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宋元時代の紅巾軍と元末の彌勒・白蓮教匪に就いて

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

宋元時代の紅巾軍と元末の彌勒・白蓮教匪に就いて

(下の二、完)

重松, 俊章

https://doi.org/10.15017/2339095

出版情報:史淵. 32, pp.81-123, 1944-07-30. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University

バージョン:

権利関係:

(2)

宋元時代の紅巾軍ご元末の禰劫・

白 蓮 数 一 佐 に 就 い て ︵ 下 の 二 ︑ 完 ︶

導 言

禰勃・白達柄数の関係

宋元時代の紅巾軍さ紅巾の意義

ハ以上︑第二十四輯︶

元末紅巾数匪の種別ご活動の情勢

ハ以上︑第二十六輯︶

ハ五︶明太粗の出身さをの人物︑政略

A

︶明初史料の確貫性

B

︶明組の出自さ争覇

ハ以上︑第二十八輯︶

C

︶明組の人物さ政策

D

︶大明園競の由来

20

一冗末数匪飢の諸原因

︵ 七

︶ 結 論

ハ以上︑第三十二韓﹀

ハ 一 ︶

︵ 一 一

ハ 一 ︶

︵ 四 ︶

二 ︶

宋元時代の紅巾軍と一元末の調勅・白蓮教匪に就いて

F

、 俊

-~ . .

 

(3)

宋元時代白紅巾軍と元末の調柏・白蓮椴匪に就いて

F

C︶ 明組の人物さ政策 余は本誌第二十八斡に於て明組の出身を述べ︑彼は元︑江准聞の貧農伺戸の類から出で︑

一家韓三共の日の食を求

めて殆ど流民と選ぶととのない惨めた生前を営み元阪帝一主正四年四月︑流疫の矯めに父母長兄等が一時に作れるや 彼は生活の支柱を失ひ途に液州錆離の皇党寺に入選寄食して僅に川崎命を繋いでゐたといふ明組少年時代の流離落泊の 顛末を越べた︒それは明組の人物政策を税祭するに官つては勢︑彼の関歴や生立ちを考慮に入れかばたらぬからであ る︒図に蛍時明組が寄食の震に入道した皇究寺はその名稀から推して明仙の天下一一統後に改名されたもので醤来から の寺読ではたかったらしい︒その上︑明岨が身を托した此の寺の住持高彬和尚の所属の宗門も︑皇朝本紀によると︑

0 0 0 O G O O

0 0 0  

於是

興ニ

仲兄

一謀

︒允

托ニ

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五十

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以一

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︒所

v用 弗 v済

︒ 乃

ゐたのかも知れない︒

倍︑本題に立法って.明組の人物やその性格について述べるとととする︒之と深い関係を有つものはその存貌風姿で 西

遊ニ蹴・六・光・川・汝・矧諸州︒

とあるので見ると︑宋一元時代に一般に数界に流行してをった念悌系統の道俗混滑の易行門に麗し︑而も妻都の風習を

有ってゐたらしい︒かL

る鮪から考へると塁莞寺自身が就に蛍時の白蓮数や踊勅教と何らかの宗門上の関係を有って あるが惜哉今日之に関する資料は極めて鮮い上に偶々自に燭れるものも大低は資質内容の乏しい昼疎友修飾的文伺に

過ぎ友い︒明史︵太純紀﹀に姿貌雄傑・守骨貫頂・志立廊然人莫棋測︒とか︑永築史臣の手に成る引い武資鈴︿港二五七﹀

(4)

に鳳目龍次官@聾如洪鐘・奇骨貫頂など云へるものも概

hM

此の類である︒乾隆の史臣が明史編成の時代は明組姐落後約三

百五十年を経過してゐるから︑その容統骨相など知る由もないが︑洪武貫録を編修せる永柴の史臣は眼前に明組を目観

してゐた筈であるから今少じ具体的にその風向を拍おすべき義務があった︒洪武賢録の文何で杓々具体的︑及

︑も

のは

が茸

3 3 0

︒︒

︒︒

如政鐘︒奇骨貫頂の二何であるが︑而も後初は文字通り頭の頂蓬に奇骨が突起貰串してキューピー人形の様︑注滑稽た形

をしてゐると云ふのか︑それとも稜々たる奇骨が頭の頂溢にまで貫通してゐるといふのか︑恐らく筆者の本意は後者で

あらうが九若︑そうだとすると一昔人は此等の文何に由ては決して明組の容税相好業を判定するととは出来・泣い︒

内を統一したり︑功臣宿将を刈除してん示室の安泰を闘らんとした結友ど︑

ないゃうである︒明史︵李善長倖︶に李善長が始めて明鼠に謁見した時の一一一昨に︑ 明清以来歴代史家は概わい明組を以て漢高祖に比較釘照して論議する傾傾がある︒成程双方共に布衣より州起して海

一際表面的K観れば頗る類似した黙も少く

漢高起=布衣−︒都建大度︒知v人

並口

任以

ν晴−一殺人二五穀成二帝業︐一︒今元制既索︒天下土崩瓦鮮0

0 0 0 0 0 0

3 0 3 0 0 0 3 0 0 0 0 0 3

不v遠︒山川王気︒公山首受v之

︒法

其所

v魚︒天下不v足ν定

也︒

0 0 0 0 0 0  

会設産c距v柿

と明組を鼓煽激励してをる︒之等の事資から見て恐らく明組自身も起兵の初から就に州公を以て自任してゐたもの

であらうが︑然し渓・明雨組は共の出自や附起官時の周閣の事情が多少類似してゐたにせよ其の人物︑性格の半では

頗る相達して︑或意味に於ては寧ろ針践的であったとも一試ひ得らるL︒渓高祖は史記@漢書によれば︑総蓮大度にし

て︑人を愛し施を好み︑家人の生産作業を事とせ宇︑常に酒色に耽溺して沼家・に莫大の債務を負ひ︑泊水の亭長とな

ってからも絶へや廷中の吏を抑侮して之等を眼中陀置かやノ門出陀即使してゐた︒その起兵の際は筏役の舟丁を擁山に

朱一

元時

代の

紅巾

軍と

元末

の開

制・

白蓮

計匪

に就

いて

f

(5)

まで天命の寄托が自己に在るととを述べた一種の政治的宣停文の類である︒その中で彼は紅巾の匪軍に加はって大事

3 3 0

を起さんとした営時の事情を詳述してゐるが先づ皇売寺の伽藍紳に祈ってト具を持って出境と守奮との爾途を占った

︒︒

が共に失敗に障したので︑更に陸軍に投守るといふ謂ゆる唱義の卦を祈り︑終に之が遁中したので意を決して濠城に

.

宋元時代の紅巾軍と元末の珊助・白蓮教匪に就いて

四 護迭してゐたが途中亡丁の数が増加したので断然之を鮮放してその逃亡に任かせ︑自分はその中の祉士十鈴人を従へ︑

務何・曹参等の招きに臆じて怖に怒ってその城を占領し︑終に秦に射して反旗を練へしたのであった︒之に比べると 明組は飽迄細心周密ではあるが人物は透かにスケールが少さい感がある︒明組の書いたと稀する御製紀夢と稀する書

︵紀

録品

集編

所牧

があ

る︒

その内容は起事の初から即位の前年に至るまでの自己の経歴を銭夢に託して記述して飽 赴き郭子興の紅巾陸軍に投やることに怠ったのでぬる︒御製紀夢には此時の事情を最も率直に記して左の如く臼って

ゐる

予 ︒

途決

入−

L没城一︒以ニ壬辰︵元順帝至正十二年﹀間三月初一日−0 3 3 0 0 0 0 0 0 0 3 0 0 0 0 0 0

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得v標︒被

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v伍︒幾爾月除︒鴛二親兵−終歳如

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一城

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︒守

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訴−

執而欲v斬v之︒良久

然るに洪武資銀︵倉一﹀には︑

閏三月甲成朔旦︒抵ユ濠城−入

v門︒門者疑以篤ν諜︒執

v之欲v加

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︒人

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︒ 子興喜遂留置=左右一︒零命長ニ九夫−︒常召奥

ニ謀v事︒ とあって︑入城と同時に首将郭子興は一見訴知の如く明組を待遇した様︑な筆致を弄し︑明史︵太組紀﹀も亦︑

途以

−−

閏三

月甲

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一︒

子興

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潟ニ

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−︒

(6)

と賓録の文を省約してゐるに過ぎない︒高岱の鴻猷録に擦ると此時明組は貰際に間諜の嫌疑に因て門卒から斬りかけ られて商上に創を負ふたと云ふことであるが之は御製皇陵碑の文に基づくものであ名︒いづれにしても賓録や明史の

文は此の如く修飾浮誇が多

くて

頗る信用し難い賠も少ぐたいσ

以上は漠−明雨組の州起営時の一般情勢

を試に比較釘照したものであるが︑勿論時代の愛濯︑粧舎の推移︑文化の 澄⁝述︑環境の相呉紅ど︑漢明雨時代の物心雨方面の懸隔@相惑を無視して之等雨組を同一組上に載せて月旦可否する

ととは年に安嘗でたい己注らや︑殆ど無用の賛部である︒併︑ながら漢明同組の人物︒性格を比較針照して︑それら各

人の完成した事業の上に︑如何にその人物注り︑性格友りが反映し︑影響してゐるかを検討考察するととは白から之

とは別個の問題に属する︒

倍︑漢明爾組の比較論は姑く措き︑明也の人物︑性格を考へるに嘗って最も顕著た特色の一は彼の細心周到な鮪

.で

宋一苅時代の紅巾軍と元末の繭勅・白蓮教匪に就いて

ある︒今其の一二の例を奉げると彼は平生他家の子弟

︐を多く撫育して養子と魚しその数二十飴人K及びその中でも泳

英の如きは徐建申常遇春等に次々明組路下の. 践持中屈指の戦歴と勲功を有つ者もあったが明砲は之等を利用して郡邑・

都妹を攻略する毎にその地に派遣駐屯せしめて守禦の金権を委ねたり︑或は他の主将の目附役として之を監硯せしめ

た︒向背離合常在き紛飢の世に在つては子飼の腹心以外は給制到に信用ができ︑ないからである︒

養子の他に明組は叉叉功臣宿将の子弟を多く附馬︿女婿︶に揮びて王室の藩肝とした︒韓国公李善長の嗣子礁には 臨安公主︵内親王﹀を︑東川侯胡海の子翻には南康公主を︑西寧侯宋昆の子琉には安成公主を︑その弟の瑛には威寧公 主を妻はし︑叉吉安侯陸仲亨の子賢には汝寧公主を︑鳳朔侯張龍の子麟には一服清公主を武定侯郭英の子鎖には永嘉

(7)

明飽の脳相馬と怠ってゐた.而して︑之等の宿勝功臣は営時いづれも明砲の腹心に非占んぽ内外の重撃を負へる関岡− −Sy

の禿齢制であった︒之等は自家の地位を固める一めの明組の手堅い政暑の一例であるが︑彼は験時の方面に於ても頗る局

到堅蜜怠手段を採った.彼が敵と鞍ふに常りては常に開諜を利用し諌めその動静

b z 探知したり︑或は反閲を放って敵

を遅疑動機させるととは彼の最も得意する鹿で︑被が陳友諜の大軍を迎へて龍漕に鞍った時も康茂才を反閲に利用じ 宅奇利を博したり︑或は隙友諒詫下の践持越普勝が安慶に擦て︑池州や太平を侵して明の心腹の害を矯しし時︑明組は 番勝の容を買牧して陳友誌を説いて繭者を離間せしめ︑遂に陳をして越を殺してその部兵を併はさせるやうにした往 左︑いづれもその一端を示すものである︒その他明組が江南を併呑するに方りてまづ暁南と湖西とを侵略してその肥

沃の地を併呑して主流θ

陳友誌と下流の張士誠との聯盟を防々と共に商は徽北や江西を侵かして陳友諒の地盤を蜜食 し︑束は揚子江下流の常州︑江陰︑太平抑たどを侵略して援士誠の羽翼を刈取るな

E

何慮迄も頗る手堅い理世間の鞍略

﹃高

νーを採用した︒明組が暁南から湖西討伐の際︑その陣中に召見せる元の前皐士朱升︵明史巻一三六﹀の進言に

培︒贋積v糧︒綬稀v玉︒﹄といふのがあり︑彼は此言に頗る響鳩信服したといふととであるが︑常時の混戟期に於け

る南北の群雄は僅に一城一郡を占嫁するや天下の大勢をも洞察する能はやして直に王魂を傍し帝競を冒かすのが治々 たる一般の弊風であった︒叉自己の占操せる城邑郡燃の守を固め︑民汎たる沃地に挨て糧食を蓄へ︑綬ろに天干の形 勢を窺ひ民心の向ム虞を察して餐牝膝巴︑機を撮むといふ容知と機略とを有する者は塞々瞬炭の如く︑多くは婦女玉

吊を

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時四

川に

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(8)

明玉珍が夏岡皇帝と揺し︑湖虞江西を占嫁した陳友泌が漠帝と披し︑江東を奄有した張士誠が央王を伶m附したにも係

ら宇︑漏り明組は小明王旋下の一部将として任に南京医於ける江南行中書省の平立とたり央図公の封傍に甘んじてゐ

たのは縞に期する蕗があってのととかどうかは判ら友いが︑後に陳友諒を作し︑張土誠を屠って江南を統一併呑して

から以後勇敢必操の部将一怒永忠をして︑瓜北げの渡で縞に小明王を溺殺せしめ︑それから絞ろに大明の園競を取って

皇帝の位に即いた制心周到の用意は如何Kも明組平常の性格の特色を遺憾なく現してゐるものと一広ふべきであらう︒

惟ふ陀明組が共の主小明王を片附けてそれに代らんとしてゐたととは最初より肱定の筋書であ

σ

たらうが︑果して之

を何時︑如何怠る方法で庭迎すべきかは溺彼の胸底に怖かまる不断の難題であったに相遼たいo隙・践との鼎立時代

に於ても項

が義帝を庭湿したり︑陳友諒が天完︵徐詩郷﹀を片附けた絞伝無遺作た方法を採る友らば彼に取ては敢m m

て瓜歩の渡に於て・医永忠を煩はすまでもなかったoそれを敢行しなかった庭に明組の周到サと堅賓サとがあった︒但

結果に於ては明組も項初や陳友諒と同じく供に拭逆の大罪を犯したのであるが巧に之を世の耳目から隠蔽してその

罪を一一良永忠に梓嫁せる黙に彼の用意の周到サと狭狩紅欺設性とが見られるのである

a

それから明組は微賎より身を起し有ゆる人生の辛酸鹸苦を嘗め来れる矯めか猪疑心に富み︑巌冷刻簿︑他人の過失

に劃しては一歩も仮借し友い傾向が著しく強かワた︒

明組の猪疑心は又その性格中の一特色である︐鄭暁ハ今言巻こ︶に擦ると明組は内府を禁密にしてその中に離宮︑

別館さへ建造することを許さ・なかった︒内城に新宅・僻寺・紳廟・総督府・紳武営香房・沼店唱などの出来たのは武宗の正 徳年聞に左右の近侍いが献翁希恩の意図から溌祭賞行せしめたと述べてをるが︑之は一方皇居の一等巌を保持する考から

宋元時代の紅巾軍と一克未の掬助・白蓮敬匪に就いて

 

(9)

栄元時代の紅巾軍と元末の禰勅・白蓮敬匿に就いて

F

λ  出たものでもあらうが他面に於ては禁内の防禦を厳密にし臣下の背叛︑窺観の非常に備ふる矯めである︒稽古略績集の 述べるい毘に由ると洪武十一年正月から参朝の文武官に牙牌を給して出入の際之を鯨帯して姦俄を防ぐとあるから︑明 組が如何に宮禁の出入に意を注いだか刊誌祭せられる︒明組が敵軍に射して絶えやJ閲諜を利用したととは既に前に述べ たが︑彼は獄︑敵図に釣する許りで伝く自己の臣下︑殊に最も信頼に値すべき元動功臣に釣しでも絶へやノスパイ綱を 張ってゐた事貨がある︒宋諜と云へば明朝開園文臣の首領で一代の稽築制作は殆

E

皆共の裁定する露であったから明

組の信任も他に類を見や︑嘗て廷巨列坐の前で

﹃朕

聞く

︑太

上を

聖と

矯し

其の次を賢と篇し︑共の次を君子と矯

す︒宋猿股に事ふるとと十九年︑未だ嘗て一言の俄あら守︑一人の短を諮らや︑始終無二︑止に君子たるのみにあら やノ︑抑主賢と謂ふペし﹄と絶讃した篤寅温厚の此の活大儒に射してすらも明組は閲諜を放ってその動静を窺はしめ・

明組は洪武十三年正月左丞相胡惟庸が御史大夫陳寧や中丞泌節等と供に或はは漠北の元人等と通謀したり或は倭人

宋漉が客と舎飲せる際の酒賄の種類︑数量から来客の姓名まで調べ上げてその異俄を試みたととが明史︵宋糠惇﹀に 見へてをる︒因に明組は斯程までに親任せる宋滅の孫が共後一芯相胡惟唐の謀反窯と関係があったと一式ふ康で栄漉を執 へて之を死刑に置かんとし︑馬皇后の絶食の苦諌に由て途に死一等を減じて四川の茂州︵今の茂鯨﹀に流請したが老 齢の矯め洪武十三年九月読地に行く途中で七十二折 ︑で死んだ︒之等の事賞に由て明砲の精疑と冷刻た性格の一端が制

作 り

RJO

の力を借らんとして謀反の企を翁したとの嫌疑で之等を諜毅し︑その黛興院蓮坐せる内外の臣僚士大夫及びその家族

から奴僕K

至るまで一寓五千絵人を殺したが︑更に洪武二十三年四月には胡惟庸の黛振に関係せりとの嫌疑で開園功

(10)

臣の筆頭たる太師韓園公李善長を始め︑吉安侯陸仲亨︑延安侯唐勝その他の宿将功臣を一網打虫館広諜毅し前の胡惟庸 の場合と併せて連坐の死者三寓飴人に及んだ︒更に叉之に次いで洪武二十六年二月には開園の功臣涼閣藍玉を始めと

して

張翼

・陳

桓・

曹震

・朱

誇 e何柴伝

E

云へる宿老動臣を謀反の口貸に図て談毅し垂直したので開閣の一冗動骨宿将・功臣は殆

E

皆危明組の冷刻無残危刑刃の下に姥れてしまって僅にその毒手を菟かれて日々戦々競々の生活を法ってゐた宿将頴

図公倖友徳や定遼侯王弼危芝も洪武二十七年末に至つ

︑て遂に何等の答紅くして各土死を賜はって悲惨友最後をげてし

まった︒明史の太組紀を見ると王弼が倖友徳と合談の際不用意にも相倶にその身に危険が迫ったととを託ったのが明 組の耳に這入った

Lめであると云へば︑此の時も明組は例の如く絶えや玉・体等の側にスパイ網を張ってゐた事賓が推

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察せらるtA

ので

ある

︒ 尚︑明史︵李仕魯俸︶によると︑明組は即位後︑頗る悌教を好み︑東南地方の戒徳に秀れた沙門を召集し蒋山に於 て数々大法舎を催し︑叉禁中に召入れて経論の講設を掠き︑治集

K稀った者は抜擢して大官に任じた︒その中には

央印︑華克勤怠

E

いへる借徒があって︑之等の徒は時々明組の耳目︵目附・監視﹀と・怒って大臣を議段して横惑を極 めたが皐朝の臣僚はその威を懐れて敢て言ふものが・なかった︒ので剛介を以て開へた大理寺少卿李仕魯や給侍中陳荻 輝等は上疏してその教害を痛論したがいづれも明組の怒に燭れて持殺されたり︑投水自殺の憂自民遭った︒明末沙門 大聞の四伴氏稽略績集を見ると︑央印は南京鐘山寺の借で文庫一ゐ才に因て明組に愛され︑途に之に命ヒて蓄髪還俗せし めて大官に奔し方面︵地方長官﹀の大任を授け︑信任甚だ厚くその言ふ所は大抵用ゐられたとあるから︑此時明組は 之等禁中出入の借侶を朝臣の監硯スパイに利用してゐたらしい︒開園蛍時明組が最も信任の厚かった借は南京天界寺

栄元時代の紅巾軍と元末の調勅・白蓮歌匪に就いて

F

(11)

栄元時代の紅巾軍さ元末の捕物・白蓮敷居に就いて

0  の沙門宗的で︑借銭司の詳立組織を始め明初教界の制度法規は大抵その創案に成ったものである︒従て明阻は借録司 善世ハ長官﹀を授けて天下の穂教を総べしめ崇重恩特他と具紅り︑常に紡公々々︑と呼びて之を親任してゐた︒叉洪武十

五年明旭は天下の高借碍徳を詔選して一一族の諸王に分

ω

して顧同に備へしめたが︑燕玉総︵成組︑氷紫帝﹀に配属され

難役を起して永梁帝を帝位に即けた黒衣宰相として知られてをる傑物である︒而して明組が斯の如く一族諸王の蒋園 たものは彼の有名紅借道一例︿後の挑康孝﹀初王権︵明組の第十子にして設も鍾愛された王

νには借来復を嘗てた︒い

づれも宗川酬の推薦に由るもので︑皐内外を粂ね詩文の才にも勝ぐれてゐたが特に道術は政治上の材幹に長じ︑後に靖 に傑出せる僧侶を分侍せしめた一の原因も確かに政府派泣の隠密目附の任務沈有ったものでは−ないだらうか︒果して

然りとすれば道信の場合は正にその逆効果・を鷲らすことに怠ったわけである︒

以上は明砲の獄疑に富める二三の質例であるが︑次に彼は天性苛烈冷酷にして人怖に依くる庭が最も甚だしい︒既 に前に述べたや弓に明組は胡惟府・学諮問長・藍玉等に釘して謀反の嫌疑をかけて洪武十二年から二千六年にかけて三大

疑獄を起し︑前後併せて株連族誌の者総計川高五千絵人に及んだ︵明史各人体︶︒而して之等の疑獄はいづれも嫌疑

の程度で黒自民俄決定の鍵は原告たる権力者側の手に握られてゐるといふ極めて殴昧不合理のものであったが︑それ でも原告側の明阻は昭示姦議録だとか逆臣録とか云ふものを天下に頒って被告の姓名︑罪欣を公表した︒此の矯めに

開園以来明組とともに生死音楽を分って来た元勃や功臣・宿将の徒は仏

m E

皆な豚の如くに屠裁刈除され註してしまっ

た︒今試に明組が天下一統後︑元勤功区を列侯に封じた異姓の諸侯表を明史や鄭暁の吾製編

K就いて調べて見ると︑

最初に封公の者七人中洪武中除封の者六人封侯の者六十二人中︑除封の者五十八人︒封伯の者六人中︑除封の者六人

(12)

と・なってゐるが之等の偉位封旅を取塞げられた除封者は一二の例外を除いて殆

E

全部が前後三回の大疑獄に連坐して

詠毅された者に外伝ら怠い︒之等三大疑獄後に幸に法制にも鰯れやノ生き残った元勲功臣は僅に定遼侯王弼・武定侯郭

英・頴園公侍友徳・宋図公鴻勝・信同公湯和の五名医過ぎ・なかったが︑その中停友徳と王弼とは洪武二十八年末に何らの 似官︑尽くして死を賜ひ︑鴻勝も翌年二月に罪なくして叉死を賜はるととに怒って只︑郭@湯の爾人だけが生残るととに たった︒郭は明組の同郷人郭興の弟でその妹の寧妃が明組の寵姫であった関係から天誇封爵を完ふし︑湯品加は晩年風

疾を病んで言動がきかやノ︑その上︑早べから兵権主還して隠退してゐた矯めに幸に法網を菟かれて天存を絡はるとと

が出来たのである︒開闘の一冗勃功臣に釘してかLる苛烈惨陰の訟裁を加へて明室の安泰と朱家の永綬とを園らんとし

た明組の刻薄無残訟やり方に到しては勃れの方面から見ても野護

の飴

地は

一寸

告も

ある

まい

而して王室を守る魚めに新の如き刻薄無感た方法で同志を件し開園の功臣を屠り議さねば友らぬ深因言ぴ換へれば

かLる非常手段に訴へてまで朱家の安泰を園らねばたらぬ事情は何庭から禁生Uたかを考へて見ると︑先づ第一に五日

人の念頭に浮ぶものは明組が微賎の出身で族的玉

︑門

閥が

を物

一一

一 一口ふ封銭的枇舎に於ける一統の元首としては︑戚笠や傘巌

の点に於て依くる庭が少く危かったといふ事である︒此の黙に於ける悩みは淡高組も亦之と類を同巳うせるものであ

った︒史記︵高組本紀﹀に出の叛徒が事を起した時共の謀主を揮ぶに嘗り︑互に秦の諒裁を悟れて他に譲り合ひ途に

漢阻劉邦が之一を引受け

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ば紅らぬ事情となったととが下の如き興味ある筆致で記されてをる︒

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朱元時代の紅巾軍と元末の捕勅・白建設匪に就いて

(13)

栄元時代の紅巾軍と元末の調勅・白蓮敬陸に就いて

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漢書の本文も亦之と略主一同様であるが︑之は泰末の大鋭勃議期に営って附和雷同の民衆や浮浪無績の飢徒を統率して

の部下との聞には元々君臣主従の関係があったわけでは危く︑特にその幕僚主幹部と統帥者との関係は謂はど同志・兄 城色を守り官兵を防ぐ矯めに浦の市民がその統帥を互選推揮した一場面である︒市して斯くして選ばれた統帥者とそ

弟の情誼で結合され︑共の始は乃公・爾・汝の−親近関係に在ったものと見てよい︒然るに一朝形勢が箆化して之等の集圏

が強力怒る軍国とたり天下統一の中心勢力にまで後展して来るとその統帥者と部下の幕僚幹部との開には何時しか君 巨主従の関係が愛生することに怒る︒然し・ながら此の時に於ける統帥者の威笠や材幹機略がか

Lる大軍閣を統率支配

するに足らない場合には数々部下の有力者が之に取って代るととも稀では友い︒之は唐宋五代の飢世に絶えや藩銀武 将の聞に起った︑極めて尋常茶飯の事柄であるが︑その営然の結果としてか

hる場合は将帥の威笠権力が部下に徹底

せや︑往々下克上の現象が殻生してその軍国自身が内部的に崩壊に陥るを常とする︒余輩は元末大飢期に四方を機定

・せる明組の江准軍闘が決してかLる脆弱怠性質を有ってゐたものとは考え・ないが︑その成立登展の過程は漢高祖の豊

滞箪と殆ど同様で︑その軍闘が強大化すあ陀作ふて勢その内部に多

︐数の異分子を包擁するととLたり︑自然その統帥

者と醤来の幕僚幹部との聞に意志の疏通を依ぎ︑感情の疎隔を来す傾向を生じ

. . 

従て叉統帥者の側では自然新進者を

歓迎抜擢して共の言に聴従し︑兎角皆来の同志を敬遠疏外するの結果と怒って︑遂に海内統一後二臆闘礎も国まり︑

自己の地位も安定するに至ると︑過去に利用し蓋して太平の世とたった現在では最早さしたる利用債依も認められな

(14)

い許りか︑却て渚大

E

額の秩旅歳賜を消耗して閣家の煩累負担とたれる︑明組に取ては︑震に厄介千寓紅一冗勲功臣の 輩を一綱打護に疑獄の網にかけて︑徹底的に破滅しつくしたものであらう︒漢組の場合もその鴎結は賂々同様だが︑

明組

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明組が即位の後も︑その功臣J併特側から充分信頼せられ・なかったと云ふ事賓の片影と認むべき一節が明の徐頑卿著

と稀せられるL努勝野聞に見へてをる︒

持層皆草粗士︒人々欲三更ニ試大位︑徐相図陰奇v布

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此の内容は明租の部下の将僚等はいづれも元々草芥出身の野人なるが故に明組に代えて試みに他の者を・帝位に即かし めようとしたが丞相徐建の説得に依て之が沙汰止みに在ったと云ふのである︒由来勢勝野聞の一書は明の玉世貞︿会 山堂別集巻二十一﹀をして軽掠而多舛︒共人生ニ長問閤閲−︒不三復知ニ懸官事−︒謬聞而途述

v之︒と酷評せしめ︑四庫

金書総目では之を小説家類に入れて︑書中間v

紀 ︒

往々不経たどL鈴り芳ばしくない評言が加へられてゐるが校山野

記などの筆録蓄と共に明初開凶嘗時の主要人物の遺間決事を面白く記述し︑殊に明砲の逸事︑奇聞の如きものも最も 忌悌たく赤裸々に記載してゐるのでそれだけに型に囚はれた明清の史官などには飴り評判はよく・泣いが︑賓際上明組 の日常生活やその天震の行動及び彼に釘する蛍時の一般庶民の感情注どが比較的鮮明に描潟されてゐて頗る面白い︒

就中努頭の朱氏世徳碑や末尾の懐良親王が筑紫から明組に逸られたかと思はるL首時の大和民族の溌湖たる意気を示

せる日本図書注

E

は此の書の白眉と一式ふべきである︒

いづれにせよ︑前に掲げた明朝建国の始岨に釣する此の書の筆者の赤裸々左記述に依て考へて見

τ

も︑起兵の初期

宋元時代の紅巾軍と一万末の輔助・白蓮敬障に就いて

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(15)

宋元時代の紅巾草と一克末の婦制・白蓮鞍障に就いて

四 は勿論︑洪武一統の初に於てさへも明組の地位は必・干しも絶封に安定不動なものであったとは言ひ切れないやろであ る︒共慮に後来疑獄事件の起るべき原因や動機が滑んでゐたとも考へられないととはない︒余翠は努勝野聞の前拐の 記事を妄信する者ではないが︑而もか

Lる不定の感情が明組の側にも店臣の側にも率一然怠く爾者の感情に寸分疎隔の 際もない慮にか

Lるデマに類した浮設の流行する容は︑ないと考へる︒

以上は明租の性格の一特徴である猪疑や冷酷の二三の賢例であるが︑彼は叉喜怒愛情の色を率直に露呈し︑而も此 の感情の路変動が頗る急激であるといふ弱点を有ちそれが臣下に取って雷忽の威力とたってゐたものである︒

之も亦努勝野聞の一筋であるが︑明組が朝廷に出て政務を見る揚令に︑その帯を高く引上げ胸に蛍ててをる時は頗 る上気嫌で臣下を一地球脱獄するととも稀であるが︑之に反して一旦その帯を押へて胸から下に引下げる場合は気象極めて 険悪の徴で︑か

Lる時には在行の朝臣は一人として生色のある者はない︒内侍の臣は此に因てその喜怒を察知してゐ たと云ふたとであるが︑之も亦明組の喜終不常にして頗る険阻た作格を一亦す一例である︒叉之は明代人が明砲の配遇 者皇后馬氏の賢を稀揚する一事例として佐々各舎に散見せるものであるが︑男勝野聞に採ると︑明組の食膳は必宇馬 后親からが調理して之を進め︑決して他人の手に委ねなかったのは高一一小肢の共綿況に備へたものであらうが︑一日馬 后の進めた奨が和主冷却してゐたので︑明組は例の灼砕を保護させて災杯を翠げて卓

K榔ち︑般加荒狼絡を極め︑馬后 は共矯め耳端に微傷を負ふたが︑顔色自若として︐少しも髭ぜ十︑静かに美を熟して重ねて之を進めたと云ふととであ る︒明組の軽狂粗間設なる母動に比べて馬后の平静自活な態度は

E

に千鈎の重みがあり︑而も何よりも勝った前者に劃 する話教訓と・なってをる︒閃に此所で附記したいととは明組は元主微賎無税の院徒から身を起し︑教主飢兵劫掠の衡

(16)

宋一

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九五 に出入した経験を有する矯めに関門が頗る滋れ︑昭代帝王中︑宋徽宗と共に最も多盛多子の人物の標本である︒明組が兵飢中問答の聞に在って回帰野女の類と有合して生れた子を天下一一統後落王に封じた記事は努勝野間や王文旅の飽興慈記を始め明人の手に怠る野史e筆録の類に往々散見する所であるが︑特に龍興慈記によると明組は之等の私生児

を諜王に封じた外︑多くは養子として飼育し︑その功績の次第に依つては上ぼせて列侯に冊封したものもあったと云

へば︑明組の二十銭人の養子中にはかLる人物が相蛍多かった事と思はれるo明租の生子は吾墜編同姓表固に採ると

二十六王子となってゐるが︑此の外にも︑之に略主相躍した女児があった筈であり︑叉前記野合の私生児の男女の数

を之等に令すれば少くとも五一ハ十人は下ら注いであらうo

宋の

凡主

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一万は皇后・后妃を併せて十九人の配偶者に釣し

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十九

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王女三十四人︑合計六十三人の多産であったが︵李豆皇宋十朝綱要巻十三﹀︑明組の場合も恐らく

之に劣ら伝かったらうと思はれる︒洪武賓録や明史などの后妃俸は一躍形式的に明租の主要注る后妃を倖載するに止

めて

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此の外にも多数妃一誌の類が存在した事賢は鄭暁の今言へ巻二﹀に

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以上︑余輩は明組の人物性格中︑主としてその蹴貼短所の方面のみを列叙したが︑勿論共の反面には明組にも亦他

人の到底企及し得ざる幾多の優ぐれた長所や材幹を有ってをったととは︑元末群雄紛起の大飢を滋定して︑能く天下

一一統の大業を完成し︑三百年の永きに亘る大明宗祉の基礎を築いたといふ事賓そのものが何よりも最も雄問に之を立 誇してをる︒併し・ながら具館的に・一々その長所・材幹を列翠する段になると貫録指定史を始め︑明白清時代の史家や文士

(17)

宋元 時代 の紅 巾軍

&元 末の 浦劫

・白

蓮敬

匪に 就い て

九六

の手になる幾多の記録文献を渉猟しても案外資質的た材料が少いのに咳く︒充も之等に関する頗る拍録的た碩徳讃僻 に類するものは太だ多くて到底一々之を列奉するの煩に堪えない︒然し明組の性格上の特長として最も顕著たるもの

はその勤倹注黙であら弓︒之は幼より具に類苦窮乏の味を嘗め聾した休験から得た一種の習性であらうが︑即位の

後も文字通り肝食宥衣の多忙友生活を送ってをったらしい︒洪武三十一年五月死床に横はって裂したといふ遺認の中 にも

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及遠突︵明史太組紀︶﹄とあって︑経図治民に射して日夜肝胆を砕いて勤勉努力を掛ったととを告白してをる︒

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とありて︑政治に熱心の飴り食時にも第を置いて一事を思出す毎に之を紙片に記して着衣に綴ぢ付け︑之が度重・怒り て教事に及ぶと衣服は丸で乞食の徴稜服のやうに怠った︒之等の紙片の記事は一三朝延で賢行されたのであった︒前 掲の遺詔﹃憂危積心︒日勤不怠﹄とある勤勉振りと釣照すると頗る面白い︒史記秦本紀に始皇帝の日常を述べて︑

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始皇矯人︒天性剛戻自用︒:−

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と云ふ文がある︒之は方士の侯生・成生等が秦始皇帝の濁裁的危楼力慾から出た勤勉振りを評者誹議したもので︑始 皇は天下の事︑大小と伝く皆紅悉く我が手で庭理したければ気の済まぬ人物だから︑臣下から奉呈して来た山積の書

(18)

類に一々限を通す矯め︑強め街石でそれらの目方を量かつて其日々々の日程を作って置き︑之が終らぬ限り決して休

息し危いといふ精働振りであったが︑明組の場合も或はかLる濁裁的権力慾から出た勤勉であったか

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限でない︒斯う云ふ傾向は溺.秦始皇ばかりで友く王葬の場合にも認められる庭である︒漢書食貨志に︑

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︒ とあるが︑前者は天性念操焦成で︑尚古思想に中毒じてゐた王奈の事業慾の旺盛友ととを述べ︑後者は大小の政務を王 芥が一手で総務庭起して部下の官吏はその命令通りに事務を取りさへすればそれで自己の役目が済むといふ有様を設

いづれも王葬の濁裁的権力慾に基づく精力主義の勤勉振を痛刺したものである︒明組が用心深い性質に

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はらやノ︑喜怒愛情の感情が刻々に愛化する一種の狂践性を有し︑叉丞相を罷め︑中書省を慶して主ハの賢擢を吾

が手に牧めた鮪などから判断すると寧ろ王芥に類する庭が多い︒

次に明組の節倹の風もその少時よりの終燃と生活環境から起ったものと思はれる︒努勝野間の一節に︑明組が嘗て 内廷に這入った際︑終結の一片が地上に遺棄されてゐるのを見て諸姫を召集め︑議機徴税の費を計示してその不用意 を責め以後俊めざるものは斬罪にい隠するととにしたと一五ふが︶明史孝慈皇后俸を見るを︑馬后は常に白羽白から涜濯の 大練服を用ひ︑叉絹片をつくろひ絞って衣裳を製し︑諸王妃公主に賜ふたとあるから︑明朝の椴房@内廷は此頃既に 明組と馬后と内外相膝じての緊前節約の瓜に吹き悩まされていたらしい︒数英の東谷賛言に擦ると臣僚を引見する乾

宋元時代の紅巾軍と元末の調勤・白蓮数民に就いて

(19)

宋元

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λ  清宮の御床も︑共の上方に金流の飾が無かった危ら︑中人の家の臥楊と何ら異る慮はなく︑毎日の朝食も只疏茶を用 びるだけであったといへば明組の日常生活の簡素振りが判かる︒叉その遺認の中にも喪祭儀物︒

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山川︒因−一共故一無−一改作\と日って支那上下の遇悌たる者擁葬迭の風を誠めてゐる︒ 明組の人物・性格の特黙・長所は濁︑以上にのみ止らないゃうであるが︑今は論旨の冗漫を倶れてとの程度に止め︑

次には進で彼の政策の方面を一瞥する︒

明組の一一統政府の本質は漢代以来の封建的官僚政治を模範として︑その埼外に一歩も出づるものではたいが︑此の政 体の特徴であると共に叉その一大紋でもある庭の絶叫到王樫の制度を一暦緊密強化して︑之を濫用して天下を皐げて朱 家に奉守るといふ組織になってをった︒明旭が中央集権的皇帝一一寧の政体を採用した事賓は洪武十三年胡惟庸の大獄 後︑中書省を践して丞相の政椛を皇帝の掌中に牧め︑その官職は之を府︵都督府﹀部︿六部﹀都察院に分理せしめた ととに依てもその一般が判かる︒元来明組は一統の初期

K於て前代の制度を参酌改廃して植密院︵兵府﹀を都督府に改 めてその下に五分府を置いたが︑共の柄要の政務は之を兵部に統撮せしめた.叉栄遼金元以来監察の機関であった御 史大夫・中丞な芝を改めて都御史と注し︑御史蓋を監察院と改稽し︑天下の十三道に御史を分置し︑又前代の治書・殿 中等の諸の侍御史を践して斜劾・巡按・照刷・問擬などの職は一切監察御史の手に委ねた︒その他新に給侍中八十絵員 を新設して之に侍従・規諌・術開・拾遺及び六部分祭の事を掌らしめ︑その弊設を約時せしめたので︑その構成最も重く︑

之等が苛察︑な明組の耳目となって内廷・外靭の臣僚を鞍傑させてゐたものである.明組は叉三公の職を置か

41

概ね六

部その他の高官中から才笠余備の者を簡抜して顧問に備へた︒

(20)

‑ ‑ ‑ ‑

以上の如く丞相の府︿中堂同省︶を慶してその庶政を府・部・都察院等に分理せしめ︑寓事の政権を朝廷

に蹄 麗せ しめ

︑ 監察網を緊密強化して皇帝の耳目を大小機構の末端にまで恰も株網を張った如くに行亘らせるといふ周到綿密た用意 は明組の最も得意とする庭であったらしい︒洪武二十八年六月︑之等の制度が略主完成して朱家の王室の高々裁を確

信した時の詔に

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h d 庶政

−︒ 事時 ニ於 朝廷

−︒ 嗣君 不 v許

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︵明 史太 組本 紀﹀ とあるが︑此の本文は洪武賓録︵各二三九︶陀見え内明史は車にその全文を簡約したもの陀過ぎたい︒いづれにしても 蛍時明組が︑中書省に権力が集まり︑丞相に威望が加はって遂に己の地位に代らんとするむ危慎陀悩されてをったと とは一再ではたかったらしく胡惟庸の場合の如きは単に共の一例に過ぎたい︒その重大友原因の一は営時彼の門地威 笠がその位置に添は左かったといふ憂が多分にあった矯めで︑其の事は既に前に詳しく述べたが︑山内此の機舎に二一 の蛇足を附加する怠らば努勝野聞を見ると︑明阻が嘗て京城︵南京﹀中を微行してゐた際︑偶主一送婆が密かに物 陰で彼の噂をして﹃老頭児﹄︵爺さん﹀と呼んでゐるのを耳にし︑明組は大に怒って︑京師の守備隊たる五兵馬司を召

集しそれらに向︒て︑﹃張士誠は僅に江東の小直を縞んで之に擦ってゐたにもかL

はらやノ︑今に至るまで︑その地の

民は

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と呼んでゐるo

我今天子の位に居て此の地の者がず日明日冗と呼ぶとは何事ぞ﹄と叫び︑兵馬司に命巳て京域の

民多数を捕へ家屋と共に之を官に渡牧せしめたといふととである︒

今一つの滑稽危事例は︑矢張努勝野聞の一節であるが︑明組が嘗て上一冗ハ

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月十五日﹀の夜京仰を微行してゐた時

宋元時代の紅巾軍と元末白調勅・白掛教匪に就いて

(21)

宋元時代の紅巾軍と元末の珊助・白蓮敬慌に就いて

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O の事である︒首時時俗の慣として上元節には隠語を侍ってそ札を判読して互に相興守る風があった︒明組は或る巷街 一婦人の赤脚︵裸脚﹀を川崎はして西瓜を懐にせる諮を掲げ︑見物の民衆はその前に立って互に笑ひ興じてゐる風

景に出逢った

ので︑何の風刺かと問へば傍人は﹃アレは准西の婦人で大脚を好む﹄といふ風刺だと針へた︒萱︑明也

の配偶者馬后は准丙の生れで︑微賎の出身怠るが矯めに少時から短足をし友かったので脚が大きかったのを風刺した に

ものであった︒それを聞くや明雌は烈火の如く憤って早速︑軍土色召集してその地直の居民を悉く殺致して共の室を

空虚にしたそうであるo此の逸話から推すと馬后は一児︑郭子興の養女ではなくその下伯仲であったらしい︒凡そとれら

の記事はその悉くを信宇る誇には行かぬととは勿論で︑

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野聞の著者は侠名であり︑旦つ此の書の性質が野間小説

の類であるから紛夏史料としての依他は低度のものではあるが︑その内容の全部を架空の詩として排斥するととは出 来︑泣い︒此庭に掲げたこつの配事が全く賢際の事笠と相違してゐると仮定しても︑少くとも蛍時明旭の威笠や門間が 帝王としての傘段危位置に添は︑なくて︑京師の市民は別としても︑少くとも張士誠の治下に住んでゐた央地の民衆等

からは相蛍低く許領されてゐたといふ事賓の反映がかLる風説とたって現はれたものと考うべきである︒従てかLる

自己の弱鮪を賢明な町組が意識してゐない筈はないとすると自己の地位の正蛍な防衛手段として︑奮来の同志であら ろが開園の一冗動であらうが︑己に取って代る嫌疑ある者に射しては一歩も仮籍せ歩︑非常手段に訴へでも之を介されが

ぽ罷まぬととは極めマ向然の理なのである︒

明血は又・中央に於て丞相府を段して皇帝の濁裁制を弧佑すると共に地方の統治制度に於ても洪武十三年正月胡惟庸

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と稀する官吏採別に射する廻遜訟を塗布励行した︒此の法は洪武賓録︵各一一一九﹀や明

(22)

史︿太組紀︶に接ると︑官吏任用に営って南人は北方に︑北人は南方に選用して本籍を廻越し︑親戚・故奮等と因縁

好を矯すととを防ぐを目的としたもので︑例へば北弔・山東・山間・侠西・河南・四川の出身者は之を抑制江骨江西・湖底唱直

隷ハ

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後者の出身者は前者の外に叉蹟来由民西崎臨建等に選任し︑

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の出身官吏は山束・山西A

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u河南φ四川等の各省に選用する︒此の他︑考震の結果︑職に稀はぬか︑或は事に図て官

等を庇降された人物などは専ら度末串康問や一隅建の汀昌一保雨州︑江西の龍南・安速︑湖底の彬州危どの様友漣隙の地方

へ任

命さ

Lととにしたのである口元来此の官吏の選用に本籍廻避の傾向は宋代頃から多少歴史の上に見へ℃をるの

であるが勿論それは徹底的のものではなく︑︿一﹀父母の就養とかっ一︶老臣の優遇とか︑或は合一﹀勅臣の牟寵と

かの矯めに錦衣蹄郷の意味で木籍地の道e省・郡廓に任命した例も決して少くなかったのであるが︑明阻に至って此の

廻避法が徹底的に働行さるL

ととになった︒之も亦彼の偏狭友杓子定規の政策の一端を一示すもので︑之で古来の﹃立 賢無方﹄の寛厚な官吏任用の方針が殴れてしまった︒明・清の官僚的史臣は之を以て元制の旗康を経正せる明組の深 遠怠る皇慮から出たものだと護美してゐるが︑永築中から早くも此の制度が行はれ宇︑︷一且徳・五徳年聞には同一人物 にして同じ地方に三度も選任された例があるのを見ても︑明組の杓子定規の任用法が如何に煩苛無力なものであった

か刊

︑判

らう

o但︑此の廻避法は次の清代に五つでも大体その方針は踏襲されてゐたが︑勿論替撫大吏の様な親信の大

巨は時々例外が認められてゐたのみならや︑それ以下の常調の官吏でも老親就養の便宜主考へて近省に改補した例は

決して少くない︵参照︑越翼時間蝕叢考巻二七三

南北更調法の施行に次いで迷ぶべきは明旭の新人の頻用抜擢である︒古来支那の封建一位曾では門閥や格式が物を言

宋一 万時 代

D紅巾軍と元末の調勅・白蓮敬匪に就いて

(23)

栄元時代白紅巾軍と一万末の捕勅・白蓮敬匿に就いて

ってをったから︑園家の採用する官吏にも白から各種の煩演友僚件が付随してをったのであるが︑明胞はその出身が 微賎であったどけに新人の登用抜擢に就ては門関や費格の如何に拘はら註かった︒但︑此の新人の登用擢抜は多くは 胡惟腐の大獄後永一相を慶して自己の濁裁制を強化せる頃から︐次第に顕著にたってをるやうであるから︑次第に奮来の 宿老勃臣を信任せや

J︑専ら自己の煩指命令に忠賞怒る新人を抜用し︑

一商之を駕御利用して能率を奉げしむると共に 他面之に依て次第に利用債値の失はれた蛮人を駆逐する方策を採ったらしい︒之等の新人中には布衣より一路吏部倫 書に抜擢された銭唐︑秀才から直に戸部山内書

K擢でられた曾泰︑糧長から遇政使参議に抜用され︑直に工部侍郎に再 港︑三年を経宇して工部術書陀登用された巌長直を始め︑典史から一躍余都御史に任ぜられた李仕魯︑間約文移の属官 たる経歴から直に刑部借金問陀抜かれた端復初︑同じく経阪から工部侍郎に任ぜられた寅一隅二介の秀才から一県跳び

K

都御史に擢でられた倉徽︑園子助叡から刑部尚書に抜任された関桝た

E

明史に停載されてをるものだけでも恐らく十 指を倍する程である︒然し之等の新人抜擢も元々明組の一時の政策から出たものであるから︑いづれも利用︑酷使の 果ては一時の不興や燐怒に図て菟官・諦成は愚か中には撲殺申楽死の菱自に遭った者も少く訟かった︒

ハ参照︑明史銭

唐・

忽徽

4

靖・

開済

・李

仕魯

停等

﹀︒

明史楊靖俸を兄ると央人巌徳現も御史から一飽食都御史に抜擢寵任されたが皐に 疾の矯めに蹄休を求めたといふ成で明組の怒に燭れ︑共の面に黙されて庚西の鐙陶甫丹といふ産矯の地に流援を命ぜ られ︑刑期が終へて放還された時には布衣・務民として徒歩で蹄郷せねばたら危かった︒彼は幸にして危い命を宣宗 の宣総時代まで生き永らへてゐたが常に在官時代の弊冠を被ってその首領保存の記念としたそうである︒一冗末の庭士 権衡の庚申外史を見ると明組の朝臣が毎旦入朝する際には妻子と訣別の杯を交はして門を出で︑晩に無事師宅すると

(24)

家族相集って今日も一日活き延びたと互に慶び合ったと云ふととであるが之は黄葉の賊将から出た梁女組朱湘も三合

を透ける残忍刻部振りである︒清の越翼ヘMM蝕叢考一八︶も明組の新人抜擢の始末について︑

0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0  

然一時識抜︒亦未三

必謹 得ユ 共生 平一 故︒ 亦有

Lvv

献敗 者一

︒帝 叉威 断不

v例︒和不vv意︒詠諦隠ν之︒胡藍二黛

0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0  

外︒ 諸臣 之以 ユ小 故一

︒陥 ユ重 一砕

者︒ 指不 ν勝v0

と述べているが全く明租の下に仕ふる官僚共は飴程の勇気と魔悟とが必要であったのである︒F

斯の如く怒意に任せて溺裁的権力を振った乞借皇帝もその近親骨肉K封しては目も鼻も嘗てられたい恩寵優遇振り

であった︒此に支那隠代の闘家を以て恰も一身一家に奉守ると云ふ封建的官僚図家の弊毒が遺憾なく暴露されてゐる 認である︒明組は前後三固に亘る大疑獄を起して起兵以来高死を供にした同志の宿持動巨を他愛なく諒毅刈除する一 方一族子弟二十六人を圏内除要の地域に分封して朱家千寓歳の宗駐の基を固めんとした︒而して漢代の封王にあって は皇帝所生の↓士を王に封じ王の嫡子は世々侯と友り︑其他の支庶は皆た庶入と同巳く︑但共の賦役を兎ぜられるといふ 特権に止っていたが︑明組封親の制度は親王の子は郡玉に︑郡王の子は錫図将軍に封ぜられ︑とれ以下凡そ六等にし て奉園都尉に封ぜられ︑それらはいづれも王府の傘巌を以て外郡に居るを以て︑その勢力は往々にして庶民を暦一迫搾 取して地方政治の癌毒となったばかりで友く︑その支庶は日に繁殖蕃筒してそれが供給は皆な一に牒官に仰ぎ︑終身 仕官出仕を巌禁されてゐた矯め無翁に暖衣飽食してゐたものであるが︑而もその宋庶支葉の王族に至ては秩織だけで

はその身を養ふに定らやJその一伎は遂に走卒乞食に堕落するやうになったが之は拘に自業自得の結果といふの外はた

から

う.

宋元時代の紅巾軍と元末の輔勅・白蓮敬匪に就いて

一 o

= 一

(25)

宋元時代の紅巾軍と元末の調靭N白蓮敬匪に就いて

O 之を要する明組は凡ゆる一誠詐桜謀の材陥と周到猪艇の資質とを以て一冗末の飢世に乗じて千寓一の︑俄倖の金的を射

首℃

Lから︑その位置を頑守する矯めに凡ゆる惑域無惨の手段を弄して枇稜の安泰を闘った封建的弱裁君主の標本で

あったと云はねばなら友い︒若夫れ明祖封親の落王が如何に外郡に在って積暴時間虐の限を蓋して地方の民生を惨毒し たかの貫例は清の越契の明分封宗藩之制︵廿二史例記各三十二︶や明の謝杭の宗蒋之害︵五雑狙巻十五﹀を読めば譲

者は恐らく思牟ばに過ぎるであらう︒

, 

D

大 明 図 放 の 由 来 明朝図説の来源については余は寡聞にして従来飴り皐界の論議を問か危い︒但︑先年末大の和田︵清︶博士は﹃明

の太臨と紅巾の賊﹄の一文を東洋皐桜ハ径一一一一の六披﹀に寄せられた際︑明組が小明王死後元至正二十七年に英一冗年

と稀したのは買は小明王の年枕を党嗣いで龍以十三年と総しその園も亦大宋の蛮蹴を裂って居たものでは・ないか︒而

てその翌年に改元して洪武元年と云ひ︑図流も先代に囚んで大明と一去ったのではたからうか︒明の太組が自立の後も 久しく宋の先縦を棄て危かったととは︑その故都の亦京を中都と稽して一時此に首都を遜さんとしたととに由ても明 かであると云ふ意味のととを述べられた︒それから和田博士は叉蹴允明の手に成ると偉へらる

L九朝野記の﹁建競﹂

ム−

題す

る下

記の

文を

引用

して

韓林児始由頴川逃之武安o

鴛穿祭︒漸山町劫殺︒有徒既繁︒乃姉飢都小明王︒劉護軍始就之︒謂竪子不足謀︒去遁皇

組︒皇組初亦興共事︒謂劉膝一便除之乎︒基一式︒不足魚何他︒協同胞時︒彼臨巳先下失︒因諦建波大明︒皇阻従之︒

(26)

韓果

先珍

此の文章の趣意は小明王を摩倒する矯めに大明と時したとでも云ふにあるらしい︒何れにしてもかLる陵昧友起源で

あったが矯めに明白伝説明が奥へられなかったのだとも考へられると述べられ︑叉明組は小明王を奉じて龍鳳の紀年

を棄てるととが出来なかったゃうだが︑或は恐らく無事に小明王の締譲を受けて︑白からその後を嗣ぐ気ではたかっ

たらうかとの考をも附加へてをる︒

然るに其後和田博士は史皐雑誌︵四二容の五涜﹀掲載の﹃明の園競について﹄の一篇に於て︑前設を改め︑明の園

︒ ︒ 現は園姓の朱に因める朱明の語から出たもので︑之は古くから准市子天文訓危どに見へてをる五行に配信せる五忠一の

0 0  

一つで︑南方の﹁炎帝の佐として衡を執って夏を治むる﹂たどある朱明が共の起訴であるoそれは南方から起った朱氏の朝廷が此の語から着想を得て﹁明﹂といふ国抗を採用したとしても更に不思議はないと云ふ意味のことを述べら

れてをる︒而して博士は之が確賓なる誇擦なりとして明の成組永然帝が漠北K師を出して残元の飴類を掃蕩せる際︑

斡難

河︿

ロ︶に玄一共河の名を興へ呼倫泊尖︒

g

F E

きるを玄宜︵池と呼んだが︑玄冥は北方の星であるから斯の如く

g

︐北方の各地に玄冥の名を奥へた明人が南方の本土を朱明と考へていたことは確かで︑四十年後に残一冗の地に玄冥の名 を興へた精紳は即ち四十年前に中原の地に明朝の披を案出せしめた精紳に外注ら友い?と断一一目してをる

o

和田博士の明朝園践の起源は右に述べた如く朱明といふ南方五星の一つから起ったものと確信されてゐるのである

が︑果して︐之を以て明朝国放の疑義が完全に鮮決されたものであうか︒余は不敏にして此の説に従ふととは出来︑広い

が︑博士の前説たる龍鳳小明王の後を受けて大明といふ開放を取ったのでは危いかとの高設に到しては大に共鳴する

, 

栄元時代の紅巾軍と元末の調勅・白蓮数匪に就いて

O

(27)

宋元時代の紅巾軍と元末の湖勅・白蓮教匪に就いて

O

ものである︒博士が前訟に安んせやして後説を提出された動機を推測するに︑

﹃明王といふ諾は悌語であって︑しか︑

も民間の邪宗門の間に行はれた木曾の名であるから︑之を以て儒皐を正宗とする支那の天下を有つの大践とするとと は頗る熔はしくない﹄と一式ふととであったらしい︒然し初て考へて見るに︑博士の云はる

L如く若しも支那の天下を有

つ大統として儒家の思想から大明の図枕が出たとすると准南子や呂氏春秋の様︑な雑駁不純の諸子の記録︵漢書喜文志 は之等を雑家に分類す﹀から北ハの典擦を求めやして今少し権威のある六経の如き儒家者流の傘重せる経典からその園 践を揮ぶべきでは・なかったか︒加之南方の火星朱明は焚惑若くは赤星又は執法と日って︑火徳の精を乗りて夏を司

E

り︑二十八宿の分野としては井・鬼骨柳・星骨張・翼・衿の七星が配蛍せられて主として徐・楊・刑・預等の諸州を含む南方 支那に限られたる地域

K相山回国するのだから支那四百徐州の盗休を包括せる一大統一の新興帝図の図競としては此の意

味に於ける大明の格競はどうも安官でないやうに忠はれる︒叉永紫帝が沙漠征伐の際︑その地の河湖に北方を代表せ る玄冥の文字を凶ひたのは必やしも朱明︿南方明閣︶と釘照させる意味ではたく早に之を以てその征服の北阪の地物 に漫然と附した名裕と考へられぬとともない︒況や朱氏から起った明朝を朱明と呼ぶのは蛍然であるが足名の朱明を 明又は大明と呼ぶ例はたい︒之に針して小明王に針する大明壬の釘鋭は明組の出身及び関闘の隆史的護展過程から見 て極めて安蛍な大明幽放の由来だと余はいいやノる︒明室の疏族朱園一服は湧極小口問︵各二﹀寸閣枕﹂の僚に於て︑

図枕

上︒

加−

一大

宇一

始=

於胡

一花

一︒

我朝

v之︒葦返乙左祇之宮一︒自合如

ν此 ︒

E

以別

−一

小明

王−

也︒

其言

L人

渓・

大唐

・大

栄一者︒乃臣子及外夷隼稀之討︒近見ニ新安刻﹁暦砕考﹂

一書

一︒

於渓

・唐

・宋

及司

馬晋

︒皆

加−

一大

宇一

︒失

ユ其

初−

突︒

と日ひ︑其の注に於て唐碑中の

E

唐や栄史の皇宋友どあるはいづれも大唐・大宋の大字と同義であると述べてをるが︑

(28)

参照

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