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真宗研究46号全

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全文

(1)

ISBN 0 2 8 8 ‑ 1 9 1 1  

慎宗連合學會研究紀要

第四十六輯ー一

平 成

1 4

1

虞 宗 連 合 學 會

(2)
(3)

真 宗 研 究

真 宗 連 合 学 会

(4)
(5)

大 乗 菩 薩 道 と し て の 親 鸞 浄 土 教

⁝ ⁝

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・ ・ 高

本願為宗・名号為体………•大

親鸞聖人における﹃往生論註﹂受容の視点⁝龍谷大学

回向論を中心として1

世 俗 化 の 中 の

﹁ 顕 真 実 教 ﹂

⁝ ⁝

⁝ ⁝

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・ ・ 大 谷 大 学

ー浄士真宗における﹁教﹂の今日的意義

親鸞教学における﹁方便﹂の考察⁝⁝⁝⁝⁝・高

真宗倫理再考………••京都女子大学

│﹁世をいとふしるし﹂をめぐって

1

戦国期本願寺﹁報恩講﹂をめぐって⁝⁝⁝⁝・大谷大学

﹁門

跡成

﹂前

後の

﹁教

団﹂

法然・親鸞と末法思想⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝本願寺派

伝道的視点からの一考察I

存覚教学における幸西義の受容について⁝⁝本願寺派 真 宗

田 谷 田

派 派 派

研 究 第 四 十 六 輯 目 次

堀 高

山 秀

安 藤

徳 永 道 雄

︵ 七 六

島 武

祐彰

(‑

︱︱

i︿ )

義厚

︵空

︱‑

加 来 雄

竹 原 了

晋︵

二六

珠︵

一写

之︵

四写

弥︵全︶

嗣︵

三一

安 藤 章 仁 (

)

(6)

会 員 異

1

..................................................................................  . 

(

 

会 彙

﹃ 教 行 信 証 ﹂ の 言 葉 の 源 ⁝

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⁝ ⁝

⁝ 同 朋 大 学

ーその漢文的背景と仏教的背景

佛光寺の名帳・絵系図について⁝⁝⁝⁝⁝⁝

. .  

佛 光 寺 派

│ー特に物取り信心説を中心に

親鸞浄土教形成の思想史的背景⁝⁝⁝⁝⁝⁝:龍谷大学

^記念講演

V

現代真宗真偽論………••信

ー—まことの真宗とうその真宗!

月 :

. . .

. . .

. . .

. . .

. . .

. . .

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. . .

. . .  

寺 井 良

藤 谷 信

楽 峻

宣︵

一会

偉︵

一吾

道︵

一七

0)

麿(

I O I )

( ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ‑ ︶  

(7)

大乗菩薩道としての親鸞浄土教

親鸞の宗教の本質を明かすということは︑またその仏道を歩んで行くということは︑同時に菩薩道の至極を開顕す ることでなければならない︒菩薩道は大乗の仏道の原点であり︑﹁上求菩提下化衆生﹂﹁自利即利他﹂を根本命題とす る成仏道である︒この大乗仏教の根本精神を規定とし︑これを行動原理としてこそ︑宗教がその根抵から疑問視され ている現代において種々に生起する諸問題を超克していく方途が開示されると言い得る︒真宗学における現代社会に 対応する実践の構築という喫緊の教学的課題も︑真に真宗念仏者の生き方として現代化するためには︑現代という時 代に生起する具体的な問題を自らの大乗仏教徒としての主体形成の実践契機として捉えていかなければならない︒そ のことは真宗教学における菩薩道的発想の教学的営為がかかる諸問題を掻い潜って構築されてこそ︑その課題に真に 対応できるのであり︑同時にその者に大乗的生命を本質的に実現する方途が見出され︑また菩薩道に生きる念仏者の 親鸞はこの大乗菩薩道が︑末法の凡夫の上に行証されてゆくということを︑如来の二種廻向の内に開示し︑身をも

大乗

菩薩

道と

して

の親

鸞浄

土教

現代的意義が積極的に提起されてくると言える︒

は じ め に

高 田 派 安

藤 章

(8)

大乗

菩薩

道と

して

の親

鸞浄

土教

って念仏成仏という仏道を明らかにした︒ならば親鸞における念仏行者の大乗菩薩道的実践とは如何なるものであっ たのであろうか︒そこで以下︑親鸞の教えが菩薩道ということで方向で位置づけられる具体性の中に︑その菩薩道に

獲信の念仏者が︑

いかなる真実証を得るのかということを明らかにしたのが﹁証巻﹂である︒﹁証巻﹂の構成は大 きく二つにわかれ︑往相の証果と還相の悲用がそれぞれ第十一願と第二十二願に立脚し展開されている︒

まず往相の証果とは︑﹁利他円満之妙位︑無上涅槃之極果﹂であると明示され︑往相廻向の心行を獲得した念仏者 は︑信一念同時に現生不退と必至滅度の仏果を証するとされる︒そして往相廻向の教・行・信・証の四法は︑﹁如来 次に還相の悲用とは﹁利他教化地の益﹂のことで︑浄土に往生した者が滅度を証した後︑現実世界に還来して衆生

を教化することである︒親鸞において還来械国の衆生摂化は︑第一︱十二願に基づくものであり︑その特徴を願名とし て︱︱一種あげるが︑願文は﹃論註﹂の中に出てくるので﹁不出﹂としている︒またこの所誓の願は︑還相が証果の悲用 であるから標願としては掲げられていない︒﹁証巻﹂の大部をしめる還相廻向釈では︑﹃論註﹂を引証しながら還相の 菩薩がいかなる菩薩道を行ずるのかを明らかにしている︒

それでは往相の証果を得る念仏者は︑ 大悲廻向之益﹂であると結んでいる︒ 生きる念仏者の実践を窺ってみたい︒

いかなる仏道を歩むのであろうか︒しかしながら﹁証巻﹂にはその実践が具 体的には何も語られていない︒﹁証巻﹂の重点は︑還相廻向釈にあり︑その大半が還相の行について説かれ︑往相の 行はほとんど説かれていないのである︒この点をいかに理解したらよいのであろうか︒

親鸞における獲信の念仏者の仏道

(9)

には消息に オシエザレドモ自然真如ノ門二転入スル

︵真

聖全

︱︱

ー六

五︶

一般に浄土教における行は︑往相の行を自利︑還相の行を利他として理解されている︒しかし親鸞の仏道体系には

このような見方は存在しない︒すなわち往相における仏道は決して自利のみではなく大乗仏教たる自利利他の道であ り︑後に考察するように親鸞は明らかに往相における利他の行を語っている︒利他行は還相摂化に極まるものである が︑還相の行にのみ限定されるものではない︒また︑もし往相の行が自利のみと限定されてしまえば︑獲信の念仏者

の実践は成立しないことになってしまう︒なぜなら親鸞浄土教には︑自らの往生を願うための自利の行は成立しない

ところに救済論の特性があるからである︒﹁信巻﹂欲生釈に︑

微崖界の有情︑煩悩海に流転し︑生死海に漂没して︑真実の回向心なし︑清浄の回向心なし と看破されているように︑それがどんなに真摯な仏道の歩みであっても未信の念仏者には︑自利の往生行は成立しえ ないのである︒それでは衆生はいかなる仏道を歩むのか︑またいかにして獲信をするのか︒それは﹁信巻﹂の中心問 題として︑ことに﹁信一念釈﹂において獲信する衆生の﹁聞﹂の仏道が明かされてくるところであるが︑紙面の都合

上︑課題究明を獲信の念仏者の実践が︑まさしく大乗菩薩道であるという一点に絞って論じていくことにしたい︒

三願転入によって明かされるように衆生の自利による往生行は︑親鸞においては成立するものではなかった︒なぜ

なら第十九願•第二十願の自利の念仏は、それらが完全に否定されることによって第十八願への転入が達成されるか

果遂ノチカヒニ帰シテコソ らである︒しかも第二十願から第十八願への転入は︑

定散自カノ称名ハ

︵﹃

浄土

和讃

﹄真

聖全

ニー

四九

︱︱

‑︶

とあるように願力自然のはたらきによる自力から他力ヘの展開であるからである︒願力自然のはたらきとは︑具体的 この真実の信心のおこることは︑釈迦・弥陀の二尊の御はからひよりおこりたりとしらせたまふべし

大乗菩薩道としての親鸞浄土教

(10)

ある

大乗

菩薩

道と

して

の親

鸞浄

土教

とあるように釈迦・弥陀︱一尊の往相廻向による︒諸仏の讃嘆が衆生の行に即応するところに自力念仏が止揚され︑仏

の他力性が徹底されるのである︒だからこそ﹁行巻﹂では第十七願を﹁往相廻向之願﹂と名付けるのである︒

ここで留意すべきことがある︒信巻別序に示されるように私たちの獲信は︑まさしく﹁如来選択の願心﹂によるも

のであるが︑その信楽が私の心に如実に覚知されるのは﹁大聖衿哀の善巧﹂によるということである︒親鸞が﹁行

巻﹂冒頭の標挙において第十七願を細註して﹁浄土真実之行﹂﹁選択本願之行﹂というのも︑このことに重なってく

一切の衆生を救う念仏行の真実の実践であり︑その行がまさしく弥陀

の誓願である名号のはたらきを顕彰するのである︒ここにおける救済の重層的構造は︑決して弥陀の救済の不完全性

を言っているのではない︒弥陀の迷える衆生を済度する二種の廻向は︑﹁いま﹂﹁ここ﹂に確かに現働している︒しか

しながら衆生がどれだけ一心に念仏を称しても煩悩具足の凡夫の心には弥陀の信楽は開かれない︒だからこそ衆生に

名号の頁実を聞信せしめる善巧方便のはたらきが必要となるのである︒ここに﹁如来ノチカヒノ名号ヲトナエムコト

(2 ) 

ヲス︑メタマフ﹂︵真聖全ニー五六

0)

と註解された乃至十念の本願成就文の意義がある︒

そしてこの善巧方便の歴史的展開を明らかにしたものこそ﹁行巻﹂の内容である︒事実︑この巻のみが︑浄土経典

にはじまりすべての七高僧を含めた浄士の先達の文によって構成されている︒ここでは︑釈尊から親鸞へ至る浄土真

実の行が明され︑往相の証果を得た念仏者による未信者を獲信へと導く称名念仏の讃嘆が語られている︒ここに従来︑

問われることがなかった正定緊の機たる念仏者の歩むべき仏道︑すなわち現世における往相の利他行の開示を見るの

である︒したがって﹁証巻﹂に問われることのなかった往相の行は︑﹁行巻﹂において説かれていることを知るので る︒すなわち弥陀法を説く釈尊の善巧方便が︑

︵真

聖全

ニー

六九

三︶

(11)

の心なし︒是以︑如来︑ ここで親鸞における菩薩の存在形態について考えてみたい︒﹃数行証文類﹂における菩薩について言及した用例は︑

ほとんどが引用文によるもので︑自身の言葉として述べる箇所は頗る少ない︒この点︑和語聖教とは対照的である︒

もっとも和語聖教では固有名詞として冠される場合が多いので簡単に両者を比較することはできない︒

(3 ) 

親鸞の著述に現れる菩薩の用語例は非常に多岐にわたるものであるが︑いまは念仏者に成立する大乗菩薩道を考え

る上で三つの存在形態を取り上げ︑親鸞の大乗菩薩道思想を明らかにしたい︒

︿弥

陀因

位の

菩薩

(4 ) 

親鸞の開顕した往還二廻向の仏道は︑弥陀因位の法蔵菩薩の菩薩行と願心に成立根拠がおかれ︑

イカデカ涅槃ヲサトラマシ

︵﹃

正像

未和

讃﹂

真聖

全ニ

ー五

0)

と明かされるように︑その菩薩行を宗教的実存に廻向するという形態で︑大乗の仏道体系に組み込まれている︒この 意味で親鸞においては法蔵菩薩が大乗菩薩行の究極的具現者であり︑その菩薩道理念の基底は︑聖道門における成仏 道としての自力向上門的な菩薩道ではなく︑浄土門的な往生成仏道としての他力向下門的な法蔵菩薩道であったこと

(6 ) 

が理解される︒また﹁信文類﹂︱︱︱︱問答法義釈下において︑

一切の群生海︑無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで︑械悪汚染にして清浄の心なし︑虚仮詔偽にして真実

一切苦悩の衆生海を悲憫して︑不可思議兆載永劫において︑菩薩の行を行じたまひしと

大乗菩薩道としての親鸞浄士教 智慧ノ念仏ウルコトハ

法蔵願カノナセルナリ信心ノ智慧ナカリセバ

親鸞における大乗菩薩道の思想

(12)

即得往生は︑後念即生なり けとめられていたからである︒

大乗

菩薩

道と

して

の親

鸞浄

土教

き︑三業の所修︑

即のとき必定に入る文 一念一刹那も清浄ならざることなし︑真心ならざることなし

一々の菩薩は︑すで と︑親鸞が衆生に廻施される三心を法蔵菩薩の菩薩行そのものの境位にまで立ち帰って位置づけている点から窺われ

(7 ) 

るように︑開発される信心そのものは法蔵菩薩所修の五念門行の現実的成就態でなければならなかったのである︒し

たがってここに念仏者の信心に大乗菩薩道が成立し得る必然的根拠を見ることができるのである︒そしてさらにここ

において︑法蔵菩薩という語によって説示される弥陀の因位性は︑単に仏を志向する従因向果の意ではなく︑むしろ

無限の現働態としての従果降因の意を持たすところにその表現的意義あり︑法蔵菩薩における阿弥陀仏としての動的

現実相の開示を見ることができる︒また同時に親鸞において︑このように法蔵菩薩の救済者的顕現が常に力説してや

まなかったのは︑親鸞の信心体験においてそれほどまでに凡夫としての有限な自己の姿が深刻な具体的事実として受

︿獲信の念仏者の嘉称としての菩薩﹀

親鸞は︑浄士の真実信心の人を讃えて︑諸処において菩薩と呼んでいる︒

初果の究党して涅槃に至ることを得るがごとし︒菩薩この地を得れば︑心つねに歓喜多し︒自然に諸仏如来の種

を増長することを得︒︵略︶菩薩もかくのごとし︑初地を得をはるを如来の家に生ずと名づく

にむかし無数の諸仏を供養せりき︑次いで弥勒の如し

︵﹁

行巻

﹂真

聖全

ニー

九︶

仏︑弥勒に告げたまはく︑この世界より六十七億の不退の菩薩ありて︑彼の国に往生せん︒

︵﹁

信巻

﹂便

同弥

勒釈

真聖

全ニ

ー七

九︶

︵﹁

至心

釈﹂

真聖

全ニ

ー六

0)

(13)

︿﹁証巻﹂に引証される菩薩﹀ に阿弥陀仏と名づけたてまつると︒是れを他力と日ふ また必定の菩薩と名づくるなり文

︵﹃

愚禿

紗﹄

巻上

真実の行信を獲れば︑心に歓喜多きが故に︑是れを歓喜地と名づく︒是を初果に喩ふることは︑初果の聖者︑な

ほ睡眠し瀬堕なれども一︱十九有に至らず︒何況や十方群生海︑斯の行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず︒故

(﹁

行巻

﹂真

聖全

ニー

︱︱

︱︱

︱‑

と自釈されるように︑獲信の念仏者は︑﹃十住毘婆沙論﹂に依拠して﹁如来の家﹂に生じた初歓喜地の菩薩と同価な

る存在として把捉され︑さらに信心が弥陀によって廻施された﹁浄信﹂と捉えられるが故に︑その信心を開発する念

仏者は︑菩薩の十地を全て超克した弥勒菩薩と同一なる存在と位置づけられる︒そしてこのような親鸞における本願

力廻向成就の信の力用と十地の道程において行ぜられる菩薩行が本来有している証悟への力用とが全く等価なるもの

(8 ) 

として把捉する立場を基礎づけたのが︑浄土教的菩薩道観の理論︑特に曇鸞浄土教を具体的契機とするものであった︒

親鸞は決して自己を直接に菩薩と名告ることはなかったが︑親鸞においては獲信の現事実に﹁便同弥勒﹂という覚醒

体験の自覚があったからこそ︑真実信心の念仏者をそのように呼称できたのである︒

﹁証巻﹂に引証される﹃論﹂﹃論註﹄所説の菩薩における自利利他の行の論理にも︑大乗菩薩行を成就する論理的

過程を解明するとともに菩薩道の究極的形態を明らかにしている︒

まず菩薩行の形態としては︑四種︵不動而至・一念遍而・無余供養・遍示三宝︶の正修行功徳成就があり︑この四

(9 ) 

種は真如に即応する行であるが故に正修行と呼ばれ︑ここには菩薩の利他行の完全性が語られている︒この法性に随

順した如実修行の論理の具体的内実が五念門行として展開するのである︒

大乗

菩薩

道と

して

の親

鸞浄

土教

親鸞の菩薩観においては︑ 真聖全ニー四六

0)

(14)

作願して一切衆生を摂取して︑共に同じく彼の安楽仏国に生ぜしむ

一切衆生を直接に成仏させることではなく︑衆生と共に﹁畢党成仏道路﹂であり﹁無上方便﹂

である安楽仏国へ生まれることを作願することとされている︒なぜならば広略の止観の相順修行により理智不︱一の般

( 10 )  

若︵不︱一心︶が成じ︑三界衆生の虚妄相を知り︑火摘の瞥喩の如くになされる﹁真実慈悲﹂が生起するからである︒

ここに三句展転相入を基底とする浄土の実相性が菩薩の巧方便廻向を成就する根本的契機であることを窺うことがで きるのである︒さらなる菩薩行の具体的内実は︑﹁障菩提門﹂﹁順菩提門﹂﹁名義摂対﹂を通して智慧と慈悲と方便と の関係において論じられ︑そしてその救済活動が究極的に完結するのが︑出第五門の薗林遊戯地門における教化地に

( 12 )  

至る廻向である︒この出第五門における﹁自在﹂﹁度無所度﹂の救済の遊戯性によって性格づけられた菩薩の働きこ そ︑菩薩利他の究極的形態であると言い得るのである︒それを親鸞は︑

出第五門とは︑大慈悲を以て一切苦悩の衆生を観察して︑応化身を示して︑生死の薗の煩悩の林の中に回人して︑

神通に遊戯し︑教化地に至る︒本願力の回向を以ての故に︒是を出第五門と名づくとのたまへり と明不するように︑﹃論﹂当面では﹁本願力を以て回向するが故に﹂︵真聖全一ーニ七七︶とある文を﹁本願力の廻向を

以ての故に﹂と読み変えることによって︑菩薩の本願力廻向による還相廻向の成就を開顕するのである︒

以上︑親鸞における菩薩の存在形態から︿弥陀因位の菩薩﹀︿獲侶の念仏者の嘉称としての菩薩﹀︿﹁証巻﹂引証の 菩薩﹀という︱︱一種に基づいて親鸞の菩薩観を窺ってきたわけであるが︑さらに展開させ︑まさしく親鸞浄土教に大乗

菩薩道が成立する根拠を明確にしたい︒ とされているように︑ によれば︑その巧方便とは︑

大乗

菩薩

道と

して

の親

鸞浄

土教

菩薩による救済活動の成立根拠は︑﹃論註﹂善巧播化章に明かされる巧方便廻向成就に求められる︒﹃論註﹂の説示

︵真

聖全

ニー

一︱

三︶

︵真

聖全

ニー

一︱

八︶

(15)

者にどのような意義があるのであろうか︒

と示し︑信心が菩提心であると定義づけた︒﹁侶文類﹂では︑その菩提心を釈して︑

横超とは︑斯れ乃ち願力廻向の信楽︑是れを願作仏心即ち是れ横の大菩提心なり︒是れを横超の金剛心と名づく

此の元上菩提心は即ち是れ願作仏心なり︑願作仏心は即ち是れ度衆生心なり︒度衆生心は︑即ち是れ衆生を摂取

と説示している︒ここに明らかなように親鸞における信心とは︑他力の大菩提心であり︑願作仏心・度衆生心であっ

( 13 )  

たことが窺われる︒親鸞の左訓によれば︑願作仏心・度衆生心とは上求菩提下化衆生を意味するものである︒ここに

浄土の菩提心が大乗菩薩道の自利即利他の課題を遂行するものであり︑親鸞が語る念仏・信心の仏道が大乗仏教の根

本原理に淵源し︑その大乗菩薩道思想の展開として開示されたものであることが理解される︒

獲信の念仏者を菩薩と同価に見る立場は︑その意趣を真仏弟子を﹁釈迦諸仏之弟子﹂と定義し︑その在り方︑状態

を第三十四願に基づき菩薩の無生法忍を得ることができると示すところにも見てとることができる︒

一番問題となることは︑その大部分が還相の行について説かれ︑往相の行がほとんど説かれていない﹁証巻﹂の構

造である︒往相の行については前章で解明したところである︒それでは還相の躍動の相は︑現生において獲信の念仏

大乗

菩薩

道と

して

の親

鸞浄

士教

して有仏の国土に生ぜしむる心なり︵﹃論註﹂引文﹁信文類﹂真聖全ニー六九︶ と述べ︑更に﹃論註﹂を引用して︑ るなり

︵﹁

信文

類﹂

真聖

全ニ

ー六

九︶

信心スナワチ一心ナリ一心スナワチ金剛心 が開顕されるものであった︒親鸞は信心について︑

︿弥

陀因

位の

菩薩

金剛心ハ菩提心 で明らかなように︑親鸞においては念仏者に開発される信心に法蔵菩薩の菩薩行の本質的意義

︵﹃

高僧

和讃

﹂﹁

天親

讃﹂

真聖

全ニ

ー五

0 ‑ ︱

コノ心スナワチ他カナリ

(16)

大乗

菩薩

道と

して

の親

鸞浄

土教

そもそも還相の利他教化は︑大般涅槃の証果により現れる力用であって︑現生の念仏者には成就されないものとし て来生に期せられるべきものと言わなければならない︒また︑親鸞が﹁総序﹂において﹃観経﹄所説の浄士の機縁を

( 14 )  

等しく﹁権化の仁﹂とし︑同趣に﹃高僧和讃﹂において善導・源信・源空を浄土より来現する還相者として讃述して

( 15 )  

いることにも注意しなければならない︒すなわち親鸞においては還相摂化は︑自己に意識化されるものではなく︑や はり浄土に往生した者が証果の悲用として再び還来械国してなされる摂化の行であったのである︒けれども往相と還 相は︑単純に時間的前後において把捉されるべきものでもない︒もし現生において還相が全く無意味なものであるな らば︑﹁証文類﹂の内容も異なった体を示してこなければならない︒親鸞は︑弥陀の廻向による獲信の瞬間に現実に 事実として往相の歩みの中に還相廻向の実践の意義が開示されていることを見出せたのである︒なぜなら︑

菩薩初地に入れば諸の功徳の味を得るが故に︑信力転増す︒是の信力を以て諸仏の功徳無量深妙なるを籠量して 能く信受す︒是の故に此の心また多なり︑また勝なり と説かれるように︑獲信することにより仏法の諸々の功徳を味わうことができるからである︒そして浄土の菩提心に 生きる仏道に︑教化地の菩薩と同質の働きが開示されるので︑愚悪の凡夫のままで往相の菩薩道を歩みながらも︑そ

こに真の大乗菩薩道が実現するのである︒

浄土の大悲を行ずる念仏者の姿

︵真

聖全

二│

+‑

︶ 親鸞における大乗菩薩道の実践内容は︑具体的には現生十益における﹁第八知恩報徳益﹂や﹁第九常行大悲益﹂に

説かれてくる︒就中︑常行大悲については︑

大悲経にの云く︒如何が名て大悲とする︒若し専ら念仏相続して断えざれぱ︑その命終に随ひて定で安楽に生ぜ

10

 

(17)

大乗

菩薩

道と

して

の親

鸞浄

土教

南元阿弥陀佛ヲトナフレバ 他カノ信ヲエンビトハ如来二種ノ回向ヲ 仏者の真の姿が語られている︒

︵﹃

正像

末和

讃﹂

真聖

全ニ

ー五

二六

む︒若し能く展転して相勧て念仏を行ぜしむるは︑比等らを悉く大悲を行ずる人と名づくと

と引証されるように︑念仏を相続し︑勧め行ぜしむることに尽きる︒そしてここで注目したいことは︑親鸞における

( 16 )

1 7

)  

真の仏弟子の﹁真成報仏恩﹂の内容である︒親鸞は﹃往生礼讃﹂当面では﹁大悲伝普化︑真成報仏恩﹂とある文を

﹁大悲弘普化︑真成報仏恩﹂と改読し︑真の仏弟子が大悲を伝えるのではなく︑﹁大悲弘普化﹂と信知する真の仏弟

子をして大悲が伝えられるということが﹁真成報仏恩﹂であるとするのである︒即ち︑﹁伝﹂を﹁弘﹂と置き換える

( 18 )  

ことによって獲信の念仏者の実践が作心なき度衆生心の利他の精神に究覚化されているのである︒

この浄土の大悲を行ずる真の念仏者の姿は︑逆謗摂取釈における﹃涅槃経﹄﹁梵行品﹂の阿闇世の廻心の説示に如

実に窺うことができる︒釈尊の﹁為阿闇世王無量億劫不入涅槃﹂という如来の密義に基づく月愛三味によって︑﹁必

堕無間﹂の阿闇冊が﹁我心無根心也﹂と発心し︑﹁世尊︑若し我れあきらかに能<衆生の諸の悪心を破壊せば︑我れ

( 19 )  

常に阿鼻地獄にありて︑無量劫の中に諸の衆生の為に苦悩を受けしむとも︑以て苦とせず﹂とまで語るのである︒す

るとこの阿闇世の獲信の歓喜により︑摩伽陀国の無量の人民の菩提心が発起せしめられ︑夫人︑後宮︑采女と共に阿

闇世自身も菩提心を発することになるのである︒獲信により歓喜踊躍して身も心も和む身心柔軟の阿闇世は︑正しく

真の仏弟子であり︑ここには﹁願作仏心即是度衆生心﹂の具体的事態が表現されており︑浄土の大菩提心に生きる念

親鸞は決して自己の上に還相の自覚を語らなかったが︑

仏恩報ゼンタメニトテ

︵﹁

信巻

﹂真

聖全

ニー

七七

十方ニヒトシクヒロムベシ

(18)

拠であると結論づけることができる︒ なをなを一念のほかにあまるところの御念仏を法界衆生に回向すと候ふは︑釈迦・弥陀如来の御恩を報じまゐらせんとて︑十方衆生に回向せられ候ふらんは︑さるべく候へども︑

( 20 )  

と語るなど︑自信教人信としての利他教化の大悲の活動をあっく思念したのである︒

以上︑親鸞の教えが菩薩道ということで方向づけられる具体性の中に︑その菩薩道に生きる念仏者の実践理論の考

察を試みた︒そして願作仏心即是度衆生心と捉えられる大菩提心の道こそ親鸞浄土教における大乗菩薩道的実践の根

(

1)

岡亮

二﹁

親鸞

思想

に見

る往

相と

還相

︵上

︶﹂

︵真

宗学

九一

・九

二合

併号

︶参

照︒

(2

)

﹁行文類﹂は標挙に﹁諸仏称名之願﹂とあるように第十七願の意を顕すものであり︑如来から衆生へ働く﹁杏磋称武名﹂としての称名と︑生因としての﹁乃至十念﹂の称名とは区別されなければならない︒岡亮二﹁行巻の称名思想﹂︵﹃浄

士教

の研

究﹂

所収

︶参

照︒

(3

)

武田龍精﹁親鸞に於ける菩薩の概念﹂︵﹃日本仏教学会年報﹂五十一号︑のち﹁親鸞浄土教と西田哲学﹂収載︶では︑親鸞の著述にみられる菩薩の語の一二百七十あまりの用語例から菩薩の概念を︑次の十項目に分類している︒①菩薩行成就の

︵真

聖全

ニー

六九

九︶

生に回向すればとて

︵真

聖全

ニー

六九

八︶

大乗菩薩道としての親鸞浄土教

南元阿弥陀佛卜称フレバ︑名号ニオサマレル善根功徳ヲ︑ミナタマハルト知ルベシ

ヒトシク衆生二廻向セム

︵﹃

正像

末法

和讃

﹂︶

一念のほかにあまるところの念仏は︑十方の衆生に回向すべしと侯ふも︑さるべきことにて侯ふべし︒十方の衆 と和讃で述べ︑消息の中では︑ 名号ノ功徳善根ヲヨロヅノ衆生ニアタウベシトナリ カノ清浄ノ善ミニエタリ 衆善海水ノゴトクナリ

(19)

法蔵菩薩、②菩薩行、③菩薩道階位の菩薩存在形態、④菩薩救済の論理と形態、⑤諸仏と菩藷、⑥仏国土(浄土•他方仏 土︶の菩薩︑⑦願生・往生・成仏と菩薩︑⑧否定的概念としての菩薩︑⑨菩薩の種類︑⑩固有名詞の冠せられた菩薩゜

(4

) その根拠としては︑﹁信文類﹂大信釈︵真聖全ニー五二︶︑三一問答︵真聖全ニー六

01 六六︶︑﹁真仏土文類﹂真仏土釈

︵真聖全ニーニニ七︶︑﹃文類緊紗﹂︵真聖全ニー四五一︶︑﹃愚禿紗﹂︵真聖全ニー四六五︶︑﹃入出二門褐﹂︵真聖全ニー四

八一︶等の説示や親鸞独自の読み方に散見される︒

5(

)

石田充之﹃親鸞教学の基礎的研究﹂三八九頁︒

(6

)

0

頁︶︒信楽釈︵真聖全ニー六二更︶欲生釈︵真聖全ニー六六頁︶︒

(7

)

武田龍精﹃親鸞浄土教と西田哲学﹄四ー六頁︒

(8

) 拙稿﹁曇鸞浄土教における行道の真実性ー浄士教的菩薩道理念の基底ー﹂︵﹃高田学報﹂八二号︶

(9

)

﹁真如は是れ諸法の正体なり︒体︑如にして行ずれば︑即ち是れ不行なり︒不行にして行ずるを如実修行と名づく﹂

I0

( 1 0 )

﹁如是というは︑前後の広略みな実相なるが如きなり︒実相を知るを以ての故に︑則ち三界の衆生の虚妄の相を知るな

( 1 1 )

﹁此の三句は展転して相入す︒何の義に依てか︑之を名づけて法となする︒清浄を以ての故︒何の義に依てか︑名づけ て清浄となする︒真実智惹無為法身を以ての故なり︒真実の智慧は︑実相の智慧なり︒実相は無相なるが故に︑真智無知 なり︒無為法身は法性身なり︒法性は寂滅なるが故に︑法身は無相なり︒無相の故に能く相ならざることなし︒この故に 相好荘厳は即ち法身なり︒無知の故に能く知らざることなし︒この故に一切種智は即ち真実の智惹なり﹂︵真聖全ニー一

( 12 )

( 1 3 )

願作仏心には﹁ミタノヒクワンヲフカクシンシテホトケニナラムトネカフココロヲホタイシントマフスナリ﹂とあり︑

度衆生心には﹁ヨロツノウシャウヲホトケニナサシムトオモフココロナリトシルヘシ﹂と左訓されている︒﹃正像末和讃﹂

( 1 4 )

真聖全ニー一頁︒

5 ) ( 1

善導讃︵真聖全︱一ー五

0八頁︶﹁大心海ヨリ化シテコソ

大乗菩薩道としての親鸞浄土教 善導和尚とオハシケレ末代濁世ノタメニトテ十方諸仏二

(20)

大乗菩薩道としての親鸞浄土教

ワレコソ故仏トアラワレテ

浄土真宗ヲヒラキッツ選択本願ノベタ 源信讃︵真聖全ニー五︱︱頁︶﹁源信和尚ノノタマワク

カヘルトシメシケリ﹂

源空讃︵真聖全ニー五︱︱二頁︶﹁智慧光ノチカラヨリ本師源空アラハレテ

マフ

﹂ (16)﹁信文類﹂真聖全ニー七七頁︒﹃礼讃﹂からの引用文中︒

(1

7)

真聖

全一

ー六

六一

頁︒

(18)このような理解は︑﹁真実信心ノ称名ハ弥陀回向ノ法ナレバ不囮向トナヅケテゾ自カノ称念キラハル︑﹂︵﹃正像

末和讃﹂真聖全ニー五︱

10

頁︶という和讃や︑﹁余のひとびとを縁として︑念仏をひろめんと︑はからひあはせたまふこ

と︑ゆめゆめあるべからず候ふ︒そのところに念仏のひろまり候はんことも︑仏天の御はからひにて候ふべし﹂︵真聖全

ニー七0七頁︶という﹃御消息集﹂からも窺うことができる︒

( 1 9 )

﹁信文類﹂真聖全ニー九二頁︒

(20)信楽峻麿﹁親鸞における還相廻向の思想﹂︵﹃龍谷大学論集﹂四三八号︶および︑浅井成海﹁法然門下の菩提心観(‑︱‑︶

ー親鸞の菩提心観を中心として﹂︵﹃真宗学﹂九一・九二合併号︶参照︒ 化縁スデニッキヌレバ

一四

本土

(21)

本願為宗・名号為体

親鸞は﹃教行信証﹂﹁教巻﹂において真実教を﹃大経﹂として確認している︒

それ︑真実の教を顕さば︑すなわち﹁大無量寿経﹂これなり︒

この経の大意は︑弥陀︑誓いを超発して︑広く法蔵を開きて︑凡小を哀れみて︑選びて功徳の宝を施することを いたす︒釈迦︑世に出興して︑道教を光闇して︑群崩を括い︑恵むに真実の利をもってせんと欲してなり︒ここ をもって︑如来の本願を説きて︑経の宗致とす︒すなわち︑仏の名号をもって︑経の体とするなり︒

ここには︑真実教は﹃大経﹄であるとして断言し︑その﹃大経﹂の大意として︑弥陀.釈迦の二尊が衆生の救いを 実現してゆくということを示し︑その﹃大経﹂の大意をうけて︑﹃大経﹄の経宗を﹁説如来本願為経宗致﹂とし︑経

体を﹁以仏名号為経体﹂と断定することが述べられている︒

親鸞が真実教を﹃大経﹂であると断言していく姿勢は︑﹁顕浄土真実教文類一﹂という表記に﹁教﹂とあるように︑

本願為宗・名号為体

大 谷 派 竹

2

︵﹁

教巻

﹂﹃

定親

全一

﹂九

頁︶

(22)

のもと︑その多種多様な諸経論にどのように対していくか︑どのように受け止めていくか︑という課題として︑雑然 とある諸経論の特徴と意義︑そしてそれらを比較・配列することによって仏教の根本義を見極め探求していこうとし ていくなかで︑行われてきたものとされている︒ただし当初は宗と体とが指し示す意味の区別は明瞭にされておらず︑

宗と体との意味を明瞭に区別して経典を捉えていった始まりは︑天台智顕によるとされている︒

智顛の宗義組織は五重玄義においてなされているが︑宗体説は︑その中に位置している︒その中で経体は﹁一部之 指帰︑衆義之都会﹂つまり一経典の本質︑そしてその本質は同時に一経典のみならず一切の経典の本質となるもの︑

一切の経典の一貰する本質が︑

経典に対していく者がその経典の根本原理を体認していくための実践修道を説いたからであり︑その経が説く修道の

(2 ) 

要点が﹁修行之喉衿︑顕体之要験﹂と述べられる経宗である︒このように宗体説は︑釈尊一代において説かれた経典 の本質・真実とは一体何か︑そしてその本質・真実を獲得していく実践修道はいかにあるべきものであるか︑を経 宗・経体として確かめていったのである︒そしてその宗体説は︑基本的に客観的視野ににおいて把握していくもので

はなく︑智顕が止観の実修によって五重の玄義を実証すべきであるとしたように︑経の説示を﹁自己の問題として受 それを経体としている︒そして︑ 宗体説は︑もともと中国に経典が伝来された事情︑ れていると思われる︒ おける決断である︒ ﹃大経﹂を客観的視野に基づいた確認によるものではなく︑あくまでも﹁教え﹂として﹁経﹂を確かめていった中に

つまり「経」•仏説とは、人間が客観的対象として読んでいくものではなく、親鸞にとっては、

教えられていく身が成り立つか成り立たないかという点において経典を捉えたことが︑示唆されていると思われる︒

仏の名号をもって︑経の体とするなり︒﹂と述べられている︑ そのような親鸞の姿勢が︑﹃大経﹂の大意を受けて﹁ここをもって︑如来の本願を説きて︑経の宗致とす︒すなわち︑

いわゆる本願為宗・名号為体という内容として披渥さ

本願

為宗

・名

号為

つまり多種多様な諸経論が短期間の内に流伝されたという事情

さまざまな経典において様々に表現されているのは︑

一六

(23)

的に依用したものと言わなければならない︒ いることが推測されるのである︒

一七

(3 ) 

け取り︑この経の指示にしたがって仏の智見を開き︑実際に涅槃を覚証するために修道﹂してゆくことを現に衆生に

教ホするという︑経法に対する基本姿勢において︑経体・経宗を含む五重玄義が成ったとされている︒宗体説はその

意味で︑経の主張と釈尊一代に亘る説教の本質を示すものでありながら︑その内容は客観的・観念的に捉えられてい

くものではなく︑経を宗体として確認していることがそのまま︑経に教えられてゆく自己のあり方が︑経の宗体とし

て集約され披泄されていると見なければならない︒つまり経をどの地点において見定めることによって教えが自らの

上に成り立つのかが︑宗体として経を確認する根底にある自証と重ねられて表現されているのであって︑その地点を

観念化・固定化してしまうことにおいて意味を持ってしまうならば︑教え自体を固定することになる︒そのこと自体︑

経を宗体説として確認する意図に反するものと言わなければならない︒この意味で︑親鸞の﹁教巻﹂における宗体説

も︑﹃大経﹂を説かなければならなかった真意というものを確認するものでありながら︑その確認自体を固定化する

ことを意図したものではない︒むしろ一刹那一刹那を生きる身において︑経が教えとして成り立っていく地点として︑

そして仏に教示される自己が成立する地点として︑不断に源帰して確認してゆくことがらを宗・体によって表明して

親鸞の宗体説は︑古来より様々に考えられてきているが︑そこでは主に曇鸞・善導の︵宗︶体説を背景にしている

(4 ) 

ことが指摘されている︒曇鸞・善導の︵宗︶体説は︑時機の問題を基底にする点で︑先の宗体説を更に具体的・実践

曇鸞の名号為体説は︑﹃論註﹂巻上冒頭の難易二道判において︑他力易行道による不退転地に到る願生浄土の道が

世親の﹃浄土論﹂によって示されていることを述べ︑その論題である﹃無量寿経優婆提舎﹄を釈明する題号釈のなか

(5 ) 

に︑示されている︒そこでは曇鸞の基本的視座︑

本願為宗・名号為体 つまり無仏の時において仏教を明らかにするという課題が披泄され

ている︒そのことは難行・易行の二道判において︑難行道が﹁難﹂であることは﹁五濁の世・無仏の時﹂ということ

(24)

して返代に流通することを明かす︒上来定散両の益を説くと雖も︑仏の本願の意を望まんには︑衆生をして一向に専 ら弥陀仏の名を称するに在り︒﹂と善導自身︑称名念仏の一行を決択しているが︑その選びは善導にとって自明のこ

(8 ) 

ととしてあったのではなく︑﹁定散等しく回向して速やかに無生身を証せん﹂と述べているように︑あくまでも観 仏・念仏双方ともに﹃観経﹂の宗として確かめられない限り︑万人に浄土の門を﹁広開﹂する かにならなかったのであって︑善導自身︑どこまでも仏語を信じ随順して往生を願い定散一一善を行じていった﹁一心 回願往生浄土﹂の歩みにおいて弥陀弘願の法に触れていったことによって︑はじめて念仏の一行を決択したのである︒

一心回願往生浄土を体とする︑と﹃観経﹄を判じたのは︑﹃観経﹂が一切衆生 の機に応じて定散二善として浄土の法門を開いた釈尊の大悲方便と︑そこに﹁念仏衆生摂取不捨﹂としてはたらく弥

陀弘願の称名の一行が唯一有縁の行として一切衆生に開示することを教える経である︑そしてその教意が往生浄土の 善導が観仏三昧.念仏三昧を宗とし︑ た観仏三昧を宗とする形態ではなく︑

本願

為宗

・名

号為

体 の確かめをくぐって言われていること︑また題号釈の中で︑﹁優婆提舎﹂について﹁無仏﹂の時処において

経優婆提舎﹄なる

﹃観経﹂の仏意は明ら

『浄土論』は仏教•仏意に相応し仏説に比すべき位置づけがなされていることから知ることができ る︒曇鸞は︑無仏の世であることを悲歎しつつ︑無仏の世にありながら仏道を生きようとする存在として︑どこに仏 の教説を確かめていけるかを重要な課題として担っていたのであり︑無量寿仏の荘厳功徳を説く﹃無量寿経﹂の体が 仏の名号であるとしたのも︑念仏において無量寿仏の荘厳功徳に触れることによって︑仏道が現実的具体的に開かれ たことによるものであり︑それ以外の立場ではない︒このように曇鸞の名号為体説は︑無仏の世における仏教を問い ながら︑仏教がどこにおいて明らかになるのかを︑客観的に決定するのではなく︑仏道を歩む自己において経が教と して余すことなく具体的にはたらくのは名号であることの確かめを行っていったことを表す言葉であると考えられる︒

﹃観経﹂解釈の常軌であっ

善導の宗体説は︑﹃観経﹄の経宗が観仏・念仏両三昧を説く経であるとし︑それまでの

(6 ) 

一宗ではなく念仏をも宗とする特殊な形態を持つ︒﹁正しく弥陀の名号を付属

﹃無

量寿

(25)

親鸞の宗体説は︑﹁是を以て﹂と書き始められているように︑その直前の﹃大経﹂

の大意釈において経に対してい

く姿勢が同じように確認されて︑その確認を経た上で宗体説が述べられていると思われる︒この大意釈は︑弥陀が発 願して修行することによって善法を修め︑仏道を修していくことができない凡小を悲しみ︑そのような者のために功 徳を選びぬいて与えること︑そして釈尊が出世して一代に亘って教えを説くことによって︑あらゆる者が教えを受け

本願為宗・名号為体

宗体説に託されていることが読みとれる︒ 中

で︑

一九

歩みに自己を尽くしていくことにおいてのみ徹到することを︑宗体説に表したものと思われる︒その根底にある問題 意識は︑自らを教える教法にいかにして出遇っていくことができるのか︑ということである︒このことは

﹃観

経疏

﹁序題門﹂に述べられているように︑釈尊は大悲をもって出世し法を説き続けたにもかかわらず︑その教えを受けと るべき衆生の問題として﹁衆生障璽くして悟を取る者明らめ難し︑教益多門となるべしといえども︑凡惑遍<攪るに

(9 ) 

由し

無し

︒﹂

︑ つまり釈尊が説かれた八万四千もの法門に自らが教えられ救われていく道を見出すことができないとい う問題があるということである︒そして︑そこに実業の凡夫章提希が願生の歩みにおいて救われていったことを具体 的に教説する﹃観経﹂に︑自らの救済を説く仏意を見定めていったものと思われる︒そこに実業の凡夫痒提希が願生 の歩みにおいて救われていったことを具体的に教説する このように曇鸞・善導の︵宗︶体説︑はともに経を観念的に判じていくような方向ではなく︑仏道を実践していく

一切衆生の上に経が教として実現していく一点を確かめ︑教意を明らかにしていく︑そのような意味が両者の

われ

る︒

﹃観経﹂に自らの救済を説く仏意を見定めていったものと思

(26)

うな言葉が挿入されている︒ 救われていくべき機であることを浮き彫りにし︑真実の利益をもって恵もうとする︑という内容を述べることによって成り立っている︒ここで注意したいのは﹃大経﹄は︑弥陀.釈迦︱一尊において﹁哀﹂しみ﹁枢﹂われてゆく対象・機として︑﹁凡小﹂﹁群萌﹂が押さえられているということである︒者が﹁凡小﹂﹁群萌﹂という位置を見失うならば︑その教えを聞いていくことができないことを示していることであ

このことは大意釈の文章の構造をみてゆくことによって明瞭となる︒

欲括群崩恵以演賓之利 つまり﹃大経﹄とは︑経によって教えられていく

︵﹁

教巻

﹂﹃

定親

全一

﹂九

頁︶

﹁教巻﹂においてこの大意釈のみが︑このように意図的に字数を合わせているが︑まずここで注意されることは︑意

図的に弥陀.釈迦を明確に区別し対峙させるような形態を示しながら︑そのうえさらに字数を合わせて内容を対応さ

せて︑二尊のはたらきが﹁致哀凡小﹂﹁欲揺群萌﹂に集約するような形で表明されていることである︒

において弥陀と釈迦は機としての衆生に対して︑その位置を判然と分かつものでありながら︑別の事柄を示している

のではない︑ということである︒

として止揚する存在であるという二つの事柄を示す﹃大経﹂が︑﹃大経﹂を聞き取っていこうとする我々において

﹁凡小﹂﹁群萌﹂という自覚が成り立っていくところに︑はじめて︱つの事柄を示すものとして開示されてゆくので

ある

このことと関連して︑﹃観経疏﹂二河醤において釈迦・弥陀︱一尊の遣喚が示されているが︑醤喩の中では釈迦・弥 ︒

陀の遣喚が同時的に語られているのに対して︑その後の合法段では︑瞥喩の次第を変えて︑発遣と招喚の間に次のよ 禰陀超登於誓繹迦出興於世光闇道教

つまり弥陀は救済する法をもって衆生を救い︑釈迦は一切衆生を救済されるべき機

廣開法蔵致哀凡小選施功徳之賓 る ︒

本願為宗・名号為体0

つま

り﹃

大経

(27)

思わ

れる

︒ を説くに︑迭いにあい惑乱し︑および自ら罪を造りて退失すと喩うるなり︒ ﹁あるいは行くこと一分二分するに︑群賊等喚び回す﹂というは︑すなわち別解・別行・悪見の人等︑妄に見解

一八

五頁

︵﹃観経疏﹂﹁散善義﹂﹃定親全九・加点篇3﹂

ここでは﹁釈迦すでに滅したまいて後の人︑見たてまつらざれども︑なお教法ありて尋ぬべき﹂という仏滅後の衆生

がいかにして仏説に遇い道を歩むべきかという課題において︑﹁自ら罪を造りて過失す﹂る現実が横たわっているこ

とを示したものと見ることができる︒そしてこの現実が︑弥陀招喚の願心を関き当てることによって﹁すなわち衆生

( 12 )  

久しく生死に沈みて︑瞭劫に輪回して迷倒して︑自ら纏いて解脱するに由なし﹂と更に自覚的に確かめられてくるこ

とによって︑改めて﹁仰で釈迦の発遣して西方に指し向かえしめたまうことを蒙り︑また弥陀の悲心をもて招喚した

まうに籍る︒今︱一尊の意に信順して︑水火︱一河を顧みず︑念念に遺るることなければ︑かの願力の道に乗じて︑命を

捨てて已後かの国に生まるることを得﹂というように二尊の遣喚による仏道の成就が語られていることの上に︑知る

大意釈が弥陀.釈迦として対峙する形で示されているのは︑﹃大経﹄を一一尊教として確かめていく地点において

﹁釈迦出輿於世﹂更に︑﹁何をもってか︑出世の大事なりと知ることを得る﹂というように︑釈尊が出世し一代に亘

( 14 )  

って教法を説き続けた本意を︑﹁釈迦の遺教かくれしむ﹂今において明らかにする︑という意味を持っているものと

しかれば﹃大経﹂には︑﹁如来所以︑興出於世︑欲採群崩︑恵以真実之利﹂とのたまえり︒︵中略︶しかれば諸仏

のよよにいでたまうゆへは︑弥陀の願力をときて︑よろずの衆生をめぐみすくはむとおぽしめすを︑本懐とせむ

四千の法門は︑ としたまうがゆへに︑真実之利とはまふすなり︒しかればこれを諸仏出世の直説とまふすなり︒おほよそ︑八万

みなこれ浄土の方便の善なり︒これを要門という︑これを仮門となづけたり︒︵中略︶この要

本願為宗・名号為体

︶と

がで

きる

(28)

(『一念多念文意』『定親全―――•和文篇」 門・仮門より︑もろもろの衆生をすすめこしらえて︑本願一乗円融無碍真実功徳大宝海におしへすすめいれたまふがゆへに︑よろづの自力の善業おば方便の門とまふすなり︒

ここでは︑釈尊の出世の本意が弥陀の願力を説くところにある︑という確認が︑更に︑多くの法門を説き続けた釈尊

の本意が弥陀本願海に転入せしめていくことにあった︑という確かめへと連なっている︒このことは﹁教巻﹂では

﹁何をもってか出世の大事なりと知ることを得るとならば﹂として引用される﹃大経﹄︵異訳を含む︶・﹃述文賛﹂の

内容と重なってくる事柄である︒この﹃大経﹄引用文は︑釈尊の威顔において如来の境界に住していることを目の当

たりにした阿難が︑そのことについて主体的な問いを発すことによって︑釈尊の出世本懐が語られていく︑という趣

旨である︒そこで注意されるのは︑重ねて﹁今日⁝⁝﹂と述べられ︑さらに

無量億劫にも値いがたく︑見たてまつりがたきこと︑霊瑞華の時あって時にいまし出ずるがごとし︒

世間に優曇鉢樹あり︑ただ実ありて華あることなし︑天下に仏まします︑ 本願為宗・名号為体

いまし華の出ずるが

一四

三ー

五頁

︵﹁

教巻

﹂﹃

大経

﹂﹃

定規

全一

いまし華の出ずるがごとしならくのみ︒

世間に仏ましませども︑はなはだ値うことを得ること難し︒今︑我仏に作りて天下に出でたり︒

︵﹁

教巻

﹂﹃

平等

覚経

﹂﹃

定規

全一

ニニ

頁︶

とあるように︑釈尊が出世し存在していること︑そして釈尊が如来であるということ︵われわれにとっては経に如来

としての釈尊が示されていること︶は︑決して自明の事柄ではないということである︒そして如来としての釈尊が

﹁霊瑞華﹂﹁優曇鉢樹﹂に喩えられ︑また﹁ただ実ありて華あることなし︑天下に仏まします︑

( 15 )  

ごとしならくのみ﹂と言われるのは︑釈尊の存在を自明とすること︑そして自らの﹁見解﹂によって釈尊の存在と教

意を見出していこうとすることは基本的に不可能であるということであり︑そのような釈尊の捉え方は逆に釈尊の出

肌の意味・教意を見失っていく︑ということである︒このことは︑﹃大経﹂が出世本懐を説くから︑﹃大経﹄が諸経に

一四

頁︶

(29)

簡んで︑釈迦をして如来たらしめた経なのであるということではなく︑﹃大経﹂それ自体が 我々に対して︑釈尊が﹁今日﹂如来の境界に住して説かれた経であることの確認を行っていくことを要請してくる意 味を持っている︒また同時に︑そのような意味における経の確認を通して︑﹁出世の大事﹂つまり釈尊一代において

様々な法門を説くことによって群萌を招おうとした教意が確認されていくことを示しているのである︒

世の大事﹂として引用された﹃大経﹂発起序は︑﹃大経﹂が真実教であることの証明という意味ではなく︑出世本懐 の説示は︑﹃大経﹂を読んでいく我々の釈尊に対していくあり方と認識を問い︑そして多くの経として遺された釈迦 諸仏の密意を我々に開説する経が︑﹃大経﹂であるという確認を求めてくる意味を持っている︒このことを大意釈で は出世本懐の文に依りながら︑﹃大経﹂に接していく我々の位置を﹁凡小﹂﹁群萌﹂というあり方として規定し︑その

﹁凡小﹂﹁群萌﹂というあり方においてのみ︑釈尊の本意を聞き取っていくことができることを示しているのである︒

何が故ぞ威神の光︑光乃し爾ると︒是に世尊︑阿難に告げて日わく︒諸天の汝を教えて来して仏に問わしむるや︑

自ら慧見を以て威顔を問えるやと︒阿難︑仏に白さく︒諸天の来して我れを教うる者あることなけん︒自ら所見

︵﹁

教巻

﹂﹃

大経

﹄﹃

定規

全一

﹂ というように︑真に主体的な問いであることの確認から開説されていることからも察することができる︒この﹁発起

( 16 )  

序﹂の引用は︑所謂常随眼近の弟子としての阿難ゆえに釈尊の境界を知ることができた︑という意味は無い︒﹃大経﹂

の会座において阿難は︑出世本懐経の対機つまり﹁群萌﹂として釈尊出世の本意が知られたのである︒

つま

り︑

﹁出

このように出世本懐文を中核とする発起序の文は﹁大経﹂を読む我々の姿勢を問う意味を持つものと言える︒そし

てその出世本懐文に依って施された大意釈に同様の意趣が読みとれるものと思われる︒

本願為宗・名号為体 を以て斬の義を問いたてまつるならくのみと︒

つまり﹃大経﹂を教えとして

受け取る唯一のあり方﹁凡小﹂﹁群萌﹂は︑何らかの努力や資格︑能力を簡び︑またそこに依止してゆくことを捨て

一 頁 ︶

そのことは︑﹃大経﹂自体が ﹃大経﹄に接していく

(30)

(1

)

(2

を常に確認してゆく地点であったのである︒ とを語っているのである︒ 真実功徳ともうすは︑名号なり︒

本願

為宗

・名

号為

しめられた人間の根源の存在性である︒その﹁凡小﹂﹁群萌﹂というあり方に帰り︑真に教えとして

取る一点を親鸞は﹁是を以て︑如来の本願を説きて経の宗致とす︒すなわち︑仏の名号をもって︑経の体とするな

り﹂と述べてくるのである︒つまり﹃大経﹄とは﹁本願を説く﹂ことを﹁ムネ﹂とするのであるという確認が︑覚者

釈尊の説く﹃大経﹂に随順し仏道を歩もうとする我々を﹁群萌﹂に帰らしめてゆく︑それが﹃大経﹂の宗致とする内

容なのであり︑その﹃大経﹂によって︑釈迦諸仏の教えとその境界が限りなく仏道の歩みを開いてゆく地点が︑経の

体と押さえられる名号であることを示しているのである︒このことは︑本願を聞き開くことにおいてはじめて我々は

﹁群萌﹂に立ち︑その地点において︑名号として仏道の歩みが確実なものとなったことの確かめにおいて真実教を

﹃大経﹄として位置づけられていくことを示しているのである︒親鸞は名号について

一実真如の妙理︑円満せるがゆえに︑大宝海にたとえたまうなり︒

もうすは︑無上大涅槃なり︒涅槃すなわち法性なり︒法性すなわち如来なり︒

︵﹃

一念

多念

文意

﹂﹃

定規

全︱

︱‑

﹂和

文篇

一四

五頁

と述べ︑名号として真実功徳が得られてゆくこと︑そしてそこに釈迦諸仏の本意を仰いでゆく仏道が成就してゆくこ

親鸞において﹃大経﹂を本願為宗・名号為体と押さえるのは︑﹁群萌﹂に成就する仏道の確かめである︒ただし先

にも述べたように︑﹃大経﹂を本願為宗・名号為体として固定化してゆくことを意図したものではない︒本願為宗・

名号為体とは︑﹃大経﹂を教えとして不断に確かめられてゆくべき事柄であったのであり︑また仏に教示される自己

﹃法華玄義﹂巻第八上﹃大正蔵﹄三三巻七七九頁a

﹃法華玄義﹂巻第九下﹁大正蔵﹄三三巻七九四頁b

ニ四

一笑

真如

﹃大経﹂を受け

(31)

(3 ) 安藤俊雄﹁法華経と天台教学﹂︵横超慧日編著﹁法華思想﹂四九四頁︶

(4

) 円乗院﹁故に今善導に習らび宗体の判あり︒﹂﹁如来の本願を説くを宗とし︑仏の名号を体とすとのたまふものは曼鸞に よりたまふなり︒﹂︵﹃教行信証講義集成﹂第一巻・ニ八五頁︶︒香月院も同様の指摘を行っている︵﹃同﹂第一巻・ニ八八

頁 ︶

(5

)

﹃真宗聖教全書一﹂二七九ーニ八0

(6

)

(7

)

(8

)

(9

)

( 1 0 )

﹃教行信証﹂に比して︑大きく文言が異なって表現されている﹃文類緊紗﹂にも︑教巻に相当する箇所において大意 釈・宗体説のみが教巻と同じである︒このことは大意釈の構造が宗体説に表すにあたって︑絶対に動かすことのできない

構造であったことが推測される︒

( 11 )

﹃観経疏﹂﹁散善義﹂・﹃定親全九・加点篇3﹄一八五頁

( 1 2 )

( 1 3 )

( 14 )

﹁像末五濁の世となりて釈迦の遺教かくれしむ弥陀の悲願はひろまりて念仏往生さかりなり﹂﹃正像末和讃﹂﹃定

親全ニ・和讃篇﹂一六七頁

( 1 5 )

( 1 6 )

そのような意味を示す﹃大阿弥陀経﹂﹁平等巫見経﹂の﹁我侍仏已来⁝﹂という経文は取り上げられていない︒

本願為宗・名号為体

参照

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