1 . はじめに
早稲田大学図書館に『惜字帖』(文庫8 J53)という貴重な資料が収蔵 されているのを知ったのは、2010年のことであった。『中国木版年画集成・
日本蔵品巻』(北京・中華書局、2011年3月)の編集作業として、日本国 内蔵の木版年画資料を探していた時、共同で編集作業をしていた瀧本弘之 氏(中国版画研究家)がインターネット上で珍しい小型の年画を発見した。
それは早稲田大学収蔵『惜字帖』に入っている二図であった。閲覧時、『惜 字帖』には他に多くの中国の木版資料が貼り込まれているのを知ったが、
熟覧している余裕がなくそのままになっていた。その後、時間をかけて『惜 字帖』を閲覧させていただくことができた。
『惜字帖』は、早稲田大学図書館の有名な「洋学文庫」に含まれ、江戸 時代の蘭医・桂川家に伝わったコレクションの一つである。『惜字帖』とは、
文字通り「字を惜しむ」気持ちが集めさせ、保存させた“文字のある紙片”
の貼り込み帳である。題箋に「惜字帖 一名反故帳」と筆でしたためられ ているとおり、今でいうスクラップ・ブックである。『惜字帖』は鎌倉彫 のような彫刻のある漆塗りの箱に入って保存され〈図1〉、中には二冊の 糸かがり本(冊子)が納められている。冊子の表紙は柿渋を塗って堅牢に してある〈図2〉。
繰り返し開けて見る和綴本にはよくこのように柿渋が塗ってある。第一 冊目の裏表紙の内側に次のような年月日が墨書されている〈図3〉。
18世紀後半の日本に伝来した西洋の印刷物
─洋学コレクション『惜字帖』から─
三 山 陵
『早稲田大学図書館紀要』第65号(2018年3月)
「文化甲子歳正月上元前一日装釘」
この年月日が『惜字帖』の成立時期とされている。文化甲子年はグレゴ リオ暦で1804年である。「上元」は、陰暦の一月十五日であるから「上元 前一日」は一月十四日である。最初に書いた「清明」を、丸で囲んで中に
図1 『惜字帖』を保存する箱
図2 『惜字帖』第1巻表紙
図3 ﹃惜字帖﹄第1巻裏表紙 内側の装釘年月日の墨書
点を打って消去し、「上元」に訂正してある。「清明」は四月五日頃になる が、この年はちょうど「甲子革令」に当たり、享和四年二月十一日を文化 元年に改元したので混乱があったのであろうか。
『惜字帖』の作成者は、桂川家第三代国訓の次男である森島中良(1754- 1810)である。中良の兄・国瑞(1751-1809)が桂川家第四代として家督 を継ぎ、御殿医となり桂川甫周と名乗っている。中良の姓・森島は桂川家 のもとの姓という。中良は兄とともに蘭学を学び、兄の甫周を補佐した。
また文才豊かな中良は浄瑠璃本、洒落本、黄表紙などの著作を多く残し、
蘭学を大衆に広める役割を果たした著作も少なくない。『惜字帖』には、
このような森島中良の幅広い文筆活動と文化人との交流、そして彼の知的 好奇心をうかがわせる資料が貼り込まれ、保存されている。
森島中良の子孫にあたる今泉源吉は、代々の先祖の業績や家に伝わる資 料を整理し、その結果を『蘭学の家 桂川の人々』にまとめられている。
その中で『惜字帖』についても一部分を紹介されている⑴。
『惜字帖』に貼り込まれた資料の総数は400点を越える。その内訳は、木 版印刷物、銅版画、拓本などのいわゆる刷り物が約85%、肉筆の文字・画 がその残りである。清国のものが最多で、全体の70%近くを占める。蘭学 関係者らしい貼り込み資料として、欧州のものがある。数は少ないが、本 稿はこの珍しい資料を取り上げて考察を試みた。
なお、『惜字帖』の画像は、早稲田大学図書館のホームページで公開さ れているので、資料のディテールはそちらを参照されたい。
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08̲j0053/
2 . 欧州の印刷物
欧州の印刷物は全5種類、計6点ある。銅版画(エッチング)が1点、
活字印刷が2点、木版印刷が3点、他にペン書きの文字がある紙片が2枚
である。以下に、一点ずつ見ていきたい。タイトルは中良が付けているも のはそれを用いた。タイトルのないものは便宜上、仮題を付けた。用紙と 版面の寸法は、縦×横、単位はミリメートルである。
2−1 紅毛記号 〈図4〉 銅版画
紙:166×150mm 版面:142×134mm
腐食銅版画(エッチング)である。貼り込んだ頁には、筆により「紅毛 記号」と墨で書き、その下に朱墨で「寝惚先生長嵜土宜之一」(寝惚先生 長崎土産の一つ)とメモしている。寝惚先生とは大田南畝(1749-1823)
のことである。彼は幕府の役人であったが、有名な文人でもあった。1804
図4 紅毛記号 エッチング
年の秋に仕事で長崎に行き、約一年後に江戸に戻った。このときの土産に 森島中良がもらったものであろう。
用紙は薄い手漉紙に見える。紙のサイズは縦が166mm、横は150mm で、
銅版の印刷面は縦142mm、横134mm である。印刷面の周囲は凹みが有り、
その幅は5mm である。これは銅版をプレス機にセットして上から圧力を かけたときの銅版の跡である。油性のインクを使用し、刷りはほぼ均一で ある。彫りは細かく、1mm 幅に3本の刻線が見える。近景はくっきりと 描かれ、遠景は細い線で霞んで見える。左手の遠景は山腹の道を描き、二 頭の馬が引く荷車は荷物を山積みにしている。人物や情況が丁寧に描かれ、
版刻も繊細である。
図の上部には、羽ペンとリボンで囲んだ円がある。中に LEYDEEN HOLLANDE の文字と二本のカギを交差させたマークがある。この二本 のカギのマークは、現在のライデン市の市旗やライデン大学の校章にも描 かれている。
図の中央の楕円形の左側には、翼がある帽子を被る青年が立ち、彼の足 下で糸束を作る職人を見守っている。楕円形の右側には、鎧兜を着用して 鎗と盾を持つ人物とターバン風の帽子を被った商人のような男が立つ。彼 らの背景には帆船の帆が立ち並ぶ。彼らの前には大きな包みがあり、たく さんの糸束が見えている。中央下部には反物や絨毯、ロープのようなもの が積み上げられ、天使のような子供が天秤ばかりを手にして座っている。
織物や絨毯は、繊維業が盛んであったライデンを象徴している。糸束など の包みに L と D(または P)を組み合わせたマークが書いてあるがこれに ついては不詳である。
中央の楕円形の中にはペンで“N10328 L52 c”と記入する。当時の日本 ではアルファベットやアラビア数字を見ることは稀であったから、中良は これを「紅毛記号」と呼んだのであろう。今泉源吉によれば、元ライデン 大学教授のクリーゲル博士が来日した折りに本資料を見せたところ、「蔵 書番号の札」と答えたという⑵。
長崎では、キリスト教に関する書籍以外は輸入が許されていた。もし本 図が「蔵書番号の札」(蔵書票)であるとすれば、これを添付していた本 があったはずである。大田南畝が入手した本に貼ってあったか、それとも 蔵書票単独で入手したものか。
蔵書票は本の所有者を明示するために始まったもので、一般に所有者名 が入っているが、本図には個人名や図書館名がない。図の中央上部にある LEYDEEN HOLLANDE が所有者名であるとしたら、本の持ち主はライ デン市である。市の所蔵本が国外に出ることは稀であろうが、何かの事情 でオランダ東インド会社に渡って、日本にもたらされことは否定しきれな い。
「紅毛記号」の「記号」の説明がないので想像の域を出ないが、“N10328 L52c”は商品番号とも考えられないだろうか。本図が紡績業盛んなライ デンの交易の様子を描く点から、製糸や織布に関係する商品に付いていた ラベルとすれば、南畝が長崎滞在中に入手することは困難ではなかったろ う。必要な紡織品を入手した客にとって、そのラベルは特に重要な意味は ない。しかし、南畝や森島中良にとって西洋の紙の刷り物は、高級なジュー タンよりも価値があった。南畝は中良がいかにこの銅版画を喜ぶかを知っ ていた。森島中良は、同時代の洋風画家・亜欧堂田善(1748-1822)が銅 版画の制作に試行錯誤しているときに助言をしている。また、田善が完成 させた銅版画のシリーズを『惜字帖』に貼り込んでいる。
森島中良が記した名称「紅毛記号」は、「西洋の文字と数字」の意味で は相違ないが、本図は何に使用されたものかは更に検討が必要であろう。
2−2 「巴旦印花布」 〈図5〉 布に活字印刷 布:長さ約270×幅約30mm
木綿布の端を頁に縦に貼り付け、「巴旦印花布」と森島中良が筆でメモ を書いている。布のミミの部分には、IX DANSKE FACTORY i PATNA と金属活字を使った紫紺色の印刷がある。IX はローマ数字の表記で No.9
を意味し、布を生産した工場名と生産地を示していると思われる。
今泉氏は『蘭学の家 桂川の人々 続巻』でこの文字はデンマーク語と さ れ、英 訳 し て IX DANISH FACTORY i PATNA と 示 さ れ る。
FACTORY と PATNA の間の「i」は、「i」のままで、これについての言 及はない。印刷した文字の間隔から判断すると、「in」の活字が崩れて「i」
になったとは見えない。
印刷された語句の言語を比較してみた。
次に、森島中良がメモした「巴旦印花布」について考える。今泉氏は、「巴 旦」はインドの地名パトナ Patna の漢字表記であるとする。私も PATNA がインドの地名であると考えるが、漢字表記が「巴旦」であることには疑 問がある。巴旦を日本語で読むと、「巴」は ba あるいは pa であり、「旦」
は dan または tan である。「巴旦」は Batan, Badan, Patan, Padan のいず 図5 木綿布の端に印刷した文字 インド製
言 語 DANSKE FACTORY * 英 語 danish factory in オランダ語 denmarken fabriek in ポルトガル語 danske fabrica em スウェーデン語 dansken fabrik *
ノルウェー語 danske fabrikk * デンマーク語 dansk fabrik *
れかの読みになる。Patna とは少し音が遠いのではないか。これについて は後述する。
まず PATNA(パトナ)だが、パトナは現在はインド北東部に位置する ビハール(Bihar)州の州都である。州の中央をガンジス川が流れ、パト ナは川沿いに位置する。ガンジス川流域は綿花栽培が盛んで、パトナはそ の綿花の集積地であり、綿花から糸を作ったりその糸で布を織る生産地と して有名である。
「印花布」とは版や型を用いて模様を“印刷”した布のことである。中 国では現在もこの「印花布」の名詞を使っている。「印」は捺して染める 作業であり、「花」は模様を意味する。インドには版木を布に押して模様 をつける染色技法・捺染(Wood block prints)があるから、これを「印花」
の漢字で表現したと思われる。つまり「巴旦印花布」は「“巴旦”で作ら れた捺染の布」である。
ところで、日本では外来の物の名称として、由来地を示す名前を付ける ことがある。つまりその原産地やそれが積み出された港の名を付けて呼ぶ。
たとえばカボチャやジャガイモなどである。日本にはコバタン、オオバタ ン、キバタンと呼ばれるオウムの種類があるが、原産地はインドネシアの 島々である。これらのオウムは現在でも日本人がペットとして飼育してい るが、江戸時代に大量に輸入されていた。そのときの呼称がいまも使われ、
漢字表記では小巴旦、大巴旦、黄巴旦と書く。「巴旦」の前に大小や色を 表す文字を付けて分類しているわけである。では「巴旦」は何を表すのだ ろうか。
17、18世紀のインドネシアの貿易港には、スマトラ島の Padang(パダン)
やジャワ島の Banten(バンテン)、Batavia(バタビア。現ジャカルタ)
などがあった。これらの港にはインドや中国の船も来航して交易をしてい た。Padang、Banten、Batavia の港はどれも「巴旦」batan に音が近い。
このうちのどの港とは確定できないものの、これらのいずれかと思われる。
「巴旦」に音が近い港から出荷されたオウムが、日本に輸入されたときに
は出港地の名称を付けて取引されていたのであろう。また、清国でもオウ ムを飼育するブームがあったことから、中国商人がインドネシアでオウム を仕入れ、日本に売るときにはすでにオウムの呼称は決まっていて、出荷 港の名を冠していたと推測する。
「巴旦」について、中良が書いたものを見てみよう。『萬國新話・巻之三』
(1789年刊)には「巴旦人日本へ漂着の始末」という一文がある。冒頭で
「巴旦ハ大寃の南に當りて、天竺に近き嶌なり」と書く。「大寃」は現在の 台湾の安平を指す。巴旦は天竺(インド)の地名ではないようだ。同書に は「巴旦人」二人の図も入っている。一人の服装は袖無しの上着を着て褌 姿である。山刀を肩に掛ける。台湾の原住民と通じるところがある。もう 一人は色が黒く、大きな風呂敷のような布を羽織っている。中良の注では
「天竺の“サロン”」ではないかとしている。巴旦人といっても複数の民族 がいるようだ。漂着した18人のうち、三分の一は病死したが、生きながら えてオランダ船で送り返された者もいる。彼らのことを中良は「巴旦人ど も本国ヘハ帰らずして咬𠺕吧(からっぱあ)にて」妻帯したとし、注に「カ ラッパア」は爪哇(ジャワ)の都なり、と説明がある。「カラッパア」がジャ ワの都であるなら、バタビア、ジョグジャカルタ、現ジャカルタである。
すなわち「巴旦」はインドでもなく、ジャカルタでもないことになる。
「巴旦」の追究はここまでにして、インドのベンガル地方のパトナで生 産された「巴旦印花布」は、どのような経路で日本にもたらされたのかを 考えたい。
『惜字帖』に貼り込んであることから、この布は18世紀に生産されたも のと考えてよいだろう。この時期は、イギリス東インド会社 East India Company 略称 E.I.C. がベンガルを統治していたが、オランダ東インド会 社:Vereenigde Oostindische Compagnie 略称 V.O.C. もベンガルに事務所 を開設していた。17世紀中頃以降、日本はイギリス船の来航を認めなかっ たので、イギリスとは直接に交易していない。インドの製品はインドから 直接かまたはインドネシア経由かは判らないが、V.O.C. によって日本に運
ばれたと考えられる。
長崎での輸入は原則として、通詞立ち会いのもとで幕府の役人によって 船ごとに検査され、品名と数量が記録された。通詞は多くが清国人であっ たという。「巴旦印花布」の名称は、輸入手続きの際に日本語に訳したも のか、すでに存在したのか、あるいは後に命名したのか不明だが、私はす でに命名されていた可能性が高いと考える。なぜならインドネシアの貿易 港は物資の集散地であり、清国商人も貿易に携わっていた。取り扱う物資 の名称は、自分たちが使っている言語を用いるのが自然で、清国人なら漢 字で表記するのが当然である。オウムをキバタン(黄巴旦)などと呼んだ のと同様に、印花布がインド製であったとしても、出荷港に因んで「巴旦 印花布」の名で交易されたと思われる。
「巴旦印花布」がインドネシアの港「巴旦」から出た布とすると、「巴旦 印花布」はインドネシア製である可能性もあるが、これにはインドネシア の染色について説明が必要だろう。インドネシアはバティック Battik と いう染色法が有名で生産量も多い。バティックの技法を簡単にいうと、溶 けた蝋で布に模様を描き、蝋が固まってから布を染料の液に浸す。蝋を 塗った部分には染料は染みこまない。乾かして蝋を落とすと、染めた地に 白の模様ができる。この白い部分にさらに色を染めると多色の模様が出来 る。日本ではインドネシア製の模様のある布を「ジャワ更紗」と一括して 呼んでいるが、伝わっている遺品は実際にはバティック技法の布が多い。
森島中良は自著『紅毛雑話・巻一』(1787年刊)の中でバティック技法 を紹介し、蝋で模様を描き、藍で染めたものを「バテッキ」というと述べ ている。彼はバティックの製作法を知っていたのであるから、バティック の布端を「印花布」とするとは考えられない。しかし中良が入手した布が
『惜字帖』に貼った、このわずかな端切れだけであったとしたら、中良は 実際に染色した部分を知らないことになる。「印花布」の端としてもらっ たのでそう書いた、ということかもしれない。
中良がこれを入手した経路は不明であるが、これはインド・パトナの工
場で生産した「印花布」──捺染・型押し模様の布のミミであることはほ ぼ間違いない。さらに白い木綿の織り糸が太めである。バティックのよう な繊細な蝋描きには不向きと見える。木彫の版で押し染めする捺染ならば 可能である。この布はインドのベンガル地方からインドネシアを経由して V.O.C. あるいは中国商人によって日本に運ばれたと考えて良いだろう。
2−3 「紅毛唐紙」 〈図6〉 木版多色刷 紙:148×177mm
図6は、ピンク色の地に女性や植物の絵柄を刷り重ねた紙である。中良 はこれを「紅毛唐紙」とメモする。当時、「紅毛」はオランダ人の褐色の 頭髪から来た呼び名といわれる。「唐紙」は「唐(支那)の紙」、つまり「中 国紙」の意味もあるが、「からかみ」はまた別のものを指す。日本家屋の 部屋を仕切る襖に貼る紙も「唐紙」(からかみ)と呼ぶ。中良がこれを「唐 紙」と名付けたのは、オランダ人が室内の壁に貼る紙だからであろう。
図6 壁紙 西洋 木版多色刷
この壁紙は、紙を染めたものではなく、刷毛などでピンク色に着色した 紙に、さらに不透明の白や灰色の絵の具を重ね刷りしたものである。白の 上に灰色を刷って、立体感や陰影を表現している。色料(絵の具)の定着 力が弱く、絵の具が剥落して絵柄が不鮮明であるが、残っている曲線から はふくよかな女性の体や服の襞、草花が想像出来る。
『惜字帖』には図6と同じ壁紙の部分とみられる資料が、図6の側にも う一点貼り込まれている。
2−4 便箋「ポストパピイル」 〈図7〉 木版多色刷 紙:230×185mm
中良のメモは「紅毛尺束紙 蛮名ポストパピイル」と書く。便箋である。
四辺を花の図案で囲んでいるが、ここの部分は木版印刷で、赤と青緑の二 種の版木を使っている。図案の一部は、赤と青緑の版が重なって紫色に なっている。便箋用紙は厚手の紙で、トレーシング・ペーパーのように半 透明である。ペンの滑りが 良いのであろう。
図7 便箋 西洋 木版多色刷
2−5 西洋文字のペン書きがある紙片 〈図8〉
紙:123×73mm
中良のメモはない。少し厚みがある手漉紙に、人名と思われる文字がペ ンで綴ってある。鮮明ではないが Welzhalen Feer(?) と見える。
1775年に来日したオランダ商館の医師ツュンベリー(Thunberg)が書 いた『江戸参府随行記』には、兄・桂川甫周の名は記録されているが、森
図8 ペンで書いた文字。人名か?
島中良の名は見当たらない⑶。
将軍に謁見するために、商館長に随行して江戸長崎屋に滞在した外科医 師のツュンベリーは、毎日のように桂川甫周と中川淳庵の訪問を受けた。
彼ら二人は、ツュンベリーに教えを乞いに出かけ、夜遅くまで長崎屋に滞 在したという。ツュンベリーは江戸を去るときに彼ら二人にオランダ語で 書いた「弟子の証明書」を与えた。桂川甫周と中川淳庵のことはしばしば
「彼ら二人」、「二人」と書くが、もしその場に中良が同席していれば必ず 名前を記したであろう。なぜなら、ツュンベリーはほとんど会話しなかっ た人物の名も残しているからである。江戸に到着したツュンベリーを最初 に訪問したのは医師の岡田養仙らで、同席して会話を聴いていただけと言 われる天野良順らの名前も記録している。中良が兄と同席していれば、オ ランダ語を解し蘭医の知識もある中良のことであるから、ツュンベリーが 忘れる人物ではないと思う。
一方、森島中良が記録したものはどうであろう。前出の天明七年(1787)
の『紅毛雑話・巻一』に、ツュンベリー(ツュンベリーを「トインベルゲ」
と表記)がタツノコの薬水漬を甫周に贈ったことを書き、その瓶の挿絵も 入っているが、直接に会った様子は見えない。『紅毛雑話』の凡例を読むと、
記述した内容は、兄が「紅毛人の客舎」(長崎屋のこと)に行き薬品の鑑 定や洋書の不明なところを訊ねたりしたが、そのあいまに話された雑談を まとめたとしている。
『紅毛雑話・巻二』では、安永八年二月(1779年4月)に徳川家基が若 くして急逝したことを書いているが、この時のオランダ商館長(カピタン)
の名は「アウレンド ウヰルレン ヘイト」とある。このヘイトとは、前 述の医師ツンベルグと共に1775年8月に長崎に到着した商館長である。ア レント・ウィレム・フェイト(Arend Willem Feith, 1745~1781)は、明 和二年(1765)に商館員として初めて長崎に来た。明和八年(1771)には 商館長として赴任し、その後は二年におきに商館長として来日する。商館 長の任期はほぼ一年であった。1771年から1781年までの十年間に商館長を
五回務め、1781年11月、任期を終えて帰る船中で病没した。ツュンベリー を帯同してきた1775年は、フェイトは商館長としては三回目の赴任であっ た。徳川家基が夭逝した1779年は、フェイトの四回目の任期中である。将 軍に報告をするための江戸参府は計六回に及ぶ。今泉氏作成の桂川家年譜 によると、毎回、甫周らと面会している。
ツュンベリーは、甫周を将軍の侍医で衣服に将軍の紋をつけていたと書 いている。一緒に行った中川淳庵は藩主の医師で、オランダ語が上手で あったと述べている。彼らは幕府の許しを得て長崎屋にツュンベリーを訪 ねているのだが、いわば政府側の肩書きがない中良は長崎屋に出入りでき なかったと思われる。
『惜字帖』に貼り込まれた資料(図8)は、少し厚みがある手漉紙(和 紙の奉書紙に近い)に、ペンとインクで文字が綴ってある。書き出しの W と F は、はっきりと読める。紙を縦に折った跡が認められ、その折り 目に文字が重なったために擦れて消えている。Welzhalen Feer と見えた のは Willem Feith だと思われるが、Willem の綴りは、もっと文字が多く 見え Willrelem とも見える。Feith は折り目の個所の t と h が擦れたので あろう。また、Arend Willem Feith であるとすれば、ファースト・ネー ム Arend を省略している。筆記体で綴った筆跡は、アルファベットが少 し崩れて書き慣れた印象である。またペンも使いなれている。これは謂わ ば走り書きである。本資料はフェイトが日本人の求めに応じて、自分の名 前をサインしたものか、あるいは側にひかえる書記掛が書いたものではな いかと考える。なぜ、メモ書きのような紙片を大切に貼り込んでいるのか。
ツュンベリーが興味あることを書いている⑷。
謁見のために宮殿(江戸城)の客間で待っている間に、何人かの藩 主がお忍びで訪ねてきた。もっとも熱心であったのは、我々がどのよ うに書くかを見ることであった。紙や彼らの扇子に何かを書くように 求められた。二、三の者はまた、以前オランダ人がそこに書いた扇子 を見せてくれた。彼らはその扇子を貴重品として大切に保管していた。
このように貴重な品を入手した中良も、おそらく気持ちを高ぶらせてオ ランダ商館長のサインを保存したのであろう。しかし中良がこれをどこか ら手に入れたかは不明である。
2−6 絆創膏のラベル 〈図9〉 活字印刷
THE GENUINE COURT-PLAISTER, LONDON.
紙:73×114mm 囲みの高さ41mm
花模様の活字を並べた囲みの中に、品名をアルファベットの活字で、
THE GENUINE / COURT-PLAISTER, / LONDON. と三段に組む。
PLAISTER は plaster の古語の表記で、court-plaister は絆創膏の意味 である。現在では絆創膏というと、テープの中央にガーゼが付き薬品が 塗ってある「救急絆創膏」を思い浮かべるが、この時期にはまだ開発され ていない。本資料が付いていた絆創膏は、粘着性がある幅広のテープ状 だったと思われる(ラベルの大きさから推測)。桂川家は蘭医の外科医で
図9 絆創膏のラベル 活字印刷
あったからこのような絆創膏が手に入ることがあったのだろう⑸。
2−7 言語不明の文字列 〈図10〉 ペン書き
ペンで書いた文言だが、何語で書いたものか不明である。中良の説明文 はない。今泉源吉氏は「ポルトガル語の手紙のはじめの言葉らしいと聞い
図10 言語不明の文字 ペン書き
たが、未考」と書いている。彼が読み取った文字は以下である⑹。 Mui geñox mio mi ha tigen xi a doñd, con ca bat sa tud,
ポルトガル語として調べてみたが、辞書では該当する単語は見つからな かった。他に、オランダ語、デンマーク語、ノルウェー語、スウェーデン 語でも該当する単語は見つからなかった。
用紙は少し厚手の紙である。文字は黒のインクを用い、弾力のあるペン 先で書いている。何度も繰り返しこれを読んでいるうちに、リズム感があ り呪文のようにも思えてきたが、まったく不明である。オランダ東インド 会社があるバタビィア方面の言語であろうか。
3 . おわりに
森島中良は、江戸後期の文学者としてまた蘭学者として知られる人物で ある。博学多才な彼が残した仕事は多方面にわたる。彼のスクラップブッ ク『惜字帖』は、子孫の手で守られてきた桂川家の膨大な資料の中に入っ ていたが、中良の華々しい文学的業績の陰でその存在はあまり注目されて こなかったのではないかと感じる。子孫の今泉源吉が『蘭学の家 桂川家 の人々』で一部分を取り上げて解説しているが、彼以外に『惜字帖』に言 及した研究者は数人である。取り上げている論文は、管見のかぎりでは森 田美子著「日清貿易の一側面──森島中良の惜字帖について──」(『社会 経済史学』第15巻第3・4号 1948年)が清国の商品ラベルについて貿易 の面から考察している。森田氏の論考は、終戦後の物資もあまり充分では ない時期のものである。鎌倉に今泉氏を訪ねて『惜字帖』を閲覧している が、写真撮影などに苦労されたであったろう。他には、岩井憲幸著「『惜 字帖』中の露字拓本──ラクスマン随行一ロシア水兵の墓碑銘」(『明治大 学教養論集』第359号 2002年)がある。これは、1792年にロシア側が漂
流民・大黒屋光太夫らを船で送還してきた際に、北海道で亡くなった水兵 の墓碑銘について解明されたものである。ラクスマンはロシア初の遣日使 節であり、外交官兼陸軍中尉である。墓碑は木片にキリル文字を彫り込ん であり、その拓本は木目と文字が重なって読み取りにくい状態である。こ の解読はロシア語が読める専門家でなければなしえない研究である。個々 の紙片については貼り込まれた資料の点数が多いためと、印刷が不鮮明な ものが多いためであろう、全貌を取り上げた研究は知らない。
『惜字帖』のコレクションの内容は多彩で、一点一点を解明するには広 範な知識が必要になる。今泉源吉が『惜字帖』について紹介したのは半世 紀も前のことである。現在ほどに情報が容易に手に入る時代ではなかった から、調査に限界があったのは当然である。しかしインターネットで多く のことを知り得る今でも、『惜字帖』のすべてを解明することは難しい。
推論を重ねる拙稿ではあるが、公表させていただくことで諸方面からご教 示をいただければ幸いである。
注
⑴ 今泉源吉『蘭学の家 桂川の人々 続巻』篠崎書林 1968年
⑵ 今泉源吉,前掲書,p.48〉。
⑶ Carl Peter Thunberg(1743~1828)。C.P. ツュンベリー著・高橋文訳『江戸参 府随行記』(東洋文庫583、平凡社、1994)は、江戸滞在中の蘭学者との交流の様 子を書いている。昭和3年初版の『ツンベルグ日本紀行』(山田珠樹訳、駿南社)
は、雄松堂書店の異国叢書復刻版(1966年)にも収められているが、こちらはフ ランスで出版したものを翻訳した。高橋文訳、山田珠樹訳のどちらにも桂川甫周 と中川淳庵の名前はあるが、森島中良の名は記述がない。
⑷ 高橋文訳『江戸参府随行記』(平凡社、1994)179頁。
⑸ イギリスの歴史家で作家のルーシー・イングリス Lucy Inglis はホームページ に本資料と同じ品名の印刷物の画像を掲載する。著書
, Viking, 2014で紹介したものと思われる。その包みは長さ16cmといい、
異なるサイズの絆創膏があったと書く。その絆創膏は、絹または綿に魚などから 摂ったゼラチンとグリセリンを塗ったものだったらしい。イングリスの掲載図に も品名の下に LONDON と印刷しているが、必ずしもロンドンで製造したものと
は言えないようだ。ルーシー・イングリスのホームページ:http://georgianlon don.com/post/49463421387/a-genuine-court-plaister-0
⑹ 今泉源吉、前掲書。vol.2, pp.59〉。
参考文献
松方冬子『オランダ風説書』中央公論新社 2010年 片桐一男『江戸のオランダ人』中央公論新社 2000年 永積昭『オランダ東インド会社』講談社,2000年
市村祐一、大石慎三郎『鎖国 ゆるやかな情報革命』講談社,1995年
(みやま りょう 首都大学東京非常勤講師 博士〈学術〉)