1 はじめに
琉球列島のグスク時代初期の遺跡では 「滑石製石鍋」 と粉砕した滑石を胎土中に混入 する 「滑石混入土器」 が出土する。 両者は、祖形の 「石鍋」 とこれを模した 「在地土器」
という関係にある(図1)。 模倣土器は単に形の模倣だけでなく、滑石片を混和材として用い、
保温性、 外観の光沢、 手触りとしての滑らかさといった質感を含め土器に転写させたと考 えられている。
これまで、 滑石製石鍋は玉縁白磁を代表とする中国陶磁、 徳之島で生産されたカムィ ヤキと呼ばれる須恵器質の焼物とともに生活道具として登場し3点セットとよばれ注視され てきた (金武 2011:101)。 その出現期は沖縄諸島における農耕文化招来と調和的な出土 状況を示すことから、 狩猟採集経済から農耕を基盤とする生産経済への移行を考える上 で重要な考古資料と考えられている (宮城 ・ 千田 2014)。
本論では、 島内の狩猟採集民を在地集団、 農耕民を外来の集団として措定し論じていく。
集団を 「人間の集まり」 と定義し、 「狩猟採集民」 と 「農耕民」 の2つの 「集団」 に略し 論を進める。 ただ、 農耕文化の伝播には、 指導者の個人的活動による伝播も可能であ り加えて農耕伝播を担う集団が複数存在する可能性もあるなど考慮するべき課題も多いが、
焦点を在地の狩猟採集民と外来の農耕民の二集団に分け、 滑石製石鍋及び滑石片の形 態や出土状況について、 農耕開始期に絞り検討を試みる。
グスク時代初期における出土滑石からみた集団関係
宮 城 弘 樹
図1.滑石製石鍋・石鍋模倣土器
1. 滑石製石鍋(城久遺跡群) 2・3. 滑石混入石鍋模倣土器(2:城久遺跡群、3: 銘苅原遺跡)
4. 石鍋模倣土器(後兼久原遺跡)
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2 研究略史
沖縄における滑石製石鍋研究は、 熱田貝塚で滑石製石鍋が出土したことを端緒とする
(金武 1978:3)。 その後、 滑石製石鍋と模倣土器の関係は、 いわゆる沖縄のグスク時代 開始年代について、 金武正紀が 12 世紀前後に、 安里進が 10 世紀前後に求めるなど 年代観の論拠とされてきた。 その学史的な経緯については新里亮人 (2010) が略説し ており、 安里進自身の近著 (安里 2013) にも詳述されている。
石鍋そのものについては新里亮人 (2002) による集成作業を基礎に、 拙稿において 追加集成を行い、 現在 109 遺跡確認されている (宮城 2015)。 また、 新里亮人は先の 論文の中、 南西諸島における滑石製石鍋流通について 「琉球列島のものはほとんどが 把手付のもので、 模倣土器についても大半がその類に相当する」 こと 「広域流通品を特 質とする鍔付石鍋及びその模倣土器の出土は稀」 であることを指摘し、 琉球列島の特異 性を論じた (新里 2002 : 164)。
滑石製石鍋研究上の画期となったのは、 2003 年池田榮史による小湊フワガネク遺跡 群出土の穿孔を有する滑石製石鍋片についての論考があげられる。 池田榮史は大片が 多くまた小割を目的とした有孔破片が出土することなどから、 小湊フワガネク遺跡群内で の自己消費だけでなく石鍋を細片化して琉球列島各地に流通させる役割を担ったと指摘。
加えてその模倣品である土器も製作し琉球列島へ広める役割を担ったと指摘した (池田 2003:84)。
その後、 城久遺跡群が調査され、 出土滑石製石鍋の奄美諸島における大片 ・ 多出 の傾向は一層印象的なものとなっていく。 現在、 滑石製石鍋流通の研究は鈴木康之
(2007a・b)、 新里亮人 (2008) によって総括的に検討されている。 一方、 沖縄でも小 堀原遺跡が多出遺跡として注目され、 漠然としていた 「多出」 について再考察を行う環 境が整いつつある。
このような研究下にあって 2014 年に行われた鹿児島県歴史資料センター黎明館で開 催された展示会 『南からみる中世の世界~海に結ばれた琉球列島と南九州』 において、
新たな解釈が与えられている。 瀬戸哲也は小堀原遺跡について 「移民集落の小堀原遺 跡で、在地民と交流が進んだ次世代集落が後兼久原遺跡」 と評している (瀬戸 2014:162)。
一方、池田榮史は「11 世紀から 12 世紀にかけて併存」する可能性を指摘(池田 2004:221)。
「くびれ平底土器とグスク土器の関係を人間集団の移動と移動集団の文化伝播、 さらに はこれを受容した在地文化の変容」として解釈案を提示している(池田 2014:139)。 筆者も、
徳之島の遺跡調査においても滑石製石鍋が比較的多くみつかる事などから、 奄美だけで なく沖縄諸島でも偏在する遺跡があることを指摘した (宮城 2014a)。 城久遺跡群や小堀 原遺跡の評価をめぐっては、 研究者間で若干の相違はあるものの、 移動してきた集団と 関係ある遺跡、 あるいは琉球列島にやってきた新来の集団が関与した遺跡と認識されて いる。
他方、 九州島においても、 滑石製石鍋流通に関する研究に進展が見られる。 中島恒
次郎は、 南島向けの石鍋集積遺跡として九州西北部の桜階田遺跡、 門前遺跡等を取り あげる (中島 2008)。 柴田亮もまた、 流通に関し長崎の西彼杵半島周辺の流通拠点を 見いだし長崎県の門前遺跡を 11 世紀後半から 12 世紀代における石鍋集散地遺跡として 捉えている (柴田 2015:55)。 近年長崎県大村市の竹松遺跡において鹿児島以北ではじ めてカムィヤキの出土が確認され、 滑石産出地である長崎地域と琉球列島の交流を窺わ せる出土例となっている (長崎県 online)。
以上、 熱田貝塚における発見時の金武正紀指摘以後、 新里亮人の集成作業を経て、
池田榮史の研究を期に滑石製石鍋破片流通の仮説とそれを実証する遺跡が幾つか確認 されるに至る。 滑石片と混入土器の研究が流通関係を理解する上で重要なテーマである ことを再確認し、 以下先行研究に習い滑石製石鍋と滑石混入土器について遺跡間でそ の出土状況の比較を行うことで、 これらの流通 ・ 拡散 ・ 使用に関わった集団について検 討を行う。
3 滑石製石鍋と滑石片の出土状況 南西諸島における (石鍋片や加工品等 を含む) 滑石製石鍋の破片は現在 109 遺 跡で確認されている (表1)。 破片が土器 の混和材として利用されていることを考える と、 破片流通の考察には出土数量だけで なく、 破片のサイズや重量といった破片状 態についてもデータとして分析することが必 要である。
既に、 拙稿 (宮城 2015) で明らかにしたように、 出土遺跡数は沖縄諸島が多いが、
破片数では奄美諸島が圧する。 ただしその内訳は、奄美諸島の出土量のうち約 90% (約 70,000g) が城久遺跡群で、 沖縄諸島も約 50% (約 10,000g) は小堀原遺跡、 隣接す る後兼久原遺跡を合わせれば 60%と高率である。 出土状況は現時点では局所的で、
多くの遺跡は 200g 以内の出土であり、 偏在傾向は重量からも窺える。
さて、 滑石片の状態については、 池田榮史が指摘するとおり滑石を意図的に破断させ、
分割したと考えられる加工痕を有する資料が存在する。 これらの中には擦切技法によって 分割されたことが明らかで、 かつ割り取りの際の分割線が残る資料もしばしば認められる
(図 2 ・ 4-1 ~ 4)。 また、 石鍋としてではなく滑石の材質そのものが重宝されていた様子 を窺い知る例として、 城久遺跡群で滑石原石そのものが出土 (図 2-6)。 加えて、 図 2-5 は加工が粗く、 製品以前の加工途上の石鍋とも思われる資料が含まれており、 鍋は もちろんだが滑石石材そのものが受容されたことを窺うことができる事例として注目される。
滑石流通を考える上で、 筆者が注目すべき事例として小堀原遺跡の6号土坑墓 (図3)
の幼児埋葬の副葬品となった滑石製石鍋の加工品 (図 2-7) をあげる。 当該資料は頭
表1.滑石製石鍋及び滑石片出土内訳出土 出土 重量 遺跡数 点数 (単位g) 熊毛諸島
トカラ列島 不詳
奄美諸島 沖縄諸島 宮古諸島 八重山諸島
計 資料 滑石片
地域
約
部上方より出土しており、 滑石製石鍋が破片として副葬されることに意味を持ち、 なんら かの意図が働いていた事を窺える事例となっている (北谷町教委 2012)。
図2.城久遺跡群出土の滑石製石鍋等と小堀原遺跡出土滑石製品
1 ~ 4. 擦切分割線を残す滑石製石鍋片 5. 粗加工の滑石製石鍋片 6. 滑石原石 7. 滑石製石鍋の加工品
図3.滑石を伴った土坑墓(小堀原遺跡)
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図4.城久遺跡群出土の滑石製石鍋加工品及び原石
1 ~ 4. 擦切分割線を残す滑石製石鍋片 5. 粗加工の滑石製石鍋片 6. 滑石原石
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3 部分
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