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Catholic Homiliesにおける聖書引用

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全文

(1)

I

表題でいう聖書引用

(biblicalquotation)

とは,説教散文などに現れる聖書の章句の引用のことで,

聖書翻訳

(biblicaltranslation)

とは別のジャンルである。この区別はもちろん広く一般に認められて

おり,とくに古英語散文の研究においては,両者の文体のレベルの違いという観点からしばしば問題

にされてきた。例えば Harvey Mi

nkoffは,・l

fri

cの Genesi

sの翻訳と Cathol

i

cHomi

l

i

esにおけ

る同書からの引用を比較して論じ,その中で,上記の二つを含め合計三つの文体を・l

fri

cの散文作

品の中に認め,次のように述べている。

Allofthisfallsintoplace,however,if・lfric・spracticeisdividedintothreesections:non-biblical, biblicalfaithfulness,and biblicalliteralness.Thebulk oftheHomiliesisnon-biblical,and,asis almostuniversallyagreed,・lfrictreatshissourcesveryfreely;theHomilieswouldthusrepresent ・lfric・spersonalstyle.Within theHomilies,though,aremany biblicalquotationswhich clearly echoLatin phrasesandlocutions.Yet,whileithaslong been thoughtthatthesequotationsare

学苑英語コミュニケーション紀要 No.846 98~111(20114)

Cathol

i

cHomi

l

i

esにおける聖書引用

小 川

Bi

bl

i

calQuotati

onsi

ntheCathol

i

cHomi

l

i

es

Hi

roshiOgawa

Abstract

Basedonalecturedeliveredina2008symposium onmedievalEnglishliterature,thisessay discussessomeoftheproblemswefaceinreadingthebiblicalquotations・lfricmakesinhis OldEnglishhomiliesoftheCatholicHomiliesseries.Itexaminestheproblemsintermsofthe homilist・sdistinctivecreativemethod,which m ay bedefined,in relation to theantecedent workshedrawsupon,asfundamentally ・aprocessofselection,adaptation and independent argument・,as one scholar puts it.The essay consists of four sections.Following the introductorysection,thesecondsectionexaminesthreehomilies(CH II.37,I.2,andII.24), comparingthequotations・lfricmakesintheirrespectivepericopesandbodies,andarguesfor afew pointsofview which m ay beimportantin understanding thedifferences.Thesecond mainsectionexaminestwootherhomilies(CH I.26andII.7),focusingupon・lfric・smethod of・continuousgloss・in them and considering,among otherthings,hisdistinctiveway of introducing hisown voiceashomilistinto thespeech ofthehagiographicalcharacter.The essay concludeswith abriefsummary ofthepresentdiscussion andareferencetothenew problemsthathaveemergedfrom it.

(2)

literaltranslations,comparing them to corresponding verses in Genesis shows thatthey are merelyfaithful.Genesisisliteral.Andthedifferenceissignificant.1

Mi

nkoffが指摘しているように,・l

fri

cの聖書引用は内容的には無論 ・

fai

thful

・であるにしても,

文章そのものは,Genesi

sの翻訳の ・

bi

bl

i

call

i

teral

ness・に比して遥かに逐語的でない形でウルガ

タを古英語に移し替えている。一方,Mi

nkoffが・l

fri

cの ・

personalstyl

e・と呼んでいる部分

(つ まり「地の文」で,典型的には引用章句に対する注釈を展開する部分)

も殆どの場合ラテン語の説教などの

典拠があるが,その場合も・l

fri

cは独自の方法で書き直しており,・l

fri

cの説教散文は全体として,

aprocessofsel

ecti

on,adaptati

on andi

ndependentargument・であると言われる。

2

その意味

では,聖書引用において・l

fri

cが示す自由さは彼の説教散文全般の本質に関わる特徴であり,重要

である。そこでその実態と問題点を,Cathol

i

cHomi

l

i

esのいくつかの作品を例にとって考えてみた

い。

II

Cathol

i

cHomi

l

i

es中の作品は,典型的には所謂 homi

l

i

aの形式を取る。即ち,先ず,伝統的に定め

られたその日の聖書の一節がラテン語と古英語で引用され,ついでその章句をもう 1度,今度は

verseごとに区切って引用し,順次解説を施していく。前者は peri

copeと呼ばれ,後者は説教本体で,

exegesi

sとか commentary或いは exposi

ti

onと呼ばれる

(本稿では expositionという語を用いる)

。し

たがって Cathol

i

cHomi

l

i

esでは多くの場合,聖書の章句は一つの作品で 2回引用される。問題はそ

の 2回の引用文の関係である。一般的に言えば,peri

copeはラテン語聖書の朗読の直後に来て,そ

の翻訳の役目を果たすのであるから,exposi

ti

onの部分に比べてウルガタの原文に近く,より逐語

的な引用と考えられる。例えば ・

Parabl

eoftheTal

ents・の名で知られる Matthew 25:1430に

基づく説教

(CH II,xxxviiiInNataleUniusConfessoris;DOE分類番号 ・CHom II,43)

では,確かに

そうなっている。

3

比較のために,譬話の前半 2人の善き僕と主人とのやりとりの部分 の三

つのテクスト

(順に,ウルガタ,・lfricの pericope,同じく exposition)

を下に掲げる。

4

Matthew 25:202320Etaccedensquiquinquetalentaacceperat,obtulitaliaquinquetalenta,dicens: Domine,quinquetalentatradidistimihi,eccealiaquinquesuperlucratussum.21Aitillidominus eius:Eugeservebone,etfidelis,quiasuperpaucafuistifidelis,supermultateconstituam,intra ingaudium dominitui.22Accessitautem etquiduotalentaacceperat,etait:Domine,duotalenta tradidistimihi,eccealiaduolucratussum.23Aitillidominuseius:Eugeservebone,etfidelis,quia superpaucafuistifidelis,supermultateconstituam,intraingaudium dominitui.

・CHom II,43.1424・ageneal・htese・e・rfifpundunderfeng.andcw・・;Hlaford.・ubef・stest mefifpund.efnenuich・bbe・egestryned・・rtoeacano・refifpund;・acw・・sehlafordhim to; Eala ・u goda ・eowa.and getrywe.・u w・regetryweon lytlum ・ingum.icwille・esettan ofer maran.farnuinto・ineshlafordesgefean;・acom seo・er・eowase・etwapundunderfengand cw・・;Hlaford.・ubet・htestmetwapund・inesfeos.andefnenuich・bbe・egestrynedo・retwa ・・rto;・acw・・sehlaford;Eala・ugoda・eowaandgetrywe.・uw・regetryweonlytlum ・ingum.

(3)

icwille・esettanofermaran.farnuinto・ineshlafordesgefean;

・CHom II,43.8892・onnecwe・heto・am godum ・eowan.swaswa・isgodspellseg・;Eala・u goda・eowaandgetrywe.・uw・regetryweonlytlum ・ingum.icwylle・esettanofermaran.far nuinto・ineshlafordesgefean;

見られる通り,peri

copeの引用は原文に極めて忠実である。一方 exposi

ti

onでは,主人の言葉は 1

度だけ現れ,2人の善き僕は一般化した「善き僕

(・・am godum ・eowan・)

(単数)5

として一つの文に

纏めて扱われている。・l

fri

cは意訳し,要約の形で引用しているのである。もっとも peri

copeも完

全にラテン語に忠実なわけではない。いくつかの語句が付け加えられているが,特に顕著なのは,2

番目の僕の言葉で ・

・i

nesfeos・という 2語が付け加えられ,・

twapund・i

nesfeos・

(あなたの財産の 2ポンド)

となっている点である

(引用 5行目)

。この追加によって ・l

fri

cは,人の持つ能力が神の恩

寵の賜物であることを強調し,後に続く説教の内容を先取りしている。

6

・l

fri

cの peri

copeはあくま

で聖書引用であって,聖書翻訳ではない。しかもそれは解釈を含んだ引用なのである。その点につい

ては後でもう 1度触れるとして,上掲の例では確かに peri

copeの方がラテン語の原文に忠実である。

しかし常にそうだというわけではない。逆の場合 exposition中の引用の方がウルガタに近い

場合 は,例えば降誕祭の説教

(CH I,iiNativitasDomini;・CHom I,2)

におけるルカ伝からの

引用に見られる。再び三つのテクストを掲出する。

Luke2:151715Etfactum est,utdiscesseruntabeisAngeliin caelum:pastoresloquebanturad invicem:TranseamususqueBethlehem,etvideamushocverbum,quodfactum est,quodDominus ostenditnobis[var.quodfactum est,quodfecitDominusetostenditnobis]...17Videntesautem cognoveruntdeverbo,quoddictum eratillisdepuerohoc.

・CHom I,2.3138& ・aenglas・agewitonofheoragesih・etoheofonum;hw・t・ahyrdas・ahim betweonan spr・con;uton faran tobethleem.& geseon $word・eusgod・teowde;hicomon ・a hre・dlice& gemettonmarian.& ioseph.& $cildgeledonanrebinneswaswahim seengelcydde; ・ahyrdasso・liceoncneowunbe・am worde・ehim ges・dw・sbe・am cilde.& eallewundrodon ・e$gehyrdon.& eacbe・an・e・ahyrdashim s・don;

・CHom I,2.163203・ahyrdas・aspr・conhim betweonan.・fter・・raenglafram f・relde・uton gefaran to bethleem.& geseon $word ・egeworden is& god usgeswutelode;...・a hyrdas gesawon & oncneowan.be ・am cilde.swa swa him ges・d w・s;...Hw・t・a ealle ・a ・e $ gehyrdonmiclum ・・swundrodon・& be・am ・e・ahyrdass・don;

天使のお告げを聞いた羊飼いたちがベツレヘムに赴き,嬰児イエスらと対面する場面であるが,ウル

ガタ 15節後半の ・

hocverbum,quodfactum est,quodDomi

nusostendi

tnobi

s・の引用として

は,文字通り二つの関係詞節を伴った exposi

ti

onの ・

$word・egewordeni

s&godusgeswutel

o

de・のほうが原文に忠実である。peri

copeでは ・

$word・eusgod・teowde・と一つの関係詞節に

収められており,緩やかな引用である。17節冒頭の ・

Vi

dentes...cognoverunt・に対する ・

gesaw

on& oncneowan・

(exposition)

と ・

oncneowun・

(pericope)

も同様である。しかし反対に 15節冒頭

(4)

ウルガタの叙述の順序

(「天使たちが ...羊飼いたちが ...」)

に忠実なのは peri

cope

(・・aenglas...;hw・t ・ahyrdas...・)

である

(expositionでは,天使の記述は前置詞句の形で,「羊飼いたち」を主語とする文の中 に埋め込まれている)

。同様に 17節後半も,ウルガタの ・

deverbo,quoddi

ctum erati

l

l

i

sdepuero

hoc・に対して,peri

copeはほぼそのままの語順で ・

be・am worde・ehi

m ges・dw・sbe・am ci

l

de・

だが,exposi

ti

onは ・

be・am ci

l

de.swaswahi

m ges・dw・s・である。このように同じ一節の中

でも一様ではなく,事態は複雑である。

もう一つの例を,以前に発表した論文からそのまま引用する。聖ペテロの祝日の説教

(CH II,xxiv In FestiuitateSanctiPetriApostoli;・CHom II,24)

における Matthew 14:23の引用について次の

ように書いた。

Inthis[CatholicHomilies],wefindexamples[oftheto-infinitive]whicharetranslationsnotonlyof theLatininfinitive....HisexamplesalsoincludeonewhichcorrespondstoaLatinparticiple(・CHom i.542.20todemenneforMatt19:28iudicantes),andaninterestingvariationofconstructionbased ontheLatininfinitiveinMatt14:23ascenditinmontem solusorare:

・CHom ii.24.60He...astahanauptoanredune.woldehinegebiddan....92Cristanaastah upto・・redune.・・thehinegeb・de;Seoheagedun getacna・・・reheofenan heahnysse.to ・・reastah seh・lendana....131Heastah anaupto・・redunehinetogebiddenne.for・an ・eheastahtoheofenum ・・thewoldeus・ingiantohis・lmihtiganf・der.7

つまり Matthew 14:23のラテン語の不定詞

(・orare・)

が peri

copeでは非連辞的並列

(・woldehine gebiddan・)

で引用されているが,exposi

ti

on131行目では逐語的に不定詞構文

(・hinetogebiddenne・)

になっている。その意味では,ここでもやはり exposi

ti

onにおける引用の方が peri

copeよりも,ラ

テン語に近い。しかしこれに先行する 92行目では,同じ個所が・・t節

(・・・thehinegeb・de・)

を用

いて引用されている。つまり同じ exposi

ti

onの中でも,同一の章句の引用に ・l

fri

cは異なる表現を

当てることがあるのである。このように peri

copeと exposi

ti

on中の引用の関係は様々な場合があり,

その関係は複雑である。

なぜこのような様々な場合が生ずるのか。最後に挙げた Matthew 14:23の引用に関しては,こ

の論文を収めた拙著に対する書評の中で,Mal

col

m Goddenは,

These[Ogawa・s examples] show that・lfric is much more varied and flexible in his usage. Particularly striking ishisexampleofapassagein which ・lfricusesin rapidsuccession three different constructions(infinitive,asyndetic parataxis,・・t clause) to render the same Latin (Biblical)infinitiveconstruction.8

と述べている。・

parti

cul

arl

ystri

ki

ng・という言葉からは Godden自身はこのような例をどう解釈す

るのか,残念ながら窺い知ることはできない。・

・l

fri

ci

smuchmorevari

edandfl

exi

bl

e・と述べ

ているところから見れば,あるいは・l

fri

cは一種の文体上のヴァリエーションとして異なる構文を

用いたという解釈であろうか。確かにそれはありうることだと思う。しかし,それ以外に考えられる

ことはないだろうか。

(5)

残念ながら,これに対するはっきりした答えはまだない。しかし,いくつかの可能性を考えてもい

いのではないかと思われる。 それらはいずれもまだ詳しく検討しておらず, 今の段階では

specul

ati

onの域を出ないが,今後の課題としてここに列挙しておきたい。

(1)exposi

ti

onの方法。個々の説教の内容と性格によって,exposi

ti

onの方法に違いがあるよう

に思われる。例えば上でも見た通り,降誕祭の説教

(CH I,ii)

では peri

copeの ・

$word・eusgod

・teowde・に対して,exposi

ti

onの ・

$word・egeworden i

s& godusgeswutel

ode・の方がラ

テン語原文

(・hocverbum quodfactum est,quodDominusostenditnobis・)

に忠実である。それとい

うのも, この説教では聖書の引用個所の一字一句について厳格な注釈が施されており, この

conti

nuousgl

ossの方法から,逐語的に ・

gewordeni

s・と訳す必要があったのではなかろうか。事

実,・l

fri

cはこの 2語の逐語訳を与えるだけでなく,さらに続けてその意味するところを説明して,

「言葉」とは wi

sdom 即ちキリスト,言葉が ・

gewordeni

s・とは即ち神の化体のことであると述べ,

この説教の論点の一つを展開しているのである

(16385行)

。その意味では,・

geworden i

s・という

逐語訳は,説教の内容そのものにとって不可欠だったのであろう。

これとは異なるタイプの exposi

ti

onは,例えば棕櫚の主日の説教

(CH I,xivDominicaPalmarum)

に見ることができる。キリストのエルサレム入城の物語 キリストの 2人の弟子が村から驢馬とそ

の仔を牽いて来て,驢馬の上に衣を置く。キリストはそれに乗って町に入る。人々は衣と棕櫚の樹の

枝を道に敷く。群集の一部はキリストの前を行き,一部は後に従い,「ホサナ」と叫ぶ に基づい

ているが,・l

fri

cは peri

copeのテクストとして 3福音書

(Matthew 21;Luke19;John12)

の記述を

併用している。peri

cope自体このように複雑な構成であるが,exposi

ti

onはそれに則って,物語の

解釈を al

l

egori

cal

,tropol

ogi

cal

,anagogi

calの三つのレベルに亘って複雑に展開している。

9

つま

り物語そのものの解釈に重点が置かれ,その結果単語レベルの厳密な引用はそれほど問題にならず,

緩やかなパラフレーズに終始しているように見える。

このように個々の説教の exposi

ti

onの内容と方法によって,引用文の逐語的な度合いにも幅が生

じていると考えることができるのではなかろうか。この点については J.C.Popeも,・

・l

fri

cvari

es

greatl

y,underthei

nfl

uenceofdi

fferentperi

copesanddi

fferentexposi

tors,i

nthedegreeto

whi

chhefol

l

owstherouti

neofaverse-by-verseexposi

ti

on.

10

と述べ,自身が校訂編纂した作

品から具体例を挙げている。Cathol

i

cHomi

l

i

esについての言及はないが,これについても上述のよ

うに,同様の可能性をさらに詳しく検討する価値があるように思われる。同時にそれは,Popeの

di

fferentexposi

tors・という言葉にも含意されるように,・l

fri

cの sourcetextの問題でもある。

そこで次の(2)が問題になる。

(2)i

mmedi

atesourceの影響。Cathol

i

cHomi

l

i

esの説教には殆どの場合,Gregory,Bedeを始

めとするラテン語の典拠があり,

11

・l

fri

cはそれを下敷きにして書いている。したがって,・l

fri

cの

exposi

ti

onの文言はこれらの i

mmedi

atesourceの影響を受けていることが多い。 上記 (1) で

Nati

vi

tasDomi

niと Domi

ni

caPal

marum の exposi

ti

onを例に挙げたが,実は・l

fri

cはどちらの

場合も主に Bede

(前者では HomiliaeI.6と I.7,後者では II.3)

に基づいて書いている。

12

したがっ

てそこに示された exposi

ti

onの方法の違いは取りも直さず,Bedeの exposi

ti

onの問題であり,

・l

fri

cの i

mmedi

atesourceの問題である。

(6)

したように,・l

fri

cは 2人の善き僕に対する主人の言葉を纏めて一つの文で済ませているが,これ

は Gregoryの説教に従った結果かも知れない。Gregoryでも 2人の善き僕は「2倍にして戻した

(・geminatatalentaretulit・)

」僕として,一括して単数で言及されている。

Gregory,Homilia 9.PL 76,1107AB:SedDominus ...rationem positurus redit....Servus qui geminatatalentaretulitadominolaudatur,atqueadaeternam remunerationem perducitur,cum eivocedominicadicitur:Eugeserveboneetfidelis....13

(3)そして第三に,「記憶による再生」という問題がある。つまり古英語の説教作家は,書かれた

sourcetextを目の前に置いて,それを見ながら翻訳したり引用したのではなく,記憶の中のテクス

トを参照しながら書いた。そういう場合もあったのではないか,という考え方である。近年,この立

場からの研究が盛んに行われている。 例えば Mary Swanは, 古英語末期の所謂 composi

te

homi

l

i

esの作者たちが,・l

fri

cの作品を記憶に基づいて再生し利用したと思われる例をいくつか具

体的に挙げて論じているが,その基本的な考え方を次のように説明している。

Suchalterationstothesubstanceofahomiletictextmaybetheresultofascribeworkingfrom andjuxtaposingwrittencopiesofthe・lfrichomilyandofothertextsor,sincemonasticscribes willhave listened to many homilies as members of a congregation,andwillbe trained in memorisationtechniques,theymayalterthe・lfrichomilybyintroducingportionsofothertexts whichtheyhavememorised,orindeedrecopythe・lfrichomilyitselffrom memory,introducing consciousorunconsciouschangesastheywrite.An・lfricianhomily,therefore,mightundergoa chain oftransmission from itscomposition in thelatetenth century,through aseri esoftenth-and eleventh-century oraldeliveries from written copies in church,written recopyings from written versions andwritten recopyings from memorised,orally-delivered versions,to written recopyingsinthetwelfthcenturyfrom writteneleventh-centuryversions.14

これは ・l

fri

cの作品を後代の作者が再利用した場合であるが,・l

fri

c自身,記憶によってラテン語

のテクストを再生し利用したと考えるべき個所が少なからずあることを,J.E.Crossは論じている。

つまり ・l

fri

cはラテン語の説教を sourcetextとして参照しつつ,ときにそれからの連想で,記憶

の中の別のテクストの関連個所を呼び起こし,それを併せ利用している。そのようなプロセスを想定

することによって,・l

fri

cの作品に対して,これまで確認されていなかった,「隠れた」sourceを明

らかにすることができる Crossはそう論ずる。

15

Crossは別の個所で,・l

fri

cの聖書引用についても同様の可能性を示唆している。

16

この考えを例

えば先程の ・

Parabl

eoftheTal

ents・に基づく説教

(CH II,xxxviii)

に当てはめることはできない

か。

17

というのは,実はこの説教の peri

copeは,前半の 2人の善き僕と主人のやりとりの部分はマ

タイ伝からの引用であるが,最後の悪しき僕の部分はルカ伝の同じ譬話

(Luke19:2026)

からの引

用なのである。・l

fri

cは何故このような引用の仕方をしたのだろうか。Goddenは ・

puzzl

i

ng・だと

言っている。

(7)

overthefateoftheonepound...anddoesnotaccordwithhisexposition,whichmainlyfollows Matthew.Gregory uses Matthew exclusively and includes verse 30 as well.Perhaps ・lfric originally intended to use Luke and incompletely altered itto Matthew to match Gregory・s commentary.18

Goddenは結局,・l

fri

cはもともとルカ伝から引用するつもりだったのを,不徹底な形で変更したの

だろうと説明している。恐らくそうなのであろう。と同時に,何か別の考え方はできないかという疑

問が残る。例えば,このような不思議な引用の仕方自体,・l

fri

cが記憶で引用したことを示唆して

いるとは言えないか。・l

fri

cは記憶に基づいてマタイ伝から引用を開始した。後で exposi

ti

onの部

分でもマタイ伝の文言に沿って注釈を施しているところから見ても,・l

fri

cはもともとその積もり

だった。そうやって peri

copeを一つの runni

ng textとして比較的緩やかに引用を続けるうちに,

途中でルカ伝の同じ譬話の一節と混同をきたした。平たく言えば,記憶違いをした そういう可能

性を考えることはできないだろうか。そう考えれば,悪しき僕に対する主人の言葉をルカ伝から引用

し,「なぜ 1タラントを両替商に預けて殖やさなかったのか」と叱責する文で,・l

fri

cが ・

myneterum

tosl

eanne・

(・tomoneyerstostrike(coins)・の意)

という表現を用いていることも説明がつく。ルカ

伝の ・

admensam・

(19:23)

よりもマタイ伝の ・

numul

ari

i

s・

(25:27)

の方がそれに近いと思われる

からである

(numulariusには ・money-changer・と ・officerofthemint・の二つの意味がある)

19

今のところこの可能性を積極的に主張する根拠はない。しかし,・l

fri

cが恐らく記憶によって聖

書から引用した

(そして不正確に引用した)

と思われる個所は他にもある。DeIni

ti

oCreaturae

(CH I, i;・CHom I,1)

のノアの洪水の一節がそれである。この一節について,最近出版された拙著の中で

次のように書いた。

・lfricseemstocontributehisshareofthismethod ofworking with biblicalmaterialwhen he quotesfrom Genesisin hisDeInitioCreaturae,saying ・CHom i.1.190god ...asenderen of heofonum feowertigdaga tog・dere.& geopenode・・rtogeneseallewylspryngas& w・ter・eotan of ・・remiclan nywelnesse(Genesis7:11ruptisuntomnesfontesabyssimagnaeetcataractaecaeli apertaesunt).・lfricdoesnotappeartodistinguishclearlyfontes(hiswylspryngas)andcataractae (hisw・ter・eotan),making them refertogetherto theabyss(his・・remiclan nywelnesse);cf.

・lfric・sclosetranslationoftheverseintheOldEnglishHeptateuch[Gen7:11・aasprungonealle wyllspringas・・remiclannywelnysse& ・・reheofenanw・ter・eotanw・rongeopenode].20

詳しい考証はここでは省略するが, ・l

fri

cの ・

wyl

spryngas・

(・spring,water-source・の意)

w・ter・eotan・

(・floodgate・の意)

は,それぞれラテン語原文の ・

fontesabyssi

・「深淵の水源」と

cataractaecael

i

「天の水門」に対応している。つまりラテン語ではそれぞれ「深淵」と「天」から

の別々な水であるのを,・l

fri

cはその両方を「深淵

(・nywelnesse・)

」の水として描いている。勿論そ

れでも意味は成立するから,・l

fri

cはそのように解釈し描写しているのだと言えなくもないが,

21

なくともラテン語の原文に正確に対応していないことは事実であろう。これもあるいは,・l

fri

cが

記憶によって Genesi

sのこの個所を引用した結果かも知れない。因みに Genesi

sの翻訳では,・l

fri

c

はこの個所を原文通りに「深淵」と「天」に分けて訳出していることは,上掲の拙著からの引用の最

(8)

後に示した通りである。

以上のような事実から見て,記憶による聖書引用の可能性は,・l

fri

cの創作の一つの側面を明ら

かにするものとして,今後更に詳しく調べる必要があると思う。

III

IIの最初にも述べた通り,exposi

ti

onの部分は,説教冒頭で引用された聖書の章句を verseごとに区

切って引用し,順次注釈を施していく。勿論実際の口頭の説教の場であれば,ポーズやイントネーシ

ョンで引用部分と注釈部分の境目を示すことができる。しかし文字で書かれたテクストになると,そ

のような手立ては失われてしまう。また引用符などの特別の表記法もない。それでは・l

fri

cは彼の

文字テクストの上に,引用と自分自身の注釈の言葉を区別するどのようなしるしを残したのだろうか。

この点で,次に掲げるペテロとパウロの祝日の説教

(CH I,xxviPassioPetrietPauli;・CHom I,26)

に見られる語順の使い分けは,一つの興味深い事例を提供している。先ず peri

copeは次のようにな

っている。

・CHom I,26.316Matheussegodspellereawraton ・・regodspellican gesetnysse.・uscwe・ende; drihten com toanreburhscire・eisgehaten cesareaphilippi.& befran hisgingran hu menn be him cwyddedon;Hiandwyrdon;Sumemenncwe・a・・・t・usyiohannessefulluhtere・sumesecga ・・・t・u sy helias.sumehieremias.o・・esum o・erwitega;SeH・lend・acw・・.hw・tsecgege・ ・ticsy?Petrushim andwyrde.・u eartcrist・・slyfiendan godessunu;drihten him cw・・to andsware;Eadig eart・u simon culfran bearn.for ・an ・efl・sc& blod ・eneonwreah ・ysne geleafan.acminf・derse・eonheofonum is;Ic・esecge・・t・ueartst・nen.& ofer・ysnestan icgetimbrieminecyrcan.& hellegatunahtnemagonongeanhi;Icbet・ce・eheofenanricesc・ge. & swa hw・tswa・u bintston eor・an.・・tbi・ gebunden on heofonum;& swa hw・tswa ・u

unbinst ofer eor・an.

・・tbi・unbundenonheofonum;

「汝は活ける神の子,キリストなり」と信仰を告白したペテロに向かって,キリストが「汝は岩な

り ...我この岩の上に我が教会を建てん ...我天国の鍵を汝に与えん」と答えるマタイ伝の有名な一節

(16:1319)

である。この引用ですぐに気づくのは,キリストと弟子たちのやりとりの言葉を導入す

る文

(下線部の「彼らは答えた」,「キリストは言った」など)

では,例外なく SV語順が用いられている

ことである。TheWest-SaxonGospel

sの対応個所では対照的に,全て ・aVSとなっている

(・・acom se h・lend...and ahsode...;・a cw・don hig ...;・a s・de he...;・a andswarode him petrus... ・aandswarodehim seh・lend....・)

。つまり,一貫した SVは ・l

fri

cの特徴なのである。何故 SVな

のかは今は措くとして,重要なのは,この語順が exposi

ti

onの中で個々の verseが再度引用される

際にも,そのまま繰り返されていることである。ペテロに対するキリストの言葉の注釈部分を下に掲

げる。

・CHom I,26.5273 drihten cw・・ to petre・eadig eart・u culfran sunu;Sehalga gastw・s gesewenofercristeonculfrananlicnysse;Nugecigdeseh・lendpetrum culfranbearnfor・an・e

(9)

geleafan・acminf・derse・eonheofenum is;fl・sc& blodisgecwedenhisfl・sclicem・ig・;N・fde he・・tandgit・urhm・iglicerelare.acseheofenlicaf・der・urh・onehalgangast・isnegeleafanon petresheortanforgeaf;

drihten cw・・topetre.・u eartst・nen;for・・restrenc・ehisgeleafan.& foranr・dnyssehis andetnysseheunderfeng ・onenaman.for・an ・ehege・eoddehinesylfnemid f・stum modeto criste.se・eisstan gecweden fram ・am apostolepaule;& ictimbrieminecyrcan uppon ・ysum stane・・tisofer・am geleafan・e・uandetst;...

SeH・lendcw・・.nemagonhellegatunahttogeanesminrecyrrcan;...

冒頭の下線部は peri

copeの SVのそのままの繰り返しである。それだけではない。peri

copeではキ

リストの言葉は,最後まで切れ目なく続いたが,ここでは verseごとに注釈を加え,その後でまた引

用に戻る

(上掲の EETS版のテクストは,それを改行によって示している)

。・l

fri

cはその都度,「彼/救い

主は言った」という導入文を付け加えている

(第 2段落,第 3段落の下線部)

が,やはり語順は常に SV

である。それに対して注釈の文

(つまり・lfric自身の言葉)

では,例えば第 1段落では点線部 3個所と

も VS語順である

(2番目の文は,・hisfl・sclicem・ig・・が主語と解する)

。また次の段落でも,注釈部分

では SV以外の語順が用いられている。このように語順の対比によって,章句の引用とそれに対する

注釈が区別されている。これは決して偶然ではないと思う。

22

勿論,常にこのようにきれいに割り切れるわけではない。exposi

ti

onの性質上,引用と注釈が一

体化していて,どこで一方が終わりどこから他方が始まるのか,文単位で区切れないことが多い。と

くに・l

fri

cの場合はそうで,前にも触れたように,しばしば ・l

fri

c自身の解釈を経た引用になって

いる。言い換えれば,引用であると同時に注釈であるような,そういう書き方になっている。そこに

・l

fri

cの聖書引用の最も顕著な特徴がある。以下,そのような例をいくつか検討してみたい。最初

に挙げるのは,四旬節第一主日の説教

(CH II,viiDominicaIinQuadragesima;・CHom II,7)

の最

後の部分で,最後の審判において祝福された者と呪われた者が右と左に分かたれるという,これも有

名なマタイ伝の一節

(25:3146)

の引用である。前半の祝福された者の部分は省略し,呪われた者へ

の裁きの部分

(25:4146)

だけ掲げる。

・CHom II,7.160173・onnecwe・heeftto・am synfullum[L his].・eon hiswynstran healfe standa・;Gewita・fram megeawyrigedaninto・am ecanfyre.・eisgegearcod・am deofle.andhis awyrigedum gastum[L angeliseius];Mehingrode.andgeme・tesforwyrndon[L nondidistis]; Me・yrste.andgemedrincannesealdon;Icw・scuma.andgemeunderfonnoldon;Icw・snacod. noldegemew・da ti・ian;Icw・suntrum.and on cwearterne.noldegemegeneosian;・onne andswaria・・a unrihtwisan manfullan[L ipsi];La leof.hw・nnegesawewe・ehungrinne.o・・e ・urstinne.o・・ecuman.o・・enacodne.o・・egeuntrumodne.o・・eon cwearterne.andwe・enoldon ・enian?・onneandwerdsecyninghim andcwy・;So・iceow secge.swalangeswageforwyrndon [Lnonfecistis]anum of・isum lytlum.andnoldonhim onminum namanti・ian[Lnoequivalent].

swalangegemesylfum hisforwyrndon[L nec...fecistis];

(10)

の言葉を織り込んだ個所である。角括弧の中のラテン語の対応個所と比べれば,・l

fri

cの意図は一

目瞭然である。下線部を順にれば,ラテン語で「この者たち」と言うところを「罪深き者たち」,

「彼

(悪魔)

の使いたち」を「彼の呪われた霊たち」,食べ物を「与えなかった」を「拒んだ」,さら

に「彼ら自ら」を「不義の罪深き者たち」と言い,そして最後に,ウルガタにはない「私の名におい

て彼らに与えることを望まなかった」という文を,締めくくりに付け加えるとともに,もう 1度「拒

んだ」を用いる。・l

fri

cはこれらの書き変えによって,明らかに呪われた者たちの邪悪さを強調し,

拡大して描いている。前半の祝福された者の引用には,このような追加拡大は一切ない。ウルガタの

原文は,祝福された者も呪われた者もパラレルな表現になっており,違う点といえば否定の有無

(「与えた」,「与えなかった」など)

だけである。それを ・l

fri

cは自らの説教の意図に沿ってこのように

書き直したうえで,引用しているのである。これはただの引用ではない。

ただ一つ注意すべきことは,IIでも触れたように,当時は現行の Cl

ementi

neVul

gateとは多少

とも異なるウルガタもしくは Ol

dLati

n版が流布していたという点である。

23

上掲の ・l

fri

cの一節

についても,これと同じ乃至それに近いラテン語テクストがあり,・l

fri

cはそれを用いたのだとす

れば,この一節は ・l

fri

cの意図的な書き変えではなく,忠実な翻訳の結果ということになる。しか

しそのようなラテン語版は少くとも現存しないようであり,

24

上記の解釈は有効であると言っていい

ように思われる。いずれにせよ,ラテン語の異版の可能性は常に慎重に考慮すべき問題である。

先程の ・l

fri

cの最後の審判の一節は比較的単純な例で,類例は恐らく Cathol

i

cHomi

l

i

esにもっ

とあるだろうし,また他の作家にも見られるかも知れない。・l

fri

cの書き変えの方法がもっと端的

に現れるのは,話法に関連する場合,つまり物語の登場人物の台詞に加えられた書き変えの場合であ

る。話法というとすぐ思い出されるのは,RuthWaterhouseの指摘 ラテン語の聖者伝で迫害者

が直接話法で語るのを ・l

fri

cは間接話法に変え,ラテン語版で迫害者の視点からつけられた形容詞

をキリスト教徒の視点からの形容詞に置き換える であるが,

25

これは聖書引用に直接の関係はな

いので,ここでは触れない。ここでは直接話法の場合を考えたい。といっても,Waterhouseの挙げ

る例のように逆の視点を直接話法に取り込むのは不可能であるから,むしろ登場人物と共通の基盤に

立ちつつ,なおそこに ・l

fri

cが自分の解釈を付け加えている そういう場合のことである。その

よい例が,すでに上でも触れたペテロとパウロの祝日の説教

(CH I,xxvi)

に見られる。

26

Cathol

i

cHomi

l

i

esにはかなりの数の hagi

ographyが含まれていて,その中の登場人物が聖書の

言葉を口にするという体裁を取ることがある。これも広い意味での聖書引用に含めるならば,この作

品がその一つの例を提供している。これはその題名

(PassioPetrietPauli)

の通り,ペテロとパウロ

が皇帝ネロのもとで殉教を遂げる物語である。その中で,パウロが自らの教えをネロに向かって説明

する件があり,その教えの内容が,新約聖書のパウロの書簡の言葉に基づいている。といっても,書

簡のある個所をそのまま引用するのではなく,後にあれこれの書簡

(Romans12:12,ITimothy 6:8 など)27

に残されることになった言葉を,今パウロがネロの前でまとめて口にしているという形を取

っている。先程の説教の場合の直接的な引用とは違って,ラテン語の聖者伝の原作者が書簡の中の言

葉をパウロ自身に語らせるという,いわば間接的な引用である。それを ・l

fri

cは古英語に移してい

るわけで,二重三重に間接的な引用である。そこに説教者 ・l

fri

cの視点の入り込む余地が生まれる。

パウロの台詞はこうなっている。

(11)

・CHom I.26.206221Icl・rde・・tmen him betweonan lufodon & gearwur・odon;Ict・hte・am rican・・thineonhofonhi.neheorahihtonleasum welannebesetton.acongodeanum;Ict・hte ・am medemanmannum ・・thigehealdenew・rononheorabigwiste& scrude;Icbebead・earfum. ・・thiblissodononheorahafenleaste;f・derasicmanode.・・thimidsteoregodesegesheoracild ge・eawodon;・am cildum icbead・・thigehyrsumew・ronf・der&medertohalwendum mynegungum; Icl・rdeweras・・thiheora・weheoldon・for・an.・・tsewergewitna・on・wbr・cum wife.・・t wrec・godon・wbr・cum were;Icmanodeeawf・stewif・・thiheorawerasinwerdlicelufedon.&

him mid egegehyrsumedon swa swa hlafordum;Icl・rdehlafordas・・thiheora ・eowum li・e w・ronfor・an・ehisindgebro・ruforgode.sehlaford& se・eowa;Icbebead・eowum mannum. ・・thigetreowlice & swa swa gode heora hlafordum ・eowdon;Ic t・hte eallum geleaffullum mannum ・・thiwur・ion・nnegod・lmihtinne.& ungesewenlicne;

「私は ...に ...するように教えた」という文が 11回続いている。その内容は,Cl

areA.Leesの言

葉を借りて言えば,身分社会のヒエラルキーを前提とした保守的な社会観であり,それがまた ・l

fri

c

自身の信仰の一部でもあったことを Leesは Cathol

i

cHomi

l

i

es全体に亘って指摘している。

28

実際

・l

fri

cはここでもパウロの言葉をただ伝えるのではなく,説教者として表現し直している。その端

的な現われが,「教える」の意味で用いられる多様な動詞とその使い分けである。ラテン語では一貫

して docuiなのに対し,・l

fri

cは 5つの動詞

(bebeodan,beodan,l・ran,manian,t・can)

を用いてい

る。しかも単純なヴァリエーションではない。教える相手の身分階層に応じて使い分けているの

である。

29

下線部がその相手で,順に,「金持中間層-貧者」,「父-子」,そして

(一組とばして)

「主人-召し使い」という組になって並んでいるが,各組の最初の方,つまり高い身分階層の相手

(・・am rican・,・・am medeman mannum・;・f・deras・;・hlafordas・)

には助言のニュアンスの強い l

・ran,

t・can,mani

anを当て,低い身分階層の相手

(・・earfum・;・cildum・;・・eowum mannum・)

には命令の

ニュアンスで beodan,bebeodanを用いる。とばしたのは「夫-妻」の組であるが,「夫」の l

・ran

に対し「妻」にはより命令の意味に近い mani

anを当てているのも,他の三組と同様の区別であろ

うか。またラテン語版では ・

uxores...vi

ros...・の順である

(Ephesians5:2225でもそうである)

が,・l

fri

cは逆に「夫」を先に出している

(引用 67行目)

。つまり・l

fri

cは,夫と妻の問題を少なく

ともここでは,他の三組と同じように考えているようである。

30

同じラテン語作品に基づく古英語の

説教がもう一つあるが

(BlicklingHomilyxv)

,こちらは原文通り 全て l・ranで,「妻-夫」の順

 であることを見れば,・l

fri

cの改変の意味の大きさは明らかである。・l

fri

cはパウロの台詞と

その背後にある聖書の言葉をそのまま伝えるのではなく,それに独自の解釈を施した上で引用してい

る。つまりパウロの口を借りて ・l

fri

c自身が教えを説いているのである。

31

やや特殊な場合かも知

れないが,・l

fri

cの聖書引用の方法の一つの顕著な姿を示していると言っていいと思う。

IV

以上,Cathol

i

cHomi

l

i

esにおける聖書引用を,二,三の問題に絞って考察した。・l

fri

cの聖書引用

は,単純なありのままの引用ではない。解釈をまじえ手を加えた引用であり,その背後には常に

・l

fri

cの視点,・l

fri

cの声がある。その意味では Cathol

i

cHomi

l

i

esの聖書引用は,それ以外の部

(12)

分と本質的に同じ創作の方法 ・aprocessofselection,adaptationandindependentargument・

 によっていることを具体的に明らかにし得たのではないかと思う。このような ・l

fri

cの特質は,

ほかの説教散文作者の聖書引用と比較することによって一層鮮明になると思われるが,これは別の機

会に譲ることにしたい。

同時に,peri

copeと exposi

ti

onの引用の関係,記憶による引用の可能性など,さらに検討すべき

問題も明らかになった。これらの問題を引き続き考察し,・l

fri

cの創作の方法をさらに明らかにし

たいと思う。

*本稿は,「専修大学公開講演会「中世英文学研究の諸相」」(2008年 6月 29日,専修大学神田校舎)における講演 の発表原稿に若干手を加え,また読み易いように体裁を改めたものである。講演時には印刷中でその後刊行され た拙著拙論については,そのように書き改めたが,その間に国内外で新たに発表された研究を付け加えること はしなかった。なお講演の性質上,それ以前に発表した論文と重複する個所が少なくないことをお断りしておく。 そのような個所については,当該論文を明記した。

1 HarveyMinkoff,・SomeStylisticConsequencesof・lfric・sTheoryofTranslation・,StudiesinPhilology 73(1976),2941,at40.翻訳と引用の文体の具体的な研究としては, EwaldStandop,Syntaxund Semantik der modalen Hilfsverben im Altenglischen:Magan,Motan,Sculan,Will an(Bochum-Langendreer,1957)がある。Standopは,例えば法助動詞は聖書翻訳よりも聖書引用で多用されているこ とから,その多用は口語的な文体の特徴であるとする(pp.17071)。この Standopの指摘を手掛かりにし て,筆者自身以前に,作品のジャンルや文体と法動詞の用法の関連を古英語全般について考察した(Old EnglishModalVerbs:A SyntacticalStudy[Copenhagen,1989])。

2 TheBlackwellEncyclopaediaofAnglo-SaxonEngland,ed.MichaelLapidge,JohnBlair,SimonKeynes andDonaldScragg(Oxford,1999),s.v.・lfricofEynsham(byM.R.Godden).JoyceHill(・Authority andIntertextualityintheWorksof・lfric・,PBA 131(2005),15781)が ・examplesof・lfriccreating new catenaebyexploitingtheconvenienceofmaterialcollectedinhisliturgicallyi ndexedsource-homiliaries・(p.167,fn.31)と言い,・・lfric,asacreatorofcatenae・(p.170)と述べているのも,同 じことを指しているものと思われる。 さらに JoyceHill,・Translating theTradition:Manuscripts, ModelsandMethodologiesintheCompositionof・lfric・sCatholicHomilies・,BulletinoftheJohn RylandsUniversityLibraryofManchester79(1997),4365,esp.5961を参照。

3 この作品の聖書引用については,拙論 ・Matthew 25:1430inOldEnglish:TheWestSaxonGospels and・lfric・(唐澤一友(編)『『ベーオウルフ』とその周辺:忍足欣四郎先生追悼論文集』(春風社,2009), pp.48395)で詳しく論じた。

4 以下本稿での引用は,CatholicHomiliesは EETS版,ウルガタは Nestle-Aland版による。

5 定冠詞の後であるが,形容詞はここでは強変化形である。この問題については,BruceMitchell,Old EnglishSyntax.2vols.(Oxford,1985),§118;SusanIrvine,・LinguisticPeculiaritiesinLateCopiesof ・lfricandtheirEditorialImplications・,EssaysonAnglo-SaxonandRelatedThemesinMemoryof LynneGrundy,ed.JaneRobertsandJanetNelson(London,2000),pp.23757,esp.p.243を参照。 6 ただし,・lfricは ・・inesfeos・を追加したのではなく,それに対応する語句を含むラテン語テクスト

現行の ClementineVulgateとは異なるウルガタの版,もしくは OldLatin版 を参照したのかも知れ ない。この可能性については,IIIでもう一度触れる。

7 HiroshiOgawa,・Notes on the Syntax in Some Late Anonymous Homilies:A Study in the DevelopmentofOldEnglishProse・,StudiesintheHistoryofOldEnglishProse(Tokyo,2000),pp.

(13)

22134,atp.229.

8 Malcolm Godden,・Review ofStudiesin theHistoryofOld English Prose,by H.Ogawa(Tokyo, 2000)・,StudiesinEnglishLiterature(Tokyo),EnglishNumber42(2001),11117,at116.

9 M.R.Godden(ed.),・lfric・sCatholicHomilies:Introduction,CommentaryandGlossary.EETS ss 18(Oxford,2000),pp.10919による。

10 JohnC.Pope(ed.),Homiliesof・lfric:A SupplementaryCollection.2vols.EETSos259and260 (London,196768),Vol.I,pp.15051.

11 CatholicHomiliesの典拠作品については古くから多くの研究があるが,最近では JoyceHillの一連の研 究(例えば注 2で挙げた研究)が特に注目される。また注 9に挙げた Goddenの注釈書は,全作品の全ての 個所についてラテン語原典から対応個所を逐一引用し,・lfric研究に一時期を画した。

12 Godden,Introduction,CommentaryandGlossary,pp.1314,10910による。

13 Godden,Introduction,CommentaryandGlossary,p.651,notetolines8699による。

14 Mary Swan,・MemorialisedReadings:ManuscriptEvidenceforOldEnglish Homily Composition・, Anglo-SaxonManuscriptsandtheirHeritage,ed.PhillipPulsianoandElaineM.Treharne(Aldershot, 1998),pp.20517,atpp.21011.

15 J.E.Cross,・・lfricMainly on Memory andCreativeMethodin TwoCatholicHomilies・,Studia Neophilologica41(1969),13555.

16 J.E.Cross,・TheLiterateAnglo-SaxonOnSourcesandDisseminations・,PBA 58(1972),67100,at 8990.ここで Crossは,「記憶による再生」以外にも三つの可能性を併せて指摘し,次のように言う:・So thatifan・lfricianquotationdiffersfrom theClementineVulgate,thepossibilitiesarealways,as Ithink,four:1.HisVulgateversiondiffersfrom theClementine.2.Hemaybeadapting...3.He may bequoting from memory,leading toslightadaptation.4.Hemay citetheOldLatin,ora mixtureofOldLatinandVulgate.・ここで言う 1と 4については IIIで述べる。

17 以下この作品についての議論は,拙論 ・Matthew 25:1430inOldEnglish・の一節をそのまま用いてい る。

18 Godden,Introduction,CommentaryandGlossary,p.649.

19 この点については Godden,Introduction,CommentaryandGlossary,p.649,および C.T.LewisandC. Short(eds.),A LatinDictionary(Oxford,1879),s.v.numulariusを参照。

20 HiroshiOgawa,LanguageandStyleinOldEnglishCompositeHomilies(MedievalandRenaissance TextsandStudies361.Tempe,AZ,2010),p.152,fn.45.

21 直前の文で ・lfricは,・asenderen ofheofonum feowertig dagatog・dere・と書いており,上掲個所の ・・・rtogenes・とは 「その天からの雨に対して」 の意である。 したがって ・lfricは, ・welspryngas・と ・w・ter・eotan・の両方を「深淵」の一部と解していることになる。

22 類例は降誕祭の説教(CH I,ii)の受胎告知の物語に対する exposition(例えば 204行目以下)にも認め られる。ただし今度は,物語の進展には ・aVS,注釈には SVが主に用いられている。この一節について は,機会を改めて詳しく考察したいと思う。

23 この点については注 16で引用した Crossの言葉を参照。イギリスにおける Vulgateの異版についての研究 としては,H.H.Glunz,TheVulgateinEngland(Cambridge,1933);id.,DieLateinischeVorlageder westsachsischenEvangelienversion(Leipzig,1928)がある。

24 Glunz,TheVulgateにはそのようなラテン語テクストへの言及はない。巻末の IndexofGospelPassages は,上掲の一節のうち 41,42,44節の異文を挙げているが,いずれももっと細かな字句の問題である。 25 RuthWaterhouse,・・lfric・suseofdiscourseinsomesaints・lives・,ASE 5(1976),83103. 26 以下の議論は,「・lfricとジャンル PassioPetrietPauli(・CHom I,26)の主題と文体」(日本英文

学会 2008年全国大会招待発表)の草稿に基づく。これは当時準備していた英文論文の要約であるが,この 元となった論文はその後,・HagiographyinHomilyThemeandStylein・lfric・sTwo-PartHomily

(14)

onSSPeterandPaul・,Review ofEnglishStudies61(2010),16787として刊行された。 27 Cross,・TheLiterateAnglo-Saxon・,9092を参照。

28 ClareA.Lees,TraditionandBelief:ReligiousWritinginLateAnglo-SaxonEngland(Minneapolis andLondon,1999),pp.10632,esp.pp.12223.

29 これを挟む形でこの一節の冒頭と末尾で,人々一般とキリスト教徒一般への教えが言及されているが,そこ ではそれぞれ l・ranと t・canが用いられている(・Icl・rde・・tmen ...Ict・hteeallum geleaffullum mannum ...・)。

30 ・lfricの女性観については,Lees,TraditionandBelief,Chapter5を参照。パウロの書簡に見られる女 性観を論じたものとしては,荒井献『新約聖書の女性観』(岩波書店,1988),第 78講がある。

31 Goddenは同様のことを CH I,iv(AssumptioSanctiIohannisApostoli)について指摘し,特にヨハネの 長い台詞(95128行)では説教者・lfricがヨハネに取って代わっていることを論じている(・Experiments inGenre:TheSaints・Livesin・lfric・sCatholicHomilies・,HolyMenandHolyWomen:OldEnglish ProseSaints・LivesandTheirContexts,ed.PaulE.Szarmach(Albany,NY,1996),pp.26187,at pp.26869)。その意味では,PassioPetrietPauliの中で聞こえる「・lfricの声」は,CatholicHomilies 中の少なくとも初期の聖者伝全般に関わる問題のようである。後期の聖者伝および LivesofSaintsでは, Godden(上掲論文,pp.27682)によれば,そのような特徴は姿を消しているという。

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