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近代都市ケルンにおける人口の自然動態 : 19世紀中葉以降の出生率と死亡率の変動に関する考察

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(1)   馳近代都市ケルンにおける人口の自然動態 一19世紀中葉以降の出生率と死亡率の変動に関する考察一. 棚橋 信明  Die natUrliche Bev61kerungsbewegung der rheinischen Stadt K61n von der Mitte des 19. Jahrhunderts bis zum Anfang des 20. Jahrhunde煮s. Nobuaki TANAHAsHI はじめに 近代ドイツにおいて進展した都市化は,人口史的な意味においては第一に都市の人口割合の増大 によって特徴づけられる。こうした意味での都市化がドイツにおいて最も顕著に進展した地域は,. プロイセン王国に属したドイツ西部のライン州であった。同州における都市の人口割合は1816年に 24.8%であったのが1849年に27.9%に,そして1910年には55.2%になった1)。19世紀中葉以降の 進展がとくに著しかったことがわかる。ライン州最大の都市ケルンの人口も,1849年に94,789人で あったのが1910年には516,527人へと5.4倍もの膨張をみせて小る2)。.  こうした近代における都市化は,これまで工業化にともなう農村から都市への人口移動に結びつ けられ理解さiれてきた。確かに上記のようなケルンの人口増加も,1888年以降のゲマインデ合併に. よる領域拡張を考慮したとしても,大規模な人口流入がなければ不可能であったはずである。実際 に1907年にケルンに在住する436,524人のうちおよそ半分の219,550人は,他のゲマインデの出身 者であった。その・うちライン州内の出身者は147,341人と外部出身者の67.1%を占めており3),近隣. 地域からの大規模な人口流入がケルンの急激な人口膨張に大きな役割を果たしていたことを示唆し ている。.  W・ケルマンの人口史研究4)以来,近代都市に関する人口史研究は人口移動の問題に関心を集中 させてきたといえる。ケルマンは,ドイツにおける都市化の時代は同時に,空前の人口移動の時代 でもあったことを実証的に明らかにし,激しい国内の人口移動こそが都市化の原動力であろたと結 論づけたのである5㌔そして,ケルマンが先鞭をつけた人口移動三三をさらに深化させたのが,D・, ランゲヴィニシェであった。彼は,都市化の時代の人口移動が都市から農村への単純な「一方通行」. ではなく, 「双方向」のきわめて複雑な流れをもっていたことを個別的な事例をもって明らかにし た6)。そして,彼の研究に触発され,個別の都市を対象とする人口移動史研究が展開されることに ならたのであるの。.  このような人口移動に関する,すなわち人口の社会動態に関する研究の進展のなかで,人口動態 のもう一方の要素である自然動態に関する問題は背後に大きく押しやられることになった。しかし ながら,出生と死亡による自然動態に関する考察なしで,都市人口の変動を完全に理解することは できないはずである。さらに,人口移動史研究の進展は都市人口の増加における自然動態の役割を より明確なものにしたといえる。こうした研究により都市人口の社会動態が頻繁に転入と転出を繰 り返す移動人口によっていたことが明らかになったが,他方で自然動態は「定住者」というより安.

(2) 32. 棚橋 信明. 定的な基盤によっていたのである。.  また,H・マッツェラートがすでに指摘しているように,19世紀中葉以降の都市の急激な成長に おいて,人口流入は必ずしも支配的な要因ではなかった。とくにライン州の大都市では,社会増加 よりもむしろ自然増加が優勢であったのである8㌔都市ケルンにおいても,人口移動がそれほど激. しくなかった1880年以前において自然増加が人口増加の支配的な要因であった。1840∼1880年を 通じて社会増加数は22,037人であったが,自然増加数はその2.1倍に当たる46,877人であった。そ して,人口移動が激しくなる1880年以降につい七も,自然増加の方が人口増加への貢献度で優位に あった。1880∼1910年の30年間で社会増加数は110,699人に上ったが,自然増加数はそれを25,000 人余り上回る136,095人であった9)。こうした事実からも,都市化の人口史的理解のためには,人口. 移動による社会動態のみでなく自然動態の動向にも十分な配慮が必要なことがわかる。  そこで,近代ヨーロッパにおける自然動態の動向とレて見逃すことのできないのが,「多産二死」. から「少産少死」への人口様式の大転換であり,このプロセスを説明するのが「人口転換理論」で ある。この理論の基礎になったのは,長期的に時系列データの利用が可能であった北西ヨーロッパ の事例であり,そのうえ,人口転換は北西ヨーロッパの先進地域で最も早く始まり,後進的な東ヨ. ーロッパ地域ほど開始時期が遅れたことが次第に明らかになった。そのため,人口転換の進展は地 域の近代化や工業化との関連で論じられることが多く,また,人口転換開始前の「多産多死」の状 態が「前工業的(農村的)人口様式」と呼ばれるのも.これに関連してのことである10)。.  そして,この理論を基礎にドイツにおける人口転換も,以下のような4段階をもって理解されて いる。まず,人口転換の開始前の第1段階(∼1串72年)では,出生率と死亡率は高い水準で均衡が 保たれていた。ところが,死亡率の持続的下降が突然始まり,これにより第H段階(1873∼1901年). へ移行するが,出生率はこの段階においても相変わらず高い水準を維持した。その後,死亡率が下 降を続けるなか出生率も持続的下降を始め,これ以降が第三段階(1902∼1930年)であり,やがて 両者は低い水準で均衡に至るが,この状熊が最:後の第IV段階(1931年∼)である11)。.  本稿は,前述のように19世紀中葉以降に急激な人口膨張を経験:した都市ケルンを事例として取り あげ,統計資料12)に基づきながら自然動態の特徴とその背景を明らかにしょうとするものである。. そのために第1章では,上記のように理解されるドイツの全般的な人口転換の進展と対比させなが ら,また都市の一般的な動向と照らし合わせながら,ケルンの出生率及び死亡率13)それぞれの変動 の特徴を明らかにし,そのうえでこの2つを基本因子とする自然増加率の変動について考察を加え. る。そして,つつく第2章と第3章では,出生率と死亡率それぞれについて,その変動に関与した 幾つかの要因について検討を進め,これにより自然動態のもつ独自のメカニズムを探っていきたい。. ただし,本稿はこのメカニズムの全容を明らかにすることを目的としない。取りあげる出生率と死 亡率の変動要因も,おもに統計資料に基づき解明のできる範囲のものに限られる。. 1.出生率・死亡率の変動と自然増加率  図1は,都市ケルンの人口1,000人に対する出生率と死亡率,そして自然増加率の推移を,折れ 線グラフとして表したものである。そして表1は,. o生率及び死亡率それぞれについて,都市ケル. ン,首都ベルリン,プロイセンの5大都市(ベルリン,ブレスラウ,ケルン,マクデブルク,ケー ニヒスベルク)14),工業都市エッセン,そして全都市及び全農村の期間別の平均値をならべて整理 したものである。以下では,これらのグラフと表を参照しながら,都市ケルンの出生率と死亡率,.

(3) 33. 近代都市ケルンにおける人口の自然動態. 図1 都市ケルンの出生率・死亡率と自然増加率(対人ロ1,000人) (50ρ %o. 40。0 汲 :: 昌1:. ∴ ’ 二. :: ’、 A   ,. 30.0. 昌   ’ Pニノ    、. ∴ o,  ㌔..〆. k■  ,・!㌦.  ’. 「. ∴. ’、 、. ≡、.   ■ A ノ》・5 8. @、    ρ の 、 辱 ’   亀. 亀,’. ・=/∵  、. A           ,. 、▽∵. ’ ・  隔  鴨. 、、’. 、  , ,. 、巳  e. @、. A’. @㌧. 『.   噛  ■. A  、     o ’       噂 覧 も ’            、. 5、、 ,  覧. @ 隔. 20.0. 、. ㌧◆. d ’.. ”㌦ ヤ. 曳. 噂.. @、. 10.0. 出生率(死産を含む). 0.0. ・…… ?亡率(死産を含む) 自然増加率. 一10.0.   1835 1840 1845 1850 1855 1860 1865 1870 1875 1880 1885 1890 1895 1900 1905 1910(年) 出典:S白白蜘海θsル自励白下5翅’α肋〃1915(以下3びBS’C 1915のように略記),5. Jg., hrsg. im  Al血lge des He㎜Oberb聰emleisters, K61n 1917, S.8−9より作成。. そして自然増加率の変動の特徴について考察を行っていくことにする。.  なお,本稿では参照する統計資料の都合もあり,死産を含めた出生率と死亡率を考察の対象とす る。死産を含む出生率は,本来であれば「出産率」と表記すべきであるが,死産を含む死亡率にそ れに対応する用語がないこともあり,以下,死産を含む場合でも敢えて「出生率」と表記すること にする15)。. (1)出生率の変動  「はじめに」幽で言及した「人口転換理論」に従うならば,持続的下降の始まる以前の出生率は高 いレベルで一定の水準を維持していたと思われがちである。ところが,図.1のグラフにおいてケル. ンの出生率には,1870年代まで鋸の歯のような上下の振動がみられたことがわかる。このような出 生率の上下動は,80年代以降に次第に目立たなくなり)20世紀に入ると急激な出生率の下降のなか で姿を消している。. 人口転換との関連でつぎに確認すべきは,出生率の持続的下降が始まる時期,・すなわち第皿:段階. への移行時期である。図1のグラフによりケルンでは,1902年ごろに出生率の持続的下降が始まっ ていることがわかる。これはドイツ全体と同時期であり,このことから第三段階への移行において 都市ケルンがドイツ全体のなかでとくに先行的であったわけではないことがわかる。さらに問題と なるのは,都市の一般的な動向との比較である。.

(4) 34. 棚橋 信明. 表1出生率と死亡率(対人ロ1,000人) a)出生率(死産を含む). 期間. 1841∼1866年 1867∼1871年 1872∼1875年 1976∼1880年 1881∼1885年 1886∼1890年 1891∼1895年 1896∼1900年. (単位:%。). ケルン. ベルリン. 5大都市 ス均※1. エッセン. 全都市 38.4※4. 41.0※4. 55.6※2. 37.9. 38.9. 41.3. 42.0. 38.9. 32.0. 35.4. 一. 37.4. 38.4. 37.4. 42.9. 43.3. 40.6. 59.3※3. 41.5. 44.6. 41.6. 55.2. 41.1. 41.1. 38.3. 38.4. 37.8. 48.7. 37.6. 39.8. 38.9. 34.9. 37.6. 44.1. 36.8. 40.3. 39.7. 31.6. 36.0. 45.9. 35.8. 40.2. 40.1. 28.9. 34.5. 46.2. 35.3. 40.0. b)死亡率(死産を含む) 期間. 1841∼1866年 1867∼1871年 1872∼1875年 1876∼1880年 1881∼1885年 1886∼1890年 1891∼1895年 1896∼1900年. 全農村. (単位:%。). ケルン. ベルリン. 5大都市 ス均※1. エッセン. 全都市. 全農村. 30.7※4. 28.6※4. 36.0※2. 30.6. 27.4. 33.6. 31.0※3. 30.7. 28.3. 31.9. 31.1.. 31.5. ’28.9. 26.3. 28.4. 28.3. 302. 31.1. 27.8. 26.5. 26.8. 24.0. 25.7. 25.7. 25.7. 25.4. 25.6. 21β. 23.8. 25.0. 24ユ. 24.3. 24.0. 19.2. 23.8. 233. 22.2. 22.4. 28.2. 25.6. 29.6. 一. 32.8. 33.9. 33.8. 30.6. 33.6. 28.3.  註:※1ベルリン,ブレスラウ,ケルン,マクデブルク,ケーニヒスベルクの5都市。   ※21868∼1871.年について死産を含まない値。.   ※3死産を含まない値。   ※41849∼1866年の平均値。 出典:.Pz%β魏hθ3’観3励(以下.ル5’と略記),hrsg. vom K6niglichen Statistischen Burea面n Berlin, H.48a, Teil 1,  S.62;P猶S’,H.188, Teil B, S.106−111;Heinhch Silbergleit(Hrsg.), P廻鎚βθ〃s 5地4云8’Dθη々εo〃同一〃z 100ノ励㎏θ%.  ル∂∫1伽〃2θ4θ75時雨鷹%π㎎’”o〃z19、1伽伽δθ71808, Berlin 1908, Teil C, S.80−82,102−107より作成。ケノセンに.  ついては,5びB5’d1915,S.8−9の統計値を採用。.  表1のa)から,プロイセンの都市全体の出生率は70年代に死産を含む値で40%・をやや上回るレベ. ルにあったが,早くも80年代に持続的下降を開始していることがわかる。他方で,ケルンの出生率. は80年代に入り一旦下降をみせたが,80年代終わりに再び上昇し,その後,世紀転換期ごろまで 農村とほぼ同等の40%・前後の値を維持している。そして,1910年までケルンの出生率はプロイセン. 全都市の値を大きく上回り続けた。すなわち,人口転換の第三段階への移行についてケルンは,と くに80年代終わりからの出生率の「隆起」により一般的な都市の動向に対して大きく遅れることに なったのである。.  さらに図1の出生率のグラフをよく観察すると,持続的下降の開始以前に「うねり」を描く中長 期的変動があったことに気づく。要するに,比較的高い出生率の維持された「隆起」の時期と,低 い出生率が続く「谷間」の時期が交互に訪れていたのである。こうした出生率の中長期的な「うね.

(5) 近代都市ケルンにおける人口の自然動態. 35. り」を,「19世紀中葉から世紀転換期までについて整理すると以下のような5つの時期区分をもって 理解できる。まず①1835∼1853年は出生率が頻繁に40%・を上回る「隆起」の時期であり,続く②1854 ∼1867年には35∼38%・の問の比較的低い水準で推移する「谷問」の時期が来る。そして③1868∼1882. 年は1871年の大きな落ち込みを例外として,38%・をつねに上回り,一時的に43%。を突破する「隆 起」の時;期となる。その後は④1883∼1888年の小さな「谷間」を挟んで,⑤1889∼1902年に再び大 きな「隆起」の時期が来ることになる。『.  このようなケルンの出生率の推移は,他の大都市との比較ではどのような特徴をもったであろう か。19世紀中葉以降,大都市のなかでも農村を上回るきわめて高い出生率を記録したのは,ルール. 地方の工業都市群であった。表1のa)において,エッセンの出生率は60年代後半から70年代を通 じて50%。を上回るきわめて高いレベルを推移し,その後やや後退のみられた80年代以降も,ケル ンの値を大きく上回り続けたことがわかる。こうした新興の工業都市には及ばなかったものの,同 じく表1のa)から,19世紀中葉以降,ケルンの出生率は伝統的5大都市の平均値をつねに上回って いたことが確認できる。そして,とくに上記⑤の時期の高い出生率の維持は,こうした大都市のな かでも特異な現象であったことがわかる。たとえば,ベルリンにおいても80年代以降の出生率の継 続的な後退ははっきりしており,⑤の時期に当てはまる1889∼1900年の出生率の平均は30.9%。であ り,同期間のケルンの40.1%・を大きく下回ったのである16)。. (2)死亡率の変動  「人口転換理論」における一般的な理解では,死亡率における大きな上下の振動は18世紀の半ば までの現象とされている。こうした上下動は,天災や天候不順による飢饅,そして疫病の流行によ って引き起こされる周期的な大量死によるものであり,前近代社会の特徴とされる。ところが,図 1でケルンの死亡率のグラフには,出生率と同様に1880年代まで比較的大きな上下の振動があった ことがわかる。しかも,この死亡率の上下動は出生率の場合よりも頻繁に繰り返され,変動の幅も 大きかった。こうした上下動は80年代後半になりかなり小さくはなるが,それ以降もグラフにおけ る小さな「突起」は完全に消滅することはなかった。.  ここで出生率の変動との対比で注目すべきは,死亡率の上下動が出生率の動きとしばしば逆方向 の対応を示したことである。図1のグラフでは,死亡率の「急騰」と出生率の「急落」のはっきり した一致が1867年と1871年にみられる。このような事例は,同一の要因により死亡率の「急騰」 と出生率の「急落」が引き起されていたことを物語るものである。このような要因に関する考察は, 次章以降の課題となる。.  それでは,死亡率の持続的下降の時期について,すなわち人口転換の第H段階への移行について,. 都市ケルンにはどのような特徴が認められるであろうか。図1のグラフにより,ケルンの死亡率は・. 80年代前半にも目立った「突起」をもったことから,その持続的下降は80年置後半に始まったと みなされる。前述のように,ドイツ全体における第H段階への移行は70年代前半とされており,し たがって第H段階への移行についてケルンははっきりと遅れをとったことになる。それでは,一般 的な都市の動向との対比ではどうであろうか。.  表1のb)により,プロイセンの都市全体の死亡率は,70年代の終わりごろに持続的下降の過程に 入ったとみることができる。19世紀中葉よりプロイセンでは,都市の死亡率は農村よりも一般的に 高かったが,こうした下降により80年代後半以降,農村と同水準でならぶことになる。他方で,前、.

(6) 36. 棚橋 信明. 述のようにケルンの死亡率がはっきりと下降過程に入るのは,都市全体に対して10年ほど遅れた 80年代後半のことである。こうした遅れも手伝って80年代以降,ケルンの死亡率は都市全体の値 をつねに上回ったことが表1のb)からもわかる。したがって,第皿段階の前の第H段階への移行に ついても,ケルンは都市一般の動向に対してはっきり遅れをとったのである。.  また,出生率と同様にケルンの死亡率の推移についても,その持続的下降以前に中長期的な「う ねり」を図1のグラフから読み取ることができる。そして,こうした「うねり」は以下のように整 理が可能である。まず①1835∼1842年は30%・をしばしば上回る「隆起」の時期,その後②1843∼1866. 年は1846年と1849年に大小の「突起」はあっ.たが,おおむね25∼30%・の間にあった「谷間」の時. 期,そして③1867∼1882年は,1867年と1871年の2つの大きなピークと幾つかの小さな「突起」 により,30%。を頻繁に上回る長期的な「隆起」の時期と理解することができる。.  ここで気がつくのは,死亡率のこうした「うねり」と前述の出生率の「うねり」との意外な「一 致」である。すなわち,出生率と死亡率の「隆起」の時期と「谷間」の時期それぞれが比較的長期 にわたって重なっていることである。具体的には1835∼1842年と1868∼1876年に両者の「隆起」 の時期が重なり,1854∼1866年に「谷間」の時期が重なっている。要するに,出生率が継続して高 い水準にあった時期に死亡率も高い水準で推移し,逆に出生率が低い水準にあった時期に死亡率も. 低い水準で推移する傾向がみられるのである。このような事実は,短期的な上下動において死亡率 ’と出生率が逆方向の対応にあったことと一見して矛盾するようである。死亡率と出生率の「うねり」. がこのように「一致」する理由については,第3章で死亡率の変動要因について検討を進めるなか で明らかとなるであろう。.  それでは,大都市のなかでケルンの死亡率の推移はどのような特徴を示したであろうか。表1の b)から,80年代前半まで5大都市の死亡率が都市全体に対してやや高い水準にあったことがわかる。. このような大都市の高い死亡率は,市街地の過密化を原因とする衛生状態の悪化や,医療給付を十. 分に受けられない貧困層の増大を原因とするものと一般的に解釈されている。したがって,人口を 急激に膨張させた工業都市のなかには,きわめて高い死亡率を記録するものがあった。たとえば, 60年代後半のエッセンの死亡率は,表1のb)では表されないが,時おり40%。を上回った1の。.  こうした大都市との比較においてケルンの死亡率は,80年代前半までは最も低いレベルにあった といえる。上記③の「隆起」の時期に,ケルンの死亡率の平均値は30.3%・であったが,同時期に5 大都市の平均値は32.3%・にもなった18)。ところが,80年代後半以降,ケルンの死亡率は大都市のな. かでも次第に突出するようになっていった。それは,他の多くの大都市でも70年代終わりに,死亡 率の持続的下降が始まったからである。他の大都市との比較においても,前述のようなケルンにお ける死亡率の下降の遅れは大きな特徴として浮かび上がるのである。. (3)人口の自然増加率  前述のように, 「人口転換理論」では死亡率の持続的下降が始まる以前には,出生率と死亡率は. 高い水準で均衡を維持していたとされる。これに単純に従うと両者の「差」による自然増加率は比 較的低い水準で安定的に推移し,大きな変動はなかったことになる。ところが,図1のグラフに示 されるように,1880年代半ばまでのケルンの自然増加率にはかなり大きな上下の振動があった。こ れはもちろん,出生率と死亡率の変動に起因するものである。. 図1のグラフを観察すると,こうした自然増加率の細かな変動には,死亡率の変動と逆向きの対.

(7) 近代都市ケルンにおける人口の自然動態. 37. 応が目立ち,そのうえ変動の幅は死亡率よりもさらに大きかったことがわかる。それは,前述のよ うに,死亡率の「急騰」と出生率の「急落」が重なることにより,自然増加率の落ち込みがいっそ. う増幅されたことに原因があった。・自然増加率の大きな落ち込みとしては1849年,1867年,そし て1871年が顕著であり,1849年と1871年には自然増加率はわずかながらマイナスとなった。  また,自然増加率についても中長期的な「うねり」を観察することができる。図1のグラフでは, 自然増加率が10%・を断続的あるいは継続的に大きく上回って推移する時期と,10%。を頻繁に下回っ. て推移する時期が交互に現れていることが見てとれ,自然増加率の「うねり」については,以下の ような6つの時期区分をもって理解できる。まず①1835∼1842年は「谷間」の時期,続く②1843∼ 1853年のおよそ10年は,1849年に大きな落ち込みを経験しながらも,断続的に10%。を大きく上回 る「隆起」の時期とみることができる。そして③1854∼1871年には10%・を頻繁に下回る長期間の「谷. 間」の時期,続く④1872∼1879年には10%・を糸一続的に上回る「隆起」の時期が来る。さらに,その. 後は⑤1880∼1887年の小さめの「谷間」を挟んで,⑥1888∼1910年には最後で最大の「隆起」をみ ることができる。.  それでは,このような自然増加率の中長期的な「うねり」は,前節でみたような出生率と死亡率 の変動,とくに中長期的な「うねり」との関係でどのように理解すべきであろうか。先に指摘した ように,出生率と死亡率の「うねり」にはかなり長期にわたる「一致」がみられた。グラフをよく. 観察すると,自然増加率が「谷間」を形成した上記の①,③,⑤の時期は,こうした出生率と死亡 率の「うねり」が「一致」する時期におおよそ重なっていることがわかる。逆に,出生率と死亡率 の「うねり」に「ズレ」がみられる時期に,自然増加率の「隆起」が生じやすかったといえる。上 記②と④の比較的短期間の「隆起」については,死亡率の一時的下降が進むなかで,高い出生率が 維持された結果によるものと理解される。’そして⑥の時期の最大の「隆起」については,人口転換 の進展にともなって死亡率が持続的下降を続けるなかで,80年代終わりから出生率に大きな「隆起」 が生じた結果によるものであった。.  「はじめに」でも指摘したように,社会動態は不安定な流動人口によっており,実際,ケルンに おける社会増加率には変動幅のきわめて大きな激しい動揺がみられた。19世紀中葉以降にケルンの 社会増加率は,1862年に最低値の一6.2%・を,1887年には最高値の31.7%・を記録し,この間を大きく. 揺れ動いた19)。ところが,’以上の考察から明らかなように,変動幅は社会増加率ほど大きくないも. のの,自然増加率にも80年代半ばまでかなり激しい上下動があり,また,出生率と死亡率の中長期 的な「うねり」の複雑な対応関係によって,自然増加子もまた中長期的な「うねり」をもったので ある。人口転換の進展にともなって強力な自然増加が生じる以前については,人口増加における自 然動熊の役割も決して安定的なものではなかったのである。. 2.出生率変動の諸要因 本章では,疫病と食糧価格の高騰,再生産年齢人口の割合,婚姻率,そして「晩婚」と「丁丁婚」. を特徴とする「ヨーロッパ的婚姻様式」の変化の問題を順に取りあげ,これらの要因と前章でみた 出生率の変動との関係を探っていくことにする。ただし,ここでの考察は,「利用可能な統計資料に 基づき解明のできる範囲に限定される。たとえば,婚姻率や婚姻年齢といった問題を取り上げるがゴ. 人びとの具体的な婚姻行動や家族関係の問題に踏み込んだりすることはできない20㌔また,出生率 の持続的下降に関しては, 「人口転換理論」との関連でさまざまな議論が展開されているが,こう.

(8) 38. 棚橋 信明. した議論を一つずつ検証することもここでの課題ではない21)。. (1)疫病と食糧価格の高騰  図1のグラフで出生率に「急落」が認められる年は,i855年,1861∼1862年,1867年,そして 1871年であり,そのうち死亡率の「急騰」と一致するのは1867年と1871年である。そして,これ ら2つの年に共通するのは,疫病の流行と小麦,ライ麦,ジャガイモなどの食糧価格の高騰が重な ったことである。1867年にはコレラとチフスが,1871年にもチフスと天然痘の流行があり,次章で 述べるように多く。犠牲者を出している。他方で,食糧価格の高騰はこうした疫病の流行以前にす. でに始まっており,1867年と1871年の疫病の流行は,1866年に始まり1875年まで続いた長期的な 食糧価格の高騰期に発生したのであった22)。.  19世紀において長期的な食糧価格の高騰は,餓死者を出すほどの重大な飢鰹に至らないまでも, とくに貧困層における栄養状態の悪化をまねき,疫病が流行した際はその犠牲者を拡大させる原因 になったと考えられる。そして,こうした食糧価格の高騰や疫病の流行は,人びとに先行きについ ての不安を増大させ,とくに経済的に不安定な状態にあった人びとに妊娠・出産を思いとどまらせ る作用を及ぼしたのである。.  また,死亡率の「急騰」が対応しなかった1855年と1861∼1862年については,疫病の流行はみ られなかったものの食糧価格の高騰はいずれも発生していた。1855年は1853∼1857年の,そして 1861∼1862年は1860∼1863年の,それぞれ長期的な食糧価格の高騰;期に対応したのであるお)。食 糧価格の高騰が何年も続く場合は,それだけで妊娠・出産に対する抑止効果を発生させたのである。. (2)再生産年齢人口の割合  人口の年齢構成,とくに人口の「再生産」に関係する年齢の人口割合は都市の出生率と密接な関 係をもったはずである。プロイセン王国における統計では,15∼45歳の女子を妊娠可能年齢として, その1,000人当たりの出生率,すなわち「総出生率」が出生力の指標として示されることがあった。. ここでも便宜的に15∼45歳を女子の「再生産年齢」として,この人口割合と出生率との関係につい て考察を進めることにする24)。.  プロイセンの都市と農村では,再生産年齢人口の割合において19世紀中葉以降つねに都市が優位 にあり,両者の差はとくに農村における顕著な後退により次第に拡大する傾向にあった。そして,. 都市のなかでもケルンのような大都市ほど,再生産年齢人口の割合は高くな?た。1900年に再生産 年齢人口の女子人口における割合は農村で41.4%であったのに対して都市全体では48.3%であり,. ケルンでは51.9回忌あった25㌔すなわち,農村よワも都市で,都市のなかでも大都市で人口の再生. 産に,すなわち出生率に「有利」な人口構成がみられたのである6.  ところが,もう一度,表1のa)で確認すると,19世紀中葉以降,出生率では農村が70年代のわ ずかな期間を除いてつねに優位にあり,80年代以降に都市の出生率の下降が進むなかでその差は次 第に大きくなっている。大都市ケルンの出生率は70年代半ば以降,都市のなかでも高い水準にあり,. 前述のように80年代終わりからの「隆起」を大きな特徴としたが,それでも農村の出生率を上回る ことは70年代の一時期を除いてなかったのである。   ●.  そして,こうした再生産年齢人口と出生率の矛盾した関係は,再生産年齢女子人口に対する出生 数の比率である総出生率に如実に反映された。1900年の死産を含む出産数についてこれを計算する.

(9) 近代都市ケルンにおける人口の自然動態. 39. と,都市全体が137.8%。であったのに対して農村は187.7%・,そしてケルンは149.2%。となった。ケル. ンの総出生率は都市のなかでは高めであったが,農村の値をかなり下回ったのである26)。このこと. は,ケルンでは再生産年齢に属する女性1人当たりの出産数が,農村よりもかなり少なかったこと を意味する。.  このように都市の総出生率が農村に対して著しく小さかった原因として考えられるのが,再生産 年齢人口におけ否未婚者の多さである。,15∼45歳の再生産年齢人口のなかでも,実際に再生産に関. 与したのは婚姻を済ませた有配偶者にほとんど限定されたからである。そもそも都市の再生産年齢 人口は農村から都市への移動人口により膨らむことになったのであり,こうした移動人口の圧倒的. 大多数は,男女を問わず30歳未満の未婚者であった。先に指摘した19世紀中葉以降の再生産年齢 人口における都市の優位の拡大は,人口の国内移動の激化と関係していたのである2り。.  そして,ケルンのような伝統的大都市には,家事奉公人として未婚女性が大量に流入していた。. ケルンで女子の転入者における家事奉公人の割合は,帝制期の終わりにかけて減少の傾向にあった ’とはいえ,1910年にも女子の転入者25,026人のうち14,331人,すなわち57.3%が家事奉公人によ. って占められた28)。こうした家事奉公人の女性たちの多くは,奉公期問を結婚前のある種の修行期 間と考えており,その大部分は転入後数年で帰郷し,郷里で結婚したのである。.  要するに,大都市ケルンでは,再生産年齢人口の膨らみは転出入を繰り返す未婚女性によるとこ ろが大きく,当然のことながら彼女たちは出生率の引き上げに貢献することはなく,逆に算出の際 の分母を大きくすることによって出生率や総出生率を引き下げる結果をもたらしたのである。. (3)婚姻率  19世紀中葉に公刊の始まったプロイセンの人口動態統計にも,人口1,000人に対する婚姻者数の 比率,すなわち婚姻率29)が出生率と死亡率とならべて示されていた。この対人口比として示される. 婚姻率は,今日に至るまで婚姻の動向を知るうえでの最も基本的な指標として用いられている。本. 節では,表1と同様の方法で婚姻率を期間別に整理した表2と,都市ケルンの婚姻率と出生率をな らべて示した図2のグラフを参照しながら,婚姻率と出生率の関係について検討を進めることにす る。  ヒ .  まず表2から,プロイセンの都市と農村では1865年以降,婚姻率でつねに都市が優位にあったこ とがわかる。そして,ケルンを始めとする大都市の婚姻率は都市のなかでもやや高かった。こうし た都市及び大都市における婚姻率の一般的な高さの理由は,結婚適齢期の人口割合の高さにあった と考えられる。20∼29歳を「結婚適齢期」として1900年の人口割合をみてみると,農村で14.4% であったのに対して都市では19.7%であり,ケルンではさらに高く21.9%であった30)。こうした結. 婚適齢期の人口割合における都市と農村の格差は,前述の再生産年齢人口の割合の場合と同様に, 人口移動の激化によって19世紀中葉以降,次第に拡大していったのである31)。. 続いて図2のグラフを参照しながら,ケルンにおける婚姻率の推移の特徴と出生率との対応関係 について考察を進めたい。ここですぐに気がつくのは,第一に,婚姻率にも変動幅の大きな上下の 振動と中長期的な「うねり」を観察できることであり,そして第二に,出生率の持続的下降の始ま る世紀転換期ごろまで,婚姻率の変動は短期的にも中長期的にも出生率の変動とはっきりした同調 関係にあったことである。ただし,両者の変動は完全に同調しているわけではなく,出生率の変動 に多少の「遅れ」がみられた点に注意を要する。.

(10) 40. 棚橋 信明. 表2婚姻率(人ロ1,000人に対する婚姻者の比率) (単位:%。). 期間. 1849∼1852年 1853∼1855年 1856∼1858年 1859∼1861年 1862∼1864年 1865∼1867年 1868∼1871年 1872∼1875年 1876∼1880年 1881∼1885年 1886∼1890年 1891∼1895年 1896∼1900年 1901∼1905年. ケルン. 5大都市. ベルリン. ス均※. 全都市. 全農村. 17.9. 19.5. 14.5. 17.5. 17.1. 20.0. 19.9. 15.9. 19.9. 18.1. 22.3. 19.8. 一. 一. 一. 17.1. @23.8. 19.2. 37.1. 18.9. 17.0. 18.9. 21.9. 18.6. 27.2. 17.7. 16.1. 23.9. 28.7. 24.5. 29.6. 21.2. 18.5. 18.1. 22.9. 20.3. 19.1. 182. 15.3. 18.6. 20.5. 18.7. 19.5. 17.6. 15.0. 20.6. 22.1. 19.6. 19.5. 18.4. 15.0. 18.2. 21.0. 18.5. 21.2. 18.0. 15.0. 21.0. 22.0. 20.0. 23.0. 19.1. 15.5. 20.3. 20.9. 17.9. 20.2. 17.7. 15.1. 17.0. 21.3. エッセン 一. 一. 一. 一. 一. 一. 一. 一. 一. 一. 一. 一r. 幽   」.  註:※ベルリン,ブレスラウ,ケルン,マクデブルク,ケーニヒスベルクの5都市。 出典:P75’, H.48a, Teil 1, S.146;P矯’, H.188, Tei1 A, S.94−104, Teil B, S.106−111;P矯’, H.229, S. XrV;Silbergleit,.   P糊βθηs5云δ4彪, Teil C, S. aO−82,102−107より作成。ケルンについては,ε膠S’01915, S.8−9の統計値を採用。.            図2都市ケルンの婚姻率と出生率(対人ロ・1,000人)  (45.0.  聖   40.0. 35.0. 30.0. 出生率(死産を含む) 25.0. ・姻率(婚姻者の比率). 20.0. 15.0.       ’. A. 10。0.   1835  1840  1845  1850  1855  1860  1865  1870  i875  ユ880  1885  1890  1895  1900  1905. 出典:図1と同じ. 1910(年).

(11) 近代都市ケルンにおける人口の自然動態. 41.  まず,短期的な細かな変動について具体的にみると,1845年,1857年,そして1872年に両者の ピークが,1855年,1861年,そして1895年に両者の落ち込みが完全に一致している。と、ころが,. 1866年の婚姻率の落ち込みは,翌年の1867年の出生率の落ち込みに対応し,それに続く1867∼1869 年の婚姻率のピークは,やはり1年遅れで1868∼1870年の出生率のピークに対応するかたちになっ ている。そして,その直後にみられる両者の落ち込みにも1年の「ズレ」,があることが図2のグラ フから読み取れるのである。.  このような婚姻率と出生率の対応関係からいえるのは,出生率を落ち込ませる要因が同時に結婚 適齢期にある若者たちの婚姻行動を強力に抑制し,婚姻率を急激に引き下げる働きをもったことで ある。とくに婚姻適齢期の若者たちは経済的に不安定な状態にあることが多く,先に取り上げたよ うな食糧価格の高騰と疫病の流行に敏感に反応し,このような時には一時的に結婚を思いとどまる. ことになったと考えられる。そして,図2のグラフにみられるように,婚姻率が「急落」した直後 に反発的に「急騰」しているのは,こうして待機していた若者たちが危機感の解消とともに大挙し て結婚に踏み切だことを示すものといえる。さらに,上記のような婚姻率と出生率の変動の間の「ズ. レ」は,婚姻の強力な抑制はおよそ1年後に出生率の低下を,逆に婚姻率の急激な回復はおよそ1 年後に,第1子の出産による出生率の上昇を引き起こしたことを意味している。  それではつぎに,中長期的な変動の対応関係についてみてみることにしよう。婚姻率の「うねり」’. は以下のような5つの時期区分をもって理解される。まず①1835∼1851年は17∼20%・の問の高い推 移を示す「隆起」の時期,その後②1852∼1866年は,おおよそ14∼17%・の間を推移する「谷間」の. 時期と見なすことができる。そして③1867∼1877年の「隆起」の時期の後,④1878∼1883年の短期 間の「谷間」を挟んで,⑤1884年以降は,90年代初めに比較的小さな落ち込みはあったが,長期の 「隆起」が続くとみることができる。この⑤の時期にケルンの婚姻率は,ベルリンや工業都市エッセ. ンには及ばないものの,大都市のなかでも高い水準にあったことが表2からわかる。  そして,こうしたケルンの婚姻率にみられる「うねり」は,前章で時期区分を示した出生率の「う. ねり」と対比してみると,出生率の持続的下降の始まる1900年以前についてはきわめてよく似た形 をもっており,数年の「ズレ」をもっておよそ重なり合うことがわかる。そして,その「ズレ」は 短期的変動の場合と同様に婚姻率の先行によるものであり,婚姻率の変動におおよそ1∼2年遅れて 出生率が連動しているのである。.  ただし,婚姻直後の第1子の出産による出生率ぺの影響を過大に評価することにも注意が必要で ある。帝制期の終わりまで,ケルンにおける1年当たりの出産児数は,婚姻件数の3∼4倍であり, 当然のことながら,第2子以降の出産の方が出生率においては大きな比重をもった。したがって,. 婚姻率と出生率の同調については両者に同じ要因が作用していたことは確かとしても,変動の「ズ レ」については,こうした要因の具体的な作用の仕方を含めさらに慎重な検討が必要となろう。ま. た,1900年以降にも婚姻率が好調であったにもかかわらず,出生率が急激に下降している点にも注 意を要する。これには,次節で取り上げる配偶者間に生まれる子ども数の問題が関係することにな る。. (4) 「ヨーロッパ的婚姻様式」の変化と有配偶者率・婚姻出生率 16世紀ごろよりドイツを含むヨーロッパ社会は「晩婚」ど「非高高」を大きな特徴とし,これに よって出生力に対する「抑制」が働いていたとされる。そして,このような「ヨーロッパ的婚姻様.

(12) 42. 棚橋 信明. 式」は1940年ごろまで,すなわち人口転i換の開始後も基本的に維持されたとされる32)。本節でまず. 問題となるのは,都市ケルンでこのような婚姻様式に19世紀中葉以降どのような変化がみられ,そ れが出生率の変動とどのような関わりをもったかである。. 表3は,1885年,1900年,そして1910年の各年齢区分における男女の未婚率を整理したもので ある。この表により,1885年以降の婚姻年齢の変化をおおよそ把握することが可能である。また,. この表における45∼49歳の未婚率は,「生涯独身率」のおおよその指標として利用できる靴そし て表4は,15歳以上の人口における有配偶者の割合を整理したものである。この有配偶者率は,実 際に再生産に関与できる人口割合を意味するもので,未婚率や戯訓独身率に対応して変化したはず である。ここではこれら2つの表を参照しながら,都市ケルンの婚姻年齢,生涯独身率,そして有 配偶者率それぞれの変化を出生率との関係において検討していく。. 表3においてまず指摘できるのは,29歳までの結婚適齢期の未婚率は男女とも農村よりも都市で 高く,ケルンのような伝統的大都市では未婚率がいっそう高くなる傾向にあったことである。帝制. 期終わりの1910年について21∼29歳の女子について計算してみると,この年齢層の未婚率は農村 で44.1%であったのに対して都市では49.1%となり,ケルンではさらに高く55.3%になった3の。ま. た,生涯独身率も農村よりも都市で明らかに高く,とくに大都市ケルンの生涯独身率は,男女とも にベルリンを凌ぐきわめて高い値を示している。大都市ケルンの未婚者に関する統計は, 「ヨーロ ッパ的婚姻様式」の特徴であ.る「晩婚」と「非皆伝」をきわめて顕著に体現しているのである。.  こうした結婚適齢期の未婚率と生涯独身率に対応して,有配偶者率は農村に対して都市で低くな り,都市のなかでも伝統的大都市においてさらに低くなるのが一般的であった。表4にあるように,. 1910年に15歳以上の女子における有配偶者率は,農村で56.3%であったのに対して都市で50.7% であった。この年のケルンの有配偶者率は,男女とも都市全体をやや上回る水準にあったが,これ は先に指摘した世紀転換期ごろの婚姻率の好調を反映したものと考えられる。いずれにせよ,ケル ンやベルリンのような伝統的大都市では,女子においては未婚の家事奉公人の流入が有配偶者率を 強く引き下げる働きをしていた。.  以上みたような都市における「晩婚」,高い生涯独身率,そして低い有配偶者率は,いずれも出 生率には「不利」な条件であった。とくに女子についての「晩婚」は一生涯に出産できる子どもの 数を制限することになり,また,高い生涯独身率と低い有配偶者率は男女にかかわらず,それだけ 人口の再生産に関与しない者が多くを占めていたことを意味する。先に指摘したように,出生率に おいて農村がつねに優位にあった背景には,こうした「婚姻様式」に関する「不利」な条件が都市 では働いていたのである。.  ここで疑問となるのが,このような「不利」な条件を抱えながら,なぜケルンの出生率が1889∼ 1902年の時期に農村とそれほど変れらない高い推移を維持することができたかである。もちろん, この時期の高い婚姻率が,出生率を引き上げる働きをしたことも確かであるが,先に指摘したよう. に婚姻率は婚姻直後の第1子のみにより出生率に影響を与えるものであり,婚姻率のみでは十分な 説明にならない。.  まず注目すべきは,表3で確認できる1885年以降の未婚率の急激な後退,すなわち「早婚化」の 進展である。1885∼1900年の間にケルンでは20∼29歳の女子の未婚率は67。1%から58。1%へ,同 じく男子の未婚率は82.1%から73.1%へ低下しいる35㌔この時,プロイセン全体でも「早婚化」は. 進展していたが,ケルンにおけるそのスピードは,プロイセン全体と比較レても,また,ベルリン.

(13) 43. 近代都市ケルンにおける人口の自然動態. 表3未婚率(各年齢グループにおける未婚者の人ロ割合) [女子]. ベルリン. ケルン 20∼24歳※・. 25∼2♀歳. 45ん49歳 i生涯独身率). 20∼24歳※. 25∼29歳. 45∼49歳 i生涯独身率). 1885年. 81.8. 50.7. 18.9. 78.5. 46.2. 12.1. P900年. V3.3. S0.2. P4.2. V4.5. S2.6. P2.4. P910年. V2.6. R7.1. P4.3. V0.6. S1.5. P3.8. (単位:%). 全農村. 全都市 20∼24歳※ 一71.866.8. 25∼29歳 一36.834.9. 45∼49歳. i生涯独身率) 一12.213護. 20∼24歳※ 一68.661.マ. 25∼29歳 一30.728.2. プロイセン全体 45∼49歳 i生涯独身率) 一8.38.7. 45∼49歳. 20∼24歳※. 25∼29歳. 74.8. 36.6. 9.9. V02. R3.7. P0.0. U4.4. R1.8. U.6. [男子]. i生涯独身率). 2. ベルリン. ケルン 20∼24歳※. 25∼29歳. 45∼49歳 i生涯独身率). 45∼49歳(生涯独身率). 20∼24歳※. 25∼29歳. 1885年 P900年. 95.2. 62.8. 13.6. 94.1. 58.4. 9.4. X0.5. T12. P0.4. X2.0. T3.8. U.9. P910年. W7.8. S8.0. P0.5. X0.1. T5.3. X5 (単位:%). 全農村. 全都市 20ん24歳※ 一91.990.1. 25∼29歳 一48.849.3. 45∼49歳 i牛涯独身率) 一8.78.2. 20∼24歳※ 一88.386.1. 25∼29歳 一46.146.5. プロイセン全体 45∼49歳 所U独身率) 一8.38.2. 25∼29歳. 92.3. 51.2. 8.1. X0.3. S7.4.. W.5. W8.4. S8.0. T.4. 註:※1910年については21∼24歳の値。 出典:P名S’,H.96, S.80−109;P名S’, H.177, S.154−191,246−261;.翫5’, H.234, S.136−181;5げB5’C1915, S.6より作成。. 表4有配偶者率(15歳以上の有配偶者の人ロ割合) (単位:%). [女子]. ケルン. ベルリン. 1861年※. 40.9. 42.2. P885年. S2.1. S6.5. P900年・. S8.1. S73. P910年. T1淫. S8.7. 全都市 =49.150.7. 全農村 =55.356.3. プロイセン. @全体  50.1. @51.1 @52.4 (単位:%). [男子]. 全都市. 全農村. プロイセン. ケルン. ベルリン. 1861年※. 43.7. 42.5. P885年 P900年 P910年. S4.5. T1.2. T1.3. T1.7. A58ゆ. T5.3. T4.9. T3.7. T7.5. T5.7. =52.053.9.  =. @全体 52.5 T4.2.  註:※1861年については14歳以上の年齢層についての割合。 出典:P7S’, H.5, S.146−147;P名5’, H.96, S.80−109,P7S’, H.177, S.154−191,.    246−261;P名5’,H.234, S.136−181;&α’∫s∫fsc加s力〃δ%魂1)6漉∫6舵γ5絃4詑    (以下翫びB1)’3’と略記),Jg.20, S.74−83;3〃B5’C 1915, S.6より作成。. 45∼49歳. 20∼24歳※. i牛涯独身率).

(14) 44. 棚橋 信明. など他の大都市と比較してもかなり急激であったことが表3からわかる。そして,表4からは,之 のr早婚化」に対応して有配偶者率も急激に拡大していったことがわかる。.  それでは,このような「早婚化」はなぜ生じたのであろうか。その原因の一つとして考えられる のが,80年忌以降に婚姻適齢期の転入者が急増したことである。その契機となったのが都市ケルン の領域拡張であった。ケルンでは1881年6,月・に,それまで市街地を取り囲んでいた中世以来の市壁. の撤去が始まった。そして,「新市街(Neustadt)」の開発が本格化ずる80年代半ばより転入者の 増加が目立っようになる。80年代前半に年間20,000人程度であったケルンへの転入者は,80年代 終わりには35,000人を超えるようになる。人口の社会増加数も1881∼1885年に年平均で2,100人程. 度であったのが,1886∼1890年には6,800人にもなった。さらにケルンでは,1888年11月に近隣 の7ゲマインデを編入する大規模なゲマインデ合併が実施された。これにより,ケルンの市域面積 は1,006haから11,106 haへとおよそ11倍に拡大した。このような市域の拡大も手伝って90年代以 降もケルンへの転入者は増加を続け,90年代半ばには年間およそ40,000人の規模になる36)。.  こうして増大する未婚の転入者たちは出身地である近隣農村の「早婚の習慣」を持ち込み,結果 的にケルンの「早婚化」を促進したと考えられる。また,1888年に実施された大規模なゲマインデ 合併は,編入地域の住民約85,600人とともに郊外の農村的習慣である「早婚」をそのまま取り込む ことになった。こうして促進された「早婚化」が,前節でみた高い婚姻率の維持とともに1889∼1902. 年のケルンの高い出生率の背景にはあったのである5.  それではこの間に,配偶者間に生まれる子ども数に大きな変化はなかったのであろうか。要する に, 「早婚化」にともなう有配偶比率の拡大が,出生率に直接的に結びついていたのかどうかが問. 題となる。そこで,表5により有配偶者数に対する嫡出子出生数の比率,すなわち「婚姻出生率」 の変化をみてみよう。これまで扱ってきた単純な対人口比による出生率は,人口の再生産に関与し ない有配偶者以外の人口にも大きな影響を受けるものであったが,この婚姻出生率はこうした影響 を排除したものであり,これにより配偶者間に生まれる子ども数の変化がわかるはずである。この 表においてまず確認できるのは,1861∼1900年にケルンの婚姻出生率にほんのわずかな変化しかな かったことである。したがって,この間の有配偶者率の拡大が出生率の上昇に直接的に係わったこ とは間違いないといえる。.  そして,表5においてつぎに確認されるのが,ケルンにおける1900∼1910年の婚姻出生率の急激 な降下である。このような降下は,配偶者間に生まれる子どもの数が大きく減少したことを示すも ので,ここにきて意識的な産児制限が本格的に始まったことを示唆している。表3と表4からは, 「早婚化」と有配偶者率の拡大は1900年以降も減速しながらではあったが継続していることがわか. る。それにもかかわらず人口転換の指標となる出生率の持続的降下が始まったのは,子ども数の減 少が急激に進んだからにほかならなかったのである。.  また,表5では,プロイセン全体とベルリンとの比較が可能である。ケルンの婚姻出生率は1900 年虚ろまでプロイセン全体とそれほど変わらない水準にあったが,ベルリンの婚姻出生率の下降は かなり早くから始まっていたことがわかる。表2に示されるようにベルリンの婚姻率がケルンより. もつねに高い推移を示し,また表3と表4からベルリンでも「早婚化」の進展による有配偶者率の 拡大がみられたにもかかわらず,80年代以降の出生率の下降がかなり顕著であったのは,婚姻出生 率の下降に大きな原因があったのである。このような比較から,ケルンは配偶者間に生まれる子ど も数の減少についても,それほど先進的ではなかったことがわかる。.

(15) 45. 近代都市ケルンにおける人口の自然動態. 表5婚姻出生率(有配偶者1,000人に対する死産を除く嫡出子出生数の比率) ケルン. 1861年※. P885年. 有配偶. 嫡出子. メ数. o生数. プロイセン全体. ベルリン 環:i姻∴. p叢. 有配偶. 嫡出子. メ数. o生数. ・、・. ・姻・. ヘ購…. 有配偶. 嫡出子. メ数. o生数. .婚:’姻. A、出生率・『㈱・・;. 32,980. 3,646 i.雛⑳・. 79,577. 159,154. …;i鐙7,4:…. 6,118,276.  683,726. :∫;・ユ1工8・:. S9,452. T,115. P擁¢3三4:』. Q29,981. S59,962. ^i:$5;1=. X,592,214. P,017,296. A、,1◎6江1. P1,955,782. P,182,121. Fi;:『:;98診1. P4,323,808. P,125,001. 凵諠}&S:. P900年. P28,002. P2,639. Fi::i鰍7:. P910年. P89,790. P3,226. o:≧i……β§ク1. R50,516. V01,032. `:…i.β◎L71. S03,484. W06,968. P・;}…;・i・藏4:1.  註:※1861年の「嫡出子出生数」は死産を含む出産数。「婚姻出生率」もこれで計算。 出典:.蝕S’,H.5, S.2,15,146−147,162−6$;.磁S’, H.96, S.80−109;P矯’, H.177;S.154491,246−261;ルS’, H.188, Teil   B,S.16−21;P名S’, H.234, S.136−181;S坦Z)ホ5’, Jg.20, S.74−83;5塀ε’C.Z915, S.6,8−9;SilbergleiちP名%βθ窩5励θ,.   Teil C, S.78−97より作成。. 3.死亡率変動の諸要因 続いて本章では,死亡率の変動に作用したと考えられる要因として,疫病と食糧価格の高騰,死 産率,乳幼児死亡率,そして死因別死亡率の4つの問題を取りあげる。ここでの考察も,これらの 要因が死亡率の変動とどのような関係にあったのかを,統計資料に基づき解明することに限定され る。. (1)疫病と食糧価格の高騰  ここでは,とくに死亡率の「急騰」に対して,疫病の流行と食糧価格の高騰がどのような関わり をもったのかについて検討を行う。図1で死亡率に大きな「急騰」が認められるのは,1849年,18671 年,そして1871年であるが,「これらの年にはいずれも大規模な疫病の流行が確かにみられた。  まず,1849年にケルンの死亡率は,前年の26.1臨から43.7%・へと激しい「急騰」をみせ,この年 の出生率42.1%・を上回った。 「急騰」の原因は6∼11月に発生したコレラの大規模な流行であり,. 2,761人がこれに感染し,そのうち1,274人が死亡している。ケルンにおける死産を除く死亡者は前 年の2,248人から3,755人に急増したが,前年からの増加分のほとんどがゴレラによるものであり, コレラによる犠牲者はこの年の全死亡者の33.9%までを占めた3の。.  つぎに1867年については,前章の(1)ですでに指摘したようにコレラとチフスの流行があった。. とくにコレラはこの年の1∼3月と6∼10月の2回にわたってケルンを襲い,死亡率の「急騰」の大 きな原因になった。コレラによる犠牲者は合計で601人に上り,1867年の死産を除く全死亡者4,090 人の14.7%を占めた38)。また,前述のように,1867年は前年から始まっていた食糧価格の高騰期に. 当たっており,食糧事情の悪化がとくに貧困層に栄養状態の悪化や体力の減退をもたらし,コレラ のみでなく他の病気による被害の拡大もまねいたと考えられる。.  そし」(1871年には,前年から流行の始まった天然痘とチフスが猛威をふるい,なかでも天然痘の. 罹患者は2,450人にも達した6この病気による正確な死亡者数は不明であるが,乳幼児を中心に多 くの犠牲者を出したとものと考えられる。そのうえ,1866年に始まった食糧価格の高騰もまだ続い. ており,この時にも全体の死亡率の引き上げに貢献したはずである。また,1871年には前年からの 対フランス戦争の影響もみられ:軍人の戦病死者144人もこの年のケルンの全死亡者4,698人に含 まれた39)。.

(16) 46. 棚橋 信明. ケルンではこれ以降も,おもに乳幼児に関係する麻疹や狸紅熱の流行が頻繁に繰り返され,後で 述べるように,乳幼児の感染症による死亡率を時おり強力に引き上げた。しかしながら,公衆衛生 におけるさまざまな施策や医療の発展が次第に功を奏し,全体の死亡率を「急騰」させるような大 規模な疫病の流行は,これ以後はみられなくなった。.  (2)死産率  第1章の最初に述べたように,帝制期までの入口動態統計では死産を含めた出生率と死亡率が多 く用いられたが,それは人口動態を結果として死産に終わることもある「出産」のレベルから把握し ようとしたもの℃あり,また,死亡率との関係では,当時,死産も人口の重大な損失をもたらす「死. 亡原因」の一つと見なされていたことによる。いずれにせよ,本稿で扱う死亡率には死産が含まれ ることから,死亡率に作用した要因の一つとして出産数1,000に対する死産率に関してここで検討 .しておきたい。.  表6は,その死産率に関して期間別の平均値を整理したものである。先に参照した死亡率に関す る表1のb)との対照により,一見して死産率の全般的な動向は死亡率と多くの類似点をもっている ことがわかる。しかしながら,よく観察をすると都市における死産率の持続的下降は死亡率とほぼ 同時期の70年半後半に始まりながら,下降の速度はより急激であったことがわかる。こうしたなか,. 大都市の死産率の下降はさらに顕著であり,そのなかでケルンの死産率は70年代後半以降,5大都 市の平均値を大きく下回る推移を示していることが目につく。このようなケルンの死産率の推移は,. 死亡率とは大きく異なる特徴として指摘できる。第1章の(2)で確認したように,ケルンの死亡率 の下降は都市全体のなかでも遅れ気味であり,とくに80年代以降の高い値によって特徴づけられた からである。.  他方で,ケルンにおける死産率の変動には死亡率とのかなりの同調を見てとることができる。つ ぎに都市ケルンの死産率と死亡率の推移をならべて示した図3のグラフを参照しながら,この点を 確認してみよう。このグラフをみてまず気がつくのは,死産率にも変動幅のきわめて大きな上下の 振動があったことである。変動幅が死亡率よりもかなり大きく出るのは,出産数という人口に対し てかなり小さな値を分母としているからである。いずれにせよ,死亡率が「急騰」した1849年,1867. 年,そして1871年には,死産率にも「急騰」を確認することができる。そのほか死亡率の比較的小 さな「突起」についても,多くの場合,死産率にその対応を認めることができる。前節でみたよう. な死亡率を「急騰」させた原因である疫病の流行や食糧価格の高騰は,母胎とともに胎児をも危険 にさらすことになったのであり,死産率を大きく引き上げる作用を及ぼしたと考えられる。  そして,死産率の中長期的な変動についても死亡率とのおおよその同調を認めることができる。 死産率の「うねり」を「 V0年代後半の持続的下降の開始までについて整理すると,①1835∼1844年. は40%・をつねに上回り,頻繁に50%・を突破する「隆起」の時期,②1845∼1863年は,1848∼1849. 年を例外として30∼40輪の間を推移する「谷間」の時期,そして③1864∼1881年は再び40∼50%。 の間で変動する「隆起」の時期とみなすことができる。このような時期区分は,第1章の(2)で整 理した死亡率の「うねり」とおおよそ重なることになる。これは死産率の中長期的な変動について も,死亡率と同じ要因が働いていたことを示唆している。         .     、.  以上のように70年代までについては,死産率と死亡率の変動にはっきりした同調関係を認めるこ とができるが,図3のグラフをみると,その後の両者の変動には大きな齪擁が生じていることがわ.

(17) 近代舞市ケルンにおける人口の自然動態. 47. 表6死産率(対出産数1,000) (単位:%。). 期間. ケルン. ベルリン. 1850∼1865年 1866∼1875年 1876∼1880年 1881∼1885年 1886∼1890年 1891∼1895年 1896∼1900年 1901∼1905年. 35.3. 45.2. 5大都市 ス均※1. 全農村. エッセン. 全都市. 一. 43.2. 40.0 39.7※2. 一. 44.9. 43.2. 44.7. 44.8. 42.7※2. 37.2. 38.8. 39.4. 51.8. 41.4※3. 41.2※3. 36の. 38.8. 38.3. 52.5. 40.1. 39.2. 31.3. 35.0. 34.9. 40.3. 36.8. 37.5. 27.3. 30.4. 33.4. 319. 33.8. 31.1. 313 353. 33.6. 31.4. 32.2. 32.5. 284. 35.6. 31.8. 27.9. 一. 一.  註:※1ベルリン,ブレスラウ,ケルン,マクデブルク,ケーニヒスベルクの5都市。    ※21866∼1874年の平均値。    ※31875∼1880年の平均値。 出典:助脇S’C1915, S.8−9,19;Silbergleit,.P糊βθ螂S孟δ伽, Teil C, S.98−133;.PzS’, H.48a, Tei11, S.31,40;.彫S’, H..   188,Teil A, S.28;Wol亀ang K6Umann(Hrsg.),(吻〃θ〃2%7 Bθ”σ疏θ鰯㎎s一,502∫αム吻4既漉oh幽s励s’魏   1)6跳。ぬ如〃ゐ4815一{875Bd.1:(吻JZθπ之πプB⑳δZゐθ鰯㎎3吻あs励1)θ鳩。海勉〃ゐ1815イ875, Boppard am Rhein.   1980,S.190より作成。.       図3 都市ケルンの死産率と死亡率(対出産数1,000及び対人口1,000人)  (60.0.  愉 一繭繭一. ?産率. E……. ?亡率(死産を含む). 、.   50.0. 40.0.      ::. @    ご: @    ::.    三   5f㌦ 5. @   :: @   :: @   ::. 「八八. Y㌦  み ’:’㌧ ハ :・. ‘、. 30.0. @..  c     ’            、 、.. ㌦ ノ ド :、㍉’ ・::   ,   て :∴    ㍉     、・. ・ ∴ ’、’= }  、     , 覧   ゆ  、 ,       亀     、. h        ㌦“     ㌧!        ∵.  、   8、 @’ …     ’   」   、              ● ’ 、 、. C・ノ   、 ∴ノ ■    亀       、噂. @    ゾ. @    ゾ. @. 鴨 ● 、. @       、6 ・          P          噂. 20.0. ∵’、. 覧マ. へ ∼、. 100   1835  1840  1845  1850  1855  1860  1865  1870  1875  1880  1885. 出典:図1と同じ。. 18901 P895 1900 1905 1910(年).

(18) ,48. 棚橋 信明. かる。前述のように,ケルンの死産率は70年代後半に急激な後退を開始したが,その後退は90年 代に入って停止し,90年代半ばには一時的な上昇をみせている。そして,世紀転換期以降も比較的 高い水準を維持する。このように90年代以降,死亡率の順調な下降に対して死産率ははっきり異な る動きをみせるのである。.  このような死亡率と死産率の推移の間にみられる運輸は,9表5からベルリンなど他の大都市にお いても顕著であったことがわかるが,とくに大都市で死産率の後退が停止したのはなぜであろうか。. その原因の一つとして指摘できるのが,大都市に共通の現象でもあった婚外子の増加である。嫡出 子と婚外子の出産を比較した場合,婚外子における死産率が圧倒的に高かったのである。たとえば,. ケルンにおける1901∼1905年の平均値で比較すると,嫡出子の出産で26.8%6であった死産率が,婚 外子の出産では41.0%σと1.5倍以上になる40)。こうした婚外子における死産率の高さには,結婚で. きずに出産を余儀なくされる女性たちが直面したさまざまな悪条件,とくに栄養面や医療給付にお ’ける不利な条件が関係したと考えられる。ケルンでは90年代前半の1891∼1895年に婚外子の全出 産数における割合は10.2%であり,この期間に婚外子の死産は死産全体の13.1%を占めたが,世紀 転換後の1901∼1905年には婚外子の全出産数における割合は11.5%とやや増加し,婚外子の死産に 占める割合は16.6%とはっきりした増加が認められる41)。婚外子の増加は必然的に死産率の引き上 げにつながったのである。.  また,こうした死産率の動向を理解するには,通常の死亡とは異なる特殊な事情を考慮する必要 がある。90年代後半からの死産の増加には,妊娠中絶による「人工死産」も関与していたと考えら れるのである。ところが,19世紀の人口動態統計では自然死産と人工死産が区別されることはなく,. 人工死産の動態を把握することは不可能である。19世紀を通じて,妊娠中絶は医師による医療圏措 置に法的に厳しく制限されるようになっていったが,非合法な「堕胎」による人工死産を廃絶する ことは容易でなかった。とくに,貧困層において「堕胎」は,子ども数を調整する安易な手段とし て広く利用され続けたといわれる42)。したがって,前述のような婚外子における高い死産率はもと. より,70年代まで頻繁にみられた死産率の「急騰」にも,「堕胎」による死産が関与していた可能 性があるのである。.  結局のところ,死産の死亡数全体に占める割合は,ケルンでは19世紀中葉以降,おおよそ4∼6% の間を緩やかに上下動するのみで,この割合は死亡率の「急騰」期にとくに大きくなることも小さ くなることもなかった。すなわち,死産率の変動により死産を含んむ死亡率が大きく左右されるこ とはなかったのである。それでも,死産は死亡率をつねに下支えするという意味において一定の影 響力をもち続け,前述のような90年代以降の死産率の上昇は,死亡率の下降を遅らせる作用を及ぼ したことも確かといえる。. (3)乳幼児死亡率  前近代の社会において,5歳未満の乳幼児の高い死亡率が全体の死亡率を大きく引き上げ,平均寿 命.を縮める働きをしていたことはよく知られている。環境に対する適応能力や体力に劣る乳幼児は,. さまざまな病気に罹患しやすく,成人に比べて容易に生命の危険にさらされたのである。したがっ て,出生児1,000人に対する1歳未満の「乳児」や0∼4歳の「乳幼児」の死亡率は,国や地域の公 衆衛生や医療のレベルを計る重要な指標として今日でも広く利用されている。. 表7は,1歳未満め乳児の出生児1,000人に対する死亡率に関して,表1と同じように期間別の整.

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