九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
A Formation of the Theory of the Actual Existence of Synderesis
岡田, 武 彥
https://doi.org/10.15017/2543805
出版情報:哲學年報. 15, pp.165-199, 1954-02-25. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:
権利関係:
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人凌に現存する良知が完全であること︑即ち良知が現成的であると云ふととについては王陽明も之に言及せぬこと
〆はなかったが︑王門の二王︑即ち王流溪と王心齋に至って現成の良知が學の宗旨とされて︑とlに始めて良知現成論
の成立遊見るに至ったのである︒抑︲心齋は機鋒に鋭く龍溪は明悟に秀れた學者であったので︑同じく良知の現成を
信じたけれども其の間には多少の異同があり︑且其の流派の動向も亦夫変特色がないでもなかったが︑何れにしても
其の末流に至って甚だしく弊韓な生じた︒舵溪は各地に講學して︵水西・汕都・白鹿・南都・識陽・宛陵などで愈群を総し︑
江南の地を迦雁した︶良知説の布術に務めたのでその學は各地に流行したが︑た管其の門派には力量に於て彼に及ぶも
のが出す︑且つ江右の那東廓・廓欧陽南野・何善山・陳明水や︵以上正統派︶同じく識盤江・雑念椎・劉雨峠や︑上
蹄寂派︶湘中の銭緒山︵正統派︶等と互に規正切瑳したので︑其の流弊も甚だしきには至らなかったやらであるが︑心
齋の亜流暴州一派︶には雑近溪・川海門のやらな有力者が出た上に︑赤手能く龍蛇を蝉つや一うな氣什のあるものが誰
出したので︑その一派は大いに隆碓となったが︑流体も亦至大なるものがあった︒尤も中には林東城・徐波調・王一
稚・耽天台・何克齋等のやらに論旨平蜜なもの︑胡今山・方本稚等のやらに現成論の行過ぎに批判的であったものも
哀知現成論の成立ニハ五
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良
I王寵溪の學的精祁I 知 現成論の成立
1
岡田武彦
名
瓦知現成諭の成立一六六
出るには出たが︑顔山農・何心臓・帆無功等のや一つに菰什髄奪蕊もの︑符東浜・趙大洲・焦溶園・陶石樋等のやらに
容獅的なもの人思潮がその主流逓成してゐたので勢洲狂に陥ることAなった︒其の間李卓吾のやらに︑身は衣綱逓魎
ひながら泰州一派の蔀什遼重んじ︑髄溪に亦鯆く私淑して儒佛海然たる現成論遊張大揚言して大いに世の綱紀註素し
たものも出たので︑明末の批敬は現成派の末流によつ宅進だしく破壊された︒︑
龍溪・心齋は韮或は舌に長じ︑直下に人遊了僻させる妙手荘有し一﹂ゐたが.︑心齋は原來践履の人であったので︵縦
近溪は陽明の學は多く兇惜撫︑︑鵠は賎脱に得たと幸至fl近撰子集・逆用功も簡易直彼︑随って論拝も亦精微に妖け
る所があった︒然るに龍溪は王門中波も英發中絶した學者で︑陽明の膝下で久しく識學し︑且つ前述の如く王門の諸
儒とよく切瑳琢磨したので其の透髄深宏︑到底心齋の及ぶ所では蔵かつた︒随って本論文も瀧溪の學滋中心として論
述註進めるが︑これは亦碇溪の畢的精祁の解明ともなるであらう︒
朱子晩年定論な箸はした當時︑陽明は一批聚瓜脈してゐた米子學に對して敢然と抗し難く︑自説は朱子の晩年悔後
の説と同じであると云って米子學派の攻撃の鋒先から逃れようとする詩境にあったやらであるが︑其の後想熟し學成
って致良知読を天下に掲げてからは︵陽明雑鑿久知繩を咄へたのは五十才の時である﹃此の宗旨のみが眞に大學の經仙の理
想を蜜現し得るものであると信じ︵詳細は王丈成公群全七・親民飛記︑同八・群朱禰倦︑回エハ・大學間を参照されたし︶それ
によって異學︵佛老の學や俗學叉は朱子診に陥溺して狂乱に陥れる仙人左催救しよ−勺との至情に燃ゑ諺それに對する
批の論難は些かも之を顧胆せざるところに戎で至り得たのであった︒︵叫智録中・馨瓶束橘響︑同・答群丈蔚︶故に陽明も
既に良知の現成誼信ず為よ−勺になってゐたのではなからうかと豫想するのは併然であるかも知れね︒蓋し陽明の良知
に開する所説は致良知説を掲げる以前よりあったのではあるけれども︑たrそれ遂學の大本︑聖門の正法眼藏となす
●
L
,
111侭
1
幻
に至ったのは辰豪忠泰の鍵によって彼の鵬察が深禰精微になってからのことである︒︵全書五蜘癌仕哨年淵︶此の頃
賜明は﹁人の胸中各簡の聖人あり︒たで自ら信じ及ばす﹂庫雷鋒ド︶とか墨口眞に良知は人糞の同じくする所なる
矛見得︒たご學者未だ啓僻する逆得ざるが故のみ﹂皐譜︶とか云ふや一つに間良知の現成を論する言辮遊述べてゐる︒
師弟の間で﹁滿街の人皆聖人﹂と云ふやろな語が交されたのも何智燥下︶良知の現成滋信すぁ傾向があったからであ
るo︵此の一︑Mは特に泰州一派淀流布して現成挽の標諦のやうにたったが︑彼俸は陽明が之を口にした臆迩か災って拙脈に雌ちた︶
陽明の致良知説に於て低良知が本艘であって工夫は此の木鵠を致す所にあるのであるから︑本髄と工夫とは一髄に
なる︒これは陸子から流れ來つた綜合全一思想の發展の結果と考ふべきであら−勺︒︵現成諭は喪は此の陽肌の本髄工夫論を もう一層徹底的に即一化するところから生れ出たものである︶
陽明の思想も晩年になる一﹄つれて綜合化が許しくなってゐる.例へば知行論について夢ても初期では﹁知はこれ行の主迩︑蒜はこ
れ知の功夫︑知はこれ行の始︑行はこれ知の戒L︵似習録上︶と云ふやう一↑知行の間︑何目的と手段︑始と終とを唾別する傾向があ
ったが︑後一睡嘩てれが沸拭せられ﹁知の興切篤寵の鹿即ちこれ行︑行の肌孔粘察の鹿即ちこれ知﹂︵同中・榛顧火桶番︶と云ふやぅ
に知行の即一性が徹底化してゐる︒又格物・致知・減斌・正心を諭子るに術っても︑心を物の︾心︑物凌心の物として全く心と物の
即一を徹底した識がなされた︒/
賜明が本髄と工夫の一鵠丞論じて以來斯論は學者の間に流行し︑王學派のみならず王學批判派菟林派や竹泉睡や
王學修正派︵劉念台︶に於てもそれが重要な課題となった︒斯論の源は朱陸まで遡及し得る︒朱子は﹁陸子には工夫な
し﹂と云ふ吾が門生の論難に對しては︑過評として之逓戒めたが︑彼自身己に陸子は胸中より班出するものを天理と
して工夫キーボけい需邦三唱と云ひ︑睦子が自然の木髄詫宗として工夫を岬脱する黙があるとと滋指摘して工夫の
一娃知現成諭・の成立ニハ七
I
〆
込
■
瓦知現成諭の成立.ニハ八
重些性を虹調した︒これは臨終に際しても﹁弧らく堅苦なると要す﹂と云った米子の立場からすれば理の常然かも知
れぬ︒幣物窮理︵知縦的な工犬︶と居敬︵変距的な工夫︶の並進に學の本旨花求めた米子學からすれば︑陸子の心即理読
には動もすれば単純低俗な心の自然が尊ばれ︑工夫瀝加へることは却って心の生命淀枯渇させるものとして工夫を輕
脱するの弊を生ぜぬとも限らぬ︒
瓦居敬は変践的工夫であり随って亦絲合的工火であるが︑収打的な心の工夫子一あるから︑決して卑俗な︑然性庭任ずる方に流れる胆
︑はない︒たご心身に緊張を加へるものであるから︑却って本綴の向然性た殴批するやうに老へられる傾向がないでもなかったの
季︑︑朱子畢に反對するものL中には﹁敬の字の打破﹂と云ふことを咄へるものがあった︒此の繩も新朱子學脈が微を以て本催工火
としてからは批判を受けるやうになった︒
陽明の良知は心即理の本髄であり︑それ自身法則であるところの逝徳的感知であり︑随ってそれは亦自ら心の源泉
性命とも云ふくきものであった︒致良知とはか上る良知を致すの工夫であるから︑心部理説に件ふ上記の欠黙は救出
されることになる︒全く致良知は本髄の自然に從ひながら︑亦自らより高い次元に復蹄して行く向上の一機であ為か
ら︑自然逓宗とする立場は資は工夫を純硯することではなく︑本髄自身が工夫左求めながら亦それを超えて進展する
道である︒︒換言すればそれは工夫をして本髄Q働きとなすものである︒故にそこでは本髄と工夫は相湊泊するもので
はなく原來一つであり︑本艘即工夫︑工夫印本髄である︒賜明はこのこと左中府の戒恢恐朏と不樅不聞の説に賛って一
次のや一弘に述べた︒﹁本髄はもとこれ観ず間かざるもの︑亦もと戒恢恐州するもの︑戒恢恐州はかつて脱す叩かざる
の上に在りて些十遊加へ得ず︑たr見得ること腫なる時は便も戒恢恐朏はこれ本髄︑棚す間かざるはこれ功夫と謂ふ
も亦得﹂︵偲智鋒下︶と︒
サマタ雛近溌は陽明の此の説について︑本慨の外に工夫があれば心を聯げるた免れない︒工夫の外に本髄があれば本髄は女蜥か︾免れた
︑
〜
ノ
、 〆
い当一みふ趣味のことを兆・へたが︵鰻・庭訓下︶これは陽明の本船工夫満の粘祁を適切に示したものであらう︒但し陽明の此の批仕
・亦敬を以て本髄工求とする総帥にも︾辿ずるところがあるので主學批判派にも取り入れられた︒
賜明は亦﹁能く戒愼恐隈するものとれ良知なり﹂︵傅脅錐中・磐睦原靜響︶と云って之記最も簡明に述べた︒佐藤一齋は︑
.の能の字を加ふ︑便ち工夫本悩合一髄見る﹂癒習鎌棚外悲と云ったが蓋し亦邇評であらら︒要するにこれらは
工夫の宗主が本艦であること滋述べて本髄工夫の一鵠を論じたものである︒嵐に本俄工夫の一萢為ところ孟自得すれ
ば︑本船と思ふものも本磯でなくなり︑工夫と思ふものも工夫でなくなり︵すべてが斗漣︐べてが工夫︑或は本綴もなく
工夫もないとも季卓うにもなるであらう︶随って本総が蛮は工夫であったり︑工夫が蜜は本髄であったりする︒そこで
陽明は本髄上に工夫左説き︑工夫上に本髄を説いて︑本髄工夫がた営一にして有とも無とも規定I得ない︑それを超・
えた絶對的存在であることを述べ﹁有心供にこれ蛮︑無心供にこれ幻︑︑無心供にこれ蛮霜有心供にこれ幻﹂薄脅録下︶
と云った︒このやらに賜明は有滋無にかへ砿瑳有にかへて本髄工夫が絶對的一としての存在であることと不したが︑
傅智鉾︵下︶の記す所によれば此の説の主旨は銭緒山の如き高弟さへも之左理解するには猫数年を要し︑碇溪の瓢僻
にして始めて即座に了悟し得られたと云ふことである︒︵右の陽明の娩については停智錐下・王能溪全壊﹁沌淫先生博誉一○・
緒山先乍行舩﹂︑李氏捜識群﹁諏學潴臣巻二○・郎中罪公伴﹂に王龍溪の僻罧が掲げられて居り︑來林の砿逝成・減忠遜﹁噸端女公世
稗・來林洲紙上﹂や佐藤一術︑紫ポ裁・火正唯﹁仰智錐識恭﹂などが夫を僻溌をしてゐる︒これ汚吟よっても此の識が如何に粘微で難
解であったかご推測川来よう︒︶故にこれは直下の悟入によって本職工夫遊一齊に透了する方法にょら砲ぱ自得し難いや
一のに思はれる︒然L陽明は放つ﹄之誼學の宗︺Mであるとは1なかったやらである︒それは賜明が致良知説滋な1七以
來良知の上に教の字のあること滋折柚し一﹂︑工夫滋邨脱して疫易に良知の本髄遊説くもの牝戒めたことを知如ぱ自ら
一蛙知現成論の成立ニハ九
Ⅱ0口08町・lPB■■
〆
瓦知哩成獅の成立一七○
理解されよ−勺︒︵全書五・興味原靜壽同六・與陳惟僻︑何八・#朱守乾岱︑同一韮︸・與珈惟野群︶
.尤も王心齋や王一椎のやう一時陽明の琳回川伐圦知か栓くにあ2L致及知か硯くので哩赴代.︒晩年は︽た奨艮知を識じて致一且知を云腫G一なかったと述遡へたり︑或は陽明が致誇云はねばならなかったの陸呉知を空虚なものとして超脱為易怖としたり︑知厩を直流して凡
怖を性とし︑そのために皆子稗氏の弊一﹄陥るものが出たからで︑本來は氏知のみか一説いたのであると迦雪へたものもある︒︵明儒學
案・泰州學寒︐王一篭語録︶栄子學蒋羅盤花などは陽明が致彪猟鮎した︾一と一﹄は剛なせず︑そ.私彪たご任や依黒醤炉解し︑その結
果致艮知は心の感碓の自然に任じて工夫を無脱するものであるとし︑結局致瓦知は明心兄牝の佛學と同じであるとなし︵正敵強全
巻・羅整稚築一・然介恕弟︶︑それについて王門の献陽南野と諭學した︒陽明の基知については︑知を主としたものであると葬る
咄のもあれば︑行を︑狼としたものであると十・るものもあり︑致も亦梧お中心として老へられたり︑久行を中心として老へられたり
したこともあったが︑二一れは兎J︑角として王門の正統派や蹄寂派などは致溌只知のtに撒かれたことを並脱し︑朱子學の系統に脇
する束林の砿惣成も致が黙出さ︐私た意雑か樋めた︒龍溪は心齋など$ゞ異って致不致一に蠣賎の別を老へたから︑致の必要た純くが︑
然しそれば喪は直慨一吟本︒つくものであった︒そのためにその亜流になると一氏知を挽いて汝を云はず.本綴を競いて修浄云はず︑工
夫や催か加へば本髄の自然が駿批されるとなし︑途に工夫を無祀して拙張に胴るやうになったのである︒
陽明の云ふ致は︑大磯良知を事物上に椎行してその盟逓充養致極するのが共の根本義のやらであるo冤凹一涙はこの致
の解粍の祁腱︾トよって分化したものと云へるであらう︒︶随って致知は格物逓通じて完成されると考へてもよい︒陽明が致
良知壮説くに鱗って格物の要遊述べた所以は此虚にあった︒
尤も致頁知では工尺は本髄の工夫でなければならぬのであるから︑致も結局は瓦知の棚きと見微される︒そこ雪且知の本慨が術一卜
事物に作用しながら自ら向上して行くのが致挫知であるとも云へ・よう︒随って垂且知は所州頭脳のある學であった︒此の立場から
ゞして膿明は誰友湛腓呆の﹁随鹿に天理を髄認する﹂の説も︑﹁致瓦知挽と比岐すれば︑尚奄旅千里の差があり︑根本と技葉との別
がある﹂と云ったのである︒︵全番五・與方叔畏︑同六・符梛謙之一︑同六・與毛蒋庵窓副︶和期に於ては砺者相契するところが ■■■■■凪■■■■
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あったが︑晩年陽明は致其知紘を咄へるやうにたってからは︑Ⅲ泉の雅は蝋暇がないから未︾た至らぬものとした︒頭脳がたいと一罫
︑︑℃︑︑ゞ評のは工火一卜本催︵家主︶がない︑即ち↓くれば本髄の工夫となってゐないからそこ一卜は根本生命がないと・︽・基のである︒↓そこで陽
明は工夫が弧噛を持たねばならぬことを顕調する︒欧陽崇一に答へる群にも﹁大頭職を見よ﹂︵惇習録中︶と云卦︒陽明が如何に學
.勉に頭脳を亜んじたかは彼が孟子の築誰を挽く一媒川今て︒︑築毅は致氏知によって得られるのであって︑喋義によって致一珪知が領らォ
・るのではないとし︑同じく必有率描と勿忘勿助曇の關係を説くに術って︑必打率駕が主苓↑あって勿忘句助展は唯その工夫の冊に於
ける提撫︵挺郁︶に過ぎぬとしたことによっても肌かであらう︒︵伴智録中・器溌丈鮮三弧臓の學は︑陽明が朱子畢一辛對する︑唯
も亦力な武器の一つであったのである︒王門の中でも現成派と蹄寂派はよく陽肌・の頭聡を挽く新祁彩見ようとする︒飾寂説が陽川
の根本の培湫礎から川たものであることや︑龍溌が一念狐知のところを以て微に入る乖犬とし︑﹁致州には巧法なし︑たご一念微︑︑︑︑︑︑
種入る鹿に毛つ誓喋暇を計ぬ︵ほんとのものとか︑のものとを検討する︶︒一念洲感︑一念刺唯︾︑極ちこれ型に入るの機︑孟子の 夕式
所細集義はこれ時々︑ど﹄雛する︵猟足する︶た求むるなり﹂︵全集九・與陶念齋︶と・云ひ︑惚咲・漉泊・椛稚は夫狩知僻に園し︑
格枩に落ち︑氣蝿に亙り︑結局﹁栽襲ふ﹂の粟門︵枇弊︶一﹄陥るとして之を退けて本髄部工夫を弧調したのも︑要は陽明の此の細
訓をよく理解してゐたからである︒沌溌が必右事鴻と勿忘勿助丑の關係を挽く禧術って︑前キィを養って後圭弛を退けたのは陽明の頭
脳の梁を一歩錐めたものと↑瓦へよう︒亦古人の致曲︵曲覗をきわめる︶は一根の生獄よりして技莱に逹した︒然る艀仙川の曲瀧は
.︵細い職縦作法︶は枝葉上渥打黙川雌︵せんさく︶するものである︵全築岡・東倣紀︶とする龍溌の仙職論は︑陽明の祇本.培養のこめ︷&〃
釉測を秘しての説であることは論を待たぬ昇あらう︒
や■賜明は致知は行の上に於てなさるべきである﹂とし︵全蒋延・與朧原箪一︶丑口が格物は朱子の九條の説髄包羅統括す﹂
といって廊詞録巾・特魎来糯遭躯物の武地に即する総験逓力説して︑亦工夫なき本雛のあり得ないことも述べた︒
る故に陽明は良知のか一琶門を猫げてからも﹁共の此の良知説に於ける︑百死千難中より得來乃︒巳む注得ず人のために
一口に説き識くす︒たご學者之を得ること奔易にして︑把って一種の光叫雅緬念︶となして珈弄し︑鷺落︵憧地︶に
瓦知現成諭の成立一七一
・〆
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賜明の致良知の工夫が結局格に求められるのも︑蓋しそれが本髄の自然遊宗とすべきものである以上街然でなけれ
ばならぬが︑陽明は敢へてそれ淀一般の人には棚めなかった︒それと云ふのもこれは陽明が經歴した十数年の工苦を くしん
一畢に途行し得る底の天賛英遇のものにのみ許さるべきで︑さもなければ結局光紫注非し虚寂に陥る危険が件ふ恐れ
があると老へたからであらら︒その結果賜明は本髄工夫一髄逓論するに勝って︑本髄を主とするのと工夫左主とする
のと︑即ち究極の立場と現蛮の立場との剛可調停の態度滋保持し︑漸教も頓教も其の成功に至っては一であるとした
が︑其の意岡は現蛮の立場であ為漸教の要滋説い一﹂その功の大なる所以迩述べよらとするところにあったやらであ ●
る︒征し陽明が究枕の立場を否定したのではないことは鴬催しておかねばならぬ︶﹁善もなく悪もなきはこれ心の髄︑善あり
悪あるはこれ意の動︑善を知り悪滋知るはこれ良知︑善左なし悪を去るはこれ稚物﹂穗習録下︶と云ふ賜明の四句宗
旨が明白に此の邊の治息を示してゐるであらら︒
瓦知現成諭の成立一七二
功を用ひずし一﹂此の知に負く遊恐るLのみ﹂犀譜︶と云ひ︑又﹁吾が蹴又価悟はなはだ易く︑服見を認めて虹得とな
ウチし︑復た喪に向って己れに蒲く︵心中に︑得する︶の功夫なきを兇ゆ︒故に吾が熱の穎糯にして永くること速かなるも
のは往凌成るなし︒雀だ遊しむくし﹂へ同︶と一云って格を以て直ちに良知の髄溌承辮抑寄避しようとす涌態度遂戒め
る︒詑溪は︑陽明が﹁至善は心の鴨﹂と云はすに﹁善もなく悪もたきはこれ心の礎﹂と云った理由として︑術時學者が 四句永汗の第一句は郁火廓の蒲原賄鰹︵丈渠﹂一︶では﹁至稗にし一﹂悪なきは心﹂
■一︶程鮓氾されてゐるのと多少典2﹂﹃?・た陰﹄後世畢料の間で祁々術議された︒
ないので省略する︒ となってゐて︑停習録や魂溪の天泉織逝紀︵全集こ上ではそれについて論ずることは直接必要でも
怖遊認めて性として︑・小皿子が性善説左唱へた精祁な縦解したので以上のや一勾な説花掲げて學者が意見に執蒲する弊害
滋打破しよ一りとしたのであるとなし︑︵全雄三・糯呉子側︶意見燗識逓一畢に姉識して直下に艮知の無僻に悟入するの
が陽明の究極であるとした︒そこで陽明の四柵宗旨左以て﹁未だ究党の話頭ならず﹂と云ひ︑陽明の四個一示旨の糖祁
滋そのまL繼承した緒山の四有諭遊非として四無論迩唱へた︒即ち若し心の本髄が無韮昼葱であると云へぱ意も知も
物も無韮雄葱のものでなければならぬ︒さらでなく意に善悪があるとすれば心艘にも逢って善悪があることになると
云ふ︒︵偲智錐下︶天泉證道紀には呈再もなく悪もなきの本髄遂悟り得ば︑便ち無なる虚より根基を立て︑意と知物と
皆無より生じ一了百當︑本総即ちこれ工夫なり︒易禰直赦︑更に剰友なし﹂と云ふ︒即ち四無論の主旨は本髄の無的
立場に終始して本艘工夫一齊に透了しよ−勺とするに在る︒これに對し一﹂緒山は心磯はこれ天命の性で原來鉦善無悪の
ものであるが︑人には習心があるので意念には善悪がある︒致知・格物・正心・修身の工夫遊つくすのは貧は性磯に
復する工夫である︒若し意にも知にも物にも善悪がないならば工夫も亦説くに及ばぬ︵仰調銭下︶とした︒之を壮に四
有論と云ふ︒これは即ち有上に工夫.を用ひて本髄の無に復肺すべきであるC・と牡述べたものである︒睦子から陽明に
流れ來つた綜合全一思想の發展や陽明自身の思想の方向からすれば︑龍溪の四無論は賜明の秘菰丞よく發抑し得たも
のであるが︑︵全墓一○・︑緒山鍵湫行肱︶陽明の致良知説が千死闘薪の難關逓經一﹂到逹したものである鮎に恩ひ及べば︑
綴山の四有論も賜明の主旨淀失はねものであら−勺︒
こ︑でも一つ一度龍溪が緒山の四有論を排し一﹂四無論を税くに至った則末荘考察して︑龍溪が賜明の綜合全一思想滋
一崎徹底させねばならなかった趣斤滋明かにしてみよう︒髄溪は大泉謙逝紀の中で緒山の説滋批評して次のや弓な意
味のこと遂述べてゐる︒即ち意知物に善悪があ為として有上に無遊證し工夫上に本慨逓求めんとすれば︑自ら有に荒
瓦知現成論の成立一七三
−テ
瓦知現成諭の成立一七四. −■
すると免れずして心は無となり得ぬから心髄の絶對に逹しがたい︒有は即ち無︑工夫は即ち本鶴でなければならぬ︒即ち無善無悪の心髄逓悟って無の虚より根基花立一﹂︑意知物皆一郷に無より生するや一勺にしなければならぬのである︒
カグさすれば心は無心の心となって糖に蔵れ︑意は無意の意となつ一﹂雌すること凹に︑知は無知の知となって葉の艘寂に︑
物は無物の物となって其の用紳となる︒こ上に有即無︑即ち有無即一の虞機があるのであると云ふ︒腫機とは彼の所
謂先天無爲の用寵瀧先生哩或は自然の脚唯︵全集一・撫州擬蜆︽器紬︶とも云ふくきものであらう︒原來賜明が致良
知説詮唱へたのは有と無︑心と物との輝一なる性命駐學の根本頭脳とし一L朱子學の支離秋架の弊花救ふがためであっ
たが︑右の龍溌の所論よりして︑彼が陽明の此の意剛に特に敏感であって︑そのために賜明の立場遊一屑進めて全く
即一・に徹しょらとするに至ったことが明かになるであらう︒︵この貼毛ぱ呪成派も蹄寂派と同じであるかも知れぬが︑たご即
一を求める場が狸くってゐた男﹄方向がむしろ正反對になった§︒︶そこで龍溪は蝋等︑︵順序を聯まず級を塵えて進む︶の病は兎も
角として︑稜果によらすして一躯に成就する逝丞求め︑而もかくすることが陽明の主旨に通ふと老へた︒
さき一ト繋げた龍溪と雑山の論戦は天泉桶上で行はれたが︑共の際陽明は弛溪の脈扮を上根に接する時の戦法︑緒山の脈詫を中根に
接する時の激法とし︑而も龍溪の法を一般に用ふれば虚寂を益ふに過ぎず︑戦悌の病を堵すと云って一睡龍渓一昨封して規戒を垂れ
た︒︵尤も陽明は龍溪は北︑が秘裁な肌らかにしたとは云ってゐる・叉規戒の鐇を與へるに止らず艇批の諾を処︒へたやうに記してあ
るものもあり︑傳智録・背原贈鹿・天来識迩紀弄一はその遥の紀鎌に多少の差拠がある︶
陸象山に﹁浦流稜んで漁浜の水に至り︑拳石崇って泰華の学と成る﹂と一云ふ詩句がある︒龍溪の云ふ所に依れば︑
賜明はこれはた曹象山自身の見解と不したに過ぎぬとし︑﹁須く知るべし︒浦流即ちこれ漁海︑奉布即ちこれ泰山なる
ことを︒これはこれ蚊上の一機︒所謂翼なくし一﹂飛び︑・足なくして至り︑秋架に由らすし一﹄成るものなり︒深く無極
I
の旨を悟るにあらざれぱ未だ以て之を語るに足らず﹂と述べたと云ふことである︒︵全集一・挺州推蜆︽n宙蔽︶
これに依れば陽明の學は楓悟を旨としたことになるが︑このやうなことを陽明が挽いたとすれば︑それは相手が英發な施溪昇ある
からであらう︒亦これに依って陽明が利根の人一卜接する時の孜法は如何なるものであったか軍推測せられる︒かふる材料は博習錐
・や陽肌の全書には見難い︒
龍撰の學は陽明の究桃が出發の足場となってゐた︒﹃てのために彼には陽明が思へた蝋竿の病を共の亜流に生ぜしめた罪はあるが︑
亦一方では師の腿傅を發明するの功があり︑共の鮎は陽明も認めてゐるから︑髄瀧は帥に對しては功罪粗半するものであった︒陽I龍警關係は一見縫禦山とその難子螺揃と關睡伽てゐ;︑屈織成胤擬を鰯明の慈棚と言張l小舟劉記
画lを無窪雷鳶だけからす陛樋撰歯明慈澗と一ぢても態塔鈴らう︶然し龍撰胤泉葱ぞ一を読含無を龍
て師の本旨を失った椴慈湖とは一律に満じがたい︒
右のやらにして結局龍溪は良知の絶對無に一蹄直入しょ一句とした︒即ち良知の無︵虚とも寂とも云と遂以一一﹂本鵠工
夫としてそれに経始する︒彼が學の婆遊説いては﹁無中有を生するの二言之詫識す﹂︵全集五・天糀曲房倉適とか﹁揮
沌中より根遂立つ﹂︵全集四・束群命浬とか云ひ︑或は連りに虚︒無・室・忘滋説き犀には老推佛の語さへ假僻して之
を説明する︶又自然を工夫としたり︑或は先天正心の學遊掲げるに至ったのも︑要するに此の絶對無に維始しょ一勺とし
たからに外ならぬ︒龍溪は良知が知にし一﹂無知なる存在であるに拘らず︑世儒が唯其の知たる左知って無知が其の本
総たる注知らぬために︑典要思爲に泥んで艘注不味にし﹁唯以て鍵に邇ひ寂以て感に通じ﹂得ぬを慨嘆した︒︵全集
八・易典天地準一承大旨︶彼は虚無でなければ微に入って徳業を成就し得ぬ︒暇無にして始めて徳業經枇が絶對なる自
然の力によって自ら成し遂げられるとし周k︑全嬰一・白鹿洞額燕鐺︶良知の本鵠は順であるから繭愛其の中に具備す
へだてる︒故に服左致せば物欲の間なくして繭物に流用する︒︵全聾一・宛陵會巡それ故に致知の學は脈逓本にするが︑未一
英知現成諭の成立一七五
I
夕
︑典知塊成諭の成立一七六
だかつて倫理感應遊離れぬのであり︑その鍵動肘流の樅が服であると云ふ︒︵全築一・︾誹物晤遡そこで彼は致良知花|
以て致脆とし︑随って法則によって繭鍵に虚すあとと致良知とするのは艮知の僻を汚すものであるとした︒︵釜築二・
宛陵會語︶龍溪なれぱか上る脈無の學は無に沈み室に落ちるものではなく︑むしろそれは眞に有滋して有たらしめる
ものである︒龍溪はそれ記目が空なるが故によく色を鑑するに群へた︒︵全渠一○・答英楪齋︶これ即ち﹁無中有遊生
ずる﹂の意である︒それ故に虚無は宰制經倫︑道徳經世の本慨であるのである︒虚無花致せば有なるも滞らす無なる
も筌に落ちず︑有無相因りて無窮に脳する︒かくして有無相混じて一となり︑經世徳業も管緋拘執の架︵虎理や執蒲な
どのわ︒っらはしさ︶︑己私人爲の安排辰どよき加減︶遊超えて自然の力によって成就される︒︵全集一四﹃附梅宛溪捌山束
悲副序︑Ⅲ三・典魏敬吾︑同五・火柱山房會紙︶如何に脹無の道が眞に宰制徳業.の本職であるかと云ふととについては︑
寵溪が乾坤の動靜に天地薄物滋生する所以遠見︑無思無爲︑寂然不動に天下の故に通する所以逓見てそこに吾が儒の
虚無の精髄があるとしたことによっても知ることが出来ょ弓︒︵全集剛・氷渉會紀︶詑溪によれば虚でなければ﹁生す
る﹂ことは出來す︑無でなければ﹁通する﹂ことが出来ぬ︒即ち服無の中化機︵闘物を化成するはたらき︶遊藏するので
ある︒そこで彼は有の利たる滋知って無の利たる淀知らす︑用の用たる葹知って無用の用丞知らす︑虚無と云へぱ直
イクちに岬となす世の非難滋不賞とした︒蔽渓は無の利・無川の川左︑動かずして五臓を繋ぎ︑九張百髄に滋澗を職す対身総の一卜
僻へ︑これを知れば無知の知たる所以がわかると云った︒I全集八・易與天地準一章大旨︶
誠に髄溪の脈無は有に流れる俗學とも異り︑有遂絶つ祁學とも異り︑眞に有無即一の絶對的存在であったのであ
る︒
無中有な生するとすれば︑無は本髄にして亦工夫でなければならぬ︒︵王束巌も空無は本艘であり父工夫であると云ふI
1
明儒畢案︒王来堆諦録Iこと卜塊成派の特色があったのである︒︶無が本髄工夫であれば自然も亦本磯エ夫となる︒故に無中
9有な生ずわの道は︑自ら些かも人爲の安排を容れ得ぬものでなければならぬ︒瀧溪が揮沌中より根を立一﹂るの工夫遊
説き︑或は不學不臘な以て工夫となし︑叉﹁忘一と云ふの淀遮りに就くのも︑要は無遂以て本鵠とするのみならず亦
工夫であるとするからである︒揮沌中より根を立てるとは︑すべての人爲の安排滋退け一L繭物の化成を自然の力に任
モトカナ
することである︒龍溪はそれ遊莊子の津沌の説註假り一﹂次のやらに述べ為︒呈口人型功遊覚めんと欲すれば會らず須ヤらく寂総に遮るべし︒種凌の知識技能外誘︑誰く屏絶に行り︑諏沌中より根遊立てL七溌の盤つ所とならす︑純氣を
充養して共の自化︵自然の化座な待つ︒方にこれ聖に入るの興脈蹄﹂︵全填四・東淋會浬と︒
舵溪の學は亦自然左宗とするが︑それは右に述べたやらに自然註以て本髄工夫とすることで︑工夫によって自然溢
承街することではない︒雑近溪も自然の妙は工夫の習熟によって到り得るものではない︒それ滋知らすして敢へ亡工
夫を用ふれば工夫に着するや一勺になって却つ一﹂自然逓失ふとし﹁自然とは却ってこれ工夫の最先の虚︑而し一﹂工夫は
却ってこれ自然已後の庭﹂蕊・一世趣と云った︒自然花以て本総工夫とするとは︑工夫Lながら工夫注超える︑即
ち工夫がすべ一﹂自然の用となることである︒それは亦自然と工夫と滋一つにすることにもなる︒若之と二に分てぱ
心の道が矢はれると龍溪は老へたo彼が季杉山の龍暢説︵戒柵の工欠を碗いたもの︶・駈不浦としたのも︑それが工夫に
落して自然の宗滋知らす︑自然と工夫との一髄の道遊失ふものである.と老へたからである︒仏って詑溪は﹁夫れ學は
自然滋以て宗となす︒警賜は自然の用︒戒瀧恐朏は未だ嘗って繊奄の力逓致さす︒恐惟する所あれば使も其の正な得一〃
ず﹂︵全集韮・巽門問藩︶と云ふ︒
龍溪が易の﹁何思何噸﹂を以て工夫の効とする肺寂派の説を非として之荘工夫と見たのも墓集七・南准會浬自然
瓦知現成論の成立一七七
F1
⑬
一
一一−
、
瓦知魏成諭の成立一七八
を以て本髄工夫としたからである︒靴近溪も﹁致知の工夫は狐らく不學不胆に用ふくし﹂︵集・一興細︶と云ふ︒然し
近溪は不學不胆の自然牡安易に見るところがあったので﹁赤子の心﹂の説が生れたが︑龍溪は不學不順︵何思仙職︶は
學旭︵思臆︶注絶するものではなく學胆︵思旭︶北Iながらそれ詮超える︑即ち思胆遊して良知の自然の發用たらし
めるものであることを附加して説明する︒疏溪によれば之が程子︵明迦︶の所謂﹁防械窮索滋用ひね﹂︵破仁締︶工夫
・であったのである︒思臆左して自然の發用たらしめるならば逝義の用も自ら荒相を超えヱ自然に行はれる︒と聖に孟
子が良知な説く精祁があったと詑溪は考へた︒塁集一丁南明孟子州︶
以上よりして亦自然孟宗とするのは衝は經総裁制の逆︑宇簡について云へぱ生化の道であることが明らかになる︒
これ龍溪が﹁造化遊以亡學とす﹂と云ふ所以である︒彼に從へぱ造とは無より有に顯はれること︑化とは有より無に
蹄ることであり︑同上︶随って造化を學とす為ととは即ち︵儒教の︶絶對無な得る逝であったのである?
﹁無中より有を生する﹂とは有無即一の絶對無に至ることであって︑有よりして漸次に無に至るものでない︒故に
それは亦先天の法であると云へよう︒舵溪は﹁良知後天に風すと云へぼ全髄力滋得す︒須らく先天駝見得て主張ある
べし﹂︵全築一○・塔洪兇山︶と云ひ︑誠意後天の學を退けて先天正心の學滋説いた︒龍溪によれば枇怖の私欲は一切心
の動︑即ち意より生する︒心は本來至善なるも動いて不善左生する︒されば先天心髄上に根を立てれば意動くも不善
とならす︑致知の工夫亦自然に易術となって力遊省く︒さもなくして後天意上に根滋立てれば︑州崎晴欲に雑入し︑
そこに川旋すれば致知の工夫も亦繁難となって先天の心総に後するに多くの力を誰すとした︒・そ︾旱嘩妥肌附言昌人の
鉱松不岡なるも︑先天より根を立つれば凡僻噸欲向ら入る所なく︑致知の功も易し・後天より根た立つれば枇怖の靴あり︑生滅索怖へ
浦融し易からず︑致知の功も難し﹂︵全集一○︶と云ふ︒詑渓ぱ顔子の﹁不善をみれば未だかつて知らずんぱあらず雪を﹂の學を先天
’
1
●
〆
〆
︽ I
易怖の學︑・原悲の克伐恕慾不行の學を後天繁雄の學とした︒︵全壌一・維揚晤語︶︒
龍溪は職緯川に答へた書黍築一○︶に於一﹂意と心との不可分︵心は意の︑王噌獄は心の流行︑故に不可な虻説きなが
らも正心先天の學と誠意後天の學とを分かたればならぬ理由を述べてゐる︒それによれば前者は無より有遊生するの
道︑後者は有より無に入るの通である︒前着は上根岬﹁性し之﹂の道︑後者は中根以下﹁反し之﹂の道であ愚︒龍溪が前
者を旨とするのは蓋し識然であらう︒
龍溪は先天正心の學を説くが締山は後天減窓の學を説く︒緒山は正心の工此は誠愈中程あるとしてへ折中王門畢案・締山會諦︶江
上に工夫をつけて無善無悪︵至稗と言っても茨この心髄に通しようとした︒これ即ち緒山が四有論を唱へる所以であった︒一てれ
に鋤して龍溪はた琶心上より根か立てるならば心は無祥無悪の︑噌愈も無諜無悪の江となるが︑意上より根を立一﹂るならば稗悪雨
端の決押あるを免れず︑心も靴とならざるを得ない︵椿蒋緯川︶と老へた︒これ邸も亦龍渓が四無論かをす所以でもあった︒
先天の學は本艘上に工夫左用ひるものであることは云ふまでもないであら−勺︒龍溪は郷東廓が堺爲上から念慮上
に︑念臆上から無笠無臭の本髄上に工夫逓荒けるに至ったの荘稲筏し﹁念噸は本総の流行︑辨爲は本艘の發用︑た鷲本
職上に工夫丞用ふれば本來内外の一云ふべきなし﹂と云って之左先天の學と稲してゐる︒筌渠両﹃蒜椰束廓公七秩唾
竜
■ ゲ タ
先天の塁を溌く鮎では龍渓も師寂派と何じであるが︑蹄寂派は然し龍溪の先夫の學は却って後天に唾つと云った︒龍淫は無為以て
右無即一の絶對岫仔在としたので無左求めるにも右について池ちに之方議した︒彼が後塵云卦やうに笈悟な税を柑下の永術を口に
した理由も此鹿にあった︒無を右より離して求めんとすれば老佛二氏の學となる︒そこで被ぱ致知を説くにも必ず格物を挽き︑懸
空に虚鯉の知を致すのでなく︑必ず瓦知を事班物物に椎行し一﹂之を述成せんとした︒然るに絡物を哀知の効用︑︑心について云へぱ 感雌は雌寂の効用としてたご虚寂の催にのみ工夫をつけ︑罰声﹄れを以って慨を立てる工夫︑即ち本機上の工夫とした蹄戎派からすれ
ば︑・推行を以て致の工夫とする弛淡の砿は同然の孔にそむき人爲の装排を川ひ税藤經細︑全く人憾に肱つと老へられた︒これ歸寂
瓦知現成論の成立一七九
11
、
瓦知塊成諭の成立一↓ハ○
派が龍溪の先天の學を後天に随つと排する所以であ︽亀︵念推文集九・群悪龍溪︶
龍溪は先夫の學︑虚無の祭を誰ずるけれども︑それば慨川の先後内外のない嵐の絶對一新を求めるためであるから︑彼が虚無を以
つ雪蛙知の本悩とし︑雌無を致すことを致瓦知としたとしても心それは蹄寂挽とは尖るものであることは云ふまでもない︒師寂派
も先天の學︑虚無の學を挽くが︑それも催剛の先後内外を分った上のことであって而も工夫はたピ髄上にあって川上になく︑用は
たFその功川に過ぎぬと考へたので群哩江は﹁催立ちて川脚ら行はれる﹂と云って範渓の祁一的な工夫を以て﹁無頭無尼の學﹂と
評した︒︵文集九・然王龍溪︶
龍渓の現成説も︑群・縦の蹄寂茂も︑ともに虚無或は虚寂の本髄に工夫をつけることを根本としたが︑たごその脆寂の髄様が異っ
てゐた︒龍溪からみれば蹄寂派の虚寂は糊筑︵時︶より脱し柵ず︑随って科靜厭動・經惟に渉らずし蚕一氏︵佛老︶に沈流するを
免れないものであった︒尤も樫江の後を纏いで蹄寂競淀大成した念推は︑盤江の寂髄が恂時の動静を分つを免れずして瓶のやうな
妖鮎を包識してゐるに桑づき︑寂を識くにも感寂を超・たたもの︑惑寂に通ずつものとして之を述一へたが︑矢張り收搬保聚︵靜かに
して心を收集する︶を以て工夫の根本とするために︑自ら彼の云ふ血寂の催も靜的にならざるを秘なかった︒けれども沌溪の虚無
の髄は︑↓てれとは反對に事上の解錬を工夫の根本とするので流勧的であったのである︒
絶對無に徹しようとした龍溪は前述の如く亦忘諸挽いた︒彼は陽明の究極は即一偲醐心無一無醐︑一すら忘れたところにあるとし
︵全集二・溌陽會諸︶﹁學悟って忘ろれぱ斯に至る﹂︵全鰻・王甜溪先生博︶と云・毎是非の知払たる瓦知についても﹁足非を忘る
れば知の至れるなり﹂︵全集一四・謬椰来廓公七秩序︶と云ふ︒間より此の忘は無計双空︵やたら禧空を固守する︶を獄味するも
のではなく︑本心明兇の自然に率ひ間ら時に随って順晒して人偽の作川を祥れぬことを愈味するもので︑随ってそれは本僻の工夫
としての自然或は無と同じものと考へてもよいのである︒さればこそ﹁好悪是非を忘れて始めて好悪を同じうし是非を公にして臨
物一龍の逆を識し得﹂と云ったのである︒︵全渠一・維揚晤祇︶弧子の學も龍溌一卜よれば忘であった︒︵全集一・撫州擬蜆汽會締︶
以上のやうにして龍撰は虚無を以て聖學の宗としたので﹁人心本虚寂︑聖に入るの瞳路頭﹂︵全集七・南淋禽紀︶とか﹁心性虚難︑
”
。
千聖の學派﹂︵全集二・内鹿洞績誰溌︶とか云ひ︑孔子顔子の梁を空の學としたのであった︒︵全集三・宛陵帆椣晤言︶たくし龍溪は
虚無左挽くに術三﹂時を老漉佛の語を用ひる︒例へぱ槻妙概微・天淋・椰沌・無川の川・坐忘︑心齋・不忠蒋不恩悪竿が即ちそれで
ある︒間より﹃くれによって低ちに沌溪は二氏の學を縄拝したと考へてはならない︒矢張り彼も陽明と同じく排佛的であった︒然し
おほ彼は無の絶侭性を強調したので陽明より↑も範閲三敦の思想が一歩進めてゐる︒龍溪は時々其知左以て三秋︵儒迩佛︶を純雨する大
總持と述・へた︒︵全雄六・與存齋徐子間然︑同九・與魏水州等参照︶ もとじめ
要するに龍溪の無への超入は﹁天根寂為從︲何起︒直須三感虚獅︾燕始匡︵全築一八︶と云ふ詩句が示してゐるやらに
全く有無即一に徹するものであり共の間︑有無髄用の別遂些かも許さぬところに彼の無的立場が正統派や脈寂派の本
鵠工夫と異る所以があったのである︒龍溪はこ§に陽明の宗旨があるとは云鼻が︑資際は陽明の綜合全一の立場牡一
歩進めたものであった︒龍溪自身既に吾が思想が陽明と異るところがあること左自挺してゐたやらである︒彼は陽明
の學遊規煙の方回を出すに轡へ︑己れの學は規矩なくして天下の方凹之より出づるが如きものとし﹁これ聖に入るの
微機︑典要なきの大法﹂︵全築一○・辨呉娯齋︶と云った︒そこで賜明の四句宗旨に滿足せず︑それな以て時に随ふ椛激
とりどごろとなし︑若しこれを以て底本とすれば言訟に留滞す為滋靹れぬであらうとさへ云ふ︒︵全集一・天来證逝紀︶結局天蚕英
遇でめった龍溪は︑四句宗旨が浜によく現蜜の人間に邇切な教法であること滋請取して陽明の所謂﹁中根以下に接す
る時の教法﹂左術守しようとした緒山の工夫を退けて︑中根以下の學では逝に入り得ぬとなし︑陽明が上根の人にの
み許すべきものとした學溌みて却って根の上下に通する第一義のものとした︒そこで古人の立教はすべて中人のため
に設けたに過ぎぬとさへ述べた︒︵全集一・莱陽倫地會語︶
龍溪が秋累請有︽︵本髄の現成倉橋ぜてェ尺は右上に川ひ︑その桜累を待って始竺﹄無に入ることが出来るとする立場は︑龍淫
よりすれば右に派する左免れぬものであっちを捕斥して良知の現成を説いたのは︑それが有と無︑髄と用︑本髄と工夫と
瓦如現成諭の成立一八一
|
I
竜
瓦知塊成諭の成立一八二
淀二分するの見地に立ち︑虹にその一髄に透徹し得ぬと老へたからである︒分別の見に落ちれば意象紛冬到底蹄一
する左得す︑随って超脱の受用がない︒これは要するに致知の工夫が一庭に於て用ふく含一ものであるとと花知らす︑
亦我が現在の良知が聖人の良知と同一なること注信じ得す︑必ず修證注待って聖に入るとするからであると云ふのが
龍溪の論である︒彼が劉獅泉の修證識溢非とした理由は右のやらなものであった︒黍壌四・與獅外劉子間然︶そこで舵
溪は良知説であっても分別の見に落ちたものはすべて之花非とし︑た鷲彼の現成説のみが風に自然と工夫とを一に肺
して超脱葹期し得られるとした︒彼に從へぱ岱時良知説の中に師寂説・修證説・已發説︒.現成説・髄用談.終始論・
フサ聞見説・明兇説とも云ふべきものがあったようである︒それに對して舵溪は師寂説は用に乖き︑修證説は用稚窒いで
鶴を推し︑已發説は沈筌の見に陥り︵未發の中か英知の前におくから︶現成説は礎蝋にして工夫左無みするものであり︑髄
ハペ用説は艦用逓二分し︑終始説は因證遊二分し︑叩見読は良知が天理にして案知でないこと滋知らす︑明挺説は磯遊沮
むと評した︒︵全渠一・撫州擬蜆台會祇︑四一・溌陽命茜舵溪の現成説が心齋の現成説より精微であったのは︑右の如く
流溪がよく諸︲の良知説注顧みて自説滋完成しよらとした&めでもあらら︒殊に注意すべきは彼が営時の所訓現成説
なるもの花退けたことである︒即ち識時現成の良知を説くものが︑良知は本來無欲であるからた鷺直心以て動けばそ
れが即ち逝であるとなして︑鉗欲︵去欲︶の工夫は艇要であるとするの左龍漢は非難し︑鉗欲は無欲の磯に復蹄する
ためのものでこそあれ︑それによって船上に一物も附加するものでないと云って工夫の要左説いた︒︵全集一・撫州擬
脱台會語︶陽明も現成の良知遊述べたことがあったことは前述の通りであるが︑それも要は工夫に主脳左もたらし︑
生命と力と遂附典するためのものであり︑随ってそれは工夫花成さしめ愚所以でこそあれ︑決して工夫の無要遊説い
・たのではない︒故に右のや一りな現成説は賜明の主旨に背くものであることは云ふまでもない︒龍溪が之を排したのも
〆
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グ
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亦欝然と云はねばなるまい︒龍溪は良知の現成滋論するが︑陽明の此の精神花忘れなかった︒それは泰州一派が此踵
に思詑致さなかったのと趣荘異にすあものであらう︒
現成派は哀知を鏡い︸一致を説かぬとか︑本柵を説いて工夫を用ひぬとか云はれてよく非難きれるが︑王心齋や王一症と拠って龍溪
は一胆致のか十を鮎出してその要を説く︑即ち能溪は一及知は栗凡同じであるとはするが︑一〃ではその別を致と不致に求め父知を本
髄工犬とする聖人の道寝對して︑工夫を反して本棚に復する學肴の復性の工夫の要左も槌め︑且博學・稀間・恨思・肌辨・鯆行︑
一伝排するも致ではない︑阯仁致一氏知を以て空に落つと云ふものは之か恩はぬからであると云ひ︑時として本髄と工夫を分説して 工夫の要を識かうとしたこともあった︒︵全築一・沖玄會紀︶故に沌溪は安易な現成諭を咄へない︒故に彼の説は︑父心齋の學建
繼いで學樂一髄を唱へ︑却って難の工苦を否定して﹁斯の通流布す︒何物か瞳に非ざらん︒眼前即ち処︑何ぞ必ずしも等待せん︒
些のなど蒲けば便ち障醗あり﹂︵泰州學案・王来崖祇録︶と一写った王班崖や︑一娃知を以て打てば響く宏易なる自然の知能に轡へて赤
子の心の鏡を述・へた︵近溪子渠・一興綿︶羅近渓の現成論とは律一に論じ難い︒
龍溪は総悟を主とするが︑工夫のない本髄はなく修のない帳はない︒工夫や修のない慨や悟は眞でなく讃でないと
云ふ立場から︑本髄工夫︑悟修一髄を論じ︑亦本磯に即いて工夫.滋蔵すも癖と云ってもよい︶工夫を用ひて本総に還
るのも︵修と一云ってもよい.︶要するに其の功は同一であるとして塁渠四・都捌會紀︶悟修の別なく要は展悟礎修にあり
とし︑悟修の中にも夫凌頓漸の別ありとはするが亦﹁頓漸一総﹂と論じたのである︒塁集例・椰紹會紀︑同一七・漸推漣
側三・務方粍岬︑回一・・松原陪諦︶龍溪は本髄にしても工夫にしても或は悟にしても修にしてもた営一塗に落ちれば弊
逓生ずるとなし︑﹁悟って修せざれぱ緒魂准玩弄す︒修して悟らざれぱ虚妄逓増す﹂︵全集四・都制衡紀︶とか︑﹁工夫
逓含きて本総を談ずる︑之遂服見と識ふ︒服なれば則ち間︑本髄遊外にしてエ夫滋論する︑之遊二法と訓ふ︒二なれ
ば支﹂筌塊八・啓季杉山施鈍沙とか云弓一﹂連りに剛者一髄の要荘説く︒賜明の致良知説では前述の如く工夫滋以て良
瓦知現成論の成立一八三
■ウ
『
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瓦知現成論の成立一八四
知の太髄の用に蹄するから︑究極に於ては知を説けばそれが本僻であり同時に亦工夫であったが︑賜明は知のみな説
いて致逓云はねば工夫遂用ひすして安易に良知遊承街する弊と云ふ害が生するの滋恐れ︑本磯工夫遊論するにも本罷|
即工夫︑工夫即本艘とした︒右に述べた髄溪の本僻エ夫論は全く陽明の此の精祁に本づいて両者の一綴論遊進めよう
としたものであら一是然し龍溪の説は此に止らす︑その一髄遊一.屑徹底させようそした結果本職印工夫上から之溌論
するに至った︒︵無中に布を生ずるとは本髄即工夫の通である︒︶と云ふのは工夫即本磯では本髄と工夫が一房される恐れが あり︑随って庭にその一髄に徹しがたいと老へたからである︒︵正統派や師寂派或は新朱子畢派は大催工夫即本催よりして本
髄工夫の一柵を論ず.る︒彼竿の所論を施溪の所論に比絃してみる時︑前者は分別の兇の介入するのを避け得ぬところがある︒こLに
髄を立てることを工夫となす蹄寂派友工夫即本髄の立場一トあるものとした・のは︑師寂派は工夫を艦上に用ひる.とは云へ︑極幡を排し
て漸修を事とするからである︶このこと逓泰州派の耐無功が次のやらに適切に説いてゐる︒即ち︵本鶴は自ら己むことが
出來ない︒己むことの出來ぬところが工夫である︒工夫注以て本艘逓存すれば本髄と工夫は二と左る﹂︵明僻學案・本
州學案覗子小一豆と︒故に龍溪に於ては陽明の本髄工夫論の中︑本髄即拒夫の立場の方が重税せられて他の面即ち工夫
印本総の立場が輕硯せられた︒換言すれば工夫はすべて本髄の力に蹄せられるべきものとする面が主となって︑本髄
は工夫によって支へられるべきものとする面が忽せにせられた︒故に﹁良知能く收敏す︒故に收職遊主とする注用ひ
す︒↑:・良知能く發散す︒故に發散遂主とする左用ひす﹂黍墾一溌陽會茜とか﹁即ち此の知とれ本僻︑即ち此の知
これ工夫﹂︵全集八・溶季彰山龍鏡審︶と云ったのである︒
前述の如く︑龍溪が鶴逓主とし悟を主とするに餅って︑工夫なき本慨はなく修なき懐はないと云ふ立場よりして亦そ
の一髄を論することがあったのは︑其の艘悟が寂滅虚妄に落ちて寳證左鋏くこと兎深く恐脇たからであ偽る︒彼はこ
のやらな弊に陥るのは要するに莱晩・知解心絡套等を以て永常しよらとす為に起因するとして極力之を排す箔︒彼は此 L
I
」
一
等意見が震は心遂外物に馳せて光量遊弄せさせる根病であると老へたのである︒筌渠四・都認含紀︑皿一・水西衡約題
制︑同九・與陶念齋︑同一一・與李見雑竿塞照︶
龍溪一派の現成派は︑紐悟の奥を認めながらも悟後の修筐より求秘したものたちから︵例へぱ王學批判派︶本職を説いて工夫を礎
︑かい︑悟を説いて修を寵かいと云はれて非難されたが︑沌渓に於ては前院も云ったやう鳴陽明の本髄工夫論の粘祁が一座はよく
理解されて居たのであった︒例へぱ中州の説について迦・へられた陽明の本髄工夫論についてもD甜溪は戒恨恐佃が本職でないと本
侭上に障砿が生じ︑不籾不聞が工夫でないと一切のところ塞ぐ女雛すると考へ﹁蓋し工夫は本総を離れず︑本催即ちこれ工夫︑二
あるに非るなり﹂︵全雄一・沖玄會紀︶と云ふ︒叉﹁近時誰學の病︑工知を見ることはなはだ浅く致知の工夫はなはだ易し﹂︵全築一
・六・別竹見台漢語︶と云ってゐるが︑これをみれば亦哀知を認めるとと安易なるた戒めて致知の工夫の填切を求めた陽明の意がよ
く魁得されてゐたやう︾断心はれる︒共の他陽明が﹁致知は心悟︾卜存す﹂と云って槌聡知の要を碗き︑或は學に於ける主脳の要淀娩
いた愈圖なども龍溪にはよく郡解されてゐたやうである︒︵全集一○・答洪覺山︑同二・水西會約題詞︶きればこそ彼は﹁反し之﹂
︵工夫を用ひて本綣に復る︶の漸も︑﹁性し之﹂︵本綴一ト即いて工夫をなす︶の頓も︑要は何れも去欲を主とすれば雨者拠るものではな
いとし︑︵全集二・松原晤語︶又﹁たF一念棡知のところより朴蛮に理解して自訟自打し︑過あれば徹底飛跡す︒これ微に入るの
工夫﹂と云って︑致知の工夫を玄妙奇特とすろを排してひたすら工夫の笈なることを求めたのであった︒︵全築二・水西會約題詞︶
それと云ふのも一つは彼の脳裏には天泉稲上に於ける陽肌の規戒が尚深く潜んでゐた上めであるかも知れたいし︵全集一二・馨職
・方峠参照︶一つは彼が前述のやうに他の王Ⅶとよく訓學した上めであるかも知れたい︒
そこで龍溪は慨悟を説くにも言訟による解悟や靜坐による證悟荘排して半上の磨錬による蛮地の髄得即ち蛮悟遂以 b
て徹悟となし︑それによってのみ虞僻が得られるとした︒と云ふのは解憎によるものは自有とならず︑證悟によるも
rのには猫濁根滋存す為が︑徹州は到る庭源に途ひ常感常寂︑液も油も之に加へることが出来ぬと老へたからでああ︒
|︵全雌・池撰王先生笹龍溪が械籾の學左以一﹂極締の塁としたのも此の徹僻遊説く主胃に本づくものであら弓・厩は今
真如現成論の成立一八五
11I
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理知塊成諭⑦成立一八六・
人の群學は洲性を林柵とLL性介方譲ずわが︑迩兇卜唯に陥る︒飲食嘩色の械帆方離れては本來の生命生機は尖はれる︒日川蛍色上
淀料那撫諭し︑畔を天川を以て之に唯県浩始竺﹄超脱批咽瀞を得るの三一ある︒故に純洲の學が械粘の鯉專﹃あるI全蕊沖兀會紀lと苧フ
趣味の碗を立て槌ゐる︒︶尤も龍溪の云ふ班上の磨錬とは慨上の工夫であつ一し用上の工夫ではない︒彼によればそれが髄
ゲン上の工夫でなければ︑/たとひ欲念の柿除逓きわめても脚消の期に至りがたい︒故に徹慨とは﹁種為見在︑榔奥を化し
て祁奇となす﹂塁集幽都蒋會紀︶と云ふ如く︑有迩直ちに無となす底の木原簡易の工夫である︒︵右を立ちに無となす
は蜘掲の無中より布を生ずることである︶そこに於ては自らか﹁言と忘れ境逓忘れ︑鯛る︑ところ源に逢ひ︑愈︲揺蕩して■●愈噸凝寂﹂︵全鮠一姦川削地川没琶とな心︒龍溪は﹁僻もなく迷もないのが徹悟﹂霊渠一七・不一霧違と云ったが︑そ.﹀Jれは徹悟が有より進んで無逓證すゐものでもなく︑亦有荘去って無花求める工夫でもなく︑眞に有即無の絶對無の自発
で︑悟すら忘れたとも云ふくきものであること逓述べたに外ならぬ︒︵かかる絶對無とLLの自発からすれば班上の解錬と
一云っても尚愈を難くさぬところがある︒故に池溪はそれを亦樅法と云ったこともあったI全蕊五・天柱山房會詔︶龍溪は此の徹悟
牡提げ一﹄︑・蹄寂派に立ち向った︒彼は晶蹄寂派が蹄寂と説いて︑作用に任する牡率性とし︑測億による逓通微とし︑
ご計度による逓經輪とし︑知解による髄兇悟とし︑現成の良知に假託して無靜征励の説遊騰播して︑放逸にして忌慨な
きの私を離にする世の現成説の狂喋遊救はんとした意川は之滋諒としたが︑結川蹄寂派は境に執して絶對無に逹せす︑
光景意象逓逐ひ︑虚見遊以て承樹して却って本慨駈矯社するの過を犯すものとしたo︵全墓一・松原晤侭同一七・緑念推
羅に︶・
沌撰も蹄寂派と同じく延知の本慨を虚寂とし︑致虚守寂を奨珪知とはするが︑龍撰が之を碇くのは︑知識を一氏知とするものが︾ての
ために微に入って凹然の蝿を致さず︑終日池迩卜庭あって有難に執蒲するの弊に陥るのを救ふがためであった︒故に彼の航寂は決
〆
可■
⑤
して吟塊に嚇するもの弄扉︾なかった︒然る一吟蹄寂派を寂は本惟とするけれども工たを主部仔錐雌硫偲聚一昨仁求めたので︑向ら蒋靜峨
動の剛向か生ぜざるを得なかったことは前一ト述・へた辿り昂﹂ある︒蹄寂派も施探も側じく本髄上のエ夫か説くが︑沌淡は蹄寂派渉〆﹄
れを僻坐澄心に求めるに封して却って唯上の癖錬一吟求める︒間より削述の如く亜.上の瞬錬と一云ってもそれは絶對的な立場からは愉
椛法でありへ随って敢へて工夫を以て郡.上の僻錬と云ふが加き動腱に限る必災はない︑のであって︑靜虚の魁玩でもよいのであるが
︵全染四束辨紀︶蹄寂派の皿場が遂には枇と交渉を絶ちてこ氏の沈空守寂権↑池ふ魁があると老へたので︑池撰は静座澄心を挫け
て︵孔子には僻帷説はない︒毛れは佛老三氏より來たもので︑繩子が靜坐するものか禅畢と稲したのは方便だと云さ︵全集一・維
揚略祇︑同四・束倣記︶特に率上の勝錬を掲げたのである︒沌溪が隅荊川一ト向って﹁大修業の人は座鋳頗臘中一ぃ於て辿場となして
永接せんと欲す﹂l全集一・二一山腿離錐︶と・云った釧州も水よりして自ら抑僻される︒沌溪が﹁山林の過は巾朝より艦だし﹂︵全集
ニハ・制別宛川没語︶と一云ったのも︑要す︒に.王靜男苛俗學よりも払だしいと老へたためではなからうか︒庇慨を求めた龍溪は︐
致知か挽くに満って﹁幡物は正知の日用武地の虚﹂として絡物の蝶か寵く︒施溪は致知は絡物一ト本・つき格物は欽知に本.ついて始め
て工夫は外物か遼ひ空一ト落ちるより粒ばれる︒若し班卜程定那ありとして物那一ト窮め至るか.格物とすれば︵縄朱の立場︶玩物とな
る︒さればとて致知を以て明心兄性として倫弧を棄却すれば空に落ちろを免れぬ︒︵全渠九・典趨尚非︶一蛙知は本血︑格物は乃ち
戒︑腺疵祁生じて天川を兇ろ︒これが侭を聾﹂るの工夫であるとなし︑蹄寂派が桁物か以て欽知の効用として感雌上一トエ夫をつけ
るを非とし︑たF脹寂にのが工夫をつけるのが髄を立てる工犬となすの次排して︑格物の工夫を無狐して帥の瀧に背き︑亦先後を
分琉して毬に老佛一い陥ると一云冒﹂雌じた︒︵余鰻八・然班鯉江︑側・與職盤江︶典する一胆蹄寂派の︑王靜収熾は右無職川内外二分の
見地に虻ち︑随って吟あ工夫も仇荒な見発排に陥ると云って沌樅より雛ぜらかた︒︵全壊一○・弊雑念椎︶
一方蹄寂派に於ても﹁総日本慨を談じて工夫遊説かす︑説けば外遊と云ふ﹂蕊念推文集三・寄王沌琶とか﹁冊に任
する逓率性とす﹂︵何三・寄紫細痴︶とか云って龍溪の説駐難する︒︵詳細は雌江久坐ハ︑念推丈塊九の王沌換挿卜典へた#た参た
照されし︶抑︑王門三派は鼎立して論争したが︑其の中で特に現成派と帥寂派との論争︑正統派と師寂派との論争が劇
亜知現成諭の成立一八七
、
一
虫
瓦知現成論の成立一入八
しかった︒然し亦それによって五に恭する所も少くはなかった︒例へぼ念兆が時に執するを苑れなかった墜江の主靜
脈寂の佃頗を脱してよく動靜を此く腫棚としての服寂還髄せんとするまでに至ったのは︑一つは葹溪と互に切瑳した
Lめでもあらう︒琴雑文蕊五・叩寅夏跡紀︑同八・松原志喧︑叉龍溪が﹁未だ薙愛留幡︑時に托大過用︵自ら高しとし
すぎる︶の病ある左免れず︒先師言ふありC道徳言動威儀は收敏逆以て主となし︑發散はこれ巳む左得すと﹂と云っ
て吾が現成説に流蕩過用の病ある花自蝿反術して主靜收撫の要も認めたり筌嘘五・天柱山陽蒋祗何門・束淋愈迩或は
又調息筬遊作って主靜の工夫の要を説いたりしたことがあるのも︵全粟孟︶蹄寂派と經緯のあった跡を示すもので
はないかと思はれる︒
尤も龍淡は芳年念推と共に黄陛山人︵方輿畔︶の平で靜坐を密J彼の息心訣を學んだことがあったので︑︵明儒學案︑江木學案一二茄
溪が捌息筬を祥いたのはこのやうたこ・とも亦一因であるかも知れぬ︒但し注怠すべきは彼が数息は間よりのこと︑調息さへも向鍼
に蒲するところがあるとして結局は之をも否定したことである︒︵全集四・都制會紀︶蹄寂派は︑王靜的であり︑現成派は流励的であ
ることば前に述・へたが︑動一蹴ト立脚する現成派ぱ︑備愈を砿んずる明代の風筑に合致してゐたので大いに睦盛となり︑明末に及んで
一世を風廃するに至ったが︑一方靜に立脚する蹄寂派は︑舜盤江が出て始めて師寂を説いた吟︑王門呑派より盛んに論難され全く
群純の中にあったやうである︒帥寂派がこのやうな劇しい論難礎受けたのも︑要はその説が動に立脚した肌學︵王學︶た仰び靜に
げ主脚する宋學︵朱子畢︶に反さうとする慨向を有し︑王學の展開する方向に逆流するものであったからであらう︒明代文化も中期
以後になると怖愈か一屯んずる傾向が顯将になった︒金瓶梅を生んだ術畔の批會を老へるとこのことは祥易に迩解される︒我に就い
てみても北悲︵院髄粧︶が表へて南旋︵丈人雅︶が榮一塔陶磁器も切になると︑緊密靜洲な宋窯に代って濃移な染附が愛用された
が︑これも悩愈を並んずる祇含風潮から出たものである︒︵群についてみても明代になると率意のものが多い︒︶末代から肌代への
文化は静無から勵有へ︑靜漱から流動へと腱附して行く︒朱子皐を宗とする氷學から王畢を主とする明學ヘの展開もこれと何じで
ある︒随2﹂現成派が梁えて蹄寂派が振はぬのもU打を柵左かつたの宗あらう︒.然し蹄寂派の粘洲は肌末にたると一郷しイ|班林.
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可戸口