はじめに ホッブズは,「近代国家論の真の創始者」であると言われる) 。政治哲学を 離れて,より広く近代社会の構成を見出そうとすれば,彼こそは人間の自由 な平等を提唱するうえで<私人>という新しい人間像を基礎に社会理論を構 築した最初の思想家である。ここで言う<私人>とは,ホッブズの概念で あって,政治的国家の外に生きる者,すなわち政治家や聖職者以外の民間人 のことである。国家主権によって守られるべきものは,国家以前に存在する 何者かとしての<私人>であるほかはない。だから,ホッブズが近代国家論 の創始者であるとは,<私人>を発見したことにおいてもっとも根源的な意 味を持つ)。
<私人>の発見
『リヴァイアサン』の新しい読み方
キーワード:ホッブズ,私人,リヴァイアサン,社会契約 )田中浩, ,『ホッブズ』岩波新書。ただしこの場合,近代国家という概念を 永久不変ではないある歴史的なものという意味で私は使っている。 )水田洋, ,『近代人の形成──近代社会観成立史』東京大学出版会。古典を どう読むかを教えてくれる記念碑的著作である。水田の読解は人民の生きる権利 が国家構成の論理的基盤にあることを強調する。すると『リヴァイアサン』は民 主主義論の古典として現れる。これにたいして<私人>が基盤にあるという読み 方をすると,自由主義の古典としての色彩が強くなる。筆者の立場は,後者を機 軸としつつ前者を包摂する立場である。ホッブズやロックの理論に関わって「個竹 内 真 澄
1ホッブズは<私人>を発見したが,完成させたわけではない) 。彼の過渡 期的な理論的特徴のために,<私人>が本質的な意味で理論的に展開される のはジョン・ロックを待ってのことであり,社会科学的に完成されるのはス ミスにおいてのことであった。だが,ホッブズは国家にとって基底となる <私人>の存在を密接に市場社会と結びつけ,こうした社会モデルに依拠し た結果,近代国家の成り立ちを,いわゆる社会契約論として理論化したので ある。 近代が自己を表現するにあたって,なぜ社会契約論という理論形態を選択 するのか,近代と社会契約論の対応性は何によって担保されるのかというこ とは,これまで十分に説明されてこなかった問題である。私見では,たんに 自由で平等な人間を発見しただけでは社会契約論出現の謎は説明不能であっ て,<私人>の自由な平等性が理論の核心に浸透した場合にだけ社会契約論 が出現するのである。すなわち,古代的・中世的なものを否定し,近代的な ものを立てていくところのカテゴリーが登場する必要がある。これこそが ホッブズの<私人>という概念であり,この台座が据えられたあとになって 初めて社会契約論という思考実験がなされたのである。 すなわち<私人>概念が中心を占めることが決まると,これを基軸にその 周辺に自然権,生命の自己保存,力の合成,社会契約,コモンウェルス=国 家主権などのカテゴリーが初めて編成されえたのである。<私人>の自然権 が自己貫徹することでそびえ立つ国家主権の論理は,ほとんどそのまま自由 民主主義の原理である。ゆえにホッブズにおいて発見される<私人>概念は どのような含蓄をもつものであるのか,そしてこの概念を取り巻く基礎概念 人」と言われてきたものを本稿では,歴史形態的に<私人>と定義し直すのであ るが,このことは後の社会理論を考える場合,根本的に大きな違いをもたらす。 )J・ロックについては別稿で論じたい。ホッブズにおける<私人>の発見のあと, ロックはそれを自然状態の安定の中で発展させ,ルソーは<私人>について否定 的に評価し,公民の意義を語る。さらにスミスは<私人>の経済活動の自律性を 論証する。このあとヘーゲルは<私人>を私的人格として継承し,マルクスは私 人/公人分裂論(『ユダヤ人問題によせて』)で批判的な総括をおこなう。 2 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号
の布置状況はどのようなものなのかを探求することは,自由民主主義の意義 と限界を再考するための下準備となりうるのである) 。 .ホッブズ登場に至る前史 ホッブズが登場したことは,一つのカテゴリー上の理論的な転回であっ た。ということは,彼の出現以前に,ある伝統的思考様式が固く存在し,そ れが容易に打ち破れぬまま長期にわたって支配的な位置を占めていたという ことにほかならない。 では,伝統的思考様式とは何か。それは,古代ギリシアから中世カトリシ ズムに至る,長期的なひとつの思考枠組み,あるいは容易に変更し難い共通 の思考パターンと言える。そして,これこそが全体/部分という理論構成で あった。 一般に,古代ギリシアの哲学には,全体/部分という枠組みが多用されて いる。たとえば,アリストテレスの『政治学』には次のような記述がある。 「国は家やわれわれ個々人より先にある。何故なら全体は部分より先に あるのが必然だからである。」) アリストテレスの思考では,全体holos,wholeは,何よりもポリスであ り,家族や個人はこの全体の部分とされる。また,家を仮の全体とみなす場 合,家はそれを構成する各部分meros,part,つまり個人よりも先にあらね ばならない。家はこの脈絡ではひとつの全体であって,主人と奴隷(主従関 )C・B・マクファーソン,藤野渉,将積茂,瀬沼長一郎訳, ,『所有的個人主 義の政治理論』合同出版,原著 年。ホッブズはこの著作で「自由民主主義 の根源」として位置づけられている。のちの田口冨久治訳, ,『自由民主主 義は生き残れるか』岩波新書,原著 でマクファーソンは,ホッブズを 世 紀, 世紀の自由民主主義の伝統の外に位置づけている。両者は単純に矛盾す るわけではないが,本稿は,基本的に前者の位置づけに従っている。 )アリストテレス,山本光雄訳, ,『政治学』 a,岩波文庫, 頁。
/
<私人>の発見 3係),夫と妻(婚姻関係),親と子(親子関係)という つの「部分」的諸関 係からなるとされる。さらに一人の人間を「全体」とみなすこともできる。 この場合,魂と身体という二つの「部分」から人間はできているとされるの である。 このように,ポリスと家,家と諸個人,人間と魂および身体は,いずれ も,「全体」と「部分」の関係として把握されるのである。しかもいずれの 場合も,部分とは「全体」の「部分」であって,全体が部分よりも「先にあ る」(論理的にも時間的にも)とされる以上,部分は能動的に全体を作り出 すことは不可能であるとされていた) 。 全体はつねに部分に優越し,各部分の位置は全体という超越的な何者かか ら天下り式にどうあるべきかを指定され,こうして一切の「部分」は他の部 分との相互関係を経由して,「全体」へ従属するような関係に位置づけられ ているからである。 このように,アリストテレスの思考において,全体/部分という理論構成 があらゆる種類のユニットを考える場合に使われる根本的なカテゴリーに なっていることを理解することができるであろう。 またアリストテレスは,ポリスの土地が共有と私有に分けられている事実 の記述をしている。この点にプラトンとの違いがある。つまり,プラトンは 土地の私有を一切認めないのであるが,これよりもずっと寛容に私有を認め るのがアリストテレスの立場である。すなわち,自由民とは土地を分割して 所有する者である。そして自由民は同時に武装戦士でもあって,またそのよ うなものとして政治に関与する主権者たる自由民なのである。 しかし,アリストテレスは全体と部分のカテゴリーを,私有と共有よりも ずっと根底的なものとして位置付けている。だから自由民が土地の私有の利 害を盾にとってポリスという全体に抵抗する余地はまず存在しない。だか ら,私有を認める場合でさえ全体の優位を揺るがすことはできないのであった。 )同, b,訳 頁。 4 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号
同じように,貨幣ノミスマに対する関係も,きわめて限定されたものに抑 え込まれている。アリストテレスによれば「すべてのものが交換術の対象に なる」けれども,それは「有用なものがそのまま有用なものと取り換えられ るだけでそれ以上には出ない」)範囲に絞り込まれていた。すなわち交換は, 主として物々交換であって貨幣を媒介にしたものではなく,もし貨幣による 取引があっても自然に合致したポリスの自給自足を大幅に破壊することは あってはならないとされるのである。 このために,所有物が共同体の内部において私有されるとしても,また交 易をつうじて一定の範囲の商品交換がある場合でも,そして貨幣が流通する としても,それらが共同体の自給自足を破壊しない範囲にとどめられねばな らないのであって,私的なものが存在しても,この私的なものは「全体」に 従属するところの部分であって,全体を維持すべき自給自足は維持されるの である。 このような意味で,私的なものは古代において事実としてはすでに出現し てはいたが,その力は微小であって,全体/部分という構成が強い統制的力 をもっているから,私的なものを基礎とする公的なものを公然と請求するこ とはなく,私的なものは部分というカテゴリーにくるまれて,それを打ち破 ることはできないままに置かれたのである。これは,いわば共同態を維持す ることを最高の善とするような古代の思考は,全体の部分に対する優越とい うカテゴリーを選びやすいことを示している。 総じて,古代の理論において全体/部分の関係は,多かれ少なかれ常に全 体を志向させる全体主義holism,wholism的な理論構成の枠内にある。なぜ ならば,ソクラテス,プラトン,アリストテレスの場合,三者に強弱の差は あっても,共通にポリス国家という共同態的全体が不動の前提であり,部分 が家であろうが個人であろうが,それらはポリスたる全体へ向かって意味あ る存在でなくてはならないのである。それゆえ,部分は全体に対して従属さ )同, a,訳 頁。 <私人>の発見 5
せられ,あるいは統合されるべきものであり,部分というものが全体から離 れて自存することはありえないのである。このような意味において全体/部 分という思考様式が支配的である限り,部分が単位となって全体を組み立て ることは,原理的に不可能であったというべきであろう。 このような思考様式はけっして古代だけに限られたわけではなかった。た とえば中世を代表する神学者トマス・アクィナス( ∼ )にも同じよ うな発想は継承されていた。アクィナスは,アリストテレスの哲学を使って 神学を再構成したと言われ,それゆえに全体/部分という理論構成を本質的 に引き継いでいると理解できる。 たとえば『神学大全』には,大量に全体と部分というカテゴリー上の対比 が使用されている。中世メレオロジー(全体と部分にかんする論理学的研 究)においてアクィナスの役割は,アリストテレス哲学に依拠しつつ,神は 完全性と統一性を併せ持つところの全体であり,神の創造した世界の中で人 間は部分をなすとされるのである。この世界像の中において,神─世界─人 間という垂直的な位階性の中で上位に近づくほど全体であり,下位に近づく ほど部分である。アクィナスにとって神は完全であるとともに統一的な存在 としての全体であった。そして,世界は神よりは小さく,さらに人間は一層 不完全であり,不統一なものであるとされる。人間のなすべきことは,神に 帰依することではじめて完全と統一に幾分かでも近づくことなのだというの である)。 トマス・アクィナスは,アリストテレスが立っていたポリスの時代から年 代的にははるかに隔たった時代に生きていた。ポリスにおいてもすでに私人 と公人の区別はあったが,公人であることの名誉が価値あるものであり,利 己的財を追求することは恥ずべきことであった。アクィナスは,奴隷制が崩 )T・アクィナス,高田三郎ほか訳, ,『神学大全』創文社,松田毅 編 著, ,『部分と全体の哲学』春秋社。 6 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号
壊し,農奴関係を基礎にした封建制へ移行したあとの時代の思想家である。 にもかかわらずアクィナスは,なお共同体という枠組みの中にあるという意 味では,アリストテレスと同一の基盤に生きていた。もちろん私有の発展は ますます複雑化した。ポリスの崩壊後,ローマ帝国が台頭したが,帝国が東 西に分裂したあと,西ヨーロッパにおいて個別的所有が一層発展していた。 中世のキリスト教の所有論は,ふつう「私有共用論」であるとされる) 。つ まり,私有の発展はみられるけれどもキリスト教の諸団体は一般民衆や貧者 に対しては略奪する主体であるとともに贈与し,再分配をして保護する主体 でもあったわけである。そうであるからこそ,彼はアリストテレスに注目す ることができたのである。 共同体的所有と私有の多様な形態の混交と並列は,中世になると教会領と 王領の対抗に二元化され,亀裂は徐々に拡大する。しかし,教会領と王領が 民衆を協力して収奪する体制であるかぎり両者は補完的であったから中世の 基本構造はまだ安定していたのである。 ここから 年以上降ると,教皇と王はしばしば激突し,民衆はあるとき にはより多く王を支持し,ある時はより強く教皇側に帰依した。そしてこの 矛盾が大きくなることが宗教改革の機運の前提を育てていくのであるが,ア クィナスの生きた時代にはまだ神の共同体の力は非常に強靭であったのであ る。 アクィナスは,ホッブズと同じく私人private manとか自己保存conservation という用語をつかっているが,内容の密度はまったく異なる。私的なものは きわめて弱々しく,倫理的に軽蔑される位階性のなかに位置づけられてい た。彼は,そうした用語を導入したにもかかわらず引き続き全体/部分の枠 組みを優先し,ローマ法王の秩序を守るべき最高知識人として伝統的な理論 構成を保持したのであった。 )五百旗頭真治郎, ,『キリスト教所有思想の研究』南窓社。 <私人>の発見 7
.『リヴァイアサン』( )における全体/部分から私/公への転回 まず思考の枠組みから考えておこう。ホッブズが出現する以前,社会を論 じる際実に長きにわたって使われたカテゴリーは,全体/部分という概念で あった。まず社会を示す全体があり,そのなかに部分があるとされる。した がって,部分はいつでも必ず社会全体の存在を前提し,この全体の中に位置 を占める一部と考えられたのであった。部分とは,それじたいとして独立可 能な部分ではなく,つねに全体の部分にすぎない,というわけである。全体 の部分とは,全体の論理的な先行を前提するような部分という意味にほかな らない。 しかし,近代を切り開く思考からすれば,全体/部分という理論構成には 乗り越え難い制約があった。部分を全体から切り離してもその独立性を保ち うる,と論じることは古代的または中世的な全体/部分の理論の枠内では不 可能であった。なぜなら部分がいかなる全体へ統合されうるかに関して,全 体という超越物を抜きに部分を考えることが不可能だったからである。「神 は細部に宿りたまう」という格言は,やはり,神の先行を前提とした部分観 であった。 それゆえ,部分の独立性を表現しうるためには,近代的思考は部分の先行 というやり方を追求した。部分の独立のための議論は,エピクロス的な原子 論として現れたり,普遍概念への唯名論的な懐疑や,神学的なものへの異議 申し立てとなって現れた。しかし,全体/部分という枠組みの中では,定義 によって部分は全体からの相対的自立をえることができても,その枠組みそ のものを突き崩すところまでは届かなかった。さらに進むとそれはたとえば particularという形容詞の使用に現れる。particularはpartに由来する。『リ ヴァイアサン』では,particular man, particular menなど個々別々の人と訳 すことのできる用例が単複合わせて 例ある )
。particular manは元来部分
)頻度だけで言葉の重要さが決まるわけではないが,私人と訳している検索にヒッ 8 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号
人というニュアンスを帯びるから,あらかじめ存在する全体を分割した結果 はじめて考えられる人間のことを指しているかのように見える。ところが ホッブズにおいてはそうではなく,個別者は全体から先行,独立しているの である。それだけではない。個別者というのは,各人固有の私的な利益を 担っている,それ自体としてカウントできる人のことなのである。だから, 個別者はもはや全体に繋留されてはおらず,しかもたがいに競争し合うため に契約することに依存し,コモンなものやパブリックなものを創出する。創 出されるものは,これまで部分を統合していた全体という超越物ではない。 全体のない部分をわれわれは考えることができないが,公的なもののない私 的なもの,あるいは公的な領域の外側にある私的なものを考えることはでき るのである。なぜならば私的なものの先行的存在を与件として,相互の契約 によって事後にコモンなもの(パブリックなもの)は創造されるからであ る。いやそれだけではない。ホッブズはもっと大胆に,主権者としての「か れのなかにコモンウェルスの本質が存在する」) とさえ言っている。コモン ウェルスは各<私人>が主権者に与えた権威によって成立する。コモンウェ ルスとは究極的には<私人>からなるマルチテュードの真の統一なのである。 そしてまたホッブズは,古代と近代を区別して,近代になると〈私人〉= 個別者の自由が生まれると,つぎのように論じている。 ≪著作者たちがたたえる自由は,主権者たちの自由であって,私人たち private menのそれではない≫ 古代のギリシャ人やローマ人の歴史や哲学に おいて,また,かれらから政治学に関するすべての知識をえた人びとの,著 作や議論において,あんなにしばしば,かつ,たたえられて,のべられてい
トする件数は,private man 件,private men 件,private person 件, particular man 件,particular men 件。これは,よく引き合いに出される 保存preservation 件を上回っている。
)Hobbes, Thomas, 1991,Leviathan, Cambridge University Press,p. ,水田洋 訳, ,『リヴァイアサン』第 部第 章, 頁。
る自由は,個別者たちparticular menの自由ではなく,コモンウェルスの自 由なのである ) 。 これは,古代のような全体優先の国家哲学において,全体をテロス(目 的)化する人間の営み(主権者たちの自由)はあっても,<私人>=個別者 の自由がそもそも完全に欠落していたこと,しかしホッブズ自身は<私人> =個別者の側に立って,<私人>=個別者の自由を保証するためのコモン ウェルスの論理をいまはじめて創造するのだという,いわば<私人>宣言と でも言うべき決定的主張である。 このように,ホッブズは,<私人private man>と個別者(各人particular man)とを完全に同義と見ており,このことが,社会契約論を構築する前提 を初めてつくったのである。すなわち,全体/部分概念では,部分はどこま で行っても全体の部分であって,部分同士が能動的に関わりあうことによっ て国家主権をつくることは不可能であったが,<私人>(個別者)は,あら かじめ私的な利益をカウント可能なものとして担っており,その利益を貫く ために他との複数的で全域的な契約関係に入ろうとするのである。つまり私 人にとって社会的な絆は契約行為において初めて現れるのである。 だから,全体/部分を私/公に置き換えたことは,社会契約論を不可能にし ていた古いカテゴリー編成を捨てることを意味した。そして,全体の中身を 部分の統合とさせることを廃棄し,公の中身を私人の求める善の間の駆け引 きに委ねたということである。全体/部分からなる理論構成を,根本的に, 私/公という理論構成に置き換えることが前近代を破壊するカテゴリー的な 転回となったのである。 このように,全体/部分という思考が否定され,対案として私/公の図式が 導入される経過をホッブズ自身の先の文章中に読み取りうると私は考える。 )ibid., p. ,同,第 部第 章 頁。 10 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号
もしそうであるならば,この基礎の上に,自然権,自然状態,自然法,社会 契約,国家主権などが整合的に配置されることになる。以下,そのことを考 えてみよう。 .潜在的な<私人>概念の顕在化 みてきたようにホッブズの時代になってくると,全体の部分に対する優越 という論理は,決定的に破綻している。全体/部分を私/公に置き換えたと き,私による公の創出という論理が出てくる。全体/部分の概念枠に支配さ れている間は,部分が主導して全体を創出するという社会契約論は出てこな い。ところが,私/公の枠組みに置き換えると,私は,創出されるべき公に 先行し,互の関係の内部からコモンなるもの,パブリックなものを創出する に至るのだ。 それだから,この置き換えが進行すると,たとえ全体と部分という対概念 を使っている場合でも,全体という概念および部分という概念はその意味内 容がすっかり変わってしまうことは当然である。たとえば,ホッブズは「全 体的な権力」であったり,「全体的な合議体」であったり,「全体的な人民」 という用法を使っている。だが重要なことは,全体概念自体が変化している ということなのである。全体的権力や全体的合議体は個別的で具体的で,感 性的な単独の<私人>同士の契約後に構成される集合的主体である。だか ら,<私人>を先行させる限りで部分は全体に優先しうるものへと完全に変 質しているわけである。 ここで問題なのは最小単位である人間的個人の歴史的な性格をホッブズが どう把握していたかである ) 。ホッブズは,人民の相互契約によってコモン ウェルスと呼ばれる国家主権が成立する点に社会契約を見ていたのである が,このことは社会契約以前に当の人間,<私人>が存在することを前提に )<私人>は,人間一般や個人一般(社会の最小単位としてのそれ)によって汲み 尽くせない意味の歴史的具体性を帯びている。 <私人>の発見 11
していないであろうか。もしも社会契約が行われるならば,たんなる経済上 の個別的契約という行為に慣れ親しんだ主体が<私人>として,少なくとも 潜在的に先行存在しなくてはならない。ホッブズの記述を見ればわかるよう に,経済活動としての契約活動についての記述は実に豊富にある。すると先 の置き換えによって,部分の全体にたいする先行・独立が確保されるばかり でなく,公にたいする<私人>の先行・独立も確保されているのである ) 。 社会契約論が近代の自己表現として登場してくる必然性は,これによって 明らかであろう。この必然は,いまや完全に公に先行し,公に対して独立す るに至った<私人>たちが,理論的に国家主権以前の水準の,最も能動的な 玉座に座ったことによるものである。 むろん社会契約という行為に立ち入る前の人間とは,戦争状態のもとでの 人間にほかならず,戦争状態とはいわゆる「万人の万人に対する闘争」であ る。この万人とは,いわば互を個別的な契約主体としては認めているもの の,なおまだ社会契約の主体としては認めていないという意味で,潜在的 で,未承認の<私人>の関係のことにほかならない。しかも,私人の生命の 自己保存のためには社会契約がなされねばならない。 ホッブズはある箇所で,人間と他の動物の社会生活の違いについて論じてい る。言い換えると,人間だけがなぜコモンウェルスをもつのかを問うている ) 。 )<私人>たちの欲求がコモンウェルスの中身を規定することは,市場に規定され た人間が民主主義の中身を決めるということを意味するものであるから,自由民 主主義の核心を形成する。 )Leviathan, p. ,『リ ヴ ァ イ ア サ ン』第 部 第 章, 頁。蜂 や 蟻 と 異 なって,私的なものと公的なものとが同一でないのが人間の特徴であるとホッブ ズが言う場合,アリストレテレスの次の言葉が対照的に想起されている。「人間 は自然にポリス的動物である」「何故に人間はすべてのミツバチやすべての群居 動物より一層ポリス的であるかということも明らかである。・・言葉を持ってい るのは人間だけだからである」(『政治学』 a,訳 頁)。アリストテレスの ポリス的動物説は,公共善のために人間が(自然に)ポリスをつくるという意味 においてではなく,反対に「名誉と位階をもとめて競争している」ような人々 (私人)は最終的には戦争にいきつかざるをえないがゆえに強制権力なしには社 会生活が成り立たないことを強調するために引用されている。 12 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号
第一に,人びとはたえず名誉と位階とを求めて競争しているので,たえず 羨望と憎悪が生じ,ついには戦争が起こる。 第二に,人間の場合共通の善と私的な善とはたえず食い違い,人間の喜び は自分が他人に対して優越している私的善によるだけである。 第三に,人間は理性によって統治するが,そうであるがゆえに,統治のあ り方を巡って自分の方がかしこく有能であって,他の人々よりも公共体をよ く統治しうると思い,けっきょくは公共体を混乱と内乱に陥れる。 第四に,人間は言語技術をもつために,それによって善と悪とを増減さ せ,かれらの平和をかき乱す。 第五に,人間は理性を持つがゆえに,安楽である場合に,自分の知恵を示 すことを好み,コモンウェルスを統治する人々の行為を制御しようとする。 第六に,人びとの一致(agreement)は人為的な信約(covenant)による ものであり,共通の便益に恒常的継続的に導くために必要なのは,共通の権 力である。 このように,ホッブズは,人間とは,私的善private goodを共通善common goodを乱してでも優先するものとみなしており,このことが公共体の平和 を乱す原因となっていると同時に,そうであるからこそまた共通の権力を維 持する必要を求められるという,やっかいな経路を経て社会というものを追 求する存在であるとみなしていた。私的な善と公的な善のダイナミックスを もって生きる者こそ<私人>である )。だから,社会契約の出発点にあるも のを,潜在的な<私人>と呼んでみよう。すると,社会契約とは,潜在的に 存在する<私人>の自然権を貫徹するために,私人を共通の便益へ向かわせ るための共通権力common powerを顕在化させるためのダイナミックな運動 )ホッブズにおいて<私人>は自由な存在である。しかしそうであるがゆえに公共 善をかく乱したり,それを弱めたりするものである。しかし,自然権をまっとう するためには社会契約を待って安定した秩序をつくるしかない存在である。 <私人>の発見 13
であることがわかるであろう。 .近代社会成立史論の原型 すでに見てきたとおり,ホッブズは古代ギリシアやローマの影響を受けた 著作家たちと真っ向から対抗する人間観=<私人>観をもって登場してき た。古代からの影響は中世まで押し広げることができるであろうから,ホッ ブズは,前近代から近代への転回を,いわば<私人>同士が強奪(掠奪)の 繰り返しに置かれた状態から,次の時代への転回として掴んでいたのではな かろうか。こうした文脈で『リヴァイアサン』を読んでいくと,彼が掠奪と 商品交換の間の矛盾として一種の近代社会成立史観をつくりつつあったこと がわかる。 彼はこう書いている。 「人びとが小家族をなして生活していたあらゆるところでは,たがいに トレード 強奪し掠奪することが,ひとつの生業であって,自然の法に反するとみな されるどころか,かれらがえた掠奪品がおおければおおいほど,かれらの 名誉もおおきかった。そこにおいて人びとは,名誉の諸法のほかには,な んの法もまもらなかったのであるが,それは人びとの生命と耕作用具とを うばわないで,残酷をさしひかえることなのである。そして,その当時 に,小家族がしたとおりに,いまでは,諸家族がおおきくなったものにす ぎない諸都市と諸王国が,するのであって,かれらは(それ自身の安全保 障のために),侵略の危険,おそれ,あるいは侵略者に援助が与えられる かもしれないという,あらゆる口実にもとづいて,かれらの領土を広げる のであり,またかれらは,公然たる強力やひそかな技巧によって,隣人た ちをできるだけ屈従させ弱めようと,努力するのであるが,そのことはほ コウション かに保 証がないのだから,正当である。」) )Leviathan, p. ,『リヴァイアサン』第 部第 章, 頁。 14 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号
おそらく,ホッブズは近代に到達しない時代をこのようにみていたのであ ろう。 しかし,こうした社会契約以前の状態において「人びとは名誉の諸法のほ かには,なんの法をも守らなかったのであるのであるが,それは人びとの生 命と耕作用具を奪わないで,残酷をさしひかえることなのである」) とは, どういうことを意味するのであろうか。別の箇所で,戦争状態にあっては, 人類が絶滅するわけではないことをホッブズは「人間の生活は,孤独でまず しく,つらく残忍でみじかい」)と説明していたが,これは別の面から戦争 状態(必ずしも戦闘状態と同じではない)) 下の人びとの暮らしを垣間見させ るものであろう。つまり,戦争状態のもとで,人びとは生命と耕作用具を奪わ ないで相互に掠奪対象とされ,いわば殺されない程度に生かされるのである。 「生命と耕作用具を奪わないで,残酷をさしひかえ」,しかもたがいに強 奪し,掠奪するような自然=戦争状態のなかに<私人>はおかれていたわけ である。ところが,商品交換が周辺だけでなく,支配的な領域で普及してく ると,掠奪は後景に退くのである。なぜか,それは個別の商品交換の全域化 が普遍的に規範化されるからである。 『リヴァイアサン』のなかに散見されるのは,「現金での売買または商品 や土地の交換」) のような市場社会に関する記述にほかならない。ホッブズ によれば,契約とはモノにたいする権利の相互譲渡とこのモノの現実の引渡 しを同時に行うことであると定義される。しかしホッブズがコモンウェルス を信約pactと協定covenantにおいて認める場合,これを設立契約(社会契 約)と呼ぶのは,すでに自然発生的に展開され,人間に慣れ親しんでこられ たところの個別契約の論理の延長上で,一種の抽象力を持って,この線上に 完全に全域的な市場社会をみるということによらねばならない。しかし,何 )ibid., p. ,同,第 部第 章, 頁。 )ibid., p. ,同,第 部第 章, 頁。 )戦争状態と戦闘状態との区別については,渡辺憲正氏から示唆を受けた。 )Leviathan, p. ,『リヴァイアサン』第 部第 章, 頁。 <私人>の発見 15
分にも市場の秩序形成力はまだ弱々しいために,それを全面的に支える力が なくてはならないのであって,それこそが個別契約を超えた,まさに複数的 一挙的な社会契約にもとづくコモンウェルスの権威なのであった。つまり社 会契約の論理がすぐれて社会形成論として出てくる理由は,先行して市場社 会が徐々に勢力範囲を拡大しつつあるという事実に根を下ろしていながら, しかもまだ掠奪社会から完全に離陸していない状態における前近代と近代の 抗争にたいしてホッブズが後者に深くコミットすることによってであった。 ところが,「現金での売買または商品や土地の交換」をおこなうことが, がんらいは<私人>の行為であるはずなのであるが,国家主権が成立しない 間は,私人は潜在するままに放置され,いつ強奪され,掠奪されるか予測不 能な立場に置かれており,平和裡に活動することは不可能であった。なぜな ら,国家主権が未成立であるなら,それは戦争状態を意味するのであるか ら,この場合<私人>はたがいに所有にたいする侵入者となって現れるので ある。 「すなわち,侵入者が,ひとりの他人の単独の力以上には,おそれるべ きものをもたないところでは,ある人が植えつけ,種子をまき,快適な住 居を建設または占有すると,他の人々が合同した力をもってやってきて, かれを追いだし,かれの労働の果実だけでなく,かれの生命または自由を も,うばいとることが,おそらく予想されるだろう。そして,その侵入者 は,さらに別の侵入者による,同様な危険にさらされるのである。」) だから,自然状態=戦争状態=国家以前的な状態において,「人間の生活 は,孤独でまずしく,つらく残忍でみじかい」わけである。どれほど孤独 で,まずしく,つらく,残忍でみじかかろうと,<私人>は戦争状態の中で 生きながらえ,いわば契約・商品・交換・所有を実行支配しなければならな )ibid., p. ,同,第 部第 章, 頁。 16 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号
い。この場合<私人>は必死に生きようと個別的に試みる何者かであるが, たがいに侵入者でありうる限り<私人>としての自己の生命を普遍的に満た す条件に欠けており,したがって,誰ひとり完全な意味で<私人>たちの秩 序を構築しえないということになる )。 だが,それにもかかわらず,コモンウェルスの成立以前に,<私人>は潜 在的にホッブズにおいて認められているのである。<私人>が社会秩序へ自 己を顕在化させる理由は,「現金での売買または商品や土地の交換」の保証 を予定しないことには<私人>が社会秩序をもちえないからである。「人々 が相互契約によって獲得する所有権を確保しなければならない」けれども 「そういう権力は,コモンウェルスの設立のまえには,なにもないのである」) ホッブズにおいて,<私人>は潜在的で,未承認のまま存在し,国家主権 によってはじめて顕在化されて,成立するのであるから,国家が成立して初 めて市場社会が成立し,この社会の核心であるところの所有権もそれを待っ てはじめて成立するのである。 このことは,次のことを示している。すなわち,ホッブズの眼前には<私 人>間で行われる商品交換が次第に広がり,それに応じて契約も<私人>の 間での等価関係を予定させるものになりつつあったが,それにもかかわら ず,「現金での売買または商品や土地の交換」は自律的な秩序を作るにはい たらず,<私人>自体が侵入者に転化し,殺し合いうるような戦争状態を繰 り返していた。 だが,ホッブズは近代国家の主権者となっていく素材でありかつ製作者で もある人間を,それがいかに未熟であろうと<私人>のなかにみてとったの である。 )<私人>は十分な意味で所有を確保できずにいるが,どんなに不十分でも所有を 実力でまもろうと努めるしかない。 )Leviathan, p. ,同,第 部第 章, 頁。 <私人>の発見 17
こうして,われわれは全体/部分という対概念を私/公の対概念によって再 構成できるようになるにつれて,ホッブズの歴史観もまた鍛えられてくるこ とに注意したい。つまり,私的利益というものは,商品交換の当事者たちの 間で徐々に重視すべきものとなり,<私人>がたがいに名声や利益を追求し て競争しあう傾向をもつようになることは自然な善とみなされるようにな る。そして私的利益を社会全体によって抑圧されるべき部分として否定的に 評価するのではなく,反対に積極的なモメントとして解放してやらねばなら ない,その時期はいまや熟したのである。 だから,潜在的であれ顕在的であれ,<私人>こそがホッブズの見据える 人間であり,こうした人間は古代や中世の身分制には存在しない新しい人間 なのであった。<私人>の発見者が,近代社会論の最初の提出者でもあった ことは,まったく自然なことと言わねばならない。 .私人━投票━代表 さて,ホッブズが<私人>概念に重要な意味を与えたことは,ひとまず人 間をことごとく<私人>としてつかむことを意味する。しかし,そのうえ で,コモンウェルスを設立する必要が出てくるとき,彼らの中から代表を投 票で選び,合議体にある権威をあたえなくてはならないのは当然である。 ● ● ● ● ● ● 「≪コモンウェルスを設立する行為とは何か≫ひとつのコモン−ウェル ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● スが設立されたといわれるのは,人びとの群集の各人と各人とが,つぎの ● ● ● ように協定し信約するばあいである。すなわち,かれらすべての人格を表 ● ● ● ● ● 現presentする権利(いいかえれば,かれらの代表representative となる ● ● ● ● こと)を,多数派が,どの人または人びとの合議体に与えるとしても,そ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● れに反対して投票したものも賛成して投票したものと同じく,各人は,か れらのあいだで平和に生活し,他の人びとに対して保護してもらうため に,その人または人々の合議体のすべての行為や判断を,それらがちょう 18 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号
● ● ● ● ● どかれ自身のものであるかのように,権威づける,ということである。」) イギリス市民革命史において,王対議会が階級の間の闘争の一部をなした ことはよく知られている。けれども,ホッブズは,<私人>を機軸にすえる ことによって,はじめて政治的国家civil governmentの原理が何かをここで 考察しているのである。<私人>が近代の人間規定として汎通的に貫かれる ならば,彼らがコモンウェルスを設立する主体たらざるをえない。ではいか にして<私人>は政治的な公民を選抜するのか。それは<私人>が一時的に 投票行動をおこなうことによって,すなわち選挙という制度を立ち上げるこ とによってである。あるいはこうも言える。<私人>とは非政治的な人間で ある。しかし,非政治的人間が政治的な主権者を選ばねばならない。このと き,<私人>を投票voteの主体とし,彼らが選出する代表者representative を合議体assemblyのメンバーとする,このことによって非政治的人間が政 治を生み出すのである。この結果,<私人>の社会領域のうえに政治的国家 というコモンウェルスをそびえ立たせることができるようになるのである。 ここで想起すべきなのはのちの近代批判の潮流における<私人>批判であ る ) 。この批判においては,私人と公人への人間の分裂は,代議制民主主義 という形態をとって現れるとされる。この<私人>概念がいまホッブズのも とで初めて発見されたのである。ホッブズは,いままさに近代を発見し,創 造しようとしていることを我々は認識することができる。 私人─投票─代表者(合議体)というワンセットの仕組みは,「万人の万 人に対する闘争」がこの政治的投票行為によって調停され,いずれの党派が 多数を占めようとも,その結果を国民主体は甘んじて承認し,議会の権威を 正当付けなくてはならない仕掛けとして機能する。「多数派が同意の投票に )ibid., p. ,同,第 部第 章, 頁。 )ヘーゲル『法の哲学』とマルクス『ヘーゲル国法論批判』において提起される立 法権論。 <私人>の発見 19
より,ひとつの主権者を宣告したのであるから,そのばあいには,不同意の ものも他のものに同意しなければならない。」) 近代政治において,投票は激しい党派争いであり,利害闘争でもあるのだ が,結果がでれば「ノーサイド」であり,国家主権を権威付けられたものと して市民は受け入れなくてはならない。このような政治の精神をホッブズは はじめて原理的に解明したのである。 .<私人>の巨大化 ホッブズは,絶対主義から市民革命への過渡期的な立場のゆえに,私的利 益の担い手たる<私人>というものを,国家主権以前には潜在的に,それ以 降のものとしては顕在的に認める。 古代・中世の社会構成原理のうちにであっても,周辺的に商品社会の経験 が比重を増すという現実の台頭はあった。そのかぎりで<私人>は周辺的に 存在したであろう。しかし近代的な自由を得る<私人>は社会の本質におけ る商品化を前提とする。そして,それを『リヴァイアサン』は市場社会に与 する側にたって特有の諸カテゴリーによって受けとめている。すなわち契約 contract,商品commodity,交換exchange,所有propriety,propertyあるい はpossessionなどがそれであり,最後にこれらの活動が展開される領域を 「市場market」という概念で総括している。『リヴァイアサン』は,ホッブ ズの心中に植え付けられてきた,こうした概念の歴史的累積をごく自然な言 語環境として呼吸している。 契約・商品・交換・所有を経験的な行為領域としてたえず増大させる市場 社会の台頭は,<私人>をコモンウェルスの素材であるとともに製作者の位 置 へ 押 し 上 げ る。こ こ に<私 人>private man, private menあ る い は particular man, particular men,などが登場する理由があるのだ。
<私人>は,コモンウェルスをつくったあと,何をするのであろうか。
)Leviathan, p. ,前掲書,第 部第 章, 頁。 20 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号
ホッブズによると,「たがいに売買し,そのほかの契約をすることや,かれ ら自身の住居,かれら自身の食物,かれら自身の生業をえらび,かれらの子 どもたちをかれらが適当とおもうように教育することなどが,(臣民の)自 由である」)とする。しかし,興味深いことであるが,ホッブズは臣民の自 由に属する,経済活動と生命再生産活動については,国家主権のもとで,あ る程度の大きさ以上に資本蓄積することを危険なこととみなしていた。
「すべてのコモンウェルスにおいて,もし,一私人a private manが, 召使たちservantsを,かれの領地の統治と,かれがかれらのために有する 合法的な雇用とを必要とするよりも多く,かかえるならば,それは分派で あり非合法である。」) ホッブズは,「私人」が召使をたくさん雇用し,統治可能な範囲を超えて 必要以上に大きくなりすぎる場合,コモンウェルスの保護を受けることな く,私的な力による防衛に打って出る恐れが高まるとみていた。 だから,<私人>は,それが国家主権=コモンウェルスを合意によって誕 生させる論理的前提にしたがって平等でなくてはならないが,他の「私人」 を圧倒的に凌駕するほど雇用規模になるほど巨大化しすぎては(不平等に なっては)ならないというのである。 ここに,ホッブズの政治的な立場,すなわちジェントリーを中心とし,小 資本家を含めた中産的社会層には共鳴するが,巨大化した資本や企業的経営 には反対する立場が垣間見えている ) 。ホッブズはむろん古代や中世のよう )ibid., p. ,同,第 部 章, 頁。 )ibid., p. ,同,第 部第 章, 頁。訳は一部変更した。 )ここにホッブズのよって立つ階級的位置が見える。第 部第 章 頁。ホッ ブズは,コモンウェルスの豊かさについて論じたくだりで,「豊富は・・まったく 人びとの労働と努力に依存しているほどである」(ibid., p. ,同,第 部第 章, 頁)と述べている。しかも「人間の労働もまた,他のどんなものともお <私人>の発見 21
な身分制社会を嫌ったが,資本主義的な生産様式のもっとも原初的な,した がって不平等の格差が小さい社会を積極的に肯定し,それ以上の格差が生ま れる社会を恐れていたのである。 このように彼は,<私人>を全面的に,手放しで肯定したわけではない。 むしろ,<私人>の私的利益が公的利益よりも優先的に作用することを理論 上は肯定しながら,しかし,公的利益と私的利益がもっとも緊密に結びつく ときにこそ,公的利益はもっとも推し進められると指摘した。現実の契約・ 商品・交換・所有が安全に確保されるのは,コモンウェルスが成立した後で あるが,たとえそのもとにあったとしても資本が過剰に巨大化することに なってしまうと秩序は乱れる恐れがあると考えていたのであった。 だから,コモンウェルスの成立前は,<私人>はいわば潜在的に存在する にすぎず,コモンウェルスによって契約・商品・交換・所有が保証されるに 至ってはじめて顕在的に成立するにいたるが,雇用が必要以上に巨大化する と<私人>の間のバランスは失われてしまうわけである。 .自由民主主義の意義と限界 従来の研究で明確にされてきたことは,人間の生命の自己保存のために国 家が必要とされるという原理,いわば国家の目的が人間の生命保存にあると いう近代国家の原理がホッブズの『リヴァイアサン』で明確に表明された, という点であった。 しばしばこれは,近代国家の「人間中心の原理」と呼ばれる ) 。しかし, 本稿は,<私人>概念が社会契約論の基底に存在することを重視し,人間が 実は<私人>であったことを本質的に考慮している。すると,ホッブズは, なじく,便益と交換しうる商品commodityなのである」(ibid., p. ,同,第 部第 章, 頁)としており,労働(力)の商品化をさえ認めているように 思われる。 )田中浩,前掲書, 頁。 22 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号
人間中心の政治原理を追求したのではなく,<私人>中心の政治原理を追求 したということになろう。 すなわち彼が近代社会の理論構成を樹立したということは,あくまでも, 市場社会にふさわしい自由民主主義の形態を追求したということを意味する ものであって,<私人>相互のあり方が変化していくと,この公共体の秩序 は混乱と内乱へ導かれる恐れがあるという点までかれの視線は届いていた。 これはまことに驚くべきことではなかろうか。 ホッブズの社会哲学を真に人間中心的なものと解釈するなら,彼の自由民 主主義の原理に限界はない。なぜならば,すでに真に人間中心であることを 達成したのであれば,それ以上の何か別の原理へ向かう必要じたいがないか らである。しかし,そういう解釈を取らず,<私人>中心で再検討してみる ならば見通しは根本的に変わってくる。 自然権とは,それ以上遡及不能な生得の<私人>の活動領域であると設定 されているかぎり,国家権力は<私人>の活動水準の解放のためにある。 <私人>は<私人>同士,かれらを束ねる唯一の必然性は必要と私利であ り,生命と所有の保存こそが家の目的である。 自由民主主義にとってただ一つ恐怖が残るとすれば,<私人>の生命と所 有の保存そのものが内在的に展開した結果,ある予測されうる災難に出会う かも知れないことである。つまり当の<私人>によって秩序が混乱と内乱と へ導かれるならば,それは<私人>中心を別の原理へ向かって超克させ,次 の社会秩序を模索させるものとなってくるであろう。 自由民主主義の固有の危機とは何か。<私人>の力は理論的に権利として 確保され,はじめて政治の目的として承認されたにも関わらず,国家主権下 において<私人>の間に生命と所有の偏在が現れること,換言すれば独占的 で巨大すぎる所有のために<私人>間の人権の均衡が破壊されることである。 ホッブズは<私人>に依拠することによって,近代に固有な自由民主主義 の可能性を開いたと同時にその限界に対する,まだ直感的な,しかしこの上 <私人>の発見 23
なく鋭い観察をおこなった理論家でもあった。 「私的な欲求が善悪の尺度であるかぎり,人はまったくの自然状態(そ れは戦争状態である)にあり,その結果すべての人は,平和が善であるこ ● ● と,したがって(…)自然法が,善であり,(…)それらの反対の悪徳が, 悪であることに同意する」) ホッブズの直感は,ここで述べる「平和」が,それ自体の危機を迎えるか も知れないというところへ向かっている。 世紀の課題は,<私人>にふさわしい自由民主主義のありかたを構築 することであった。<私人>の生命と所有の保存が国家権力の目的となっ た。しかし,驚くべきことであるが,ホッブズは,人間の<私人>的な形態 を基礎とする民主主義がはらむ危機を推測し,心中たじろいでもいたのであ る。このことは,遥か後になって様々な人々が取り組むべき中心問題となっ ていくことであろう。 おわりに 通常,ホッブズの社会哲学は社会契約論と位置づけられる。ホッブズの社 会契約論とは,「人々が自然権をすべて放棄して国家の絶対的支配に服従し ないかぎり,人々の生命と安全とは保障されず,したがって,そのような社 会契約を結ぶことは人々の利益に適っている」)というものとされる。すな わち人びとの生命の保存のために,人々が社会契約をする,という論理構成 を取るものである。だが,この場合,国家はいったい誰の生命の保存を目的 とするのであろうか。人間一般のそれなのであろうか。本稿の答えはきっぱ )Leviathan, p. ,『リヴァイアサン』第 部第 章, 頁。 )長谷部恭男, ,「いま『国家』とは?」樋口陽一編『ホーンブック憲法』北 樹出版, 頁。 24 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号
りとこれを拒否する。人間一般に代わって<私人>たちである,というのが 本稿の基本的な回答なのである。 <私人>とは何か。ホッブズによれば聖職者や主権者以外の人々であり, 民間で生計をたてている市井の人々,日常語で言えば民間人にほかならな い。それゆえに自由の平等を共有するのが<私人>の関係であるという前提 に立つと,<私人>たちが,いかなる手段によって自己保存するのかが次の 問題となる。彼らは,<私人>の生命保存の手段として所有=財産(property) を維持しなくてはならない。戦争状態のゆえに所有が所有権として承認され ていない困難を乗り越えなくてはならない。いかにしてか。他者もまた,利 益と名声を得るためにたえず相手の力を凌駕しようとするエゴイストである 以上,自分もまた同じ方法を選ばざるを得ない。この悪無限,<私人>が互 いに<私人>同士で戦争状態におちいるほかないという隘路をどうやって突 破しうるのか,である。これが<私人>たちだけの論理水準で,すなわちま だ国家が成立しない論理水準で<私人>自身に向かって問われてくる。これ は戦争が %,共生性が % の状態である。 このように<私人>は,国家成立以前の民間人の戦争状態に自らの力で巻 き込まれる。では,いかにして<私人>はこれを反転するように関係しあう のか。民間人が他の民間人とつながる論理はもはや共同態の論理でもない し,地球を母体とする人類愛や階級的連帯の論理ではさらにない。<私人> と<私人>は,すでに市場のなかでの契約がそうであったように,相手を個 別的なバラバラな意思を持つ自由で平等な主体として認めてきた。だから, <私人>たちがおちいった戦争状態という隘路を突破するためには,社会性 がそこにおいてはじめて発露する契約を社会的規模で選ぶ以外に道はない。 契約という個別者間の論理,慣れ親しんだ契約の論理を一挙に拡張して,複 数的全域的な社会契約を開始する以外にはすべがないのである。 こうして,<私人>という大前提を選んだために,いわば天が与えた自然 権を持ち(天賦人権,不可侵の人権),その保存のために国家が契約される <私人>の発見 25
という論理,つまり社会契約論が帰結したのである。しかし,このことは, <私人>がコモンウェルスを一つの主権国家として生み出すことを意味す る。<私人>を基調とする世界は,主権国家を最高の権力とする間主権国家 関係を生むほかはない。繰り返しになるが,これは往々にして言われるよう ● ● に人間の生存と所有の保存を究極目的とする国家が生まれたことを意味しな い。なぜなら,主権国家は<私人>の生命と所有は守るけれども,そこから 排除される召使い ) ,女性 ) ,植民地 ) の住民の生命を抑圧対象とするもの だからである。もちろん,この抑圧性は,主権国家からの逸脱ではなく,む しろその本質的展開であった。 ホッブズは,<私人>の生命保存ということを目的に掲げる主権国家の論 理を解明した。しかし, 世紀以降の近代の歴史過程を振り返るとき,両 者(私人と生命保存)の関係は矛盾に満ちている。なぜなら①<私人>の論 理と生命保存の論理は,本源的に同一であるとホッブズの段階で言えたとし ても,②私的所有が資本に発展するようになると,そこに雇われる<私人> の生命は資本によって脅かされる。すなわち,私的所有と生命保存は矛盾の )召使についての記述の中で,「召使は,従順の信約によって,主人のおかげで生 命を保持するのであり,それは主人がするあらゆることを,自己のものとして権 威づけるという信約である」(ibid., p. ,第 部第 章, 頁)としている。 主人と召使の関係は,従順,すなわち支配服従の関係である。ヘーゲルの主と奴 の弁証法を想起させる記述である。 )ホッブズは,「男女の間には,権利が戦争なしに決定されうるほどの,強さや慎 慮の違いが,必ずしもつねにありはしない」(ibid., p. ,第 部第 章, 頁)と述べていて,自然状態における男女平等を原則としてたてている。ただ し,すべてではないがたいていのコモンウェルスは父の専制支配を支持するとも 述べている。 )「諸政治国家の外には,各人の各人にたいする戦争がつねに存在する」という事 例の一つとしてホッブズは,「アメリカのおおくの地方における野蛮人は,自然 の情欲にもとづいて和合する小家族の統治をのぞけば,まったく統治をもたず, 今日でも私がまえにいったような残忍なやりかたで生活している」(ibid., p. , 第 部第 章, 頁)と論じている。このように,侵略した側の西洋にお ける国家的統治の存在はアメリカにおける「野蛮人」の前国家的状態に対照的に 描かれ,そのうえで統治のない状態からある状態への移行が文明の課題となって くるのである。 26 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号
関係に陥る。③そしてこのことの自覚から 世紀型の生命保存(生存権) は,一種の高次復活として,しかし私的所有の論理を規制することによって 保障されるに至る。 新自由主義と呼ばれる現代の問題は,上の①∼③をもう一度破綻させる。 <私人>の論理を貫徹すれば人間の生命保存の論理は切り捨てられるが,反 対に人間の生命保存の論理を擁護すれば<私人>の論理はきびしく規制され ねばならない,という抜き差しならない緊張が再浮上する。もともとから言 えば『リヴァイアサン』は主権国家下の安定を破綻させる危険を<私人>の 巨大化の問題として解明していたのであるが,まさにこのことが新自由主義 のもとで現実的に起こってくるかにみえる。あたかもこのような複雑な現代 がたち現われることを最初から見通すがごとくに彼は国家の論理を定楚した のである。 だが,主権国家を維持することによって<私人>と生命保存の矛盾を解決 することはいずれできなくなる。なぜなら世界システムは基本的に民法原理 の類推の上に成り立っているからだ。すなわち,<私人>が個別の主権国家 にあたり,私法は国際法にあたるという類推である ) 。ホッブズの国家論 は,世界帝国を主権国家へ分裂させることはできるけれども,世界を統一的 に統治する政治主体を形成することはできないのである。 こうして全体/部分を突破して生み出された私/公は,近代世界システムの 限界内の軌道を回るほかはない。したがって,<私人>の存在構造によって 包摂された限りでの生命の自己保存の問題は,さしあたりは人間の生命保存 の原理による<私人>の論理の制御に求められるとしても,それが原理的に 近代世界システムの根幹に触れるところまで及ぶときには,<私人>の存立 構造が揺さぶられ,「現実的諸個体」に基礎を置いた新しい世界システムを )長尾龍一, ,『リヴ ァ イ ア サ ン 近 代 国 家 の 思 想 と 歴 史』講 談 社 学 術 文 庫, 頁。あわせて竹内真澄, ,「国際社会の<自由/従属>と国民社会の <自立/依存>の相似構図」,『物語としての社会科学 世界的横断と歴史的縦断』 桜井書店, 頁。 <私人>の発見 27
構築するという課題が浮上してくるであろう。この課題を実践的に遂行する とき,リヴァイアサンはようやく怪物たるの使命を終えるのである。 この意味でホッブズは,<私人>と生命保存の間の矛盾の原初的統一を照 射しただけでなく,近代世界システムの運動法則をその限界内で描くことで <私人>の存立構造を解明した,いまなおリアリティーを持つところのきわ めて現在的な思想家にほかならない ) 。 )人間が<私人>の論理に立つ限り自己の生命保存ができず,自己の生命保存を貫 くためには<私人>の論理に規制をくわえざるをえない。現代のこの矛盾は,格 差,戦争,環境破壊の全域でますます問題となってくる。近代国家はこうして次 の世界システムを絶えず誘発する。 28 桃山学院大学社会学論集 第 巻第 号
Thomas Hobbes(1588 1679)was a revolutional thinker who criticized the political philosophy of anciant time and middle age. According toLeviathan, liberty of <private man> lacked in concept of premodern society. He discovered <private man> as the key category of modern socety. At this discovery he succeeded in breaking thorough old construction of premodern society by using the category of <private/public> replaced <whole/part>.
Modern social contract theory was based on the concept of <private man> who pursued reputation and interest in the market society. Accordingly contract, commodity, exchange, property, possesion were basic categories of the theory.
In my examination the social contract theory was based not on preservation of life of human being, but on preservation of life of <private man>.
Hobbes thought that <private man> built the sovereign states. Now we can see that his concept of sovereign states are the parts of modern world system in Wallerstein s sense.
But now we need the next world system in which the associated individuals in the place of <private man> transform the modern world system.
Leviathan showed the limit of modern world system by discovering the category of <Private man>.
Keywords : Hobbes, private man,Leviathan, Social contract
The Discovery of <Private man>
──A New Approach to
Leviathan ──
TAKEUCHI Masumi