九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
[026] 史淵表紙奥付等
http://hdl.handle.net/2324/2339185
出版情報:史淵. 26, 1941-11-25. 九州帝国大学法文学部 バージョン:
権利関係:
〆
九州史學愈昭和十六年度大竹は六月八日︵日鵬︶Ⅶ帖町蝦敬育
愈仲に於てⅢ催され︑午前九昨より十一昨まで︑新進七畢徒の
日吸の瓶蓄を傾けての研究發表を行ひ︵研究發表の内祥別記︶
午後一時より三岬まで艇學郁鵬誕山川三郎氏蒐築の﹁刀剣及
錫﹂の腱蠅をなし︑経って三時より誹波竹附催︑工學部谷村無
竣推の﹁出斐停來タクラ製蛾法に就て﹂及法丈學部亜松救投の
﹁文化史上より狐たる歴山大王と成吉思汗﹂・の二識波あり︑絡
って家庭食雄三階に晩餐窟を行ひ和熱雌々桃に剛御した︒研究
強表愈︑展憶愈及誰油愈共に介貝のみならず一般來聴者多く近
來稀に兄る盛介であった︒術誰淡竹及研究發表愈の内審梗概は
淡者︑身を蚊はした︒御厚意を深く感謝する︒
・京旗の窮乏の過程に就て 江腸蒜雄
浦朝入州雄閣の備初に旋地厩屋を給典され生計の飛礎が確立
されたかに兄えた旗人階級の窮乏はすでに順治年川に表れて来
る︒廉熈乖正となるにつれて一府絃しくなり︑乾降年川には侍
難報 九州史學會 彙報 ■■■■0■■■■皿ⅡⅡⅡⅡⅡⅡⅡ■■BBF︐LDrL
術にして他人に代って役に総り︑その武置を得て炊鍵の刑に充
てる者すら見られるのである︒燕慶逆光に至ると或は房屋を失
って浮鵬し︑或は家人をして紡統を符ませて生計の不足を袖ふ
者の存在を忠はしめ︑笹しきに至っては雄人中籟朧・宜笑・賭
岬を行ひ︑生油の笠を求むる鰯に商座舞豪に益って咄歌催戯し
て批賜を得る者さへ現はれる状態となった︒成・同以後此の状
態は一吋悪化し︑満期末には旗人の子女は生汁困難の鯛︑多く
は痩潅を以て郡とするに至ったのである︒
か上る旗人の窮乏は諦慶以前は主に滿洲人の生油の向上・森
侈と問有の瓜智と人回の塘加等に原Nし︑粥蛭以後はそれに加
へて物価鵬蛍が弧く作川して來る︒尚共他三一房順Ⅶが老へら
れるが︑以上の條件の下に彼等が窮乏して来た過凝とは絲肺彼
︑等の生汁の韮礎たる腸地と銭紐とを失って行く過秘であると云
へる︒奔侈︑人側哨加︑或は吉凶諸事等による生荊の膨脹を彼等は
先づ旗地の典立によって杣つた︒かくして服熈一三十年以後下
0
級旗人の多くは族地を失ったのである︒こ上に於て飛正七年︑
乾隆四年の旗地川賊の法が行はれたが︑効果殆どなく︑乾隆十
年の御史赫泰の上奏には﹁至今而旗地之在此者十之五六灸︒﹂
と云ってゐる秘であった︒乾陸・嘉慶・逝光と物価鵬批薪しく
一方旋地を失って益為窮乏の度を韮めて來た貧乏旋人は次に屍
屋を典直し︑孫慶年冊には途に雌後の毎月の俸給をも商利炎の
手に抑へられてしまった︒彼等は︑毎月の生計困窮の鰯︑翌丹
一五五
〆
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秋月藩海劉宮門著﹁賢己流﹂︑﹁草野私儀﹂小考
〃
吉原勝
戸原卯橘と竝稲される秋月藩勤王家海孤宮門には醐延元年三
月三日戒後の稲本﹁草野私儀﹂があるが﹁刑雌の大義︑天下の
○○
大那務は各存其人布で共職を修む︒車野の小匝は熾能く辨ずる○.回●
邪ならんや︒叉敢て公然と談す・へき義ならんや﹂と私談せる正塙の論説で二十七才の志士の丈として不朽の史料であり︑叉﹃維
新前史櫻川義畢蛛﹂と軌を一にする十九士の嚇護であり水藩の
動向︑天下雄群公家の硴執詳論至らざるなく身の行壯より飴め
て治幽卒天下の要を説き天子天孫一姓批祀の凹催奪並以外峠狸
克服し符ずとの確認が見える︒﹁災己鮒﹂は櫻川門事件の吹前
二月の平靜克厚の丈章で十代藩公艇元への上番と見られる︒飛
の巷l臓の巻に分る︒敷育は人飛を主催とす参へきを説き朧英佛
の束洋佼略を説き日本の閏雌を弊告し安政假條約を契機とする
國内壯勢を慨き大名士大夫の繩慨を後花剛天皇の御詔等を引照
○○
して人謂は結局己を擬くするを以て政治の要逝とし陳の巻にては人は幼少より教育を亜脱す今へく學問那業不殊出効の本械發祁︲
が窺はれる︒柑昨の時弊を槻じては正理の幽瓜の装挫と佛雌天
主数M戦の典隆を弊告して居る︒厄逝疵践の彼の主張は藩料へ
のみに止まらず日本図巾の御俄は戒疵恭敬の心を以てするとい
ふ天皇蹄一の准腿となって居る︒以上二姉は鋤朝廷錐の大義逸
脱匡正︑図内不一致への反打による天皇中心の即時新棚制弧化
粂報
へ
11
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■FbrL 等相一致する︒
中批の思想に於ける無の地位
西尾陽太郎
中世の恐想に職異な性賀を有つものに﹁無﹂の思想がある︒
中世文化の和︑々の方而にこの思想が採川されて脊凹の思想を深
めたといふ郡が出来る︒無の思想は勿論佛敷の数理から由来し
てゐる︑そしてそれが喬閏比の生椚に渡洲してゆき︑一つの丈
化思想の韮洲となったと老へられる︒その過程は先づ平安朝の
人生籾の規定から初まった︒現武に對する佛救的否定狐は即ち
この世のす・へてを﹁無常﹂﹁無慨仙﹂なものと籾する郡であ
る︒然し現疵に﹁無﹂を狐することは同峠に現狂に對してゐる
彼岸の泄界︑粥住にしてすべてが聖なるものによって価値付け
られてゐる世界に怖れることである︒この二つの世界は現炊に
生きる人為に對して和々なる努力によって接近せしめられんと
する︒現変に淨土を兄ようとするものは平疾期に於て若しかっ
た︒然るに錐介新佛敦に至れば︑絶對他力の根抵に﹁信﹂の塊
地が力弧く叫ばれ︑この信を中に樅いて数と麓とが机即する︒
数を備じて行ふものに取っては現変の行鯛即ち数の誰でなけれ
ばならぬ︒この現変の身髄は傭ある咄名により血に佛身とな
る︒換荷すれば儒あるところに現変は栂だせられて來る︒又祁
永に於ても雌なる否定は断兄と稲せられ︑碇の慨りは否定を否
定した所に附ける大きな竹定の世界であると老へられる︒茄衣
︷.一五七
jf︑l91111︲1■■■■0易1日Ⅱ■■■■引︑Iや70日11■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■dロ
Ⅱ
粂報
喫恢即ち佛行である︒こ上に無の思想の大きな艸川が兄られる
が︑か坐る肯定の成立はその根祇に無なる否定槻があって初め
て可能であり︑無から右を生ずる關係が知られねばならぬ︒解
脱から焔迩への粘抑的過稚が中世に於て若しい︑この思索傾向
が中泄に行はれていはゆる﹁近﹂なる思恕を深め完成してゆく
能樂︑茶迩などの諾蕊迩といはれるもの︑武士弛の如きす・へて
︑この悟迩的思索をその班諭の韮礎として有ち︑それ故その妙な
る境地に逹する鯛には一皮無の世界に徹する郡を要求されてゐ
る︒この郡に州して世阿彌の蕊術諭の例を引川した︒束洋文化
を老へる時この無の思想は亜大な地位を打つといへる︒
九州に及ぼせる支那影響 桧迩元吉
︹平安朝l近世初期︺
漢代・青銅器文化筑前西岸︒
六朝︒装飾古菰文化有明海沿岸l筑後筑前︒
︹埜慨麩癖加咋師諭郵錘榊唖幟僻岬愛遜︒︺
大同元空海蹄朝︑博多の蝿工怖赤剛村川氏傅空海將來の︲
・蛾掘型を仰ふ︒
弘仁三籾世吾寺安樂寺武談寺の惟鬼起る︒鯉永年中迄存
続︒
承利九李鹿人肥前値嘉島に於て入店船を造る︒ J1
』
一五八
貞概四炭如親王入店の偏張支循肥前柏腸に於て船を造る
六府僻法悪を迩覗として狐世一吾寺に勝らしむ︒
一六府商椎及等三十六人肥前に來り蹄化せんことを乞
ふ︒之を許す︒
︹府乾符元年︑三十年後後梁I朱粂忠川平元年︺
一八肥前仙粥腸に脇司を杜く︒
仁和元廠商太宰府に到る︒私に船栽陥を競慨することを
紫ず︒
延専三太宰府符内耐豪の誰店船來茄の昨仙を伽して災幼
するを禁ず︒
天勝一三肥前の儒日延天座中入宋︑央越銭俶作喪徒印塔を
桃へて蹄る︒
天元l茂蒜諭曲﹁班船﹂の祁鰹官人の事跣は此の唖︒共の斐
怖崎海門戸梅津氏の家後世︒ハンバラ祭を行ふ︒
︹宋末遼興起時代︺
寛仁一二刀伊入進︑藤原隆家の西下せるは太宰府の孵驍に
よりて目を治せんとせしが鰯なり︒
永永ニ筑前油原守武私に入宋す︒貨物を没收し之を佐渡
一に流す︒ 長治二沖多勢同所縊口吉任百濟惟助庶船入津を朝廷に申
す︒
天永二糎世吾寺別禰迦宴交易物を以て業となし淵千金を
重い︒
永暦元勅願により肥後守平貞能八代郡妙見宮を宮地村に建保六博多船頭張光安紺崎宮留守行迦等に殺さる︒
移す︒我図妙見肚の始と稲せらる︒貞肱二逝元芝原四良左禰門の商船に乘じ博多を藍し入宋
︵延暦十四同献上窩造静︑白鳳九年大店明州の津嘉祓元仰多瀧川助左術門入宋︒朱を焼く法を我幽に僻璽奄
より組蛇に妃し白木八千把村竹原津に荒岸枇鍬に読砿中浦川三右術門宋より織法を僻へ博多織を始 鎮座と僻へ︑今上官と稲す︶む︒又日ふ仁治二年蹄朝すと︒ 安元二柴西宋より蹄朝︑今津番願寺に在り︑後博多に聖仁治三宋人謝幽肌永天寺遮立︒ 禰寺開創︒茶を脊振山及び聖祁寺内に種ゅ︒︹元・届海迷失元年︺︒ 文治四宗像一切經奥課に綱首張成︑綱首李茶の名比ゆ︒寛元四閲没迩隆椰多に蒲す︒ 喪治元西閏米を宋に職出することを禁ず︒
︹南宋・西遼・真・金對立昨代︺建久元原田種通商祁城を築く︒原田氏が其の祁を漢の商︹丈永弘安役︺ 祀と和するは居城の名に起因するか︒丈保中可翁宗然入元留ること十年︒師朝後塞脈寺に居る 五︵宗像阿猟陀經石︑宋光宗紹熈六年銘︶.︵入元入宋守伶有略︒︶ 六博多百堂亡び共の跡空地たり︒l莱酉一言上番︒/正平十大明図使從仕郎山西行衙都那允明臓華︵宗像鋲図 七宗像阿彌陀經石來る︒担銘永久二・嘉祓三︒宗像寺︶
大宮司氏図が其の母王氏︵宋人か︶の侭に職入せ正平朴三中津絶海肥後商漱津より明に航す︒竹時菊地氏封
︑・
じ
るものか︑銘文中の牡孤寄推者吸氏︵参考抑多濁外的に飛躍し商漱伊介丹部泳に脾船來淡︒ 發見張綱鍛番銘明代烏天日茶碗︶は氏図の妻か︒︵八代抑杜百濟淋聖太子を祀る︒︶ 文治四参照︒︵建保二永像宮に番花媛料寄進︑阿︵百濟來地賊堂I仰日雑作地識菩薩を祀る︒︶・ 猟陀經石に迩銘︒︶︵建保六参照︶︵伊介北八椛宮l郭氏奉献は麟香蝋︒︶ 七束大寺中門石獅子宋人字六郎等によりて迭らる︒︵元和五伊介郭公共︒︶
建仁元宗像祁肚石迩狛犬・王取獅子銘︒﹁奉施入宗像錐︵元利七王水村林均五面菜等︒︶ 三宮御喪前口建仁元年辛西口藤原友腸﹂I宋風石椰多聖州寺佛殿記︒阿南陸人記す︒ 狛犬の北九州分布︒︑什凹征西脇雅樹明使粉栽を祁け船ふ︒征西府對明交渉
一五九
難報
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一
梨報
下略︒
廿四陳宗敬︵雛峯山︶蹄化︑博多に住す︒子孫透孤香
を仰ふ︒
︹明大祁洪武二年︑元末肌初昨代︺
︵元人陳祀川歸化子孫博多に在り瀞を業とす︒文
明の頃京都に移る︒︶
延徳元明使趙秩太宰府に來り明の雄図を告げ冠人の綏撫
・を垂叩ふ◎
二元僧放牛叫後直入郡岳鈍寺を創む︒
晒永八義滿肥耐祁阿を明に泄す︒ 十明船岬多に入る︒
睡永1文安明人如雪蹄化︑九州に居り後机閣寺に住す︒
唯永中兆殿司浬架像を回せんとL博多に赴いて名
迩を模せんとす︒
雁永中明人館子一宮踵如良硫屋に來叺釜を鋳る︒
l疏屋釜︒宋元蛾工業の影靭・延徳三参照︒
此頃より博多港に於て拾得せりと稲せらる坐もの
に珠光青磁︑坤多丈淋・博多金海あり︒
享徳二︵博多の逝安琉球王使として朝鮮に供す︒︶
丈安五九州探題の聖祁寺船明に赴く︒
三︵﹁允膨入唐記﹂︶
唯仁二︵﹁戊子入明記﹂︶ 文明三︵﹁海束諸図記﹂︶
缶
天文
大永六 永正三
延徳.三廿
一
一
十
一
十三
十
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一六○︲
薩摩版﹁大醗﹂刊行︒︑薩摩版下略︒
︵肌鯉八︑山口版﹁論語﹂刊行e︶
︵正平廿二l元滅亡の前年l明の刮宇工陳孟千陳
白来朝砥安三鎌倉に赴く︒︶
弧藤行亜筑前間食祁肚毘舎丈天︑香月杉守宮蛾鳥
居等鋳遜︒
明人紅令民南京釜を斑し店式製茶を始む︒轆野茶
剛の起・
●︵肌僻如定肥前川上壮の大柿を暎批︒︶
︵博多巾小路肌人塞︒︶
洲谷稀貞等石見銀山採掘︒入明して探蛾法を學・へ
るなり︒︵天正中住友理右衛門堺の南澄人白水より銅金分
析め術を學ぷ︒︶
松浦陸信而江に錐れる明人王迩︵五楽大船主︶を
平戸に招く︒王肛は弘治三朋將胡宗愈の鯛に揃殺
せらる︒●
明舶平戸に入る︒男子は海溢となり女子は傾城と一
なり人口減ずと稲せらる︒
︵倭冠大畢江南を催し南京より祁雄に到る︒︶/
天文中金持亜弘大内氏の命により入明針灸を學
ぷ︒天文中博多鋲の製法を体ふ︒
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や
。
永稗元︵ジェスイット博多衡堂成る︒︶
三明怖江夏友畏薩摩に入り島津氏に仕ふ︒
十一肥後繁根木八嚇袖陀落︵上海の南方舟山列腸︶渡
海の碑︒
丈祗中︵嬉野迩直朝鮮の役に従ひ虎を掘って名あり︒池
〆迩呂宋にありしこと六年なり︒︶
慶長初明人雲貞翁蜀郡白水縣より博多に來リ白水を以て
姓とす︒七世由典安永八年後桃刷天皇の痕脈を診
す︒
五黒剛長政博多の海外斑易に蒲目し五十二洩石に廿
んじて入閏すと僻ふ︒
國民學校に於ける國史教育
召
施行規則雑に凹比科︑並図民科凹史の目的に基けば︑図概の粘
華を呈叫發展の跡に即して剛明する所に獅自の立場を有ち︑之
く尊雌なる皇室の存在を認識徹底させること︒ によって無窮に護展する皇図の大生命を感得せしめ︑皇図臣民たるの自繩を深めしめて︑世界に於ける我が歴史的使命の逢行に菱することを任務とするのである︒ 凹民醗校の図史教育を推岱する図民科閏史は図民學校令及び1︑碓凹の粘抑の展開具現たる図史を理解せしめも そして変際敏授に徹って
乘報
従来より一層狼洲さる・へき鮎は伊藤弘 11
図史を笈2睡我園文化の獅自性を明かにして其の創造發展に努むる縮
刷を菱ふこと︒
3℃束亜及世界の大勢を明かにし皇閏の地位と使命とを自畳
させること︒
4︑自己が歴史的仰統に生くる歴史的存在なることを自兜せ
しめ博統意識を啓培することの諸鮎である︒此等の鮎は戦材の
選捧︑或はその取扱に於ても注意されねばならぬ・辿って出来上
る致科番は此等の鮎が充分参酌されねばならない︒現行戦科香
は昨年四月並本年四月修正されたるものであるが︑小學図史教
師用番上巷の修正と共に右の趣旨を具髄化せることが認められ
又昨年上巻及び本年六月中巻を上梓せる文部省の師範図史の内
容を按ずるに以上の趣旨が充分窺はる上ことは総然である︒
1110日■甲△■V044Ve4■B人口111111111
尚研究發表愈には新に九州史畢含に入称された新任禰岡商等
畢校致授今來陸郎氏の﹁祁聖羅賜帝閏とハインリッヒ獅子公﹂
と題する日頃の顯蓄を傾けての御研究の發表があったが︑旺に
﹁祗介經濟史學﹂九月雛に描栽の難と決定したので︑この概要
はこ上には割愛することLした︒何卒﹁壯含細濟史學﹂に就い
て奴られんことを切望する︒
國史學會
昭和十六年度新入生歓迎遠足宙
五月四日︵日隈︶新入生欺迎遠足倉を決行︒禰日午前八昨省
一 一
︿ 一
︲111−︲#・トー1︐11■■■■■■■■■■l■〃別■l■日日
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難報
線吉塚騨集合︑曇沼︑竹岡︑鏡山の三先生︑榊原先誰を姑め︑
波多野助手︑田村測手︑阿部︑◇杉本︑伍弧T中林︑宮下︑及び
新入生の古孜︑渡遥︑上杉︑汁山の諸氏参加︑先づ汽車にて宇
美に到り︑宇美八幡嵩に麥奔︑それより新維の香を縫って凹王
寺山に益る︒途中鏡山先生より百川石垣の溌明を聞き︑頂上に
逹して城祉︑寺祉を兄學︑折柄の快哨に澁色な菜種&の筑紫平
野は一昨の内におさまる︒やがて道を太宰府町にとって下山︑
長沼先生宅にて一同主食の挫雌一卜あづかる︒先生宅を辞して太
宰府天滿宮に参拝︑冠車で天祁町に蹄つたのは午後五時であっ
昭和十六年度第一回例會 た︒
六月十二日︵木雌︶第一浪智室にて鏡山先生及び川村副手の
研究發表あり︒題目並に内容梗概を左に鍋ぐ︒
樂浪古城發掘談 鏡山猛
朝鮮總杼府の樂浪古描調交事業は︑連年東亜に於ける支那漢
文化の新養料を累加しつ上あるが︑本年度の發州微去る五月十
日より一ヶ月餘に亘って行はれた︒私はその訓交に参加し僻た
ので發掘の概要を仲へ︑作業起居に閥して像談を試みた︒今回
の調査に撰定された古演は貞柏里及び石腱里の六基に及んだが
私の主として開係したのは貞柏里一二五號涜及び三三︿雅祇で
あった︒前者は發掘の結果盗掘に辿った石榔轆である事が明に
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■ p F h 口
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■ 可 囚
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■ 口
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なったので︑主力を後者に注いだ︒同城は木榔︑木椋の材が大
部分腐朽を免かれてゐたので︑その椛築埋葬の大要を知る郡が
出來た︒柳は束西二米南北三米除あり︑柳内に並泄された棺二
個と柿遡に多数の殉葬敞とを検出し得た︒柿内には銀製指輪各
為一個と︑玻魂製小玉若干あり︑棺の北遥には移しい土器及び
漆器類が列びも西遥一卜は漆器類の他に鏡鑑二而背銅製の刀装具
木製斧︑排釣等が配せられてゐた︒漆器は完形を保つものは多
くはなかったが案︑雛︑耳杯等多数あり︑内に﹁王氏空﹂﹁張
牢﹂共他の鏥記を布するものが見受けられ︑又把手付コップ形
容器は珍奇な新例として注Hされた︒一行の洲究は猫石股里方
面で繼緬中であったが︑私は關係調盃と見學を了って六月三日
平鯉を引き上げた︒
本居宣長の復古思想 田村回澄
復古思想は︑図學の亜要な.一要素をなしてゐると洲はれる︒
﹁古へをおのが心言にならはし得たらんときD身こそ後の世に
あれ︑心ことばは上つ代にかへらざらめや﹂と語る加茂腫洲は
たしかに復古の立場に立ってゐた︒しかし寄詠の理想を古代に
求め︑古代に似せんとするのが図學に於ける復古思想であると
するならば︑本居堂暹は︑香川溌樹と同じく反復古主義を堅持
してゐたことになるであらう︒同一の悪を古風とし後世風とし
近世風たらしめる歴史の支配を信ずる宜長には︑踵淵の如き意
’
『 今
の
〆
味の復古思想は見出されないc
では果して宜長の図學は︑復古思想を含まないのであらう
か︒l
疵長の復古の問題は︑吾詠にあるのではなくしてこの現武に
ある︒彼はこの現從を支肥する利の御所鯛を信じた︒世の中の
一切の推移は︑よかれあしかれ岬の御所爲である︒我を人間に
許されるのは︑この現鮫を改鎚することではなくして︑﹁有り
來りたるまLの形を額さず︑跡を守りて執行ふ﹂ことである︒
そして立畳のこの見解が︑雑府の存在を肯定するに到ったこと
は云ふ迄もない︒宜暹は一方で尊呈の逝を明らかにし乍ら︑他
面︑雑府政治を肯定した︒ここに宜抵の矛盾がある︒また四基
そのものの変践性の妖如がある・・・:現在に於ける宜長研究の
多くは︑宣長の思恕に封して︑かかる批判を下すに跨味しな
いO
〆しかし立曇によれば︑雑府の施政は﹁天照大御祁の御はから
ひ︑朝廷の御任﹂であり︑その故に宜曇の如き下為の者の云冷
するところではなかった︒彼が雑府の存在を容認したのは︑そ
れが期延の御任であるからである︒即ち朝廷によって許されて
ゐるが故に︑江戸雅府は彼によって肯定せられるのである︒し
かも狂遮は︑江戸雅府の存在に對して一つの逝理を見出した︒
それは︑傘呈の通こそ雑府の依推す・へき逝理だといふことであ
る︒しかもその奪皇の逝は︑雑臓自身が︑その維府的性絡を無
くする以外にはない︒l虚心皿懐に﹃王くしげ﹄﹃秘本王く
︲難報
刺Ⅱ1吋MⅢⅢ4
しげ﹄を蔽む者は︑何人といへどもこの自鉦に到逹するであら
﹄つ︒︑宣長は奪皇の遡のみを明らかにしたが︑倒蕪を説かなかった︒
◆が︑これは正しい︒我図に於いては︑倒雑の大命はただ朝廷か
らのみ發せられるのである︒その大命をまたずに倒雑今毎叫び︑
倒雑の行動を敢てするならばもそれは内胤と何らえらぶところ
がないであらう︒
錬呈の逝を明らかにすることによって︑堂握の業紙は永遠な
るものにつながってゐる︒倒燕の理論は︑倒雑の事業が成就す
ればもはや無用になるかも知れない︒が疎呈の逝こそ﹁日月の
天にましますかぎり︑天地のかはらざるかぎり﹂無窮に惇統す
るものである︒しかも宣長は首らこの逝をつくったのではな
い︒それは既に祁代に於いて︑利によってつくられた大いなる
●■●
事変であった︒だから鯨呈の逆は同時に刺の通なのである︒宜長はこの現疵の根抵を典くところの古くして且つ新しい刺の逆
を自発したのである︒
かく見ることによって我為は︑宜長の復古思想を正怖に理解
し得るであらう︒復古するとは古代人の生涌を棋倣することで
はなく︑また古代人の心楕に倣れることでもない︒却って古代
より僻はる利の逝に蹄一することである︒しかも洲の近の判ふ
ところにのみ日本の池路がある︒してみれば復古するとはまさ
に未来に弛むことに外ならない︒しかも復古は︑立艮によれば
政治組織や肚含制鹿の愛車を意味するのではなくして︑疵に我
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冬の態度心椛への問題であった︒朝廷を梁び︑抑の御心を心と
することにより︑不断に復古は疵践されてゆく︒そして嶺も無
き人々の不断の復古は︑やがて日本を不断に装展せしめること
になるのであった︒古代はこの故に︑穴長にとっては︑彼の師
らんとした目標ではなくして︑却って彼を弛ましめる光であっ
たのである︒
昭和十六年度第一回責地見學
七月六日︵日咄︶佐弧縣佐狸郡久保泉村に向ふ︒鏡山先生始
め︑田村副手︑伍批︑古強︑渡遥︑桶川︵經濟科畢生︶の諸氏
参加︒松尾放作氏の案内により︑蛾近發見せられし朴隈山の祁
捕石を兄醸す︒︵これについては鏡山先生の御紹介あり︶蹄途
佐喪市へ出で︑同地の徴古倣を参籾す︒午耐六時︑博多騨前に
て放念︒
︑昭和十六年度第二回賓地見學
七月九日︵水曜︶十二日︵土咄︶十四日︵月睡︶の三日に渉
リ︑水城村叫分寺窯祉の發掘調在をなす︒鏡山先生︑伍批︑古
孤︑渡避︑桶川の諸氏参加︑第三日日には天延三年亦錨の平瓦
を鐙州した︒︑
昭和十六年第三回責地見學
九月汁一日︵日陥︶西山益山決行︑午前八時三十分︑今川橘
築合︑鏡山先生︑波多野助手︑川村剛手︑中林︑上杉︑片山︑
波邊の諸氏参加︑ゞハスにて前原に到り︑それより徒歩にて山頑
‐ナ矛◆
劉進
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報
一六四
の大悲王院に荒く・同院にて醐喪千手千眼掘世一音菩薩立像並に
浦強上人坐像を秤籾し︑又︑古文番の訓究をする︒午后三昨牛
同院を僻し︑祁髄石を兄準︑水門を通って下山す︒再び前原ま
で歩き︑バスにて午届八畔今川橘蒲︑散称す︒
昭和十六年度第二回例菌
十月九日︵木暇︶午后一時︑嬢三演習室にて開催︒長沼︑竹
岡︑鏡山の三先生始め咽波多野剛手も田村副手以下粂學生出席
阿部光章氏の研究發表あり︑題目及び内容梗概を左に鍋ぐ︒
淨土教成立の一考察 阿部光章
永遠的な諏想世界としての淨土への信仰に数理的韮礎を典へ
浄土教成立の先鵬をなした人は言ふ迄もなく源信である︒
源信の淨土信仰は往生要築の序文にも見られるが如き苦い生
添髄隣とそれより蹄納された厭離稚土︑欣求淨土といふ彼の深
い宗救的感術によるものである事は言ふ迄もない︒
それには現愛に對する鮫しき批判と流烈な自己反竹を通して
独栂された敏い宗数的艘険を見る筆へきだと恩ふが一方此の淨土
信仰が湫迎された炎族批命の人為には現焚に對する激しい杏悩
による現変否定を通して得られるが如さ崇商なものでなかった
事は明らかである︑然ればその受容態匪とはどんなものであっ
たらうか︑此れを明らかにする事が浄土教成立發展の韮礎を把
む事である︑此の受容態度の根底をなすものこそ延喜︑天群畔
11
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代を中心として新に祇會の表面に動き出して来た新思想傾向の
持つ唯美主義的傾向と庚義の浪漫主義とも稲す今へき思想恢向の
二つである︒
此の高度に護達した美的文化と低い知的文化の激しい破行状
態より起る一種のアン三ィとも言ふ↑へき憂憐さを含んだ唯美
主義的傾向は菩薩來迎︑淨土の荘厳等を説く往生要集を通して
美的理恕界としての淨土に雌れると共に彼等の持つ純濟力を利
用して地上淨土建設を目指し美的滿足感に包まれんとした事は
容易に了解される︒
叉一方歴史的︑仰統的なものを亜んじ︑又人生に對してこま
やかな感得力を持つ感性的方而が亜覗される非合理主義︑反主
将主義的傾向の示す如き浪没主義的傾向の特徴として老へられ
るのは非現変的の堀念界への惟隙である︑此れが現変の否定l
︵本来のより善い世界︶來世.︵淨土︶への崇仰讃暎を説く淨土
数への蹄依と結びついたのは彼等の位隙が結局何等かの形式的
中心を必要としたからである︒
以上の二者が結びつく所に淨土数は勢力を符て来ると共にそ
れがあく迄も武族階級の淨土数であった所に彼等脚らの限界も
あったのである︑即ち現世的な物疵的幸祁に悪まれた彼等の浪
漫的思恕が一而非術に籾念的であると共に他面その現象化︑形
髄化を切変に望んだからである︒此腱に彼等の淨土信仰の特徴
が見られると共に又歴史的に一個の完結性を右してゐた郡も判
るのである︒
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昭和十六年度第四回資地見學・
十一月三日︵明流柿︶両氏山見學︒午前八時三十分沁天祁町
九蛾待合所雄合︑鏡山先生始め波多野助手︑田村副手︑伍弧︑
中林︑官下︑古批︑叶山︑渡邊︑上杉︑満松︵閏文科畢生︶の
諸氏参加︑冠車にて久舟米に到り︑旗に商典山一卜向ふ︒祁総石
の列石に沿って秋深き山腹を︲一周し︑商良祁征に詣でる︒祇務
所にて誰食後︑図喪﹁平家物語﹂鴬本を始め︑平安時代の祁名
帳︑室町時代の塊内側︑その他古文評喪物を秤狐する︒午后二
時︑趾務所を僻して下山︑久留米市に引き返し︑梅林寺︑水天
宮に参詣︑更に日輪寺古斌を兄學する︒午府六昨祁岡師茄︑散
竹した︒︲ 日本文化講義
畢生課主催にか上る節六十八同日本文化誰義は︑十一月九日︲
︵日硴︶怡土城批にて開催︑鏡山講師の﹁上代の西海防衛﹂と
題する臨地誰汝あり︑綴いて同誰師の指導案内により︑土坐望
桃趾を兄皐︑商祁山預の上城趾を遡って三畔下山す︒更に一同
は丸隈山古祇にも立寄り︑博多騨へ蹄茄したのが午后四時︒備
日は折柄の快哨に恵まれ︑含するもの五十除名に及び非常な盛
愈であった︵川村剛手記︶
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場期
所日
東洋研究會發會式兼第一回研究會
昭和十六年六月二十日︵自午後一時︶
於錐五淡習室
︒︲一六五
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粂報
一︑研究發表
1︑旗川氏﹁浦洲八旗の成立過程に鮒する一考察﹂に就ての
紹介江腸燕雄 2︑﹁大延舞の叛飢と化女直に就て﹂.日野助教授 3︑﹁漢代の法家に就て﹂亜松戦授
一︑硬問︑批評︑座談
西洋史學研究會
西洋史學研究命は昭和十五年度嬢二學期には臨時誹義に九州
に御來臨になった大赦伸先生を迎へて前教授長蒜吉先生にも御
出を願って恢習室に開催︑其後新たに昭和十六年四月より祁商
致授に稗任された今來陸郎氏を迎へて五月澁習室に︑九月には
十六年度飾一學期にやはり臨時講義に見えられた山中謙二先生
を迎へて賊番令を開催︑近潜雑誌の紹介を行った︒紹介概要は
左記の如くである︒
IF①︒鼻言潭︒貯日①扁口昌冒Q3pの﹄同冨舜
ロ鼻甘口興一︲moo巨胃⑦.︵ナチスに於けふカトリ
ック主義︺
辛陽重義
獅逸致愈の迎命を中世紀に測って理解しようとする著者は先
づ中世の両碕3国8房を回想しルッターのテーゼはこの
固帰己島o篇の糀祁の反復とし︑イス︒ハニアとの關係のあった
|
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國号呂○ご員家と共にカトリックは獅逸に伸大な勢力を占める
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に至った︒︵︒昌匡の昂唱○︾2口の風呂四○︶の諺の如く・ぐ胃房■酔昌の日①が州伴って輸入されたとは云へカトリックは作れた武
器とし︑佛革命備畔には反革命的なもの︑反佛的なものとして
老へられ︑中世への極慨︑青い花への探求︑絶對的な○a﹃①へ
の軍敬︑司胃○吋厨具○員︒g︾信仰保談者への崇拝がロマンチス
トの間に集約してゐた︒ぐ○同日野N期には歎称の図家への服従
は完全であり︑この傾向に反封するものは○匡口夢図画国巳目目0.
口堅冒鴨吋等であった︒それでカトリックの復興は鮮碑爵日①
の称薄な地域から起り呼匡巴①﹃日酌呂閂.煕幽匡殊にロ﹃○m冨
等である︒qaぐ①﹃の島切目の︒島︒畳屋︑と急︒冒口の︒言ロロ侭
鳴門日興ロ昌巨のとの川から恐る↑へき闘蛎が起る︒この間にN⑦ロ︲G
茸巨目が誕生する︒而して中央難は政治的色彩へと押進めて
昌茸興日○口冨冒四は日画匡ぐ目の︒異○篇目と老へられ︑中央蕪は●早
目日日茸として弧大な勢力として鐡血宰相に反對するに至っ
た︒ホーヘンッオランの下ではカトリックはプロイセンの
降昌のg①に大戦後は野営の日①日胃曽鼻①に影靭を及ぼして既
成の官無への服従と反抗との二途を持ち︑一は妥協を他は文化
江諏を更新したのであった︒しかし中央鴬はその收め将た成功
に對して不幸の事件が綴出した︒冒胃号富国号⑦渦閏燕件で
あった︒そしてこの術勢の中に一九一二一年シ§帛困匡曾が政
椛を得た畔人為はこの事件の結果を豫知し得なかった︒司教制
が陵止され他は以前の共和波に代ってナチと妥協した︒一九二
〆
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0年二月廿四日の二十五條デーゼの隼廿凹條はドグ↓︑を需保せられ歎称の反抗を起す︑しかしこLにはgの置くgo言一の爵昌切︲
日扁を尊敬するとある︒しかし今や一九三一年の絶對多数は
旺に顧みるよすがもなかったが︑反對は弧烈であった︒この鮎
ナチも幾分これに影奪されてゐる︒
ナチに於てはローマに對しては破門された關係となってゐる
ヒトラーを唯一の首長としゲベルスを穴傳祁とするナチは三人
fのカトリックを持つ︒即ち○吾g胃智四国ロ・は燕の養金部に︑Lの胃﹈の99胃︲dO8胃呂は民法學者として︑百の具z色&胃
は獅逸史畢者として︒節一は全髄︑主義の父親として⑦画己卦骨︲
Fの胃⑦を首咄し︑策二は錐三國家の悲法起車者であり︑罪三の
ナードラーはz⑦ロわ威冒日①と諺亨の忌日日①の發見者である︒
そして一九二二年七月二十日光輝ある中央蕪は雑減した︒そし
てユダヤ迫害と共に力牌リック迫害が起ったのであった︒一九
三八年獅埋合邦により司敦と牧師とは一般人に附與され︑群て
涜画昏○房呂﹄黒目2日耳と呼ばれたカトリックはナチ世界に
は存在しなくなったのであった︒
争冒目︒匹己肩口煙口︾己鈩罠画ロ8吋3画8古ぬぐ胃O届①
且①届○いぼ画ご巴閉曽︼8﹂の﹈マシニ⑦日興頤目①ロ釣︲
己○尿○己①口目⑦.Pで﹃○℃Oい亀匡昌昌ざ﹃①乱8具.
︵のぐロ①冨黒.段①餌ロロ.︵お心○︶庁.﹈圏︒斡口ぐ
3目の.︶も戸ら︑l﹈巨︵一八○五年のフランス・
︵︑ワリア同盟︑佛史酷雑誌も一九四○年︑擁一
難報
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一八○五年のフランス・・バヴリア同盟︑即ちヴエストファー
レン條約以来のフランス諸王の仰統に復蹄し︑ナポレオンの所
調﹁矩三ドイツ﹂戒現の種々の努力の出發鮎はゲルマ一ァ世
界の内部の歴史並びにラテン的西部との閥係の歴史の若しい時
期である︒政治的には反革命同盟I革命フランスに弧するIに
絡末をつけ︑軍郭的にはナポレオンに彼がエヂプト迩征以來夢
みてゐたロ四目ロgの冨房8頁5潰回①の舞塞を提供し︑佛
國民にはヴインの澗椛に對する決定的な攻躍手段を典へ︑翌一
八○六年のライン同盟の根底をなすものである︒この同盟は
国唄目○口︾目冨①厨︲PHB画且︶︲F亀:ぐ﹃⑥等の佛史畢者︑更に又
冒○門碕逗﹄●の呂今夢冨房︾ご雪国昏凰日9.国○胃昌①司︺国畦匡朋閂.
罵呵岳のの管弓﹃①旨︒房①等の獅填汲史學者の對立となる︒この感
楕的理論對立に︑国︒冒丘Fa閂口昌ロロは一九○一年ロ関
毎口の︒匡匡協国畠角昌め騨口蜀圖国胃凰呂﹄日百罫の扇9.を主とし
て佛閑西丈諜によって研究し︑旨厨冨①一己O⑦冨匙は冒画×胃昌︲
冒昌きぬ①gと冒○画碕⑦胃とを︑ビスマルク帝幽により始め
て崩壊した王醐﹁近代バヴリア﹂即ちナチス出現により浦失し
た﹁自由図﹂の創建者とした︒︵同昌乱oここロ鳴需︑3.国畠①Hロ叩.
一℃︾い︒一℃い︑︶
元來此問題に棚する養料は竺○日胃﹃計ら○言が一九○二
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○八年に六巻の中四巻に亘る所のFpgg冒瞥⑦号缶g⑦旨
置庁日画胃①に錐され︑8.回.日⑦ご国営○口.と胃唱日⑦口目5口に●
︑勝れたのは︺○m呉○日①旨さ図⑫①可迄ロ尉冨罵門.悶○胃涛肖日
憲耳⑦扇9.○闇巴である︒この著に啓發されて国四回の属豊
ぐ︒冒国尋①匡がナポレオン時代バヴリァの雨立者昌員.﹈︒の吾
と旨︒ロ侭の雷の祁互役割を従来學誕から根本的に愛じたので
ある︒国司①匡蕃己①H侭酌日瓦ロ日田畠9口届g・房ロ関
鈩冒︒ご目の号制冨苛﹃・︲守四︒園.シ寓目N︐冒冒.石弓.日電管嵐ぐ
+ぃ合.に探れば冒畠・吉切︒g弓.はお人好しで誠意で人民的
な邨薄な不硴定な﹁術に蹄路し︑人の言に左右される﹂人であ
った︒この峡鮎を袖ふ御のが目︒国碕の富である︒彼は元来数︐
菱上フランス人でサヴオアから出た人である︒一八一七年失脚
迄前後十九年Ⅲ外交辨務を掌リ︑又財務内務にも閥係してゐ
る︒彼はフランスの援助一卜よって急昇o専画島家の雑多な新
奮額土を行政虚分し統一し︑又患○巳鼠の畠○口又日段国昼︲
の:○口により古い祇紳特椛を中央集椛下に糾合して新図家を作
る努力を試みてゐた︒N尋①重の所推は街昨ミュンヘンへの佛
使節○再○の報告番である︒これは古くF&周日画ロロゞ筐○日︲
6房鼻︲no言.b爵具斤等も所擁してゐるが︑その取扱は金く新
Iしい︒側にFO且︲○昌言巨日の○#○︵ご豊1局ご︶はバーデ
ン大公図の創始者でルィ十六世以來の佛の外交官で︑革命時代
にも外交官であった︒さて上述のぎm8ケと昌○昌晦⑦房の關係
から一八○二○三年の融鳥印時代頃から佛と︒ハヴリアの接近
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一六八
タは計鉦されてゐた︒肚竹的政治的築中は員冒︒胃国と三房ロ
を次姉に分離して旨員.言の嘗は己れを崩壊せしめる塊とも・
隣人として自己の家を保謹して主椛的地位を典へる佛との川に
立って一八○韮年佛との盟約を結ぶことAなったのである︒
℃︑巳の①号目鼻︺の同旨胃目堅呂四口︑のロの巴︒言箆⑦の
︵己厨冒厭国冨吋.お冑罫噸.国氏庁ひ迄冒畦罰一没一︶
︵グリンメルスハウゼンのライヒスイデー︐︶
本多四郎
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﹁のH旨9号冨爵⑦ロがその小説己閂号①具①口⑦島○胃盟目︲
己岸爾冒ロのに於て︑三十年戦役によって商された災害に對する
一般的提議をなす限り一卜於ては︑それは純粋に証愈的なDあく
まで非政治的な刻印である﹂﹁か上る祉奔改革の思恕及びその
タ手段はその小説の妓初の五巻一L於て移しく見出される﹂併しこ
上に注意さる・へきことはむゞ﹁その彪大な詩の若干の章句に於て
︒:・未來の苛鼻の島のの⑦︼号を考へ︑それを多くの統一髄に
描出せんと窓岡してゐることである︒彼の作品の策三巻の館四
策五章に於て︑未來の芹①貝の︒胃①砕呂に對して提出された
試案は︑か上る偉大な大謄な老へに開するものである﹂
ジュピターの利は四日己冨閏9口のに彼の抱く平和の理想を
次の整序に從って誹述する︒仙口関︾常巨蕨○言国の尾︺②己①の
︺︾蔚巨誘島①ロ国⑦一斤ロ︾︾観四日亘君⑦﹄の①③ロ﹄①己○昏胃言詞呉○︲
B黒目⑦口仙ロ一①国①﹃︑艮旨ロ狛逗①旨胃吋詞①︒冥①匡且で雷︒罫3 句
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j⑤ロ閂民具目﹃の扁皆爲冨巨伺目⑦侭○回庁幽○ワ皇①ロ①︲
曾門日のロガロ①m3急昌o冨口︾.のざ言①匡8℃蟹の号の︑①ロ旦巨口頭
く要約すれば﹁抑に造られた英雄によって︑内政的には流血を見
ずして諸都市の優越の薙礎の上に統一されたドイツ国民︑しか
も同一地域に於ては關税障雌なく︑品位ある首都によって代表
される︒もはや桁級的職役や宗派的争論によって破壊されず︑
文化的には商度の護展をとげる︒又外政的にはヨーロッパの指
導的大勢力として認められる︒lこれが9目9号盲屋・回
のライヒスイデーである﹂
﹁o周一日日:冨扁の目の考へは現在にとっては変際的価値を有
さない︒だが過去の厳密な歴史的狐察には商度の亜要性を右す
る︒それはわれわれの民族の中にたえずいきいきと生成するラ
イヒスイデーの十七世紀に於ける詩的誰明である﹂而もそこに
は侭ながら封建祇愈を否定し︑有害な宗派争論を否定する際に
十八世紀のぐ閂口ご邑浄への移行が認めらるのである︒
国.ぐ.の.○照号ご︾弓冨の冨厨呉ロ鼻ご境①ロロ包昏⑦.
︑具①︒犀口①○両FOC嵐卸自己巳匿の呉汁罰⑦○吋﹈︺ロ両己哩色ロQ
﹈獣Cl扇8︵目冨ショ①国8口国一男○吋苛昌①乱①尋︾
ぐ巳.※ぼく胃︶zoL﹀○貝.むち︶
︵自然状態とロック的政治班諭の衰微︶
本多四郎
本論丈は標題の示す如く︑夢①切冒g島国目目のといふ概念
華︲報︲︑ I
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が十八世紀の經過とともに︑幾多の迂除曲折を經ながら衰退し︑
そしてそのことがイギリスの政治思想の鎚化にいかなる役割を
波じたかといふことを論究せんと試みるものである︒即ち
号黒国具な旨爵胃な自然状態概念を奉ずるロック説が︑
罠い3国︒具なめon巨○哩︒呉な自然壯態概念を假説とするルーソ
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オ識を契機として修正を像俄なくされ︑途にはこの二つの
目ao巳号日○○国&も世紀の改まると共に︑国巨﹃胃.勺呉g︾
国⑦昌冨日等のロ邑冒爵昌如日によって否定され︑こ上にイ
ギリスの政治思想の流れは十八世紀の末年に一大輔換を途ぐる
に至ったと紺論する︒
さてルーソオの国罵解8口色目の8胃切のは蛾始イギリスに
於ていかなる態度で迎へられたのであらうか︒それは堆始決し
て献迎されたわけではなく︑寧ろ彼の自然状態は不合理なもの
と老へられ︑その吾⑦釣具言︺⑦の﹄叩具目鼻目①画且釦忌は拒否
された︒
次いで一七七○年代の詞釣会︒鳥即ち胃島︑○口.層国鳥︾
旨鼻讐①雪詞○国目印○口冨○胃房︺○国ロぐ旨⑦切言号・国o冨己
も﹃︼︒⑦等はルーソオ的概念を媛川することによって自己の説を
修正しながらも︑あくまでロック的仰統に立って自然樅を主張
した︒従って彼等のルーソオに對する態度は必ずしも友好的で
はなかった︒
これに對立するシ具富民o己のは自然壯態に對する態度の祁
迩によって二つのグループに分けられる︒併し自然樅を排撃せ
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んとする鮎に於て雨者は一致する︒先づ一七七○年代の自然状
態を容認する﹈・の①暮言目胃翠﹈o冒君罠四日固の5房刷等
は︑新しいルーソオ的概念を利川することによって自然樅を拒
否せんと志した︒これに對して一七八○年代のぎ日⑦﹈2首の︾
﹈oの一島目ご鼻⑦﹃等は自然状態及び号⑦画口昌胃爵具目鼻胃の
色且胃斤を否定することによって自然椎を攻準しようと試み
た︒
ところが一七九○年代に入ると︑自言日尉宅昌口①がロック的
仰統に立って国警厨鳥目鱒昌ご雪を主班した︒そこでシロー
芽画含量の就中同QB匡口旦国胃冨︾国︒言己国昌︾国呂想ョ︲
g一昇等はこれに反駁し︑途にはルーソオ及びロックの契約説
そのものを全く否定するに至った︒かくて逆は功利主義者へと
池ずるのであるが︑彼等は自然状態に閥する老へを明白に袋表
してゐない鯛に︑こLでは割愛されてゐる︒
要するに論者が︑﹁愛化した自然状態概念が︑イギリスに於
て十八世紀の後半を通じて起った政治思想の愛雌に於ける唯一 の或は妓も亜要な要素でなかったといふことは云ふ迄もない︒
︑.・・・併しながら現変的な愛化を斑したところの冒詳①目は︑
主として自然状態及び自然と作爲との對立を包含するところの
流罪にょ2L決定されたのである︒しかもこれらの論争は︑他
のどの審物よりもまさって弓冨酔CO且︒﹄の8邑圃のによって
惹起されたのであるから︑我為はルーソオの論文に對して︑イ
ギリスに於ける自然椛読崩壊の一般的も鼻言目を決定するに稀
一七○・
っての支配的な影無力を正常に附與することが出来るのであ
る﹂と語る如く︑自然椛挽の崩壊に於ける自然状態概念の役割
別してルーソオの新概念の意義を主張せんとするものである︒
この方面の研究の比較的乏しい折から︑自然舩態概念の二つ
のタイプを明味にし︑ルーソオ的新概念を媒介とすることによ
って︑自然樅説の崩壊を見ようとするのは心多くの駿示と興味
を典へるものと云へよう︒
同貸畠aF・の︒冨匡ロ﹈︑○・国︒茸⑦魚国包渥昌餘︲
ぬ⑦日冨の日︵勺匡きい○℃ごo昌詞⑦乱①尋︾ョ︒︷.×F胃×壷
zo皀寧曽目.おち画己ワSl総︶
︵フイヒテと反セミテイズム︶
本多四郎
ユダヤ問題は現今の史學界︑特にナチス史學に於ては︑極め
て亜要な課題の一つをなすものである︒こLに紹介される論文
は昨年米幽に於て發表されたものだけに自ら興味深いものがあ
らう︒猫ぼ同舎畠aFo甸昌陣言ロワはz○周忌君⑦鼻2回ロ己.
の哲學数授であり︑弔昌Oの○℃ご︽&畠遍呂の著によって知
られてゐる︒・
論者はフィヒテが通常反ユダヤ王義者と目される根蝶となる
一七九三年の反ユダヤ論説をとりあげ︑成程それは城端なる反
ユダヤ主義を標梯するものには相通ないが︑果してそのま上受
容れられてよいものか否かを吟床し︑結局それは云は冒一つの
11
■■︑d1i■■■■■09■1日1日■皿■11グ I
〆 エピソードに過ぎないものであることを諭證し︑以てフイヒテが必ずしも反ユダヤ主義者でなかった所以を明雌にせんと試みる
︒
︑論者は弓胃○号魂淳胃呂がもその著・国目色冒呂号境
夕旨鳥貝国鳴恥己尉割﹃旨冨狩胃目目鼻闇︒胃ロNp門国⑦巨再凰言国晒
号印甘昌腎目く○房①︑に於て︑フイヒテを反ユダヤ主義のイデ
オローグと見倣してゐるのに反封して︑次の三つの識問にわた
もって解辨を典へんとする︒
先づフイヒテの反ユダヤ論説はフィヒテに開する限りいかな
る安柑性を有するか︒文いかなる範囲に於て︑いかなる根撫に
韮いて記述されたのであるか︒これに鋤しては︑フィヒテは感
情的興謝の際とか︑迩徳的理想に熱中してゐる際には︑往為哲
學者としての冷静と熟慮を鮭くことあり︑又彼が政治的動剛︑
思想的愛革の中に生涯を送らなければならなかった關係上︑彼
の思想乃至は内而生派には絶えず愛動が継起し︑鰯に:ロ○H︲
日堅な粘祁壯態が起り勝ちであったことが翻意されねばならな
いとする︒
さて問題となるのは一七九一二年の胃胃待の園胃国自呂苧
瞬巨口輌届国.Q・関口昇⑦号且①の宅戸忌二︒p自切ご丘胃&①南国ロN房﹄︲
の号①ロ詞①ぐ巳昌さロであるが︑シ号①﹃は同年固め①ロ日①ロ照制
烏周り鼠冨zg算①旨①日ぐ︒目呂のの只鼻計爵目の︒胃︒夢3
国口旦①回国の胃目もHo毎めい○吋目︒胃①︒旨﹈⑦己.釣を公にして︑フイ
ヒテを反ユダヤ主義者として擁誰したのに剥して︑F⑦く﹈は
韮報 1111
国︒胃①匡口旦昌⑦旨号ロに於てこれに反對した︒か坐る論争の
あとをうけて︑論者は国①奇骨①は畢竜個人的︑疵愈的理由よ
りして︑冷静な批判的思索の統除より生じた号ロ日日色一な所
産であると断定し︑従って或稚の限界のもとに理解されねばな
らないと主砿する︒
次にフイヒテは佃人的にはユダヤ人に對していかなる態度を
とったか︒又これに州聯してどういふ生油原理を抱いてゐた
か︒これに鋤してはもフイヒテは佃人的一卜はユダヤ人との間一卜
何らの不和乢朧はなく︑寧ろ数為の親交を結び︑時には彼等を
擁識するやうな場合もあったことを猯描し︑又彼の生派は宗教
的逝徳的理想に導かれ︑洩人の自由と平等とを希願してゐたこ
とが棒へられる︒
雅後に鋤ユダヤ人の井別的法律或は行鰯と彼の図家籾との關
係であるが︑彼にとっては図民は云は図文化的凹氏であり︑
ロ旨凹畠旦①胃⑦︾且胃昏胃時含めぐ①忌匿計昌關月の己魁冨胃砂
曽日ご日ロ匡艮Rao胃に於ける王図は自由と平等に立脚す曇へき
正義の王凹である︒か当る図家糎のもとに於てはユダヤ人に對
する差別的待遇の依搬す今へき理論的根擁の存する像地はない︒
かして諭若は次の如く結論する︒﹁フィヒテには︑彼の個人
的特徴よりして︑冷綿な批判的な思想や︑熟考された言論への
通を塞ぐ激怖と熱中とを考應に入れなければ批肌され将ない郡
態が生涯を池じて鮎綴してゐた︒一七九三年の国①胃筒①の反
ユダヤ諭挽もこの中に入れられなければならない﹂と︒
〃
一七一
111
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北九州考古學會 北九州に於ける古代迩賦及び迩物の新發見
一︑ゞ肥前粘隈山抑掩石
佐孤縣佐弧郡久保果村字小城内に溜池工那が昨年より行はれ
てゐたが︑現場の技手石井他吉氏によって池洲に花間岩の切石
が並列してゐる郡が注意され︑之が祁繩石の迩砿である郡が確
認された︒抑施石は筑前の禰山︑鹿毛馬︑筑後の向氏山︑女山
挫前の御所ケ谷周防の石城山の六ヶ所が数へられ︑それが築掛
の目的には紳域説︑城榔詑等あって︑往年の史學界を賑した問
題であったが︑銭に一新例を加へ︑辿賦の再検討が要望される
に至った︒備迩跣では未だその全貌が明にされてゐないが︑有
明北洋の佐批平野を展望する景勝の雑隈山の南舵に挺為と辿る
列石があり︑水門阯も二ケ所推定される︒我が図史研究室の有
志も去る七月六日韮山図民學校長松尼祓作氏の來逝によって疵
地踏交を試み︑更に糀盃の計劉をたてた︒
二︑平安初期の有銘梵鐘
筑前早典郡内野村にある西光寺の錬椣に︑平安初頭承和六年
の錨ある梵鐘が架けられてゐる事が世に公にされたのは蒋臘の
事であった︒鐘の大さは金高四尺四寸四分︑口外径二尺五寸五
分に及び︑銘は次の如く池ノ間一睡に鋳出されてゐる︒
承利六年鴨部立造便伯者図金石寺鐘
守誕三喪及□□口十八善祁深砂大將 難報
一七二・若貧欲者有犯畑心必滅共身亦子孫類 廻向聖朝図吏臓衆伽蛙恒久佛法興隆
一家繁鳳戎代金保法界□□□口利益
銃の形や字髄も平安初期の時徴を示し︑時に龍頭は口を左右
に突出せしめる珍奇なものであ︾亀銘丈によって明かなる如く
この鏑は元来伯者図金石寺にあったものであるが︑この寺は未
だ明にされてゐない︑西光寺に博へられる番類によると永緑二
年出雲の多祁寺に移され︑明治二十二年寅却せられて大阪に出
たのを︑寺の先住が腓められて西光寺に移されたものといふ傳
來が明にされてゐる︑年號銘を有する梵銃としては我叫錐四の
古銃である︒寺では日夕常川の銃の由来を明にして︑取扱に注
意すると共に︑國喪申講中である︒
三︑筑前閏分寺の瓦窯
而岡縣筑紫郡水城村の筑前図分寺には︑創延怖昨の瓦を焼い
た窯があって︑史賦に桁定せられてゐるが︑今回新に平安時代
寺の修覆に凧ひられたと推定される瓦窯が装見された︒その位
涯は寺の南方約五百米突の地鮎にあたる山林中にあり︑長さ約
十三尺の登り窯である︒国史研究室有志は水城村幽民學校の按
助を受けて︑去る七月九日より十四日に亘って發州捌禿を行ひ
大きな收漉をあげた︒天井一部の落盤ある外︑焚口より蠅出に
至るまで完全な形を保存してゐる︒窯内鑑見の瓦叶には﹁筑
前﹂﹁介﹂﹁佐﹂等の押型鈴があるものを交へ︑特に﹁天延三
年﹂の銘ある喝李瓦破汁は迭瓦の年代を知るものとして並も黄
V
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ロ
亜な採娠品であった︒現在國分寺には﹁天延三年七月七日﹄の
押型銘あるほ図完全な平瓦を識してゐる︒
四︑太宰府四王寺山の經筒
太宰府の四王寺山は天智天皇の御代築かれた朝鮮式山城大野
城の所在地であるが︑奈良朝末に四天王が城域に奉祀されこの
名が起った︒平安時代を通じて西海の佛賦として瓢れる所であ
るが︑既往山中より純筒發掘される事多く︑その一部は國喪に
指定されてゐる︑峨近村民による盗掘が検畢され︑四個の經筒
が明みに出された︒その一つには﹁大日本図永久二年十一月二日罐筑前杵御笠郡宏樂寺﹂云為の刻銘あるものがあり︑青磁1塊︑刀子等を副へ筒は素焼の謹の中に容れられて埋められてゐ
たといふ︒又一個は相輪のある蓋を持ち理瑞が垂下され︑筒身
は二険の祇上式の優品であった︒何れも藤原時代の迩品と思は
れ︑この地方の佛敷文化の辨及を示す養料として武亜なもので
あった︒︵鏡山︶
近刊書紹介|
武藤長賊博士著﹁日英交通史之研究﹂の改訂轆袖
節二版の出版について
長崎商商名器教授武藤長減博士は先に昭和十二年﹁日英交通
史之研究﹂を發表せられたが︑こ坐・に本年一月新たに改訂墹柿
を加へて節二版の出版を見るに至った︒
今術︑長崎商商に誹師として子弟の訓育に満られつ上︑老年
乗報
︑14
41■1111.J小川Ⅱljdql14J刀1J伽Fpu■Ill1qJ︲︲j・I■ⅧI0qq〃︲I■IIJⅡ01Ⅱ1111.■q1d■1℃
dl1 増為學究的研蛾に勵まかつ基ある博士に鋤し瀧腔の敬意を表すると共に︑現今東亜共榮圏の確立に適進し對英図策の簸も亜大なる我図にとり誠に慶蟇へき事である︒輝士の歴史家としての態度はその錐二版の自序によれば純學術的なる立場を堅持すると共に︑その史籾はローマの史家タキッスの如く逝徳的見地より歴史を批剣せんとし︑ドイツの詩人評三斤﹃﹀g①急①肩①︲・匡︒胃の冨烏弓①肩①国︒言の句をひかれてゐるが︑之は東亜共榮圏に於ける日本の立場︑英國の位肚を定め眞の世界平和︑図際親善の迦に池ずるものと恩はれる︒
溥士の此の若番の初版に就いては既に史學雑誌錐四十八編策
九號︵小野森人氏︶︑史林隼二十二巻津四雛︵西井克己氏︶の
紹介批評があったが︑此の機含に主として新たに全艘の簡単な
綱目をあげると共に主として蛸訂の部分を紹介をなしたい・
錐一編﹁日英交通史概掘﹂として西歴千六百年︵慶長韮年︶
のウイリアム・アダムスの蝦後渡来以後︑明治︒︑大正・昭和時
代に至る迄の史庇を概籾してゐられるが︑勝にその初期に亜鮎
をおかれてゐる︒
節二細﹁日英交通史料﹂は日英交通史に剛する内外の番雑℃
︑・丈番︑廟腫︑.給岡等をあげてゐられる︒此の緬は本番八五三頁
の中の約牛を占めてゐる︒
第三編﹁初期日英交通史の重要文献﹂はウイリアム・アダム
ス︑ジヨン・セーリス︑リチャード・コックスに關する文献を
あげてその解説︑研究をなしてゐられる︒
一七三