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清代満州における吉林・黒竜江及び蒙地の土地制度の推移

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(1)

備斌備酬吉林・黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移

ノ、

吉林地方の旗地ないし官荘と旗標の崩壊

 ㈲ 八旗駐防の増強と官荘ないし旗地の増設

 満洲の吉林、黒龍江地方は、清朝の入関前すでに殆んど征服され、この地方に在住の部族は、多く早漏の本拠にもたら

されて、満洲八旗に編入され、八旗の強化に役立った。そして、これら諸部族を制圧する根拠地として寧古塔が選ばれ、

ここに駐防八旗が設けられたので、これを支えるため、この地方に多少の旗持が設けられたが大して見るべぎものがなか

    つた。

 清朝の入関後、ロシヤの勢力が黒龍江方面に進出して来たので、順治朝には、この地方を防衛するため、寧古塔の駐防

       ②      

フルガ ワルカ クルカ③ 八旗が強化されるに至った。康煕朝になると寧古塔には東部満洲の謂わゆる新満洲︵呼鐘喀、瓦至善、庫爾吟等︶がうつされ

て兵力が増強され、また吉林立腰にも駐防八旗が設けられた。これに関連して、この頃、寧古塔および吉林鳥篭に旗地が

多く設けられ、さらに二線を確保するため、これらの地方に官製が設けられた。康煕ゴ十二年︵一六八三年︶になるとロシ       ソロン  ダフル

や軍を攻撃するために、吉林鳥劇、寧古塔等の八旗が黒龍江地方にも派遣され、この地に駐干した。また土野、至愚爾等

の土着のものを以て、布夜陰にも八旗が編成された。同二十四、五年︵一六八五−六年︶には露清間に戦闘がおこなわれ

     清代満洲における吉林・黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移       一

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     清代満洲における吉林・黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移      二      ﹂

た。この間、南方の奉天、吉林より遼河、伊通河、松花江の水運を利用して、黒龍江地方に軍糧が運ばれたが、この地方

にも八旗流人、十二および索倫、達呼野等によって屯田が開かれて食糧の自給が企てられた。同二十八年︵エハ八九年︶に

は、ロシヤとの聞にネルチンスクの平和条約が締結され、露清両国の国境が劃定して、両国の関係は平静に帰したが、こ

    セ       れより吉林、黒龍江方面に本格的な開発が行われた。  吉林地方においては、右のほか、伯都訥、三姓、琿春、阿勒楚喀、伊通河等に駐防降旗が設置され、これに関連して、

これらの各地に旗地が設けられた。これらの旗地は旗人によっても耕作されたが、奴隷によって耕作される場合が多かっ

た。官荘は前記の寧古塔、吉林鳥嘲のほかに伯都訥にも新設された。このうち鳥刺には内務府宮荘も設けられ、内務府の

旗丁によって耕作されたが、他の官荘は屯丁によって耕作された。そして旗入の奴隷となり、贈号の屯丁となったものは

       ⑤ 主として流徒入であった。  順治十七年︵=ハ六〇年︶に寧古塔に流徒された相撲乾の﹁絶域紀略﹂ ︵寧古塔志︶には﹁最も力僕、健婦を重んじ、一家の人は みな争って彼等を大切にする。大家の如きは]人を択ん・で蝿頭となし、一口のことを司らせ、群僕はただ彼に指便される。又航が四 時断えないので、五十里外より薪を採って還らねばならぬ。因って採薪の僕が一家の命を司っている﹂と述べてある。すなわち奴隷         が農耕に従事し、大家においては荘頭があって多くの奴隷を管理していることがわかる。また﹁絶域紀略﹂に﹁不用銀銭、銀則買僕 丹田鷹、或用之﹂とあって、寧古塔においては銀銭は一般に使用されなかったが、奴碑や田房を売買するときに銀が用いられた所を       ⑦ 見ると、奴隷が売買されたことがわかる。なお奴隷は主として流徒人であった。このことは早期六年︵一七二八年︶十月の戸部侍郎 王朝恩の疏に﹁新設の永吉州︵吉林︶、泰南江︵寧古塔︶、長倉県︵伯都訥︶の三州県の流徒人の中、八旗に給して奴としたもの及び        差役に当っているものを除き、悉く此等の三州県の民人となさんことを請う﹂とあることからも窺われる。  寧古塔の宮荘については、呉兆籍﹁秋茄集﹂巻八・書戊午二月十一日寄顧舎人書・張星﹁白雲集﹂巻一四・寧公手躍雑詩・﹁寧古 巨鐘﹂等によると康熈三年︵一六六四年︶の頃ロシヤに備えるため、流徒人を水軍とし、また官荘を立てて、その荘頭、壮丁に充て たという。これらの官荘は三十二座あって、毎戸十人を以て組織され、一荘頭とし、九人を壮丁とした。壮丁は土地を耕作し、或は

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打囲し、木炭を焼いて、丁毎に糧十二石レ草三百束、猪一百斤、炭一百斤.石灰二百斤、盧一百東を虐めるという風で.負担は非常  に重く、家中に所有するものは、悉く官のものとなるような状態であったという。ここの官話はロシヤに備えて糧草を蓄積すること 、重習的とするものであ・たので・やがて警減少し騒

 このように順治朝より康煕朝を経て雍正朝に至る問に吉林地方の各地に空聾八旗が新設され、

が、雍正朝における吉林地方の各地の旗地は次の如くである。 彼等の旗地が置かれた

阿琿三伯寧吉

林鳥

都 吉 勒 楚

喀春姓訥塔嘲

官員兵丁

     胸

三七、 一二三 四三、四九八 一八、五三〇 一二、九二六  八、八九四  四、九〇八

 水

’師

天営

日向

 荘

 五四

 1  

1

三五二

七五〇

二七一頭

  晦

合 計 計

     駒

四五、七五〇 四九、〇五五 ↓八、九〇二 一二、九二六  八、八九四  四、九〇八 一二五、八七九 一四〇、四三五 [備考] ﹁八隅通志初集﹂巻二一・ 土田志四・奉天八旗土田 周藤吉之著﹁清代満洲土地 政策の研究﹂三二八頁所載。 四、四二六 一〇、 一三〇  右に荘頭とあるのは、官選の荘頭が自ら開墾した土地と思われるという。なほ、﹁八旗通志初耳﹂ によれば寧古塔将軍

所轄の論語丁の耕種地が二四、六八四駒あったという。これは望地に準ずるものである。これらの旗地は賦税が免ぜられ

     ていた。  吉林地方の官荘は、乾隆元年版﹁盛京通志﹂によると次の如くなっている。      清代満洲における吉林・黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移      三 !

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清代満洲における吉林・黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移 四 官

荘一壮

 処 丁  納  糧  額

伯寧吉

林鳥

都古

訥塔

合 計   一一一一・五 六 三 〇

  名

五〇〇 =二〇  六〇      石 一五、○○〇 三、九〇〇  一、八○○ 二日目七〇〇 ︹備考︺ 乾隆元年版﹁盛京通志﹂巻二四・官荘八旗田畝 周藤氏 前掲書 三二九、三三〇頁所載。 六九 六九〇          かくの如く、官荘は普処壮丁十名を以て組織され、壮丁毎に地十二購を支給し、穀三十石を官倉に納めさせた。なほ、 烏劇には康煕四十五年内務府官戸が五処設けられ、壮丁十四名で以て構成された。しかし、国劇の壮丁は半分が耕作し、 半分は肉畜を採捕したので、この官荘も壮丁二十八名を以て組織され、荘頭が五名、壮丁が百四十名おり、その地は五、         

四〇五日であった。ところが﹁吉林通志﹂によれば、鼻拉の冒頭五名は各々随埋葬すなわち職事十五鴫を与えられ、壮丁

百四十名は毎丁地十五駒を耕作し、糧四十五斜を納め、合計熟地二、 一七五駒あって、糧三、〇二四石を納めていたとい        う。これらの官荘中、内務府中荘は旗丁によって耕作されたが、他の宮荘は幽晦入の屯丁によって耕種されたという。 ①  周藤吉之著﹁清代満洲土地政策の研究﹂三〇一 三〇六頁以下、三一四頁、四〇三頁。

  周藤氏右書ゴニ四頁。③周藤氏右書三一三頁。④周藤氏右書四〇四頁。

②   周藤氏 右書 三二一頁、三田ニ頁。 ⑥ 周藤氏 右書 三二三頁、三三四頁。 ⑦⑤ 周藤氏 右書 三二四頁。 ⑤   呉振臣﹁寧古塔紀略﹂小方壷斎輿地叢妙所牧、周藤氏 右書 四六四頁転載、および三二四、三二五頁。 ⑨   周藤氏 右書 三ご九頁。 ⑩   乾隆元年版﹁盛京通志﹂巻二四・八旗田畝咲寧古塔所属旗地、聖断五十四年版﹁戸部則例﹂巻筆。旗地下・盛京官荘参照、周藤氏 ⑪  右書 三三〇頁。

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 ⑫⑬ 周藤罠 右書 三三〇頁。

価幾人の流入と鑑の増袈よび鑑の侵食

 一般漢民人の吉林地方への流入が目立って来たのは雍正朝からであったといわれる。すなわち雍正四年忌一七二六年︶に        ①

は吉林地方に三州県を新設し、吉林には永吉州を、寧古塔には実勢県を、伯都窪には丁寧県を置いて民入を管理した。こ

れと同時に、学界と民界を分けて民人が旗区内の土地を開墾するのを禁じ、また旗民訴交替例をしいて、旗入と民入とが土       

地を互に転売するのを禁じ轟。また、吉林烏鋼の各辺の魚鼓、近城の八置畳屯、寧古塔の開墾熟地等量三一、七八二畝と

      ③ 奉天の民地の例に照して毎畝銀三分を納めさせ、これら三州県の民丁からは、丁毎銀一銭五分を言旧した。これらの土地は

旗入が私かに民人たる佃戸に開墾された土地すなわち旗余地を査出したものの様である。そレてこれら旗余地で未だ門出

       されないものは、佃戸が首報すれば、これに与えて夢合︵賦税︶を納めさせたという。しかしこの頃には民人はまだ多くな

かったといわれる。なお上記の三州県は雍正朝から豊隆十三年までに廃止されたが、民入の流入は益々多くなった。この

        間乾隆五年の満洲封禁例が吉林地方にも適用されたことはいうまでもない。  乾魚十四年︵一七四九年︶十月には、寧古塔将軍永寧の上奏によって、吉林鳥馴、伯都訥等にある石地の丈出せる余地は三八、五         八六畝および流民の私墾地=ご、八九八畝が奉天の民地の例に照して三等に分って、銀、米︵粟米︶を各半ば徴牧された。  乾隆十八年︵一七五三年︶十二月には、前の泰寧県の民地および問散人の土地並びに流民が旗人の名の下に寄入した開墾地、共に 一六、七四四畝を丈出したので虚蝉県の民地および白散民人の土地はもとのように原器作人に与えて田賦を納めさせ、流民が旗人の       ⑦ 名の下に寄入した土地だけは撤退して官に入れ、佃戸を招いて耕作させ、三則に分って海賦を徴臆した。  乾隆二十︸年︵一七五六年︶二月に八二の劇毒櫨案人︵開福家奴ともいわれ、旗人に配属され、その旗籍に入った奴隷︶を旗籍よ        ⑥       ⑨ り出して年々に入れ、彼等の土地を民地となしたが、この出旗民人随帯地は、また、開戸入籍民人随帯地ともよばれた。このほか、 官荘にいて年豆が満ちて経籍に入ったものにも、もと通りその土地を耕作させ、前者と同様に銭糧を納めさせた。    清代溝洲における吉林・黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移      五

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辱      清代満洲における吉林・黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移      六    乾隆二十七年︵一七六二年目に寧古塔等で流民を禁止したが、ここで査出した流民は、吉林、伯都田に移し、この地方の丈出余地           を支給して銭糧を納めさせ、これら流民が寧古塔で開墾した土地はここの民人に与えて銭糧を納めさせた。    乾隆三十四年︵一七六九年︶には阿勒楚喀、拉林地方において、流民二四二戸を査出したので、彼等を伯都地方にうつして民籍に       ⑪   入れ、空地を与えて開墾させて糧を徴敗した。

 このように吉林地方でも流民の禁止その他色々な処置を講じたのにも拘らず流民は愈々増加する一方であった。これは

吉林地方の人丁、戸口の増加を示す次の表からも明かである。. 雍正十二年︵﹁七三四年︶ 野遊三十六年︵一七七一年︶ 乾隆四十六年︵一七八一年︶      丁  二、三八七 =二、三〇三 二七、四二五 一二、九七七 二七、四三二   五 五 六 l     l 八 六   董 七 口 ︹備考︺ ﹁盛京通志﹂巻三五、戸口一、巻三六 戸口二により周藤吉之氏の作成せるも の。周藤氏﹁清士満洲土地政策の研究﹂ 三三八頁所載。  このような民人の増加は、またその開墾によって民地の増加ともなって現われている。 おける吉林地方の民地の増加を旗地との比較において見ると次の如くなっている。 今、雍正末年と乾隆四+五年に

雍正 末年

旗 地 ︵八、 日

璽西

天○

 頃’

δ蟹

 畝五 )’

@日

民 地   頃  畝 二七三 五五 ︹備考︺ 乾隆四十八年版 周藤氏 前掲書 ﹁盛京通志﹂ より 三三八頁所載。 周藤氏の作成せるもの

薩四蓋年 四。♂。九配=エハ王頃八廻

        ︵二四、三〇五 五二 ︶ すなわち雍正末年には吉林地方の旗地︵免税の旗地︶が民地の三〇・八倍であったのが、乾隆末年には僅か二・〇九倍に

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過ぎなくなった。而もこの民地も前記の人丁、戸口の数と同様、私墾地を発見されて登録されたものに限るから、実際は

これより遙かに多かったと考えられる。  古写四十六年十一月には、同四十一年︵一七七六年︶十二月に流民の吉林に入るのを厳禁した建前上、同四十二年以前陳

民︵旧民︶の耕種地すなわち陳民地と同年以後に査出した陳民・流民の私墾回すなわち続陳民流民私墾地とを区別し、後

       

者については奉天地方の額徴仁心余地と同様、懲罰的意味で銭糧の負担を重くした。このように流民の私墾地に重税を課

し、取締を厳重にして吉林地方への流入を阻止せんとしたが、その後も漢民人の流入は停る所を知らなかった。    寸退五十七年︵一七九二年︶に直隷が飢鱒だったので、飢民は奏天、熱河の地方にも多数流れ込んだが、吉林地方への流入も甚し   かった。そこで翌五十八年十一月に吉林将軍恒秀は奏して、流民の吉林に入るものは一万五千余人に達し、本年彼等を本籍に回らせ   ようとしたけれども彼等は欲しないから、これを紅冊に入れて丁銀を納めさせんことを請うた。乾隆帝も己むを得ず、これを施行さ        ⑭   せたという。    嘉慶十↓年︵一八〇六年︶七月の上諭によると蒙古の郭爾羅斯地方において流民が土地を多く開墾したので、長春庁を設けて、管   理させていたが、数年来流民が続いて荒地、を耕作し、人口七千余戸に達した。これは各辺門の守兵が流民を稽察しないためであるか          ら、これら守兵に命じて流民を厳禁させたとある。    同十二年十二月には伯都移所属の拉林山の西岸地方に流民が即応戸も唐画し、田地千九百余畝を私忙していたので、これを紅冊に           入れて、田賦を徴牧した。            同十三年閏五月に長春庁において流民三千十戸が土地を開墾していたので、民冊に入れて賦税を皆紅した。    同十五年十一月にも吉林庁に新来流民千四百五十九戸、長春庁に六千九百五十三戸、計八千四百十二戸を査出したので、これを紅           冊に入れた。            同十六年十月には吉林将軍饗沖阿の報告によって伯都訥、拉林勲等の開墾地四八、二〇四重より賦税を徴上したという。  かくて嘉慶十七年︵一八一二年︶における吉林、寧古塔、三都訥、三韓、童画楚喀、里林等の民田、入落、丁口の合計は      清代満洲における吉林・黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移      七

(8)

清代満洲における吉林・黒龍江地方及び心地の土地制度の推移

   嘉

   慶

   の

丁人民「

   大

口丁田清

   会

   典

   L

   巻

一、戸部によると 四、三八二頃五一畝   三三、〇二五丁  三〇七、七八一丁 八        ⑲ となっている。流民の私墾地は奉天地方では、査出されると官地に入れたが、吉林地方ではみな民紅冊地に入れられた。  ①﹁世宗実録﹂巻五一、雍正四年十二月戊寅、乾隆元年版﹁盛運通志﹂巻一〇、口置沿革、周藤氏﹁豊代満洲土地政策の研究﹂三三   三頁。  ②雍正﹁大業会典﹂巻二一五・盛京戸部・擾地、﹁八旗通志初集﹂巻一八・土田志一・八旗土田規制・奉天規制、周藤氏右書三   三三頁。  ③乾隆元年版﹁盛京通志﹂巻二四・八旗田畝、巻二三・戸口、周藤氏右書三三三頁。

 ④周藤氏右書三五四頁。⑤周藤氏右書三三四頁。

 ⑥﹁高宗実録﹂巻三五一・乾隆十四年十月癸己、周藤氏三三五頁。  ⑦﹁高宗実録﹂巻四五四・乾隆十八年十二月戊子、周藤氏三三六頁。

 ⑧周藤氏右書三三六頁。⑨四目四十八年版﹁盛京通志﹂巻三七・主点一周藤氏右書三五六頁。

 ⑩周藤氏右書三三六頁。⑪周藤氏右書三三七頁。

 ⑫ ﹁高台実録﹂巻一一四三・乾隆四十六年十月丁亥・巻一一四四・同年十一月己亥、巻一一四六・同年十二月重曹﹁皇朝文献通考﹂   桐畑・田盤面五・盛京荘田、嘉慶﹁大観会典事例﹂巻=二八・戸部・田賦・凪賦科則﹁吉林外記﹂巻七、田賦、満洲旧慣調査報告、    一般民地 下 五頁以下、一一頁、周藤氏 右書 三三九頁。  ⑬ ﹁高宗実録﹂巻一四四〇・乾隆五十八年十一月庚寅、周藤氏 三四〇頁。  ⑭ ﹁仁宗実録﹂巻一六四・嘉慶十一年七月乙丑、周藤氏 右書 三四〇頁。  ⑮ 右巻一九〇・嘉慶十二月丙戌、周藤氏 右書 三四〇頁。

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@@ @・1 右巻一九六・嘉慶十三年関五且壬午、周藤氏 宕書 三四〇頁、. 右巻二三六・嘉慶十五年十一月壬子、周藤氏 右書 三四〇頁。 右巻二四九・嘉慶十六年十月丁己、周藤氏 右書 三四〇頁。

ゆ 京旗移駐旗地の設置とその崩壊

⑲周藤氏右書三四一頁。

 このように吉林地方への漢民人の流入は日を追うて激しくなり、民地も愈々増加して行ったが、彼等の中には旗地の佃

戸となって、これを耕作し、遂には典売を受けて所有するものも少くなかった。この点で注目すべきものは、乾隆朝に行

われた京旗の吉林移住計画とその顛末である。

 すでに述べたように貨幣経済従って商業資本の媒介の下に、旗人ことに禁旅八旗、すなわち京旗の生活の困窮が度を加

えるにつれて、豊島はその解決策に頭を悩ましたが、その一策として吉林地方へ京旗を移住せしむる政策が考えられた。        ① これは雍正朝から乾隆の初期にかけて屡々問題になったが、乾隆七年︵一七四二年︶に至って具体化し、同九年より在京旗         人一千名を拉林、阿勒楚喀に移住させることにした。 ’  この京旗の移住に当って、先ず吉林鳥鳴の兵八百名、阿勒楚喀の兵二百名、駅留夫五百名計千五百名を遣し、耕牛千六百頭を買入 れて、これに支給し、初年には田千二百頃を開墾させ、次年には更に六百名を増して、五百頃を開墾させ、京旗が移住して来たとき         に、此等の開墾地と耕牛をこれに支給するというのである。そして、この京旗千名は阿勒楚喀の駐防軍旗に編入することとした。と ころが乾隆九年二月に議政王大臣裕親王広下等が阿勒富麗副都統巴霊阿等の上奏を議したところによると吉林の人丁千五百名を出し         て開墾させたが、七五一頃二一畝を得るに過ぎなかった。そこで九年九月に京紅七五〇名を拉林に移し、残りの二五〇名は翌年送ら        ヘ ヘ ヘ ヘ モ       れた。然るに十年三月には拉林に移駐した京旗はもう民入を多く雇っていたので、犯罪人を奴隷として彼等に支給した。その後の経 過は同十二年四月の寧古塔将軍阿蘭泰の上奏に﹁初め拉林の満洲には牛二千隻を支給したが、今は僅かに五百二十を存しているに過 ぎす、又房屋の妃壊し、火災によりて下請したものが幾ど三分の一に及び、土地一千頃は去年ただ六百三十嵐窓を耕作したに過ぎす、 その余は己に荒蕪に帰した﹂と述べてある。翌十三年三月目右将軍の上奏によれば、彼等の牧めた穀物は前に借りた所の穀を還し

   清代満洲における吉林・黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移九

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   清代満洲における吉林・黒龍江地方及び旧地の土地制度の推移      一〇       ⑥ て、粁種に備えると口糧に足らなかったので、書林の倉穀一万石を貸与したとある。その後も罪入を送って労力の補充を行うこと     もした。  ところで乾隆十八年︵一七五三年︶には帝は拉林へ第二次の京旗移住を考えて将軍伝子等に奏聞させた。その理由は在京旗人の生       ⑧ 活が愈々窮追したことにあることは、同二十]年︵ 七五六年︶正月の上諭によっても明らかである。帝は京旗三千名を拉林に移住さ せることとし、乾隆二十一年より同二十六年に亙って毎年五百戸つつを送り、この移住に当っては乾隆九年︵一七四四年︶の例によ って処理させた。また乾隆九年より翌十年に亙る京旗﹁千名には毎年銀五千両を支給したので、この時の移住旗人についても毎回五百 戸には毎年銀二千五百両を支給して農具の購入の補助となした。この銀二千五百両は十年後には半ばに滅じ、更に十年後にはその支給          ⑨ を停止することにした。乾隆二十一年には、その前年十月差でに拉林の海溝地方に地五百頃を開墾し、副都統衙署三十六間、五百戸       ⑩ の満洲の住房二千五百間を修理し、八型屯の井三十二眼を馨ったので、愈々第一回分として京旗五百戸を移住さした。この年の正月 の上諭によると、拉林の移駐満洲には北京を出立する前に治装銀を給し、沿途に於ては車輔、草束を与え、三江に到ると、立産銀並        ⑪ びに官房、田地、牛具、平平までも支給したので、一戸毎に銀百余両を費し、三千満洲では三十余万両を支出することとなっていた。  これを見ても、在京旗人の生活難解決のため乾隆帝が如何に力を尽したかが窺われる﹁。然るに、この第二次の黒旗三千戸移駐の計       ⑫ 画は、興隆二十一年より二十四年までの計二千戸の移駐を以て中止になった。その理由は判明しないが、同二十四年十﹁月の上諭に        ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ ﹁公等自評感戴朕恩、安静循分、万年来逃来者上衆、情殊可悪﹂とあるように、移駐京旗に逃来者が甚だ多かったことに基づくと見       ⑬ られる。そして彼等は始めみな需品に送って処罰したが、後には煩に堪えないので北京で処罰するようになった。このようにして切 角上述のように力を入れた移駐屯田の成績も挙らず、嘉慶朝になると漸次民人の所有となった。すなわち嘉慶十九年︵一八一四年︶ 十一月の吉林将軍富里の謡言に﹁臣検査旧巻、移駐京旗雲拉蓋房墾地、均籍吉林各城兵力趨弁、・其他塁審而不種、雛酌留数人教耕、       ⑭ ﹁年裁汰、新移京旗蘇拉、往々不能耕作追而顧寛流民、代為力田、久之黒黒民有﹂とあるように、髄鞘の屯田は初め吉林地方の各城 の兵丁に命じて開墾させ、其の数入を留めて白旗に耕作を教えさせたが、一年にして此等の兵丁を裁離したので、新に移住した京旗 の間散人は往々之を耕作することが出来ず、流民を雇って、代りて力田させ、久しくしてその早鮨は民有となったというのである。

 このようにして、在京旗人の生活難救助のため、あれ程、力を尽した里林における移駐旗地も、結局は内部から崩壊し

て漢民入の所有に帰した。この所有移転の過程は知ることが出来ないが、恐らく漢民入からの前借金融による典売であっ

(11)

たろうと想像される。また奉天および次に述ぶる蒙地における例からすれば、官僚、ないし商業資本の介入がなかったとは

断言出来ないのである。この際こうした官僚旨商業資本の旗人への金融によって典権がこの資本にうつり、これが貧困流

民の小作にうつされるという仕方がとられるであろうことも他の例から推して想像されるのである。ともかくこのように

して吉林地方の旗地も漢民人によって白蟻の如く蚕食されて行ったのである。

@@@@@@ ,o

周藤吉之著﹁清代満洲土地政策の研究﹂三四二頁以下参照。②周藤氏右書三四四頁。 ﹁二巴実録﹂巻一七八・乾隆七年十一月辛丑、周藤氏 右書 三四五頁。 ④⑤ 周藤氏 右書 三四五頁、三四六頁。 ﹁高宗実録﹂巻首一一・乾隆十三年三月庚戌・周藤氏 右書 三四七頁。 ⑦周藤氏 右書 三四七頁。 ﹁高宗実録﹂巻五〇四・乾隆二十一年正月託児、周藤氏 右書 三四八頁。 ⑨⑩ 周藤氏 右書 三四九頁。 ﹁高宗実録﹂巻五〇四・乾隆二十一年正月甲戌周藤氏右書三四九、三五〇頁。⑫周藤氏右書三五〇頁。 ﹁高宗実録﹂巻六〇〇・乾隆二十四年十一月庚申、周藤氏 右書三五一頁。 ﹁吉林通志﹂巻三一・食貨志四・屯墾・邑城塑屯田、周藤氏 右書 三五二頁。 二 蒙地における官僚11商業資本の土地資本化  前述のような傾向は王地への漢民入の流入と蒙古諸王の招民私墾の、過程の上にも現われて来た。もと配電にも封禁令が しかれていたが、乾隆三十七年︵一七七二年︶および嘉慶十五年︵一八一〇年︶に再び敷術重申されているところを見ると、        

当時すでに漢民人の流入による私墾ないし蒙古諸王の招民私墾が相当顕著になって来たことが窺われる。現に乾隆四十九

         ビヌトウ    タルハン 年︵一七八四年︶.には賓図工王地、達爾漢親王地において民人と遊牧蒙人との間に交渉事件がおき、それぞれ鉄嶺県、開原県       ②      コルテン       ゴルロス

に管理せしめたことがあり、すでに流民は曽爾沁地方に侵入していたことが知られ、また弾器羅斯においても既に乾隆五

十六年目一七九↓年︶には長春、農安附近に流民を招いて私漕ぎせたが、当時蒙古側が地面丈量の法に暗かったので、流民      清代満洲における吉林・黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移      一一

(12)

     清代溝洲における吉林。黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移         ‘   一二         はこれに乗じて多くの土地を占めて少額の租を納めるという風であった。ところが嘉慶四年︵一七九九年︶に至り、この地

方の私墾が問題となって調査したところ、既に民戸はご、三三〇戸、熟地は二六五、六四八畝に上り、これらは前後長年

月に亘って小作を契約しているため、一時にこれを駆逐することが困難なばかりでなく、蒙人もまた、その租によって生

計を利しておったので、翌五年に至って、北﹁方吉報窩舗以南辺柵に至る百八十清里、東穆什河より西延吉魯克山に至る

ご百三十清里の地を劃して耕種を許可し、その租は民官の経徴を許さず、旧に照して蒙旗の直接細面に帰することにし

   た。これは謂わゆる大荒または老荒と称するもので分って沐徳、撫安、恒裕、懐恵の四郷とした所からまた四大郷といわれ    た。この四大郷以外の地を開墾することは法令を以て禁ぜられたのであるが、この禁制を犯して北進するものが相踵ぎ、 同十一年︵一八〇六年︶七月には流民七千早戸の多きに達した。これもまた前例に倣ってその居住耕種を許した。爾後辺門        

の景官を督励して厳重に取締らせることにした。ところが同十三年五月には既墾者と未着手のものを合して新に流民三〇

      

一〇戸が発見された。これも﹁特別な﹂恩典によって居住を許して民冊に編入し、その後の新来者を禁ずることとした。

ところが同十五年精査した所、吉林庁属の該土地に新来流民一、四五九戸、長春庁属に新来流民六、九五三戸あることが

    

わかった。これを以て見ても、平地封禁令なるものは、如何なる実効があったか、また漢人流民の北⊥運動が如何に加速

度化していったかが了解出来る。そしてこの流民の北上運動は実は外ならぬ蒙古諸王の僑居私墾によって促進されたので

あるが、この歴史的過程は、そのまま忌地の実質的支配が中国の商業資本につながる漢民入に移って行く過程であること

に注意しなければならない。    この過程について稲葉博士は次の如く述べている。すなわち﹁蒙古王公は、その土地を開放するの利益を味はってから、流民中の       ラントウ   有力者に命じて、一般漢人を招集せしめた。之を撹頭といって居る。恰かも一六五五年代に遼東招墾令を施行した場合に、移民の請       チヤヲトウ       チヤヲトウ   負業者を心頭といったのに近似をなすものであらう。扇頭は、招民の数によって、官爵を得る約束であったが、撹頭には、それ

(13)

 がない。撹頭は、招民の委任を行便する上に於いては、さらに莫大なる権利を得たのであった。それは蒙古王公が、計数に疎いとい  うところからして、王公の徴租に関渉し、遂には、その権利を把握するに至った。間≧地方の民衙門に委食したところもあるが、そ          ツツじクイ  の大体の地局又は馬子櫃と呼ばるる徴税局で徴租しつつあるのを見れば、撹頭が、いかにその努力を恣にし、自由手腕を行使し得た  かが想像されるであらう。撹頭は、又た土地の丈量や分配権をも行使しつつあった。   右の如く、支那の流民が、量地に侵入し、遂に同種族の間から駅頭なる統領を出し、それに伴ふところの衙門︵蟷局︶を組織するに  至りては、最早や、成功の域に達したといはざるを得ない。蒙王そのものは、今や一個の擁偏たるに過ぎすして、蒙地の経営は、実  に彼らの欲するがままであった。彼等は蒙王の窮境につけ込んで、金銭を貸付し、その際に不当な利権を獲得する、一例を示せば、  道光年代に於いて、長春。農安の佃戸等はゴルロス公︵南公︶に一万吊文を貸しつけて、牧地開放の要求とともに、永久不勘丈の  承諾を得、或は五六万吊を貸付して、永久土地不清丈不増勢の内約を得たことがある。蒙王は、後年に及び、その破約を迫ったが、  反て佃戸に脅かされて、実行を中断したのであった。蒙王の圧迫は尚ほ可なり、醇朴無智なる一般蒙古人は、いかにせるやといふに、  彼等は、年々歳々に、その牧地を侵剥せられ、遂には、繋る僅少な地域を劃して、その生存を計るの悲境に陥らざるを得ない、そ        ポー      チヤラスタ  れらの地域は、普通に屯界︵俗称七里界︶と呼ばれ、博王の領域で見ると、二三平方清里、乃至六七平方清里の地積を有し、招蘇太河         の南北に散在しつつあるが、それはた何時まで彼等の存在を持続するであろう。L   右において稲葉博士が言及している所の﹁長春、平安の佃戸等がゴルロス公︵南公︶に一万吊文を貸付けたこと、また五、六万吊  を貸付けたこと等﹂に関する根本資料は、稲葉博士の書に典拠の明示がないので、色々調査した結果、光緒二十四年七月二十四日諭  摺辱知であることがわかった。これは墨黒羅年前旗境内の浮薄地を清丈し、租銀の増牧を図らんとして禍乱を醸成した際、延茂命を  奉じて其実情を調査せる報告の一節で当該旗開墾国財の沿革を述べているのである。詳細は﹁満洲旧慣調査報告、蒙地﹂の附録資料  参照第七〇に掲載されているが、その関係の個所を引用すれば次の如くである。   ﹁於二道六七年一、招レ民領種、経二部奏定一、於二租後一、有下続二行開墾一壷上、⋮⋮先有二農安民戸一、用二銭↓万千一、向二蒙古一買二  留牧荒一、経二蒙公允准︸、作二審報竣[、永不二勘丈一、嗣後各甲衆民復借三二津貼五六万余千一、呈二送蒙公︸、蛇懇三世不二勘丈増租一、  亦経三蒙公允准給二印文一、蚊有二十甲衆民勒レ石作フ謹、其実衆民施レ餌、以愚心蒙公一、而蒙吉畳字レ機、以岡二筋民一、始則牧二其津  貼一、則云免レ丈報竣悉如二三議一、継則籍二口滋墾一、凝脂地多竪蔀、必欲二加増一、藤葛糾纒三十年、迄無結局一景

ところで右の如く、一万吊や、五、六万吊の金をゴルロス公に融通したものは、生活に窮した単なる流民とは考えられ

     清代満洲における吉林・黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移      一三

(14)

     清代潜洲における吉林・黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移       ↓四

ないので、これは恐らく相当大きい商業資本か、これと関連を有する有力者だったと考えられる。そしてこのように土地

の租借の形をとり、而もその土地を永久に他に払下げぬこと、或は永久に清罪すなわち奉天地方の如ぎ土地整理による没牧

をせず、また増離しないことを約束せしむる所に、奉天地方の典売余地の官有化の苦い経験および紺地の払下げによる他

の有力者の所有を防止し、表面租借の形態をとり乍ら実質的に大土地所有の実権を確保し、或はこれを実質的に分譲し、 或は小作せしめんとする策動と見るべきで、官僚ないし商業資本の土地資本化の蒙古版と見ることが出来よう。    ここに、元建国大学の東洋史の助教授にして今はなき高橋匡四郎氏が、蒙地の撹頭について、このうちには北京から来、奉天に分  −号を設けていた大商業資本のなったものもあり、蒙古王の財政的困窮につけ込んで金融をして広大な土地を実質的に取得し、これを   分譲し、或は小作させた例もあると述べたことを想起せざるを得ない。 ①天海謙三郎氏﹁満洲国土地制度の理解に関する一関鍵﹂前掲書五二頁。 ②﹁大貝会典事例﹂九巻九七八、満洲旧慣調査報告﹁蒙地﹂五頁、三五頁、満鉄産業部﹁満洲漢人植民地域﹂二一頁、四〇頁、参照。 ③右報告﹁蒙地﹂九五頁、同上書参照第七〇︵附録八六頁︶。 ④コ仁宗容皇帝聖訓L巻一〇三、大清刷典事例巻一六七及び.九七八皇朝続文献通単一、右﹁熱地﹂九六頁。 ⑤ 右﹁蒙地﹂九六頁、参照第七〇︵附録八六頁︶。 ⑥⑦ 大清会典事例 巻九七八、吉林通志 巻二、右﹁蒙地﹂九六頁。 ③右﹁蒙地﹂九六頁。 ⑨稲葉岩吉著﹁増訂満洲発達史﹂三八二頁、三八三頁。⑩右﹁目地﹂参照第七〇︵附録八六頁︶。

      三 黒龍江地方の旗罪ないし官荘と土地資本化の問題

 最後に、北方の黒龍江地方について見るに、この時代には、軍事的関係から旗地ないし官荘が設けられ、俘虜、流徒人

の強制植民によって耕作されたに過ぎず、奉天、吉林、蒙地に見られた上述の如き土地関係人の官僚ロ商業資本の支配の

(15)

滲透は未だ見られなかった。

 先ず黒龍江地方における旗地ないし官荘の推移について見るに、駐防黒旗の移動に関連して次の如くなっている。すな

わち、さきに述べたように対露関係から康煕ご十年代に黒龍江地方に軍隊が増強され、屯田が設けられたが、康煕二十八

﹁       ① 年︵一六八九年︶ネルチンスク平和条約が締結され、翌二十九年には黒龍江将軍が黒龍江から墨瓦之に移駐し、これに関連        

してそこに旗地が設けられた。その後弓防八旗に漸次多少の移動があったが、同三十八年に黒龍江将軍は群々恰爾に移る

      ド に至って、黒龍江の駐防錦旗の制度が確立した。三三十年︵一七三二年︶には濫倫設備に都統以下の官員兵甲が置かれ、同        十二年には呼蘭城に城守尉以下の官員、兵丁が置かれ、これに関連して部立ないし官栄が設けられた。  いま黒龍江地方における旗地の推移を見るに次の如くで.ある。

斉斉恰繭旗地

墨爾根旗地

黒龍江旗地

呼蘭旗 地

布引拾旗地

雍正末年 乾隆末年

     晦 三五、○○〇 二九、〇三三 ↓八、〇九九 三一、七七〇

二二三二七

二〇六〇二

1  1  S  l  l

一六九六三

〇八六〇七

〇五一ニー

H

合 計 一一三、九〇二繭  一七二、七一九日 ︹備考︺ 雍正末年の数字は﹁八旗通志初集﹂巻一=、土田志 四、直省駐防土田 ・黒龍江駐防︵周藤氏 前掲書 三八○頁所掲︶により、乾隆末年は乾 隆四十八年版﹁上京通志﹂巻三八・田賦二、黒陰口各属隔地︵周藤氏 右書 三九七頁所掲︶による。 なお、一図地は日本の七反四畝一歩、一日地は六畝のものと十畝のもの とあり、前者は二本の三反七畝五歩、後者は六反一越二十八歩である。 そこで一.桐地は六二の一日地の約二倍、十畝の一日地の約一・二倍であ る。 ︵土地用語辞典による︶  仮に乾隆末年の数字につぎ一日地を十畝のものとすれば、雍正末年の数字は一・二倍することによって同一の単位﹁日﹂に 換算されうる。然るとき雍正末年の合計の数字は=二六、六八二・四日となり、旗地の合計がこの約五十年間に僅かに三六、      清代満洲における吉林・黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移      一五

(16)

     清代満洲における吉林・黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移       一六 三三七日の増加で百分率にして二六。五パーセントの増加に過ぎない。更に一日半を六畝とすると︵そしてこの場合の方が多 いが︶雍正末年の合計数.字が一=一七、八〇四日置なり、差遣末年の位地合計が却って二四パーセントの減少となっている。  官荘の推移は次の如くなっている。

呼黒墨斉

斉 拾 龍 寂

声江根回

官 雍  正

○一〇処

六一 荘 乾  下

五四一三

一〇五〇処

二二六 壮 雍  正   名 二〇〇

=〇

三〇〇 六一〇 丁 乾  隆   丁 三〇〇 一五〇 四〇〇 五一〇 一、三六〇 屯 長 雍  正 乾  隆

五四一三

一〇五〇名

四 糧 額 野 畑  乾 隆 六、○○〇 三、三〇〇 九、○○○     石 七、五〇〇 三、七五〇 一〇、○○〇 一二、七五〇 一三山⊥ 一八、三〇〇 三四、○○○   ︹備考︺ 至正末年の数字は乾隆元年版.﹁歯冠通志﹂巻二四、田田・八旗田畝、黒龍江所属旗地︵周藤氏 前掲書 三八一−三八二頁       所載︶に基づき、乾隆末年の数字−は乾隆四十八年版﹁盛京通志﹂巻三八、田津二、黒龍江各属官荘︵周藤民 右書 三九八       頁所載︶に基づく。

 官荘は右の如く弾正末年から乾隆末年までの約五十年間に二倍以⊥に増加したが、就中呼蘭における五一処の官荘の創

設は大きい。これは悪澄城の設置による国防官兵の増強にも関連するが、ことにこの附近が北満の穀倉地帯といわれる肥

        沃の地であるため、とくに力が注がれた為でもあろう。そしてその産出糧穀は北方の諸子に供給されたという。しかし、 轟音はその後増加せず嘉慶十五年︵一八一〇年︶になった西清の﹁黒龍江外記﹂十三、四によって見ても各地の官社とも少

しも増加していない。納糧額は、乾姜末年の三四、0100石よザ.三一、四五〇石に減じている。これは嘉慶九年二月の那

(17)

      

彦成の上奏から知られるように、黒龍江各地の官員が振わず、遂に無尽の額糧を減じたことによる。

 以上の如く、黒龍江地方においては、北辺防備のための駐面面廣の増強と関連して旗地ないし官荘を設けたが、呼蘭の

童蒙設置を除けばいずれも発展しなかった。そして、官荘は荘頭の下に屯丁によって耕作され、旗人および索倫、達呼爾

等の土着人によっ.ても耕作されたが、奴隷による場合も多かった。すなわち﹁龍沙紀略﹂の風俗には二夫が耕作すれば

数入が食を仰いで余0.がある、而も漁戸院画、春磯のことは婦が習って勤めている、因って居入は奴脾を置ぎ其の価は中

       ,⑦

国に十倍する、奴鉾を多く有するものが富者とされているが、それは能く富を致すことが出来るからであるしと見えてい

      

る所からも明らかである。官荘の屯丁も旗地の奴隷も共に俘虜およびことに流々入からなっている。

 更に黒龍江地方には康煕末年頃から公田が設けられ始めは官倉の積欠の償還にあたったが、厳正六年積欠が完納してか

      じ

らは、吉林地方の義倉のように備荒的役割を演じ、嘉慶朝になると今まで、旗兵、水師営水手および打追入が耕作したの

      

を公田養育兵の制度に改め、これらのものが主に耕作するようになった。その糧穀は倉庫に蓄積して凶年には貧苦の兵丁

に貸与したという。なお、各駅姑に辛辛夫の耕種地も相当にあった。この駅主夫とか、水師営の水手とかも俘虜ないし流

       

徒人から構成されていた。

 このように、黒龍江地方には軍事的関係が主となって官荘、旗地、公田、駅韻脚耕種地が設けられ、主に俘虜ないし流

徒人によって耕作されたが、漢平入の流入は吉林、台地方面より一層おくれ、本格的な流入が生じ、黒龍江地方が彼等に

      

よって占められ耕作されて来たのは、ロシアの南下が生じた成豊十年︵一八六〇年︶前後からのことで、鯉口の開港が翌年

であるから、満洲が世界経済に織込まれて行く次の時代のことであったということが出来る。従って、いま問題としてい

る時代には、未だこの地方に自然発生的植民地化も生じなければ、また中国的な官僚“商業資本の土地半身化も生じなか

った。    ’      清代満洲における吉林・黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移      一七

(18)

    浩代満洲における吉林・黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移      一八 ①周藤吉之著﹁清代満洲土地政策の研究﹂三七一頁以下、三七八頁、四〇四頁。 ②③ 乾隆元年版﹁盛京通志﹂巻一九、職官﹁皇朝文献通考﹂巻一八二・茸雲四・黒龍江下直駐防、周藤氏 右書 ⊥二七九頁。 ④﹁世宗実録﹂巻一五〇・雍正十二年十二月習熟、周藤氏右書三七九頁。 ⑤ 有高巖馬﹁黒龍江省呼蘭平野の開発に就きて﹂ ︵内藤博士還暦祝賀﹁支那学論叢﹂論文頁 一頁一二頁、通頁入一九i八二〇頁︶。

⑥周藤氏右書三九九頁、四〇〇頁。⑦⑧周藤氏右書三八三頁。

⑨周藤氏右書三八四頁、三八六頁、三八八頁、四〇二頁。⑩﹁黒龍江外記﹂巻三公田養育兵、周藤氏右書四〇一頁。

⑪周藤氏右書三八三頁。⑫有高氏右論文論文頁一一二頁通頁八一九一八二〇頁。

四 一般的結論一官僚H商業資本の支配の滲透と下地制度の崩壊

 清朝専制国家が、その上に形成された当時の中国社会経済の基本的動向は、かっで詳論した如く、7白い過醐な入口と

愈く開墾の余地なき農地を基礎条件とする旧時代的な農業と、他方に、旧時代としては相当高度に発達した手工業とを再

生産の基盤となしつつ、その上に非常に発達せる貨幣経済を媒介として、商業資本の異常な発展を見、これと久しきに互

る専制国家の官僚支醗との関係から、官僚11商業資本の発達を促がしたが、それが農業的諸般皿との関係から、土地への投        

資を媒介として、官僚11土地“商業資本を形成せしめ、かかる特異なる資本の支配を愈く滲透せしめて行ったのである。

 このような貨幣経済の高度な発達と官僚“土地11商業資本の支配の滲透という当時の時代的潮流の中に、清朝国家はそ

の支配の維持のために、その軍隊の中核たる満洲旗艦の生活を維持すべく、身分制的、世襲的な旗地制度を敷いて、土地

を支給して行ったが、かくの如き時代的な潮流のため旗入の経済生活はたちまちにして崩壊して行った。ところが旗人の

生活の動揺は、清朝家国の支柱たる八旗の基礎を危くする。そこで清朝は満洲の地に旗地の増設をはかり、一方、捕虜、

流人と帯地磁心者を根幹とする奴隷ないし農奴的生産関係を形成すると共に、他方、かって述べたように.農業の貨幣経

(19)

済化、専制国家の牧取、官僚11土地U商業資本の支配等から、生活の基礎を失って流亡する農民を媒介として小作的生産

      

関係を形成して行った。

 ところが、この時代的潮流の故に、愈く奔流化する中国農民の流亡とその満洲流入の加速度化は、民地の小作ばかりで

なく、官荘ないし黒地に小作的生産関係を滲透化していった。而して、満洲農業経済の植民的形成自体が貨幣経済的に中

国の前述の如ぎ商業資本の媒介の下に進めらた所から、一方旗入の生活がここでも困.窮化すると共に、他方、身分的には

農奴的存在たる荘頭や壮丁および小作ないし自作におけるボス的存在が、商業資本とのつながりにおいて有力化し、ここ

に官僚との抱合もあって、旗地の売買が盛んに行われ、旗人が急速に土地を失い、官僚11商業資本およびこれにつながる

      

者がその土地を獲得していった。

 当時の満洲において金納で前納の小作契約たる上喫租或は先租摯実すなわち中国で謂ゆる預租の制が普及したことは右

のこと悪いとに関係があり、また押租銭︵すなわち租借保証金︶の前納による租借契約の行われたこともそのように考え

られる。しかし、満洲旧慣調査報告﹁三権﹂に﹁旗人ハ土地ヲ永租二二シ一時二亡霊ヲ牧得スル方法ヲ以テ巧二典売ノ内

        へ    

容ヲ有スル処分ヲ為セリ﹂といい、また﹁契約ノ名義無上租ト称スルモ業主ノ牧受スル押租銭ハ租ノ保証金タル性質少ナ

       

ク却テ負債ヲ為スモノト見参スヘク又出馬スル土地ハ賃貸借二之ヲ付スルニァラズ担保トシテ交付スルノ義ヲ有スル﹂と

述べている如く、ここに旗人の商業資本関係者への借財的依存とその土地支配権の喪失の形態が示されている。さればこ

そ、かって述べた如ぎ三年以上の長租前納の租借契約禁止の法令の発せられた次第も了解されるのである。このように金

納の前納小作契約が行われて来ると、旗人や荘頭は物納の後払の小作契約を破棄して、金納前払小作契約を選好すること

は当然であろう。これは上野地方に商業資本関係者の触手がのびるに従って愈くそうなったと老えられる。満.洲旧慣調査

報告﹁皇産﹂が官等の小作関係についてであるが、現佃戸の租は興京撫順地方の理路官営におけるご三特例を除く外、一

     清代満洲における吉林・黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移      一九

(20)

     清代満洲における吉林・黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移       二〇

般に先租後出にして毎年その翌年度の租を前納しなければならない慣習であると述べており、右報告の﹁内務器官荘﹂に

は現佃戸すなわち普通小作人としてこの金納の先租後種だけをあげている所を見ても、この煩向が年と共に普及したこと

がわかる。そこにかかる金融力ある商業資本関係者の支配ヵが滲透し、これを露頭とする繋属制が行われ、或はこれを実

質的地主とする小作関係も生じて来る。かくして夏雲地方では貧農民がかかる金納地代先払の力もなく小作契約をとかれ

て、新に土地支配権を掌握した土地資本化せる商業資本関係者の下に小作するか、或は南満を去って圧力の比較的弱い北

の地方に漸次移動し、このようにして自然発生的植民の北進運動が展開されたとも考えられる。しかし、ここでもまた官

僚ないし商業資本の支配が間もなく先廻りするようになる。

 かくて、満洲においても、中国的な官僚n商業資本の実質的な支配が漸次滲透して、身分制的世襲的な旗地制度を白蟻

の如く下から蚕食していった。ここに満洲においても官僚口土地11商業資本が形成され、進展していく過程が見られる。、

清朝政権は勿論必死になつな堅地補強工作に出たことは、前述した如くであるが、この時代的潮流には遂に抗し切ること

が出来なかった。  これは始め奉鈍なる南至地方に現われたが、やがて、吉林地方においても清.朝が始め軍事的必要から設けた官階ないし

旗地およびやがて旗人の生活難救助の目的から設けた郷地等に滲透して蚕食し、やがて中満の蒙地に入ってその抵抗の弱

さに乗じて椙藪を極めた。そして、北満の黒龍江地方には、次の時代すなわち満洲が世界経済に編入されて行く時代に、

先ずロシヤの南下を媒介として急激に展開し始めたようである。しかし、これについては、別に稿を改めて取扱い潔いと

思う。  ①② 拙稿﹁清代における農業生産力の停滞と農民の搾取−対満植民の中国経済史的背景e−﹂ ︵彦根論叢 第三五号 紹和三十二年   一月︶       夢

(21)

  拙稿﹁由国における専制的官僚国家と官僚目商業資本の蓄積t対満植民の中国経済史的背景爲一﹂ ︵彦梗論叢 第四十一号 曜和  三十三年一月︶拙稿﹁中国における貨幣経済の発達と農民の流亡i対満植民の中国経済史的背景㈱一し彦根論叢 第四十四号 昭和  三十三年六月︶参照。 ③拙稿﹁満洲における農業的生産関係の成立一土地関係と植民開墾との相関において一﹂︵陵水三十五年記念論交集昭和三十三年  十月 三三−三五頁参照。 ④満洲旧慣調査報告﹁租権﹂二六、二七頁。⑤右書三五頁ゆ⑥右報告﹁皇産﹂四三、九九頁。 ⑦右報告﹁内務府官荘﹂一八九頁。 ⑧ 満鉄総務部調査課編、エ・エ・ヤシュノフ著﹁支那農民の荒巻植民と其前途﹂訳本 八三頁、八四頁。 ・ 清代満洲における吉林・黒龍江地方及び蒙地の土地制度の推移 二一

参照

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