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グスク時代初期における出土滑石からみた集団関係

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1 はじめに

  琉球列島のグスク時代初期の遺跡では 「滑石製石鍋」 と粉砕した滑石を胎土中に混入 する 「滑石混入土器」 が出土する。 両者は、祖形の 「石鍋」 とこれを模した 「在地土器」

という関係にある(図1)。 模倣土器は単に形の模倣だけでなく、滑石片を混和材として用い、

保温性、 外観の光沢、 手触りとしての滑らかさといった質感を含め土器に転写させたと考 えられている。

  これまで、 滑石製石鍋は玉縁白磁を代表とする中国陶磁、 徳之島で生産されたカムィ ヤキと呼ばれる須恵器質の焼物とともに生活道具として登場し3点セットとよばれ注視され てきた (金武 2011:101)。 その出現期は沖縄諸島における農耕文化招来と調和的な出土 状況を示すことから、 狩猟採集経済から農耕を基盤とする生産経済への移行を考える上 で重要な考古資料と考えられている (宮城 ・ 千田 2014)。

  本論では、 島内の狩猟採集民を在地集団、 農耕民を外来の集団として措定し論じていく。

集団を 「人間の集まり」 と定義し、 「狩猟採集民」 と 「農耕民」 の2つの 「集団」 に略し 論を進める。 ただ、 農耕文化の伝播には、 指導者の個人的活動による伝播も可能であ り加えて農耕伝播を担う集団が複数存在する可能性もあるなど考慮するべき課題も多いが、

焦点を在地の狩猟採集民と外来の農耕民の二集団に分け、 滑石製石鍋及び滑石片の形 態や出土状況について、 農耕開始期に絞り検討を試みる。

グスク時代初期における出土滑石からみた集団関係

宮 城 弘 樹

図1.滑石製石鍋・石鍋模倣土器

1. 滑石製石鍋(城久遺跡群) 2・3. 滑石混入石鍋模倣土器(2:城久遺跡群、3: 銘苅原遺跡)

4. 石鍋模倣土器(後兼久原遺跡)

1

2

3

4

(2)

2 研究略史

  沖縄における滑石製石鍋研究は、 熱田貝塚で滑石製石鍋が出土したことを端緒とする

(金武 1978:3)。 その後、 滑石製石鍋と模倣土器の関係は、 いわゆる沖縄のグスク時代 開始年代について、 金武正紀が 12 世紀前後に、 安里進が 10 世紀前後に求めるなど 年代観の論拠とされてきた。 その学史的な経緯については新里亮人 (2010) が略説し ており、 安里進自身の近著 (安里 2013) にも詳述されている。

  石鍋そのものについては新里亮人 (2002) による集成作業を基礎に、 拙稿において 追加集成を行い、 現在 109 遺跡確認されている (宮城 2015)。 また、 新里亮人は先の 論文の中、 南西諸島における滑石製石鍋流通について 「琉球列島のものはほとんどが 把手付のもので、 模倣土器についても大半がその類に相当する」 こと 「広域流通品を特 質とする鍔付石鍋及びその模倣土器の出土は稀」 であることを指摘し、 琉球列島の特異 性を論じた (新里 2002 : 164)。

  滑石製石鍋研究上の画期となったのは、 2003 年池田榮史による小湊フワガネク遺跡 群出土の穿孔を有する滑石製石鍋片についての論考があげられる。 池田榮史は大片が 多くまた小割を目的とした有孔破片が出土することなどから、 小湊フワガネク遺跡群内で の自己消費だけでなく石鍋を細片化して琉球列島各地に流通させる役割を担ったと指摘。

加えてその模倣品である土器も製作し琉球列島へ広める役割を担ったと指摘した (池田 2003:84)。

  その後、 城久遺跡群が調査され、 出土滑石製石鍋の奄美諸島における大片 ・ 多出 の傾向は一層印象的なものとなっていく。 現在、 滑石製石鍋流通の研究は鈴木康之

(2007a・b)、 新里亮人 (2008) によって総括的に検討されている。 一方、 沖縄でも小 堀原遺跡が多出遺跡として注目され、 漠然としていた 「多出」 について再考察を行う環 境が整いつつある。

  このような研究下にあって 2014 年に行われた鹿児島県歴史資料センター黎明館で開 催された展示会 『南からみる中世の世界~海に結ばれた琉球列島と南九州』 において、

新たな解釈が与えられている。 瀬戸哲也は小堀原遺跡について 「移民集落の小堀原遺 跡で、在地民と交流が進んだ次世代集落が後兼久原遺跡」 と評している (瀬戸 2014:162)。

一方、池田榮史は「11 世紀から 12 世紀にかけて併存」する可能性を指摘(池田 2004:221)。

「くびれ平底土器とグスク土器の関係を人間集団の移動と移動集団の文化伝播、 さらに はこれを受容した在地文化の変容」として解釈案を提示している(池田 2014:139)。 筆者も、

徳之島の遺跡調査においても滑石製石鍋が比較的多くみつかる事などから、 奄美だけで なく沖縄諸島でも偏在する遺跡があることを指摘した (宮城 2014a)。 城久遺跡群や小堀 原遺跡の評価をめぐっては、 研究者間で若干の相違はあるものの、 移動してきた集団と 関係ある遺跡、 あるいは琉球列島にやってきた新来の集団が関与した遺跡と認識されて いる。

  他方、 九州島においても、 滑石製石鍋流通に関する研究に進展が見られる。 中島恒

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次郎は、 南島向けの石鍋集積遺跡として九州西北部の桜階田遺跡、 門前遺跡等を取り あげる (中島 2008)。 柴田亮もまた、 流通に関し長崎の西彼杵半島周辺の流通拠点を 見いだし長崎県の門前遺跡を 11 世紀後半から 12 世紀代における石鍋集散地遺跡として 捉えている (柴田 2015:55)。 近年長崎県大村市の竹松遺跡において鹿児島以北ではじ めてカムィヤキの出土が確認され、 滑石産出地である長崎地域と琉球列島の交流を窺わ せる出土例となっている (長崎県 online)。

  以上、 熱田貝塚における発見時の金武正紀指摘以後、 新里亮人の集成作業を経て、

池田榮史の研究を期に滑石製石鍋破片流通の仮説とそれを実証する遺跡が幾つか確認 されるに至る。 滑石片と混入土器の研究が流通関係を理解する上で重要なテーマである ことを再確認し、 以下先行研究に習い滑石製石鍋と滑石混入土器について遺跡間でそ の出土状況の比較を行うことで、 これらの流通 ・ 拡散 ・ 使用に関わった集団について検 討を行う。

3 滑石製石鍋と滑石片の出土状況   南西諸島における (石鍋片や加工品等 を含む) 滑石製石鍋の破片は現在 109 遺 跡で確認されている (表1)。 破片が土器 の混和材として利用されていることを考える と、 破片流通の考察には出土数量だけで なく、 破片のサイズや重量といった破片状 態についてもデータとして分析することが必 要である。

  既に、 拙稿 (宮城 2015) で明らかにしたように、 出土遺跡数は沖縄諸島が多いが、

破片数では奄美諸島が圧する。 ただしその内訳は、奄美諸島の出土量のうち約 90% (約 70,000g) が城久遺跡群で、 沖縄諸島も約 50% (約 10,000g) は小堀原遺跡、 隣接す る後兼久原遺跡を合わせれば 60%と高率である。 出土状況は現時点では局所的で、

多くの遺跡は 200g 以内の出土であり、 偏在傾向は重量からも窺える。

  さて、 滑石片の状態については、 池田榮史が指摘するとおり滑石を意図的に破断させ、

分割したと考えられる加工痕を有する資料が存在する。 これらの中には擦切技法によって 分割されたことが明らかで、 かつ割り取りの際の分割線が残る資料もしばしば認められる

(図 2 ・ 4-1 ~ 4)。 また、 石鍋としてではなく滑石の材質そのものが重宝されていた様子 を窺い知る例として、 城久遺跡群で滑石原石そのものが出土 (図 2-6)。 加えて、 図 2-5 は加工が粗く、 製品以前の加工途上の石鍋とも思われる資料が含まれており、 鍋は もちろんだが滑石石材そのものが受容されたことを窺うことができる事例として注目される。

滑石流通を考える上で、 筆者が注目すべき事例として小堀原遺跡の6号土坑墓 (図3)

の幼児埋葬の副葬品となった滑石製石鍋の加工品 (図 2-7) をあげる。 当該資料は頭

表1.滑石製石鍋及び滑石片出土内訳

出土 出土 重量 遺跡数 点数 (単位g) 熊毛諸島

トカラ列島 不詳

奄美諸島 沖縄諸島 宮古諸島 八重山諸島

計 資料 滑石片

地域

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部上方より出土しており、 滑石製石鍋が破片として副葬されることに意味を持ち、 なんら かの意図が働いていた事を窺える事例となっている (北谷町教委 2012)。

図2.城久遺跡群出土の滑石製石鍋等と小堀原遺跡出土滑石製品

1 ~ 4. 擦切分割線を残す滑石製石鍋片 5. 粗加工の滑石製石鍋片 6. 滑石原石 7. 滑石製石鍋の加工品

図3.滑石を伴った土坑墓(小堀原遺跡)

1

3

4

5 6

7 2

(5)

図4.城久遺跡群出土の滑石製石鍋加工品及び原石

1 ~ 4. 擦切分割線を残す滑石製石鍋片 5. 粗加工の滑石製石鍋片 6. 滑石原石

1

3 部分

2

5

6

3

(6)

  ①石鍋の意図的な分割例、②加工品の存在、③鍋そのものでない加工品の副葬例、④ 土器混和材としての滑石利用は、 いずれも滑石が琉球列島において受容されていたこと を想定させ、 石鍋の形状を保持せずとも石鍋が破片となって流通していたことを支持する 事例と考えられる。 また、⑤原石の持込はそもそも鍋を求めるだけでなく、 琉球列島には 滑石材に対する一定の需要が存在したことの裏付けとなる。 もちろん石鍋そのものとして の流入があったことを否定するものではない。 むしろ石鍋として当初流通しその後、 石鍋 片として受容され、 流通の背景の一部には滑石製品の鍋利用以外の目的が存在し、 転 用も含め多様な利用実態を想定することが必要であると考えられる。

4 滑石混入土器の出土状況

  滑石混入土器の出現頻度について確認してみたい。 滑石混入土器の破片数比較の 前提として発掘調査面積、 破片の状態、 回収方法、 報告者の分類認定等を考慮しなけ ればならない。 これら留意事項はあるものの、 報告書に従い本節では出土土器全体に 占める滑石混入土器の比率について分析を行った。 主な滑石混入土器の出土比は、 喜 界島の城久遺跡群では土師器等出土土器全体における滑石混入土器が約6~2% (山 田半田は 1,104 点中 72 点=6%。 山田中西は 747 点中 37 点=5%。 大ウフは 1,782 点中 41 点 ・ 半田口は 1,441 点中 33 点=約2% ※点数は各報告書のピット等出土の遺 物一覧表より筆者集計)、 奄美大島のフワガネク遺跡群は 103 点中 20 点で約 20%。 徳 之島の川嶺辻遺跡がくびれ平底土器を含む在地土器全体における滑石混入土器が 186 点中 133 点で 71%と高率となる。 一方、 沖縄諸島では小堀原遺跡 (北谷町教委 2012) が 50 点中 8 点で 16%、 勝連城跡が 5,201 点中 567 点で約 10%と高い比率を示 す以外は、 いずれも3%以下と低率となる。 宮古諸島以南では、 滑石混入土器そのも のの出土が稀で1%を超えることはないようである。

  以上、 滑石を混和材として用いる慣習は広く琉球列島に広がるものの、 その分布には 偏りがあることがわかる。 また、 滑石多出遺跡である城久遺跡群や小堀原遺跡が相対的 に低率となっている事も分かる。 土器の混和材として滑石を入れる行為が相対的に徹底 しているのは徳之島の遺跡である。 川嶺辻遺跡は前 ・ 後代の時期の土器を含むため、

総数に占める滑石混入土器の割合となっていることを鑑みると、 ある時期においては滑石 混入土器が占有的に生産 ・ 使用されたと推察させるほど高率で滑石混入土器が出土する。

この事は、 カムィヤキ生産地である徳之島が滑石混入土器生産にも影響を与えた事を予 見させる。

5 考察

  これまでの研究によって明らかにされているように、 琉球列島における農耕開始につい

ては、 琉球列島外より招来された穀物や農耕技術を受容し、 沖縄諸島では大宰府編年

C期(11 世紀後半~ 12 世紀前半)に農耕文化がはじまったと考えられている(宮城 2014a)。

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このグスク時代初期農耕文化成立の過程を論じるにあたり、 琉球列島に存在したであろう 在地の狩猟採集民と農耕民との接触、 および農耕伝播 ・ 受容の過程を明らかにする事 が一つの課題となっている。 研究史でも触れたように、 池田榮史が 11 ~ 12 世紀の併存 を想定 (池田 2014:138-139)。 また、 琉球列島において、 その受容過程を俯瞰した場合、

農耕は沖縄 ・ 先島諸島に比し、 相対的に奄美諸島で早く受容された可能性が指摘され ている (高宮 ・ 千田 2014)。 城久遺跡群を築いた集団は、 琉球列島でも相対的に早く 農耕をはじめた代表的事例としてあげられるともに、 沖縄諸島以南における農耕開始に おいて重要な役割を果たしたことは、 多くの研究者が想定するところである。

  農耕文化担い手の動向を考える考古学的資料の一つとして、 滑石製石鍋及び滑石混 入土器が検討に有益と考え、 これらを集成、 琉球列島における出土状況の比較を行っ た(宮城 2015)。 これを基礎に、貝塚後期文化とグスク文化の過渡的状況を考えるにあたり、

各遺跡を築いたであろう集団を、 滑石及び滑石混入土器等の出土状況を中心に以下の ように類型化する事ができると考える (図5)。

1類:拠点的集落 拠点的な遺跡で、 多少質的な相違もあるが奄美、 徳之島、 沖縄に 移り住んだ第一世代の移住集団が築いた集落と考えられる。 滑石製石鍋片数、 重量とも に偏在する遺跡がこれにあたる。 現在のところ、 城久遺跡群以外の事例としては、 小堀 原遺跡があげられ、 グスク時代初期の農耕伝播の主たる担い手のコロニー的な遺跡と考 えられる。

2類:分枝集落 1類の分枝集落、 いわば第二世代 (二世的) 集団の集落として、 貝 塚時代の遺物をほとんど伴わず模倣土器 (いわゆるグスク土器) を主とする遺跡である。

遺跡としては後兼久原遺跡やウガンヒラー北方遺跡、 タシーモー遺跡、 喜友名前原第 二遺跡、 フガヤ遺跡などを想定する。 筆者は小堀原遺跡-後兼久原遺跡の関係を拙稿 では構造差を含み想定し、基本的には両者は同時併存していたと指摘した (宮城 2014a)。

その上で俯瞰的に見れば拠点集落とその枝集落と解している。 なお、 研究史でも紹介し たように瀬戸哲也は 「在地民と交流が進んだ次世代集落」 と解釈する (瀬戸 2014 : 162)。

筆者は、在地集団と1類ないしは2類集落の集団との交流が進んだ集落とし後述の3類 (移 行期集落)を想定する。 つまり後兼久原遺跡をあくまでもコロニー的集落からの枝集落とし、

隣接した小堀原遺跡とは一定の構造差をもって併存したと想定している。 後兼久原遺跡 の土器のセット関係は、 城久遺跡群や小堀原遺跡で認められるような甕形土器 + 石鍋の 煮沸具のセットではなく、鍋形のグスク土器を消費する。 白磁玉縁碗(大宰府Ⅳ類)、カムィ ヤキが伴うほか滑石が破片で出土するものの、 出土滑石は1類の遺跡に比して相対的に 小片 ・ 少量となる。 このため2類を、 1類の遺跡から派生し、 各島々に広く拡散した開拓 農村的な集落と考える。 遺構としていわゆる吹出原型住居 (仲宗根 2004) とされる中柱 を配した掘立柱建物、 沖縄では高倉と推定される4~9本の建物が付随するのが特徴で、

広く山間部を切り拓き沖縄島の各所で農地化を進めたと推察される。 また、 いずれも短

期間の居住であり、 その始期はグスク時代初期に求められるが、 それ以後の継続的な生

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活の痕跡が乏しい遺跡が多い点も本類型の特徴の一つである。

3類:移行期集落 前代の狩猟採集民が農耕民へと移行する過程を含む集落遺跡。 貝 塚時代後期終末期に狩猟採集民であった在地集団が農耕集団 (1類 ・ 2類) との接触 により農耕をはじめ、 グスク土器を保有するようになった遺跡で、 在地の集団による農耕 地開拓の集落が想定される。 貝塚時代の終末期あるいはグスク時代初期に農耕を知り、

山野を新たに開拓したと想定される。 我謝遺跡、 伊良波東遺跡、 識名原遺跡、 熱田貝塚、

屋部前田原貝塚、 砂辺サーク原遺跡、 伊佐前原遺跡は砂丘や台地上に立地し、 貝塚 時代後期土器を僅かに伴うか下層より単独的あるいは占有的に出土し、 これらの遺跡の 中には以後継続的、 相対的に長期に遺物が伴う点は前述の2類 (分枝集落) とはやや 異なる。 近年、 貝塚時代後期後半のフェンサ下層式土器の編年を論じた與嶺友紀也は フェンサ下層式を3段階に分け、 最終末型式を第Ⅲ段階とし 11 世紀前半までの存続を 想定している (與嶺 2015:70)。 上記遺跡の多くが與嶺編年の第Ⅲ段階の土器を共伴し ているかもしくは下層で占有的に出土する。 この点でも農耕開始期前後で、 かつ在地集 団と農耕文化をもった集団の接触過程の遺跡と考えられる。 中でも屋部前田原貝塚では 掘立柱建物跡の遺構内からフェンサ下層式終末段階の土器とグスク土器でも始期の型式 が同一遺構内より出土する (宮城 ・ 千田 2014)。 これら3類遺跡の多くが、 滑石製石鍋 が小片で出土するとともに、 滑石混入土器と貝塚後期土器がしばしば同一層序より回収 されている。

4類:先史集落 現在確認できる事例としては沖縄諸島には乏しく、 先島無土器期の波 照間島大泊浜貝塚を典型例とする。 沖縄諸島で可能性のある遺跡として安波貝塚を想 定するが、 狭小の試掘調査の成果でありかつくびれ平底土器とグスク土器は下層-上層 の関係にあり時期差とみることもできる。 現時点では明確にこれらの遺跡を見いだすこと はできていないが、 先史時代の終焉期の遺跡に、 グスク土器 (滑石混入土器等)、 カムィ ヤキ、 白磁、 滑石製石鍋片が伴わないか少量となる遺跡と仮定する。 大泊浜貝塚は前 代の無土器期の様相に白磁、 カムィヤキと滑石製石鍋が伴っており現時点では土器を伴 わないので、 狩猟採集社会を維持する集団が、 農耕民と接触し搬入の文物を入手する ことができた遺跡と想定される。 また大泊浜貝塚に関して言えば滑石製石鍋も土器生産 を目的に破片で持ち込まれたとするよりも、 石鍋そのものが受容されたと考える方が合理 的と推察される。 そもそも農耕民化が急速に進んだと想定される沖縄島には、 このような 遺跡は存在しない可能性もあるが、 沖縄島の周辺離島に最後の狩猟採集民が存在した 可能性もある。

  あくまでも、 これらの類型化の作業は、 グスク時代初期に島々におこった農耕文化拡散

の過程をより動態的に捉えるために行った仮説である。 動態的検討の手始めに、 滑石製

石鍋及び滑石混入土器等を資料として遺跡の類型化を試みた。 但し、 実際には鉄器等

その他この時期に登場する遺物、 建物跡や墓などの遺構を含め、 複数の考古資料を用い、

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総合的に農耕文化の開始期における文化の伝播 ・ 受容過程と通時的変遷について考察 する事が必要であることは言うまでもない。 これらの問題については、 今後の課題とする。

6 おわりに

  これまで筆者はグスク時代開始期前後の土器編年研究に作業の力点を置いてきた。 そ れは言うまでもなく土器文化から時間的な尺度を得るとともに、 当該文化の解明を目的と する。 一方で、 土器編年作業は考古資料として相対年代を付与するものであり、 先後 関係を詳らかにする作業が主となり、 動態的な研究は等閑視されてきた。 考古資料の単 位である土器型式の各交代期において、 長期併存することが指摘されて以来、 これらの 具体的な実例を示す事が必要であろうと考え本小論となった。 回答できたものかどうか自 信は無い、 それでもグスク時代初期、 狩猟採集民が農耕民と出会い、 農耕がはじまっ た頃には、 少なくとも、 農耕を 「もたらした集団」 「もたらした上で根付いた集団」 「もとも とそこに住み農耕を受け入れた集団」 「そもそも農耕は受け入れず農耕文化の文物のみ 得たそこにもともと住んでいた集団」 が存在した可能性について、 具体的な事例をあげ て検討することができたものと考える。 事例には少々地域的な偏りもあることは否めない、

今後さらに事例を増やし、 この時代の変革期についての動態的な議論を深める事ができ ればと考える。

  本稿は沖縄考古学会定例研究会の口頭発表 (宮城 2014b) を文章化したものである。

また、 平成 27 年 8 月 31 日~ 9 月 1 日の南島文化研究所の喜界島調査に参加させて いただき、 城久遺跡群の資料を実見する機会得てまとめることができた。 発表や資料調

図5.グスク時代初期(11 世紀後半~ 12 世紀前半)における集落類型模式図

3類

貝塚

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査で次の方々からご教示頂き本論をまとめることができました。 記して感謝申し上げます。

安座間充、 安和吉則、 池田榮史、 上原靜、 江上幹幸、 大堀皓平、 具志堅亮、 後藤雅彦、

柴田亮、 島袋春美、 新里亮人、 新里貴之、 瀬戸哲也、 高宮広土、 千田寛之、 津波陽子、

仲宗根求、 松尾秀昭、 宮城伸一、 山本正昭、 與嶺友紀也 (五十音順敬称略)

≪参考文献≫

安里  進 2013 「7 ~ 12 世紀の琉球列島をめぐる3つの問題」 『国立歴史民俗博物館研       究報告』 第 179 集 国立歴史民俗博物館 pp.391-423

池田榮史 2003 「穿孔を有する滑石製石鍋破片について」 『奄美大島名瀬市小湊フワガ       ネク遺跡群遺跡範囲確認発掘調査報告書』 名瀬市教育委員会 pp.82-85 池田榮史 2004 「類須恵器と貝塚時代後期」 『考古資料大観』 第 12 巻 小学館         pp.213-222

池田榮史 2014 「中世南九州と琉球国成立以前の琉球列島」 『黎明館企画特別展 南        からみる中世の世界~海に結ばれた琉球列島と南九州~』 鹿児島県立歴史資       料センター黎明館 pp.134-147

金武正紀 1978 『恩納村熱田貝塚発掘調査ニュース』 沖縄県教育委員会

金武正紀 2001 「陶磁器 ・ カムィヤキ ・ 滑石製石鍋からみた 12 世紀頃の沖縄」 『復帰         25 周年記念第3回沖縄国際シンポジウム 世界につなぐ沖縄研究』 同実行委        員会 pp.98-102

高宮広土 ・ 千田寛之 2014 「植物遺体からみた琉球列島の環境変化と文化変化」 『琉球       列島先史 ・ 原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究 研究論       文集 【第2集】』 六一書房 pp.127-142

北谷町教育委員会 2012 『小堀原遺跡』 北谷町文化財調査報告書第 34 集

柴田 亮 2015 「考古学的視点から見た肥前西部地域の流通構造」 『考古学研究』 62-1       考古学研究会 pp.44-62

新里亮人 2002 「滑石製石鍋の基礎的研究-付九州 ・ 沖縄諸島における滑石製石鍋出       土遺跡集成」 『先史琉球の生業と交易』 熊本大学 pp.162-190

新里亮人 2008 「琉球列島出土滑石製石鍋とその意義」 『日琉交易の黎明』 森話社          pp.53-72

新里亮人 2010 「グスク文化開始年代をめぐる諸問題」 『沖縄県史 各論編3』 沖縄県教       育委員会 pp.132-133

鈴木康之 2007a 「滑石製石鍋の流通と琉球列島-石鍋の運ばれた道をたどって-」 『古       代 ・ 中世の境界領域-キカイジマの位置づけをめぐって-』 資料集

鈴木康之 2007b 「滑石製石鍋のたどった道」 『東アジアの古代文化』 130 号 大和書房

      pp.46-52

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瀬戸哲也 2014 「グスク時代の4つの画期」 『黎明館企画特別展 南からみる中世の世界       ~海に結ばれた琉球列島と南九州~』 鹿児島県立歴史資料センター黎明館        pp.162-165

中島恒次郎 2008 「大宰府と南島社会」 『古代中世の境界領域 キカイガシマの世界』  

      高志書院 pp.171-198

仲宗根求 2004「グスク時代開始期の掘立柱建物についての一考察」『グスク文化を考える』

      新人物往来社 pp.269-288

宮城弘樹 2014a「貿易陶磁器出現期の琉球列島における土器文化」 『琉球列島 ・ 先史        原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究 研究論文集 【第1        集】』 六一書房 pp.199-214

宮城弘樹 2014b「滑石製石鍋と滑石混入土器~貝塚時代からグスク時代移行期の集団関       係試論~」 『平成 26 年 9 月沖縄考古学会定例研究会』 於 : 沖縄県立埋蔵文       化財センター (口頭発表)

宮城弘樹 2015 「南西諸島出土滑石及び滑石混入土器出土遺跡一覧」 『廣友会誌』 第       8号 廣友会 pp.19-31

宮城弘樹 ・ 千田寛之 2014 「グスク時代初期農耕文化の動態」 『南島考古』 第 33 号       沖縄考古学会 pp.1-15

與嶺友紀也 2015 「沖縄諸島におけるくびれ平底土器の再検討」 『考古学研究』 62-1        考古学研究会 pp.63-74

長崎県庁新幹線文化財調査事務所 HP 「大村市竹松遺跡で古代から中世の貴重な遺物       や大規模な溝を発見 !!」

      http://www.pref.nagasaki.jp/shared/uploads/2015/10/1444959680.pdf        アクセス 2015 年 11 月 1 日

≪補遺≫ 脱稿後、 長崎県門前遺跡の滑石製石鍋を実験する機会を得た。 その際に佐 世保市教育委員会の松尾秀昭氏により 「門前遺跡の出土状況は、 基本的に生産地に 近い石鍋消費の有り方であり、 石鍋が破片になって出土するものの、 生産地周辺では滑 石を容易に入手することができるので、 わざわざ破片を集積して出荷する必要は無く、

基本的には製品としての石鍋が琉球列島に搬出されただろう」 とご教示いただいた。

  また、 喜界町教育委員会から城久遺跡群の総括報告書の刊行があったことを知った。

本論掲載の城久遺跡群の滑石混入土器出土量の筆者集計は、 総括報告書再集計の出 土点数と数量が異なるがそのまま掲載している。 再集計の数を用いると比率が7~3%と 若干の変更はあるが理解に大きな変更の必要はないと考える。 喜界町教育委員会 (編)

2015 『城久遺跡群―総括報告書―』 喜界町埋蔵文化財発掘調査報告書 (14)

参照

関連したドキュメント

弥生時代併行期の存在が指摘きれてきた(堂込1998、新里1999ほか)。また、この過程で、兼久式土

㎝程度ではないかと推測する。こうした開口部の存

本事例は,石炭灰を砂質土と混合して中詰土とし  

第4章 副葬品出土位置の概要

調査資料 今回調査した資料は、古墳時代前期後半(4世

バクソン文化は,新石器時代前期で年代は 11, 000~7,

裏で対向する調整となっている。538 は赤色硅質岩の石核で,注記に「粘土層」とあるので,9 層 出土の可能性がある。539