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中国現代文学研究における新聞副刊の重要性

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(1)

中国現代文学研究における新聞副刊の重要性

その他のタイトル On the Importance of Newspapers' Supplements in the Study of Modern Chinese Literature

著者 蔭山 達弥

雑誌名 關西大學中國文學會紀要

巻 41

ページ A39‑A58

発行年 2020‑03‑15

URL http://doi.org/10.32286/00023370

(2)

中国現代文学研究における 新聞副刊の重要性

蔭 山 達 弥

はじめに

 新聞の副刊とは、狭義では「新聞で、文芸作品や学術論文などを専門に 扱うページや欄」1)を指すが、今日の中国では「各新聞によく見るニュース と区別されるページや欄」を指し、現在の商業紙がページ増の趨勢にある 中、内容が細分化され、読者や広告主を引き寄せるため、テレビ・映画・

図書・インターネットなどマスメディアと読者、とりわけ若者を争奪する ために、新聞副刊のページは益々充実したものになっている。換言すれば、

現在の新聞副刊は未曾有の盛んな時期に入ったと言えよう2)

 副刊は一般的に総合的な副刊、ある特定のテーマに特化した副刊、専門 的な副刊の三種類に分けられる。総合的な副刊は社会を比較的広範囲に反 映し、内容も多様、雑文・散文・詩歌・小説・絵画など文芸作品が主体で あり、新聞副刊の伝統的なスタイルである。ある特定のテーマに特化した 副刊は主として社会生活のある領域を反映し、文芸的な色彩も備えもって いる。国際・家庭・科学など3)

 副刊という言葉がいち早く使われたのは、1921 年、北京で発行され非常 に評判が良かった新聞、《晨报》に出現した独自の風格を備えたコラムにお いてである。当時は《晨报附镌》と呼ばれ、後にこのコラムが 1 ページに 改められ、わざわざ隷書に精通している著名な書道家を招いてタイトルを 書いてもらった。ただ隷書の中には元々‘附’の字がなく、そこでこの書

(3)

道家はぱっとひらめいて‘副’の字を揮毫した。それにより、副刊という 言葉は、中国北京に初めて出現したのである。

 新聞の副刊は中国の進歩的、革命的な文化人士が新しい思想を広める拠 点であり、李大钊,陳独秀,魯迅,郭沫若らは皆かつて副刊の執筆者であ った。新民主主義革命(1919~1949)の時期、保守的な政治傾向に偏りが ちだった新聞は、新聞の影響力拡大と発行部数を増やす目的で、進歩的な 文化人士や著名人を副刊の編集責任者に迎え、社会主義の理想を広く宣伝 する副刊を新しく開拓し、一つの新聞に二つの方針という特殊な現象が出 現した。

 五四新文学が興ると、新聞副刊は一時期、重要な作家と重要な作品が率 先してお目見えする舞台になった。魯迅の小説『阿 Q 正伝』、郭沫若の詩歌

『女神』、巴金の小説『家』などは北京、上海の新聞副刊に発表され、広範 な影響を生んだ。

 1930 年、哈爾浜の《国际协报》の副刊《国际公园》を手始めに長年副刊 の編集に携わってきた陈纪滢は、副刊に掲載された素晴らしい文芸作品の 効用について、次のように述べている。「ニュース面は読者が注意を向ける 場所、副刊は読者が精神を託す場所と私は思っている。この定義に基づく と、一篇の素晴らしい文芸作品それ自身はニュースではないが、ニュース 性を備えていて、同時にそれは文学作品であるが故に、永続性も備えてい る。だから一篇の素晴らしい小説を読むと、私たちを喜色満面にさせ、机 をたたいて絶賛させうるのだ。同時に私たちにいつまでも深い印象を与え、

生涯忘れることはない。それ故、良い副刊の読者は常にニュース面の読者 よりも多く、しかも固定的な読者であり、その最も大きな要因は、文芸作 品が常に読者の心の奥深い所とつながっていて、含蓄があり味わいがある 所だからである。」4)

 1982 年に复旦大学を卒業後、新聞社に入り、《北京晚报》の副刊《五色 土》の編集を担当、その後《人民日报》の副刊《大地》に移り、三十四年

(4)

の長きにわたって副刊を編集してきた李辉も、

“副刊文

丛”を刊行するにあ たって巻頭の序文で、こう述べている。「中国の新聞副刊の歴史は、今日ま で百年の過程があり、長く久しいと言える。近代に中国で新聞が誕生して 以降、ほぼあらゆる新聞に異なったタイプの、異なったスタイルの副刊が 存在した。出版業がまだ発達していない時に、素晴らしい副刊の紙面は、

ほぼ作者と読者の間の一番便利な交流の場となった。百年の間、副刊には 多かれ少なかれ重要な作品が発表され、どれほどの作家を育成してきたか、

もし統計を取ろうとするなら、並大抵ではない。」5)

 拙稿は、誕生当時から今日まで約百年になる中国の新聞副刊の歩み、と りわけ五・四運動期の副刊と作家たちの関わりを振り返りながら、一昨年 から中国で刊行中の“副刊文丛”にも着目し、中国現代文学研究における 新聞副刊の重要性について指摘し、今後の研究の足掛かりとするものであ る。

1

 

‘はじめに’で、副刊という言葉がいち早く使われたのは、1921 年と述

べたが、百度百科(baike.baidu.com)によると、実はそれより先立つ四半 世紀前、1897 年 11 月 24 日、上海の新聞《字林沪报》が“遣闷排愁之助 也”、つまりストレス解消の一助として新たに一面を設け、《消闲报》と呼 ばれるようになった。この新しいページに主に詩歌、筆記、伝記、笑い話 などが掲載され、これが副刊の始めと言われている。

 しかし、唐弢(1913~1992.1.4. 著名な作家・文芸理論家、初版魯迅全 集の編集校正に携わった。1946 年 6 月 1 日に創刊された《文汇报》の副刊、

《笔会》の編集責任者)は上海で発行された《申报》の副刊《自由谈》だ と、1978 年に執筆した雑文《办好副刊》の中で書いている。

  中国报纸之有副刊,始于上海发行的《申报》副刊《自由谈》,在这

(5)

之前,报纸往往辟有“余兴”,

“杂俎”一类的栏目,刊登诗歌,掌故和

笔记,放在每天最后一版的末尾,人们管它叫

“报屁股”

。有的另外印成 附张,随正报一起出售。一九一一年创刊的《申报・自由谈》,是在报纸 上单独另成一栏的,这也是在报纸上有副刊之名的开始。而鼓吹新文化 运动有着重要贡献的报纸副刊,当推一九二一年十月十二日创刊的《晨 报副镌》。…6)

 新聞副刊の始めが、《字林沪报》なのか、《申报・自由谈》なのかはひと まず置いて、唐弢が言うように、五・四運動期において《晨报副镌》を筆 頭に新聞副刊が新文化運動を喧伝することに貢献したのは決して偶然の現 象ではなく、当時の新聞業界の必然的な歴史的選択であった。雑誌『新青 年』が新文化運動の幕を開けて以降、中国の新聞業は未曾有の最盛期を迎 え、多くの新聞はその時副刊を増設した。五・四運動期の新聞の構成から 見れば、副刊は新しい文化を伝えるという重要な任務を引き受けていた。

副刊はメインである新聞の副産物として、新聞と機能を補完し合う作用と して存在したのである7)

 著名な中国の学者、記者、作家であった曹聚仁( 1900~1972 )は著書

『文壇五十年』の中で、《觉悟与学灯》、《北晨与京报》の二章を割いて、五 四運動以降の代表的な副刊四種について論じている。曹聚仁は《北晨与京 报》の章で次のように述べている。

  北京《晨报》副刊,那是新文学运动在北方的堡垒。孙伏园主编副 刊,鲁迅的《阿 Q 正传》,便是在那副刊上连载的。(中略)

  鲁迅曾说过:在北京那地方,北京虽然是五四运动的策源地,但自 从支持着《新青年》和《新潮》的人们,风流云散以来,1920年至

1922

年间,倒显着寂寞荒凉的古战场的情景。《晨报》副刊之后,《京报》副 刊露出头角来了。《晨报》副刊到了

1925

10

月间,由徐志摩主编,也

(6)

还是继承着文学革命的任务。孙伏园走出了《晨报》副刊,接编《京报》

副刊,也就是《晨报》那一副精神。8)

 曹聚仁は「北京の《晨报》副刊は(中国の)新文学運動の北方の砦であ る。」、また「《晨报》副刊の後、《京报》副刊が頭角を現してきた。《晨报》 副刊は 1925 年 10 月に編集責任者が徐志摩に代わっても、文学革命の任務 を受け継いでいる。孙伏园(1894~1966、著名な副刊編集者、紹興と北京 で二度、魯迅の学生となった)が《晨报》副刊を出て、《京报》副刊の編集 を担当しても、《晨报》の精神そのものである。」と述べている。北京《晨 报》の副刊《晨报副镌》、北京《京报》の副刊《京报副刊》、この二紙に加 えて、上海《民国日报》の副刊《觉悟》、上海《时事新报》の副刊《学灯》

の四紙は、五・四運動期の代表的かつ影響力のある四大副刊と呼ばれてい る。

 ここで、この四大副刊について概観しておく。

 ① 北京《晨报》→《晨报副镌》

1916 年 8 月 15 日創刊。創刊当初は梁啓超,汤化龙を筆頭とする進歩党 政客の機関紙であった。元来保守的であった《晨报》は 1919 年、主宰の 蒲伯英が新しい思想を受け入れ、元々美辞麗句を重ねていた第七面の文 芸欄を徹底的に革新し、新文化運動に傾いていった。2 月 7 日より李大 钊が《晨报》の編集に参与するようになると、《自由论坛》,《译丛》,《剧 谈》などが増設された。李大钊が編集に参与したこの間、新しい文芸作 品の掲載が主になり、魯迅,冰心,徐玉诺,瞿秋白,林語堂らの支持を 得て、大量の文芸色の強い作品を掲載した。1920 年、李大钊の編集をサ ポートしていた孙伏园が編集を引き継ぎ、1921 年 10 月 12 日、《晨报》は 第七版を改革し、独立した四ページの《晨报副镌》とした。孙伏园は魯 迅に紙名を要請、魯迅は《晨报附刊》と名付けたが、題字を書いた書道 家は《晨报副镌》とした。1925 年 10 月 1 日、徐志摩が編集を担当して

(7)

から《晨报副刊》となった。孙伏园が編集を担当している間、魯迅、周 作人支持のもと、《晨报副镌》は知識層に新しい思想、新しい知識、新し い文芸を伝える重要な媒体となった。孙伏园は新文学の発展に引き続き 力を注ぎ、刊行物の知識性と趣味性を重視し、科学、文芸ジャンルの作 品を大量に掲載した。魯迅は《阿 Q 正传》( 1921 年 12 月 4 日から 1922 年 2 月 12 日まで連載),《不周山》(补天),《肥皂》、雑文、論文、訳文な ど 50 余りの作品を発表した。周作人は独自のスタイルを形作り、

“自己

的园地”というコラムに大量の文芸評論の文章を書いた。冰心は処女作

《谁之罪》、続けて《斯人独憔悴》,《秋风秋雨愁杀人》,《庄鸿的姊妹》な ど女性の視点から社会・家庭・婦人の問題を明らかにし、封建勢力と社 会の現状に対する不満を表した‘問題小説’を発表した。1923 年 6 月 1 日から 1925 年 9 月 25 日までの間、王统照が編集する文学研究会が北京 で出していた《文学旬刊》(文学周报)も《晨报副镌》に添付して刊行さ れ、改革後の《小说月报》と軌を一にし、文学研究会作家群の形成を促 し、リアリズム文学の特色を示した。ところが 1924 年 10 月、孙伏园は 掲載予定だった魯迅の詩《我的失恋》を編集長代理だった刘勉己にボツ にされたことに端を発して、憤然と辞職。《晨报副镌》は 1928 年 6 月 5 日、2314 号で停刊。

 ② 上海《时事新报》→《学灯》

元々は資産階級改良派の新聞であった。辛亥革命後は上海の研究系機関 紙になった。内部組織の関係で政治的立場は比較的保守、《时事新报》の 副刊は多く、《学灯》,《社会主义研究》,《文学旬刊》などがある。《学灯》

は総合的な副刊の一つで、1918 年 3 月の創刊から 1947 年 2 月 27 日の停 刊までの間、何度も改革を経験し、副刊改革の先駆者となった。

 ③ 上海《民国日报》の副刊《觉悟》

《觉悟》は邵力子が 1919 年 6 月 16 日に創刊、創刊当初は初歩的な社会主 義の傾向にあったが、1920 年に中国共産党が上海で成立すると、《觉悟》

(8)

は党組織の影響の下、マルクス主義、社会主義を宣伝する陣地となった。

1925 年、恽代英に編集長が代わると共産党員の多数の文章を集めて、強 い戦闘性を表現した。同年 12 月、《民国日报》は国民党右派に完全に掌 握されて、次第にその進歩性を失っていった。

 ④ 《京报副刊》

1924 年 12 月 5 日創刊。編集長は孙伏园、《京报副刊》は敢えて現実を直 視し、現実に介入した。当時、全国を震撼させた女子師範大学事件、三 一八事件、五・三〇事件などに《京报副刊》はすぐに強い反応を示した。

しかし、《京报》並びに《京报副刊》の批判的な態度は混戦のただ中にあ る北洋軍閥の恨みを買い、1926 年 4 月 24 日、《京报副刊》も発売を停止。

26 日、著名ジャーナリスト邵飘萍が軍閥に殺害され、一夜のうちに 477 期で終止符を打った。

2

 北京《晨报》の副刊《晨报副镌》、北京《京报》の副刊《京报副刊》の最 大の特長は文学作品を掲載することに重点を置いていることである。しか し、それは文学作品を掲載することによって、社会的責任を負おうとしな くなったことを意味するのではない。《晨报副镌》は孙伏园が編集長をして いる間、新文学の作品を掲載するだけでなく、作品に対する擁護・批判を 掲載し、読者に問題を提起すると同時に、守旧派に対して鉄槌を下してい るからである。

 1922 年 8 月、汪静之の詩集《惠的风》が亜東図書館から出版された。朱 自清,胡適,刘延陵が序文を書き、周作人が書名を書いた。この詩集が出 ると、論争が起こった。南京東南大学学生であった胡梦华が、10 月 24 日 の上海《时事新报・学灯》に《读了〈惠的风〉以后》を発表、その一部の 詩は「堕落して軽薄だ」、「不道徳の嫌疑がある」と攻撃した。

 周作人は、胡梦华の《读了〈惠的风〉以后》よりも先(10 月 12 日)に、

(9)

《晨报副镌》に《情诗》を発表、汪静之の詩集《惠的风》を次のように擁護 している。

  …静之的情诗即使艺术的价值不一样,如胡(适)序里所详说,但 是可以相信没有“不道德的嫌疑”。不过这个道德是依照我自己的定义,

倘若由传统的权威看去,不特是有嫌疑,确实是不道德了。这旧道德上 的不道德,正是情诗的精神,用不着我的什么辩解。静之因为年岁与境 遇的关系,还未有热烈之作,但在那缠绵婉转的情诗里却尽有许多佳句。

我对于这些诗的印象,仿佛是散在太空里的宇宙之爱的霞彩,被静之用 了捉蝴蝶的网兜住了多少,在放射微细的电光。所以见了《惠的风》里 的“放情地唱”,我们应该认为诗坛解放的一种呼声,期望他精进成就,

倘若大惊小怪,以为

“革命也不能革到这个地步”

,那有如见了小象还怪 他比牛大,未免眼观太短了。9)

 汪静之が感情の赴くまま歌う(

“放情地唱”

)ことを詩壇解放の叫びだと 思った周作人はさらに続けて、11 月 1 日の《晨报副镌》に《什么是不道德 文学》を発表、汪静之に声援を送った。

 後述する沈従文も、1930 年 11 月 15 日に発表した論文《论汪静之的〈惠 的风〉》で“男女解放问题,竟似乎比一般问题还更容易趋于严重。

”と前置

きした上で、汪静之を高く評価している。

  …他不但为同一时代的青年人写到对于女人由生理方面感到的惊讶 神秘,要求冒险的失望的一面,也同时把欢悦的奇迹的一面写出了。…10)

 さらに、沈従文は“作者的作品,却似乎比其他同时诸人更近于‘赤子之 心’的诗人的作品了。

11)と、赤ん坊のような(=純真な)心と若者の性欲 に対するぼんやりした意識が一つになって、《惠的风》の詩は虹のように一

(10)

瞬の間、国内の文壇を照らしたと評価した。

 さて、汪静之の詩集《惠的风》で胡梦华が批判した詩は《过伊家门外》

という僅か三行の詩、

‘瞟’

‘意中人’という言葉である。

我冒犯了人们的指摘,

一步一回头地瞟我意中人;

我怎样欣慰而胆寒呵。

 魯迅は 11 月 17 日の《晨报副镌》に《反对“含泪”的批评家》(「含涙」

の批評家に反対する)を発表し、

‘瞟’

‘意中人’という言葉をやり玉に挙

げ、反駁した。

  …胡君は『惠的風』の中に「一足ごとにふり返ってわが意中の人 に流し目する」という一句があることによって、『金瓶梅』と同様の罪 をきせたが、これはムリなこじつけというものだ。『金瓶梅』の巻首に はなるほど「意中の人」という文字があるが、だがこの文字が同じだ からといって、これとそれが同じようなものだということはできない。

(中略)中国のいわゆる道徳的な神経は、どうも昔からあまりにも過敏 すぎると私は思う。「意中の人」(

‘意中人’

)という言葉という一句を みると、すぐに『金瓶梅』を思い出し、「流し目」(

‘瞟’

)という一語 をみると、すぐに別のことまでセンサクする。だが全部青年の心が、

それほどまでに不浄であるとは限らない。…12)

 魯迅はよほど腹に据えかねたのか、《〈故事新编〉序言》,《我怎样做起小 说来》(私はどうして小説を書くようになったか)などで何度も胡梦华の言 論に対して批判を繰り返した。

(11)

  第一篇の『補天』(もとの題は『不周山』)は、1922 年の冬に書き 上げたものである。…はじめは、ごくマジメであった。…ところが、

どういう都合かで、途中で筆を停めて新聞を見ていると、不幸にして 誰だったか(今では名を忘れた)の書いた汪静之君の《惠的风》の批 評が目についた。彼いわく、涙ながらに懇願すらく、青年よ、二度と このようなものを書くな、と。この憐れむべき陰険さは、私に滑稽の 感を抱かせた。そして小説を書き継ぐ段になって、何としても、古代 の衣装をつけた小男を女媧の両股の間に出現させずにいられなくなっ た。これが、マジメからフザケに落ちた発端だった13)。→《〈故事新 编〉序言》

  …たとえば私の書いた「不周山」がそれで、最初の考えでは性の 発動と創造、ないし衰亡を描写するつもりであったが、途中で新聞を 見たら、ある道学的な批評家の情詩を攻撃した文章が出ており、それ を読んで甚だ腹に据えかね、そこで小説の中で一人の小人物を女媧の 両股の間に走りこませたわけである。これは不必要なばかりか、構成 の雄大さをぶち壊してしまった14)。→《我怎样做起小说来》

3

 しかし、汪静之の詩集《惠的风》をあげつらった胡梦华を何度も批判し た魯迅は、一方で将来を担うべき青年たちが社会状況の深刻な局面に関心 を示さず、浅薄な恋愛詩にうつつを抜かしているのに、ある種の不快を覚 え、反発していた。

 魯迅は当時流行っていた失恋詩を風刺するために日本の狂歌のような「打 油詩」、三節の『わたしの失恋』を書いた。以下は第一節15)

我的所爱在山腰;(愛する人は山の中)

想去寻她山太高,(会いに行きたし山高し)

(12)

低头无法泪沾袍。(首を垂れて着物に涙)

爱人赠我百蝶巾;(あの娘がくれた百蝶ハンカチ)

回她什么:猫头鹰。(お返しはなに? ミミズクよ)

从此翻脸不理我,(それきりあの娘は知らん顔)

不知何故兮使我心惊。(なぜだか胸が立ち騒ぐ)

 魯迅自身はむかしからミミズク(フクロウ)が好きであったという。魯 迅は何度もミミズクの絵をかいた。1927 年に出版された『墳』の表紙もミ ミズクの絵が描かれている。魯迅は「時々私は言論界で勝利を得たいと思 わぬことがある。わたしの言論が時にフクロウの鳴き声となって、すこぶ る不吉な事を知らせていて、私の言があたれば、みんなが不幸になるであ ろうからである。」16)と、述べた。片山智行氏は魯迅が「ミミズクの不吉な 声」というとき、ここには旧社会にたいする弔鐘の意味がこめられている と言う17)

 わたしは愛する人になかなか会えず、涙を流す。愛する人が贈ってくれ るのは蝶の模様の入ったハンカチ、わたしはミミズクをお返しにする。わ たしと愛する人のあいだに生活感覚の差が歴然と存在している。わたしは 恋愛詩の世界の住人ではないのである。

 魯迅が書いた『わたしの失恋』の原稿のために、孙伏园は《晨报副镌》 を辞めた。その経緯については、魯迅が『私と「语丝」の関係』(『三閒集』

所収)に詳しい。

  …次に、私は当然その辞職の原因について聞いてみなければなら ない、ところが思いがけないことに、私に関係していたのである。そ の留学生(刘勉己)は孙伏园が外へ出た留守に、活版部へ行って私の 原稿をぬいてしまった。それでいざこざが起って、とうとう辞職せね ばならないことになったというのである。だが私はちっとも腹は立た

(13)

なかった、というのがその原稿は『わたしの失恋』という題の、三節 からなる打油詩にすぎなかったからである。その頃「ああ、ああ、私 は死にたい」といった失恋詩が流行しているのを見て、わざと「彼女 の勝手にしろ」という文句の結びとするものを書いて、からかったの である。この詩は、後にもう一節足して『语丝』にのせ、更にまた『野 草』にもいれた。…18)

 孙伏园が《晨报副镌》を辞めた原因は、勿論この件が発端ではあるが、

周作人らの《徐文长的故事》が連載中止に追い込まれたことなど、刘勉己 と孙伏园の間に揉め事があったようである。

 孙伏园は《晨报副镌》を辞めた後、魯迅、周作人らと頻繁に会い、自由 に文を発表できる組織の設立に奔走した。孙伏园が《晨报副镌》を辞めな ければ、《语丝》も、《京报副刊》も生まれなかった。

 孙伏园が編集長になり、新たに発刊した《京报副刊》も《晨报副镌》同 様、文芸を主とする大型の総合的な副刊となった。同時に現実を直視し、

現実に介入していった。当時、全国を震撼させた女子師範大学事件、三一 八事件、五・三〇事件、特に五・三〇事件に照準を合わせ、前後して特別 号を出し、弾圧された者の側に立って、祖国を愛し国家存亡の危機を救う ことを支持し、社会的責任を積極的に負おうとした。

 文学作品がニュース報道と異なる点は、酒のように品質保持期限が長い ことである。時間が経つほど味わいが増し、じっくりと味わう価値がある。

《晨报副镌》、《京报副刊》に掲載された文芸作品は、現実に起きている問題 を重視し、社会的責任を負おうとしている点で、ただ感情を切り売りして 読者を引き込もうとする単なる文芸作品ではなかった。

4

 ところで、《京报副刊》は 1925 年 1 月、広く社会にそれぞれ 10 冊の「青

(14)

年愛読書」、「青年必読書」を募り、2 月 11 日に胡適が選んだ「青年必読書 目」を皮切りに、同年 4 月 9 日まで 51 期掲載された。書物の選者は合計 78 人、選定された書物は古今東西、340 種を超えた。魯迅が選んだ「青年 必読書」も 2 月 21 日の《京报副刊》に掲載された。

 青年の必読書

 これまで気をつけたことがなかったので、いま答えることができな い。

 附注

 だが私はこの機会に、少し自分の経験をのべて、若干の読者の参考 に供する。

 私は中国の書物をよむと、どうも気分が沈静して、実人生と離れる ように思う。外国の書物(ただしインドを除く)をよむと、大てい人 生と接触して、何かの仕事をやろうという気になる。

 中国の書物にも、社会に入って行くことを勧める言葉があるが、大 ていは動かぬ屍の楽観である。外国の書物ではたとえ頽廃や厭世であ っても、しかし生きた人間の頽廃や厭世である。

 私は思う、少ししか(あるいは一つも)中国の書物はよまないで、

たくさん外国の書物をよむのがいいと。

 少ししか中国の書物を読まなくても、その結果はただ作文ができな いというだけだ。だが現在の青年に最も緊要なことは「行」であって、

「言」ではない。生きた人間さえあればいい。作文ができないのは何も たいしたことではない。19)

 「私は思う、少ししか(あるいは一つも)中国の書物はよまないで、たく さん外国の書物をよむのがいいと。」と、魯迅は中国の書物に代表される封 建思想・体制を嫌悪し、見捨てることを表明しているのである。魯迅は伝

(15)

統文化批判の立場に立ったのである。

 では、他の回答者はどうか。江绍原は魯迅と同様、白紙の回答を出した。

徐志摩も 10 冊のリスト(うち外国の書物が 8 冊)は渡したが、「先輩が教 師面をして青年にくどくどと言いたくない」と言った。周作人は外国の書 物が 7 冊,中国の優れた文化を整理し始めた胡適は中国と外国が半々,し かし魯迅と真っ向から対立する書物のリストを挙げたのは梁啓超、その人 であった。

 孙伏园が《京报副刊》で募った「青年必読書」リストは梁啓超、胡適が 呼び掛けた‘国学必読書目’及びその背後にある古典と現代、中国と西洋 の論争に対する回答であった。魯迅が「中国の書物は大てい動かぬ屍の楽 観である」と言ったのは、梁啓超が伝統的な儒家、道家の“仁者不扰”(仁 者は迷惑をかけない),

“宠

辱不惊”(褒められようとも蔑まれようとも気に かけない)という考え方にある楽観文化、趣味主義の立場に立って、知識 階層の転向を代表しているからである。(その中には実弟、周作人も含まれ る)人が人を食う現実に直面し、国民に目覚めるように呼び掛けていた魯 迅にとって、「中国の書物を読むな。」と言ったのは、国学書目の背後にあ る文化傾向に目をつけていたからである20)

5

 1902 年、天津で創刊された《大公报》文芸副刊の編集長を 1933 年 9 月 23 日に引き継ぎ、抗日戦争後、1946 年 9 月中旬、杨振声が編集長であった

《益世报・文艺周刊》の編集に加わった沈従文は、《怎样办好一份报纸》を 執筆、その一章‘副刊的重要性’の中で、五・四運動以降、四半世紀近く になる新聞副刊の歩みを次のように振り返っている。

  …丛五四起始,近二十五年报纸上的副刊,即有个光荣的过去可以 回溯。初期社会重造思想与文学运动的建立,是用副刊作工具得到完全

(16)

成功的。近二十年新作家的初期作品,更无不由副刊介绍给读者。鲁迅 的短短杂文,即为适应副刊需要而写成。到民十四五以后,在北方,一 个报纸的副刊编辑,且照例比任何版编辑重要。社长对于副刊编辑不当 作职员,却有朋友帮忙意味。如孙伏园,徐志摩,刘半农诸人作副刊编 辑,就是这种情形。许多报纸存在和发展,副刊好坏即大有关系。这个 趋势在北伐成功后有了点变化,由于刊物杂志兴起,副刊有一个时期就 衰落了。但从九一八以后,副刊又成为文学运动最适宜的工具。如以东 北言,一切书报不易出关,但关外报纸却大量转载国内副刊上作品,成 为沟通国内情绪最重要的读物。七七抗战以后,后方内迁报纸因经济关 系,不能不适应环境,缩小篇幅,将副刊地位移登广告。…21)

 しかし、沈従文にとって、副刊の編集長を担当するまでの歩みは決して 平坦なものではなかった。

 1922 年、20 歳の夏、湖南省保靖から北京にやってきた沈従文は、燕京大 学二年制国文班の入学試験を受けるが、標点符号も知らず、不合格。翌年 2 月から未登録の聴講生となって、北京大学に通った。しかし故郷からの 仕送りが途絶え、北京での生活は苦境に陥った。1924 年、創作を開始、あ ちこちに投稿して生活を維持しようとしたが、新聞・雑誌は進んで発表し ようとしなかった。李斌《沈从文画传》によると「沈従文は絶えず当時著 名な《晨报副镌》に投稿した。しかしいつまで経っても発表されなかった。

後から聞いた話では、《晨报副镌》主宰の孙伏园はある編集会議で沈従文の 未発表の原稿を広げて、これは大作家沈某の作品と言って、くしゃくしゃ にして屑籠に放り込んだ。」22)と、当事者の実名を記している。王保生《寂 寞寻梦人 沈从文》では「1924年左右,他投稿无出路时,却被当时做编辑 的某位先生取笑,在一次集会上,把他几十篇作品连成一长段,摊在桌上说:

“这是某某大作家的作品

!”说完后,即扭成一团投入纸篓。」23)と実名を明 らかにしていない。

(17)

 では真実はどうなのか。沈従文は 1980 年 11 月 7 日、アメリカコロンビ ア大学で「二十年代の中国新文学」と題して行った講演の中で、次のよう に述べている。

  正如

1925

年左右,我投稿无出路,却被当时某编辑先生开玩笑,在 一次集会上,把我几十篇作品连成一长段,摊开后说,这是某某大作家 的作品!说完后,即扭成一团投入字纸篓。这位编辑以后作县长去了,

有人说我作品得到这位大编辑的赏识,实在是误传。24)

 沈従文も、彼の原稿を屑籠に放り込んだ編集者の実名を明らかにしてい ない。しかし、昨年出版された张新颖著《沈从文的前半生》では、孙伏园 だと実名を明らかにした上で、その場にいた人が後からこの様子を沈従文 に伝えたと書いている。

  …《晨报副刊》的著名编辑孙伏园,曾当众把沈从文投稿的一大摞 作品连成一长段,开玩笑道:这是某某大作家的作品!说完后,即扭成 一团,扔进废纸篓。在场的一个人后来把这个情景告诉了沈从文,令他 深感屈辱。25)

 沈従文の原稿を屑籠に放り込んだのは孙伏园で間違いない。さて、11 月 上旬、暮らしが本当に困難になり、郁達夫に手紙を書いて、窮状と手助け を訴えた。郁達夫は手紙を受け取ると、沈従文の狭くてかびた住まいを訪 ねた。郁達夫は火の気のない、寒々と湿気った部屋で、未来の小説家と心 から話をした。郁達夫はこの青年が賄いの食事の金もないことを知ると、

沈従文を食事に連れ出し、店を出るとき、自分の首に巻いていたウールの マフラーを沈従文に引っ掛け、釣り銭を全部沈従文に渡した。郁達夫は有 名な《给一位文学青年的公开状》を執筆、あざ笑ったり皮肉ったりして腐

(18)

敗、堕落した現実を暴き、沈従文の境遇を公にした。この文章は 1924 年 11 月 16 日の《晨报副镌》に掲載された。郁達夫は《晨报副镌》の新しい 編集担当、刘勉己,瞿世英に沈従文を紹介し、1924 年 12 月 22 日、《晨报 副镌》に休芸芸のペンネームで発表した《一封未曾付邮的信》がついに掲 載され、沈従文は大作家の道を歩み始めるのである。

 「知音」という言葉がある。「自分の才能を認め理解してくれる人」であ る。2017 年から中国で出版が始まった“副刊文丛”を企画・立案した李辉 は《现代文人与副刊》の中で、沈従文にとっての「知音」である徐志摩に ついて書いている。

  编辑成为作者的指引,扶植文学新人,这样的例子在现代文坛上可 以说数不胜数。20世纪

20

年代初沈从文从湘西来到北京,在极其艰苦 的环境中开始对文学的追求。到

1925

年,固然经过郁达夫的介绍,沈从 文开始《晨报副刊》上发表一些作品,但仍然只是一个不知名的作者。

1925

10

月徐志摩接手编辑《晨报副刊》,在《我为什么来办我想怎么 办》一文中,他第一次将沈从文这位无名作者,同声震文坛的胡适,闻 一多,郁达夫等人一起列为他的约稿对象。徐志摩极为欣赏沈从文的文 章中所表现出来的文学才能。为了让更多的读者认识沈从文的价值,除 陆续发表他的作品外,在这一年

11

月,徐志摩还破例地将沈从文八个月 前发表于《京报副刊》上的散文《市集》,重新刊登在《晨报副刊》上,

并特地配上一篇《志摩的欣赏》,高度评价沈从文的才华,赞叹《市集》

“这是多么美丽生动的一幅乡村画。 ”

他还说

:“复载值得读者们再三读乃

至四读,五读的作品,我想这也应比乱登的办法强些。

26)

 それから、無名で名を知られていない沈従文は徐志摩が編集する《晨报 副刊》とその後の雑誌《新月》の重要な作者になった。一人の湘西の山間 からやって来た文学青年は、自分の生きる道を確定した。徐志摩が才能を

(19)

認めて理解してくれたことに対して、沈従文は深く感激して、終生忘れる ことはなかった。

まとめ

 以上、誕生当時から今日まで約百年になる中国の新聞副刊の歩み、とり わけ五・四運動期の四大副刊、北京の《晨报副镌》,《京报副刊》と文学者 魯迅、小説家沈従文との関わりを振り返りながら、中国現代文学研究にお ける新聞副刊の重要性について検証してきた。

“没有副刊就没有名作。 ”

(副 刊が誕生しなければ、名作は生まれなかった)と、言っても過言ではない。

 徐鹏绪は《中国现代文学文献研究》、第三編

‘中国现代文学原始文献的编

辑出版类型’第一章の冒頭で、冯并の《中国文艺副刊史・代序》27)を引い て次のように述べている28)

  近代以来、中国各地で創刊された新聞雑誌は統計を取るのが困難 である。ある人の統計によれば、1915 年 9 月から 1949 年 7 月に創刊 された文学雑誌だけでも 3500 種余り、冯并は《中国文艺副刊史・代 序》の中で「現存する新聞副刊、累計はすでに 5000 種を超えている。

この数字は新聞と出版事業の繁栄、発展をはっきりと示している。(中 国)現代文学の研究にとって、一級の豊富な遺産であり、さらに発掘・

研究する潜在力を秘めている貴重な資源である。

 副刊は中国の新聞の一大特色である。百年の間、副刊にどれほど重要な 作品が発表され、どれほど作家を養成してきただろうか。

 2017 年 1 月 22 日、

‘中国国

际展览中心’において“副刊文丛”第一辑新 书发布会が行われた。版元である大象出版社社長王利纯は「百年になる副 刊の歩みを整理し、副刊の昔日の輝きを再現する。20 世紀 80 年代から民 国の時期まで遡り、中国語圏を網羅して、10 年の時間をかけて 200 種類余

(20)

りの図書を出版する見込みだ。」と述べた29)

 社会はニューメディアの時代に入った。ニューメディアの驚くべき伝達 速度、末端に届く、便利で迅速な読書体験に、紙媒体は遠く及ばない。し かし、

“副刊文

丛”の刊行を契機に、中国現代文学研究にとって、第一級の 遺産である副刊に今こそ注目すべきではないだろうか。

注 1) クラウン中日辞典 p328、三省堂 2001.

2)

  百度百科“报纸副刊”の項目を参照

3)

  新闻传媒学大辞典,中国大百科全书出版社 2014.

4)

  陈纪滢《我们需要怎样的副刊》,李辉編《副刊面面观》中国大象出版社 2017.

所収

5)

  李辉《“副刊文丛”总序》,同上所収

6)

  唐弢《办好副刊》,

《唐弢杂文集》三联书店 1984.5. p.910.

7)

  何艳,于佩琳,彭曦阳《五四时期副刊的革新与启示》,

《新闻爱好者》2019

年第

5

期,人民网・2019.6.14.

8)

  曹聚仁《文坛五十年》,三联书店 2010年

9

月 p.166.

9)

  周作人《情诗》,

《晨报副镌》1922

10

12

日、钟叔河编订《周作人散文全集》

2. p.581. 广西师范大学出版社

10)

  沈従文《论汪静之的〈惠的风〉

、初出《文艺月刊》第一巻第四期、

《沈从文文

集》第十一巻,三联书店 1985年

1

月 p.152.

11) 同上

12) 増田渉訳「含涙の批評家に反対する」、『魯迅選集』第 6 巻、岩波書店 1956 年 初版、p.78.

13) 竹内好訳「故事新編序言」、『魯迅選集』第 3 巻、岩波書店 1956 年初版、p.5.

14) 松枝茂夫訳「私はどうして小説を書くようになったか」、『魯迅選集』第 9 巻、

岩波書店 1956 年初版、p.77.

15) 片山智行訳『魯迅「野草」全釈』、平凡社「東洋文庫」1991. p.51

16) 松枝茂夫訳「且介亭雑文二集序言」、『魯迅選集』第 11 巻、岩波書店 1956 年 初版、p141.

17) 片山智行訳『魯迅「野草」全釈』、平凡社「東洋文庫」1991. p.86.

18) 増田渉訳「私と语丝との関係」、『魯迅選集』第 8 巻、岩波書店 1956 年初版、

(21)

p.112.

19) 増田渉訳「青年必読書」、『魯迅選集』第 6 巻、岩波書店 1956 年初版、p.91.

20)

  张弛《青年必读书事件中的鲁迅与梁启超》,

《中国现代文学研究丛刊》2015

年第

9

期,p.169.

21)

  沈従文《怎样办好一份报纸》,沈従文文集第十二巻 p.201. 三联书店香港分店,

1985

1

22)

  李斌《沈从文画传》,江西人民出版社,2015年

5

月、p.28.

23)

  王保生《寂寞寻梦人 沈从文》中国社会出版社,2013年

12

月 p.42.

24)

  沈从文《二十年代的中国新文学》,

《沈从文别集 自传集》岳麓书社,1992

12

月、p.215.

25)

  张新颖《沈从文的前半生》,上海三联书店,2018年

2

月 p.49.

26)

  李辉《现代文人与副刊》、副刊文丛《副刊面面观》大象出版社 2017年

1

月,

p.81.

27)

  冯并《中国文艺副刊史》华文出版社 2001年

5

28)

  徐鹏绪ほか《中国现代文学文献研究》,中国社会科学出版社 2014年

8

月 

p.328

29) “副刊文丛”集萃百年报纸菁华梳理文化脉络、新浪读书 2017 年 1 月 16 日.

“副

刊文丛”は《阿 Q 正传》丁聪画,新编精装插图本ほか第二辑計 10 種が 2018 年刊 行された。

参照

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