シュウォッブの少女,
あるいはマリオネットの意志
川 本 恭 久
はじめに
マルセル・シュウォッブ
(Marcel Schwob 1 867 - 1905 )
のいくつかの作 品ではまだ成長しきっていない少女が重要な役割をあてられている.そし てその少女たちには共通するある要素が与えられているように思われる.シュウォッブは『二重の心』
(Cœur double, 1891 )
の序文で恐怖と憐憫 について,『黄金仮面の王』(Le roi au masque d’or, 1892 )
の序文では類似 と相違について語っている.相反するものの一致,あるいは相反する二極 に引き裂かれてしまったものに対する深い関心がシュウォッブにはあっ た.しかし恐怖が極限にまで達して憐憫にいたる瞬間など誰が知っている のだろうか?同じと思っていたものが別々のもので別だと思っていたもの が一つのものだったというような世界はもはやナンセンスの領域に足を踏 み入れているのではないだろうか?そこでシュウォッブの少女たちは現れてくるようである.世界がナンセ ンスによって解体されようとするそのぎりぎりの境界に,何も知らず未成 熟な彼女たちがいる.子どもから大人の女性へと変わろうとしてまだ変わ りきっていない、十四五歳位の少女が主役となるのだ.少女の持つ曖昧さ が作品の世界に現れる境界の曖昧さと重なり合い,シュウォッブの作品で はますます物事の輪郭がぼやけて行く.
少女たちは一体何者であろうか?何人かの少女はまるで存在しなかった ように消えてしまう.彼女たちに作者シュウォッブは何を託そうとしたの だろうか?確かにシュウォッブの描く少女は捉えどころのない者が多い が,それでも少女たちには重要な共通点があり,それを分析して,おぼろ げにでも,シュウォッブの少女像と呼べるものを提示することができれば,
シュウォッブ作品に新たな光りを当てられるであろう.
そこでシュウォッブの作品における少女の持つ特性について考察するの であるが,まずはじめに少女ではないのだが「話す機械」
(La machine à
parler)
1) に現れる女についてみていこう.この短篇のテーマと女の関わり は少女について論じる際にいくつかの手がかりを与えてくれ参考となるで あろうからだ.少女たちと少女でないこの女との比較はシュウォッブの少 女の特性をより鮮明にするであろう.シュウォッブの作品においてその登場人物に対し何者かと問うことは空 しい行為かもしれない.それは彼の作品が,人は何者かであり得るのか,
人は何者かでなければならないのか,という問いから出発していることが 多いように思われるからである.そしてその中でも特に少女たちは繊細で はかない存在として描かれているようである.しかしだからこそ敢えて少 女たちは何者なのかと問いたいのだ.なにも彼女たちがどこから来て,い つもは何をしていて,どこに行くのか,を知りたいのではない.ただ,彼 女たちはなぜそこにいるのか,を知るためである.
1:「話す機械」のなかの女の役割
「話す機械」は人間のものであるはずの言語を機械に与えようとした男 の破滅の物語である.物語には語り手である〈私〉と語り手がたまたま出 会った奇妙な男,男が作ったという言葉を発する声帯のお化けのような機 械,そして機械を操作する女が登場する.〈私〉はここではあくまで語り 手としての役割以上の働きをしないただの傍観者である.奇妙な男とその 機械はこの物語の主人公である.ではピアノのような装置を操作すること で機械を動かす女は物語の中でどのような役割を受け持っているのだろう か?
「これが,と男は痩せていて,ゆがんでいて,神経質な小さな女の肩 に手を置いて言った,私の機械の鍵盤を操る魂です.」2)
彼女は物語の中に唐突に登場し,いつの間にか姿を消している.機械の前 に座って男の命令通りに操作し,機械が壊れると彼女もいなくなっている.
その間一言も発せず意志らしいものも示さない.
短い作品なので,彼女が登場しなくても物語は何ら影響を受けないであ ろう.男がみずから機械を操作しても問題はない.ところがシュウォッブ はここに女を登場させた.しかも「痩せていて,ゆがんでいて,神経質な 小さな女」と描写する.この女にシュウォッブは何を託そうとしたのか?
彼女は一体何者であるのだろうか?
「ゆがんでいて」と訳した
contrefaite
は奇形と訳した方が良いのかもし れないが,具体的な記述がないので,女のみすぼらしく不健康な印象を強 調する意図で用いられたものと解釈して視覚的に訳したのだが,動詞contrefaire
には,偽る,まねる,といった意味もあることを想起する必要があるだろう.機械が話す言葉は本当に機械の言葉であるのか,それとも
〈偽り〉のまがいものにすぎないのか,という作品の核心的な問題に沿っ て考えたとき,作中の謎の女に対して
contrefaite
と形容が為されたこと は見過ごせない問題である.つまり彼女は男のゆがんだ妄想が生み出したまがいものであるところの 機械が人格化された存在と解釈することも可能なのである.男の住居で圧 倒的な存在感をみせる巨大な機械に対して肉体的にマイナスのイメージし か与えられていない彼女の存在は,実は機械の内に隠された病的な部分を 表しているのかもしれない.だが巨大な機械とその人格化である卑小な女 という単純な図式だけではこの作品は解き明かせない.
物語の発端で語り手である〈私〉の注意をまず惹きつけるのは男の慌た だしく押し殺した声の調子だった.そして言葉と言葉の間の沈黙はかすか に何ものかと共鳴するかのような震えを伴っている.男のこの奇妙な声の 調子は,やがて物語の結末で機械が壊れた後,男の声が失われていること からもより明らかになるが,男と機械が少なくともその声帯だけに限って は一体であることを暗に示している.男は機械に言葉を授けるために自身 が言葉を失っていっているのだ.機械が機械の言葉を創造することを目的 として発明されたものである以上,自身の声を与えた男とその機械との関 係は分身と言っても良いほど緊密なものであるはずだ.ならばその男に命 じられて機械を操る女と機械との関係はどうであろうか?あるいは男と女 の関係は?そもそも男と機械の緊密な関係の中に女はどのような位置を占 め得るというのか?
「これが私の機械の鍵盤を操る魂です」と男は言った.男は機械は作っ たが魂を吹き込むのはこの女の役割のようである.自分の声を失ってまで 男は言葉を話す機械を作ろうとした.しかし肝心のところでなぜか他人の 力を借りなければならないのである.男は装置を作っておきながらそれを 意のままにできないのだ.女がいなくては機械は動かない.彼女こそ機械 の動力であり
,
言葉を生む魂であった.シュウォッブの言葉に対する,そしておそらく生に対する考えがここに 如実に現れているとみるべきであろう.機械は音を再生することはできて
も,ついに自らの言葉を発しはしないのだ.言葉を生むものは声帯でもな ければ空気でもない.それは魂である3).問題となっているのは思考でな いことに注意しなければならない.機械はやがて自身で思考し,自らの意 志に従うかもしれない.だが音声ではなく言葉を手にすることはないだろ う.それがシュウォッブの考えであるようだ.男が機械に同化していき言 葉を失っていくのは魂の問題なのだ.機械が人間同様に言葉を発するよう になるとき,機械と人間との境界は消滅しているだろう.その場に応じて 言葉を選び,感情に合わせて声の調子を変える存在に接して,人はそれを 機械とは呼ぶことができないであろう.逆にだんだんと話し方が機械のよ うになっていく男が人間として何かを失いつつあると推察するのは容易で ある.だから男は機械を動かすために女を必要とした.
「これが魂です」.それにしてもなんとみすぼらしい魂であることか.奇 妙な物語である.機械に言葉を与えることによって神にとってかわろうと する誇大妄想狂的な男が主人公ながら,舞台となるのは町外れのうらぶれ た男の住居の一室であり,侘びしい.さらに機械は神に挑もうとする男の 意気込みに反して,いともあっけなく壊れてしまう.ただの変人によるド タバタ喜劇のようでさえある.都会の生活からあぶれたエキセントリック な男のどこか侘びしい話といった趣向だ.だがここにはシュウォッブにと って決しておろそかにできない問題である言葉というものが中心に据えら れている.当時の技術が可能にしつつあった発明や進歩の問題などはどう でもいいのだ.要は言葉なのである.そして機械を実際に操作して言葉を 与える女こそ,実は言葉の魂なのであろう.彼女は男の魂でもなく機械の 魂でもない.物語の侘びしい雰囲気にあわせるかのように彼女もみすぼら しいなりをしている.この作品には気高い存在の気配すらない.それでも 弱々しい魂は物語の最後で機械を壊し結果的に男の声も奪う.冒涜的な言 葉を発するよう命じられて機械は壊れる.機械が壊れるようにしたのはど うも女のようであり,彼女はここでは言葉と等しいのである.
シュウォッブにとって言葉は魂に等しい.しかしその魂は決して偉大で 崇高なものである必要はなかった.ヴィヨンの研究から始まり盗賊たちの 使っていた隠語などに非常な関心を示したシュウォッブである4).また海 賊や売春婦などの裏街道の人物を好んで描いた作家である.限られた世界 でしか通用しなくてもそこに様々なドラマがこもっている言葉を彼は探求 した.彼が愛したのはとにかく生き生きとした言葉であった.その魂が
「痩せていて,ゆがんでいて,神経質な小さな」魂であったとしてもシュ
ウォッブは十分にそれを愛するだろう.
機械を壊し,男を破滅させたのは強大な神の鉄槌ではなかったに違いな い.破滅の一撃を与えたのは小さな女であった.偉大ではない,みすぼら しい魂にもそれくらいの力は秘められている.それはどこにでも宿るであ ろう.痩せていようが,卑しかろうが,あまねくそれは宿るのである.だ から物語の最後で彼女が神の言葉の化身として崇高な存在に転身したわけ ではない.彼女は小さな女のままだった.そして何処ともしれず姿を消し てしまう.シュウォッブの作品に出てくる多くの女性がそうするようにい なくなってしまうのだ.彼女はどこに行ってしまったのだろうか?
2:少女が向かうところ
シュウォッブの作品に出てくる少女はしばしばどこかに消えてしまう.
「青い国」
(Le pays bleu)
5) のマイという少女もそうだ.彼女はミシェルと いう男の子とともに青い国へ旅立つ.青い国と行き先が示されてはいるが,それは少女の好きなおとぎ話の中の世界であって,やはりどこに消えたの か定かではない.だがこの作品の少女マイは「話す機械」の女と違ってよ く喋る.それが〈少女〉の特権なのだろうか?「話す機械」の方はただ
〈女〉であったのがマイは明らかに子どもっぽさを残す少女として設定さ れている.それがマイの快活さにつながっているのかもしれない.彼女は 鏡や栗や部屋など何にでも話しかける.そして生き生きとして自らの意志 で青い国へと旅立つのだ.さらに「話す機械」の女が外見的にも否定的な 形容しか与えられなかったのに較べ,マイは同じように痩せて小さいなが ら,肩まで垂れるさらさらの金髪を持っており,そして眼は満足感できら きらと輝いているのだった.マイの子どもっぽい活発さと満ち足りたその 瞳によって「青い国」は幸福感を感じさせる作品となっている.異常さが 満ち,侘びしかった「話す機械」とは明らかに違う.それはマイが少女で あることによる部分が大きいような気がする.彼女の金髪と瞳はその証な のであろう.なのにマイはどこかへと消える.やはり忽然と消えてしまう のだ.
二つの作品には共通点もある.先に述べた通り二人の女性はともに痩せ ていて小さい.マイの肌は飢えによって不健康な色をしている.どちらも 肉体的に不健康な特徴を示しているのだ.それと舞台となる場所がうらさ びれた感じのする点もまた共通する.「話す機械」の男の家があるのは場 末であった.「青い国」でマイの家があるのは再び辿り着くことが不可能
のような田舎町で町並みは古く静まりかえったところである.両作品とも 華やかさとは無縁の世界である.そして場末であろうと古びた田舎町であ ろうと何らかの生活感が漂っていそうなものなのに,まるで人里離れた荒 野が舞台であるかのように限られた登場人物以外の人々の気配はない.ど ちらも見捨てられた掃き溜めのような世界に生きる弱々しく小さな魂の物 語なのである.
「青い国」の舞台となる世界をもう少し詳しく見てみよう.
「雨は彫刻を施された杭を伝い,雨だれは同じ箇所に同じ音をたてて 落ちている.」6)
この世界を支配しているのは雨がもたらすじめじめとした暗さと単調さ である.陰鬱な町の光景にあって,その単調さをかき乱すのはただ木蔦と 苔だけしかない.単調な町並みに単調な雨だれだけが響く沈んだ世界.だ がその世界の裏側には何かが息を潜めている.
「そこにはまた,戸口にとりつけられた赤いランプがあり,錫製の燭 台に立てられた細い蝋燭や,硫黄マッチの箱や埃と影に遮られた小さ なガラス窓があって,その窓のかげにはかつて緑や青の溶液が容れ られていた不思議な小瓶がいくつもあった.窓にはギャザーのはい ったナイトキャップが揺れ,そして時には子どもたちの青白い顔や,
操り人形だとか木でできた鵞鳥とか何色もの色が使われている鞠な んかをいじるかぼそい指が見えることもあった.」7)
ランプや小瓶や派手な鞠などの,本来なら暗く沈んだ世界を暖かく照ら すことができるはずの小物がごたごたとここに眠っている.なのにそれら は臆病な小動物のように影や窓の向こうでこっそりと隠れてしまっている のだ.すべてのものが息を殺して静まりかえっている暗く単調な世界が
「青い国」の舞台である.この風景はシュウォッブの作品に繰り返し描か れる.『モネルの書』
(Le livre de Monelle, 1894 )
においても『木の星』(L’étoile de bois, 1897 )
においてもそうだった.必要以上に何かを警戒して 怯えている風景.その中でマイの瞳だけが満足感をあらわにして輝いてい る.なぜこの栄養も不足して痩せこけた少女は目を輝かせて生き生きとし ているのだろうか?貧しく食べるものすら欠いているのに彼女は快活に自分の周りにあるす べてのものに話しかける.それが鏡でも水差しでも部屋であってもお構い なしだ.彼女の部屋にはミシェルというみなしごも一緒に住んでいる.こ の醜くく,せむしの男の子は作品の中では一言も話さない.話すのはいつ もマイである.部屋で内職の縫い物をしながら彼女は手当たり次第に話し かけ,物語の語り手には,以前彼女が男の子たちと各地を転々としている ときに演じた〈青い国〉という芝居の話をする.そのとき一緒だった男の 子たちは盗みをして捕まってしまったという.そして今の彼女はどうやら 街角で客を引く娼婦を生業としているようだ.語り手も彼女に突然手を取 られて部屋まで連れてこられたのだった.
まだ子どもであり快活な彼女であるが,盗みをしながら放浪する一団と 共に行動してきて,今は今で客を引いて暮らすという,かなり厳しい生活 をしてきたのだ.だがシュウォッブは彼女について次のように記す.「彼 女は善も悪も知らなかった」と.マイの瞳の輝きの秘密はここにあるのだ ろう.無垢であることこそ,暗く沈んだ世界の中でも輝いていられる秘密 であったのだ.盗賊団と一緒に旅をして,街角で男を誘う少女が無垢であ り得るのかという疑問もあるかもしれない.しかし汚い世界に生きながら もなお善悪の区別を知らないところにこそマイの貴重さがあるのではない だろうか.汚れきった体の少女の魂が雨と影に閉ざされた世界の中で輝く.
壊れた鏡や欠けた水差しや汚い部屋までも輝かせてしまう.何が善で何が 悪かという固定した判断を下さない彼女しか持たない力があるのだ.
「話す機械」の小さな女も,おそらくは無垢な魂の持ち主だったのだろ う.無垢な魂だからこそ機械に働きかけ操作することができたのだ.マイ が周囲の無機物に話しかけたのと同じように,彼女も機械に接したのであ ろう.彼女たち無垢な魂の持ち主たちはそうして閉ざされた世界に働きか けるのだ.人々が怯えきって隠れてしまっている世界で彼女たちだけが現 状を何とかしようとする.そして暗く単調な世界において嫌でも際立って しまうその無垢さゆえに彼女たちはどこかに行ってしまうのだろう.世界 は善と悪といった対立で満たされ支配されている.そこは彼女たちのいら れる場所ではないのだ.人々はすべてを善とか悪とかに決めつけたがり,
マイのように青い国を信じ続けることはできない.だから彼女たちは行っ てしまう.どこにというあてはないはずだ.そもそも彼女たちが居続けら れる場所などないのかもしれない.彼女たちはたださまよい続けるしかな いのだろう.
3:シュウォッブの作品における愛の一例
男性にとってマイのような女性はどうなのであろうか?「青い国」の語 り手はマイの客であるが,彼女の内面にまで踏み込もうとはせず客観的に 語る.おそらく彼にとってもマイの突然の消失は不可解な出来事であった に違いない.「話す機械」の語り手と狂った男の二人ともが女と心を通じ あっていなかったのと同様である.一言も語らなかった小さな女の心こそ が謎であった.男たちは初めから彼女の心を忖度しようとすらしなかった のではないか?語り手は異様な機械と男の狂った論理に気を取られすぎて 女の内面にまで注意がいかなかった.男の方は機械に言葉を語らせること に夢中で女はそのための道具ぐらいにしか考えていなかったのだろう.機 械がついに爆発してしまった後,男は完全に正気を失い,語り手は呆気に とられるしかなかった.そのときはじめて彼女がいなくなったことに気づ いても遅すぎた.男たちと彼女はついに心を交わらせることなくはぐれて しまったのだ.
目の前に追求するべきはずのものがありながら,全く別の方を空しく進 んで行く人間の哀れな姿をシュウォッブはいくつかの作品の中で描いてい る.『モネルの書』に収められた「夢想する娘」
(La rêveuse)
には慕って くる男性がいるのに夢想にふけるあまり幸せを逃がしてしまう少女が出て くる.そのまま年老いてしまった彼女が夢想の源であった壷を叩き割ると 中から干からびた薔薇の花が出てくるが,手にした途端粉々になってしま うのだ.この話の男性と女性の立場を逆さにした形なのが『架空の伝記』(Vies imaginaires, 1896 )
の「パオロ・ウッチェルロ」(Paoro Uccello)
で ある.そしてウッチェルロの物語は「夢想する娘」よりもさらに深く問題 が掘り下げられ,空しさが強調されている.それは「夢想する娘」が,現 実を受け容れようとせず幸せだった幼年時代の世界からいつまでも抜け出 ようとしない少女と,通常の現実の世界との間にできた溝というありきた りな構図しか描いていないのに対して,
「パオロ・ウッチェルロ」では二つ の,理解し合うことのできなかった,ともに個性的な魂の両者に作者が共 感を抱いて描いているからのように思われる.それは十五世紀イタリアの画家パオロ・ウッチェルロ
(Paolo Uccello,
1397 - 1475 )
の物語である.ウッチェルロは「事物の現実性など少しも気に かけず,線の多様性や無限性に気を配る」8) 画家であった.そして遠近法 での描写にのめり込み世界を遠近法で表現しようと様々な試みをする.幾 何学を勉強し建築の研究をし,また「あらゆる動物とその動作や人間の仕草を単純な一本一本の線に還元するため」9) の努力もした.彼は錬金術師 が様々なものの混合物から金を抽出する要領で「すべての線をして理想的 な唯一の相に変容させられる」10) と信じているのだ.画家は線の研究に熱 中するあまり食事など日々の生活には無頓着になってしまっていた.そん な彼が偶然セルヴァッジャという名の十三歳の少女と出会う.セルヴァッ ジャはフィレンツェの染め物師の娘だが母を亡くし,その後家に入り込ん できた女に折檻されたので家を飛び出してきたのだ.牧場でウッチェルロ と出会ったとき彼女は頭に花飾りをして上品な服をまとい笑っていたのだ が,画家はそんな彼女をすら絵のモデルとしてしか見ず,線や幾何学的な 図形に置き換えてしまう.一方でそんなことは全く知らないセルヴァッジ ャはウッチェルロの手をとり,彼を愛した.
だがウッチェルロの家でセルヴァッジャが暮らすようになってからも画 家は線の研究にしか興味を示さない.セルヴァッジャには画家が線ばかり 見ていて,どうして自分の顔を見ていてくれないのか理解できない.画家 は彼女を描くにしても,動物の動作や光の線など彼が日頃追求しているも ろもろの形態と一緒くたにしてしまう.彼はセルヴァッジャの肖像を描こ うとさえしない.
「そしてセルヴァッジャを思い出しもせず,ウッチェルロは形態の坩 堝の上に永遠に身をかがめているようだった.」11)
やがて画家の家の食料は尽き,セルヴァッジャは死んでしまう.だが画 家はそれでも死体となった彼女を線で描写するだけだ.
「彼は彼女が生きていたのかどうかを知らなかったのと同じく,彼女 が死んだということを知らなかった.」12)
この男と女の関係は一体何だろう?セルヴァッジャはウッチェルロを愛 している.なのに男は女が生きていたかどうかも知らないのだ.「話す機 械」や「青い国」の場合とは比較にならないほど,二人の魂は隔絶してい る.「夢想する娘」の主人公が自分に恋する青年を拒絶するのに対し,ウ ッチェルロは相手を前にしながら,それが何なのかさえ識別できない.ウ ッチェルロは完全に現実を見失っている.またセルヴァッジャの方もウッ チェルロの考えを理解できない.なのに彼女は画家を愛しているのだ.い
つかは画家が彼女のかわいい顔に気づいてくれる日が来ると信じているか のように.だが画家は彼女を思い出しもしない.彼が何を凝視し何を描い ているのか誰にももはや理解できない.年老いた画家は自身が最高傑作と する作品を描くが,それをみた友人には狂気の産物としか受け取られない.
死の床ですら彼は意味不明な線の連なりでしかない絵を握りしめている.
互いの理解は完全に断ち切られている.画家は少女をモデルとし,少女 は画家を愛しているのに,なぜこうまで二人は通じるところがないのだろ うか?これがシュウォッブにとっての愛の形なのだろうか?
互いの交流ということでは「青い国」においても奇妙な形を示している.
マイという少女はよく喋る.だが作品において語り手とマイの会話は一箇 所もないのだ.ただひたすらマイが話し,語り手はそれを聴いているだけ である.ミシェルという少年も登場するが彼ともマイは会話をしない.た だマイが話すだけなのだ.そのとりとめもない言葉を聞いて何とか彼女を 理解しようとするが,すぐに彼女は消えてしまう.シュウォッブの愛はど こまでも不可能なのだろうか?目の前にいても話しかけられず,捉えよう とすると消えてしまうものなのだろうか?
マイとセルヴァッジャでは性格が大きく異なっている.饒舌なマイに対 しセルヴァッジャは黙ったまま死んで行く.マイが青い国を目指してどこ かへ行ってしまうのに,セルヴァッジャは飢え死にするまでウッチェルロ の傍らでじっとしている.この違いはおそらく二人が何を想っているかに かかっている.マイはあるかないかわかりもしない〈青い国〉にこだわっ ている.それは男の子たちと旅をしていた頃の思い出に由来する.楽しか った思い出である.そこに行けば幸せになれると信じているのだ.暗く湿 った耐え難い現実を紛らわそうとするかのようにマイは思い出を語り想像 の世界について話す.セルヴァッジャの方はと言えば,彼女が求めたもの をすでに手にしている.彼女はウッチェルロを愛しているのだ.だからあ とは彼女はウッチェルロが自分の存在を認めてくれるのをじっと待ってい るだけでいい.
ありはしないだろうものをいつまでも空しく追い続ける少女と,求める ものを手にしながらどうすればよいのかわからない少女.立場は正反対な のにどちらも満たされはしない.この満たされない感覚はシュウォッブの ほとんどの作品に共通のものであるだろう.それは「夢想する娘」の砕け 散る干からびた薔薇の花やウッチェルロが死の床で手にしている意味不明 の線の連なりを示した紙片に象徴されている.だがマイの青い国や砕けた
薔薇が表す過去の思い出を取り戻す試みが水の泡となるのはともかく,ウ ッチェルロを前に彼を愛するセルヴァッジャの想いが届かず,一生をかけ て研鑽したウッチェルロの画業が辿り着いた先が意味を為さない線だった というのはどういうことだろう.夢想や追憶ばかりか現実もまた空しいと いうことなのか?
4:〈マリオネット〉としての女性について
ウッチェルロとセルヴァッジャの間を隔ててるものは何なのか?画家の 横で自分の顔に目を向けてもらうのを期待しながら少女が死ななければな らない理由は何なのか?
「愛」
(L’amour)
13) と題する会話形式のエッセーをシュウォッブは書いている.ギリシャ哲学の研究家やドストエフスキーの愛好家,論理学者,エ ゴイストたちが愛の対象としての女性を論じるという設定である.しかし この討論は女性をめぐるものではない.あくまでも愛の対象としての女性 が問題とされる.したがって女性がどうあるべきかよりも,それぞれの発 言者が女性に向かって求めるもの,各自が女性に与える役割が論じられ,
理想の具現化されたものとしての女性像が語り合われる.つまりここでの
〈女性〉は生身の女性からはどんどん乖離して,会話の中で何度となく用い られる〈マリオネット〉という言葉と同義になって行くものなのである.
〈マリオネット〉というとピュグマリオンコンプレックス的な人形愛が 連想される.ピュグマリオンは彫刻家で自分が作った像に恋をする男であ る.彼の恋は激しくそのあまりウェヌスに彫像そっくりの女性を与えてく れるように願いそれが叶い妻として迎えるのだ.ピュグマリオンの物語で は何よりも人形が先にある.ピュグマリオンは愛する女性の似姿を像に刻 んだのではない.彼は人形そのものを愛した.ウェヌスが彼に授けた女性 はその代替物でしかなかった14).
「愛」の中で問題とされる〈マリオネット〉はどうであろうか?それも やはり男のやや常軌を逸した愛が生み出したものであるということでは共 通する点があるかもしれない.シュウォッブの〈マリオネット〉の場合,
まず男性が心に描く理想の女性像がある.それを生身の女性に投影して理 想へと近づけて行こうとするのである.その理想に近づけられたものが
〈マリオネット〉としての女性なのだ.だからエッセーの中の架空の会話 者たちが愛するのは,生身のあるがままの女性でもなければ,ピュグマリ オンが刻んだような像でもない.自分たちの心の裡にだけ住む理想の女性
なのだ.エッセーの最後に語られるトラキアの王の逸話がすべてを表して いる.王は自分の妄想が生み出した妃と結婚して祝宴を催したのだ.王の 心の中にしか存在しない妃なのに祝宴は実際に行われるのだ.王の結婚相 手は,神々しいばかりに美しく,王の思いに逆らうことのあり得ない最高 のマリオネットなのである.
このエッセーで〈マリオネット〉という語が何から引き出されたかとい うと,ペドロ親方の人形劇を現実と混同して劇と現実との境界を引き裂い て行動するドン・キホーテの話からであった.ドン・キホーテは人形たち の虚構の世界に現実の側から介入しようとする.トラキアの王は現実の世 界に自分の妄想が生んだ虚構の妃を持ち込もうとする.〈マリオネット〉
はドン・キホーテの場合もトラキアの王の場合も,虚構と現実の境をかき 乱すものである.〈マリオネット〉の存在によって男たちは境界を見失い
,
現実なのか虚構なのか定かでない曖昧な領域へ踏み込んで行く.では愛さ れる側の女性は〈マリオネット〉として現実と虚構の境界でどちらにも属 さないものとしてさまよっているしかないのであろうか?
「愛」と同じ機会に書かれた「芸術」
(L’art)
15) というエッセーでは,ロ ーマの墓地に集まったルネサンスの詩人や画家の亡霊たちが語り合うとい う設定で,自分たちの芸術に影響を与えた女性たちについて述べられる.「愛」でどちらかといえば男性の妄想が生み出すものとして語られていた 女性が,「芸術」の方では男性の想像の世界に影響を与える存在としての 側面に重点を置いて語られる.ただここでも女性は血の通った生身の存在 としては重視されない.それよりも彼女は二度と実際には出会うことが不 可能な対象として,例えば死んでしまったり経済的な理由により思いを遂 げられなかった仲であったりして,現世において到達することの困難な目 標として,芸術家に捉えられている存在なのだ.
それは女性そのものではなく,女性の影みたいなものであるだろう.ト ラキアの王は存在しもしない女性を生み出し追い求めたが,芸術家たちは 消えた女の残像を,やはりそれも存在しないのではあるが,追い求めてい る.そして芸術家たちにとって女性の影が,本来の対象であるはずの女性 そのものとは完全に切り離され一人歩きを始めるのだ.エッセーの中でサ ンドロ・ボッティッチェリ
(Sandro Botticelli, 1445 - 1510 )
の霊は自分の 師匠であるフラ・フィリッポ・リッピ(Fra Filippo Lippi, 1406 - 1469 )
の 霊を次のように非難する.「あなたは自分が望む女性たちを我がものにできなかったときに,彼 女たちを描くことに夢中になり,そしてあなたの情熱は,フレスコ 画の画面に彼女たちを描きあげたとき,失せてしまうそうではない のですか?とボッティッチェリは続けて言った.」16)
愛した女性を描いたとフラ・フィリッポ・リッピは言う.だがその愛は 死んだ女性を愛したダンテのそれと変わりないとボッティッチェリは指摘 する.シュウォッブのこのエッセーに現れる芸術家たちは女性を詩や絵画 に写すとき,彼女の裡に何かを見てしまうのだ.その何かとは?それは失 われてしまったものであるということ,またはもう決して手にはできない ものであるということである.それは「夢想する娘」の干からびた薔薇に 近い.失われてしまったものに対する満たされない思いこそがこのエッセ ーの中心となっているのだ.それも失われた過去を懐かしむ想いではない.
そこにあるべきものが失われてできた空白を愛しているのだ.少なくとも フラ・フィリッポ・リッピの場合はそうだ.永遠に失われているからこそ 気高い.ここにおいてフラ・フィリッポ・リッピはトラキアの王に接近す る.居もしない妃を存在するかのように見せかけようとした王と,モデル の女性を描くとみせながら失われたものを描こうとした画家との隔たりは 僅かしかない.
二編のエッセーでシュウォッブは女性について語っているようで,その 実女性以外のものについて語った.それは男たちの屈折した魂である.彼 らは女性を通して,各自がつくり出した〈マリオネット〉をみている.あ るいは画面上に理想的にモデルを定着させた途端,その原型である生身の 女性への興味をなくしてしまうフラ・フィリッポ・リッピのように,失わ れるべきものばかり追いかける.そこには血の通った女性はいない.屈折 した男の魂の産物があるだけだ.
「話す機会」の小さな女を思い出してもらいたい.彼女は「痩せていて
,
ゆがんでいて,神経質」だった.ゆがんだ,屈折した男の魂と彼女は一致 する.ルネサンスの巨匠たちは彼女のようなみすぼらしい女をモデルとは しなかっただろう.それでも彼女は画の中のたおやかな乙女たちの同類な のである.
マリオネットを作り上げようとした男たちやフラ・フィリッポ・リッピ と同じ動機によって,ウッチェルロはセルヴァッジャに目を向けず思い出 しすらしなかった.ウッチェルロが幾何学や遠近法を研究して追い求めた
もの,彼にとってのマリオネットとでも言うべきものは,ありとあらゆる ものが還元された線であった.花飾りを頭にのせ上品な服に身を包んだセ ルヴァッジャがほほえみかけても無駄なのだ.画家が心に思い描く像は,
愛らしい十三歳の少女とは大きくかけ離れた,他人には意味不明なもので しかない.その意味不明な像こそウッチェルロにとっての〈マリオネット〉
なのであって,それは決してセルヴァッジャには満たせないものであった.
彼はセルヴァッジャを思い出さない.彼女の死後,永遠に失ってしまった 後でも,セルヴァッジャを取り戻すための努力も一切しない.彼女が生き ていたのか死んでいたのかすら知らない画家にはそもそも彼女を失ったと いう感覚を持ちようもない.
ウッチェルロとセルヴァッジャは二つの違う世界に暮らしている.同じ 時間に同じ空間にいながら,二人は全く別の世界に住んでいたのだ.ウッ チェルロはセルヴァッジャの住む世界を識別することもできない.セルヴ ァッジャにはウッチェルロの頭を占めている計算や線で満たされた世界を 理解できない.
これがシュウォッブの考える現実のありようであるなら,彼の作品に満 たされない想いが多く描かれるのも納得が行く.各人が各人の〈マリオネ ット〉を追い続けているかぎり,彼らは自分たちの目の前に立っているも のも正確に見極められないのだ.ウッチェルロでなくても,それがトラキ アの王でもフラ・フィリッポ・リッピでも,セルヴァッジャの愛は満たさ れることがなかったであろう.
この屈折した魂が生み出したゆがんだ世界を打ち砕くものは何かないの か?あるいはそれが無垢な魂の役割なのかもしれない.世界が暗く湿って いるのにそこから離れられない男を置き去りにして青い国へと軽やかに行 ってしまうマイこそ,その可能性を秘めているのではないだろうか?
5:シュウォッブの思い描く本当の世界
だが少女がみな無垢で,ゆがんだ妄想がすべて男の専有物というわけで もない.『モネルの書』の「願いが叶えられた娘」
(L’exaucée)
や「自分を 犠牲にした娘」(La sacrifiée)
,それからすでにみたように「夢想する娘」なども男たち同様,屈折した魂で自分だけの世界を作ってしまう.そのほ かにも「ミレトスの娘たち」
(Les milésiennes)
17) の少女たちも永遠に美し くありたいという思いが強すぎるばかりに,ゆがんだ眼差しで物事を判断 し,次々と自殺して行く.それは未来の像を映す鏡を見たせいであった.今の美しい姿があるのに,未来の,実際には存在しない像にとらわれ彼女 たちは死んで行く.今の自分でないもの,つまり永遠に老いることのない 自分を求める彼女たちは,今の自分が決して手にいれられないものを求め る男たちに似ている.物語の最後,ほかの娘たちと同様に自殺した娘を,
一人の少年が愛撫し,彼女の目にくちづけする.未来の像など問題ではな く現在の美しさを単純に賛美することをこの少年は知っていて,実行して いるのだ.この場合無垢な魂を持っているのは少年である.だが少年か少 女かは僅かな違いでしかないのであろう.まだ成長しきっておらず,中性 的な雰囲気があり,そしてなにものにもとらわれないこと,何かに固定さ れていないことが問題なのだ.
あるがままを見る.それもまた無垢な魂にシュウォッブが託した役割の 一つである.少年は自殺した娘の美しさを素直に愛した.ただそのことが できない人間が多すぎる.妄想や思いこみによって見る必要のないものま で見てしまい,例えば「ミレトスの娘たち」では未来の老いた自分の姿を 娘たちが見てしまい,その結果
,
世界はゆがめられ相互理解が困難になる.ゆがめられた世界.それは「話す機械」では機械が生み出す言語であっ た.「青い国」ではすべてを暗く閉ざしていた雨であった.「パオロ・ウッ チェルロ」では画家の描く線であった.「ミレトスの娘たち」では未来を みせる鏡であった.それらがあるがままの世界を覆い隠してしまう.
覆い隠されているあるがままの世界とは,少女たちの住む世界である.
それはほかの人々の世界と共にある.セルヴァッジャがウッチェルロと共 に暮らしていたのと同じように.少女たちの無垢な世界とゆがめられた世 界は全く別の次元にある相容れない世界ではないのだ18).そして少女たち の魂は,「話す機械」の発明にとり憑かれた男やウッチェルロのような者 たちの魂も包み込むのである.なぜなら彼女たちは善も悪も区別しないか らだ.あるがままの世界は桃源郷ではない.あるがままの世界はゆがめら れた世界と同じ世界なのだ.「青い国」のマイは汚辱にまみれている.と 同時に彼女は無垢で清らかな存在でもあるのだ.
「ミレトスの娘たち」の少年はそのことを知っているのだろう.だから こそ少年の接吻は美しい.鏡が映す未来の像がどれほど眼を背けたくなる ようなものでもいいのだ.その残酷な像に怯むことなく少年は自殺してし まった娘の現在の美しさを愛したのだ.現実がどんなに残酷に見えても醜 く見えても,そこから眼を逸らしてはいけない.そしてその残酷さや醜さ に惑わされて固定した判断を下してはならない.この少年のようにそれを
乗り越えたとき
,
シュウォッブの描く無垢なるものは,その秘めた力をみせ るのである.世界の終末の風景を描いた「地上の大火」
(L’incendie terrestre)
19) に,海へ逃げて生き残った少女と少年が登場する.最後の避難場所だった海も 熱せられ破滅を迎えようとしていた.
「どうしてこんな何もかもが破滅するのだろう?」20)
二人にはこの世界の破滅が理解できない.やがて地上のすべてを襲った 炎が舟の上の二人も呑み込もうとする.そのとき若い二人は裸になって抱 き合った.「愛し合いましょう」と少女は言い,物語は終わる.
他の人々が理不尽な破滅の炎の前に何もできず絶望するのに反して,最 後まで生気に満ちているこの少女は「青い国」のマイを髣髴とさせはしな いだろうか.
「腐った空気の汚染にも関わらず,彼女はとびきりの金髪で,澄み切 った眼をしていた.」21)
マイも金髪できらきらした眼をしていることが明記されていた.その意 味が「地上の大火」でははっきりする.「腐った空気の汚染にも関わらず」
少女の金髪は輝き眼は澄んでいるのだ.それは地上のあらゆるものを破滅 させるほどの強大な力でも侵犯することのできない領域なのだ.暗い雨の 中のマイの金髪と瞳の輝きも荒れ狂う炎を前にした少女の金髪と瞳の美し さもどちらも無垢なものの証なのであろう.そしてさらに,マイが善悪の 区別を知らなかったように,「地上の大火」の少女と少年は「どちらも,
何も知らなかった」.彼女たちは同じ世界の住人なのであろう.
この無知な少女と少年がどうすることもできない自然界の猛威にたじろ ぐこともなく愛し合う.それは追いつめられた末の自棄による行為ではな い.ここでの二人の抱擁は「ミレトスの娘たち」の少年のあの接吻と同質 のものなのだ.「愛し合いましょう」という少女の言葉は,あの接吻と同 じく確信に満ちている.「青い国」へいつの間にか行ってしまったマイと ミシェルの行為がここにおいて完結した.そして自殺した娘の持っていた 美しさを認めさせようとしたミレトスの少年の愛がここでは抱擁となって 成就した.天変地異による大火で焼き尽くされた世界でシュウォッブの他
の作品にはみられない結末が待っていた.すべてが焼かれてしまったので
,
ゆがめられた世界も燃え尽きたのかもしれない.「どうしてこんな…」と 世界の終わりを前に茫然としながらも,少女と少年は互いの目の前にある 確かなものをはっきりと認めたのだ.
あらゆるものが破滅しようとしている世界で初めて二人は愛し合った.
その結果,世界は救われるのだろうか?この小さな二人が再び地上に生命 を甦らせるのだろうか?それはわからない.わかっているのは二人の乗る 小舟が浮かんでいる海も間もなく火焔に包まれようとして居り,少女が
「愛し合いましょう」と言ったことだけである.おそらく二人には何の目 的もないのであろう.愛し合うのは子孫を残すためだけではないはずだ.
「パオロ・ウッチェルロ」でセルヴァッジャはウッチェルロが自分のか わいい顔に気づいてくれるのをじっと待っていた.ウッチェルロがセルヴ ァッジャのかわいい顔に気づくためには何が必要であったのか?それは画 家が絵を描くためにではなく,ただ何の目的もなしに彼女の顔を見れば良 かったのだ.そうすれば遠近法や幾何学の呪縛が解かれ,画家は少女の美 しさに気づいたであろう.セルヴァッジャも,絵のモデルになりたいから ではなく,ただウッチェルロに愛されたいために死ぬまで待っていたのだ から.
「どうしてこんな…」と理不尽にさえ思われる大火は,しかし少女と少 年の二人にとってなくてはならないものだけを残していた.それは小舟に 取り残された二人のそれぞれ目の前にあるものだった.愛し合うためにす べてを焼き払わなければならないほど世界がゆがめられてしまっているの だとしたら悲しいことである.しかしシュウォッブは,ありとあらゆるも のを失ってもなお愛し合えると考えているのではないだろうか?世界の終 末において「愛し合いましょう」と言う少女は力強くありとあらゆるもの を肯定しているのだ.
おわりに
「話す機械」の小さな女は魂としてそこに存在した.言葉の魂だったの か無垢なるものの魂だったのかははっきりとしない.彼女は本来隠れてい るべき存在だったのだ.それを発明に憑かれた男が引きずり出した.した がって彼女は得体の知れない存在でもある.だが邪悪ではないようだ.と は言え彼女は善や正義とも無縁であるようにみえる.それは正体の知れぬ 謎のような存在である22).
その得体の知れぬ存在により明確な肉づけがされたのが「青い国」のマ イである.「話す機械」の女が男の狂気とは切り離すことのできない存在 であったのとは違い,マイは自身の人格を確立している.生活力のない子 どもであるが男の妄想と共に消えてしまう存在ではない.雨に閉じ込めら れた世界で彼女だけが持っていた目の輝きがそのことを物語っている.だ が善悪の区別を知らぬ無垢な少女のマイであっても,暗く湿った彼女を取 り巻く世界をどうすることもできなかった.マイはミシェルだけを連れて 旅立ってしまった.それでも彼女の金色の髪と満ち足りた瞳は暗鬱な世界 において彼女の無垢さが失われていないことの印となっていた.
「パオロ・ウッチェルロ」のセルヴァッジャになると,得体の知れない 正体不明さはすっかり希薄になっている.セルヴァッジャはフィレンツェ の職人の娘であるという出自も,継母との不仲が原因で家を出てきたとい うウッチェルロの家に来た経緯もはっきりしているからだ.彼女はウッチ ェルロに出会ったとき綺麗な身なりさえしていた.異常さとはおよそ縁遠 い少女である.だがセルヴァッジャはウッチェルロの愛を得られない.そ れがすなわち彼女が無垢でないということにはならないだろう.ウッチェ ルロの世界のゆがみが修正不可能なほど異常であったからなのだ.ウッチ ェルロのゆがんだ妄想に支えられた世界は,雨が単調に降り続く生気のな い「青い国」の町並み以上に変えようのないものであったに違いない.セ ルヴァッジャの特徴はそれでもどこにも行かなかったことであるだろう.
「話す機械」の女もマイもどこかわからない場所に行ってしまったのに,
セルヴァッジャはウッチェルロを見捨てることなく傍らに留まった.その まま彼女は死んでしまう.彼女を得体の知れない存在とさせない要因の一 つである.ほかの少女たちがその後どうなったか不明であるのに対しセル ヴァッジャの物語は彼女の死によって終わる.生身の人間として飢えて死 んでしまうのだ.しかし彼女の本質はマイと同じ無垢な魂であるのだろう.
画家をひたすら愛し,その愛が報われなくてもじっと画家の横に居続けた セルヴァッジャは,画家が代表しているゆがめられた世界に消極的ながら 挑んでいるのだ.
セルヴァッジャが秘めている力をもっと積極的に示すのが「地上の大火」
の少女である.彼女の「愛し合いましょう」という言葉こそシュウォッブ の描いた少女たちのすべてかもしれない.少女たちはその言葉を求めてい たに違いない.機械の話す異様な言葉が,雨だれの単調な響きが,ずっと それを遮っていた.少女がようやくそれを口にするのが世界の終わりに際
してのことなのは皮肉であろうか.否,彼女たちにとって世界が終わろう がどうしようが問題ではない.少女が海の上の,炎に包まれようとしてい る無力な小舟で,「愛し合いましょう」と言う瞬間,少女たちの無垢な世 界は破滅せんとする世界よりも大きく拡がるのだ.シュウォッブの描く少 女は貧弱とさえ言える華奢な体つきをしているのが特徴だった.それはし かし無力さの表れではない.少女たちは世界を呑み尽くそうとする火焔に 匹敵する力を秘めている.その体に不釣り合いな力が少女たちの雰囲気を どことなく得体の知れないものにしているのかもしれない.少なくとも作 中の男たちのほとんどが彼女たちを見誤っている.少女たちの華奢な体が 世界の広がりに拮抗するとは思いもかけないのだ.
少女たちの力の正体は何であろうか?無垢なるものの正体は?それは定 かではない.おそらく少女自身もシュウォッブにもわからないのではない だろうか.しかしシュウォッブはその何だか定かでない得体の知れないも のが,実はごく普通に存在していることを描こうとしていたように思われ る.得体の知れぬ力は飢えた娼婦や家出をした少女の形をとりうらさびし い街角に現れるのだ.少女たちは何者か?それは,一見暗く単調で固定し た観念や思いこみに支配されている世界が自らの裡に秘めている,何かは 定かではないが,輝きを失わないものなのである.シュウォッブは少女を 描くことで現実を肯定したのではないか.偉大さとも崇高さともかけ離れ ているものの魂が持っているありったけの美しさが少女となったのだ.そ れでも少女はやはり得体の知れない存在である.だがその得体の知れなさ はまがまがしいものではなく人々が求めて止まない何かなのである.それ こそ宗教とは関係なくありきたりの世界に現れた無垢な魂ではなかろうか.
そしてその場末の無垢な魂こそシュウォッブの描く少女たちなのである.
注
1 )『黄金仮面の王』所収
2 ) Marcel Schwob, Œuvres, Paris, Belles lettres, p. 248
3 ) シュウォッブは「言葉」(Le verbe)
というエッセーでそのことを述べている
(Chroniques, p 75 -p 78 )
.「言葉」は1891
年の一月にレベヌモン誌に発表され ているが,「話す機械」がエコードパリ誌に発表されたのは同じ年の九月であり,エディソンの声を記録する発明に関するこのエッセーは「話す機械」と密接に 関わっている.
4 ) ヴィヨンと隠語への関心はシュウォッブが 22
歳の時に発表した「フランスの
隠語についての研究」
(Etude sur l’argot français)
からはっきりとしており,それは最晩年まで保たれた.
(Correspondance inédite, p 211 ) 5 )
『黄金仮面の王』所収6 ) ibid, p. 274 7 ) ibid, p. 274 8 ) ibid, p. 402 9 ) ibid, p. 403 10 ) ibid, p. 403 11 ) ibid, p. 404 12 ) ibid, p. 404 13 )『雑録集』所収
14 ) ピュグマリオンコンプレックスについては谷川渥『表象の迷宮』参照
15 )『雑録集』所収.「愛」と「芸術」二篇の書かれた経緯についてはSpicilège, Mercure de France, 1960
のモーリス・セーユの解説に詳しい.
16 ) ibid, p. 650 17 )『黄金仮面の王』所収
18 ) ゆがめられた世界とあるがままの世界の関係についてはジグムント・フロイト
(Sigmund Freud, 1856 - 1939 )
の「無気味なもの」(Das Unheimliche)
が参考 となる.ドイツ語のHeimliche
という「アットホームな」の意味を持つ単語が,親密であるからこそ当然その裡に何かが隠されているものとされ「無気味な」
の意味も併せ持つことが論じられている.(邦訳,『砂男 無気味なもの』種村 季弘訳,河出文庫,
1995
)19 )『黄金仮面の王』所収
20 ) ibid, p. 265 21 ) ibid, p. 263
22 ) この得体の知れぬ存在こそ,アットホームな雰囲気の中に隠されている何か,
であるかもしれない.注
18
参照参考文献