。 オ ス ロを 出発 す るの は 1889年 7月 16日 で,100日 あ ま りで ウ ラ ジオ ス トックに到着 して い る。 12名 の乗 員 の うち. 7名 が ノ ル ウ ェ ー 人 で あ り,船 長 は Svend Foynの 甥 に あ た る. Samuel Foynと な って い る. (本. , 1995)。 卜. 到着後 は不法操業 で拿捕 されたア メ リカ捕鯨船. Arona号 を譲渡 され,《 ナ. デ ジュ ダ号》 と改名 して運搬業務 につ かせ ることに した。 船長 は Lindholm の もとで の捕鯨経験 を持 つ ロシア人 があた った。朴 によれば,Dydymovは ど うい う理 由 か らか Foynを 含 むす べ ての ノル ウェー人 を解雇 して新 たに乗 員 を雇 った。彼 らは,無 期休暇 中 の軍人 や アメ リカ捕鯨船 に乗 り組 み捕鯨経 験 をつん だ 「 土人」 (韓 国語表記 のまま)で あ った とい う。 朴 の この情報 が 正 しい とすれば,東 ア ジア海域 で最初 の ノル ウェー式捕鯨 の捕獲技術 を誰 が.
(9) 森. 田 勝. 昭. 担 ったのか とい う問題 が 出 て くる。 また シベ リアの先住民 とアメ リカ捕鯨船 の関係 も,東 ア ジア海域 の海洋資源利用 と民族 関係 を知 る上 で ひ とつの重要 な ポイ ン トとな るだ ろ う。. Dydymovは. 1889年 秋操業 を開始 し,す ぐさま「東海」 (韓 半 島東 に広 が. る海洋 を韓国 で は一 般 的 に こ う呼 ぶ)の 鯨類資源 の可能性 に気 づ き,オ ホー ツク海 か ら東海 へ操業 区域 を変更 す る。 同時 に基地 を ウラジオス トクか ら東 へ 180 kmの. Hajdamakへ 移 して い る。 3月 まで に 23頭 を捕 獲 し,純 益 2. 万 ル ー ブルを上 げた。好 調 な成 果 に刺激 され 石 鹸 工 場 す ら出現 した。翌年. 1890年 には春 か ら秋 にか けて 「 東海」 海域 で操業 し 50頭 を捕獲 して い る。 朴 はそ の ほとん どが ナガスク ジ ラだ ったので はないか と推測 して い る。 ク ジ ラ髪 は英 国 へ販売 したが主 要市場 は 日本 にな って い る。 日本 へ は食 肉 と して 塩蔵 肉,脂 皮 を送 り込 んだが,時 には捕獲 した ク ジ ラをそのまま売 ること も あ った らしい。. 日本語 資料 の利用 朴九乗 はこの 日本 へ輸 出 され た クジラ製品 のイ ンパ ク トを今 度 は日本語資 料 を使 って再構成 す る。利用 した主 要資料 は,明 治期 にお ける最大 の水産業 界誌 『 大 日本 水産會報』,「官報」,「 日本外交文書」 で あ る。鳥巣京 一 も指摘 す るとお り, 1890年 代 (明 治 27年 以 降)か ら活発化 す る捕鯨 に関す る資料 で研究 に使用 されて い る もの は以 外 に も少 な く,ほ とん ど未整理 の ままであ る (鳥 巣 , 1993, 1999)。. 鳥巣 は精力 的 に九州地方 の新 聞 ,地 方政府記録等. を調査 し整理 す る作業 を続 けて い る。筆者 は明治 16年 の発刊 か ら明治 44年 まで の『 大 日本水産會報』 ク ジ ラ・ 捕鯨 関連記事 を調査 した ことが あ るが. ,. この明治期最大 の水産業界誌 です らその詳細 な調査 は不充分 といえ る。 この 月刊水産業界誌 は,誤 植 や誤 記 も散見 され るが,明 治期 の東 ア ジア海域 にお け る捕 鯨 関連情報 の重要 な資料 と判 断 で きる。 ちなみ に 1997年 出版 の 日本 民俗文化資料集成第 18巻 『 鯨・ イルカの民俗』 で従来注 目度 が低 か った捕.
(10) 韓半島沿海捕鯨 と資料 の問題 〔1〕. 鯨 資料 と して収 録 されて い る「諾 威 式 捕鯨 実 験 談」 は,『 大 日本 水産 會報』 (第. 222巻 )か らの抜粋 であ る。 ここで『 大 日本水産會報』 の Dydymov関. 連記事 を まとめてお く。. Dydymovの 捕鯨計画 に対 す る日本 側 の反応 は想 像以上 にはや い。 まず第 63号 (1887年 ),(以 後 63/1887と 表記す る)で は,当 時,水 産業界 で活発 化 しつつ あ った近代捕鯨 開発運動 の リー ダーの ひ とりで,遠 洋捕鯨 のアイデ アを広 め る小冊子 『 捕鯨説』 (1886)の 著者 ,平 松興 一 郎 によ る「海防 の急 務捕鯨 にあ り」 が掲載 され,Dydymov捕 鯨 の記事 が初 めて登場 して い る。 この記事 で は「普國官報」 か らの情報 と して,Dydymovが 捕鯨 を画策 しオ ス ロで キ ャッチ ャー を発注 して いた頃 の情報 を とりあげて い る。 第 69号 (69/1887)誌 上 には,「 大水」 の 「第五十八回小集會」 (1887年 10月 22日 )で , 日本 の捕鯨推進運動 の先頭 に立 つ 開澤 明清 が行 った「 魯國 捕鯨會社設立 ノ奉 ヲ聞 テ感 ア リ」 とい う演説 が収録 され る。 開澤 の情報 源 は 3月 15日 お よび 10月 16日 付 「官報」 で,. Dydymovが 船 を発注 した 「 ク. リスチ ャニ ア」市 の「 ニ ュー ラ ン ト」造船所 ,そ の代理人「 ポ ン子 ウイ ー」 な どの情報 が盛 り込 まれ,続 いて開澤 が コメ ン トを加 えて い る。開澤 は欧米 勢 力 が比 較 的未 開発 の東 ア ジア鯨 類 資 源 に着 目 して い る点 に注 意 を促 し ,. 「 我 日本海 ノ鯨 ハ 日本人 ニ テ業 ヲ興 シ 日本人 ニ テ捕 り儘 シ 日本 國 ノ利益 ヲ謀 ラズ シテ可 ナ ラ ンヤ」 と,〈 資源 ナ シ ョナ リズム〉 を喚起 す る。 日本海 は韓 国 のい う「東海」 で はな く, 日本領海 とい うい う意味で使 われて い る。 ただ その領海 に「東海」 が含 まれ るよ うにな るまで にそれ ほど時間 はかか らな い。 第 102号 「露國 の捕鯨船」 (102/1890)で は Dydymovの 捕鯨船 を「 ゲ ン ナ ー デ,子 ウエル スユ イ」,運 搬船 を 「 ナデ シー ダ」 と紹介 し, 当時長崎 に 停泊 中 の船団 が 3月 14日 に出航 し, 韓国成鏡道 , 元 山 の 「 四十里手前 の小 湾」 に停泊所 を設 けて 23頭 の鯨 を捕獲 したあ と, 4月 7日 に長崎 へ入航 し ,. 日本商社「紀平会社」 を通 じて鯨 肉 を売 りさば いて いた とい う。 その重量 お. 5万 4千 円あま りの取 引 だ った。 この記事 によれば ロシア捕 鯨船 はすで に韓半 島 を漁 場 と し,市 場 と して は日本 を利用す るとい う構造 を よそ 12万 斤 ,.
(11) 森. 田. 勝. 昭. 確立 して いた らしい。鳥巣 は ロシ アか らの長 崎 へ の鯨 肉輸入 は 1896年 か ら 始 まると してい るが (鳥 巣 , 1993, 1999), ロシアか らの鯨 肉流入 は もうす こ し早 か った よ うだ。 Dydydmovの 捕鯨 は この冬 に捕鯨船遭難 とと もに幕 を閉 じて い る。. ,Dydymovの 捕鯨 関連情報 で,平 戸 の稲垣雄太郎他一名 の名義 を借 りて,壱 岐 に根拠地 を 第 104号 「 日本 海 に於 ける露 國人 の捕鯨」 (104/1890)も. 置 く計画があ ることを報 じて い る。. Hl号 「浦 潮 斯 徳 の 鯨 肉 日本 の 市 場 に上 る」 (lH/1891))は 長 崎 に 入 った Dydymov生 産 の鯨 肉 の イ ンパ ク トを報 告 して い る。長 崎 に本格 的 第. に食 肉 と しての鯨 肉 が流入 す るの は,Dydymovの 後 を引 き継 いで捕鯨 に着 手 した H.H.Kejzerlingの 太平洋捕鯨会 社 の活動 が軌道 に乗 る 1895年 以 降 の ことだが,す で に 1890年 か らロ シア製鯨 肉 が長 崎 で波紋 を起 こ して い る 状況 が報 じられて い る。. H2号 「魯 國 絶 東 地 方 に於 け る漁 民 の 移 住 奨 励」 (112/1891)で は Dydymovの 捕鯨 に言及 した後 , ロシア政府 が漁業振興 のため太平洋岸 へ の 第. ,. 移住 を奨励 して い るとの「 日本新 聞」 の記事 を転載 して い る。 第 116号 「 日本 海 に 於 け る外 國 人 捕 鯨 の 近 況」 (116/1891)は 第 104号 「 日本海 に於 ける露 國人 の捕鯨」 の続報 で, ウラジオス トック在留 の長崎縣 北松浦郡稲垣雄太郎 と東彼杵郡楠本廉介 (林 の誤植 か?)が 壱 岐郡箱崎村 か ら旧捕鯨 場 を,Dydymovか らは船資材 その他 を借 り受 けて の捕鯨 を計画す るが,外 国船 を 雇 い入 れ 不 開港 場 へ 入 港 す る こ とを 禁 じた の 太 政 官 布 告. (1869年 )を 理 由 に却下 された事情 を報 じて い る。 朴九乗 は第 63号 , 64号 の 関 連 で はそ の 根 拠 とな って い る「官 報」 を 利 用 し,第 102号 ,104号. ,. 116号 (朴 九乗 は 115号 と して い るが誤 解 だ ろ う)は その まま記 事 を利用 し て い る。.
(12) 64. 韓半島沿海捕鯨 と資料 の問題 〔1〕. 6。. 本卜九乗 による稲垣雄太郎 /楠 本廉介 の捕鯨計画. この 時 期 ,日 本 にお け るノ ル ウ ェー式 捕鯨 計 画 に,稲 垣 雄 太郎 /楠 本 廉 介 の捕鯨計画 の事例 が あ る。『 大 日本水産会報』 第 104号 ,. H6号 ,. お よび. 鳥巣京 一 による調査 と,朴 九乗 の調査 を比較 してみ よ う。 まず ,『 大 日本水産會報』 の情報 によると, ウラジオス トック在留 の長崎 縣北松浦郡稲垣雄太郎 と東彼杵郡楠本廉介 (誤 植 か?)が , 壱 岐郡箱崎村 か ら旧捕鯨 場 を,Dydymovか らは船 資材 その他 を借 り受 けて捕鯨 を計画す る が,外 国船 を雇 い入 れ不開港場 へ入港す ることを禁 じた太政 官布告 を理 由 に 却下 されて い る。 鳥巣京 一 が長崎県立図書館 で調査 した資料 ,明 治 23年 の「 農商課事務簿」 によれ ば,ウ ラジオス トック在住 の稲垣雄太郎 と林廉介両 名 が 1890年 頃 に 提 出 した計画案 で は,Dydymov所 有 の船 と乗組員 を借 り入 れ,平 戸 ない し は五 島方面 で ノル ウ ェー式 捕鯨 を試 み る とい う ものだ った よ うだ (鳥 巣. 1993:271-2,1999:333-4)。. ,. これ に対 し朴九 乗 は,『 大 日本水産會報』 第. 104号 と,『 日本外交文書』 (外 務省編纂 )を 禾け用 して次 の よ うな事情 を再現 して い る。 この件 に関す る記述 が 『 日本外交文書』 (外 務省編纂 )に あ る。 つ ま り ,. ママ〕廉介 (当 時 士族 で あ った上記稲垣雄太郎 と東彼杵郡 崎針尾村 の楠本 〔 ウ ラ ジオス トック在留 )が , ロシア捕鯨汽船 を借受 け,銃 殺鯨猟 の営業 を計 画 しこの許可 を長 崎県知事 に出願 した。 これを許可す れば,不 開港場 へ外国 船 を雇 い入 れて出入 りす るばか りか,操 業 す るにつ いて は時 によ り朝鮮近海 へ も侵入 し,朝 日両 国 の漁業者間 に葛藤 を発生 させ る懸念 もあ りうる ことか ら,同 県知事 は不許可 の方針 を立 て る。 同時 に この件 に関 して当局 の意見 を 聞 くために 1890年 12月 12日 , 内務大 臣 と農商務大 臣 に上 申 して い る。 こ の上 申書 には出願人 が提 出 した約定書 (案 )が 添付 されて いた。 同約定書 を.
(13) 森. 見 ると,ま ず「 明治 23年 12月. 田. 勝. 昭. 日魯暦 1890年 12月. 日. 日本長崎 にて. ,. 日本 臣民稲垣雄太郎 ,楠 本廉介 と魯 臣民捕鯨船 ケネ ジ・ ネベ ル ス コイ号船主 兼船長 デ ィデ ィモ フが下記 の条約 を締結 した」 とあ り, 続 いて全文. Hヶ 条. の条文 を羅列 して い る。主 な内容 は,上 記 2名 の 日本人 が 日本海岸 の彼 らの 借 区 で 捕鯨 をす るた め,ロ シ ァ人 デ ィデ ィモ フの捕鯨 汽 船 を 1890年 12月. 25日 か ら 3ヶ 月 間借 り入 れ る こと,そ の期 間 内 は指 定 され た借 区 にお いて の み操業 し,汽 船雇 い主 の承諾 な しには他水域 で の操業 をす る ことは出来 な い こと,雇 い主 は汽船 ケネ ジ・ ネ ベ ルス コイお よび附属船 ナデ ジュ ダとそ の 乗務員全員 へ の給与 と して一 定金額 をデ ィデ ィモ フに支払 い,ま たデ ィデ ィ モ フに対 して は,捕 獲 した鯨 の種類 を問わず全 ての髪 を提供 す るなどとな っ て い る。 しか し, 日本 外務省 は 1891年 3月 に外国船雇 い入 れ の根拠 が ない ことを理 由に,許 可 しない決定 を した。 この ことか ら,デ ィデ ィモ フは 日本 領海 内 の捕鯨 も計画 して いた ことを知 ることが 出来 る。漁場 は箱崎村前 日. ,. 東西 60里 ,南 北 40里 の海面 だ った (朴 九乗 ,1995:177-8)。. この捕鯨計画 の詳細 に関 して は更 に調査 が必要 で あ る。. 韓国側資料か ら見 た Dydymov. Dydymovは 韓 国 沿岸 で の操業 を 中心 に据 え たが,法 的 に は,沿 岸 か ら 30マ イ ル 内 の海 域 へ の侵入 は 出来 な い ことにな って いた。 しか し,実 際 に は不 開港地 へ 出入 して,韓 国領海 内 で も鯨群 を発 見す ると追尾 し捕獲 す るこ とが あ った模様 で,事 実上 ,国 際法規 は無 視 されて い た。経済 の原則 が先行 し,合 法性 の問題 は事後考慮 す るとい うプ ロセ スが,韓 国沿岸 の漁業資源一 般 に 当 て はま る。 こ う して Dydymov捕 鯨 で は,非 合 法 的 に韓 国沿 岸 に接 近 0接 岸 し,資 源 を搾取 す る ロシア捕鯨船 団 と,韓 国 の人 々 との間 に「 文化 接触」 の空間が生 まれた。 朴九乗 は, 当時 の韓国 の人 々 は Dydymovの 捕 鯨 に対 して は好 意 的 で,接 岸 した船 団 に対 して あ らゆ る援 助 をお しまず. ,.
(14) 韓半島沿海捕鯨 と資料 の問題 〔1〕. Dydymovも. 見 かえ りと して鯨 肉 を無償 で分 け与 えた と して い る (朴 九乗. ,. 1995:178)こ の根拠 に関 して は朴九乗 は明 らか に して いない。 しか し, 韓 国 の人 々が この捕鯨船 団 に注 目 して いた らしい ことは,船 団 の遭難事件 が起 こった ときの韓 国側 の反応 をみれば明 らかだ。. ,長 崎 に鯨 肉 を もた ら し日本 人 を驚 嘆 させ た Dydymov船 団 は,同 年 の 12月 末 に東海岸 の停 泊地 を 出 た後 ,遭 難 し消息 不 明 とな る。 この事件 の経緯 につ いて は,ロ シアの資料 (前 述 の Weberman 前述 の とお り,1890年 4月. に よ る研 究 )と ,韓 国側 の 資料 を比 較検 討 して い る。 ロ シア側 資料 をか ら. Wenermanが 描 く事件 の概要 は次 のよ うに な る。 遭難 は 1890年 12月 末 , あ るいは 1月 に起 こった らしい。 まず. H月 に ウ. ラ ジオス トクを 出航 した捕鯨汽船 は,途 中運搬用帆船 と合流 す る。 しか し ,. 帆船 は冬 場 の東海地方 の悪天候 を避 けて あ る湾 に避 難 し,捕 鯨汽船 だ けが捕 鯨活動 を継続 した。 一 度鯨 肉 を帆船 に積 み替 え,期 日を指定 して待機命令 を 出 し,期 日まで に戻 らなければ帆船 だ けで長崎 に向 か うよ う指示 した。捕鯨 汽船 は再 び東海 で の捕鯨活動 を再 開 した。 12月 31日 , 日本 汽船 の 「高千穂 丸」 が元 山 に入港 中,北 方 に航行 中 の汽船 を 目撃 す る。待機期限 が きた の で 帆船 は単 独 で長崎 に向 か い,そ こで汽船 を待 ちなが らた またま停泊 中 の ロシ ア太平洋艦隊 の軍艦 を通 じて ウ ラ ジオス トックヘ 消息 を照会 して い る。 その 後東 ア ジアー 帯 に情報 を照会す るが汽船 は行方不 明 の ままにな る。 朴 は『 俄案』及 び『統記』 に散見 され る同汽船 に関す る記録 を紹介 して い る。 まず 『俄 案』 によれば, 1891年 に ロシア公使 か ら「 督舞交渉通商事務 間種黙」 に対 し,失 踪 した ロシア捕鯨船 に関す る照会 が あ った。 その情報 を 纏 め ると,① 1890年 末 ロシア捕鯨船 が東海方面 で 消息 を絶 った こと,② 12 月 1日 に停泊地 か ら北 へ 向 か ったが最後 の停泊地 は江 原道高城 か らほど遠 く ない磨銀津 とい うと ころだ った らしい こと, ③ 鉄船 で船長 1名 他 13名 の乗 り組 み だ った こと,④ 石炭 は 8ト ンだ けに な って お り,豆 満 江 あた りで遭 難 した らしい こと, とな る。 また『 統記』 には,韓 国側 が東海沿岸地方 に訓 令 を 出 し情報収集 にあた って い ることが記録 されて い る。 これ以 降 の ことに.
(15) 森. 田 勝. 昭. 関 して は『 俄案』 お よび 『 統記』 に も記録 はない とい う (朴 九乗 , 1995: 180)。. 朴九乗 の調査 か らは,Dydymovが 予想以 上 に韓 国東沿岸地域 に接触. を持 って いた らしい こと,ま た鯨 肉消費地 と しての 日本 が重 要 な位置 を 占め て いた こと,「 紀平会社」 な どのよ うに, 国民国家 の国境線 を超 えて鯨 とい う資源 を介 して の「交流」 が あ った ことが推測 され る。. 8。. H.H.Kejzerlingの. Dydymovの 試 み の後 ,. 捕 鯨 活 動 と資 料 の 問 題. H.Ho Keizerlingが 韓半 島沿海 での捕鯨 に着手 す. る。 この捕鯨活動 で実質 的 な韓半 島沿岸鯨類資源開発 が本格化 す る。朴 は こ の捕鯨活動 に関 して も詳細 に記述 してい る。 それを検討 す る前 にまず,Jo N.. Tonnessen&A.0。 Johnsenに 拠 りなが ら,簡 単 に H.H.Keizerlingの 捕 鯨活動 を見 てお こ う。. 1891年 ニ コ ライ 2世 の随行員 と して来 日 し,い わ ゆ る大津事件 に遭 遇 し た経歴 を持 つ海軍 出身 の H.H.Keizerlingは , この東 ア ジア旅行 を契 機 に捕 鯨 に関心 を寄 せ るよ うにな る。彼 はノル ウェーの捕鯨会社 に勤務 して アイス ラ ン ド海域 で の捕鯨 に従事 しなが ら,当 事 ,そ の詳細 に 関 して は秘 密 扱 い だ った ノル ウェー式捕鯨技術 を習 得 した とい う。 ロシア政府 に捕鯨計画 を提 出 して承認 され,貸 付金 と 25年 間 の期 限付 きで シベ リア海域捕鯨権 を取得 し, ノル ウェー製 のキ ャッチ ャー 2隻 で操業 を始 めて い る (1895年 )。. これ. は政府助成金支給 の見返 りと して,東 ア ジア海域 の地理 ,社 会 ,政 治状況 に 関す る情報 を提供 す るとい う極 めて軍事色 の濃 いプ ロジ ェク トだ った。捕鯨 船 団 には,後 に 日本 の東洋捕鯨株式会社 を経 たあ と南極海域 で の遠洋捕鯨確 立 に功績 をあげ るノル ウェー人砲手 Hendrik Go Melsonが 乗組 んで い た。 この船 団 の船 長 は ロ シ ア人 だ った が 単純 労 働 は 中国人 あ るい は「 韓 人」 が 担 った (Tonnessen,Jo N.&Ao O.Johnsen,1982)。. Ho H.Keizerlingの 捕鯨 活 動 は 1904年 の い わ ゆ る「 日露 戦 争」 で 実 質 的 に停止 す る。船 は殆 どが 日本 に拿捕 され,当 事既 に朝鮮半 島東海域 で操業 を.
(16) 韓半島沿海捕鯨 と資料 の問題 〔1〕. 開始 して いた 日本系会社 に払 い下 げ られて い る。 ただ, この間 Kejzerling の捕鯨会社 は, ウラジオス トックだけではな く,長 崎,慶 尚南道 の蔚山 など を基地 として活動を展開 しなが ら,東 アジアのナガス資源 の可能性 を証明 し ,. また 1899年 には大型蒸気機関船 の捕鯨母船 を導入 して現代捕鯨 の道 を開 い ている。1895年 か ら 1903年 までの年平均捕獲頭数 は HO頭 で鯨肉 は全て長 崎へ輸出 された。 さて,朴 九乗 は Keizerlingの 捕鯨活動 を記述す るにあた って,捕 鯨会社 設 立 まで の 経 緯 に 関 して は主 と して 前 述 の Webermanの 論 文 お よ び Keizerlingの 自叙伝 (Berlin,1914)を 利用 し, それ以後 の捕鯨活動 の詳細. に関 してはこれ以外 に日本語資料 と韓国語資料 に依拠 して い る。 日本語資料 としては次 のグループの ものが参照 されて い る。 ①『大 日本水産会報』を は じめてとす る水産業界関連資料. ,. ② 植民地下 の韓国で数多 く出版 された日本語 による韓国研究書. ,. ③ 地理風俗 を紹介す る一般的 な韓国関連書籍. ,. ④ 日本政府 の官報あ るいは政府関連文書. Webernanお よび Keikzerling自 身 の記録 による捕鯨活動 の再構成 はす でに行 われて いるので (Tonnessenn 1984), ここではとくに捕鯨会社設立 (1894年 )以 降 の活動 を, 日韓資料を使 う朴 の調査 を もとに検討 してゆ こう。. Keikzerlingの 捕鯨活動 ;1894年 か ら 1898年 まで 1894年 に設 立 され た捕鯨 会 社 はそ の後 約 10年 活 動 を行 って い る。朴 は 1899年 に株式 会 社組 織 に改編 され るまで の期 間 を前期 ,そ れ以 降 を後 期 と 区分 し, と りわ け前 期 に関 す る資料 が 少 な い とす る。前 期 に 関 して は まず 「 ロシア大蔵省」 調査編纂 によ る韓半 島 の歴史 ,風 俗 ,社 会制度 ,産 業実態 報告書 を 日本 の農商務省 山林局 が翻訳編纂 した『 韓国誌』 (1901),農 商 工 部.
(17) 森. 田. 勝. 昭. 水産局編纂『 韓国水産誌第 一 輯』 (1908),明 治期最大 の捕鯨会社 とな る東洋 捕鯨株式会社 の社史 『 本邦 の諾威式捕鯨誌』 (1910),『 大 日本水産会報』 お よび「 官報」 な どに依拠 しなが ら,操 業水域 ,補 給基地 ,操 業成績 ,産 物市 場. (Dydymov同 様 ,鯨 油及 び髪 の ヨー ロ ッパ市場 とな らんで鯨 肉 の長崎市. 場 が重 要 な位 置 を 占め る)を 概説 してゆ く。 次 に朴九乗 は, 韓 国側資料 と して 『外衛 門 日記 』 を取 り上 げ, 1898年 3 月 に蔚 山 で 目撃 された「 イギ リス捕鯨船団」 は,調 査 の結果 ,汽 船 2隻 ,帆 船 5隻 か らな る ロシ ア捕鯨船 団 と判 明 した経緯 に言及 す る。 『 外衛 門 日記』 には同年 の 5月 に も蔚 山近海 で操業 す る ロシア船 団 の記事 があ るとい う。 こ う した動 きに対 して『 俄案』 で は,韓 国外務大 臣 が捕鯨条約締結 をまたず韓 国領海 内 で操業 す る ロシア捕鯨船 団 に対 し活動 を厳禁 す る旨 と調査 を命 じた 記事 が あ り,漢 字 で船名 と船長名 が記 されて い る。『海開案』 によれば, 同 年. H月 に未開港場 の 「鎮浦」. に ロシア捕鯨船 団 と傭船 の 日本船 2隻 が入港. し,違 法 に鯨体処理 を行 った とい う。 日本船名 は「 大諄丸」 と「大洋丸」 で あ る。 この「鎮 浦」 は誤 記 ら し く,朴 は馬 養 島 の 文 厳 津 と推 定 して い る。 『 外衛 門 日記 』 は 1898年 12月 に,. 5隻 の ロシア船 と 2隻 の 日本船 が入港 し ,. 約 30頭 の鯨 を解体処理 したあ と立 ち去 った とい う馬養 島・ 文厳津 の住民 の 言葉 を記録 して い る。 このよ うに朴 の調査 は, ロシア捕鯨船 団 が韓半 島沿海 で操業 し各地 の港 へ入 って は解体処理 した こと,ま た,そ れ に対 して韓 国政 府 が抗議 す るパ ター ンが繰 り返 されて いた ことを 明 らか に して い る。 また. ,. ロシア船 団 の産 出す る鯨製 品 の運搬 には日本船 が重 要 な役割 を担 って いた こ とが 明 らか にされて い る。 この 日本船 関与 は日本語資料 で もたびたび言及 さ れ る。朴 もそ の代表 的 な資料 で あ る松牧 二 郎 の「諾威式捕鯨賞験談」 (『 大 日 本水産會報』 227号 ,1900)を 引用 す る。 そ こに は運 搬船 と して「賞効丸」 と「大洋丸」 目撃談 が記 されて い る。賞効丸 は元郵船会社 の傭船 で函館定期 航路 の就航 して いた経験 を持 つ。大洋丸 は ス クー ナ ー型 帆船 で,海 獣猟 で著 名 な辻快三 の使用 して いた船 だ とい う。 朴 は韓国語 と日本語 の資料資源 を使 い,東 ア ジア にお ける鯨類資源開発 の.
(18) 70. 韓半島沿海捕鯨 と資料 の問題 〔1〕. 現 場 を従 来 見 られ なか った立 体 的 な 視 点 か ら復 元 しよ うとす る。 今 回報 告 し た の は朴 の研 究 の ご く一 部 で あ り, これ 以 降 の ロ シア と の 捕 鯨 条 約 締 結 , 日 本 の 参 画 , 日本 捕 鯨 産 業 に よ る独 占時代 の 状 況 に 関 して は,朴 の調 査 を辿 り つ つ ,新 た に筆 者 が 調 査 した韓 国語 資料 お よ び 日本 語 資料 を加 え ,稿 を改 め て 報 告 す る。. 日本 語 文 献 江見水蔭 1907『 実地探険捕鯨船』 大江志乃夫 1992『 岩波講座近代 日本 と植民地. I』. 岩波書店. 外務省通商局 1894『 朝鮮近海漁業視察概況』 角 禾J助 1903『 艦訥獣独組織改良方策』二重遠洋漁業株式會社 開澤明清 1893『 朝鮮近海漁業 二関 スル演説』 開澤明清,竹 中邦香 1893『 朝鮮通漁事情』回 々社書店 大 日本水産會 1882∼ 19H『 大 日本水産會報 (告 )』 第 1∼ 351号 韓海捕鯨之一斑 (韓 國釜山朝鮮漁業協會,1899,212) 朝鮮海水産業 の賞況 (朝 鮮漁業協會,1899,213) 三十二年下半季漁業情況報告 (朝 鮮漁業協會,1899,218) 諾威式捕鯨法一斑 (松 牧二郎,1899,222) 諾威式捕鯨賞験談 (松 牧二郎,1900,226) 諾威式捕鯨賞験談 (松 牧二郎,1900,227) 諾威式捕鯨賞験談 (松 牧二郎,1900,228) 諾威式捕鯨賞験談 (松 牧二郎,1900,229) 諾威式捕鯨賞験談 (松 牧二郎,1900,230) 朝鮮捕鯨業 (朝 鮮海通漁組合聯号會調査,1900,234) 朝鮮捕鯨業 (朝 鮮海通漁組合聯号會調査,1900,235) 大 日本水産會 1895『 明治二十七年度水産調査所事業報告』 1896『 明治二十八年水産調査書事業報告』 大 日本水産會 1896『 捕鯨志』 高尾新衛門『元山嚢展史』上 朝鮮総督府 1910『 水産統計』. 19H『 水産統計』 東洋捕鯨株式會社編 1910『 本邦 の諾威式捕鯨誌』東洋捕鯨株式會社 高瀬寅昌 1895『 海獣猟業方策』.
(19) 森. 田 勝. 71. 昭. 鳥巣京- 1993『 西海捕鯨業 の研究』九州大学出版会 1999『 西海捕鯨 の史的研究』九州大学出版会. 農商工部水産局 1908-19H『 韓國水産誌』 農商務省水産調査所 1894『 臓虎膿肋獣調査報告』 美島龍夫 1899『 捕鯨新論』高山房出版 森田勝昭 1994『 鯨 と捕鯨 の文化史』名古屋大学出版会 山 口県水産組合 1907『 韓國水産業調査報告』 山 口 精 1910,1911『 朝鮮産業誌』中,下 巻. 韓国語文献 本卜九乗 1995『 韓半島沿海捕鯨史』釜山固書出版民族文化 昼 掩失 1990『 日帝時代 せ漁村 劇文化変容』亜細亜文化社 慶尚南道誌編纂委員會 1963『 慶尚南道誌』中. 欧 文 文 献. Davis,L.E.&Robert E.Gallman.1993.`Amterican Whaling,1820-1900: Dorrlinace and Decline'in BoL.Basberg ed。. ,Nゝα. Jづ. fFり 行 ηg αηαttrJs′ θ ′ `り. υθs oη spθ c′ づ. ′ んθ 」 Eυ ο ι π′ づ οη o/′ んθlη απS′ γ フ.. Sandefiord.. Korrlinandor. Chro Christensens Halfangstinuseum.. Tonnessen,N.&A.〇 .Johnsen。. づ ηg。 1982.Tん θ ″Js′ ο,ッ o/Moα θ,切 Nゝαι. Berkeley. University of California Press..
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