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アメリカにおけるマーケティング研究 パラダイムの再検討

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(1)

アメリカにおけるマーケティング研究 パラダイムの再検討

石 井 淳 蔵

Ⅰ はじめに

Ⅱ 新しいマーケティング研究のパラダイムの希求

Ⅲ シェス他(1988)の視点

Ⅳ フィラット他(1987)の視点

Ⅴ 終わりに:マーケティング研究の可能性と限界

はじめに

マーケティング研究発祥の地,アメリカにおけるマーケティング研究における根源的

・哲学的課題を明らかにしたいというのが本稿の課題である。それは,アメリカにおけ るマーケティング研究のアイデンティティ論争のいわば第

3

の波と軌を一にするもので あるが,とくにその問題に意識的に取り組んだ

2

つの研究を中心に見ていきたい。

この

2

つの文献を取り上げる理由は,第

1

に,もっとも近時において起こったマ−ケ ティング研究のアイデンティティ論争に関わるものであ

1

り,この問題に関心あるアメリ カの代表的なマーケティング論者が多く関わっていること。第

2

に,いずれも,アメリ カにおけるマーケティング研究パラダイムについての評価とこれからの課題を明らかに しようとする点で似たテーマで編纂されていること。加えて第

3

に,2つの立場ははっ きりと異なっていることである(石井

1993 c)

最後の第

3

点は,アメリカのマーケティング研究において対立した展望の存在を示す ものだが,同時に,研究の流れを,着実に真理を求めて進歩するという進化主義的理解 が一面的であることをも浮き彫りにしている。しかし,異なった立場と評価があるから こそ,マーケティング研究パラダイムの自省も意味をもちうる。実際,両者の比較検討 の試みは,わが国のマーケティング研究にも決して無縁のものでなく,われわれ自身の 研究展望を得る上で格好の材料となる。

────────────

1 マーケティング研究のアイデンティティを問う論争が,1950年代と1970年代に続いて,1980年代に起 こった。相対主義という新しい科学哲学の定着と軌を一にする。Jones and Monieson(1990),堀越

(1997),薄井(1997),あるいは水越(2002 a, 2002 b)は,その動きに注目し,その背景や特徴につい て指摘している。

615)1

(2)

新しいマーケティング研究のパラダイムの希求

アメリカにおいて,第

2

次大戦後,マーケティング研究のアイデンティティを問う

2

つの重要な論争があった。最初のアイデンティティ論争は,1950年代,「マーケティン グは科学か技法(アート)か」をめぐってであった。「マーケティングは科学たりうる のか」というテーマである。企業のマーケティング実践が発展する一方で,遅れてきた 科学としてマーケティング研究,その狭間の中で抱えるべくして抱えた課題でもあった

(石井

1993 a, 7

章参照)。続いて,第

2

の波は,1970年代にあり,マーケティングを非

営利組織にも応用できるのかという問題を含めて,「マーケティングの理論やモデル を,交換一般の問題にも適用できるか」というマーケティング境界論争が展開した。

1

の波は,「マーケティングは,科学的研究の対象となりうるか」という,どちら かというとマーケティング研究の消極的な意義を巡って,第

2

の波は,「マーケティン グ研究は,科学として,どこまで広がりと可能性を持ちうるのか」という積極的な意義 を巡ってという違いはあったが,いずれもマーケティングの科学的研究としてのアイデ ンティティを問うものであったという点では共通する。

そして,第

3

の波は,1980年代後半から,科学哲学の新たな展開を主テーマとして 含みつつ,制度としてほぼ完成の域に達したマーケティング研究パラダイムに対する自 省,ないしは批判的再検討として展開した(薄井

1997,堀越 1997,水越 2002)

こうした第

3

の波を作り出した

2

つの研究グループがある。1つは

Sheth=Gardner=

Garrett

(1988)(以下では,シェス他(1988))の研究であり,もうひとつは,Firat=Dho-

lakia=Bagozzi(1987)

(以下ではフィラット他(1987))の研究である。

前者のシェス他(1988)は,米国におけるマーケティング研究成立以降の包括的なマ ーケティング諸研究のレビュー。後者のフィラット他(1988)はオリジナルな論文集。

そうした本の成立ちと性格は異なるが,いずれもアメリカにおけるマーケティング研究 パラダイムを基本的な視点から再検討しようとする点では立場を同じくする。

当然,現代のマーケティング研究に突きつけられている課題についても共有するとこ ろは少なくない。たとえば,取り上げられているトピックスのなかで代表的なものだけ を取り上げても,「マーケティング理論は,実際に実践的効用を提供できているのか」,

「米国型マーケティングは国際的に通用するのか,地域・社会・時代に特殊な理論では ないのか」,あるいは「マーケティングは科学か」といった問題が,扱われるべき重要 な焦点となっている点では共通する。

しかし,後にも述べるように,マーケティング研究をもっとも基本的な立場から再検 討しようという同じ方向づけをもちながら,両者の結論はむしろ大きく異なっているこ

同志社商学 第54巻 第5・6号(2003年3月)

2(616

(3)

とに注目したい。その結果,先に挙げたトピックスについても,関心のありようや答え はずいぶん違っている。両者の間には,「マーケティング研究とは何か」,「マーケティ ング研究の正当性は,何に求めれるか」を巡って,反省の契機は似ていても,その理解 や結論は必ずしも一致してはいない。同じ現実を目の前にしているにもかかわらず,で ある。

以下では,それぞれの問題意識に注目しその異同を検討しつつ,アメリカにおける現 代マーケティング研究のアイデンティティ論争を尋ね,これからのマーケティング研究 の方向を考えるための手がかりを探ろう。

シェス他(1988)の視点

1.シェス他(1997)におけるレビューの 5

つの関心

シェス他(1988)は,これまでのアメリカにおけるマーケティング研究を再検討する にあたって,5つの関心があることを表明する。順に紹介しておこう。

その第

1

は,「マーケティングにおける支配的なパースペクティヴは何なのか」,そし て「それは,どうあるべきなのか」である。とりわけかれらが強調するのは,消費者行 動研究とマーケティング戦略研究の接合である。彼らの言葉を借りれば,次のようにな る。

「消費者行動パースペクティブによる支配から,戦略マーケティング・パースペクティブの 強調へというこの移行のまっただなかで,われわれはマーケティングが2つの柱,つまり消 費者のニーズとその行動についての完全な理解,そして競争優位のための機会についての決 定的に重要な分析に基づくべきであると断言する見解を見つけることができる」(シェス他

1988,訳書,6頁)

ということになる。実際,彼らの重要な結論ともなるのだが,「将来のマーケティン グ理論家にとっての挑戦は,これら等しく重要な基礎,この双方を適切に組み込んだ理 論を開発することである」と主張している。

かれらの第

2

の関心は,「マーケティングと社会との関係は,どのように,どうある べきか」に関係する。環境・資源・製品安全性・マイノリティの消費者問題を含め,マ ーケティングと社会利益は必ずしも一致しない。そこに,マクロ・マーケティングなど の概念を始めとして,社会との関係に焦点を当てた理論を創造する余地は大きいと指摘 する。

3

の関心は,「マーケティング理論の適切な領域は何か。あるいはどうあるべきか」

にある。とくに,非営利的な交換あるいはより一般的な交換状況に対して,マーケティ

アメリカにおけるマーケティング研究パラダイムの再検討(石井) (617)3

(4)

ングは適応できるのかに焦点が当てられる。非営利組織への応用可能性については,第

2

波のアイデンティティ論争において,「マーケティング境界論争」として中心となっ た論争である。ここに至って問題はさらに広がりを見せ,「米国国内で発展したマーケ ティング諸理論は,異質な状況,海外市場,産業財市場,あるいはサービス市場におい て適応できるかどうか」の関心にも結びつく。

4

の関心は,「マーケティングは科学なのか,それとも標準化されたアートか」と いう疑問である。この問題は,「マーケティング・科学論争」として最初のアイデンテ ィティ論争以来の問題である。とくにかれらにおいては,マーケティング研究における 伝統的な科学哲学であった実証主義への批判が盛んになり,論争は新たな姿をとると認 識されている。

5

の関心は,「マーケティングの一般理論を創造することは可能か」という問題で ある。かれらの意見は肯定的である。つまり,一般理論は,(1)特定の領域に限定され た理論を追求している理論家が自分たちの位置づけを得るための参照点として役に立つ こと,(2)「マーケティングは何か」という包括的質問に答えるための一助になるこ と,そして(3)マーケティング理論に対する実務家からの信用失墜に対して,一般理 論は「秩序だった様式で価値あるテーマを追求していることを確信させる」ものとなる と期待されていることが強調される。

2.レビューの手続きと結論

以上の関心を中心に,米国における膨大な量のマーケティング研究の諸業績をサーベ イし,マーケティングの新しいパラダイムの可能性を探る。ただ,彼らは,彼らの言う メタ理論に基づいていくつかの基準を選び,マーケティング諸理論の比較・検討・評価 を行う。以下のような手続きがとられた。

1

に,彼らの言うメタ理論から

3

つの基準を導き出す。(1)シンタックスのレベル から「理論の構造」と「命題の特定化のレベル」を,(2)セマンティクスのレベルから

「命題の検証可能性」と「実証的支持」を,そして(3)プラグマティズムのレベルから

「理論適用の可能性」と「理論の単純さ」を選んだ。

2

に,マーケティング諸研究をひとつひとつ検討するという煩雑さを避け,いくつ かの学派を識別した。学派識別のために,2つの分類軸を用いた。ひとつは「経済的研 究か非経済的研究か」の軸,もうひとつは「相互作用を研究の視点に置いているかそれ とも一方向の影響関係を研究の焦点としているか」の軸である。

マーケティング研究の学派を分類し,その成果を判定する理論基準を明示化するとい う準備作業を経て,膨大な数の文献が検討された。その結論を細かく検討する余裕はな いので,関係するかぎりで彼らのサーベイの一般的な結論だけを述べておこう。

同志社商学 第54巻 第5・6号(2003年3月)

4(618

(5)

結論の第

1

は,マーケティング研究は,経済学,心理学,社会学,公共政策論,ソー シャルワーク論,政治科学そしてマス・コミュニケーション論といった周辺・関連領域 の研究者から,マーケティング研究は妥当な研究分野と見なされた。その証拠として,

マーケティング研究の指導的雑誌は,マーケティング論という狭い範囲を越えて,その 外部でも広く評価を受け,検討の対象となっているという事実を指摘する。

2

に,多くの消費者は徐々に,社会におけるマーケティングの機能に対して信頼す るようになったことが指摘される。現代のマーケティングは,過去のそれと比べて社会 責任を果たしていることを強調する。

3

に,マーケティング諸研究は,従来マーケティング研究の対象だとは考えられな かった領域でも応用できる可能性があることを見いだし,理論能力の融通性と活力とを 顕著に実証してきたことを指摘する。つまり,マーケティング研究はその固有の境界を 越え始めているというわけだ。

以上の

3

つの一般的な結論に加えて,彼らが,マネジリアル学派と買い手行動学派の 研究分野に焦点を合わせ,その業績を高く評価していることを強調しておきたい。

マネジリアル学派に対しては,第

1

に,それが独特の概念群を生み出してきたこと

(たとえば,マーケティング・ミックス,市場細分化,製品ライフサイクル,戦略市場 計画等)。第

2

に,マーケティングの競合する諸学派(商品,機能,制度の各学派,買 い手行動論,組織ダイナミック学派)から広い範囲にわたって知識を集積できているこ と。第

3

に,他分野で開発された多彩な研究方法や技法を利用できていること,そして 第

4

に,マーケティングの一般理論となりうる可能性が高いことを指摘し評価する。

一方,買い手行動論については,心理学や社会心理学から借用した概念を用いて理論 的な境界領域を進展させる研究を行ってきたが,そのような研究は関連社会諸科学や計 量学問諸領域の研究者から高く評価されているという点において,高い評価を与えたの である。

3.シェス他(1988)の暗黙の視点

彼らの研究の結論は,見たように,これまでのマーケティング研究に対しておおむね 肯定的なものだった。彼らは,マーケティング研究は市場行動ないしは交換関係を焦点 とすべきであり,その点で,(なお改善する余地があることも指摘するのだが)マーケ ティング研究は長期にわたって着実に進展してきたと述べる。

彼らの結論の妥当性は,標準的な理論評価基準を用いて膨大な文献サーベイを行って いるという点を見ると高いように見える。しかし,その結論をそのまま鵜呑みにするこ とはできない。そう考える

2

つの理由がある。

1

は,「マーケティング一般理論を求めて」というのが彼らの研究の課題になるわ

アメリカにおけるマーケティング研究パラダイムの再検討(石井) (619)5

(6)

けだが,一般理論の理解において問題があること。そして第

2

に,かれらの研究には,

いくつかの暗黙の前提がおかれていることである。順に見ていこう。

(1)マーケティング一般理論とは何か

マネジリアル研究と買い手行動研究とは,それらがなければアメリカにおける長い歴 史のマーケティング研究の実質はないと言っても過言ではないほどに,アメリカ・マー ケティング研究のいわば支柱ともなる研究群である。しかし,それらを結びつける連結 ピンは,いまだ発見されてはいない。彼らは,アメリカのマーケティング研究において は一般理論はまだ見つかってはいないと考える。彼らは言う。

「……われわれがマーケティングの一般理論,つまり『普遍的一般理論』(a general theory)

はもちろんのこと,『特殊一般理論』(the general theory)も持っていないことは明らかであ る。むしろわれわれは,そのそれぞれがユニークなパースペクティブからマーケティングを 考察している諸理論の集合体を持っているのである」(訳書,230頁)と。

一般理論を希求する彼らの思いはわかるにしても,しかし,彼らが考える「一般理 論」とは何だろうか。長々とそのことを書いているにもかかわらず,一般理論の定義に ついてはっきりしたことがそれほど明確に伝わってくるわけではない。彼ら自身,「マ ーケティングの一般理論とは何か,あるいはどうあるべきなのか,この点についてのつ かみ所のない理解が,混乱に拍車をかけている」と述べるのだが,彼らの議論自体の曖 昧さがさらに混乱に拍車をかけているようにすら見える。

たとえば,オールダーソン(W. E. Alderson)のシステム一般理論に基づく試みを評 価しながらも,オールダーソンが見逃しているポイントは少なくないことを指摘する。

こういう言い方である。

「オールダーソンの一般理論は,……興味深く包括的である。だがそれは,国際的な次元も ほとんど無視したように思える。さらにそれは外在的なシステムや変数,たとえば,技術,

政府,文化的伝統,ましてやマーケティング・インフラストラクチャーでさえも十分には組 み込んではいない」(訳書,231頁)と。

あるいは,別のところでは,あるアプローチが一般理論となる可能性に触れ,その理 由として,次のように述べる。

「なぜマーケティングの一般理論がこれら2つのアプローチから最も出現する可能性がある のか,この点については論理的な根拠がある。これらは,グローバル競争者といったこれま で扱われなかった要素はもちろんのこと,マーケティング環境,そして関連するあらゆる行

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6(620

(7)

為者を含んだ,マーケティングに関する真に包括的な見解を探る,あるいはそうする能力の ある唯一のアプローチである」(訳書,233−234頁)と。

シェス他の考えによれば,マーケティングに関わるあらゆる要素が明示的に組み込ま れなければどうも,一般理論とは呼ばれないようだ。たとえば,マルクスの理論のなか に技術の問題が明示的に捉えられていないからという理由で,それは「資本主義の一般 理論」となる資格を失ってしまうことになりそうだ。

しかし,そんなことはありえない。一般理論の要件とは何かを私がここで事細かく語 ることができるわけではないが,たとえば,射程が広くないからと言って,あるいはシ ステムの外生要因が入っていないからと言って,そのシステムについての一般理論の資 格を決定的に欠いてしまうというのは,不思議な意見としか言いようがない。彼らは,

包括性こそが一般理論の優先的な要件と考えるわけだが,無限定に包括性だけを求める と,一般理論とは,曼陀羅のような大きい見取り図を描くことだということになってし まう。こうした理論について理解の不十分さは,彼らの研究のそもそもの前提に関わっ ている。その点を次に指摘したい。

(2)文献サーベイ研究の隠れた前提

彼らの暗黙の前提の第

1

は,理論の直接的利用者の立場を強調することにある。マネ ジリアル研究であれ買い手行動研究であれ,マーケティングの実務家あるいは近隣の研 究者がそういった理論利用者の代表になる。研究の正当性についての評価は,主として その観点から,研究の実用的な妥当性に従って評価されている。それは,発想としては 自然科学あるいは工学(エンジニアリング)的なそれに親しいものがある。

2

に,マーケティング研究の目的は,マーケティング法則の発見を志向することと いう前提がある。この前提は,彼らには,科学的研究の前提として疑うべくもないもの かもしれない。彼ら自身,標準化されたアートからマーケティングという科学の確立に 明らかに近づけてきたことを指摘すると共に,マーケティング法則確立のための制度的 工夫についても触れている。

「一連のマーケティング法則を確定するのは,現在のところでは時期尚早であろう。だが,

われわれは,近い将来にいくつかのマーケティング概念は法則の地位にまで高められると信 じている。このプロセスを促進し,そして正当化するために,恐らくマーケティング論は,

マーケティング法則としての指定を行うために,いくつかのマーケティング概念をノミネー トする特別会議を召集すべきである」(訳書,219頁)

この意見自体にも違和感がある

2

が,それはさておき,少なくとも,彼らが従来のマー

────────────

2 法則の客観性(実証性)以上に何か他の要件が必要かどうか,つまり客観的要件に加えさらにマー アメリカにおけるマーケティング研究パラダイムの再検討(石井) (621)7

(8)

ケティング研究の方向を支持し従来の諸研究に対して高い評価を与えるのは,1つに は,「法則定立科学としてのマーケティング科学」の立場からであるということは確認 できるだろう。

3

に,シンタクス,セマンティクス,プラグマティクスに沿って,理論の厳密性,

その経験的妥当性,そしてその実用性を理論の判断基準としていることである。ここに は,科学哲学についてのひとつの前提が潜んでいる。それは,「理論化(あるいは仮説 定立)の文脈」と「その現実(経験)妥当性の確認の文脈」とははっきりと異なったプ ロセスだという前提である。そこには,いわば「主観的な理論化のプロセス」と「客観 的な現実(経験)の現象」とは切り離すことができ,その理論化のプロセスと現実(経 験)の現象とは互いに影響を受けずそれぞれ独立したものだということが仮定される。

結論を急ごう。以上

3

つの暗黙の前提が示唆していることは,彼らはひとつの科学哲 学,つまり論理実証主義ないしは自然科学のパラダイムに依拠していることに他ならな い。それは,工学的・臨床的な知(自然科学的な知)として研究を理解していること,

理論と独立した客観的な現実を前提として発見の文脈と検証(反証)の文脈とを分離す ることができると考えていること,そしてその結果として現実の客観法則の追求が可能 だと考えていることから,その点を確認できる。

前節に述べた一般理論に対する考えは,こうした前提と無縁ではない。「実体として の現実」というかれらにとって揺るぎのない仮定と,操作性を高めるための法則発見へ の強い志向は,経験的現実に対する説明力を高めることだけに注力することになりやす い。それが,「あの変数が考慮されていない。この変数が組み込まれていない」,あるい は「この現実が扱われていない」といった,重箱の隅をつつくような一般理論の議論へ と導いてしまう。

そこには,今ある自明の現実に対する盲目的な追従に帰結し,今ある現実についての 批判的視点や,今ある現実(秩序)がいかにして生成したのかを解明する理論志向は乏 し

3

い。それは,伝統的マーケティング研究を支えた論理実証主義への過度の信頼であ

────────────

ケティング専門家による「法則としての妥当性の指定」が必要だというのは,どのような意味か計りか ねる。

3 もっともその点について,彼らがまったく無関心だというわけではない。現在のマーケティング研究に 潜むいくつかの基本的と思われる問題点も提起する。たとえば,マーケティング研究において歴史研究 が乏しかったこと,マーケティングはアートだという議論に決着がついていないこと,論理実証主義の 有効性に対して疑問が生じていることなどを指摘するのは,彼らが決して事態に無関心ではないことを 示す。とくに彼らが最後の問題に注目していることは,彼ら自身,彼らの依拠する論理実証主義パラダ イムとは異質の科学パラダイム(相対主義)がマーケティング研究のなかにも忍び込み始めていること に気づいていることを示している。

実際,現代の「マーケティングの科学論争」においては論理実証主義vs.相対主義の対立が見られ ること,そしてそれが研究業績の評価に対して困難な問題を引き起こすことが彼らによって認識されて いる。しかしこの対立も,かれらによれば,結局は,実証主義者がシンタックスとセマンティクスを強 調する一方で,相対主義者はプラグマティズムを強調しているという点に解消できると彼らは考える。

従って,研究傾向として論理実証主義の特徴である「厳密さ」と相対主義の特徴である「現実への 同志社商学 第54巻 第5・6号(2003年3月)

8(622

(9)

り,その分,第

3

の波の意義を過小評価することにつながってい

4

く。次に紹介する研究 が第

3

の波の意義を強調するのとは対称的である。

フィラット他(1987)の視点

1.フィラット他(1987)の問題意識

フィラット他(1987)編の論文集(1987)には,21編の論文が含まれている。その 基本的な関心を知るために,最初のところで彼らが述べる問題意識を整理して述べてお こう(Firat, et al.序

5

章)。

1

)マーケティング研究における新しい展望と世界観が求められている。

2

)そしてそういった出来事が,マーケティング関係者だけでなく,すべての人,つ まり哲学者,詩人,物理学者,革命家にとっても起こっている出来事である。

3

)不変の普遍的真理を確立しようとするよりも,歴史的事象の体系的理解を求める アプローチこそが,彼らの意図するアプローチである。

4

)マーケティングの諸理論は,特定の暗黙の仮定のもとでマーケターと買い手の行 動について理論,事実,そして真理を確立するのに努力が向けられた。その仮定 は,ある世界観,ある歴史的時期,そしてある社会的システムを永久のものとみ なすものであった。

5

)われわれマーケティング関係者は,科学的懐疑主義および好奇心というもっとも 単純な点においてさえ,われわれのそれら諸条件に批判的ではなかった

6

)これらの条件を変化させることが重要である

6

つに要約された問題意識は,伝統的マーケティング研究への幻滅を表明するもので もある。伝統的マーケティング研究は,ナイーブな経験主義,概念的な貧困,限定的な 方法論,過剰な専門化,一次元性,不名誉な用具主義,とりわけ人間に向けた関心の欠

────────────

関連性」とのバランスを計る動きがあることだけが評価されることになる。

また,マーケティング科学論争については,実証主義哲学と人文主義的哲学との間で論争があること を指摘する。しかも,人文主義的哲学が実証主義哲学と異質の哲学であることも指摘する。しかし,こ の新しい哲学が彼らの研究の中でどのように位置づけられるのか,それが彼らの信奉する哲学にどのよ うな異議を唱えるものか,その点についての彼らの判断・評価は明らかではない。

4 なお,本書の日本語翻訳者も,それがシェス他の基本的問題であることを指摘している(流通研究会 1991)。

5 整理するといっても,各論者のテーマを見ても,伝統的な色彩とラディカルなそれが混じり合ってい る。著者も,ホルブルックやシェリーやベルクやフィラットといったポストモダン派として有名な研究 者に加え,コトラーやニコシアやサビットといった伝統的マーケティング研究の主導者たちの名前が見 えるのも,その印象を強めている。

アメリカにおけるマーケティング研究パラダイムの再検討(石井) (623)9

(10)

如があったと厳しく指弾するのだ(Dolakia, et al. 1987)。そうした限界とは裏腹になる のだが,これからの方向として,①人間的価値を注入する,②聡明な責任ある実践を育 てる,③マクロシステム的な展望をもつ,④包括的因果モデルを利用する,⑤ホリステ ィックで統一的な枠組みを展開する,そして⑥理論分野(discipline)の歴史的基礎を掘 り下げる,という

6

つの方向性を主張する。

マーケティング研究に向けての彼らの問題意識と方向づけ主張は,先に紹介したシェ ス他(1988)の立場とはずいぶんと異なった立場に立っている。具体的には,つぎのよ うな点に違いが見られる。

1

に,シェス他(1988)では,科学とは「法則の追求である」と定義されたが,フ ィラット他(1987)では,それとは対照的に,「普遍的真理を確立しようとするより も,歴史的事象の体系的理解を求めるアプローチ」が重要であることが強調されている こと。

2

に,「マーケティングの諸理論の利用者は,誰か」についての仮定の違いがある こと。つまり,伝統的にマーケティング理論の利用者はマーケターであることがシェス 他(1988)では前提とされてきたが,批判的視点の重要さを強調することで有用性基準 の問題性を取り上げていること。

3

に,マーケティング研究の伝統的な仮定として,ある啓蒙主義的な世界観がベー スになっていて,米国という社会を対象としたという歴史的時期そして社会的システム の理論限定を理論化の前提として疑わなかったことについての疑問を提起しているこ と。シェス他(1988)では,研究の普遍性や一般性は,深く議論されることもなく当然 視されることで,理論は啓蒙的性格をもつことも自明視されている。これらの論点は,

1

表のように整理できる。

以下では,この焦点の違いに沿って,少し詳しく彼らの議論を見よう。

2.新しいマーケティング科学哲学に向けて

かれらの主張点は先に示したが,本稿の議論との関連において,伝統的マーケティン グ研究に対して根源的な批判を提起していると思うのは,次の

3

点だ。1つは,理解の 科学の重視,第

2

は「変化の動態(歴史)的研究」への志向だ。前者は方法論の問題

第1表 2つのマーケティング研究レビューの焦点の違い

シェス他(1988) フィラット他(1987)

科 学 の 目 標 研 究 の 効 用 世 界 観 理論の妥当性

法則の追求 実践的効用 啓蒙主義的な世界観 普遍的・一般的

歴史的事象の体系的理解 批判的視点

相対主義的世界観

限定された歴史的時期と社会 同志社商学 第54巻 第5・6号(2003年3月)

10(624

(11)

へ,後者はマーケティング研究の境界(アイデンティティ)を問うものである。そして 第

3

に,マーケティングを理論化するための基本的視点に関わる「聡明なマーケティン グ実践の可能性」についての議論である。順に,整理し検討しよう。

(1)理解の科学としてのマーケティング研究:拡張する方法論

Firat, et al

.(1987)は,「技法的正確性や方法論的正確さの圧力(つまり,実証主

義,合理主義,論理経験主義)の下,社会科学理論は,断片化され,全体としての現実 に触れることができなくなった」と言う。ここでの論点は

2

つある。

理論の断片化

1

は,理論が断片化される問題だ。断片化する理由は,「研究を利用するクライア ントが限定され過ぎている」ことと彼らは考える。それが行きすぎると,研究における もう

1

つの重要な価値,批判的視点の提供という価値は失われると指摘する。

とくに,「研究が,マーケターたちのためだけの実践的効用に限定されすぎてはいな いか」と言うのである。そのことは,端的に,消費者行動研究において買い手行動ある いは購買行動が研究において極端に重視されてきた点に見ることができると,彼らは考 える。

というのは,マーケターたちにとっての第

1

の関心事は,買い手が自分たちの作った 商品を購買してくれるのかどうかにある。「いかなるプロセスで,買い手の商品購買が 進むのか」,「そのプロセスにおいて,どのような刺激が有効なのか」についての答え を,彼らは欲しいと思う。そのことを知ることができれば,それが購買後どのように消 費されるのか,どのように消費者の生活に関わるのか,そして使用後においてそれら商 品はどのように処置されるのかは,さしあたり彼らの第

1

優先の関心事とはならない。

結果として,彼らをして,(そのことが,社会科学における一般的な問題だというこ とを含意しつつ)「……理論は,現代の人間条件の主要な出来事や問題に答えようとし ない。ピースミールな仕事であって,それは全体論的な問題の解には貢献しない」と述 べることになる。それゆえ,学際的あるいは多次元的な観点が必要にもかかわらず,社 会科学理論研究の現状はそうにはなっていないと指摘する。つまり,

「……(理論は−筆者)扱いやすい変数や狭い仮説のテストに集中してきた。そのような仕 事は,支配的な実証主義・経験主義の方法によって育てられてきた。狭い境界内で正確さを 求めるのである。それが学界のゲームのルールになった」(Firat, et al. 1987)

と。社会科学という広い視点で議論されているが,もちろんマーケティング研究世界に そのまま妥当するのははっきりしている。

アメリカにおけるマーケティング研究パラダイムの再検討(石井) (625)11

(12)

色眼鏡がかかった現実

2

は,「現実とは,色眼鏡をかけて眺められた現実」の問題だ。色眼鏡をかけて現 実を見るのは,現実とは,あるものの見方(認識枠組み)によって見られたかぎりでの 現実ということを言う。「ものの見方」という言葉は一般的な用語だが,そこには,そ れぞれの社会の固有の文化や常識あるいはその社会に定着した理論も入る。

「現実がすでにあるのではなく,認識枠組みが先にある」というのか(存在論的相対 主義),あるいは「現実は認識枠組みなくして触れることができないものなのだ」とい うのか(批判的相対主義),相対主義の議論の微妙な違いにまでは踏み込んではいない もの

6

の,実証主義に対して重要な問題を提起している。

現実がすでに認識枠組みによって負荷されて見られるのであれば,2つの重要な問題 が帰結する。第

1

には,普遍的・一般的な理論の構築は難しいという問題,第

2

は実証 主義の前提が疑わしいという問題である。順に見てみよう。

1

は,「理論がどこまで普遍性・一般性を獲得できるのか」の問題である。消費者 行動理論で明らかにされる消費者行動は世界共通に見えるし,交換理論で明らかにされ る交換の必然についての理論は歴史を通じて普遍のように見える。マーケターたちが状 況に応じて微調整すれば,いずれは統一的なグローバル・マーケティングというスタイ ルが完成することが信じられている。先に紹介したシェス他(1988)は,こうしたこと を疑っているようには見えない。

しかし,「色眼鏡をかけて見られた現実」でしかなく,現実の時代普遍性や地域の一 般性を研究のアプリオリな前提として置くことはできない。「かけている色眼鏡を外さ せることができれば

OK

だ」と考えられるかもしれないが,1つの色眼鏡を外しても,

また別の色眼鏡をかけるだけのことである。しかも,「外せばよい」という者にも,実 は彼らの色眼鏡がかかっているのだ。こうして,互いに色眼鏡をかけ合った同士,どの ように理解を促し合うのかという新たな問題が生まれてくる。こうした考えに立てば,

むしろ地域や文化や歴史を深く共感的に理解しようとする研究的立場や方法論が要請さ れるというのは自然である。

2

の問題は,より深刻である。というのは,「眼鏡をかけて眺められた現実」を強 調すれば,当然のことながら,実証主義者の核心部分である理論仮説の検証(反証)作 業も,その妥当性は乏しいことになるからだ。というのは,すでにしてその理論に沿っ た現実の認識を強いることになるからであり,理論を試すはずの中立的・客観的な(つ まり,理論に侵されてはいない)現実はすでに私たちの手元にはないからである。これ は,実証主義の根本を揺るがす批判になる。というのは,そもそも,実証主義の根本的

────────────

6 相対主義のタイプついては,Hudson=Ozanne(1988),石井(1993 a)7章,および石井(1993 b)ある いは堀越(1997)を参照のこと。

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(13)

前提とは,「理論仮説を客観的現実に基づいて検証・反証できる」とするところにある からだ。

人文主義哲学とその方法

こうした問題提起を経て,断片化されない人間的価値を扱いうる研究,マーケティン グおよび消費文化についての批判的反省的な視点をもった研究,そして断片的ではない 現実に触れることができる全体論的・統合的枠組みに基づいた研究の必要性を強調する こととなるのである(Dolakia, et al. 1987)。

そうした特徴をもち,本論文集で

1

つの有力な方法論として紹介されるのは,

Hirshman

(1986)の人文主義的アプローチである。それは,実証主義に対する重要な批判的立場 を確立したという点で高く評価されている。それは,実証主義哲学を批判的に検討しつ つ,人間的価値をとくに強調する。実証主義哲学の特徴とハーシュマンの人文主義アプ ローチの特徴との違いは,シェス他(1988)においても比較整理されている。シェス他 の考える科学哲学とそれと対立する科学哲学の違いを明らかにする意味でも,ここで要 約して示しておこう。第

2

表に示される。

この表を,著者たちの意図がわかる程度に解説しておこう。両者の差異の第

1

は,唯 一無二の現実を仮定するかどうかである。実証主義哲学では,現実は実体的であり,当 然のことながら単一であると考える。一方,人文主義哲学では,現実は社会的に構成さ れるものであり,そのかぎりで単一でない現実が立ち現れると考える。

2

に,実証主義哲学では,現実の事象は研究者からは独立だと考える。物理現象や 化学現象は,研究者がその現象をどう見るかによって変化するわけではないというのが 常識だ。社会現象についても,同じような仮定を置くことができると考える。しかし,

人文主義哲学では,研究者は社会的現実から抜けることはできず,埋め込まれていると 考える。

3

に,実体的・客観的な現実を仮定すれば,理論命題や経験命題は一般的・普遍的 な応用可能性をもつ。しかし,現実が社会的に構成され,そこに複雑なプロセスが介在 するとすると考えると,一般的・普遍的な命題を仮定するのは難しい。社会科学的な知 は,むしろローカルなものに留まるという前提を置く方が健全だという見方を人文主義

第2表 人文主義哲学と実証主義哲学の比較

人 文 主 義 実 証 主 義

・人間は複数の現実を構成する

・研究者と現実とは相互作用的

・研究は個別事例知識の展開に向かう

・現象は因果的に分離できない

・研究は価値負荷されている

単一の現実

現象の研究者からの独立性 知識の一般化を目指す 現象は因果的に分離可能

価値自由で客観的知識が可能で望ましい

アメリカにおけるマーケティング研究パラダイムの再検討(石井) (627)13

(14)

的哲学は採用する。

4

に,実証主義哲学では,現実の実体性とそれら実体的要素間の因果関係を前提に 置く。人文主義哲学では,現実の要素を原因と結果に分離できないと考える。ある環境 の変化がまず起こり,続いて関係するある人の考えや行動の変化が起こった場合を考え てみよう。実証主義哲学では,環境の変化が原因で,人の考えや行動の変化は結果だと 判断する。しかし,ある環境変化に対して,当事者たちが多様な認識と理解の可能性を もつと考えると,結果も多様な可能性をはらむ。当事者の反応がその環境変化が加速化 させることさえある。たとえば,自己言及的予言の問題はそれだ。それほど単純に原因 と結果を割り切って理解することはできない。

最後,第

5

に,価値自由で客観的な知識を得ることができると考える実証主義哲学,

研究は常に価値負荷されていると考える人文主義哲学の違いについては,あらためて解 説の必要もないだろう。

しかし,本書の著者たちは,この人文主義的アプローチにも限界があると考えてい る。それは,「人間主義的アプローチは,ユートピア的,理想主義的希望の罠に陥りや すい」と考えられているからである。そしてその罠に陥らないために不可欠な要素とし て,「人間的価値を構想しそれに感度高く応えることに加えて,その目的を達成するた めの写実性(realism)と,人間条件の現在の状態だけでなく歴史の批判的・根源的な理 解が必要だ」という。こうした批判的検討の展開を通して,次に述べる「変化の動態の 研究」が彼らによって要請されてくる。

(2)変化の動態の研究:拡張される交換と消費概念,そして歴史性の認識

シェス他(1988)も歴史性の意義を主張するが,彼らの強調点はマーケティングの法 則性を明らかにし,マーケティング一般理論を構築することにある。その点で,歴史性 を強調しても,それが中心的な研究方法として重視されるわけではない。

しかし,Dolakia, et al.(1987)は,歴史性を研究の中心的方法として強調する。そ の違いは歴然としている。そして,フィラット他による歴史的理解の強調は,消費概念 ならびに交換概念におけるマーケティング概念の拡張と結びつく。その点を確認しよ う。

彼らは,3つのステップでマーケティングに関わる考え方を整理している。(1)現実 に支配的な考え方,(2)本論文集で強調される考え方,そして(3)これから重視され なければならない考え方の

3

ステップである。順に説明しよう。

(1)現在支配的なマーケティング概念に関わる。それは,「マーケティングや消費者 行動は,ある形態の人間相互行為,つまり交換を前提として理解する」という考え方で ある(Dolakia, et al.

7

1987)

。アメリカン・マーケティング協会が採用しているマーケテ

────────────

7 先ほど紹介したシェス他(1988)の意見とは対照的である。シェス他(1988)では,結論部分で,

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14(628

(15)

ィングの定義は,「マーケティング(マネジメント)とは,個人と組織の目的を満たす ような交換を生みだすために,アイデアや財やサービスの考案から,価格設定,プロモ ーション,そして流通に至るまで計画し実行するプロセスである」となっている。代表 的な教科書もその定義にしたがい,たとえば,コトラーは,「マーケティングとは社会 活動のプロセスである。その中で個人やグループは,価値ある製品やサービスを作り出 し,提供し,他者と自由に交換することによって必要なものや欲するものを手に入れ る」と定義してい

8

る。いずれも,交換,それも市場での交換概念がマーケティングの定 義には不可欠のものであることを述べる。

(2)本論文集では,「マーケティングや消費者行動における一般的な現象とは,別に 相互行為(交換)を必要とはしない」という考え方が強調される。つまり,本質的現象 としての消費経験,あるいは人間に不可欠のものとしての一般的現象を扱えば十分では ないかというのだ。(購入をその一部として含んだ)取得行為,消費行為,廃棄行為,

あるいは特定の目的をもたない消費経験などが,研究の関心となる。交換以外に,財を 取得する方法は多様だというわけで,その考え方にしたがうと,「ニーズの充足を市場 取引に限定する」という伝統的な考え方はそれほど根拠のある考え方ではないというこ とになる。

(3)彼らがこれからの方向として指し示すものは,「拡張された交換」に基礎を置 き,「欲望や欲望充足のメカニズムの歴史的な形成と変容」を焦点とする考え方であ る。つまり,「欲望は生成する。そしてその欲望や消費経験は変容する。さらにはニー ズを充足し実現する手段も変容する」という視点に基づいて,欲望に関わるプロセスの 全体を歴史的動態のなかで理解したいというわけである。現在の,つまり先の(2)の 考え方が,欲望の充足や消費経験を問題としながらも歴史的でも分析的でもなかった点 を批判し,その点を研究の中心に置こうというのである。

この(3)の段階に至って,「欲望の生成・発展,そして欲望充足メカニズムの生成・

発展の歴史プロセスを分析的に理解する」という本論文集でフィラット他が主張する研 究の展望と課題が見えてく

9

る。

────────────

「マーケティング理論の適切な領域は何か,あるいはどうあるべきか?」という問題設定を行って,マ ーケティングの研究の焦点について議論する。マーケティング研究の歴史においては,供給者の行動や 買い手の行動や中間業者の行動が個々別々に扱われてきたが,その共通する範囲は「市場行動」にあ り,それこそがマーケティング研究の焦点になることを強調する。

Philip Kotler, Marketing Management.恩蔵直人監訳『マーケティング・マネジメント』ピアソン・エデ

ュケイション,訳書,9ページ。

9 こうした歴史への注目は,Bartels(1976)がすでに指摘するところだが,彼らは,Bartels(1976)の試 みは記述的なもので説明的・分析的ではないことを指摘し,それこそが課題だと述べる(Dolakia, et al.

1987)。

アメリカにおけるマーケティング研究パラダイムの再検討(石井) (629)15

(16)

(3)聡明なマーケティング実践に向けて

本論文集の理解のための最後の問題として,マーケティングがどこまで広がりをもつ のかについてのフィラット他(1987)の見解に触れておこう。それは,本論文集のなか で,Kotler(1987)が問題提起者となって,「人間主義的(Humanistic)マーケティン グ」を提唱したことが手がかりとなる。

Kotler(1987)は,

「消費者によって現在望まれているものが彼らの長期の損失とな

るのなら,変化させることを当然主張するというのが人間主義的マーケティングだ」と いう。人間主義的マーケティングにおいては,消費者と社会にとっての長期のベネフィ ットだけでなく,「現在の消費の長期的意味」をも配慮しなければならないというわけ だ。しかし,Dolakia, et al.(1987)は,「そのことは,はたして可能なのか」を問題と する。

長期的意味を考慮したマーケティングの可能性は,「長期ベネフィットが,消費者が 望む製品であるかどうか」がカギを握る。消費者が長期的ベネフィットをもった製品を 選ぶのであれば,マーケティングも当然,それに応えようとするだろうし,そこにはな にほどの問題も生じない。しかし,Dolakia, et al.(1987)は,消費者にとっての長期 ベネフィットに対して,マーケティングが応えることは難しいと考えているようだ。

長期ベネフィットと消費者ニーズとが必ずしも一致する保証はないと,Dolakia, et

al

.(1987)は考える。消費者の将来のライフスタイルについて,そしてそのスタイル に到達する方法について,マーケティング・システムは見通しのきいた情報を提供でき るわけではないと言う。

「消費者は,ただ即時的な欲望充足を要求するだけでなく,通常は彼らの将来の生活に関し ての目的や構想をもっている。消費者要求は,社会のマーケティング・システムから生まれ る。そのため,マーケティング・システムは,将来可能な生活様式やパターンについてだけ でなく,そこに到達する方法についても調査・探索し,消費者に情報を与えるべきだという ことになる。消費者の要求はまさにここにあるのだが,マーケティングはこの責任をほとん ど果たしているようには見えない」(Dolakia, et al. 1987)

さらに問題点を複雑にするのは,「ベネフィットとは何か」あるいは「誰に,ベネフ ィットがあるのか」を,「誰が,知っているのか」にあると彼らは言う。「ベネフィット とは何か」を知るために,人は情報をもたなければならない。それゆえ,「どのように そして誰に,情報が普及するのか」がまずもって重要になる。もし,誰もが,製品につ いての直接・間接の効果だけでなくトータルな情報に接近でき,そしてそれぞれが社会 的選択において等しく参画できるかぎりで,それは可能だろう。彼らは,そう言うので ある。

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16(630

(17)

そのような情報が,等しく社会のすべてに利用できるのであれば,社会における説得 的コミュニケーションに対する必要は消滅する。問題は,しかしながら,「消費者が,

何を欲し,何を必要としているかを,すべての者が知ることができるか」あるいは「社 会的相互作用なしに,そして結果として社会的影響なしに,誰もがみずからの需要を明 確にできるのか」という点にある。Dolakia, et al.(1987))は,次のように言葉を重ね て,説得の資源や手段への近づきやすさの違いが,消費者需要の形成において影響を与 え,さらには「何が,誰にとって,長期のベネフィットがあるのか」自体の答えも違え てしまう可能性を指摘する。

「もし,完全な需要の独立性があるのなら,そのときマーケティングは十分に役割を果たせ るだろう。しかし,何らかの相互依存性があるなら,影響を通じての説得が現実となる。そ のとき,問題は説得の資源や手段へのアクセスの差異という問題に行き着くことになる。そ して,アクセスできる人は大きい説得力をもつことになる。そのような場合,われわれは,

そのような資源や手段へのアクセスの違いの原因を研究する必要が出てくる」(Dolakia, et al. 1987)

こうして,消費者需要は,消費者間の相互作用を通じて,あるいは影響力をもった特 定の消費者による影響を通じて,あるいはマーケティング・システムそれ自体を通じ て,構成される可能性を示唆する。そして,「長期にわたるベネフィットを,消費者自 身が判断できる」というコトラーの議論の前提が疑われることになる。すなわち,「長 期にベネフィットのある製品の提供が必要だ,マーケティングの責任はそこにある」と いうコトラーのマーケティング実践論では収まりがつかない問題が潜んでいること,そ の問題を検討することが社会科学の課題であることを指摘する。

マーケティングが,もし,責任あるやり方,聡明なやり方,そして倫理的なやり方で 実践されるなら,マーケティングに帰属する問題の多くは消滅するという意見は根強 い。本論文集でも,今紹介したコトラーはそうだ。

しかし,Dolakia, et al.(1987)は,聡明な実践が聡明であるためには,そもそもあ る障壁があることを明らかにする。それは,繰り返し言えば,消費者の知識や欲望はそ れ自体独立して形成されるというより,消費者間の相互作用やマーケティングに依存し て変化する点にある。消費者間の相互作用を作り出す構造や,マーケティングが消費者 の知識や欲望を前提に活動を行うにしても,同時にそれが次の需要の基盤を創り出すと いう側面を明らかにしなければ,この問題についての答えは出てこない。単に消費者の ニーズに答えることであるいは将来を見通して長期ベネフィットの高い製品を提案する ことで解決のつかない社会科学上の問題がそこには潜んでいることを示唆する点で,こ れまでにはないラディカルな主張と言えるだろう。

アメリカにおけるマーケティング研究パラダイムの再検討(石井) (631)17

(18)

以上,「理解の科学」の重視,「変化の動態(歴史)的研究」への志向,そして「聡明 なマーケティング実践の不可能性」という

3

点にわたる彼らの議論を検討し,彼らの基 本的な考えに迫った。「(マーケティング研究において)われわれが長い間にわたって当 然のことと認めてきた仮定,前提,真理についての哲学的および分析的検討に基づいた 新奇な脱構築へと向かう」(Firat, et al. 1987)という彼らの主張は,この

3

つのテーマ に集約されているはずである。

終わりに:マーケティング研究の可能性と限界

「マーケティング・マネジメント」という言葉が,米国から世に普及しておよそ半世紀 になる。それは,今や企業の標準的な実践になり,学界でも制度化された研究分野を形 成してきた。その研究は,経済学・心理学・意思決定論・システム論・社会学など,多 彩な学際分野からの知見を得ながら,今や,マーケティング分野を超えて存在感を発揮 するに至っている(とシェス他(1988)は指摘する)。成熟した理論分野における研究 パラダイムの自省と特徴づけできる。

この潮流をマーケティング・アイデンティティを問う第

3

の波と本稿では位置づけた が,その底流には新しい科学哲学の登場がある。本稿では,その立場を際だたせるため に,科学哲学上の立場がははっきり異なる

2

つの研究を紹介した。端的に言えば,シェ ス他(1988)は伝 統 的 な 実 証 主 義 と 実 在 主 義 の 立 場,そ れ に 対 し て フ ィ ラ ッ ト 他

(1987)はおおむね新しい哲学である相対主義と構成主義の立場に立っている。それぞ れに,マーケティング研究の「合意された方向づけ」を与える試みなのだが,そうした 試みが重要な論争の場を作り出す契機になるという逆説的な結果を生んでいる。

最後に,簡単に彼らの研究の意義と展望を振り返って本稿を終えよう。互いに,評価 も展望も違っていることが興味深い。

シェス他(1988)は,アメリカン・マーケティング研究の他分野にも及ぶ存在感ある 現実を指摘し,もってマーケティング研究の成果を誇っていることからもわかるよう に,これまでの研究パラダイムの延長線上にマーケティング研究の今後一層の進展を期 待する。しかし,これからの具体的な研究課題という点になると,既に触れたように,

明確ではないし,先送りされている感が強い。

一般理論を作ろうというのが彼らの主張のようだが,結局はかけ声だけに終わりそう だ。確かに,「マーケティング研究を支えた

2

つの分野,つまりマーケティング・マネ ジメント論と買い手行動論とは十分に接合されてこなかったので,その接合こそが不可 欠だ」と説くことに,誰も否定はしない。しかし,「その接合が,どのような枠組みに よって,あるいはどのような概念を手がかりにして可能となるのか」については十分な

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18(632

(19)

考慮はない。その点で,彼らの目指す一般理論は,その道筋さえ与えられていない。

彼らに対して私が感じる物足りなさは,すでに指摘したように,第

1

に,「これま で,一般理論が,どうして可能にならなかったのか」の理由を明らかにしていない点。

関連するが第

2

に,彼らの依拠する一般理論概念の理解が平板であり,具体的な研究の 方向づけを得にくい点。そして第

3

に,彼らも注目する新しい科学哲学に対して理解が 表面的なものに終わっている点,にある。

他方,フィラット他(1987)はどうか。第

1

に,伝統的なマーケティング研究が抱え る問題を整理し,科学哲学にまで遡って欠けていたものを明らかにした点。第

2

に,拡 張されたマーケティングの概念を提案している点。そして第

3

に,これからの研究方向 として歴史的研究の有望さを強調した点,それらの点で評価が与えられてよい。彼ら が,論文集のタイトル(「マーケティングにおける根源的・哲学的思考」)にかけた問題 提起は,その点では成功したと言える。

しかし,これからのマーケティング研究の方向について,「消費やマーケティングの 動態を歴史的に記述する」というだけでは,果たしてマーケティングの研究方向を尽く しているのだろうか。私には,単に,(法則追求的な)科学研究に勝る歴史研究の優 位,あるいは歴史研究への回帰を呼びかけるだけに見えてしまう。マーケティングの変 化を通底する動態やその力(ダイナミクス/ダイナミズム)を理論的に洞察する,「理 論枠組み」や「手がかりとなる概念」が必要ではないか。それについての彼らの主張は 提示されてはない。

参考文献

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