はじめに 人々の和式居住に欠かせない物の一つに 畳がある。その畳は、「稲わらを重ねて糸 で刺し固めた畳床に藺草で編んだ畳表をつ けて、黒・茶・緑などの布のへりをつけた もの。古くは人のすわるところだけ敷いた が、室町時代から敷きつめになった。」(1)と 言われている。 この畳について「天保十三年四月諸色直 段引下ケ調帳」(2)には以下のようにある。 【史料 1】 一上備後新表壱畳刺代 是迄壱匁五分已来壱匁弐分 一中備後新表壱畳刺代 是迄壱匁弐分已来壱匁 一両様とも直し表壱畳刺代 是迄壱匁已来八分 一近江・小田井とも壱畳刺代 是迄九分已来七分五厘 但直し表とも 一琉球表無縁一畳刺代 是迄八分已来六分 【史料 1】は元々各種の畳表の畳刺料を規 定している。だがそれ以上に当時の尾張藩 内で使用されている畳表が備後表、近江表、 小田井表、琉球表と種類がわかり、この「小 田井」こそが小田井表である。 本稿は、濃州と名古屋との水運の点から、 この小田井表が和宮下向時に中山道赤坂宿 で使用された事実を、その経緯を踏まえな がら紹介したい。 1.小田井表 小田井(江戸時代は上、中、下の 3 村に 分かれていたが今回は下小田井村であり、 以前は愛知県西春日井郡西枇杷島町の大字 であったが、現在は清須市西枇杷島町の一 部になっている)は、江戸時代三大市場の 1 つとされた「下小田井の市」で尾張名古屋 の台所を支えていたことで知られていると ころである(3)。畳表の生産のはじめは寛保 年間(1740 年代)とも安永年間(1770 年代) ともいわれ、半左衛門というものが溝やあ ぜに自生する藺草を利用し、さらに水田に 移植して本格的な生産がはじまった、(4)と みられている。 「安永年間本邦萬姓司記」(5) には「一、畳 表之名所 小田井 前津 此外山形郡より 多出る」とあり、生産地は小田井だけでは ないようだが、どうも小田井を代表として いるようだ。『尾張名所図会』(6) では、下小 田井村に「名産畳表」としてこの小田井表 を取り上げているものの、他所での生産は 記されていない。さらに、1831 ∼ 1832 年 (天保 2 ∼ 3 年)刊行の名物番付の「鯱名物」 (7) にも前頭にその名を載せる。 【歴史・民俗】
船で運ばれた尾張名産小田井表
−和宮下向時の中山道赤坂宿の場合− 清須市立古城小学校 教諭 半田 実こうしてみると、小田井表は尾張名産と いえる。 2.尾張藩の触書 次の史料から、尾張藩の触書にも小田井 表の名が載せられていたことがわかる。 【史料 2】(8) 和宮様御下向ニ付、中山道宿々仮建取斗筈 ニ付、右仮建入用之左之品々、来月中旬迄、 夫々他所売指留候筈ニ候間、村々之内右商 売之者えハ厳敷指留、猶締筋之儀宜取斗候、 右之趣不洩様可相触旨、御勘定奉行衆被申 聞候間、此段承知之上刻付を以先村へ相廻 但、此筋迄ニ売方引合、手附金請取候分 ハ、早々金子差戻し、売方為相断候様可 致候 一戸障子 一貫棰板持 一苫 一杉丸太 一四分六分板 一釘 一屋根板 一小田井表紺黒縁新床畳 一琉球無縁新床畳 一小田井表紺黒縁取 一琉球無縁六敷 一小田井表琉球表 (文久元年)九月十六日 夜 小牧御陣屋 これは、和宮様御下向をひかえ、中山道 宿々では普請が行われるために用材を来月 中旬迄の間、他所へ販売しないよう厳命す るものである。さらに遡って金子を戻し契 約を断ることまで求めている。その品物と は、戸障子・杉丸太・四分六分板・釘・屋 根板などの建材の他に小田井表紺黒縁新床 畳・琉球無縁新床畳や小田井表琉球表等で ある。 これによれば、和宮下向関連事業に小田 井表等を優先的に廻す事がわかる。 次に、その和宮中山道通行を確認してみ たい。 3.和宮中山道通行 幕末期、幕府と朝廷との関係改善を図り、 尊皇攘夷運動をかわすために 14 代将軍徳 川家茂と孝明天皇の妹和宮との政略結婚が 井伊直弼らによって画策され、1860 年(文 久 2 年)2 月に実現することになった。幕 府は和宮の下向にあたり、文久元年 8 月に 沿道諸藩に警衛を命令した。一行は 10 月 20 日に京都を出発し、中山道を江戸へ向 かった。行列は警固や人足を含めると総勢 3 万人にも上り、その長さは 50 キロメー トルにも及んだとされる(9)。 和宮の赤坂宿泊(10 月 25 日)が決まると、 通りの景観を整えるために、古い家が建替 えられたり、空地に新しく家が建てられた りした。宿西入口甲塚の御使者場より東入 口抗瀬川土橋東の御使者場まで、この間往 還南側 84 軒・北側 85 軒のうち約 3 割にあ たる 54 軒(7 軒は矢橋勝三郎空地に新築) が建替新築されている。この普請が命令が 出されてから僅か 2 か月で完了したことを 考えると、いかにたいへんなことであった かは容易に想像できる。これが世に言う 赤坂宿の「お嫁入普請」である(10)。これは、 赤坂宿矢橋家文書「文久元酉十月新建家作 積り直段書」(11) によれば、此坪〆 846 坪 5 分 8 厘、壱坪ニ付代銀 94 匁 2 分 2 厘 6 毛、 代〆銀 79 貫 769 匁 4 分 5 厘、此金 1329 両 1 分 2 朱と銀 6 匁 9 分 5 厘板屋与三治代源 助・材木屋惣兵衛代弥市が矢橋惣太郎・御 役人御側衆中から受け取っている。この両 者は尾張名古屋の商人である。 こうしてみてみると、この「お嫁入普請」 に尾張藩が相当関わっている事がわかる。 その中で【史料 2】に抵触した事例が次の史
料である。 【史料 3】(12) 乍恐奉願上候御事 私儀、従来畳職渡世仕来申候、付てハ今般 和宮様御通行ニ付、大垣表藤屋九八より畳 数三百帖、赤坂宿矢橋宗太郎・同亦市より 千百弐拾壱帖半注文請取置既出来仕候付、 積送り申度存居候折柄、今般畳他所売御差 留相成、手附金等請取置候分ハ可差戻旨御 触流相成奉畏候、然処右畳之儀は急入用ニ 付、去ル七月彼地より注文請候間、其砌小 前之者えも夫々手間賃相渡出来為仕候儀ニ 付、只今ニ至り手附金可差戻儀、甚以難渋 仕候得共、前顕御触之趣も御座候付、色々 と繰合手附金先方江差戻候処、彼地之者申 聞候ニハ、先般出来方慥ニ引受罷在候ニ付、 手附金請取不申旨申居り、必至当惑仕候、 付ては今般御奉行所より畳職之者共江夫々 取急キ御用向被仰付、いづれも昼夜之無差 別頻リニ取懸り罷在候間、私儀千五百帖丈 ハ、今般急度御間ニ合せ可申上候間、右大 垣表より注文之分兼て出来仕居候千四百余 帖之儀、何卒彼地江今度積送り方御聞済被 成下候様、只管奉願上候、左候ハヽ、数年 来得意先之儀、先方おゐても相歓私おゐて も重々難有仕合奉存候、以上 正万寺町畳屋 酉 豊七 九月 御勘定御奉行所 今回和宮様の御通行による事で、大垣表 の藤屋九八より畳数 300 帖を、赤坂宿矢橋 宗太郎同亦市より 1121 帖半の注文があっ た。これらの畳は既に出来上がり、船積で 送り届けようとしたところ、今般畳他所売 御差留になった。 火急の御用を仰付られ た 1500 帖丈は、急度間に合せますので、 今回大垣表より注文之分の畳 1400 余帖は、 どうぞ彼地まで船積送りを御許し願いたい という名古屋の畳屋上田豊七より勘定奉行 に宛てた願い状である。 願い状どおり畳は納品されたことを、次 に述べる。 4.小田井表の納品 この件については、中山道赤坂宿本陣矢 橋家文書によって詳細がわかった。 【史料 4】(13) 送り状之事 船附迄運賃 〆七拾貫九拾文 一新畳 千百廿壱帖半 ㊞ 〆 右之通積入申候間、入津之砌改御請取可被 下候、尤運賃御払可被下候、以上 酉十月十二日 名古屋正万寺町 上田屋豊七㊞ 濃州赤坂宿 矢橋宗太郎殿行 (㊞は、尾州・正万寺町・上田屋豊七・ 壱丁目の印文) これによれば、名古屋正万寺町上田屋 豊七で作られながら留められていた新畳 1121 帖半は、10 月 12 日になって、濃州三 湊のひとつである船附まで船で名古屋から 赤坂宿矢橋宗太郎宛てに運ばれたことにな る。 この畳表の種類や価格等の詳細がわかる のは次の史料である。
【史料 5】(14) (1) 覚 末と一ツ也 六壱 弐貫四百四拾匁 新畳 内 小田井表 紺縁付 三百帖ハ琉球表ニ相替リ申候 四百帖 〆 右当月十五日出来 内金五両申受 ㊞ 酉 八月朔日 上田屋豊七㊞ 矢橋宗太郎様 (2) 覚 末と一ツ也 新畳 四貫九百弐拾四匁五分 小田井表 紺縁付 七百三畳半 〆内金四拾五両受取 ㊞ 酉 九月八日 上田屋豊七 ㊞ 矢橋又市様 (3) 覚 一 新畳 小田井表 七百三帖半 紺縁付 代四貫九百弐拾四匁五分 一 右 同断 百帖 代六百拾匁 五匁五分五厘がへ 一 同 琉球表付 三百帖 無縁り 代壱貫六百六拾五匁 〆七貫百九拾九匁五分 此金百拾九両三分 十四匁五分也 内金 五拾両申受候分 ㊞印 引テ〆六拾九両三分十四匁五分 右之通り受取申候 外ニ 金弐朱 車力 酒代申受 酉 十月十二日 上田屋豊七 矢橋宗太郎様 矢橋 又市様 (3)は(1)と(2)を合わせたものである。 これによれば、先ず新畳 1121 帖半は 1 度 に出来た訳ではない。8 月 15 日までと 9 月 8 日までとの 2 回に分けられ作られ、10 月 12 日には全額の支払の上、船積みされ て運ばれたことがわかる。畳の種類は 8 月 分の 400 畳のうち 100 畳が小田井表で作ら れ、残り 300 畳は急遽琉球表で作られた。 それぞれ単価は小田井表(紺縁付)なら銀 6 匁 1 分であり、琉球表(無縁り)なら銀 5 匁 5 分 6 厘であった。5 両を前金で受け取 り全額は銀 1 貫 665 匁になった。9 月 8 日 までの分は 703 畳半で全てが小田井表(紺 縁付)で、単価は銀 7 匁となった。金 45 両を前金で受け取り全額は銀 4 貫 924 匁 5 分になった。1 ヶ月以上過ぎた 10 月 12 日 には新畳 1121 帖半は銀 7 貫 199 匁 5 分で 此金 119 両 3 分 14 匁 5 分となり、内金 50 両を引いて 69 両 3 分 14 匁 5 分を酒代(2 朱) も合わせて受け取ったことがわかる。 さらに、上田屋豊七差出の 2 通がある。 【史料 6】(15) 覚 一金壱両三歩ト壱匁五分 ㊞
右之通慥ニ請取申候 十二月三日 上田屋豊七 ㊞ 矢橋 亦市 様 同 惣太郎様 【史料 7】(16) 差上申一札之事 一今般御注文相成申候御畳船積仕候、代銀 御渡し相成慥受取申候、付ては寸尺違并算 用違等御座候節ハ追て勘定申上候、其為一 札如件 文久元酉十月 上田屋豊七㊞ 矢橋宗太郎様 これらによれば、今回の納品により追加 のお礼であろうか金員を、上田屋は受け 取った。さらに運送は船で積み込まれたこ とを言い、畳の代金を受け取った上は、寸 違い等は金銭で解決する。 5.川船運送 畳等の運送にはどこの船が使われたので あろうか。 【史料 8】(17) 覚 烏江源三郎船 一畳三百五拾帖 一水籠数 百 栗笠清六船 一畳弐百六拾帖 一みの物 弐拾弐箇 一染附 九箇 一渋紙包壱〆 笠拾五入 烏江太兵衛船 一畳弐百六拾帖 烏江喜兵衛船 一畳弐百五拾壱帖半 〆千百弐拾壱帖半 畳 弐拾弐箇 みの物 九箇 染附 渋紙包壱〆 笠拾五入 右之通無相違[㊞]積入申候、以上 酉十月十二日 桑名屋伊右衛門㊞ 矢橋惣太郎様 (㊞は、尾州・舩問屋・桒名屋・ 金銀不用の印文) これによれば、畳 1121 帖半は、烏江源 三郎船(畳 350 帖)・栗笠清六船(畳 260 帖)・ 烏江太兵衛船(畳 260 帖)・烏江喜兵衛船(畳 251 帖半)の 4 つに分け、水籠数 100・み の物 22 箇・染附 9 箇・渋紙包 1 〆・笠 15 入も合わせて名古屋の廻船問屋葭町桑名屋 伊右衛門から注文主の中山道赤坂宿の矢橋 惣太郎へ運ばれたことがわかる。いわゆる 濃州三湊と言われる烏江・栗笠・船附の船 が使われたことになる。 さらに次の史料もある。 【史料 9】(18) 覚 畳船賃之内 一金壱両 清六 喜兵衛 多兵衛 源三郎 右之通慥ニ請取申候 惣太郎様 これによって、畳の運送ということで特 別に「畳船賃」の名目で 4 人の船頭に金 1 両が渡されたことがわかる。そのうちの 1 人清六についてはより詳しい次の史料もあ
る。 【史料 10】(19) 覚 栗笠清六船 一金弐両也 右之通運賃慥ニ受取申候 酉十月十二日 桑名屋伊右衛門 矢橋惣太郎様 ( は、 の事) これによれば、おそらく清六だけではな く畳運送に関わった船頭には、1 人金 2 両 の運賃を注文者の矢橋家から廻船問屋桑名 屋伊右衛門を通じて渡されたであろうこと がわかる。 以上これらの【史料 4 ∼史料 7】をまとめ て【表 1】「名古屋から中山道赤坂宿矢橋家 に納められた新畳」、【史料 8 ∼史料 10】を まとめて【表 2】「名古屋から新畳を運んだ 川船」としてまとめた。 6.桑名屋伊右衛門 【史料 8 ∼ 10】で名の上がった船頭清六 の名は次の史料にもある。 【史料 11】(20) 覚 一九箇 瀬戸 一弐拾弐箇 みの物 大垣谷九太夫殿上り 赤坂宿矢橋又市殿行 表 1 名古屋より中山道赤坂宿矢橋家へ納められた新畳 名古屋正万寺町上田屋豊七製作 製 作 形 態 帖 数 総 額 前 金 単 価 ❶ 8/15 小田井表 (紺縁付) 100 610 匁 5 両 6 匁 1 分 琉球表 (無縁り) 300 1 貫 665 匁 5 匁 5 分 6 厘 ❷ 9/8 小田井表 (紺縁付) 703.5 4 貫 924 匁 5 分 45 両 7 匁 合 計 新 畳 1103.5 7 貫 199 匁 5 分(119 両 3 分 14 匁 5 分) 出典:矢橋家文書 表 2 名古屋から新畳を運んだ川船 名古屋葭町桑名屋伊右衛門店扱い 川 船 商 品 支 払 い 地 域 船頭名 新畳(1121.5 帖) 他 畳船賃 運賃 濃 州 栗 笠 清 六 260 みの物 22 染付 9 渋紙包 1 笠 15 1 両 2 両 烏 江 源三郎 350 水籠 100 (不詳) 多(太)兵衛 260 なし (不詳) 喜兵衛 251.5 なし (不詳) 出典:矢橋家文書
右之通 栗笠清六船へ積入申候以上 酉十月十一日 桑名屋伊右衛門 宇佐美林蔵様 これにより、赤坂宿矢橋又市が宇佐美林 蔵(21)に瀬戸(物)(9 箇)とみの物(22 箇)を 注文した。それらを 10 月 11 日に桑名屋伊 右衛門が栗笠清六船で谷九太夫(22) (大垣船 町湊問屋)を通して運んだことがわかる。こ れらの品は【史料 8】であげた栗笠清六船の 畳以外の運送品に該当する。すると【史料 4】【史料 5】であげられた畳は大垣の船町湊 に陸揚げされたことになるであろう(23)。 【史料 12】(24) 覚 一拾三箇 染附 一弐拾箇 瀬戸 一三箇 みの物 大垣谷九太夫殿上り 赤坂宿矢橋又市殿行 右之通 葭町林七船へ積入申候、以上 酉九月廿二日 桑名屋伊右衛門 宇佐美林蔵様 これにより、赤坂宿矢橋又市が宇佐美林 蔵に染附(13 箇)瀬戸(物)(20 箇)とみの 物(3 箇)を注文した。それらを 9 月 22 日 に桑名屋伊右衛門が葭町林七船で谷九太夫 (大垣船町湊問屋)を通して運んだことが わかる。【史料 11】と類似する内容であり、 本史料の注文追加品が【史料 11】であるこ とがわかる。 【史料 13】(25) 送り状之事 材木屋惣兵衛出 船附まで 一 三箇 太平櫃 〆百八十四文 船附から 〆百八十四文 右之通御改請取可被下候、以上 酉十月二日 桑名屋伊右衛門 五ロ〆三百七拾弐文御払 矢橋惣太郎殿行 安田七郎兵衛殿上り これにより、赤坂宿矢橋惣太郎が注文し た太平櫃(3 箇)が材木屋惣兵衛(26)から出 され、それを 10 月 2 日に桑名屋伊右衛門 が船(船名は不明)で安田七郎兵衛(27)(船附 湊問屋)を通して運んだことがわかる。船 賃が「船附まで〆 184 文 船附から〆 184 文」で「5 ロ〆 372 文 御払」については、他 便にまとめられたと思われる。 【史料 14】(28) 覚 一金壱朱㊞ 右は赤坂宿矢橋様より御礼金慥ニ請取申候 酉十月廿二日 桑名屋伊右衛門 ㊞ 材木屋惣兵衛様 これにより、桑名屋伊右衛門は赤坂宿矢 橋家からの御礼金(金 2 朱)を 10 月 22 日 に材木屋惣兵衛を通して受け取ったことが わかる。両者のつながりは、赤坂宿の「お 嫁入普請」費用の分割支払い史料(29) からも うかがわれる。 これらの史料から、桑名屋伊右衛門は、 1121 帖半等の今回の運送以前にも矢橋家 と関わりがあった。さらに大垣湊(船町湊)
の他に船附湊にも出入りしていることが はっきりした。こうして見てみると、1786 年(天明 6)城下(名古屋)から美濃西部の 湊(高須・今尾・大垣と濃州三湊といわれ る烏江・栗笠・船附)に川舟で送る荷物を 独占的に扱うことを求めた願書(30)の内容 に該当することは確かである。その数年 後に完成したとされる尾張藩撰の「濃州徇 行記」(31)には「湊問屋を安田七郎兵衛と云、 こゝは上り荷物を多く取扱ひ、名古屋より は納屋町桑名屋伊右衛門より運漕し、信州 辺商物は犬山問屋より運漕するとなり」と 多岐郡船附村の項にあり、名古屋から唯一 の廻船問屋との表現をされている。また 1852 年(嘉永 5)3 月江州愛知郡市村の長兵 衛ら 4 人が蚊帳荷 20 箇其外所々荷物都合 154 箇外に小物 4 ツを(大垣の)船問屋谷九 大夫の許に送ってきた。その荷物の届け先 の 1 つは名古屋葭町桑名屋伊右衛門であっ たが、途中 10 日に尾州藩領中川先で難破 した事を清水進氏の研究(32)によって知っ た。 7.名古屋とのつながり 前述の桑名屋伊右衛門の他に、材木屋惣 兵衛・板屋与三治・宇佐美屋林蔵が名古屋の 商人である。さらに、戸や障子で戸屋茂吉 と井村吉右衛門等の名があがっている(33) 。 これらの商人は、1871 年(明治 4)の『名越 各業獨案内初編』(34)等に名を連ねている名 古屋の商人である。 この普請に際しては建築用材の他に【史 料 8 ∼ 10】でみたように日用品も船町湊に 運ばれている。もともと船町湊の船荷は多 種多様であるが、青物や柑橘類もあり特に 梨は産地で、桑名・名古屋等に運ばれた(35) 。 名古屋へ運ばれた梨などは、「万物問屋」の 下小田井の市で売り捌かれる。 1804 年(文化元)から 10 年間の史料(36) によれば、濃州大垣へは信州玉子が全集荷 数 177 箱のうち販売先がわかっている 130 箱のうち弥兵衛 20 箱、善兵衛 14 箱と多量 にもちかえっている。一方出荷地としては 荷主数 37 で品目は青物類、果実類、干物類、 苔類、穀類、ごあい、くわい、竹ノ子、わ さび、くり、ぶどう、かき、九年母、きん かん、桃、なし、たら、どじょう、氷こんにゃ く、かも、竹ノ皮、かんぴょう、炭、たきぎ、 石灰である。特に梨についてみると、他所 からの出荷はない。荷主数 30 で延べ 47 件 である。これは大垣全体 81 件の過半数を 越える数である。 この運送は、新川(1787 年[天明 7]に開 鑿された人工河川)橋下付近に 1794 年(寛 政 6)藩から 2 人が船問屋に任命され、船 役所が荷物改めをここで行ったこと(37)と 関係が深いであろう。問屋が役人に船荷物 (青物等)を滞りなく検査するよう願書(38) も出されている。さらに梨は濃州大垣より 買い受けていることが 1844 年(天保 15 年) 3 月の史料(39) からもわかる。 こうしてみてみると、この普請だけに限 らず、日常から大垣と名古屋は船を通して 結びついている。 おわりにかえて 幕末の和宮下向で宿泊となった中山道赤 坂宿では、ために急遽「お嫁入普請」が行 われた。尾張藩も支援した。建築用材のみ ならず日用品もこれまでの名古屋との水上 運送のルートで運んだ。その品の 1 つに、 尾張藩の津留に遭いながらも運ばれた尾張 名産の小田井表があり、その運送には名古 屋の廻船問屋葭町桑名屋伊右衛門もかか
わったことが、本稿ではっきりした。 謝辞 本稿を成すにあたり、まず矢橋家文書の 所蔵者様に御礼を申し上げます。鈴木隆雄 氏、児玉剛氏、大垣市史編纂委員会、大垣 市立図書館織田光一氏に感謝いたします。 発表の機会を与えて頂いた上に、懇切丁寧 な御指導をいただいた本研究所の曲田浩和 部長・髙部淑子先生には深謝を申し上げま す。 注一覧 (1)『 日 本 国 語 大 辞 典 』第 13 巻( 小 学 館、 1980 年 2 月、p.53)。 (2)「天保十三年四月諸色直段引下ケ調帳」 『愛知県史』資料編 15. 近世 1 名古屋・ 熱 田( 愛 知 県、2014 年 3 月、 史 料 番 号 205)。 (3)西枇杷島町文化財調査委員会編『にし びの文化財 第七集 江戸末期の下小田 井の市ー小川伝七家文書よりー』(西枇 杷島町、1993 年 3 月、p.1)。 (4)西枇杷島町史編纂委員会編『西枇杷島 町史』(西枇杷島町、1964 年 3 月、pp.62-64)。同書は、畳表を扱う畳表商の存在を 指摘しているが、具体的には触れていな い。その一例を拙稿(名古屋郷土文化会、 『郷土文化』第 73 巻 2 号、2019 年 3 月発 行に掲載予定)で考えた。 (5)「安永年間本邦萬姓司記」名古屋温故会 叢書『尾張旧事記』(東海地方史学協会、 1981 年 3 月、pp.271-345)。 (6)岡田文園・野口梅居・小田切春江『尾 張名所図会』下(愛知県郷土資料刊行会、 1971 年 3 月、p.64)。 (7)「鯱名物」青木美智男編『決定版番付集 成』(柏書房、2009 年 11 月、p.323)。 (8)一宮市編『新編一宮市史』資料編 8(一 宮市、1968 年 3 月、史料番号 4597)。 (9)大垣市史編纂委員会編『大垣市史』通史 編自然・原始∼近世(大垣市、2013 年 3 月、 p.621)。 (10)前掲注(9)pp.623-624。 (11)大 垣 市 史 編 纂 委 員 会 編『 大 垣 市 史 』 資 料 編 近 世 3( 大 垣 市、2012 年 3 月、 pp.724-728)。『赤坂町史』の矢橋家系図に よれば、矢橋家はもとは渡辺姓を名乗っ ており、天正元年(1573)に彦十郎が赤 坂に住むようになって以来、先住地の地 名(近江国矢橋)をとって矢橋姓を名乗 るようになったということである。そ の後矢橋氏は本家・分家とも赤坂村及 び赤坂宿の要職に就き、江戸時代を通 して代々村政に深く関わることになる。 『大垣藩地方雑記』によれば、元文 2 年 (1737)、矢橋本家の藤十郎は代々御目 見・苗字帯刀を許されている。また、寛 政 4 年(1792)2 月 17 日からは分家筋の 矢橋広助が本陣役を務め、諸大名・公家 の宿泊や接待にあたっている(同書 p. 解 説 29 より)。 (12)大垣市教育委員会編『中山道と皇女和 宮 』( 大 垣 市、1999 年 10 月、p.31)。 な お出典の赤坂宿矢橋家文書(個人蔵)で は史料整理番号【68-2-17-5】にあたる。以 降活字化されていない同文書については 大垣市立図書館が付した史料整理番号の み記す。 (13)【68-2-17-9】 (14)【68-2-17-8-1 ∼ 2】 (15)【同前】 (16)【68-2-17-8-11】
(17)【68-2-21-2-5】 (18)【68-2-21-2-7】 (19)【68-2-21-2-4】 (20)【68-2-21-2-3】 (21)大垣市史編纂委員会編『大垣市史 近 世 3 収集文書目録』(大垣市、2017 年 3 月、p.148)。同書では、宇佐美林蔵が差 出した陶器類の矢橋家宛請求覚え 4 通が 紹介されている。このように本書は活字 収録されていない史料には、一部翻刻を 付す等詳細な検討が加えられている。本 稿もその成果に大きく拠っている。 (22)大垣谷九太夫夫は大垣湊(船町湊)の 二 大 船 問 屋 の 一 つ で あ る( 前 掲 注(9) pp.778 ー 783)。 (23)赤坂湊よりもこの船町湊の可能性が 高いがその後については何とも言えな い、とは鈴木隆雄氏(大垣市文化事業団) の御教示である。 (24)【68-2-21-2-1】 (25)【68-2-21-2-2】 (26)材木屋惣兵衛は名古屋堀川材木町の 御用商人の材木商(新修名古屋市史編集 委員会編『新修名古屋市史』第 4 巻(名古 屋市、1999 年 3 月、pp.611-630)であり、 番付(「金府繁栄風流選」前掲注(7)p.318) でも尾張の材木の項に「材惣」とある。 (27)安田七郎兵衛は濃州三湊の一つ船附 の船問屋。養老町史編纂委員会編『養老 町史』通史編 上(養老町、1978 年 3 月、 pp.249-250)には「濃州徇行記から安田七 郎兵衛が湊問屋である、としている」と ある。 (28)【68-2-21-2-6】 (29)前掲注(11)pp.723-724。このなかで注 目すべきは「金拾弐両弐分 運賃拾艘 分御立替金六両壱朱 運賃五艘分御立 替」であり、 の幸右衛門は地元の大工 で、 の清十郎は名古屋の材惣が派遣し た大工である。この点を考えるならば、 おそらく今回の板材など建築用材の水上 運送に桑名屋伊右衛門も携わっていたで あろう。 (30)前 掲 注(2)240 号 文 書、 及 び pp.903-904。また同書 319 号文書から 1777 年(安 永 6)正月には、伊藤次郎左衛門家の娘 のおいつの疱瘡見舞いにも行っている、 ことがわかった。 (31)『濃州徇行記』(大衆書房、1970 年 3 月 復刻発行、p.822)。 (32)清水進『船町港の歴史』(大垣市、2012 年 1 月、pp.111-113)。なお本稿では、霞 町を葭町と解した。本書は、大垣市立図 書館歴史研究グループの児玉剛氏の御教 示による。 (33)前掲注(21)pp.146-148。 (34)『名越各業獨案内初編』太田正弘復刻 (私家版、1984 年 4 月)。○桑名屋伊右 衛門(廻船問屋)非掲載+金、○材木屋 惣兵衛(材木商)65 オ+金、○板屋与三 治(材木商)65 オ、○宇佐美屋林蔵(瀬 戸物商)76 オ、○戸屋茂吉(建具類商) 40 オ、○井村吉右衛門(建具類商)40 オ、 である。なお「金」は前掲注(7)の番付集 に掲載されていることを示す。 また『新修名古屋市史』第 4 巻 近世 Ⅱ(名古屋市、1999 年 3 月、pp.617-618) には、「堀川の出入荷物の扱いは、(中略) 1809 年(文化 6)には大坂下廻船問屋葭 町桑名屋伊右衛門らが江戸廻船問屋を許 可された」とあり、桑名屋伊右衛門は相 当有力な商人である。この他にも前掲注 (21)には名古屋の職人・商人とおもわ れる人物の請求覚えが多く掲載されてい
る。 (35)前掲注(32)pp.107-119。 (36)前掲注(4)資料編 pp.1-100。信州玉子 については同書 p.366、出荷地について は同書 p.352。なお石灰については、『町 史』掲載史料からは「大垣」の地名を確認 できなかった。そのため原本が転記して いる箇所が多い「他所産物年暦書上帳」 (名古屋市博物館所蔵 野口市兵衛家資 料 整理番号 20)によると「濃州大垣 藤蔵より」と記載されていた。梨につい ては、同資料より算出した。 (37)清須市新川町史編さん委員会編『新 川 町 史 』通 史 編( 清 須 市、2008 年 3 月、 p.216)。 (38)前掲注(3)「小川伝七家文書」史料番号 29。 (39)前掲注(3)「小川伝七家文書」史料番号 37。この時は問屋与左衛門が船改所兼帯 となっている。その経緯については、同 58・59 号文書に詳しい。