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間接伝達的真理についての諸研究(III)ハイデガーの哲学との関係について(2) : 『物への問い』とカント哲学の核心

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(1)

〔飯田女子短期大学紀要 第

1

2

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p.

1

-2

0

,

1

9

9

4

間接伝達的真理についての諸研究(III)

ハ イデガーの哲学 との関係 について

(2)

―「物への問い」とカント哲学の核心―

清 水

茂 雄

Studien zur mittelbar-mitteilenden Wahrheit (III)

lhre Beziehung auf Heideggers Philosophie (2)

― 》 D i e F r a g e n a c h d e m D i n g 《 u n d d e r K e r n v o n K a n t s P h i l o s o p h i e ―

Shigeo SHIMIZU

すでに諸研究 (Ⅱ)1)で私 は 「間接伝達論」 とハイ デガーの哲学 との関係の基本的画図を措いておいた. 本論に入 る前にこの基本となる画EZIをもう「皮振り返っ ておき,その中でカントの哲学がどのような意味を持 つかをあ らか じめ示 してお きたい. 「間接伝達論」は 「ただ言葉だけ」の場面 (胎蔵界) で言葉が 「おのれに折れて

」(

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r

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o

)

言葉の発祥 を<言 う> ことである.そ こは,まさに,聖書の 「初 めに言葉があった」の場面 となっている.言葉の発祥 は,諸研究 (Ⅱ)で述べておいたよ うに

,

「祝 い ごと の分かち合い」の故である.それ故,発祥 した言葉 , つまり

,

「真言」の本質は祝詞である.この 「祝詞」 に<聞 く>,つまり真言に応 じること

(

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左入07os

)

を為そうとすること (人格的行為)が 人間存在のオ リジナル2)な役割,つま り,言葉 の出来 言における定めなのである.人間存在は<言 う> に応 じたものとして,また,<言 う> ことがで きる,であ る.人間 というこの出来事 は,言葉の出来事 ,全体か ら言 うと祝祭 という意味を持っ この言祝 (ことは) ぎ の全 くえ)への参加

(

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)

なので ある. し か し,この参加 は言葉の発祥にとって必然的なもので はな く,単に好ましいこととしての要請

(

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)

であり,それに応 じて人間存在 もまた自由にこの 「要 請」に応 じたのである.いわば人間は 「自由に」 自己 束縛を したといえる (自律

,Au

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)

.

こうして 人間存在 は真言に呼び出され,霊,つまりヘーゲルの いうところの

Ge

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t

として言葉の出来言の 「二 次的場 面」の主体となる.この 「二次的場面」では言葉 は真 言ではな くなっていて,つまり 「ただ言葉だけ」で は な くな?ていて,おのれの内密性の外に出てい る.同●●●●■ 時に,霊 は真言を対象 として持つ ことになる.霊 ,つ まり人間存在は 「外に出ている言葉」をその内密へ と 戻す ことで真言に応 じるということを果たす,つま り 責任を果たすのである (ハイデガーは ここに死 の本 質をみている).「外 に出ている言葉を内密へと戻す」 と言 うこと,これが

,

「二次的場面」 の本質で あ り, 端的に言えば

,

「真言へ」 という動態の場面が 「世界」 なのである.「真言へ」の 「へ」 とい うことの中には 三つの契機が含まれている.すなわち,すでに 「へ

になって しまっている,これか ら 「へ」のかなたへ , そ して,まだ 「へ」のままである,この三つの契機 が それぞれ時間における過去,未来,現在で ある.ハ イ デガーは 「世界」の根底に存するこの動態の三契機 の 統一態を r有 と時」で 「時性」 として暴 き出 したので ある. 「へ」 はまた,人間存在の言葉の出来事の場面で の オ リジナルな役割にはかな らないか ら,現有の意味 と して 「時性」が解釈 し出されて くるのである.「真言 へ」の中には,以上のように,主観 に属す面.つま り, 「内密へ戻す」意志 と,客観に属す面 , つ ま り,対象 -

(2)

1-化された真言 という二つの要素がある. 「へ」 は客観 と主観 との統一的根拠であり,時間の 「秘術語」なの である.そ して, この 「へ」は客観 と主観 との統一的 根拠であるとともに,同時にまた,両者を越え出てい る (transcendere).カントの哲学 はこの 「越え出て いる」客観 と主観の謎を解 き明かす哲学であ り,それ 故

,

「超越論的哲学」 と言われているのである. このように,-イデガーが現有の実存論的分析論に よって見出 した 「時性

,Zeitlichkeitとカ ン トの超 越論的哲学 とは根源的な連関にある.すなわ ち

,

「真 言へ」において両者 は同一の根を もっている.しかし, 「有 と時Jにおいては 「時性」 はまだ言葉 とのオ リジ ナルな関わりか ら解 き明かされていない.ただ

,

「死 への有」(Seinzum Tode)とい う言 い方で示唆 さ れているにすぎない.従 って,-イデガ-の哲学 には 「推移」が要求 される.その哲学 の本質 は 「言糞への 途上」 ということになる.そ して,こうした 「推移」 においてかの 「根」へ と進むことで,カントの哲学 に 対する見方 もよりオ リジナルな ものとなる. ところで

,

「根

,つまり

,

「真言 へ」 とい う動態 は iJJんAoγosであり,従 って

,

「外 に出ている真言」 を 「内密へ戻す」 ということは

,

「二次 的場面」 にお いてはanalogicalな本性を持っ .カ ン トのいわゆる 「物 自体」を 「真言」とみなすな ら,「真言へ」は 「現象

ということになる.それ故

,

「現象」 の本質 はanalo -gyである.また

,

「外 に出ている真言」をその 「発祥」 の地で<言 う> ということはur-mitteilen,つ ま り, <密> の 「分かち合い」になるので,言責の出来言 としては,つまり

,

「論理学」 としては 「判断」(Ur -teil)に当たる. 「二次的場面」 において 「判断」 は analogicalな性格を持 っている.この ことは

,

「判断」 によって物が捉え られると,それは 「物 自体」の ana-logyになっているということである.そして,そうなっ て こそ,その 「判断」 は物 についてなにか客観的な も のを言明 したといえるのである. しか し

,

「判 断」 は 「二次的場面」での言葉の運動であるか ら,それによっ ては 「物 自体」 は捉え られない.このことは,つまり, 「判断」には 「根拠」があるとい うことである.こう して

,

「根拠をともなって成 り立 っ判断」 において物 がその 「何であるか」を明かす, ということになる. 「根拠をともなって成 り立っ判断」が 「推論」であ る. か くして,物をその真理において明 らかにする主観 の 働 きは 「推論」という形態 を とる.「推論」の 「根拠

となって 「判断」を引っ張 って いるもの,つ ま り

,

「真 言」はカントにおいては 「理念」と して捉え られてい る.そ して,「判断」と 「推論」は本来 は 「真言 へ」の 「二次的場面」における事であり,それの 「内容化」で あるか ら,この両者の統一的動態がなければならない. カ ントにおいてそれは 「判断力」 として把握 されてい る.「判断力」はanalogicalな ものをanalogicalであ ると見 ることがで きる能力であり,「真言」を 「言 わん」 とする意志,つまり 「詩作」の能力である.ここで物 はanalogicalな捉えられ方を脱 して 「そ こへ向か っ ている」 というように捉え られるようになる.つまり, 「合 目的的」に自然 は捉え られる. しか し

,

「判断力」 はあくまで 「統制的原理」である. 以上のように

,

「真言へ」 とい う動態 にお いてカ ン トの超越論的哲学,ハイデガーの哲学,そして<間接 伝達論>はオ リジナルに結びつ くことがわかる.す な わち,それ らは同一のorigin,発祥地を持 っているの である.この ことをzugehbren,帰属するという意味 の ドイツ語でまとめてお こう. 人間存在は 「真言」に対 してオ リジナルには 「聞く」 (hbren)という関係にある:しか し,h6renはz u-harcn(傾聴する)であり,そこに動勢

,

-

」(zu) が潜んでいる.この 「へ」という動態が 「時」の本質 に はかならない.「へ」は 「外に出ている真言」 を 「内 密へ」 ということであり,論理学的には 「判断」 に当 たり,カントの言 うところの対象認識のオ リジナルな 意味である.このとき対象 と主観が区別 されている. しか し,主観 は 「へ」によって動的であり,常 に主客の 根底へ と超越 しようとする.つまり,主観は 「物自体」 に帰属的 (zugeharig)なあり方を している.ここに カントの超越論的 (transzendental) と呼 ばれ るこ との可能性の根拠がある.人間存在 の このzu-geh6 -rigというオ リジナルなあ り方 こそハイデガーが カ ン トの哲学か ら抜 き取 って くるべ きそれの 「核心」であ る.以下本論でこの ことを示す こととす る.

1

.

本論の構成

緒論で我々は-イデガ-の哲学の基本的画図を描 き 出 し,同時にカントの哲学の核心を画図 した.両者 は zu-geharigという秘術語でその連関を見せて くれ る.

(3)

-2-清水(読):間接伝達的真理についての諸研究(Ⅱ) しか し,ハイデガー の場合は2:uが 「どこへ」 のzuな のかが不明になっているのである.そこで,その哲学 は 「根源近 く」の哲学 と言 われることになる.zuが 「真言へ」の 「へ」である,となったときには 「推論」 ではな くなっていて

,

「ただ言葉だけ

,つまり 「間接 伝達」する言葉が<言わ>れなければならない.ハイ デガーの哲学は 「推論」か らの不断の脱出であり,そ れ故.Denken自身の自己克服 となっている.Denken 自身の根底にむかって自己否定的運動をしているので ある.これに対 し,カントの 「超越論的」Denkenに おいては,harem,つまり

,

「聞 く」と言 うことが不明 になっている.そこで,ハイデガーはカントの哲学を その点で批判できる権利を持っ唯一の 「哲学者」なの である.このことは,カントの 「超越論的」の本質を 本質的問題としてハイデガーが問えるということを意 味している. しか し,ハイデガーの立場ではzuの 「どこへ」が不 明になっているのだか ら,その 「どこへ」がなん らか の仕方で表象されることになる.しか し,その 「表象

はもはや決 して 「物自体」 とか 「理念」 とか 「概念」 とかではない.では

,

「どこへ」はどのような もの と して表象されるのだろう.本来

,

「どこへ」は 「真言」 なのであり

,

「間接伝達」の場,つまり

,

「密のったえ」 の場である.その場は同時に既存の哲学を 「画図」す る場,いいかえれば言葉の遍歴をreviewL,世界 と 人間の存在を転法華的に解釈する場である.だか ら, そのような場へと不断に成 りつつある-イデガ-の哲 学が表象する 「どこへ」は解釈の地平 ということにな る.つまり.一種の場が表象され,その場は先導的と いう性格をもつ.そして, この場は底無さところの底 造 りの場面であって

,

「地平」形成の可能性 とい う 「開かれてある」 ということである. こようなわけで,zu-geharigという 「超越論的」 の本質は-イデガーの立場では上記の 「解釈の先導的 場」を根拠 として出して くることになる.このことを 示 しているのがハイデガーの r物への問いJ3)である. 従って,本論では今述べたことを裏付けしてゆくこと になる.こうした意図のもとで本論を前半と後半 に分 ける.前半の部で我々は r物への問い

J

の中核である カントの 「超越論的原則論」に至る 「道」を歩む.そ して,後半の部で 「中核」の中身を考察 しながらそ こ に上で述べたようなzu-geharigにまつわるハイデガー 哲学 のいわば固有の在所,すなわち

,

「問 い」(Fr a-ge)の領域を確認する.

2.

論 -

前半

上述 したように

,

「前半」ではカ ン トの r純粋理性 批判」の 「純粋悟性のあらゆる原則の体系」の解明と いう r物への問いJの中核への道を歩み,それによっ てzu-gehbrigのgehe'rigということを見えるよ うに したい.しか し,その前にまず 「物への問い」 その も のについて簡単に解説 してお く.

)DieFragemachden Ding- ZuKantsLe h-revondentranszendentalenGrundsatzen((物 への問い - カントの超越論的原則論 にむけて) と 題された著作は,元々,1935-1936年の冬学期にハ イ デガーが 「形而上学の根本的問い」 という題でフライ ブルク大学で行 った講義を後に-イデガ-自身が1962 年に刊行 したものである.本論文が依拠したタロスター マン社刊のハイデガー全集の第41巻 は 「準備部」 と 「主要部」に分かれていて,それぞれ

,

「物についての 様々な問い方

,

「物についてのカントの問い方」 とい う表題がついている.本論文の 「前半」は上記 「主要 部」の半分ほどまでの内容に関わる.「準備部」と 「主 要部」を架橋 している考え方が 「物への問い」の歴史 的性格ということである.そこでまず,我々の 「前半」 の意図を達成す るため,ハイデガーの言 うところの 「歴史的な問い」としての 「物への問い」 の意味す る ことを明 らかにする必要がある.

A.

物への問い」の歴史的性格

我々はカントの哲学の 「核心」をgeharigに見 るペ きだという主張をし,そして,geharigはさらにzu-ge harigであり,そこにハイデガーの哲学が踏 み込んで いる (ハイデガーの言 うところのFrage), と見 る. このような過程の全体は 「言葉の遍歴」であり.それ がオ リジ ナルな意味での「歴史」である.しか し,厳 密には 「歴史」は 「哲学の歴史」でなければならない. 「歴史」は 「哲学史」の中にその素顔を見せなければ ならない.あるいは

,

「歴史」の 「骨髄」は 「哲学史」 である,ということになる.実際

,r

物への問い」 で ハイデガーが問題にしている 「歴史」 というのは決 し

(4)

-3-て戦争や外交の駆け引きの歴史ではなく,本質的な意 味での 「哲学史」なのである.それはハイデガーの哲 学が

z

u

に入り込んでいることと関係 している.

z

u

の 故に 「時間」が問われ.

z

u

が 「真言へ」 であるが故 に 「言葉の遍歴」 としての 「歴史」が問われるのであ る.「時間」 は歴史的時間なのである.この ことは 「時間概念」が歴史的に変わるとい うことではない. 「時間」そのものが 「歴史」を産み出 しているというこ とであり,「時間」が,ちょうど柿の実が青い色か ら赤 くなり,そして熟 し切 って落ちるように,「熟す」(zei -tigen)ということである.その 「熟 し度」 が各時代 のいわば 「味」であり,各時代の哲学がその真髄を表 すのである.各時代は物を 「物一語る」(history)際 に 「推論」するのであるが,それの根拠,つまり解釈 のための先一入一見,既に述べた言 い方では

,

「解釈 のための先導的な場」はあらか じめ 「言葉の遍歴」の 一定の位置として決められている.その時代をわ くづ けるこの 「先「入 一見」 にまで降 りていけばそ こに 「哲学」があるのであり,降 りていった人がその時代 を代表する 「哲学者」 として歴史的に名が残 される. ヘーゲルやハイデガーが問題にしている 「歴史」 とは このような問題意識において扱われているのである. 「歴史」の底にある「時間」は 「先一入一見」を産み育 てる 「母胎」であり,この母胎の 「胎内

,

「胎戒界」 に足を踏み入れたのがほかならぬ 「ハイデガー哲学」 なのである.従 って,物に対する人間の態度 はその時 代の 「先一入一見」によって限定されている.それど ころか物そのものも 「歴史的物」 ということになる. 物に対する人間の態度の中には 「物を問 う」というこ とが本質的に含まれていて,これが次の時代の移行へ の推進力になる.「物への問い」 はか くして本質的に 「歴史的」なものであることになる. 以上は 「間接伝達論」か ら見た 「物への問い」の歴 史性の意味することであるが

,

r

物への問い」 でハイ デガーが言おうとしている 「歴史的な物への問い」は そうした 「後光」に照 らされているのである.では, ハイデガーはどうのようにして 「物への問い」を 「歴 史的な問い」へともたらすのか. まずハイデガーは 「物への問い」 と言うときの 「物」 を 「現前 している物

,

「狭い意味での物」とし,その ような 「物」を条件づけている(be-dingen)ものを 問 う.ハイデガーはこれを もの性 (Dingheit)と呼 んでいる. もの性 とは物を物たらしめ条件づけている ところの無条件的なものである.「物への問い」 は, 従 って, もの性へと問うことである. さて,物のもの性を特徴づけている第一のものは, ハイデガーによれば,Jediesheit(その都度 このもの であること)である.Jediesheitは時間 と空間に根拠 を持っている. というのも,全 く同 じ規定がされるも のでも空間的に異なっていれば異なる 「この もの」 と なり,同様に時間的に異なっていればやはり異なった 「このもの」 とみなされるか らである.そこで

,

「物 と は何か」 という問いは 「空間とは何か

,

「時間とは何 か」という問いへ進まなければならない. ハイデガーは時間と空間の統一性を考えて 「時空」 (Zeitraum)という言葉を使い,次のように言 う. 「物 とは何か, という問いは,時間と空間との謎 め いた統一性である時空とは何かという問いをそれ自体 のうちに含んでいて,この統一性の中で,単にその都 度 このものであるという物のあの根本性格が規定され るように見える

.

」(S16) それでは

,

「時空」 は本当にJediesheitを規定す る のだろうか. 通常,我々は,物が空間を占める,物の表面を境 に して内側を物の内部,外側に空虚な空間が広がってい る,と考える.その時には空間は物を入れるか ごで し かなく,.物のJediesheitをかごのようなものがどうし て規定できるのかという疑問が起 きる.あるいは,物 の内部に空間がありそれが物のJediesheitを規定 して いるかもしれない.しかし,物体を割ってもまたふた たび最初の内と外の関係にもどるだけである.結局 , 空間は物にとって外的であることがわかる.同様に し て時間 もまた外的である.すると,時間と空間は単 に 物の時間的,空間的位置指定のための 「座標」として 物のJediesheitを規定 していることになる.す ると, 物がこれであってあれではないという個の規定は必然 性を持たな くなる.なぜな ら

,

A

という座標点 と

B

と いう座標点にあるか らといってふたつのものが異なる とは必然的に言えないからである.そうであるならば, 「時空」は物のJediesheitを規定す る原理ではないと も考えなければならなくなる. 実際,物の個であるという根本性格は時間や空間を 介さな くても規定される.ライプニッツはこう考えた. 物は神が創造 したものである.ふたっの同じものが在

(5)

-4-清水(茂):間接伝達的真理についての諸研究(Ⅲ) るとすると,神は二度同 じものを造 ったことになる. こうしたいわば機械的な繰 り返 しは神の完全性に反す る.故に,ふたつの同 じものはなく,それはひとつの ものである.(principium identitatisindiscerni -bilium.区別できないものどもの同一の原理) 以上の考察から,Jediesheitという物の根本性格は 「時空」 となん らかの関係があるものの,更に 「有へ の問い」にまで根を張 っていると考えられる. 次に,ハイデガーは物の根本性格であるJediesheit が果たして物そのものに関 して何かを言っているのか という疑問を出す.つまり,物が 「このもの」 と規定 されるということは,物が 「私」,つまり主観の近 く に現れているかぎりである以上,Jediesheitは主観に よって規定されていて,物そのものの規定ではないと いうことになる.しか し,た しかに,Jediesheitは主 観に対 して物が現れるかぎり物の規定になっているが, 当の物が主観に 「対 して」という点では客観的でもあ る. このようにして,物の根本性格であるJediesheitに 関する問いかけによって,我々は一種の無重力状態に もたらされる.しか し,ハイデガーによればこの我々 を 「無重力」にする領域 こそ物のもの性を問う際にで てくる 「固有の帰趨」(eigeneBewandtnis)なので ある.こうした 「無重力」にする領域そのものが時間 と空間の統一性,つまり 「時空」 と関係 していること をハイデガーは示唆 している.(S31) さて,上述のように,物は単に孤立 して存在 してい るのではなく,主観に対 して 「出会い釆たる」限 り物 となっている.この 「出会いの領域」 の中で我々は 「物の構造」に着目するならば,そ こか ら

,

「物 とは, 己に即 して前にあり,そのもとで移 り変わる多 くの諸 性質の担い手である.」(S33)という答えを得 る.物 とは変化する諸性質の果肉が取 り囲む核のようなもの と考えられるのである. 物のもの性を今述べたような仕方で規定することは きわめて 「自然的」であるとハイデガーは言 う.しか し

,

「自然的」 とは次のような意味で言われている. 「この答えはたいへん 「自然的」なので,この答え はまた学問的思考,そ して,単に r理論的」思考 のみ ならず,物とのあらゆる交渉,その算定 と評価を も支 配 している.」(S33) 次に問われることは上述の 「自然的把握」の真理性 の根拠である.ハイデガーによれば この根拠 もまた 「自然的」であって

,

「真理の本質」がその 「根拠」 で ある.理由は以下のとおりである. 真理は物,つまり事実 との 「一致」(Obereinsti m-mungnitdenDingen)である.真理 の座 は陳述 (Aussage)である.それ故,この 「座」の構造が物 の 「構造」に 「一致」 していなければな らないだろう. 陳述は主語 と述語をコプラで結合するという 「命題」 に帰着する.主語が 「担い手」,述語が 「諸性質」 に 対応す る.命題において述語が主語 に帰属するとい う ことと物の 「構造」において譜性質が 「核」に 「まと わりついている」 ということが正確に合致 している. 従 って

,

「物 とは諸性質の担い手である」 とい う物 の もの性の規定根拠は 「真理の本質」か ら示される. 以上,物とは何か,という問いは全 く 「自然的に」 答えられたことになる.- のだろうか ? ハイデガーはこの 「自然的」が問われるべきである と述べる.彼によれば

,

r

自然的Jなものはいっ も歴 史的である」

.

(S38)つまり,我々があたりまえ と考 えていることも歴史的な生成のなかで登場 して くるの であり,それ故,我々の時代にはあたりまえであるこ とも別の時代には異常なこととみなされうるのである. しかし,物のもの性の規定が 「歴史的」 とはどういう ことなのだろうか.物が時代の 「解釈」によって物に なっているということはどういうことなのか ? - イ デガーは次のように問う.「もし,問いが歴史的な も のとすれば,我々は何を為すべきか.」(S41) こうした問い方に対 してハイデガーは 「歴史的な問 い」を次のように説明する. 「我々が,たとえ一見すると過 ぎ去 って しまってい るようにみえるとしても,なお何が生起するかを問 う 場合,我々は歴史的に問 うている

.

」(S42) では 「生起」(Geschehen)とはどうい うことか. 次の言葉か らその糸口を捜 し当てることができる. 「単に過ぎ去ったものは有ったもの(dasGewesene) を汲まない.有 ったものは,今 もなお.有 った してい る(wesen).そ して,その有 り方 は生起の特有 な静 止であり, この生起の仕方は再び生起するものか ら規 定される」

.

(S43) 生起 は一種の運動である.しかし,この 「運動」 は 物の運動ではな く,現有(Dasein)の運動である.氏 に述べたように.zu,つまり

,

「真言へ」の 「へ」 と

(6)

-5-いう動態において歴史,つまり 「言葉の遍歴」が起 き る.言 い換えれば

,

「論理学

,つ ま り

,

「推論」 の本 質 に関する言葉の自己克服の運動,形而上学とそれの 克服の運動が起 きる.これが他な らぬ 「生起」であ る. それ故

,

「生起」 は現有がその根底 (Grund)であ る 「時性」 においてある有 り方である.「時性」における 「すでにzuになって しま って いる」 の底 に降 りて く ればそこがその時代の現有の 「根底位 置」 (Gr und-stellung)であり,そ こにおいて本来的な 「問い

,

ここでは 「物への問い」が為 され るわけであ る.そ れ故,次のように言われるのである. 「しか し,我々はこの根底位置を問 う,その根底位 置における生起と現有の生起する根底運動,過 ぎ去 っ て しまったので,もはや見かけはいかなる運動で もな い運動,を問う.」(S42) ところで

,

「生起」の現場はオ リジナルには 「真言 へ」である以上,そこでは言葉は迷 っている. この こ とは,そこで謎.(言一迷)が言葉の出来事として 「語 ら」れるということである.すなわち

,

「論理学」 と して

,

「推論

,そ して,それの構成要素 として の 「判 断」に関 してオ リジナルな 「問い」が立てられる,と いうことである.それ故,zuに踏み入 っているけれ ど ち,まだ 「真言

-

」 となっていない 「哲学

,つまり , 「ハイデガー哲学」は 「謎」をまさに 「起 こす

,す な わち

,

「生起」させなければな らないb'けである. このようなわけで,ハイデガーは 「判 断

,本来 は 「推論」なのであるが,のなか に含 まれている謎を提 示する.「物 は諸性質の担い手であ る」 とい う規定 は 「真理の本質」か ら 根拠づけられた.真理の座であ る 命題の構嵐 主語 一述語関係,か物の構造にぴた り一 致 している,だか ら

,

「物 は諸性質 の担 い手である」 は真理その ものの本質か ら真理であると認可 されてい るようなものである,ということであった.だが,こ こです ぐ次のような問いが出て くるのである. 「人間が命題の構造を物の構造か ら読み取 ったのだ ろうか,それとも,命題の構造を物の中へと移 し入 れ 置いたのだろうか

.

」(S44) 「自然的」といわれるのは前者の見方をす る場合で ある.しか し,この場合には物の中になぜ人間の行為 である陳述が入 っているのか という困難な問題が潜ん でいる.そ こで,後者の見方を取 ると,今度 は人間の 行為が物を規定することにな り,物の客観性 とい うも のがな くなって しまう. こうして,我々は物 と命題 と真理 という三者の連関 における 「謎」の前に立っ.ハイデガーによれば この 「謎」の中に 「歴史的な問い」が胎動 しているのであ る.既に述べておいたように

,

「判断

,そ して, より オ リジナルには

,

「推論」の本質が 「歴史的」 と根源 的に繋がっているため

,

「ハイデ ガー哲学」 としては それを問わざるを得ないのである. 物への問いが歴史的な問いになるためには,まず, 「ギ リシア人 における物 と命題の本質規定 の始 ま りを 運動にもたらす こと」(S48)が必要 であるとハ イデ ガーは言 う.しか しそれだけでAは不十分であ り,更 に 「近代 自然科学」の本質をも間わななればな らな いの である.なぜハイデガーはこの二つに着目するのだろ う ? 「推論」 は根拠 を伴 った判断であった. しか し, 「根拠」は 「二次的場面」では 「真言」として<言 わ> れているのではな く

,

「表象」 されている.こう した 「表象された物自体」 はその時代の現有の 「根底位置」 でなければならない.この 「根底位置」か ら 「判断

の本質が照 らしだされることになる.その最初の運動 が,ギ リシア人によって行われたのである.そ して, 次には

,

「根底位置」が現有の物 の見方の決定の足場 であること,それゆえ

,

「根拠」は実は 「根底造 り」 (grunden)であることが照 らし出されなければな ら ない.「真言」は無底 (Ungrund)なのに 「真言へ」 の場面 は 「底造 り」を しているのである

.

「底造 り」 の主体が

I

c

h

」 として自覚 されるとそ こが 「近代

である

.

「近代自然科学」 はここを 「土壌」 に して成 長 したのである.そ して,成長 した 「近代 自然科学」 はやがて 「土壌」を覆 って しまう.「ハイデガー哲学

の作業 はこの 「覆われた土壌」の草刈 りである. この 「土壌」 はギ リシアの始まりに続いている. 以上 より.我々はなぜハイデガーが 「二つ」 に着目 するかを理解する. 従 って,問題は 「底造 り」の現場を照 らし出 して, 次に

,

「底造 り」の問題性を指摘することであ る. こ の課題の遂行のためにハイデガーが見つけたただひと つのランプがカント哲学であったのである.む しろ, カント哲学がこの現場を照 らしている永遠に歴史的な 「明か り」 と言えるか もしれない. こうして

,r

物への問い」 は 「物 についてのカ ン ト

(7)

-6-清水(茂):間接伝達的真理 についての諸研究(Ⅱ) の問い方」 と題 された 「主要部」につき進む.

B.

三つの道標

Aにおいて 「物への問い」が 「歴史的な問い」にな るべ きだというハイデガーの見解 とその 「間接伝達論 的」な意味を見た.「物への問い」を 「歴史的な問い」 にし

,

「生起」に もたらせるにはカ ン ト哲学 を通 る必 要があること,そ して,なぜかを見 た.「底造 り」 の 現場を照 らし出す ことによって 「物への問い」は 「生 起」の運動に還元 され るのである.もちろん,その現 場は 「物への問い」にたいする答えとい うよ り,む し ろ

,

「言一迷」 としての 「謎」,それ故, よりオ リジナ ルな 「問い」の在所,ハイデガー哲学の固有の在所 , つまり,Frageという 「根底位置」なのである.カ ン トの 「純粋理性批判」の 「原則論」の中に-イデガー はこの 「底造 り」の 「謎」を発見する. さて,上記の 「現場」に至 るための 「道」 にハイデ ガーは三つの道標をたて,我々を導 く. 「この講義は一種の道標である

.

」(S55) 我々もこの道標に従 って論を進めてい く.ただ し, 「道標」は筆者が r物への問い」の中に読み取 った も のであり,以下の区分 けは 「物への問い」の中にはそ のままの形でなされてはいない. α.第 一 の道標 ;カテ ゴ リー と理性 すでに述べたように

,

「物への問 い」 を 「歴史的 な 問い」 にす るためには 「ギ リシアの始ま り」 と 「近代 自然科学」 に向けての問いかけが不可欠 であ る.「ギ リシアの始まり」において 「物の構造」 と 「命題の構 造」 との連関に関 して卓抜な見方がなされた. とハイ デガーは見 る.それが 「カテゴリー」である.ハイデ ガーによれば

.

「カテゴリ

-

」 は 「有の比放ない解釈」 (S63)か ら出て きた言葉なのである. ′ カテゴリーのギリシア語の語源,Ka

T

a

-

a70PeUeEJ/ は 「下 って一述べる」 という意味を持 っている.ハ イ デガーによれば

,

「下 って」行 く所 は 「物 の有」 で あ る.「物の有」は 「物へ と下 って行 って述べ る」 とい う仕方ではじめて 「規定される」のである.物に関す る陳述の仕方か ら物そのものが規定 される,というの は 「解釈」である.そこには 「先入見」が存 している. しか し,この 「先入見」は 「先一入 一見」であ り,歴 史的現有の 「根底位置」である 「先 一入 一見」でなけ ればならない.そこで

,

「有 の比頬 ない解釈」 と言 わ れているのである. 「間接伝達論的」には 「物へ下 って述べる」 という ことは 「真言」の 「天下 り」4)(-図式,姿をとること,

qx

77-fLa)ということである. ところで

,

「下 って-述べる」 にお ける 「述べ る

の中には 「何かを何か として受 け取 る」 ということが 含まれている.「何かを何かとして受 け取 る」 は ラテ ン語ではreor,つまり,考える,である.従 って,忠 考が物のもの性を規定するための導 きの糸になるとい うことになる.reorに由来するratioはギ リシア語 の ス6γosの訳語 となり,そして,それはやがて ドイツ 語でVernunrt(理性)と訳 されたのである.物の もの 性は,従 って,理性-の問いと関連 している.すなわ ち,何故,またどのように して,思考 は物 の有 とい っ たものを 「規定」できるのか.か くして

,

「ギ リシア の始 まり」 とカントの r純粋理性批判JIとの繋が りが 出て くる.

β

.

第二 の道標 ;近代 自然 科 学 の本 質 と 理 性 の本 質 ハイデガーが近代自然科学の本質への考究を 「道標」 とした理由は,それがカントの思考を決定づけて いる と考えるゆえである.それでは,近代 自然科学 の本質 とは何か.ハ イデガーによれば,それ は 「数学 的」 (mathematisch)という規定性である.(S68) では, この 「数学的」 という本質規定がなにを意味 し ているのか,そ して第-の道標 とどう結びつ き,更 に カントの思考をどのように決定づけているのだろう. ハイデガーは例によって 「数学的」の語源,ギ リシ ア語のFLa

T

をLLaTaに遡 ってその根本的意味を探 る. ′ それによると,〟αrJ7〃αでαとはdasLernbare,つ まり

,

「学 びえるもの」であるが

,

「学ぶ」 とは,既 に あらか じめその何であるかを知 っているものを 「知識 に取 ること」である.それ故, TaFLaT'77LLaTaとは, 「露 な もの」(Offenbar)であ って , これ に従 って 「我々は物を総 じて物 として,またそのよ うな物 と し て経験する」のであり,それ故

,

「物 を知 ることの根 本前提」 と言われる.(S76) さて次 に,上のように理解された 「数学的なもの」 がいかに して近代 自然科学 と結びつ くのだろう.ハ イ

(8)

-7-デガ-はア リス トテ レスの自然学 とニュ- トンの物理 学 とを対比 させなが ら,近代 自然科学の根本に 「数学 的な もの」が入 り込んでいることを指摘する. ハイデガーが注 E]するのはニュー トンの運動法則の 第一公理

,

「慣性の法則」であ る.ア リス トテ レス自 然学では物体の運動はJLETaβ0

ス方

,つ まり変化の 一種であり,場所 というカテゴ リーに従 った変化であ る.ところで,ア リス トテ レスは自然物についての知 と制作された物についての知 とを区別 し,自然物 とは 「その物 自体か ら現れ来たるもの」 とす る.従 って, 物体の運動 も 「その物 自体か ら」説明されなければな らない.物がどうして場所 と関わ り,どのような場所 に移動するかはその物 自体に根拠がある.こうしてそ れぞれの物はおのれの内的根拠に従 って自分の場所を 選ぶ ことになる.火は上へ,土 は下へ とい うよ うに, こうした運動の概念把握は以降支配的となる. これに対 して,ニュー トンの 「慣性の法

」 は鮮明 な対照をなす. 「自由に放たれた物体は,すべて,直線的かつ一様 に運動する.圧迫する力によって強いられない物体 は すべて一様に真っ直 ぐ運動する

.

ここではもはや運動 は物の内的根拠によって決めら れるのではな く,運動の法則が運動の諸規定を決める. 場所 という豊かな概念は位置関係 という平板な限定に よって貧 しい姿 に化する.ここに看取 されるのは自 然が特徴的な仕方で 「解釈」を受けているということ である.「特徴的」 というのは,つまり

,

「公理」 を立 てて自然をそれに基づいて把握 しようとする点を指す. そ して,こうした 「特徴的な」 自然 に対する姿勢の根 本にあるのが 「数学的根底位置」なのである. 物,そ して自然を把捉する際,あ らか じめ一定 の先 人見を立てておいて,この先人見に基づいて物を規定 す るこうした 「特徴的な」現有の態度を-イデガーは 「数学的企投」(mathematischerEntwurf)と呼ん でいる.なお,こうした 「先入見」に基づいて物が評 価 されることがギ リシア語 の

iEf

buであり,その 「先入見」が

i

EiwJLaTaつまり 「公理」であ るとハ イデガーは指摘 している.「先入見」 は 「命題」 なの で一般に 「公理」 は 「根底命題」(Grund-Satz),つ まり

,

「原則」(Grundsatz)である. さて,既 に述べておいたように

,

「根底位置」 とい うのは 「真言へ」の場面,言葉の出来言の 「二次的場 面」においては 「判断」の根拠であ り

,

「推論」 の中 項である.「判断」 において 「外 に出ている真言」 を 「内密で (言 う

)

」 という一種の回 り道が作 られ るの である.この 「回 り道」の始点 と終点が 「判断」 にお ける前提 と帰結であり

,

「判断」 によって展開 された 「概念」である.しか し,この 「概念」 は決 して 「真 言」そのものではないので再 び 「判断」 という形で開 展 される.しか し,この再度の 「判断」 は前 の判断の 根拠を開陳するものである.こうして,根拠 は 「根底 命題」の姿で現れ るのである.だか ら

,

「概念」 の真 の姿はハイデガーが洞察 したように

,

「開かれてある こと

,でなければならない.つ ま り, あ らか じめ本 質が 「看取」 されているのである.ハイデガーはここ I与「真理の本質」をみている.「 真言へ」は-イデガ-哲学 においては 「開かれてあること」と して見えてい る.-イデガ-哲学はこの 「開かれてあること」の見 飽きぬ不思議 さのまえに来てFragenの豊かな宝庫で 遊ぶ 「論理学」である. か くして

,

「数学的企投」 は,現有の (言 う)への 道程において,「(真言に)開かれてあること」の固定 化であり,近代の現有の 「根底位置」ということにな る.そこでは 「根底命題」が 「真言」の 「代わり」 に 表れる.(represent表す,代理する.) この様 なわけ で,ハイデガーは次のような主張をすることがで きる のである. 「む しろ近代の自然科学 と近代の数学 と近代の形而 上学 とはより広い意味での数学的なものの同 じ根か ら 出てきたのである.この三者のなかで形而上学が もっ とも広範囲にまで展事し,- 有るもの全体にまで-- そ して,同時にもっとも深 くまで把握する有るもの全体にまで-- 育 るものとしての有 るものの有まで- ので,まさに 形而上学 こそそれ らの数学的根底 と土台をその岩盤ま で掘削 しなければならない

.

」(S98) では 「岩盤」 とはなにか.ハイデガーによればそれ は(cogitoergosum),つま り, デカル トによ っ て発見された 「我思考す,故に我有 り」 と 「矛盾命題」 である.これ らはどうして 「岩盤」なのか. 「数学的企投」 においては物を規定 し,評価す るた めの土台があ らか じめ 「定め置かれる」(setzen).こ の 「先入見」がSatz,つまり

,

「根底命題」であった. だか ら,そうした 「定め置き」その ものを成 り立 たせ ているものが 「岩盤」 ということになる.「定め置 き」

(9)

-8-清水(茂):間接伝達的真理についての諸研究(Ⅲ) そのものはいっで も 「私が定め置 く」 というようにし て成 り立 っている.つまり

,

「底造 り」 は 「私」 を原 因にしているのである.また

,

「命題」 において は主 語の中にあるものに反 して述語付 けできない.か くし て 「数学的なもの」の 「岩盤」は 「自我命題」と 「矛 盾命題」なのである.この二つが理性の本質であ る. αにおいて理性は 「何かを何かとして受け取 ること」 とされた.その理性は近代自然科学の根本的立場 であ る 「数学的企投」においてそのいわば純粋な姿を露呈 させたといえる.こうして,ギ リシアの始 ま りにおけ るカテゴリー,ロゴスとカントの 「純粋理性」 とが結 びつ くことになる.

γ.

第 三 の道 標 ;純 粋理 性 の 「批 判

さて,第三の道標は第二の道標の更に先に立て られ ている.この 「更に先」 ということが 「批判」 とい う 言葉に込め られている. 第二の道標に導かれて我々は 「純粋理性」が何を意 味するかを知 った.広い意味での 「数学的なもの」 そ のものを支えている 「根底命題」が純粋にsetzenか ら 取 り出され,それが物のもの性を決定するのであった. 純粋なsetzenが 「純粋理性」に他な らない.こう した 「純粋理性」に基づいて構築された哲学体系が,ヴォ ル7,バウムガルテンによって立て られた 「理性的形 而上学」である.カントはこの形而上学か ら影響 を受 けなが ら更に先へと向か う.では 「更 に先

, す なわ ち.「批判」 とは何か. ハイデガーは 「批判」(Kritik)の語源,ギ リシア 語のxp'EンeLiJ (分離する)か ら

,

「批判」 とは必ず しも否定的な意味ばか りでなく.その中には他か ら際 立たせ

,

「新 しい水準に引き上げる」(S121) とい う 肯定的意味がある,と指摘する.従 って

,

「純粋理性」 の 「批判」 ということも 「純粋理性」の本質を際立た せてそれをより高次の階級に引き上げるといった意味 を持つ ことになる.そのためにカ ントは 「純粋理性」 その ものの構造を 「純粋理性」の原則に基づいて規定 しようとす る.か くして

,

「批判 とは.境界 を引 き,測 量する,純粋理性の企投である

.

」(S123)と言 われ る. さて,以上 の三つの道標 によ って我 々はカ ン トの r純粋理性批判」が意味することを学 んだ.この到達 点か ら 「原則論」に至るためにはもうひとつ山を越え なければな らない.それはsetzenその ものの本来 の在 所にカントが立 って

,

「純粋理性」 の 「批判」 を した ということである.カントが立 ったこの立場を- イデ ガーは 「透明な,哲学者的に統治 された領域」(S136) と呼んでいる.ではその 「領域」 とはどのような もの か.

C.

分析判断と総合判断 - 判断の本質

まず,ハイデガーが対象 (Gegenstand)ということ で何を意味 しているのかを知 っておかねばな らない. 彼によれば,GegenstandはGegen(対 して)とStand (立っ)か ら成 る.物 はまず主観を襲い主観に対 してやっ て来 る.これが直観である.次にこの与え られた直感 に思考が参与 して対象が独立す る.た とえば

,

「太 陽 が照 る」 と 「石が暖まる」 とは直観 によって主観に表 象される.そ して次には

,

「太陽が照 るといっで も石 が暖まる」 という表象が起 こる.しか し,これ はまだ Standではないのである.思考は原因一結果 のカテ ゴ リーを使 って

,

「太陽が照 ったか ら石が暖 ま った」 と いうように表象することではじめて対象 はStandとな るのである.つまり,対象は対象 として主観 か ら独立 して客観性を持つに至る. ここか ら分かるように対象認乱 そ して対象 自身 も 直観 と思考の協働によって成立 している.つま り,忠 考 は対象に関係 している. ところで,思考の固有な働 きは 「判断」であ り,主 語を述語づ けると言 う仕方で遂行 され る. しか し, 「思考が対象に関係 し

,対象を対象た らしめるのに一 定の役を演 じているとすると

,

「判断」の本質規定 も 独特のものとなる. カントの 「分析判断」 と 「総合判 断」の区別 もまたこの新 しい立場か らその意義が見て 取 られねばならない. 分析判断 とは主語概念を述語が解説するというよう な判断である.この場合には,対象 と関係す るの は主 語だけであり,述語 は主語の中にあるものを単にいわ ば読み取 るに過 ぎない.これに対 し,総合判断の場合 は,述語 も対象にいわば伺いを立てるのである.た と えば

,

「この石は延長 している

.

」 といえば,これ は分 析判断である.なぜなら

,

「この石」 とい う概念 の中 にすでに 「延長 している」 という規定が含 まれている か らである.しか し

,

「いくつかの石 は白い

.

」 とい う

(10)

ー9-な ら,それは総合判断であ る.とい うの も

,

「い くつ かの石」のどこを捜 して も 「白い」 という概念は含ま れていないか らである.述語はこの場合,対象か ら取 り出される. 既 に述べたように

,

「思考が対象 に関係 している」 という立場をカントが取 ったとす ると当然

,

「総合判 断」 に 「判断」の本質を見て取 っていなければな らな い.従 って

,

「純粋理性」の 「批判

,言 い換えれば, 思考の本質を くまな く測定 しようという試みに際 して は

,

「総合判断」の根底を見極めねばな らないわけで ある.そ して,この 「根底」は先に述べておいたよう に

,

「数学的なもの」の 「先入見」 であ り,カ ン トの いう 「ア ・プリオ リ」な ものである.か くして,今や, 「純粋理性批判」 は

,

「ア ・プ リオ リな総合判断はいか に して可能か」 という問いとして結晶化される. この問いの含みはつぎのハイデガーの言葉の中によ く出ている. 「我々が真理の本質を伝統的な意味で陳述の対象と の一致 として理解す るな ら- そ してまた,カ ン ト もそれをそう理解 している- その場合 には,その ように理解 された真理は,あ らか じめ対象がア ・プ リ オ リな総合判断によって,対 して-立つへともた らさ れていないなら,あ りえない.それ故,カントは,ア ・ プ リオ リな総合判断,つまり,純粋な悟性の諸原則 の 体系を Fあ らゆる真理の源泉」 となづけている」 (S 184) こうして我々は 「底造 り」の現場に到達 した.そ こ は 「対象認識」成立 の根底であ り,-イデガーが強調 しているように 「人間の認識」の根底である. さて,我々はすでに 「判断

,そ して

,

「推論」 はオ リジナルには 「真言へ」であることを述べた.「真言 へ」 において 「判断」 と 「対象」が結びつ く.なぜな ら

,

「対象」 とは 「判断」が (言 わん) と して いる向 こうにある何かであ り 「真言」そのものだからである. したが って 「判断」の根底は 「判断」の 「真言」への 接近的ありかたを言 うこと以外にない.それはつまり, 思考の時間 との結びつきを言 うことである.なぜなら, 「真言へ」の 「へ」が時の秘術語であるか ら.「判断」は こうして,本質的に

ge

hbr

i

g

であることが理解される. それは

,

「真言」に対 して く闘い)ている

(

hb

r

e

n

)

,つ まり 「密のったえ」 に 「開かれている」 ことの固有の 有 り方なのである.しか し.「判断」 は決 して 「真言」 を く言 う)ではない.ヘーゲル的に言えば 「真言」 が

a

nundf

urs

i

c

h

であるのに

,

「判断」 は

mrmi

c

h

である.しか し,まさに

f

rmi

c

h

であ るゆえに 「判 断」 は 「何か」を規定するということができるのであ る.従 って,カントの問い

,

「ア ・プ リオ リな総合判 断はいかにして可能か」は

,

「真言へ」 を (言 う) こ とで決着がつ く.ところが

,

「真言 へ」 は 「二次的場 面」では 「推論」の形で 「語 ら」れ る.「推論」 の根 拠 となるのはカシトの場合,物 自体であるが

,

「判断」 が 「総合判断」 として把握されているかぎりは 「根拠」 はむ しろ 「真言」への接近性その ものとみなされる. か くして

,

「推論」はカントの場合

,

「循環」 を形成す る.ハイデガーが カ ン ト哲学 の核心 に見たのはこの 「循環」であり,この 「循環」の場が同時に-イデガt の哲学の在所

,dasZu

ともいえるところ

,

F物への問 いJでは 「人間と物の間

,dasZwi

s

c

he

n

, といわれ ていることなのである.次に後半でいま述べたことを 詳述す る.

3.

本 論 -

後半

すでに述べたように

,

「真言へ」 は 「真言」 に対 し ては 「推論」を している.自分 自身 ,つま り

,

「判断」 が 「根拠」か ら 「言われ」 なければな らな いと 「意 識」 され (意識現象)

,

「根拠付け」の運動が必然的 に 起 こる.これが 「形而上学」である.歴史の運動 の根 拠 もここにある.ヘーゲルはこうした運動の根底 に

an

undf

ars

i

c

h

なもの,つまり

,

「概念」 を見 ている. ハイデガーの場合は 「推論」そのものが 「問い」 と化 し,それを 「克服」 しようとす る.「形而上学」 その ものが 「問い」 となる.カン トの 「原則論」 もそ うし た立場か ら眺められている

.

「原則論」 において 「判 断」の根元がどうなっているかが明かされるのである. 「判断」の根元は 「ア ・プ リオ リな総合判断」 が可能 になっているところである

.

「判断の根元」 は 「真言 ●●● へ」が 「真言へとして」ではな く

,

「真言へのなかで」 語 り出される.言い換えれば

,

「判断の根元」 は 「ま だなお判断と言 う仕方で」明かされざるを得ない. し か し

,

「判断」 はあ くまで 「対象」に 「関係 している

.

それでは

,

「判断の根元」の 「判断」 とい うのはど う いうものとなるのか.それは 「時間」に 「即 して

「真 言へ」を,つまり

,

「真言」 との 「へ」という 「関係」 ー 10

(11)

-清水(茂):間接伝達的真理についての諸研究(Ⅱ) を 「語 る」 ということである.こうした 「真言」 との 「関係」を 「判断」が語 るとき現れる言葉 が 「カテゴ リー」である.「カテゴリー」はfarsichなものがfiir michな ものとして 「現象」 しているときの必然的な 「橋」 なのである.この 「橋」 によ って 「対象」 は 「対象」になることがで きるのである.か くして 「対 象」を成 り立たせているものとして 「カテゴリー」が 挙げられる.「カテゴリー」は同時 にまた 「人間の対 象認識」の基盤 となるものである. 以上の考察か ら,カントが 「あらゆる総合判断 の最 上位の原則」 と言 っていることが理解される.その原 則 とは

,

「経験一般の可能性 の条件 は,同時 に経験 の 対象の可能性の条件である」 というものである.ここ で言っていることは上に述べた 「橋」 の ことである. ハイデガーはこの原則について こうのべている. 「この命題を把握する人はカントの 「純粋理性批判」 を把握する.これを把握する人は,哲学の文献 の中か ら一冊の本を知るだけではな く.我々が回避すること も飛び越えることも,なおその他どのようにして も否 定することもできないような,我々の歴史的現有 の根 底位置を支配する

.

」(S186) ハイデガーはこう述べているが, しか し

,

「根底命 題」自身は 「真言へ」に基づいている.「真言」を (言 う)意志 は 「詩作」として現実化す る.従 って

,

「対 象認識」の世界,つまり

,

「自然」 のテロスは芸術活 動のなかにある.自然 はエ ンテ レケイ7,つ ま り, 「テロスの中に持っ」 ことにおいて 自然 と して成立 し ているのである.そのような意味では,カントの 「判 断力批判」の中にカン ト哲学の 「奥義」が潜んでいる. とは言 うものの

,

「原則論」 はカン ト哲学 の 「核心

であるということは既 に述べたことか ら 「正 しく」言 える. さて

,

「橋」の何であるかが示 されたので,以下 の 論究は 「橋」の種類を示す こと,つ まり

,

「純粋悟性 のあらゆる総合的な原則の体系的な表示」(S187)と いうことになる.それ とともに

,

「真言 へ」 とい う 「判断」のオ リジナルな意味が 「真言へ と して」 で は な く

,

「真言への中で」語 られる,つま り

,

「推論」 になっているということ

,

「まだ判 断の姿 で」 語 られ るということの 「問題性」が暴露 されなければならな い.ハイデガーはこの ことを簡潔に次のように言 って いる. 「問題はただ,どこにそれ らの原則 は根拠付けを持 つかということだけが残 る

.

」(S188) 「真言へ」はカントの 「原則論」の 「根底位置」で ばansichではあるが,fursichで はない.香 ,それ はむ しろ

,

「真言へ」 はどこまで もftirsichへの接近 としてfilrmichである,と言 うべ きであろ う.そ し て,fursichへということは同時にfaranderesとい うことで もある.これはつまり

,

「外 に出ている真言

は自他 という 「外的関係」にある, ということである. 「外に」 という 「秘術語」 は一 と多とい う 「量」 のカ テゴリーを 「語 る

.

そ して

,

「員」 は 「へ」 の もう一 つの姿 といえる.「へ」 は時間の秘術語であった.「星」 は 「関係」のカテゴ リーによ ってその真 理 が言 われ る.「畳」 と 「関係」の中間項が 「質」 のカテゴ リー である.これ ら,三つのカテゴ リーによって 「真言」 がなにが しかの意味で告げられている.そこで,三つ のカテゴリーで言われたことは 「評価」 される.それ が 「様相」のカテゴリーである.カ ントの立場で はこ のことは知 られていない.そこで

,

「原則の根拠付 け」 のところに 「問題」が出て くるのである.ハイデ ガー は鋭 くこの 「難点」を突 く.「原則」 の根拠 は 「真言 へ」であるが,そのことは 「胎戒界」か ら言葉になっ ているのであり

,

「間接伝達」する 「言葉」 で しか言 われない.「原則」 は 「真言 への中で」 とい う苦境 (Not)の坤吟であ り.「必然性」(Not-Wendigkeit) のいわれ語 りを為 している.「原則」 の証明根拠 はこ の 「苦境」その ものと言える.こうした 「苦境」 は-イデガ一によってi一入叩Oe'Ea,つ ま り

,

「真理」 の 本質 として把握されていて,a (ない) と久かOe'Ea (読)の関係は奥深い霧の森となっている

.

「-イデガー 哲学」の在所はこの霧の森であって

,

「間接伝達 論」 はこの 「森」の全体を 「言葉の出来事」 として解 き明 かそ うとしている.「ない」は諸研究 (Ⅱ)で述べ たよ うに 「図 りごと」に起因する.「図 りごと」は 「術」とひ とつ となって 「間接伝達」の中心をなす

.

「真言」 は, 従 って

,

「術的

,

T

x叩 -

Ab

γos,technologyで あり,「原則」のエンテ レケイアである.ところが

,

「原 則」 は全 自然の 「根底命題」であ り,全 自然 の根拠で ある.だか ら,自然の底 には 「技術」が潜んでいる.「潜 んでいる」 ということをア リス トテ レスは 「可能態」, デュナ ミスと呼んだ.デュナ ミスとしての自然が その 底に潜ませているものが 「芸術」であ り

,

「技術」 な - l

(12)

l-のである.それがエネルゲイア

(

;

主pγ

e

La, 作 品の中に立っ こと)であり

,

「エネルゲイアがデ ュナ ミスに先立っ」 というア リス トテ レスの言葉 にしたが えば,全 自然は 「作品」を産み出そうとしているので ある.ない しは全 自然 は 「芸術作品」の中にある,と 言える.「荒海や佐渡に横たふ天の川」 とい う作品の 中で宇宙の運動 とその法則が括 きている.デュナ ミス としての全 自然 に姿 をみせ る最初 のエネルゲイアが 「技術」を帯びた 「生命」である.そ してその 「生命」 のエネルゲイアが 「人 間」 それ も 「天才」 であ り, 「詩」を言 うことで終わる.哲学者が見ているのは こ の大 いなる円環であり,ア リス トテ レスの深 さもここ にある.また

,

「生命現象」 は 「芸 術

.

そ して 「美」 と本質的関係を持つ.カン トの 「判断力批判」の射程 の的確さを今 日 「環境 と生命の問題」を考える科学者 は学ばな くてはならない.そ して,全自然を自然 た ら しめているのが 「原則」なのである.しかも

,

「原則」 の証明根拠に.は固有の問題がある.この問題 こそ自然 の根元にある 「苦境」である.以下の論究によって こ の 「苦境」が展示 され,そ してその本質がdasZuで あることが明 らかにされなければな らない. このような意図のために,以下の論述は r物への問 い」 のハイデガーの論述か ら逸れた ものとな らざるを 得ない.しか し,この 「逸脱」 はむ しろハイデガーが カ ン トの 「原則論」の証明に見た 「循環」の何である かを明かすための 「逸脱」であって,十分な根拠 のあ るものである.

A.

直観の公理

カン トが挙げている第-の 「原則」 は次のようなも のである. 「純粋悟性の原則 :あ らゆる現象はその直観 に従え ば外延丘である

.

」(A版) 「直観の公理の原則 :あらゆる直観は外延量である

.

(B版) さて,上述のように.自然 ,カ ン トの 「対象」,は 「真言へ」 という 「秘術語」の現れである.ところが, 「真言へ」 は 「二次的場面」では,つまり

,

「真言への 中では」

,

「判断」の根元 と して

,

「根底命題」,つ ま り,「原則」 となる.そこでは,思考はgeharigという 性格を保持 している.「根底命題」は,しか し

,

「真言 へ」を表現 していなければならない.そこで

,

「原則」 は時間との連結において提示 されなければならない. ところで

,

「真言へ」 は 「外 に出ている真言」 を 「内密へ」 ということである.だか ら,まず最初 に, 「外に出ている」 ということが与え られていなければ ならない.「外に」 ということはftiranderes(他 の ために) ということであり,「言葉」 がftirsichで は なくなっていること,なにか自分 とは違 うものにとっ ての ものとなっていることである.同時 に

,

「外 に」 はfilrmichになっていることである.「私」にとって のものでありなが ら,それ自体を失 っているもの,す なわち 「私の回 りにある虚 しいもの」,それが

,

「最初 に与え られるもの」 としての 「空間」である.「言葉」 としては 「畳」のカテゴリーが 「語 る

」.

この間の事 情はヘーゲルが見事に捉えている.ヘーゲルの rエ ン チュタロペデ ィー」 に欠 けて いるのは

,

「空間」 が 「私の」の回 りにある,ということ,つまり

,

「身体性

への洞察である.「空間」は一番最初のデュナ ミスと いって もよい.そ こに,すべてのものが 「潜んでいる」. 我々が他者 と全 うのも 「空間」の中であり,芸術作品 も 「空間」の中にあるわけであ る.その意味で

,

「空 間」 はあらゆるものの 「登場」を許 している.ハ イデ ガーはこの 「許す こと」 をeinraumen,つ ま り 「容 認する」 という言糞で示 している (S203).もちろん, 「空間」 も 「芸術作品」の中にある以上

,

「荒海や佐渡 に横たふ天の川」の中に 「空間」はその詩 としての真 相を露にするのである. 「空間」 は,以上のよ うに

,

「真言 へ」 において 「始点」 となるべきもの

,

「外に出ている」 ということ の 「既成事実

,

「過去」である.「私」 の一切 はそ こ か ら開始するのである.「私」 に最初に与え られた も の,その意味でそれは 「純粋直観」である.そ して, 「空間」 は,ヘーゲルの言 うように,「an sichには概 念」であるので,つまり

,

「真言」 のデュナ ミスであ るか ら

,

「真言」 との 「へ」 とう関係を打 ち明ける. 「打ち明ける」言葉,秘術語,はこの場合

,

「量」 のカ テゴリーである.「皇」の中には 「詩」 があることに なる.「量」 はfGranderes,つ ま り, どこを とって もおのれはな く,おのれをおのれの外に持つ.か くし て

,

「皇」は第-には 「外延量」 である.つ ま り,た だ 「広がる」 ということで成 り立 っている.このよう に して

,

「私」に一番最初に与え られたもの

,

「純粋直

-1

(13)

2-清水(読):間接伝達的真理についての諸研究(Ⅱ) 観」としての 「空間」 は 「外延量」 である.「空間

はそこにすべてのものが 「登場」 す ることがで きる 「許 し」 として 「外延

」であるか ら

,

「あ らゆる直観 は外延塁である」 となる.

B.

知覚の先取

さて,第二の 「原則」は次のようなものである. 「あ らゆる知覚をそのようなものとして先取する原 則 は次のようである.あらゆる現象において,感覚 と 対象に即 してそれに対応 している実在的な もの (現象 の実在性)は内包量,皮を持つ

.

」(A版) 「知覚の先取の原理 とは次のようである.あ らゆる 現象において感覚の対象である所の もの,つま り,莱 在的なものは内包量,つまり皮を持

っ.

」(B版) Aで明 らかになったように

,

「真言へ」 の始 ま りは 「空間」である.しか し

,

「空間」の成立はf也rsichの 故である以上

,

「空間」 の中にf屯randeresを否定す るもの,「空間 」にあるのに 「空間」に入 らないものが 顕在化 してこなければならない.同時に,ftirmichと いうことも 「私にとって意味のあること」 ということ へ移行する.「私」が 「胎蔵界」 か ら出て きた意味が 出てこなければならない.つま り

,

「真言 を言お う」 という 「意志」が 「私にとって」ということに出て こ なければならない.「空間」にあ りなが ら非空間的な ものが 「実在的なもの」であり,それのftirmic九, つまり

,

「私にとって」が 「感覚」である.か くして, 「感覚の対象である実在的なもの」 と言われ るのであ る. 次に

,

「真言へ」 はここで初めて 「判断」 のデュナ ミスとなる.つまり

,

「言葉」 とな るとっかか りがで きる.言葉になる前の何 とも言えない 「感覚的なもの

,

「必然的判断のデュナ ミス」が顕現する.「塁」にあ っ てそれの 「真理」を成 している 「へ」の秘術語が 「質」 のカテゴリーとして 「打ち明けられ る

.

こうした こ とをヘーゲルは r精神現象学」の 「知覚」のところで 詳述 している. 「質」のカテゴリーは,こう して

,

「外 に出て いる 真言」が初めて 「内密で」語 り出される 「門出」であ ることになる.「門出」の祝いが 「質」 のカテゴ リー の中に詩的な ものとして潜んで いる.なぜ な ら

,

「真 言」は 「祝いごとの分かち合い」だか らであり,それ が初めて語 り出される所にもまた

,

「祝 い」 が届 いて いるか らである.我 々が感覚す るもの,「山の青

,

「コスモスの赤

,その中には 「真言」が潜んでい るの であり

,

育」

,

「赤」 といって もすでにそれ は 「論理 学」に属する事柄なのである. 「質の」カテゴリーは以上のような一種の 「門出」 なのであるか ら.rtiranderesということが完全 に克 服 されたということではない

.

「空虚」 な ものか らな んとか抜け出ようと 「私」に救 いの手 を さ しのべ る. ハイデガーはこのことをAndrang(押 し寄せ) とい う言糞で言い表 している.(S210) か くして

,

「質」のカテゴリーは 「依存」 と 「独立」 の中間で 「真言へ」を 「打ち明けている」 ことになる. そこはまさに 「独立」への 「門出」 となっている. こ の状態が 「内包

塁」

,言 い換えれば

,

「度」 ということ である. 以上のことか ら

,

「門出」の.「祝 い」 をひめやか に 語 っている 「質」のカテゴリーは 「度」的であり,ま た, この 「門出」の場面で 「感覚」 とその 「感覚の対 象

,つまり

,

「実在的なもの」が顕在化することがわ かる.「知覚の先取」の 「原則」 は この ことを言 って いるのである.「身体」の 「感覚器官」 はここにその 在 りかをもっている.ただ広が っているだけの 「身体」 はいまや 「重 さ」,「肉体」を持つようになる.「空間」 はf止randeresの故に 「重さ」を持たない.なぜなら, 「重さ」 というのは,-イデガーが 「芸術作品の根源J の中で述 べているよ うな 「地」 と関係 し

,

「地」 は 「隠す こと」,verbergen,であ り

,

「間接伝達論的

には 「密」に他な らない以上

,

「門出」 の場面 で.つ まり,f也rsichがはじめて顕在化す る場面で,は じめ て 「登場」するか らである.「空間」 はただ 「重 さ」 に対 して 「開いている」のである

.

「重 さ」 の開始 は 「光」の顕在化ということになる.こうして

,

「重 さ」 が出て くると

,

「身体

,つまりftiranderesに 「即 し て」そ こにいわば 「入 り込んでいる」 もの と しての 「私

,の中にも 「地」が顕在化 して くる.それが 「国 土」であ り

,

「肉体の重 さ」 とともに,またその下 に ある 「地」である.まことに

.

「肉体」 は, 聖書 にあ るとお り

,

「地」か らつ くられ,そ して

,

「地」 に帰 す るのである. 「重 さ

,つまり

,

「重力」は 「身体」が 「肉体」 と して 「重さ」を持つ ことと同 じ場面で出て くるのであ - 1

参照

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