ルソーにおける存在論的(照応的)真理と認識論的真理について
―「真理」と「真実」という同義語の視点から―
Sur la vérité ontologique (correspondante) et la vérité épistémologique
chez Rousseau :du point de vue des synonymes japonais, « sinjitsu »
et « sinri »
熊本 哲也(岩手県立大学)
AbstractAu sujet du mensonge dans les Rêveries du promeneur solitaire Rousseau dit « mentir, c’est cacher une vérité que l’on doit manifester » : pour Rousseau, la vérité, qui n’est que le contraire du mensonge, c’est de démasquer le caché, ce qui correspond justement au sens de « λθεια », ce qui veut dire « non-caché », la vérité de la philosophie grecque ancienne.
Or, la vérité se traduit en deux synonymes japonais : « sinjitsu » et « sinri » qui n’ ont pas en fait le même sens de .vérité. « Sin-jitsu », qui veut dire le vrai (sin) fait (jitsu), il s’agit de la vérité ontologique et correspondante entre la parole et le fait. Tandis que « sin-ri », la vraie (sin) raison (ri), c’est plutôt la vérité générale, la vérité éternisée par sciences ou mathématiques, comme la vérité épistémologique de la philosophie moderne. L’idée de la vérité plus souvent utilsé chez Rousseau, surtout qu’on peut trouver dans les Rêveries du promeneur solitaire, est plutôt la vérité correspondante, parce qu’il pense toujours que la vérité est le revers du mensonge dans le schéma dichotomique. Dans ce sens-là, la vérité de Rousseau est proche de l’idée de « λθεια ». Mais en même temps, Rousseau essaie d’argumenter la vérité « générale » du point de vue de l’utilité. Mais la valeur de l’utilité concernant la vérité « générale » s’avère incertaine. Donc, la valeur de la vérité reste ambivalente chez Roussea mais on peut trouver plus souvent le côté ontologique de la vérité dans les Rêveries.
En général dans les œuvres de Rousseau, on peut trouver plus souvent des mot de « vérité correspondante » d’autant plus qu’il a le désire de se transparaître aux autres et de s’exposer par le texte écrit comme l’a dit J. Starobinski. Pourtant, on peut trouver aussi une autre valeur de vérité telles que dans sa devise latine. Nous pouvons citer l’ idée de la vérité dans sa devise : vitam impendere vero « consacrer la vie à la vérité ». Rousseau a emprunté ce mot aux Satires de Juvénal, poète satirique à l’époque romaine. Et dans l’histoire de l’illumination de Vincennes Rousseau ose dire qu’il a eu l’expérience inspiré par « foules de grandes vérités », vérité presque intuitive selon lesquelles il pourra écrire ses futures pensés.
« générale » et « utile » en disant qu’il cherche « des vérités qui tiennent au bonheur du genre humain » et en soutenant « le parti de la vérité » dans le Discours sur les sciences et les arts. Et dans une lettre, concernant le Discours sur l’origine et les fondements de l’inégalité, il écrit un homme de bien (auteur Rousseau) qui travaille pour l’utilité publique est « digne d’annoncer la vérité ». Or, dans les Lettres morales, il explique les « vérités primitives » qui « précèdent les autres ». Cette vérité de « l’intuition morale naturelle, innée », selon J.-F. Perrin, est susceptible à la fois d’être générale et immanente à la subjectivité rousseauiste. Et c’est presque même l’idée que la «vérité morale ». Ces idées sont toutes les deux immanentes aux hommes et innées généralement. Dans ce sens-là, elles sont situées justement au point croisé des idées « sinjitsu » et « sinri ». Les valeurs embivalentes « ontologique et epistémologique » de vérité peuvent s’accorder dans cette idée de vérité morale de Rousseau.
キーワード:ルソー、真理論、虚、ユウェナーリス、ドン・デシャン、『夢想』、『道徳書簡』 mot-clé : Rousseau/vérité/mensonge/Juvenal/ Dom Deschamps / Les Rêveries / Lettres morales はじめに:ルソーにおける真実と嘘へのこだわり ジャン=ジャック・ルソーは『孤独な散歩者の夢想』の「第四の散歩」において、真実 と虚偽についての考察を記している。ルソーの言述はここにおいて、真実よりもむしろ、 嘘や虚偽、虚構がどのような道義上の問題を生じさせるか、人を不幸に陥れることの可能 性があるかどうか、という内容を主に自分の体験に基づいて述べている。この「第四の散歩」 のテクストについての解釈は「虚偽」というテーマのもとに多くの研究者が分析をおこなっ てきた。比較的近年の研究において、桑瀬章二郎は『嘘の思想家ルソー』1)(2015)の中で、 ルソーの『夢想』「第四の散歩」のテーマ「虚偽」を巡ってなされてきた、ルソー自身の 影響関係や、「嘘」に関する思想史的コンテクストも視座にいれながらこれを論じている。 桑瀬はこの「第四の散歩」のルソー自身の考察が他のルソー作品と照応していることを指 摘し、著作の後半の章において「嘘」をテーマにしてこれを展開してゆくのである。 さて、この著作も参照している雑誌『思想』ルソー特集号「ジャン=ジャック・ルソー 問題の現在」2009年11月号に掲載されたジャン=フランソワ・ペランの論文「黙秘の権利 から高貴な嘘へ―『第四の散歩』の理論的・文学的背景―」2)も同様のテクストそしてテー マを扱っている。これは、「第四の散歩」において引用される『告白』第二巻の「マリオ ンの盗まれたリボン」の挿話を分析していたポール・ド・マンの解釈3)に違和感を唱えた ものである。ペランは、これらのテクストを18世紀的な文学・思想のコンテクストに置き なおして再解釈することを述べている。そこで、ルソーが「虚偽」について論じる際に依 拠しているのは、エルヴェシウスの『精神論』(そしてそこに引用されたフォントネル)、 聖アウグスティヌスの『虚偽論』、モンテーニュの『エセー』などがあると指摘されてい る4)。ルソーはこうした思想的背景に依拠し、それと対話しつつ独自の発想として「無意 志的な嘘と高貴な嘘」という見解を明らかにした、というのがペランの解釈である。また、
中島ひかる「真実と義務―J.-J.ルソー『孤独な散歩者の夢想』第4・第6の散歩」5)は、二つ の散歩において問題となる「真実」が道徳論的な意味で判断されていると要約し、外部的 な「真理」というよりも内的なテーマとしてカントと比較できる、という分析を行っている。 このルソー自身がついた嘘の出来事については、『告白』第二巻に若き日のジャン= ジャックのエピソードとして語られている。これについては「マリオンの盗まれたリボン 事件」と後に呼ばれ、様々な解釈がなされているので言及しておかねばならない。特に、 先述したド・マン、そしてジャック・デリダのいわゆる脱構築的なテクスト解釈が有名で ある。ド・マンは『読むことのアレゴリー』「弁明」6)の章において、ルソーの自己正当化 ともいえる論理に結びつく語(特に「機械的に」(machinalement)という語、これは「無 意識的に」という意味も持っている)を指摘し、ルソー自身が自らの盗みと嘘の弁明を「機 械(マシーン)」としてのテクストそのものが行っている、とド・マンは述べている。脱 構築の哲学者としてド・マンとともに知られていたジャック・デリダはド・マンの死後に、 「タイプライターのリボン」(『パピエ・マシーン』7)所収)という長文を書き、このエピソー ドのみならず、ルソーのテクスト解釈者としてのド・マン自身のテクストをもメタ的に(再) 解釈している。その長文はいくつもの論点を含んでいるが、『告白』第二巻に語られたジャ ン=ジャックが盗んだ「リボン」のエピソードについての「盗まれたリボン」の置き換え (ジャック・ラカンの「盗まれた手紙」8)への暗示である)の可能性、そして「告白」の作 者であるアウグスティヌスとルソーの影響(模倣)関係、ド・マン自身のルソーのテクス トを通した「弁明」などについて記されている。デリダは、他に『嘘の歴史』9)も書き、ルソー だけでなく、アウグスティヌス、カント、ハイデッカー、アーレント等、哲学者たちの虚 偽論の歴史を読解しようとしている。 以上は「虚偽」についてのルソーの著作を巡る先行研究であるが、「嘘」の対極にある 真実については、虚偽を論じる際には常に引き合いに出されるものの、それだけ単独で扱 われテーマ化されることは少なかった。この問題に関して、ルソーの用いるvéritéの日本 訳語として当たり前のようにほぼ同義的に使用される「真理」と「真実」という二つの訳 語における微妙な差異を切り口として考察してゆきたい10)。というのも、この訳語は、 véritéを日本語に置き換えた際にほぼ同義語として用いられているが、本来は異なる意味 =観念を訳し分けていると考えられるからである。この点について、われわれは哲学史上 においてギリシャ古典哲学から現代哲学に至るまで頻繁に考察されてきた「真理論」とい う補助線をひいてこの問題を考察してみたい。すなわち、「真理」という語が意味してい る比較的近代以降、語弊をおそれず言えば、デカルト以降の「認識論的」真理の概念と、「真 実」という訳語が対応するだろう古代哲学から続く「真理論」の特徴であるいわゆる「真 理の照応説」11)との意味上の差異があると考えられるからである。このような観点から、ル ソーの「真理論」をその複数のテクストを分析することでこの小論を展開してゆきたい。 1.ルソーにおける真理と真実 英語のtruth、フランス語のvérité、ドイツ語のWahrheitなどの訳語として用いられる「真 理」の概念は、大別して近代哲学以降の「認識論的」な「真理」とそれ以前の哲学に見ら れる「存在論的」な「真理」に分けられる12)。この「真理」の問題は哲学(史)一般の論
点でもあるが、問題の射程として哲学史上の「真理論」自体を論じることはここにおいて 目的ではない。あくまでルソーの哲学と彼の思想的な環境に限定して「真理」と「真実」 に関して論じることがわれわれの目的である。ルソーの著作におけるvéritéの意味と観念は この観点からみるとどのような見方ができるか考察してみよう。 ルソーの「真理=真実」véritéという観念は、「はじめに」にも指摘したように「虚偽」 との関連から、はっきりと表明すべき「真実」を明らかにする行為にこそ重点がある。これ は、古代ギリシャ哲学にいわれるような「真理=非隠蔽」 λθεια(アレーテイア)の真理 観の関連を思わせるものであり、事実と言葉との対応、真実/虚偽という二項対立的形式 が問題となるのである13)。ルソーは、後述するように、特に「はっきりと表明すべき真実」 ということを問題とする点で古代ギリシャ哲学の真理観を継承しているのではないか。ア リストテレスは、「有るものを有らぬといい、有らぬものを有るというのが、嘘であり、有 らぬものを有らぬというのが、真である」14)という「照応的な真理」を定義している。したがっ て、ルソーが虚偽論との関連で指摘する「真実」とは、アリストテレス以来の「真理」の 定義に基づき、言語などが事実と照応する「真理」すなわち日本語で特に「真実」と訳さ れる傾向のある観念との近似性があるのではないかと思われる。 特にルソー晩年の『孤独な散歩者の夢想』における「真実」については、嘘や虚偽との 関連を伴って主張される特徴があり、これまでの『夢想』の日本語翻訳には「真実」とい う訳語(=観念)が頻繁に用いられている。さてそこで、「嘘」に関してのルソーの基本 的な見解、すなわち「虚偽論」において、「虚偽」と「真実」とはどのような関係になる かを見てゆこう。ルソーの『孤独な散歩者の夢想』「第四の散歩」には、次のような「虚偽」 についての見解が表明されている。 嘘をつくmentirというのは、はっきりと表明すべき真実véritéを隠すことであると、 ある哲学書に書いてあるのを読んだ記憶がある。この定義からすると確かに、言う義 務のない真実を言わないでいるtaire une véritéのは、嘘をつくことにならない。しか し、そういう場合、本当のことを言わないだけでは物足りずに反対のことを言う人間 は、その時嘘をついていることになるのか、ついていないことになるのか。先の定義 に従うならば、嘘をついているとは言えないだろう。なぜといって、なんの借りもな い人間に贋金fausse monnaieを渡せば、たしかにその人間をだましたことにはなるが、 しかし彼から盗んだことにはならないからである15)。 ルソー自身がここで「読んだ記憶がある」としている哲学書とは、「おそらくエルヴェ シウスの『精神論』だろう」という指摘が、ジャン・ドプランの論文を論拠としてあげル ソーの二つの全集版の注に指摘されている16)。しかし、この「嘘をつくというのは、表明 すべき真実を隠すこと」という見方の根本にはアリストテレス以来の「真理の照応説」を 背景に見て取ることは可能である。アリストテレスの『形而上学』にあるように「有るも のを有らぬと言う」嘘の定義と、エルヴェシウスの『精神論』の「表明すべき真実を隠す」 という嘘とは根本的に共有性、或いは継承性があると指摘できる。 先に先行研究の例としてあげていたペランはこの点で、やはりジャン・ドプランの論文 に依拠しながら、18世紀における「嘘」に関する一般的な解釈格子について言及し、エル
ヴェシウス、アウグスティヌス、モンテーニュの「嘘」論がルソーのテクストのベースに あることを指摘する。上記引用においてとりわけ注目すべきなのは、アウグスティヌスの 『虚偽論』からの影響である。つまり、引用にある「言う義務のない真実を言わないでい るのは嘘をつくことにならない」という考察は、アウグスティヌスの『虚偽論』の影響で あり、真実について然るべきときに黙っている、秘匿していることは虚偽にはあてはまら ない、という見解である。この見解はルソーのみならず、18世紀のヴォルテールやディド ロ等の『百科全書』、自然法学者のプーフェンドルフに至るまで共通の認識としてあった、 と述べられているのである17)。 さて、ここまでは、「真実」と虚偽の二項対立の定式のもとでの考察ではあるが、「第四 の散歩」の虚偽論の後半において、ルソーはここまでの「真実」論とは微妙に異なってい る「一般的で抽象的」な「真理」という観念についても言及するのである。 一般的で抽象的な真理véritéは、あらゆる善の中でもっとも貴重なものである。これ がなければ人間は盲目にひとしい。つまりこれは理性の眼である。これによって人間 は行動の仕方を知り、なるべきものになること、なすべきことをなすこと、真の目的 に向かうことを知る。特殊で個別的な真理とはつねに善とは限らない。ときとしては 悪であり、たいていの場合そのどちらでもないことである。一人の人間にとって、知っ ておかねばならないこと、それを知ることが本人の幸福のために必要であるというよ うなことは、おそらくそんなに多くはない。(中略)一般的な真理は万人の共有財産 のようなもので、それを人に渡しても、渡した人がそれを失うというわけのものでは ないから18)。 このようにして「一般的真理」に関しては、それが共有の財産であり「有用」である点が「真 理」の世代を超えた普遍性や共有性などにつながっているとしている。上記引用では、「一 般的真理」に対するものとして「特殊で個別的真理」という表現をもちいているが、これ は、われわれが区別している「照応的な真理」つまりは存在論的な「真実」の観念を暗示 していると思われる。つまり、「表明すべき真実」とは一般的、抽象的な「真理」ではなく、 個別で特殊な「真理」なのである。しかし、この「一般的な真理」と個別的な意味の「真 実」véritéとは、本来的に区別されずにこの両義性をもって使用されている。つまり、条 件的な形容詞がつかない「真理」véritéという語には、個別的な「真実」と普遍的な「真理」 の意味的に区別などはつけようがない。ここに、「真理(真実)」を巡る観念的で意味論的 な二重性もしくはずれが生じる可能性がある。 「一般的で抽象的な真理」のあることを示した後に「第四の散歩」の虚偽論は、一度肯 定した「有用性」による「真理」の判断も否定するように進行する。つまり、意図的な嘘 はたとえ有益であっても、有益かどうかという判断自体が最終的には下すことができない として、当時の啓蒙主義的功利主義に対しても批判的な観点から19)、有用性の観点も認め られないとしている。「真理を言う義務を生じさせるものが、その真理の有用性だけでし かないとしても、どうすれば自分がその有用性の判定者になれるだろうか20)」という文字 通り自問することで今しがた措定した論拠を覆して、「有用性」が「真理」の解決とはな らないことを述べるに至る。ここにおいて、論理的な思考がそのように意図しながらも逡
巡する様子を文章が先述した内容をさらに否定するように進行する内容からも読み取るこ とができる。 このように、最終的には咋な「虚偽」とは異なる「虚構」に対しても、その意図が無実 のものではないことから否定しようとする。この文脈前後のルソーの主張のぶれ、あるい は逡巡は、その「だが…」Maisという語の頻繁な使用による文体の動揺に明示的に現れ ている。このことは、次に示すように「しかしMais」の多用された論旨を見ることによっ て裏付けられるだろう。 「一般的で抽象的な真理はあらゆる善のなかでも最も貴重なものである(Rêveries (ET),p.504)」という言葉で始められ「一般的な真理は万人の共有財産のようなものであ る(Ibid.)」で終わる、有用性と共有性を述べる段落に続けて、有用性を巡る内容は、「し かしMais、あらゆる点でいかなることにも役に立たないほど完全に不毛であるような、 そんな真理が存在するかどうかということ(Ibid.,p.505)」というように反定立的に論理が 進む。さらに、「だがMais、こうした問題をこんなふうにおおざっぱに解決しても、実際 の場での確実な適用法をなにひとつ獲得したことにはならない(Ibid.)」というように自 己批判的に議論が展開する。そして、「しかしMais、それでは問題を片づけることになっ ても、解決することにはならない(Ibid.,p.506)」という文章が、ひとつの結論の後にまた 続けられる。最後には、その直後に、再び「だがMais」という言葉とともに、「この基準と、 それが確実に間違いであるという証拠はどこからひきだすのか(Ibid.)」という自問の文 章が続く。ある種の際限のない迷宮に迷い込むような文章が、この真理の有用性、そして 虚構の真理性を巡ってなされるのである。 こうしたルソーの虚偽論の根底には先に言及した『告白』第二巻にも記されている「マ リオンの盗まれたリボン」事件があり、自らがついた嘘によって引き起こされた不幸につ いての自責の感情が決して消えることがない、という記述が果てしなく反復的に記述され てゆくのである。こうした、「真実」と虚偽を巡る文字通りの逡巡や反復の原因は、虚偽 の論じ方やルソーの心理などに求めることが従来の見方である。しかし、われわれは「真実」 の視点から、まさに「真理」という一般的、抽象的、普遍的、認識論的な真理の観念と「真実」 という存在論的、照応的な「真理」との異なる観念がなにも形容詞を伴わない「真実=真 理」véritéの内に内包されて使用されているからではないかと考察できるのである。 2.ルソーの座右の銘「真理のために命をささげる」における「真理」 さて、『夢想』「第四の散歩」における虚偽についての考察は、この「散歩」の冒頭にお いて次のようなルソーが自分の座右の銘として掲げている文言との関連に端を発している。 同じ日、著者たちから送られてきていた何冊かの小冊子を整理していて、たまたまロ ジェ師の雑誌の一冊が眼に留まった。その表題には「生涯を真理にささげる人のため に、ロジェ」という言葉が書き添えられていた。こういうことで思い違いするにはこ の先生たちの言い回しを知りすぎている私は、師がこのように丁寧をよそおいつつ、 私になにかひどい皮肉を言うつもりだったことがわかった。だがなにを根拠にしてな のだろう。どうしてこんな嫌味を言うのか。こんなことをいわれるどういう種を私が
まいたと言うのだろうか。私はすばらしいプルタルコスの教えを活用するために翌日 の散歩のあいだ嘘について反省してみることに決めた。そう決めた結果、デルフォイ 神殿の「汝自身を知れ」は『告白』を書いたときに思っていたほどには従いやすい格 言ではないという、すでに抱いていた考えをますます確信することになった21)。
ここで引用されたロジェ師の言葉「生涯を真理にささげる」vitam vero impendentiと いうラテン語の文句を見て、ルソーは自らが1750年代末から座右の銘(標語)としてきた 言葉、「真理のために命をささげる」Vitam impendere veroに対する完全なる皮肉である と理解したのである。
このラテン語の語句は、『夢想』の各版の注22)にも指摘されていて有名なものとなって
いるが、そもそもは古代ローマ時代初期において『諷刺詩集』(第四歌92行)Satires IV,92を書き残しているデキムス・ユニウス・ユウェナーリスDecimus Junius Juvenalisに 由来していることは知られている。ルソーとユウェナーリスの関連については、M.-J.ヴィ ラヴェルドゥがその論文において極めて詳細に述べている23)。それによると、このローマ 初期の諷刺詩人は、当時のローマにおける風俗や人々の堕落や専制君主を批判的に揶揄す るなどルソーと思想的な共通点が多いことが指摘されている。また、座右の銘(標語)と してルソーがこの言葉を採用する経緯について明らかにされている。この標語についてル ソーが初めて言及していたのは、彼の演劇論でもある『ダランベール氏への手紙』に付し た注のなかであった。それは次のようなものである。
真理のために命をささげるVitam impendere vero ;これが私が選んだ銘であり、私に ふさわしいと感じられるものです。読者の方々、私は、私自身間違うこともあります が、意図的にあなた方を欺くことはあり得ません。ですから、私の虚偽ではなく過誤 をご懸念ください。公共善への愛情は、私を公衆にむけて語らせる唯一の情念であり ます。そうなので、私は自分を忘れることはできますが、もし誰かが私を傷つけると しても、私は怒りが私を不公正にさせようとするその人の目論見に対しても沈黙を守 ることはできます。この原則は、私の敵達が復讐される懸念もなく私を気楽に傷つけ ることのできるという点で、彼らにとっても好都合であり、私の憎しみが彼らを欺く ことを恐れなくてもよい読者たちにとっても、またとりわけ、人々が私を侮辱してい るのに反撃もせずにじっとしており、少なくとも人が私に与えた苦痛を感じているだ けで、私がそれを返すことによって経験するだろう苦痛は感じていない私自身にとっ ても、都合のよい原則なのです。私が自分の命をささげてきた神聖で純粋な真理よ (Sainte et pure vérité à qui j’ai consacré ma vie)、私の情念は、私がお前に抱く真摯 な愛を決して汚すことがないでしょう。利益も恐怖も私がお前に与える賛辞を決して 変えることはないでしょう。そして、私の筆は、それが復讐に武器を与えはしないか と恐れること以外はお前に対して決してなにものも拒みはしないのです24)。
この長文の注において、このラテン語の標語へのルソー自身の訳が示されている、と見な されている。それが下線を付した「わたしが自分の命をささげてきた神聖で純粋な真理」と いう部分であり、vitam impendere veroのフランス語の意味としてのルソーの読み方である。
さて、この『ダランベール氏への手紙』の注の文章は、自らの真理の探究についていか なる批判があろうと怒ったり反論することもなく沈黙を守り、「神聖で純粋な真理」とは 逆に、不誠実であるとみなされる敵からの中傷にも応答せず、その真理への帰依を吐露し ている註記、として読むことができる。こうしたある種の宣言がなされるコンテクストは 『ダランベール氏への手紙』がダランベール執筆の『百科全書』項目「ジュネーヴ」に対 する批判をする意図で、ポレミックな公開書簡として執筆刊行されていることからも明ら かである。 ここに展開されているvero=真理という言葉は、あえて「真理」の訳語が付されている のであるが、先ほど検討したvéritéを巡る複数の観念との関連でいえばより正確にはどの 意味として理解すべきであろうか。 この標語では、「命をささげる」べき「真理」であり、容易には獲得できない、身の危 険を賭してでも探究され到達しうる崇高な「真理」の意味として捉えられる。この点でい えば、覆いを取り除いて明かされる「真実」という観念とは微妙にずれがあり、実際に「真実」 という日本語に置き換えると違和感がある。ただし、急いで付け加えておかねばならない が、このラテン語の引用元であるユウェナーリス『諷刺詩集』のこの詩句の前後の文脈を 読むと、「真理の探究」に命をささげるという文意には必ずしもならないのである。ユウェ ナーリスの『諷刺詩集』のラテン語原典の日本語訳を次に引用しておく。 それから、上品で温厚な老齢のクリスプスがやってくる。彼の気性は、その達意の 弁にふさわしく、やさしい魂を持っていた。もし、災厄と疫病のこの世にあっても、 海原と陸地と人民を支配している皇帝に対し、彼の残酷性を掣肘したり、誠直な忠告 を与えることが許されるとしたら、この人以外にこの任に耐える側近がいるだろうか。 しかし暴君の聞き耳以上に暴力をふるうものが、何かあるだろうか。風雨や寒暑や 荒れ模様の春のことなどを話題にしようと思っている側近の運命は、彼の耳一つにか かっていたのである。それゆえクリスプスは、急流に逆らってまで両腕を伸ばして泳 ごうとは決してしなかった。それにまた、彼は魂からの言葉を虚心坦懐に話せる人で もなかったし、真理のために命を賭けることのできる市民でもなかった。こうして彼 は長い年月を経て八十回目の夏を迎えていた。このような武器によって、彼はあのよ うな宮廷においてすら安泰に過ごせたのである。(ユウェナーリス『諷刺詩』第四歌、 81−92行)25)
この引用の下線部がvitam impendere veroというラテン語に相当するのである。この引 用の一節は、クリスプスと称する人物について語る詩句となっている。彼はローマ皇帝(ド ミティアーヌス帝)の側近であるが、高齢でもあり「暴君」と呼ばれている皇帝に対して は「掣肘」や「誠直な忠告」などあえてせず職務に長く居続けていた。かかる人物への批 判的なアイロニー、諷刺が述べられているのである。「真理のために命を賭ける」という 訳語の言い回しは、「真理のために命をささげる」というルソーの標語のニュアンスと若 干の相違を感じさせる26)。とはいえ、側近クリスプスが自身を危険にさらすようなことや、 いたずらに暴君の怒りをかうような箴言などはあえてせず、中間管理職的な地位の安泰に 邁進する人物であったことが揶揄されていることが読み取れる。
では、ユウェナーリス諷刺詞の一節において「真理」というのは、どういう対象や行為 を指すのであろうか。おそらく、この語によって指示される行為は、暴君の統治の在り様 に関して「真実を語ること」を示唆しているのではなかろうか。そのような専制君主に対 しての揶揄や諷刺こそ、諷刺詩人たるユウェナーリスの真骨頂であることはM.-J.ヴィラ ヴェルドゥの指摘するところである27)。このように考えると、ユウェナーリスのここでの 「真理」の意味は、事実を明らかにすることであり、「真理のために命を賭ける」というこ とは、自分の命を危険にさらしても「真実を語る」ことに他ならないのではないか。 諷刺詩の原文を確認することで明らかになることは、第一にユウェナーリスの意図する vitam impendere veroの「真理」は、普遍的、超越的真理というよりはむしろ、「照応的真理」 であり、表明されるべき「真実」という意味合いがあるということである。第二に、皇帝 の側近クリスプスが「真理のために命を賭ける」ことをするような人物ではない、という 詩句を、ルソーがある意味であえて逆転させて自分の標語にしてしまったのは、反語的な 意味合いがあるのではないかと推測させる点がある。 第一の点をさらに敷衍して考察を試みたい。クリスプスがあえて行わなかった「真理の ために命をささげる」行為を、言葉によって「真実を語る」ことであると見なした場合、 ミシェル・フーコーがかつて指摘した古代ギリシャ・ローマ時代の「真理」を語る哲学者 としてのパレーシアステースの姿を見ることは可能ではないか28)。このことは、フーコー が晩年において特に研究していた「真理を語ること」あるいは「真実を語るために命を賭 ける」態度に見られる「パレーシア」といわれる古代哲学にユウェナーリスが極めて近い ところにいたことを示している29)。ただし、ユウェナーリスの詩句が諷刺詩でしかなく、 そこにはフーコーが例示するような命をかけて箴言するような哲学者の姿はなく、「真実」 を語ろうとしない皇帝の側近と、直截には批判しない諷刺詩人の作者がいるのみである。 第二の点として、この詩句の一部が実は反語的にあるいは自己反省的にルソー自身が突 き付け(られ)た言葉ではないのかという見方ができる。ルソーは、ユウェナーリスの詩 句に描かれた老齢で弱腰の「皇帝の側近」とまでは言わないまでも、「真実」を語りえなかっ た過去を持っていることに自責の念を抱き続けていた。こうした否定的な詩句の一部を文 脈と切り離して採取することは、反語的に、真実を語りえなかった自己自身への戒めの言 葉としてあえて自らに繰り返し向けられているとは考えられないだろうか。 その証左と言える証言として、先のテクストである『夢想』「第四の散歩」の末尾に、 この標語を採用し、公に広めてしまったこと自体を自ら後悔するような記述がある。 だが、私をさらに許しがたい人間にするのは、私が選んだあの座右銘である。この 座右銘があるために、私には他のどんな人間よりも真実への忠誠の誓いを厳しくたて る義務があった。だから私は、真実のためにいたるところで自分の利害や好みを犠牲 にするだけでは十分ではなく、自分の弱さfaiblesseと内気な性質も犠牲にする必要が あった。つねに、いかなる機会においても、本当のことを言う勇気と力をもたなけれ ばなかった。そして、格別の思いをこめて真実(=真理)に身をささげた者の口やペ ン先から、作りごとや作り話が出るようなことはけっしてあってはならなかった。こ れは、あの誇り高い座右銘を選んだとき、考えておくべきだったし、あえてそれを掲 げる限りは、たえず繰り返し自分に言ってきかせるべきことだった。私は真実を偽ろ
うという気持ちから嘘をついたことは一度もなく、私の嘘はすべて弱さfaiblesseから 出たものだ30)。 この座右の銘(標語)を選び取ったことに関するある種の後悔を述べたともとれる告白 は、ルソーの虚偽論の本質を垣間見せるものであり、同時にルソーの真理論の意味的バラ ンスの針が「真実」の方へ振り切っている箇所として示される。すなわち、嘘をつくこと が罪であることは、ルソー自身を含めた人間の「弱さ」に起因するという虚偽論の最終的 な論拠(ルソーが「第四の散歩」で用いる「解決する」résoudreではなく「片づける(切 る)」trancherと言う意味で31))であると考えられる。 このことは、先述したペラン(2009)の主張である「無意志的」嘘であるという指摘と 矛盾するものではない。この点で、『エミール』などに指摘されているストア派的な「反 情念」論、「臆見」から判断を誤らないようにする主知主義、理知至上主義に対して、反 ストア主義的なルソーの人間論の一端が見出せる。嘘をつくことは、ストア派にとっても そして当時のフィロゾフ達にとっても許しがたい罪としてしか判断されない。それに対す るルソーの側の、アウグスティヌスやジャンセニスト的な哲学、人間の「原罪」にも比す べき「弱さ」やそれを認める「憐憫」そして「良心」という道徳観念を前提とする反論を 見ることができる32)。しかし、ストア派そして逆に反ストア派のアウグスティヌスの宗教 観からの影響を虚偽論に見ることはここでは紙幅の関連で追求できないので、また別のと ころで論じることにしたい。 真理論としては、この「第四の散歩」の半ばで述べられていた「一般的で抽象的な真理」 とは異なる側面での「真理」すなわち「真実」の意味、観念の強調がここにおいて顕著に 見られるということである。ここにおいて、ルソーにおける λθεια(アレーテイア)と は、外的事実と言葉の照応というよりはむしろ、内的な感情、「心的事実」(内的感覚)と 言葉との照応という事態を示していると言えるだろう。『夢想』における「真理=真実」 véritéという語の観念は、いくつかの意味を含みつつ、最終的には極めて内的な人間や個 人に内在する感覚(感情)というものとその言語による表明がまさしく焦点となっている のである。 3.普遍的かつ直観的な真理のあり方 さて、ルソーの『夢想』では、真実と虚偽とが一対の対義的観念として述べられること が多くみられた。しかし、ルソーの著作全般において一般的普遍的な真理が主題として語 られなかったかというと、『夢想』にも言及があったように、直ちに否と答えなければな らない。ルソーの政治哲学者としてのデビュー作ともいえる『学問芸術論』において、「真 理」はまず第一に「人類の幸福にかかわる真理のひとつ」33)なのであり、ルソーこそがこ うした「真理」の側の者、真理の代弁者として華々しくデビューしたのであった。当時の (或いは今日においても)常識的な立場、つまりディジョンのアカデミーの懸賞論文の課 題である「学問と芸術の復興は習俗を純化することに寄与したか」という問いに対して、 否定的なものは想定されていなかった。回答として期待されたのは、いかに「習俗の純化 に寄与した」というものであり、ルソーがこの問いに付加した「それとも腐敗することに
寄与したか」という一句によって、全く想定外の回答がなされたわけである。その際に、 ルソーが拠って立つのは、ディジョン・アカデミーの問いに含意されているある種の人文 主義的・古典主義的な前提ではなく、それとは異なるものとしての「真理の立場」le parti de la vérité34)であり、そのことが宣言されているのである。このように『学問芸術論』 において、虚偽の対極としての「真実」とは違って、ルソーはいわゆる哲学的な意味での 「真理」の命題に関して極めて意識的であった。 こうした「真理」の観念は、『人間不平等起源論』においては、『学問芸術論』ほどの「真 理」に関する直截な言及は少ないものの、普遍的な真理を探究しこれに到達するというこ とを前提としている。つまり、方法的には「歴史的真実」vérités historiques35)を追求する
というのではなく、「仮説的で条件的な推論raisonnements hypothetiques et conditionels」 という方法を採るということを、印刷業者M.-M.レイに送った「人間の不平等の起源と根 拠についての論文」36)の趣意書的段落において宣言している。そして、これを述べると同 時に、やはり、「私が語らねばならないのは人間についてであり、この問題を検討する場 合には、当然、人間へ語りかけることになるのは、真理véritéをたたえるのを恐れるとき には、このような問題は提起されないからである」37)、あるいは「こうした問いは、おそ らく支配者たちによって理解してもらえる奴隷の間で検討するにはふさわしいが、理性を も ち 自 由 で、 真 理 を 求 め る 人 々 des hommes raisonnables et libres qui cherchent la véritéにはふさわしくない」38)というように真理を探究する意志の主張は欠かさず行ってい るのである。 こうした「真理」の主張と確信はおそらく、ルソーが自己を語る自己史においてほぼ最 大の出来事として語られる「ヴァンセンヌの啓示」の事件に端を発しているものと思われ る。というのも、このルソーの身に起こったこの有名な出来事(あるいは現象)は、ルソー 自身の身の上、自己の歴史、自己の哲学を変える重要な契機となっていて、彼に『学問芸 術論』を書かせるインスピレーションを与えたとされる事件なのである。その瞬間をルソー 自身が『告白』第八巻にも語っているのであるが、特に、友人のマルゼルブ租税法院院長 に送った手紙に出来事が詳らかにされている。ヴァンセンヌという地名はパリ郊外の地で あり、当時、まだ親しい交流のあった哲学者ドニ・ディドロがそこにあった牢獄に収監さ れていたところへ訪ねに行くことになる道すがらの出来事であった、と語られている。 当時、ヴァンセンヌに監禁されていたディドロに会いに行く途中のことでした。ポケッ トに『メルキュール・ド・フランス』誌を一冊入れていたのを、道々ぱらぱらとめく りはじめました。ふと、ディジョンのアカデミーの課題が目にとまります。私の最初 の著作を書くきっかけとなったものです。もし突然の霊感(インスピレーション)ら しいもののこの世に存在したためしがあるとすれば、これを読んだとき私の心のなか で起こった動きがそれです。突如として私の精神はおびただしい光に照らされ、目の くらむ思いでした。いきいきとした無数の考えが、同時に、力強く、混沌として湧き あがってきて、私は名状しがたい興奮と混乱に陥ってしまいました。頭が酔っ払った ようにくらくらするのです。激しい動悸に息が詰まりそうで、胸が大きく波打つので す。通りの並木の根方に倒れこみました。そのまま、どんなに激しい興奮のうちに半 時間を過ごせたことでしょうか。立ち上がってみて気がつくと、上着の前が涙でぐっ
しょり濡れていたくらいでした。涙を流したことなど気づきもしなかったのですが。 ああ、マルゼルブ様、もし、私があの木の下で目にしたこと、感じたことの、せめて 四分の一でも文字に書き写すことができたなら、どんなにはっきりと社会体制の一切 の矛盾を示して見せたことでしょう。どんなに力強く、現今の諸制度のあらゆる弊害 を解き明かして見せたでしょう。人間は生まれつき善良であること、ただそういう制 度のためにのみ悪人になるのだということを、どれほど単純明快に証明してみせたこ とでしょうか。あの木の下で十五分のあいだに天啓のようにひらめいた無数の偉大な 真理のうちで、記憶にとどめえた限りのものは、私の三つの主要な著作、つまり、あ の最初の論文と不平等論、そして教育論のなかに、ごく薄められた形でちりばめられ ています39)。 この「ヴァンセンヌの啓示」l’illumination de Vincennesによって得られた「無数の偉大 な真理」foules de grandes véritésという殆ど直観的なインスピレーションによる「真理」 の獲得の仕方、その内容自体は、まさにここに挙げられた諸論文の内に述べられる「真理」 とその真理性の担保へと繋がってゆくことは明らかである。ここにルソーの「真理」観の あり方を求めるならば、「啓示」という殆ど超自然的な現象によって、合理的な思考ではな く、直観的に一挙に把握されてしまう、ということである。それが真実であるかどうかの 問題はさておき、数々の宗教家たちの天啓の物語にも酷似しているのはいうまでもない40)。 驚くべきなのは、『学問芸術論』、『人間不平等起源論』、そして『エミール』という具体的 な著作に共通する社会哲学の「真理」が一挙に、直観的に、超自然的に文字通り「吹き込 ま」inspirerれた、ということである。 誰もが、この語られた「啓示」とその「出来事」にうさん臭さと「山師」感を覚え、虚 構ではあるまいかと疑ったことであろう。この「啓示」が、ルソーが『学問芸術論』で言 うところの「真理の立場」を正当化しているように読めるので尚更である。こうした文脈 において、ルソーの「真理」は命題ではなく異なる次元のヴィジョンの元にある「真実」 なのではないかという疑念を与えるものである。かつてカール・ポパーが批判したような 「反証可能な科学ではない」マルクス主義イデオロギーにも極めてよく似た、誤謬の検証 ができない「思想」ではないのか、という疑念である。ただし、すくなくともスタロバン スキーを含む20世紀までのルソー解釈者たちは、そうした「うさん臭さ」をカッコに入れ て、思想家ルソーを解釈してきた。例えば、哲学史家でありルソーの政治哲学に関して浩 瀚な著作を著したヴィクトール・ゴールドシュミットは、このヴァンセンヌの啓示をルソー の「システム」という彼の思想の中心的な二元論が表明されたテクストと見なしている。 つまり、引用文中で下線部である「人間は生まれつき善良であること」と「制度のために のみ悪人になる」というのは、ルソーの諸論文がもつ独自の二元論的な「システム」の端 的な表明に他ならない、と述べているのである41)。 それでは、なぜそうした「真理」が直観的に獲得され開示されえたのか。そのことにつ いて真理と存在という観点からある種の解釈は可能である。つまり、「真理=アレーテイア」 とは「自分自身をしめすもの」であり「存在」と不可分な概念である、とハイデガーは『存 在と時間』において述べている42)。ルソーが直観的に獲得した「真理」とは、予め人間に そしてルソー自身にも内在的にあった「真理」であり、啓示を契機としてそうした「存在」
が明らかにされたのではないか。つまり、そもそも内在的で「生得的」な真理(真実)が あり、それが開示されたという自己解釈が成り立っているのではないだろうかということ である。これを次に「道徳的真理」という語の観点から検証してゆこう。 4.ドン・デシャンの形而上学的真理/道徳的真理という対概念に対するルソーの書簡 ルソーにおける真理論の特徴は、特に『夢想』においては古代ギリシャ哲学以来の「照 応的真理」の系譜にも近い、存在論的な「真理=真実」の観念にあるということが確認で きた。しかし、「真理」の観念は「一般的、抽象的真理」といった普遍性という側面もっ ていた。さて、この両義性を含んだ「真理」は次に見るような「形而上学的真理」と「道 徳的真理」という対立軸という別の角度から考察することができる。そのことに関して、 次のようなルソーの書簡のテクストを見てゆこう。 わたしの愛する真理véritéは形而上学的métaphysiqueであるよりもむしろ道徳的 moraleなものです。わたしが真理を愛するのは虚偽を憎んでいるからです。この点 について、将来的に自分が不誠実になる時だけですが、矛盾することもありえます。 形而上学的真理vérité métaphysiqueが手の届く範囲にあると思われるならば、同様 にその真理も愛したのでしょう。しかし、その真理が書物に書かれているのを一度も 見たことはなく、書物に真理を見出すことに絶望したので、そうした知識をわたしは 退けることとします。私たちにとって有益な真理とは私たちのより身近にあり、それ を獲得するためにはたいそうな科学器具など必要ないとわたしは確信しています43)。
この引用は当時ルソーと書簡を交わしていたドン・デシャンDeschamps, (Dom) Marie-Légerに宛てて1761年6月25日付に書き送った書簡の一節である。より正確には、この時 点でドン・デシャン自身は偽名のデュ・パルクDu Parcと名乗っており、その正体を隠し て書簡を送っていたので、宛先としては「デュ・パルク氏」となっていた。ドン・デシャ ンはベネディクト会修道院院長であり、当時の啓蒙思想家達を批判すると同時にキリスト 教に対しても否定的立場をとっていた人物である。彼の修道院の近辺にあったオルム城と いうところに哲学サロンを開いていて、それは「形而上学的アカデミー」と呼ばれていた。 ドン・デシャンは、当時のルソーやフィロゾフ達に匿名で書簡や著作の一部を送りつけ、 こうした交流がルソーとドン・デシャンの書簡で明らかにされている44)。ドン・デシャンは、 匿名でいくつかの哲学的著作を残しているが、刊行されたものは少なく多くは写本として 残っている。その哲学はスピノザ的な形而上学に基づく世界観を示しているものであり、 唯物論的な傾向もあって当時は極めて危険な思想家、哲学者と見なされていた。 さて、書簡の文章において用いられているvéritéという語に関して、特にドン・デシャ ンとのやり取りでは「形而上学的真理」と「道徳的真理」という二つの観念が区別され、 後者の「道徳的真理」がルソーのより好む「真理」であると書かれている。「形而上学的 真理」という場合、ルソーが指摘しているように、「身近」にはないより普遍的な「真理」 であり、数学的な、或いは科学的な真理と言い換えられるような観念であろうと考えられ る。あるいは、宗教的な「超越的」な真理の意味も含んでいる。「形而上学」という用語は、
18世紀当時において、しばしば宗教的・哲学的な文脈でも用いられ、「形而上学的真理」 は現世を超越した神的なレベルにある「真理」と捉えられる傾向があった45)。 ただし、この書簡の宛先であるドン・デシャン自身は「形而上学的真理」という用語・ 概念を、いわゆる一般的な概念とは少々異なるオリジナルな形で述べていた。このことは 彼自身の残した著作『真理あるいは真の体系』などでも主張されていたことである。われ われが引用したルソーの手紙文が、そうした形而上学者ドン・デシャンに宛てたものであ る点を考えると、用語自体がドン・デシャンからの借用ではないか、と考えるのは自然で ある。とはいえ、「真理」についてわれわれの小論が見てきた方向とは別の見方から両義 的な「真理」観念があることをルソー自身もとりあえず認めているのではないだろうか。 ルソーの「形而上学的真理」という語に向けられた言葉をみると、他の18世紀哲学者た ちと同様、「形而上学」という用語自体に対する反発を禁じ得ないことがわかる。例えば、『エ ミール』の「信仰告白」では、「一般的で抽象的な観念というものは人類の大きな誤りの 源泉なのである。形而上学の奇妙な用語では、ただひとつの真理さえ発見することさえで きず、それらの偉大な言葉をはぎ取ると同時に、哲学を恥ずべき愚かしさで満たした」46)と あるように、ルソーが形而上学に対して不信感を抱いているのは明らかで、デシャンの「形 而上学的真理」と言う用語はルソーがその概念を理解し賛同しているとは言えないもので ある。 他方、ルソーが好んでいるという「道徳的真理」とは、なにを意味するのか?この用語 も実はドン・デシャンの哲学用語にはあるのだが、ルソーがこれを好んでいる理由は別の ところにあるだろう。というのも、全く別の宛名、ソフィー・ドゥドゥット夫人への手紙 をまとめたものとしてある『道徳書簡』と題される書簡集の文章には次のような極めてル ソー的な「道徳的真理」に関する一節が記されているのである。 したがって、すべての魂の奥底には、すべての国民的先入見、すべての教育の方針 maximesに先立つ、正義と道徳的真理vérité moraleの生得的原則principe innéがあり ます。この原則は、独自の教育方針があっても、私たちが自分の行為や他人の行為に ついての善悪を判断する際に拠ってたつ規則なのです。そして、この原則に私たちは 良心conscienceという名を与えています47)。 この書簡のテクストから、ルソーの「道徳的真理」という言葉は、人間に内在する「良 心」あるいは「良心の声」dictamenとの密接な関連の元にある観念であることがわかる。 「道徳的真理」における「真理」はきわめて内在的な「真理(真実)」の意味に接近した観 念であるのではないだろうか。 ドン・デシャン宛の書簡に記した「道徳的真理」という言葉は、ドン・デシャンの哲学 用語における「形而上学的真理」と対になった「道徳的真理」という概念への応答なので あろう。それでは、ドン・デシャン哲学における「道徳的真理」の位置づけはどのような ものであろうか。写本のみが残されているドン・デシャンの著作に『真理または真の体系』 というものがある。この写本の「第一巻ノート二」として「四つのテーゼにまとめられた 形而上学的・道徳的謎のこころ(mot)の要約」の第三番目のテーゼに「形而上学的真理」 と「道徳的真理」の関連性が次のようにまとめられている48)。
テーゼ三 形而上学的な唯一の存在、唯一の原理、唯一の形而上学的真理である普遍的「全体 [全一体]」は道徳的真理を与え、この真理は常に形而上学的真理を支え、またそれに 支えられる。 * 普遍的「全体 [全一体]」が形而上学的な真理または原理であり、関係性の第一の、 または真実の対象であるところから、存在するすべての感覚的なものはそこから直接 発することになる。またしたがって、人間たちや社会を作る他のあらゆる種が互いの 間に持つべき社会的関係性である道徳的 [社会的]真理もそこから直接発することにな る。道徳的真理はまた、普遍的「全体 [全一体]」の展開がその後に引き連れてくる破 壊からも間接的に生じる。この破壊とはわれわれの習俗の破壊であり、われわれを下 敷きにして、「神」の名のもとに作られたこの習俗の道徳的原理の破壊であるから49)。 ドン・デシャンの哲学において、「形而上学的真理」がいわゆる一般的な真理であり、「普 遍的全体 [全一体]」であると主張しているのだが、この「全体 [全一体]」という独特の概 念はデシャン特有のものである。ドン・デシャン全集を訳し解説した野沢協によると、こ の「全体 [全一体]」という観念は、自然の全体を示し、「宇宙」、「世界」、「自然」、「物質」 とも言い換えられる50)、とされている。そしてドン・デシャンの「形而上学」という語は、 アリストテレスの原義に従って、実在を一般的に・普遍的に考える学問であり、キリスト 教世界で俗にいわれる非物質的な「神」や「魂」を対象とするものではない51)。 ドン・デシャンの「道徳的真理」の位置づけは、ルソーのそれとの関連性も明確ではな いが、このことについてはまた別のところで論じるとして、上記引用の文章の限りでは、 vérité moraleという語の含意するところは、道徳的でありかつ社会的関係を指している概 念以外のものではないようである。ルソーからドン・デシャン宛の書簡でわかるのは、「道 徳的真理」というデシャンの用語に対してルソーが目ざとく関心を示している、という指 摘にとどめたい。 以上の「道徳的真理」の意味に極めて近い観念としてルソーが、やはり先にも言及した『道 徳書簡』において用いている「原初的真理」vérité primitiveという言葉がある。これは、「真 理」に関する推論の手続きをある意味で素人であるドゥドゥットゥ夫人に丁寧に説明した ものであるが、全ての既知の「真理」に先立ってある「原初的真理」の存在に言及している。 推論raisonnementというものは、既知の真理を比較する方法であり、既知のものか ら未知の別の真理を作り出し、この方法によって発見ができるものです。しかし、私 たちは、他の真理の要素ともなるこれら原初的真理ces vérités primitivesを推論に 拠って知ることができません。ですから、私たちがこの原初的真理の代わりに私たち の臆見、情念、先入見を置くとすれば、この推論は私たちの蒙をひらくどころか、私 たちを盲目にし、魂を高めることもせず、魂を弱らせ、推論が磨きをかけねばならな いはずの判断を腐敗させるのです52)。
編集した『哲学書簡』において、編者のJ.-F.ペランは、この観念を「自然的、生得的、道 徳直観」の「真理」であると注を付して、「主体に内在的であるゆえに他のすべての真理 に先立っている」と説明している53)。 推論という合理的方法や既知の真理に先立ってあり、生得的である、という「原初的真 理」の特徴は、「道徳的真理」において「先入見」などに先立ち、生まれながらの道徳観 念を言い表している点で、いわば別の形での「真理」の言い換えである、とは言えないだ ろうか。つまり、この道徳的で原初的で、すべての真理に先立ち、主体に内在的な「真理」 がルソーにとっては、普遍的な「真理」のあり方として示されているのではないだろうか。 そこでは、「原初的」primitifという形容詞は、ほぼ「生得的」innéと同義語であると言っ ていいだろう。ルソーにおける「道徳的真理」とは、生得的であり人間に内在的な道徳観 念の謂いであり、言い換えると、生得的な「良心」という「内的感情」54)によって「把握 し難いが、それにもかかわらず論駁不可能な真理」55)として示されているのである。 結論 われわれはルソーの真理論を分析するために、フランス語のvéritéという語が、「真理」 と同時に「真実」という日本語に同義語として翻訳され置き換えられる事象を手掛かりに、 双方が意味的にも、観念としても異なる対象を指すのではないか、という仮定のもとにテ クストの分析を行った。ルソーが『孤独な散歩者の夢想』特に「第四の散歩」で展開して いる虚偽論を巡る内容に関して、多くの先行研究による解釈を参照しながら、この「散歩」 で話題となる座右の銘(標語)を巡っても検討、解釈を行ってきた。また、その他のルソー の著作、とくに『学問芸術論』『人間不平等起源論』を巡るテクストや『道徳書簡』、そし て『マルゼルブへの四通の手紙』そしてドン・デシャンとの往復書簡などをとりあげて、『夢 想』の「真実」の観念と必ずしも齟齬をきたさない「普遍的」であると同時に内在的な「真 理」の命題をルソーがどのようにとらえていたかを検討した。 虚偽論における「真理」とは「嘘」との二項対立的な位置づけがなされていて、真/偽 として、「真理」は「偽り」を取り除いた後に明かされるべき「真実」という意味として 述べられていた。「真実」という観念においては、言表と外的事実との一致、あるいは心 的(感覚・感情的)事実との一致が専ら問題となるのである。これは、日本語の翻訳では 「真実」であり「真理」という語はむしろ「一般的で抽象的」なvéritéを置き換えていた。 これは、まさしく「真理=真実」véritéの意味論的な二重性が見られる展開となっていた。 ルソーの座右の銘(標語)において問題となる「真理=真実」には、典拠元のユウェナー リスの諷刺詩の詩句の本来の内容では、古代ギリシャ・ローマ哲学について指摘されてき た「パレーシア」哲学の一端を見ることができる。ただし、元となるユウェナーリスの詩 句自体のコンテクストは否定的な「パレーシア」となっている点がルソー自身の自己否認 や屈折を想起させていた。「真理のために命をささげる」という標語は、「パレーシアステー ス」のようになることのできないルソー自己自身のそして人間に普くあると見なした「弱 さ」のそして反主知主義的な人間論の表明として捉えられる。 ルソーの「真理(真実)」の二重性が解消する地点は、「道徳的真理」が生得的能力とし て道徳観念がもつという普遍的、一般的な「真理」を主張する点にある。この「真理」は、
すべての人類にとってなによりも先立つ真理であり、しかも内在的な自己の「真実」を明 かすべく考察された観念である。「真理」であると同時に「真実」としてあるvéritéの語 の意味として最もルソー的であるのがこの「道徳的真理」の観念ではないか。この「真理」 においてこそ、ディドロやドルバック等のフィロゾフ達の主知主義的道徳論とは一線を画 すルソーの反主知主義的な道徳観56)を主張しえたと考えられる。 ルソーの著作や書簡において「道徳的真理」という単語は多用されていないが、ここで 検討しえたテクストはわずかであり、全ての場合を見ているわけではない。この語、観念 の由来、他の思想家との影響の応答など今後の課題としてゆきたい。
*ルソーの著作からの引用文は、原則Œuvres complètes, Édition thématique du Tricentenaire, Slatkine Honoré-Champion版のページ数を記入しETと略記する。
また、Classique Garnier版のŒuvres complètesについても刊行されているものはページ 数を付した。また、書簡のアンソロジーであるLettres philosophiquesのページも付すよう にした。日本語訳については、従来のものを参考とし必要に応じて改変をして自訳を記し た。
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馬場朗、 « Sanabilibus aegrotamus malis »、―ルソー『エミール』のストア主義を巡る一視座―(一)、(二)、 (三)、東京女子大紀要論文集68(1)2017年、 68(2)2018年、 69(2)2019年。 ハイデガー(マルティン)、『存在と時間』(岩波文庫)熊野純彦訳、岩波書店、2013年。 廣松渉他編、『岩波哲学・思想事典』、岩波書店、1998年。 淵田仁、『ルソーと方法』、法政大学出版局、2019年。 フーコー(ミシェル)、『真理とディスクール―パレーシア講義』、中山元訳、2002年。 ―『自己と他者の統治』、阿部崇訳、筑摩書房、2010年。 ―『真理の勇気』、慎改康之訳、筑摩書房、2012年。 ペラン(ジャン=フランソワ)、「黙秘の権利から高貴なる嘘へ―「第四の散歩」の理論的・文学的背景―」、 「思想」第1027号、2009年11月。 スタロバンスキー(ジャン)、『ルソー 透明と障害』、山路昭訳、みすず書房、2015年。 ユウェナーリス(デキムス・ユニウス)、『諷刺詩』、国原吉之助訳『ローマ諷刺詩集』(ペルシウス、ユウェ ナーリス作)所収、岩波書店、2012年。 註 1)桑瀬章二郎、『嘘の思想家ルソー』pp.1-38。 2)ジャン=フランソワ・ペラン、「黙秘の権利から高貴なる嘘へ―「第四の散歩」の理論的・文学的背景 ―」、「思想」第1027号(2009年11月)、pp.91-115。Jean-François Perrin, « Du droit de taire la vérité
au mensonge magnanime : sur quelques arrière-plans théoriques et littéraires de la Quatrième Promenade », Littératures. n.37(Grenoble), 1997, pp.115-130.
3)Paul De Man, Allégories de la lecture, traduction par Thomas Trezise, Galilée, 1989, chapitre 12 «Excuses (Confessions)», pp.333-358.
4)桑瀬章二郎、前掲書、 第一章「マリオンと盗まれたリボン」、pp.2-37。
5)中島ひかる、「真実と義務―J.-J.ルソー『孤独な散歩者の夢想』第4・第6の散歩」東京医科歯科大 学教養部研究紀要45巻、pp.1-14。
6)P. De Man, Op., cit..
7)Jacques Derrida, « Le ruban de machine à écrire (Limited Ink II) » in Papier Machine, pp.33-147. 8)「ラカン的な精神分析である」、という言葉はデリダからのド・マンの分析をメタ分析して形容した
表現である。Cf. Derrida, Papier machine, p.44.「盗まれたリボン」という表現は言うまでもなく、ジャッ ク・ラカンの「『盗まれた手紙』」に関するセミネール」を指している。Cf.Jacques Lacan, Séminaire sur « La lettre volée », in Ecrits.
9)Jacques Derrida, Histoire du mensonge Prolégomènes.
10)この小論においてルソーの原語véritéという語をどのように訳すべきかという問題は判断が難しいも のである。とはいえ、基本的には従来の日本語訳を尊重しながら、両義的な意味の可能性がある場 合は「真理=真実」と訳した。 11)廣松渉他編、『岩波哲学・思想事典』、項目「真理」、岩田靖夫、野家敬一他、p.849を参照。 12)前掲書、pp.848-851。 13)こうした真理観は「真理の照応説」と呼ばれるものの元型である。『岩波哲学・思想事典』、項目「真 理」、前掲頁を参照。 14)アリストテレス、『形而上学』出隆訳、1101b26-7、p.58。
15)Jean-Jacques Rousseau, Les Rêveries du promeneur solitaire, in Œuvres complètes tom.III,(ET) , p.503., Les Rêveries du promeneur solitaire, in Œuvres complètes (CG), p.191.
16)ET版の注ではJean Deprunの論文 « Glanes en marge de Rousseau » dans Littérature et Société, Recueil d’études en l’honneur de B. Guyon, 1973を参照先としている (note 5, p.503)。一方、CG 版の注でも同様にJean Deprunの指摘を参照としているが、異なる論文が指示されている。CG版で は« Fontenelle, Helvétius, Rousseau et la casuistique du mensonge», Actes du colloque Fontenelle de Rouen, 1989となっている (note 14, pp.409-410)。CG版では、エルヴェシウスの『精神論』の内容 に触れ、フォントネルの引用とそれについてルソーが書き込みをした内容についても言及した長大 な文末脚注が記されている。なお、このCG版注の内容は、上記のJ.-F.ペランの論文のコメントにほ ぼ一致している。
17)J.-F.ペラン、前掲書、pp.96-99。
18)Rousseau, Œuvres complètes tom.III, Les Rêveries du promeneur solitaire, (ET) p.504, (CG), p.193. 19)J.-F.ペラン、前掲書。
20)Rousseau, Rêveries., (ET), p.505, (CG), p.195. 21)Ibid., (ET) p.504. (CG) p.193.
22)ET版全集ではŒuvres complètes tom.III, Les Rêveries du promeneur solitaire, p.502, n.4 およびn.5。 CG版ではŒuvres complètes tome XX 1776-1778, n.3, pp.404-405. に同様の記載が見られる。