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福島第一原発事故と東日本大震災の記憶を残す活動 : 資料調査・収集現場における空間の考察

著者 深谷 直弘

出版者 法政大学社会学部学会

雑誌名 社会志林

巻 66

号 3

ページ 75‑88

発行年 2019‑12

URL http://doi.org/10.15002/00022510

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1 福島県の現状と原発事故被害

 東日本大震災は何であったのか。福島第一原発事故を含む東日本大震災は人間に何をもたらした のか。この経験をこの先どのように残していくのか。本稿の目的は,このことを筆者らが従事する 震災関連資料の調査・収集現場における空間の特徴から検討していくことにある。

 2011年3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震とそれに伴う津波被害,その後の福島第一原発 事故(以下,原発事故)から8年が経過した。甚大な被害を受けた福島県も現在は,社会インフラ の復旧や放射線量の低減により,居住制限の区域(帰還困難区域・居住制限区域・避難指示解除準 備区域)は段階的に解除され,震災以前に暮らしていた地域で再び生活することがある程度,可能 となっている。加えて,福島県浜通り地区を中心にイノベーション・コースト構想という新たな産 業復興政策も進められている。

 しかし依然として,原発事故は終息しておらず,福島県は復興途上にある。それは放射線量が低 減し,居住可能地域が拡がっているにしても,原発事故前に較べれば放射線量は高く,また生活イ ンフラも十分に確保されていないためである。そのため,住民の避難解除地域への帰還が進んでい るとはいえず,元の居住地に戻らず,別の土地で生活を継続している人も多い。避難解除になった

(なる予定の)自治体は今後,行政区としての存続も危ぶまれている。また,福島県内(特に中通 り地区)に暮らしている人は日々,放射線量を意識しながらの生活を営んでいる。原発事故により,

震災以前にはないものに気を遣う生活は現在も続いている。

 こうした原発事故被害を,舩橋晴俊は早い段階から「一般に個人の欲求充足行為の総体」である

「「生活システム」を支える「五層の生活環境」の崩壊」として捉え,その被害構造を整理している

(舩橋2014:62)。五層の生活環境は具体的に①「自然環境」(山・平野・河川・海・森林・動植物),

②「インフラ環境」(道路・橋・港・上下水道・電力網),③「経済環境」(商店街・金融機関・協 同組合・企業),④「社会環境」(近隣集団・市役所・病院),⑤「文化環境」(学校・博物館・寺 院・教会)を指す。

 また,除本理史は原発事故を「「ふるさとの喪失」被害」(除本2016:86)とし,この被害を,地 域社会にあった「住民や団体,企業などの社会関係」と「地域固有の伝統・文化・景観の蓄積と成 果」,「それらを維持していくシステム」の喪失として捉えた(除本2016:29)。

福島第一原発事故と東日本大震災の記憶を残す活動

─資料調査・収集現場における空間の考察─

深 谷 直 弘

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 舩橋(2014)や除本(2016)の被害論を踏まえると,地域の文化・歴史の破壊とその継承の問 題が原発被害の特徴の1つとして挙げられている。実際,震災後に被害を受けた地域の文化・歴史 を復興させる取り組みは,県内各所で行われている。代表的なものに紙芝居による民話の語り伝え の活動や震災後に復活した請戸の田植踊がある。こうした地域文化を残す活動は,強制避難を強い られている住民が現在と過去を結びつけ,自分たちは何者なのか,その存在意義を確認し,自己ア イデンティティを維持するための社会的資源となっている。もちろんこの対象が個人単位ではなく 自治体単位になれば,自治体の存在意義を確認することのできる歴史的遺産(文化財など)の喪失 は地域アイデンティティ維持の危機となる。2012年に「被災文化財等救援本部」が福島県で立ち 上がり,各市町村の博物館関係者や研究者がそこに加わり,双葉町・富岡町・大熊町などで文化財 救出活動が定期的に行われている。そして,この文化財救出活動にて被災地の現場を体験した参加 者らによって,震災資料の収集と保存の必要性が共有されていった(高橋2015a;柳沼2018)。

 文化財救出活動を含めた地域歴史資料の保存活動と連動した形で,震災跡を残すモノの保存活動 が生まれていく。「ふくしま震災遺産プロジェクト」や「富岡町歴史・文化等保存プロジェクトチ ーム」,「双葉町の震災資料保全活動」などがそうだ。それ以外にも双葉町や大熊町,浪江町の3町 は,2016年度から震災関連資料の収集,保存に関する合同の勉強会を開催している。そこでは町 ごとで意見交換を行いながら,講演会や先進地視察なども行なっている(大熊町・双葉町・浪江町 2017;柳沼2019:4)。

 本稿は,被災地の調査現場の空間分析(私たちに震災の何を伝える空間なのか)に加えて,この 空間での経験を共有し,地域の歴史・文化の保存活動と結びつく形で展開している震災遺物の保存 活動が,どのようにして可能になったのかについても明らかにする。

2 震災跡を残すモノ・空間(遺物・遺構)に関する研究

 東日本大震災の記憶を残すモノ・空間(=遺物・遺構)の保存研究は,さまざまな分野で蓄積さ れている。

 福島県内の震災遺構研究を行なった高橋(2015)は,いわき豊間中学校校舎の保存問題(2014 年12月にいわき市はこの中学校を地元の総意として解体することを決定している)とその活動を 検討した上で,この遺構を防災教育拠点として保存することの必要性を述べている。同様の形で,

防災という視点から遺物と遺構の保存後の利活用について踏み込んだものに矢守(2013)と石原

(2017)がある。矢守(2013)は,震災の教訓を継承していく活動と教訓を伝えるメディアの特徴 について検討している。そのなかで,彼は地域社会の生活習慣のなかに「災害」の情報と教訓をビ ルトインすることの重要性を指摘する。また石原(2017)は,記憶・教訓伝承のためには「災害

(=震災)遺構」を単に保存するだけでは意味がなく,その意味を共有する過程が重要であるとい う。そのためには「災害遺構」にまつわるエピソード・ストーリーを活用し,遺構周辺の空間を,

人々が集い震災を想起させ,考える場として機能させることが重要ではないかと述べている。両者

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は共通して,震災跡を残すモノ・建物の保存は教訓や防災教育の点から重要であることを指摘し,

それを踏まえた利活用の方法を検討している。また震災遺物の利活用についてリアス・アーク美術 館(宮城県気仙沼市)の常設展示の展示手法を紹介し,その意義を整理したものに矢田部(2018)

がある。この美術館は被災物と創作物語とのセットで展示することを通じて,来観者に震災を他人 事ではなく自分事として考えさせることを目指している。

 しかし本稿が対象とする福島県では,地震・津波被害だけではなく原発事故による被害も含んで おり,先行研究の多くが取り上げている宮城県や岩手県とは被害の性質が異なっている。そのせい か,防災教育上の必要性などから震災遺物・遺構を利活用していくというような主張は,被災2県 と較べるとそれほど強調されていないように思える。もちろん,全ての震災遺物・遺構が防災教育 上の観点から価値づけされ,保存されていく訳ではないが,原子力災害(原発事故)を含む震災遺 物の保存への意味づけ・価値づけには防災教育的な視点とは異なる視点も必要とされる。

 椎原(2014)は,防災教育による利活用とは距離を取る形で,震災遺構について議論したもの である。彼は教育的な価値づけは実際の保存に結びつく可能性を高めることを認めた上で,防災教 育の意義を強調しすぎると,遺構が本来もつ多く人びとを惹きつける審美性を伴った「生々しい記 憶」を失わせてしまう(看過させてしまう)ことを指摘し,遺構の別の側面を明らかにしていくこ との必要性を説いている。小川(2015)は「震災遺構」という言葉に着目し,それがどのように して登場し,どのように使用されてきたのか,さらに「震災遺構」が一つのカテゴリーとして支 持・活用されるようになったことの意味を検討している。また内田・丹(2012)は,震災遺構に は「学術的価値」と「教育・伝承的価値」,「産業・観光的価値」,「被災者心理ケアの観点からの価 値」があると述べ,遺構の社会的価値を類型化している。

 松浦(2019)は災害(震災)遺構の特徴を他の災害(震災)を伝えるメディア(博物館・記念 碑・口承伝承・絵画など)と比較しながら論じている。松浦(2019)によれば,災害(震災)遺 構は見る者に衝撃と不安を与えることから,「人々に上手な記憶を許さない」,かつ「その公共性ゆ えに否が応にも目につき,その直接性ゆえに否が応にも災害のおぞましいイメージを喚起する」特 徴を持っている。さらに記念碑との比較から災害(震災)遺構は「流れる時間を中断させ,災害に よって寸断された時点に立戻らせる」ものであるという(松浦2019:8-9)。こうした「時間」に着 目し遺構の意味を論じる視点は,今井(2013,2014)にもみられる。彼は,阪神淡路大震災と東日 本大震災における震災遺物がもつ特徴や意味について論じ,震災遺物は私たちの人生や生活の時間 軸において震災の「あのとき」という時間の区切りを発生させるものであり,「あのとき以前/あ のとき/あのとき以後(から今)」という形で時間を分節化する力をもっているという。

 これまでの震災遺物・遺構研究の多くは,地震・津波被災物に関するものであり,原子力災害

(原発事故)に関係する遺物(モノ)・遺構(建造物や空間)研究はほとんどみられない。そこで本 稿は福島県内の震災の跡を残すモノ・空間のうち,原子力災害(原発事故)の空間に着目し,かつ 松浦(2019)や今井(2013,2014)のように時間論の視点から論じていく。では,こうした空間の 考察に入る前に福島県内で行われている震災遺物の保存活動がどのような形で展開しているのかを

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踏まえておくとしよう。

3 福島県内における震災遺物の保存活動

1

3.1 ふくしま震災遺産保全プロジェクト

 保全プロジェクトは博物館活動として震災を示すモノを集め,それを歴史資料と位置づけ,震災 を「歴史として伝えることを目指している」(高橋2015a:25)。震災跡を示すモノから震災という 出来事が何であったのかを伝えていく試みなのである(高橋2015a:26)。

 収集したモノは本間(2019)の整理に従えば,「津波で流された郵便ポスト」「地震発生時の火 災で溶けた街灯」(災害発生直後の状況を伝えるもの),「環境の変化を通時的に追うことができる 避難所の張り紙や配布物」(震災と原発事故に伴う避難の実態を伝えるもの),「浪江町の新聞販売 店に配達されないまま残された三月一二日の新聞や広告類」(原発事故により「日常」が突然断絶 した状況を伝えるもの),「立ち入り禁止区域への車両通行証」(原発事故を契機に生まれたもの)

などである(本間2019:100)。

3.2 富岡町歴史・文化等保存プロジェクトチーム

 さらに保全プロジェクトと一緒に参加し,協同して精力的に資料収集を行ってきた双葉郡富岡町  震災遺物を中心に資料収集を行ってきた活動の1つに

「ふくしま震災遺産保全プロジェクト」(以下,保全プロ ジェクト)がある。保全プロジェクトは,福島県立博物 館(以下,県立博物館)と浜通りの博物館,民間研究団 体で実行委員会を組織して,2014年度から2016年度ま で文化庁の補助金を受け,行ってきた事業である。もと もとは2012年に県立博物館で震災遺産保全の検討を始 めたことによる(高橋2015a:25-6)。構成団体は,県立 博物館,相馬中村層群研究会,南相馬市博物館,双葉町 歴史民俗資料館,富岡町歴史民俗資料館,いわき市石 炭・化石館,(公財)ふくしま海洋科学館,いわき自然 史研究会からなり,事務局は県立博物館に置かれた(ふ くしま震災遺産保全プロジェクト実行委員会編2016)。

活動メンバーの専門分野も自然・歴史・考古・民俗・芸 術・保存と多岐にわたっている(高橋2015a,2015b, 2016)。

1 ここでの記述は深谷(2019)の一部を整理したものである。そのため,記述が重なる箇所がある。

図1 「ふくしま震災遺産保全プロジ ェクト」活動紹介パンフレット

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も含めたアーカイブ施設を建設することを決めている。

 歴文PTが保全プロジェクトと協力して収集・保全したものの1つに「津波被災パトカー」があ る。2011年3月11日の地震を受け,このパトカーには双葉警察署・警察官2名が避難誘導のため 乗務していたが,津波に巻き込まれ2名とも死亡した(うち1人は行方不明のまま)。「津波被災パ トカー」は津波により原形をとどめず,ひしゃげた形状となり富岡町前浜地区に打ち上げられてい たものである。それを「警察官の勇気と使命感を語り継ぐため,町民有志・富岡町・県警本部と保 全プロジェクトが協働して保存に取り組んだものである」(ふくしま震災遺産保全プロジェクト実 行委員会編2017:4)。なお,被災パトカーは2019年3月まで岡内児童公園内で屋外展示されてい たが,改めて保存処理を施し,富岡町のアーカイブ施設内に展示される予定である。

3.3 双葉町の震災資料保全活動

 双葉町は2013年6月から筑波大学と協力して震災関連資料の収集と保全を行っている。町と大 学は,2013年6月に「福島県双葉町教育委員会と国立大学法人筑波大学図書館情報メディア系と の震災関連資料の保全及び調査研究に関する覚書」を締結し,東日本大震災に関係する資料の保全 と調査研究を行っている。この「覚書」は,2012年に埼玉県にあった双葉町の役場機能を福島県 内に移転する計画が浮上した際,散逸の恐れがある資料の保全を筑波大学が協力したことがきっか けとなり締結された。町と大学が協力して,2014年以降は「町役場庁舎や三月一一日夜に避難所 が設置された施設など,帰還困難区域内」での資料の調査や保全も行っている(白井2018:55)。

 震災資料の収集保全と管理を行なっている白井哲哉によればこれらの資料の特徴を,①双葉町役 場という行政体が作成・収受した資料群(民間団体や個人の資料は基本的には含まれない),②全 員避難指示以降の町民等の避難生活実態に関する資料が中心(避難所で利用されていたものなど,

地震・津波の直接的被害に関する資料は少ない),③原子力災害に関する資料が少ない,という3 点に整理している(白井2018:59)。

は,2014年6月に「富岡町歴史・文化等保存プロ ジェクトチーム」(以下,歴文PT)を発足させ独自 に被災文化財や震災関連資料の収集と保存を行って いる。この歴文PTは地域資料と震災遺産の2本柱 で,地域の歴史・文化の喪失を防ぐために地域の営 み・成り立ちを物語る資料(地域資料)や原子力災 害を含む東日本大震災の影響を示すモノ(震災遺 産)の保全を目的としている(富岡町・富岡町教育 委員会2016)。富岡町は富岡町震災遺産保全宣言

(2016年3月)を経て,2017年3月には富岡町震災 遺産保全に関する条例を制定するまでに至っている。

2020年度に富岡町は地域の文化・歴史を示す資料

写真1 保存された津波被災パトカー,(撮 影日)2017年4月

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3.4 東日本大震災・原子力災害伝承館の資料収集活動

復興する過程を収集・保存・研究し,風化させず後世に継承・発信し世界と共有」し,「特に福島 だけが経験した原子力災害をしっかり伝える」こととなっている(福島県2017:32)。資料収集に おいては,これを踏まえ原子力災害(原発事故)を中心とした調査・収集が求められている。また,

県内の放射線に関する基礎知識などの解説を行う類似施設「環境創造センター交流棟」(愛称:コ ミュタン)があることから,伝承館は人文・社会科学系の資料を中心とした「福島特有の原子力災 害の様子や県民の心への影響まで」を対象に調査・収集を行っている。

 しかし,福島県において原発事故は依然終息しておらず,県内はいまだ復興途上の段階にある。

そのため原発事故を含めた東日本大震災の評価が定まらず,未だ過去にならないなかで資料を集め,

施設で展示することになる。したがって資料を,明確な方針や基準を設け,計画的に集めることは 難しく,現時点において集められた資料の傾向,さらにそこから震災の何を伝えるのかについては,

事後的に検討していくしかない。

 活動のなかで収集した原子力災害(原発事故)を示す資料は,「避難所で使用されていたもの」,

「一時立入時,教師・児童によりメッセージが刻まれている黒板」,「避難先自治体への感謝を記し た黒板のメッセージ」,「原発事故直後の状況が文字などで残されたオフサイトセンターのホワイト ボード」,「避難を呼びかける村内放送」,「東電への賠償請求書」,「臨時通行書」,「福島第一原子 力発電所事故直後の状況を役場職員が記した方眼紙」(レプリカ)などである。

 この内モノ資料は,放射線が目に見えないため,原発事故に関する文字情報が含まれる(黒板,

ホワイトボード,大きな方眼紙や紙)傾向にある。地震・津波被害を示すモノは,物質的な破壊が 目に見える形で残っており,見る者にその迫力を伝える(自分たちも被害を受けると同様のことに なるということを感じさせる)。それに対して,原発事故被害を示すモノは物質的には壊されてお らず,目に見えないため,被害を可視化する形では伝えづらい特徴を持つ。

 さらに難しいのは,収集したモノは,空間と紐付けられている場合が多い。例えば,現地対策本 部が3日間置かれていたオフサイトセンター内のホワイトボードは,その場所にあることで震災直  福島県は,東日本大震災と福島第一原

発事故の経験と教訓,復興過程を伝承・

研究していく施設「東日本大震災・原子 力災害伝承館」(以下,伝承館)を2020 年度に双葉郡双葉町に開所予定である。

筆者らは福島大学うくしまふくしま未来 支援センターにて,この施設で展示・研 究などに使用する資料の収集業務に従事 している。

 この館の基本方針は「世界初の甚大な 複合災害の記録や教訓とそこから着実に

図2 伝承館(=アーカイブ拠点施設)建設予定地

(福島県2017)

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後の雰囲気をより鮮明に伝えることができる。そのため,空間から切り離してモノだけを持って来 てしまうと,モノと空間によって形成されていた雰囲気が消えてしまい,ただの文字が記された白 い板に見えてしまう。

 こうした雰囲気を空間的枠組みとして捉え,空間とそこで想起される記憶との関係について論じ たものに,M.アルヴァックスの集合的記憶論がある。アルヴァックスは,社会的枠組みが作動す ることで,過去を(集合的に)想起することができると述べている。そして,その社会的枠組みの 重要なものの1つに「空間(的枠組み)」を挙げている。アルヴァックスによれば,空間は「持続 する現実」であり,過去が保持されている場である(Halbwachs1950=1989:182)。つまり,空間 が存在する限り,そこにある現実を含めた過去が持続しており,その空間に入ると,そこにある社 会的枠組みが作動し,そこで蓄積されている過去を感じ取ることができる。つまり,被災した空間 は,空間的枠組みを通じて震災の記憶を想起させるのである。

 そのため,モノ(遺物)の意味を考え,効果的な伝え方を検討するには,モノが置かれていた現 場の空間的枠組みを明らかにする必要がある。これは伝承館だけではなく,空間から切り離してモ ノ(遺物)を集め保存する活動の課題でもある。次節ではこれまでの収集や調査現場のなかで,筆 者が印象に残った2つの小学校空間を事例として,こうした空間内で作動する想起の枠組みがどの ようなものになっているのか,その特徴を明らかにしていく。

4 調査・資料収集の現場空間とその特徴

 震災関連資料の調査収集の現場において「時間が止まっている」という言葉がしきりに同行者か ら聞かれる。実際,マスメディアの報道でも同様の表現が度々使われている。では,この「この時 間が止まっている」とは何を意味するのだろうか。そして,現場の空間はどのような空間的枠組み が作動した結果,震災の記憶を喚起させるのだろうか。それらを検討するために,筆者らが収集・

調査を行った2つの小学校の空間を中心に分析する。

4.1 双葉南小学校(双葉町)

 1つ目は双葉郡双葉町にある双葉南小学校である。この小学校は福島第一原発から北西約3㎞に 位置し,現在の校舎(住所:新山町字清戸迫一)は,1969年4月1日から利用されていたもので ある(双葉町史編さん委員会編1995:1117-9)2

 2011年3月11日の地震発生時には児童197人,教職員23人がそこにいた。地震を受けて,子ども たちは何も持たずに上履きのまま校舎外の家庭科室前広場に避難した(福島県双葉町編2017:60)3

2 戦前は新山町国民学校と呼ばれ,戦後の1947年4月1日の新学制に伴い,新山小学校へと改称された。

1956年4月1日に標葉町から双葉町への町名変更にともない双葉南小学校となった(双葉町史編さん委 員会編1995:1117-9)。

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員は午後11時ごろ双葉北小の支援に回ることになった(福島県双葉町編2017:60,83)。

 そして3月12日に双葉町は全町避難となり,その後子どもたちはこの小学校に戻ることはなか った。教職員も持ち出しの機会のときに校内に入っただけである。そのため,校舎玄関には放り出 されて山積みになったランドセルや外履きの入ったままの下駄箱,教室内の机・椅子,児童の手提 げ袋などの私物が当時の形で置かれたままとなっている。この空間は現在(2019年時点)も帰還 困難区域のため,児童が持ち出しに入った形跡は無い。ただし調査に入った際,教室内の黒板には 子どもたちが避難先で書いたと思われるメッセージ入りの大きな模造紙が貼られていた。概ね地震 を受け,原発事故により避難したままの状況がそのままの形で残されており,この空間は2011年 3月11日のあの日で時間が止まっている。

4.2 楢葉北小学校(楢葉町)

 2つ目の楢葉北小学校は,福島県双葉郡楢葉町(福島第二原発のある自治体)にある。学校は 1873年に創立し,残っていた校舎は1969年に建てられたものである。130年以上続く小学校を地震 が襲った。当時は授業中であったため,小学生らは外のグラウンドに避難した。グラウンドに待機 していた児童は保護者が迎えにきて自宅に帰るなどした。その後,原発事故が起き,住民は2015 年9月1日まで避難を強いられることになった。避難後,小学校の授業は避難先の仮設校舎で 2012年から再開され,2017年4月からは楢葉町内の楢葉中学校を新校舎とする形で行われ,利用 していた校舎は解体された4

その後,児童全員の無事を確認し,午後9 時20分ごろに児童全員を保護者に引き渡 した。双葉南小は,もともと2011年度に 耐震工事を控えていたため,指定避難所に はなっていなかったが,場所が比較的,高 台にあったことから,双葉高校の生徒と教 職員,地域住民らが避難してきた。そのた め,教職員は体育館や職員室を開放し,そ の対応にあたったという。しかし11日夜,

町教育委員会から原発3キロ圏内の避難指 示を受け,双葉南小の体育館に居た避難者 は双葉中に移動することになり,残る教職

写真2 双葉南小学校校舎教室内の様子,(撮影日)

2017年6月

3「ランドセル・靴:残る震災の爪痕 双葉南小学校の今は」『朝日新聞デジタル』2017年2月28日,

(https://www.asahi.com/articles/ASK2S5V3TK2SUQIP036.html).

4 楢葉北小学校の歴史と震災時の様子は『毎日新聞』福島版,2017年6月29日付と『福島民報』2017年 7月2日付,町職員の聞き取りにもとづいている。

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 教室内は,震災直後の状態を残しつつも,荷物持ち出しのため断続的に教員や子どもたちが入っ た形跡も残しているという点が,未だに子どもたちの持ち出しの機会が設けられていない双葉南小 学校とは異なっている。楢葉町は,東日本大震災によって全町避難となり,2015年9月に避難指 示解除準備区域が解除になるまでの4年間,居住が原則禁止された。そのため,町内にあった旧校 舎は震災時点で時間の流れが止まっているといえる。初めて筆者が楢葉北小学校を訪れたさい,こ うした発言をしたところ,同行の楢葉町職員は「これまではこの止まった時をどう動かすのか,こ れを町全体で取り組んできたことなのでこの空間は複雑な気持ちになる」と述べていた6

4.3 「時間が止まっている空間」は何を伝えるのか

 ここまで2つの小学校の調査時の状況を説明してきた。もしこの両校舎で,小学校の生活活動が 継続していれば,子どもたちは授業を受け,校庭で遊び,最終学年時の3月になれば卒業していっ たことだろう。しかしこの小学校の空間内(玄関や教室,廊下など)は,原発事故によって一連の 学校活動が中断し,その後に行われるべき活動が完了しないままになっている。私たちがこの空間 において「時間が止まっている」と感じるのは,これまで繰り返されてきた日常の人間活動が中断 し,その後の活動が未完了のままであるからである。アルヴァックスの言葉を借りれば「持続する 現実が中断した空間」と呼ぶこともできる。

 もちろん人間の活動が中断したままの空間は小学校だけではない。双葉駅(双葉町)や大野駅

(大熊町)近くの町並みも,原発事故後に立ち入りが規制されており震災直後のまま,手つかずの 状態であった。この町並みも,あったはずの人の気配が失われていた。もともと,日常の生活空間  調査のさい,校舎内の教室は震災直後の状

態が概ね維持されていた。学級の掲示物やラ ンドセル,靴,道具袋などはそのまま残され ていた。ただし町職員によれば,一時持ち出 しの機会があり,当時の教員や児童らは私物 の一部を持ち出している。その形跡も残って いた(持ち出しのために来校しなかった児童 もいる)。その一時立ち入りの時に黒板に教 員が児童に向けたメッセージや児童が級友に 向けたメッセージが書かれた。また,校舎内 には黒板や机などに放射線量を記録した形跡 も残っていた5

写真3 楢葉北小学校校舎教室内の様子,(撮影)

2017年4月

5 楢葉町の震災記録誌によれば町が「警戒区域」から「避難指示解除準備区域」に再編されたときに,小 学校では児童に私物持ち出しの機会が設けられている(楢葉町政策広報室編2016:124)。

6 2017年4月13日楢葉町,楢葉北小学校旧校舎内での町職員の発言,フィールドノーツより。

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であったところが地震と原発事故により,一瞬にして人が居られなくなり,その活動が中断したま まとなっている。また町の駅周辺部は,様々な人の出入りがあり,かつ不特定多数の人が交差する 開かれた場である。そのため,そこに居る住民らが実際に行っていた行動について具体的に想像す ることは難しい。

 それに対して,人間の活動が具体的に想像しやすい閉じられた空間に「オフサイトセンター」

(原子力災害対策センター,大熊町)がある。原発事故避難対応の最前線である現地対策本部はこ の施設に置かれていた。しかし,このセンターは福島第一原子力発電所から5キロ圏内にあったこ とから原発事故後,周辺地域の放射線量が増大し,対応にあたる職員らが3月11日から15日まで の4日間しか滞在できなかった場である。2018年12月時点でのこの建物内は,原発事故の影響に より,地震発生時から退去までの当時の状況が留め置かれていた。施設内にあるホワイトボードな どは,原発事故避難の対応がどのようにして行われていたのかがわかるものとなっている。原発事 故という非常事態のもとで,状況が刻々と変化するなか,そこに居た人たちの瞬間瞬間の行動が空 間に刻印されている。それゆえ,人々の活動は先ほどの駅周辺の町並みに較べて想像しやすい。し かし「人気のない町並み」とは異なり,「オフ

サイトセンター」は,行われていた活動が限定 的で,かつ非常事態の活動の痕跡を留めた空間 であるため,蓄積されている日常,繰り返され る生活の場ではない。

 この2つの空間と小学校の空間を比較すると,

小学校は日常の学校生活の積み重ねが中断しつ つも,「学校」という限定された空間のため普 段何を行うのかが決まっており,人間の生活活 動が想像しやすい閉じられた空間である。そし 写真4 双葉駅近くの様子(双葉町),(撮

影日)2017年6月

写真5 大野駅周辺の様子(大熊町),(撮 影日)2018年12月

写真6 オフサイトセンター2階の様子,(撮 影日)2018年3月

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てこの空間は,繰り返されてきたその後の人間活動が完了していないことも示している。たとえば,

教室内にあるカレンダーや黒板に書かれた予定表,翌週に予定されていた卒業式関連の掲示物など は,予定されていた<未来>が完了しなかったことを示すものである。両小学校の空間は,予定さ れていたが「完了できなかった<未来>」を想像させる空間となっている。

 さらにこの空間が調査当時も存在し続けている(た)ということは,そこに居た人たちが長期間 その場所に,戻って来られないことも物語っている。楢葉北小学校舎内の黒板には3月11日と書 かれた日付や担任の教員が子どもたちに向けたメッセージ,子どもたちがかつての級友に向けたメ ッセージが同時に書かれていた。また黒板と机には原発事故後一時立ち入りをし,放射線量が測定 された形跡も残されていた。双葉南小学校教室内の黒板に貼られている避難先の子どもたちが書い たメッセージ入りの模造紙も含めて,震災後の立ち入りの際に記された痕跡は,子どもたち(少な くともそこに居た児童は現在中学生以上であることは容易に想像ができる)が共に過ごすはずであ った時間が原発事故によって失われ,別々の時間を過ごすことになったことを想像させる。そこに は何も起きなければ残されるはずのなかった痕跡が残され,(震災後の)分岐してしまった時間が この空間やモノに教員・子どもたちの筆致で刻まれていたのである。

 両小学校の空間は,繰り返されてき日々の生活活動が中断したことにより,共に行われるはずで あったが完了していない<未来>と,そこに居た人たちと離れ離れとなり分岐した個々の時間(特 に楢葉北小校舎において明示的)といった複数の時間跡がこの空間に刻まれている。こうした空間 的枠組みが作動することで,私たちはそこから原発事故が人間に何をもたらしたのかを断片的に想 像することができるのである。

5 地域の歴史・文化を残す活動と震災遺物の保存活動

 両小学校の空間に私たちが身を置くことで抱く,共に行われるはずであった<未来>が失われた という感覚とそこに居た人たちが離れ離れになってしまったという感覚は,精神科医の中澤正夫が 原発事故被害の特徴について述べていることと重なる。中澤は被災地での支援を続けているなかで,

放射能は地域や家族をバラバラにし,それらの未来を奪ったと述べている(中澤2018:29)7。  この「未来の喪失感」と「バラバラ感」はそこで長く暮らしてきた住民からみれば,地域社会の 歴史・文化を維持するシステムが危機に晒されていることを強く意識させる。除本の言葉を借りれ ば,「長期継承性の喪失」感(除本2016)ということができる。特に強制避難と避難先での生活の 継続は,地域の文化・歴史的連続性から切り離されてしまったことを強く認識させ,地元住民はよ

7 中澤によれば,チェルノブイリの避難者に見られるPTSDはフラッシュ・バックでななく,「何年経っ ても,子どもについての不安,未来の子どもに障害が起こるのではないかに思い到る」フラッシュ・フォ ワードが起こるという(中澤2018:40)。同様のことを政治学者の斎藤純一は,原発事故は人々の暮らし から将来への展望を失わせたと表現している(斎藤2014:5)

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りこうした危機感を抱くことになる。こうした切断を修復し,避難元(地元)とのつながりを再構 築するために,文化財のレスキューを含めた地域文化・歴史を残す活動が生じている。

 しかし長期にわたる避難生活により,避難元で暮らした経験をほとんど持たない出身者(震災時 に乳幼児・児童)が成長し,またそこで暮らしていた人の地域の記憶も遠のくなかで,地域の文 化・歴史は,地域の担い手にとって接点を持ちづらい,縁遠いものとなりつつある。住民がかつて 暮らしていた地域に共有すべき固有の価値を見出しづらくなるなかで,地域との接点を持たせ,身 近なものにする術として,震災の記憶が必要とされている。震災の記憶は,そこで暮らす「私た ち」,つまり所属意識を目覚めさせ,集合的なものを再確認させる(Eyerman2012)。そのことを 踏まえれば,震災跡を残すモノの保存は,地域住民の共同意識を喚起させるメディアとなる。震災 の記憶を起点に地域の文化・歴史と結びつけることで,こうした保存活動が可能になっているので ある。富岡町歴文PTは,原発事故を特別な出来事としてではなく,地域の文化・歴史と震災の記 憶を結びつける形で資料の保存を行っている。また,双葉町の保全活動も同様に地域文化・歴史の 保存の延長上に位置づけられている8

 こうした活動は,震災から一定の時間が経過したことで,震災を「忘れたい」「なかったことに したい」と感じる時期から,「「喪失したもの」と「希望」を再確認する時期」(中澤2018:140)9に 入ったことで可能になった点も忘れてはならないだろう。福島県の震災遺物の保存と地域文化・歴 史の保存活動の共存は,震災によって切り離された現在と,地域文化・歴史といった過去とを「震 災」を起点にして結び直し,再構成することを通じて,コミュニティの長期継承性を維持していこ うとする営みなのである。

 今後は復旧・復興に関連する工事や除染などにより震災の爪痕を残す風景や物が被災地では一掃 され,被災前や被災直後の状況がより想像できなくなることが予想される。そうしたなかで,原発 事故も含めた震災の記憶をどのような形で保存し,次世代へ継承していくのかが課題となる10。も ちろん,伝承館などの展示施設でその経験を伝えていくことも1つの方法だろう。しかし,それ以 外にも被災場所それ自体を保存し,そこで伝える手法も検討されるべきである。実際,東日本大震 災以後,継承のメディアとして震災遺構が注目され,岩手県や宮城県では利活用が始まっている。

しかし,その多くが地震・津波被害に関する建造物であり,原子力災害あるいは原発震災の遺構は 現時点では存在していない。唯一,福島県浪江町にある請戸小学校が原発事故も含めた震災遺構と

8 震災を経験していない人たちも含めて,自分事の経験として広く共有していくためには,いったん体験 を他者化する必要があるのかもしれない。本稿との関連でいえば,福島県内の震災を特異な出来事として 位置づけるのではなく,地域の文化・歴史と結びつけて継承していく動きは,その手立ての1つのように 思える。(この記述は2019年7月6日の社学コロキアムの基調講演にて壽福眞美氏が述べた,「3.11の体験 の思想化」に示唆を受けたものである)。

9 保健師・伏見香代の発言。

10実際,2017年の県民世論調査において震災への関心が薄れ,風化しつつあると答えた人が7割に上る

(『朝日新聞』福島版,2017年3月3日付)。

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して保存される予定であるものの,実見してわかる校舎の被害は地震・津波被災の部分である。本 稿で分析した空間を原発震災の遺構として保存し,利活用を進めていく取り組みも,原発事故被害 の記憶を伝えていく上で求められる。

(付記)本稿で使用した画像は,福島県・生涯学習課の許可を得て,掲載している。

文献

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参照

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