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朱彝尊の石碑跋文による『全唐詩』補綴について

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朱彝尊の石碑跋文による『全唐詩』補綴について

その他のタイトル The compilation of the Quan Tangshi 全唐詩 by the Zhu Yizun 朱彝尊's memorandum on the stone monument

著者 有木 大輔

雑誌名 關西大學中國文學會紀要

28

ページ 1‑20

発行年 2007‑03‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/12875

(2)

﹃ 全 唐 詩

江寧織造の曹寅による康煕四十四年(‑七0五︶五月一日から康煕四十五年︵一七0六︶九月十五日までの七回に亘る

奏摺文を見ると︑康熙御定﹃全唐詩﹄は過剰なほど完成期限を厳命された勅撰集であることが判る︒この大掛かりな

唐詩総集は︑康煕帝の権威の象徴という見方もあるが︑校閲刊刻官たる曹寅の政治的思惑を具現化したものでもあっ

た︒本務たる江寧織造や両淮塩政の地位による豊富な財力に任せて︑当時江南に通行する諸般の明刻唐詩集を蒐集校

( 1 )  

ところで︑﹃全唐詩﹄の凡例には︑唐詩集のみならず石刻等に伝えられる唐詩も幅広く蒐集したことを明記する︒

これは︑﹃全唐詩﹄が文献資料以外の唐詩も網羅せんとする新たな試みであった︒しかし︑完成期限を厳守すべきで

一年五ヶ月間という極めて短い刊刻期間の中で︑全ての唐詩を拾遺することは所詮不可能である︒それ故︑

石刻史料に精通した人物の助力を必要とすべきである︒趙執信﹃談龍録﹄に次のような逸話がある︒ 勘したことは︑まさしく曹寅の功績である︒ . 

朱葬尊の石碑跛文による

補綴について

(3)

貪欲な学究心が弾劾事件を引き起こしたことを伝える︒ は不可欠な人材であった︒

﹁朱葬尊伝﹂には︑朱葬尊の ﹁執匹之︒﹂余日︑﹁其朱竹蛇乎︒王オ美於朱︑而學足以済之︒朱學博

於王︑而才足以畢之︒是慎敵國矢︒⁝⁝﹂日︑﹁然則雨先生殆無可議乎︒﹂余日︑﹁朱貪多︑王愛好﹂︵或るひと余

に問ひて曰く︑﹁玩翁︵王士禎︶は其れ大家なるか﹂と︒日く︑﹁然り﹂と︒﹁執か之に匹ひせんや﹂と︒余日く︑

﹁其れ朱竹柁︵舞尊︶なるか︒王のオは朱より美にして︑学は以て之を済しくするに足る︒朱の学は王より博く

して︑オは以て之を挙ぐるに足る︒是れ真に敵国︵匹敵する︶なり︒⁝⁝﹂と︒曰く︑﹁然らば則ち両先生殆ど議

すべきこと無きや﹂と︒余日く︑﹁朱は多を貪り︑王は好を愛づ﹂と︶︒

S

一 七

0九︶︑字は錫琶秀水︵浙江省嘉興県︶の人︒新城︵山東省︶の王士臓と共に﹁南朱北王﹂と併称

されていた︒神韻説を提唱して清初の一詩風を確立していた王士臓に対して︑朱葬尊はその博識をもって比肩し︑清

朝随一の大学者と讃えられている︒康煕四十四年︑朱粋尊は康煕帝の第五次南巡を無錫に迎駕した際︑経書の諸説沿

0

巻を進呈して︑康煕帝より大いに激賞され︑﹁研鰹博物︵経を研め物に博し︶﹂と

1 0

( 2 )  

の扁額を賜わる︒因みにこの南巡の折︑曹寅に﹃全唐詩﹄刊刻の命が下されている︒朱葬尊の文学的立場は︑浙西派

( 3 )

4

)  

として尊唐派に属し︑尚且当時流行した﹃還魂記﹄や﹃長生殿﹄の下場詩に常見する集句の填詞を好んで作り︑唐詩

に対しても一家言を持っていた︒まさしく博覧強記の朱葬尊は︑当時全ての唐詩を網羅せんとした﹃全唐詩﹄補綴に

しかし︑趙執信は手放しでは朱王のオを激賞していない︒﹃談龍録﹄に評する﹁朱貪多﹂とは︑朱葬尊の詩文が古

( 5 )  

今の美辞麗句を猫祭するのみに留まることを批判したものである︒﹃清史列伝﹄巻七一

(4)

二十三年元日︑南書房宴蹄︑聖祖仁皇帝以肴果賜其家人︑葬尊皆恭紀以詩︒是時葬尊方輯﹃濠洲道古録﹄︑私以

小脊録四方鰹進書︑為學士牛紐所劾︑降一級︵︵康煕︶二十三年(‑六八四︶元日︑南書房の宴より帰するに︑聖祖

仁皇帝肴果を以て其の家人に賜り︑舞尊皆恭しく紀すに詩を以てす︒是の時葬尊方に﹃濠洲道古録﹄を輯すれば︑

私かに小宵を以て四方の経進書を録するに︑学士牛紐の劾する所と為り︑

即ち︑朱葬尊は翰林院で催された新年の宴の席に妻凋氏とともに招かれ︑肴膳を賜るという恩恵を授かりながらも︑

この機会に各地から献呈された経書を楷書手の王綸に密かに写し出させたことが︑満州正白旗の牛紐に弾劾されるこ

ととなった︒朱葬尊からすれば一途な知的探求心による出来心であったかも知れないが︑前年に﹃日講易経解義﹄

八巻の勅編を命じられた牛紐にすれば︑宮中の経書の漏洩は由々しき行為と映ったであろう︒

また康煕二十年(‑六八一︶七月︑朱葬尊が江蘇省の典試︵科挙試験監督︶をしていた時︑常熟の蔵書家銭曽が撰した

﹃読書敏求記﹄に︑嘗て銭謙益が綽雲楼に蔵していた宋版や元紗本の由来や存亡を詳述していることを聞き及んだが︑

その閲覧を断られていた︒そこで朱葬尊は銭曽を宴会に招いた隙に︑銭曽の部下に賄賂を贈って密かに写し取ってい

( 6 )  

る︒当時の人々は︑朱蝉尊のこの行為を﹁雅瞭﹂︑また宮中の経書を漏洩した前述の事件を﹁美貶﹂と評し︑彼の博

識の根底を為す知的探求心について︑必ずしも好意的に尊崇するのみでなく︑冷静な批判も与えている︒

本稿では︑以上のような朱葬尊の評価を踏まえ︑曹寅の奏摺や序文等には全く言及されていない﹃全唐詩﹄底本の

補綴作業における朱葬尊の関与について明らかにしようとするものである︒

(5)

の中に入れ︑復た別に成書と為さず︶︒ れり︒故を以て︑先生著する所に曽て﹃吉金貞石志﹄ 廣︑尤足以供審核栗辮者︒以故先生所著曾有﹃吉金貞石志﹄ 二︑朱舞尊の金石学研究

朱葬尊は生涯に亘って各地を歴訪し︑金石文を蒐集している︒それらの跛文は﹃金石文字跛尾﹄六巻︵﹃石刻史料叢書﹄

乙編所収︶に百四十例あり︑うち四十五例が唐五代の事跡に関する︒光緒十一年(‑八八五︶︑同郷の陳其榮の序文に︑

念自亭林顧先生寧究於此︑其所著﹃金石文字記﹄採輯至廣︒至先生而視亭林為尤精︒嘗其時︑吾郡牧蔵之富甲於

東南。若項氏天籟閣•李氏六硯齋以及曹氏倦圃、蒋英所衆、梢梢流散。先生或得而蔵之、或観而識之。其聞見之

一書︒逮編定全集︑井入諸題跛於其中︑不復別為成

きは書︵念ふらくは亭林顧︵炎武︶先生︑此に栞究してより︑其の著する所の﹃金石文字記﹄採輯すること至めて広

し︒先生に至りて亭林と視ぶるに尤も精と為す︒其の時に当たりて︑吾が郡の収蔵の富は東南に甲たり︒項︵元

沐)氏の天籟閣•李(日華)氏の六硯斎以及び曹(溶)氏の倦圃の若きは、苛英の衆まる所なれども、梢梢流散す。

先生或るときは得て之を蔵し︑或るときは観て之を識す︒其の聞見の広きは︑尤も以て審核蔀辮を供ふる者に足

一書有り︒全集を編定するに逮び︑井びに諸ろの題跛を其

とあるように︑﹃金石文字記﹄六巻を著した顧炎武は明朝の遺儒として全うした人物で︑彼との交流は朱葬尊の遺民

( 7 )  

意識に大きな影響を与えた︒江南は数多の蒐集家を輩出した好環境であったことに加え︑朱葬尊も顧炎武に倣い︑康

煕四年︵一六六五︶︑朱葬尊三十七歳の時︑自ら﹃吉金貞石志﹄を編纂した︒ここに挙げる﹃金石文字跛尾﹄は︑朱葬

尊の死後に︑査慎行等によって編纂された﹃曝書亭集﹄巻四六

S

五一にも収められる︒朱葬尊は地方志や歴史書も総

(6)

老農老圃望天語 廟」詩として収め、その第五•六句に、

( 8 )  

老農老圃天を望みて語れば︑儲渾の神

の中に見られる唐代の逸詩資料が﹃全唐詩﹄中に反映されていることを検証する︒

撹しつつ︑その碑が何時如何なる時に建てられたかを詳細に考証する︒本章では︑朱葬尊の金石跛文を数例挙げ︑そ

績州儲渾廟唐碑二︑載陳思﹃賓刻叢編﹄︒予厩友人訪求謁廟下者︑輛云︑﹁無有︒﹂康熙壬申十有一月︑泊舟干

渾獲諸儀門之右︒其陽裟謂詩︑其陰裟氏族子題名記事︒後十年︑呉江張吉士尚暖出知興國縣事︑乃拓請詩見胎︑

惜其陰面壁工人不知響揚︑然胡氏﹃統徽﹄・季氏﹃全唐詩﹄︑請作皆無之︒﹃叢編﹄所載諸道石刻其中唐人詩尚

多︒惜無好事若張君為予博訪而皐拓之也︵韻州儲渾廟の唐碑二︑陳思﹃賓刻叢編﹄に載す︒予は友人に属して訪

求し︑廟下に謁するも︑輛ち云ふ︑﹁有ること無し﹂と︒康熙壬申︵三十一年︑一六九二︶十有一月︑舟を渾に泊し︑

諸を儀門の右に獲たり︒其の陽は裟請の詩︑其の陰は裟氏の族子の題名記事なり︒後十年︑呉江の張吉士尚媛︑

興国県事に出知し︑乃ち請の詩を拓して胎らるるも︑惜しむらくは其の陰は壁に面し︑エ人響捐するを知らず︑

然るに胡︵震亨︶氏﹃︵唐音︶統鏃﹄・季︵振宜︶氏﹃全唐詩﹄に︑謂の作皆之れ無し︒﹃叢編﹄載する所の諸道の石

刻其の中に唐人の詩尚ほ多きも︑惜しむらくは好事なるもの張君の若く予が為に博訪して之を拳拓するもの無

この﹁唐儲渾廟裟謂喜雨詩碑跛﹂︵﹃金石文字跛尾﹄巻四所収︶に基づく裟請詩は︑﹃全唐詩﹄巻八八七︑補遺六に﹁儲渾

儲澤之神可致雨雨を致すべし

という詩句からも︑韓州府興国県︵江西省︶における大干魃時の雨乞いを詠ったものと判る︒裟請なる人物は︑干魃の

被害ではなく酒の専売の売上を下問した代宗に︑﹃孟子﹄﹁梁恵王章句﹂を引いて︑国の利益よりも仁義の必要性を諌

(7)

張尚暖 九﹁秩官知県﹂によれば︑

( 9 )  

言し︑民を重んじた為政者であったことが伝えられる︒この儲渾︵渾を儲える︶廟は︑大暦三年︵七六八︶閏六月十日

( 1 0 )  

にようやく雨が降り︑これを記念してその二年後の六月三日に建立された︒康煕一︱‑+︱年十一月二十一日に朱葬尊が

この地を訪れた時︑土地の者がそのような石碑は無いと言ったように︑裏側に刻まれた裟請の族譜を透き写しする拓

エがいなかったため︑裟請﹁儲澤廟﹂詩は広く伝わらずにいた︒この朱葬尊跛の作年は︑康煕三十一年の﹁後十年﹂︑

即ち四十年前後である︒朱葬尊のために斐謂詩を摸拓した張尚暖の興国県知事の在任期間も︑﹃同治興国県志﹄巻一

とあり︑この裟請詩は康煕四十四年の﹃全唐詩﹄刊刻前後に寄せられたと判る︒ところで﹁胡氏﹃統簸﹄・季氏﹃全

唐詩﹄︑請作皆無之﹂︑即ち胡震亨﹃唐音統簸﹄

1 0

稿

には︑この斐請﹁儲渾廟﹂詩は収められていない︒従来﹃全唐詩﹄の底本であろうと目されている二書が遺漏した詩

を﹃全唐詩﹄が新たに補遺部に追加し補綴していることが判る︒そもそも﹃唐音統簸﹄は︑王士臓でさえ全てを目賭

( 1 1 )  

していない稀麒書であり︑﹃全唐詩稿本﹄とともに曹寅が所有していたものである︒朱葬尊がこれら二書に該詩が未

収録であることを知ったのは︑﹃全唐詩﹄刊刻時に曹寅の蔵書を閲覧する機会を得たためであろう︒そこで朱葬尊が

この跛文を記したのは︑同時に﹃全唐詩﹄補綴にも役立つものであった︒なお︑この裟請﹁儲渾廟﹂詩刻への言及が

あったと思われる陳思﹃宝刻叢編﹄の巻十五﹁江南道西路﹂は欠巻であり︑斐謂詩は確認できない︒

続いて︑次の﹁跛石涼碑﹂︵﹃金石文字跛尾﹄巻四所収︶も同様に︑﹃唐音統簸﹄や﹃全唐詩稿本﹄に未収録の詩について

r .  

(8)

右唐武后夏日源石涼詩井序︑察臣和者一十六人︒河東膵曜正書︒久視元年五月︑刊干平築澗之北崖︒斯塀也︑

﹃新藷唐書﹄本紀均未之書︑計敏夫﹃唐詩紀事﹄亦不載︑僅見之趙明誠﹃金石録﹄及棲大防集而已︒予友葉封井

叔知登封縣事︑撰﹃嵩陽石刻志﹄始著干録︒顧剛去九首︑覧者不無憾其閾漏︒康熙己卯九日︑獲披全文︑碑尚完

好︑漫測僅三字︒惟張易之・昌宗姓名為人撃去︑然猶可辮識也︒井叔襲語予︑﹁澗壁面水︑必穴崖棧木︑乃可皐

拓︒故儲蔵家竿有之︒﹂予性嗜金石文︑以其可證國史之謬︒而昔賢題詠︑往往出子載紀之外︒若買疎﹁華岳﹂詩︑

李隻「恒岳」詩、任要・茸洪「岱岳観」「白蝙蝠」詩、「三衝石橋寺」、李湮「古風」、臨胸薦氏『詩紀』•海堕胡

氏﹃唐音統簸﹄.泰興季氏﹃全唐詩集﹄︑皆略而不牧︑斯碑亦棄不録︒世遂莫知香宗及狭梁公之有詩︑博子今︒予

因為跛其尾︵右︑唐の武后夏日石涼に猜ぶ詩井びに序︑群臣和する者一十六人︒河東の辞曜正書す︒久視元年

︵七00)五月︑平楽澗の北崖に刊る︒斯の湘びなるや︑﹃新薔唐書﹄本紀均しく未だ之れ書せずして︑計敏夫

︵有功︶﹃唐詩紀事﹄も亦た載せず︑僅かに之れ趙明誠﹃金石録﹄及び楼大防の集︵楼鍮﹃攻婉集﹄︶に見るのみ︒予

の友︑葉封井叔︑登封県事に知たるとき︑﹃嵩陽石刻志﹄を撰し︑始めて録に著す︒顧だ九首を劃去し︑覧る者

其の闊漏を憾むこと無くんばあらず︒康熙己卯︵三十八年︑一六九九︶九日︑全文を獲披せば︑碑尚ほ完好し︑漫漉

するは僅かに三字なり︒惟だ張易之・昌宗の姓名のみ人の為に撃去せらるるも︑然るに猶ほ辮識すべきなり︒井

叔襲て予に語るに︑﹁澗壁水に面せば︑必ず崖を穴き木を桟として︑乃ち皐拓すべし︒故に儲蔵家の之れ有る竿

し﹂と︒予性は金石文を嗜み︑以て其れ国史の謬を証すべし︒而れども昔賢の題詠は︑往往にして載紀の外に出

(9)

閻朝隠﹁奉和聖製夏日遊石涼山﹂︵巻六九︶ 指融﹁嵩山石涼侍宴應制﹂︵巻六八︶※

3

沈栓期﹁嵩山石涼侍宴應制﹂︵巻九六︶※

1

3

蘇味道﹁嵩山石涼侍宴應制﹂︵巻六五︶※

3

干季子﹁奉和聖製夏日遊石涼山﹂︵巻八

O )

眺崇﹁奉和聖製夏日遊石涼山﹂︵巻六四︶※

3

O )

李嬌﹁石涼﹂︵巻六︱)※

3

膵曜﹁奉和聖製夏日遊石涼山﹂︵巻八

O )

1

3 秋仁傑﹁奉和聖製夏日遊石涼山﹂︵巻四六︶※

3

( 1 2 )  

9

3

﹁ 古

IU

lきは︑臨

i

氏の『詩紀』•海塩胡氏の『唐音統簸』.泰興季氏の『全唐詩集』は、皆略して収めず、斯の碑も亦た棄てて録さ

ず︒世よ遂に香宗及び秋梁公︵仁傑︶の詩有りて︑今に伝はるを知る莫し︒予因りて跛を其の尾に為る︶︒

ここには︑久視元年五月十九日に則天武后が臣下十六名とともに洛陽の東南七十キロにある石涼に遊んだことが刻

されている︒ここで石涼に遊んだ人物とその時詠んだ詩の﹃全唐詩﹄収録情況は以下の通りである︒

張易之﹁奉和聖製夏日遊石涼山﹂︵巻八

O )

3

張昌宗﹁奉和聖製夏日遊石涼山﹂︵巻八

O )

( ※

1

﹃ 唐 音 統 簸 ﹄

︑ ※

2

﹃ 全 唐 詩 稿 本

﹄ ︑

3 葉封﹃嵩陽石刻集記﹄に収録︒︶

秋仁傑詩の題下注に﹁按此事﹃新菌唐書﹄倶未之載︒世所博詩︑亦鋏而不全︒今従碑刻補入各集中︵按ずるに此の

事﹃新藷唐書﹄倶に未だ之れ載せず︒世よ伝ふる所の詩も︑亦た欠して不全なり︒今碑刻より各集の中に補入す︶﹂

とあり︑﹃全唐詩﹄はこれら石涼応制詩を︑通行する唐詩集からではなく︑石刻から採録したことが判る︒朱葬尊の 武三思﹁奉和聖製夏日遊石涼山﹂︵巻八

O )

則天武后﹁石涼﹂即平築澗︵巻五︶※

2

(10)

跛文の通り︑﹃新晉唐書﹄﹁則天武后本紀﹂や﹃唐詩紀事﹄等にはこの宴遊が記録されておらず︑わずかに楼鍮﹃攻婉

集﹄巻七五に﹁跛章達之所蔵唐石涼詩序﹂があり︑趙明誠﹃金石録﹄巻六にも︑

第八百四十九 周宴石涼序上

周石涼詩上第八百五十 周宴石涼序下周石涼詩下

と︑その目を載せるだけで︑この時詠まれた応制詩は収められておらず︑ただ葉封﹃嵩陽石刻集記﹄巻上に﹁剛九首﹂

3の八首のみ収められる︒これらの詩を摸拓するには︑石刻のある平楽澗に面した北崖に足場を作らなければな

らず︑﹃全唐詩﹄補綴作業においてこの応制詩を全て収録しえたのは︑朱葬尊の友人葉封の功績であろう︒

次に挙げる﹁跛石橋寺六唐人詩﹂︵﹃金石文字跛尾﹄巻四所収︶は︑その体裁まで﹃全唐詩﹄に反映されている例である︒

右劉週•李幼卿•李深・謝劇・羊淫・辞戎詩各四首。刊成二碑、留石橋寺。嘉靖中尚存。都御史江山趙鏡修『府

志﹄︑具録之︒中間闊文︑僅六字耳︒逍字陽卿︒知幾子︒大暦初吉州刺史︑終諌議大夫・給事中︒有集五巻︑載

﹃新唐書﹄藝文志︒幼卿字長夫︒隈西人︒大暦中︑以右庶子領齢州︒州有庶子泉︑因幼卿得名︒深字士達︑兵部

郎中・衝州刺史。浴、泰山人。大暦中、宏詞及第。戎字元大。元和七年、以刑部郎遷河南令、歴衝•湖・常三州

刺史、終浙東観察使。劇未詳。二碑不知何年失去(右、劉逍•李幼卿•李深・謝劇・羊浩・辞戎詩各四首。二碑

に刊成し︑石橋寺に留む︒嘉靖中︑尚ほ存す︒都御史江山趙鏡﹃︵衝州︶府志﹄を修するに︑具さに之を録す︒中

間の闊文は僅かに六字なるのみ︒迎︑字は陽卿︒知幾の子なり︒大暦初︑吉州剌史たりて︑諌議大夫・給事中

に終はる︒集五巻有り︑﹃新唐書﹄芸文志に載す︒幼卿字は長夫︒龍西の人︒大暦中︑右庶子を以て諦州を領

む︒州に庶子泉有り︑幼卿に因りて名を得︒深字は士達︑兵部郎中・衝州刺史たり︒浩︑泰山の人︒大暦中︑ 第八百四十七第八百四十八

(11)

辞戎 羊浴 李深 李幼卿 宏詞に及第す。戎、字は元夫。元和七年、刑部郎を以て河南令に遷り、衝•湖・常三州剌史を歴し、浙東観察使に終はる︒劇は未詳なり︒二碑何れの年に失去するかを知らず︶︒

朱葬尊の年譜によると︑康熙三十一年十月と同三十七年七月に衝州︵浙江省︶を訪れており︑この跛は︑その何れか

の時に作られたと思われる︒ここでは劉逍以下六名が爛拘山に遊んだ時︑各自四首ずつ詠んだ詩が石橋寺の碑に刻ま

れていると述べ︑次いで六名の小伝が記される︒そこで﹃全唐詩﹄巻三︱二を見ると︑次のような体裁を採っている︒

「爛梱山四首」按此詩見信安志爛何山石刻。並見者、李幼卿•李深・謝劇・羊浩・膵戎五人。或一時同詠、或先後織唱。皆列於後。

﹁前年春典獨孤常州兄花時為別條已三年突今鶯花又爾賭物増懐因之抒情聯以奉寄﹂

辞戎‘字元夫、河中人、歴衝•湖・常一二州刺史、終浙東観察使。詩四首。 劉逍

西

1 0

 

(12)

﹃全唐詩﹄巻三︱二では︑李幼卿に﹃唐詩紀事﹄巻二七より詩一首︵﹁前年春典獨孤常州兄花時為別條已三年芙今鶯花又爾賭

物増懐因之抒情柳以奉寄﹂︶を追加して﹁詩五首﹂とする以外は︑爛祠山に遊覧した詩を主として編まれている︒とりわけ

六名の小伝はそのまま朱葬尊の跛文の表現をそのまま襲用していることが判る︒

最後に挙げる﹁桂林風土記跛﹂︵﹃曝書亭集﹄巻四四所収︶は︑朱葬尊が直接調査した金石史料ではなく︑莫休符﹃桂林

﹃桂林風土記﹄︑唐光化二年︑融州刺史莫休符撰︒﹃新唐書﹄藝文志作三巻︑今祗存一巻︒⁝⁝雖非足本︑中載張

固.慮順之・張叢・元晦•路輩・尊灌•欧陽腋•李渤諸人詩。采唐音者均未著干録、治聞之君子函嘗登其幽光者

也︵﹃桂林風土記﹄︑唐光化二年︑融州刺史莫休符撰︒﹃新唐書﹄芸文志は三巻に作るも︑今祗だ一巻を存するの

( 1 3 )  

観席上贈侍郎張固」)・張叢(同巻五九七「遊東観山」)・元晦(同巻五四七「除浙東留題桂郡林亭」「越亭二十韻」)•臨宙手(同巻五四七

0

簿

5

すみや諸人の詩を載す︒唐音を采る者均しく未だ録に著せず︑治聞の君子函かに当に其の幽光を発すべき者なり︶︒

即ち︑現存する﹃桂林風土記﹄は二巻を欠いているが︑ここに附される唐詩について︑﹁采唐音者均未著干録﹂と︑ 風土記﹄に対する朱葬尊の跛である︒

マ マ

謝劇

(13)

︱ 二

( 1 4 )  

従来の唐詩集の不備が指摘され︑﹃全唐詩﹄には朱蝉尊の指摘の箇所が尽く反映されている︒後の﹃四庫提要﹄も

﹃桂林風土記﹄に収められる逸詩に注目し︑朱葬尊の跛に沿って﹃全唐詩﹄補綴作業が行われたと述べる︒

朱葬尊﹃曝書亭集﹄有此書跛云︑⁝⁝今観諸詩外︑尚有楊尚書・陸宏休二首︑亦唐代軟篇︑為他書所未載︒今

﹃全盾詩﹄採録諸篇︑即捩此本︑則其可資考證者︑又不止於譜民風記土産芙︵朱葬尊﹃曝書亭集﹄に此の書跛有

首有り︑亦た唐代の軟篇にて︑他書の未だ載せざる所と為す︒今﹃全唐詩﹄に採録する諸篇は︑即ち此の本に拠

れば︑則ち其の考証に資すべき者は︑又民風を譜し︑土産を記するに止まらざるなり︶︒

即ち︑﹃全唐詩﹄は逸詩を補綴するためには︑あらゆる書が用いられ︑この﹃桂林風土記﹄も単なる地理志に止ま

らない重要な傍証資料の︱つであった︒ただ︑楊漢公﹁些言州宴遊﹂詩が﹃全唐詩﹄に確認できないといった例外も生

じる︒いうなれば︑こうした当時から既に確認可能な逸唐詩の拾遺作業に遺漏を冒してしまうことこそが﹃全唐詩﹄

けでなくあらゆる資料をも反映させた一大事業であり︑朱葬尊をはじめとする当時の石刻史料に造詣の深い学者の貢

献は限りなく大きいと言わねばならないであろう︒

三︑朱葬尊と曹寅

前章にて︑朱葬尊の金石跛文における逸唐詩史料が﹃全盾詩﹄中に反映されていることを検証した︒そもそも﹃全

唐詩﹄は︑﹃唐音統簸﹄その他多くの資料を基に完成したことは冒頭に既述した通りである︒そこで本章では︑﹃全唐 補綴の杜撰な箇所であると考えられる︒しかし﹃全唐詩﹄は︑一年五ヶ月という短期間の刊刻作業の中で︑唐詩集だ

(14)

補綴することを報告する︒そこで曹寅は︑朱葬尊に助力を乞うために雪花餅を送った︒朱葬尊は︑編纂官の一人︑査

比得書︑知校勘﹃全唐詩﹄︑業已開局︵比ろ書を得て︑﹃全唐詩﹄を校勘し︑業已に開局するを知る︶︒

と︑曹寅の手紙によってこの国家事業が開始されたことを知る︒因みに査嗣環は︑朱葬尊と深い交遊があった査慎行

の弟である︒この書簡の中で︑友人の李因篤の杜甫論を査嗣礫に教授し︑朱葬尊は﹃全唐詩﹄刊刻に興味を抱いてい

たことが窺える︒しかし朱葬尊は﹁曹通政寅自慎州寄雪花餅﹂詩の結句に︑

詩﹄編纂官が朱葬尊の石刻拾遺史料を参照した理由として︑朱葬尊と曹寅に直接的な交流があったことを明らかにす

る︒当時曹寅は江寧織造という高い官職にあったが︑その始祖は満州族の包衣であり︑江南の文人社会の中では︑施

( 1 5 )  

閏章や姜哀英等前輩の遺賢と積極的に交わることで文化的名声を高める必要があった︒そこで曹寅が江南随一の学者

であった朱葬尊と交わるのは必然的なことであった︒二人が交流を開始した時期について︑編年順に編まれた﹃曝書

( 1 6 )  

亭集﹄の詩篇によれば︑栴蒙作麗の秋︑﹁曹通政寅自箕州寄雪花餅﹂詩に初めて曹寅のことが言及される︒この詩題

の如く︑真州︵揚州︶の曹寅から朱葬尊へ雪花餅という当地の名菓が送られてくる︒当時朱葬尊七十七歳︑曹寅四十

八歳︑両者には親子以上の年齢差があった︒曹寅に﹃全唐詩﹄刊刻が奉勅されるのはこの年の三月十七日であり︑当

一年之間恐不能竣工︒再中晩唐詩︑尚有遺失︒已遣人四慮訪覚︑添入校封︵一年の間︑恐らくは竣工すること能

はず︒再た中晩唐詩︑尚ほ遺失有り︒已に人をして四虞に訪覚し︑添入校対せしむ︶︒

一年以内での﹃全唐詩﹄完成は難しく︑尚且底本の中晩唐詩篇が不完全であるため︑揚州の編纂官が

(15)

門書騨之今昔﹂に見える︒ と︑自らを六朝梁の呉均と重ね合わせている︒寒門出身の呉均は︑前王朝の歴史書﹃斉春秋﹄を編纂するも︑その内

( 1 7 )  

容に誤りが多いために罷免された人物である︒嘗て﹃明史﹄編纂官でありながら弾劾された朱葬尊は︑この故事を踏

まえた上で自らの境遇を認識していた︒楊謙﹁朱竹詫先生年譜﹂の康煕四十四年の条には次のように記す︒

秋至三城︑訪曹通政寅︒曹視観政兼校書局︒先生過訪︑厩輯﹃雨淮臨栞火書﹄︵秋︑三城︵揚州︶に至り︑曹通政寅

を訪ぬ︒曹は嵯政兼校書局を視る︒先生過訪し︑﹃雨淮窺英書﹄を属輯す︶︒

即ち︑自らを呉均に準えた朱葬尊は︑揚州の曹寅を訪れて︑共同で﹃両淮塩英書﹄二

0

巻を編集する︒この書物は

現在侠書となっており︑その詳細は不明であるが︑その書名から判断するに︑江南の塩製造所を監理する帳簿や塩業

に関する事柄を蒐集した書物である︒これは朱葬尊の他の著作と比べると非常に政治色が濃く︑江寧織造曹寅が主導

して作られた書物であろう︒むしろ朱葬尊の揚州訪問の主たる目的は﹃全唐詩﹄補綴の幣助であり︑﹃両淮塩英書﹄

は筆禍事件を蒙った朱葬尊への単なる口実に過ぎないと思われる︒この時︑曹寅と朱舞尊が﹃全唐詩﹄の中晩唐詩を

再編集するために︑江南に通行する唐詩集を集め︑その費用は曹寅が賄っていたことが葉徳輝﹃書林清話﹄巻九﹁都

近来不能購書干江南突︒夏間従内城買書敷十部︒毎部有棟亭曹印其上︒⁝⁝棟亭掌織造甕政十餘年︑颯力以事鉛

栗︒又交手朱竹詫︒曝書亭之書︑棟亭皆紗有副本︒以予所見︵近来︑書を江南に書を購ふこと能はず︒夏間︑内

城より書を買ふこと数十部︒部毎に棟亭曹印其の上に有り︒⁝⁝棟亭織造塩政を掌ること十余年︑力を颯し以て

鉛栗を事とす︒又朱竹詫に交はる︒曝書亭の書︑棟亭皆紗して副本有り︒以て予の見る所なり︶︒

(16)

二巻︒今存詩八首﹂と記す︒

( 1 8 )  

曹寅は﹃全唐詩﹄完成後︑季振宜﹃全唐詩稿本﹄やその他の資料も北京に献呈しており︑清末に葉徳輝が北京で書

物を購入した際︑曹寅の蔵書印が押してあったというのは︑

一 五

それらが宮中より流出したためであろう︒ところで︑朱

葬尊が没して五年後︑曹寅は朱葬尊の全集﹃曝書亭集﹄の編纂に出資するほどの関係であったが︑曹寅が朱葬尊に宛

てた詩文は︑曹寅﹃棟亭集﹄に︱つも確認できない︒それは朱葬尊が清朝に対して屈折した意識を持ち︑尚且自身を

呉均に準えたように弾劾事件の当事者であったため︑官僚である曹寅は朱葬尊との交遊を高らかと江湖に喧伝するこ

とが出来なかった︒そこで﹃両淮塩策書﹄刊刻を口実として︑曹寅が独断で朱葬尊を招き寄せて助言を乞うたのでは

﹃全唐詩﹄編纂への関与

沈宗崎﹃晨風閣叢書﹄には︑﹃潜采堂書目四種﹄として﹃全唐詩未備書目﹄︑﹃明詩采掟書目﹄︑﹃両淮塩英書引証書

目﹄︑﹃竹詫行笈書目﹄の四種類の引用書籍目録が収められる︒潜采堂とは朱葬尊の号の︱つである︒この﹃全唐詩未

備書目﹄には︑百七十一種の唐詩集の書名が列挙される︒﹃全唐詩﹄に杜撰な箇所が多いという先入観によれば︑こ

れは﹃全唐詩﹄が漏らした唐詩集の一覧かと見紛う︒しかしここに挙げられる百七十一種の唐詩集は早々と散逸して

確認できないものである︒それ故︑ここに挙げられる詩人の作は︑﹃全唐詩﹄に数首のみ録されているものが多い︒

例えば﹃全唐詩未備書目﹄には﹁孟賓干金蒸集南唐人﹂とあるが︑﹃全唐詩﹄巻七四

0

︑孟賓子の小伝には﹁有金蒸集

つまり﹃全唐詩﹄刊刻官は︑既に孟賓干﹃金蒸集﹄二巻が存在していたことを知るも︑

当時彼らが確認できた孟賓干の詩はわずか八首だけであった︒また︑﹃全唐詩未備書目﹄に﹁彰陽唱和集劉馬錫令狐楚﹂ 四︑凋登府跛に見える朱葬尊の ないかと考えるのである︒

(17)

( 1 9 )  

s ‑

︱︱六五︶と令狐楚︵同巻三三四︶の唱和集を載せる︒しかしこのような唱和詩集を新

たに﹃全唐詩﹄に採録しても重複を生むだけである︒さすれば︑朱葬尊がこの書目を編纂した意図は如何なるもので

あろうか︒﹃全唐詩未備書目﹄の漉登府︵一七八

O

一八四一︶の跛には︑朱葬尊から曹寅に寄せられた書簡を挙げる︒S

先生典曹通政寅書云︑﹁嚢承面諭補綴﹃全唐詩﹄︑第十一函第七冊孫元晏以下至張元正共十四開︑無考︒今査出四

十三人官爵似宜注明︒又李諏口六詩七首聯句三首︑似宜補入︒但業鰹進呈︑成事不説︑留此︒以見愚者千慮之一

得耳﹂云云︒此目疑為同時録補者︑時方脩﹃雨淮堕英志﹄︒先生已望八︑而端楷無一筆之率如此︒可敬也︵先生︑

曹通政寅に与ふる書に云ふ︑﹁襲て面諭を承り﹃全唐詩﹄を補綴するも︑第十一函第七冊孫元晏︵﹃全唐詩﹄巻七六

七︶以下張元正︵同巻七八二︶に至ること共に十四開︑考無し︒今四十三人の官爵を査出するに宜しく注明すべき

が似し︒又李諏口六詩七首聯句三首︑宜しく補入すべきが似し︒但だ業経に進呈し︑成事説かず︑此に留む︒以

て愚者千慮の一得を見はすのみ﹂云云︒此の目疑ふらくは同時に録補と為す者︑時方に﹃雨淮堕笑志﹄を脩す︒

先生已に望八︵八十歳︶にして︑端楷一筆の率無きこと此くの如し︒敬ふべきなり︶︒

この朱葬尊が曹寅に宛てた書簡は﹃曝書亭集﹄に収められていない︒朱葬尊の指摘によると︑﹃全唐詩﹄巻七六七

から巻七八二までの計十六巻の﹁世次爵里無考﹂詩人のうち︑四十三名については明らかになり︑更に李暉口の詩も

補足すべきというが︑何を根拠とするのか不明であり︑博学の示教を請いたい︒しかし︑ここで巻数等に若干の誤差

があるものの︑揚州詩局初刻本﹃全唐詩﹄の第十一函第七冊目が︑確かに孫元晏詩より始まることから︑朱葬尊自身

が揚州詩局を訪れて﹃両淮塩英書﹄を編集していた時︑そこで行われていた﹃全唐詩﹄刊刻を目の当たりにしていた

と判る︒しかしこの書目を曹寅に与えるより先に﹃全唐詩﹄が完成し︑既に北京へ献呈されたため︑朱葬尊は口出し

(18)

て久遠すべくも︑﹁此の中に真意有り﹂在るを知らざるのみ︶︒

一 七

はせずにここに残すが︑愚者の意見の中には採るべきものもあると述べる︒﹁成事不説﹂は言うまでもなく﹃論語﹄

八俯編の﹁成事不説︑遂事不諫﹂であり︑出来たことは仕方なく︑済んだことは諌めず︑以後気を付けるべしという

此稿典﹃全唐詩﹄.﹃明詩綜書目﹄蔵渡術已二十年︒恐為乾魚餓鼠所飽︑後人且視為補抱蠍車之具︒特装成朋︑可

以久遠︑不知﹁此中有慎意﹂在耳︵此の稿と﹃全唐詩︵未備書目︶﹄・﹃明詩綜︵采掟︶書目﹄とは徳術に蔵すること

已に二十年︒恐らくは乾魚餓鼠の飽く所と為り︑後人且に視て補抱蛾車の具と為さん︒特に装して冊と成し︑以

とあり︑これらの書目は二十年以上も書箱の奥に秘され︑出版されることはなかった︒これらの書目について︑後世

の人は﹁補抱蠍車之具﹂︑即ち官僚の着る服や天子の乗る車の一部の如き﹃全唐詩﹄等勅撰事業の一環と見誤るが︑

陶淵明﹁飲酒﹂の詩句﹁此中有箕意﹂を引くことで︑朱葬尊は国家事業からは一線を隔てた隠逸者であることが強調

されている︒凋登府は同郷の後学であるものの︑嘉慶年間の人で朱葬尊より一世紀降るため︑これらの跛への資料的

それを差し引いても弾劾された朱葬尊の屈折した葛藤を示していよう︒むしろここで注目すべきは︑

公然とではないとしても︑朱葬尊がこのように敢えて﹃全唐詩﹄の﹁未備﹂を指摘することにある︒現在でこそ﹃全

唐詩﹄の遺漏や誤収を糾さんとする動きがあるが︑日本の市河寛斎﹃全唐詩逸﹄以外に︑中国において﹃全唐詩﹄を

糾正しようとする者は清末民初の劉師培や聞一多まで現れない︒孫方氏も﹃全唐詩未備書目﹄は私的な書目であり︑

( 2 0 )  

当時﹃全唐詩﹄の如き官刻本に異議を唱えることはできなかったであろうと述べる︒

以上の如く︑朱葬尊は﹃全唐詩﹄の補綴作業と大いに関わりを持っていた︒確かに曹寅の奏摺や﹃全唐詩﹄序文等 意味である︒また﹃両淮塩英書引証書目﹄跛にも︑

(19)

臣下という立場からの政治的配慮が含まれる︒ に朱葬尊の関与は全く言及されていない︒しかし︑まさに時を同じくして︑江南文人の中で朱粋尊ほど﹃全唐詩﹄刊刻に注目した人物は皆無に等しい︒総合責任者でもある校閲刊刻官の曹寅は︑﹃全唐詩﹄刊刻に参与したことを誇らしく思い︑﹁江寧織造曹寅奏謝刊刻全唐詩得列衡名摺﹂︵康煕五十年三月十日︶の奏摺において︑

但臣係何人亦得列名其上︒永垂不朽︑臣不勝感愧無地︑不知何幸得至於此︵但だ臣は何人に係りて亦た名を其の

上に列し得んや︒永垂不朽︑臣は感愧無地に勝へず︒知らず何の幸か此に至るを得んや︶︒

と︑不朽の書となるであろう﹃全唐詩﹄の刊刻に自分の名が残されることに感謝の意を示す︒この曹寅の姿勢には︑

一方の朱葬尊は︑全ての唐詩を蒐集せんとする歴史的大事業に魅力を

感じつつも︑明朝の遺儒という屈折した自意識があった︒それを受けて曹寅は︑朱葬尊を揚州に招き︑逸唐詩石刻史

料について教ホを受けながらも︑その関与を公的には伏せねばならなかったと筆者は考えるのである︒

(

1 )

( 2

)

﹃清史列偉﹄巻七一﹁朱舞尊博﹂こし皇帝南巡江浙︑葬尊屡迎駕於無錫︑召見行殿︑進所著﹃経義考﹄︑温諭褒奨︑賜

( 3

)

朱葬尊の文学的評価は︑青木正児﹃清代文学評論史﹄︵岩波書店一九四三年︒﹃青木正児全集﹄第一巻春秋社一

九六九年所収︒︶︑及び朱則傑﹃朱葬尊研究﹄︵浙江古籍出版社一九九三年︶を参照︒

( 4

) 秀水朱竹詫葬尊集唐詩為填詞一巻︑名﹃蕃錦集﹄︒殊有妙思︒︵王士輯﹃池北偶談﹄巻一六︶

( 5

)

﹁朱貪多︑王愛好﹂が賛語ではないとするのは︑谷口匡﹁朱葬尊の詩論に関する一考察﹂︵中国古典研究会﹃中国古典

研究﹄第三十四号一九八九年︶の説に拠る︒ . 

(20)

( 6

)

竹詫先生嗜書若命︒典試江左時︑綽雲已燿聞牧齋族子錢遵王撰﹃讀書敏求記﹄載宋板元紗次第完闊甚備︑撤棘求一

見之︑秘不肯出︒乃置酒召諸名士高諮︑遵王典焉︑私以黄金及青鼠袈賂其侍史︑啓炭得之︒招藩署廊吏敷十人於密室︑夜

半窯畢︑並録得﹃絶妙好詞﹄︒時人謂之﹁雅瞭﹂︒又先生直史舘日︑私以楷書手王綸自随︑録四方鰹進書︒掌院牛紐劾其漏

洩吏議鍋一級︑時人謂之﹁美貶﹂︒︵陳康棋﹃郎潜紀聞初筆﹄巻︱二︶

( 7

)

朱葬尊の明清鼎革に対する心理葛藤については︑竹村則行﹁朱葬尊の遺民意識﹂︵九州大学文学部﹃文学研究﹄第七

0

( 8

)

﹃論語﹄﹁子路篇﹂に︑﹁奨遅請學稼︒子日︑吾不如老農︒請學為圃︒曰︑吾不如老圃﹂とある︒即ち︑奨遅が飢饉の

時︑孔子に農法をたずねたが︑老練な農夫や畑作りにはかなわないと返事をしたことを典拠とする︒

( 9

)

時関輔大旱︑謂入計︒代宗召見便殿︑問請︑﹁権酷之利︑一歳出入幾何︒﹂請久之不封︒上復問之︑射日︑﹁臣有所思︒﹂

上日︑﹁何思︒﹂封日︑﹁臣自河東来︑其間所歴三百里︑見農人愁歎︑穀寂未種︒誠謂陛下診念︑先問人之疾苦︑而乃責臣

以利︒﹃孟子﹄日︑理國者︑仁義而已︑何以利為︒由是未敢即射也︒﹂上前坐日︑﹁微公言︑吾不聞此︒﹂拝左司郎中︒上時

訪以事︑執政者忌之︑出為虔州剌史︒︵﹃藷唐書﹄巻︱二六﹁裟請博﹂︶

( 1 0 )

大暦三年戊申歳季夏閏月壬子日感應︑至大暦五年庚戌歳夏六月甲午建︒︵﹃全唐詩﹄巻八八七︑裟請﹁儲渾廟﹂題下注︶

( 1 1 )

海璧胡震亨孝戟輯﹃唐音統簸﹄︑自甲迄癸凡千餘巻︒巻峡浩潮︑久未版行︑余僅見其﹃癸簸﹄一部耳︒康煕四十四年︑

上命購其全書︑令織造府兼理甕課通政使曹寅鳩工刻於廣陵︒胡氏遺書︑幸不湮没︒然版蔵内府︑人間亦無従而見之也︒

( 1 2 )

ここに朱葬尊が挙げる詩のうち︑買疎﹁謁華岳廟﹂詩︑任要・茸洪﹁岱岳観﹂詩︑李煙﹁古風﹂詩は﹃全唐詩﹄に未

収である︒朱葬尊はこれらの詩について︑﹃金石文字跛﹄巻四﹁書唐買疎華岳廟詩石刻後﹂・﹁跛唐岱岳観四詩﹂.﹁平定州

暦李湮炉神頌跛﹂にそれぞれ言及する︒なお︑買辣﹁謁華岳廟﹂詩は陳尚君輯校﹃全唐詩補編﹄︵中華書局一九九二年︶

( 1 3 )

﹃全唐詩﹄は路貫の作に作るが路輩の誤り︒

(14)

戸崎哲彦「唐・元晦の詩文の拾遺と復元'~桂林石刻による『全唐文』・『全唐詩』の補正および明・張鳴鳳『桂勝』

についてー﹂︵島根大学法文学部紀要言語文化学科﹃島大言語文化﹄第十七号二

00

四年︶は︑詩語の異同より︑﹃全

(21)

唐詩﹄が底本とした元晦﹁越亭二十韻﹂詩は︑﹃桂林風土記﹄ではなく明・張鳴鳳﹃桂勝﹄とする︒案ずるに︑﹃全唐詩﹄

校勘には︑稀少な宋元本より当時流通する明刊本が多用された︒﹃全唐詩﹄編纂官は︑校勘に際しては﹃桂勝﹄を採用し

たのであろうが︑補遺詩の調査の段階では﹃桂林風土記﹄を根拠としていたと思われる︒

( 1 5 )

井波陵一﹁曹寅について﹂︵京都大学人文科学研究所﹃東方学報﹄第五十九朋一九八七年︶参照︒

( 1 6 )

朱鉾尊は紀年表記を十干十二支ではなく︑﹃爾雅﹄﹁釈天篇﹂の呼称を用いる︒﹁胴蒙作麗﹂とは乙酉︑即ち康煕四十

( 1 7 )

均表求撰﹃齊春秋﹄︑書成奏之︑高祖以其書不賓︑使中書舎人劉之遵詰問敷條︑覚支離無射︑救付省焚之︑坐免職︒尋有救召見、使撰通史、起三皇、屹齊代、均草本紀•世家功已畢、唯列博未就。(『梁書』巻四九「呉均偲」)(18)性喜衆書、多得季振宜•徐乾學所蔵。後倶進入内府。(部之誠『清詩紀事初編』巻六「曹寅」)

( 1 9 )

﹃劉賓客文集﹄外集巻九に﹁影陽唱和集引﹂︑﹁彰陽唱和集後引﹂がある︒

( 2 0 )

孫方﹁揚州詩局是窓様編校刊刻︽全唐詩︾的﹂︵河南大学﹃河南大学学報・社会科学版﹄

一九八五年第五期︶参照︒

O

参照

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