カンボジアにおける初等教育開発の歴史的展開②(平山) 221221
はじめに
国連カンボジア暫定統治機構(United Nations Transitional Authority in Cambodia: UNTAC)による 統治を経て1993年に新政府が発足して以降,カンボジアでは,国際機関,二国間援助機関,NGO等 の積極的な介入のもとで教育開発が推し進められている。開発途上国における教育開発の世界的潮流 もふまえ,「初等教育の完全普及」(universal primary education: UPE)をはじめとした多くの教育目 標が設定され達成のために努力がなされているが,その大多数は依然として実現を見せていない。
本論文は,現在のカンボジアにおける教育開発を疎外している主要因のひとつとして,国家の姿勢 を大きく変えながら進展してきたカンボジアの近現代史に着目し,教育開発の歴史的展開をたどるこ とによって問題の根源を明らかにすることを目的とする。その際,特に初等教育段階に焦点を当て,
初等教育の量的拡大や質的向上(教育の「クメール化」(khmerization)を巡る動向を含む)に向けて,
どのような取り組みがなされ,またどのような課題が残されてきたのかを考察したい。
カンボジアにおける教育開発の歴史区分方法は明確に定まってはいないが(1),本論文では,①学 校教育の導入と拡大(1958年以前),②学校教育の発展と崩壊(1958年から1979年),③学校教育 の復興(1979年から1993年),④新政府樹立後の教育発展(1993年以降)に四分する。本稿は「カ ンボジアにおける初等教育開発の歴史的展開②」と題し,1958年の教育改革からポル・ポト(Pol, Pot)政権による学校教育の破壊までを論じる。1958年以前の初等教育開発に関しては拙稿(2011)(2)
を参照されたい。
研究方法は文献研究による。1953年から1997年ないし1998年までのカンボジアの教育の歴史 を記したエイヤーズ(Ayers: 1997, 2000)(3)の著作・論文を中心に,デイ(Dy: 2005)(4),コロク
(2001)(5),林原(2001)(6)の論文,政策文書,教育省が発行した教育雑誌,ユネスコによる各種報 告書,また日本の文部省によって組織された東南アジア教育事情調査団の報告書等をあたり,1958 年から約20年間の初等教育開発の全体像を明らかにすることを試みた。その他の邦文文献にも,主 にカンボジアの教育事情に関する論を展開する際の導入として教育の歴史を取り上げたものが存在す るが(例えば高橋,内海(1996)(7),清水(1997)(8),前田(2003)(9),正楽(2006)(10)),それらは あくまで導入であるため,3.5〜6.5頁程度の記述にとどまっている。本稿は,当時の初等教育開発 を理解するうえで必要であると考えられる最低限の政治・社会状況も押さえつつ,できうる限り詳細
カンボジアにおける初等教育開発の歴史的展開②
―
学校教育の発展と崩壊(1958 年から 1979 年)
―平 山 雄 大
な記述を行うことに努めた。
本稿の構成は以下の通りである。まず第1節において,1958年,1963年,1967年のそれぞれの教 育改革を取り上げ,当時の学校教育の量的拡大と教育の「クメール化」推進の状況を把握する。続く
第2節において,1970年代の2度の政権交代による社会的混乱と初等教育開発の停滞・崩壊を論じる。
1.学校教育の発展
1953年11月にカンボジアはフランスからの完全独立を果たし,東西陣営のどちらにも属さない 非同盟中立国として比較的平和な時代を迎える(11)。当時の国王ノロドム・シハヌーク(Norodom, Sihanouk)(在位1941〜1955年,1993〜2004年)は,自ら国政指導を行うため1955年4月に王位 を父であるノロドム・スラマリット(Norodom, Suramarit)(在位1955〜1960年)に譲り,同年9 月に実施された選挙で首相兼外務大臣に就任した。シハヌークは人民社会主義共同体サンクム・リ ア・ニヨム(Sangkum Reastr Niyum)を結成し,対内的には仏教社会主義政策,つまり仏教の公平 理念を中心に据え,王制を維持するとともに政府の指導下で開発を行う政策を,対外的には中立政策 を標榜した。1960年にスラマリットが亡くなると,シハヌークは王位を空けたまま国家元首という 新たな位に座を構え,国政指導を続行する。
「シハヌーク時代」とも呼ばれるこの時期,教育の充実は最重要課題とされ教育開発が加速した(12)。 国家予算の20%以上が教育予算に充てられ,学校教育の就学者は大幅に増加する。また,フランス 植民地時代には取り組まれることのなかった成人識字率の向上という課題にも目が向けられ,その ための努力が費やされた(13)。政府による教育政策では,①小学校の建設,②中等教育への就学機会 の拡大,③カンボジア人教員の養成が優先事項として掲げられ(14),農村部における初等教育機関
=クメール公立学校(école public khmer)(15)の建設や都市部における中等教育機関=下級中等学校
(college)及び上級中等学校(lycée)の建設,新たな初等教員養成機関としてコンポン・コントゥッ ト教員養成センター(centre de formation Kampong Kantuot)及びトンレ・バティ教員養成センター
(centre de formation Tonlé Bati)の設置が行われた。また,それまで唯一の教員養成機関であった師 範学校(école normale)は国立教育大学(institut national de l’éducation)(16)へと改称され,1958年 からは前期中等教員養成の役割も担うようになる。
しかしながら,カンボジアの学校教育は依然としてフランス式のものであり,国民の要求に答える 教育が的確に実施されていると言える状態ではなかった。教授言語をカンボジア語に統一すること,
教育内容をカンボジアに沿ったものに改善すること等を通したフランス式の教育からの脱却は独立以 前より目指されていたが,それらが実行に移されるのは1958年のチャウ・セン(Chau, Seng)によ る教育改革においてである。
1.1 1958年の教育改革
チャウ・センは,1958年1月から4月まで教育次官(教育省国務次官),1958年4月から1959年
カンボジアにおける初等教育開発の歴史的展開②(平山)
6月まで教育大臣(教育省国務大臣)を務めた人物である(17)。チャウ・センは教育省の再編,成人識 字教育の開始,教育制度や教育内容の見直しといった数々の教育改革に着手したが,教育の「クメー ル化」を試みた点は特に意義深く,それによってカンボジアの学校教育は大きく様変わりを見せはじ める。
教育の「クメール化」は,第1に,フランスの事象を扱った科目を廃止しカンボジアに関する科 目を設置するという方法で行われた。当時の初等教育の授業科目はフランス語,カンボジア語,算 数,歴史,地理,衛生観念,道徳等であり,カンボジア語と道徳を除き使われている教科書はフラ ンスで用いられているものと同様のものであったが,1958年の教育改革において,歴史や地理はフ ランスのものではなくカンボジアのものを教えるように修正が施された。また,フランス語の授業時 間は短縮され(18),代わりに理科や技術が新科目として採用された(19)。さらに,フランス語の教科書 は,フランスで用いられているものからフランス以外の国でのフランス語教育用に作成された『モー ジェー』(Mauger)と呼ばれる教科書に変更された(20)。
第2に,教授言語へのカンボジア語の採用である。当時の初等教育の教授言語は第1学年の全教科
と第2学年以上のカンボジア語と道徳以外はフランス語であったが,チャウ・センの教育改革により,
すべての科目の教授言語はカンボジア語とされた。
また,1958年には教員養成制度も改訂されている。それまで教員養成機関の入学資格は初等教育 修了(6年間の学校教育修了)で,5年間の養成後に前期中等教育修了資格及び教員養成修了資格が 与えられていたが(21),以降の初等教員養成機関の入学資格は前期中等教育修了(10年間の学校教育 修了)とされ,養成期間は1年に短縮された(22)。
1945年に3万2,000人だった初等教育就学者数は1957年には約10倍の30万5,000人にも上って いたが(23),その数字は1960年には54万3,000人(24)にまで増大している。1960年から開始されたカ ンボジアの第1次5ヵ年計画では,「国家教育分野においてすでにかちえた輝かしい成果をより完全 な,より強固なものとする」(25)ことが主目的のひとつに掲げられ,1964年までに初等教育就学者数 を81万人にすることが目指されている。同計画では高等教育機関の設置,中等教育の人員的・物質 的充実,教員養成校の拡張・近代化も謳われており,この時期,初等教育に限らず,すべての教育段 階の量的拡大とそれに伴った教員の増員(26)が目指されていたことが把握できる。
1958年の教育改革によって学校教育の場からフランスの色を消す努力がなされたが,エイヤーズ は,シハヌークの教育の量的拡大への行き過ぎた執着が教育の質的向上及び教育制度の根本的な修正 を疎外したため,チャウ・センの教育改革は失敗に終わったと述べている(27)。また,社会・経済発 展が追いつかなかったことから修了生の失業問題が顕在化し,彼らの不満が増大したという指摘もな されており(28),教育の量的拡大の進行に付随する問題が顕在化する中で,教育の「クメール化」の 推進は一度影を潜めることになる。
1.2 1963年の教育改革
1963年12月,シハヌークは首都プノンペン(Phnom Penh)において教育に関する会議を開催した。
同会議において,教育の量的拡大に教員の増員が追いついていないことが確認され,その解決策とし て半日制(2部制,3部制)の授業形態が導入されることとなった(29)。また,社会・経済発展を成し 遂げ修了生の失業問題を解決するため,中等教育において理数科を強化すると同時に初等教育におい て実用的な職業訓練を導入するという決定もされた。しかしながら,この教育内容に関わる教育改革 は実現に至らなかった。
この時期,カンボジアの教育政策立案者は,シハヌークの推進する教育の量的拡大政策とユネスコ が提唱する教育の質的向上政策の間で板挟みになっていたようである。最終的には第1次5ヵ年計画 にも盛り込まれた教育の量的拡大政策が優先され,教育予算の多くが学校建設にのみ充てられたこと も影響し,教育の質は低下したと報告がなされている(30)。また,半日制の授業形態では規定されて いた授業時間数を確保することができず,初等教育においては30時間/週のうち実際に授業が行わ れていたのは24時間/週のみであったという(31)。
1965年には高等教育機関が数多く設立された。1960年にはカンボジア初の総合大学となる王立ク メール大学(université royale de khmer)(32)が設立されていたが,1965年に王立技術大学(université royale de technologie),王立芸術大学(université royale des beaux-arts),コンポンチャム王立大学
(université royale de Kompong Cham),タケオ−コンポート王立大学(université royale de Takeo- Kampot),王立農業大学(université royale d’agriculture)等が相次いで設立された(33)。これは,前年 にインドネシアを訪問し同国の高等教育に感銘を受けたシハヌークが,カンボジアの国際的評価を高 めようと教育省の意向や教育予算の状況を無視して取り組んだものであり(34),教育の「クメール化」
とは相反し,教授言語にはフランス語が採用され,教育内容はフランスの高等教育を模倣したもので あった。
多くの教育予算がこれらの大学の設立及び運営に投入されたが,例えばタケオ−コンポート王立大 学には海から50キロも離れているにもかかわらず海洋学部が,また医師がいないにもかかわらず医 学部や附属病院が設置されていたという事実からも推察されるように,実質的な学問知識や運営能力 は欠如していた(35)。このような無計画な高等教育機関の設立もまた,初等教育の質的向上に向けた 取り組みを阻害し,質の低下をもたらした大きな要因であったと考えられる。
1.3 1967年の教育改革
チャウ・センの教育改革によって学校教育の教授言語はカンボジア語とされたが,実際の教育現場 ではその取り組みは徹底されておらず,依然として,とりわけ中等教育の理数科はフランス語で教え られていた(36)。教授言語をフランス語からカンボジア語に変更することの難しさについて,コンポ ン・コントゥット教員養成センター長(当時)のホー・トン・ホー(Hoe, Tong Hoe)は,教員がカ ンボジア語を教授言語として使用することに慣れていないこと,教科書や教員用指導書がカンボジア
カンボジアにおける初等教育開発の歴史的展開②(平山)
語に訳されていないこと等と並び,カンボジア語固有の問題を指摘している。すなわち,カンボジア 語は文学や哲学の言葉であり,中等教育レベルの理数科を教授する際には必要な語彙がないというの である(37)。
このような懸念の中,1967年7月に開催された国民議会において,生徒のフランス語習得の負担 を軽減し授業の理解を優先させることを第一義として,初等教育及び中等教育のすべての教科の教 授言語をカンボジア語に統一することが決議された。この決議によって,フランス語の専門用語に 充当するカンボジア語を創出する,もしくはフランス語に置き換えられていた語彙をカンボジア語 に戻す作業が急ピッチで進められ,同年9月に刊行された月刊の教育雑誌『クメール化』(Revue de khmérisation)に対訳リストを掲載する等して教員への周知が計られたが,この教育の「クメール化」
を徹底させる試みは有効に機能せずに,むしろ教育現場に混乱を招いたという(38)。
ちなみに,上述の通り1958年の教育改革によって初等教育におけるフランス語の授業時間は短縮 されたが,それ以降も,第4学年から第6学年にかけて,30時間/週のうち6〜7時間/週はフラ ンス語の授業に割り当てられていた(39)。教育の「クメール化」推進の中,1967年8月発行の『クメー ル人教師』(Revue de l’instituteur khmer)(40)最終巻に,初等教育におけるフランス語教育の必要性に 疑問を投げかけるレポートが掲載されている(41)。
フランス語は文化的な言語であるが,少数のエリートが使っているに過ぎない。進学や研究の ために,フランス語は必須である。国際会議においてもフランス語は用いられている。だが,初 等教育を終えた生徒のどのくらいが進学できるのであろうか。公表された数字によれば,100人 に1人がバカロレアに合格できるに過ぎない。国際会議について言えば,何人の人が国際会議に 参加できるのであろうか。年に10人程度である。このような状況において,なぜ99%の若い世 代の未来を拘束するのか。
フランス語教育に関して否定的な意見が公的な教育雑誌に掲載されたのはこれが初めてのことで あった。1967年の教育改革によってフランスの影響を減らすという意識が浸透し,教授言語に限ら ずフランス語教育の在りかたにも再考の波が及んだことが推察される。
教育の質的向上の重要性に関しては,1966年から開始された第2次5ヵ年計画において指摘され ているが,有効な政策は実施されていない。一方で教育の量的拡大は引き続き進行しており,初等教 育就学者数は1960年代後半には100万人に達し,女子の初等教育就学率は1950年には9%に過ぎな かったものが1965年には39%にまで増大した(42)。
「シハヌーク時代」のカンボジアにおける教育の量的拡大は,質の伴っていない,または持続可能 性のない教育開発であったと否定的な見解もなされているが(43),それでも初等教育が全国的に普及 したことには一定の意義があろう。メアス(Meas)の指摘する通り,教授法やカリキュラムに関す る改革は限定的なものであったが(44),教育の「クメール化」を通した教育の質的部分への注視は,
1958年の教育改革及び1967年の教育改革の中に見ることができる。上述の通り教授言語をカンボジ ア語に統一することによる混乱が生じたが,この混乱は,フランス式の教育からの脱却を計るうえで,
さらにはカンボジアがフランスの影響から抜け出し,真に独立国として歩みを進めるうえでは避けて は通れない過程であったと考えられる。
2.学校教育の崩壊
前節で論じた通り,1950年代から1960年代を通して,カンボジアでは安定した政治状況の中で 教育の量的拡大を中心に初等教育開発が行われた。しかしながら,1960年代末より,シハヌーク が掲げた中立政策は東西冷戦構造の中で徐々に崩れていき,後にポル・ポトと名乗るサロト・サル
(Saloth, Sar)を中心とした共産勢力による活動や隣国のベトナムにおける戦争の影響によってカン ボジアは不安定な状況に陥っていった。1970年以降,学校教育も社会的混乱の影響を強く受け,初 等教育開発は停滞し,さらには崩壊の道をたどることになる。
2.1 ロン・ノル政権(1970 〜 1975年)
1970年3月,アメリカの後押しを受けたロン・ノル(Lon, Nol)首相(当時)及びシソワット・シ リク・マタク(Sisowath, Sirik Matak)副首相(当時)のクーデターにより,シハヌークは追放される。
議会はシハヌークに死刑を宣告するとともに王制廃止と共和制施行を議決し,同年10月にクメール 共和国(Khmer Republic)が誕生した。シハヌークは中国に亡命し北京において亡命政権カンボジア 王国民族連合政府(Government of National Unity of Kingdom of Cambodia)を樹立し,反ロン・ノル 政権及び反米を掲げ,共産勢力クメール・ルージュ(Khmer Rouge)と手を組んでカンプチア民族統 一戦線(National United Front of Kampuchea: FUNK)を結成した。こうしてカンボジアの政治勢力 はロン・ノル政権とカンプチア民族統一戦線とに二分し,衝突が繰り返されることとなる。
ロン・ノル政権は発足当初,「シハヌーク時代」の無計画な教育開発を批判しつつも(45),第2次5ヵ 年計画の目標を踏襲し,教育の質の低下を抑える行政・カリキュラム改革をもとにした「初等教育の 完全普及」達成を教育政策の目標とした。その政策は,①より多くの小学校の建設,②新しい教授法 をもとにした教員養成及び研修,③新しい経済,社会,文化に適応した賢明な教育制度の導入という ものであった(46)。また,1972年5月に公布・施行されたクメール共和国憲法では国民の教育の権利 が保障され,基礎教育は義務・無償制であると規定された(第19条)(47)。
過去の象徴を根絶するため,教室からはシハヌークの肖像が取り外され,学校名から王室に由来す る言葉が除かれた。カリキュラム改革は政治的含意を踏まえ大きな関心事として浮上し,歴史の教育 内容を再考することと並び,政治や経済に特化した科目を新設することが計画された(48)。また,ロ ン・ノル政権の教育政策においては,西欧の教育思想を学校教育に取り入れることによって共産主義 の浸透を防ぐという試みも計画されていた(49)。
このように多くの教育政策が提出されたものの,社会的混乱の中でその多くは実行に移されること
カンボジアにおける初等教育開発の歴史的展開②(平山)
はなかった。1970年4月,ホーチミン・ルート(50)を粉砕する名目でロン・ノルは米軍とベトナム共 和国軍のカンボジア侵攻を容認した。かねてより局地的に行われていた米軍による空爆もカンボジア 全土に拡大したため地方の農村部は壊滅的な打撃を受け,短期間のうちに200万人もの国内難民が発 生した(51)。ロン・ノル政権政府軍とカンプチア民族統一戦線の主導権を握ったクメール・ルージュ の戦闘も激化し,農村部では多くの学校が閉鎖され,学校教育活動そのものが困難になった。
国内難民は都市に流出し,都市部の人口は急激に増大した。プノンペンにおける1970/1971年度の 初等教育就学者数の約40%はそのような国内難民で占められていたという(52)。都市部の学校教育は 当初は機能していたが,物資不足やそれに伴う物価上昇が人々の生活を圧迫していく中で,また軍事 予算の拡大に伴い教育予算が減少していく中で,次第に立ち行かなくなっていった(53)。
2.2 ポル・ポト政権(1975 〜 1979年)
1975年4月,クメール・ルージュはプノンペンへの入城を果たし,ロン・ノル政権は崩壊した。
市民は歓喜とともに彼らを迎え,新政権がもたらしてくれるであろう平和と繁栄を夢想したが,ク メール・ルージュはプノンペン入城直後,国内難民も含めすべての市民を市内から追い出し,解放区
(農村)への強制移住を断行した。
ポル・ポトを首相に仰ぎカンプチア共産党(Communist Party of Kampuchea: CPK)として政権を 握ったクメール・ルージュは,1976年1月に民主カンプチア憲法を公布し,共産主義国家民主カン プチア(Democratic Kampuchea)を打ち立てる。ポル・ポト政権は毛沢東の思想を奉ずるままに急 進的な共産主義政策を断行したため,国内は大混乱に陥った。同政権は,従来の社会的価値や人間関 係を根本から否定し,集団による農業を中心とした原始共産制社会への回帰を目指した(54)。伝統文 化や宗教は否定され,貨幣制度や経済活動は廃止され,私有財産の保持は禁止された。学校は閉鎖さ れ,校舎は倉庫や収容所として使用された。
民主カンプチア憲法に教育に関する条項はないが,1976年8月に提出された『党書記長による予 備的説明』(Preliminary Explanation Before Reading the Plan, by the Party Secretary)という文書の中に,
ポル・ポトの教育に対する姿勢を読み取ることができる。それによると,第1に,読み書き(文字と 数字を覚えること)は技術を学ぶ手段としてのみ必要なものである。第2に,技術は実践することに よってのみ習得することができる。第3に,その習得は政治意識を高めることによって迅速かつ効果 的に行われる(55)。そこでは今まで行われてきた学校教育が否定され,完全なる実学主義が提唱され ている。
また,同年9月に策定された『社会主義国家建設のための4ヵ年計画』(The Party’s Four-Year Plan to Build Socialism in All Fields, 1977–1980)には,「文化,読み書き,芸術,技術,科学,大衆教育,
プロパガンダ,及び情報」に関する項目に110頁中3頁が割かれており,物質的生産のために半日 を労働に従事し,残りの半日を学業に費やすという形式が教育の理想であるとの規定がなされてい る(56)。同計画には,3年間の「一般的」初等教育,3年間の「一般的」前期中等教育,3年間の「技術的」
後期中等教育,3年間の「技術的」高等教育といった新たな教育制度の構想や,「一般的」教科の科 目リスト(読み書き,計算,地理,革命闘争の歴史,自然科学,物理,化学,政治意識・組織)も掲 載されているが(57),同計画は公式には発表されず,この教育改革が実行に移されることはなかった。
ちなみに民主カンプチアには教育省も存在したが,政治的内容を多く含んだ教科書を数冊発行したの みで,実質的にはほとんど機能していなかった。
子どもたちは解放区の生産共同体で集団労働生活を営んでいたが,そこでの教育は政治教育に重点 が置かれ,共産主義思想及びクメール・ルージュの思想を教え込む教育(58)の他は,技術を学ぶ手段 としての最低限の読み書き及び計算に関する教育が行われているに過ぎなかった(59)。子どもたちは
『社会主義国家建設のための4ヵ年計画』で語られた理想的な教育像に従い,半日を学業に費やし,
残りの半日は農業,牛や豚の飼育や養鶏,灌漑水路の建設等に従事する生活を送った。教員の役割 はポル・ポト政権以前からの解放区の住民である「旧人民」(60)が担ったが,教員資格を持っているも のは皆無であり,教員自体が非識字者であった場合も多かったようである。教科書や筆記用具不足も 影響して,読み書き及び計算に関する教育の質は相当低かったと考えられる。このような教育活動は 1975〜1976年頃は活発であったが,第2,第3の強制移住が実施される中で,次第に行われなくなっ ていった。
ポル・ポト政権による非現実的な食糧増産計画は早い段階から失敗を重ね,食糧危機がカンボジア 全土を覆い飢餓が蔓延した。また,同政権は政治権力保持のために内部の「敵」の粛清を始め,(元)
僧侶,教員,医者,技術者等は真っ先に弾圧の対象となり多くの知識人が処刑された。同政権が権力 を握っていた3年8ヵ月の間に,教員の75%,大学生の96%,初等教育及び中等教育を受けていた 子どもたちの67%以上が飢餓,病気,過労,そして処刑で亡くなったと報告されている(61)。当時亡 くなった人々の数は100万人とも300万人とも言われており(62),政権終了時,生き残った初等教員 は約8分の1の2,800人,前期中等教員は約10分の1の207人のみであった(63)。国土は疲弊し人材 も枯渇し,ポル・ポト政権発足以前の教育開発の努力は無に帰した。
1979年1月,クメール・ルージュの(元)将校でベトナムに亡命していたヘン・サムリン(Heng, Samrin)率いるカンプチア救国民族統一戦線(United Front for the National Salvation of Kampuchea:
UFNS)を支援したベトナム軍の侵攻により,ポル・ポト政権はプノンペンから放逐された。カンボ ジアには新しくカンプチア人民共和国(People’s Republic of Kampuchea)が誕生し,ベトナムの傀 儡政権であるヘン・サムリン政権が樹立される。社会主義国家の建設を目指す同政権によってカンボ ジアの学校教育は再開され,復興に向けて,新たな形の初等教育開発が展開されていくことになる。
おわりに
以上,1958年から1979年までのカンボジアにおける初等教育開発の展開を,「シハヌーク時代」
の学校教育の発展,及びロン・ノル政権,ポル・ポト政権によって引き起こされた学校教育の崩壊に 二分して論じた。本稿により,1958年からの約10年間は,学校教育の量的拡大が進行する中で,フ
カンボジアにおける初等教育開発の歴史的展開②(平山)
ランス式の教育からの脱却という独立以前からの課題に向けて,混乱をきたしながらも教育の「ク メール化」が実施されてきたことが明らかになった。また,1970年以降の約10年間においては,政 権交代によって新たな教育政策が提出されるものの社会的混乱の中でその多くは実行に移されず,最 終的に学校教育が廃止されるとともに人材も失われ,教育開発の長年の努力が無に帰すという一連 の流れが明確になった。本稿で取り上げた約20年間のカンボジアの政治・社会状況は前半と後半で 対照的であり,教育状況にも雲泥の差が存在する。フランス式の教育からの脱却は学校教育の崩壊を もって予期せぬ形で実現することとなり,結果として,この時期はカンボジアの教育開発の大きな転 換点となった。
ただし,カンボジアが真に独立国として歩みを進められるのは,1993年の新政府の発足以降のこ ととなる。ポル・ポト政権に代わって誕生したヘン・サムリン政権はベトナムの傀儡政権であったが ゆえにベトナム及びソ連の影響を強く受け,教育内容は社会主義色が濃いものとなっていく。教育の 量的拡大及び質的向上双方が改めて喫緊の課題として浮上する1979年以降の初等教育開発は,どの ように展開するのであろうか。次稿では,教育の「ベトナム化」(vietnamization)と「再クメール化」
(re-khmerization)をキーワードに,新政府樹立までの初等教育開発を論じたい。
注⑴ 例えば,高橋,内海は「近代教育のはじまり(1953〜1975年)」,「近代教育の挫折(1975〜1979年)」,
「教育の復活(1979年〜)」,清水は「古代」,「植民地と独立」,「内戦とクメール・ルージュ」,「復興と再建 期」,「和平協定と総選挙」,前田は「伝統的教育(〜1863年)」,「学校教育制度の導入(1863〜1953年)」,
「学校教育制度の発展(1953〜1970年)」,「学校教育制度の崩壊(1970〜1979年)」,「学校教育制度の復興
(1979〜1989年)」,「教育開発の本格化(1989年〜)」,正楽は「近代教育の創生と拡大(〜1970年)」,「学 校教育制度の崩壊と再建(1970〜1989年)」,「国際支援による教育の拡大(1989年〜)」と分けている。また,
エイヤーズは「伝統的背景」,「シハヌークとサンクム」,「ロン・ノルと共和国」,「ポル・ポトとクメール・
ルージュ」,「カンプチア共和国とカンボジア国」,「ラナリットとフン・セン」,デイは「1950年代及び1960 年代の基礎教育の機会の強化」,「教育の危機・衰退(1970〜1975年)」,「学校教育の廃止(1975〜1979年)」,
「教育の復興・再建(1979〜1989年)」という区分を用いている。高橋宏明,内海成治(1996)「社会と教 育」(綾部恒雄,石井米雄編『もっと知りたいカンボジア』弘文堂)第6章,190–195頁。清水和樹(1997)
『カンボジア・村の子どもと開発僧―住民参加による学校建設報告―』社会評論社,58–64頁。前田美子
(2003)「カンボジア―負の遺産を背負う教師たち―」(千葉たか子編『途上国の教員教育―国際協力の現場 からの報告―』国際協力出版会)第2章,32–37頁。正楽藍(2006)「カンボジアの教育計画―基礎教育開発 とその課題―」(山内乾史,杉本均編『現代アジアの教育計画(下)』学文社)第15章,221–225頁。Ayers, David M. (2000) Anatomy of a Crisis: Education, Development, and the State in Cambodia, 1953–1998, Honolulu:
University of Hawai’i Press. Dy, Sideth S. (2005) Basic Education Development in Cambodia: Targets and Policies for Quality Improvement, Tokyo: Setsutaro Kobayashi Memorial Fund, Fuji Xerox Co., Ltd., A Research Paper for 2003, pp. 22–30.
⑵ 平山雄大(2011)「カンボジアにおける初等教育開発の歴史的展開①―学校教育の導入と拡大(1958年以 前)―」(早稲田大学大学院教育学研究科『早稲田大学大学院教育学研究科紀要 別冊』)19号−1,215–226頁。
⑶ Ayers (2000) op. cit. ̶ (1997) Tradition and Modernity Enmeshed: The Educational Crisis in Cambodia
(1953–1997)”, Ph.D. thesis, The University of Sydney.
⑷ Dy (2005) op. cit.
⑸ コロク・ヴィチェト・ラタ(2001)「カンボジアの教師教育に関する一考察―制度的な発展と養成基準―」
(名古屋大学大学院教育発達科学研究科『名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学)』第48巻第 1号)57–70頁。
⑹ 林原友美(2001)「カンボジア独立後の公教育(1947–1967年)の考察―『クメール人教師のための雑誌
(Ravue de l’Instituteur Khmer)』研究―」(上智大学アジア文化研究所『カンボジアの文化復興―アンコール遺 跡および伝統文化復興の研究・調査―』第18号)199–218頁。
⑺ 高橋,内海(1996)前掲書。
⑻ 清水(1997)前掲書。
⑼ 前田(2003)前掲論文。
⑽ 正楽(2006)前掲論文。
⑾ 1955年4月,インドネシアのバンドン(Bandung)で開かれたアジア・アフリカ会議(Asian-African
Conference)において,シハヌークは非同盟・中立外交政策を表明した。また,1956年2月にアメリカ
主導のもとで作られた反共軍事同盟である東南アジア条約機構(The Southeast Asian Treaty Organization:
SEATO)への加盟を拒否することで,その意志を明確にした。
⑿ 東南アジア教育事情調査団は,その有様を教育開発に対する「異常な熱意」と評している。矢部貞治(1961)
『カンボデイア・マラヤ・インドネシア・タイ教育事情調査報告書』文部省,101頁。
⒀ ユネスコ主催の第22回公教育国際会議(22th International Conference on Public Education)におけるプウ ン(Pung)の報告によると,1958年の時点でカンボジアにおける女性の成人識字率は10%に過ぎなかった という。また,東南アジア教育事情調査団も,1958年のカンボジアの非識字率は男性45%,女性90%と報 告している。Dy (2005) op. cit., p. 23. 矢部(1961)前掲書,100頁。
⒁ Ministry of National Education, Youth and Fine Arts (1953) “Educational Progress in Cambodia 1952–53”, International Yearbook of Education 1952–53, Paris: UNESCO, pp. 85–87.
⒂ 旧称フランス・カンボジア学校(école franco-cambodienne)。
⒃ 現在の国立教育大学(National Institute of Education: NIE)。1965年に教育大学,1979年に教育省政治学校,
1980年に中央教員養成・再研修校,1986年に教育管理者養成校,1993年に教育大学(Faculty of Pedagogy:
FOP),2004年に国立教育大学に改称・改組された。
⒄ 林原(2001)前掲論文,214頁。Ayres (1997) op. cit., p. 300.
⒅ フランス語教育の開始時期は,第2学年から第4学年へと変更された。
⒆ Ayres (2000) op. cit., p. 44.
⒇ 林原(2001)前掲論文,201頁。
Bilodeau, Charles (1955) “Compulsory Education in Cambodia”, Compulsory Education in Cambodia, Laos and Viet-Nam, Bilodeau, Charles & Somlith, Pathammavong & Lê, Quang Hông, Paris: UNESCO, p. 38. コロク
(2001)前掲論文,58頁。
同上。ただし,前期中等教育を修了していない者にも一定の入学枠が用意されており,入学試験に合格し た場合は入学が許可された。
Delvert, Jean (1961) Le payasan cambodgien, Paris: Mouton, p. 140.
アジア経済研究所(1962)『カンボジア王国第1次5ヵ年計画(プレア・ノロドム・シアヌーク Preah
Norodom Sihanouk)の概要(1960年〜1964年)』アジア経済研究所,23頁。
同上,14頁。
教員の増員が目指される中,教員養成制度は1960年に再度改訂され,初等教員養成機関の入学資格はバカ ロレアⅠ取得(12年間の学校教育修了)に引き上げられた。
Ayers (2000) op. cit., pp. 44–45.
Ibid.
Ibid, p. 48. これは一時的措置とされ,当初は5年以内に廃止し従来の全日制に戻すことが計画されていた
カンボジアにおける初等教育開発の歴史的展開②(平山)
が,その計画は頓挫し2011年現在においても半日制の授業形態はカンボジアの学校教育の主流を占めている。
Ibid.
UNESCO (1972) Education in the Khmer Republic”, Bulletin of the UNESCO Regional Office for Education in Asia, Vol. 6 No. 2, Paris: UNESCO, p. 94.
現在の王立プノンペン大学(Royal University of Phnom Penh: RUPP)。1970年にプノンペン大学(University
of Phnom Penh)に改称された。1975年より閉鎖されていたが1980年に高等師範学校(Normal High School)
及び外国語研究所(Institute of Foreign Language: IFL)として再開し,1988年にプノンペン大学,1996年に 王立プノンペン大学に改称・改組された。
Pit, Chamnan & Ford, David (2004) Cambodian Higher Education: Mixed Visions”, Altbach, Philip G.
& Umakoshi, Toru ed. Asian Universities: Historical Perspectives and Contemporary Challenges, Baltimore &
London: The Johns Hopkins University Press, p. 338. また同年,王立クメール大学の付属機関として,後期中 等教員養成を担う高等師範学校(école normale superieur)が設立された。
Ayers (2000) op. cit., p. 50.
Ibid, p. 52. Pit & Ford (2004) op. cit., p. 338.
Martin, Marie Alexandrine (1994)Cambodia: A Shattered Society, Barkley: University of California Press, p. 73.
Ministère de l’Education Nationale (1966) Revue de l’instituteur khmer, No. 3, Phnom Penh: Cambodia, p. 40.
Martin (1989) op. cit., pp. 73–74.
Ayers (2000) op. cit., p. 53.
『クメール化』の前身の教育雑誌。1947年から1967年8月まで20年に渡って教育省が発行し,主に初等 教員を対象に無料で配布された。フランス語版とカンボジア語版が存在し,1967年にはフランス語版が1万 2,500部,カンボジア語版が1万8,500部発行されていた。林原(2001)前掲論文,200,214頁。UNESCO
(1968) Directorate of Education Services: Cambodia”, Bulletin of the UNESCO Regional Office for Education in Asia, Vol. 2 No. 2, Paris: UNESCO, p. 126.
Ministère de l’Education Nationale (1967) Revue de l’instituteur khmer, No. 8, Phnom Penh: Cambodia, pp. 124 –125. 日本語訳は林原(2001)前掲論文,210頁による。
女子の初等教育就学率に関しては,1950年は10%,1965年は35%であったという報告もある。Deighton, Lee C. ed. (1971) Cambodia”, The Encyclopedia of Education, New York: Macmillan, Vol.1, p. 579. Hayden, Howard (1967) Higher Education and Development in South-east Asia: Volume II Country Profiles, UNESCO &
IAU (International Association of Universities), Paris: UNESCO-IAU, pp. 189.
Duggan, Stephan J. (1996) Education, Teacher Training and Prospects for Economic Recover y in Cambodia”, Comparative Education, Vol. 32 No. 3, pp. 361–376., Ayers (2000) op. cit., Chandler, David (2008) A History of Cambodia (Fourth Edition), Colorado: Westview Press., etc.
Meas, D. (1974) Educational Administration in the Khmer Republic”, Bulletin of the UNESCO Regional Office for Education in Asia, No.15, Paris: UNESCO, pp. 85–100.
1970年12月,教育大臣(当時)のチャーン・ソクフン(Chhan, Sokhum)は記者会見において,シハ ヌークの教育開発は中等教育及び高等教育に力を入れすぎ,初等教育が軽視されていたと述べている。Ayers
(2000) op. cit., p. 78.
Meas (1974) op. cit.
カンボジアにおいて憲法で教育の権利が保障されたのはこれが初めてのことである。カンボジア王国憲法
(1947年5月公布・施行)には教育に関する条項はない。
Ayers (2000) op. cit., p. 77.
Dy (2005) op. cit., p. 26.
ベトナム戦争時における「北」のベトナム民主共和国(Democratic Republic of Vietnam)から「南」の
ベトナム共和国(Republic of Vietnam)に至る南ベトナム解放民族戦線(National Liberation Front for South Vietnam: NLF)への陸上補給路。ラオス及びカンボジア領内を通過していた。
Ellsberg, Daniel (1972) Papers on the War, New York: Simon & Schuster, p. 174.
Ayers (2000) op. cit., p. 80.
初等教員養成機関も,1960年代末にトンレ・バティ教員養成センターが,1970年代初頭にコンポン・コン トゥット教員養成センターが閉鎖されている。
解放区には生産共同体が作られ,クメール・ルージュの監視のもとで集団生活・労働が営まれた。
Chandler, David P. intro. and trans. (1988) Preliminary Explanation Before Reading the Plan, by the Party Secretary”, Chandler, David P. & Kiernan, Ben & Boua, Chanthou trans. and ed. Pol Pot Plans the Future:
Confidential Leadership Documents from Democratic Kampuchea, 1976–1977, New Heaven: Yale University Southeast Asia Studies, Monograph Series 33, Document 4, pp. 159–160. ここでの技術とは,農業・畜産技術や 灌漑水路の建設技術等と推察される。
Chandler, David P. intro. & Boua, Chathou trans. (1988) The Party’s Four-Year Plan to Build Socialism in All Fields, 1977–1980”, Chandler, David P. & Kiernan, Ben & Boua, Chanthou trans. and ed. Pol Pot Plans the Future:
Confidential Leadership Documents from Democratic Kampuchea, 1976–1977, New Heaven: Yale University Southeast Asia Studies, Monograph Series 33, Document 3, p. 113.
Ibid, p. 114.
政治教育には,クメール・ルージュの革命を美化した歌の練習も含まれていた。
ただし,教育を提供していない生産共同体も多く存在した。Ayres, David M. (1997) op. cit., Appendix 3, pp. 281–295.
強制移住させられた都市からの住民は「新人民」として区別され,革命に参加しなかった「敵」という扱 われかたをしていた。
Ministry of Education (1984) Education in the People’s Republic of Kampuchea, Phnom Penh: MoE, p. 1.
例えばポル・ポト政権の最高幹部のひとりキュー・サムファン(Khieu, Samphan)は100万人,アメリ カ国務省は120万人,国際NGOアムネスティ・インターナショナル(Amnesty International)は140万人,
イェール大学(Yale University)のカンボジア・ジェノサイド・プログラム(Cambodian Genocide Program:
CGP)は170万人,ヘン・サムリン政権は300万人と概算している。
2万1,000人いた初等教員は10分の1に,2,300人いた前期中等教員は8分の1になったという記述もある。
高橋,内海(1996)前掲書,194頁。清水(1997)前掲書,61頁。