九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
A Study of the Political Construction after Wu- ti 武帝 Period in the Ch‘ien-han 前漢 Dynasty.
: Concerning the Comprehension of “Nei-chao 内 朝”
冨田, 健之
九州大学大学院文学研究科
https://doi.org/10.15017/24536
出版情報:九州大学東洋史論集. 9, pp.33-54, 1981-03-10. The Association of Oriental History, Kyushu University
バージョン:
権利関係:
前漢武三期以降における政治構造の一考遣
いわゆる内朝の理解をめぐって
冨
田
健
之
は し が き
第一節 内朝の意義
第二節.内朝の出現
第三節 里芋期以降の内朝と政治構造
第一款 宣帝期における内朝の変化
第二款 前漢末の政治構造
む す び
は し が き
後山二年︵前八七︶二月︑五十余年の永きに亙って皇帝の
位にあった武帝劉徹が崩ずると︑当時八歳であった昭帝劉
弗陵が即位し︑遺留によって春光・金日琿・上官桀の三人が
その補佐にあたることとなった︒漢書巻論罪帝紀︵以下特に
断らない限り出典はすべて漢書である︶には︑そのことに関
し︑ 刺 以侍中奉単層尉雷光為大司馬大将軍︑受遺詔輔少主℃ 儲
前漢武帝期以降における政治構造の一考察 大将軍光乗政︑領尚書事︒車騎将軍金日琿・左将軍上官 桀副焉︒とあって︑皇帝に近侍し上奏の取り次ぎといったことなどを職掌とする尚書の事を︑大司馬大将軍墨黒が総領し︑それを金日碑・上官桀の二人が補佐する形で幼帝昭帝の支配を全からしめようとしたのを示している︒︵なお︑右の尚書の職掌については後述する︒︶
この形幾車千秋伝︵捲六︶に 磐
武帝崩︑昭帝初即位︐未任聴政︒政事壼決大将軍︵窪︶
光︒ ︵車︶千秋居丞相位︑謹厚有重徳︒毎公卿朝會︑光謂
千秋日︑始與君侯倶受先帝遺詔︒今光治内︑君侯治外︑
宜有以教督︒使光漆負天下︒千秋日︑唯将軍留意︑即天
下幸甚︒終不図有所言︒光以此重之︒
とあり︑また志野伝︵蜷六︶に︑下鮎の元鳳元年︵前八・︶
の尊王月旦らの謀反事件の審理にあたった廷尉王平︑少府徐
仁が﹁縦思者﹂として劾された際のこととして︑
少府徐仁即丞相車千秋女靖也︒故千秋敷為侯史呉言︒恐
︵ 霊光不惑︒千秋即召中二千石・博士會公軍門︑議問呉法︑
前漢武帝期以降における政治構造の一考察
三者知大将軍︵雷光︶指︑皆執呉為不道︒明日︑千秋封
上衆議︒光於是以千秋檀召中二千石以下︑外壁異言︑遂
下廷尉︵王︶平・少府︵徐︶仁獄︒
とあるのから窺われるように︑丞相を中心とした従来からの官
僚組織とは別の性格をもっている︒前者が﹁外﹂であるのに
対し︑後者が﹁内﹂であるわけである︒
従来このような幼い皇帝を補佐し国政を輔弼していった震
光らの存在をもって︑旧来の官僚組織とは別の組織をもつ三
朝が成立したものとされている︒さらに詳しくいうと︑西嶋
定生氏は︑皇帝の側近官で構成された内耳が国策の立案と事
実上その決定を行うことにより︑国家の枢機を掌握すること
となった︒そのことによって︑丞相・御史大夫・九卿によっ
て構成される旧来の官僚組織−外朝は国政における機能を弱
め︑内官において決定された国策の執行機関にすぎなくなっ
ていったとされているが︑従来の内朝・外藩についての大坊 Uの研究も︑このような理解に基づいたものであるといえよう︒
しかしながら筆者は︑こうした内朝を組織的に︑また自律
的性格をもつものとして把えるやり方には疑問をもつ︒私見
によれぽ︑この内液というものは︑旧来の官僚組織とは別の
組織をもった政務担当機関として機能したのではなく︑皇帝
とのより強い親近性を有した側近官全体を総称する言葉であ
って︑そうした内鞘がそれ自体として自律的な政務担当機能
を有していたのではなく︑あくまで皇帝の国政統治に関する 輔翼機能を有していたに止まるものであったと考える︒ 本稿は︑こうした内書についての理解をもとにして︑前漢武帝期以降における漢朝の政治構造というものを動態的に考察しようとするものである︒このことは自と漢時代における国家権力の変質という問題とかかわってくる︒
第﹇節内発の意義
本節と次節とでは︑はじがきで結論的に述べた内朝についての理解を確証する意味から︑内朝の萌芽が認められる武帝期に遡って︑武甲のもとでの官僚組織の状況を含めた皇帝支配体制について考察を加えることとするが︑本節では特に内朝の意義を論ずる︒ 武豊が即位当初に見られるような外戚の圧力から脱したのは元光年間︵前=二四−一二九︶頃であるが︑この頃から武帝は対旬奴戦争を初めとした対外軍事行動を展開し︑また国内的にも大規模な土木工事を行うなどの積極的統治策を推し進めていった︒一方︑武帝即位当初における支配機構としての官僚組織の内状は︑董書伝︵蜷五︶に︑武帝即位の初め︑賢良の資格で対策に臨んだ董仲箭の対に︑ 夫長吏多出於郎中・中郎︒吏二千石子正妃郎吏︑又以富 讐︑未必賢也︒且古所謂至適︑以任官構職落差︑非︵所︶ 謂積日累久也︒故小材難累日︑不離於小官︒賢材難未久︑不害為輔佐︒是以有司端力壷知︑務治正業而以赴勿︒今
一
v
則不然︒累日以取貴︑積久以致官︑是以廉恥雄気︑賢不
肖蜜蝋︑磁気其眞︒
とあるが︑有能な官僚の登用が必ずしも行なわれていなかっ
たのである︒従って︑武帝が自己の積極的統治策を遂行してい
くにあたっては︑まず直接的に政策遂行にあたる官僚組織の
整備充実を図らねぽならなかったと考える︒このような状況
の下で︑新しい選挙制度として博士弟子員の科・孝廉科などが
新設され︑また文素期に始められた賢良方正科がより一層充
実されて︑有能な官僚の登用が図られることとなった︒
いま賢良方正科についてみてみると︑永田英正氏は︑この
賢良方正に挙げられてその対策が優秀であった者は︑前漢で
は諫大夫︑中大夫などの天子の諾問に与かる官職に就くこと
が多かったことを指薫れて魏︒厳助伝︵巻六四上︶に︑
嚴助︐會稽臭人︑嚴夫子子也︒或旧主家子也︒郡畢賢良︒
封極量半人︒武帝善助樹︒蘇.是認翠嵐爲中大夫︒後得朱
平畝・吾丘藩王・司馬相子・主父僅・徐樂・正安・東方
朔・枚皐・膠倉︒終軍・嚴葱奇霊︑並在左右︒
とあるが︑右の厳助以下についていうと︑厳助はその対策が ヨ優秀であると武帝に認められたため︑論議を掌る中大夫の富
に就いているが︑朱鷺臣以下の者も︑その列伝等の記載によ
ると︑概ね中大夫等の官に登用されたことが判明する︒これ
ら賢良方正科によって登用された官僚は︑右に﹁並在左右﹂
と記されるのから︑皇帝の側近に近侍していたことが窺われ る︒また右の厳助伝に続いて︑ 三時征伐四夷︑開置邊郡︑軍旅敷護︒内改制度︑朝廷多 事︒屡畢賢良文學丸面︒公孫弘起徒歩︑敷年期丞相︒開 東閣︑延賢人與謀議︑朝口奏事︑因言誤家便宜︒上令 ︵嚴︶道面與大臣叢論︒中外相違以義理上文︑大臣数謡︒とある︒この﹁中外﹂の顔師古註に︑ 中謂天子之賓客︑若盛助吾輩也︒墨壷公卿大夫也︒とあるが︑従うべきであろう︒この﹁中﹂は前の﹁並在左右﹂と対応するものと考えられるが︑それでは彼らは具体的にいかなる形態において﹁中﹂なるものとされたのであろうか︒以下それについて考察する︒
朱買辞意︵巻六四上︶に︑ 陶 葬︵朱︶買痘苗実未羅助縄墨︒ 燭
とあり︑吾丘寿轟音︵同論︶に︑ 吾丘尊王︑字子鞍︒趙人也︒年・少︑以画格五星侍詔︒詔使 豊中大夫董仲感受春秋︑高材通明︒遷侍中中郎︑坐法免︒後徴入爲芸西大夫侍中︒ む む
とあ叩甦肇伝︵巻六四下︶に︑
終軍︑字号雲︒野南人也︒少三焦︒以影響公議文聞於郡
?B響驚異斐葦爲馨塗穿
くとあって︑彼らが﹁侍中﹂あるいは﹁習事中﹂となったことが判明する︒この侍中・怪事中とは︑百官公海︵巻一九上︶に︑
侍中・左右曹・指導・散騎・中塗侍︑皆野官︒所加或列
前漢武帝期以降における政治構造の一考察
前漢武帝期以降における政治構造の一考察
侯・將軍・卿大夫・將・都尉・尚書・太醤・太官令至郎
中︒亡員︑多至愚十人︒侍中・中山侍差入禁中︑諸曹受
尚書事︒諸吏得調法︑散騎馬並乗輿車︒給事中肋加官︑
平冠或大夫・博士・議郎︑掌顧問鷹樹︑位次中常侍︒
とあるように︑これらを加温されることによって︑皇帝の側
近に近侍することができるものである︒内朝曇について詳細
な考察を行なった螢幹氏は︑内朝官が﹁第一類 得入禁中的︑
有侍中難中常習︒第二類 天子的親近執事勝率︑有左右曹和
散騎︒第三類 摩顧問鷹樹的︑有給事中︒﹂の三豊に分類で きるとされてい叡︒すなわち︑皇帝の下間に応じて政治の得
失などを論じ︑皇帝自らがその能力を判定する賢良方正科に
よって登用された官僚は︑まず本官として諌大夫・中大夫と
いった論議を掌る官職に就き︑さらに︑侍中として皇帝に近
侍し︑あるいは給事中として側近にあって顧問応対にあたっ
たのである︒螢幹氏は侍中について︑単に﹁得入禁中的﹂と
されているが︑その場台︑諫大夫・中大夫といった本官が機
能して︑やはり皇帝め側近にあって顧問応対にあずかること らができたと推察され嶺︒従って︑手助伝に﹁中﹂と記された
ものは︑侍中・給事中を卑官されて皇帝に近侍し︑皇帝の顧
問応対にあたった側近官僚を指すもので︑このことから︑こ
れら側近官僚を内宴の萌芽として認めることができよう︒
次に︑これら側近官僚が﹁與大臣懸詞﹂した具体的職務を
検討し︑以て武帝期におけるこれら側近官僚の性格と︑その 意蓬ついて考える︒厳撫子︵巻六四上︶に︑ 建元三年︵前山二八︶︑閲土浦筆意東廠︑東山告急於漢︒ 時事品評未二十︒菊間太尉面扮︒語頭爲越人相攻撃︑其 常事︒又寝反覆︒不足藩中勢子救也︒自秦時︑棄不屡︒ 於是︵嚴︶助毒舌日︑青縞力不能救︑徳不能覆︑誠能︑ 何故樹齢︒且秦鳥威陽而棄之︑何但越也︒今小國以窮困 來告急︑天子不振︑慰安所憩︑又何以子萬黒豆︒上日︑ 太尉不足與計︒吾新即位︑不運出押蓋護兵郡國︒乃遣助 以節長兵會稽︒とあDて︑武帝即位当初︑外戚として権勢を保持していた太尉田騨巖の救援要請を贅すべきだと主張したのに対し︑路厳助は漢を中心とする秩序維持の意味から漢に臣従していた h小国の危急を断然救援しなけれぽならないとして︑時の実力者太尉田隈を真向うから論難している︒この厳助の主張は︑すでに建元二年︵前二二九︶聖帝が張篶に何奴に対する攻守同盟締結の使命を与えて︑重氏国に派遣するという対外積極姿勢をとっていたことから︑堀篭の意志を代言したものであったといってよかろう︒また厳助は︑建元六年︵前一三五︶に再度対越出兵が決定された際にも︑出兵に反対した潅南王劉安に対して︑武帝の命を受けて榎茸王に経過報告を行うとと もに︑王の謝罪を取りつけてい慰︒すなわち︑この側近官僚侍中厳助は︑武帝の国政統治を攣激する存在であった外戚︒諸
侯王の干渉を︑皇帝側に立って理論面から排除するといった
役割を果たしていたのである︒さらに公孫弘伝︵蜷五︶に︑
︵公孫弘︶遷御史大夫︒時又東置蒼海︑北築馬方下郡︒
弘数諫︑以早耳華中國以奉無用之地︑顧罷之︒於是上
︵11武帝︶乃爆睡買臣等難弘置筆墨之便︒獲下策︒弘
不得一︒弘乃岡岬︑山東鄙人︒不知其便若是︒願罷西
南夷・蒼海︑風琴朔方︑上製楽風︒
とあり︑同じく主父繧︵巻六四上︶に︑
︵主父︶運搬言解方地肥饒︑外車河︑蒙悟築城以逐旬
奴︒内省轄輸律僧︑廣中興︑滅胡之本読︒上覧其説︑
下公卿議︑皆言不便︒公孫弘日︑秦時嘗獲三十萬衆築
北河︑終不可就︑已而棄之︒早撃臣難風弘︑遂置朔方︑
本革計也︒︐
とあるように︑多方郡設置︵元朔二年︶という案が側近官
中大夫芋茎橿によって上呈され.武帝がその案を公卿の集
議︵丞相・御史大夫・九卿によって構成された回議であろ粥︶にはかると・その集議における反対意見に対して同じ
く側近秘中大夫朱買臣らが武帝の意を受けて︑その政策内
容の理論的有効性を詳説して反対意見を斥けている︒すな
わち︑彼ら皇帝側近官僚は︑武帝の統治方針に沿った政策
の発議・立案を行ない︑その政策案を旧來の官僚組織を経
由せず直接皇帝に具申し︑またその案が集議にはかられた
際︑反対意見が出されると︑その案を理論的に補強しつつ
反対意見を論難排除していくという職任を有していたわけ である︒ このように︑聖帝自らによってその能力を認められ登用された有能准官僚は︑侍中・給事事といった加官を受け︑旧來の官僚組織とは別に皇帝との人格的結合関係によって皇帝の側近に近侍し︑武帝の意図を反映した政策の鼻翼・立案︒皇帝への直接的具申︑そしてそれを決定に導くための理論武装というものを職任とした︑皇帝による書置統治権遂行における皇帝個人の政策顧問乃至政策諮問集団的機能を果たしていたと考えられる︒従って︑前掲の厳中伝に﹁中外﹂とあるのは︑
﹁中﹂の組織と﹁外﹂の組織というように組織的な分離を意
味するものではなく︑皇帝との関係を表現するものであった
といえよう︒つまり皇帝個人と人格的結合関係にあった﹁中﹂
︵側近官僚集団︶と︑皇帝からある程度距離を置いた組織と
して存在していた﹁外﹂ ︵旧來の官僚組織︶であったわけで
ある︒但し︑ ﹁外﹂なる官僚組織の構成員たる丞相・御史大
夫・九禦ども︑張湯伝︵捲五︶に︑
︵張湯︶遷御史大夫︒會渾邪等降砂︑大番兵伐出奴︒
山東水魚︑貧民出撃︒集印給縣官︒縣官空虚︒湯蝦上指
請造白金掛較掛銭︑籠天下藍鐵︑排富商画質︑出告諭令
鉗豪彊井兼之家︑舞文巧誠以輔法︒湯毎朝難事︑語翼翼
p︒日旺天子忘物︒丞相取集位︵顔師古日︑臨交其位而己︑無所造設也︒︶
天下事皆決湯︒
とあるのに窺われるように︑国策の立案過程に大きく関与す
一一一@37 一一
前漢武帝期以降における政治構造の一考察
前漢武帝期以降における政治構造の一考察
ることができたのであり︑この点からも﹁中外﹂という表現
が︑各々の独自の機能を有した組織の分離を意味するもので
はなかったことが確認できよう︒
第二節 内朝の出現
前節で述べたような皇帝側近集団の中から︑武代の死後︑
幼い昭帝の補佐にあたった雷光・金日韓・上官桀の三人が出
てきた︒霊光伝︵捲六︶に︑
去病死後︑光早上車都尉光緑大夫︒出切出車︑入侍左右︑
出入禁閣二十飴年︒小心謹慎︒未嘗薄雪︒甚見親信︒
とあり︑ ︵昭帝紀には雷光の官について﹁侍中奉車郡尉﹂と
ある︶︑また金日露伝︵同右︶に︑︑
︵金日碑︶拝面影監︒遷侍中鞍馬都尉光緑大夫︒日碑既
親近︑未嘗有過失︒上甚信愛之︒賞賜累千金︒出則鰺乗︑
入塾左右︒
とあり︑翠霞帝紀︵巻六︶後元元年︵前八八︶の条に︑
侍中僕射葬何羅與弟重合侯通謀反︒侍中鮒馬都尉金日琿
奉呈都尉震光・騎都尉上官桀討之︒
とある︒右の武帝紀の史料にみえる侍中は︑震光伝︑金日碑
伝の記載から︑金日琿・震光・上官桀の三人にかかる記述で
あると考えられ︑従って︑上官桀も侍中であったとされよう︒
要するに︑この三人は侍中の加官を受けて武帝の側近にあり
ながら武帝との人格的結合関係をもった皇帝側近官僚であった とされるのである︒それだけに︑従来の研究において︑政務担当機関化した内朝を形成し︑国政の枢機を掌握したとされてきたこの三人を中心とする体制も︑本質的には武帝期における皇帝側近官僚集団と同質のものとして出現したといえる︒ 次に︑この性格が引き続き存続したことを述べる︒窪光伝
(捲
Z︶に︑
言忌青毛二曲帝兄︑常懐怨望︒及御史大夫桑弘巡錫造酒椌
監鐵︑爲國興利︑伐其功︑欲念子弟得官︑亦怨恨光︒於
是藩主︵昭帝の姉那詰論主︶・上官桀・安︵上官桀の子︶
及昌昌皆與首罪旦通謀︑詐半人爲甲山上書︑言︑光出都
疑郎羽林︑道上稔趨︑太官先置︒掃引蘇武前使何奴︑拘 一 留二+年不隆三富爲典醤︑而大將軍長史︵楊︶警紹
爲婆都尉︒又空調落莫府校尉︵顔師古日︑調︑選也莫府︑大道軍府也︶
光專権自恣︑特有非常︒臣旦願落雷璽︑入宿衛︑察姦臣
攣︒候司光出沐日奏之︒桀欲從中下其事︑桑弘羊當與諸
大臣共執退光︒書奏︑帝不肯下︒明旦︑光子之︑止書室
中不入︒上間︑大將軍安在︒雪塊軍桀樹日︑以燕王告其
罪︑故不敢入︒金離召大志軍︒光入︑免冠頓首謝︒上日︑
將軍冠︒認知是書詐也︑將軍亡罪︒発日︑陛下何以知之︒
上日︑將軍之廣明︑七二贋耳︒調校尉以來未能十日︑燕
王何至聖知之︒且將軍書非︑不須校尉︒是時帝年十四︑
尚書左右皆驚︑而上書単果亡︒捕之甚急︒桀等催︑白上
小事不足遂︒上筆聴︒
とあって︑内謁にあって霊光と対立していた上官桀及びその
子の安が︑字書即位に不満を抱いていた二王旦︑経済政策な
どをめぐって同じく震光と対立していた御史大夫桑弘羊らと
ともに︑雷光排除を企図したものの︑昭帝の雷脆に対する強 い信任によって挫折させられた状況を伝えてい剤︒このこと
から窺われるように︑大司馬大車軍領尚書事であった震光の
権力もまた︑あくまで皇帝の存在を直接的な基盤としたもの
で︑皇帝の信任を強く受けていたことによって自己の地位を
保持しえたのである︒また同じく雷光伝に︑震光の死後︑雷
光の兄孫雷山が領尚書事となっていた時のこととして
時奮︵震光の青雲病の孫︶自重尚書︒︵顯舘
噸︶上︵⊥旦帝︶令士民得奏封事不尽尚書︑二進
見目年上︒於是窪日傘下之︒
とあるが︑皇帝への上奏過程から尚書を締め出すという聖帝
の方策によって︑領尚書事として尚書を総領していた震氏の
権力が︑周知のように動揺することとなる︒右に﹁令聖訓得
奏封事不關尚垂とあるのは︑籍伝︵巻七四︶に︑
又故事諸上書者皆爲山懐︑署其一日副︒領導縁者先買副
封︑所言不善︑屏去不奏︒ ︵御史大夫魏︶相導因許伯爵︑
去来墨田防爆蔽︒
と記されている内容をもつ︒これは︑尚書が皇帝に上書の事
を上奏するが︑その際︑領尚書事が上書の副封をさきにひら
き︑善しとしないものを上奏しないという権限をもっていた
前漢武帝期以降における政治構造の一考察 ⑩ことを示すものとされよう︒このような領尚書事の権限が廃止され︑それによって震氏の権力が動揺をきたすこととなったことは︑領尚書事に備わる職権が右のそれに止まるものであったことを意味するものである︒尚書を総領する領尚書事の権限がこのようなものであった以上︑尚書自体の機能も︑従来言われてきたように︑実質靹な権限をもち︑国政の枢機 コ ロを決定するといったものではなく︑あくまで皇帝の国政統治に関する補助機能的なものにすぎなかったといえる︒ 時期的に前後するが︑世紀前七三年︑宣帝が即位した時のこととして︑言伝︵謄六︶に︑ ︵震︶光自彊元︵耳擦期最後の年号︶乗持萬機︒及上 ︵H電界︶即位︑乃蹄政︒上謙譲不受︒諸事恩許關白光︒一 然後奏御天子︒光毎朝見︑上虚己馨︑禮下之魁首︒舶とあるが︑今までみてきたところがら︑霊光の﹁蹄政﹂という行動は︑霊光個人に与えられていた幼い皇帝の後見人的な役割が︑宣帝の即位によって終了したことを示すものといえよう︒ 以上述べたように︑武帝の死後︑皇帝側近官僚集団の中から出てきた窪光・金日琿・上官桀の三人を中心とした幼帝昭帝の輔翼体制−内朝︵金日碑・上官桀の死後は︑雷光及び雷氏による体制となる︶は︑宣帝の即位に至る全期間を通じて皇帝による国政統治に関する輔翼機能を果たしたのであり︑内朝それ自体が一つの組織・機構として国政の枢機を掌握し
前漢武帝期以降における政治構造の一考察
たものではなかったわけである︒
なお︑ここで以上のことに関して多少補足しておく︒越智
重明氏は漢朝の支配構造について︑漢初にあっても︑前代以
来の君主︵この際は皇帝︶の家産国家的な支配︵土地と民衆
との私有的支配︶が︑その統治の基盤としてある程度残って
いるが︑そのような支配をいつまでも続けることは不可能で︑
組織化された権力機構としての国家をつくり︑その官僚組織
を整備強化し︑皇帝がその頂点にたつことが要求されてくる
こととなる︒そ地は時期的に武今期前後であった︑という見 12解を出されてい尉︒このような理解にもとづいて︑内朝の出
現という問題を考えると︑国家権力の確立が第一義とされる
ようになった武帝都前後にあっても︑いわゆる家産国家的な
支配のあり方が依然として残っていたといえる︒すなわち︑
内朝というものが皇帝との人格的結合関係にもとづいた︑いわぽ
皇帝の直接的把握にかかる側近官によって構成されるものであり︑
ま咋尚書が︑画集財政を掌り︑家政機関的性格の非常に強かった ヨ少聯の属官であったことから︑内朝はまさしく皇帝の家産国
家的な支配のあり方を示すものであったとされる︒但し︑こ
のような内朝という家産国家的な支配のあり方による皇帝の
支配権力の強化は︑再び漢土が家産国家的支配そのものを志
向するようになったことを示すものではない︒このことは︑
以下において︑宣帝期以降における内着の変化︑及びそれに
伴う政治構造の変化を考察していく過程で明らかとなろう︒
第三節 宣帝期以降の内朝と政治構造
第一款 宣帝期における南朝の変化 元平元年︵前七四︶︑昭帝が崩じ︑ごく短期間廃帝が帝位にあったが︑そのあとを受けて︑武帝の曾孫宣帝室詞が即位
した︒本款では︑この転語治政下での内朝の変化を中心とし
た考察を行なう︒
震光伝︵蜷六︶に︑
自馬乗時︑ ︵雷︶光子普及兄孫雲皆中郎將︑雲弟山奉車
都尉侍中︑濡鼠越兵︒光雨女靖爲車西宮衛尉︑昆弟君増
外孫皆奉朝請︑爲諸曹大夫︑騎都尉︑給話中︒堂親連髄︑鵬 根嚢於朝廷︒ 40 噛とあって︑宣帝即位当初にあっても︑前代以来の霊光の皇帝
との強い親近性を基盤として豪男一族が内朝を墾断していた
ことが窺われるが︑同じく霊光伝に︑
宣帝自在民間聞知窪氏尊盛日久︑内不能善︒
とあって︑黄帝の霊氏に対する信任度はあまり強くなかった
といえる︒但し︑民間にあって成長した宣帝には︑雷氏に対抗
しうる側近官も存在せず︑また雷氏一族が中央諸軍の軍事権
を掌握していたことなどにより︑内朝における震害の存在を
容認せざるを得ず︑前節でみたような雷光の﹁蹄政﹂願いに
対して︑引き続き後見人的役割を付与している︒しかしなが
ら︑内朝の本来の意義からいって︑皇帝a信任度の強くない
官僚というものは︑内朝官としての存在価値を喪失している︑︑
それだけに︑そこには純理乃至は内君に対する宣帝の何らか
の改革が予想される︒その改革は地節二年︵前六八︶春の大
司馬大将軍震光の死を待って開始された︒前掲の七光伝に続
いて︑ ︵雷︶光亮︑上︵11宣帝︶母語親朝政︒御史大夫与奪給
事中︒
とあるが︑霊光の死去によって悪習の親政が開始されること
となった︒ところで︑その際︑組織化された権力機構として
ある程度自律性をもっていた官僚組職︑いわゆる外需に属す ロる御史大夫理工が給書中とされているのであるが︑給書中と
は暮公卿表︵巻一九上︶に︑
給舟中岸壁官︒所加或大夫・話語︑掌顧問鷹甥︑位次中
常侍︒
とあり︑また通学巻二十一職官引く漢旧主に︑
諸給事中︑日上朝謁︑平尚書空事︒分爲左右曹︑以有事
殿中︒故日給百中︒連名儒國手弄之︒掌左右顧問︒
とあって︑皇帝の左右に近侍して政策顧問にあたることを職
掌とする官である︒従って︑御史大夫魏相は︑この多事中を解
官されることによって︑内朝官として宣帝の側近に近侍して
直接的に宣帝の政策顧問にあたることができるようになった
と考えられる︒
ところで魏相は︑済陰郡定陶製の出身で︑賢良に挙げられ
地方官を歴任したが︑河南太守在任中︑大将軍馬脳の怒りを
前漢武帝期以降における政治構造の一考察 買い下獄せしめられている︒その後再び河南太守を初めとする地方官となり︑宣帝の即位とともに中央官界に入り︑大司農を経て ㈲御史大夫に就任している︒彼は雷光によって下獄せしめられたこともあってか︑審氏専権に対しては批判的であり︑御史大夫に就任すると︑外戚平恩余響伯を通じて上書し霊氏排除を訴えた︒籍伝︵巻七四︶に︑ ︵魏︶相因平恩侯許伯奏封事︑言︒春秋畿世卿︑悪業三 世爲大夫︒及魯季孫之專権︑皆危颪國家︒自後元以來︑ 緑去王室︑政蘇家宰︒今︵雷︶光死︑子復爲大量軍︒兄子 乗橿機︑三聖諸増擦権勢︑在兵甲︒光夫人難中子女鍵層 籍長信宮︑或夜詔門出入︑驕奢放縦︑恐寝不測︒県有以 掲奪其権︑破散陰謀︑以固萬世之基︑全功臣中世Q又故 事諸上書者皆爲二封︑署其一日副︒領尚書者先帯副封︑ 所言不善︑屏去不奏︒相復職許十日︑去副封手防雍蔽︒ 宣言善之︒還相給霧中︒皆從其議︒とあって︑魏相の建策によって︑窪氏が掌握していた領尚書事︵震光の死後︑震山が領尚書事となっている︶の機能を形骸化するきっかけとなった︑上書の際の副封の廃止が実施されたのがわかる︒ 以上みたように︑宣帝は﹁内不能善﹂であった雷氏排除のため︑外朝官魏相を内朝官に登用し︑彼との親近性を強あることによって自己の側近を固めたのである︒一方︑垂球側はこうした状況に︑非常な危機感をもつこととなった︒窪光伝に
一一@41 一
前漢武帝期以降における政治構造の一考察
︵雷︶禺爲大司馬︑稻病︒禺故里史任宣愚問︒禺日︑我
何病︒縣官本我家空軍不得翼壁︒今將軍墳墓未乾︑盤外 ラ 我家︒噺 くとあり︑また同じく震光伝に︑
顯︵震光の夫人︶謂︵雷︶禺・雲・山︑女曹不務奉大將
軍直黒︒今大夫︵御史大夫魏相︶塵事中︒他人萱間︑女
能復自下下︒
とあるところに︑御史大夫魏相年事中加平ということに対し
て︑窪氏が抱いた強い危機感が窺われる︒要するに︑皇帝との
強い親近性を基盤としていた雷氏にとって︑内朝官としてよ
り強い親近度をもった他者が翌朝に介入してくることは︑そ
れだけ自己の内朝官としての意義が薄れ︑究極的には内朝官
としての地位を喪失してしまうことを意味したのであるQ事
実︑その危機感から謀反を企てた麗麗は︑地節四年︵前六六︶ の訣滅されることとなつ畑︒
このような震氏排除策の一環として︑新たに内朝憲に外戚
が登用されることとなった︒すなわち︑霊光伝に︑雷光の死後
のこととして︑
乃徒︵震︶二女増度遼二軍未央重藤重藤立夏明友爲光緑
勲︑次婿諸吏中郎將羽林監二曲出直安定太守︒敷月︑復
出光姉婿善事毫光二大揮毫朔爲蜀郡太守︒子孫塙中郎將
王漢爲武威太守︒頃之︑門徒面長女婿長樂衛尉郡廣漢爲
少府︒更以磁器大司馬︑冠小冠︑亡印緩︑罷其右重三屯 兵官厨︒特中食官名與光倶大司馬者︒重恩萢明友度遼將 軍印綬︑但爲光背勤︒及光中墨増平爲散騎騎都尉光緑大 夫將屯兵︑又収平騎都尉印綬︒諸領胡越騎・羽林及雨宮 衛將屯兵︑悉易以所親信許・史子弟代之︒とあり︑また前掲の霊光伝に︑震氏の凋落を嘆いた震禺の言葉として﹁今重器墳墓未乾︑部外我家︑反心許・史﹂とあるように︑震氏一族を内朝官から締め出すとともに︑従来震氏が掌握し尺いた軍事権を奪い︑それを外戚許︑史両氏に委ね 御たのである︒従って︑宣帝期はおいては︑皇帝との血縁関係を有する外戚が︑皇帝の信任を受けたために︑最も内朝的な内
朝を形成したといえよう︒ 鼻 さらに石極伝︵巻九三︶に︑ 幽
石顯︑字謎房︒濟南人︒弘恭︑沫人也︒皆少坐法腐刑︑ 爲中黄門︒以選豊中尚書︒宣帝時任中書官︒恭明習法令 故事︑善爲請奏︑能稻其職︒恭爲令︑顯爲細身︒と萱また雷光伝︵捲六︶に︑ 慰二面・山・雲気見落侵削︑数相樹喘泣︑自由︒山日︑ 今丞相用事︑縣官信之︒霧易大將三時法令︒富有上 く 書言意將茶時主審臣強︑專制撞権︒今其子孫用事︑昆弟 益驕恣︑恐危宗廟︒災異敷寝︑壷爲是也◎二言絶痛︒山 極書奏其書︒後上漁者益賠︑蓋奏封事︑輔便︵下︶中書 臨画取之︑不意尚書︒益不信人︒とあって︑霧氏が掌握していた尚書の機能を形骸化し︑中書
宙官弘恭・石顕をして上奏の取り次ぎを行なめしめ︑宣帝が 憾直接的に尚書の機能を掌握したことが窺われる︒すなわち︑中
書宙官も痛罵の側近に近侍することによって︑内朝官として
機能をもつこととなったわけである︒このように皇帝期にお
いては︑皇帝が親政体制を確立していく過程で︑外戚及び中
書宙官が登用され︑この両者が皇帝との親近性をもって内朝
を構成することとなり︑逆にそのことによって窪氏は内朝官
としての機能を喪失し︑最終的に諌滅されるに至ったと考え
られる︒ このようにして︑昭画期以来内朝にあって権力を保持して
きた震氏は訣滅されたのであるが︑この宣帝期においては︑
単に内帯官の交代が行なわれただけではなかった︒先に述べ
たように︑窪氏排除の過程で御史大夫魏相が内感官に登用さ
れ︑宣帝の政策顧問にあたったわけであるが︑彼は地点三年
︵前六七︶丞相に就任した︒単二︵賭七︶に︑驚談後
のこととして︑
宣帝始親萬機︒属精難治︑練嚢臣︑核名儀︒而︵丞相魏︶
相舅領衆職︒甚稽上意︒
とあり︑また前掲の震光伝に﹁今丞相︵魏相︶用事︑縣官信
之﹂とあり︑また同じく魏相伝に︑
時借吉爲御史大夫︑同心輔政︒上︵11宣帝︶重之︒
とあって︑轟轟親政のもとで丞相魏相が﹁尊上を総領﹂し︑
また﹁事を用﹂い︑御史大夫丙吉とともに宣帝の輔翼にあた
前漢武帝期以降における政治構造の一考察 って非常に重んじられたことがわかる︒この至難の﹁総領衆職﹂・﹁用事﹂の具体的内容は︑魏相伝に︑ ︵魏︶相明易経︑亡師法︒好観血故事及便宜章奏︒以爲 古今異存︒方今画面奉行故事而已︒敷條漢興以來國家便 宜行事︑及賢臣頁誼・昆錯・董仲釘葬所言︑奏請施行之︒ 琳上意行動策︒ くとあり︑続いて︑ ラ 心霊表面易陰陽及明隔月近県之︒榊相敷陳便宜︒上納用 ︵ 焉とあるのにみられるのがそれであろう︒すなわち︑活相は御史大夫在任中︑内朝官に登用されると︑宣超群にたって窪氏排除のための政策の発議・立案を行ない︑また丞相就任後も︑一幕親政のもとで国策の議あるいはその馬糞というものを蘭
行なっていたのである︒このことは︑開題諜滅後の宣好期に
おいて︑自律性をもった組織としての外編−丞相以下の官僚
組織が︑宣帝の親政体制のもとでその機能を高め︑逆に︑従
来皇帝の国政統治に関する輔翼機能をもっていた内朝の存在
意義が︑ある程度薄れていたことを窺わしめるものではなか
ろうか︒なお︑神出三年︵前五九︶御史大夫となった薫望之
に関し︑璽之伝︵捲七︶ぼ︑
︵労金︶三年︵前五九︶︑ ︵瀟望之︶代丙否諾御史大夫︒
五器中︵前五七1五四︶勾芸大齪︒議者多日何奴爲害日
前漢武帝期以降における政治構造の一考察
久︒可因其芝居番兵滅之︒詔寒中朝大司馬車騎将軍韓増.
諸賢富平侯張延壽・光蘇勤楊悼・太僕福長樂問望之計策︒ ラ 望之醤︑腰上從正議︒後寛遣兵轟呼韓輩干︑定其 ︵ 國︒
とあるのは︑右に述べたことを如実に示しているものといえ
よう︒
ところで︑張安世伝︵七五︶に︑箋の死後のこととして︑
後数日︑ ︵張安世︶寛拝撃大司馬車騎將軍︑領尚書事︒
敷津︑罷車坐聖別工兵︑更爲衛將軍︑爾宮衛尉︑城門・
北軍兵屡焉︒時霧光子禺爲右国軍︒上︵H宣帝︶亦以禺
爲大司馬︑罷其恥曝軍屯兵︑以虚尊加之︑而實奪其衆︒
後歳絵︑禺謀反︑夷宗族︒安世素小心早撃︑已内憂 ︒
其女孫敬爲帯留外屡々︑當相坐︑安世痩儂︑形於顔色︒
上々而憐之︑下問左右︒乃単身︑以慰留意︒安世窮恐︒
職典椹機︑以謹慎周密自著︑外内無間︒毎定大政︑已
決︑輯移搾出︒聞有詔令︑乃驚︑便誓事丞相府間焉︒
自朝廷大臣莫知其與議也︒
とある︒張安世は霧光の右腕として心任にあり︑雷光亡き
あとの内朝の中心的人物であった︒但し︑領尚書事として
の彼の職任は︑宣帝が中書渇望をして﹁省尚書事﹂ ︵丙吉.
伝︶させていたため︑事実上︑形骸化していたと考えられ︑
﹁職典福機﹂とされた内容も︑ ﹁與議﹂一宣帝が国政の大
本を浜定する議に参与するというものに止まっていたとい える︒但し︑彼がその議に参与したというのは︑少なくとも形式的には領尚書事であったからである︒しかし張安世は︑自らその議に参与した国策が決定された時点で︑部下の吏を丞相府に派遣して詔令の内容を聞かせるというように︑皇帝の国策決定の議に与かるという自己のもっている機能を覆い隠し︑まさに丞相のもとでの外朝官的な行動をとっているの ⑲である︒ ︵そのとき彼が外に現わした外朝官的行動の基盤は大司馬・衛将軍たるところにあったといってまちがいなかろう︒︶このような行動を彼にとらしめたものは︑先にみたような宣堂宇における︑賢慮の有していた輔翼機能の弱化と︑それに対する早朝の国鐘関する機能の高揚という状況であ処
つたと考えられる︒右に窺われるような実態をもって︑宣帝 噛
期においては︑宣政親政のもとで﹁外圧無間﹂と表現される
内灘・外心の協調体制が布かれていたといえるのではなかろ
うか︒ 以上述べてきたように︑宣帝期においては︑昭帝期以来︑
内朝を墾断していた霊氏が諌滅され︑宣帝による親政が行な
われることとなった︒この宣帝親政のもとでは︑宣帝の信任
を受けた外戚が軍事権を付与され︑また内朝的朝朝ともいう
べきものを形成することによって︑宣帝親政を私的に支えて
いたのである︒また従来有していた輔翼機能を弱めた六朝が︑
外心とある程度一体化することによって︑皇朝・外曲の協調
体制が布かれていたのである︒なお︑この宣魚期においては︑
従来皇帝の信任を受けた側近官によって構成された内面が︑
外戚らによって構成される︑いわば内朝的な内輪と︑三朝と
ある程度一体化しつつあった内証との二つに分化しつつあっ
た状況が窺われよう︒
第二款 前漢末の政治⁝構造
前款の末尾で︑内朝の分化とでもいうべき状況が生じつつ
あったことを述べたが︑落款では︑このような内朝分化の一
層の進展と︑それが前漢末の外戚専権という政治構造を生み
出したことを考察する︒
董之伝︵県立︶に︑
及宣帝介添︑選大臣可屡者︑引外屡侍中樂陵侯玉高・太子
太傅︵薫︶望之・艦齢周堪禁中︒拝高爲大司馬車騎將軍︑
望之爲前將年光緑勒︑堪爲光緑大夫︑皆受遺詔輔政︑領
尚書事︒
とあって︑宣帝の遺詔によって︑外戚史高及び薫望之・周堪
の三人が元帝の輔政にあたることとなった︒このような輔翼
体制は︑武帝の死去にともなう幼帝昭帝即位の際にも布かれ
ており︑その輔政というものが︑あくまで元帝による国政統
治に関する輔翼機能に止まるものであったことは︑繰り返す
までもなかろう︒但し︑同じ輔翼体制でも元予期におけるそ
れは︑内朝の分化という状況にあってその構造を多少異にす
るものであったQ 石雨止︵巻九三︶に︑
元帝即位敏年︑ ︵中書令弘︶恭死︑ ︵中書僕詩心︶顯代
.只中命令︒二時︑元帝被疾︑不親政事︒方隆好於音曲︒
以顯久典事︑中人無外蕪︑精專可信任︑遂委以政︒事無
小大︑因三白決︒貴幸傾朝︑百僚皆敬事顯︒
とあるように︑宣帝親政のもとで尚書の機能を形骸化する形
で登用された中書宙官が︑元帝の全幅の信任を受けて非常な
権力を握っており︑また続字の遺詔を受けた三人の中の史高
は︑皇帝との血縁関係によって内患的な内朝を構成する外戚.
であって︑皇帝の信任を受けた側近官としての内二二といっ
ても︑薫望之・同堪の二人よりも︑より強い皇帝との親近性
若していたので鷺従って︑劉手伝︵蜷三雲 鄭
元老初即位︒太傅瀟望之爲前野軍︑少明倫堪爲諸吏光緑鴨
大夫︑皆領尚書事︒甚見尊任︒ ︵劉︶更生︵11雲向︶年
少於望之・堪︑然二人重之︒薦更生宗室忠直︑明解有行︒
垂垂散書宗正給事中︑與侍中金品拾遺於左右︒四人同心
輔政︑患苦外戚許・史在位放縦︑而中書宙官弘恭・石顯
弄権︒
とあり︑璽窯業︵捲七︶に︑
初︑宣帝不払從儒術︑任用法律︒而中書宙官用事︒中書
令弘恭・石顯久典福機︑明習文法︒亦與車騎將軍︵史︶
高曇表裏︒論議常馬持故事︑不從︵薫︶望之等︒
とあることに窺われるように︑領尚書事薫望之・翌夕が巻向・
前漢武帝期以降における政治構造の一考察
前漢武帝期以降における政治構造の一考察
金敵とともに輔翼の任にあたったのに対し︑中書宙官弘恭・
石顕及び外戚史高らが相表裏して別個の勢力を形成し︑しか
もそ︑れらは﹁不弁望之等﹂とあるように︑瀟望之ら内乱官よ
りもある程度上位にあって︑その輔翼磯能を果たしていたの
である︒ ところで︑この中書宙官と領尚書事との関係についてであ
るが︑劉向伝︵蜷三︶に︑
︵周堪︶拝爲光緑大夫︑秩中二千石︑領尚書事︒ ︵張︶
猛復欝太中大夫習事中︒ ︵中書令石︶顯幹尚書︵事︶︑
尚書五人︑皆二二也︒堪希憶見︑導因顯振事︑事書顯口◎
とある︒右の﹁幹﹂については︑顔師古註に
幹與顕著︑言管主其事︒
とあるが︑その通りであろう︒これは瀟望之が石顕らとの抗 三無に破れ自殺した後のことである斌︑中書置石顕が尚書の事
を管領していたため︑領尚書事周堪は元帝と直接的に接する
ことができず︑常に石顕を通して政事について建白せざる得
なかった︒従って︑周堪の建白したことは︑結局石顕が元帝
にどのように言上するかで左右されていたということを伝え
るものであろう︒すなわち︑中書宙官︵特に中書令︶は︑従
来尚書を総領していた領尚書事と同様の職任をもっており︑
また︑皇帝と領事中事との直接的接触を断つ形で皇帝に近侍
し︑その特任を遂行していたのである︒さらに︑中書宙官は
領尚書事に代わって︑皇帝が決定する国政の議に与かってい 20たと考えられ尉︒従って︑前掲の薫望之伝に︑石顕らが﹁不可望之等﹂とあるのは︑右に述べたような形で中書宙官︵及び外戚︶が領尚書事瀟望之らの上位に立ち︑また元詰の信任を受けることによって国政を左右していたことを意味するものであろう︒但し︑このよう奢顕の地位戦石覆︵巻九三︶に︑ ︵石︶顯内自知檀権事柄在掌握︑恐天子一旦納用左右耳 ラ 目︑有野間己︒二時蹄誠︑聖信以爲験︒晰 くとあるように︑あくまで皇帝権力を背後に置いたものであり︑皇帝との親近性を保ち信任を受けることによって︑権力を発 一揮しえたのである︒ 46 以上のように︑元帝期になると︑中書千官が薮畳期におけ 一る外戚と同様︑内需的祭酒官となり︑両者で元帝の側近を半ば独占し︑かつ︑そうした中書宙官が従来の領尚書事の機能を奪う形で︑国政の枢機に与かっていたと考えられる︒また︑右の結果として︑従来の内器官が皇帝の側近官という性格を弱め︑中書宙官及び外戚によって﹁外﹂へ押し出されつつあ
ったと考えられる︒こうした点から︑元上期︑内朝の分化と
いうものが進展していた状況が窺われよう︒
さて︑寛寧元年︵前三三︶元肥が崩じ成帝が即位すると︑
元帝の信任によって権力を握っていた中書富官空耳が失脚し︑
従来石顕が管領していた尚書に対する改革が行なわれた︒成
帝紀︵特写︶建始四年︵前二九︶の条に︑
︵建始︶四年︵前二九︶︑罷中書警官︒初雷尚書員五人︒
とあ久百官公卿表︵巻一九上︶少額の条に︑
成論叢始四年更名中書謁者令爲中島割当︒初置尚書員五
人︑有春丞︒
とあり︑また漢旧業に︑
尚書四人爲重曹︑常侍曹尚書主丞相御史事︒二千二曹尚
書主刺史二千石事︒民曹尚書主庶人上書事︒主客曹尚書
主外國四夷事︒成帝初感尚書員五人︒有三公言︑主断獄
事︒とある︒これらの記事の理解については︑従来から諸説があ
るが︑この建始四年の尚書員五人のうち︑一人は僕射であり︑
他の四人が四曹に分たれ︑成帝がのちにE公曹を設けたこと 22で五二となった︑との理解が妥当であろ引︒また各曹尚書の
職務は︑民曹尚書が﹁庶人上書事﹂を掌ったとあることから︑ 23他の三曹も漢旧儀に記される範囲の上奏を掌ったとされよ釧︒
このような成帝初めにおける尚書の改革は︑長官としての令︑
次官である僕射︑そしてその下に各々職掌を有した列曹尚書
が置かれるといった尚書の整備された組織的機関化がなされ
たことを示している︒さらにいうと︑従来上奏文の取り次ぎ
といったことを退任として皇帝に近侍していた尚書が︑ある
程度自律性をもった組織︑すなわち︑国家権力のもとでの組
織化された機関・機構へ改変させられたものであると考えら
れる︒
前漢武帝期以降における政治構造の一考察 また成帝紀︵巻十︶籍元年︵前場︶の条に︑
夏四月︑以大司馬票騎將軍令大司馬︑罷將軍官︒御史大
夫爲大司空︑封爲列侯︒益大司馬・大司諸経如丞相︒
とあって︑従来官僚組織の中にあっても皇帝に近く秘書官長
的職務を有していた御史大夫が大司空と改名され︑丞相と併
置されている︒さら簑帝紀︵巻一 一︶喜寿二年︵堕︶の条
に︑ 五月︑正三公書分書︒大司馬衛將軍董叢書大司馬︑丞相
孔光爲大司徒︑御史大夫彰宣爲大司空︑封長平侯︒
とあるように︑哀帝元寿二年に至って︑完全に三公官が設置
された︒この三公官の設置は単なる改称に止まらず︑朱博伝
(巻
jに︑暑寒が三公官の設置を求めた時のこととし︽
及成帝時︑何武爲九卿︑建言︒聖者民諸事約︑國之輔佐
必得賢聖︒然猶則天三光︑二三聴官︑各署聖職︒今末俗
型置︑政事煩多︑宰相之材不能三聖︒而丞相濁兼三公之
事︑所以久獲而不治也︒宜建三公官︑定卿大夫之任︑分
悪投政︑以考鶴野︒
とあることに窺われるように︑三公官が官僚組織を総体とし
て領する︑それだけに実体をもちにくい︑いわぽ名誉職的官
職となったことを意味しよう︒これを先にみたことと合わ
せ考えると︑宣帝期ごろから尚書が次第に体制的に﹁外﹂な
る組織として整備され︑官僚組織の実質的機能を管領するよ
うになるにつれて︑逆に丞相・御史大夫といった外朝官が実
一47一
前漢武帝期以降における政治構造の一丁考察
質的権限を喪失し︑官僚組織総体を代表する名誉職的な官へ
転化しつつあったことがいえる︒従って︑前漢末にあっては︑
組織化された権力機構としての官僚組織は︑組織的機関とし
て確立されつつあった尚書を中心として機能するようになっ
たと考えられる︒
さて︑元亨のあとを受けた成帝のときのこととして︑成帝
紀︵巻十︶寛寧元年︵前三三︶の条に︑
以元舅侍中翁面陽平侯王鳳爲大司馬大凶軍︑領尚書事︒
とあって︑成帝は即位にあたり︑外戚王氏を登用し︑領尚書
事としたことがみえている︒この外戚の登用は︑中書宙官及
び元帝の外戚許・史両氏が内朝を半ば独占していた状況の下
で︑成帝が皇帝としての権力を発揮するには︑自己と血縁関
係にある王氏を内面的内朝官として登用する以外に手段がな
かったことを示している︒その結果︑中書置石顕は失脚し︑
外戚許・史両氏も玉壷の側近から遠ざけられることとなった ⑳のである︒
しかしながら︑天帝が王氏を内朝官として登用し︑また領
尚書事として尚書の事を管領せしめたことは︑皇帝の支配権
力の強化という所期の目的から大きく逸脱する結果を惹き起
した︒元后伝︵書影︶に︑
大旱軍︵王︶鳳用事︒上︵H成書︶遂謙譲無所纈︒左右
常薦光緑大夫劉向少子歌通達有半材︒上召見歌︑調讃詩
・賦︑甚説之︒欲以爲中島侍︑召取衣冠︒臨野辺︑左右皆 日︑未豊丸將軍︒上日︑此小事︒何須關無暗軍︒左右叩 面争之︒上之是語鳳︒鳳以爲不可︑乃止︒心見揮如此︒とあって︑成帝が劉歌を内朝官に登用しようとしたのに対し︑左右にあった内定宮が大出軍王鳳の意向を聞かず︑成帝個人の判断で決定すべきではないと諌争し︑また王鳳が不可としたため断念したことを伝えている︒このことは︑皇帝の主体的意志によって行なわれるはずのものである内雲隠の登用というものに附して︑成歯が決定権を有しえなかったことを示 すものであ解また劉洵伝︵蜷三︶に︑ ︵劉︶向自見得信於上︒故常顯訟宗室︑識刺王氏及在位 大臣︒其言多痛切︑獲於至誠︒上敷欲用向爲九卿︒輯不娼 一 爲王氏居者及丞相御史所持︒故終不遷︒とあって︑国政に関する政策決定あるいは人事権に対しても︑成立が王氏らの製肘によって十全なる掌握をなしえなかった状況が窺われる︒ところで︑このような事態が惹き起こされた背景には︑王氏が血縁関係に支えられた内朝官としてのみ存在したのではなく︑先に述べたような王氏が領尚書事として管領していた尚書の変質というものがあったと考えられる︒すなわち︑同じく劉言伝に︑ ︵劉︶向以故九卿召拝爲中郎︑便領護三輔都水︒敷奏封 事︒遷叢書大夫︒是時︵成︶帝馬脚陽平温語鳳爲大將軍 藩政︒椅太后︑善書権︒兄弟七人皆封爲列侯︒時数有大
異︒向以爲外戚貴盛︑鳳兄弟用事之省︒而上方精於詩書︑.
響文︒詔向領校中五経秘書︒腎乃集合上古以來混晶 く 秋急信世智漢符瑞災異之記︑推認行事︑連語禍頑︑著其
占瞼︑比類相從︑各有徳目︑凡十一篇︑斜日洪範五行傳
論︒奏之︒天子心知向忠精︑故爲鳳兄弟起此磁器︒然終
不能奪王氏権︒
とあるように︑王氏が保持していた権力というものは︑皇帝
そのものからある程度自律したものであったのである︒それ
には︑王鳳が大司馬大將軍の官に就いていたということも無
視できないが︑それよりもむしろ︑成帝期に至って制度的に
も確立されつつあった尚書︑換言すれぽ︑権力機構としての
官僚組織の中枢機能を掌握する︑整備された組織的機関とし
ての尚書を︑王鳳が総領していたためであったと考えられる︒
このように︑外戚が領尚書事となるにとによって惹き起 26された専権状態は︑王鳳の死後も続いだ︒哀帝期︑寵臣董賢
が登用され︑領尚繕事となることによって︑外戚による専権
状態は蒔弱まる隠家帝紀︵巻一二︶に︑
元壽二年︵前一︶六月︑哀甲羅︒太皇太后離日︑大司馬
︵董︶賢年少︑不合衆心︒其上印綬︑罷︒賢即日自殺︒
新都聖王 奔爲大司馬︑領尚書事︒
とあるように︑哀帝の死後︑再び王芥︵王室の甥︶が領尚書
事となり︑最終的に聖子予想へと展開していく︒このように
外戚の専権が持続したことは︑前漢末における外戚が︑単な
る皇帝との血縁関係に支えられた内朝官として国政の輔翼機 能に与かったからではなく︑制度的組織化した尚書を領尚書事として総領することによって︑ある程度の自律性をもった国家の支配権力そのものを掌握していたためであったと思われる︒なお︑累累の場合にみられるように︑三公として制度化されていた大司馬が領尚書事となること自体︑領尚書事という機能が皇帝の国政統治に関する輔翼機能といったものではなく︑国家権力のもとでの権力構造となっていたことを示唆するものではなかろうか︒ む す び 本稿では︑内朝についての従来の見解に疑問をもつ立場から︑内朝の意義の再検討と︑内朝の変化に焦点を置いて前漢武帝期以降における政治構造というものを考察したわけであるが︑その結果︑以下のようなことが分った︒︑雪害の萌芽というべきものは前漢武工期に認められるが︑
それは武帝自らがその能力を判定することによって登用され
た有能な官僚が︑侍中・給輪中といった外官を受け︑武帝の
側近にあって顧問応対にあたるという︑いわば皇帝側近官僚
集団的なものであった︒武帝の死後︑このような皇帝側近官
僚集団から出た霊光らによって早朝が形成されたわけである
が︑その場合︑尚書において国政の大本が決定され︑その尚
書を総領した領尚書事を中心とした内包が国政の枢機を掌握
したと︑従来されてきた︒しかしながら︑少なくともこの時
一一@49 一
前漢武帝期以降における政治構造の一考察
前漢武帝期以降における政治構造の一考察
点においては︑尚書は組織化された機関としての実質的権限
はもっておらず︑内朝もそれ自体一つの組織・機構として機
能したのではなく︑皇帝の信任を受けた親近度の強い側近官
としての内義官が︑皇帝の国政統治に関する輔翼機能を果た
すものであったのである︒宣帝は︑士爵を墾更していた震氏
排除のため︑皇帝との親近性の面において︑いわば内朝的内
朝官ともいうべき外戚及び中書宙官を登用した︒特に︑中書肝
要は領尚書事と同様の権限をもち︑かつ皇帝と領尚書事︵及
び尚増田︶との直接的接触を断つ形でその権限を発揮したため︑
領尚書事とそれに管領された尚書は︑次第に皇帝との関係が
疎遠化し︑ ﹁外﹂なる存在へと転化しつつあった︒その結果︑
成帝建始四年︵前二九︶の改革によって︑尚書は尚書令を長
官とした明確な職掌をもった国家の支配組織となったのであ
る︒この尚書の組織的機関化というものは︑尚書それ自体が
ある程度自律性をもった権力機構として︑実質的な権限をも
ったことを意味する︒前漢末︑内向官として登用された外戚
が領尚書事となることによって︑皇帝からある程度自律的な
権力をもちえたことは︑右のような尚書の変化がその要因と
してあったのである︒また外戚王葬による漢朝纂奪も︑組織
的権力機構化した尚書を掌握したところに︑その可能要因の
一つがあったと考えられる︒
ところで︑武帝期にその萌芽がみられる内朝の出現という
ものは︑第二節で補足的にふれたように︑国家権力の確立が 第一義とされるようになった武帝期前後にあっても︑漢朝の支配構造に依然として家産国家的な支配のあり方が残っていたことを示すものであったわけであるQ但し︑それが再び漢朝が家産国家的支配そのものを志向したことを意味するものではないことは︑以上の考察によって明らかとなったであろう︒すなわち︑それは右のような漢朝支配構造の質的変化の過程において︑家産国家的な支配のあり方の遺制として存在していたわけである︒なお︑このような支配構造の質的変化︑つまり国家権力の確立というものは︑後漢において一層進行していくと考えられるが︑そういった流れの申で︑後漢後期 ﹇における宙官の存在を把︑漏るべきであろう︒この点について 50は︑稿を改めて考察する︒ 一 註ω 西嶋定生氏﹁武帝の死i﹃塩鉄論﹄の政治史的背景1﹂ ︵﹃古代史講座﹄十一︑学生社︑一九六五︶︑増渕龍夫氏 ﹁漢代における国家秩序の構造と官僚﹂ ︵﹃中国古代の国 家と社会﹄弘文堂︑一九六〇︶︑螢幹氏﹁論漢代的内朝與 外朝﹂ ︵中央研究上語言研究所集刊十三︑一九四八︶等参照︒② ﹁漢代の選挙と官僚階級﹂ ︵東方学報京都四一︑ ﹁九七 〇︶参照︒なお︑ここで賢良方正科を特に取り上げるのは︑ 博士弟子員の科︵前一二四設置︶が京師の太学で官吏を養
成することを目的とし︑また孝廉科︵前一三四設置︶は孝
廉なる者の地方長官による推挙に重点が置かれ︑両者が毎
年一定数の官僚群を持続的に生み出すという官僚組織の制
度的基盤としての性格をもっていたのに対し︑賢良方正科
は︑国家の大事に際して臨時的に行なわれるもので︑・その
登用法も皇帝が直接政治の得失などを下問し︑その官僚と
しての能力を判定するものであったため︑皇帝のいわばブ
レイン的な官僚が登用されることとなったと考えられるか
らである︒
③百官公卿表︵巻一九上︶郎中令の条に︑
大夫掌論議︒有太中大夫・中大夫・諌大夫︑皆無員︑
多至急十人︒武帝元狩五年︵前一一八︶掃討諌大夫︑
秩比八百石︒太初元年︵前一〇四︶更名中大夫爲光緑
大夫︑秩比二千石︑太中大夫秩比千石如故︒
とある︒
ω 前掲註ω螢幹氏論考参照︒
⑤ 井上雅裕氏﹁前漢中期における国家構造−皇帝と内宮と
の関係について一﹂ ︵仏教大学大学院研究紀要五︑ 一九七
七︶によると︑侍中・給事中といった加官は︑禁中におい
て天子の左右に侍従する︑侍中・中下侍・給下中といった
類のものと︑濃緑劾及びその属官などの︑本官として禁中
と深くかかわりあいをもつものに加えられ︑また右の侍中・
給事中に重ねて加えられる︑左右曹・諸吏・散騎の類のも
のとの二種類に分けられている︒
前漢武帝期以降における政治構造の一考察
(6>
て は
N N t−r霧伝︵巻五二︶に︑田鼠丞相であった時のこととし 田面は野畑の母方のおじにあたるが︑彼の権勢について む
當是時︑丞相︵田紛︶直奏事︑
心急起唇面二千石︒権移主上︒
吾亦血書吏︒
とあることに窺われよう︒ 語語日︑直言皆聴︒薦上乃日︑君汚吏蓋置︒
ω厳助伝︵巻六四上︶参照︒
⑧ 漢代における集議については︑永田英正氏﹁豊代の集議
について﹂ ︵東方学報京都四三︑ 一九七二︶参照︒
㈲ この状況については︑前掲註ω西嶋氏の論考において︑
政治史的な考察がなされている︒ 一
⑩越智重明氏﹁漢時代の詔書の発布をめぐって﹂︵未発表︶耐
参照︒なお︑氏は領尚書事の一般的な権限として︑天子が
大政を定める議に与かることができたことを指摘されてい
る︒ω 前掲註罰西嶋氏論考︒
働 越智氏﹁漢六朝史の理解をめぐって﹂ ︵九州大学東洋史
論集五︑一九七七︶参照︒
㈹ 大庭脩氏﹁漢王朝の支配機構﹂ ︵岩波講座﹃世界歴史﹄
四︑一九七〇︶参照︒
⑳ 但し︑本来御史大夫は天子の側近にあって公卿奏事を受
け︑それを天子に申し上げるという職任をもっており︑官
前漢武帝期以降における政治構造の一考察
僚組織にあっても皇帝との親近性の強かった官職である︒
なお︑越智氏は右のような御史大夫の二二は尚書が代わっ
てそれを行うようになるまでの期間であったとされる︒前
掲註⑩越智氏論考参照︒
⑮魏相伝︵巻七四︶参照︒
個幕紀︵蜷︶地節四年︵前六六︶の条に︑
秋七月︑大司馬窪禺謀反︒
とある︒
qη@この外戚と軍事権との関係については︑大庭算氏︐﹁前漢
の將軍﹂ ︵東洋史研究二六−四︑一九六八︶参照︒
⑯丙吉伝︵巻七四︶に
及華氏謙︑上︵1一宣言︶躬親政︑省尚書事︒
とある︒右の﹁省﹂について︑鎌田重雄氏は﹁省︵み︶る﹂
すなわち︑尚書奏薦を宣帝が直接掌握したものであるとさ
れているQ ﹁漢代の尚書官1領尚書事と録尚書事とを中心
として一﹂ ︵東洋史研究二六1四︑ 一九六八︶参照︒
働 この張安世伝の意義については︑越智氏もふれられてい
るQ前掲註㈹越智氏論考参照Q
⑳元霜︵巻九︶初元二年︵前四七︶の条に︑
十二月︑中書令弘恭・石垣面隠︵薫︶望之︑令自殺︒
とある︒
⑳ 領尚書事は一般的な権限として︑天子が大政を定める議
に与かっていたわけである︵前掲註⑩越智氏論考参照︶︒中書 町鳶が領尚書事と同様な職任をもっており︑かつ皇帝の側 近にあったことから︑中書宙官は右の領尚書事の一般的権 限をそれに代わって有していたと考えられる︒⑳ 前掲註⑯鎌田氏論考参照︒⑳ 前掲註㈹越智氏論考参照︒⑳石顕伝︵巻九三︶に︑ 元帝崩︑成帝初即位︒遷︵石︶顯爲長信中太僕︒秩中 二千石︒顯失筒︑離権数月︒丞相御史條奏顯罪悪︑及 其窯牢梁・陳順々免官︒顯與妻子徒蹄故郡︒憂満不食︑ 道病死・
とある︒また外戚伝︵巻九七下︶に︑
及成帝即位︑耳許潮入皇后︑復生一女︑失墜︒初后父 ︵許︶嘉︵藷の︶自元帝時爲奇馬藷將軍輔興
已八九年尖︒及成強電︑復以元舅陽平薬王鳳事大司馬大 將軍︑與玉壷︒琳久之︑上輿專委任鳳︑乃策嘉日︑將 く 軍八重身尊︑不宜以吏職翌翌︒賜黄金二百斤︑以特進
侯就朝位︒後歳絵亮︒
とあって︑元三の外戚が成帝の即位によって次第に遠ざけ
られた状況が窺われる︒
⑳ 宣二期︑震氏排除のため宣帝が御史大夫魏相を内朝官に
登用した際に︑領尚書事であった霧山がそのような女帝の
行動を何ら制禦できなかったことを念頭に置いて考えると︑
同じく領尚書事であっても︑王鳳のそれが︑ある程度自律性
一52一
をもった実質的権力を伴うものであったことが窺われる︒
㈱外戚伝︵捲九︶及び元后伝︵捲九︶によると︑王鳳の死
後︑王音・王商・王根・王葬が相継いで領尚書事となって
いる︒また哀帝期には︑哀帝の外戚傅喜及び丁明がやはり
領尚書事となっている︒
⑳暮伝︵巻九三︶に︑ ︶
︵哀帝︶遂以︵董︶賢代︵丁︶明爲大司馬衛三軍︒蟹 く 時賢年二十二︒難爲三公︑常給事中︑領尚書︑百官因
賢奏事︒以父恭不宜在卿位︑徒爲光緑大夫︑秩中二千
石︒弟寛信代賢爲鮒馬都尉︒董氏親囑皆侍中諸曹奉朝
請馨丁慮露の︶之嚢︒
とある︒
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前漢武帝期以降における政治構造の一考察
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