椅 子 墳 と 亀 殼 墓
周 星 (何彬・小熊誠共訳)
31
(一)
論文審査員として北京師範大学民俗学専攻の博士学位論文『江湖漢族葬俗研究一民俗文化地
①
域性の実証的検討』を読んだ。論文の作者何彬氏は、長期間のフィールド・ワークを通して、
数多くの成果を挙げた。この論文は、江蘇省および漸江省における民間の葬送儀礼に関する資 料を提供してくれた。その多くは、歴代の地方誌など歴史文献に載っていないし、現代の民俗 学者や人類学者のフィールドワークでも重視されず、今回初めて報告されたものもある。これ こそ、学位論文の貢献だと思う。何彬氏は喪葬民俗を数多く発見し、それを科学的に解釈した と同時に、多くの問題をも提出した。これらの問題の説明は、民俗学者、人類学者による今後
の実地調査と研究に期待する。
何彬氏のこの論文は、次の点において中国民俗学の研究に重要な示唆を与えたと思う。
(1)、葬俗研究における「物質」研究の意義を強調した。正直に言えば、中国民俗学、人類学 の多くの喪葬に関する文献は、「観念」及び「行為」の研究に止まっている。「物質」(葬具、祭 器、墳墓、碑文など)の存在とその意義を見落としたため、研究は全体的とは言えず、研究レ ベルにも大きな影響があった。葬送民俗の「物質」研究のうち、墳墓様式についての研究がもっ とも欠けている。墳墓は喪葬文化の中で最も重要な物的な存在であることは、すでに考古学の 研究で証明されている。墳墓は、人間の死に関する観念及び死骸を処置する行為を担う対象と なり、地域と時代により差異があるが、一定の時期及び地域においては、その様式はほぼ一定 である。これらの墳墓様式及びそれに内包されている意味を研究すれば、喪葬文化の知識を多 く得られるであろう。もし民俗学の実地調査と研究においてこの考古学の立場を認めて取り入 れれば、中国における民俗学研究の水準は大いに高まるであろう。
(2)、民俗学における「地域文化」の重要性を証明した。中国の一体的な歴史と社会構造や中 国文化の中の文字を中心とした「礼楽」が、長期にわたる民衆階層の「礼俗」や伝統的中国知 識人の「文人」的傾向、現代民俗学が継承してきた学術遺産(地方史、地方誌など)による歴 史観、文化観、国家観などに影響を与えたため、中国学術界では昔から地域文化の個性的な研 究が欠けていた。中国は多元的な文化の国だと言われるが、それは複数の民族があるのみでな く、その民衆文化が明らかに地域的特徴を持っていることをも指す。葬俗と墓制は地域的特徴 の一部分でしかないが、何論文は「土により俗をなす」ことをきちんと証明した。
(3)、実証的なフィールド・ワークを通した研究が、民俗学にとって重要な意義があることを 示した。喪葬民俗に関する研究において、文献研究とフィールド・ワークはどちらを無視する というわけにはいかない。文献資料は上級階層の礼俗を中心にしたものなので、一般民衆の生
32 椅子墳と亀殻墓
活文化を研究対象とする民俗学にとって、フィールドを通して研究することは、非常に重要な 意味を持っている。フィールド・ワークが民俗学的知識の累積と研究資料の主要な源泉である。
この意味から、東南中国に存在する椅子墳の実証的な研究は、中国民俗学におけるこの課題研 究の不足を補った。何彬氏の言によると、彼女の論文は、民俗学のフィールド・ワークに基づ
く「墳墓民俗誌」として貢献することを試みたものである。
(4)、考古学研究と関連して研究する価値を示した。何彬氏が椅子墓の様式及びその意味を研 究して、椅子墓は漢代の煉瓦墓室、煉瓦惇墓が今日漢民族の民間での残存型であることを証明 した。民俗学の研究は、考古学の研究成果を参考にする必要があり、少なくとも「物質」面に 及ぶ問題の時には、民俗学の研究は主体的に考古学との「接点」を求め、考古学の知識から民 俗文化事象の来源(「来龍」)を探究すべきある。しかし、考古学に対しては、自己の研究視野 の下限をいかに拡大するかについて問題提起し、考古学上の多くの文化事象を民俗学のコンテ クストの中に位置づける(「去脈」)ことになる。
この論文から多くの示唆を受けたが、特に椅子墳に興味を持った。椅子墳と亀殻墓を関連さ せて考えば、もう少し深い学術的なそして応用的な結論が得られると思った。本稿は、何彬氏 の論文に啓発を受け、彼女の学術研究を基礎にさらに検討を試みたものである。
中国漢民族の墓のイメージというと、「土饅頭」型がまず思い出される。それは、「入土為安」
(土に帰り安らぐ)という観念を示している。確かに、北中国では、百姓から支配階層まで、
土饅頭墳が殆どである。80年代に、中国南部の湘江省温州辺りに、煉瓦、石並びにセメントで
「椅子墳」をつくるのがブームとなった。これが、土地資源を浪費し、自然景観と人文景観を 破壊し、地方政府に真剣に考えなければならない社会問題を与えたと同時に、中国漢民族にお ける墳墓のパターンに対する認識がまだ不十分であるという理解を民俗学界および人類学界に 与え、中国における民俗文化の地域性に関する探求を引き起こした。
本稿では、湘江省の「椅子墳」を福建省の「亀殻墓」と関連させて考えてみたい。また、そ れらの地域および文化にまたがって比較研究して、もっと広い背景から椅子墳と亀殻墓の二つ の墓の様式について解釈してみたい。できれば、葬俗の改革についても論じたい。
(二)
「富不富、看墳墓」(富の有無は墓を見てわかる)という語がはやっている温州では、墓の主 要な特徴は、墓室を殆ど地上に作り、墓の規模が大きく、豪華につくることである。外観形状 は「肘掛椅子(太師椅)」に似ているので、人々に「椅子墳」、「高椅墳」、「交椅墳」などと呼ば れている。これは民間の「民俗用語」で、地方によっては呼び方が違い、また「椅子墳」の構 造細部の呼び方も異なり、墓に対する解釈も違う。何彬氏の報告によれば、呼び方は、麗水で は交椅寡、龍泉では椅子梢、あるいは交椅梢であるが、温州の「椅子墳」とは大同小異である
(図1〜5参照)。
椅子と呼ばれているせいか、湘江各地の椅子墳に対する解釈は、「祖先に気持ちよく座っても
らい、子孫の祀りを受ける」あるいは「祖先が椅子に座ることは、祖先が冥界の役人であるこ
椅子墳と亀殻墓 33
旬 后士
図1絹雲の椅子墳(何彬論文より)
慧
図2麗水の交椅集(何彬論文より)
34 椅子墳と亀殻墓
図3温州の椅子墳あるいは交椅墳
(何彬論文より)
ゾ 壱
図4玉環の輯椅墳あるいは交椅墳(何彬論文より)
洞・ず井
ー
椅子墳と亀殻墓
図 5 龍 泉 の 椅 子 梢 あ る い は 交 椅 梢
(何彬論文より)
35
とを示し、子孫が現世で役人になるように加護してくれる」という言い方がよくある。これら は、文面による直訳のようで、本来の意味でないかも知れないが、民俗学者や人類学者にとっ ては、「交椅」、あるいは「太師椅」は従来官職を意味する語であったため、この呼び名と解釈 は研究価値があると考えられる。さらに各地の民間においては、祖先の加護をもって官吏にな る運を求めようと、「官」と「棺」が同音であることを利用して拡大解釈することすらある。
葉大平氏の手紙による御教示によると、温州では「肘掛椅子(太師椅)にゆったり腰掛ける」
という僅諺があり、墓に行って葬儀を行った後に子孫は確実に福を得ることができるという思 想がある。
何彬氏の論文によると、椅子墳は、地上の外棺部に後部の半円形塀(墳圏)を加えたもので あり、その塀は後部から前へ徐々に低くなり、肘掛椅子の形となっている墓を指す。これは、
かなり広い定義である。椅子墳またはこれに近い形の墓は、中国の華南地域に広く分布してい る。全体的な特徴は、前低後高、前方後円であるが、細部には差異があり、建築材料の違い(土、
石、三合土、セメントなど)によって墓の形が違ってくる。
現在知っている限りでは、椅子墳またはそれに似た墓は、漸江省東南部、中部に広く分布し ている。それに近い形の墓は江西、安徽、広東、広西と福建各省に分布してる(図6参照)。福 建と台湾にある「亀殼墓」は、この類の墓のなかの特別な一種である。各地にあるこの類の墓 は、他の形の墓と複雑な共存関係を持っている。たとえば、温州には、椅子墳のほか寝台状の 墓もある。
筆者の調査した福建南部では、「椅子墳」という呼び方はなく、この種の墓の様式は「亀殼墓」
と 呼 ば れ る 。 呼 び 方 は 地 方 に よ り ま ち ま ち で あ る 。 晋 江 市 金 井 鎮 に は 、 亀 殼 墓 と い う 呼 び 方 が
36 椅子墳と亀殻墓
図6椅子墳とその菫庄
(何暁斫編著『風水探源』81頁)
ありながら、大墓という一般的な呼び方もある。ほかに膨湖島では「亀殼墓」を「双抜山」、「単 抜山」などとも呼んでいる。金井紗岱村粘芳龍氏(78才)によれば、清朝末期にすでに亀殻墓 の呼び方があったという。金井鎭の人々は「椅子墳」とは呼ばないが、隣の安徽省、江西省か ら来た人の話で椅子墳の称呼を聞いたことがあるという。形を説明すると、彼らはすぐ地元の
亀殻墓を連想した(図7)。
図7晋江金井の亀殻墓(粘良図氏が描いた図より模写した)
椅 子 墳 と 亀 殻 墓 37
亀殻墓も「民俗用語」であり、墓の頭頂部は亀の甲の形であるため、こう呼ばれる。亀と呼 ばれるせいか、闘南地方では「亀殻墓」形状の墓は長寿亀、長生き、縁起が良いなどと解釈さ れて、墓の頂部に亀の甲の模様を刻み込む墓もある。
甫田市にある「媚祖」の先祖である林氏の新築された大理石の墓と廩門市集美にある陳嘉庚 の墓(写真1.2)が、亀殻墓の代表的なものである。二つの墓の背中には亀の甲のような模 様が刻み込まれてある。陳嘉庚の墓は南安一帯で産する草緑色の「青斗石」で修築された亀殻 墓で、1950年から1959年に建てられた。当時陳嘉庚はまだ健在であったが、当地の老人による と、そこでは生前に墓を建てる習慣があり、60歳を過ぎたら自分の墓を作ることができるとい
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写 真 1
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写 真 2 …
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写真1.2廩門にある陳嘉庚の亀殻蟇
38 椅 子 墳 と 亀 殼 墓
鹿児島大学の下野敏見教授によると、福建同安県の沙渓村に「亀甲墓」の原形があるという。
それは、土饅頭の後円部を石塀で囲み、土饅頭には亀の甲の模様を刻む背中石がない。土饅頭 の前に石碑が立てられ、その前にある庭のような空間が墓参りの場所である。石碑から石塀の 外側までは約3.5メートル、墓の幅は2.8メートル、庭は約2.5メートルである。「亀甲墓」の原
③
形は、土墳から変化してきたと下野教授は考えた。下野教授の言う「亀甲墓」は、本文で述べ た「亀殻墓」である。
廩門大学キャンパスの内にある五老峰の山道には、一重塀あるいは二重塀のある墓が多くあ る。それらの墓の背中の亀甲の形は明らかでないが、その土盛や全体の形や雰囲気から亀殻墓 の簡略形とも言える(写真3.4)。南安市では、亀殼墓や長方形・円形などの椅子墳、そして その他の形の墓とが共存している。違った形の土饅頭を後部から前へ「墓山」か「墳手」で囲 むと、各種の椅子墳や亀殻墓を形成する(図8参照)。
写 真 3
写 真 4
…
撫 織 鰻 灘
鱗
…
厘門大学構内にある「亀殻墓」
椅子墳と亀殻墓 39
図 8 南 安 の 亀 殻 蟇 ( 何 彬 論 文 よ り )
金井鎭囲頭村における墓地での観察によれば、いわゆる「亀殻墓」とは、墓の土盛りあるい は背中の部分の形状から名付けられたが、実は似たような類型が数多くある。「亀の甲」は、円 形、楕円形、長方形がある(写真5〜7)。亀殻墓と他の墓との共存関係を考えれば、下野教授 の意見を重視すべきだと思う。例えば、長方形の背中をもつ亀殻墓は「草履墓」(草履形の土墳)
から変化したと考えられる。晋江金井の亀殻墓の一部は確かに「草履墓」の周囲を囲いや棚で 取り囲んで作られている。しかし、このような発展過程は、亀殻墓が「草履墓」から発展した わけではないので、特別な「歴史」的意味があるわけではない。異なる墓様式の共存関係にお いて、「草履墓」を亀殻墓に改造することが可能なように、これらは相互に変化が可能なようで ある。
晋江市東石鎭僑声中学校前の墓地に、「草履墓」、亀殻墓と「黄金墓」(洗骨した二次葬の墓)
の共存を観察した。亀殻墓の横によく土地神「后士」を祀る小さな祭壇があり、それも小さい 亀殻墓の形状に造られ、亀の甲模様も描かれていた。そこで、清代の亀殻墓があり、墓碑を見 ると、一夫二妻の合葬墓であった。ほかに数世代共用の亀殻墓も見たが、個人墓と夫婦墓が多 い。
湖東南地区ではよく煉瓦やセメントを使用するが、福建南部は石の産地であるため、そこの 亀殻墓は石で造る。セメントもはやってきたが、基本材料は石である。昔、財力のある家は、
花崗岩または三合土で亀殻墓を造り、普通の家は三合土の長墓を造った。三合土は、赤土1砂 2石灰3を黒砂糖水か糯米の煮汁で混ぜたものであり、古代の大墓(亀殻墓)はこれを使用し て頑丈であったという。
台湾の墓の様式は福建南部と殆ど一致している。細部の構造は複雑で多様であるが、亀殻各 部分の呼び方は、福建と台湾では同じか類似している。台湾にいる福建と広東出身の人々は、
よく亀殻墓形の墓をつくる(写真8〜9)。碑の左右は「墓耳」と呼ばれ、それは「墓手」につ
椅子墳と亀殻墓 40
写 真 5
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写 真 6
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写 真 5 〜 7 余 井 鎮 に あ る 亀 殼 墓
椅子墳と亀殻墓 41
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写 真 9
写真8〜9屏東県にある墓地のお墓(蘇素卿女史提供)
ながる。「墓手」の曲がるところで「印頭」(四角い石柱)か「石筆」(丸い石柱)をつくる。左 右の「墓手」は「墓庭」(拝庭ともいう)を抱き囲む。墓碑の下に「墓卓」を設け、墓碑の後ろ のお棺を納める土の盛り上がった所は「墓亀」、墓亀周囲の士盛は「墓山」、外側の壁は「砂手」
④
で、その右は「龍砂」、左は「虎砂」と呼ばれ、墓左右の山脈を「青龍」、「白虎」という。福建 も台湾も亀殻墓の構造は複雑であるが、各部分の呼び方は似ている(図9,10)。
沖縄国際大学の平敷令治教授の研究報告によると、台湾には「墓殼草」の他に墓庵型と家型
⑤
墓の類型があり、その背中が亀の甲の形になっているものもあったという。封建時代の墓葬に ついての等級制は以前に崩壊しているが、そが後の亀殻大墓の「規格」にかなりの影響を与え ている。墓職人は、大中小の「歩」と墓前の「柱」の数によって亀殼墓のそれぞれの「規格」
を表わす。たとえば「大五歩」の亀殻墓は、通常三対の墓前の石柱をもち、それによって墓地
42
図 9
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観書 墓 稟
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含 ロ I
一 拝 埋
台湾桃園呂姓佳域正面図
平敷令治「台湾漢人社会の墓制」より
砂手(外扉)
鯉 菫 豐
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鶉謬 、
、 瓶
図10同上
観 書
●q
、●
椅子墳と亀殼墓 43
の面積、高さ、墓碑の大きさなど一定の標準的な尺度をもつ。
亀殼墓とその変化形が福建の羅源、瑞安、蕾田にも広く分布している。さらに亀殼墓は日本 の沖縄及び東南アジア華僑の居住地域まで広がっていった。墓の規模は区々であるが、土盛り あるいは墓室頂部に亀の甲の形状あるいは紋様が伺われる。
椅子墳と亀殼墓が、一つの民俗現象として長く存在したことは、中国漢民族の喪葬文化に中 国北部と違った東南部の伝統が存在することを示した。漸江と福建の民間で椅習子墳と亀殼墓の 理解の違いが、地方伝統の中に更に基層的な民俗文化の「小伝統」、あるいは何論文によれば「小 さいパターン」があることを示した。今日の廩門とその周辺に、亀殼墓と椅子墳が共存してい る現象が見える。亀殼墓は、椅子墳から変化してきたより地方性を表す特殊型と言えよう。福 建南部の人々は椅子墳と亀殻墓を同一視するかも知れないが、分析の便宜上、墓の背中がはっ
きりした亀甲状をしたり、亀甲の模様が明らかに描かれる椅子墳のみを亀殼墓と呼ぶ。
(三)
何彬氏の調査研究によれば、椅子墳の最古のものは、北宋時代に湖るという。徽宗煕寧年間 (1068〜1077)に、龍泉県の左イト射の何執中が父親の墓を作り、墓を盗まれないようにするた め105の同じ「椅子梢」墓を造った。その後、何氏一族が代々役人になり、元・明代になって、
地元の人々がまねてこの形の墓を造るようになった。文化大革命の時、何村で「北宋煕寧年間 墓」と書かれた「椅子梢」墓を壊したというが、これが真実であれば、次のようなことが説明 できる。(1)北宋以前に椅子墳という形式の墓がすでにあった、(2)最初、この形式の墓は官吏階 層に限り使用されていた、(3)椅子型の墓は、死者が官吏のシンボルとされ、子孫の出世を加護 する機能があった。明確な証拠によると椅子墳の歴史は明代にまで湖ることができる。明代に は温州に、すでに椅子墳があって、嘉靖年間に張閣老の交椅式先祖墓が温州永強区にあったと いう。
私は廩門大学人類博物館で亀甲状の石墓蓋をみた。その上に、亀甲の模様と「大明」の文字 がかすかに見えた(写真10)。この直門大学付近から発掘して発見されたものは、廩門辺りでは 少なくとも明代には亀甲状の石の墓蓋を使用した墓があったことを教えてくれる。亀殼墓の祖 型である椅子墳あるいは今日もよく見かけられる土墳に墓塀を加えた墓式がもっと先にあった であろうことは言うまでもない。台湾林氏家譜の記録では、明代弘治17年(1504年)に修復し た林氏先祖の墓は亀殼墓であった。林氏家譜には、昭穆順で並べた九つの墓を「九亀」と記さ れている。
椅子墳と亀殼墓の構造とその技術は、長い歴史を経て形成されてきた。福建の金持ちは「大 墓」(亀殼墓あるいは一般的意味の椅子墓)を造る時、糯米の煮汁を煉瓦や石材の接着剤に使用 したが、それは南宋時代からの技術であった。福建で発見された南宋宝慶三年の朱基の墓の墓
⑥
室は、長方形煉瓦に加えて石灰と糯米の煮汁を混ぜて造られたものである。
泉州では、亀殼墓と亀庵型墓が明代にすでに普及していた。晋江金井鎮では、「亀殼墓」とい う呼称は清代末期までしか測れないが、明代以前は少なかった大墓は明代以後普及した。粘良
44 椅子墳と亀殻墓
写真10厘門大学人類博物館の「亀殻蟇」墓蓋
図氏の御教示によると、閨南では墓碑の文字と型で明代と清代の亀殻墓を見分けることができ る。明代亀殻墓の碑は、5〜6尺の幅で、凸文字であり、その下に幅約6〜7尺ある石卓が置 かれている。清代亀殻墓の形式によると碑は真ん中にあり、両側に「翼」があり、卓の裾に様々 な図案が彫刻される。明代洪武年間に「闘人三十六姓」の人々が福建から琉球に渡ったが、そ の子孫の察其棟と鄭得功は福建で亡くなり、資料によれば彼等の亀殻墓(図11,12)はそれぞ
⑦
れ乾隆6年(1741)と嘉慶6年(1801)に建てられたという。
福建南部各地には清代から民国の亀殻墓が、今日も数多く残っている。筆者が金井で調査し た時、三合土造りの清代の亀殻墓を見た。その亀の背中に亀甲の模様は刻まれていないが、形 は亀甲に違いない(写真11)。もう一つの民国初期における三合土造りの亀殻墓(写真12)には、
棺桶と骨壷「皇金」が納められているそうである。
近代以後における福建南部の「大墓」即ち亀殻墓の塀は、一重、二重、三重があり、二重の ものが多い。三重のものは、金持ちが造る。塀は墓の外側にあり、塀の数が増えると墓の規模 が大きくなり、それに応じて墓正面の彫刻も大きくなったり、多くなったりする。大墓の墓碑 の大きさは約3.2尺×2.9尺、普通の墓は約1.6尺×2.6尺である。墓碑は、通常興・旺・衰・微 などと書いてある「魯班尺」で寸法を確定する。その長さは「興」か「旺」に合わせなければ ならず、俗に「寸白」に合うという。碑のほか、墓用の寸法はすべてこのようにする。墓碑を 立てる際、後ろへ1,2分傾かせ、陽気を得ることを示す。
椅子墳と亀殻墓 45
図11藥其棟の墓図
「那覇市史資料編・第一巻六j312頁より
趨吾脚一咽
図12鄭得功の墓図
「那覇市史資料編・第一巻六j639頁より
46 椅子墳と亀殻墓
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写真11金井鎮にある「三合土」質の「亀殻墓」(清代)
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亀殻墓正面の石彫刻などの装飾について、粘良図氏は論文で紹介している。亀殻墓正面の石⑧
彫刻は住宅の正面のように豪華なものがある。墓碑は磨きをかけられ、碑の翼に花烏模様が彫 られ、卓裾は三枚からなり、騏麟、獅子、コウモリ、万の字など吉祥の図案が刻まれる。墓柱 に対句かあるいは墓主の誕生及び死亡年月日と墓穴の方向などが彫られる。柱の頂を筆先形に 彫刻するので「墓筆」といい、子孫の文才を祈る意味をもつ。その他に柱頭には金瓜形、花藍 形、ボール形、蓮花形、花瓶形さらに侍女やインド兵士などが彫刻されている。インド兵士を 彫刻した亀殼大墓は、豪商華僑の墓であるため外来文化の痕跡があるわけである。普通は、墓 亀に一番近い墓柱には筆先形、死者が女性の場合は蓮花が多い。墓亀に一番遠い柱には獅子が 彫られることが多い。墓柱間の壁には、梅、蘭、竹、菊、鵲、鳳凰、白鶴、瓢箪、宝瓶如意、
椅子墳と亀殼墓 47
など「廿四孝」の類を刻む。亀殼墓の丹池は、よく磨いた石材でつくり、現在はセメントでつ くるが、「石硝」一つを必ず付ける。丹池に排水用の地下溝があり、溝が曲がっていて、真直ぐ であってはいけない。丹池は正方形、長方形、半円形などがある。墓の秀らの地勢が低い所に 小さい土盛りをつくり、その前に「司土」あるいは「后土」と彫られた1.6尺×1尺の石碑を立 てる。セメントの亀状墓はほとんど緑か紅(褐)色で、周囲を石かセメントの塀で囲む。現在、
このような亀殻大墓を作る費用は、約人民元8000元〜30000元である。その上に、密閉式あるい は開閉式のドームをつくる場合もある。その費用は5000元〜8000元ぐらいである。
椅子墳と亀殻墓の墓様式は明清から宋代まで湖ることができるが、当時は建造費用が高く、
しかも一定の身分と経済力のある人々に専用されていたため、階級制度崩壊後は、この墓が次 第に増えてきた。各地の調査によれば、亀殼墓と椅子墓は過去においては権力者や有力者、富 裕者によって作られ、貧乏階級は土墳しかつくれなかったことがわかった。80年代以来、農民 の生活が豊かになるにつれて、椅子墳が急増して、世間の注目を引き、「温州経済モデル」のほ かに「温州墓モデル」という語も造り出されるほどである。しかし、今日の湘江、福建でも全
ての人が椅子墳や亀殼墓を作れるわけではない。
(四)
亀殼墓と密接に関連して論ずべき問題は、一つは地域民俗文化における亀崇拝ともう一つは
后士信仰である。
亀殻墓の頭頂部あるいは土盛を亀甲の形にするのは、長寿を意味する。この墓形は北方では なかなか見られないが、福建と台湾では、民俗文化の背景と密接な関係がある。福建南部と台 湾の民間における亀崇拝は、決して孤立した現象ではなく、北方の「民俗文化現象群」とは一 種異なったものである。中国北方の民俗信仰の中では亀が次第に悪いシンボルとなってきたの に対して、東南中国、とくに福建と台湾の民間では、亀は福、禄、寿、喜、財のシンボルとなっ ている。民間のお祝いでは米の粉で「寿亀」をつくり、福禄寿の祝福を表わす。元宵節にこの
「寿亀」を寺廟に供えて祈願することもある。また、寺院の放生池で亀を養うこともある。晋 江では中元節にでんぷんと小麦粉で「亀」をつくって施餓鬼をする慣習がある。台湾では、清 明節の墓参りの際、供え物に必ず「紅亀緤」(亀甲模様まである赤い色の菓子)カヌあり、それが 長寿を意味し、墓参りに来た子供たちに配る。
墓を亀甲形にすることは、墓穴を「寿塘」と呼ぶことに一致する。福建南部に「亀息」の言 い方もあるが、「亀息」は休眠状態、安息の意である。こうして、亀殼墓は、死者がやすらかに 休み、子孫が長生きし、陰宅が陽宅を加護する意味を持つようになった。古代中国北方におけ る帝王や将軍の墓の墓碑は神亀の背中にのせるが、その意味も「長寿」である。陰宅を「佳城」
と言うように、「亀殼墓」も同様の趣旨で「亀城」という。古代は「亀卜」で城を作る場所を決
⑨
めた。亀の形の都市も作ったという。墓を「亀」の形に作るのも同様の効果があり、亀には長
寿、永久と霊験などの性質を持っているためである。
平敷令治教授は、郭嘆による『葬経』の「夫葬以左為青龍、右為白虎、前為朱雀、後為玄武、
48 椅 子 墳 と 亀 殻 墓
玄武垂頭」の記載を根拠に、亀殻墓の墓亀が前に傾くことは、民間の「紅亀」のような象徴し
⑩
ベルではなく、葬経によったものであると判断した。亀殻墓は、風水思想と方位四神観念とが 密接に関連し、多くの墓が南向きで前低後高となっていることを考えれば、平敷教授の見方が 一つの説となると考えるし、今後の実地調査でそれが証明されることを期待する。
福建南部と台湾の葬俗の一つの特徴は、墓の横(ほぼ左側)に「土地」を祀る祭壇を設ける
(写真13)ことであり、その形が亀殻墓と同じものもよく見られる。晋江金井一帯では、后土 はよく墓前の低いところに祀られ、風水上の地形の低いところを補うといわれている。この地 方では、后士はしばしば墓の右にも祀られる。后土の祭壇には、よく「土地」、「后土」、「福神」、
「福徳正神」などと書いた石碑が立てられる。
「土地」の祭壇で注目したいことは次の通りである。
(1)普通人々は風水によって場所を決めて、墓をつくる。風水先生は、その年の暦による恵方 にしたがって、東西の方向がよいのか、南北の方向がよいのかを決める。墓は、東あるいは南 向きが多いが、北あるいは西向きのものもある。それは、主に墓が位置する実際の地形によっ て決められる。福建南部一帯では専門の人を雇って墓を掘る時、土地公の許可をもらう儀式を 行う。菓子などを土地に供えて金銀の紙銭を燃やし、この場所を買ったことを示す。墓ができ たら、また土地に感謝する「謝土」儀式を行う。紙銭を燃やすほか、御馳走をして、墓造りに 参加した人々を労う。福建南部の民間信仰では、土地公は土地の所有者と管理者であり、土地 を使用するとき、土地公の許可が必要である。死者を葬る前の后土を祀る儀式は、土地公に死 者が使用する墓地の範囲とその借用の契約が成立したことを報告するためである。その後、墓 参りする都度必ず土地を祀る。台湾も同じである。
(2)古代の方位象徴説で解説すれば、墓が南向きで、左(東)青龍、右(西)白虎、前(南)
朱雀、后(北)玄武、中央は土でその神は地祇である。これで、墓地の一隅で土地を祀る祭壇 は、土地の管理者を祀るのみではなく、「自己中心」式な世界観を含んでいると解釈できる。
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写真13金井鎮囲頭村の亀殻蟇とその「后土」の祭壇
椅 子 墳 と 亀 殻 墓 49
(3)福建南部の民間では、「土地」は総称で、「福徳正神」は陽宅で祀る「土地」の呼び名であ り、陰宅墓地で祀る「土地」を「后土」と呼ぶ。陰宅と陽宅は区別されているが、福建南部、
台湾の亀殻墓の横の「土地」祭壇の碑に、わざと「福徳正神」と書くのは、人々による「死を 生の如く」という観念の表現である。
(4)福建南部では、以前、死者の身分により、土地祭壇に「后土」(一般庶民)、「后士神」(挙
⑪
人の家)、「后土之神」(進士以上)と書いたほど、封建時代には階級制度が厳しかったが、現在 の調査から見れば身分を越えた書き方が多い。
(五)
椅子墳の形成を論じる時、何彬氏は「外走山」、「墳圏」、「交椅梢」と「高椅募」の物理的な 機能、つまり防水、保墳を強調して、地理、地形は民俗形成に影響すると指摘した。「王道運」
の排水溝と「黄道牙」の防水畦から墳圏、墳手に変化してきたプロセスは明確である。何彬氏 は、華南の地形、気候の分析、墓地選択の分析を通して、墓は人間の精神と心理要素の物的な 表現であり、その上に墓のもつ様々な意味における純粋な建築学的実用性を超越したことを示 すことによって、かなり全面的に椅子墳の由来、形成と変化を説明した。椅子墳と亀殻墓の形 態様式及びそれを内包した意味については、風水観念からの影響を特別に重視すべきであると 私は思う。
温州椅子墳の「外走山」、龍泉県龍淵における士洞墳の「王道運」、絹雲墓式の「黄道埒」は、
みな防水機能を持ちながら、明らかに風水の意味を含んでいる。椅子墳の「八字」や「墳手」、
亀殼墓の「砂手」や「伸手」、「墳圏」などは、それぞれ風水の意味を内包している。
何彬氏の指摘したように、東南沿岸の多くの地域では、葬式の時間と埋葬の場所の選択は、
皆風水の原則に従い、風水を原因に改葬する例もある。中国の風水思想は秦、漢時代あるいは さらに古くまで潮ることができるが、それが体系を形成し、庶民の生活に浸透するのは、唐、
宋以後文化の中心が南へ移動するに従って南部中国で実現したのである。中国における風水の 二大流派は、江西と福建で形成されたが、それは、椅子墳及び亀殻墓の発生と普及に何か関連 があるかも知れない。
民間における風水観念の目立った特徴の一つは、先祖の墓の風水環境が子孫の繁栄と密接な 関係があるということである(図13参照)。この関係は宿命的というわけではなく、墓地の風水 環境の選択によって確保された。
⑫
墓造りを「風水を作る」といい、「風水」ということばが墓を指し、自家の墓を「風水墓」と 呼ぶ。(通常、香港や台湾などでの亀殻墓は、永久的な個人の「風水墓」として作られる)。椅 子墓や亀殼墓の形は良い風水を養い、加護を受けられると信じられている。これらのことは、
墓の風水は墓地の風水環境だけでなく、墓の形式自体がもつ風水関係の意見も含まれることを 示した。風水を招き養うために、墓にレリーフや絵、東屋、石腰掛けなどを加えるのである。
「風水を作る」とか「風水を養う」という言い方は、墓地の風水は地形を選んだり土地を占っ たりする方法以外は、墓の形態様式によって得られる。椅子墳の塀は物理的な防護機能や心理
50
図13
椅子墳と亀殻墓
x全xAx全X角
へ
甲
一
へ
Z
ー
一番よい墓地の風水環境(甲)と親族関係(乙)
A 墓 B 山 脈 C 川
(渡邊欣雄著『風水気の景観地理学』196頁より)
恥IリI
山 附 加
図'4−番よい墓地の環境・陶淵明の墓とその家
(何暁斫編著『風水探源』72頁より)
椅 子 墳 と 亀 殻 墓 51 (乙)
(甲) I
I リ
納・161.弾
A右虎 A左肥 C
八 A
, 戸r× F凸×
理想風水(甲)と亀甲蟇形態(乙)の相似性
A 龍 脈 ・ 龍 護 B 制 尚 C 穴 D 明 堂 E 水 流 、 池 F 朝 山 、 護 神
(渡邊欣雄著「風水思想と東アジア」35頁より)
図15
的・情緒的な表現機能のほか、墓風水を営む機能もある。椅子墳と亀殻墓の墓形式自体は理想 的な風水環境との間に構造上の類似性をもっている(図14,15)。それらが周囲の風水環境と相 関関係をもつほか、その墓形式自体が人工的に建造された風水小環境の性格をもっている。
平地に造られる亀殻墓は、周囲に利用できる山がないため、墳圏や砂手を高く立てて、最良 の風水環境を模倣する。これは福建と台湾で一致する。
沖縄最南端の与那国島の人々は、陽宅は一時的な住まいで、陰宅こそ永久的な住まいである と思っているので、墓は家屋より先に造るということである。この島の亀甲墓は、墓眉に大き な特徴があり、高所に建てられるため、正面の視野が広い。亀甲墓の形態が風水理論に合致す
⑬
るので、島の住民に重視されたわけである。
漸江の台州では、風水先生が墓の立地を選ぶ時の一般的な条件は、後龍端正にして、両手を しっかり抱き合い、前に明塘があることであるが、椅子墳の形態の特徴はちょうどこの風水貴 地の条件と合致する。温州では、椅子墳が良い風水を招く、または風水を養うと信じる人が多 い。墓の風水が良く、祖先が気持ち良く住んでいれば、子孫を加護してくれるというので、風 水を養うために椅子墳が益々豪華に造られ、現在一つの椅子墳を造るには数万元かかる。椅子 墳が風水を集めて養う機能を持つと思われるのは、その形態様式が最良の風水環境に符号して
いるためである。
台湾の新竹市崎山墓地にある亀殼墓(墓の背中は士であるが)の「墳圏」後部に、「龍神」が 供えられているが、それはその墓の穴即ち龍穴であり、子孫を加護してくれることを示してい
⑭
る。台湾の屏東県麟洛村のある亀殼墓は、「砂手」の裏に双龍珠を掬うレリーフをつくり、その 珠に墓主の姓が書かれている(写真14)。福建省晋江金井囲頭村の海辺に近い墓地に、「墳圏」
や「砂手」を直接「双龍戯珠」形に造った亀殼大墓があった。墳圏か砂手に龍を描くことは、
墓地の方位四神と関連するほか、墓地風水との関係がもっと重要であろう。陰宅風水説による 墓地選択の基本原則は、「龍脈」の走向と「龍穴」の所在を探すことであり、「背有高集(椅子 の背)」、「前有堂案」という視野の広い場所を選ぶ。まず、周囲の山と地形を見て、「来龍」の
52 椅子墳と亀殻墓
写真14台湾屏東県にある亀殻墓
有無を確認する。「活龍」と「龍脈」さえあれば、龍脈の走向に沿って「龍穴」が見つかり、墓 穴の具体的な位置を確定することができる。墓穴と龍穴が合致すれば、風水の恵みを得ること ができ、天・地・人が気の境界に達し、陰宅から子孫に福がもたらされ、加護してもらえる。
亀殻墓に龍を飾り、「后士」と一緒に「土地龍神」を祀るのは、この墓が龍穴の所在であること を示すためである。
「風水」の中心要素は、「龍脈」のほか、「気」である。晋の郭漢の作とされる『葬書』に「葬 者、乗生気也」、「気乗風則散、界水則止、古人聚之使不散、行之使有止、故謂之風水」、「土形 気行、物因以生。夫気行乎地中、其行也、因地之勢;其聚也、因勢之止。葬者、原其起、乗其 止」(「葬、生気に乗り」、「気は風に乗れば散り、水に会えば止む、古人は其を集め散らさぬ、
動かし止まらせ、故に風水と謂う」、「土形気行、物これで生す。気地中を行く、地の勢より行 く、地の勢より止む。葬、その起をそってその止に乗る」)。椅子墳と亀殼墓は、その形態が陰 宅の「藏風得水」の条件に符号し、あるいはその形態の形成が、風水説にかなり影響されてお
り、それは実に風水理論の条件に合う人工的な「風水宝地」である。
椅子墳および亀殻墓の構造と形態様式が風水世界観の理想とぴったり合うのは、偶然ではな いと思う。ある意味で、椅子墳と亀殻墓は実際に宇宙のモデル構造であると言えよう。生死と 関係するのみでなく、天地宇宙にも関係する。それが天地の気を集めて風水を成し、風水を通
して先祖と子孫との間に関係ができて、子孫に現世の利益をもたらす。沖縄に伝わった風水の 本に亀甲墓の図形が書かれている。「福建汀州府永定県太平里黄龍塞前張丙琳」と書いた亀殻墓 の図に書かれてある墓は「前方後円」形であり、その後円部分は「天円」、前方部分は「地方」
を象徴し、この形態様式の墓の構造は中国式の宇宙観が内包されている(図16)。
先祖の墓の風水環境は、現世の子孫にとって重要なので、福建南部と台湾の民間において風 水が原因でトラブルを起こし、風水的な方法で解決されるのが理解できよう。先祖の墓の風水
椅子墳と亀殻墓 53
の恵みを受けるため、子孫たちが祖墳を囲んで居住生活する村さえもあった。以前の福建省浦 城県倉氏村では、家屋がまるで星が月を取り囲むように祖墳を取り巻いて建っていた(図17)。
晋江金井あたりにも似たような風景を見たことがある。
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「福建省汀州府永定県太平里黄龍塞」天円地方墳 (渡邊欣雄著『風水気の景観地理学』56頁より)
図16
椅 子 墳 と 亀 殻 墓 54
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図17福建浦城層氏村:祖墳を取り巻いて居住してた
(何暁斫編著『風水探源』81頁より)
(六)
沖縄諸島によく見られるのが亀甲墓であり、これも墓の背中の形が亀の甲に似ているため名 付けられた。この墓形式あるいは墓様式はいつ、どこから、どのように沖縄に伝わったか、未 だ謎が多い。しかし、それは中国の福建や台湾地域の亀殼墓と同一系統か同じ類型の民俗文化 事象であり、明らかに中国大陸東南系統の墓形の影響を受けたことは、疑問があまりなかろう。
沖縄墓制の研究者である、名嘉真宜勝氏によると、現在知りうる限り最古の亀甲墓は、那覇
⑮
市首里石嶺町の伊江御殿の墓であり、1685年頃建てられた。それに少し遅れて建てられた首里 末吉町の羽地朝秀の墓も亀甲の形であった。また、上江洲均家の亀甲形の墓は、約1701年か1705 年に建てられたそうである。これら沖縄における初期の亀甲墓の特徴は、「墓眉」が平らで、入 口が大きく、少し腰を屈まなければ入れないことである。18世紀末期から19世紀初期にヨーロッ パの旅行者、探検家が初めて琉球諸島に着いた時、「武器のない国」とか「守礼の国」のほか、
最も深い印象を与えたのが、住宅より立派である「大琉球の白墓」であろう。
この形の墓及びその建造技術は、中国南部に学んだと言えよう。伝わった時期は、大陸から の移民と冊封使の往来が頻繁であった15,16世紀頃であろう。当時数多くの石工が大陸(福建
椅子墳と亀殻墓 55
南部)から来琉し、彼等が持って来た石工技術が城、寺、橋と墓の建築に使われた。亀甲墓の 背中を造るアーチ作りの技術が、真玉橋や比謝橋などを造った技術と全く同じであることを考
えれば、亀甲墓の形と技術の伝来時期は、もっと古い時代に潮るかも知れない。初期の亀甲墓 は「唐墓」とも呼ばれたそうである。「亀甲墓」という称呼も大陸から伝わったかもしれない。
これは、別の角度から見ると、大陸の亀殻墓の歴史は、我々の知っているよりもっと古いかも しれないことを示している。沖縄に伝わった福建汀州の「天円地方」の墓図に示されたように、
亀甲墓は直接福建から伝来した可能性が大きい。上江洲均氏は沖縄の亀甲墓を説明する時、墓 の横に「土地公」を祀ることに触れたが、これも福建や台湾と一致する。朝鮮の『李朝実録』
によると、亀甲墓のみでなく、沖縄の葬儀も「中国福建の俗の如く」と書かれている。しかし、
亀甲墓のルートは台湾からの伝来も考えうる。少し前まで、八重山諸島の台湾移民は、台湾か ら職人を呼んで、個人用の亀殻墓を造ってもらったこともある。
名嘉真宜勝氏の報告によると、沖縄の津覇、座喜味、久高、津堅、野甫、伊計、座間味、田 名、川平などの島と村では亀甲墓が主である。また、喜屋武、中山、糸数、賀数、富勝、久手 堅、金武、汀間、喜仲、安波、古宇利、具志堅、上原、比屋定、宇江城、渡名喜、阿真、阿嘉、
⑯
島尻、多良間、竹富などの島と村にもかなり分布している。
1990年12月と1992年6月に、筆者は沖縄の読谷村で調査をした。字長浜のある墓地に「破風 形」墓と共存している亀甲墓を観察した。亀甲墓の大きく立派な気勢が印象深かった。読谷村 立歴史民俗資料館に亀甲墓の模型が展示されているが、それはその村のある古い墓をモデルに して造ったものである。墓室は棺を置く室と厨子甕を置く台からなっている。沖縄の亀甲墓の 基本構造は図18のようである。墓の後円部分は厨子甕を置く場所であり、前の墓庭は定期的に 祭祀する場所である。渡邊欣雄教授の調査によると、与那国島では亀甲墓は前庭(祭祀場所)
と納骨堂(墓塘)からなり、墓塘は棺室と骨壷置き台からなっている。図18は明治22年頃琉球 国最後の絵師と言われる峰山査丞烈の描いた『琉球風俗絵図』の一枚で、墓の前庭に邪気よけ
⑰
用に「屏風」(ヒンプン)が設けられている。上江洲均氏の解説によると、その亀甲墓の図の各 部分の名称に「袖」、「手」のような呼び方があり、それはある程度中国に似ている。
沖縄には亀甲墓を母体回帰のシンボルだとする解釈がある。墓は女性の仰向け姿勢であり、
母体を象徴し、死者をその中に葬ることは、すなわち人間が死ぬことによって元の母体に帰る と考えられ、そこには再生への期待が含まれている。この解釈によると、墓の上部は女性の下 腹部、両側の石垣は両足、墓の入口は陰門、墓内は胎内に相当する。まさに「福建汀州府永定 県太平里黄龍塞前張丙琳」墓図に書かれたように、「書日:墓形,婦人正座像也,知生道,知帰 道」。(書曰く、墓形、婦人正座の像であり、生まれる道を知り、帰る道を知る」)沖縄の墓の種 類は多いが、ほかの諸形式にはこのような信仰がないため、亀甲墓と一緒に伝来したか、形成 したと主張する学者もいた。亀殻墓については、福建での調査において母体回帰に類した解釈 を聞いたことがない。しかし、一部の学者による中国の風水理論研究の結論によれば、陰宅風
⑱
水の原理は女陰あるいは母体をもとにしたものであり、そうであれば、沖縄の解釈は根拠がな いわけではない。実際に、福建汀州の墓図が沖縄に伝来したことが、この種の解釈が大陸から
椅子墳と亀殻墓 56
10
§ f
蕊
守今且守今且鱗
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、
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図18瞳山査王烈の描いた亀甲墓
(『琉球風俗絵図」より)
来たという有力な証拠となろう。墓図で書かれている「害」とは、風水と関連するある種の本 ではないかとも推測できる。
琉球王国では最初、庶民に亀甲墓の使用は禁止され、首里の王族や士族階級に専用されてい た。文献によると、18世紀前期にも庶民の亀甲墓使用は制限されていたが、19世紀前期になる と首里王府によって庶民の亀甲墓の造営が許可されたが、亀甲を作る以外には石垣の塀も他の
⑲
装飾も許されなかった。明治の廃藩置県から大正時代にかけて、この墓型が徐々に庶民層に伝
椅 子 墳 と 亀 殻 墓 57
わり、戦後にセメント建設技術の普及によって亀甲墓が民間に広がった。この意味では、石の
⑳
亀甲墓はセメント製の亀甲墓より古いと言えよう。これは、石敢当の伝播に似ている。亀甲墓 も先に沖縄本島に伝わり、後に先島諸島へ伝わったようである。
亀甲墓を専用していた琉球の士族は、「門中」を組織した。それは中国の「宗族」に近い父(男)
系血統の祭祀組織であり、同じ「門中」の人がしばしば同じ亀甲墓か「破風墓」を所有する。
一基の墓に一人でなく、一つの門中が使用することが、かつて首里王府に命じられたとも言わ れている。今日の沖縄における門中墓の形成過程を見ると、亀甲墓が沖縄に伝わった後、士族 が門中制度に対応することによって、墓の規模が大きくなり、内部構造も変化した。村墓から 門中墓そして家族墓という変化のプロセスがあったかも知れない。亀甲墓は、最初多くは門中 墓であり、家族墓はその後現れた可能性が大きいと思う。現在、那覇近辺の亀甲墓は、家族墓
もあれば、門中墓もある。
呼称及び外部形状から見れば、沖縄の亀甲墓と福建南部の亀殻墓は明らかに似ているが、内 部構造から言えば、漸江の椅子墳がもっと亀甲墓に近いと主張する人もいる。これらの比較研 究は、今後の課題となろう。沖縄の亀甲墓と福建南部の亀殻墓を比較してみると、次の点が指 摘できる。
(1)墓を使用する社会組織が違う。沖縄の亀甲墓は家族墓、門中墓、村墓があるが、個人墓は 少ない。読谷村史料「二代波平親雲上墓所新築成候御心ヲ察シ永伝記(1900)」に、明治33年門
⑳
中全員出資で門中の亀甲墓を建てたことが記録されている。ほかに、読谷村古堅やその他多く の村墓のように、沖縄の亀甲墓は共同性の高いことを示している。これに対して、中国の亀殻 墓の多くは、個人墓か夫婦墓であり、数世代の人を一つの墓に入れるのはわずかある。福建や 漸江のある地域で、かつて「門中墓」や「家族墓」あるいは「宗族墓」があったかどうか、さ
らに調査する必要カヌある。
(2)亀甲墓と関連するのは、門中制度と洗骨習俗なので、墓は長年にわたって繰り返して使用 されている。亀甲墓は、死体処理の第一次墓室(風葬室あるいは置棺室)として使用でき、ま た洗骨後の遺骨を安置する納骨台としても使用できる。亀甲墓の墓室内は、通常世代によって 遺骨を納めた厨子甕をそれぞれの特定の位置あるいは台の上に置く。そのため人々は一つの亀 甲墓に対して繰り返して追葬することが可能になる。通常、亀甲墓の墓室内に世代順で厨子甕 が2,30から50あるいは百個ぐらい収納されている。亀甲墓は、ある程度宗族(門中)墓の性 格をもっているので、未成年あるいは異常死による死者の場合、まず亀甲の門中墓の横に小さ い仮墓を作り、三、五年後遺骸を墓に移す。読谷村にこのような例があった。
これに対して、中国の亀殻墓は、通常代々あるいは繰り返して追葬する性質をもっていない。
中国の亀殻墓の多くは個人墓か夫婦合葬墓であり、直接土葬するにしても、拾骨あるいは洗骨 して再葬するにしても、継続して追葬する状況はほとんど発生しない。東南中国にも二次複葬 の伝統がある。第一次の土葬をして数年後に風水が良くないと思われた時、洗骨してから骨を 拾って甕棺(「金罐」「金斗」「黄金」など)に入れて露天に置き、「風水宝地」を見つけた後に 永久的な亀殼「風水墓」を造る。亀殻墓は風水に関連するが、風水も常に変化するので、代々
58 椅子墳と亀殻墓
の子孫は独立して別に墓を建てることになる。つまり、中国の亀殻墓は、沖縄の亀甲墓ほど経 済上の合理性がない。
(3)前述した区別の影響を受けて、墓の内部構造については、沖縄の亀甲墓は横穴式が多く、
中国の亀殼墓は基本的には堅穴式が多い(写真15)。渡邊欣雄教授の御教示によると、福建省北 部と温州一帯では、実際には横穴式の「椅子墓」もあるそうなので、墓の内部構造に関してさ
らに検討が必要である。
(4)沖縄の亀甲墓の構造は、基本的には最初は中国の同じ種類の墓型をまねて造ったため、外 部の形態上は基本的に類似しているが、内部構造の細部に差異がある。沖縄の亀甲墓には墓碑 がなく、墓眉が高く、入り口が大きい。中国の亀殻墓は墓碑を亀の頭にし、墓亀の正面に立て る。墓眉が低くて、墓耳に代えられている場合もあり、正面に墓の入り口がない。そのほか、
墓後部の塀(囲堤あるいは砂手)も差異があり、中国の方は極めて複雑で、沖縄の方は素朴で
⑳
簡略である。
写真15金井鎮における亀殻墓の内部構造
(七)
これほど豪華で、寳沢な椅子墓、亀殻墓を論じるには、葬俗の改革という現実問題を避ける ことはできない。温州など漸江省各地方のみでなく、恵安一帯のように福建省の多くの地域な どにも、陰界と陽界において、死者と生者の土地の占有を巡る問題が起きている。土地開発の
⑳
進行につれて、墓問題は難しい問題となる。新聞によれば、1989年まで北京市の火葬率は95%
に達したにもかかわらず、全国の平均火葬率はおよそ27%前後しかない。中国の大多数の地方 では、土葬を改革することがまだ問題となっていない。「生は蘇州杭州、死は晋江泉州」という 俗語があるように、亀殻墓の集中的に分布する福建南部に葬送儀礼を盛大に行なう伝統がある。
このように葬儀の改革は切実な問題に直面していることが明らかである。