ホル」へ
著者 表 章
出版者 法政大学能楽研究所
雑誌名 能楽研究
巻 37
ページ 111‑150
発行年 2013‑03
URL http://doi.org/10.15002/00008779
{ 研 究講 演 の 記録
}
b じ
巳 す乃にけ日 リ
ム 目
1 ず J # 羽 詰 0
l l ‑
泣 く か
ら ﹁ シ ホ ル
﹂
表 主 主
*以
下は
︑ 一 一
OO
六年四月一回目︑祭能史研究会例会における衣務氏の研究発表の郎俗化である︒テープ起こしを元に虫緩や
一バい問迷い︑話が前後している部分等を般原.し︑なるべくぷ本氏の口調を伐しつつ︑説みやすい形に並えである︒
本当
U
の配 布資 料は
︑
8 4
肌倒的
きに
縦浮
き・
一段紛の本体が問枚︑
8
4
綴問き術力きのんな純一位炎 (11m)が
んハ
状 ︒
本抑
制
では
︑
本体
の刷
日
付引川知山市
は本文に組み込み︑
.覧 ぷ
はぷ
地 に 付 し た
︐ 覧 火 の う
・ちl
日は
︑
災市
氏山
内切
が中
l NJA
しているぷ変換・
必む の附 迎い 等を 訂正 して 料開 たに 川町 川制 化し
は当日配布のままオフセット印刷でぬ開戦してある
m
︑内*本文中にもあるように︑党ぷのタイトルには
﹁
︿ 能別
一付﹀の新旧﹂の後に﹁続考﹂の析が付いていたが︑活字化されているも
のは本航以外にないので︑削除した︒ただし末児の資料竹には当日のタイトルが残っている︒
*当日の発表では資料の文
3
をそのまま読み上げながら︑そこにさらに技釈を加えていくスタイルで話されている場合が多いが︑本衝では以則として︑資料の文一
日( デア ル訓
)も本文(デスマス識の表市氏の発表
) の
中に組み入れている︒
本当 に日 抗さ れ
ている部分と多少
n
訓が然なるが︑無用にUv
m訓に変える恐山もないので︑そのままにしてある︒
*テ1プ起こしぷび資料の訂正
‑ N
入力には︑深
川印
乱州
地氏
(大
学院
時士
同州
判刊
)の協々を仰た︒l l l
玲 ︐ }f
112
火でございます昨年平陥川でやたこと(っ
はじめに
. .
00
六年一
川.
六日
能梨
学会
山本
日以
例会
)の続きなものですから︑
﹁
付
m
﹀の新川﹂続号︑という形にしました党点資料の矧JU以前の分を改訂しての刈判川が大半です.
︿ 能山川
発火
では
︑
この調査の抗接の端緒となった﹁同家本江戸初川能椛付﹂についての考察に大きな比坑をもたせましたが︑今回はそ
こをほとんど省略し︑基礎資料に用いた現付の説明を詳しくし︑﹁シホル﹂が﹁泣く﹂にとってかわる時期の把握
と ︑
それに関連する禄々の問題についての考察を主体にします角﹁シホル﹂以外の︑型付の新旧認定に役立ちそうな召集
につ
いて
も︑
時間があれば
J
及したいと思っています能器研究における明付の瓜濯れを氏はいくか
・り必減しており︑
附如 何問 八年 から の
﹁能濃資打集成﹂で
‑b 山
い
myH
刊 の
制印を挺先したのですが︑あまりにはが多く︑
全体 的民
0・
料品 は敬 注し てき たの です
その問︑山い明付に﹁しはる﹂の
五州が見えず︑それの打無が明付の新川判断の布
‑ M
なF
掛かりであろうことは把出していましたdこれ
は︑
︑:
ーlJ︑AH
や勺
hり
'1
・
v段附からそういう与え万は持っておりました︒
山接
的に
は︑
︐ 一
00
.
九年
・
κ
川4
ハけの龍栄学会h
山 市
以例会での仲代川党氏 ︑宅
Mm
流什 何付
﹂
の制刻を終えて﹂{雌川辺
ι J
‑M
山本
相
彦・民
川あ かね
︑
氏の党‑ ‑ e
HK
大阪大mrL入学院ぷ野ゼミで出刊のけけとして附京本代
MM
を誠み進めた作業を必披に二.氏が共川で実施してきた制印の
代引
の械
山口
}を
聞き
︑日 刊文 を山 し︑
助・J
した こと が︑
此同
州付
(能
付)の
m .
総合的調従を必院から初めてみようと思い立った山発点なのです
おさ人の発去を東京で聞きまして︑ご皆川河のことはよく分かったのですが︑正広
‑ d って砿はびっくりしたのですよ︑
というのは︑今の皆い研究針はこれしか知らない︑というその鷲きですよ︑考えてみればそれは判似たちが明付の調作
をした結栄を発表していないせいなのですよ︑私が常識と思っていることが発表している方々にはちっとも常識でな
くて︑副から勉強しなければ烈付について何も書けないという状況だったようなんで︑それで私︑多少口を出しまし
て︑いらないお世話かもしれませんけれどね︑それで調べると同時に︑若い人を納得させるためには︑ちゃんとした
研究の形にして発表した五がいいだろうという気を持ったんです︒それで︑昔から考えていた︑﹁泣く﹂という表現
が﹁シオル﹂という形に︑変わるのはいつかを調べることにしました︒
﹁シオル﹂ということは能の型の代表みたいに言われるのですよね︒なぜか﹁泣く﹂ということを能では﹁シオ
ル﹂と表現するわけですよね︒左手だけで泣くことが多いのですけれども︑両手を使って深く泣き沈むときは﹁モロ
ジオリ﹂というのもあります︒しかし︑昔から使っていたのかと思ったら︑初朋の型付を見てみるとぜんぜん﹁シオ
ル﹂が出てこないんです︒
で︑
﹁泣
く
﹂なんです︒それで︑江戸初則の型付を調べている段階で︑﹁シオル﹂というの
はかなり後代に出来た︑使い始めた
一 首
誕だな︑という見当はついていたのです︒
しか
し︑
いつ頃から変わっていたの
かということをまず把制することを第一
の目
的に
して
︑
いろんな型付についてどういう言葉を使っているかを調べだ
したというわけです︒ 自
E !
盟十l
の新1 1 1
一 、
広司 叫 河島
g n
ノkk
匹刃心彩tF品
不刀
V小併
さ 一 n
{ I
期資資料一党}( 川
1
川頁
)は
︑
ほぽ古い順番にならべて世きまして︑
A
からu
まで一九十種類近くのものを調べましたですけれども︑この材料を元にして︑どういう言葉が使われているのかを
{ H
各資料からの型付用語抄山作業113
の見本}
( 川
im
頁)
とい
う形
で山
口い
てお
きま
した
︒却付用語とそうでないものと区別がつかない点があり︑
かっ
︑調
べている途中でも︑ある資料についてはちゃんと調べてピックアップしておきながら︑次の資料では忘れちゃって
1 ]4
やっていないとか︑あいまいな点もかなり残しております︒それから﹁橋懸﹂なんでいうのは初めのうちは採録して
いたけれども︑どんどん山てきますんでこれは年代鑑定の役にはあまり立ちそうもないと思って︑小文字の資料につ
いてはもう採錯するのをやめちまったなんてのもありまして︑大変基準が陵昧ではありますけれども︑とにかく︑ま
あまあこれは割付の性質を考える上で︑ちょっと注なすべきではないかと言う言葉を集めまして︑各資料でヤ九十背服
にしてあります︒
こういうのを全部今度は五十音順に並べ返しまして︑ちょっとこれは大事じゃないかと思うものを選び出したもの
が
{ m
型付用組問 抄
}(川jm頁)です︒一応︑系統別に分けました
︒ ︿ ﹁
泣く・しほる﹂系統﹀まず︑泣く・しほるの変
化を調べるのが第一目的でありましたので︑これを到に持っ
てき
て︑
︿役名の類﹀とか︿
﹁座
する
﹂系
統
︾と ︑
﹁出
する
﹂
のはいろんな
一 言
葉を使いますからね︒その件を・謝べてみたんです︒それでちょっと引加注釈をつけましたんですけれ
ども︑だいたい前字で見られるものを綬先しました︒その後︑なるべく各流儀にわたるように注意をし︑ことにどう
もやってる途中にほぼ﹁泣く﹂から﹁しほる﹂への変化が立保前後に集中しているらしいと見当が付きましたんで︑
なるべくその前後の資料を使うことにしました︒百番入ったような大きな型付もありますし︑それからほんの五︑六
千件
一番しかない資科もあります︒
︒が付いているのは活字になっている資料があるってことなんです︒江戸初期のものは優先的に活字にしましたん
で︑活字で読めるものになっております︒法政大学でわんやから出しました﹃能楽資料集成﹄という題で︑型付を優
先していれましたんです︒その他古いものでは︑
M
秋一同著﹃承応神事能評判﹄ ︒
わんやから出した︑能楽史料の中で
﹃舞
正語
山町
﹂というのを私がやりました︒その中にこういう﹃承応神事能評判﹂という評みたいのが付けてあります︒
昭和三十年代の後半だと思うんですが︑このころからこの型付などを見て︑随分今とは迷う言葉遣いを使っています
のでね︑これはちょっと調べてみると面白いなという気は持っていたのです︒後で中しますけれども︑﹁スワル﹂に
関してこの本は﹁とどする﹂という言い方をしているんですよ︒だから僕は江戸初期には﹁座る﹂を﹁とどする﹂と
いうんだと思っていました︒後で調べてみましたら︑﹁とどする﹂という表現をしているのは︑この﹁承応神事能評
判﹄と﹁舞正語陪﹂
の秋
扇のものだけなんですよ︑ある時期に京都附辺︑関西で流行った表現らしいんです︒
そう
い
うことが入り込んでくるので︑剤一付の性質も︑出てくる言葉も︑地方色があったり︑時代色があったり︑色んなのが
影響しているようなんですけどね︒よくは分からないですけど︑そういうのを並べてみると何が分かってくるんだろ
うと
言うので︑こういう資料を使って調査してみたんです︒なかには︑比たことないなんでいう資料もある︑研究者
でもこんなものあったんですかという資料を使っております︒ほとんどは能楽研究所で現物︑あるいは与具が見られ
るものを使っております︒
まず
この
{旧型付用説抄]で注意すべき
一 言 葉
を見ていただくと︑どの本にこの言葉が山てくるか︑おおよその傾向
が把握できるかと思います︒例えば︑まずこの﹁泣く
・ し
ほる
﹂というのを見てみますとね︑﹁しほり・しほる﹂と
いうのは大文字の資料は
T (
北寿硯奥書﹃能党書だけなんですね︑あとは小文﹄ ) 字
の資
料ばっかりなんです︑それで
私はだからこれを見たときに
T
は一番はじめ︑これ喜多流の線本伝舎ですからね︑これが初めに使い出したのだろう能型付の新旧
と見当を付けたんだけどもね︑この
T
は他にもこれが一帯早いというのがやたら出たてくるんですよ︒それで︑むしろこれは奥古が怪しいんじゃないかということに気が付いて︑調べ直して︑むしろやっぱり全体の制作年代がもっと
後だ
と︑
小文字のものとそう変わらないうちに脅かれたと見る方が良いという結論になりました︒これはあとでち
115
ょっと詐しくお話します︒
で︑
﹁し
ほる
﹂と﹁泣く﹂の方はですね︑結構だぶったものもありますけれども︑初期の
方は
﹁泣く﹂ばっかりでね︑小文字の
d(
﹁家保年間竹田広重準仕舞
付 ﹂
)あたりを最後に消えちまうんですよ︒二
つの
116
用布
が仙
波立
して
いて
A
の万
が低
限必
で
B
の方がだんだんなくなった︑というのは他にもたくさんあるんですよ︒ところが無くなってしまうというのは非常に珍し
い形
なんです
︒ ﹁
此く﹂でいいわけですね︑﹁泣く‑というのは大変に紫杭
なぷ現で︑﹁泣く﹂と
J
えばいいものを何故か﹁しほ
る﹂にしちゃって︑しかも全線﹁しほる﹂で﹁泣く﹂と・J
わな
くなっちゃって︑そのあたりは大生而・川い掛川ぶだろうと思うんですけれど︒こういう胤に汀策を蛇べてみますと︑だ
いたい問題になりそうな汀葉︑ひとつだけでは何とも日えませんけれども︑
いろ
んな
凱付
︑
年代のわからない型付を
間耐べてみてですね︑この炎と照らし合わせてみると︑どうもこの本はこういう時代のものらしいという見当がほぼっ
いてくるのではないかと思います︒私のあとの活はどうでもいいんです︒資料を持ち制っていただいて︑自分なりに
利用していただければいいかと思うんです︒
あと
の請
はま
あ︑
付けたしみたいなものと思ってください︒
﹁ 、
泣 く
﹂
か ら
﹁ しほる ﹂
'^‑.
﹁泣く﹂の共体的用例}
まず
︑﹁
なく
﹂の具体的用例を型付から引用してみます︒
① ﹁
ヨク/¥コレヲアンジミルこシテ位テ
︑﹁ ソ
ウジテ助成ヲモ﹂ト謡︒
:: :
﹁ナク/¥タツテイデケレパ﹂︑二
人トモ立テ ︑ナキ/¥橋が︑リノ点へ行︒時宗ヲ先ニ
立ル
︒ ﹁
ナク/¥出サセタマエパ﹂︑町ハナキ/¥立テ︑亦
ヤガテ下ニイル︒コシカケズ
︒ ﹁
兄弟ハウレシナキニ︑フシマロペパヤ﹂︑伝カヘリ︑サラ/¥トアユミ︑政打ノ
前ニツクパイテ抗︒時示︑シテノ打ニツクパウ︒此︒
(A
﹁妙 佐
本仕野付﹂
小倒 的
H我)
大変﹁泣き泣き﹂が多いですけれども︒
② ﹁
逆縁ながら弔ひて通りてこそ候へ﹂と云時︑大夫もつれも暗︒﹁恋慕のなみだ︑ふた︑び袖をぬらし鉄﹂
と云
時︑
金・
制限
共に
泣事
なし
︒大略の仕手時也︒
走︑
比輿
の仕
舞の
山︑
定謹
府・
候
︒禅鳳・
大大
夫な
ど一
度も
なか
ずと
刷・
候
︒
・﹁猶おもひこそは﹂と云時︑右のかたにて泣Oi‑‑・﹁ふししづむ﹂といふとき︑つくばひて︑長紺ながら阿
の手にて泣︒
( F
﹃蛍狩抄﹄松風)
﹁恋慕のなみだ﹂︑ここでは金春も観世も泣かないんだという訳ですね︑﹁泣く﹂を使っています︒
③﹁又ひとりねになりぬるぞや﹂と︑右の手にて左の扶を取︑左の袖にてなき/¥有へひざをたをし︑なきしづみ︑
手をはなしても其ま︑うつぶさ居ル︒
( K
﹁中村左馬進正辰仕舞付﹂班女
)
これは︑右の手にて左の快を取るというんですね︒えらい映きょうだと思うんですけれど︒今はこんな型絶対しない
能型付の新旧
と思うんですが︑小田幸子さんなどが他の例を挙げておりました︒備倒れなどをしているケlスがあるのだと
言っ
て
おりましたけれども︑かなり激しい泣き方をしたケ1スがあるようですね︒
117
@
::
:
﹁れ
ん/
¥た
り
﹂
ニ冊
︑ワキへアイ(シ脱)ライナガラ汁叫︑﹁いはんや﹂ヨリ出:::﹁子ヲ思ふ涙﹂と左リ
ノ手ニてナキ︑留ル︒﹁あわれ立かへり︑今一日﹂とワキノ方へ行︑ワキニ向︑左リニテナキ︑下ニ居︒
118
( X
﹁宝生火炎所副︿木賊﹀代舛付
﹂ )
この
X
というのは耐白い資科でしてね︑宝生大火がやった能を間世大夫が凡て︑制附太夫が記鈍しているものなんですよ︒こういうのは何流というべきなのですかね︑
京中
一流
m m 付
とい うべ きな のか
︑制 限叶 一流 とい うべ きな のか
︑制 祉の 人が
A
いたので制批流でいいんだと思いますけれどもね︒⑤ 一 忘れ
使ぞよしなき﹂見テ︑抑制航ニあて︑引引心︒
( e
本保十二年松
村奥
品川
双山
多流
明付
︿柏崎
﹀ )
と︑これは﹁なく心﹂︑これは泣くような気持ちで
︑型では・ : とこれは﹁シホル﹂を用いる型付内での﹁なく﹂で︒
なくて︑泣くような気持ちでやるのだという説明なのですよ︒同じ資料の中で﹁泣く﹂ことは︑そのまま﹁泣く﹂と
いう
言葉で表現していたのに︑型の方には
﹁な
く
﹂も﹁しほる﹂も両方出てきている︒型の方は変わっていくんです
}﹁しほる﹂の具体的用例 ね
@:・﹁あらこしかた悲しゃ﹂と叫間引︑
:: :
﹁ 又
おもハる悲しさよ﹂としほる
︒ ﹁
初の老ぞ恋敷﹂とは削刻︒
・﹁
よハ り行 栄ぞ
﹂
とひ ざを くづ し︑ 一知 尺ヲ はな し︑
U
叫刻︒両手ニ而U
倒川ても不レ苫︒( T
﹁花々硯奥KM
能党内﹂山寺小町)
①・:脇﹁逆縁ながら﹂と議時︑二人共にし
ほる
︒
﹁二 度袖 を﹂ と脇 へ 心付︑
﹁恥
かし
ゃ﹂
と正
面向
︒
:: :
﹁う
らめ
し
かりける﹂と︑二人共にしほる︒
﹁幽
霊
H一
九ま
で﹂
と脇
へ心
付︑
﹁却
も行
平﹂と正面向︒
﹁あ ら恋 しゃ
﹂と しほ る
︒
( h
版本﹃能排惑大金﹄必風)T
は時代的にいうと延宅.一年と特別u T
い川例なんです︒その後が
h
︒ ﹁
能緋惑ト
入金
﹄という出版された明付があるん
ですが︑その本は全部﹁
しほ る
﹂なんです︒一般を対象にした出版物がね︑もう全部﹁
しほ る
﹂にしているというこ
とは︑この頃︑能の愛好者の中でも︑﹁泣く﹂型を﹁しほる﹂ということが常識化していたからこそ︑そういう形を
とっ たの で︑
﹁し ほる
﹂の転換の時期を考える上で大変重要な資料になる︒
@ ﹁
ふかくのなみだ
﹂二
人なくe
::
:
﹁なきてとマまるぶれきよ﹂
l
郎へ向シヲル︒二
人共にシヲル︒十郎向
Auシ
ヲル
︒
e l
以e卜
松 村
拠
掌
, 流
m
小J'
イ
支
; ; ' 1
J
えこれはさきほどのぷ保十二年の喜多流の型付︿夜討自我﹀ですけれども︑同じ型付の同じ仰の巾でね︑﹁なく﹂と﹁し
能型
H
の 新I
I:lほる﹂とが一緒に出てくる︒この時代はまだ混用されていたと言えるかと思います︒次に﹁隣忠泌抄
﹄ ︒
@・:舞三段目
: ・
問の方の月を見て︑新く心を静めてシホル︒
: ・
持ふ内に片岡白く照りかずやくにより︑乗じて月を
詠める心なり︒刀を詠むるにつき︑甘を思ひ出で泌を流すなり︒
J 19
( k
宝町十年﹃隣忠
裕妙
﹂
︿腕指
﹀ )
120
なぜここで﹁しはる﹂かということを説明しているところです︒
この
﹁隣忠絡抄﹂というのも前宇になっていますが
ね ︑ 一棋を流すことを去現しているのが
﹁しはる﹂だということが・以く分かる川例です︒
さて︑必の
j
の﹁制限 世元 市松 胤党 川
﹂(制伏文州成)を川姐にしますけれども︑ちょっと厄介な本なのです︒︹般の
錦︺後の将仕郊につ
いて
の︑
﹁延山
リ ド
川 年
(一
じ問
ムハ)十二川廿
= A
公点械御
U
a q
ニ付作
k
ル﹂とい う記 事に 続け て︑ が. の
ような花起があります︒
くちまきり行た色とかな
しぼり紋而もくるしからずやと御母御山崎候ニ付/しほり絞引も御出鉄ト︑於て
丸
4
料御 ・開部
庄
一
u n u E
投
H
l' 4f‑mE網開EUM
殿江口上ニテ則中上ル/延事四年ナリ/
これは誰が質問したのか︒
将軍 なん です よ︑
二年前に将市になった家政一なんですけれど︑この将軍家並に︑ずっと卜
五代日の観世大夫元章が能の指南をしていたのです︒﹁公方機御尋ニ付書上ル﹂型付の記事に続けてこういうことが
あるんです︒これ︑基本の型では﹁しほる﹂ことになっていなかったんでしょうね︑それを将軍より?﹄こで放いて
いるのはまずいか﹂という質問があったので︑﹁いや泣くこともございます﹂と返事したという記事なんです︒
つま
り︑前者だけじゃなく︑羽円う将郁や︑質問して取り次いだであろう田沼意次などもね︑能では﹁泣く﹂ということを
﹁しぼる﹂と表現するんだと.. 日うことを心得ているんだと思うんです︒こんな而がございまして︑だんだんと﹁
しほ
る﹂の万が優勢となっていった︒
{﹁
しほ
り﹂
(名
詞)
の具
体的
用例
}
実は能楽学会の例会の時にも︑﹁しほる﹂と﹁しほり﹂とを区別していなかったんです︒まあ動詞の述朋形が名詞
として使われている訳ですけれども︑採録するときに︑いちいち印を付けられませんので︑全郎一括して採録し
ちゃ
ったもんですから︑あまりその名制
・動
詞のば別をしていなかったんです︒
とこ
ろが
︑﹁
能楽
A品 川
﹂
︑ノ
︑ト ト忽
FLEOJ
H 1 4 4R
M剖
a
さんの説明が﹁シヲリ﹂という形で説明しているのと︑保取例のほとんどが﹁しほる﹂という形だということと︑
ギャ
ップに気が付きましてね︒﹁しほる﹂がまず基本だったんで︑紅一
戸後
州になってから︑はじめて﹁しほり﹂とい
う名詞が生まれてきたらしい︒とすると︑能の泣く型は﹁しほる﹂で説明すべきで︑﹁しほり﹂というのは後代に
なって出てきた表現であることを心得ておく必裂があると思って︑﹁しほり﹂を念のため調べたら︑本当に少ないん
です
よ
︒
動川の辿川形なのか名詞なのか決められない﹁しほり﹂は諸冷にすこぶる多いのですn
mq
l
江戸米川のものですーの例は名洞と見たい感じが強いんで
すが
︑
明確に名詞と断定できる川例は緩めて少ない︒机
. μ
後則の付になりますと︑文句が円いであっ
てた
だ
﹁しほり﹂と仰いであるんですよ︒そういう場合には﹁しほり﹂を述用形として使って
いるのか︑もうその当時名詞としての﹁しほり﹂がすっかり行きわたっていて︑ここで﹁
しほ
り
﹂の却をするんだぞ
自信!¥2付の新11:1
という意味で﹁しはり﹂と書いているのか︑なんとも断定できない︒﹁しほり﹂の朋倒はいっぱいあるんですよ︑で
も名詞とは断定できない︒以下に挙げるのは珍しい例です︒
121
‑)﹁なを思ひこそ﹂としほる︒︹但し此しぼり︑
k
羽へ
懸ル時ハ︑敏打切ともいへり(
抑沌
) ︺
( i
元文
五年
刊﹁
能排
惑大
会﹄
︿紙風
﹀ )
122
⑫松風身留ミどめ︑別ニ
録 ⁝
コ開 決 議
一︑
﹁添 慣杏 の﹂ ト絞 ノ
際へ寄り︑下校へ左ノ制打
懸ケ
︑
﹁な
つか
しゃ
﹂と右ニて
シホ
リ︑イロエ
ニナ
リ
::
:常
ワ
公へ
向見テシホルナリ︒ミとめノ時容ヲけん 込
マズ
︑唯 行間 り︑
シホ
リ
モナ
シ
山隙
. M
披キ廻ル山リ是︑ミどめノ知セナ(S文化五年金存安住ホ﹁判明刑付心得︒︒﹂ )
⑪のはじ
めの
﹁し
ほ
る﹂は動対です︒これに法記がありましてね︒﹁似し此しほり:・﹂これは明らかに名詞ですよ
ね︒まあ︑文
‑m
体だと名詞が出てくるんですかね︒で ︑
@は﹁添慣恋
﹂っ
て嗣白い当て字使ってますけれども︑
﹁ 右
ニてシホリ﹂の
﹁ シ
ホリ
﹂
は動詞のほうですね︒
﹁シ
ホリ
モナ シニ
﹂というほうは︑明らかな名詞ですよね︑し
ほる
こともしないでという︒これは金奉安休の﹁習帯型付心得﹂という︑習耶を集めた長い
HK
い割
引付
なん
です
︒
はじ め ︑ 実は
﹁しほる﹂が見つからなくて︑ああ安住は﹁
しほ
る
﹂を使っていないんだと思
って たら
︑故後の方にこれが山て
きたもので鰐いたんです︒やっぱり︑脇能の型付をいくら見たって﹁しほる﹂が山てくるわけはないんですよね︒だ
から︑そういうな味では何の品川を選ぶかによっても辿
って くる
わけです
︒﹁
シ
ホル
﹂が出てきそうな抗女物とかね︒
百帯あるうちで全部見きれませんから︑羽山だけ淵べゐ場合にも女能を主体に訓べる︒ちょっと付け足しですけれど
型付が﹁どう演じるか﹂を示す資料のため動詞﹁シホル﹂が専ら使用されたのでしょうが︑それにしても名詞︑ も
﹁ シ
ホリ
﹂の用例が少ない
︒ ﹁ 両シホリ
﹂ ﹁
諸手シホリ﹂の加例が
q u
のみの点も要注意です︒名詞﹁シホリ
﹂の流布
が動 詞﹁ しほ る﹂
に遅れることは確実で︑
﹁ シ ホリ
﹂を去に立てて耐話を説明する近年の傾向はいかがかと思います︒
まあ近年の傾向
とい
っても﹁能楽
会作
﹂
は附和十八年ですし︑もともと︑明治以降はだいたい
﹁ シ
ホリ﹂を去に立て
て説明しているようです︒
{﹁
しほ
る
・しをる﹂の注意すべき用法}
さて︑この﹁シホル﹂がだんだん優勢になってきたんですが︑同じ﹁シホル﹂だけれどもちょっと能の泣くと述う
﹁シ
ホル
﹂があるんで︑整理を.裂すると思います︒
@又︑出のくらいにこ所しをる所あり︒
( D
﹁能川伝之山川﹄ )
これはフシの名です︒下掛り読本の﹁しほる﹂は上掛りの﹁クル﹂に相当するフシで︑その語義で﹁シオル﹂を使用
していた下掛りでは︑泣く型を﹁シホル﹂と言い出しにくかったのではないか︑
つま
り︑
﹁シ
ホル
﹂と言い出したの
は下街りではないんじゃないかと思います︒
k :
・又休なノ日︑しほりあし︑と︒此哨
けを
とひ
紋へ
ハ︑
休
m A
一.
ム︑ 惣じ てし ぼり ハ必 の爪 先ヲ かね にし てし ぼる と山 中
候︒されども︑注テしほるハひざをかねにする事ニて候︒されパ︑かねが辿ひ候ゆへしぼり様があしく候︒
( f
﹃監向日記﹂字保三年)能型付の新旧
この休意というのは︑春藤休意︑春滋流家元です︒
休附
えも
休意
です
︒﹁立高日記﹄は脇方の伝舎なんですよ︒
この
﹁しほる﹂は泣くことではないはずなんですね︒
ひざ
を
﹁か
ね﹂
︑悲 惨に して しは ると か︑ 足の 爪先 を基 地・ とし てし ほ
123
るとか︑法くこととは緑がなさそうなんです︒
品の フシ とも 述︑ っ
︒かといって今のどういう別にあたるのかと訂
われ
ると︑なんとも説明がつかないですけれども︒
資料
には
︑
﹁不明織ながら脇方の強く印討を動かす所作らしいから︑弓
12‑1
の﹁しおる﹂(撹める)と通う
m
法か︒﹁引き絞る﹂との緑も考えられよう﹂と冷いておきました弓を引きしおると
も
FM
い︑引き絞るともいうんですよね︒そんなことの附係で︑足に
‑ M と思を入れてなんか︑しおったりするのかなつ
たりするんですaどういうところの小の出じ
H
なのか全く分からない文だからちょっと批なんですよ測のしよう
‑ m
がないし︑ここしか山てこないです賀川した側も返科した休
Es
u脇点ですからね
たふ ん脇 のい
Mの所作に附する
HK
現じゃないかと思います
厄ニ
︑市 町弁 慶
︑中入心アリuイカニもシヲ
レテ
︑判官ニ名妓ヲヲシム心アリ︒
・:
幽斎
公円
也
( D
﹁ 能
μ
伝之間内﹂ )
これもちょっと岡山い︒細川揃斎がそういうことを
J
ったということです︒いかにもしをれて判行に名践を惜しむ状態で中入していくんだという︑泣き方では加
いん
ですよねしほしほとした状態で迅均するのが良いんだというこ
となんでこれは下二段前川で︑問段活用の他の泣くとは追うんですけれども︑それにしても大変近い州法です︒
﹁ シ
ホル
﹂が下二段活用の﹁叢る﹂と同恨だということを示唆する服法だろう︑とまあそう患っています︒
{﹁シホル﹂の話義
1 1
﹁絞
る﹂
‑ A
の吟味}それでは何で此くことを﹁シホル﹂というのか︑﹁シホル﹂ということはどういうことか
J
焼の怠味についてちーっと与えてみようと思います
さっきj
﹁ 制
計 五
ル
市松
胤党
品川
H﹂というのがありましたa川
市と いう 人は 大支 払ワ
. A
が好きでして︑先悦品本などにピッシリと考証の記事を古き込んだりしているんですよ︒ただ︑それが本人が書いた手なのかどうなのか︑なんとも
判断が付かないんです︒この人の占いた日記などがありまして︑それを見ると丁隼に糸口く人とは思えない日記の字な
んだそうですよ︒
とこ
ろが
︑彼がやったに相述ないと思われる考証関係のものというのは︑きちっと糖古で書いてあ
るものが多い︒それで﹁観世元市絵版党訪﹂ですが︒
松風
の古
い一
抑 制
本│観世家には元広本など永正奥書の観世流でも
布数に古い本があるんです︒その本などーを全部転写して︑校合もしているんです︒家元の本と︑脇方だった観世小
次郎元頼の本などを校合しましてね︑節の述いまで調べ直しているんですよ︒それが主体なんですけれども︑まわり
にいろんな考証を
抗 日
き付けた巾に︑あちこちに古い塑付をいろいろと書き込んである︒そこに
i
観世三友術門信成│九世観世大夫の孫︑長男で跡を絞がなかった人の子供です│の型︒
それ
から
一
日﹁観世元忠仕舛也﹂
と注
記の
ある
割︑
⁝川
元抱
二年に観位宗節父子が演じた時の型︑
承
‑ w
応二年に十世から十一
世に
伝えた型︑
v
元文
三年に十四世消親から
十五世一元立に相伝した型︑さっきの
. w
延事凹年
の注
記︑
川 正保究文勧進能の松風装束付︑川被の舞の見留に関する
色々な引付│十三世から西村三郎兵衛へという玄人の弟子に宛てた型付など│︑
いっ
ぱい
書き
加え
られているんです
ょ︒
﹁多
彩な
内
容で
︑筆者不明ながらト五恢観位大夫元信が附与していることが確実視される資料である﹂と脊きま
したが︑そこを見ていきますと﹁泣く﹂もあり﹁シホル﹂もあり︑
いろ
ん
な形で表現しているその中に︑以下のよう
能型付の新11オ
な別例が見えるのです︒
⑬のい
日の
とこ
ろ︑
﹁制限世元忠仕舞と注記のある型﹂とあるところに︑﹁﹁ギヤクエンナガラ﹂ト仕手辿共ニシホル︒
.﹁センカタナミダ﹂トナキテ︑ヒタト下ニ居ル﹂︑とあります︒
﹁ シ
ホル﹂と
一 育 っ
ておきながら︑次は﹁泣いて﹂
下に居ると両方使
って いる
︒
次の
⑫は一
川の
元危
二年の付です︒﹁﹁山
市ヒ
テコ
ソ
﹂ト︑仕手述トモニシホル﹂
で︑
﹁シ
ホ 125
ル﹂となっているんですよね︒この二例は宗節時代や江戸初期にすでに﹁シホル﹂の術語が成立していたことを思わ
126
せるのですが︑これらがえの資料の川和の縦水とは考えにくい︒元の資料のまんま写したのではなく︑それに基づい
て元 市時 代に
︑
一川市か准かが作き写した隙に︑﹁
シホ ル
﹂と浮き燃えた吋能性がい品いと思うのです︒さらに困るのは︑
間・一
ω
一の例なんですけれど︑決ネでい川いてあるんです︒‑ q
﹁ギヤクヱンナガラ﹂ト一ぷ時
二人ト
モニ
﹂紋﹁ぺ位仙ヲヌラシト刺市銀シ︒
︒ ﹁
又イツノヨ﹂トペ人トモニ綱川︒
﹁絞﹂
川例
)
必γ:﹁跡ヨリ恋﹂ト両へヒキ︑向見︑下ニ居︑比時おノ手ニテ絞︒物治スミテ左ノ手ニテ絞︒手ヲ総テ︑﹁三瀬
川一ト歌イテ:::﹁
立別
﹂
ト左ノ手ニテ紋︑仕手住ノ方ヘクツロギ
・ : (
・ 即
日
︒7
倒)
これ
﹁しぼる﹂としか読めないですよね︒みんな﹁絞﹂なんですよc
﹁こ
れら
﹁絞﹂
の用 例は
︑﹁ しほ る
﹂がシオルで
はなくシポルと言われたことや︑﹁涙で濡れた納を絞る﹂が胤義だった
こと
を思わせる︒
だが
︑ この
資科の性質から
見て︑原形のまま引用したのではなく︑﹁しほる﹂の文字に対する解釈として後人が保用した漢字と考えたい﹂とし
ておきました︒九体的に言えば︑観
世大
ヰ ・
八
十四世品川
親か
︑その子供の十五世の元草かが保
m
したのでしょう︒jの全体では﹁しおる﹂は仮名仰が主体なので︑江戸初期には﹁絞﹂だったとの立場で書き分けているらしい︒どうも﹁し
おる﹂というのは﹁絞﹂じゃないか︑という行班の解釈から︑漢字を宛てているのだろうと思うのです︒
でも
﹁ しほ
る﹂というのは納を﹁絞る﹂から米ているわけではなく︑この当て宇を市一視しないほうが良いというのが弘の考え点
です
︒
︻﹁シ ホル
﹂の高義
2 1
特異な川法か︼これ
は本
中
Iに説明しにくい
3
葉なんです︒右のように﹁絞る﹂のネを当てる必が生まれたのも︑﹁ シ
ホル
﹂
なる
則
一
付川知が不安定な川法で︑に結びつける以外に﹁泣く﹂との関係を説明しにくかったからではないかと
﹁袖
を絞
る
﹂
思われますa名詞﹁シホリ﹂が派生しているのですから︑剤一付の﹁シホル﹂は問段前川の動詞ですが︑四段品川
用の
﹁シ
ホル
・シ
ヲル
﹂の語義を辞計類で検すると︑昨秋uによって説明に幅や述いがあるものの︑﹁⑦武め懲らしめる・折
提する︑@しおれさせる・しないたわませる︑@弓を引きしぼる︑@木の枝を道しるべに折る︑
@'
同く
歌 いあ げる
﹂
といった解釈しかないんです︒その四段活用の動詞には﹁泣く﹂という意味が無いのですよ︒
懲ら
しめ
るに
して
も︑
折置するにしてもですね︑木の枝を道しるべにして折るにしても︑みんな﹁泣く﹂とは繋がらないんです︒
﹃角川古詩大辞典﹄は﹁しほる﹂の四段活用動詞分に﹁しっとりとしてあわれな起を表す﹂
との
解釈
をも
掲出
して
︑
﹁能において泣くことを﹁しをる﹂というのも川
義か
﹂としているのですが︑本げている
m
例を
見る
と︑
﹁三
尻に
しほ
る﹂と舟いであって︑日い音にクリ上げて歌うことの川例としか解釈できないですよね︒誤解して何かその﹁し
っと
りとしてあわれな雌﹂を示す用例だとして山したのでしょうが︑削除すべき解釈だと思います︒
ですが︑江戸小則以後に凶段前川の動向﹁しぼる﹂が﹁泣く﹂立味で通用していたことは怖かですから
︑江
戸初則
能型付の新
I I J
﹁町
公る
る
﹂と同窓に使う慣例が生まれていたもので︑﹁
シホ ル
﹂を下4一段前川のそれから烈付
川折
以前に問段活川の
の﹁
シホ ル
﹂ ﹁
シホリ﹂
が派
生したものと挑測されます︒
待作
山が
引け
くよ
うな
し
っかりした
川例
はれ戸初朋あたり
で見
つか
っていないんですけれども︑どうもそうらしいということを思わせる用例はいくつかあるんです
︒ ﹁
しほる﹂の
127
形なんだけれども具体的には泣くことなんじゃないかというような用例がいくつかありますのでね︒それは︑実際に
はもう﹁萎るる﹂と同じ意味に四段活
用の
﹁しほる﹂を使っていたのじゃないか︑それが能の泣くことの表現に回定
128
して地われたんじゃないかと︑まあ思っているんです︒
一 一
一 、
﹁ シ
ホ
ル ﹂
への転換の
時期
{﹁泣く﹂と﹁シホル﹂の型付資料での使用状況}
への転換の時朋
です
︒両語が江戸期の型付資科にどう現れるかを{
即刻
一付川詩抄}で
見る と︑
﹁泣く﹂は﹁
A B C D E F G I J K M N O P Q R U V X Y Z b c e g h
川
M
川﹂︑﹁しぼる﹂は﹁Tau
‑ ‑ j k l m n o p q t
﹂
u
で︑ 江
戸中期以前の
m N
は ︑T {
北必硯奥乃﹃能党内﹂)を除いてすべて﹁泣く﹂を使っていま さて︑問題はその﹁シホル
﹂ す
小文字の点︑捕に線を引いた資料は同点仙っている資料です後期の
m
一付 にな って
﹁シ ホル
﹂がだんだん能勢に
なって︑江戸末期には﹁泣く﹂
が出 削減 して
﹁シ
ホル
﹂だけになると︑こういう経過をたどっているのです︒
延 ・
1
じ年 奥代 りの
T
が飛び離れて早い胤例になり︑延山
五以
前に
HM
M多流が﹁
シホ ル
﹂
の請 を使 い始 めた かと 比え ます
︑
T
は後で述べるように︑実は後年の制若の可能刊が向いので︑転換時期はT
を除いて考えるべきだろうと思います︒とすると︑正徳一
・年
の
a (
﹁式M柏市 山村 氏ぷ 呉川 川
口物
倒付
﹂
)ゃ
いい 保十
二年の
e (
﹁松付助之進拠占型付﹂)が︑
﹁シ ホル
﹂を
使っている山い資料となります凶行の小川の
b q
合作出仕釘付︿火郎花﹀ ﹂ }
やC(
﹁柿 以点 近県 庁仕 灼付
﹂ ) ﹁泣く﹂は
であり︑必文・
・年
の
H h(﹁ 金剛 弥市 郎山 内
hN仕抑制付
﹂ } も﹁拭く﹂
なの で︑ .止 徳前 後は 州民 川が 共仔 して いた 附則 と
日比
られ
ます しか し︑ 必文
・九 年の
i {
﹁能 訓感 大令
﹂
}は版本です帆川.般を初予に出版された川
A
が﹁しは る
﹂のみに統.され
ているのは︑
この
d
がすでに一般に油川して
いたことをぷしているでしょう延弔問年段階で将市や刊秒間の屯はが
﹁シ ホル
﹂
の請 を
けにしていたことを示す⑩の記事
( 前
山}も︑この語の流布を請っています︒元文二年の
g
は︑年時が明確な﹁泣く﹂の最後の用例でもあります︒右の諸点を勘案
し ︑
﹁宝
︑氷
(一
七
O
凶i )
・正徳の頃に﹁シホル﹂が使
われ始め︑享保年聞は﹁泣く・しほる﹂が共存していたが︑元文米には﹁シホル﹂が圧倒的になり︑﹁泣く﹂は型付
用語として使加されなくなっていた﹂と総括してよいでしょう︒大まかな把握ならば︑﹁泣く﹂を使用している型付
類は元文以前︑﹁シホル﹂を使用する型付は正徳以後と言えるでしょう︒これが︑もう﹁泣く﹂と﹁シホル﹂の転換
に附する私の結論なんです︒
{ T
﹁北寿硯奥書﹃能覚書﹄
﹂
の成虫年次についての疑義}
延宝七年の奥舎を持つ
T
が︑﹁シホル﹂を使っていることについて︑少しお話しします︒この
﹁能党書﹄は彦被減
博物館にあるんですけれども︑奥山口は左の通りです︒
ん‑Lr‑B目tdaU33
・ 主 ︑
平
hp
jJL
一 古 川 は .
w我等/相伝之通相違無之候/以上/
延賓七年/朱十月十五日/北寿硯/
直能
(花
押)
/
持多七太夫殿/江/
能I~i付の新旧
北市対硯は初代北七大夫長能の長男です︒初名は大八︑後に左京︒
覚︑
水十
九年
まで
は嗣
子と
して
活動
して
いま
した
が︑
なぜか翌年頃に京都に引退し︑労硯と称したんです︒引退した後にはもう能は舞わないんです︒喜多流の勢力拡大に
129
努め︑天和二年七七歳没で︑この奥詳の延宝七年には七四歳︒二世十大夫当能は弟になります︒長男が家を継がな
かったんですね︒宛名の存多七大夫は三世の宗能で︑二世の養子なんですけれども︑はじめは寿硯の養子だったよう
130
です︒寿硯が引退したときに弟の方の養子に変わったようです︒初名は八之丞︒武文五年に十六成で相続︒延宝七年
には三十成︒貞平三年に将軍に追放されたんですが︑担年数免後に廊下番にされ︑中条加兵衛直設と改名︒
後河内
守・丹波守︒禄高九百石︒正徳五年致仕0・平保十六年八二歳没︒大変長生きした人です︒廊下番というのは要するに︑
私用の能の相手ですよ︒能を舞ってるんです︒武士になっても舞わされてるんです︒
廊下
帯に
なれ
って
一百
われ
た時
に︑
家を辞めなきゃいかんのですよ︑武士になるんでね︒嫌だって言ったんでしょう︑それで追股されちゃ
って
︑
年
位経ってからまあ許された︒廊下番になりますって意思表示したんでしょうね︒それで許されて︑戻って来たんです︒
九百石もらってえらい出世をしたんですけれども︑結局︑跡を養子︑養子で継がせまして︑叫品目多流は大混乱になっ
ちゃったんです︒
さて︑北寿硯の奥詳の問題ですが︑﹁本文とは全く別低下の右奥書は︑寿硯自筆かその透写らしい﹂と書いておきま
した︒たしかに自然ドかなと思ったんです︒北寿硯の自筆の文件って私は一枚しか知らない︒一枚というか︑奥書に名
前を古いた署名ひとつだけあるんです︒父親の手紙︑巻子の紬の裏に︑なぜか寿硯の手紙の故後のところだけ貼りこ
んだものがあるんですよ︒それと
この
寿悦の署名がどうもそっくりなんです
︒﹁
硯﹂なんでいう字がそっくりの字体
になっているので︑本人の宅跡をそっくり其蝕したか︑本人が書いたかどっちかなんだろうと思うんですけれどもね︒
透写かと疑うのは︑問文で透写関係に違いない奥舎が︑同じ彦根減際物館の井伊家旧蹴荏多流文書の中に見られるか
らです︒どちらかがどちらかを透き写ししているんです︒これだけ同じものがありますと︑延宝七年あたりの寿硯の
筆跡らしいけれども︑何か他に寿硯の亡くなる前の本物の筆跡があって︑それの奥書をね︑そっくり写したんじゃな
いか︑という疑問が出てくるんですね︒そういう疑問を感ずるのは︑この内容がどうも寿硯のものにしちゃあおかし
いのではないかと思う文言を含んでいるということもあります︒いくつか例を挙げておきました︒
0
・::
段返し出憾のが¥一︒
::
:越ノ跡て二段返し打時ぺ二段返しの太鼓能間て山べし‑F︒
当能 ハ
二段返し沿て︑
太肢の向きざみより山ルと被レ仰し︒
O
::
:
H
融︑問段ノ跡︑むへ魁ル時︑仙ヲまき五段H
れへ打込時︑袖ヲおろす︑︒結ハ
当能より御相伝なり︒脇能
代ても不汗
︒ ( ︿
向砂﹀
の郡
}
O (
芭焦ノポ)
小人
︑
﹁思へパ鈍の戸﹂
とひ
らき
︑
思
ひ入
︒
鈍を
問︑
﹁諸行無常﹂と而を人が︑刊なり︒
v
︿日付
税公
ノ内
二 ︑
﹁なりにけりと而を人れでも不レ出﹂と布︒又此中入ニ而ヲ切引なし
︒ 一 一 . 姶
・梅
校︑
hh .一 一
株川ハ小人ニ而ヲ
きらず今
当能は一代目︑寿硯の弟です︒その当能がこう一汗ったっていうところに﹁仰せられし﹂と敬請を使っているんですよ︑
二つめでは﹁御相伝なり﹂と表現しています
︒ ︿
芭烈﹀
の方 にな りま すと
︑
﹁#硯公ノ
kH
﹂なんでいう表現が出てくる
んですよ︒
これ は︑
三世が持いたものとしてはあり得るわけです︒養父からも相伝しているし︑養父の児であった寿
硯からも向か教わっている可能性がありますから︑
﹁寿 硯公
﹂と
言
って もい いの です けれ ども
︑﹁ 古河 田公
﹂な んで いう
文句が出てくる持物にですよ︑芳硯自身が﹁これは私が親父から相伝したのと全く同じ内符だ﹂なんて綴丹を加える
能 !\'~H の折 1 1-1
だろうか︒ただし︑中身を良く見もしないで︑頼まれたからうんうんとこう古いてやったということはありえること
なんでね︒絶対に寿硯じゃ具合が惑いとまで
えないけれども︑疑問を抱かせる内容ではあると思う. U ︒
とい うこ とで
︑
私はこの延{五七年という奥乃は抗川しない方が良いだろうと︑少なくとも﹁泣く﹂から﹁シオル﹂への転換時期を考
131 える 際に
︑こ の・
4
にあるからと3
って︑延山
︑七 年に すで に円 多流 では
﹁シオル﹂と一司う衣現を他っていたとは行わな
い い
Mが
良い と忠
︑つ んで す
︒
L32
けれどこの﹁
能党
A
﹂は︑ 大変 に優 れた 内容 の︑ 市川 日多 流で は第
一の阪本伝作とされてきた汗物なんです︒
﹁彦
川悦
滞
と片
付多
流と
の
U仰
が︑ 点字
一 三
年からである点も参照される﹂と内いておいたのは︑その彦以の殿織が︑そんななバ多流の
削除伝作げを白う時期というのは︑以川多流の山子筋の人を川って結ができたからこそ伝みを町えたんで︑延
・気じ
中
山過ぎ
るという立味ですまあい以収に人って円多流が︑法制と紋が山米てから抗ったものだろうと思うのです︒そうすると
が脱
が拠
品
AH
を代
uくはずがない︒他の本から怖戚付
けに KM
きびして︑こんな必附しい伝冷ですよって飾ったんじゃない
かなと思いますただし﹁
能党
仏川
﹂
の内科が一‑一世七大夫(中条丹波守)時代に成伝していることは記事内作からほぼ雌
かで︑繰り返しになりますけれど︑必多家では制本伝品川と認められていたんです
九静 一じ 大犬 山能 の制 竹林 で究 政十
一
年( 一七 九九
)奥
井の 立舛 品川 寿福 抄﹂ (﹁ 婦間 妙﹄ )は
︑﹁ 能党 み﹄ を﹁ 伝品 川
H﹂の名で引用し︑全両的に別補・解説してい
ますし︑その後の芹多流伝
A
にも影響佳大で︑尚林吟二氏が 何十 くに
﹁喜 多流 の紅
一戸末期の伝
3
には寿硯の説の形容が大変に多いんだ﹂と一百っておられるんです︒
ところが高林吟こ
さん
も︑
﹃寿福抄﹂とはどういう本なのか︑どうも本当に正確に抱擁しているかどうか疑わしい
と思われる節があるんです︒というのは︑﹁謡山悪魔払﹂という川じ許多古能の有名な伝壮行があるんです︒
︿尚
砂﹀
の
文句に闘んで﹃謡曲悪雌弘﹄
と﹁ (舞 曲) 寿稲 抄﹂ と
︑分けたんですね︒謡曲と舞曲とどういう使い分けかわかりませ
んが
︒この﹁寿稿抄﹄というのは︑名前は有名だけれども︑私はついになかなか見ることができなくてね︑東京博物
舶にやっとこの﹃舟編抄﹂があるのを見つけて本当に必んだ党えがあるんですけれども︑博物館の本によれば姐に
﹁後制﹂と件いであるんです︒でも︑読んでみますと︿翁﹀から始まっているんです︒
そし て
︿関守﹀で終わっている︒
﹁後制﹂なはずないんですよね︒日録みたいなものを
μ
てもこれ一巻で完結しているようで︑不思議だなあと思って︑先代 のな リ多 突き んが ご他 在の 時分 に︑
のあ
﹁対
日制
抄﹂
というのがないかと︑宗家'の方にあるんじゃないですかとお附
きしたんですけれどもね︑﹁いやうちにはありません﹂とおっしゃるんです︒けれど﹁ありません﹂と言
いな
がら
︑
﹁あるとことにはあるかもしれませんよ﹂と教えてくださった︒それがなかなか見られなかった︒やっとこの型付の
調査をやり始めた段階で︑全部揃った﹁寿稿抄﹄を初めて見たんです︒ただしこれは所蔵者自身が︑
その
・本
を紹
介す
る意志を持っておられますので︑私がその内谷をちょっと申し上げることができないんです(後藤得三本﹁鉾山寿福
抄
﹄ ︒
現在︑宮多真正氏により﹁国立能楽堂調査研究﹂3・5に翻刻・紹介されている︒継続中
) ︒
これでわかったの
ですが︑京博にある本は全体の﹁
芳一
稲抄
﹄の前半だけだった︒
とこ
ろが
なぜ
か︑
﹁後編﹂という題が付いているんで
すよ
G不思議なことなんですけれどもね︒これは︑ほとんど習事の付ばっかりです︒
その
﹁奇相抄﹂が︑あちらこち
らで彦糠にある本を﹁伝書﹂という名前で
引刑
している︒﹁伝性﹂にこうあるという記事のほとんど全部が彦狭にあ
る本のことなんです︒だから︑この喜多古能の時代には彦根にあったこの本と州じ内容の本が︑家に伝わる型付の基
本のものだったという認識があったようなんです︒それが︑古能の後の本にも確かに引き継がれていますので︑官同林
さん
の
仰るように︑後代の喜多流の習い物の付には︑寿硯の伝昔︑この延玄の伝特の影響が大変大きいんです︒
それ
は本当に寿硯の
一 言
説に基づいているかどうかは︑また
別問
題です︒しかし︑彦棋の本が喜多流の恨本伝書であったと
いうことは間違いない︒その本に﹁しほる﹂が出てくる︑ということです︒
能型付の新│日
﹁ シ
ホ ル
﹂
をめ ぐる余説
四
{﹁しほる﹂への変化の背訴}
133
さて︑草加械の末あたりから元文あたりにかけて﹁シ
ホル
﹂が﹁泣く﹂を凌駕するようになって︑
﹁泣
く
﹂より優勢
になってきた背景について考えてみます︒資料には︑
﹁直
接的
な表
現で
ある
﹁泣く﹂よ
りは
︑﹁泣き萎れる﹂意であろ
134
う﹁シ
ホル
﹂
の方
が間
接的
表現
で口
聞が
いい
︒それが﹁シホル﹂が勢力を得た基礎であろうが︑﹁泣く﹂を席巻する結
来になったのは︑﹁泣く﹂が極めて自然な表現なだけに︑奇妙な結来と言えるのではないか﹂と書いておきました︒
﹁泣 く﹂ と﹁ シ
ホル﹂が前方使われていて︑﹁シホル﹂の方が優勢になっただけなら︑僕はおかしくないと思いますが︑
﹁泣く﹂が無くなるというのがね︑非常にこれは注立すべき現象だと思うんです︒特に︑流儀の差を越えて能界全般
が﹁シホル﹂に統一されたようなことの背景には︑⑩が示す将軍の愛用などが影響したのではないかと考えています︒
これはね︑考え過ぎかも知れないのですが︑江戸後期になりますと︑流儀の対抗意識というのがかなり強くなってい
るのですよ︑だから仮にある流派で﹁シホル﹂と表現したにしても︑俺のところは﹁泣く﹂でいいというような形で
ね︑﹁シホル﹂を使わない流儀があっておかしくはないと思うんですけれど︑なぜかこう﹁泣く﹂﹁シホル﹂に関して
は全部﹁シホル﹂になっちゃっているんですよ︒金剛流の付はあんまりないので︑金剛流は仕舞の型付も使ったりし
たのですけれども︑まあとにかく︑名流儀のを見てもみんな﹁シホル﹂になってますんでね︑よほど特別な要悶があ
るのではないかという気がしているんです︒
﹁シ
ホル
﹂が位われ始めたのは︑徳川綱士円
( 宝
永六年︹
H 8 8
没)の能耽溺のため能界が大きく混乱した直後の頃で
す︒将軍の強制や勧奨で多くの大名が自身で能を舞うようになった風潮は︑能にも大きな影響を与えたはずで︑③
(班
女)
のよ
うな
激
しい
泣き方が嫌われ︑一波を抑える積度の淡技に変化した能界の傾向が︑﹁シホル﹂の急速な流布を
もたらしたのではないかと思うのです︒他の型付加諾の変遷の実態や︑能界全体の動向も腕み合わせて把握しなけれ
ばならない課題であり︑論証は閉難でしょ
うが
︑﹁
泣く
﹂
から
﹁シ
ホル
﹂
への転換を︑綱吉以降の能の変質の象徴的
事例と犯掘していいのではないかと︑現段階では考えています︒もっと資科がほしいところなんですが︑大名自'身で
能を舞うことになってきた影終というのは相当大きかったと思うんですよ︒
たと え
ば︑
Y
細川Mm
‑ H 氷
山ザ
先代
MH付州﹂は合作太夫が細川に伝えた明付を花えておいたものなんです︒釧川祁
‑ H氷
山 ザ
というのは熊本のあの制川家の分かれですけれども︑三万有かなんかの小大名ですよ︒この勺時︑綱山が拠耐という
制肢を飴めたんです綱吉一代で終わりましたんで︑バが山川の股制としては問定しませんでしたけどね︑要するに・拠に
必めて抑えていて制山が何か附きたい︑F
州 し
相子にしたい時にいつで20初予できるような仕切だったみたいなんです︒
そういうのに逝ばれたのでしょう︑それまでは能と料があった形跡の惚⁝い人なんですが︑たぶんそういう地似に
就い
たために︑何か能の質問があっちゃ凶ると判ったんでしょう︒大勢のわ人命れが能を籾わされているわけです
o U
布引な加例以内k生も︑それまで加賀は存多流と金ぷ流だったのに︑将軍に株えって
J
われ
て︑
三週間も
m h a
けしてはじめて能を
舞ったその時に宝ルーに弟子入りしたんです︒それ以米︑加賀宝生です︒
その
中﹂
時︑
将軍
が宝
ルー
を品
川悦
に
していた
のに
従ったんでしょうなぜかこの制川は金保でした︒本家の方が以前︑金作とH
怖が
あ
ったせいだと思うんですけれど︑
本山 家は 当時 は句 作多 流と 紋が 深か
ったんで︑そういう立味でもなぜこれが企ぷだった瑚山が分からないですけれども︑
とにかくこ
の細 川和 良ん すが
︿三輪・郎郡・件前・松胤﹀なんて本格的な能を習っているんですよその型付なん
です
︒
大名が能を舞う稽古を一所懸命やっていたことの一つの代表例だと思うんですけれどね︒
ここ
らへんは推測でしかな
いんですけれど︑何か材科が
m
えてくればそう一π
えるようになるのではないかと思ってます︒能~f.tの続 111
{俳府川 ・九 州
・
km
一J柴との総}さて︑ちょっとまた余説的なことです︒点ぷで発表の際に︑後で︑芭焦が抗視した俳識の﹁しほり﹂と能の
﹁シ
ホ 135
ル﹂は凶係ありませんかという質問がありました︒結諸からいうと弘︑ないと思うんです︒俳請の﹁しほり﹂は﹁さ
ぴ﹂と悦んで似⁝胤俳占が坑似した瑚念でしたが︑もっぱら名川の形のみが使川されている点などから︑日
制 刈
乃まとら